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2026年1月31日 (土)

2026年奉献生活者の日ミサ@麹町教会

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2月2日の主の奉献の祝日にあわせて、教皇聖ヨハネパウロ2世は、1997年に奉献生活者のための祈りの日を設けられました。

故チェノットゥ教皇大使の呼びかけに応え、日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることにして、すでに10年以上の歴史を刻んできました。2026年の奉献生活者のためのミサは、本日1月31日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

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わたしが司式と説教を担当し、修道者担当の山野内司教様他大勢の修道会司祭が参加してくださり、聖堂も様々な形態の奉献生活者で一杯でした。今年は、なんと新潟の上越のクララ会修道院から、お二人が参加してくださいました。

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またミサの前には四名の若い奉献生活者の体験の分かち合いもあり(下のビデオ冒頭をご覧ください)、また拝領後には、誓願10周年の男女奉献生活者のお祝いもありました。これからも多くの青年たちが、奉献生活の道へと歩みを進めてくださることを祈っています。

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以下、本日手元にあった説教原稿です。

奉献生活者のミサ
2026年1月31日
聖イグナチオ麹町教会

昨年一年、正確には2024年12月24日にバチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉が教皇フランシスコによって開かれて、2026年1月6日に教皇レオ14世によって閉じられるまで、わたしたちは「希望の巡礼者」をテーマとした聖年を過ごしてきました。

教皇フランシスコは聖年開幕を告げる文書の中に、「キリスト者の希望の光が、すべての人に向けられた神の愛のメッセージとして、一人ひとりに届けられますように。教会が、世界のあらゆる場所でこの知らせを忠実にあかしすることができますように」と、この聖年への期待を記されていました。果たしてこの聖年を通じて、わたしたちは希望の光をすべての人に届ける者となることができたでしょうか。

教皇フランシスコは、同じ文書の冒頭で、教会は「希望を神の恵みからくみ取ることに加え、主がわたしたちに差し出す、時のしるしの中にも希望を再発見するよう招かれて」いると強調されました。その上で教皇様は、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」と、教会全体がいのちの危機に直面する多くの兄弟姉妹に手を差し伸べともに歩む教会であるようにと招かれていました。

聖年の閉幕にあたり主の公現のミサで教皇レオ14世は、占星術の学者たちが「宮殿や神殿を後にして、ベツレヘムへと旅立」ったことによって希望の星を再び見いだしたことに触れ、現代にあっても多くの人が占星術の学者たちと同様に、危険や困難を顧みずに希望を求めて歩みを進めようとしていることを指摘します。

教皇様は、「わたしたちの教会の中にいのちはあるだろうか。生まれようとするもののための場所はそこにあるだろうか。わたしたちは、自分たちを旅立たせる神を愛し、告げ知らせているだろうか」と問いかけ、さらに「主の道はわたしたちの道ではありません。暴力をふるう者がそれを支配することはできません。世の権力ある者もそれを妨げることはできません。ここに占星術の学者たちの大きな喜びがあります。彼らは宮殿や神殿を後にして、ベツレヘムへと旅立ちます。そのとき、彼らは星を再び見つけたのです」と指摘されています。この世の栄光や価値観の中に安住し挑戦や変化を避けていたのでは、神における希望を見いだすことはできないと強調されます。

その上で、教皇様は、「だから、希望の巡礼者となることはすばらしいことです。そして、ともに希望の巡礼者であり続けることもすばらしいことです。神の忠実さはわたしたちを驚かせ続けます。わたしたちの教会を記念物にしてしまわず、わたしたちの共同体が帰るべき家であり続け、わたしたちが権力ある者の誘惑に抗い続けるなら、そのときわたしたちは新しい夜明けの世代となることでしょう」と呼びかけられています。

まさしくわたしたちがこの数年間追い求めているシノドス的な教会とは、単なる機構改革ではなく、生き方の変革、すなわち希望をもたらす巡礼者としてともに歩んでいく生き方を選択し、ともに祈りのうちにそれを生きようとする共同体としての教会となることであります。シノドス的な教会は、わたしひとりが希望の光を届ける者となるのではなく、教会共同体全体が希望をもたらす巡礼者として、この世界を共に旅する神の民となるようにと、わたしたちを招いています。

先日一月七日と八日に行われた臨時の枢機卿会の閉会にあたって、教皇レオ14世はこれから数年間の教会の優先課題を明確にするために、多くの声に耳を傾ける姿勢をご自分もそして教会全体も持つことの重要性を指摘され、教皇フランシスコが第二バチカン公会議の仕上げとして始められた今回のシノドス的な教会となる道を継続することを明確にされました。その上で教皇様は、「わたしたちの使命の中心にキリストを見いだすこと。福音をのべ伝えること。わたしたちは皆、イエス・キリストが中心であることをよく知っています。わたしたちはキリストのことばを告げ知らせたいと望みます。それゆえ、現代世界の中であかしを行うことができる、真の霊的生活をわたしたち自身においても生きることが重要です」と呼びかけられています。

この教皇様のことばを念頭に置く時、奉献生活者の神の民における役割の一つに、率先して真の霊的生活を生き、その共同体の中で、教会のシノドス性を具体的に生き、希望を証しする者となることがあると思います。

 「必要とされるのは、神の父としての顔と教会の母としての顔を示すことができる人々です。また、他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です。教会が必要とする奉献された人々とは・・・神の恵みによって変容されることに身を委ね、自分をあますところなく福音に一致させる人です(105)」と使徒的勧告「奉献生活」に記されたのは教皇ヨハネパウロ二世でした。

