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2026年4月 2日 (木)

2026年聖木曜日・主の晩餐@東京カテドラル

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2026年聖木曜日、夕方7時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、主の晩餐のミサ説教の原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月02日

「わたしの記念としてこのように行いなさい」

最後の晩餐の席で、ご聖体の秘跡を制定された主イエスは、パンとぶどう酒を弟子たちに与えた終わりに、そう述べられました。

聖週間にあたり、主の受難と死を追憶し、その復活の栄光に与ろうと歩んでいるわたしたちは、その信仰における旅路を、主イエスとともに歩み続けます。そして今夜、主の晩餐を記念してここに集まったわたしたちに対して、パウロは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と、弟子たちに残したイエスのことばを伝えます。

「記念」ということばは、何か記念日などのような響きがありますが、ギリシア語でアナムネシスというこのことばは、単に記憶していることだけではなく、さらに踏み込んで、過去のあるときに行われた出来事に、わたしたちが霊的に結ばれることを求めます。ご聖体祭儀に与るごとにわたしたちは、主の晩餐に招かれ、そこで語られた主イエスの思いへと霊的に繋がります。

イエスは、「行いなさい」と命じられていました。わたしたちは何を行うように命じられているのでしょうか。単にパンを裂きぶどう酒を飲み続けることを繰り返しなさいと命じられているのではありません。わたしたちは主イエスの思いを具体的に生きていくようにと命じられています。主イエスは、その晩、ご自分が賜物として与えられたわたしたち人類のいのちを愛するがあまり、自らを犠牲にして捧げ、人類が数多積み重ねてきた罪のあがないの生け贄となろうとされています。

イエスの受難と死がもたらしたいのちの勝利によって、永遠のいのちへと招かれていると信じるわたし達にとって、その受難と死を通じた復活は、希望の源です。わたし達の希望は、十字架上で捧げられた神の子羊の血によって、罪の枷が永遠に打ち払われる解放へと繋がる過越によって成り立っています。

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福音は、弟子の足を洗う主イエスの姿を記しています。イエスが伝えようとした福音の神髄を、自らの行動で模範として残された、その衝撃的な出来事は、まさしく神の愛といつくしみに基づく具体的な行動の中にこそ、いのちを生きる希望があるのだと言うことを具体的に示しています。キリストに従うものにとって忘れることはできず、自らの行動を持って伝え続けたい出来事が記されていました。

ある研究所の報告では今年2026年に入った段階で、世界では60近い地域紛争が起こっており、それは第二次世界大戦以降最も多いと言われていました。また国境を越えて紛争に関与している国は90カ国を超えるとも指摘されていました。ガザやウクライナでの状況は言うにおよばず、アフリカでも、そしてアジアでも、小規模な紛争は頻発し、それが将来的に大規模な紛争へと繋がっていく可能性を否定することはできません。加えて今現在、世界はイランとイスラエルと米国の動向に注目し、終わりが見通せない戦乱に包まれている中東の状況に、心を痛めています。武力の行使は真の平和の確立には繋がりません。暴力が暴力を呼び起こす、負の連鎖が始まるだけです。

紛争に巻き込まれている各地に平和が訪れることを祈りたいと思います。暴力の波に巻き込まれていのちの危機に直面し、絶望の暗闇の中でいのちをつないでいる兄弟姉妹のために祈りたいと思います。そして暴力を持って争いを解決しようとする政治のリーダーたちに、神の賜物であるいのちを重みに心を馳せ、いのちを守るために自制するように、あらためて呼びかけたいと思います。

このような混乱と悲劇が続く世界にあって、わたしたちのいのちを生きる希望は、どこにあるのでしょうか。すべてのいのちは等しく、神の似姿として尊厳を与えられており、そもそも互いに助けるようにと神から創造されていると創世記に記されていることを考えるとき、世界のどこかでそのいのちが危機に直面している事態は、神が望まれる状況ではありません。

この数年の感染症に始まり各地で頻発する紛争は多くのいのちを暴力に直面させ、奪い去り、世界を利己的で不寛容が支配する場としてしまいました。利己的で不寛容な世界は人間関係を破壊し、人間関係が断絶される中でわたしたちを支配するのは絶望です。いま世界を支配するのは暴力と絶望です。暴力と絶望があまりにも力強く、あまりにもそこかしこにあふれているがために、わたしたちはいまや、それが当たり前であるかのように話し、対抗するためには暴力を肯定することもやむを得ないという雰囲気に包まれてしまっています。

この世界の現実は、主イエスが最後の晩餐の時に、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われた行動なのでしょうか。

わたしたちに必要なのは希望であり、そのためにも互いに支え合いともに歩む人間同士の絆を取り戻すことが不可欠です。この現実の中で、今こそ必要なのは、ともにいのちを生きるために連帯することであり、ともにいのちを生きるために支え合うことであり、神の愛といつくしみを具体的に生きることであって、いのちを暴力を持って奪うことではないとあらためて主張したいと思います。

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最後の晩餐の席でイエスは、別れゆく弟子たちに、心の底からの愛を込めて、ご自分が世々に至るまで共にいるということを明確にする秘跡を残して行かれました。どこか遠くから見守ったり励ましたりするのではなく、旅路を歩む巡礼者であるわたしたちと常に共にいることを、ご聖体の秘跡を制定することで明確にされました。主はご聖体の秘跡を通じて、常にわたしたちと共におられ、その信仰の絆においてわたしたちを愛の行動へと招かれています。

教皇ベネディクト16世は、使徒的勧告「愛の秘跡」において、「聖体によって教会はいつも新たに生まれ変わります」と記しています。その上で教皇は、「神の民は、聖体への信仰が生き生きとしていればいるほど、より深く教会生活に参加し、キリストが弟子たちに委ねた使命にしっかりと結ばれた者となります」と指摘されています。

ご聖体の秘跡は、イエスが残される弟子たちに対して、万感の思いを込めて残された愛の秘跡です。だからこそ聖体の秘跡に与るわたしたちは、万難を排して、主イエスの心からの思いを具体的に生きていかなくてはなりません。あの最後の晩餐の席にわたしたちの信仰生活の原点があります。

いのちの源である主ご自身によって集められている神の民は、主の現存である聖体の秘跡によって、力強く主に結び合わされ、主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡があるからこそ共同体であり、その絆のうちに一致し、ともに歩み続けながら、社会の現実の中で、神の愛といつくしみに具体的に生きていこうとしています。

パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、自らを犠牲として捧げるところに、主はおられます。自分を守ろうとするのではなく、隣人を思いやり、互いに支え合い、ともに歩むところに、主はおられます。「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」キリスト者であり続けたいと思います。

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