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2026年7月25日 (土)

週刊大司教第266回、年間第17主日A

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7月最後の主日は年間第17主日です。

今週はアジア司教協議会連盟(FABC)の総会のために、インドネシアのジャカルタに来ています。日本からは、司教協議会会長のわたしと、代表として成井司教様、ガクタン司教様が、また信徒家庭局の秘書として西村桃子さんが一緒に参加しておられます。

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今回の総会のテーマは「シノドス的な回心と宣教への招き。アジアにおける橋となり、また橋を架けるものとなるために」とされており、バチカンからもシノドス事務局のグレック枢機卿が参加するなど、シノドス的な教会共同体のあり方を実践する場となっています。

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また福音宣教省のタグレ枢機卿が、忙しい中ジャカルタまでおいでくださり、二日目に静修を指導してくださいました。総会は話し合いというよりも、祈りと分かち合いの場となっています。

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アジア全体から司教協議会の代表や各部局の担当者など150名ほどが参加していますが、詳細は他の報道に譲ります。またアジアの枢機卿は全員参加する権利がありますが、今のところ12名のアジアの枢機卿が参加しています。

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なお、総会に先立ち、四日間ほどフローレス島のエンデ大司教区を、成井司教様と一緒に訪問してきました。フローレス島は、インドネシアの中でもカトリック信徒の多い地域で、エンデ教区のクレドン大司教様は、少し前まで神言会の総会長でした。これについては後日また。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第266回、年間第17主日のメッセージです。

なお「週刊大司教」の配信は、8月中はお休みとさせていただきます。今の予定では再開を9月5日土曜日と考えております。また8月8日(土)午後の東京カテドラル聖マリア大聖堂における平和祈願ミサと、8月15日夕方の聖母被昇天ミサは、どちらもわたしの司式で、ネット配信を行う予定です。

年間第17主日A
週刊大司教第266回
2026年7月26日

「宝」という言葉には、経済的な価値を持っているという意味だけではなく、他では代えることのできない大切な存在という意味もあります。わたしたちが生きている世界は、どちらの価値を大切にしようとしているのでしょう。

マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を語ります。ここでイエスが語る「宝」は、もちろん数字で量ることのできる価値に富んでいる財産としての「宝」ではなく、自分の人生にとって決定的な意味を持つ「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、いのちを生かす価値のある「宝」であります。

わたしたちキリストに従う者にとっての宝は、福音そのものではないでしょうか。なんと言ってもわたしたちにいのちという賜物を与えてくださった神ご自身が、神のことばという宝物として、常にわたしたちと歩みをともにしてくださっているのです。わたしたちはこの宝を、人生のすべてを賭けてでも手に入れて従い、さらに多くの人にその宝を分け与える者でありたいと思います。

まもなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、日本のカトリック教会にとって大きな意味を持つ平和旬間がはじまります。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。わたしたちは将来の世代に対する責任を担うためにも、過去を忘れ去ることのないようにしたいと思います。

教皇レオ14世は、先般アフリカ司牧訪問へ向かう機内で、教会の平和への呼びかけが政治的発言として受け止められることについて問われ、「わたしたちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、わたしたちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と答えられ、平和構築は福音という宝物を大切にしている教会にとっての優先事項であることを明確にされています。

さらに教皇は、「戦争に強く反対し、平和を促進し、問題解決のために各国間の対話と多国間主義を推進し続けるつもりだ。今日、あまりにも多くの人たちが苦しみ、あまりにも多くの罪のない人々が殺されている。誰かが立ち上り、より良い方法があると言うべきだと思う」と述べておられます(『バチカン・ニュース』2026年4月13日)

平和旬間をまもなく迎えるにあたり、この教皇の言葉を思い出したいと思います。わたしたちが平和を求めて声を上げるのは、それこそが福音という宝物がわたしたちに求めていることだからに他なりません。

暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(カテキズム1753)。「戦争は死です」。賜物であるいのちを生かす神の「宝」から目をそらすことなく、ともに歩まれる平和の主に従っていきたいと思います。

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2026年7月18日 (土)

週刊大司教第265回:年間第16主日

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年間第16主日です

今週は成井司教様と一緒に、インドネシアのフローレス島にあるエンデ大司教区を訪問しています。この教区の司教様は、神言会の前総会長であるブディ・クレドン大司教様です。またフローレス島のエンデ教区も、神言会の古くからの宣教地の一つです。

来週月曜から一週間は、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会がインドネシアのジャカルタで開催されます。こちらの模様はまた、お知らせします。

本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

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週刊大司教第265回
2026年7月19日

現代社会の現実は、まさしく福音が記しているように、神が望まれている良い麦と、人間の欲望に支配された悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。

神からの賜物であるいのちに対する暴力が横行する現実の中にあっても、同時にそのいのちを守るために、困窮する他者に手を差し伸べ、ともに歩もうとする人も多く存在します。神の愛をその言葉と行いであかしする人も多くおられます。

