« 2025年7月 | トップページ | 2025年9月 »

2025年8月30日 (土)

週刊大司教第222回:年間第22主日C

1756426071591

今年は八月の最後の日が日曜日となりました。年間第22主日です。

翌月曜日9月1日に始まって、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日まで、日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」と定めています。これは2019年に、「すべてのいのちを守るため」をテーマと掲げて教皇フランシスコが日本を訪問されたことを記念し記憶するために日本の教会が定めました。また世界の教会は、エキュメニカルなコンテキストの中で、この同じ期間を「被造物の季節」と定めています。今年は特に、2015年に教皇フランシスコが「ラウダート・シ」を発表されてから10年ですので、節目を祝うイベントが多く予定されています。

日本の司教協議会では、「ラウダート・シ部門」を設置しており、担当者である成井司教様から、メッセージが出ています。こちらのリンク先をご覧ください。また教皇レオ14世の被造物を大切にする世界祈願日にあたってのメッセージ、「平和と希望の種」は、こちらのリンクです

またラウダート・シ部門では、10月4日にシンポジウムを福岡で開催することになっており、こちらのリンクに詳細がありますが、オンラインでも参加いただけることになっています。

先日米国はミネソタ州ミネアポリスのカトリック教会で、学校の子どもたちが集まりミサを下げている場で銃による襲撃が起こり、二人の子どもが殺害されるという事件がありました。銃撃犯もその場で自死したと伝えられています。犯行の背景や具体的な動機など詳細には分からないことも多いので、予断を持って語ることは避けたいとは思います。しかし、いのちに対するこのような暴力的攻撃はゆるされてはなりません。

亡くなられた子どもたちの永遠の安息と、怪我をされた子どもたちの身体と心の癒やしを祈るとともに、あらためて、神からの賜物であるいのちに対する暴力は、どのような理由であれ、ゆるされないことを心に留めたいと思います。とりわけ、「すべてのいのちを守る月間」に入ろうとしているいま、それは単に環境保全活動を推奨しているのではなく、回心を求めていることを心に留め、神が愛を込めて創造されたすべての被造物の中でも特にご自分の似姿として創造され与えられたわたしたちのいのちを、徹底的に守り抜く決意を固めたいと思います。

9月3日には聖座とイタリアのルッカ大司教区の主催する大阪万博でのシンポジウムがあり、日本の司教団も招待されています。その機会を捉えて、シノドス特別チームでは、翌日に大阪で、司教団と教区のシノドス担当者を集め、シノドスのこれからの歩みについて学ぶ研修会を開催します。折しも、先のシノドスの総書記であったオロリッシュ枢機卿様もこのシンポジウムのために来日されることから、今回の研修会ではオロリッシュ枢機卿様に日本語で講演をしていただきます。シノドスの中心にいた方で、日本語で話ができるのはオロリッシュ枢機卿様だけですから、この機会を逃さず、いろいろと学び実践し、それを各教区でのシノドスのこれからの歩みにつなげていきたいと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第222回、年間第22主日のメッセージです。

年間第22主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第222回
2025年8月31日

ルカ福音は、イエスがファリサイ派のある議員の家で食事に招かれたときの話を記しています。集まってきた人たちが、多分は、我先にと名誉ある良い席に着こうとする姿を見て、イエスが「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」と語ったことを福音は記します。

人間関係においては謙遜さが重要だとするこの話は、それだけで終わっていたら、単にマナーを教える話にとどまってしまいます。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記し、ここでいう謙遜さはマナーではなく、人としての生き方の選択の話であることを明確にします。

すなわち、神の国に招かれるというのは、何かを成し遂げたことに対するご褒美なのではなく、どのような生き方を選択したかに基づく、神からの恵みであります。謙遜に生きることを選択した時、初めて神からの恵みとして、「さあ、もっと上席に進んでください」という招きがあるのです。何を成し遂げたかではなく、どう生きることを選択したのか。それが神の目には重要です。
その選択にあっては、賜物として与えられたすべてのいのちを神が愛おしく思われているからこそ、誰ひとりとして忘れ去られることはないという道を最優先にしなければならないことが、その続きの話によって示唆されます。

天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いのきずな、交わり、兄弟愛を深め、報いを期待せずに困難にある隣人に目を向けることが不可欠であると指摘されます。

高慢さの中にあって、困難に直面する隣人への視点を失ったところにはいのちがないと、イエスは指摘されています。

現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られたと、教皇フランシスコはたびたび指摘してきました。

教皇レオ14世は、先日の聖年の行事の一つ、青年の祝祭での晩の祈りで、青年たちにこう語りかけました。

「選択は、人間の根本的な行為です。・・・わたしたちが選択を行うとき、わたしたちはどのような者になりたいかを決断します。実際、優れた意味での選択とは、自分の人生に対する決断です。わたしはどのような人間になりたいのか。親愛なる若者の皆様。わたしたちは人生の試練を通して、そして、何よりもまず自分が選ばれたことを思い起こすことによって、選択することを学びます。・・・わたしたちはいのちを、自分で選ぶことなく、無償で与えられました。わたしたちの存在の起源にあるのは、自分の決断ではなく、わたしたちを望んだ愛です。わたしたちが行うように招かれた選択において、この恵みを認め、新たにすることをわたしたちの存在を通して助けてくれる人こそが、真の友です」

