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2026年3月28日 (土)

週刊大司教第250回:受難の主日A

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週刊大司教の250回目にあたる本日は、受難の主日(枝の主日)であり、聖週間が始まります。

すでに東京大司教区のホームページでも公表されているとおり、聖週間中の東京カテドラル聖マリア大聖堂での典礼は、インターネットで配信されますし、後刻にご覧頂くことも可能です

なお、聖土曜日については、「週刊大司教」の配信はお休みです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第250回、受難の主日のメッセージです。

受難の主日A
週刊大司教第250回
2026年03月29日

わたし達は受難の主日から始まる聖週間において、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。受難の主日では、まず冒頭に主イエスのエルサレム入城が朗読され、そしてミサでは主の受難が朗読されます。今週の週刊大司教では、冒頭のエルサレム入城を朗読いたしました。

エルサレムに入城するイエスを、人々は熱狂のうちに迎えます。しかし支配者からの解放をもたらす政治的なリーダーの誕生を待ちわびている民衆の願望は、熱狂を生み出し、熱狂は、心の目をふさいでしまいます。謙遜さのうちにロバに乗って人々と共に入場するイエスの姿を見つめる群衆は、その心の目が熱狂に支配され、イエスが生涯をかけて伝えた神の福音の真髄が、ロバに乗った謙遜な姿に凝縮されていることに気がつきません。心は自分たちの勝手な願望に支配されているからです。

イエスを熱狂のうちに迎えた群衆は、その数日後に、今度はイエスを十字架につけて殺すようにと要求する群衆へと変身していきます。熱狂は冷めやすいのです。扇動された熱狂に支配された人々の心の目には、十字架を背負い罵られながら歩みを進めるイエスの姿に、イエスが生涯をかけて伝えた神の福音の神髄が凝縮されていることに気がつきません。わたしたちに必要なのは、自分たちの願望が生み出す熱狂から距離を置き、心を落ち着かせ、現実のうちに時のしるしを探ることであります。

時として熱狂は、暴力的な負の力を生み出します。熱狂が生み出す暴力は、わたし達のいのちに対して牙をむくことがあります。信仰は興奮の産物ではありません。信仰は静かな出会いの中で見いだされるものです。熱狂した心が見ようともしない現実のうちに、主はおられます。

便利になった世界でインターネットによる情報の拡散は、時にイエスをエルサレムに迎え入れた群衆を支配したような熱狂で、世界を包み込む力を持っています。善と悪の対立のような単純な構造は現実にはあり得ないにもかかわらず、熱狂による興奮は判断を単純化した裁きへとわたし達を誘います。その裁きがさらに生み出す熱狂は、自分勝手なイメージを増幅し、そのイメージに支配される心の目は、そこに生身の人間の存在があることを、賜物であるいのちを生きている神から愛される人間の存在があることを、人の心があることを、見えなくしてしまいます。時としてその熱狂は、イエスを十字架の死に追いやったように、暴力的な負の力を持って賜物であるいのちを破滅へと追いやることさえあります。

教皇様は今年の四旬節メッセージで、「断食」」について語る中で、こう呼びかけます。

「隣人を攻撃し、傷つけることばを控えることです。ことばの武装を取り除くことから始めようではありませんか。辛辣なことば、性急な判断、その場におらず弁解できない人の悪口をいうこと、中傷することをやめようではありませんか。むしろ、ことばを慎み、優しさをはぐくむことを学ぶために努力しようではありませんか。家庭の中で、友人の間で、職場で、ソーシャルメディアにおいて、政治的な議論において、メディアにおいて、キリスト教共同体において。そうすれば、多くの憎しみのことばは希望と平和のことばに代わることでしょう」。

主は、わたしたちの目の前に静かに佇まれ、わたし達が熱狂から解放され、「多くの憎しみのことば」を「希望と平和のことば」に変えられるのを待っておられます。いったいわたしたちは何を見ているのでしょうか。

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2026年3月21日 (土)

週刊大司教第249回:四旬節第五主日A

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四旬節第5主日です。

この一週間は、国際カリタスの総裁の業務で、カリタスアフリカの総会に出席するため、アフリカのコートジボアールへ出かけており、土曜の夜まで帰国していません。詳細については、帰国後に報告します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第249回、四旬節第五主日のメッセージです

