復活節第六主日@東京カテドラル関口教会ミサ
復活節第六主日の、東京カテドラル聖マリア大聖堂における関口教会主日ミサの説教原稿です。
復活節第六主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年5月10日復活された主は、弟子たちを全世界に向けて宣教へと遣わされました。わたしたちはその使命を受け継いでいます。
本日の第一朗読は、教会の始まりにあたり、福音宣教に努める弟子たちの姿を記しています。使徒言行録は、福音宣教は、もちろんしるしを伴ってはいるものの、まず第一に「宣べ伝える」ことであることを明示しています。さらに、エルサレムの教会が、ペトロとヨハネをサマリアに使わした理由を、「サマリアの人々が神のことばを受け入れた」と記しています。
わたしたちの使命である福音宣教は、神のことばを告げ知らせることによって始められるのだということが明示されています。わたしたちは、神のことばを述べ伝えるようにと派遣されています。
ヨハネ福音が、「始めに言があった」と始まっているように、わたしたちの信仰にとって、言葉には重要な意味があります。
御聖体の秘跡のうちに常に現存されることを約束された主は、さらに愛する弟子たちを心に留め、すべてのいのちへの愛といつくしみに駆られて、聖霊の導きを約束されます。イエスが語る言葉は、ご自分そのものである神の愛といつくしみに裏打ちされた神の言葉であるがゆえに、その愛に満ちあふれたイエスの御心の思いをわたしたちに伝えています。
「わたしはあなた方をみなしごにはしておかない」、「私もあなた方のうちにいる」というイエスの言葉は、共同体のうちに生きることによってわたしたちが神の愛といつくしみに満たされることを教えています。聖霊は教会共同体に働き、共同体としてイエスの福音を明かしするものであるようにと、わたしたちを導いてくださいます。
教会は、復活節第六主日を、「世界広報の日」と定めています。教会の使命である福音宣教は神のことばを告げ知らせること、すなわちコミュニケーションであり、現代社会にあっては、コミュニケーションの核心を担う広報こそが、まさしく福音宣教とならなければならないと考えるためです。
第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18)」と、1967年に始まりました。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などにとどまらず、いまや時代はインターネットです。すべての人が、この使徒職に関わる道具を手にしています。SNSなどを通じてわたしたちは、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。いまや、広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者にとっての使徒職です。わたしたちすべては、世界に向けて発信する手段を手にしていると言っても過言ではありません。
今年の世界広報の日のメッセージのために教皇レオ14世が選んだテーマは「人間の声と顔を守る」でありました。
教皇様は、就任直後から人工知能(AI))の問題について発言を続けておられます。レオ14世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を枢機卿たちに説明され、こう述べておられます。
「おもな理由は、教皇レオ十三世が、実際に歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです。」
教皇様は、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。教会にとって、人工知能(AI)の問題は避けて通ることのできない社会倫理的な課題となっています。
教皇様はメッセージで、「わたしたちはあらためて人格について語るために顔と声を必要とします。コミュニケーションというたまものを人間のもっとも深遠な真理として守ることを必要とします。すべての技術革新もこの人間の真理へと方向づけられなければなりません」と呼びかけられます。
例えば駐車場を利用して、出口の精算機で料金を支払い終え、精算機が「ありがとうございます。またおいでください」と言ったから、「ああよかった。また利用しよう」と心に思うことは、少なくともわたしにはありません。感謝の言葉を述べている主が、機械であり、その言葉は単なる音であって、その裏には人間の心が介在しないと知っているためでしょう。言葉の背後に人の心が介在しない、生きた言葉ではないことを知っている時に、心は揺さぶられることはありません。
しかし、いまではパソコンを前にして生成AIのアプリなどで質問をし、それに対する答えを読んだり聞いたりしている自分が、生身の人間と対話しているような錯覚を覚えていることに気がつかされます。
もちろん生成AIのアプリなどを利用すれば、あっという間に情報を収集することができます。これまで様々な検索を重ねてやっと集めることができた資料が、あっという間に手に入ります。便利です。わたし自身は作文をお願いすることはありませんが、自分が直接書いたつたない英語の文章を、もう少しまともな英語に手直ししてもらうこともあります。確かにそういう意味では、非常に便利な「道具」であることは間違いがないのですが、そこにはやはり落とし穴があるように感じます。あくまでも「道具」であることを忘れないようにする必要があります。
そもそも「知能」は単に情報の集積や処理能力のことではなく、実際の経験に基づいて学習したり、推論したり、真偽や善悪を倫理的に判断した上で、試行錯誤を重ね、その末に正解、すなわち真理に到達しようとする能力です。真理を追い求める理性の働きです。したがって、いのちを持たない存在、すなわち人工的な知能とは、本当はあり得ない存在なのかもしれません。
神の似姿として創造された人間には自由意志が与えられていますが、その自由意志を様々な形で制限する情報操作の危険性を、教皇フランシスコは2024年の年頭のメッセージで指摘されていました。さらに教皇は、「道具」という視点から、人工知能を人類の善のために、しかも一部の人の善ではなくすべての人の善に奉仕する道具とするように務める必要性を強調されました。
人間という心と身体を持った存在から切り離された人工的な存在がこの世界の倫理観を支配するのであれば、その環境の中で人間の尊厳は損なわれ、共通善が崩壊する可能性は増し加わります。
イエスの言葉には力があります。それはイエスが神の言葉そのものであり、そこに神の愛といつくしみが具体的に存在しているからであります。信念ある心に裏打ちされた言葉には、力があります。福音宣教を始めた弟子たちの言葉には、同じ力がありました。だからこそ福音は伝えられていきました。わたしたちが言葉に愛を込めるためには、言葉の裏に信念に満ちた心が必要です。言葉を人々を操る道具ではなく、神の愛といつくしみをあかしする道具とし、聖霊に照らされながら、主の愛を受けて、力を持って語るものでありたいと思います。
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