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2025年4月26日 (土)

週刊大司教第206回:復活節第二主日C

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復活節第二主日です。

本日は教皇フランシスコの葬儀ですが、時差もありますので、これは後ほど記事を書きます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第206回、復活節第二主日メッセージです。

復活節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第206回
2025年4月27日

「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのメッセージに基づいて、復活節第二主日を「神のいつくしみの主日」と定められたのは、教皇聖ヨハネパウロ二世であります。この主日にわたし達は、「信じない者ではなく、信じるものになりなさい」と、信じることのできなかったトマスを見放すのではなく、改めてその平和のうちに招こうとされる主のいつくしみに信頼し、そのあふれんばかりの愛のおもいに身をゆだねる用に招かれています。同時に、わたし達を包み込まれる神のいつくしみを、今度は他の人たちに積極的に分かち合うことを決意する主日でもあります。

教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。

「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

わたし達が生きているいまの世界は、果たしていつくしみに満ちあふれている世界でしょうか。いつくしみに満ちあふれることは、決してただただ優しくなることではなく、根本的には神からの賜物であるいのちの、それぞれの尊厳を守ることを最優先にすることを意味しています。ですから、他者を排除したり、切り捨てたりすることはできません。

復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。「平和があるように」という挨拶の言葉は、「恐れるな、安心せよ」と言う励ましの言葉にも聞こえます。同時にここでいう「へいわ」すなわち神の平和とは、神の支配の秩序の確立、つまり神が望まれる世界が実現している状態です。そのためには「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」というイエスの言葉が実現しなくてはなりません。わたし達は何のために遣わされているのでしょうか。

イエスは弟子たちに聖霊を送り、罪のゆるしのために派遣されました。罪のゆるし、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神のいつくしみによって包み込む業を行うことであります。排除ではなく、交わりへの招きです。断罪ではなく、人間の尊厳への限りない敬意のあかしであります。

交わりの絆は、わたし達の心に希望を生み出します。わたし達の信仰は、いつくしみ深い主における希望の信仰です。互いに連帯し、支え合い、賜物であるいのちの尊厳に敬意を払い生きるようにとわたしたちを招く、神の愛といつくしみは、わたし達の希望の源です

 

 

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2025年4月22日 (火)

教皇フランシスコの帰天にあたり、東京大司教よりみなさまへ

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カトリック東京大司教区の皆様

教皇フランシスコの逝去に際して

わたしたちをシノドスの道へと力強く導いてくださった教皇フランシスコは、ローマ現地時間4月21日7時35分(日本時間4月21日14時35分)、88年にわたる人生の旅路を終え、御父のもとへと旅立たれました。

1936年12月にホルヘ・マリオ・ベルゴリオとしてアルゼンチンで誕生された教皇フランシスコは、イエズス会員として、1969年に司祭に叙階され、1973年から6年間は、イエズス会アルゼンチン管区長を務められました。1992年5月20日、教皇ヨハネ・パウロ二世からブエノスアイレス補佐司教に任命され、同年6月27日に司教叙階、1997年6月3日にブエノスアイレス協働大司教となり、1998年2月28日から同教区大司教となりました。2001年2月21日には教皇ヨハネパウロ二世から枢機卿に叙任され、2005年から2011年までの6年間は、アルゼンチン司教協議会会長も務められました。

ベネディクト16世の引退を受けて行われたコンクラーベ(教皇選挙)において第266代教皇に選出された教皇フランシスコは、七十六歳という年齢でしたが、力強く明確なリーダーシップをもって、教会が進むべき方向性と現代社会にあって教会があかしするべき姿勢を明確に示してくださいました。

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わたしは2013年5月、国際カリタスの理事会の際に初めて教皇フランシスコに会いました。これまでの伝統を破り、教皇宮殿には住まないと決められた教皇様は、宿舎の聖堂にわたしたちを招き入れ、集まった理事全員と直接に話をされました。皆を集めてそれぞれの声に耳を傾ける姿勢は、その後のシノドスの道に繋がっている教皇フランシスコの基本姿勢です。その基本姿勢は、最初の使徒的勧告「福音の喜び」において明確に示され、回勅「ラウダート・シ」で具体化され、第16回世界代表司教会議(シノドス)の運営において確固たるものとなりました。教会は今、シノドスの道を、すなわち互いに耳を傾け合い、互いに支え合い、互いに祈りのうちに聖霊の導きを識別する道を当たり前の姿にしようとしています。

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わたし自身も参加した二度にわたる今回のシノドス総会において、教皇フランシスコはしばしば、「聖霊が主役です」と言う言葉を繰り返されました。今教会に必要なのは、聖霊の導きに素直に耳を傾けることです。

教皇フランシスコは2019年11月、コロナの感染症ですべてが停止する直前に、日本を訪れてくださいました。わたしは東京の大司教として、東京でのプログラムで教皇様の先導役を務めましたが、特に東京ドームの中を一緒にオープンカーに乗って回ったとき、本当に心から喜びの笑顔で、集まった皆さんに手を振り、子どもたちに祝福を与えられる姿に、愛といつくしみに満ちあふれた牧者の姿を見ました。少しでもその姿に倣いたいと思いました。

2020年以降の世界的な感染症によるいのちの危機や、頻発する戦争や武力紛争は、人々から寛容さを奪い去り、排除と暴力と絶望が力を持つ世界を生み出してしまいました。その現実に対して教皇フランシスコは、2025年聖年のテーマとして「希望の巡礼者」を掲げ、ともに助け合いながら歩むことで教会が世界に対して、キリストにおける希望をあかしする存在となるように求められました。シノドス的な教会は、キリストの希望をあかしする宣教する教会です。

まさしく聖年の歩みを続けているこのときに、力強い牧者を失うことは、教会にとって大きな痛手です。

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教皇フランシスコは昨年12月7日にわたしを枢機卿に叙任してくださいました。枢機卿としてどのような形で教皇様を支えることができるのか、まだそれも明確にお聞きしていないうちにこのような別れの時が来るとは予想もしていませんでした。教皇様の期待されている役割を見いだしながら、その姿勢に倣って共に歩む者であり続けたいと思います。

教皇フランシスコの逝去にあたり、これまでの長年にわたる教会への貢献と牧者としての導きに感謝し、御父の懐にあって豊かな報いをうけられますように、永遠の安息を共にお祈りいたしましょう。

2025年4月21日
カトリック東京大司教区大司教
枢機卿 菊地功

 

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2025年4月21日 (月)

