2025年聖なる三日間:聖木曜日主の晩餐
聖なる三日間が始まりました。
前記事にも記しましたが、本日聖木曜日の午前中10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京教区で働いてくださる100名近い司祭団とともに、聖香油ミサが捧げられました。聖香油ミサの中で、秘跡に使われる三つの聖なる油(病者の油、志願者の油、聖香油)が祝別され、また司祭は叙階の日の誓いを心に思い起こしながら、約束の更新を致しました。現代社会にあって、司祭の務めは多岐にわたります。残念ながら司祭はスーパーマンではありません。司祭もまた、一人の弱い人間ですから、できることもあれば苦手なことも多くあります。司祭がよりふさわしく働くためには、神様の祝福と導きが不可欠ですが、同時に共同体としてともに歩んでくださるみなさまのお祈りによる支えがさらに重要です。司祭が聖なる務めを忠実に果たすことができるように、どうかみなさまのお祈りによる支えを心からお願い致します。
夕方7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で主の晩餐のミサを捧げました。関口教会と韓人教会の二つの共同体から、多くの方がミサに与って祈りをともにし、またご聖体の前で静かなひとときを過ぎしました。ご聖体における主イエスの現存こそは、わたし達の信仰の土台です。どうかみなさま、復活祭に向けて、良い三日間を過ごされますように。
以下、本日の主の晩餐のミサの説教原稿です。
聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月17日先ほど朗読された出エジプト記は、エジプトで奴隷状態であった民が、モーセに導かれて約束の地へと旅立とうと様々な手立てを尽くしてエジプトの王と交渉を続けた最後の局面で、エジプトに降りかかった災いについて記しています。その夜、生け贄として屠られた子羊の血は、エジプトの民に災いをもたらした神が過ぎ越していくためのしるしとなり、その血は、奴隷としての苦難の生活から解放されるという希望のしるしとなりました。
出エジプトという希望の旅路に躊躇なく歩み出すようにと、神は民に対して「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして」食事をするようにと命じています。希望への旅立ちは未知への旅立ちでもあり、その先に何が待ち構えているのか分からない不安な旅への出発です。様々な思いが交錯する中で、与えられた希望の灯火を消すことなく、勇気を持って歩み出すようにと、神は民が準備を整えているようにと促しています。
イエスにおける永遠のいのちへの招きを信じるわたし達にとって、その受難と死を通じた復活は、希望の源です。わたし達の希望は、十字架上で捧げられた神の子羊の血によって、罪の枷が永遠に打ち払われる解放へと繋がる過越によって成り立っています。イスラエルの民がそうであったように、わたしたち新約に生きる神の民も、解放という希望に向かって、常に旅立つ用意をしているように求められています。
まさしく今年は、聖なる年、聖年として、わたしたちが「希望の巡礼者」となることが求められているときであります。
イスラエルの民は、奴隷状態から解放されて約束の地に導かれるという希望を持って旅を続けました。同じように現代の旅路を歩み続ける神の民も、永遠のいのちへの約束を確信し、ともに歩んでくださる主の現存を心に刻みながら、希望をもって歩み続けます。
教皇様は、聖年の大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持っています」と記しておられます。
わたしたちの希望は、どこにあるのでしょうか。
世界各地で、神からの賜物であるいのちが、様々な形態の危機に直面させられています。すべてのいのちは等しく神の似姿として尊厳を与えられており、そもそも互いに助けるためにと神から創造されていることを考えるとき、世界のどこかでそのいのちが危機に直面している事態は、わたしたちから希望を奪い去ります。実際、この数年の感染症に始まり各地で頻発した紛争は多くのいのちを暴力に直面させ、奪い去り、世界を利己的で不寛容が支配する場としてしまいました。利己的で不寛容な世界は人間関係を破壊し、人間関係が断絶される中でわたしたちを支配するのは絶望です。いまわたしたちに必要なのは希望であり、そのためにも互いに支え合いともに歩む人間同士の絆を取り戻すことが不可欠です。
この現実の中で、今こそ必要なのは、ともにいのちを生きるために連帯することであり、ともにいのちを生きるために支え合うことであり、いのちを暴力を持って奪うことではないとあらためて主張したいと思います。
最後の晩餐の席でイエスは、別れゆく弟子たちに、心の底からの愛を込めて、ご自分が代々に至るまで共にいるということを明確にする秘跡を残して行かれました。どこか遠くから見守ったり励ましたりするのではなく、旅路を歩む巡礼者であるわたしたちと常に共にいることを、ご聖体の秘跡を制定することで明確にされました。主はご聖体の秘跡を通じて、常にわたしたちと共におられ、その信仰の絆において、希望を与えてくださいます。ご聖体は、希望の秘跡であります。
教皇聖ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」の冒頭で、教会は様々な仕方で主の現存を味わうのだけれど、「しかし、聖なる聖体において、すなわちパンとぶどう酒が主のからだと血に変わることによって、教会はこのキリストの現存を特別な仕方で深く味わうのです(1)」と記しています。
その上で教皇は、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。
希望の源である主ご自身によって集められている神の民は、主の現存である聖体の秘跡によって、力強く主に結び合わされ、主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡があるからこそ共同体であり、その絆のうちに一致し、互いに希望をいただきながら歩みを続けることができています。
主における一致へと招かれているわたしたちに、聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、わたしの愛といつくしみの言葉と行いを忘れることなく、さらに自分たちがそれを具体的に行い続けるようにと、あとに残していく弟子たちに対する切々たる思いを秘跡のうちに刻み込まれました。このイエスの切々たる思いは、聖体祭儀が捧げられる度ごとに繰り返され、「時代は変わっても、聖体が過越の三日間におけるものと『時を超えて同一である』という神秘を実現」させました(「教会にいのちを与える聖体」5)。わたしたちは、聖体祭儀に与る度ごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の思いを同じように受け継ぎます。
イエスは、裂かれたパンこそが、「私のからだである」と宣言します。ぶどうは踏みつぶされてぶどう酒になっていきます。裂かれ、踏みつぶされるところ、そこに主はおられます。
だからこそヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」
パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、自らを犠牲として捧げるところに、主はおられます。自分を守ろうとするのではなく、隣人を思いやり、互いに支え合い、ともに歩むところに、主はおられます。
わたしたちは聖体祭儀に与る度ごとに、自らの身を裂き、踏みつぶされて、それでも愛する人類のために身をささげられた主の愛に思いを馳せ、それを心に刻み、その思いを自分のものとし、そして同じように実践していこうと決意します。イスラエルの民がそうであったように、わたしたちは、聖体祭儀に与るときに、常に旅立つ準備ができていなくてはなりません。
「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」希望の旅路に、歩み出す勇気を持つ者でありたいと思います。
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