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2026年2月 7日 (土)

週刊大司教第243回:年間第五主日A

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女子修道会の国際総長会議(UISG)によって提案され進められてきた「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」は2月8日です。今年は主日に重なりましたが、この意向を心に留めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としたいと思います。教皇フランシスコは、2015年2月8日のお告げの祈りの時に、この活動に触れ、積極的に行動するように呼びかけました。UISGが中心になって活動するタリタクムでは、この祈りと啓発の日のホームページを設け、今年の活動を紹介しています(日本語がないので、リンク先は英語です)。

今年も教皇レオ14世が、祈りの呼びかけのメッセージを発表されています。(メッセージが発表されたのが2月6日で邦訳ができていないので、こちらのリンクは英語版です

2月8日というのは、聖ジョゼッピーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれました。聖人はカノッサ修道会の会員でした。同会のホームページにはこう記されています。

「バキータは男3人、女3人の6人兄弟でした。お姉さんは1874年、奴隷商人たちにさらわれました。バキータは7歳のころ2人のアラビア人にさらわれました。1ヵ月間監禁され、その後、奴隷商人に売り飛ばされます。ありったけの力をしぼって脱走を試みましたが、羊飼いにつかまり、間もなく、冷酷な顔立ちのアラビア人に売り払われます。その後、奴隷商人に売り払われます」

その後、様々な過酷な体験を経て、イタリアにおいて1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。同修道会のホームページに聖バキータの次の言葉が紹介されていました。

「人々は私の過去の話を聞くと、「かわいそう!かわいそう!」と言います。でも、もっとかわいそうなのは神を知らない人です。私を誘拐し、ひどく苦しめた人に出会ったら、跪いて接吻するでしょう。あのことがなかったら、私は今、キリスト者でも修道女でもないからです」

聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間的な尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために、祈りたいと思います。

教皇レオ14世は今年のメッセージで、教皇に就任したときの第一声と同じく「平和がみなさんと共に」という復活した主イエスのことばを繰り返し、「真の平和は、神が与えたすべての人の尊厳が認められ護られるときに始まる」と指摘され、特に現代社会に宛てオンライン詐欺などを通じて人身売取引に巻き込まれる事案に触れ、「例え小さくとも嵐の中で祈りの炎を絶やすことなく、それによってわたし達は不正義に対する無関心に抗う力を与えてくれる」と述べています。

人身売買・人身取引や奴隷などという言葉を聞くと、現代の日本社会とは関係の無い話のように感じてしまうのかもしれません。実際は,そうなのではありません。一般に「人身取引議定書」と呼ばれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性および児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には,次のような定義が掲載されています。

「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」
(同議定書第3条(a))

すなわち、売春を強制されたり、安価な労働力として,自己の意思に反して、人間の尊厳が守られないような状況下で労働に服させられている人たちの存在は、わたしたちの国でも無関係なことではありません。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第243回、年間第五主日のメッセージです。なおメッセージでも触れていますが、2月11日はルルドの聖母の日であり、また世界病者の日でもあります。今年の教皇様の世界病者の日のメッセージは、こちらのリンクからどうぞ。

年間第五主日A
週刊大司教第243回
2026年02月08日

マタイ福音は、イエスの教えとして、「地の塩、世の光」を記しています。

塩も光も、その果たす役割をふさわしく果たしているからこそ意味があるのだとイエスは指摘します。その上でイエスは、弟子が心にかける大切な原則を示します。

人はどうしても他者からの評価を気にしてしまう存在です。良い行いをする時にも、自分がほめたたえられることを、心のどこかで求めてしまいます。皆、自分がかわいいのです。

しかしイエスは、「あなた方の立派な行いを見て」褒め称えられるべきは、その行いを実行する「あなた」ではなくて、皆が「あなた方の天の父をあがめる」ためだと指摘します。与えられた務めを忠実に果たし、その忠実さを通じて、いのちの与え主である神が称えられるように生きること、すなわち神の愛をあかしする者であることが重要であると、イエスは指摘します。

果たしてわたしたちはどうでしょうか。わたしたちが果たすべき役割に忠実であることによって、わたしたちにいのちを与え、救いへと招いてくださる主ご自身の存在をあかしする者でありたいと思います。

今週の水曜日、2月11日は世界病者の日と定められています。

2月11日は1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、湧き出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出し、多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

