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2025年10月30日 (木)

2025/10/26、堅信式ミサ@赤羽教会

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10月26日の主日、午前9時から、東京の北区にある赤羽教会で、12名の方の堅信式が行われました。おめでとうございます。

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赤羽教会はコンベンツァル聖フランシスコ会が司牧担当する教会です。現在の主任司祭は、同会の平孝之神父様。東京教区のホームページには、戦後1949年8月15日に創設された赤羽教会の歴史が、以下のように記されています。

「赤羽教会の設立は、当初長崎を拠点として活動していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会が終戦後、東京に新しい修道院や神学生養成のための神学校の必要性を強く感じ始めたことに起因します。ドナト・ゴスチンスキー神父とゼノ修道士が派遣され、赤羽にその地をみつけ、戦争中の空襲で焼けた工場跡のこの土地を、当時の管区長であったサムエル・ローゼンバイゲル神父がアメリカからの寄付金で購入しました」

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蟻の町野マリアと呼ばれた尊者北原怜子(さとこ)さんを導いてともに活躍したゼノ修道士も有名で、聖徳の誉れ高く、お二人の列福運動はコンベンツァル会が担当して長年進められており、近頃は、ポーランドからの巡礼者も増加していると伺いました。それもあって、信徒会館の前には同会の聖人であり、1930年にゼノ修道士と共に来日した聖マキシミリアノ・コルベ神父様の新しい銅像が建立され、さらに向かい側にはゼノ修道士の銅像も制作中であるとのことでした。東京教区でも、北原怜子さんの資料をかなり保有していることもあり、コンベンツァル会に協力しながらですが、保有する資料の整理も進め、保存を進めるよう努めたいと考えています。それはまた故岡田大司教様の願いでもありました。

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以下、同堅信式ミサの説教録音から起こした内容を整理した説教の原稿です。

堅信式ミサ
カトリック赤羽教会
2025年10月26日

一年ほど前、昨年の10月6日、教皇様が日曜日恒例のお昼のアンジェラスの祈りを終えた後に、新しい枢機卿を任命するつもりだと言って21名の名前を読み上げられ、その中にわたしの名前も入っていました。それからあっという間に一年が経ちました。

枢機卿になるとは、事前に何も通告がなかったので、急な話で驚きました。翌日、ちょうどシノドスに参加している新たに任命された枢機卿のもとに、教皇フランシスコからの手紙が届けられました。他の新しい枢機卿へは、それぞれの教皇大使を通じて郵送したのだと思います。

教皇様から直接の手紙って、もらったことないですよね。思いのほか大きな紙ファイルに入っているのですが、立派な教皇様の紋章が付いたファイルで、その中に二重に折り畳んだ紙があり、手紙の本文が印刷されて、一番最後に小さな教皇フランシスコのサインがある。

その手紙に、その中に、あなたを枢機卿に任命しましたということが書いてあって、そして教皇フランシスコのアドバイスが書いてあるんです。

その中の一つが、かつて教会の歴史の中で、枢機卿になるというのは名誉を得ることであった。言ってみれば貴族のような高い位に上げられるという、世俗的な名誉だと考えられていた。けれども、今の時代の教会にあっては、そうではないのですと。あなたは「目を上げ、手を合わせ、裸足でいる」を自ら体現するものとして、謙遜に生きていきなさいと記されていました。

この現実世界で起こっている様々な出来事に、しっかりと目を向けて、地に足を着けて、そして神に向かい、低いところから高みに向かって、目を上げなさい。謙遜でありなさい。現実からすべてを始めなさい、というようなことが書いてありました。

名誉を与えられたと考えるのではなくて、あなたは仕える者として、ありなさい。教皇様ご自身の名称の一つに、「しもべの中のしもべ」という言い方がありますけれども、まさしくその、一番下から全てを見つめる、謙遜なしもべでありなさい、と諭す教皇フランシスコの思いが、記されていた書簡でした。

