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2025年9月27日 (土)

週刊大司教226回:年間第26主日C

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九月最後の日曜日となりました。年間第26主日にあたるこの日、9月最後の主日を、教会は世界難民移住移動者の日と定めています。

この日にあたっての教皇レオ14世のメッセージは、「移住者ー希望の宣教者」をテーマとしています。こちらのリンクから全文をお読みいただけます。メッセージの中で教皇レオ14世は、次のように指摘しています。

「多くの移住者、難民、避難民は、彼らが神に身をゆだね、未来のために逆境に耐えることを通して、日々の生活の中で生きる希望の特別な証人となっています。彼らはこの未来の中に、幸福と総合的な人間的発展が近づくのを垣間見るからです。彼らにおいてイスラエルの民の旅の経験が繰り返されます」

教皇様は、教会は神の民として旅を続ける存在であることを、難民や移住者の存在によって思い起こさせられており、教会が歩みを止めてある一点にとどまるときに神ではなく世に属する者となるとして、次のように記します。

「移住者と難民は教会に、自らの巡礼者としての側面を思い起こさせてくれます。教会は、対神徳である希望に支えられながら、最終的な祖国に到達することを目指してたえず歩み続けるからです。教会は、「定住」の誘惑に屈し、「旅する国」(civitas peregrina)――天の祖国を目指して旅する神の民(アウグスティヌス『神の国』[De civitate Dei, Libro XIV-XVI]参照)――であることをやめるとき、「世にある」者であることをやめ、「世に属する」者となるのです」

こう述べた後で、教皇様は、信徒として移住する人たちや難民の方々の存在に焦点を当て、彼らが福音を告げる宣教者であるとして、次のように記しています。

「とくにカトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです」

国連難民高等弁務官事務所によれば、現在四千万人を超える人が国境を越えて難民となり、さらには七千万人の人が自国内での避難民となっています。国連によれば、この数は10年前と比較しても倍増していると言います。

現時点で国際カリタスは、それぞれの国のカリタスを通じて、カトリック教会として難民の方々の支援や救援を行っています。もちろん現時点ではウクライナやガザの状況は困難を極め、とりわけガザでは虐殺とも言うべき状況が継続しています。神から賜物として与えられたこのいのちの尊厳が損なわれる状況を、教会は見過ごすことはできません。国際カリタスは聖座と共に、あらゆるチャンネルを通じて、停戦の実現と人道支援の強化を求め続けています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第226回、年間第26主日のメッセージです。

年間第26主日C
週刊大司教第226回
2025年9月28日

10年前にエコロジカルな回心を問う「ラーダート・シ」を発表された教皇フランシスコは、その中で、「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります(205)」と指摘されていました。10年が経過して、その状況は全く改善していません。

教会は9月最後の主日を、世界難民移住移動者の日と定めています。この日にあたり教皇レオ14世は、「移住者――希望の宣教者」と題したメッセージを発表されています。

その中で教皇は、「現代の世界情勢は、残念ながら、戦争と暴力と不正と異常気象によって特徴づけられています。そのため何百万もの人々が故郷を離れ別の土地に避難することを余儀なくされています」と現状を指摘し、世にはびこる利己主義的価値観を踏まえて、「限られた共同体の利潤のみを求める一般的な傾向は、責任の共有、多国間の協力、共通善の実現、人類家族全体のための国際的な連帯に対して深刻な脅威となっています」と指摘しています。

ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人は存在する場所すらありません。自分の利益しか眼中にない生き方の姿勢を捨てることができないからです。死後の苦しみの中で神の裁きに直面するときでさえ、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期におよんでもラザロを自分の目的のために利用しようとします。

教皇フランシスコは、わたしたちがこころの扉を開いて、出向いていく教会であることが、集団的利己主義から脱却する道であることを繰り返し指摘し、そのためにこそ、教会はシノドスの道を歩みながら、互いに支え合い、隣人の叫びに耳を傾け、祈り合いながら、神に向かって歩み続けることこそが不可欠であることを強調されました。

希望の巡礼者として聖年の歩みを続けているわたしたちに、教皇レオ14世は、先ほどのメッセージの中で次のような指摘をされて、移住者と難民こそがそのような社会のただ中で、希望の宣教者となるのだと指摘しています。

教皇は、「カトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです。実際、彼らは、その霊的な熱意と活力によって、硬直化し、不活発になった教会共同体を活性化することに貢献できます」と述べています。

わたしたちはこの現代社会の中で、希望を掲げながら旅を続ける宣教者です。FABC50周年の文書には、「宣教は、教皇フランシスコが「自己中心の姿勢」と呼ぶものへと向かうわたしたちの傾向の対極にあるものです。自己中心的になるのは、わたしたちは自分自身のために存在するのではなく、むしろ世界のために存在するのだということを忘れてしまうときです」という指摘があります。

わたしたちがこころの扉を開いて、出向いていく教会であり続けることができるように、イエスの呼びかけに耳を傾けて歩み続けましょう。

 

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2025年9月20日 (土)

週刊大司教第225回:年間第25主日C

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9月も半ばを過ぎ、暑さの続いた東京も少し秋の気配を感じるようになってきました。9月21日は、年間第25主日です。

2004年9月20日、いまから21年前に、新潟において司教叙階を受け、新潟教区司教となりました。その日は、岡田大司教様が主式の司教叙階式でした(下の写真)。この21年の間、2004年から2017年までは新潟で、またその間、2009年から2013年までは札幌を兼任し、そして2017年末からは岡田大司教様から引き継いで、東京教区の大司教を務めさせていただいております。この間、多くの方々のお祈りと励ましをいただき、務めをなんとか果たすことができてきました。