四旬節第五主日A
週刊大司教第249回
2026年03月22日

復活祭を間近に控えた四旬節第五主日、イエスの親しい友であったラザロの死と復活の話が、ヨハネ福音から朗読されます。特に復活祭に洗礼を受けるために最終の準備の時期に入る教会は、本日のミサにおける洗礼志願者のための祈りで、「あなたはラザロと墓の中から呼び起こし、またご自分の復活によってすべての人を死から解放して」くださった記します。それによってラザロの復活と主の復活は異なる現実であることを明示します。すなわち、ラザロは主によって呼び起こされたのであり、主はご自分で復活されたと明示することで、主こそがいのちの与え主であり、復活であり、永遠のいのちであることを、信仰においてわたしたちが再確認するようにと促しています。主こそはいのちの与え主であり、復活であり、いのちであります。

イエスは、ラザロの死という苦しみに直面して、単に悲しみに暮れるのではなく、その痛みと苦しみを通じてこそ、神は栄光を現すのだと明示されました。そして御自身も受難の道へと歩みを進められ、十字架上で苦しみの後にいのちをささげられます。しかしその苦しみを通じて、神は永遠のいのちへの復活という栄光を世に示されました。

教皇ベネディクト十六世は、15年前の3月11日に発生した東日本大震災の苦しみを経験した日本の少女の質問に、海外メディアの企画でしたが、答えたことがありました。

「なんで子どもも、こんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」と問いかける少女に対して、教皇は、「これに対する答えを持ちません」と、正直に応えられました。

その上で、「でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。・・・神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。・・・今、大切なことは、『神様はわたしを愛しておられる』と知ることです」と、苦しみのなかにあっても神の愛に身を委ねることが希望を生み出すのだと強調されました。

ベネディクト16世は回勅「希望による救い」のなかで、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

復活祭が近づいた今、改めてわたし達の信仰の原点であるいのちの与え主との出会い、そして苦しみを通じてこそ現される神の栄光に信頼し、特にこの時期、洗礼の準備をしている兄弟姉妹と歩みを共にしながら、信仰における希望を新たにいたしましょう。

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2026年3月15日 (日)

2026年四旬節第四主日ミサ@東京カテドラル

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以下、本日四旬節第四主日の、関口教会午前10時の主日ミサでの説教の原稿です。

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なお関口教会10時のミサでは、14名の洗礼志願者のための典礼が行われました。洗礼を準備されているみなさんのために、祈ります。

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またミサ後には、ケルンホールで、四旬節の講話を担当させていただき、多くの方に参加していただきました。ありがとうございます。

四旬節第四主日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年03月15日

2月28日の土曜日、米国とイスラエルによるイランへの攻撃が突如始まり、世界は今この時点でも、大きな混乱の中にあります。

すでにコロナ禍の2021年2月1日に発生したミャンマーでのクーデター、それに続く2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻、2023年10月7日に発生したイスラエルによるガザへの攻撃と、世界は武力という暴力によって、神様からの賜物であるいのちが奪われていく様を目の当たりにしてきました。

ウクライナでの戦争が始まる前日、教皇フランシスコは悪化する両国関係と迫り来る戦争の気配に憂慮を示し、こう述べておられました。

「神の前で真剣に良心を問いただすよう、政治責任を負う人々に呼びかけたいと思います。神は平和の神であって、戦争の神ではありません。神は皆の父であり、誰かのものではありません。わたしたちが必要とするのは兄弟であり、敵ではありません」

この呼びかけにもかかわらず、その翌日、多くのいのちが奪われる暴力が始められました。わたしたちが生きているこの時代、世界は、かつてのような世界大戦ではないものの、もっと巧妙に、また発達した技術を使ってもっと冷酷に、そしてかつてよりもっと広範囲で、戦争のうちになんとか生き延びています。