わたしたちの謙遜さは、社会の人間関係にあってのマナーではなく、神からまず愛されたのだという事実を認めることによる、神の前での謙遜さです。そのとき、同じく愛されたものとして、特に困難に直面する隣人への目が開かれます。危機に直面するいのちに対して、目が開かれます。わたしたちは同じいのちを与えられました。そのいのちが、神が求めた人生を豊かに充実して歩み、常に愛に満たされる社会を生み出していく努力を続けたいと思います。

 

| |

2025年8月23日 (土)

週刊大司教第221回:年間第21主日C

1755691132877

8月も後半に入り、年間第21主日となりました。暑い毎日が続いています。体調はいかがですか。東京では、朝晩やっと涼しさを感じるようになりましたが、それでも日中は熱帯のようです。

わたしは昔、若い頃に、アフリカのガーナで働いていましたが、日本の気候も熱帯のようになったと感じます。ガーナは赤道の少し北ですから、今の時期は夏、つまり雨期であります。雨期といっても朝から晩まで雨が降っているのではなく、いわゆるスコールというのか、一日の後半に、やにわに雲が湧き出してバケツをひっくり返したような雨が一時間くらい降り注いで、あとは晴れているような毎日でした。その雨が降っている間に、台風のような風が吹き荒れて、この時期には屋根を飛ばされる家も相次ぎました。なにか日本の夏も、そのような気候に変化しているように感じます。しかし、気温的には、ガーナの雨期の方が、遙かに涼しく感じます。

教皇様は世界の平和を祈るために、先日、天の元后聖母マリアの祝日である8月22日(金)に、平和のために断食と祈りを捧げるように呼びかけられました。「聖地、ウクライナ、また世界の他の多くの地域で、戦争によって傷つけられ続けて」いる現実を取り上げ、祈りを求められました。わたしたち日本の教会は、ちょうど平和旬間を終わったところですが、この日曜日、24日の主日には、是非とも世界の平和のためにともに祈りを捧げてくださるようにお願いします。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第221回、年間第21主日のメッセージです。

年間第21主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第221回
2025年8月24日

救いはどのようにして得られるのか。この問いかけは、時代や文化、また宗教の違いを超えて、人類に共通の課題の一つであります。

いのちの創造主であり、わたしたちに賜物としてこのいのちを与えてくださった神は、すべての人が救われることを望まれているのは確実です。ご自分が賜物として与えられたすべてのいのちを愛おしく思われる神は、その救いがすべての人におよぶことを望まれています。

「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約に記されています(119)。ですからキリストが語り行ったこと、すなわちイエス・キリストの福音が一人でも多くの人に伝わることは、神の望まれる救いの計画の実現のために不可欠であります。その意味でも、わたしたちの第一の使命は、福音をありとあらゆる手段を通じて、一人でも多くの人に告げ知らせることであります。救いはわたしだけのものではありません。

その救いの計画の中でわたしたちがなにもしないで、ただひたすらに自分の救いだけを待ち望んで、自分勝手に生きていたのであれば、果たしてそこに救いはあるのだろうかと、今日のルカ福音は問いかけています。

イエスは、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いに、直接には答えていません。なぜならば、救われるはずの者は、すべての人だからです。しかしせっかくのその「すべて」を、「少ない」者としてしまうのは、人間の怠惰と努力のなさであることをイエスは指摘します。「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉は、ともすれば苦難の道を避けて安楽な道を選んだり、準備を怠り無為無策に過ごしているわたしたちこそが、神からの救いへの招きに応えようとしていないのだという事実を指摘しています。

現代社会の象徴でもあるインターネット上でのインフルエンサーと呼ばれる人たちをローマに招いて、7月末に行われた聖年の行事で、教皇レオ14世は、デジタルコミュニケーションを通じて福音宣教することの重要性を説きながら、こう言われました。

「教会は、歴史を通じて文化的な挑戦を受けても、決して受け身な姿勢にとどまることはありませんでした。教会は、善と悪を識別することによって、すなわち、変化し、変容し、清めることを必要とするものから善を識別することによって、すべての時代をキリストの光と希望によって照らそうとつねに努めてきました」

その上で教皇レオ14世は、「単にコンテンツを生成することではなく、心の出会いを生み出すことです。そのために、苦しむ人、主を知ることを必要とする人を探し求めなければなりません。彼らが傷をいやし、自分の足で立ち上がり、人生に意味を見いだせるようになるためです。何よりもまず、このプロセスは、自分の貧しさを受け入れ、あらゆる偽りを捨て、自分自身が福音を本質的に必要としていることを認識することから始めなければなりません」と指摘されました。自分の利益や名誉のためではなく、他者の必要に目を向け、常に救いの福音をもたらすために行動することの重要性を強調されました。

