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2026年5月30日 (土)

週刊大司教第258回:三位一体の主日A

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三位一体の主日となりました。

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駐日教皇大使を務められるエスカランテ・モリナ大司教様は、司教に叙階された10年を迎えられました。司教で10年ということは、教皇大使になって10年ということですが、もちろんその前に日本やガーナを含むいくつかの大使館で、参事官としての経験を積んでこられました。

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モリナ大司教様の10周年感謝ミサが、先日5月28日夜、六本木のフランシスカンチャペルセンターで捧げられ、司教団からは前田枢機卿様、ガクタン司教様、勝谷司教様、そしてわたしが参加しました。また東京教区で働く大勢の宣教師や、駐日の各国大使も参加され、ともに喜びを分かち合いました。モリナ大司教様、おめでとうございます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第258回、三位一体の主日のメッセージです。

三位一体の主日A
週刊大司教第258回
2026年5月31日

三位一体の主日、第一朗読は出エジプト記からとられています。神がモーゼに与えられた掟が記された最初の石の板は、民の裏切りの前で砕かれてしまいました。それに対して神は、神に選ばれた民を代表してゆるしを願うモーセに対して、今一度掟の石の板を与えるにあたり、ご自分が誰であるのかを明示され、こう宣言されています。

「主、主、あわれみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者」

ヨハネ福音は、神が、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と記し、「神が御子をこの世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記しています。

確かにキリスト教にはいくつもの掟があり、罪を重ねることで裁きを受けると教えています。そのためにキリスト教とは、罪人を厳しく裁く共同体だと理解している人すらいます。しかし今日のこの出エジプト記やヨハネ福音に記された言葉から明白なのは、わたしたちの神は、徹底的にあわれみに富み、忍耐強いという、そのいつくしみの側面こそが、神の姿であることを教えています。

もちろん福音は、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」と記して、何でもかんでも無条件に良しとする訳ではないことも明確にし、独り子であるイエスの言葉と行いに従う者にこそ救いが与えられていることもはっきりとさせています。わたしたちへの神の徹底的な愛といつくしみのうちにわたしたちは生かされ、イエスに従うことで救いへの道を歩んでいくことができます。

これほどの愛といつくしみに包まれているにもかかわらず、この社会の中に、さらには教会共同体の中にでさえ、神を信じていると言いながら、互いを裁き、対立し、分裂が生じるのはどうしてなのでしょうか。もちろん、神の正義は貫徹されなければなりません。不正に目を塞ぐことはふさわしい態度ではありません。しかし同時にわたしたちの神は、あわれみといつくしみに満ちあふれた共同体であることを求めます。

ミサを捧げるとき、司祭は十字架の印の後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさんとともに」と呼びかけます。

この言葉は、パウロが、コリントの教会に宛てた書簡を締めくくった言葉です。今を生きるわたしたち教会は、パウロのその締めくくりの言葉から、感謝の祭儀を始めます。すなわち、現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるたびごとに、パウロが締めくくった地点から、すなわち、「兄弟たち、喜びなさい。完全なものになりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と呼びかけた地点から、常に新たなスタートを切っています。

教会は、主イエスの恵みにあずかり、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされ続けていきます。三位一体の神秘とは、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして愛といつくしみをわたしたちに降り注ぐ、神の愛の力そのものです。

わたしたちを共同体の交わりへと導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。わたしたちは、過去に戻りません。わたしたちは神の愛といつくしみによって与えられるいのちを生きる希望を掲げ、互いに支え合いながら、歩み続ける現代の神の民であります。

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2026年5月23日 (土)

週刊大司教第257回:聖霊降臨の主日

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聖霊降臨の主日です

東京教区では、聖霊降臨の主日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、合同堅信式を行います。また詳報しますが、今年は70名を超える方が一緒に堅信を受けられる予定です。

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この一週間は、国際カリタスの年に五月と十一月の二回行われる理事会(代表委員会)の一回目が、インドネシアのラブアンバジョで開催されたため、出かけておりました。コモドドラゴンで有名でもあるラブアンバジョは、カトリック人口の多いことで知られるフローレス島にあり、以前はルテン教区の一部でしたが、2024年6月にルテン教区から分離独立して、ラブアンバジョ教区となりました。教区司教はマクシムス・レーグス司教様です(上の写真でわたしと握手しているのがレーグス司教様)。まだ誕生して二年の教区です。

