« 2025年10月 | トップページ

2025年11月 8日 (土)

週刊大司教第231回:ラテラノ教会の献堂

00018_10102025

本日の主日は、ラテラノ教会の献堂の記念日と重なります。ラテラノ教会とはローマ司教の司教座聖堂、すなわち教皇様のカテドラルの献堂の記念日ですので、主日に優先してお祝いされます。今日は特に教皇レオ14世のためにお祈りいたしましょう。

Img_20251107_082654412_hdr

11月6日夜から7日午後にかけて、上石神井にある日本カトリック神学院で神学院司教会議を行い、全国のほぼ全員の司教が神学院に集まり、神学院に一泊して神学生と交流し、ともに祈り、そして神学院の運営について話し合いました。神学生のために、また司祭修道者の召命のためにお祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第231回、ラテラノ教会献堂の主日のメッセージです。

ラテラノ教会の献堂C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第231回
2025年11月9日

11月9日はラテラノ教会の献堂の祝日です。今年は日曜日と重なりましたので、主日にこの献堂記念を祝うことになります。なぜならば、ラテラノ聖堂とは、教皇様のローマ司教としての司教座聖堂・カテドラルとして重要な意味を持っているからです。

普遍教会の牧者であるローマ教皇のカテドラル献堂を祝うことは、私たちの教会は、あたかも本店があって支店があるというような、本店であるローマの教会の支店が日本にあるということなのではなく、ひとりの牧者の下にどこにいても皆で一つの神の民を形成しており、それぞれの教会は一つの身体の部分なのだということを思い起こさせます。その意味で、ラテラノ教会の献堂の祝日はわたしたちにに、教会とはいったい何であるのかをあらためて考えさせる祝日です。

シノドスの道は、まさしくこの「教会とは何であるのか」をあらためて振り返ることをわたしたちに求めていました。教会は各地にある建物のことではなく、時の流れの中を共に旅する神の民であることをあらためて自覚し、神の民としてともに歩み、支え合い、耳を傾け合い、共に祈ることを通じて、聖霊の導きを識別することを目指しているのが、いま進められているシノドスの歩みです。それぞれの地方の教会は勝手に歩んでいるのではなく、皆が一つになって構成する神の民の一部分であることを自覚するためにも、その中心にある教皇様のカテドラルの存在を意識することは大切です。

この地上における目に見える組織としての教会は、同時に霊的な交わりとしての教会でもあり、さらには天上の教会ともつながれています。教会憲章の8項には、次のように書かれています。

「位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」

ですから教会共同体のありかたを、普遍教会のレベルでも地方教会のレベルでも、社会一般の価値観で定め、判断していくことは、必ずしもふさわしいことではありません。私たちは、様々な考え方や思想を持った人間ですが、同じ信仰において結ばれていることを心にとめて、自分の考えではなく神によって集められたものとして、互いの違いを乗り越えてキリストの神秘体を形作る努力をしなくてはなりません。わたしたちひとりひとりが教会です。ひとり一人が教会を構成するのです。日曜日に教会という建物に来たときだけわたしたちは教会の一員になるのではなく、信仰者として生きている限り、常にどこにあっても、わたしたちは大きな神の民の一部として教会に生きていくのです。

ヨハネ福音でイエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とユダヤ人たちに語ります。建物ではなくご自身そのものが神殿であることを明確にします。ですから教会は、復活されたイエスのからだであります。

その意味で、神の民を牧者として導く役割を主ご自身から託されたペトロの後継者である教皇様のために、この祝日には祈りを捧げましょう。わたしたちは教皇様とともに歩み、ともに主の身体を作り上げる神の民であります。

| |

2025年11月 1日 (土)

週刊大司教第230回:死者の日

1761976245342-1

11月1日は諸聖人の祝日、2日は死者の日とされています。

この時期の全免償についてメッセージでも触れています。今年は聖年ですので、次の文書も参照ください。「教皇フランシスコにより発表された2025年の通常聖年の間に与えられる免償に関する教令」で、リンク先は中央協議会のホームページです。次のように記されています。

「2025年の通常聖年の期間中、すでに与えられた他の免償は有効であり続けます。心から痛悔し、罪の傾きから離れ(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 20, § 1]参照)、愛の精神に動かされ、聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます。これは代願のかたちで、煉獄の霊魂に対して与えられることも可能です」

東京教区では11月2日の午後、合同追悼ミサが三カ所で捧げられます。関口のカテドラル、府中墓地、そして五日市霊園で、すべて午後2時から始まります。カテドラルはわたし、五日市霊園はアンドレア司教様、府中墓地は小田武直神父様の司式となります。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第230回、死者の日のメッセージ原稿です。

死者の日主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第230回
2025年11月2日

11月1日は諸聖人の祝日であり、翌2日は死者の日とされています。教会の伝統は、11月1日から8日までの間、全免償を得ることで、それを煉獄の霊魂に譲ることが出来るとも定めています。この期間、ゆるしの秘跡を受け、どこであっても聖堂を敬虔に訪問し、聖体をいただき、墓所で祈り、主の祈りと信仰宣言を唱えて全免償をいただき、それを煉獄の死者に譲ることができます。

もちろん今年は聖年ですから、教皇庁内赦院の定めによって、「ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ」、それを煉獄の霊魂のために与えることは年間を通じて可能とされています。

教会のカテキズムには、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957)」

また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

「・・・死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることが出来るのです(958)」

11月1日と2日の記念は二つでひとつの記念であり、教会は地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在していることを、わたしたちに思い起こさせてくれます。

イエスをキリストと信じる私たちは、イエスに結ばれることで、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。わたし達の人生の歩みは、この世のいのちだけで終わるものではなく、永遠の中でわたし達は生かされています。

わたしたちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じこもる排他的集団ではなく、いのちを生かすために互いに支えあう連帯の共同体です。シノドス的教会です。ともに歩む教会、互いに耳を傾けあう教会、互いに支え合う教会は、すなわちそれこそが「交わりの教会」そのものであります。

私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」とカテキズムに記しています。

シノドス的な教会は、天上の教会との交わりの中で、霊的に支え合う共同体です。ですから、例えば祈りの側面がかけていて、この世における助け合いの集団となってしまっては、本来の意味とは異なるものとなってしまいます。シノドス的教会は聖徒の交わりの教会です。地上と天上の教会の交わりにある教会です。

ですから私たちは死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りを捧げるのではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちとともに捧げる、いま生きている祈りをささげるのです。

| |

« 2025年10月 | トップページ