暴力が支配し、いのちを危機にさらす世界は、絶望を生み出す暗闇であります。社会の混乱は、先行きが見通せない不安を生み出し、不安は希望を消し去ります。災害による社会の混乱をわたしたちがコントロールすることはできませんが、しかしいま世界を混乱させている状況は、人間が生み出した状況です。相互不信と対立は、排除と暴力を容認しています。社会の混乱の中で希望の見いだせない不安にいる人間は、疑心暗鬼を深めます。疑心暗鬼を深めたとき人間は、少なくとも自分にとって確実なものだけは守ろうといたします。自分にとって確実なもの、それは自分自身の存在であります。すなわち、不安と相互不信と混乱の行き着く先は、自己保身であり、究極的には徹底した自己中心、利己主義であり、異質な存在の排除であります。

そうであるにもかかわらず、人間は社会という共同体の中で生きていかなくてはなりません。共同体の構成員が自己保身を深めるとき、社会全体も自己保身的になってまいります。ひとり一人が排除する傾向を強める時、社会全体もそのようになっていきます。

そういう時代であるからこそ、わたしたちは、神はわたしを愛してわたしだけにいのちを与えてくださったのではなく、わたしたちを愛してわたしたちにいのちを与えてくださったのだ。だからこそわたしたちは互いに助け合って、互いを尊重して、ともに歩み、神からの賜物であるいのちの尊厳が護られる社会を生み出していかなくてはならないと、自分たちの存在を通じて、社会に訴えていく存在でありたいと思います。奉献生活に生きる皆さんには、先頭に立たなくてもかまいませんが、率先してその証しに生きる者であってほしいと思います。

世界は、いま、暗闇を打ち破り、絶望を取り去る希望を必要としています。わたしたちはこの聖年が終わったからと言って、希望をもたらす巡礼者であることをやめるわけではありません。いまの世界には希望が必要です。多くの人の心に、希望をもたらす巡礼者の旅路を一緒に続けていきましょう。

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週刊大司教第242回:年間第四主日A

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あっという間に2026年も一ヶ月が終わり、二月になろうとしています。

この数日間、大雪の被害に遭われている地域のみなさまには、心からお見舞い申し上げます。

メッセージでも触れていますが、2月の最初の数日には、日本の殉教者の記念日が二つ設けられています。2月1日の日曜日、その日本26聖人殉教者を保護の聖人とする東京都墨田区の本所教会では、長年の伝統である殉教祭が行われます。今年もわたしが日曜日10時の本所教会のミサを司式させていただきます。

またご存じのように、福者ユスト高山右近に関しては列聖調査が進められています。日本でも大勢の方が右近の取り次ぎを祈っておられますが、帰天の地フィリピンのマニラにも力強く列聖のための運動を続けておられる方々が多数おられます。東京カテドラル聖マリア大聖堂の左手後部に安置されている高山右近像は、そのマニラのグループの方からの寄贈です

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第242回、年間第四主日のメッセージです。

年間第四主日A
週刊大司教第242回
2026年02月01日

2月の最初の週には、日本の教会の殉教者の記念日が二つ並んでもうけられています。2月3日は福者ユスト高山右近、そして2月5日が聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。

福者ユスト高山右近は、生涯をかけて信仰を守りぬいたが故に、すべてを失い、生まれた国を追われ、家族とともにマニラに追放処分となりました。1614年末のことです。右近は、その直後に熱病にかかり、翌1615年2月3日に、マニラで亡くなられたと伝えられています。信仰のために、すべてを奪われ、それでも喜びと希望のうちに信仰を全うした生き方が、殉教者としての生き方であると教会は認めました。

右近を追放しようと決めた秀吉の気持ちを和らげるため対立を避けなさいという周囲の忠告に耳を貸さず、右近は「イエス・キリストの騎士」である名誉を守り通そうとされ、説得する周囲に対して、「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」と述べたと伝えられています。

「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」という覚悟を、現代社会に生きるわたしたちは、どのように考えるのでしょうか。

1597年2月5日、長崎の西坂の地で、信仰を守り抜き、そのいのちを神にささげた26人は、「人間は一体何のために生きるのか」という問いかけに対する答えを、その生涯の言葉と行いを通じて、多くの人に対して証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、そのいのちを失うこと以上に価値のあることなのだという確信を、殉教において証しいたしました。殉教に価値があるのは、勇気を持って死んでいったからだけではなく、勇気を持って最後まで生き抜いた、その生きる姿にこそ、具体的なあかしによる福音宣教としての意味があるのだと思います。

26人の聖なる殉教者たちは、「人間はいったい何のために生きるのか」という問いに、明確な答えを残して、そのいのちを生き抜かれました。聖なる殉教者たちは、現代を生きるわたしたちに、人生においてどのように福音を生き抜くのか、その模範を残されました。

マタイによる福音は、山上の説教の冒頭部分に記されたいわゆる「真福八端」を伝えています。イエスが指摘する幸福の八つの状態、すなわち「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「あわれみ深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」の八つのタイプの幸福は、そうだと納得できるものもあれば、社会の常識から言えば決してそうとも言えない状態もあります。

しかしこの八つの真の幸福を実際に体現されたのは、主イエスご自身であることに気がつかさせられます。八つの幸福は、まさしく主イエスの生きる姿勢そのものであります。神の定められた幸福の道は、人間の常識が考える幸福とは異なっていることを、このイエスのことばが教えています。

わたしたちの信仰の先達である多くの殉教者たちは、本当の価値が、すなわち何のために生きるのかという問いに対する答えが、この世の考える幸福ではなく、神の生き方にこそあることを、見事に証明する人生を全うされました。わたしたちもその姿勢にならって、信仰をあかしする道を歩みたいと思います。

 

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2026年1月24日 (土)

週刊大司教第241回:年間第三主日A

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年間第三主日、神のことばの主日です。

教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』をもって、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に、年間第三主日を神のことばの主日とすることを宣言されました。こちらの中央協議会のページに同書簡へのリンクがありますので、一度ご覧ください。

いのちのパンとしての主イエスの現存である神のことばに親しむことは、主イエスの現存である聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと、第二バチカン公会議は指摘しています。ミサの中で聖書が朗読されるとき、神の言葉はそこで生きており、そこに主がおられます。私たちを生かしてくださる主の言葉の朗読に、真摯に耳を傾けましょう。