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今回は会議に先立って、ラブアンバジョ教区のカテドラルで国際カリタスの75周年と、カリタスインドネシアの20周年、そしてカリタスラブアンバジョの2周年を祝い、感謝のミサを捧げました。司式と説教はわたしが担当させていただきました(ミサは英語)。ちょうどカリタスインドネシアの運営委員会も同じ時に予定され、インドネシアの司教協議会会長のアントニウス・スビアント司教様始めルテン教区のシプリヌアス司教他数名の司教様方もこのミサにご一緒くださいました。インドネシアは聖歌隊が上手なことで知られていますが、ラブアンバジョのカテドラル聖歌隊も、素晴らしい歌声と美しいハーモニーでした。

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またそれに先立ち、カナダのカリタスの支援で行っているコミュニティ農業プロジェクトを国際カリタスの参加者皆で訪問しました。ラブアンバジョから数台のハイエースバンに分乗して二時間。到着したダタック村の聖テレサ教会で大歓迎を受け、実際に農場でレーグス司教様と一緒にほうれん草を収穫させていただきました。

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カリタスは世界的なNGOであることは間違いありませんが、決して上から何かを持ってくるだけの組織ではありません。カリタスは教会なしではあり得ませんし、逆に教会もカリタスなしは考えられません。教皇ベネディクト16世が「神は愛」で記したように、カリタスの業は教会の本質的部分であり、オプションではありません。そしてカリタスは、こういった地域の教会共同体に根ざした小さなプロジェクトの積み重ねでできている組織です。地域の共同体に根ざしたプログラムなしに、カリタスの存在は考えられません。だからその地域で関わっている人たちと一緒に、皆で胸を張って「We Are Caritas(わたし達はカリタスだ)」と宣言するのです。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第257回、聖霊降臨の主日メッセージです。

聖霊降臨の主日A
週刊大司教第257回
2026年5月24日

シノドス的な教会のあり方をテーマとしたシノドス第16回総会において、教皇フランシスコは、しばしば、「皆さんの意見が聞きたいのではありません。聖霊が何を語っているかが知りたいのです。聖霊が主役です」と発言し参加者を驚かせました。

ともすれば現代社会の中で生きる教会は、現代社会の価値観の中にある組織体として、今の時代の常識が求める道を歩まざるを得ません。どうしても明確な行動計画や目標がないと、わたしたちは安心できません。それに対して教皇フランシスコは、状況分析や統計など人間の知恵では知り得ない神の導き、聖霊の声に耳を傾けるという、わたしたちの信仰の本質を忘れてはならないと強調されていました。

第二バチカン公会議の「教会憲章」に、「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、 あたかも神殿の中にいるかのように住み……福音の力をもって教会を若返らせ、たえず新たにし、 その花婿との完全な一致へと導く」という言葉があります。教会とは建物や人の集まりのことではなく、時の流れの中を旅する神の民のことであり、その神の民の中に聖霊が働き、導いているのだと教えています。

だからこそ、聖霊がいま私たちをどこに向かって導いているのかを模索し、知ろうとしなければならない。それが霊的な識別です。その識別によって、たとえわずかのことしか分からないとしても、また教会運営の現実的な様々なしがらみに囚われているにしても、常に神の民の中で働く聖霊が、どこに向かって教会を導いているのか。それを知ることが教会が教会であるために必要なのだと、教皇フランシスコは繰り返されていました。

いま2028年10月に開催される評価のための総会に向けて、それぞれの共同体で具体的な実施段階にあるのですが、残念ながら具体的には何をすれば良いのかが明確ではないという理由で困惑する声も聞かれ、中には教皇フランシスコの帰天とともにこのシノドスは終わりだという雰囲気すらありました。しかし今年1月初めの臨時枢機卿会を、まさしくこのシノドス的な霊における会話の手法で実施することで、教皇レオ14世は、教皇フランシスコが備えたシノドスの歩みの道を、粛々と継続することを明示されています。