わたしたちも、狭い門を避けるものではなく、困難への挑戦から目を背けず、隣人の必要に常に心の目を見開き、積極的に行動するものでありましょう。

 

| |

2025年8月21日 (木)

平和のために祈りましょう

1755759381407

教皇レオ14世は、8月20日の一般謁見の際に、世界の平和のために、特に聖地やウクライナでの平和のために、8月22日に断食と祈りを捧げるよう、次のように述べました。8月22日の金曜日は天の元后聖母マリアの記念日に当たります。(写真©東京大司教区)

「今週の金曜日の8月22日に、わたしたちは天の元后聖母マリアの記念日を祝います。マリアは地上での信者の母であるとともに、平和の元后としても祈り求められます。わたしたちの地上は、聖地、ウクライナ、また世界の他の多くの地域で、戦争によって傷つけられ続けています。そこでわたしは、8月22日を断食と祈りの日として過ごし、主がわたしたちに平和と正義を与え、引き続く武力紛争によって苦しむ人々の涙をぬぐい取ってくださるように祈るよう、すべての信者を招きます。平和の元后であるマリアよ、人々が平和への道を見いだすことができるように執り成してください。」

水曜日の呼びかけで直後の金曜日ですから、世界中の教会のすべての方に届くかどうか分かりませんが、22日が無理であれば、他の日でもかまいません。教皇様の意向に合わせて、是非平和のために祈りを捧げてくださるようにお願いします。

ウクライナには多少の進展が見られますが、まだ解決とはなっていません。また歴史的な背景があり、聖地の現状は簡単に解決できるような課題ではありません。それでもなお、神からの賜物であるいのちに暴力を持って襲いかかり、希望を奪い去ることは、どのような立場にあっても、認めることはできません。改めて平和のために祈りましょう。

教会は孤独のうちにある絶望ではなく、交わりのうちに生み出される希望をもたらす巡礼者でありたいと思います。

 

| |

2025年8月16日 (土)

週刊大司教第220回:年間第20主日C

2025heiwa04

8月も半ばを過ぎました。8月17日は年間第20主日です。

写真は、先日8月9日に行われた、東京教区としての平和旬間行事からです。

2025heiwa01

今年の東京教区平和旬間2025は、「平和を実現する人は幸い 戦後80年不戦の誓いをあらたに」をテーマに、8月9日の午後に教区としての行事を行いました。それ以外にも、小教区や宣教協力体で独自の行事を行っている共同体もあります。

2025heiwa03

教区行事はまず、午後1時からの講演会で、講師は、信徒の浜矩子さん(同志社大学名誉教授、エコノミスト)。演題は「戦後80年 キリスト者としての平和への新たな決意」

2025heiwa02

その後、わたしが司式し、多くの信徒、修道者、司祭の参加を得て平和祈願ミサ。その後、関口から目白駅まで平和行進が行われました。ご参加くださった皆さん、配信ミサに与りともに平和のために祈ってくださった皆さん、ありがとうございました。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第220回、年間第20主日のメッセージ原稿です。

年間第20主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第220回
2025年8月17日

争い事のない世界があれば、それは確かに良いことではあります。しかし争い事のない状況、つまりわたしたちが「平和だ」という状況が、本当の意味での「平和」の実現であるのかどうかは、定かではありません。なぜならば、真の平和の確立とは、神の秩序の実現を意味しているからです。例えば武力の脅威の均衡によって成り立っている平和が、単なる平穏な状況であって、神の平和の確立からはほど遠いことであると、教会は繰り返し指摘してきました。

神の目において人間が不完全である限り、時としてその「平和」は、誰かの人間の尊厳が不当に虐げられ、忘れさられることで成り立っている平穏さかもしれません。神の秩序を確立する行動は、居心地の悪さを生み出します。長年の人間関係の中で確立してきた既得権益を奪い取ろうとすることもあるためです。神からの賜物であるすべてのいのちがその尊厳を守られる世界を実現するためには、目を背けることではなく、世界を支配する価値観への挑戦が不可欠です。

ルカ福音は、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」というイエスの言葉を記しています。「平和をもたらすためにきたと思うのか。そうではない。・・・分裂だ」ともイエスは言われます。

イエスのこの言葉が、愛と赦しをかたるイエスの姿とはかけ離れて見えます。しかしそこにこそ福音の真髄が示されています。すなわち、福音においてイエスが語っている愛と赦しは、単なる人の優しさの話なのではありません。神の平和を確立するためのいのちをかけたコミットメントであり、既存の世界の価値観を根底から覆す、まさしく地上にもたらされる火こそが、神の平和の確立のためには不可欠であることを明確にしています。あの聖霊降臨の出来事は、騒々しく落ち着かない出来事でありました。聖霊の燃えさかる炎が広がっていくのであれば、それはこの世を支配する既成の価値観と対立するからにほかなりません。