また1月の第四日曜日はケルンデーです。戦後からいまに至るまで、多くの支援を頂いたケルン教区のために祈り、同時に現在はともに支えているミャンマーの境界にも思いを馳せていただければと思います。ケルンとの関係の歴史は、東京教区ホームページのこちらをご覧ください。また今年はケルンデーのための共同祈願を用意しました。こちらをご覧ください

年明け早々に衆議院が解散され、2月8日には衆議院議員選挙が行われることになりました。このところ大雪が各地で続いているので、大切な投票日に多くの方が投票所へ足を運べないような事態にならないことを祈っています。

国会議員を選出する選挙は、いつであっても国政の有り様を左右する重要な選挙であり、その結果は日本に住むすべての人の生活に直結するものです。投票する権利のある方にあっては、この機会を大切にしたいと思います。

神から与えられたいのちの尊厳を大切にしているわたしたちは、神の望まれる世界を実現するために力を尽くさなくてはなりません。イエスが告げ知らせ、多くの信仰の先達がいのちをかけて護り伝えてきた福音がわたしたちの社会の価値観を支えるような世界を目指さなくてはなりません。そのためにも、国家の政治のリーダーたちが、聖霊の導きに耳を傾け、神の望まれる平和の実現に向けて歩むように、また、すべてのいのちが守られる世界が実現するように指導力を発揮してくださることを願い、祈りましょう。さらには人間の尊厳が守られる世界の実現に結びつく政治のリーダーが誕生するように、この選挙を前にともに祈り、いつくしみ深い御父の導きと聖霊の照らしを願いましょう。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第241回、年間第三主日のメッセージです。

年間第三主日A(神のことばの主日)
週刊大司教第241回
2026年01月25日

年間第三主日は、「神のことばの主日」です。

イエスはその宣教活動を、「悔い改めよ。天の国は近づいた」ということばを持って始められました。イエスこそは、神の言葉そのものの受肉です。この主日を定められた教皇フランシスコは、使徒的書簡「アペルイット・イリス」で、第二バチカン公会議の「啓示憲章』に言及し、「かつて永遠なる父のみことばが人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったと同様に、神のことばは人間の言語で表現されて人間のことばと同じようなものにされた」と指摘されています。そこに、神が自らいのちを創造し与えられた人間に対する愛の発露が、神ご自身のへりくだりによって明確に表されていると教皇は述べています。

聖書を通じて聖霊の働きを持っていまもわたしたちとともにおられる神のことばは、単にあがめ奉る対象ではなく、「主は自らの花嫁に生きたことばを絶えず語り続け」ているのであって、そのことばに生かされることによって「花嫁である教会は愛のうちに、また信仰のあかしのうちに成長することができます」と教皇は呼びかけます。神のことばは、神の愛の発露であります。

マタイによる福音は、イエスの公生活の始まりを伝えています。

イエスの宣教活動は、それを支え、ともに歩む弟子たちを召し出すことから始まりました。ガリラヤ湖畔でイエスは漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とことばを持って呼びかけます。さらにはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられます。二人ずつ四人を召し出すこの物語は、福音宣教の業が、常に共同体の業であることを象徴しています。同じ愛のことばを持ってイエスは、現代社会にあってもわたしたちに「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけ続けておられます。わたしたちはその声に応えて、「愛のうちに、また信仰のあかしのうちに成長」しているでしょうか。神のことばに呼びかけられているわたしたちひとりひとりの責任は、イエスの言葉に応えて行動することです。

啓示憲章には、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)とも記されています。ご聖体に対する信心を深めるわたしたちは、聖書を通じて語られる神のことばにも、同じように深い尊敬の念を持って耳を傾けたいと思います。そこに主がおられます。

先日行われた臨時の枢機卿会の閉会にあたって、教皇レオ14世はこれから数年間の教会の優先課題を明確にするために、多くの声に耳を傾ける姿勢を明確にし、その上で、「わたしたちはキリストのことばを告げ知らせたいと望みます。それゆえ、現代世界の中であかしを行うことができる、真の霊的生活をわたしたち自身においても生きることが重要です」と呼びかけられました。

わたしたちは、それぞれが生きている場において、それぞれに与えられた方法を持って、神の言葉をあかしする者、すなわち主イエスを多くの人にもたらす者でありたいと思います。

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2026年1月17日 (土)

週刊大司教第240回:年間第二主日A

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降誕祭も終わり、典礼は年間に入りました。年間第二主日です。

教皇レオ14世の最初の使徒的勧告、「わたしはあなたを愛している(Dilexi Te)」の邦訳が終わり、書籍として発売されています。教皇フランシスコが準備されていた、貧しい人への教会とわたしたちひとり一人のかかわりについて記した文書を、教皇職を引き継いだレオ14世が完成させた内容です。この文書を出すことを通じて、教皇レオ14世は、教皇フランシスコが示されたいつくしみの神にならう教会のあり方を引き継いでいくことを宣言されています。ご一読ください、

1月17日の土曜日、東京教区の年始の集いが行われました。以前から行われていた恒例の年初の行事ですが、コロナ禍の中で中止になったり規模の縮小もありました。また以前のように戻していきたいと思いますが、教区内のすべての小教区共同体などから代表の方においでいただき、この一年の教会活動の方針について思いを共有し、聖霊の導きをともに祈る場としたいと思います。今回は土曜日の開催となりましたが、できれば来年以降は成人の日(月曜日祝日)に開催することを考えておりますし、内容も充実させたいと検討中です。

1月18日から25日までは、毎年のキリスト教一致祈祷週間です。東京教区では、1月18日(日)午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でエキュメニカル祈祷集会を行います。事前の予約など不要です。どなたでも参加いただけます。

今年の祈祷集会は司式をわたしが担当し、説教は日本キリスト教協議会の議長である吉高叶先生が担当されます。どうぞご参加くださり、お祈りの時を一緒にしていただければ幸いです。なお今年の全国の祈祷集会の情報などは、中央協議会のこちらをご覧ください