使徒言行録に記されている聖霊降臨の出来事の特徴はいったいなんでしょうか。

まず、聖霊は、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっている」ところで働いています。すなわち、聖霊は単独でひとり一人に他者と無関係に働くのではなく、共同体が一致しているところに働いています。そして、そのときには、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが集まっていた家中に響いた」と記されています。激しい音は周囲にも響き渡り、「この物音に大勢の人が集まってきた」とも記されています。すなわち、聖霊が働いているところは静寂が支配しているのではなく、騒々しさが支配しています。

重要なのは、聖霊によって生かされ常に刷新されている教会は、聖霊が働いているのですから、決して落ち着いた静かな教会ではあり得ません。騒々しい、落ち着かない教会です。一人でそんなところに取り残されたのなら、耐えきれない騒々しさかもしれません。だからこそ、聖霊は一致して集っている共同体に働くのです。互いに支え合い、助け合い、共に歩む兄弟姉妹がいるところに働くのです。聖霊は教会共同体に、多様性における一致をもたらします。

 

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2026年5月16日 (土)

週刊大司教第256回:主の昇天の主日A

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主の昇天の主日です。

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この一週間は、バンコクで、アジア司教協議会連盟(FABC)の信徒家庭部局(OLF)が主催して、アジアの現実の中で家庭に対する使徒職を考察するシノドス流の集いが行われました。

この10月に教皇様は「愛のよろこび(Amoris Laetitia)」の10周年を記念した会議を開催することを発表されていますが、今回の集いもこの文書の精神が宣教の現場でどう生かされているかについて、講演と参加者による霊における会話が行われました。

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アジア各地から大勢が参加されましたが、日本からは青年司牧を担当しているアンドレア・レンボ司教様が代表として参加。日本の現状について発表されました。

またこの信徒家庭部局の秘書は西村桃子さんが務めており、当然西村さんも参加して初日の司会を務め、さらにわたしもFABC事務局長として開会のミサを捧げるために、三日間だけ出かけてきました。

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またわたしが会長を務めるカトリック美術協会の恒例の「カトリック美術展」は、今年第70回を迎え、5月15日(金)から20日(水)まで、有楽町マリオン11階、朝日ギャラリーで開催されています。

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初日のオープン時に会場を訪ね、出品作品を鑑賞させていただきました。また当日来られていた出品メンバーの方々からは、作品の解説を頂きました。美術に何らかの形で携わっておられる皆さんには、是非、カトリック美術協会のことも心にかけていただけると幸いです。 

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第256回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

主の昇天A
週刊大司教第256回
2026年5月17日

「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と、福音宣教へ旅立つように弟子たちに命じる復活されたイエスの言葉を、マタイ福音は記しています。その言葉とともに、復活された主は昇天されたと、使徒言行録は記しています。

イエスは、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教え」ることが、「すべての民をわたしの弟子に」することなのだと明示されています。

主の受難と死と復活に与り、新しいいのちへと招かれたわたしたちには、福音を告げ知らせる使命が与えられています。イエスをキリストと信じ、その弟子として従う一人ひとりには、福音宣教の使命が与えられています。わたしたちの責任です。

しかし同時にその責任はわたしひとりに課せられる重荷ではなく、キリストのからだである教会に与えられている使命です。なぜならば、福音とは喜びの便りであって、苦しみの重荷ではないからに他なりません。

そしてわたしたちは、ひとりで喜ぶことはできません。喜びはかかわりの中から生まれます。だからこそ、復活されたイエスが弟子に約束された「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という約束の言葉が思い意味を持つのです。わたしたちはともに歩んでくださる主とのかかわりがあるからこそ、喜びを心に抱きます。そして主御自身が弟子たちとともに歩まれたように、現代のわたしたちは主がともに歩まれる教会共同体の中のかかわりによって、心に喜びを抱きます。いのちを生きる希望を抱きます。そしてその喜びと希望を、教会は共同体の存在を通じて、この世界のただ中で、証ししていきたいのです。その歩みには、主イエスがいつもともにおられます。まさしく教会がシノドス的であろうとすることの意味はそこにあります。

シノドスの最終文書「シノドス流の教会」には、神の民が福音を告げ知らせる喜びの共同体となるために、「教会のシノドス流のスタイルを身につける養成が、洗礼によって授かったたまものは、すべての人のために実らせるべき才能であるという自覚を促す」信仰の継続的な養成が不可欠だと指摘しています。

