« 週刊大司教第213回:キリストの聖体の主日C | トップページ | 週刊大司教第214回:聖ペトロ聖パウロの主日 »

2025年6月25日 (水)

80年目の沖縄慰霊の日

Okinawa2505

6月23日、沖縄慰霊の日にあたり、那覇教区が主催された第39回平和巡礼に、司教団と共に参加して参りました。

現地で合流した那覇教区のウェイン司教様と押川名誉司教様を加え、全国から15名の司教(うち枢機卿二人)が参加しました。

当日は、午前6時から、那覇空港に近い小禄教会で平和を祈願するミサを捧げ、わたしが司式と説教を担当いたしました。説教は特に、その前の週に開かれた司教総会で採択された80周年の平和メッセージについて紹介する中で、ちょうど悪化していたイスラエルとイランの対立と米国による介入の現実を踏まえ、改めて平和を確立するための決意を新たにしようと呼びかけるものとしました。

Okinawa2506

ミサ後、午前7時に小禄教会を出発して、摩文仁にある魂魄の塔を目的地に、約14キロの平和行進が始まりました。成井司教様、酒井司教様、アベイヤ司教様、中村大司教様は一緒に歩かれたと思います。(上の写真。手前は勝谷司教、真ん中は押川名誉司教。遙か前方には小中高生が。)

Okinawa2502

その他わたしを含め体力と自信のないものは、安里教会へ移動し、平和学習の講演に耳を傾け、その後ひめゆりの塔の駐車場まで移動して、そこから最後の部分の1.4キロほどを、一緒に歩かせていただきました。沖縄カトリック小学校の子どもたちや中学高校生も一緒の、力強い行進でした。(上の写真、歩くわたしと勝谷司教)

Okinawa2504

ちょうどこの日は、公式の式典の後に石破首相がひめゆりの塔を訪れることになったということで、東京から警視庁の機動隊の皆さんが派遣されてきていました。周囲は足立ナンバーの車両ばかりでしたので、フェリーなどで移送されたのでしょうか。

Okinawa2503

魂魄の塔前の様子はカトリックジャパンニュースに記されていますので、ご参照ください。

以下当日のミサの説教の原稿です。

沖縄慰霊の日 追悼・平和祈念ミサ
カトリック小禄教会
2025年6月23日

世界を巻き込んで多くの人のいのちを奪い、また多くの人のその後の人生の道筋を大きく変えた戦争が終結してから、今年で80年という節目の年を迎えました。

本日、6月23日は、沖縄慰霊の日であります。日本のカトリック司教団は、今日この沖縄の地にあって皆さんと一緒に祈りの時をともにできる機会をいただいたことに、感謝しています。と同時に、この地にあって祈りの時をともにする中で、あらためて平和を実現するために力を尽くす誓いを新たにする決意を強く心に抱いております。

この数日、イスラエルとイランに米国を加えて武力衝突が深まり、戦争が勃発するのではないかという不安と、核兵器の使用が取り沙汰されることへの懸念が世界中で広まっています。そのような現実の中で、先日帰天された教皇フランシスコが、2019年に長崎を訪問した際に述べられた言葉を思い起こしております。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられているにもかかわらず、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは天に対する絶え間のないテロ行為です」

さらに教皇は広島で、「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。・・・真の平和とは、非武装の平和以外にありえません」と力強く呼びかけられました。

どのような視点から見ても、人間の尊厳を損ない、神からの賜物であるいのちをないがしろにした暴力の嵐である戦争を、良しとすることはできないはずであります。そこに多くの涙と悲しみが生み出された事実を否定できる人はいないはずであります。長い時間が経過するにしたがって、その歴史の教訓を忘れ去り、再び同じおろかな行為をしないと誓ったその心の思いから目を背け、歴史の悲劇を美化しようとする向きさえあります。

あらためてわたしたちは、神から賜物として与えられたいのちの尊厳を守り抜く務めが創造主である御父から与えられていることを心に留め、いのちがその始まりから終わりまで、例外なく徹底的に守り抜くようにと、世界に向けて呼びかけたいと思います。