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第240回、年間第二主日のメッセージです。

年間第二主日A
週刊大司教第240回
2026年01月18日

ヨハネ福音に記されている主の洗礼の出来事が、本日朗読されます。その中で、洗礼者ヨハネは、いま自分が洗礼を授けたイエスは、「世の罪を取り除く神の小羊」であって、イエスの誕生の理由が、罪にまみれた人類の救いのためであることを宣言します。

その上で洗礼者ヨハネは、自分の立場を明確にします。つまりイエスは、「私よりも先におられた」方であり、「この方がイスラエルに現れるため」に、自分は水の洗礼を授けてきたのだと語ります。つまりヨハネは、自分が理解したことを語り行っていたのではなく、神によってそうするようにと派遣の使命を受けていたのだということを証言しています。

すべからく預言者は自分の思いや言葉を語るのではなく、神から与えられた使命を果たすために語ります。教会は現代社会にあって預言者でありたいと願っています。再び来られる主イエスを迎えるために、道を備えるものでありたいと思っています。

教会は、自分の思いを伝えているのではありません。自分の考えを表明しているのでもありません。自分が褒め称えられるために行動するのではありません。すべては洗礼を通じてイエスの神性に与ったわたしたちに与えられた、イエスの福音を告げしらせるという使命を果たすためであります。わたしたち教会の語る言葉と行いで、主イエスが現存することを証ししようとしています。わたしたちが伝えるのは、自分ではなく、主イエスです。いのちを生きる希望の源、主イエスであります。

今年も1月18日から1月25日まで、キリスト教一致祈祷週間が行われます。東京でも18日に行われますが、各地でエキュメニカルな祈祷集会が企画されていることだと思います。

今年のテーマはエフェソ書4章4節から「からだは一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」とされています。ここにもわたしたちが、希望の巡礼者としての歩みを続けるようにという招きが記されています

第二バチカン公会議以降、エキュメニズムという言葉で進められている一致運動では、様々な取り組みがなされています。教義の側面や神学的な対話は行われてきてはいますが、実際的にはやはり長年にわたって異なる道で信仰を守っていますから、具体的な組織の合同と言う一致は容易ではありません。しかし、社会のさまざまな問題に取り組む現場では、教団・教派の枠を超えて、互いに協力し合いながら活動することが当たり前になっています。つまり福音を生きる側面での一致はかなり進んでいるとも言えるかと思います。その現場での一致を、霊的な側面にいかに波及させるのかが課題の一つです。

同じ一つのからだ、一つの霊に与り、同じ希望に招かれている兄弟姉妹として、共に社会の中を歩みながら希望の福音を証しする巡礼者であり続けたいと思います。

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2026年1月10日 (土)

週刊大司教第239回:主の洗礼の主日A

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新しい年の最初の週刊大司教です。主の洗礼の主日となります。

2026年も「週刊大司教」の配信は、定期的に継続していく予定です。どうぞよろしくお願いします。以前にも記しましたが、毎週の配信は千人を超える方に見ていただき、時には二千人を超えることもあります。話しているわたしにも、製作している教区広報担当にとっても、多くの方が視聴してくださっていることは継続する力の源となっています。ありがとうございます。心から感謝申し上げます。皆様の主日に向けての祈りの一助になっているのであれば、幸いです。

また、「週刊大司教」や、このブログ「司教の日記」をご存じない方も多くおられると思いますので、ご覧頂いている皆様には、お知り合いの方に紹介などしていただけると幸いです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第239回、主の洗礼の主日のメッセージです。

主の洗礼の主日A
週刊大司教第239回
2026年01月11日

新しい年のはじめにあたり、みなさまにお喜びを申し上げます。

教皇フランシスコによって始められた25年に一度の聖年は、1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられ、終わりを迎えました。このたびの聖年は、聖年としての行事と共に、教皇フランシスコの帰天とレオ14世の選出という出来事が重なり、様々な意味で特別な年でありました。

その聖なる一年は終わりを迎えましたが、教皇フランシスコによって選ばれた「希望の巡礼者」というテーマは、教皇レオ14世に引き継がれ、これからも教会を導き重要なテーマとしてわたしたちに与えられています。わたしたちは、これからも、この混迷し暗闇に沈む社会の中で、希望を証しする巡礼者であり続けたいと思います。

マタイの福音は、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネの所へ出向き、洗礼を受けた様を記しています。神の子羊が洗礼を受けに来たことに驚き、躊躇する洗礼者ヨハネに対して、イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と述べています。

もちろん「正しいこと」とは、神の目において「正しいこと」、つまり神の定めた秩序の実現のために欠かすことのできない選択のことであります。そして、ヨハネが躊躇するのは、自分がそのような尊大な行動は選択できないという人間のごく当然の価値判断に依っているからです。つまり神の計画の実現には、人間の価値観を遙かに超える神の意志に従った行動を選択することが不可欠であることを、イエスご自身の行動が示しています。

「罪のゆるしを得させるために悔い改めの」水による洗礼を受けることは、そもそも罪の汚れのない神であるイエスには必要のないことですが、カテキズムによれば、「その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾」であり(カテキズム536)、罪人である人類に神ご自身が加わることで、水を通じてわたしたちにその贖いの業に与る道が開かれました。水による洗礼はイエスの公生活の始まりを告げています。

希望の巡礼者として、混迷する世界の暗闇の中で希望を証しすることは、それほどたやすいことではありません。神の平和を説き、人間の尊厳を護り、神の賜物であるいのちを守ることを主張することは、必ずしも現実社会の選択と轍を同じくする主張とは限りません。時に、福音に基づいて発言し行動することは、夢物語に生きている非現実的な主張と見なされることも少なくありません。

それでもわたしたちは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」という主御自身の言葉に励まされ、福音のメッセージを証しする巡礼者であり続けたいと思います。