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教区司教としての務め、またカリタスやアジア司教協議会などの務め、日本の司教協議会での務めなどなど、様々な務めを果たしていく中で、多くの方の助けと協力をいただいてきたことに感謝いたします。皆さん、本当にありがとうございます。

まだこれから数年はこの務めを続けていくことになるだろうと想定しています。もっとも、すべては神様の計画ですからどうなるのかは分かりませんけれど、これからも与えられた場で求められる務めをふさわしく果たしていくことができるように、みなさまの助けと協力とお祈りをお願い申し上げます。これからも、どうぞよろしくお願い致します。

これまでも繰り返し説教などの機会に触れてきましたが、聖地の状況はますます混迷を深めています。歴史的な背景から生み出される課題の政治的な解決は一朝一夕では得られないのは、聖地をはじめとする中東地域の複雑な現実ですが、教会の立場からは政治的意図の違いを超えて、まず第一に神から与えられた賜物であるいのちを、すべからく守ることを基本として、声を上げ続けます。いのちは例外なくすべてが、その始まりから終わりまで護られ、神から与えられた人間の尊厳が尊重されなくてはなりません。

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わたしが現在責任者と務める国際カリタスは、世界で活動する他の44の国際NGOなどと共に、9月12日に短い声明を発表しました。原文はこちらの国際カリタスのサイトで英語でご覧ください。以下、仮の機械翻訳を掲載します。

イスラエル軍によるガザ市への攻撃が激化し、全市民に対する強制移動命令が出されている中、家族は避けがたいジレンマに直面しています。逃げれば道中や人であふれかえっている避難所での死の危険があり、留まれば隠れているシェルターへの容赦ない爆撃に直面します。どちらにしても、飢餓と包囲が待ち受けています。

「私たちの唯一の要求は命です。私たちはあなたと同じ人間です。私たちは尊厳と安全の中で生きたいのです。飢えや爆弾で死にたくはありません。」
アイマン(仮名)、ガザ市で家族と避難している父親

100万人近くのパレスチナ人が、飢え、悲しみ、そして何度も移動を強いられながらガザ市に残っています。イスラエルの作戦が続けば、病院は孤立し攻撃され、避難所や学校は爆撃され、逃げることができないほど弱い、年老いた、または病気の人々には、死しか残されていません。

「私たちは一つの場所から別の場所へ逃げることに疲れました。」
アビール(仮名)、人道支援活動家

同時に、イスラエルは人道的な活動を故意に妨害しています。援助トラックは引き続き拒否され、国際NGOは不透明な登録制度によって宙ぶらりんの状態に置かれ、飢饉が深刻化しています。

国際司法裁判所は、ガザのパレスチナ人がジェノサイドから保護される権利を持っていることを認めています。各強制移動の行為や飢餓の高まりは、その危険性をより確実なものにしています。そして、世界はこれが起こるのを見て見ぬふりをすることはできません。

私たちの物資を通過させてください。私たちに働かせてください。この攻撃を止めてください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第225回、年間第25主日のメッセージで原稿です。なお文中に登場するFABCは、アジアの各国地域にある司教協議会の連名組織で、事務局を現在はバンコクに置いています(以前は香港にありました)。現在の会長はインドのゴアのフィリッポ・ネリ・フェラオ枢機卿、副会長がフィリピンのパブロ・ダビド枢機卿、事務局長をわたしが務めています。英語ですがホームページがありますので、ご参照ください

年間第25主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第225回
2025年9月21日

ルカ福音は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」というイエスの言葉を記します。

わたしたちはどうしても、すべてに対して全身全霊を傾けるよりは、そこから自分の得られる利益を勘案して物事の価値を計り、ある意味選択をしながら行動してしまいがちです。どのような選択をするのかに、わたしたちひとり一人の価値観が反映されます。その時々の事情に応じて、わたしたちは、いわば、「神と富」のどちらか必要な方を選択することを繰り返しています。それに対してイエスは、どちらかをはっきりと選択し、選択したのであれば小さなことにも大きなことにも、全身全霊をかけて忠実であれと命じています。

わたしたちが選択する道は、神の愛といつくしみから、誰ひとり忘れ去られることなく、また誰ひとり排除されることのない世界を実現する道です。神の愛はすべての人に向けられているにもかかわらず、その愛の実現を妨害しようとするのは、わたしたちの不忠実さであります。わたしたちは神の愛といつくしみの実現の前に立ちはだかる様々な障壁を取り除くという大きな目的を達成するために、目の前の小さな事への取り組みを忠実に果たしていかなくてはなりません。

アジア司教協議会連盟(FABC)は、2022年10月に開催された創立50周年の総会で最終文書「アジアの諸民族としてともに旅する」を採択しました。その冒頭で、これからの歩みの中心にあるのはシノドス的な教会の道であることを明確に記し、「シノドス的な教会には、交わり、参加、宣教という、不可欠な3要素が」あることを指摘します。

その上で、「交わり」の重要性について、「排他性の傾きに対するアンチテーゼです。洗礼を受けた人は皆、尊厳において平等です。・・・教会には、一流の人も二流の人もありません。霊はさらに、わたしたちが同じカトリック信者とだけでなく、すべてのキリスト者、人類すべて、造られたものすべてとの交わりを結ぶよう、力を与えてくれます。・・・霊との交わりのうちにおいてのみ、わたしたちは弟子の共同体へと成長し、パン生地の塊の中のパン種のように働く、キリスト教基礎共同体、人間基礎共同体の建設者となることができるのです」と指摘しています。