ですから、枢機卿になったということは、どういうことなのか。私自身にとってどういうことなのかということと、教会全体にとって、特に東京の教会にとってどういう意味があるのか、というのはそれぞれ別な思いがあるとは思いますが、わたし自身にとっては、教皇フランシスコが遺された言葉の通り、謙遜に、地に足を着けて生きていくという心構えについてあらためて考えさせられる、その契機になったと思っています。

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謙遜に生きていく。それは教皇、または枢機卿とか司教とか司祭、修道者だけの課題ではなく、わたしたち、イエス・キリストの信仰に生きることを選んだ者すべてにとっての課題です。謙遜に生きていくというのは、人間関係をスムーズに、うまく作り上げていくためのマナーとしての謙遜さ、または、文化的な背景からある、謙遜さもあるでしょう。それとは違う、生きる姿勢そのものとしての謙遜さです。つまり、マナーとして謙遜になり、互いにうまく人間関係を作ってうまくやっていきましょう、そのために謙遜さを身につけましょうと言っているわけではない。その謙遜さは、生き方そのものです。生き方そのものにおいて何を中心に置いているのか、というところにあるのです。

ちょうど今日の福音書は、ファリサイ派の人と徴税人、二人の人物の対比ということで、謙遜さについてイエスが語っているところですね。

ここで、実際の身体的な視点、つまりどこに向かって目を向けているでしょう。ファリサイ派の人は、上を向いて神様の方を見ていますね。実際の目が向いている方向です。そして、徴税人の方は下を向いていて、神様の方を向いていないのです。

しかしながら実際には、その身体的な目が物理的にどちらを向いているかということは、実はあまり問題ではありません。我々はそれに捉われやすい。社会の中で、具体的に生きている中では、どこを向いているかとか、どういう態度を取っているかなど、表面的な表に現れることに、どうしても気が捉われてしまいます。

けれども、この話の中でイエスが語っているのは、心も目の話です。心の目は、いったいどこを向いているのかなのです。そうするとですね、ファリサイ派の人は自分のこと、内側にしか向いていないんですよ。自分の内側、自分のことしか考えていない。盛んに自分を褒め称えていますが、それは、自分の世界の中に、どんどんどんどん閉じ籠っていくということです。そうすると、自分の世界の中では自分が中心ですから、当然自分が一番立派に決まっている。いかに自分が立派かとほめたたえながらか、自分にどんどん視点を向けて行く状況です。

それに対して、徴税人は、自分で自分を判断しようとはしていません。彼は、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、罪人のわたしを憐んでください」と。わたしについて判断するのは、神様、あなたです。神様が、わたしのことを判断するんです。ですから、あなたにすべてを委ねます、という姿勢です。身体的物理的な目は下を向いていますけれども、その心の目は、しっかりと神様の方を向いているんです。神様、あなたのおっしゃる通りに、わたしはいたしますという、神にすべてを委ねる生き方の姿勢ですよね。

その違いが、信仰の中で生きていく謙遜さを教えています。つまり、謙遜さというのは、その表向きの態度が謙遜かどうか以上に、心の目がどこを見ているのかと、わたしたちの心はどこを向いて生きているのか、という問題にかかっているのだと思います。

どうしても、自分のこと、見栄とか、名誉とか、楽しみとか、そういうことに目が行ってしまう。心の目もそこに向けられ内向きになってしまいがちですけれども、イエス様は、目を天に上げなさいと。心の目を天に上げなさいと。神にすべてを委ねて、神に判断を委ねなさいと。そしてその判断に、素直に従いなさい。そういう生きる姿勢を、謙遜さとして求めておられると思います。

今日、堅信を受けらる方々が、12名ほどおられると思います。

堅信式は、洗礼から始まって、ご聖体を受けて、そして堅信で、キリスト教の入信の秘跡が完成します。残念ながら、途中までで終わってしまう人もいますが、洗礼を受けて、ご聖体を受けて、そして堅信を受けることによって、わたしたちの、キリスト者としての入信の秘跡が完成するのです。

