2026年四旬節第四主日ミサ@東京カテドラル
以下、本日四旬節第四主日の、関口教会午前10時の主日ミサでの説教の原稿です。
なお関口教会10時のミサでは、14名の洗礼志願者のための典礼が行われました。洗礼を準備されているみなさんのために、祈ります。
またミサ後には、ケルンホールで、四旬節の講話を担当させていただき、多くの方に参加していただきました。ありがとうございます。
四旬節第四主日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年03月15日2月28日の土曜日、米国とイスラエルによるイランへの攻撃が突如始まり、世界は今この時点でも、大きな混乱の中にあります。
すでにコロナ禍の2021年2月1日に発生したミャンマーでのクーデター、それに続く2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻、2023年10月7日に発生したイスラエルによるガザへの攻撃と、世界は武力という暴力によって、神様からの賜物であるいのちが奪われていく様を目の当たりにしてきました。
ウクライナでの戦争が始まる前日、教皇フランシスコは悪化する両国関係と迫り来る戦争の気配に憂慮を示し、こう述べておられました。
「神の前で真剣に良心を問いただすよう、政治責任を負う人々に呼びかけたいと思います。神は平和の神であって、戦争の神ではありません。神は皆の父であり、誰かのものではありません。わたしたちが必要とするのは兄弟であり、敵ではありません」
この呼びかけにもかかわらず、その翌日、多くのいのちが奪われる暴力が始められました。わたしたちが生きているこの時代、世界は、かつてのような世界大戦ではないものの、もっと巧妙に、また発達した技術を使ってもっと冷酷に、そしてかつてよりもっと広範囲で、戦争のうちになんとか生き延びています。
1939年8月24日、第二次世界大戦勃発の気配が支配する世界に向かって、教皇ピオ12世は、ラジオでこう呼びかけました。
「平和によってはなにも損なわれないが、戦争によってはすべてが失われうる」
第二次世界大戦前夜のピオ12世の言葉をかみしめながら、あらためて教会は、「武力に頼るのではなく、理性の光によって-換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(「地上の平和」62)」、国家間の諸課題は解決されるべきであるという、ヨハネ23世の「地上の平和」に記されたことばを心に留めます。その上で、国家間の諸課題の解決を口実として、神からの賜物であるいのちを危機に直面させ、人間の尊厳を奪う武力に委ねることはゆるされないと主張します。わたしたちの共通の家が平穏に保たれ、神の秩序による支配が確立されるように、政治の指導者たちが忍耐と対話を持って信頼を醸成し、解決の道を模索することを心から願っています。
今日、この瞬間にも、いのちの危機を感じながら恐怖のうちにいのちをつないでいる兄弟姉妹がいることを、仕方がないと諦めてしまうことはできません。
ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復したという奇跡物語を記していました。ちょうど第一朗読のサムエル記には、ダビデの選びの物語が記されていますが、誰もが予測しなかった人物を、神は選ばれたという物語は象徴的です。
神はサムエルに対して、「人間が見るようには見ない。人は目に映ること見るが、主は心によって見る」と述べていますが、そのことばがまさしく本日の福音の物語が語ろうとしていることを象徴しています。
イエスによる奇跡的な癒やしを目の当たりにしながら、ファリサイ派の人々は、安息日の掟を破ったとして、イエスの示される神の真理に自ら目を塞いでしまいます。「見える」と言うことばが、実際に目で見ることと、心の目で理解することの二つの意味があることをわたしたちは知っています。そしてイエスが強調しているのは、まさしく神がダビデを選んだように、目で見えることに心を惑わされずに、心の目で真理を見いだすことの重要性です。
福音の終わりに記されている、視力を回復した人とイエスとの会話は象徴的です。視力を回復した人は、実際に目でイエスを見ており、その人がこの奇跡を働いたことを十分に知っているにもかかわらず、イエスに対して「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と問うています。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。そのことばによって心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。奇跡を働いた神の真理に触れることができたが故の信仰告白です。
ファリサイ派の人たちは、自らの前に枠を設置しているかのように、自分たちが見たいものしか見ない態度を象徴しています。ファリサイ派の人たちは、自分たちの枠組みでしかこの世界を見ることができません。枠からはみ出すものは、存在しないも同様です。ですからその枠に収まらない奇跡的出来事を目前にして理解することができずに、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、反対に癒やしを与えられた人を叱りつけています。わたしたちも、自分の価値観に基づいた枠を目前に堅持している限り、心の目を通じて神の真理に到達することはできません。いまの世界はまさしく、それぞれがそれぞれの価値観に基づいた枠組みを目の前に掲げ、そこからはみ出る事実に目を塞いでいるかのようです。そこには対話や妥協の余地はありません。
わたし達は、目の前で展開する現実に対して謙遜でありたいと思います。現実はわたし達の思い通りにはなりません。何でも自分でコントロールできるわけでもありません。謙遜に、目前に展開する現実と対峙し、そこに響いている真理の声に耳を傾けたいと思います。心の目で見るためには、謙遜にまっすぐに耳を傾け、神の声を聞き取ろうと努めることが必要です。
教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという考えは、いのちの創造主である神の前での思い上がりだと戒め、いのちに対する様々な暴力的攻撃に満ちあふれた現代社会の現実を、「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を告げしらせ、実現しなければならないと強調されました。
その上で教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています」と記しています。わたしたちには、殺すなと呼びかけるにとどまらず、いのちを尊び、愛し、守り、育てると言う積極的な務めが課せられています。
パウロがエフェソの教会への手紙で記したように、教会共同体は暗闇にあるこの世界にあって。「あらゆる善意と正義と真実が生じる」光の子として歩むようにと進めています。わたしたちはどのような困難な状況の中でも、いのちを奪う暴力の中でも、臆することなく、与えられた光を放つ存在でありたいと思います。いのちの文化を告げ知らせる者でありたいと思います。いのちを尊び、愛し、守り、育てる者でありたいと思います。
| 固定リンク | 16
「説教原稿」カテゴリの記事
- 2026年聖金曜日・主の受難@東京カテドラル(2026.04.04)
- 2026年聖香油ミサ@東京カテドラル(2026.04.02)
- 2026年四旬節第四主日ミサ@東京カテドラル(2026.03.15)
- 2026年日本26聖人殉教祭@本所教会(2026.02.01)
- 東京教区ミャンマーデー@関口教会(2025.11.16)



