2026年聖金曜日・主の受難@東京カテドラル
聖なる三日間。聖金曜日夜7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた主の受難の典礼での、説教原稿です。
なお、説教の中で触れている教皇ヨハネ23世の「地上の平和」は、中央協議会から文庫本(ペトロ文庫)として発売されています。
聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月03日わたしたちの救い主は、今日、愛する弟子たちに裏切られ、群衆からはあざけりを受け、孤独のうちに十字架を担いながら歩み続け、この世のいのちの絶望の淵にあって、苦しみを耐え忍び、十字架の上で命を御父に捧げられます。
その苦しみは、ご自分の犯した罪のためではなく、イザヤが記しているように「多くの人の過ちを担い、背いた者のためにとりなしを」するためでありました。
イザヤは、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒やされた」と記しています。救い主イエスの十字架における苦しみと死は、わたしたちの平和のために、またわたしたちの癒やしのために、罪のゆるしを願う捧げ物でありました。わたしたちのいのちを生きる希望は、主イエスの苦しみによってわたしたちに与えられています。
それにもかかわらず、わたしたちはその平和のうちにいのちを尊ぶ務めを忘れ去り、神の似姿として与えられた尊厳を護ろうともせず、イエスの苦しみによってもたらされた平和を葬り去り、希望を捨て去ろうとばかりしています。
復活される前のイエスがペトロに直接語りかけた最後の言葉は何だったでしょう。それは、ペトロがイエスを護ろうとして剣を手にし、大祭司の手下であるマルコスを切りつけたときにイエスの言われた、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」であります。その後、三度裏切ったペトロに対して、ゆるしのまなざしを向けたことはありましたが、次に直接イエスがペトロに話しかけるのは、復活の後になります。
すべての人に平和と癒やしを与えるための苦しみの旅路に身を投じるにあたり、イエスが一番弟子であるペトロに言い残された言葉は、武器を捨て、御父の計画を実現させよという言葉でありました。
教皇レオ14世は受難の主日の説教の中で、現在の米国やイスラエルとイランを中心とした中東の戦争状態に思いを馳せながら、「平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください」と呼びかけられました。
教皇様は、同じ説教の中で、「イエスは武器をもたず、自分を守らず、いかなる戦いも行われませんでした。イエスは神の優しいみ顔を示しました。神はつねに暴力を拒絶します。自分を救う代わりに、十字架に釘づけにされます。それは、人類の歴史のあらゆる時間と場所に立てられたすべての十字架を引き受けるためです」と述べています。ですから主イエスは今日も、あらゆる時間と場所に建てられたすべての十字架を一身に引き受け、苦しみを神に捧げ、わたしたちに平和と癒やしがもたらされるようにと、その身を神に捧げておられます。
受難の朗読では、「イエスを知らない」と、三度にわたって言い張ったペトロの裏切りが記されています。福音はイエスがすでにペトロに告げていたとおり、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と事実だけを記して、ペトロの心持ちを記しません。しかしそのことが、ペトロの陥った後悔の思いの深さと絶望を、わたしたちに感じさせます。ペトロは武器を手にすることが主イエスの望まれる平和の構築に繋がらないことを諭され、その後悔のなかでなんとかイエスに繋がろうと大祭司の屋敷の中庭に入ったものの、さらに三度にわたってイエスを否定し、深い後悔と大きな絶望の中に落ち込んでいたことだと思います。
裏切りという罪と、その後悔と絶望の淵にあったペトロが次に登場するのは、御復活の出来事の後です。十字架の出来事を通じて、ペトロを復活の栄光の証人とすることで、福音は、主の十字架が持っている意味を明確に示しています。十字架は神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光を示しています。
いま世界は、「十字架につけろ」と熱狂のうちに叫んで、平和と癒やしをもたらす神の御子を死に追いやった群衆のように、「暴力には暴力を。死には死を」と叫んで絶望の暗闇を深めようとしているかのようであります。教皇様と心を合わせて、わたしたちも、世界の政治のリーダーたちに、「平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください」と呼びかけたいと思います。
1962年のキューバ危機を踏まえ、東西の冷戦が深まる中、1963年に発表された教皇ヨハネ23世の「地上の平和」の終わりには、「ひとり一人の中に平和がなければ、換言すれば、一人ひとりが自分自身の中に神が望む秩序を植えつけなければ、人々の間に平和は成立し得ません」と記されています。
その上でヨハネ23世は、平和が「真理を土台とし、正義によって築かれ、愛によって生かされ、最後に自由において実践される」真の秩序に基づいていなければ、「平和」は虚しい単語に過ぎないと指摘されます。単に争い事が止み、闘いが終わればそれで平和なのではなく、神の計画が実現している世界でなければ、そして一人一人がその神の計画に身を委ねていなければ、真の平和は実現しないと指摘されます。道は遙かに遠いと感じさせられます。
主イエスが苦しまれた十字架の傍らには、聖母マリアが佇まれていました。十字架の上で苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母の姿は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に答えたときに始まって、すべてを主の計画に委ね、主とともに歩み続け、主と一致した生き方を、聖母が教会に模範として示し続けていることを明白にします。真の神の秩序を実現している聖母は平和の元后です。
主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母と愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。
教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架のあかしを受け継ぎ、復活の栄光を目指して希望を掲げながら、平和の実現を目指して歩み続けます。
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