教皇レオ14世は、7月末に行われた聖年の行事の一環である青年の祝祭において、世界中から集まった100万人を超える青年たちに、信仰に生きるのであれば具体的な行動をするように促しました。トール・ヴェルガータでの青年の祝祭ミサ説教で教皇は、「わたしたちは、すべてのものが予定され、固定された人生としてではなく、絶えずたまものと愛において新たに生まれる存在として造られている」と指摘され、わたしたちは「この世のいかなるものも満たすことのできないものへの、深い、燃えるような渇きを覚えて」いると指摘されます。その上で教皇は、「このような渇きを前に、効果のない代替物でこの渇きを鎮めようとして、自分の心をごまかしてはなりません。むしろ、この渇きに耳を傾けてください。つま先立ちする幼子のように、この渇きを、神と出会う窓に顔を出すためにその上で立ち上がる、足台としてください」と述べました。

さらに教皇は、その前晩の夕べの祈りで、「生き方を反省し、より人間らしい世界を築くために正義を追求してください。貧しい人に奉仕し、そこから、つねに隣人にしてほしいと望む善をあかししてください。聖体のうちにイエス・キリストと一致してください。永遠のいのちの源泉である至聖なる秘跡のうちにキリストを礼拝してください。イエスの模範に従って学び、働き、愛してください」と呼びかけられました。

わたしたちも現実から目をそらすことなく、イエスの模範に倣って、「学び、働き、愛」するものでありたいと思います。平穏な世界に満足せず、福音の実現のために、そして神の平和の確立のために行動し続けるものでありたいと思います。

| |

2025年8月15日 (金)

2025年聖母マリアの被昇天

1755221984346

8月15日は、聖母マリアの被昇天の祝日です。そして、日本では終戦記念日でもあります。さらには、元々はローマの殉教者である聖タルチシオの祝日でもあります。わたしの霊名でもあり、お祝いの言葉や霊的花束を多くの方からいただきました。みなさまのお心に、感謝いたします。(上の写真はローマ某所の祭壇下にある聖タルチシオの像。下は板橋教会の聖タルチシオ像の前です)

Img_20250110_114341970

中央協議会のホームページので解説には、「マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布しました」と記されています。全文はこちらのリンクから。なお8月15日が聖母の祝日になったことから、現在の暦では、聖タルチシオは8月12日に記念されていますが、それも近年のことですので、基本的にはもともとの8月15日をお祝いの日としています。また聖タルチシオは、3世紀頃の迫害の中で、とらわれた信徒へ運ぶご聖体を護って殉教したことから、侍者の保護の聖人となっています。

80年目の終戦記念日にあたり、戦争の犠牲となり亡くなられた数多の方々の永遠の安息のために、心から祈ります。あらためて戦争のない世界の実現のために祈り、今まさに世界の各地でおきているいのちへの暴力をやめるように呼びかけます。そして、すべての人間の尊厳が尊重される世界の実現のために祈り、語り、行動していく誓いを新たにしたいと思います。

8月6日から続いたカトリック教会の平和旬間は、今日、8月15日で終わりますが、平和への呼びかけは一年を通じて続けていかなくてはなりません。なぜなら神の望まれる世界は、いまだ実現する気配すらないからです。

以下、本日8月15日午後6時に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた聖母マリアの被昇天の祝日ミサの説教原稿です。

聖母マリアの被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年8月15日

「神の母は、希望の最も偉大なあかし人です」

教皇フランシスコは、いままさしく行われている聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」で、そう宣言されています。

教皇は続けて、「この方を見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みの賜物であることが分かります」と記しています。聖母マリアは人生の中の出会いや体験の中で、苦しみもがきながらも神の意志に常に従い、それによって大きな恵みに到達されました。

天使ガブリエルによる救い主の母となるという驚くべきお告げの出来事に始まって、ベトレヘムへの旅路、そして宿すら見つからない中での出産。その後、成長するイエスとともに歩む人生の旅路における様々な出来事、さらにはイエスの十字架上での苦しみに最後まで寄り添うことで、「すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、『はい』と言い続けた」聖母マリアは、地上でのいのちが終わった後に、身体も魂も、ともに天の国に引き上げられたことで、わたしたち人類すべての希望の星となりました。わたしたちひとり一人に、神の栄光に達するためには、どのように生きるべきなのかという道を指し示しているのは、聖母マリアです。その生き方に、神の前における謙遜に、そして主イエスとともに歩み続ける姿勢に、わたしたちのいのちを生きる希望の模範があります。

聖年の大勅書「希望は欺かない」で教皇フランシスコは、「民間の信心の中で、聖なるおとめマリアが「海の星(ステラ・マリス)」と呼ばれているのは偶然ではありません。この称号は、人生の荒波の中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼をもって希望し続けるよう招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しておられます。人生の荒波を生き抜こうとしているわたしたちにとって、聖母マリアは希望の光で照らし続ける海の星であります。