わたしたちすべての教会共同体が、ルルドの霊的な安らぎの雰囲気に倣い、訪れる多くの人の心に、希望と生きる勇気を生み出すものでありたいと思います。

教皇様は今年の世界病者の日にあたり、「サマリア人のあわれみ、他者の苦しみを担うことで愛する」というメッセージを発表されています。

その中で教皇様は善きサマリア人のたとえ話の現代的意味を探求する必要を説き、「困窮する人に対する思いやりとあわれみは、単なる個人的な努力にとどまらず、さまざまな関係の中で実現されます。すなわち、困窮する兄弟との関係、彼らを世話する人々との関係、わたしたちにご自身の愛を与えてくださる神との関係です」と記し、助けを求める人との出会いの中で、また互いに助け合う人々との出会いの中で、わたしたちは自我を捨てキリストと出会うことを指摘されます。

その上で教皇様は、「自尊心や自己評価を成功やキャリアや地位や家柄といった固定観念に基づかせようとする思いから離れ、神と兄弟の前での自分の位置を再発見すること」が重要であると指摘しています。

現代社会は、忙しい世界です。インターネットの発達は、それをさらに加速させました。すぐに答えがほしいのです。すぐに結論が知りたいのです。でもその中で、立ち止まって、イエスのまなざしを向け、助けを必要としている兄弟姉妹のために、自分の時間を費やすことの必要性を、あらためて心に留めたいと思います。

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2026年2月 1日 (日)

2026年日本26聖人殉教祭@本所教会

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2月5日は、聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。東京教区の本所教会では、かなり昔から、この記念日に近い主日に殉教祭を続けてこられました。

今年は、本日2月1日の主日に、ミサが捧げられました。

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ミサ後には30分ほど、昨年の教皇選挙やわたしの名義教会着座式などについて、写真を見ながらお話をさせていただき、その後には信徒会館で、今年はいつもの美味のおでんではなく、これまたおいしい豚汁が振る舞われました。準備してくださった皆さん、ありがとうございます。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。後半は週刊大司教とほぼ同じ内容です。

日本26聖人殉教者殉教祭ミサ

2026年2月1日

本所教会

昨年は忙しい一年でありました。復活祭の翌日に教皇フランシスコが帰天され、その直後に始まった枢機卿の総会と教皇フランシスコの葬儀。、それに続く教皇選挙。ちょうど教皇選挙という映画が公開され、日本でも注目していただきました。そして新しい牧者レオ14世の誕生と、10月9日のローマでのわたしの枢機卿名義教会への着座式。さらに昨年一年は希望の巡礼者をテーマにした聖年でもあり、それに関係する行事も多く行われました。忙しい一年が終わり落ち着く間もなく、年明けとともに今度は臨時の枢機卿総会が開かれ、新年早々にローマへ出かけてきました。枢機卿に叙任されてから一年以上たちましたが、それ以前にはなかった様々な行事への参加が増えて、教区を不在にすることが続いていますが、その間、多くの方にお祈りと励ましを頂いてきたことに心から感謝しております。

わたしはローマに出かけるたびごとに、時間が許せばジェズ教会を訪問しています。この聖堂にはイエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラの墓がありますし、かつて日本で活躍しその後イエズス会の総長となられたアルペ神父様もここに葬られています。そしてこの聖堂には、日本の教会にとって重要な聖人である、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置されています。ザビエルはインドのゴアに遺体が安置されていますが、アジア各地で洗礼を授けた聖なる右腕は、ローマに安置され、400周年記念などで日本にも運ばれてきたことがあります。

わたしはこの教会を訪れて、日本にイエス・キリストの福音を一番最初にもたらしてくださった聖人の右腕の前で、その福音宣教の業への感謝の祈りを捧げることにしています。日本の教会は、1549年、聖フランシスコ・ザビエルによって始められました。

昨年の10月、名義教会での着座式を前に、いつもと同じようにこの教会を訪れ、祈りを捧げた時に、一つのことが心に浮かんで来ました。それは、この偉大な宣教師がどれほど大きな不安を抱えて異国の地に足を運ばれたのだろうかということでした。