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2026年臨時の枢機卿会@バチカン

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この1月7日と8日、バチカンにおいて臨時の枢機卿会(Extraordinary Consistory)が教皇レオ14世によって招集され、世界中から多くの枢機卿がローマに集まりました。

現在枢機卿は、80歳未満の教皇選挙投票権を持っている枢機卿が122名、80歳を超えているなど投票権を持っていない枢機卿が123名います。総勢245名となりますが、今回の枢機卿会には170名ほどが参加しました。中には非常に高齢で、しかしながら教皇様から委任された役目を果たそうと車椅子で参加された枢機卿様方もおられました。日本からは、前田枢機卿様とわたしが参加させていただきました。

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枢機卿会自体は、新しい聖人の認定などのために定期的に開催されていますが、これには基本的にローマに住んでいる枢機卿たちが参加しています。

それ以外に、新しい枢機卿が任命されるとその叙任式のために枢機卿会が開催され、これにはすべての枢機卿が招集されます。

これらとは別に、様々な課題について教皇様に意見を具申したりするために招集されるのが臨時の枢機卿会です。ベネディクト16世の頃までは、定期的に招集されていたと聞いていますが、教皇フランシスコは臨時の枢機卿会を招集されませんでした。

教皇フランシスコが帰天された直後、教皇選挙前に開催された枢機卿の総会では、新しく任命された枢機卿達がお互いを知らないことが指摘され、是非とも新しい教皇には一年に一度程度には臨時の枢機卿会を招集してほしいという意見が相次いで表明されていました。

そこで、教皇レオ14世は、聖年の扉が閉じられ、教皇フランシスコが定めていたすべての日程が終わった時を見計らって、このたびの臨時の枢機卿会招集となりました。

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枢機卿達に国務省から臨時の枢機卿会開催の通知が来たのが11月初めでした。参加するためには、往復の旅もローマでの宿も、すべて自分で準備する必要があります。バチカンからの支援はありません。今回は幸いにも、サンピエトロ広場に繋がる通りのそばにあるバチカンの宿舎の予約が取れ(多くの枢機卿が宿泊されてました)、往復の旅もターキッシュで確保できました。1月ですから、ヨーロッパ、特にドイツあたりは雪になって欠航が出ることがあり、それを避けるためにイスタンブール経由としましたが、予約の関係で帰途にはイスタンブールで9時間の乗り継ぎ待ちとなり、いまこのブログを、イスタンブールの空港の中で書いています。

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さて、枢機卿会開催の数日前に、国務省を通じてすべての枢機卿に教皇様からの手紙が届き、その中には、これからの教会が進むべき優先課題を明確にしたいので、四つの課題について意見を聞きたいと記されていました。

一つ目は、教皇フランシスコの「福音の喜び」をもう一度読み直して、それを宣教にどう生かしていくことができるのか。

二つ目は、教皇フランシスコの時代に定められた教皇庁改革に伴う諸改革について記した「ローマ教皇庁ならびに 世にある教会に対するその職務についての 使徒憲章『プレディカテ・エバンジェリウム(福音をのべ伝えなさい)』」について。その実施状況などをどう見ているのか。

三つ目は、シノドス性についてのシノドスに関して、その実りをどう生かしていくべきなのか。

四つ目が、様々な伝統を包括した典礼の今後についてどのように考えるのか。

これらの四つが掲げられていました。しかしたった二日で、大勢の枢機卿を集めてどうやってこの四つを扱うのだろうといぶかしく思っておりました。そうしたら、素晴らしい展開が待っていました。

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二日間で三回の霊における会話を行うプログラムとなっていたのです。一日目は午後からでしたので、ティモシー・ラドクリフ枢機卿の講話の後、わたしも参加したシノドスで懐かしいパウロ六世ホールに設置された丸テーブルに移動し、そこで八から九名の枢機卿が、霊における会話をすることになっていました。一回目では、四つの課題の中から優先順位をつけて二つを選択すること。二回目と三回目は、選択された二つの課題について、さらに深めることとなっていました。同時にすべての枢機卿は、教皇様に直接メールで意見書を送付することもできるとされています。

会場で渡された資料の一番上に、資料とは別の書簡があり、二日間、英語グループの一つでファシリテーターをするようにと命じられました。さいわいなことに、わたしがファシリテーターを務めることになったグループ9名は、すべて以前から存じ上げている枢機卿様達でしたし、このグループの書記に任ぜられていたのが、これまた旧知のスーピッチ枢機卿(シカゴ)でしたし、さらにシノドス経験者も多く、みなさんがよく理解されていて、3分や2分の発言時間を基本的には守ってくださったので、ファシリテーターの苦労は半減でした。

枢機卿達は言語別と共に、教皇庁などで働く枢機卿のグループと、教区司教を務める枢機卿のグループに分かれ、後者の教区司教を務める枢機卿のグループが9ありました。教皇様は、ローマにいる枢機卿の意見はいつでも聞けるので、今回は特にこの教区司教を務める枢機卿グループの声を聞きたいと言われ、霊における会話の後の発表も、基本的にはこの9グループの書記が行いました。

教皇様は、枢機卿会の冒頭で、みなさんの声を聞くために来ましたと言われましたが、最初から最後まで、よく耳を傾けてくださったと思います。結局、最初の霊における会話で選択されたのは、シノドスについてと福音の喜びについての、二つの課題でした。

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一日目は午後3時頃から7時まででしたが、二日目は、まだくらい朝の7時半からサンピエトロで教皇ミサ。その後会場で皆で朝食。9時15分から祈りと、グレック枢機卿のシノドスについての導入、そしてシノドスについての霊における会話となりました。

この日の昼食は教皇様が提供され、パウロ六世ホールのロビーに配されたテーブルについて全員で一緒に。さらにその後3時過ぎから、福音の喜びについてフェルナンデス枢機卿の導入後に、霊における会話。最後は、改めて二回のシノドスホールに集まり、教皇様のコメントの後、全員でテ・デウムを歌って、枢機卿会は終わりとなりました。