しかし暴力の支配と、賜物であるいのちが危機に直面する悲劇的現実があまりに目立っているがために、おもわず、神が悪の存在を容認しているのだろうかと考えてしまいます。全能の神がそのように容認するのであれば、社会の現実の中で悪と対峙することには、全く意味がないことになってしまいます。

福音は、神は良い麦と悪い麦の存在を知ってはいるが、それを刈り入れの時まであるがままにされているのだと記します。善と悪を明白に峻別できるそのときを待っておられるのだと記します。すなわちいのちの与え主である御父は、悪がこの世界を支配するような状況を容認しているわけではありません。悪がその力を振るうことを容認しているわけではありません。

そのことを心に留め、毒麦を凌駕するほどに良い麦が世界を支配するように、わたし達は良い麦を一層力強く増やしていく努力をしなければなりません。わたしたちはただ荒れ狂う暴力の嵐の前に力なく傍観するのではなく、良い麦をさらに広く蒔き続ける努力をしなければなりません。わたしたちに与えられている使命は、畑に入って毒麦を抜きととることに専念することではありません。それよりも毒麦を凌駕するように、良い麦をさらに広く蒔き続けることに他なりません。そのためにも、どこに毒麦があるのかを知り、指摘することには大きな意味があります。毒麦がはびこっているところにこそ、わたし達は良い麦を蒔かなくてはならないからです。

現代世界憲章は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と始まっています。教会は、現代社会の現実の中で、いのちの危機に直面し、人間の尊厳を奪われ、生きるための困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添いたいと願っています。

現代世界憲章はさらに、「全ての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。従って全ての人が基本的に平等であることは、ますます認められなければならない(29)」と記します。

私たちが生きている世界は、その「いのち」をないがしろにし、あまつさえ人間自身が「いのち」をコントロールする権利があるとでも言わんばかりの傲慢さに満ちあふれ、いのちを守るどころかいのちを奪う暴力が支配しています。こういった現実の中で、現代世界憲章は、全人類との対話のうちに神の福音をあかしするために、「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務が」あると指摘しています。社会の現実の中で、神の望まれる世界の実現を妨げている出来事に目を向け、起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点からそこに示されるしるしを読み取り、共通善を念頭に置いて発言することはることは、教会の務めです。それこそが毒麦を凌駕するために必要なわたし達の務めです。

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2026年7月11日 (土)

週刊大司教第264回:年間第15主日A

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年間第15主日です。この主日、わたしは、生まれ故郷の岩手県宮古市の教会で、主日ミサを捧げることになっています。

わたしが生まれた70年近く前、両親は教会とその幼稚園で働いていたため、わたしは宮古教会で生まれ、そこに住み、人生の最初の数年を教会で過ごしていました。

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そのときの主任司祭は、ベトレヘム外国宣教会のスイス人の宣教師です。その宣教師と毎日の生活を共にし、毎日のように朝のミサに与ったことが、その後のわたしの人生に大きな影響を与えたと思います。司祭になることだけにとどまらず、文化や言葉の壁を越えて福音を宣教する宣教師としての人生です。

その意味もあって、毎年一度は、感謝を持って生まれ故郷の宮古教会で、感謝のミサを捧げさせていただいています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

年間第15主日A
週刊大司教第264回
2026年7月12日

今の時代、言葉はどれほどの重さを持っていると考えられているのでしょうか。インターネットが発達し、人工知能による情報提供も普通のことになった今、音としてこの世界に生み出される言葉の何パーセントが、心に裏打ちされた重みを持った言葉なのでしょうか。バーチャルな世界で言葉がもてあそばれ、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、重みを失って漂っているとき、わたし達は、キリスト者の信仰にとって、言葉が重要であることを思い起こしたいと思います。

神のことばは、常にわたしたちとともにいてくださる神の現存です。なぜならば、世の終わりまでわたしたちとともにいてくださると約束された主イエスこそは、「人となられた神の言」であるからに他なりません。ヨハネ福音の冒頭は、「初めに言があった。言は神であった」と始まります。わたし達の信仰は、言葉による信仰です。

ヨハネ福音に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおり、神はご自分のことばを種のように蒔き続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

わたしたちは、神が蒔き続けておられる言葉の種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶようにと、事前にしておかなくてはならない準備があります。

今必要な準備は、軽く漂う言葉に席巻されている世界に対して、言葉には顔があり心の重みを担っているのだということを証しのうちに伝えていくことであろうと思います。現実の世界の中での具体的な人とのかかわりにおいて、わたしたち自身の言葉と行いこそは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

神の言葉が受け入れられた世界こそは、神が望まれた世界の実現です。神の言葉が豊かに実るとき、そこには神御自身からの賜物であるいのちを徹底的に守り抜く世界が実現し、神の似姿としての人間の尊厳が尊重されているはずです。いのちに対して暴力を振るう世界が、神のことばの種が豊かな実りを生み出す土壌となることはあり得ません。

