年間第11主日ミサ説教@東京カテドラル聖マリア大聖堂
年間第11主日のミサを、関口教会の主日10時に捧げました。海外からの旅行者の方も含め、聖堂に一杯の方がミサに与り、祈りの時を共にしてくださいました。
明日6月15日月曜日から金曜日まで、日本の司教団は東京で一緒に集まり、司教総会を開催します。どうか集まる司教たちの上に聖霊の豊かな導きがあるように、みなさまのお祈りをお願い申し上げます。
以下、ミサの説教での原稿です。
年間第11主日A
週刊大司教第260回
2026年6月14日先ほど朗読された第一朗読の出エジプト記には、モーセに対する主の言葉のうちに、「世界はすべてわたしのものである」と記されていました。世界はそれを創造された神のものであるにもかかわらず、その管理を任されたわたしたち人類は、まずもっていのちを賜物として神から無償で与えられている存在であるにもかかわらずおごり高ぶり、神の者であるこの世界を破壊し続け、賜物であるいのちに暴力で襲いかかっています。
神のものを神が望まれる姿にするのは、神から生かされているわたしたちの務めであります。その務めをないがしろにして、欲望に促されて勝手なことばかりをしている世界の現実に対して、神に立ち返るよう呼びかけるのは、わたしたちの責務であります。
その意味で、今週、6月15日から17日まで、フランスのエビアンでG7サミット(主要国首脳会議)が開催されますが、そこに集まる政治のリーダーたちに呼びかけることも、教会の務めの一つであります。
この会議に合わせてG7各国、すなわちカナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、英国、米国の各カトリック司教協議会会長と、欧州連合(EU)司教協議会連盟会長は連名で共同声明を、この金曜日に発表しました。わたしも現在、日本の司教協議会会長を務めていますので、その声明の作成に加わり、名前を連ねております。
この声明は、それぞれの司教協議会に属しているすべての司教の総意というわけではなく、あくまでも会長たちの話し合いの中で生まれてきた内容ですが、劇的に変動している世界情勢を目の当たりにして、牧者として発言される教皇様のご意向や、特にこの数日のスペインでの司牧訪問と、特にその中での難民や移住者との出会い、そしてそこにおける発言を踏まえて、それぞれの司教協議会会長が持ち寄った意見をまとめ上げたものです。声明全体はかなり細かく四ページに及んでいますが、今の時点で日本語に翻訳され公開ているのはそのサマリーとも言うべき二ページとなっています。
タイトルを「「平和、正義、人間の尊厳のために橋をかける」といたしました。その中でわたしたちは、「武力紛争、地政学的な分断、拡大する不平等、気候変動の課題、技術革新といった課題に直面する中で、わたしたちは、すべての人間の尊厳が、政治・経済活動の基礎であり続けなければならないと断言」しています。
その上で主要国の首脳たちに対して、開発や国際連帯、AI人工知能の倫理的課題、気候変動等への取り組みを促しながら、人間の尊厳を守り抜くことを求めながら、わたしたち司教は「教会の司牧者として、またイエス・キリストの弟子として、わたしたちはこの声明を通して、カトリック教会が諸民族のただ中に身を置き、もっとも弱い立場にある人々のために身をささげ、平和、正義、地球規模の共通善のために対話できるよう尽力する」と宣言しています。
教皇様は訪問中のスペインで、難民の方々やそのために働くカリタスのボランティアとお会いになり、そこでボランティアの分かち合いに対して、「わたしたちのまなざしの回心は、移民のケースが「またもう一件」という単なるカテゴリーや統計上の数字でなくなるときに始まることを、あなたの話が教えてくれた」と述べています。
三十年近く前に、まだわたしが神父としてカリタスジャパンの難民支援活動に関わっていた頃、素晴らしいインタビューを見たことがあります。「あなたはいま、一体何件の難民のケースを抱えていますか」とリポーターに問われた現場で働く国連職員が、そのとき何千件も扱っていたにもかかわらず、「何を言っているんだ。わたしが抱えているのは難民のケースではなくて、ひとり一人の人間だ」と答えたのです。衝撃的でした。
人は生きています。ひとり一人は神から愛され、いのちと尊厳を与えられて生きています。教皇様は同じスペインへの司牧訪問中に、「ある意味で私たちは皆、旅人・移住者です。なぜなら、私たちは皆、天の故郷へ向かう旅を続ける巡礼者だからです」と述べられました。この旅路の中で、一人たりとも脱落する者がないように、神から愛されているいのちが一つたりとも失われることのないように努力を続けることは、あわれみの活動ではなくて、神を信じるわたしたちの当然の責務であろうと思います。するべきことは山積みです。
今日の福音は、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言う主の言葉とともに、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という言葉が記されています。
その直後に12人の弟子の選びが記されているので、どうしても、「働き手」は特別に選ばれた人のことであると思ってしましまいます。果たしてそうでしょうか。
そもそもこの言葉は、神の国の完成のために、わたしたちが地上でするべきこと、しなければならないことは、実は神の目において山積しているにもかかわらず、それをないがしろにしているわたしたちへの警告の言葉であります。
「収穫は多い」、つまりわたしたちが福音を実現するためにしなければならない務めはあまりにも多いということです。それに取り組むための働き手がもっと必要なのですけれど、するべき仕事は皆が同じではありません。そこには様々な異なる方法での取り組みが必要です。
だからこそ、12人の弟子たちには様々な人物が選ばれています。皆が同じ才能を持ち同じことをするために選ばれたのではなく、それぞれに与えられた賜物にしたがって働く者が選ばれました。しかも、神の計画を実現するために忠実である者が選ばれました。つまりそれは司祭や修道者という専門職だけが必要なのではなくて、キリストに従うという意思を表明しているわたしたちキリスト者すべての務めが必要なことを示しています。わたしたちひとり一人がどうこの言葉に応えるかが問われています。
もちろん司祭は必要です。修道者も必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、わたしたちすべての責務です。やるべきことは山積しています。自らのできることに忠実に働く弟子が、今求められています。その弟子は、わたしたちキリスト者すべての役割です。
ともに助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の現実の中に山積している数多くの収穫に心を向け、「働き手」としての役割を忠実に果たしていきましょう。
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