堅信の秘跡を受ける時には、その時には、完全なキリスト者がそこに出来上がっているんですよね。でも人間は弱いので、出来上がった瞬間から、どんどんどんどん落ちてゆきます。いつまでも完璧でいられるわけではなく、息を吸うように罪を犯しまくって生きているのですから、どんどんそれは錆びて行くんです。

でも、なんとか、その完全なキリスト者として到達した、それを、保っていきたいんですよね。そのために、どうしたらいいか。自分の力ではどうしようもないので、だからこそ、堅信の秘跡を通じて与えられる聖霊の助けが必要なんです。

聖霊は、この堅信の秘跡によって、聖霊を受けることによって、その日、何か急に人が変わってスーパーマンになるとか、そういうことではないんです。そうではなくて、謙遜に生きよう、神に全てを委ねて生きようと決意するその心を、なんとか錆びないように、その完璧なキリスト者になったその日から、どんどん落ちていかないようにと、一所懸命に支えようと自分がしているときに、それを支えてくれるのが、聖霊の働きであります。

ですから、その聖霊の働きに信頼しながら、大人としての、成熟した、出来上がった、完成した、キリスト者として、この世界の中で、謙遜に神に、神の望みに身を任せて、生きていくことができるように、神に向かって心の目を上げ、すべてを委ねる努力をしていただければと思います。

 

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2025年10月25日 (土)

週刊大司教第229回:年間第30主日C


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時間は瞬く間に過ぎ去り、10月も最後の日曜日とないました。今月の最初の頃は枢機卿名義教会着座式のためにローマにいたことが、遙か昔のようです。写真は上が10月11日、マリアの霊性の祝祭、下が10月8日の一般謁見です。

先週10月19日は、世界宣教の日でありました。中央協議会のホームページに以下の説明が掲載されています。

「世界宣教の日」は、すべての人に宣教の心を呼び起こさせること、世界の福音化のために、霊的物的援助をはじめ宣教者たちの交流を各国の教会間で推進することを目的としています。この日の献金は、各国からローマ教皇庁に集められ、世界中の宣教地に援助金として送られます。日本の教会は、いまだに海外から多くの援助を受けていますが、経済的に恵まれない国々の宣教活動をさらに支援できるように成長していきたいものです。

教皇庁宣教事業に関しては、日本における対応部署のホームページが設けられており、そこに詳細が記されていますので、一度お訪ねください。現在の日本全体の教皇庁宣教事業担当者は、東京教区の門間直輝神父様です。

本日の週刊大司教でも触れた今年の世界宣教の日の教皇メッセージは、そのサイトに掲載されています。こちらからご覧ください

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第229回、年間第三十主日のメッセージです。

年間第30主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第229回
2025年10月26日

わたしたちの目は、節穴です。肝心な本質が見えていません。往々にして、思い込みと勘違いを引き起こしています。ルカ福音は、本質を知るためにどこに目を向けるのかを記しています。

福音は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、目を上げることもなく胸を打った徴税人ほうが、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人とされた話を記します。当時の徴税人は様々な不正に手を染めていたとも言われ、多くの人の目には正しい人とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの人からは正しい人と見なされていたことでしょう。神の目には本質が見え、わたしたちの目は節穴です。

ファリサイ派の人が自分を見つめています。自分しか見えていません。わたしはどういう人間なのか。彼が語るのは、自分のことばかりであり、すなわち彼は自分の世界に閉じこもっているので、その世界では自分が一番に決まっています。ですから臆面もなく報いを求めます。

それに対して徴税人は、その目を神に向けています。自分がどういう人間であるのかと言う判断をするのではなく、それをすべて神の判断に委ねています。つまり二人の違いは、自らの存在を神に委ねているのか、委ねていないのかにあります。

わたしたちには、単にマナーとして謙遜になることが求められているのではありません。求められている謙遜さは、神にすべてを委ねているのかどうかであります。御旨に従うことは、格好良く見栄え良く生きることではありません。

自分の名誉のためではなく、神が救いたいと望んでおられるすべてのいのちに福音が届けられるように、神の計画に身を委ね、すべてを尽くして福音をあかしするものとなりたいと思います。

