2025/10/26、堅信式ミサ@赤羽教会
10月26日の主日、午前9時から、東京の北区にある赤羽教会で、12名の方の堅信式が行われました。おめでとうございます。
赤羽教会はコンベンツァル聖フランシスコ会が司牧担当する教会です。現在の主任司祭は、同会の平孝之神父様。東京教区のホームページには、戦後1949年8月15日に創設された赤羽教会の歴史が、以下のように記されています。
「赤羽教会の設立は、当初長崎を拠点として活動していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会が終戦後、東京に新しい修道院や神学生養成のための神学校の必要性を強く感じ始めたことに起因します。ドナト・ゴスチンスキー神父とゼノ修道士が派遣され、赤羽にその地をみつけ、戦争中の空襲で焼けた工場跡のこの土地を、当時の管区長であったサムエル・ローゼンバイゲル神父がアメリカからの寄付金で購入しました」
蟻の町野マリアと呼ばれた尊者北原怜子(さとこ)さんを導いてともに活躍したゼノ修道士も有名で、聖徳の誉れ高く、お二人の列福運動はコンベンツァル会が担当して長年進められており、近頃は、ポーランドからの巡礼者も増加していると伺いました。それもあって、信徒会館の前には同会の聖人であり、1930年にゼノ修道士と共に来日した聖マキシミリアノ・コルベ神父様の新しい銅像が建立され、さらに向かい側にはゼノ修道士の銅像も制作中であるとのことでした。東京教区でも、北原怜子さんの資料をかなり保有していることもあり、コンベンツァル会に協力しながらですが、保有する資料の整理も進め、保存を進めるよう努めたいと考えています。それはまた故岡田大司教様の願いでもありました。
以下、同堅信式ミサの説教録音から起こした内容を整理した説教の原稿です。
堅信式ミサ
カトリック赤羽教会
2025年10月26日一年ほど前、昨年の10月6日、教皇様が日曜日恒例のお昼のアンジェラスの祈りを終えた後に、新しい枢機卿を任命するつもりだと言って21名の名前を読み上げられ、その中にわたしの名前も入っていました。それからあっという間に一年が経ちました。
枢機卿になるとは、事前に何も通告がなかったので、急な話で驚きました。翌日、ちょうどシノドスに参加している新たに任命された枢機卿のもとに、教皇フランシスコからの手紙が届けられました。他の新しい枢機卿へは、それぞれの教皇大使を通じて郵送したのだと思います。
教皇様から直接の手紙って、もらったことないですよね。思いのほか大きな紙ファイルに入っているのですが、立派な教皇様の紋章が付いたファイルで、その中に二重に折り畳んだ紙があり、手紙の本文が印刷されて、一番最後に小さな教皇フランシスコのサインがある。
その手紙に、その中に、あなたを枢機卿に任命しましたということが書いてあって、そして教皇フランシスコのアドバイスが書いてあるんです。
その中の一つが、かつて教会の歴史の中で、枢機卿になるというのは名誉を得ることであった。言ってみれば貴族のような高い位に上げられるという、世俗的な名誉だと考えられていた。けれども、今の時代の教会にあっては、そうではないのですと。あなたは「目を上げ、手を合わせ、裸足でいる」を自ら体現するものとして、謙遜に生きていきなさいと記されていました。
この現実世界で起こっている様々な出来事に、しっかりと目を向けて、地に足を着けて、そして神に向かい、低いところから高みに向かって、目を上げなさい。謙遜でありなさい。現実からすべてを始めなさい、というようなことが書いてありました。
名誉を与えられたと考えるのではなくて、あなたは仕える者として、ありなさい。教皇様ご自身の名称の一つに、「しもべの中のしもべ」という言い方がありますけれども、まさしくその、一番下から全てを見つめる、謙遜なしもべでありなさい、と諭す教皇フランシスコの思いが、記されていた書簡でした。
ですから、枢機卿になったということは、どういうことなのか。私自身にとってどういうことなのかということと、教会全体にとって、特に東京の教会にとってどういう意味があるのか、というのはそれぞれ別な思いがあるとは思いますが、わたし自身にとっては、教皇フランシスコが遺された言葉の通り、謙遜に、地に足を着けて生きていくという心構えについてあらためて考えさせられる、その契機になったと思っています。
謙遜に生きていく。それは教皇、または枢機卿とか司教とか司祭、修道者だけの課題ではなく、わたしたち、イエス・キリストの信仰に生きることを選んだ者すべてにとっての課題です。謙遜に生きていくというのは、人間関係をスムーズに、うまく作り上げていくためのマナーとしての謙遜さ、または、文化的な背景からある、謙遜さもあるでしょう。それとは違う、生きる姿勢そのものとしての謙遜さです。つまり、マナーとして謙遜になり、互いにうまく人間関係を作ってうまくやっていきましょう、そのために謙遜さを身につけましょうと言っているわけではない。その謙遜さは、生き方そのものです。生き方そのものにおいて何を中心に置いているのか、というところにあるのです。