2025年復活の主日@東京カテドラル

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主イエスの復活、おめでとうございます。

雨も心配された東京の復活の主日でしたが、風が強かったものの、天気はなんとか持ちました。多くの方が東京カテドラル聖マリア大聖堂の午前10時のミサに参加してくださいました。いつもの席では足りずに、予備の折りたたみ椅子がかなり使われましたので、五百から六百人以上がミサで祈りを共にされたかと思います。

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ミサ後には、昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられて方へのお祝いも兼ねて、ケルンホールで祝賀会が催されました。おめでとうございます。感染症の影響でこの数年はこういった集まりが困難でしたが、久しぶりに、新しく洗礼を受けた方々を迎えて祝賀会となりました。

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以下、本日のミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月20日

御復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた皆さんには、特にお祝いを申し上げます。

洗礼を受けられたことで、ひとり一人はイエスの弟子としての旅路を始められました。それはただ単にイエスと一緒に歩き始めたということ以上に、キリストの身体を造り上げる一つの部分となったということをも意味しています。

今年教会は25年に一度の聖なる年、聖年の道を歩んでいます。そのテーマは「希望の巡礼者」であります。

聖年の大勅書「希望は欺かない」で教皇フランシスコは、第二バチカン公会議の現代世界憲章を引用して、「神という基礎と永遠のいのちに対する希望が欠けるとき、・・・人間の尊厳はひどく傷つけられ」、それが絶望を生み出すのだと指摘されました。

人間のいのちは、完全な存在である神の似姿として創造されたことによって、はじめから尊厳が与えられています。いのちを賜物として与えられているわたしたちキリスト者には、その尊厳を守る務めが託されています。そこに例外はありません。

教皇様は、絶望に満ちあふれた世界に生きているとは言え、「わたしたちは、自分を救ってくれた希望のおかげで、過ぎ去る時を見て、人類の歴史とひとり一人の人生は、行き止まりや暗黒の深淵に向かっているのではなく、栄光の主にお会いすることに向かって進んでいるという確信を得ています」と記しています。

わたしたちは洗礼を受けることでイエスの死と復活に与り、永遠のいのちの希望を与えられました。わたしたちは復活された主に向かって、常に歩み続けている「希望の巡礼者」であることを心に刻みましょう。

教会はこの巡礼の旅路を、みなで一緒になって歩む共同体です。もちろんひとり一人のキリスト者にはそれぞれ独自の生活がありわたしたちは共同生活をしているわけではないので、みなが同じような仕方で、共同体に関わるのではありません。共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、どのような形であれ、共同体の一員となるということは、日曜日に教会へ来るときだけでのことではなく、洗礼を受けたことで、信仰において共同体にいつでもどこにいても結ばれていることを、心に留めておくことであると思います。

洗礼の恵みによって、さらにはご聖体と堅信の恵みによって、わたしたちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきをわたしたちが消し去ることはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で努めていただくことを期待しています。そしてこれからも一緒に希望をあかしする巡礼者として歩んで参りましょう。

本日の第一朗読である使徒言行録は、弟子たちのリーダーであるペトロが、力強く主イエスについてあかしをしながら語る姿と、その言葉を記しています。

「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」と高らかに宣言するペトロは、ヨハネ福音の中では全くの別人のように描かれています。

あの最後の晩、三度にわたってイエスを知らないと宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、大いなる喪失感と絶望の中で、主の復活という希望をまだ理解できていません。今日のヨハネ福音には復活された主ご自身は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を目の当たりにしながら、しかし理解できずに困惑するペトロや弟子たちの姿です。

その弱々しく絶望に打ちひしがれたペトロを、使徒言行録が記しているような力強くイエスについて宣言するペトロに変えたのは一体何だったのでしょうか。

そこには復活された主ご自身との出会いによって、ペトロや弟子たちが永遠のいのちへの確信を与えられたことと、その確信が生み出す希望がありました。

洗礼によってわたしたちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との出会いがあります。わたしたちはこの共同体の交わりの中で、様々な形で主と出会います。共に祈る中で、主の導きをいただきます。共に与る聖体祭儀で共に主と一致し、信仰における兄弟姉妹と一致します。わたしたちの共同体は交わりの共同体であり、その交わりは信仰における永遠のいのちへの確信を深め、人生の旅路を歩み続ける希望を生み出します。

わたしたちが受けた福音は、わたしたちがいただく信仰は、単なる知識や情報の蓄積ではなくて、具体的にわたしたちが行動するように促し、具体的にそれを多くの人に証しし、世界に希望を生み出すように前進するようにと促す力であります。

2020年に直面した世界的ないのちの危機以来、わたし達は混乱の暗闇の中をさまよい続けています。その間に勃発した、例えばウクライナやガザをはじめ世界各地の戦争や紛争はやむことなく、今日もまた、いのちの危機に直面し、絶望のうちに取り残されている人たちが、世界には多くおられます。クーデター以降不安定な政治状況が続き、平和と民族融和を唱える教会への攻撃まであるミャンマーでは、先日発生した大地震によって、さらに多くの人のいのちが、いま、危機に直面しています。いのちが暴力から守られるように、神の平和が確立するように祈り続けましょう。

このような状況のただ中に取り残されることで、多くの人の心には不安が生み出され、世界全体が身を守ろうとして寛容さを失い、利己的な価値観が横行しています。異質な存在を受け入れることに後ろ向きであったり、それを暴力を持って排除しようとする事例さえ見受けられます。

人はそのいのちを、「互いに助けるもの」となるように神から与えられたと旧約聖書の創世記は教えています。ですから互いに助け合わないことは、わたし達のいのちの否定に繋がります。いのちの否定は、それを賜物として与えてくださった神の否定に繋がります。

互いに助け合わない世界は、神が望まれた世界ではありません。互いに助け合わない世界は、希望を打ち砕き絶望を生み出す世界です。神に背を向ける世界であります。

いのちを生きる希望を、すべての人の心に生み出すことが、いま、必要です。わたし達は、絶望が支配する世界に希望をもたらす者として、人生の旅路を歩み続けましょう。一人で希望を生み出すことはできません。信仰における共同体の中で生かされることを通じて、希望が生み出されます。その希望は、永遠のいのちへと復活された主のうちにあり、ともに歩む教会共同体の中で豊かに育てられます。勇気を持って、この社会に対して、希望の源である復活の主イエス・キリストをあかしして参りましょう。

 

 

 

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2025年4月19日 (土)