先週、10月19日は世界宣教の日でありました。教皇レオ14世はこの日のためのメッセージのテーマを「諸民族の中で生きる希望の宣教者」とされ、「キリストの足跡に従って希望の使者となり、それを築く者となるという根本的な召命」がキリスト者ひとり一人と教会共同体にはあるのだと強調されています。

その上で教皇は、第二バチカン公会議の現代世界憲章に記されている、「「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」(『現代世界憲章』1)を引用して、「キリストの弟子たちはまず、自らが希望の「職人」となり、混乱し不幸に陥りがちな人類を回復させる者となる修練を積むよう求められています」と、すべてのキリスト者がそれぞれの立場に応じて福音宣教をする者となるように求めておられます。

わたしたちも自らの宣教者としての使命を思い起こし、福音をよりふさわしくあかしする道を探り続けたいと思います。

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2025年10月18日 (土)

サン・ジョバンニ・レオナルディ教会着座ミサ説教

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既報ですが、去る10月9日木曜日ローマ時間午後6時、ローマ市郊外のサン・ジョバンニ・レオナルディ教会で、枢機卿としての名義教会着座式を行いました。

小教区聖堂に皆が入りきれない恐れ場会ったため、着座式をまず聖堂で行い、その後聖堂裏にある運動場でミサを捧げました。

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着座式は、まずブラスバンドに迎えられてわたしが到着。教皇儀典室のモンセニョールに導かれて聖堂前に到着。主任司祭が差し出す十字架に接吻。その後聖水で灌水しながら入堂。祈りを捧げた後に、教皇様による枢機卿への任命書の朗読と提示。そして着座と行われました。

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ミサは通常式文ですが、イタリア語で行いました。小教区の聖歌隊が、伴奏のバンドと共に、とても素晴らしい歌声を聞かせてくださいました。

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第一朗読をイタリア語、第二朗読を日本語、福音をイタリア語で行った後、説教は準備した原稿で日本語で行い、アンドレア司教様がイタリア語に訳してくださいました。

ミサの終わりに聖堂に戻り、儀典室が用意してきた着座の記録にサインして終わりです。

準備してくださった小教区の皆さん、参加してくださった皆さん、ありがとうございます。

以下、そのときの説教の原稿です。

名義教会着座式
サン・ジョバンニ・レオナルディ教会
2025年10月9日

「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」
 私たち教会は、主イエスご自身からこの命令をいただきました。ですから私たち教会は、イエスキリストの福音をのべ伝えることをやめることはできません。しかもイエスは、それを全世界に、すなわち地の果てまで行ってのべ伝えるようにと命じられました。

«Andate in tutto il mondo e proclamate il Vangelo». Noi, la Chiesa, abbiamo ricevuto questo comando dal Signore Gesù stesso. Per questo la Chiesa non può smettere di annunciare il Vangelo di Gesù Cristo. Inoltre, Gesù ha ordinato di andare ad annunciarlo a tutto il mondo, cioè fino ai confini della terra.

いまから476年前、1549年、フランシスコ・ザビエルはその命令に忠実に生きるために、はるかかなたの日本までやってこられました。日本での福音宣教の始まりです。

フランシスコ・ザビエルの時代、ヨーロッパから日本に来ることは、危険な冒険でした。アジアでの宣教のためにリスボンを出発した時から数えると8年です。途中のインドのゴアから出発して日本の鹿児島に上陸するまで4ヶ月です。フランシスコ・ザビエルにとって、「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」というイエスの命令は、そのすべての苦しみを乗り越えさせるほど、意味のある命令でありました。

476 anni fa, nel 1549, Francesco Saverio venne fino al lontano Giappone per vivere fedelmente a questo comando. Fu l’inizio dell’evangelizzazione in Giappone.

Ai tempi di Francesco Saverio, giungere dal continente europeo al Giappone era un’avventura pericolosa. Dal momento in cui partì da Lisbona per la missione in Asia passarono otto anni; e dal porto di Goa, in India, fino allo sbarco a Kagoshima in Giappone, ci vollero quattro mesi. Per Francesco Saverio, il comando di Gesù «Andate in tutto il mondo e proclamate il Vangelo» fu un ordine tanto significativo da permettergli di superare tutte le sofferenze.