聖母マリアは平和の元后でもあります。エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げた讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画が実現された様が記されています。そこでは、この世界の常識や価値観は覆され、社会の中心ではなく周辺部に追いやられ、忘れ去られた人にこそ、神の目が注がれ、祝福が向けられていることが記されています。神の計画が実現し、神の定めた秩序が存在している世界こそ平和な世界でありますが、その平和な世界の実現を、すでに聖母マリアはマグニフィカトの中で高らかに歌い上げています。ですから聖母マリアは平和の元后であります。

聖母マリアの生きる姿勢から、教会は、社会から排除され忘れ去られて人々に目を向け、そこへと出向いていく教会であることを、つねに学び続けていると、教皇フランシスコは度々繰り返されました。

マグニフィカトの終わりには、こう記されています。

「その僕イスラエルを受け入れて、あわれみをお忘れになりません」

すなわち、神は自らが選ばれた民であるイスラエルとかつて交わした契約を忘れることなく、その業を必ずや成し遂げられると言うことです。キリストにおける新しい契約に生きている現代の神の民であるわたしたちにも、同じように、神が望まれる世界を生み出すための努力をすることが求められています。その道は、聖母マリアに倣って、神の「平和」を実現する道であります。

すべてのいのちの創造主である御父にとって、賜物として与えたすべてのいのちは、等しく愛を注ぐ対象であり、大切な存在です。賜物であるいのちは、神がそれほどの愛を注がれ、またご自分の似姿としての尊厳を与えられたからこそ、その始まりから終わりまで、すべからくその尊厳が守られ、大切にされなくてはならない存在です。わたしたちにはいのちを守り、その尊厳を守り抜く使命が与えられています。

しかし、世界全体を見れば、様々な状況の中で人間の尊厳は損なわれ、様々な方法を持っていのちに暴力が襲いかかっています。賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、すべての段階で、様々な暴力にさらされ続けています。社会から忘れ去られた状況の中で、かろうじていのちをつないでいる人も少なくありません。まるで価値がないものであるかのように見捨てられ、暴力的に奪われていくいのちもあります。

今この瞬間にも、例えば非人道的な攻撃にさらされているガザで、また先行きの見通せない戦争が続くウクライナで、そしてミャンマーや南スーダン、コンゴなどなど、目の前に迫るいのちの危機のただ中で、恐怖におびえながらいのちをかろうじてつないでいる多くの兄弟姉妹が存在します。あらためて、平和の元后である聖母の祝日に当たり、いのちに対する暴力を今すぐにやめ、人間の尊厳を守り抜くように、世界に向けて声を上げたいと思います。

8月6日から今日15日まで、日本の教会は、平和旬間を過ごしてきました。今年は日本が直面した最後の戦争が終わってから80年となります。この時期には、わたしたちが受けた戦争の被害に焦点が当てられますが、同時に戦争を行うことによって、多くの国、特にアジアの諸国に深い傷跡を残し、その地において多くの人のいのちを暴力的に奪ってしまったことも忘れるわけにはいきません。教皇ヨハネパウロ二世が広島でかつて言われたように、「戦争は人間の仕業です。戦争は死です」。だからこそわたしたち人間は、戦争という暴力を、再び現実としてはなりません。

どんなに時間が経過したとしても、起こった事実は変わりません。その事実を目の当たりにしたからこそ心に誓った願いは、どんなに時間が経過したとしても、変わることはないはずです。だからこそ、80年前の悲劇を記憶するこの日、わたしたちはあらためて起こった出来事の記憶を新たにし、その直後の誓いを新たにしなければなりません。過去に起こった出来事とその教訓を忘れ去ることは、時の流れを支配する神に対する不遜な行動です。

しかし近年、わたしたちは記憶が薄れることをいいことに、様々な理由をつけては、いのちに対する暴力を肯定する誘惑に駆られます。武力の行使を現実的選択だとまで言い始め、なかにはあれほどの惨禍を経験しているにもかかわらず、核武装の必要まで当たり前のことのように口にされるようになりました。

わたしたちの信仰の中心には、あの最後の晩餐の席で主イエスご自身が、「わたしの記念としてこれを行え」と命じられたように、連綿と伝え続けられている記憶があります。時間の流れの中で薄められ忘れられてはならない記憶です。記憶を伝え続けることの大切さを十分に知っているわたしたちだからこそ、教会は、平和の確立のために戦争の記憶を伝え続けることを放棄することはできません。

希望の聖年において巡礼の歩みを続けているわたしたちは、暴力による絶望をもたらす道ではなく、神の意志に従い希望を生み出す道をしっかりと見いだし、わたしたちの希望の星である聖母マリアの光に導かれながら、神の平和の実現のために力を尽くしていきたいと思います。

| |

2025年8月 9日 (土)

2025年平和旬間:広島、そして東京教区平和祈願ミサ

2025hiroshima01

日本の教会は毎年、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。今年は特に戦後80年の節目の年であり、それは同時に、広島と長崎での原爆投下の80年でもあります。

