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2026年7月11日 (土)

週刊大司教第264回:年間第15主日A

年間第15主日です。この主日、わたしは、生まれ故郷の岩手県宮古市の教会で、主日ミサを捧げることになっています。

わたしが生まれた70年近く前、両親は教会とその幼稚園で働いていたため、わたしは宮古教会で生まれ、そこに住み、人生の最初の数年を教会で過ごしていました。

そのときの主任司祭は、ベトレヘム外国宣教会のスイス人の宣教師です。その宣教師と毎日の生活を共にし、毎日のように朝のミサに与ったことが、その後のわたしの人生に大きな影響を与えたと思います。司祭になることだけにとどまらず、文化や言葉の壁を越えて福音を宣教する宣教師としての人生です。

その意味もあって、毎年一度は、感謝を持って生まれ故郷の宮古教会で、感謝のミサを捧げさせていただいています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

年間第15主日A
週刊大司教第264回
2026年7月12日

今の時代、言葉はどれほどの重さを持っていると考えられているのでしょうか。インターネットが発達し、人工知能による情報提供も普通のことになった今、音としてこの世界に生み出される言葉の何パーセントが、心に裏打ちされた重みを持った言葉なのでしょうか。バーチャルな世界で言葉がもてあそばれ、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、重みを失って漂っているとき、わたし達は、キリスト者の信仰にとって、言葉が重要であることを思い起こしたいと思います。

神のことばは、常にわたしたちとともにいてくださる神の現存です。なぜならば、世の終わりまでわたしたちとともにいてくださると約束された主イエスこそは、「人となられた神の言」であるからに他なりません。ヨハネ福音の冒頭は、「初めに言があった。言は神であった」と始まります。わたし達の信仰は、言葉による信仰です。

ヨハネ福音に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおり、神はご自分のことばを種のように蒔き続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

わたしたちは、神が蒔き続けておられる言葉の種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶようにと、事前にしておかなくてはならない準備があります。

今必要な準備は、軽く漂う言葉に席巻されている世界に対して、言葉には顔があり心の重みを担っているのだということを証しのうちに伝えていくことであろうと思います。現実の世界の中での具体的な人とのかかわりにおいて、わたしたち自身の言葉と行いこそは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

神の言葉が受け入れられた世界こそは、神が望まれた世界の実現です。神の言葉が豊かに実るとき、そこには神御自身からの賜物であるいのちを徹底的に守り抜く世界が実現し、神の似姿としての人間の尊厳が尊重されているはずです。いのちに対して暴力を振るう世界が、神のことばの種が豊かな実りを生み出す土壌となることはあり得ません。

インターネットが普及している現代社会にあってわたし達は、ネット上に発信されていく様々な言葉でさえも、顔と心に裏打ちされた重さを持った言葉としていく努力が必要です。心配りも何もなく発信されていく攻撃的な言葉が、神の言葉が芽吹く土壌を生み出すことはありません。

時にキリスト者と言いながら、他者のいのちや尊厳に対して暴力的で攻撃的になる、きわめて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にするとき、そのキリスト者は一体どんな土壌を神のことばの種のために備えようとされているのかと悲しく思います。

わたしたちの語る言葉こそが、神のことばの種を蒔く土壌を準備するためにあるのだと心に留め、神の言葉の種が豊に実を結ぶように、務めていきたいと思います。

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2026年7月 4日 (土)

週刊大司教第263回:年間第14主日A

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7月になりました。年間第14主日です。

前回もお知らせしましたが、6月26日(金)と27日(土)に臨時の枢機卿会があったため、ローマに出かけていました。毎日40度近い熱波に襲われていたヨーロッパですが、ローマも異常に暑い毎日でした。

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28日(日)にはブラジル司教団が設置するコレジオ(宿舎)を会場に、朝のミサに始まり夕方6時近くまで、各大陸別司教協議会連盟の集まりがあり、わたしもアジア司教協議会連盟の事務局長ですので、他の司教様方と一緒に参加して参りました。今後、大陸別司教協議会連盟の連携をどのように強めていくのかなどについて意見交換でした。

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その後、29日(月)は聖ペトロと聖パウロの祝日で、これはローマのお祝いでもあるので、ローマは休日でした。午前中は、教皇様が司式するミサに共同司式。このミサの中で、この一年間に管区大司教(メトロポリタン)に任命された大司教様方が、教皇様との一致の印であるパリウムを頂きました。私自身のパリウムを頂くミサは2018年6月29日でしたが、この時のミサはサンピエトロ広場、つまり外のでミサでした。しかし今年は異常な暑さということもあり、ミサはサンピエトロ大聖堂内で行われました。天上が遙かに高いので、エアコンがないものの、暑さは少し和らいでいました。

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サンピエトロ広場に通じる道には、前夜から準備された花絵がいくつも並び、その多くのが平和訴える内容でした。そしてその晩には、バチカンの前のサンタンジェロ城で花火大会。あまりの人混みに近づけず、サンピエトロ広場から眺めました。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第263回、年間第14主日のメッセージです。

年間第14主日A
週刊大司教第263回
2026年7月5日

心の安らぎは、絶望の中にではなく、希望のうちに見いだされます。わたしたちの人生の歩みにおける希望は、一体どこに見いだすことができるのでしょうか。

現代社会にあって、希望を見いだし、心の安らぎを得ることは容易ではありません。自分の周囲だけでなく、世界全体の現実を見るならば、今この瞬間も暴力にさらされていのちの危機に直面したり、貧困や圧政の中でもがき苦しんでいる人たちの現実が容易に見いだされます。社会が発展し、技術が進歩する中で、人々の暮らしは改善され、希望が生み出されると考えられてきましたが、現実は残念ながらそうではありません。

この現実の中にあって、人と人との出会いのなかにあって希望を見いだし、安らぎを生み出すことは、教会の使命の一つではないでしょうか。

教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」で、理性と自由意志を与えられた人間は、社会の発展の中で様々な種類の希望が生まれ、そしてそれが奪われ、また発展が必ずしもいのちを生かす希望には繋がらないことを体験してきたと指摘します。

その上で教皇は、「わたしたちは日々を歩んでいくために、小さな希望から大きな希望まで、なにがしかの希望を必要としています。しかし、わたしたちは偉大な希望がなければ満足できません。この偉大な希望は、他のあらゆる希望を超えたものでなければなりません。この偉大な希望は、神以外にはあり得ません」(31)と記し、真の希望は神の懐に抱かれることによってのみ達成されることを明示されています。

マタイ福音には、「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されていました。

教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、すべての人が同じように考え、仲良く過ごしているというのは、現実的ではありません。異なる人が互いに理解することに苦労しながらも、しかしそれでも教会が希望と安らぎを生み出す場となり得るのはどうしてでしょうか。それは教会共同体がシノドス的な共同体として、互いに支え合い、耳を傾け合い、ともに祈り、聖霊の導きを識別しようとしてともに歩んでいるからであり、その教会共同体の真ん中には、主イエスご自身が現存され、その主の存在こそが、希望の源となっているからに他なりません。ひとり一人の優しい性格に頼った仲良し共同体を目指しているのではなく、互いに異なる存在を尊重し耳を傾け、支え合い、祈り合う中で、ともにイエスに身を寄せ合うからこそ、安らぎが生まれ、希望が生み出されます。

残念ながら、教会共同体の中で、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え、欠点を抱えた不十分な人間です。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心に主ご自身が来てくださいます。主とともにあるわたしたちは、主が与えてくださる安らぎを、自らもあかしし、行動する道を見いだしていきましょう。

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