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2026年8月30日 (日)

年間第22主日A@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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8月の最後の主日。本日は関口教会の10時の主日ミサを担当し。東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサを捧げました。

説教の中でも触れていますが、今週の火曜日、9月1日から、「ラウダート・シ」にちなんだ「すべてのいのちを守る月間」が始まり、10月4日まで続きます。

東京教区では、今週の土曜日、9月5日の午後1時から、司教団の「ラウダート・シ」部門担当である新潟の成井大介司教様においでいただき、講演会とミサをすることにしております。時間がある方には、是非ご参加ください。講演会は午後1時からケルンホール、ミサを午後4時から聖マリア大聖堂です。

以下、本日のミサの説教原稿です。

年間第22主日関口教会ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月30日

今年の夏は、早い時期から台風が発生したり、酷暑が続いてみたり、また先日は千葉県内でも大きな被害が出たように各地で豪雨被害もありました。今朝ほども福井県で豪雨の被害が出ていると報道されています。さらには熊本を始め各地で地震が発生したりと、自然の巨大な力の中で生きていくわたしたち人間の力が、いかに小さなものであるのかを思い知らされた夏でもありました。被害を受けられた多くの方々には心からお見舞いを申し上げます。またネパールと中国の国境地帯では、大きな土石流の災害も発生し、多くの方が被害を受けられ、亡くなられた方も多くおられると報道されています。先日訪問したインドネシアのフローレス島や、フィリピン、コロンビアやベネズエラなど、世界各地で地震災害が発生しています。被害を受けられた方々に、いのちの与え主である神様のいつくしみ深い手が差し伸べられることをお祈りいたします。

今年の5月末からは、気象庁の防災気象情報も変更され、大雨警報などの程度が数字で示され、早い段階から避難を呼びかける制度となったり、線状降水帯という言葉も、少し前までは集中豪雨などと行っていましたが、だんだんと耳に慣れてきました。明らかに気候は変動しています。確かにこの数年、日本の気候は荒々しくなり、特に夏の気候はまるで熱帯地方のようになりました。否定する人もいる中で、いわゆる温暖化による気候変動は事実なのだと確信させるに十分な、気候の大きな変化を、夏でも冬でも経験するようになりました。

教皇フランシスコが「ラウダート・シ」を発表されてから10年以上が過ぎました。2015年のことでした。「ともに暮らす家を大切に」と副題に記され、環境問題に総合的な視点から広く取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託されたこの自然界を養い育てると言う、創世記に記された人間の務めを果たすことにつながり、それは同時に信仰上の責務でもあると強調されました。

毎年9月1日は「被造物を大切にする世界祈願日」とさだめられていますが、東京教区では次の土曜日、9月5日の午後1時から、司教団のラウダート・シ部門の担当である新潟の成井大介司教様をお招きして講演会をケルンホールで開催し、またその日の午後4時から、成井司教様の司式で東京カテドラルでミサが捧げられます。どうぞご参加ください。

また9月1日からアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の期間として「被造物の季節」と定められており、日本の教会ではこの期間を「すべてのいのちを守るための月間」と位置づけています。この期間は、気候変動や温暖化の問題を取り上げるだけでなく、それ以上に、「ラウダート・シ」がもとめているわたしたちの「共通の家」を守るという理念の啓発に取り組み、またそれを神から与えられた賜物であるいのちの視点から、霊的に深めていくために定められています。すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な時とすることが求められています。

今年の「被造物を大切にする世界祈願日」にあたり、教皇レオ14世はメッセージを発表され、そのタイトルを、イザヤ書2章から引用されて、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」とされています。

メッセージの中で教皇は、「国々が「剣を打ち直して鋤とし」、いのちを損なうものを、いのちを支えるものへと変える時が来ると語りました。ところが、今日わたしたちは、それとはまったく逆のことばかりを目にします。暴力と戦争へと心血を注ぎ続けているのです」と指摘されています。

その上で教皇は、戦争こそは「次々と犠牲者を生み、家族を引き裂き、何百万人もの人を故郷から追いやり、恐怖と不正義と分断を募らせ」ると述べ、「何世代にもわたる社会の荒廃と環境の破壊を残す」ことによって、悪循環を生じさせていると指摘されます。環境問題への取り組みは、平和構築への取り組みであることを、教皇は明確に述べています。

平和構築について教皇はメッセージで、「戦争は、神にかたどり、神に似せて造られた人間として生きること、いのちを尊ぶこと、わたしたちにゆだねられている大地のケア、これらに深刻な落ち度があったことの表れです。単に政治的な失敗であるだけではなく、道徳的、霊的な落ち度でもあります」と記し、わたしたち信仰者は率先して、「真理、対話、忍耐、善意、正義、いつくしみ、理解、配慮、愛」によって、人々の心にいやしを生み出そうと呼びかけています。

