2026年世界病者の日ミサ@東京カテドラル
2月11日は、世界病者の日です。午後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で世界病者の日のミサを捧げました。
今年の世界病者の日に当たり、教皇レオ14世はメッセージを発表されています。邦訳はこちらのリンクです。
なお病者の日のミサは東京教区のカリタス東京によって企画されています。カリタス東京は、いわゆるカリタスジャパンの支部のような形で援助の募金を集めたりする団体ではなくて、教会の愛の業(カリタス)を様々な分野から取り組む諸活動団体を束ねる組織です。残念ながらいまの教会には、かつてのように様々な活動に専属する人材を確保する余裕がありません。かつては社会における愛の業を具体化するために、様々な組織が立ち上げられて力強く活動をしてきました。いまは、そういった個々の活動をなくしてしまうことなく続けるために、できるところは(例えば事務処理や行事の企画など)まとめて一つの組織にした方が、継続できると考えて、数年前から社会活動計の様々な委員会をまとめてカリタス東京といたしました。
カリタス東京のホームページには、今後の研修会のお知らせなどもありますから、こちらのリンクから是非ご覧ください。
以下、本日のミサの説教原稿です。
世界病者の日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年2月11日
ルルドは単なるフランスの地名ではなく、聖母マリアを通じて心と身体に癒やしがもたらされる聖地を象徴する名前として世界に広く知られています。聖母マリアが少女ベルナデッタに出現されたのは、1858年2月11日のことでした。それから聖母は18回にわたってベルナデッタに出現され、ご自身を「無原罪の御宿り」であると示されました。関口教会にあるルルドは、フランスのルルドの写しであると言われていますが、各地にあるルルドは、フランスのルルドとは異なるそれぞれの形状をしています。しかし異なるそれぞれが「ルルド」と呼ばれて愛されているのは、「ルルド」と言う名前が象徴する癒やしと希望を、多くの人が求めているからに他なりません。聖母に促されてベルナデッタは洞窟の地面を掘り、湧き出た水は泉となり、その水によってもたらされた病気の奇跡的治癒は、その後いまに至るまで七十以上が、公式な委員会によって奇跡と認定されています。それ以外にも個人的に何らかの形で癒やしを得た人、また心に安らぎを得た人は、数え切れないほど存在しています。
1993年に、教皇聖ヨハネパウロ二世は、聖母マリアを通じたこれらの奇跡的な治癒を思い起こさせるルルドの聖母の記念日、すなわち2月11日を、世界病者の日と定められました。この日の制定にあたって教皇聖ヨハネパウロ二世は、二つの点を心に留めるように呼びかけています。
第一に、善きサマリア人の業を現代社会において具体的に生きることは、教会にとって福音宣教の重要な部分であるということを神の民全体が理解し、教会は自らの働きを通じて、社会全体が病者と苦しむ人へ心を向けるよう努めることを優先すること。
第二には、この世界に蔓延している理不尽とも思える人間の苦しみを、キリストの受難と死における苦しみと一致させることで、わたしたちがキリストの贖いの業における栄光に与ることができるのだと心に留め、キリスト者としての霊的な成長を目指すこと。この二点です。
教皇聖ヨハネパウロ二世は、人類の救いのための力は苦しみから生み出されることを、キリストの生涯が、そしてキリストの自己譲与があかししていると指摘します。イエスの十字架での受難と死の苦しみこそが、復活の栄光を生み出す力を生み出しました。同様に、この世界における人類の苦しみは、いのちを生きる希望を生み出す源であると教皇は強調されました。
もちろん病気から奇跡的に回復を遂げるということは、病気の苦しみのうちにある人にとって、またともに歩む人にとって、大きな意味があります。しかしながら同時に、奇跡的な病気の回復は、日常にありふれたことではなく、本当にまれにしか起こりません。