2025年復活徹夜祭@東京カテドラル

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御復活おめでとうございます。

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本日の復活徹夜祭で、多くの方が洗礼を受け、新たに教会共同体に迎え入れられた方が多くおられると思います。洗礼、聖体、堅信の秘跡を受けられた皆さんも、おめでとうございます。

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関口教会でも、今晩のミサの中で13名の方が洗礼を受けられました。新しい兄弟姉妹を迎えて、教会は新たにされ常にいのちに満ちあふれていることを実感します。一人でも多くの人に、この希望の喜びを伝えることができるように、復活の主の導きを願いましょう。

以下、本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での復活徹夜祭での説教です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月19日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

わたしたちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、わたしたちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。

この旅路をわたしたちは、一人孤独に歩んでいるわけではありません。先行きが見通せない旅路を、一人孤独に歩むことほど不安なことはありません。わたしたちの旅路は、まずもって主イエスとともに歩む旅路であり、信仰を同じくする兄弟姉妹とともに、支え合いながらともに歩む旅路であります。

この数年間、わたしたちは世界のすべての人たちとともに様々な形でのいのちの危機に直面してきました。感染症の蔓延に始まって、その中で起こった戦争。東京教区の長年のパートナーであるミャンマーで起こったクーデターとその後の混乱。ウクライナでの戦争。ガザでの紛争の激化。中東シリアやアフリカ各地でも紛争は深まっています。多くのいのちが暴力的に奪われ、先行きが見えない不安の中で暗闇だけが深まりました。いのちを暴力的に奪われているのは、わたしと等しく御父から賜物としていのちをいただいている兄弟姉妹です。

暗闇が深まった結果は何でしょうか。それは自分の身を守りたいという欲求に基づく利己主義の蔓延であり、異質な存在に不安を感じることによる排除であり、蔓延する不安は絶望を深め、わたしたちから希望を奪い去りました。

いま世界を支配しているのは暴力と、不安と絶望です。あまりにも暴力的な状況が蔓延しているがために、世界には暴力に対抗するためには暴力を用いることが当たり前であるかのような雰囲気さえ漂っています。

御父がいつくしみと愛のうちにわたしたちに与えてくださった賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく、守られなくてはなりません。神の似姿として創造されたすべてのいのちは尊厳が刻み込まれており、その人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。いのちを奪う暴力は、どのような形であれ許されてはなりません。

絶望の闇の中で必要なのは、互いに助け合い支え合いながら、人生の旅路をともに歩むことです。ともに歩む兄弟姉妹の存在こそは、わたしたちの心の支えであり、絶望を希望に変える力を持っています。加えて旅路を歩むわたしたちのその真ん中には、復活された主イエスがおられます。

復活のいのちに生きる主イエスこそは、わたしたちが永遠のいのちを生きる約束であり、真の希望です。わたしたちの信仰者としての人生は、イエスにおける希望に満ちあふれた、希望の巡礼者の旅路であります。

教皇様は、「希望の巡礼者」をテーマとする聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

いま世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。そしてわたしたちは教会共同体の中で生かされ、その中で主イエスと「生き生きとした個人的な出会い」を持ち、永遠のいのちの希望に力づけられ、その希望を掲げながら、ともに人生の旅路を歩み続けます。

週の初めの日の明け方早く、十字架上で亡くなられたイエスの遺体を納めた墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたあのときの衝撃に支配されていたのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。そこに天使が出現し、イエスは生きていると告げます。道を見失い途方に暮れていた婦人たちに、天使は進むべき道を示します。その道はすでにイエスによって示されていたのです。天使はガリラヤを思い起こすようにと告げます。

ガリラヤは、イエスとイエスにしたがった人たちが、最初に出会った地であります。信仰に生きることの意味を、イエス自身がその言葉と行いを持って直接に教えた地です。それは単に過去の思い出ではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える希望に生きるための指針であります。

弟子たちも、頼りにしていた先生を暴力的に奪われ、途方に暮れていたことを福音は記します。実際にイエスの体が墓にはないことを目の当たりにしたペトロは、ただただ「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。ペトロはそれまでいた家に立ち帰ったのであって、旅路を前進したわけではありません。主イエスは立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。

信仰は旅路です。闇雲に歩いているのではなく、主ご自身がともに歩みながら示される指針を心に刻みながら、主とともに、そして兄弟姉妹とともに歩みを続ける、希望の旅路です。

わたしたちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。旅路の希望は、主が示される旅路にしかあり得ません。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点です。

今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。皆さんは一人孤独のうちに歩むのではなく、わたしたち教会共同体の皆と一緒に、互いに助け合い、支え合いながら、祈りのうちともに歩み続けます。そこには必ず主がともにおられます。

復活の主への信仰のうちに、ともに希望を掲げ巡礼の旅路を一緒に歩んで参りましょう。
 

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2025年の復活祭にあたって

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2025年復活祭メッセージ
2025年4月20日

皆様、御復活おめでとうございます。

そしてこの復活祭、または復活節に洗礼を受けられるみなさん、おめでとうございます。教会共同体に心からの喜びを持ってお迎えいたします。

十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。復活された主イエスは、わたし達の希望であるキリストです。

2020年に直面した世界的ないのちの危機以来、わたし達は混乱の暗闇の中をさまよい続けています。その間に勃発した各地の戦争や紛争はやむことなく、今日もまた、いのちの危機に直面し、絶望のうちに取り残されている人たちが、世界には多くおられます。

そのような状況は多くの人の心に不安を生み出し、世界全体が身を守ろうとして寛容さを失い、利己的な価値観が横行しています。異質な存在を受け入れることに後ろ向きであったり、暴力を持って排除しようとする事例さえ見受けられます。

人はそのいのちを、「互いに助けるもの」となるように神から与えられたと旧約聖書の創世記は教えています。ですから互いに助け合わないことは、わたし達のいのちの否定に繋がります。いのちの否定は、それを賜物として与えてくださった神の否定に繋がります。

互いに助け合わない世界は、神が望まれた世界ではありません。互いに助け合わない世界は、絶望を生み出す世界です。

いま必要なのは、いのちを生きる希望を、すべての人の心に生み出すことであります。

教会は今年、25年に一度の特別な聖なる年、聖年の道を歩んでいます。希望の巡礼者がそのテーマです。わたし達は、絶望が支配する世界に希望をもたらす者として、人生の旅路を歩み続けます。一人で希望を生み出すことはできません。信仰における共同体の中で生かされることを通じて、希望が生み出されます。その希望の源は、復活され、わたしたちとともに歩み続ける主イエス・キリストです。