さらにFABCは2025年3月15日に司牧書簡を発表し、「交わり」を具体的に生きるために、特にエコロジーの側面に取り組むことの重要性を指摘しました。その上で同書簡は、9月1日から10月4日まで、ちょうどいま祝われている「被造物の季節」にあって、エコロジカルな回心を交わりのうちに具体化するよう、次のような取り組みを呼びかけています。

第一に、「エコロジカルな責任についてわたしたちの共同体の学びを導く」こと。次に、「より簡素で、より持続可能なライフスタイルを奨励する」こと。そして、「神・人類・宇宙とのわたしたちのかかわりを深める、創造の霊性を培う」ことであります。

シノドスの道の歩みはエコロジカルな回心の道と密接に関わり、それは別々の事柄ではありません。シノドスの道の歩みを深めることは、教会で交わりを持つわたしたちの生き方そのものを見直すことにも繋がります。そのためにも、この数年の間に発表されてきたシノドスの文書などをしっかりと学ぶ時を持ち続けたいと思います。シノドスは過去のことではなく、いまわたしたちが歩む道であり、そのためにも小さなことにも忠実であるものでありたいと思います。

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2025年9月15日 (月)

2025年:悲しみの聖母@聖心女子大学聖堂

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9月14日の十字架称賛の祝日の翌日、9月15日は、その十字架の元にたたずみ、イエスと苦しみを共にされた聖母の御心に思いを馳せる、悲しみの聖母の祝日です。

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今年の悲しみの聖母の祝日のミサは、グレゴリオ聖歌を歌われるCANTATE DOMINO、由比ヶ浜グレゴリアンを歌う会の主催で、聖心女子大学聖堂においてミサを捧げました。ミサ式文は朗読と説教を除いてすべてラテン語ですが、現行の典礼式文によるミサです。

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以下、本日のミサ説教原稿です。

悲しみの聖母
聖心女子大学聖堂
2025年9月15日

わたしたちは、確実に先を見通すことの難しい時代に生きています。先に起こった世界的な感染症の蔓延もそうでしたし、今現在経験している各地での武力紛争の勃発、さらには今年の夏にも経験した気候変動など、先の見通せない不安という暗闇で生きていると言わざるを得ません。

不安の暗闇を生き抜くということを考えるとき、聖母マリアご自身が、まさしくそういった不安に囲まれて人生を歩まれたことを思い起こします。

ルカ福音には、シメオンがマリアに語った言葉が記されていました。シメオンは朗読された福音の直前の部分で、幼子イエスについて、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と宣言します。天使のお告げを受け、救い主の母となることを知らされ、その驚きの告知を謙遜の心で、「お言葉通り、この身になりますように」と受け入れたマリアは、あらためてシメオンの口を通じて、まさしくその幼子こそが神の救いそのものであることを告知されます。この知らせに対するマリアとヨセフの素直な驚きを、「幼子について言われたことに驚いていた」と福音は記しています。

そしてマリアに対してシメオンは、その驚きにさらに追い打ちをかけるように、イエスの将来について「反対を受けるしるしと定められています」と驚きの事実を告げ、加えて「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と、マリア自身も苦しみの道を歩むことになる事実が告げられます。

この驚くべき告知の連続は、それこそマリアにとって、先行きの見えない大きな不安の闇となって襲いかかったことでしょう。しかしそれに立ち向かわれたマリアは、神の母となりました。

聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

そこには、先行きが見えない不安による疑心暗鬼の闇に引きずり込まれる誘惑もあったことでしょう。イエスの弟子たちがそうであったように、苦しみの道を否定しようとする誘惑もあったことでしょう。そのようなことはあり得ませんと、反論したくなる誘惑もあったことでしょう。

それらはまさしく、イエスご自身がペトロを叱責された、「サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉に明らかなように、神の計画を無にしようとする悪の誘惑です。

聖母マリアは、しかしその誘惑と不安に立ち向かわれました。神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる様々な人たちとの連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。

今日の福音は、聖母がその苦しみの道を一人孤独に歩んでいたのではないことを明確にします。そこにはシメオンのように、神の計画を知り、その神の計画に身を委ねるようにと励ます具体的な存在がありました。そしてもちろん天使のお告げの言葉、すなわち「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」、そして「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」というお告げの言葉における約束は、聖母にとって、救い主ご自身が常に道をともに歩んでくださるという確信を与えました。神のみ旨を識別しながら、ともに歩む信仰の道。まさしくいま教会が歩んでいるシノドスの道を最初に歩まれたのは、聖母マリアであります。

わたしたちが、困難に直面し、疑心暗鬼の不安にとらわれるとき、心は自己保身に傾き、利己的な心は他者の必要に目をつぶらせ、自分の心を安定させるために異質な存在を排除しようとします。そのときにこそ、聖母マリアの生きる姿を思い起こさないわけにはいきません。わたしたちの信仰は、神の計画に信頼し、互いに助け合い、ともに歩んでくださる主に信頼しながら謙遜に身を委ねる信仰です。

この混乱の時代、聖母の生きる姿勢に倣い、さまざまに飛び交う言葉に踊らされることなく、神が望まれる世界の実現の道を見極めるために、祈りと黙想のうちに賢明な識別をすることができるように、聖霊の導きを祈り、またその導きに従う勇気を祈り願いたいと思います。

 

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2025年9月13日 (土)

週刊大司教第224回:十字架称賛の主日

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9月14日は十字架称賛の祝日にあたり、今年はちょうど日曜日ですから、明日9月14日は十字架称賛の主日となります。