1939年8月24日、第二次世界大戦勃発の気配が支配する世界に向かって、教皇ピオ12世は、ラジオでこう呼びかけました。

「平和によってはなにも損なわれないが、戦争によってはすべてが失われうる」

第二次世界大戦前夜のピオ12世の言葉をかみしめながら、あらためて教会は、「武力に頼るのではなく、理性の光によって-換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(「地上の平和」62)」、国家間の諸課題は解決されるべきであるという、ヨハネ23世の「地上の平和」に記されたことばを心に留めます。その上で、国家間の諸課題の解決を口実として、神からの賜物であるいのちを危機に直面させ、人間の尊厳を奪う武力に委ねることはゆるされないと主張します。わたしたちの共通の家が平穏に保たれ、神の秩序による支配が確立されるように、政治の指導者たちが忍耐と対話を持って信頼を醸成し、解決の道を模索することを心から願っています。

今日、この瞬間にも、いのちの危機を感じながら恐怖のうちにいのちをつないでいる兄弟姉妹がいることを、仕方がないと諦めてしまうことはできません。

ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復したという奇跡物語を記していました。ちょうど第一朗読のサムエル記には、ダビデの選びの物語が記されていますが、誰もが予測しなかった人物を、神は選ばれたという物語は象徴的です。

神はサムエルに対して、「人間が見るようには見ない。人は目に映ること見るが、主は心によって見る」と述べていますが、そのことばがまさしく本日の福音の物語が語ろうとしていることを象徴しています。

イエスによる奇跡的な癒やしを目の当たりにしながら、ファリサイ派の人々は、安息日の掟を破ったとして、イエスの示される神の真理に自ら目を塞いでしまいます。「見える」と言うことばが、実際に目で見ることと、心の目で理解することの二つの意味があることをわたしたちは知っています。そしてイエスが強調しているのは、まさしく神がダビデを選んだように、目で見えることに心を惑わされずに、心の目で真理を見いだすことの重要性です。

福音の終わりに記されている、視力を回復した人とイエスとの会話は象徴的です。視力を回復した人は、実際に目でイエスを見ており、その人がこの奇跡を働いたことを十分に知っているにもかかわらず、イエスに対して「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と問うています。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。そのことばによって心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。奇跡を働いた神の真理に触れることができたが故の信仰告白です。

ファリサイ派の人たちは、自らの前に枠を設置しているかのように、自分たちが見たいものしか見ない態度を象徴しています。ファリサイ派の人たちは、自分たちの枠組みでしかこの世界を見ることができません。枠からはみ出すものは、存在しないも同様です。ですからその枠に収まらない奇跡的出来事を目前にして理解することができずに、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、反対に癒やしを与えられた人を叱りつけています。わたしたちも、自分の価値観に基づいた枠を目前に堅持している限り、心の目を通じて神の真理に到達することはできません。いまの世界はまさしく、それぞれがそれぞれの価値観に基づいた枠組みを目の前に掲げ、そこからはみ出る事実に目を塞いでいるかのようです。そこには対話や妥協の余地はありません。

わたし達は、目の前で展開する現実に対して謙遜でありたいと思います。現実はわたし達の思い通りにはなりません。何でも自分でコントロールできるわけでもありません。謙遜に、目前に展開する現実と対峙し、そこに響いている真理の声に耳を傾けたいと思います。心の目で見るためには、謙遜にまっすぐに耳を傾け、神の声を聞き取ろうと努めることが必要です。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという考えは、いのちの創造主である神の前での思い上がりだと戒め、いのちに対する様々な暴力的攻撃に満ちあふれた現代社会の現実を、「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を告げしらせ、実現しなければならないと強調されました。

その上で教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています」と記しています。わたしたちには、殺すなと呼びかけるにとどまらず、いのちを尊び、愛し、守り、育てると言う積極的な務めが課せられています。

パウロがエフェソの教会への手紙で記したように、教会共同体は暗闇にあるこの世界にあって。「あらゆる善意と正義と真実が生じる」光の子として歩むようにと進めています。わたしたちはどのような困難な状況の中でも、いのちを奪う暴力の中でも、臆することなく、与えられた光を放つ存在でありたいと思います。いのちの文化を告げ知らせる者でありたいと思います。いのちを尊び、愛し、守り、育てる者でありたいと思います。

 

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2026年3月14日 (土)

週刊大司教第248回:四旬節第4主日A

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四旬節も後半、第四主日となりました。

米国とイスラエルによるイランへの攻撃以来、すでに混乱していた世界はさらに暴力の支配による混乱によって翻弄されています。あらためて忍耐と対話による信頼醸成を基礎とした平和構築を呼びかけ、神からの賜物であるいのちが、暴力的に奪われることのない世界の実現に努めることを、特に政治のリーダーたちに求めたいと思います。