先般、東京教区の姉妹教会であるミャンマーで大きな地震が発生し、わたし達が特に力を入れて支援してきたマンダレー周辺で大きな被害が出ています。ただでさえクーデター以降不安定な状況が続き、平和を求める教会に対する攻撃も続いている中での災害です。被災者救援のための募金も始まっています。被災され絶望に打ちひしがれている方々に希望が生み出されるように、わたし達はできる限りのことをしたいと思います。まず、ミャンマーの方々のために、その平和のために、祈りを捧げましょう。祈りには力があります。いのちを生きる希望を生み出す信仰の絆です。

復活祭にあたり、互いに支え合い、ともに歩む中で絆を深め、希望を生み出しそれをあかしする者となる決意を新たに致しましょう。

終わりに、病気療養中の教皇フランシスコのために、どうぞともに祈りをお捧げください。

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2025年4月18日 (金)

2025年聖なる三日間:聖金曜日主の受難

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聖金曜日には、通常のミサは捧げられません。多くの国では夕刻に、可能であれば午後3時頃に、主イエスが十字架上で最後の苦しみを受け、亡くなられ、葬られたことを憶えて、十字架を崇敬することを中心に据えた典礼がおこなれます。

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昨晩の、主の晩餐のミサには派遣の祝福がなく、聖体の行列と礼拝で静かに終わりました。協の典礼には始めも終わりもなく、沈黙のうちに始まり沈黙のうちに終わりました。明日の夜の復活徹夜祭も、ろうそくの祝別が特別な挨拶なしに始まります。つまり聖木曜から復活徹夜祭までは、一つに繋がった祈りの時なのです。主の受難と死と復活という、わたし達の信仰の根本にある出来事に思いをはせ、自らの信仰を新たにしましょう。

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以下、本日午後7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた主の受難の典礼での説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月18日

わたしたちの希望である救い主は、今日、愛する弟子たちに裏切られ、群衆からはあざけりを受け、独り見捨てられ、孤独のうちに、さらには十字架上での死に至るまでの苦しみという、心と身体への痛みに耐え抜かれようとされています。

わたしたちは、預言者イザヤが記す、「苦難の僕」についての預言の言葉を耳にしました。

「見るべき面影はなく、・・・彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」たと記すイザヤは、しかしそれだからこそ苦難の僕は、「多くの痛みを負い、病を知っている」と記します。神は、単にわたしたちとともに存在されただけでなく、ともに人生を歩むことでその悩みと苦しみを共にされました。

イザヤは、その苦しみは、「わたしたちの痛み」を負ったのであり、「わたしたちの咎のため」に彼は打ち砕かれ、その苦しみのためにわたしたちに平和が与えられ、その傷によって「わたしたちは、いやされた」と記します。救い主の十字架における苦しみは、わたしたちの平和のための、希望のための、罪のゆるしを願う捧げ物でありました。

今日の典礼は、十字架の傍らに聖母が佇まれ、その苦しみに心をあわせておられたことを、わたしたちに思い起こさせます。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母は、キリストと一致した生き方を通じて、わたしたちに霊的生活の模範を示されています。

教皇様は聖なる年、聖年を告知する大勅書「希望は欺かない」の終わりに、聖母について次のように記しています。

「神の母は、希望の最も偉大なあかし人です。この方を見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みの賜物であることが分かります。・・・無実のイエスが苦しみ死ぬのを見ている間、すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、はいと言い続けたのです(24)」

その上で教皇様は、「海の星(ステラ・マリス)・・この称号は、人生の荒波に中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼を持って希望し続けるように招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しています。

聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきた全人類を表現しています。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を示しています。先頭の人物は十字架をつかんでいます。足元には人生の旅に立ち向かう困難の荒波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は船の「いかり」の形をしており、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないようにしっかりと支えてくださっています。その人生の荒波にあって、希望の光を照らし続ける海の星、ステラ・マリスは、神の母マリアであります。聖母はわたしたちの希望の星です。

人生においてわたしたちは、様々な困難に直面します。人間の知恵と知識を持って乗り越えることのできる困難もあれば、時には今回ミャンマーを襲った大地震などの災害のように、人間の力ではどうしようもない苦しみも存在します。

今年2025年は、第二次世界大戦が終結してから80年となります。人類は過去の歴史から様々な教訓を学んでいるはずですが、残念ながらいまでも世界各地で武力による対立はやむことなく、ウクライナの戦争は続き、聖地ガザでの悲劇的な状況も終わらず、その他多くの地域で、神からの賜物であるいのちが暴力によって危機に直面させられています。

この事態は、しかし、自然災害ではありません。まさしく教皇ヨハネパウロ二世が1981年に広島から世界に呼びかけたように、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。暴力によっていのちを危機にさらしているのは、わたしたち人類であって、それを止めることができるのも、わたしたち人類自身であります。

いのちを賜物として与えてくださる神が人間を愛しているその愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を多くの人の罪の贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。聖母マリアは、イエスとともに歩むこの地上での時の終わりであるイエスの十字架上の苦しみに寄り添いました。聖母の人生は、完全に聖なる方にその身を委ねる人生でした。その身を委ねて、それに具体的に生きる前向きな人生でした。苦しみにあっても、御父に向かって、「お言葉通りにこの身になりますように」と、神にすべてを委ねる人生でした。すべてを神に委ねているからこそ、聖母マリアは海の星としてわたしたちを導く希望の光となりました。

苦しみの中で主は、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこのときから、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。わたしたちは聖母とともに十字架の傍らにたたずみ、御父が望まれる救いの計画が実現するようにと、神のみ旨にわたしたちを委ね続けます。

その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立ち続ける姿です。十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立ち続ける聖母マリアはその希望のしるしです。私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。聖母マリアに倣い主イエスの苦しみに心をあわせ、他者の喜びのために身を捧げ、神の秩序の実現のために、具体的に行動する人生を生きたいと思います。

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2025年4月17日 (木)