それからおおよそ500年。その間に迫害と禁教の時代があり、多くの殉教者が信仰を守るために血を流し命を捧げました。日本の教会は、フランシスコ・ザビエルに始まり、多くの宣教師によって種がまかれ、殉教者の血によって育てられてきました。日本の教会は、宣教師や殉教者という信仰の先輩たちに、感謝をささげる教会でもあります。

Sono trascorsi circa 500 anni da allora. In questo spazio tempo ci sono stati periodi di persecuzione e di proibizione della fede, e molti martiri hanno versato il proprio sangue e donato la vita per custodire la fede. La Chiesa in Giappone è nata con Francesco Saverio, il seme fu sparso da molti missionari, e crebbe grazie al sangue dei martiri. La Chiesa in Giappone è dunque anche una Chiesa che offre gratitudine ai missionari e ai martiri, nostri predecessori nella fede.

今日こうして、日本から多くの巡礼団がローマを訪れ、ローマにある教会共同体の皆さんと一緒にミサを捧げ、そして祈りを共にすることには大きな意味があります。それは私たちが歴史の中で、主イエスの宣教命令に忠実に働いてきたことの証しであります。困難の中にあってもくじけることなく神に従い生きることが、これほどの実りをもたらすという、希望の証しであります。いま私たちが祝っている聖年のテーマは、希望の巡礼者です。私たち日本からの巡礼団は、福音宣教が生み出す希望を証しする、希望の巡礼者として、今日ここに来ました。困難に負けることなく希望を生み出す福音の証しです。

Oggi, il fatto che tanti gruppi di pellegrini dal Giappone arrivino a Roma, per celebrare la Messa insieme alle comunità ecclesiali di Roma e pregare insieme, ha un grande significato. È la testimonianza che, lungo la storia, abbiamo lavorato fedelmente al comando missionario del Signore Gesù. È una testimonianza di speranza: vivere obbedendo a Dio senza scoraggiarsi di fronte alle difficoltà porta frutti così grandi. Il tema dell’Anno Santo che celebriamo è «Pellegrini di speranza». Noi, pellegrini giapponesi, siamo qui oggi come pellegrini di speranza, per testimoniare la speranza che nasce dall’evangelizzazione. È una testimonianza del Vangelo che genera speranza, senza lasciarsi vincere dalle difficoltà.

残念ながら日本の教会は、長い歴史がありますが、社会の中ではいまでも少数派です。東京のような大きな都会ではたくさんの方が日曜日にはミサに参加します。しかし地方ではそうではありません。私が東京の大司教になる前、13年間、司教を務めた新潟教区では、あるとき北の地方の教会を訪問したら、聖堂には10人の方がおられました。でもそれを見て主任司祭のドイツ人宣教師は、「今日は司教様が来ているので、たくさんの人が来ています」と言われました。いつもの日曜日には、三人程度しか来ないのだと聞きました。

Purtroppo, nonostante la sua lunga storia, la Chiesa in Giappone resta ancora oggi una minoranza nella società. In grandi città come Tokyo, molte persone partecipano alla Messa domenicale; tuttavia, non è così nelle zone rurali. Prima di diventare arcivescovo di Tokyo, per 13 anni sono stato vescovo della diocesi di Niigata. Una volta, visitando una chiesa in una regione settentrionale, ho trovato 10 persone riunite in cappella. Ma il parroco, un missionario tedesco, disse: «Oggi, poiché è venuto il vescovo, sono accorse molte persone». Mi disse che di solito alla Messa domenicale partecipavano appena tre persone.