第二次世界大戦後、その悲劇的な体験から多くを学んだはずの人類は、例えば国連憲章などを通じて、国家が武力によって現状変更することを否定してきたはずでした。すでにこの数年の暴力的な混乱と戦争の状況で、国連自体が力を失い、国連憲章は忘れ去られようとしています。国連憲章の第2条四項には、こう記されています。

国連憲章第2条4項:「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」

残念ながら、こう定められた理念は、全く非現実の定めとなってしまいました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第248回、四旬節第四主日のメッセージです。

四旬節第四主日A
週刊大司教第248回
2026年03月15日

ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復するという奇跡を行い、それに対してファリサイ派の人々が、安息日の掟を破ったとして、イエスの示される神の真理に自ら目を塞いでしまった話を記しています。

この物語からわたし達は、「見える」と言うことばが、実際に目で見ることと、そうではなく心の目で見ることの二つの意味があることを知ることができます。そしてイエスが強調しているのは、目で見えることに心を惑わされずに、心の目で真理を見いだすことの重要性です。

福音の終わりに記されている、視力を回復した人とイエスとの会話は象徴的です。視力を回復した人は、実際に目でイエスを見ており、その人がこの奇跡を働いたことを十分に知っているにもかかわらず、イエスに対して「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と問うています。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。そのことばによって心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。奇跡を働いた神の真理に触れることができたが故の信仰告白です。

ファリサイ派の人たちは、自らの前に枠を設置しているかのように、自分たちが見たいものしか見ない態度を象徴しています。福音は、ファリサイ派の人たちと視力を回復した人とのやりとりを記しています。不可思議な病気の治癒が起こったからこそ、この人を呼び出したにもかかわらず、ファリサイ派の人たちは、自分たちの枠組みでしかこの世界を見ることができません。枠からはみ出すものは、存在しないも同様です。ですからその枠に収まらない奇跡的出来事を目前にして理解することができずに、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、逆ギレして見せます。わたしたちは、自分の価値観に基づいた枠を目前に堅持している限り、心の目を通じて神の真理に到達することはできません。

わたし達は、目の前で展開する現実に対して謙遜でありたいと思います。現実はわたし達の思い通りにはなりません。何でも自分でコントロールできるわけでもありません。謙遜に、目前に展開する現実と対峙し、そこに響いている真理の声に耳を傾けたいと思います。心の目で見るためには、謙遜にまっすぐに耳を傾けることが必要です。

教皇様は今年の四旬節メッセージで、回心における「耳を傾ける」ことの重要性に触れて次のように記しています。

「燃える柴からご自分をモーセに現された神ご自身が、耳を傾けることがご自身の存在の特徴であることをお示しになっています。・・・このように耳を傾ける内的な態度をもつとは、今日、神から、神と同じように耳を傾けることを学ばせていただくことです。そこからわたしたちは、『貧しい人々の状況が上げる叫び声が、人類の歴史を通じて、わたしたちの生活、社会、政治・経済体制、とりわけ教会にたえず問いかける』ことを認識します」。

心の目で真理を見いだすことができるように、耳を傾け謙遜に学ぶ姿勢でありたいと思います。

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2026年3月 7日 (土)

週刊大司教第247回:四旬節第三主日A

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四旬節第三主日です。

アジア司教協議会連盟(FABC)は、今週、3月3日朝から5日夕方まで、バンコクのカミロ会司牧センターで、年に一度の中央委員会を開催しました。中央委員会はアジアの各国地域の司教協議会会長と、香港・マカオ・ネパールなど司教協議会に属していないアソシエートメンバーの代表(現在は香港が代表)、そして各部局の責任司教と秘書も参加します。わたしは日本の司教協議会会長として、また現在二期目を務めているFABCの事務局長として、参加しました。 

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現在の会長はインド、ゴア教区のフィッポネリ枢機卿、副会長はフィリピン、カローカン教区のダビド枢機卿で、実際にバンコクの事務局を切り盛りしているのは、メリノール会のウィリアム神父です。