また日本の教会では本日を祖父母と高齢者のための世界祈願日としています。本来は7月最後の主日と定められていますが、日本では9月半ばの月曜日に敬老の日があるため、その前日の主日をこの世界祈願日とすることを申請し、聖座(バチカン)の許可をいただいています。

今年の祖父母と高齢者の世界祈願日のテーマは、旧約のシラ書からとられた、「希望を失うことのない人は、幸いだ」とされています。教皇様のメッセージが発表されていますので、こちらのリンクからご覧ください

十字架称賛の翌日9月15日は、その十字架の元にたたずまれた聖母マリアに思いを馳せる悲しみの聖母の祝日です。 聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

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その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

聖母マリアは神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる様々な人たちとの連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。聖母マリアはシノドスの道をともに歩む神の民の模範でもあります。

9月15日午後に某所で、グレゴリオ聖歌によるラテン語のミサで悲しみの聖母の日を祝いますが、それについては後日また報告します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第224回、十字架称賛の主日のメッセージです。

十字架称賛
週刊大司教第224回
2025年9月14日

日本の教会では、本日は祖父母と高齢者のための世界祈願日です。ローマでは7月最後の主日に行われますが、日本の教会は敬老の日の近くに移動することで聖座からの許可を得ています。

今年のこの祈願日のメッセージで教皇レオ14世は、シラ書から「希望を失うことのない人は、幸いだ」という言葉を引用してメッセージを発表されています。

メッセージの中で教皇は、アブラハム、サラ、ザカリア、エリサベトやモーセについて取り上げ、神からの働きかけがこの人たちが高齢の時にあったことを記して、「これらの選択によって、神は次のことをわたしたちに教えます。神の目にとって、老年は祝福と恵みの時であり、神にとって〈高齢者は希望の最初の証人です〉」と宣言されます。

その上で教皇は、「わたしたちの祖父母は、わたしたちにとって、どれほどしばしば、信仰と献身、市民的美徳と社会貢献の模範となってきたことでしょうか。希望と愛をもって彼らがわたしたちに託してくれたこのすばらしい遺産は、わたしたちにとって、どれほど感謝し、守っても不十分なものです」と、人生の先達への感謝を忘れないようにと呼びかけ、社会が「高齢者への敬意と愛情を回復する」必要性を説いておられます。

また教皇は「わたしたちは、どんな困難も奪うことのできない自由をもっています。すなわち、愛し、祈る自由です。すべての人は、つねに、愛し、祈ることができます」と述べて、高齢になって自由を失っても、愛し、祈ることで、希望をもたらすことができると強調されています。

9月14日は十字架称賛の祝日です。いまでこそ、ファッションで十字架を身につける一般の方もおられるようになっていますが、もちろん十字架の起源は、処刑の道具であります。決して「かっこいい」ものではありません。しかしその十字架に、特別な意味を与えたのは、主イエスであります。主イエスこそが、「恐るべき処刑の道具」を「輝かしい栄光のあかし」に変えてくださいました。だからわたしたちは、誇りを持って十字架を示します。感謝を持って十字架を仰ぎ見ます。信頼を持って十字架により頼みます。勇気を持って自らの十字架を背負います。

十字架は、神の愛のわざの目に見えるあかしです。自らいのちを与えられて人間を愛するがあまり、神はその滅びを許されなかった。滅びへの道を歩む人類の罪をあがなうため、自らを十字架の上でいけにえとしてささげられた。これ以上の愛のわざはあり得ません。わたしたちにとって十字架は、悲しい死刑の象徴ではなく、敗北の印ではなく、弱さの象徴でもありません。わたしたちのとって十字架は、希望の印であり、勝利の印であり、強さの象徴であります。そしてなによりも、神の愛のわざの目に見えるあかしのわざであります。

十字架は、キリスト者の生きる姿の象徴であります。他者の喜びのために、自らのいのちを投げ出す。いのちを賭してまでも、他者のために尽くそうとする生き方。キリストご自身の生き方そのものです。わたしたちキリスト者は、優しい人間だから、善人だから、困っている人を助けたり、愛のわざを行うのではありません。そんな、個人の性格に頼った、生やさしい信仰ではありません。

私たちも、私たちの生きる姿そのものによって、イエスの教えを、福音を、その愛といつくしみを、あかししていく、十字架と共に歩む者でありたいと思います。

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2025年9月10日 (水)

本郷教会初聖体など

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2025年の日本における「被造物を大切にする世界祈願日」にあたる9月7日、東京都内の本郷教会で主日ミサを捧げ、またそのミサの中で四名のお子さん方が初聖体を受けられました。

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本郷教会は、現在は関口教会の主任である小池神父様が兼任されています。

またその前の週末、9月6日の土曜日には、午前中、下井草教会において、礼拝会(聖体と愛徳のはしため礼拝修道女会)のシスター・マリア・グエン・ティ・トゥイ・ハンさんが終生誓願式が行われました。東京教区内におられる様々な修道女会のベトナム出身のシスター方を始め、多くの方が参加されました。おめでとうございます。

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さらにその土曜日の夕方には、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、聖年の行事として国際ミサが捧げられました。ミサは基本的に英語で行いわたしが司式、説教をアンドレア司教様が担当、さらに教皇大使と、折から来日中のオロリッシュ枢機卿様も参加されました。

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大聖堂は、折りたたみの椅子も使って千人近い人が集まっていたと思います。様々な国や文化を背景とする人たちが集まり、最後の派遣の祝福後には全員で、いろいろな言葉で聖年のテーマソングを合唱して、この日のミサを終わりました。集まってくださった見さんありがとうございます。