日本での福音宣教は簡単ではありません。しかし私たちはそういった人数が少ないという現実の前で悲観的にはなっていません、なぜならば福音宣教は人間の業ではなくて、神様の業であるからです。神様ご自身が、すべての人を救いたいと願っているのですから、必ずや道を切り開いてくださると信じています。福音宣教においては、困難を前にしてくじけてはいけないのは、フランシスコ・ザビエルの時代からはっきりと証明されています。

L’evangelizzazione in Giappone non è facile. Tuttavia, non ci lasciamo scoraggiare dalla realtà dei piccoli numeri, perché l’evangelizzazione non è opera dell’uomo, ma opera di Dio. Poiché Dio stesso desidera la salvezza di tutti, crediamo che Egli certamente aprirà le vie. Che non ci si debba arrendere di fronte alle difficoltà dell’evangelizzazione è stato dimostrato chiaramente fin dai tempi di Francesco Saverio.

いま日本の教会に日曜日に行けば、日本人以外に、ベトナムやフィリピンやインドネシアやブラジルやアフリカなど、世界中の様々な国から来られた方が、一緒なって祈りをささげています。皆さんそれぞれ自分の個人的な理由で日本に来たと思っていることでしょう。しかし私は、そこには必ずや神様の計画があると信じています。個人的な理由で日本に来ているすべての信徒は、神様から遣わされた宣教師です。もちろん日本の教会にいるすべての人も、神様から遣わされた宣教師です。シノドス的な道を歩んでいる教会は、様々な方が交わって豊かにされ、宣教する教会になります。

Oggi, se si va in una chiesa in Giappone la domenica, oltre ai giapponesi ci sono fedeli provenienti dal Vietnam, dalle Filippine, dall’Indonesia, dal Brasile, dall’Africa e da tanti altri Paesi del mondo che pregano insieme. Ognuno di loro penserà di essere giunto in Giappone per motivi personali, ma io credo che in tutto questo ci sia il disegno di Dio. Tutti i fedeli che vivono in Giappone per motivi personali sono in realtà missionari inviati da Dio. Naturalmente, anche tutti coloro che già appartengono alla Chiesa in Giappone sono missionari inviati da Dio. Una Chiesa che cammina in modo sinodale si arricchisce attraverso l’incontro tra persone diverse e diventa una Chiesa missionaria.

ローマにおられる皆さんと、今日こうして日本から来られた皆さんと、交わりを深めながら、ともに困難に立ち向かい、福音を告げる宣教師となることを、あらためて主イエスに誓いましょう。

Oggi, qui, insieme a voi che vivete a Roma e a voi che siete venuti dal Giappone, rinnoviamo la promessa al Signore Gesù di diventare missionari che affrontano le difficoltà e annunciano il Vangelo, approfondendo la nostra comunione.

 

 

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週刊大司教第228回:年間第29主日C

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先週は、10月9日木曜日夕方6時からローマで行われた枢機卿名義教会着座式のため、週刊大司教は一度お休みさせていただきました。

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着座した名義教会サン・ジョバンニ・レオナルディ教会は、ローマ市郊外の比較的新しい住宅地にある生き生きとした小教区です。聖ジョバンニ・レオナルディが創立した修道会の会員が司牧にあたり、現在はインド出身の司祭が担当されています。

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日本ではあまり知られていない聖ジョバンニ・レオナルディについては、以下のメッセージで触れている教皇ベネディクト16世の、2009年10月7日の一般謁見での講話で詳しく紹介されています。こちらのリンクから是非お読みください

同小教区聖堂は、サイズ的に300人程度の規模ですが、戦後に発展した住宅地にあり、信徒の方々が自分たちの努力で建設した教会だと伺いました。日曜日には4回のミサが捧げられているそうです。敷地内にはいわゆる学童保育的施設やカリタスのセンター、そしてサッカー教室などもあり、子どもたちも多く見られました。

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この日のミサには日本からの巡礼団だけで100名を超えていたため、聖堂に入りきれない恐れがあり、まず名義教会着座式を聖堂で行い、その後に隣にある運動場に移動して、そこでのミサとなりました。信徒の方々にとってはこの日、10月9日は、保護の聖人である聖ジョバンニ・レオナルディの祝日であり、木曜の着座式に始まって日曜の堅信式までの小教区フィエスタの初日となりました。

