2025年聖香油ミサ@東京カテドラル
聖木曜日の午前中10時半から、教皇大使、参事官の臨席を得て、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを行いました。ミサの中で司祭はその叙階の時を思い起こしながら、司祭としての誓いを新たにしました。そして秘跡に必要な三つの聖なる油が祝福されました。またこのミサは、司祭のために祈りを捧げるミサでもあります。
新年度が始まったばかりの忙しい中、大聖堂がいっぱいになるほど多くの方が参加して、祈りの時をともにしてくださいました。司祭団も、教区司祭や修道会、宣教会司祭を合わせて、100名近く共同司式をしていたものと思います。日頃は離ればなれで働いている司祭が、司教とともに主の祭壇を囲み、教会共同体としての一致を目に見える形であかしするミサでもあります。
このミサの後、晩にはそれぞれの教会で主の晩餐のミサが控えています。そのため多くの教区では、移動時間を考慮して昨日より前に前倒しして聖香油ミサは行われることが多いのですが、東京教区は管轄地域が東京都と千葉県ですので、なんとかギリギリで本来の聖木曜日に行っています。
以下本日の聖香油ミサの説教原稿です。
聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月17日この数年間は、様々な意味で、いのちを生きる希望を奪い去るような状況が続いてきました。もちろんどのような時代であっても、いのちに対する暴力は存在するとはいえ、この数年は感染症のと言う危機に不安を増し加えたウクライナやガザ、アフリカのスーダンやザイール東部の状況、そしてミャンマーなどでいのちへの暴力的な攻撃が続き、あらゆる形で暗闇を深め、不安を増長する事態が続いています。
暗闇が続くなかで、人の心の常として自分を守ることに専念してしまいます。それがあまねく広まっているがために利己的な世界となりました。時に、正義を行使していると言いながら、それが独善的で利己的であることも珍しいことではありません。それが正しいのかどうかの評価は別にして、世界から寛容さが影を潜めてしまいました。寛容さを失った利己的な社会ほど、生きることが困難な社会はありません。常に批判的に注がれる他者の視線を意識しながら、自分の周りだけを守ろうと内向きになってしまう社会です。この現実の中で、希望を見いだすのは容易ではありません。
教皇様が、この聖年のテーマを「希望の巡礼者」とされたのは、まさしくこうした世界の現実をしっかりと見据えたからに他ならないと思います。教会こそが、この暗闇に向かって希望の光をもたらさなければならないと確信されているからでしょう。
もちろんそれは教皇フランシスコが急に思いついたのではなく、そもそもわたしたちの信仰は、復活の主における永遠のいのちへの希望に基づく希望の信仰です。
2024年4月にアドリミナでローマを訪問していた日本の司教団とお会いになった教皇様は、非公式な発言ですが、進められているシノドスの歩みについて触れ、次のように言われました。
「いま進めていることは何か新しいことを思いついたのではなくて、第二バチカン公会議が目指してこれまで60年以上も続けてきた神の民のあり方を実現しようとしていることである、新しい教会を作ろうとしているのではなく、聖霊に導かれている教会のあり方を見いだそうとしている。シノドス性はイデオロギーではない。民主主義でもない。皆が一つになって教会を作りあげていることが大切だ」
教皇様は2019年に、東京で東北の被災者や関係者とお会いになったとき、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。・・・町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と言われました。
戦争や紛争に巻き込まれたり、大規模な自然災害に巻き込まれることで、日々を生きるいのちの危機に直面している多くの人たちに、どうやったら希望を回復できるのか。衣食住や医療など、様々な物質的援助を外から持ってくることで、物理的にいのちを守るための支援をすることができます。しかし希望はそうはいきません。いのちを生きる希望を、誰かがどこからか持ってきて、絶望に打ちひしがれている人に与えることはできません。
誰も自分のことを考えてくれていない、誰も自分のことを心配していない。自分は孤立している。そういう思いは人の心から希望を奪い、絶望を生み出します。
希望はモノではなく、人の心の中から生み出される存在です。希望は、互いに支え合う人間関係の中から生まれてきます。希望を生み出すためには、「友人や兄弟姉妹との出会い」が必要です。まさしく教皇様が推し進めようとされているシノドス的な教会の道のりとは、ともに歩み、耳を傾けあい、支え合い、共に祈ることによって、希望を生み出す歩みです。希望の巡礼者としての歩みであります。
聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると記された教皇様は、同時に、「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光の下にそれを解明する義務を課されている」とも指摘されます。
その上で、「救ってくださる神の現存を必要とする人間の心の渇望を含んだ時のしるしは、希望のしるしへと変えられることを望んでいるのです」とも指摘されています。
司祭は、神の民の牧者として、その先頭に立ち、率先して希望を生み出すものでなければなりません。司祭には、イエスとの出会いの中で生まれるいのちを生きる希望を、多くの人に分け与える務めがあります。ひとりでも多くの人がイエスとの個人的な出会いの中で希望を心に抱き、共同体に生きることで互いに支え合い、連帯のうちにその希望を燃え輝かせるように導くことは司祭の務めです。司祭は、希望という実りをより多く生み出すために、多くの人、特にいのちの危機に直面する人と歩みをともにし、展望と希望を回復させるような関係を作り上げる者でありたいと思います。
さらに司祭は、時のしるしを率先して読み取り、社会の中で、神を求めている「人間の心の渇望のしるしを希望のしるし」に変えるために、共同体の祈りにおける識別の先頭に立たなくてはなりません。
とはいえ、司祭といってもそんなことを一人でできるわけがありません。司祭はスーパーマンではありません。傷つきやすい心と体を持った弱い人間です。だからこそのシノドス性です。互いに助け合い支え合うシノドス的な教会です。互いの存在を尊重し、神から賜物として与えられたいのちの尊厳を率先して守り抜こうとする教会です。すべての信徒の皆さんの、ともに歩んでいこうという強い意志が不可欠です。司祭を支えてくださるのは、皆さんのその心と祈りであります。
さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない東京教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。教会憲章に「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」と記されていますが、こうして司祭団が司教と一緒に祭壇を囲んで聖体の秘跡に与ることが、「神との親密な交わりと全人類の一致の」本当に目に見える「しるし」となっていることを、心から願っています。
また司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司祭団は司教と共にこのミサの中で祝福いたします。
加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。
お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、お祈りくださるよう、お願いいたします。
| 固定リンク | 6
「説教原稿」カテゴリの記事
- 司教団による教皇レオ14世就任記念ミサ(2025.06.20)
- 2025年聖香油ミサ@東京カテドラル(2025.04.17)
- 新垣壬敏先生追悼ミサ@東京カテドラル(2025.03.16)
- 今井神学生、朗読奉仕者に@一粒会総会(2025.03.16)
- 灰の水曜日@東京カテドラル(2025.03.05)