2025年聖なる三日間:聖木曜日主の晩餐

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聖なる三日間が始まりました。

前記事にも記しましたが、本日聖木曜日の午前中10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京教区で働いてくださる100名近い司祭団とともに、聖香油ミサが捧げられました。聖香油ミサの中で、秘跡に使われる三つの聖なる油(病者の油、志願者の油、聖香油)が祝別され、また司祭は叙階の日の誓いを心に思い起こしながら、約束の更新を致しました。現代社会にあって、司祭の務めは多岐にわたります。残念ながら司祭はスーパーマンではありません。司祭もまた、一人の弱い人間ですから、できることもあれば苦手なことも多くあります。司祭がよりふさわしく働くためには、神様の祝福と導きが不可欠ですが、同時に共同体としてともに歩んでくださるみなさまのお祈りによる支えがさらに重要です。司祭が聖なる務めを忠実に果たすことができるように、どうかみなさまのお祈りによる支えを心からお願い致します。

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夕方7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で主の晩餐のミサを捧げました。関口教会と韓人教会の二つの共同体から、多くの方がミサに与って祈りをともにし、またご聖体の前で静かなひとときを過ぎしました。ご聖体における主イエスの現存こそは、わたし達の信仰の土台です。どうかみなさま、復活祭に向けて、良い三日間を過ごされますように。

以下、本日の主の晩餐のミサの説教原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月17日

先ほど朗読された出エジプト記は、エジプトで奴隷状態であった民が、モーセに導かれて約束の地へと旅立とうと様々な手立てを尽くしてエジプトの王と交渉を続けた最後の局面で、エジプトに降りかかった災いについて記しています。その夜、生け贄として屠られた子羊の血は、エジプトの民に災いをもたらした神が過ぎ越していくためのしるしとなり、その血は、奴隷としての苦難の生活から解放されるという希望のしるしとなりました。

出エジプトという希望の旅路に躊躇なく歩み出すようにと、神は民に対して「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして」食事をするようにと命じています。希望への旅立ちは未知への旅立ちでもあり、その先に何が待ち構えているのか分からない不安な旅への出発です。様々な思いが交錯する中で、与えられた希望の灯火を消すことなく、勇気を持って歩み出すようにと、神は民が準備を整えているようにと促しています。

イエスにおける永遠のいのちへの招きを信じるわたし達にとって、その受難と死を通じた復活は、希望の源です。わたし達の希望は、十字架上で捧げられた神の子羊の血によって、罪の枷が永遠に打ち払われる解放へと繋がる過越によって成り立っています。イスラエルの民がそうであったように、わたしたち新約に生きる神の民も、解放という希望に向かって、常に旅立つ用意をしているように求められています。

まさしく今年は、聖なる年、聖年として、わたしたちが「希望の巡礼者」となることが求められているときであります。

イスラエルの民は、奴隷状態から解放されて約束の地に導かれるという希望を持って旅を続けました。同じように現代の旅路を歩み続ける神の民も、永遠のいのちへの約束を確信し、ともに歩んでくださる主の現存を心に刻みながら、希望をもって歩み続けます。

教皇様は、聖年の大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持っています」と記しておられます。

わたしたちの希望は、どこにあるのでしょうか。

世界各地で、神からの賜物であるいのちが、様々な形態の危機に直面させられています。すべてのいのちは等しく神の似姿として尊厳を与えられており、そもそも互いに助けるためにと神から創造されていることを考えるとき、世界のどこかでそのいのちが危機に直面している事態は、わたしたちから希望を奪い去ります。実際、この数年の感染症に始まり各地で頻発した紛争は多くのいのちを暴力に直面させ、奪い去り、世界を利己的で不寛容が支配する場としてしまいました。利己的で不寛容な世界は人間関係を破壊し、人間関係が断絶される中でわたしたちを支配するのは絶望です。いまわたしたちに必要なのは希望であり、そのためにも互いに支え合いともに歩む人間同士の絆を取り戻すことが不可欠です。

この現実の中で、今こそ必要なのは、ともにいのちを生きるために連帯することであり、ともにいのちを生きるために支え合うことであり、いのちを暴力を持って奪うことではないとあらためて主張したいと思います。

最後の晩餐の席でイエスは、別れゆく弟子たちに、心の底からの愛を込めて、ご自分が代々に至るまで共にいるということを明確にする秘跡を残して行かれました。どこか遠くから見守ったり励ましたりするのではなく、旅路を歩む巡礼者であるわたしたちと常に共にいることを、ご聖体の秘跡を制定することで明確にされました。主はご聖体の秘跡を通じて、常にわたしたちと共におられ、その信仰の絆において、希望を与えてくださいます。ご聖体は、希望の秘跡であります。

教皇聖ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」の冒頭で、教会は様々な仕方で主の現存を味わうのだけれど、「しかし、聖なる聖体において、すなわちパンとぶどう酒が主のからだと血に変わることによって、教会はこのキリストの現存を特別な仕方で深く味わうのです(1)」と記しています。

その上で教皇は、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

希望の源である主ご自身によって集められている神の民は、主の現存である聖体の秘跡によって、力強く主に結び合わされ、主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡があるからこそ共同体であり、その絆のうちに一致し、互いに希望をいただきながら歩みを続けることができています。

主における一致へと招かれているわたしたちに、聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、わたしの愛といつくしみの言葉と行いを忘れることなく、さらに自分たちがそれを具体的に行い続けるようにと、あとに残していく弟子たちに対する切々たる思いを秘跡のうちに刻み込まれました。このイエスの切々たる思いは、聖体祭儀が捧げられる度ごとに繰り返され、「時代は変わっても、聖体が過越の三日間におけるものと『時を超えて同一である』という神秘を実現」させました(「教会にいのちを与える聖体」5)。わたしたちは、聖体祭儀に与る度ごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の思いを同じように受け継ぎます。

イエスは、裂かれたパンこそが、「私のからだである」と宣言します。ぶどうは踏みつぶされてぶどう酒になっていきます。裂かれ、踏みつぶされるところ、そこに主はおられます。

だからこそヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、自らを犠牲として捧げるところに、主はおられます。自分を守ろうとするのではなく、隣人を思いやり、互いに支え合い、ともに歩むところに、主はおられます。

わたしたちは聖体祭儀に与る度ごとに、自らの身を裂き、踏みつぶされて、それでも愛する人類のために身をささげられた主の愛に思いを馳せ、それを心に刻み、その思いを自分のものとし、そして同じように実践していこうと決意します。イスラエルの民がそうであったように、わたしたちは、聖体祭儀に与るときに、常に旅立つ準備ができていなくてはなりません。

「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」希望の旅路に、歩み出す勇気を持つ者でありたいと思います。

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2025年聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日の午前中10時半から、教皇大使、参事官の臨席を得て、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを行いました。ミサの中で司祭はその叙階の時を思い起こしながら、司祭としての誓いを新たにしました。そして秘跡に必要な三つの聖なる油が祝福されました。またこのミサは、司祭のために祈りを捧げるミサでもあります。