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以下、日曜の本郷教会でのミサ説教を録音から文字にしたものです。

カトリック本郷教会
被造物を大切にする世界祈願日ミサ
2025/09/07

教皇フランシスコが、2015年に「ラウダート・シ」という文書を出されたのは、ご存じだと思います。教皇様の文書というのは、想像していただければ判る通り、自分で全部書くわけではありません。あれだけの文書を、次から、次から教皇様がひとりで書くのは無理ですから、基本的に教皇様のオリジナルのアイディアを受け取った人が原案を書き、それを教皇様が手を加え、また書き直す。そうした作業を繰り返し続けることによって、出来上がって行きます。

この文書に書かれていることの大半は、いわゆる環境問題への取り組みです。気候変動、温暖化などに関連する環境問題に、教会と世界がどう取り組むべきかが書かれていますが、留意すべきことは、なぜ教皇フランシスコがそういった文書を出そうと考えたのかであります。

2013年に教皇に選出されて、教皇フランシスコが最初にしたことは、地中海のアフリカに近いところに浮かんでいる、ランペドゥーザという島へ出かけ、そこに辿り着いたアフリカからの難民の人たちと会って、ミサを捧げたことです。そこで、無関心のグローバル化がいのちを奪っていると訴えました。

多くの人の利己的な無関心が、ここでいのちを奪っているのだと。忘れ去られている人たちが、これだけ多くいるんだと。いのちをこのように粗末に扱われるのは、許されないことなのだと。なぜならば、いのちは神からの賜物として私たちに与えられた、恵みなのだから。その恵みを、無視して危険に晒すようなことを、わたしたちはしてはならないと強調されたのです。

いのちを守るというと、まず思い浮かぶのは、平和の問題ですね。戦争をやめましょう。または、経済的な問題。世界経済のシズテムの中で格差が広がり、いのちを奪われて行く貧しい人たちがいるのだと。特に教皇フランシスコは、南米出身の方ですから、南米の様々な現実の中から、そういう思いを深めて行ったのは当然です。そういったことを突き詰めていけば、当然ですが、すべてのいのちを守ることの大切さに行き着きます。

神が作られた被造物の中の一番最高の賜物であるいのちを大切にするのであれば、それ以外のすべての被造物、つまりいのちが生きるために、この神が賜物として与えられたいのちが、より良く生きるような状況を作り出すために生み出されたすべての被造物も、大切にしていかなくてはならない。

わたしたちは、何もない真空状態の中で、いのちを生きているわけではなくて、すべての被造物に囲まれている中で、賜物であるいのちを生きているのですから、当然の帰結として、いのちの大切さを訴えるのであれば、この世界のすべて、すべての被造物、教皇様は「わたしたちの共通の家」という言い方をされましたけれども、この「共通の家」を大切にするということが、とても重要なのだ。ですから当然の帰結として行き着いたのが、あの「ラウダート・シ」であります。

すでに東方教会では、9月1日を被造物を大切にする日として、以前から祝っていました。東方教会からの呼び掛けに応えて、教皇フランシスコは、カトリック教会も東方教会と共に、9月を被造物を大切にすることを祈り行動するときにしようと決意されました。

その時期のことを「被造物の季節」という言い方をしますけれども、9月1日から、まさしく「ラウダート・シ」という言葉を発したアッシジの聖フランシスコの記念日である10月4日までの期間を、被造物を大切にする祈りの時としましょうと教皇フランシスコは呼びかけられました。

9月1日を被造物を大切にするための世界祈願日と定められましたが、日本の教会では、その次の日曜日に、被造物を大切にするための世界祈願日を祝います。お祝いをするというよりも、私たちに与えられている、この大切な、神が与えてくださった恵みを、どのように護り活かしていくのかを考える日です。それが今日ですね。

ですから、その「ラウダート・シ」という文書やそれに込められた教皇フランシスコの思いは、みなが環境活動家になれということではないのです。もちろん活動かも必要です。声をあげて権力を動かしていくような、そういう環境のための政治的活動をしていく人たちも必要ですし、実際に、地道に自分の生活の周辺で様々に、環境を良くするための活動に取り組む人も必要です。ですが、実際に教皇フランシスコが一番、大切なこととして求めていたのは、わたしたちの回心です。

「エコロジカルな回心」という言葉を教皇フランシスコは使いますけれど、「エコロジカルな回心」、つまり、このすべての被造物の調和の中で、人間のいのちはありとあらゆる被造物に取り囲まれている。この多様性における調和の中で、いのちを生きる一人ひとりがいのちの与え主に心をまっすぐ向けなくてはならない。それを「エコロジカルな回心」と呼びました。

何を回心するのかといえば、それは、先ほど朗読された福音にあったように、神と富と両方に仕えることができないんだと。だから、神に仕えなさい。富ではなくて神に仕えなさい。その二つの選択のうち、中間はないよと。どちらかを選択しなければならない。そのときに、神を選択するために、自分の心を神に向かって回しなさい。回心しなさい。一体どこを見ているのだ、見ている方向を、神に向けなさい。

あの分厚い「ラウダート・シ」という本を読んでいると、最後の方は、ずっとそういう温暖化や環境問題や気候変動について書かれているので、興味がないと途中でやめてしまうのですが、その終盤で、「エコロジカルな回心」の話が始まるんですね。その信仰的な側面が、教皇フランシスコがわたしたちに伝えたかったことなのです。

そして、そこからさらに道は切り開かれ、「ラウダート・シ」からの当然の続きとして、その精神を深めて、「シノドス的な教会」という概念へと繋がっていきました。

「エコロジカルな回心」は、個人的な問題ではないのです。それは、みんなで一緒になって支え合いながら、ふさわしい道を、祈りのうちに識別をしながら歩んで行く、そういう道のりなのです。だからそのこと自体がシノドス的な教会に繋がるのです。

