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2025年4月18日 (金)

2025年聖なる三日間:聖金曜日主の受難

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聖金曜日には、通常のミサは捧げられません。多くの国では夕刻に、可能であれば午後3時頃に、主イエスが十字架上で最後の苦しみを受け、亡くなられ、葬られたことを憶えて、十字架を崇敬することを中心に据えた典礼がおこなれます。

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昨晩の、主の晩餐のミサには派遣の祝福がなく、聖体の行列と礼拝で静かに終わりました。協の典礼には始めも終わりもなく、沈黙のうちに始まり沈黙のうちに終わりました。明日の夜の復活徹夜祭も、ろうそくの祝別が特別な挨拶なしに始まります。つまり聖木曜から復活徹夜祭までは、一つに繋がった祈りの時なのです。主の受難と死と復活という、わたし達の信仰の根本にある出来事に思いをはせ、自らの信仰を新たにしましょう。

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以下、本日午後7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた主の受難の典礼での説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月18日

わたしたちの希望である救い主は、今日、愛する弟子たちに裏切られ、群衆からはあざけりを受け、独り見捨てられ、孤独のうちに、さらには十字架上での死に至るまでの苦しみという、心と身体への痛みに耐え抜かれようとされています。

わたしたちは、預言者イザヤが記す、「苦難の僕」についての預言の言葉を耳にしました。

「見るべき面影はなく、・・・彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」たと記すイザヤは、しかしそれだからこそ苦難の僕は、「多くの痛みを負い、病を知っている」と記します。神は、単にわたしたちとともに存在されただけでなく、ともに人生を歩むことでその悩みと苦しみを共にされました。

イザヤは、その苦しみは、「わたしたちの痛み」を負ったのであり、「わたしたちの咎のため」に彼は打ち砕かれ、その苦しみのためにわたしたちに平和が与えられ、その傷によって「わたしたちは、いやされた」と記します。救い主の十字架における苦しみは、わたしたちの平和のための、希望のための、罪のゆるしを願う捧げ物でありました。

今日の典礼は、十字架の傍らに聖母が佇まれ、その苦しみに心をあわせておられたことを、わたしたちに思い起こさせます。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母は、キリストと一致した生き方を通じて、わたしたちに霊的生活の模範を示されています。

教皇様は聖なる年、聖年を告知する大勅書「希望は欺かない」の終わりに、聖母について次のように記しています。

「神の母は、希望の最も偉大なあかし人です。この方を見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みの賜物であることが分かります。・・・無実のイエスが苦しみ死ぬのを見ている間、すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、はいと言い続けたのです(24)」

その上で教皇様は、「海の星(ステラ・マリス)・・この称号は、人生の荒波に中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼を持って希望し続けるように招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しています。

聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきた全人類を表現しています。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を示しています。先頭の人物は十字架をつかんでいます。足元には人生の旅に立ち向かう困難の荒波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は船の「いかり」の形をしており、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないようにしっかりと支えてくださっています。その人生の荒波にあって、希望の光を照らし続ける海の星、ステラ・マリスは、神の母マリアであります。聖母はわたしたちの希望の星です。

人生においてわたしたちは、様々な困難に直面します。人間の知恵と知識を持って乗り越えることのできる困難もあれば、時には今回ミャンマーを襲った大地震などの災害のように、人間の力ではどうしようもない苦しみも存在します。

今年2025年は、第二次世界大戦が終結してから80年となります。人類は過去の歴史から様々な教訓を学んでいるはずですが、残念ながらいまでも世界各地で武力による対立はやむことなく、ウクライナの戦争は続き、聖地ガザでの悲劇的な状況も終わらず、その他多くの地域で、神からの賜物であるいのちが暴力によって危機に直面させられています。

この事態は、しかし、自然災害ではありません。まさしく教皇ヨハネパウロ二世が1981年に広島から世界に呼びかけたように、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。暴力によっていのちを危機にさらしているのは、わたしたち人類であって、それを止めることができるのも、わたしたち人類自身であります。

いのちを賜物として与えてくださる神が人間を愛しているその愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を多くの人の罪の贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。聖母マリアは、イエスとともに歩むこの地上での時の終わりであるイエスの十字架上の苦しみに寄り添いました。聖母の人生は、完全に聖なる方にその身を委ねる人生でした。その身を委ねて、それに具体的に生きる前向きな人生でした。苦しみにあっても、御父に向かって、「お言葉通りにこの身になりますように」と、神にすべてを委ねる人生でした。すべてを神に委ねているからこそ、聖母マリアは海の星としてわたしたちを導く希望の光となりました。

苦しみの中で主は、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこのときから、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。わたしたちは聖母とともに十字架の傍らにたたずみ、御父が望まれる救いの計画が実現するようにと、神のみ旨にわたしたちを委ね続けます。

その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立ち続ける姿です。十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立ち続ける聖母マリアはその希望のしるしです。私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。聖母マリアに倣い主イエスの苦しみに心をあわせ、他者の喜びのために身を捧げ、神の秩序の実現のために、具体的に行動する人生を生きたいと思います。

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