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新年度が始まったばかりの忙しい中、大聖堂がいっぱいになるほど多くの方が参加して、祈りの時をともにしてくださいました。司祭団も、教区司祭や修道会、宣教会司祭を合わせて、100名近く共同司式をしていたものと思います。日頃は離ればなれで働いている司祭が、司教とともに主の祭壇を囲み、教会共同体としての一致を目に見える形であかしするミサでもあります。

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このミサの後、晩にはそれぞれの教会で主の晩餐のミサが控えています。そのため多くの教区では、移動時間を考慮して昨日より前に前倒しして聖香油ミサは行われることが多いのですが、東京教区は管轄地域が東京都と千葉県ですので、なんとかギリギリで本来の聖木曜日に行っています。

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以下本日の聖香油ミサの説教原稿です。

聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月17日

この数年間は、様々な意味で、いのちを生きる希望を奪い去るような状況が続いてきました。もちろんどのような時代であっても、いのちに対する暴力は存在するとはいえ、この数年は感染症のと言う危機に不安を増し加えたウクライナやガザ、アフリカのスーダンやザイール東部の状況、そしてミャンマーなどでいのちへの暴力的な攻撃が続き、あらゆる形で暗闇を深め、不安を増長する事態が続いています。

暗闇が続くなかで、人の心の常として自分を守ることに専念してしまいます。それがあまねく広まっているがために利己的な世界となりました。時に、正義を行使していると言いながら、それが独善的で利己的であることも珍しいことではありません。それが正しいのかどうかの評価は別にして、世界から寛容さが影を潜めてしまいました。寛容さを失った利己的な社会ほど、生きることが困難な社会はありません。常に批判的に注がれる他者の視線を意識しながら、自分の周りだけを守ろうと内向きになってしまう社会です。この現実の中で、希望を見いだすのは容易ではありません。

教皇様が、この聖年のテーマを「希望の巡礼者」とされたのは、まさしくこうした世界の現実をしっかりと見据えたからに他ならないと思います。教会こそが、この暗闇に向かって希望の光をもたらさなければならないと確信されているからでしょう。

もちろんそれは教皇フランシスコが急に思いついたのではなく、そもそもわたしたちの信仰は、復活の主における永遠のいのちへの希望に基づく希望の信仰です。

2024年4月にアドリミナでローマを訪問していた日本の司教団とお会いになった教皇様は、非公式な発言ですが、進められているシノドスの歩みについて触れ、次のように言われました。

「いま進めていることは何か新しいことを思いついたのではなくて、第二バチカン公会議が目指してこれまで60年以上も続けてきた神の民のあり方を実現しようとしていることである、新しい教会を作ろうとしているのではなく、聖霊に導かれている教会のあり方を見いだそうとしている。シノドス性はイデオロギーではない。民主主義でもない。皆が一つになって教会を作りあげていることが大切だ」

教皇様は2019年に、東京で東北の被災者や関係者とお会いになったとき、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。・・・町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と言われました。

戦争や紛争に巻き込まれたり、大規模な自然災害に巻き込まれることで、日々を生きるいのちの危機に直面している多くの人たちに、どうやったら希望を回復できるのか。衣食住や医療など、様々な物質的援助を外から持ってくることで、物理的にいのちを守るための支援をすることができます。しかし希望はそうはいきません。いのちを生きる希望を、誰かがどこからか持ってきて、絶望に打ちひしがれている人に与えることはできません。

誰も自分のことを考えてくれていない、誰も自分のことを心配していない。自分は孤立している。そういう思いは人の心から希望を奪い、絶望を生み出します。

希望はモノではなく、人の心の中から生み出される存在です。希望は、互いに支え合う人間関係の中から生まれてきます。希望を生み出すためには、「友人や兄弟姉妹との出会い」が必要です。まさしく教皇様が推し進めようとされているシノドス的な教会の道のりとは、ともに歩み、耳を傾けあい、支え合い、共に祈ることによって、希望を生み出す歩みです。希望の巡礼者としての歩みであります。

聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると記された教皇様は、同時に、「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光の下にそれを解明する義務を課されている」とも指摘されます。

その上で、「救ってくださる神の現存を必要とする人間の心の渇望を含んだ時のしるしは、希望のしるしへと変えられることを望んでいるのです」とも指摘されています。

司祭は、神の民の牧者として、その先頭に立ち、率先して希望を生み出すものでなければなりません。司祭には、イエスとの出会いの中で生まれるいのちを生きる希望を、多くの人に分け与える務めがあります。ひとりでも多くの人がイエスとの個人的な出会いの中で希望を心に抱き、共同体に生きることで互いに支え合い、連帯のうちにその希望を燃え輝かせるように導くことは司祭の務めです。司祭は、希望という実りをより多く生み出すために、多くの人、特にいのちの危機に直面する人と歩みをともにし、展望と希望を回復させるような関係を作り上げる者でありたいと思います。

さらに司祭は、時のしるしを率先して読み取り、社会の中で、神を求めている「人間の心の渇望のしるしを希望のしるし」に変えるために、共同体の祈りにおける識別の先頭に立たなくてはなりません。

とはいえ、司祭といってもそんなことを一人でできるわけがありません。司祭はスーパーマンではありません。傷つきやすい心と体を持った弱い人間です。だからこそのシノドス性です。互いに助け合い支え合うシノドス的な教会です。互いの存在を尊重し、神から賜物として与えられたいのちの尊厳を率先して守り抜こうとする教会です。すべての信徒の皆さんの、ともに歩んでいこうという強い意志が不可欠です。司祭を支えてくださるのは、皆さんのその心と祈りであります。

さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない東京教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。教会憲章に「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」と記されていますが、こうして司祭団が司教と一緒に祭壇を囲んで聖体の秘跡に与ることが、「神との親密な交わりと全人類の一致の」本当に目に見える「しるし」となっていることを、心から願っています。

また司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司祭団は司教と共にこのミサの中で祝福いたします。

加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、お祈りくださるよう、お願いいたします。

 

 

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2025年4月12日 (土)

週刊大司教第205回:受難の主日C

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受難の主日となり、今年の聖週間が始まりました。あらためてわたしたちひとり一人の信仰の原点である主の受難と死、そして復活を黙想して、そこにおける主との出会いという希望の体験に立ち返り、また御復活祭に洗礼を受ける準備をしておられる方々のためにさらに祈りましょう。