会場は、バンコクのスワンナプーム国際空港の近くにある、カミロ会が開設する児童のための福祉施設に隣接している、司牧センターです。司牧センターには、貧しい人のための優先的関わりを再確認した教皇レオ14世のディレクシ・テのバナーが掲げられていました。

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中央委員会は年に一度集まり、四年ごとに行われる総会の決めた方向性に従って、各部局がどのような活動をしており何を企画しているのかを聞きながら、全体の活動などについて具体的な決定をしていきます。また現在、規約を現状に見合う形で改定する作業を続けていますし、また今年の7月にインドネシアで開催される総会の内容についても話し合いました。

同時に、現在のイランをはじめとした中東での不安定な状況に鑑みて、平和を求める声明も採択しました。


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また昨年11月にマレーシアのペナンで行われたアジア宣教大会(GPH:希望の偉大なる巡礼)の報告書もできあがり、そのプレゼンも行われました。(下の写真)

アジアは中央アジア、南アジア、東南アジア、東アジアの四つの地域に分かれており、それぞれから、9ある部局に責任司教と委員司教、そして秘書を、まんべんなく選出し、アジア全体で福音宣教の課題に取り組んでいく司教達の組織です。しかし、公用語である英語で責務を果たしていく必要から、どうしても英語を日常的に使う国の出身者が多く任命されることになっています。それでも日本を含めてアジア全体で、できる限り役割を分担して、一緒に取り組んでいくという、シノドス的なあり方が、再確認されました。また司教達の組織ですので、勢い男性ばかりになりがちですが、女性心との神学者もアジアには大勢いることから、様々な分野で、今後も女性信徒や奉献生活者の関わりを増やしていくことも確認されました。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第247回、四旬節第3主日のメッセージです。

四旬節第三主日A
週刊大司教第247回
2026年03月08日

教会とは、どういうところでしょう。教会とは正しい人だけの集まりではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。いつくしみ深い御父は、ご自分が創造されたすべてのいのちを、永遠のいのちにおける救いへと招こうとされています。教会は御父のその招きが具体化し全うされるようにと、すべての人を招き入れる存在であるはずです。回心を成し遂げた人だけを迎え入れるので把握、まずすべてのいのちを招き入れ、共同体の中で共に祈り、共に耳を傾けあい、聖霊の声に導かれながら、ともに回心の道を歩まなくてはなりません。シノドス的な教会は、特定の人だけの共同体ではなく、すべての人を招き入れる神の民です。すべての人が、回心へと招かれています。罪における弱さの内にあるわたしたちに、教会は常に回心を呼びかけています。

ヨハネによる福音は、のどの渇きをいやすこの世界の水について話すサマリアの女に対して、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語るイエスのことばを記しています。

イエスはサマリアの女に対して、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われ、この世における乾きの癒やしではなく、本当に大切なもの、すなわち永遠のいのちへと目を向けるように促します。水の定義について語るのではなく、目の前に存在する永遠のいのちの源である御自分に目を向けるようにと、促します。

わたしたちは、どこへと目を向けているでしょうか。神に向かってまっすぐと歩むために、見つめなくてはならないのは、永遠のいのちの源である主ご自身です。主ご自身との具体的な出会いが、サマリアの女を救いへと招きました。主との出会いは、回心への招きです。

今年の教皇様の四旬節メッセージ、「耳を傾け、断食する」には、「回心は、一人ひとりの良心にかかわるだけでなく、人間関係のあり方、対話の質、現実からも問い直され、教会共同体においても正義と和解に飢え渇く人類においても真の欲求を方向づけるもの、それを見いだす能力にもかかわります」と記されています。わたし達の回心は、自分とは異なる存在と歩みを共にし、困難の直面する人に手を差し伸べ、罪を悔いる人をいのちの希望を見いだす回心へと招くものであるはずです。

福音は、「わたし達が信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」というサマリア人達のことばを記しています。主との出会いを通じて強められるわたし達の関係は、さらにそれを多くの人へと伝える業へとわたし達を招きます。回心は宣教への招きでもあります。わたし達の証しを通じて回心へと招かれた人は、さらに自分自身の回心における主との出会いを通じて、さらなる福音宣教者へと変えられていきます。

わたし達ひとり一人への回心への招きは、神の民に対する福音宣教者となる招きでもあります。

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