その上で同文書は、「それぞれの人の人生には、主とのかかわりや教会の交わりへと導かれるきっかけとなった、さまざまな・・・出会いがあります。・・・宣教する主の弟子となることは、一度で達成される目標ではありません。それは、絶えざる回心と、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで愛を成長させること、そして、信仰の喜びのあかしのために聖霊のたまものへと開かれていること」が必要だと指摘しています。

宣教へと派遣されたわたしたちは、話のテクニックを深めたり、神学的知識を豊かに蓄えたりしなければ、その使命を果たすことができないのだと考えてはなりません。そうではなくて、神の民としてのわたしたちの教会共同体を、シノドス的な共同体として常に育てること自体が、福音を豊かにあかしする旅路の第一歩です。

もちろん洗礼の数は重要です。ミサに与る信徒数は重要です。しかしそれ以上に、「いつもあなた方と共にいる」と言う主の言葉に信頼し、共同体としてともに支え合い、祈り合い、識別のうちに共に歩む神の民のシノドス的あり方を深めること抜きでは、数字には意味はありません。

 

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2026年5月10日 (日)

復活節第六主日@東京カテドラル関口教会ミサ

復活節第六主日の、東京カテドラル聖マリア大聖堂における関口教会主日ミサの説教原稿です。

復活節第六主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年5月10日

復活された主は、弟子たちを全世界に向けて宣教へと遣わされました。わたしたちはその使命を受け継いでいます。

本日の第一朗読は、教会の始まりにあたり、福音宣教に努める弟子たちの姿を記しています。使徒言行録は、福音宣教は、もちろんしるしを伴ってはいるものの、まず第一に「宣べ伝える」ことであることを明示しています。さらに、エルサレムの教会が、ペトロとヨハネをサマリアに使わした理由を、「サマリアの人々が神のことばを受け入れた」と記しています。

わたしたちの使命である福音宣教は、神のことばを告げ知らせることによって始められるのだということが明示されています。わたしたちは、神のことばを述べ伝えるようにと派遣されています。

ヨハネ福音が、「始めに言があった」と始まっているように、わたしたちの信仰にとって、言葉には重要な意味があります。

御聖体の秘跡のうちに常に現存されることを約束された主は、さらに愛する弟子たちを心に留め、すべてのいのちへの愛といつくしみに駆られて、聖霊の導きを約束されます。イエスが語る言葉は、ご自分そのものである神の愛といつくしみに裏打ちされた神の言葉であるがゆえに、その愛に満ちあふれたイエスの御心の思いをわたしたちに伝えています。

「わたしはあなた方をみなしごにはしておかない」、「私もあなた方のうちにいる」というイエスの言葉は、共同体のうちに生きることによってわたしたちが神の愛といつくしみに満たされることを教えています。聖霊は教会共同体に働き、共同体としてイエスの福音を明かしするものであるようにと、わたしたちを導いてくださいます。

教会は、復活節第六主日を、「世界広報の日」と定めています。教会の使命である福音宣教は神のことばを告げ知らせること、すなわちコミュニケーションであり、現代社会にあっては、コミュニケーションの核心を担う広報こそが、まさしく福音宣教とならなければならないと考えるためです。

第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18)」と、1967年に始まりました。

新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などにとどまらず、いまや時代はインターネットです。すべての人が、この使徒職に関わる道具を手にしています。SNSなどを通じてわたしたちは、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。いまや、広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者にとっての使徒職です。わたしたちすべては、世界に向けて発信する手段を手にしていると言っても過言ではありません。

今年の世界広報の日のメッセージのために教皇レオ14世が選んだテーマは「人間の声と顔を守る」でありました。

教皇様は、就任直後から人工知能(AI))の問題について発言を続けておられます。レオ14世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を枢機卿たちに説明され、こう述べておられます。

「おもな理由は、教皇レオ十三世が、実際に歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです。」

教皇様は、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。教会にとって、人工知能(AI)の問題は避けて通ることのできない社会倫理的な課題となっています。

教皇様はメッセージで、「わたしたちはあらためて人格について語るために顔と声を必要とします。コミュニケーションというたまものを人間のもっとも深遠な真理として守ることを必要とします。すべての技術革新もこの人間の真理へと方向づけられなければなりません」と呼びかけられます。