一人ひとりの個人的な責任に期待していたのでは、この環境を、この神が与えてくださった「共通の家」を守ることはできない。みんなが共になって守っていかなければならない。そうしなければ、環境も、そしてひいては人間のいのちも、守ることはできない。だから「シノドス的な教会」になることが大切なのだと繋がって行きます。

ですから、「シノドス性」というのは、教会の組織改革をしようだとか、民主主義的な教会にしようとかという話では、ありません。そうではなくて、教皇フランシスコの、最初に難民の人たちと出会って、いのちを大切にするところから始まり、被造物、私たちが住む「共通の家」を大切にし、さらにそのためには、一緒になって歩んで行かなければならない、だからシノドス的な教会なのだという、一本の線がずっと繋がっているんです。

教皇フランシスコご自身に言わせると、それは自分が考えたことではなくて、第二バチカン公会議が考えたことだと。自分は、第二バチカン公会議の考えたこと、目指したことを実現しようとしているだけなんだ、ということもおっしゃいました。

そして、教皇フランシスコが亡くなられて、教皇レオ14世が新しく選ばれました。数日前に、カステル・ガンドルフォに、夏の休暇などに行く教皇様の離宮があるんですけれども、そこにエコロジーを実践するラウダト・シ・庭園を新しく作って、そこで被造物を大切にする意向でミサを捧げられました。今日わたしたちが使っているのと同じ祈りです。教皇フランシスコの敷いた道を引き継いで、同じように、私たちの「共通の家」を大切にして行くのだと、教会の中で大切なものとして、引き継いで行こうと、宣言されました。

日本の教会にとっては、それとはまた別に、2019年に教皇フランシスコが日本に来てくださったことを記念し、9月1日から10月4日までを、訪日のテーマにちなんで「すべてのいのちを守るため」の月間と定めています。

いのち守る話になると、すぐに平和の問題となってしまいますが、平和問題というのは戦争のことに始まって、環境問題も含め、すべてのいのちを守ること、つまり総合的なことであります。

総合的、インテグラルという言葉が教皇フランシスコは大好きで、全てを包み込んだ、すべてを含めた、この「共通の家」、私たちの「共通の家」の中で、すべてのいのちを大切にするんだ、被造物を大切にするんだ、というところに、一本の線で繋がって行くテーマです。

今年はこの世界祈願日のための新しい典礼もできあがり、日本語の翻訳もなんとか間に合って、こうして一緒に被造物を大切にするための特別なミサを捧げることができるようになりました。これからも私たち一人ひとりが、環境問題はもちろん大切なことなので取り組んでいただきたいですが、それ以上に、イエスからの問いかけ、つまり「選ぶのはどっちなんですか?神ですか?この世の富ですか?」という問いかけに自信を持って、「神様です」と答えることができるように、心を整えて行きたいと思います。

今日、四人の方が一番前に座っておられて、初聖体を受けられます。

初聖体を受けるというのは、「神様ですか?この世の富ですか?」という問い掛けに対して、「神様です」自信を持って皆さんの前で応えることでもあります。私にとって、神様が大切なんです、神様が私にとって一番なんですと、今日ご聖体を受けることによって、皆さんの前で宣言する。ですからどうか、これを、これから先もずっと、自分の心にしっかりと留めて、守って行っていただきたいと思います。

イエス様ご自身が、神様ご自身が、ご聖体を通じてそれぞれの皆さんの心の中にしっかりと来てくださる。ご聖体は最後の晩餐の時に、イエス様が弟子たちと、明日はもう別れて行くという、もうこれでこの弟子たちと一緒に食事をすることはない、「私のことを忘れないでくれ、私が語ったことを忘れないでくれ、私がしたことを忘れないでくれ」という、そのすべての思いを込めたものです。

このパンはわたしなのだ。このパンを食べるたび、この盃を飲むたびに、私のことを思い起こしなさい、告げ知らせなさいと、弟子たちに命じて残して行かれた、それがご聖体です。

ご聖体はイエス様ご自身です。イエス様ご自身をいただいて、このイエス様の思い、私を忘れるなという思いを、しっかりと心に刻んで、常に神様の方を選んで、歩んで行くことができるようにしたいと思います。

 

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2025年9月 6日 (土)

週刊大司教第223回:年間第23主日C

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あっという間に9月になりました。9月7日は年間第23主日です。日本の教会では本日、9月の第一主日が被造物を大切にする世界祈願日です。教皇様のメッセージはこちらのリンクです。

先週の週刊大司教第222回の記事でも触れましたが、9月1日に始まって、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日まで、日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」と定めています。これは2019年に、「すべてのいのちを守るため」をテーマと掲げて教皇フランシスコが日本を訪問されたことを記念し記憶するために日本の教会が定めました。また世界の教会は、エキュメニカルなコンテキストの中で、この同じ期間を「被造物の季節」と定めています。今年は特に、2015年に教皇フランシスコが「ラウダート・シ」を発表されてから10年ですので、節目を祝うイベントが多く予定されています。

司教協議会は、先般、「ラウダート・シ」をテーマとして様々な啓発活動を行う担当を、「デスク」から「部門」へ変更しました。これはこれまで別の委員会に分かれて活動していた諸課題を、福音宣教司教委員会と社会司教委員会に大きく分け、その中でテーマに分かれて委員会や部門を設置して行くことになった組織変更に伴っています。