日本の司教団は、先日開催された司教総会の場で、戦後80年司教団メッセージ「平和を紡ぐ旅」を採択いたしました。副題として、「希望を携えて」を掲げております。時間の関係でその全文をここで朗読して紹介することができませんので、是非それぞれの手に取ってお読みいただければと思います。現在の日本のカトリック司教団の平和への思いの結実でもあり、特に若い世代のみなさんに呼びかけるメッセージでもあります。

メッセージの中で、司教団は日本被団協がノーベル平和賞を受賞した意義に触れ、「80年が経過した今、実際に戦争を経験した人は非常に少なくなってきています。だからこそ、わたし達は歴史的事実に向き合い、学び、記憶に留め、次世代に伝え、平和のために生かしていかなければなりません」と呼びかけました。

その上で、教皇フランシスコの広島におけることば、「思いだし、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です」を心に留めて、「若者のみなさんが広島や長崎、そして沖縄に、巡礼や平和学習の旅をなさるのはとても大切な、意義のあることです」と指摘しました。本日このように多くの方が沖縄の地に集まり、歴史の事実を思い起こし、ともに歩み将来へ伝え続けようとしていることには大きな意味があります。。

またこのメッセージの中では、沖縄や南西諸島の現実にも触れさせていただき、「沖縄の人々は、80年前の恐ろしい戦争の記憶、米軍基地に関連する様々な暴力事件に苦しみながらも、あくまで非暴力による平和アピールを続けてきました。戦争を二度と繰り返さないように。性暴力を含む基地由来の被害が二度と起こらないように。そう叫び続けてきたにもかかわらず、今また、ミサイル基地等が目の前に作られているのです。沖縄の年配の方々の間で、「戦争の準備をしている。」「戦争前と同じ歩みをしている。」そういう声が聞かれます」と記させていただきました。

戦争はあるとき急に宣言があって始まるものではなく、少しづつ忍び足で近づいてくるものです。その忍び足の足音に耳を澄ませ、暴力手解決を図ろうとする動きに明確にNOを突きつけなくてはなりません。

平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢をとり続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、いのちを暴力的に奪おうとするすべての行動に抗うことでもあります。

司教団メッセージでは核兵器の廃絶についても触れていますが、それとは別にわたしたち司教団は、核兵器廃絶についての宣言も今回の総会で採択しております。

こういった現代社会の現実の流れを踏まえたとき、わたしたち司教団は、あらためてわたしたちの主張する平和について、メッセージに記しました。

それは、「平和(シャローム)」は、もともと『欠けたところのない状態』という意味」であることを改めて強調し、したがって、「平和は、単に戦争や争いがない状態なのではなく、この世界が神の前に欠けるところのない状態、すなわち神が極めて良いものとして造られたこの世界のすべてが、それぞれ尊重され、調和のうちにある状態だ」と強調いたしました。そのためにも、常なる回心と対話の継続が不可欠です。平和とは、核兵器や武力の均衡によってもたらされるものではありません。

ひとり一人のいのちを守ることが最優先であると考えるのなら、武力の行使こそは、なんとしてでも避けるべきですが、実際にはそのような考えは非現実的だと批判されることもしばしばあります。非武装の平和を語ると、夢物語だと揶揄されることも珍しくありません。特にその傾向は、この数年の間に強まっていると感じます。

沖縄にとって、そして日本全体にとって、また世界にとって、平和を真摯に考え祈るために大切なこの日に、こうやって実際に沖縄の地に立ち、祈りを捧げるわたし達は、あらためて、神の平和がこの世界に実現することを願い、またそのためにわたし達一人一人が働き続けることを誓い、平和の源である神の祝福と導きに信頼しながら、声を上げ行動し続けて参りましょう。

 

| |

« 週刊大司教第213回:キリストの聖体の主日C | トップページ | 週刊大司教第214回:聖ペトロ聖パウロの主日 »

説教原稿」カテゴリの記事