2025年復活徹夜祭@東京カテドラル
御復活おめでとうございます。
本日の復活徹夜祭で、多くの方が洗礼を受け、新たに教会共同体に迎え入れられた方が多くおられると思います。洗礼、聖体、堅信の秘跡を受けられた皆さんも、おめでとうございます。
関口教会でも、今晩のミサの中で13名の方が洗礼を受けられました。新しい兄弟姉妹を迎えて、教会は新たにされ常にいのちに満ちあふれていることを実感します。一人でも多くの人に、この希望の喜びを伝えることができるように、復活の主の導きを願いましょう。
以下、本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での復活徹夜祭での説教です。
復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月19日皆さん、御復活、おめでとうございます。
わたしたちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、わたしたちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。
この旅路をわたしたちは、一人孤独に歩んでいるわけではありません。先行きが見通せない旅路を、一人孤独に歩むことほど不安なことはありません。わたしたちの旅路は、まずもって主イエスとともに歩む旅路であり、信仰を同じくする兄弟姉妹とともに、支え合いながらともに歩む旅路であります。
この数年間、わたしたちは世界のすべての人たちとともに様々な形でのいのちの危機に直面してきました。感染症の蔓延に始まって、その中で起こった戦争。東京教区の長年のパートナーであるミャンマーで起こったクーデターとその後の混乱。ウクライナでの戦争。ガザでの紛争の激化。中東シリアやアフリカ各地でも紛争は深まっています。多くのいのちが暴力的に奪われ、先行きが見えない不安の中で暗闇だけが深まりました。いのちを暴力的に奪われているのは、わたしと等しく御父から賜物としていのちをいただいている兄弟姉妹です。
暗闇が深まった結果は何でしょうか。それは自分の身を守りたいという欲求に基づく利己主義の蔓延であり、異質な存在に不安を感じることによる排除であり、蔓延する不安は絶望を深め、わたしたちから希望を奪い去りました。
いま世界を支配しているのは暴力と、不安と絶望です。あまりにも暴力的な状況が蔓延しているがために、世界には暴力に対抗するためには暴力を用いることが当たり前であるかのような雰囲気さえ漂っています。
御父がいつくしみと愛のうちにわたしたちに与えてくださった賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく、守られなくてはなりません。神の似姿として創造されたすべてのいのちは尊厳が刻み込まれており、その人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。いのちを奪う暴力は、どのような形であれ許されてはなりません。
絶望の闇の中で必要なのは、互いに助け合い支え合いながら、人生の旅路をともに歩むことです。ともに歩む兄弟姉妹の存在こそは、わたしたちの心の支えであり、絶望を希望に変える力を持っています。加えて旅路を歩むわたしたちのその真ん中には、復活された主イエスがおられます。
復活のいのちに生きる主イエスこそは、わたしたちが永遠のいのちを生きる約束であり、真の希望です。わたしたちの信仰者としての人生は、イエスにおける希望に満ちあふれた、希望の巡礼者の旅路であります。
教皇様は、「希望の巡礼者」をテーマとする聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。
いま世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。そしてわたしたちは教会共同体の中で生かされ、その中で主イエスと「生き生きとした個人的な出会い」を持ち、永遠のいのちの希望に力づけられ、その希望を掲げながら、ともに人生の旅路を歩み続けます。
週の初めの日の明け方早く、十字架上で亡くなられたイエスの遺体を納めた墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたあのときの衝撃に支配されていたのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。そこに天使が出現し、イエスは生きていると告げます。道を見失い途方に暮れていた婦人たちに、天使は進むべき道を示します。その道はすでにイエスによって示されていたのです。天使はガリラヤを思い起こすようにと告げます。
ガリラヤは、イエスとイエスにしたがった人たちが、最初に出会った地であります。信仰に生きることの意味を、イエス自身がその言葉と行いを持って直接に教えた地です。それは単に過去の思い出ではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える希望に生きるための指針であります。
弟子たちも、頼りにしていた先生を暴力的に奪われ、途方に暮れていたことを福音は記します。実際にイエスの体が墓にはないことを目の当たりにしたペトロは、ただただ「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。ペトロはそれまでいた家に立ち帰ったのであって、旅路を前進したわけではありません。主イエスは立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。
信仰は旅路です。闇雲に歩いているのではなく、主ご自身がともに歩みながら示される指針を心に刻みながら、主とともに、そして兄弟姉妹とともに歩みを続ける、希望の旅路です。
わたしたちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。旅路の希望は、主が示される旅路にしかあり得ません。
イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点です。
今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。皆さんは一人孤独のうちに歩むのではなく、わたしたち教会共同体の皆と一緒に、互いに助け合い、支え合いながら、祈りのうちともに歩み続けます。そこには必ず主がともにおられます。
復活の主への信仰のうちに、ともに希望を掲げ巡礼の旅路を一緒に歩んで参りましょう。
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