インターネットが普及している現代社会にあってわたし達は、ネット上に発信されていく様々な言葉でさえも、顔と心に裏打ちされた重さを持った言葉としていく努力が必要です。心配りも何もなく発信されていく攻撃的な言葉が、神の言葉が芽吹く土壌を生み出すことはありません。

時にキリスト者と言いながら、他者のいのちや尊厳に対して暴力的で攻撃的になる、きわめて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にするとき、そのキリスト者は一体どんな土壌を神のことばの種のために備えようとされているのかと悲しく思います。

わたしたちの語る言葉こそが、神のことばの種を蒔く土壌を準備するためにあるのだと心に留め、神の言葉の種が豊に実を結ぶように、務めていきたいと思います。

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2026年7月 4日 (土)

週刊大司教第263回:年間第14主日A

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7月になりました。年間第14主日です。

前回もお知らせしましたが、6月26日(金)と27日(土)に臨時の枢機卿会があったため、ローマに出かけていました。毎日40度近い熱波に襲われていたヨーロッパですが、ローマも異常に暑い毎日でした。

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28日(日)にはブラジル司教団が設置するコレジオ(宿舎)を会場に、朝のミサに始まり夕方6時近くまで、各大陸別司教協議会連盟の集まりがあり、わたしもアジア司教協議会連盟の事務局長ですので、他の司教様方と一緒に参加して参りました。今後、大陸別司教協議会連盟の連携をどのように強めていくのかなどについて意見交換でした。

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その後、29日(月)は聖ペトロと聖パウロの祝日で、これはローマのお祝いでもあるので、ローマは休日でした。午前中は、教皇様が司式するミサに共同司式。このミサの中で、この一年間に管区大司教(メトロポリタン)に任命された大司教様方が、教皇様との一致の印であるパリウムを頂きました。私自身のパリウムを頂くミサは2018年6月29日でしたが、この時のミサはサンピエトロ広場、つまり外のでミサでした。しかし今年は異常な暑さということもあり、ミサはサンピエトロ大聖堂内で行われました。天上が遙かに高いので、エアコンがないものの、暑さは少し和らいでいました。

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サンピエトロ広場に通じる道には、前夜から準備された花絵がいくつも並び、その多くのが平和訴える内容でした。そしてその晩には、バチカンの前のサンタンジェロ城で花火大会。あまりの人混みに近づけず、サンピエトロ広場から眺めました。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第263回、年間第14主日のメッセージです。

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週刊大司教第263回
2026年7月5日

心の安らぎは、絶望の中にではなく、希望のうちに見いだされます。わたしたちの人生の歩みにおける希望は、一体どこに見いだすことができるのでしょうか。

現代社会にあって、希望を見いだし、心の安らぎを得ることは容易ではありません。自分の周囲だけでなく、世界全体の現実を見るならば、今この瞬間も暴力にさらされていのちの危機に直面したり、貧困や圧政の中でもがき苦しんでいる人たちの現実が容易に見いだされます。社会が発展し、技術が進歩する中で、人々の暮らしは改善され、希望が生み出されると考えられてきましたが、現実は残念ながらそうではありません。

この現実の中にあって、人と人との出会いのなかにあって希望を見いだし、安らぎを生み出すことは、教会の使命の一つではないでしょうか。

教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」で、理性と自由意志を与えられた人間は、社会の発展の中で様々な種類の希望が生まれ、そしてそれが奪われ、また発展が必ずしもいのちを生かす希望には繋がらないことを体験してきたと指摘します。

その上で教皇は、「わたしたちは日々を歩んでいくために、小さな希望から大きな希望まで、なにがしかの希望を必要としています。しかし、わたしたちは偉大な希望がなければ満足できません。この偉大な希望は、他のあらゆる希望を超えたものでなければなりません。この偉大な希望は、神以外にはあり得ません」(31)と記し、真の希望は神の懐に抱かれることによってのみ達成されることを明示されています。

マタイ福音には、「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されていました。

教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、すべての人が同じように考え、仲良く過ごしているというのは、現実的ではありません。異なる人が互いに理解することに苦労しながらも、しかしそれでも教会が希望と安らぎを生み出す場となり得るのはどうしてでしょうか。それは教会共同体がシノドス的な共同体として、互いに支え合い、耳を傾け合い、ともに祈り、聖霊の導きを識別しようとしてともに歩んでいるからであり、その教会共同体の真ん中には、主イエスご自身が現存され、その主の存在こそが、希望の源となっているからに他なりません。ひとり一人の優しい性格に頼った仲良し共同体を目指しているのではなく、互いに異なる存在を尊重し耳を傾け、支え合い、祈り合う中で、ともにイエスに身を寄せ合うからこそ、安らぎが生まれ、希望が生み出されます。

残念ながら、教会共同体の中で、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え、欠点を抱えた不十分な人間です。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心に主ご自身が来てくださいます。主とともにあるわたしたちは、主が与えてくださる安らぎを、自らもあかしし、行動する道を見いだしていきましょう。

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