「ラウダート・シ」の呼びかけは、わたしたちが享受している生活を大きく変えていくことを意味しているため、抵抗されたり無視されたりしがちであります。しかし、神がこの世界を創造し守り育み管理するようにとわたしたちに託したその願いに心を留めるならば、何もせずに今の生活を享受し続けることは、福音にあったように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」とわたしたちも主から叱責される姿勢であることは間違いありません。

預言者エレミヤの嘆きの言葉が、第一朗読に記されていました。

「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」

わたしたちはイエスを通じて語られ、聖霊によっていまも導いてくださる主の救いの福音が実現するようにと、生活を通じて取り組んでいます。その取り組みの度合いにはそれぞれの生活の現実において違いがあるとはいえ、エレミヤが記すように、「もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上が」るのですから、止めることはできません。一度でも心で受け止めたのであれば、主の言葉は、決して消えることのない炎として、心の内に燃え続けています。

イエスのメッセージを現代社会の中で生き、さらに伝えていくことには、様々な困難が伴います。環境問題にしても、平和の確立にしても、賜物であるいのちと人間の尊厳を守ることにしても、現代社会の現実はそれに生きることが、まるで夢物語を語り続ける愚か者の生き方であるかのように、嘲笑の対象としてしまいます。社会の現実は、わたしたちが福音に従って生き、語り、行動することを、容易ではないものにしています。

福音が夢物語と見なされるときに、エレミヤの言葉を心に留め、そして第二朗読のパウロの言葉を心に留めたいと思います。ローマの教会への手紙で、「あなた方はこの世に倣ってはなりません」と、力強く勧めの言葉を記しています。わたしたちは常に、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを」わきまえるものになりたいと思います。

この世界の常識に流されて、妥協してしまいたくなるわたしたちの心に、主は、「サタン、引き下がれ。あなたは、・・・神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しい言葉を向けられています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って」という主の言葉は、苦行をしろと言っているのではありません。十字架の道は単なる苦しみの道ではなく、神が自ら創造された賜物であるいのちを救うために歩まれた、自己犠牲による愛の道です。他者のために捧げる愛の奉仕の道です。主の十字架は、苦しみの象徴ではなく、すべてを賭して、わたしたちへの愛を目に見える形で行動に移された神の愛といつくしみのあかしです。

イエス自身が歩まれた道、すなわち十字架の道を、ともに歩むようにと言う主の呼びかけに、真摯に応えるものであり続けましょう。

 

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2026年8月15日 (土)

2026年聖母被昇天祭ミサ@東京カテドラル


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聖母被昇天祭は、同時に、毎年、平和について深く考えともに祈る機会となる終戦記念日でもあります。また平和旬間の最終日でもあります。

聖母マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義に基づく祭日で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世がその教義を荘厳に公布しました。

中央協議会のサイトには、この日が8月15日となった歴史的経緯について、こう記されています

この8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。この死去は、マリアが天に召された(帰天)ことと永遠のいのちのうちに誕生したこととして記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまでマリア信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。

なおわたしの洗礼名である聖タルチシオは、8月15日が祝日であり、タルチシオを洗礼名に頂いている人は8月15日に今でもお祝いをするかと思いますが、その8月15日が聖母の祭日となったため、典礼の暦上は8月12日へ前倒しになっています。この霊名の祝日のために、わたしのためにお祝いとお祈りをくださっている多くの皆さまに感謝申し上げます。タルチシオという霊名は、わたしが生まれた当時、父も母も教会で働いていたこともあり、わたしたち家族が住んでいた岩手県の宮古教会で司牧にあたっていたスイス人宣教師が、「聖タルチシオがヨーロッパでは侍者の保護の聖人だから」ということで選んでくださったと聞いています。

以下、本日午後6時から配信している関口教会の聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月15日

聖母マリアは平和の元后です。

なぜそうなのかと言えば、聖母マリアは、神の定めた秩序がこの世界に実現するために、人生のすべてを捧げられた方だからであります。

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。すなわち神の望まれる世界の実現こそが、平和の達成なのですから、神の意志を実現するために生きるすべての人は、平和を実現するために生きていると言っても過言ではありません。

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる口実を見つけ出しては、わたし達人類は神からの賜物であるいのちに暴力的に襲いかかり、その尊厳をないがしろにしています。そのようないのちの状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物であるいのちはその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。なぜならそれはわたし達が作ったものではなくて、神から無償で与えられた賜物であるからです。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。わたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るために人生をかけることこそは、それこそが平和を確立するための道です。ですから聖母マリアは、平和の元后です。神の意思の実現のためにすべてを投げ出して人生を捧げたからであります。