この二つの司教委員会の他の大きな分類は、常任司教委員会と広報宣教司教委員会で、さらにカリタスジャパンが事業体として委員会組織から離れました。現在の司教協議会の委員会の構成は、こちらのリンク先をご覧ください。なおこれらの委員会組織は司教協議会の枠組みの中にあり、司教を中心として動きます。その具体的な事業活動の事務局がカトリック中央協議会で、こちらは事務局長をトップに、具体的な作業を行う組織です。なお中央協議会で働く司祭は、全国の三つの教会管区からそれぞれひとりずつ派遣されている司祭の合計3名だけです。

「ラウダート・シ」をテーマとする部門もデスクから福音宣教司教委員会内の部門になったことで、さらに宣教司牧的側面から啓発活動を強めていくことが期待されていますし、その意味で、現在行われている「すべてのいのちを守る月間」の方向性を明確にしてくださるものと期待しています。

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なお9月4日(木)に、日本のシノドス特別チームは大阪は玉造の大阪教区本部を会場に、全国の司教様方と、各教区のシノドス担当者、合計47名を集め、今回のシノドス性のシノドスにそのはじめから深く関わり、教皇フランシスコと緊密にやり取りをしていたオロリッシュ枢機卿様を講師に迎え、一日の研修を行いました。

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他の国でもバチカンのシノドス事務局のグレック枢機卿様やシスターナタリーを迎えて研修会をしていますが、どうしても言葉の壁があるため、今回、オロリッシュ枢機卿様に日本語でお話しいただけたのは良かったと思います。今後は、それぞれの教区で、シノドス最終文書の学びを深め、多くの人に霊における会話を体験していただき、その上で、ともに歩みなが聖霊の導きを識別する共同体に育っていきたいと思います。これからもシノドス特別チームでは必要に応じて講師を派遣しますし、様々な資料の提供を続けていきます。今後の各教区での取り組みに期待しています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第223回、年間第23主日のメッセージです。

年間第23主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第223回
2025年9月7日

9月最初の主日は、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。

世界のキリスト教諸教派は、ともに、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを「被造物の季節」と定め、この地球、すなわちわたしたちがともに暮らす家のために祈り、またそれを守る行動をとるように呼びかけています。カトリック教会もこのエキュメニカルな活動に参加しており、日本の教会はこの期間を「すべてのいのちを守るための月間」として様々な取り組みが行われています。また今年は、教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されてから10年となる節目の年でもあり、環境保全活動にとどまらずそれを土台とした信仰的な回心の必要性を、教会はさらに強調しています。

教皇レオ14世もこの世界祈願日にあたってのメッセージを発表されており、今年のテーマを、教皇フランシスコがすでに選ばれていた、「平和と希望の種」とされています。

メッセージの中で教皇は、「イエスは、説いて教える際、しばしば種のたとえを用いて神のみ国について語られました」の述べ、時間がかかる試みかもしれないが、わたしたちは神がのぞまれた世界のあり方を、すなわち「平和と希望」を実現するために、大地にまかれた種のように、忍耐を持って、具体的な取り組みと呼びかけを続けるようにと励まされています。

その上で教皇は、「自然破壊による打撃は、すべての人に同じように作用しているわけではないという認識は、いまだ十分に共有されていないようです。正義と平和を踏みにじることは、いちばん貧しい人、もっとも隅に追いやられた人、排除された人が、もっともしわ寄せを被るのです。この点で、先住民族のコミュニティの苦しみは象徴的です」と指摘され、その存在すら忘れ去られた人たちに心を向けるようにと呼びかけます。

ルカ福音は、弟子となる条件として、「自分の十字架を背負ってついてくる者」であれと述べたイエスの言葉を記します。同時に、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」ことを不可欠であると述べ、この世の常識を遙かに超える行為を、愛に基づいて選択することが不可欠であることを名確認します。

パウロは第一コリントの1章17節で十字架の意味を、神ご自身によるすべてを賭した愛のあかしの目に見える行いそのものであると記します。この世の知恵に頼って愛をあかしするのではなく、すべてをうち捨て全身全霊を賭して神の愛をあかししたイエス。それこそが十字架の持つ意味であることをパウロは強調します。

ですから、イエスが求める十字架は、単に苦労をしろと命じているのではありません。人間の知恵が作り上げた常識の枠にとらわれず、自らの全身全霊を賭して、神の愛をあかしするための行動をせよと求めておられます。

神の愛を証しするために、わたしたちがいま捨てなくてはならない常識の枠は何でしょうか。そしていま歩むべき十字架の道は、どの道でしょうか。聖霊の導きのうちに識別したいと思います。

 

 

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2025年9月 5日 (金)

コルカタの聖テレサの祝日@足立教会

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9月5日はコルカタの聖テレサの記念日でした。コルカタの聖テレサというよりは、カルカッタの聖テレサ、そしてそれよりもマザーテレサの方がよく知られた名前です。(インドのカルカッタは現在、コルカタと呼ばれています)。

記念日のミサを捧げるように神の愛の宣教者会のシスター方に招かれたので、本日の午後、足立教会でシスター達、ブラザー達と一緒にミサを捧げてきました。また足立教会を始め、日頃からかつどうにか川手いる方々も含め、聖堂からあふれんばかりの人たちがミサに参加してくださいました。台風でちょうど雨の強い中、集まってくださったみなさんに感謝します。シスター方は足立区西新井に修道院があります。男子のメンバーは、長年にわたって山谷地区で活動を続けてくださっています。

