新垣壬敏先生追悼ミサ@東京カテドラル
日本のカトリック教会の典礼音楽に多大な功績を残された新垣壬敏先生は、昨年2024年10月2日に85歳で帰天されました。全国の様々な教会の皆さんが大きな影響を受け、同時にその歌を愛してきました。日本の教会のために先生が残された多くの聖歌を歌いながら、追悼のミサが、2月24日午後2時、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられ、多くの方が参列し、また先生が残された多くの聖歌を共に歌いました。
わたしは東京の神学校で司祭養成を受けていないため、そのときに直接の指導を受けたことはありません。ただ、わたし自身、専門の教育を受けたわけではないのですが、自分でも神学生時代に神学校共同体のためにといくつかの典礼用の歌を作曲したりしていましたから、高田三郎先生に並んで、新垣先生は憧れの存在でした。
直接には、こちらの2008年11月の司教の日記に記してありますが、当時わたしが教区司教を務めていた新潟教区で、秋田にある聖霊学園が100周年を祝うことになり、そのときに当時理事長を務めていたシスター平垣から、学園歌を作曲してほしいと依頼を受けました。とんでもありませんが素人にそんな大それたことはできないので、いろいろと思案した後に、理事長シスターに、新垣先生に依頼してはどうですかと進言しました。シスターは、秋田の学校のために歌を作ってくださるかと心配されておられましたが、新垣先生は喜んで引き受けてくださり、当時、「春 萌えあがる 聖なる息吹」と始まる学園歌を作詞作曲してくださいました。新垣先生には、その年の11月1日に秋田県民会館で開催された記念式典の際に直接お話しする機会をいただきました。それ以来、教皇様訪日の時も含め、様々にお話を聞かせていただく機会をいただきました。
あらためて、そのお働きと日本の境界への御貢献に感謝申し上げたいと思います。
以下、当日のミサ説教の原稿です。
新垣壬敏先生追悼ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年2月24日私たちの人生には、予想することのできない様々な驚きの出来事があります。人間の知恵と知識には限界がありますし、その知恵と知識とこれまでの経験をあわせたとしても、ほんの少しの先でさえ確実に知ることはできません。時として、緻密に計画を立て実行したとしても、必ずしも予想通りの結果になるとは限りません。私たちは、人生の様々な局面で想像もしなかった出来事に遭遇し、驚き、そしてそのたびごとに人間の限界を思い知らされます。
私たちは人生において、自ら考え、自らの意思で様々な行動を行います。わたしがそうしたいから、今の自分があると思い込んでいます。しかし実際には、神様の人類に対する救いの計画があり、その中でわたし達は生かされているに過ぎません。もちろんわたし達には自由意志が与えられています。旧約の時代にも、神はイスラエルの民に選択肢を与え、自由意志を行使することによって、人間が自らのことばと行いに責任を持つように求められてきました。わたし達は自由意志があるからこそ、すべてを自分たちで成し遂げているかのような錯覚に陥りますが、結局は神様の壮大な救いの計画がまずあり、その中で生かされているに過ぎないことを改めて自覚したいと思います。
神様はその救いの計画の中で、わたしたちに様々な役割を果たすようにと、多様なタレント、才能を与えてくださいます。その一つが、音楽における才能であろうかと思います。
新垣先生の人生は、与えられた音楽の才能を、ご自分の考えや計画や栄誉のためではなく、神様の計画の実現のために捧げられた、福音のあかしに生きる人生であったと思います。その与えられた才能を神様の計画の実現のために捧げるからこそ、その音楽は、多くの人の希望の源となりました。希望の源である神様の元へとわたしたちを導いてくださる音楽だからに他なりません。
あらためて繰り返すまでもなく、第二バチカン公会議の典礼憲章は、「普遍教会の音楽の伝統は、・・・特にことばと結びついた聖歌が、荘厳な典礼の必要ないし不可欠な部分」であると定め、信徒の行動的参加を促すためにも典礼に音楽は不可欠であると指摘します。
同時に教会音楽は、「祈りをより味わい深く表現したり心の一致を促進したりすることによって、・・・典礼行為と固く結びつけばつくほど、いっそう聖なるものとなる」と、典礼憲章は指摘します。教会の音楽は典礼から離れて存在することはあり得ず、常に祈りを深めることを念頭に、典礼を豊かに深めるように心しながら生み出されていきます。
その上で、作曲家は、「教会音楽を発展させ、その宝を豊かにするために召されているとの自覚を持たなければならない」と記しています。典礼音楽を作られる方々は、教会の宝を豊かに蓄えてくださる方々です。教会の宝を豊かに育んでくださる方々です。
その中でも多くの曲を教会に宝として与えてくださった新垣先生の働きは、その音楽家としての召命を忠実にそして十分に生きたものであったと思います。
葬儀や追悼のミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と、わたしたちの信仰における希望が記されています。わたし達の人生の歩みは、この世のいのちだけで終わるものではなく、永遠の中でわたし達は生かされています。わたし達はその希望を常に掲げて歩んでいます。
わたしたちの人生には時間という限りがあり、人類の歴史、全世界の歴史に比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間です。人生には順調に進むときもあれば、困難のうちに苦しむときもあります。よろこびの時もあれば、悲しみの時もあります。驚きに遭遇するときもあります。人生において与えられた時間が終わる前に、自らの努力の結果を味わうことができないこともあります。仮に私たちのいのちが、人類の歴史の中における一瞬ですべてが終わってしまうとしたら、それほどむなしいことはありません。
しかし私たちは、歴史におけるその一瞬の時間が、神の永遠の計画の一部であることを知っています。わたし達はこの人生が、神様の壮大な計画の中で生かされているものであることを知っています。わたし達は、その計画の一部として、わたし達にはそれぞれの賜物が与えられ、それを忠実に生きることを求められていることを知っています。主の忠実な僕でありたいと思います。
教会の典礼のために大きな貢献をしてくださった新垣先生に、御父は、永遠のいのちの中で豊かに報いてくださることでしょう。御父の元にあっても先生が賛美の歌を捧げ続けておられることを信じ、残された教会の宝をさらに豊かにするよう努めていきたいと思います。
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