シノドス性について語り合った先のシノドスに参加し、現在もシノドス特別チームとして日本での実施に取り組んでいる者としては、今回教皇様が、教会にとっての司牧の優先改題を見定めるために霊における会話を採用されたことに、大きな励ましを頂きました。またシノドスの具体化についての異なる地域での取り組みや課題について聞くことができたのも、貴重な体験でした。教皇様の、耳を傾ける姿勢にも、学ぶところが多くあったと思います。

教皇様は、今年中にまた枢機卿会を開催し全員を招集する意向です。また毎年同じような枢機卿会を開催される意向も示されています。第二バチカン公会議以降、神の民としてともに歩んでいる教会が、さらにその姿勢を確立していく道が開かれているように感じた枢機卿会でした。

 

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2026年1月 1日 (木)

神の母聖マリア@世界平和の日2026年

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みなさま、新年明けましておめでとうございます。

2026年がみなさまにとって、神様の祝福に満たされた平和な一年となることをお祈りいたします。

1月1日は神の母聖マリアの祝日であり、世界平和の日でもあります。教皇様の世界平和の日のメッセージはこちらからご覧ください

以下、本日午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた、新年最初のミサ、神の母聖マリアの祝日ミサの説教です。

神の母聖マリア
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年1月1日

新しい年、2026年の始まりにあたり、お喜びを申し上げます。

聖母マリアの人生は驚きの出来事によって彩られた人生です。天使ガブリエルによる救い主の母となるというお告げ自体が、ひとりの少女の人生にとっては大きな驚きですが、イエスの誕生に至る日々も様々な驚きの連続であったことが、福音に記された物語から感じ取ることが可能です。驚きだけではなく、その中でマリアは人生をかけた選択をし、神の計画に身を委ねる決意を固めていきます。

人類の救い主の母となることを告げられたそのときから、また神の御言葉を胎内に宿したそのときから、さらに神のひとり子の母となったそのときから、マリアの心は様々に乱れ、恐れや悩みも様々にあったことだと思います。しかしルカ福音は、マリアがそういった一連の出来事に振り回されることなく、神の計画に信頼しながら、すべてを心に納めて、それらの出来事によって神が望まれる道はどこにあるのかを思い巡らし続けていたと伝えます。

わたしたちが生きている現代社会は、様々な情報が人間の処理能力を超えて世界を駆け巡り、さらには誤った理解やねつ造された事実が飛び回るなど、一つ一つの出来事にわたしたちは取り込まれて振り回され、一喜一憂し、現実を直視して深く洞察することもできないままに反応してしまったりします。そのようなことが続く中で、落ち着いて考えれば他の選択肢もあるとは言え、両極端な言説や過激な行動が見受けられるようになりました。そんな時代に生きているからこそ、わたしたちは聖母マリアが、起こっている出来事を心に納め、神の意思と計画を思い巡らしていたその祈りの姿勢に習いたいと思います。

同時に聖母マリアは、単なる模範ではなく、わたしたち教会の母でもあり、歩みをともにしてくださる方でもあります。神は、人となられた神の御言葉、暗闇に輝く一筋の光として、わたしたちの希望の源ですが、聖母マリアは、その御言葉である御子イエスと歩みをともにされ、わたしたち教会と歩みをともにされる希望の母であります。

教皇フランシスコは「福音の喜び」の終わりに、聖母について詳しく触れていますが、そこにこう記されています。

「(マリアは)すべての者の母として、正義を生み出すまで産みの苦しみを味わうすべての民の希望のしるしです。マリアは、わたしたちの人生に同伴するために身近な存在になってくださる宣教者であり、母の愛を持って、わたしたちの心を信仰へと開きます。」

新しい年の初めにあたり、聖母が信仰のうちに神の計画を探し求め、忍耐の内にイエスと歩みをともにされたように、わたしたちも主の示される道、すなわち聖霊の導きを共に祈りのうちに識別し、主とともに歩み、いのちの希望を掲げながら巡礼者としての歩みを続ける決意を新たにしたいと思います。

さて教会は、新年の第一日目を「世界平和の日」と定めています。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。1974年、教皇パウロ6世は、「マリアーリス・クルトゥス」で、世界平和の日を、神の母聖マリアの祝日に合わせて設けた理由に触れ、「この聖なる母を通してこそ、わたしたちは生命の与え主を受けるにふさわしい者とされた」と記し、その上で「今一度天使たちによる喜ばしい知らせに耳を傾け、平和の女王を通じて、このうえない賜物である平和を神に祈り求める」日であると呼びかけられました。

今日、世界の平和を考える時、ある研究所の報告では現在56もの地域紛争が起こっており、これは第二次世界大戦以降最も多いと言われています。また国境を越えて紛争に関与している国は92カ国にも及んでいると言われます。ガザやウクライナでの状況は言うにおよばず、アフリカでも、そしてアジアでも、小規模な紛争は頻発し、それが将来的に大規模な紛争へと繋がっていく可能性を否定することはできません。武力の行使は真の平和の確立には繋がりません。暴力が暴力を呼び起こす、負の連鎖が始まるだけです。

世界平和の日にあたって、紛争に巻き込まれている各地に平和が訪れることを祈りたいと思います。暴力の波に巻き込まれていのちの危機に直面し、絶望の暗闇の中でいのちをつないでいる兄弟姉妹のために祈りたいと思います。

教皇レオ14世は世界平和の日にあたり、「あなたがたに平和があるように――「武器のない平和、武器を取り除く平和」に向けて」と題したメッセージを発表されています。

2025年5月8日夕刻。第267代の教皇に選出されたレオ14世は、集まっていた多くの人たちに、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられました。その上で教皇様は、「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。・・・これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです」と、武器のない平和を呼びかけられました。