平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受けたときに、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。

エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と記されています。神の意志が実現する、すなわち平和の実現とはいかなる状態なのかがそこに明示されています。

そこでは、この世界の常識が全く覆され、多くの人から見捨てられ、忘れられ、いらないものとして排除され、社会の中心から追われて周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが豊かに向けられていることが記されています。

聖母マリアがその人生のすべてをかけてその身に引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な、救い主の母となるという役割でありました。その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって忘れられた人たちへのいつくしみに満ちた配慮と思いやりを、この讃歌は高らかに歌っています。

また神がどこに人間の価値を見いだすのかについて、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りではなくて、人間が価値を見いださない存在のうちにこそ神は価値を見いだすのだと宣言します。

すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとしてすべからく大切なのだという、神のいのちに対する価値観が、そこには明示されています。わたしたち人間が価値がないとみなすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。

エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。神の意志が実現すること、神の秩序が実現すること、つまり神のことばが実現することこそが、神がよしとされる状態であり、それが神の平和の実現であります。弱い存在や異質な存在を排除するところに、平和は実現しません。自分の利益のために他者を犠牲にしても構わないと判断するところに、真の平和は存在しません。自分の存在を守るために、誰かが犠牲になるのはやむを得ないと考えるところに、神の平和は実現しません。

いまもまた、わたしたち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くのいのちが暴力的に奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。その喝采の陰に、どれだけの人が子供や親や親しい人を暴力的に奪われて嘆き悲しんでいることでしょう。戦地で親しい人を奪われて嘆き悲しむ姿を、ニュースなどで目にすることがあります。それをどこかの誰かの悲劇に留めず、その悲しみをわたし達自身の心に刻み込みたいと思います。

2026年5月30日の夕刻、バチカン庭園で行った平和のためのロザリオの集いの終わりのあいさつで、教皇レオ14世はこう述べられました。

「マリアとともにロザリオの神秘を観想することは、御父が語られた唯一の決定的なことば、悔い改めの心をもって御父に立ち帰るすべての者にとっての平和のことばを、イエス・キリストのうちに見いだすようにわたしたちを導きます。」

その上で教皇は、「平和は正義と愛からほとばしり出ます。人々と家庭と地域社会と民族を結びつける調和と同じように。この緊張と紛争の時代においても、平和は、平和を奪われた人々の叫び声にわたしたちが耳を傾けるならば可能です。――罪のない子どもたち、苦悩のうちにある母親と父親、虐待された受刑者、避難民、あらゆる年齢の苦しむ人々の叫び声に。彼らのすべてが発することばはただ一つ、平和です」と述べて、聖母マリアと共にいのちを守り平和を実現するように祈り行動するように招いておられます。

いのちに対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりにし、またその暴力を肯定し、暴力の源である兵器を増強しようとする社会の風潮の中にあって、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日もわたしたちが生きる道筋を示そうとされています。栄光のうちに天にあげられた聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の言葉が実現し、その秩序が確立され、神の平和が実現するように、聖母マリアと共に歩んで参りましょう。

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2026年8月 8日 (土)

2026年平和旬間@東京教区

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日本のカトリック教会は、広島に原爆が落とされた8月6日から終戦の15日までの10日間を、平和旬間と定め、毎年、平和について黙想し、祈り、また呼びかけ行動するための期間としています。もちろん平和について考え祈ることはキリスト者にとって常に必要なことですが、この10日間の特別な期間は、1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世が、広島の地から世界に平和を呼びかけたことに触発され、その呼びかけを受けて翌1982年から毎年集中して平和について考え祈るときとして行われている特別な時です。

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まさしく大量破壊兵器で、一瞬のうちに何万、何十万もの人命が奪われた体験を、その歴史において二度も刻まれた私たちの国は、人類社会全体に対してその悲劇から生み出された平和を希求する真摯な願いを、訴え続けていく責務があります。さらにはそもそも核兵器の使用を招いた戦争という手段を持って国家間の紛争を解決することに対しても、同じ家に生きる兄弟姉妹として解決するためには他の道があるのではないかと、世界の国々に呼びかけたいと思います。

この平和旬間にあたり、司教協議会会長としての談話を発表しています。カトリック中央協議会のサイトをご覧ください

また東京教区の平和旬間の取り組みは、教区ホームページのこちらをご覧ください。

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以下、本日午後3時半から東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた平和祈願ミサの、説教原稿です。なおこのあと平和巡礼ウォークが目白駅まで行われましたが、わたしは急用のためローマへ出かけなくてはならなくなり、平和巡礼ウォークには参加できませんでした。暑い中、参加くださった皆さま、ありがとうございます。

