2025年平和旬間:広島、そして東京教区平和祈願ミサ
日本の教会は毎年、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。今年は特に戦後80年の節目の年であり、それは同時に、広島と長崎での原爆投下の80年でもあります。
今年の平和旬間を前に、先日、6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、日本のカトリック司教団はまず、80年の平和メッセージを採択しました。そのタイトルを「平和を紡ぐ旅、平和を携えて」といたしました。全文はこちらのリンク先の中央協議会ホームページにあります。是非ご一読ください。
さらに司教団は、核兵器廃絶宣言も採択いたしました。全文はこちらのリンク先です。
今年の平和旬間には、米国の司教団からお二人の枢機卿様とお二人の大司教様、そして大勢の巡礼団がおいでになり、広島と長崎での平和行事に参加されています。シカゴのスーピッチ枢機卿、首都ワシントンのマッケロイ枢機卿、サンタフェのウェスター大司教、シアトルのエティエンヌ大司教の四名が来日され、8月5日の昼から、エリザベト音楽大学のホールを会場に、被団協のノーベル平和賞受賞の祝賀式、引き続いて、核兵器廃絶を呼びかける日本、米国、韓国の司教有志が集まって、シンポジウムを開催し、終わりに平和宣言を発表しました。今年の広島教区の平和行事のテーマは、「原爆投下80年 平和への希望を新たに ~核廃絶をわたしたちはあきらめない~」です。
この後に、世界平和記念聖堂(広島教区カテドラル)に移動し、平和祈願ミサを捧げました。わたしはこのミサの司式と説教を担当させていただきました。また教皇レオ14世から送られた平和メッセージが、教皇大使によって朗読されました。メッセージ全文はこちらです。
翌朝、広島に原爆が投下されて80年目の朝、8時から世界平和記念聖堂に多くの方々、修道者、司祭と共に、あらためて日米韓の司教有志が集まり、投下時間に黙祷を捧げた後、白浜司教の司式でミサが行われました。なおこのミサの説教は、シカゴのスーピッチ枢機卿です。
どちらのミサも映像を、カトリック広島教区「平和の使徒推進本部」のYoutubeチャネルでご覧いただけます。
今回お祝いを申し上げ、また協働していくことを誓った被団協のノーベル平和賞受賞ですが、司教団の80周年平和メッセージでは、次のように指摘いたしました。
「日本被団協のノーベル平和賞受賞は、世界が核兵器使用の脅威の中で「核抑止」から抜け出し、核兵器廃絶に向かうための大きな一歩です。・・・今回の受賞が、核兵器のない世界に向けた希望の灯となるように祈るとともに、世界と日本政府がこの「時のしるし」を深く心に留め、一刻も早く核兵器禁止条約の署名・批准に向けて行動することを強く求めます」
教皇フランシスコが指摘されたように、核兵器を使用することだけでなく保持することにさえ倫理的な問題があることを同じように指摘し、平和のためにという口実でいのちに対する暴力を行使することを認めず、神からの賜物であるいのちの尊厳が、その始めから終わりまで護られ尊重される世界の確立を目指したいと思います。
東京教区の平和旬間行事は、基本的にはそれぞれの小教区や宣教協力体で行われますが、教区全体の行事としては、本日8月9日午後1時から、同志社大学名誉教授でエコノミストの浜矩子さんを迎え、『戦後80年キリスト者としての平和への新たな決意』と言うテーマで講演をいただきました。浜矩子さんは東京教区の信徒です。その後、質疑応答を経て、午後3時半から、大勢の方が参加する中で、わたしが司式して平和祈願ミサを捧げました。ミサ終了後、有志の方々が、カテドラルから目白駅まで、平和ウォークをされました。参加された多くの皆さん、ありがとうございます。
以下、本日8月9日、長崎の原爆忌の日に東京教区で行われた、その平和祈願ミサの、説教原稿を掲載します。
平和祈願ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年8月9日心に深く刻み込まれた戦争の記憶は、多くの人がそれを共有してきた時代に、同じ過ちを繰り返してはならないという誓いを常に新たにする原動力となってきました。ところが戦争が終結してから80年という時の流れのなかで、実際に戦争を体験したことのない世代が増え、伝えられなくてはならないその記憶を少しでも薄めよう、忘れようとする力が働いています。いまでは、国家間の対立を解決するためには、まず武力の行使も仕方がない、いや外交努力は武力の行使によってこそ強められるという考えまでが、現実的な選択だと言われるようになりました。
現代を生きているわたしたちは、あたかも過去の歴史に対して敬意を払うことなく、それをなかったこととして忘れ去ろうとし続けているかのようであります。
人間のいのちを暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。わたしたちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、間違いなのではなくて、それがわたしたちの本当の姿なのかもしれません。いまもまた、わたしたち人類は、様々な正当化の理由の元、例えばガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、すさまじいいのちの危機が続いているにもかかわらず、それを止めるすべを持ちません。コロナ禍で始まったウクライナでの戦争で、どれほど多くのいのちが奪われても、それを止めるすべを持ちません。同じくコロナ禍で起こったミャンマーでのクーデターでは、その後の混乱が、平和を求める教会の叫びにまで襲いかかり、絶望を生み出し続けています。それどことか近隣のタイとカンボジアで、武力による衝突まで起きています。