教皇のこの最初の呼びかけは、単なる挨拶の言葉としての「平和」ではありません。なぜなら、その最初の挨拶は、教皇選挙後の慌ただしさの中で即興で考えたスピーチではなく、その日の午前中に行われた二回の投票が終わり昼の休憩となったときに、すでに枢機卿たちの投票行動の推移からご自分が選出される可能性があることを感じたプレボスト枢機卿が、仮にそうなった場合に備えて準備されたスピーチだったからです。いわば教皇レオ14世にとっての、一番最初の施政方針演説でありました。この最初の呼びかけを通じて教皇レオ14世は、混迷を深める現代世界において、平和の確立こそが、教会の最優先課題であることを明確にされました。

今年のメッセージに、教皇レオ14世はその最初の言葉に触れて、次のように記しています。「『あなたがたに平和があるように』。わたしはローマ司教に選ばれた晩から、自分のあいさつの中に、この世界中でともに唱えられる告知を含めることを望みました。わたしたちは繰り返して述べたいと思います。これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです。神はわたしたち皆を無条件で愛してくださいます」

その上で教皇様は、「平和は、目的である以前に、存在であり、歩みです。嵐に脅かされた小さな炎のように内外で反対を受けても、平和をあかしした人々の名前と歴史を忘れることなく、平和を保ってください」と呼びかけ、どんな困難に遭ってもくじけることなく、平和を証しすることをやめないようにとわたしたちを招いています。

混乱の中でもすべてを心に留め、取り乱すことなく神の御心を識別しようとした聖母に倣い、わたしたちも平和を求めて諦めることなく、神の御心を識別しながら、ともに歩んで参りましょう。いのちを護り、すべての人の尊厳を護る世界を実現していきましょう。

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2026年 年頭の司牧書簡

希望の灯火を絶やすことのないように
2026年1月1日

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功 枢機卿

 

 新しい年の初めにあたり、東京教区のみなさまに、ご挨拶申し上げます。

一昨年12月、教皇フランシスコから枢機卿への叙任を受けました。その後、昨年2025年の春に教皇フランシスコの帰天、教皇選挙への参加、新しい牧者レオ14世の誕生、さらに10月9日のローマでの枢機卿名義教会への着座式と、昨年一年は普段にはない行事への対応で教区を不在にすることが続いてしまいました。その間、多くの方にお祈りと励ましを戴いたことに、心から感謝申し上げます。

着座式のためにローマを訪れた際、ジェズ教会を訪問しました。イエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラが葬られているこの聖堂には、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置されています。わたしはローマを訪れるたびごとにこの教会を訪れ、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置された祭壇の前で、感謝の祈りを捧げることにしています。

聖なる宣教師にならって

言うまでもなく、1549年に日本に始めて福音をもたらしてくださった宣教師です。祈りながら心に浮かんだのは、この偉大な宣教師がどれほど大きな不安を抱えて異国の地に足を運ばれたのだろうかということでした。今の時代であれば、宣教師として派遣されるにしても、事前の行き先について情報を集めることが可能です。テクノロジーが進むにつれて、さらにリアルな情報を手にすることも、また行き先の方と事前に打ち合わせをすることも可能でしょう。

しかしその便利さは、逆に、命がけの冒険に歩みを進めていく勇気を現代社会から奪ってしまったような気がしています。十分な知識を持って緻密な計画を立てておかなければ、未知の歩みを始める勇気がないのです。

かつて大海原に乗り出し、遙か彼方のアジアに福音をもたらした聖なる宣教師は、未知の歩みを始める勇気をどこから得ていたのでしょう。それは聖霊の導きにすべてを任せる信仰における勇気であったのだと思います。無計画な蛮勇ではなく、信仰に基づく決断の勇気です。

シノドスの道を歩む教会は、まさしくかつての聖なる宣教師のように、未知の旅路へと歩みを進めるために、聖霊の導きに勇気を持って身を任せる教会です。どうしても緻密な計画を立て、明確な方向性がなければ先に進むことに躊躇してしまう現代社会だからこそ、聖霊に身を任せる勇気が必要です。

聖年の終わりにあたり

「希望の巡礼者」をテーマに掲げた聖年は、各地の教区で昨年末の聖家族の主日に捧げられた閉幕ミサと、ローマにおいては1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられて閉幕します。

教皇フランシスコは、混迷を極める現代社会において神の民が旅路を歩み続けるために、二つの大切なことを提示されました。その一つは、教会とは一体どういう存在なのかを問いかけるシノドスの歩みであり、もう一つが、25年に一度の聖年の機会を捉えて、神の民が希望を掲げて歩みを続ける巡礼者であり続けようという呼びかけでした。

教皇フランシスコは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています」と記し、この世界を旅するわたしたちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されています。同時に教皇フランシスコは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されました。

新しい牧者として昨年5月に教皇に選出され、サンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せた教皇レオ14世の最初の言葉は、「あなた方に平和があるように」でありました。

その上でレオ14世は、「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。・・・これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです」と呼びかけ、平和の確立こそが現代社会における教会の最優先の課題であることを明確にされました。平和の確立こそが絶望の闇を打ち払い、希望を生み出します。いま世界は希望を必要としています。絶望の暗闇を打ち破る希望を必要としています。

ウクライナ、ミャンマー、ガザなど、混迷を深め絶望をもたらし続ける暴力の嵐は止まるところを知りません。神からの賜物であるいのちは、日々、危機に直面し続けています。

先行きへの不安を抱え、将来への道筋が不透明な世界は、いまや自己保身の利己主義的な価値観に席巻され、異質な存在への排除の力と同調圧力が強まっていると感じます。

いのちは神から与えられた賜物です。神の似姿としての尊厳に満ちあふれています。いのちは暗闇の中に輝く希望の源です。いのちへの暴力は、どのような形であれゆるされてはなりません。いのちはその始めから終わりまで、例外なく、人間の尊厳とともに護られなくてはなりません。いのちに対する暴力こそが世界から希望を奪い去り、絶望の闇の支配を許しています。暗闇の中を孤独のうちに歩いているわたしたちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在が必要です。それだからこそ、わたし達はともに巡礼者として希望を掲げ、それをあかしする旅路を続けていきたいと思います。