今年の平和旬間を前に、先日、6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、日本のカトリック司教団はまず、80年の平和メッセージを採択しました。そのタイトルを「平和を紡ぐ旅、平和を携えて」といたしました。全文はこちらのリンク先の中央協議会ホームページにあります。是非ご一読ください。

さらに司教団は、核兵器廃絶宣言も採択いたしました。全文はこちらのリンク先です

2025hiroshima04

今年の平和旬間には、米国の司教団からお二人の枢機卿様とお二人の大司教様、そして大勢の巡礼団がおいでになり、広島と長崎での平和行事に参加されています。シカゴのスーピッチ枢機卿、首都ワシントンのマッケロイ枢機卿、サンタフェのウェスター大司教、シアトルのエティエンヌ大司教の四名が来日され、8月5日の昼から、エリザベト音楽大学のホールを会場に、被団協のノーベル平和賞受賞の祝賀式、引き続いて、核兵器廃絶を呼びかける日本、米国、韓国の司教有志が集まって、シンポジウムを開催し、終わりに平和宣言を発表しました。今年の広島教区の平和行事のテーマは、「原爆投下80年 平和への希望を新たに ~核廃絶をわたしたちはあきらめない~」です。

この後に、世界平和記念聖堂(広島教区カテドラル)に移動し、平和祈願ミサを捧げました。わたしはこのミサの司式と説教を担当させていただきました。また教皇レオ14世から送られた平和メッセージが、教皇大使によって朗読されました。メッセージ全文はこちらです

2025hiroshima06

翌朝、広島に原爆が投下されて80年目の朝、8時から世界平和記念聖堂に多くの方々、修道者、司祭と共に、あらためて日米韓の司教有志が集まり、投下時間に黙祷を捧げた後、白浜司教の司式でミサが行われました。なおこのミサの説教は、シカゴのスーピッチ枢機卿です。

どちらのミサも映像を、カトリック広島教区「平和の使徒推進本部」のYoutubeチャネルでご覧いただけます。

 今回お祝いを申し上げ、また協働していくことを誓った被団協のノーベル平和賞受賞ですが、司教団の80周年平和メッセージでは、次のように指摘いたしました。

「日本被団協のノーベル平和賞受賞は、世界が核兵器使用の脅威の中で「核抑止」から抜け出し、核兵器廃絶に向かうための大きな一歩です。・・・今回の受賞が、核兵器のない世界に向けた希望の灯となるように祈るとともに、世界と日本政府がこの「時のしるし」を深く心に留め、一刻も早く核兵器禁止条約の署名・批准に向けて行動することを強く求めます」

 教皇フランシスコが指摘されたように、核兵器を使用することだけでなく保持することにさえ倫理的な問題があることを同じように指摘し、平和のためにという口実でいのちに対する暴力を行使することを認めず、神からの賜物であるいのちの尊厳が、その始めから終わりまで護られ尊重される世界の確立を目指したいと思います。

東京教区の平和旬間行事は、基本的にはそれぞれの小教区や宣教協力体で行われますが、教区全体の行事としては、本日8月9日午後1時から、同志社大学名誉教授でエコノミストの浜矩子さんを迎え、『戦後80年キリスト者としての平和への新たな決意』と言うテーマで講演をいただきました。浜矩子さんは東京教区の信徒です。その後、質疑応答を経て、午後3時半から、大勢の方が参加する中で、わたしが司式して平和祈願ミサを捧げました。ミサ終了後、有志の方々が、カテドラルから目白駅まで、平和ウォークをされました。参加された多くの皆さん、ありがとうございます。

以下、本日8月9日、長崎の原爆忌の日に東京教区で行われた、その平和祈願ミサの、説教原稿を掲載します。

平和祈願ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年8月9日

心に深く刻み込まれた戦争の記憶は、多くの人がそれを共有してきた時代に、同じ過ちを繰り返してはならないという誓いを常に新たにする原動力となってきました。ところが戦争が終結してから80年という時の流れのなかで、実際に戦争を体験したことのない世代が増え、伝えられなくてはならないその記憶を少しでも薄めよう、忘れようとする力が働いています。いまでは、国家間の対立を解決するためには、まず武力の行使も仕方がない、いや外交努力は武力の行使によってこそ強められるという考えまでが、現実的な選択だと言われるようになりました。

現代を生きているわたしたちは、あたかも過去の歴史に対して敬意を払うことなく、それをなかったこととして忘れ去ろうとし続けているかのようであります。

人間のいのちを暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。わたしたちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、間違いなのではなくて、それがわたしたちの本当の姿なのかもしれません。いまもまた、わたしたち人類は、様々な正当化の理由の元、例えばガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、すさまじいいのちの危機が続いているにもかかわらず、それを止めるすべを持ちません。コロナ禍で始まったウクライナでの戦争で、どれほど多くのいのちが奪われても、それを止めるすべを持ちません。同じくコロナ禍で起こったミャンマーでのクーデターでは、その後の混乱が、平和を求める教会の叫びにまで襲いかかり、絶望を生み出し続けています。それどことか近隣のタイとカンボジアで、武力による衝突まで起きています。