なお受難の主日午前10時に始まり、聖木曜日午後7時、聖金曜日午後7時、復活徹夜祭午後7時、復活の主日午前10時は、すべてわたしの司式で、東京カテドラル聖マリア大聖堂からビデオ配信される予定です。こちらのリンク先のカトリック東京大司教区のYoutubeチャンネルからご覧頂けます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第205回、受難の主日のメッセージ原稿とビデオリンクです。

受難の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第205回
2025年4月13日

3月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

ミャンマーの教会は、東京教区にとっての長年の大切なパートナーです。ケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。今年は、今度は二人のミャンマーの司祭が、東京教区で働くために来日してくれました。東京教区は数年前から、今回の震源に近いマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設を支援しています。今回の地震発生直後から、マンダレー教区関係者から連絡があり、教会の施設の多くがダメージを受け、避難者の救援作業にあたっていると支援の要請が来ました。もちろん、金銭での支援も重要ですからこれから具体的な方策を考えますが、それ以上に、信仰の絆における連帯を示すことも重要です。

愛する家族のひとりが、目の前でいのちの危機に直面しているならば、多くの人は平然としてはおられないはずです。なんとかして、どうにかして、助けたいと思うことでしょう。まさしく今起こっていることは、信仰における兄弟姉妹がいのちの危機に直面している状況です。いても立ってもいられなくなるはずですが、どうでしょうか。東北の大震災の直後、当時カリタスジャパンを担当していたわたしの元には、世界中各地から、祈っているとのメールが殺到しました。信仰における絆を実感した体験です。

多くの人が犠牲になる大災害や戦争のような事態が起こっても、それが目の前ではなくて遙か彼方で発生すると、わたしたちはどういうわけか、あれやこれやと理屈を並べて、まるで人ごとのように眺めてしまいます。そのような態度とは、すなわち無関心です。無関心はいのちを奪います。神のひとり子を十字架につけて殺したのは、あの大勢の群衆の「無関心」であります。

歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。無責任に眺める群衆は、そのときの感情に流されながら、周囲の雰囲気に抗うことができません。

パウロは、イエスが、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

復活を通じた永遠の命を生きるというわたし達の希望は、受難と孤独のうちの十字架での死という絶望的な断絶の状況にあっても、イエスは御父と一体であったからこそ、希望を失うことがなかったという事実に基づいています。無関心は孤立をもたらし、絶望を生み出します。しかしいのちの与え主である御父に繋がる中で、兄弟姉妹として互いに結ばれているという確信は、命を生きる希望を生み出します。いま、世界に必要なのは、いのちを生きる希望であって、絶望ではありません。

互いへの無関心が支配する現代社会にあって、わたしたちはイエスご自身に倣い、御父との絆に確信を抱きながら、互いに支え合い、希望を生み出し、それを告げる者でありたいと思います。

無関心のうちに傍観して流される者ではなく、互いを思いやり、支え合い、ともに歩みを進める者でありたいと思います。

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世界青年大会(WYD)の二つのシンボル

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ご存じのように、2027年に、世界青年大会(WYD)が韓国のソウル教区で開催されます。その準備の活動が、すでに始まっています。

前回のリスボン大会のホームページには、「世界青年大会(WYD)は二つのシンボルが伴います。巡礼の十字架とローマのすべての人の救いの聖母のイコンです。WYDの前の数ヶ月、このシンボルは巡礼の旅に出て、福音を告知し、特別の方法で青年たちとその現実に寄り添います」と記されています。

この十字架とイコンは、すでに昨年11月24日にバチカンの聖ペトロ大聖堂で、ポルトガルの青年たちから韓国の青年たちへの引き継ぎが行われており、いまはソウルに置かれていますが、2027年のソウル大会を前に,各国への巡礼の旅が始まります(リンク先は英語記事ですが、十字架とイコンが韓国の青年たちに渡された写真があります)

そのようなわけで、2027年のソウル大会のために巡礼の旅を始める十字架とイコンが、4月の末に日本にやってきて、長崎と大阪を旅した後、東京にやってきます。5月10日に東京では、上の写真にあるとおり、高校生から30歳の青年を対象に、麹町教会からカテドラルの関口教会まで徒歩巡礼が行われ、ゆるしの秘跡の後、アンドレア補佐司教様の司式で青年のミサが行われます。

それでは青年ではない(?)人たちはこの十字架とイコンの前で祈れないのかというと、そうではありません。祈れます。翌日5月11日の午後には、教区の一粒会主催へ、世界召命祈願日のミサがわたしの司式で行われ、そのときに大聖堂に安置される青年の十字架とイコンの前でお祈りいただけます。

なおこの行事が終わった後は、再び十字架とイコンは巡礼の旅を続け、他の国へと旅立っていきます

調べてみると、この十字架は、すでに長年にわたって巡礼の旅を続けているようです。1983年のあがないの特別聖年の時にヨハネパウロ二世がシンプルな十字架を作成させ、青年たちにその年の御復活祭に当たって託し、それから今に至るまで同じ十字架が世界を巡礼して回っているとのことです。

また聖母のイコンは、2000年のローマでのWYDで掲げられ、その3年後から、ヨハネパウロ二世によって十字架と共にイコンの複製が巡礼を続けるようにと青年たちに託されたのだそうです。このイコンは「Salus Populi Romani」と呼ばれ、ローマの聖マリア大聖堂に安置されており、教皇フランシスコがしばしばその前で祈りを下げることで有名です。パンデミックの間に教皇様が示された祈りの中でも、触れられていました。このイコンは6世紀末頃、伝染病に襲われたローマ市民を救ったとの伝説があります。

すぐ隣の国で開催されるWYDですので、多くの青年たちが日本からも参加することを期待していますが、まずは準備のこの十字架とイコンの巡礼にしっかりと取り組みましょう。

 

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2025年4月 5日 (土)

週刊大司教第204回:四旬節第五主日C

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四旬節も終わりに近づき、もう第五主日です

3月23日深夜に出発して、29日お昼頃帰着で、ローマに出かけておりました。もともとは一年に一度、この時期に教皇様にお会いして、国際カリタスの活動報告をすることにしていたのですが、もちろん現在の教皇様の健康状態もあり謁見はキャンセルになりましたが、それ以外にも国務省を始め総合的人間開発省、東方教会省、諸宗教対話省、キリスト者一致推進省、広報省、教皇庁未成年者保護委員会、シノドス事務局を、国際カリタスの事務局長と二人で訪問して回りました。