「希望の巡礼者」は聖年の閉幕とともに終わってしまうのではありません。いのちに対する暴力が続く限り、「希望の巡礼者」たちの教会共同体にはこの世の荒波の中で希望のあかしとなる使命があるのです。希望の灯火を絶やすことのないように、それぞれの場で取り組みを続けて参りましょう。

シノドスの歩みは、希望をあかしする道です。聖霊がどこにわたし達を導いていくのかを、事前に理解することはできません。兄弟姉妹と歩みをともにし、互いに支え合い、ともに祈り合うシノドス的な共同体のあり方は、わたし達を絶望から解き放し希望を生み出す道です。

聖なる宣教師が勇気を持って聖霊の導きに身を任せて、未知の冒険とも言うべき旅路に出たように、わたしたちも勇気をもって聖霊の導きに身を任せる教会でありたいと思います。その決断こそが、シノドスの歩みを進めていきます。

シノドスの道

2028年10月の教会総会に向けて、それぞれの小教区や教区で、理解と実践を深めることが求められています。シノドス第二会期の最後に出された「最終文書(シノドス流の教会)」は、教皇文書としてわたし達に与えられた羅針盤です。

司教団のシノドス特別チームは、先日、2028年10月に向けてのロードマップを公表し、取り組みを呼びかけています。これに従って、東京教区での取り組みも深めていきたいと思います。まずは「シノドス流の教会、交わり、参加、宣教《シノドス最終文書≫」を是非ともご一読ください。その上で、聖霊の導きを識別するための実践である「霊における会話」に慣れ親しんでください。「霊における会話」ができるようになることがシノドス性の確立ではありませんが、聖霊の導きを見いだすためには有用な手段です。今後、教区の中で互いに分かち合っていただくテーマなどを、教区のシノドス担当から、提示させていただきます。

「最終文書」に記されていることについて具体的にどのような選択をするのかは、それぞれの共同体が置かれている社会の現状や生きているコンテキストによって異なっています。しかしわたしたちの教会がどこを向いて歩んでいるのか、どのような困難を抱えているのか、そういうことを共有しながら、ともに歩み、ともに祈り、ともに識別するすべを身につけることは重要であると思います。

宣教協力体の見直しについては歩みが遅くて大変申し訳ありませんが、総代理であるアンドレア司教様のリーダーシップで、昨年一年は、第二期(2023年・2024年)宣教司牧評議会での話し合いに基づいて、教区を大きく七つのグループに分け、訪問する形で具体的なそれぞれの事情に耳を傾ける作業を進めました。歴史的な経緯があることと、具体的に運用が成功している協力体とそうではない協力体もあることから、見直し作業は簡単ではありませんが、今年中に何らかの提案ができるかと思います。それにあわせる形で、宣教協力体の存在と密接に関連する宣教司牧方針の中間見直しと宣教司牧評議会のあり方の見直しを進めて参ります。

皆でともに

社会全体の少子高齢化が激しく進み、教会にもその現実が重くのしかかっています。同時に、外国籍信徒の方々も、教区が公式に統計として出している信徒数に匹敵する数の方々が教区内にはおられると想定しています。長期に一緒に暮らす方も、短期の滞在の方もいるとはいえ、公式統計上は9万人から10万人の間の信徒数の東京教区ですが、実際にはその倍程度には、兄弟姉妹が存在しているものと推定されます。この方々の存在は、東京教区にとって希望の光であるとともに、一緒に教会共同体を育てていく仲間であります。他人ではなく兄弟姉妹です。

そういった中で、教会は秘跡の機会を提供するだけにとどまらず、信仰を同じくする兄弟姉妹による交わりの共同体であることを、改めて意識したいと思います。教会は、司教だけでは成り立ちません。司祭だけでも成り立ちません。修道者だけでも成り立ちません。同じキリストへの信仰に招かれ、同じ洗礼を受け、同じ信仰を告白する兄弟姉妹は、司教であろうと司祭であろうと修道者であろうと信徒であろうと、どの国の出身であろうと、皆同じキリスト者として一緒に教会共同体を作り上げる神の民です。

誰かが育んですべてを準備してくれた教会で霊的サービスを受けるお客様になるのではなく、一緒になって共同体を育てる道に、どうかあなたの力を貸してください。みなさん、お一人お一人の力と助けがなければ、教会は成り立ちません。それがシノドス的教会です。互いを大切にしてください。誰かに助けてほしいと思っているのはご自分だけでなく、教会に集うすべての兄弟姉妹が、それぞれの形で何らかの助けを必要としています。互いの尊厳を尊重し護りながら、耳を傾け合いましょう。助け合いましょう。祈りをともにしましょう。一緒に教会を育み、豊かにしていきましょう。一緒に歩みましょう。一緒に聖霊の導きに身を任せましょう。

希望の灯火を絶やすことのないように、歩みをともにしてくださるあなたの存在が必要です。一緒に歩んで参りましょう。

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謹賀新年

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皆様、新年、明けましておめでとうございます。

新しい年、2026年が神様の祝福に満たされ、神の平和が実現する年となりますよう、また皆様の上に聖霊の導きがありますように、心からお祈りいたします。

この一年もまた、教会のために、東京教区のために、そして私を含め司祭修道者のためにも、お祈りをお願い申し上げます。

年頭に当たっての司牧書簡を記しました。1/2月号の教区ニュースに掲載されておりますので、またこのブログにも掲載しますので、ご一読いただければと思います。

また年初、1月7日と8日には、教皇レオ14世によって臨時の枢機卿会が招集されており、私もローマに出かけて参ります。教皇様のために、また集まる枢機卿たちのためにもお祈りくださいますように、お願い申し上げます。

祝福に満ちた一年の始まりとなりますように。

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