例えば駐車場を利用して、出口の精算機で料金を支払い終え、精算機が「ありがとうございます。またおいでください」と言ったから、「ああよかった。また利用しよう」と心に思うことは、少なくともわたしにはありません。感謝の言葉を述べている主が、機械であり、その言葉は単なる音であって、その裏には人間の心が介在しないと知っているためでしょう。言葉の背後に人の心が介在しない、生きた言葉ではないことを知っている時に、心は揺さぶられることはありません。

しかし、いまではパソコンを前にして生成AIのアプリなどで質問をし、それに対する答えを読んだり聞いたりしている自分が、生身の人間と対話しているような錯覚を覚えていることに気がつかされます。

もちろん生成AIのアプリなどを利用すれば、あっという間に情報を収集することができます。これまで様々な検索を重ねてやっと集めることができた資料が、あっという間に手に入ります。便利です。わたし自身は作文をお願いすることはありませんが、自分が直接書いたつたない英語の文章を、もう少しまともな英語に手直ししてもらうこともあります。確かにそういう意味では、非常に便利な「道具」であることは間違いがないのですが、そこにはやはり落とし穴があるように感じます。あくまでも「道具」であることを忘れないようにする必要があります。

そもそも「知能」は単に情報の集積や処理能力のことではなく、実際の経験に基づいて学習したり、推論したり、真偽や善悪を倫理的に判断した上で、試行錯誤を重ね、その末に正解、すなわち真理に到達しようとする能力です。真理を追い求める理性の働きです。したがって、いのちを持たない存在、すなわち人工的な知能とは、本当はあり得ない存在なのかもしれません。

神の似姿として創造された人間には自由意志が与えられていますが、その自由意志を様々な形で制限する情報操作の危険性を、教皇フランシスコは2024年の年頭のメッセージで指摘されていました。さらに教皇は、「道具」という視点から、人工知能を人類の善のために、しかも一部の人の善ではなくすべての人の善に奉仕する道具とするように務める必要性を強調されました。

人間という心と身体を持った存在から切り離された人工的な存在がこの世界の倫理観を支配するのであれば、その環境の中で人間の尊厳は損なわれ、共通善が崩壊する可能性は増し加わります。

イエスの言葉には力があります。それはイエスが神の言葉そのものであり、そこに神の愛といつくしみが具体的に存在しているからであります。信念ある心に裏打ちされた言葉には、力があります。福音宣教を始めた弟子たちの言葉には、同じ力がありました。だからこそ福音は伝えられていきました。わたしたちが言葉に愛を込めるためには、言葉の裏に信念に満ちた心が必要です。言葉を人々を操る道具ではなく、神の愛といつくしみをあかしする道具とし、聖霊に照らされながら、主の愛を受けて、力を持って語るものでありたいと思います。

 

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2026年5月 9日 (土)

週刊大司教第255回:復活節第六主日A

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復活節も第六主日となりました。

第六主日は世界広報の日です。この日のための教皇様のメッセージ、「人間の声と顔を守る」は、こちらからご覧ください

教皇レオ14世は、人工知能(AI)の倫理的課題について、幾度も発言されています。すでに2024年正月の世界平和の日のメッセージにおいて、当時の教皇フランシスコはそのテーマを「人工知能(AI)と平和」とされ、その中で、「利用者が認識するとは限らない選択基準に従って、データの流れが構成され」ることによって、情報が操作される可能性への懸念を表明されています。
 
神の似姿として創造された人間には自由意志が与えられていますが、その自由意志を様々な形で制限する情報操作の危険性を指摘された教皇フランシスコは、同時に、「各人が本性的に備える尊厳と、わたしたちを唯一の人類家族として結びつける兄弟愛が、新技術の開発の基盤であるべきで、その実用化にあたっての評価の厳然たる基準とならなければなりません」と指摘し、共通善への貢献が重要であることを指摘していました。

さらに教皇フランシスコは、2024年6月14日、イタリア南部プーリアで開催された先進7カ国首脳会議(G7)に出席、人工知能(AI)をテーマにスピーチをされ、バチカンニュースによれば次のような指摘をされています。