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またその間に、枢機卿としての名義教会であるサン・ジョバンニ・レオナルディ教会のアントニ・サミィ・エルソン主任司祭(向かって右端)始め助任司祭と小教区財務委員の信徒の方の訪問を受け、さらに主任司祭と一緒に教皇庁儀典室のモンセニョールを訪問し、10月9日夕方6時に予定されている着座式の打ち合わせも行いました。ローマのどちらかというと郊外の住宅地にある小教区であり、長年、枢機卿の名義教会になることを申請していてやっと夢が叶った。住宅街の共同体なので、日曜のミサの参加者は大勢であり、様々な活動のある教会だ。当日は日本からの訪問者も大勢いるだろうし、当小教区出身の司祭や司教も来るので、聖堂に入りきらない場合は、隣の学校のグランドで野外ミサをするとのことです。いまから楽しみです。イタリア語ですが、小教区のホームページです。なお司牧を担当しているのは16世紀に聖ジョバンニ・レオナルディが創立したOMD(Ordo Clericorum Regularium Matris Dei)と言う修道会司祭ですが、この会の正式名称をどのように邦訳するのか思案中です。

その間に、イタリア国政放送RAIのテレビのインタビューがあり、さらには国際カリタスの夏の聖年の青年行事の打ち合わせや、国際カリタス法務委員会との顔合わせなど、盛りだくさんでした。

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バチカン周辺は思ったほどの人出ではなかったものの、聖年の巡礼団が多く集まり、サンタンジェロ城付近からコンチリアツィオーネ通りにサンピエトロ大聖堂までまっすぐに700メートル近い特別通路が設けられてあり、途中信号などがあるのでボランティアの時間調整や誘導にしたがって、祈りとともに歩んでいました。サンタンジェロ城の近くに登録ブースがあり、ここで先頭を行く十字架を貸してもらえるようです。

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ローマ市内は未だにそこら中で道路工事をしていましたが、昨年末に枢機卿親任式で訪れた際には絶対終わるのは不可能と思ったバチカン周辺の工事は、なんと見事に終わり、閉鎖されていた地下トンネルなども再開して、渋滞も少なくなっていました。ただ、今回も国際カリタス事務局のすぐ近くの小さなホテルに泊まったのですが、お値段が昨年とは比べものにならないくらい高騰していました。

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教皇様は宿舎であるサンタマルタの家に戻られていますが、パロリン国務長官によれば、二ヶ月本当に休んでくれれば、なんとか復帰できるだろう。教皇様がしっかりと休むようにすることが、我々の務めだと言われ、回復の度合いにもよりますが、いままでのようなペースでの仕事は難しくなるのでスタイルを変更しなくてはならないとのことでした。どうか続けて、教皇様のためにお祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第204回、四旬節第5主日のメッセージ原稿です。

四旬節第五主日C
週刊大司教第204回
2025年4月6日

ヨハネ福音は、「姦通の現場で捉えられた女」の話を伝えています。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言うイエスの言葉がよく知られています。もちろんこの場において、本当に罪を犯したことのないものは、神の子であるイエスご自身しかおられません。さすがに神に挑戦するような思い上がった人は、当時の宗教的現実の中で、そこにはいなかったと福音は伝えています。

しかし同じことが、今の時代に起こったとしたらどうでしょう。とりわけ、バーチャルな世界でのコミュニケーションが匿名性の影に隠れて普及している今、同じことが起きたのであれば、あたかも自分こそが正義の保持者であるというような論調で、この女性を糾弾する声が多く湧き上がるのではないでしょうか。何という不遜な時代にわたし達は生きているのでしょう。時にその不遜さは、自分が虐げている弱い相手に対して、自分に対する感謝が足りないなどと、さらにとんでもない要求すらして相手を糾弾します。

この福音の物語は、時代と文化の制約があるとはいえ、共犯者であるはずの男性は罪を追及されることがなく、女性だけが人々の前に連れ出され断罪されようとしています。同じ罪を形作っているにもかかわらず、女性だけが批判される構図は現代でも変わりません。それどころか、ハラスメントなどの暴行や虐待の事案にあって、あたかも被害者に非があるかのような批判の声が聞かれることすらあります。

神の愛といつくしみそのものであるイエスは、犯された罪を水に流して忘れてしまうのではなく、ひとり責めを受けいのちの尊厳を蹂躙されようとしている人を目の前にして、その人間の尊厳を取り戻すことを最優先にされました。もちろん共同体としての秩序と安全を守ることは大切ですし、社会においてもまた宗教共同体においても、掟が存在しています。

イエスの言葉は、掟を守ることに価値がないとは言いません。イエスの言葉は、掟が前提とするひとり一人の人間の尊厳に言及しています。なぜならばその尊厳ある一人一人が共同体を作り上げているのであって、共同体が人を作り上げているからではありません。イエスは、そのような場に引き出され、辱められ、人間の尊厳を蹂躙されている女性の、そこに至るまでの状況を把握することもなく、掟を盾にして尊い賜物であるいのちの尊厳をないがしろにしている現実のただ中で、一人のいのちの尊厳を守ろうとしています。その存在を守ろうとしています。わたし達の時代は、誰を、そして何を最優先にしているのでしょうか。

今年の四旬節メッセージ「希望をもってともに歩んでいきましょう」で教皇様は、回心について三つの側面から語っておられます。その三つ目のポイントは、約束に対する「希望をもって」ともに歩むことですが、教皇様はそこにこう記しています。

「回心への第三の呼びかけは、希望への、神とその大いなる約束である永遠のいのちを信頼することへの招きです。自らに問いましょう。主はわたしの罪をゆるしてくださると確信しているだろうか。それとも、自分を救えるかのように振る舞っているのではないだろうか。救いを切望し、それを求めて神の助けを祈っているだろうか。歴史の出来事を解釈できるようにし、正義と兄弟愛、共通の家のケアに務めさせ、だれ一人取り残されることがないようにする希望を、具体的に抱いているだろうか」

わたし達は、神からのゆるしをいただいて生かされていると心に刻むとき、神の前で謙遜に生きることを学びます。神の前に謙遜になるとき、はじめて、同じ神の愛によっていのちを与えられ生かされている兄弟姉妹と、ともに歩むことの大切さを理解することが可能になります。ひとり一人の人間の尊厳を尊重し、虐げられている人の尊厳を回復しようとする主のいつくしみに倣いましょう。

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