どんなに時間が経過したとしても、起こった事実は変わりません。その事実を目の当たりにしたからこそ心に誓った願いは、どんなに時間が経過したとしても、変わることはありません。だからこそ、80年前の悲劇を記憶し平和を祈るこの10日間、特に今日は長崎の原爆忌ですが、わたしたちはあらためて起こった出来事の記憶を新たにし、その直後の誓いを新たにしつづけなくてはなりません。過去に起こった出来事とその教訓を忘れ去ることは、時の流れを支配する神に対する不遜な行動です。

わたしたちの信仰の中心には、あの最後の晩餐の席で主イエスご自身が、「わたしの記念としてこれを行え」と命じられたように、連綿と伝え続けられている記憶があります。時間の流れの中で薄められ忘れられてはならない記憶です。わたしたちの信仰は、最初にあった出来事を記憶し、それを次の世代へと連綿と伝え続ける信仰です。記憶を伝え続けることの大切さを十分に知っているキリスト者だからこそ、教会は、平和の確立のために戦争の記憶を伝え続けることを放棄することはできません。

日本のカトリック司教団は戦後80年にあたり、先日6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、「平和を紡ぐ旅 -希望を携えて-」と題する平和メッセージを採択しました。

その冒頭でわたしたち司教団は、教皇フランシスコの広島での言葉、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません」を、引用いたしました。

わたしたちは歴史的事実に誠実に向き合い、謙虚に学び、深く心と記憶にとどめ、さらには次の世代に確実にそれを伝え、その上で、この世界において神の平和を確立するための努力を続けていかなくてはなりません。

80年以上前に広島、長崎で、また日本各地、さらに世界各地で起こった戦争と核爆弾によるいのちの悲劇。それを実際に体験した多くの方にとっては、どんなに時間がたっても、その出来事はいのちに対して襲いかかった暴力という負の力として、心に深く刻み込まれ、忘れ去られることはないものと思います。

わたしたちは記憶が薄れることをいいことに、さらには時間の経過とともに実体験として暴力の記憶を心に刻みこんだ人が少なくなることをいいことに、様々な理由を見つけてきてはいのちに対する暴力を肯定する誘惑に駆られます。そのような弱いわたしたちに対して、教皇フランシスコは力強く挑戦状を突きつけました。

2019年、広島で「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」といわれました。

使うことだけではなくて、使いたいという誘惑にわたしたちを駆り立てる核兵器の所有でさえ、倫理に反していると断言されました。

この呼びかけは夢物語なのでしょうか。非現実的なのでしょうか。平和を確立しようと声を上げるたびに、冷ややかな批判の声が聞こえてきます。夢物語を語るな。現実を直視せよ。

はたして、核兵器のない世界の実現を、そして平和に対する呼びかけを、もしも夢物語であり、非現実的だというのであれば、福音に記されたイエスの言葉は、まさしく夢物語です。

「心の貧しい人々。悲しむ人々。柔和な人々。義に飢え乾く人々。あわれみ深い人々。心の清い人々。平和を実現する人々。義のために迫害される人々」を幸いだと言われる主の言葉を、夢物語にするのか、現実とするのか。それは、わたしたちの決断にかかっています。主イエスの言葉を現実のものとするために、罵られ、迫害され、悪口を浴びせられるのか、それを避けようとするのか。主は、前者こそが幸いであると言われます。わたしたちはどちらを選択するのでしょうか。

ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は、冒頭で、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる方法で、そして口実で、神からの賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物であるいのちはその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るのは、わたしたちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

平和旬間にあたり、あらためてわたしたちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。伝えるべき記憶をしっかりと伝え続けるものでありましょう。神の支配が確立するように、働くものでありましょう。 

| |

2025年8月 2日 (土)

週刊大司教第219回:年間第18主日C


2025caritasyouth11

年間第18主日です。すでに8月に入りました。暑さが続く中、皆さん体調は大丈夫ですか。わたしは今週はローマにおります。今年の聖年の中での青年の祝祭が行われており、ローマ市内は世界各国から集まった青年たちであふれかえっています。その中には日本からの60名近い青年たちもいます。東京よりは少しだけ涼しく、朝晩は心地よさも感じるローマですが、先週までは猛暑だったようで、ちょうどこの青年の祝祭にあわせて少し涼しくなってくれたようです。それでも十分暑い中、青年たちはローマ市内を徒歩で、またバスで、巡礼を続けています。

明日日曜日の午前中に行われる青年の祝祭のミサは、ローマ郊外にあるTor Vergataというところの競技場で、これは2000年の大聖年のときのWYDで教皇ヨハネパウロ2世のミサが行われた場所と聞いています。参加する青年たちは、今夜、土曜の夜は近隣で野宿だということです。同行している司祭や修道者のリーダーも、一緒に野宿だということ。100万人近くが集まるということなので、参加者の健康を祈ります。朝晩は涼しいとはいえ、ローマは真夏の暑さです。