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運動場にはステージが設けられ、その上でミサを捧げましたが、その後は深夜まで、コンサートが行われ、地域の大勢の方が参加されていました。

日本からは前田枢機卿様、中村大司教様、中野司教様、アンドレア司教様、その他複数の巡礼団の皆さんが参加してくださり、東京教区を代表して事務局長の泉神父様と赤井職員、枢機卿秘書役として小西神父様、前田枢機卿秘書としてスック神父様、巡礼団に同行して山口道孝神父様が参加されました。また日本政府を代表して駐バチカンの千葉大使ご夫妻や、国際カリタス事務局長始めシニアスタッフ、ローマのカトリック日本人会、留学中の司祭や修道者・信徒の皆さん、さらにはローマ市の代表も参加されました。皆さんありがとうございます。心から感謝申し上げます。

下の写真の祭服は、小教区に伝わる祭服だそうです。カズラの下にはダルマチカも着用しています。侍者は福音宣教省管轄下のウルバノ大学で学ぶ神学生たちが来てくださり、全体の儀式は教皇儀典室のモンセニョール(教皇フランシスコ訪日の際にも来られたモンセニョール)がおいでになり、しっかりと仕切ってくださいました。わたしは彼のささやきの通りに動きました。なおミサはイタリア語です。練習しました。説教は日本語で行い、アンドレア司教様が翻訳してくださいました。説教原稿は別途掲載します。

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以下、本日午後6時配信の週刊大司教第228回、年間第29主日のメッセージです。

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週刊大司教第228回
2025年10月19日

10月9日の夕刻、ローマ郊外にあるサン・ジョバンニ・レオナルディ教会において、枢機卿の名義教会の着座式を行いました。枢機卿になることによって、名義上はローマの司祭団の一員に加えられますので、慣例によって枢機卿にはローマ教区内のいずれかの小教区が名義教会として割り当てられます。ローマ教区の教区司教である教皇様のもとには、300を超える小教区があり、枢機卿の数を超えていますから、中には伝統によって長年名義教会であるところもありますが、わたしの名義教会は今回が初めてとなります。そのためもあって、着座式には多くの信徒の方が参加され、活気のある小教区共同体の一面を体験することができましたし、日本からも巡礼団を始め100名を超える方が一緒に参加くださいましたので、日本とローマの教会共同体の絆も生まれたのではと期待しています。わたしがこの小教区の運営に直接関わるわけではありませんが、今後も信仰上の交わりを深めたいと思います。

10月9日は聖ジョバンニ・レオナルディの祝日でもありました。教皇ベネディクト16世は、2009年10月7日、聖人の没後400周年を記念したメッセージで次のように聖人を紹介されています。

「聖ジョヴァンニ・レオナルディは神の母律修参事会の創立者で・・・強い宣教への熱意においても記憶にとどめられています。レオナルディはフアン・バウティスタ・ビベスとイエズス会士のマルティン・デ・フネスとともに宣教者のための聖座の特別な省、すなわち布教聖省と将来の布教聖省直属のウルバノ大学の設立を計画し、そのために貢献しました」

その上で教皇は、「ジョヴァンニ・レオナルディは、イエス・キリストと個人的に出会うことを自らの根本的な存在理由にしようと努めました。彼が繰り返していったとおり、「キリストから再出発しなければなりません」。すべてにおいてキリストを第一とすることが、彼の判断と行動の具体的な基準であり、司祭としての活動を生み出す原理でした」と述べておられます。福音宣教を第一に掲げて活動された聖人の教会を、名義教会としていただいたことに、心から感謝しています。

本日のルカ福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」、イエスが裁判官相手に正義の行使を求め続ける一人のやもめの話を記しています。その執拗な要求に、裁判官が降参してしまった様を記したあとに、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、いつまでも放っておかれることがあろうか」というイエスの言葉が記されています。

そうであるならば、わたしたちは困難にめげることなく、神の福音をのべ伝え続けましょう。諦めることはありません。執拗に祈り続けましょう。執拗に語り続けましょう。執拗にあかし人となり続けましょう。