平和祈願ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月8日

平和を求めて語り、また行動する人に対して、嘲笑の言葉が浴びせられるのは、決して目新しいことではありません。旧約聖書にも、例えばエレミヤ書には、王に対して戦いを控え、攻めてくる敵に刃向かわないことこそがいのちを守ることだと忠告する預言者エレミヤに対して、役人たちは王にこう言ったと記されています。

「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」(エレミヤ38章4節)

こうしてエレミヤはすさまじいまでの迫害を受けることになりますが、平和を語り続けたことでいのちを危機にさらした事例はわたしたちの身近にもあります。

太平洋戦争へと歩みを進めていた日本においても、政治家だけではなく、平和を語る学者や宗教者、そしてジャーナリストなどに対して、治安維持法に基づく嫌疑で弾圧があったり、社会全体の好戦的な雰囲気が醸成される中で、それに抗うものに対する社会的な圧力と具体的な攻撃は増していったことが記録されています。

そしていま、社会全体がどこに向かっているのかは、実際には予測することは難しく結果論でしかないのかもしれませんが、必ずしも平和の方向に向かっているとは言いがたく、人間の好戦的な指向性に資する方向に歩みを進めているようにしか感じられません。

1981年に広島を訪問された教皇聖ヨハネパウロ二世は、「戦争は人間の仕業です」とその平和アピールを始められました。続けて教皇は、広島と長崎について、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にすると、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめる」と述べています。

さらに教皇は、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と三回繰り返され、核兵器の使用による悲劇を忘れることなく、核兵器の使用の否定と核兵器の廃絶に触れた上で、こう述べておられます。

「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません。」

私たちは今どのような道を歩もうとしているのでしょうか。平和への呼びかけが嘲笑の的になる時代は、果たして平和へと向かっている時代なのでしょうか。

教皇レオ14世は、先般ご自身の著書を発表され、そのタイトルを、まだ仮訳ですが、「武器のない、武器を取り除く平和」とされています。

教皇は序文の中で、「平和を生み出すのは核兵器ではなく、軍縮です。この数十年間、核の緊張緩和が進む中で自明のものと思われていたこの真実は、今日、人々を恐怖と戦慄に陥れている軍拡競争によって影をひそめてしまいました。」と記しています。

その上で教皇レオ14世は、「平和は、つまるところ希望を必要としています。教会はこれからも、すべての人々への愛を説き続けるでしょう。もし世界が今日何かを求めているならば、それは未来への希望のメッセージであるとわたしは信じています」と記し、主イエスのメッセージにこそ希望の唯一の源泉があり、それを告げる使命があるのだと強調されています。

わたしたち日本の司教団は、昨年の戦後80年にあたり、「平和を紡ぐ旅――希望を携えて」と題する司教団メッセージを発表しました。その中で、「戦争そのものの恐ろしさ、罪深さは、多くの人にとって明らかですが、戦争へと人々を導いた日常における思想や価値観の植えつけが、知らぬ間に世論を戦争に向けて突き進むものへと変えていくことを、80年前の経験から学ばねばなりません。今の日本は、果たして平和への道を進んでいるのでしょうか」と問いかけました。この問いは、今この瞬間、ますます大きな意味をもってわたしたちに突きつけられています。

人間のいのちを暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。わたしたちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、実はそれは間違いなどではなくて、それこそがわたしたちの本当の姿なのかもしれないと思ってしまいます。

いまもまた、わたしたち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くのいのちが奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。

東京教区の姉妹教区であるミャンマーでは、今でも軍事政権による混乱が続き、平和を求める教会の叫びには暴力が襲いかかり、絶望を生み出し続けています。先日バチカンで行われた枢機卿会議で、二日間、アフリカは南スーダンの首都ジュバ大司教のムラ枢機卿様と隣同士でしたが、南スーダンを始めアフリカ各地の非常に厳しい社会情勢と、いつ終わるともしれない内戦状態について実情を伺い、リーダーたちが平和に目覚めるように祈ってほしいと依頼されました。世界の各地で、平和は片隅に追いやられ、忘れ去られ、命が危機に直面し、暴力のもたらす絶望が支配しています。

私たちはこの現実の中で、愚直に平和を語り続けるものでありたいと思います。非戦による平和を説いて迫害されたエレミヤでありたいと思います。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられ、似姿としての人間の尊厳を与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るのは、わたしたちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

平和旬間にあたり、あらためてわたしたちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。過去に謙遜に学ぶものでありましょう。

 

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