ですから教会が病者のために祈るというのは、もちろん第一義的には、イエスご自身がそうされたように、具体的に奇跡的な病気の治癒があるようにと願ってのことですが、同時にもっと広い意味をそこに見いだして、祈りを捧げています。それは互いの結びつき、助け合い、思いやりの次元から、主イエスと出会い、ともに歩むためであります。
私たちは、様々な意味で病者であります。完全で完璧な人間などは存在しません。たとえば障がい者という言葉に対峙するかのように、健常者などと言いますが、実際にはすべての人が大なり小なりなにがしかの困難を抱えて生きているのであり、また年齢を重ねれば当然に、心身の困難さは増し加わっていきます。目に見える肉体的な困難さではなく、心に困難さを抱えている人も多くおられるでしょう。その意味で、完全完璧な健常者という存在は、本当はあり得ないものだと思います。
すべての人が、実はなにがしかの困難を抱えて生きているからこそ、その程度に応じて、わたしたちは助け合わなければならないのです。支え合って生きていかなくてはならないのです。支え合いは一方通行ではなく、互いに支え合ってともに歩む。まさしくシノドス的なともに歩む神の民の生きる姿勢であります。わたしたちは誰かに手を差し伸べて生きていくだけでなく、誰かに支えられて生きているのだと意識することは、共に同じ神の賜物であるいのちを生きるものとして、大切な感覚であります。
教会こそは、なにがしかの困難を抱えて生きているわたしたちが、互いに耳を傾け、互いに支え合い、共に祈り、ともに歩んでいく共同体であります。ともに歩むわたしたちに対して、主イエスの癒やしの手が差し伸べられています。神の民としてともに歩む時、その真ん中におられる主イエスは、ご自分の癒やしの手をわたしたちに差し伸べ、わたしたちをその手に抱き、心に安らぎを与え、いのちを生きる希望を生み出してくださいます。
世界病者の日は、具体的な病気や困難さを抱えている人たちだけを対象にした、特別な人のための特別な日なのではなく、わたしたちすべてが、主の癒やしの手に包み込まれ、安らぎと希望を与えられていることに感謝し、自分も同じように生きようと決意する日であります。
教皇レオ14世は、今年の世界病者の日のための特別な行事を、ご自分がかつて働かれたペルーのチクラヨ教区で行うこととされ、ご自分の代理として、総合的人間開発促進省長官のチェルニー枢機卿様を派遣されました。
また、「サマリア人のあわれみ・他者の苦しみを担うことで愛する」と言うテーマのメッセージを発表されています。
その中で教皇様は、 「わたしたちはスピードと即時性と性急さの文化の中に浸されていますが、同時に、使い捨てと無関心の文化の中にも浸されています。そのため、周囲にある必要と苦しみに目を向けるために近づき、途中で立ち止まることができません」と、強盗に襲われた人のために立ち止まることのなかった祭司とレビ人について触れ、現代社会には困難を抱えている人のために自分の時間を割く勇気のある人が欠如していると指摘されます。
その上で教皇様は、「すすんで人に近づかなければ、だれも隣人にはなれません。だから、あわれみを示した人が隣人となったのです」と述べ、サマリア人のあわれみに満ちた行動は「単なる博愛的な行為ではなく、他者の苦しみに個人的にあずかることは自分自身を与えることだということをそこから感じ取らせてくれるしるしです」と指摘しています。
教皇様はわたしたちひとり一人が、自分の時間を割いていつくしみの行動をとることで、「わたしたちが一つのからだの真の部分であると感じる」ことの重要性を説き、その感覚によって、この一つの身体の頭である「キリストの苦しみと一致」することができると述べておられます。
わたしたちは、単に主イエスの癒やしの手に包まれて安心を得たいだけでなく、主イエスと一致したいと願っています。そうであるならば、自分も助けられ生かされていることを自覚しながら、自分の時間を割いて、困難を抱える人とともに歩む道を選択するしかありません。
謙遜さのうちに互いに支え合い、共に祈り、ともに歩んで参りましょう。
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