ちょうど今日の福音書は、ファリサイ派の人と徴税人、二人の人物の対比ということで、謙遜さについてイエスが語っているところですね。
ここで、実際の身体的な視点、つまりどこに向かって目を向けているでしょう。ファリサイ派の人は、上を向いて神様の方を見ていますね。実際の目が向いている方向です。そして、徴税人の方は下を向いていて、神様の方を向いていないのです。
しかしながら実際には、その身体的な目が物理的にどちらを向いているかということは、実はあまり問題ではありません。我々はそれに捉われやすい。社会の中で、具体的に生きている中では、どこを向いているかとか、どういう態度を取っているかなど、表面的な表に現れることに、どうしても気が捉われてしまいます。
けれども、この話の中でイエスが語っているのは、心も目の話です。心の目は、いったいどこを向いているのかなのです。そうするとですね、ファリサイ派の人は自分のこと、内側にしか向いていないんですよ。自分の内側、自分のことしか考えていない。盛んに自分を褒め称えていますが、それは、自分の世界の中に、どんどんどんどん閉じ籠っていくということです。そうすると、自分の世界の中では自分が中心ですから、当然自分が一番立派に決まっている。いかに自分が立派かとほめたたえながらか、自分にどんどん視点を向けて行く状況です。
それに対して、徴税人は、自分で自分を判断しようとはしていません。彼は、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、罪人のわたしを憐んでください」と。わたしについて判断するのは、神様、あなたです。神様が、わたしのことを判断するんです。ですから、あなたにすべてを委ねます、という姿勢です。身体的物理的な目は下を向いていますけれども、その心の目は、しっかりと神様の方を向いているんです。神様、あなたのおっしゃる通りに、わたしはいたしますという、神にすべてを委ねる生き方の姿勢ですよね。
その違いが、信仰の中で生きていく謙遜さを教えています。つまり、謙遜さというのは、その表向きの態度が謙遜かどうか以上に、心の目がどこを見ているのかと、わたしたちの心はどこを向いて生きているのか、という問題にかかっているのだと思います。
どうしても、自分のこと、見栄とか、名誉とか、楽しみとか、そういうことに目が行ってしまう。心の目もそこに向けられ内向きになってしまいがちですけれども、イエス様は、目を天に上げなさいと。心の目を天に上げなさいと。神にすべてを委ねて、神に判断を委ねなさいと。そしてその判断に、素直に従いなさい。そういう生きる姿勢を、謙遜さとして求めておられると思います。
今日、堅信を受けらる方々が、12名ほどおられると思います。
堅信式は、洗礼から始まって、ご聖体を受けて、そして堅信で、キリスト教の入信の秘跡が完成します。残念ながら、途中までで終わってしまう人もいますが、洗礼を受けて、ご聖体を受けて、そして堅信を受けることによって、わたしたちの、キリスト者としての入信の秘跡が完成するのです。
堅信の秘跡を受ける時には、その時には、完全なキリスト者がそこに出来上がっているんですよね。でも人間は弱いので、出来上がった瞬間から、どんどんどんどん落ちてゆきます。いつまでも完璧でいられるわけではなく、息を吸うように罪を犯しまくって生きているのですから、どんどんそれは錆びて行くんです。
でも、なんとか、その完全なキリスト者として到達した、それを、保っていきたいんですよね。そのために、どうしたらいいか。自分の力ではどうしようもないので、だからこそ、堅信の秘跡を通じて与えられる聖霊の助けが必要なんです。
聖霊は、この堅信の秘跡によって、聖霊を受けることによって、その日、何か急に人が変わってスーパーマンになるとか、そういうことではないんです。そうではなくて、謙遜に生きよう、神に全てを委ねて生きようと決意するその心を、なんとか錆びないように、その完璧なキリスト者になったその日から、どんどん落ちていかないようにと、一所懸命に支えようと自分がしているときに、それを支えてくれるのが、聖霊の働きであります。
ですから、その聖霊の働きに信頼しながら、大人としての、成熟した、出来上がった、完成した、キリスト者として、この世界の中で、謙遜に神に、神の望みに身を任せて、生きていくことができるように、神に向かって心の目を上げ、すべてを委ねる努力をしていただければと思います。
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