「教皇は、AIが知識へのアクセスの民主化、科学研究の増大的な進歩、重労働を機械に一任する可能性を約束する一方で、先進国と発展途上国の間に、また社会の支配階層と抑圧された階層の間に重大な不正義をもたらし、「切り捨ての文化」によって「出会いの文化」が追いやられる恐れを語った」

ウクライナやイランでの紛争状態では、遠隔操作の兵器の倫理性が課題となっていますが、それを含め、教皇フランシスコは同年の平和メッセージで次のように指摘されてます。

「遠隔操作システムによる軍事作戦が可能になったことで、それらが引き起こす破壊やその使用責任に対する意識が薄れ、戦争という重い悲劇に対し、冷淡で人ごとのような姿勢が生じています。人工知能の軍事利用を含む、いわゆる「自律型致死兵器システム」の分野における新規技術の研究は、重大な倫理的懸念となっています。・・・人間だけが有する道徳的判断力や倫理的意思決定能力は、複雑に集積されたアルゴリズムが及ぶものではなく、その能力をマシーンのプログラミングに落とし込むことは不可能です。」

人間という心と身体を持った存在から切り離された人工的な存在が倫理観を支配するのであれば、その環境の中で人間の尊厳は損なわれ、共通善が崩壊する可能性は増し加わります。あ

以下本日午後6時配信、週刊大司教第255回、復活節第六主日のメッセージです。

復活節第六主日A
週刊大司教第255回
2026年5月10日

御聖体の秘跡のうちに常に現存されることを約束された主は、さらに愛する弟子たちを心に留め、すべてのいのちへの愛といつくしみに駆られて、聖霊の導きを約束されます。イエスが語る言葉は、神の愛といつくしみに裏打ちされた言葉であるがゆえに、その愛に満ちあふれたイエスの御心の思いをわたしたちに伝えています。

「わたしはあなた方をみなしごにはしておかない」、「私もあなた方のうちにいる」というイエスの言葉は、共同体のうちに生きることによってわたしたちが神の愛といつくしみに満たされることを教えています。聖霊は教会共同体に働き、共同体としてイエスの福音を明かしするものであるようにと、わたしたちを導いてくださいます。

教会は、復活節第六主日を、「世界広報の日」と定めています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18)」と、1967年に始まりました。

新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などにとどまらず、いまや時代はインターネットです。すべての人が、この使徒職に関わる道具を手にしています。SNSなどを通じてわたしたちは、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。いまや、広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者にとっての使徒職です。

今年の世界広報の日のメッセージのために教皇レオ14世が選んだテーマは「人間の声と顔を守る」でありました。

教皇様は、就任直後から人工知能(AI))の問題について発言を続けておられます。レオ14世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を枢機卿たちに説明され、こう述べておられます。

「おもな理由は、教皇レオ十三世が、実際に歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです。」

教皇様は、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。教会にとって、人工知能(AI)の問題は避けて通ることのできない社会倫理的な課題となっています。

教皇様はメッセージで、「わたしたちはあらためて人格について語るために顔と声を必要とします。コミュニケーションというたまものを人間のもっとも深遠な真理として守ることを必要とします。すべての技術革新もこの人間の真理へと方向づけられなければなりません」と呼びかけられます。

言葉に愛を込めるためには、言葉の裏に人間の心が必要です。言葉を人々を操る道具ではなく、神の愛といつくしみをあかしする道具とし、聖霊に照らされながら、主の愛を受けて、心をもって語るものでありたいと思います。

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2026年5月 2日 (土)

週刊大司教第254回:復活節第五主日A

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復活節第五主日となりました。

国際政治の世界が混乱する中で、教皇レオ14世の言葉が注目されています。これに関連して、先のアフリカ司牧訪問の際の、教皇レオ十四世の2026年4月16日、カメルーン、バメンダの共同体との平和の集いでのあいさつを是非ご一読ください。こちらのリンクです。その冒頭部分で教皇レオ14世は、「わたしは平和を宣言するためにここにいます」と言われています。まさしく世界における倫理的な権威は政治家にではなく宗教者にあることをしっかりと自覚され、政治のしがらみの外に身を置いて平和を告げ知らせることは、宗教者の務めであることを明確にされています。

5月は聖母の月です。一年の典礼において、聖母を記念する日はいくつもありますが、一ヶ月が聖母のために捧げられているのは5月と10月です。10月は特にロザリオの月とされています。