 10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。福音宣教における困難な状況に立ち向かうためにも、神の母であり、教会の母であり、そしてわたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、多くの人に救いのメッセージがもたらされるように、共にいてくださる主イエスと歩みを共にしながら、祈り続け、あかしを続けていきましょう。

 

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2025年10月 4日 (土)

週刊大司教第227回:年間第27主日

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時間が過ぎるのは本当に速いものです。数日前まで真夏のように暑い毎日でしたが、少しづつ秋が近づいている気配もあります。その秋らしい季節の10月は、ロザリオの月でもあります。

10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、伝統的に10月にロザリオを祈ることが勧められてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと言われています。ある意味、ロザリオは信仰における戦いのために道具であるのは事実です。10月7日のロザリオの聖母の記念日が1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍への勝利がロザリオの祈りによってもたらされたことを記念していますが、そういった時代からは社会のあり方が変わった現代社会にあっても、信仰を守るために重要な存在であると思います。社会全体の高齢化が進む中で、実際に教会共同体に足を運ぶことが適わない人にとっても、ロザリオの祈りを持って、霊的共同体の絆を深めることは意味があることだと思います。

来週は枢機卿名義教会への着座式(10月9日)のため、巡礼団と共にローマへ出かけていますので、週刊大司教はお休みします。次回の週刊大司教第228回は、10月18日夜6時の配信になります。

以下、本日午後6時配信の、週間大司教第227回、年間第27主日のメッセージです。

年間第27主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第227回
2025年10月5日

ルカ福音は、使徒たちがイエスに対して「私どもの信仰を増してください」と願ったことをまず記しています。確かに神を信じて生きるとき、信仰という目に見えない事柄を誰かが強めてくれたらそんなに楽なことはありませんから、そのように願う弟子たちの気持ちも分からないではありません。が、イエスの答えは有名な「からし種ひとつぶほどの親交があれば」という言葉でした。もちろん、イエスは、本物の信仰があれば何でもできると言いたかったわけではありません。そうではなくて、イエスがここで指摘するのは、信仰というのは誰かによって強めてもらうような類いのものではなくて、人生における自分の選択とそれに基づく行動によっているのだということであります。

6月に行われた聖年の神学生の祝祭のおりに、教皇レオ14世は集まった神学生たちに対して、信仰は積極的に行動することで深まるとして、次のように話されました。

「キリストのみ心は、計り知れない憐れみによって動かされていました。キリストは人類の善いサマリア人であり、わたしたちにこう語りかけます。『行って、あなたも同じようにしなさい』。この憐れみは、群衆のためにみことばと分かち合いのパンを裂くようにと、キリストを突き動かしました。それは、そのときご自身を食べ物として与えた、二階の広間と十字架でのキリストの振る舞いを垣間見させました。そしてキリストは、こういわれました。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』。それは、あなたがたのいのちを愛のたまものとしなさいという意味です。」

信仰は、まさしく「あなた方のいのちを愛の賜物としなさい」というイエスの招きに応えることによって、強められます。

さらに福音は、務めに対して忠実で謙遜な僕について語るイエスの言葉を記しています。するべき務めをすべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言う謙遜な姿勢こそが、忠実な僕のあるべき姿だとイエスは語ります。わたしたちが信仰を生きる姿勢は、まさしくそのように、それぞれの与えられた召し出しに忠実に、そして謙遜に生きるところに意味があることをイエスは強調されます。神に対する忠実さと謙遜さが、わたしたちにはあるでしょうか。

昨日10月4日で、今年の「すべてのいのちを守る月間」は終わりました。しかしエコロジカルな回心への招きには終わりはありません。

教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」と記しています(66)。その上で、「わたしたちはずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました」と指摘されました。創造主に対する忠実さと謙遜さの喪失こそが、神に背を向ける姿勢をもたらし、ひいては被造物を、そして共に住む家を破壊する行動に繋がっていると指摘された教皇フランシスコは、神の前で忠実さと謙遜さを取り戻す回心の必要性を説き続けました。

「私どもは取るに足りない僕です」と心から告白できるものであり続けたいと思います。

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