現代であれば、皆さん、初めて訪れる国に出かける前に何をされますか。ちょっと前であれば、「地球の歩き方」と言うマニュアルみたいな本がありました。今もあると思います。わたしも大変お世話になりました。そして今であれば、まずネットで検索しませんか?到着する空港の情報や泊まるホテルの情報は言うに及ばず、現地の治安や経済状態、何をするべきか、また何を避けるべきか、などなど。ありとあらゆる情報を、出かける前に識ることができます。それだけ情報を事前に調べたとしても、そこがやはり初めて行く国であれば、不安は心に残ります。

それが16世紀はどうだったでしょう。ザビエルには日本について調べる手段は何もなかったことだと思います。事前に断片的な情報はあったことでしょうが、現代のわたしたちが手にするような情報は、全くと言っていいほどなかったことだと思います。それであればこそ、心に抱える不安は大きなものがあったことだと想像します。それでも彼は出かけていきました。大海原に乗り出しました。命がけの冒険であります。

今の時代の便利さは、逆に、命がけの冒険に歩みを進めていく勇気を、わたしたちから奪ってしまったような気がします。十分な知識を持って緻密な計画を立てておかなければ、未知の歩みを始める勇気が出てこない。

聖なる宣教師は、未知の歩みを始める勇気をどこから得ていたのでしょう。それは聖霊の導きにすべてを任せる信仰における勇気、神の計画にすべて身を委ねる勇気でありました。

いまシノドス的な教会になる道を歩むわたしたちは、ともすれば、先行きがはっきりしないがために、どこを目指しているのかを明確に識ることができないために、尻込みし、様々な理屈をこねくり回しては、前進ではなく今の場所にとどまろうとしてしまいます。不安なのです。先行きが見えないので不安なのです。教会はいま、まさしくかつての聖なる宣教師のように、未知の旅路へと歩みを進めるために、聖霊の導きに勇気を持って身を任せようとしています。

2月の最初の週には、日本の教会の殉教者の記念日が二つ並んでもうけられています。2月3日は福者ユスト高山右近、そして2月5日が聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。

福者ユスト高山右近は、生涯をかけて信仰を守りぬいたが故に、すべてを失い、生まれた国を追われ、家族とともにマニラに追放処分となりました。1614年末のことです。右近は、その直後に熱病にかかり、翌1615年2月3日に、マニラで亡くなられたと伝えられています。信仰のために、すべてを奪われ、それでも喜びと希望のうちに信仰を全うした生き方が、殉教者としての生き方であると教会は認めました。

右近を大名の座から追放しようと決めた秀吉の気持ちを和らげるため、「妥協せよ」という周囲の忠告に耳を貸さず、右近は説得する周囲に対して、「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」と述べたと伝えられています。

「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」という覚悟は、わたしはわたしの考えるように生きるという宣言ではなく、わたしの人生は神の手に委ねられているという宣言であります。神にすべてを委ねる勇気が、右近にはありました。

本日このミサでわたしたちが記念している日本26聖人殉教者。1597年2月5日、長崎の西坂の地で、信仰を守り抜き、そのいのちを神にささげた26人は、「人間は一体何のために生きるのか」という問いかけに対する答えを、その生涯の言葉と行いを通じて、多くの人に対して証しいたしました。最後の最後まで神の計画に身を委ねるという勇気を、多くの人の目の前で証しして行かれました。

26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、神の計画にすべてを委ねるという勇気ある行動であることを証ししました。殉教に価値があるのは、勇気を持って死んでいったからだけではなく、勇気を持って神の計画に身を委ね、それを最後まで生き抜いた、その生きる姿にこそ、具体的なあかしによる福音宣教としての意味があります。

26人の聖なる殉教者たちは、「人間はいったい何のために生きるのか」という問いに、明確な答えを残して、そのいのちを生き抜かれました。聖なる殉教者たちは、現代を生きるわたしたちに、人生においてどのように福音を生き抜くのか、その模範を残されました。

シノドスの歩みは、勇気を持って神の計画に身を委ね、いのちを生きる希望をあかしする旅路です。聖霊がどこにわたし達を導いていくのかを、事前に知ることはできません。兄弟姉妹と歩みをともにし、互いに支え合い、ともに祈り合うシノドス的な共同体のあり方は、わたし達を絶望から解き放し希望を生み出す道です。

聖なる宣教師が勇気を持って聖霊の導きに身を任せて、未知の冒険とも言うべき旅路に出たように、わたしたちも勇気をもって聖霊の導きに身を任せる教会でありたいと思います。

 

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