5月に聖母マリアに祈りを捧げることについては、歴代の教皇がその大切さを説いてきたところですが、例えばパウロ六世は第二バチカン公会議後の典礼改革のなかにあって、聖母への信心の重要性を説いた「マリアーリス・クルトゥス」でこう述べています。

「ロザリオは天使による喜ばしいあいさつとおとめの敬虔に満ちた承諾から始まって、福音からインスピレーションを受けて、信者がそれを唱えるべき態度を示唆しています。アヴェ・マリアの祈りを繰り返して唱え続けてゆくことによって、ロザリオはわたしたちに今一度福音における基本的な神秘であるみことばの受肉を提示してくれます。マリアはこの神秘をお告げという決定的な瞬間において黙想したのでした。このようにして、ロザリオは過去におけるよりもおそらく今日において、司牧担当者や神学者たちが好んで定義するように、「福音の祈り」であるといえるのです。」(44)

また1965年に、特に世界平和のために聖母に祈ってほしいと呼びかけた「メンセ・マイオ」では、こう述べています。

「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」(3)

対立と分断が深刻化し混乱する現代社会にあって、政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい決断をすることができるように、そして世界に神の平和が実現するように、この5月にロザリオの祈りを通じて、聖母マリアの取り次ぎを祈りましょう。

東京教区のyoutubeのページには、これまでに制作した、ロザリオを一緒に唱えるための動画がいくつかあげられています。例えばこのリンクをご覧ください。ご自宅でのお祈りのためなどにご活用いただければと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第254回、復活節第五主日のメッセージです。

復活節第五主日A
週刊大司教第254回
2026年5月03日

「わたしは道であり、真理であり、命である。」

国際社会はこのところ大きく揺らいでいます。国際政治の最前線にいるわけではないわたしたち大多数にとっては、報道される事実と、近年ではネット上であふれ出ている情報によってしか知り得ないことであり、必ずしもそれがすべての真実を語っているわけでもないのですから、本当のことは分かりません。そのため周囲で起こっている出来事や、リーダーたちの言説によって、どうしても判断は揺れ動くことになります。

政治のリーダーたちによる国際政治の世界の駆け引きと、わたしたち信仰者が信仰に基づいて選択する言動は、そもそも全く異なる性質のものであり、それを混同してしまうと、互いに理解することができないまま、対立だけが深まります。

先般の教皇レオ14世の信仰と福音に基づいた平和を求める発言は、国際社会の政治のリーダーにとっては、非現実的なメッセージにしか聞こえなかったことでしょう。教皇レオ14世は、アフリカ司牧訪問に向かう機上でインタビューに答え、「わたしたちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、わたしたちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と述べておられます。まさしくわたしたちも、主イエスにこそ、すなわち福音にこそ「道、真理、いのち」があるのだと信じています。ですからその福音のメッセージに基づいて、人間の尊厳を護り、いのちを守り、平和を築き上げる必要を語ることは信仰者の責務であることを忘れないようにしたいと思います。

主イエスの言葉は、ご自分はすでにできあがっている道を案内する者ではなく、ご自分こそが何もないところに新たに切り開かれていく「道」そのものであるのだと宣言する言葉であります。すなわち、御父へと至る道は、すでにあるのではなく、新しく切り開かれていく道であります。イエスは、その新しい道こそ真理であり、そこにこそいのちがあるといわれます。主イエスは、わたしたちに、主ご自身を信頼し、その新しい道を勇気を持って歩むようにと促しておられます。未知への旅立ちを求めています。

真理といのちへと至る道を、一人で勝手に見つけて歩むことはできません。イエスご自身しか、その新しい道を知らないからです。だからこそわたしたちはイエスに付き従って、歩み続けなければなりません。イエスは、「わたしのいるところに、あなた方もいることになる」と、先ほどの福音に記されているように、主は信仰の共同体とともにおられます。わたしたちはイエスという新しい道を、イエスとともに、そして兄弟姉妹の共同体とともに歩み続けます。

わたしたちは、ともに歩みともに祈ることで、主が「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と言われ、ご自分であかしされたように、神からの賜物であるいのちを愛し守り抜き、すべての人間の尊厳がないがしろにされることのない世界を目指して、語り行動していく者でありたいと思います。

 

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