どんなに時間が経過したとしても、起こった事実は変わりません。その事実を目の当たりにしたからこそ心に誓った願いは、どんなに時間が経過したとしても、変わることはありません。だからこそ、80年前の悲劇を記憶し平和を祈るこの10日間、特に今日は長崎の原爆忌ですが、わたしたちはあらためて起こった出来事の記憶を新たにし、その直後の誓いを新たにしつづけなくてはなりません。過去に起こった出来事とその教訓を忘れ去ることは、時の流れを支配する神に対する不遜な行動です。
わたしたちの信仰の中心には、あの最後の晩餐の席で主イエスご自身が、「わたしの記念としてこれを行え」と命じられたように、連綿と伝え続けられている記憶があります。時間の流れの中で薄められ忘れられてはならない記憶です。わたしたちの信仰は、最初にあった出来事を記憶し、それを次の世代へと連綿と伝え続ける信仰です。記憶を伝え続けることの大切さを十分に知っているキリスト者だからこそ、教会は、平和の確立のために戦争の記憶を伝え続けることを放棄することはできません。
日本のカトリック司教団は戦後80年にあたり、先日6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、「平和を紡ぐ旅 -希望を携えて-」と題する平和メッセージを採択しました。
その冒頭でわたしたち司教団は、教皇フランシスコの広島での言葉、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません」を、引用いたしました。
わたしたちは歴史的事実に誠実に向き合い、謙虚に学び、深く心と記憶にとどめ、さらには次の世代に確実にそれを伝え、その上で、この世界において神の平和を確立するための努力を続けていかなくてはなりません。
80年以上前に広島、長崎で、また日本各地、さらに世界各地で起こった戦争と核爆弾によるいのちの悲劇。それを実際に体験した多くの方にとっては、どんなに時間がたっても、その出来事はいのちに対して襲いかかった暴力という負の力として、心に深く刻み込まれ、忘れ去られることはないものと思います。
わたしたちは記憶が薄れることをいいことに、さらには時間の経過とともに実体験として暴力の記憶を心に刻みこんだ人が少なくなることをいいことに、様々な理由を見つけてきてはいのちに対する暴力を肯定する誘惑に駆られます。そのような弱いわたしたちに対して、教皇フランシスコは力強く挑戦状を突きつけました。
2019年、広島で「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」といわれました。
使うことだけではなくて、使いたいという誘惑にわたしたちを駆り立てる核兵器の所有でさえ、倫理に反していると断言されました。
この呼びかけは夢物語なのでしょうか。非現実的なのでしょうか。平和を確立しようと声を上げるたびに、冷ややかな批判の声が聞こえてきます。夢物語を語るな。現実を直視せよ。
はたして、核兵器のない世界の実現を、そして平和に対する呼びかけを、もしも夢物語であり、非現実的だというのであれば、福音に記されたイエスの言葉は、まさしく夢物語です。
「心の貧しい人々。悲しむ人々。柔和な人々。義に飢え乾く人々。あわれみ深い人々。心の清い人々。平和を実現する人々。義のために迫害される人々」を幸いだと言われる主の言葉を、夢物語にするのか、現実とするのか。それは、わたしたちの決断にかかっています。主イエスの言葉を現実のものとするために、罵られ、迫害され、悪口を浴びせられるのか、それを避けようとするのか。主は、前者こそが幸いであると言われます。わたしたちはどちらを選択するのでしょうか。
ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は、冒頭で、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。
はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる方法で、そして口実で、神からの賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物であるいのちはその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。
神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るのは、わたしたちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。
平和旬間にあたり、あらためてわたしたちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。伝えるべき記憶をしっかりと伝え続けるものでありましょう。神の支配が確立するように、働くものでありましょう。
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