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2025年9月 5日 (金)

コルカタの聖テレサの祝日@足立教会

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9月5日はコルカタの聖テレサの記念日でした。コルカタの聖テレサというよりは、カルカッタの聖テレサ、そしてそれよりもマザーテレサの方がよく知られた名前です。(インドのカルカッタは現在、コルカタと呼ばれています)。

記念日のミサを捧げるように神の愛の宣教者会のシスター方に招かれたので、本日の午後、足立教会でシスター達、ブラザー達と一緒にミサを捧げてきました。また足立教会を始め、日頃からかつどうにか川手いる方々も含め、聖堂からあふれんばかりの人たちがミサに参加してくださいました。台風でちょうど雨の強い中、集まってくださったみなさんに感謝します。シスター方は足立区西新井に修道院があります。男子のメンバーは、長年にわたって山谷地区で活動を続けてくださっています。

以下、本日のミサの説教原稿です。

コルカタの聖テレサの祝日
足立教会
2025年9月5日

マザーテレサの祝日にあたり、特に神の愛の宣教者の会員のみなさまに、心からお祝いと、そして日々の活動に対する感謝を申し上げます。

マザーテレサの模範に従い、世界中の厳しい社会環境の場で、いのちの危機や生活の困難に直面する人たちのため、社会から排除され忘れ去られた人たちのため、希望を失い絶望の中に生きている人たちのため、ありとあらゆる困難を乗り越えて尽くそうとする神の愛の宣教者会のシスター方、ブラザー方の活動に、心から敬意を表したいと思います。

2023年5月から、わたしは国際カリタスの責任者である総裁を四年の任期で務めています。国際カリタスは、カトリック教会の設置する国際的な援助や災害救援のNGOであります。

教皇ベネディクト16世は、教会における愛の業、すなわちカリタスの業を重要視され、それが単に人間の優しさに基づくのではなく、信仰者にとって不可欠な行動であり、教会を形作る重要な要素の一つであることを明確にされました。

最初の回勅であった「神は愛」には明確にこう記されています。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げしらせること、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです(25)」

ですからカリタスは、世界中の、貧しい人、忘れ去られた人、不正義の状態にある人、いのちの危機に直面する人に、教会が行わなくてはならない愛の奉仕の業を率先して行う教会の組織です。単なる国際NGOではありません。

その国際カリタスは、組織の保護の聖人を三名定めています。一人目は、聖マルチン・デ・ポレス。1579年にペルーのリマで生まれたドミニコ会士は、謙遜のうちに生き、祈りに多くの時間をささげ、人種や皮膚の色、社会的地位によらず、すべての人を大切にし、貧しい人たちに奉仕した聖人です。困難に直面する人たちへの奉仕の模範の聖人です。

もう一人は、聖オスカル・ロメロ大司教。『友のために命をささげる。それ以上の愛はない』と言うイエスの言葉を、人生のすべてをかけて、その行いと言葉で証しをしたエルサルバドルの殉教者です。2018年10月のロメロ大司教列聖式で、教皇フランシスコは次のように呼びかけました。

「イエスはラディカルです。彼はすべてを与え、すべてを求めます。完全な愛を与え、揺らぐことのない心を求めます。今日でも主は、ご自身を生きたパンとして与えられます。私たちは、せめてパンくずくらいでさえも、主にお返しできるでしょうか」 

そしてもう一人、三人目の保護の聖人は、コルカタの聖テレサ。マザーテレサであります。この三人の聖人の生き方こそが、カリタスの目指す生き方であり、ひいては教会が愛に生きるということはどういうことなのかを明確に示す模範です。愛に生きるという頃は、優しさの発露のような甘い話ではなく、いのちをかけた生き方です。

2019年に訪日された教皇フランシスコは、東京カテドラルに集まった青年たちと対話をする中で、マザーテレサに触れてこう言われたことを思い出します。

「世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔の見えないことがほとんどな社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。『孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です』。心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪と思う貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。正直であれば気づくでしょう。わたしたちが抱えうる最大の貧しさは孤独であり、愛されていないと感じることだと」

まさしくマザーテレサこそは、人間にとっての最大の貧しさである「孤独と、愛されていないという思い」のなかで、希望を失い絶望の中で生きている多くの人に直接かかわり、彼らの心をがんじがらめにしている鎖を解き放ち、愛のうちに希望を生み出した聖女であります。

すべての人が自分で、マザーテレサや神の愛の宣教者会のシスター方と同じことができるわけではありませんが、その生きる姿勢や関わりから、私たち自身の生き方への指針を見いだしたいといつも思います

今日の福音はあらためて言うまでもなく、苦難に直面する者、社会から排除されようとする者、受け入れがたいと見なされる者、孤独うちに孤立する者、忘れ去られた者にこそ、神は目を向けられているのだと言うことを教えています。

そして神ご自身が、そういった人々に手を差し伸べるように、従うわたしたち一人一人にも同じようにすることを、強く求めておられるのです。

象徴的なのは、「主よ、いつわたしたちは」そのようなことをしたでしょうかという問いかけです。イエスは、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えています。そうであるならばと、わたしの愛の行為は主のためにしているのだと、つまり主に褒められることを目的にしてはいけないのだということを、最初の答えの言葉、「主よ、いつわたしたちは」が明確に示しています。本物は、意識していないのです。

すなわち、愛の行為をするわたしの目に見えているのは、目の前にいる困難のうちにある人であって、その人が主役なのであって、その先にある褒められるという栄誉を目的とした手段として見てはいけないということであろうと思います。目の前の人を見なさい。目の前の人はあなたが褒められるための手段ではなくて、その人こそが主役です。それを明確にしているイエスのたとえであると思います。そして本物の愛の行為は、ご褒美を意識していないことを、「主よ、いつわたしたちは」のことばが明示します。

教皇レオ14世は、今年11月の第9回「貧しい人のための世界祈願日」のためにメッセージをすでに発表されています。その中に、「最大の貧困は、神を知らないことです」と記しています。

その上で教皇は、「神のことばが教える、キリスト者の希望は、人生の歩みにおける確信です。なぜなら、希望は、人間の力ではなく、つねに忠実な神の約束により頼むからです。そのため、キリスト者は初めから、希望を、安定と安心をもたらす錨(いかり)の象徴で表そうとしました」と、希望の巡礼者としてこの聖年を歩んでいるわたしたちがあかしするべきキリストにおける希望を明示します。わたしたちも、マザーテレサをはじめとした多くの聖人たちの模範に倣い、絶望ではなく希望をもたらすものとして歩んで参りましょう。

 

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