以下、本日のミサの説教原稿です。

コルカタの聖テレサの祝日
足立教会
2025年9月5日

マザーテレサの祝日にあたり、特に神の愛の宣教者の会員のみなさまに、心からお祝いと、そして日々の活動に対する感謝を申し上げます。

マザーテレサの模範に従い、世界中の厳しい社会環境の場で、いのちの危機や生活の困難に直面する人たちのため、社会から排除され忘れ去られた人たちのため、希望を失い絶望の中に生きている人たちのため、ありとあらゆる困難を乗り越えて尽くそうとする神の愛の宣教者会のシスター方、ブラザー方の活動に、心から敬意を表したいと思います。

2023年5月から、わたしは国際カリタスの責任者である総裁を四年の任期で務めています。国際カリタスは、カトリック教会の設置する国際的な援助や災害救援のNGOであります。

教皇ベネディクト16世は、教会における愛の業、すなわちカリタスの業を重要視され、それが単に人間の優しさに基づくのではなく、信仰者にとって不可欠な行動であり、教会を形作る重要な要素の一つであることを明確にされました。

最初の回勅であった「神は愛」には明確にこう記されています。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げしらせること、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです(25)」

ですからカリタスは、世界中の、貧しい人、忘れ去られた人、不正義の状態にある人、いのちの危機に直面する人に、教会が行わなくてはならない愛の奉仕の業を率先して行う教会の組織です。単なる国際NGOではありません。

その国際カリタスは、組織の保護の聖人を三名定めています。一人目は、聖マルチン・デ・ポレス。1579年にペルーのリマで生まれたドミニコ会士は、謙遜のうちに生き、祈りに多くの時間をささげ、人種や皮膚の色、社会的地位によらず、すべての人を大切にし、貧しい人たちに奉仕した聖人です。困難に直面する人たちへの奉仕の模範の聖人です。

もう一人は、聖オスカル・ロメロ大司教。『友のために命をささげる。それ以上の愛はない』と言うイエスの言葉を、人生のすべてをかけて、その行いと言葉で証しをしたエルサルバドルの殉教者です。2018年10月のロメロ大司教列聖式で、教皇フランシスコは次のように呼びかけました。

「イエスはラディカルです。彼はすべてを与え、すべてを求めます。完全な愛を与え、揺らぐことのない心を求めます。今日でも主は、ご自身を生きたパンとして与えられます。私たちは、せめてパンくずくらいでさえも、主にお返しできるでしょうか」 

そしてもう一人、三人目の保護の聖人は、コルカタの聖テレサ。マザーテレサであります。この三人の聖人の生き方こそが、カリタスの目指す生き方であり、ひいては教会が愛に生きるということはどういうことなのかを明確に示す模範です。愛に生きるという頃は、優しさの発露のような甘い話ではなく、いのちをかけた生き方です。

2019年に訪日された教皇フランシスコは、東京カテドラルに集まった青年たちと対話をする中で、マザーテレサに触れてこう言われたことを思い出します。

「世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔の見えないことがほとんどな社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。『孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です』。心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪と思う貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。正直であれば気づくでしょう。わたしたちが抱えうる最大の貧しさは孤独であり、愛されていないと感じることだと」

まさしくマザーテレサこそは、人間にとっての最大の貧しさである「孤独と、愛されていないという思い」のなかで、希望を失い絶望の中で生きている多くの人に直接かかわり、彼らの心をがんじがらめにしている鎖を解き放ち、愛のうちに希望を生み出した聖女であります。

すべての人が自分で、マザーテレサや神の愛の宣教者会のシスター方と同じことができるわけではありませんが、その生きる姿勢や関わりから、私たち自身の生き方への指針を見いだしたいといつも思います

今日の福音はあらためて言うまでもなく、苦難に直面する者、社会から排除されようとする者、受け入れがたいと見なされる者、孤独うちに孤立する者、忘れ去られた者にこそ、神は目を向けられているのだと言うことを教えています。

そして神ご自身が、そういった人々に手を差し伸べるように、従うわたしたち一人一人にも同じようにすることを、強く求めておられるのです。

象徴的なのは、「主よ、いつわたしたちは」そのようなことをしたでしょうかという問いかけです。イエスは、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えています。そうであるならばと、わたしの愛の行為は主のためにしているのだと、つまり主に褒められることを目的にしてはいけないのだということを、最初の答えの言葉、「主よ、いつわたしたちは」が明確に示しています。本物は、意識していないのです。

すなわち、愛の行為をするわたしの目に見えているのは、目の前にいる困難のうちにある人であって、その人が主役なのであって、その先にある褒められるという栄誉を目的とした手段として見てはいけないということであろうと思います。目の前の人を見なさい。目の前の人はあなたが褒められるための手段ではなくて、その人こそが主役です。それを明確にしているイエスのたとえであると思います。そして本物の愛の行為は、ご褒美を意識していないことを、「主よ、いつわたしたちは」のことばが明示します。

教皇レオ14世は、今年11月の第9回「貧しい人のための世界祈願日」のためにメッセージをすでに発表されています。その中に、「最大の貧困は、神を知らないことです」と記しています。

その上で教皇は、「神のことばが教える、キリスト者の希望は、人生の歩みにおける確信です。なぜなら、希望は、人間の力ではなく、つねに忠実な神の約束により頼むからです。そのため、キリスト者は初めから、希望を、安定と安心をもたらす錨(いかり)の象徴で表そうとしました」と、希望の巡礼者としてこの聖年を歩んでいるわたしたちがあかしするべきキリストにおける希望を明示します。わたしたちも、マザーテレサをはじめとした多くの聖人たちの模範に倣い、絶望ではなく希望をもたらすものとして歩んで参りましょう。

 

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