2025caritasyouth07

ローマ市内の教会には、至る所で青年の祝祭のサイドイベントが、ありとあらゆる教会関係の団体によって行われており、聖堂内は涼しいこともあって、ローマ中の教会が青年たちであふれかえっています。

今週は、国際カリタスも、この聖年の行事にあわせて、サイドイベントを行っています。バチカン近くでブースを出して、現在行っている債務を希望に変えようというキャンペーンの署名を求め、青年たちがカリタスの活動に参加するようにアピールしています。

Messenger_creation_b2d652e0d7e94313b5ec7

またこれにあわせて、すでに先週、世界各地から集まった青年たちの代表50名ほどによる交流行事が行われました。そして今週はその青年たちの中のリーダーたち25名ほどがローマに残り、国債カリタス本部の事務局職員も交えて、様々に交流を続けています。アジアからも、カリタスアジアの事務局、ミャンマー、シンガポール、韓国、香港などから青年のリーダーが参加しています。

2025caritasyouth10

この水曜日、7月30日の午後には、国際カリタス本部のあるサンカリスト宮殿隣にあるトラステベレの聖マリア聖堂で、青年たちのミサを行いました。わたしはその司式をさせていただきました。ミサ後にはサンカリスト宮殿(バチカンのローマ市内にある飛び地です)の中庭で、青年リーダーたちの交流会も行い、一緒に参加して、様々なゲームにも一緒させていただきました。

またわたしは、これに合わせて総合的人間開発省や福音宣教省、そして国務省とのカリタスの活動についての打ち合わせの予定が入りましたので、毎日動き回っています。なお広島での8月5日の平和祈願ミサを司式することにもなっているので、それまでには日本に戻ります。

2025caritasyouth06

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第219回、年間第18主日のメッセージです。

年間第18主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第219回
2025年8月03日

今年は2015年に教皇フランシスコが、回勅「ラウダート・シ」を発表してから10年となる節目の年です。司教団のラウダート・シ部門でも、9月の「すべてのいのちを守るための月間」に、エコロジカルな霊性をテーマとしたシンポジウムを計画していると聞いています。

またアジア司教協議会連盟(FABC)は、中央委員会が開催された今年の3月15日付けで、「被造界のケアについて、エコロジカルな回心の呼びかけ」と言う文書を発表し、アジアの教会に今一度「ラウダート・シ」の精神を振り返るように呼びかけています。

この呼びかけの中でアジアの司教たちは、「人間的な無関心、虐待、乱開発の重荷により被造界が」苦しんでいるいくつかの事例を掲げた後に、「この聖年という時期にあたり、こうした苦難は、わたしたちが悔い改め、回心し、神の創造のみわざの管理者としての共同責任をより堅固な決意をもって引き受けるよう」呼びかけています。

教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」が引き裂かれることが罪なのだと語る中で、こう記していました。

「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました」(66)

罪の状態の根源にあるのは、人間の思い上がりと、関係の断絶です。

ルカ福音は、自らのために蓄財しようと、新しく大きな蔵を建てようとしている金持ちのたとえ話を記しています。この世の価値観の典型である自分のための蓄財行為に対して、神は「愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる」と、あたかも自分のいのちをコントロールするのは自分自身であるかのように錯覚している人間に対して、その思い上がりを指摘します。まさしく、「図々しくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒む」この人間の行動は、神の前の真の豊かさとは無縁であります。

環境破壊に限らず、神からの究極の賜物であるこのいのちに対する暴力的な攻撃のすべては、あたかもこの世界をコントロールするのは自分だという思い込みに支配され、この世の富と繁栄に目と心を奪われ、結果として神との関係を断絶し、隣人との関係を断絶し、被造界との関係を断絶するわたしたちの慢心にその源があります。

その意味で「ラウダート・シ」に記された環境問題への教会の取り組みとエコロジカルな回心の勧めは、環境問題にとどまることなく、この世界に神の秩序を打ち立てること、すなわち平和の確立にも繋がります。

今週は8月6日の広島の原爆忌から始まり、8月9日の長崎を経て、8月15日まで、日本の教会は平和旬間を迎えます。平和を求めることは、この共通の家である地球を大切にし、神との関係、隣人との関係、被造界との関係を正しく戻そうとする行動でもあります。

教皇レオ14世の、7月9日のカステル・ガンドルフォでのミサ説教の言葉です。

「被造物を守り、平和と和解をもたらすというわたしたちの使命は、イエスご自身の使命です。それは、主がわたしたちにゆだねた使命です。わたしたちは地の叫び声を聞きます。貧しい人々の叫び声を聞きます。・・・わたしたちのわざは、神のわざです。」

与えられた使命を謙遜に忠実に果たすものでありましょう。

| |

« 2025年7月 | トップページ | 2025年9月 »