2026年聖母被昇天祭ミサ@東京カテドラル
聖母被昇天祭は、同時に、毎年、平和について深く考えともに祈る機会となる終戦記念日でもあります。また平和旬間の最終日でもあります。
聖母マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義に基づく祭日で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世がその教義を荘厳に公布しました。
中央協議会のサイトには、この日が8月15日となった歴史的経緯について、こう記されています。
この8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。この死去は、マリアが天に召された(帰天)ことと永遠のいのちのうちに誕生したこととして記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。こうして1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまでマリア信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。
なおわたしの洗礼名である聖タルチシオは、8月15日が祝日であり、タルチシオを洗礼名に頂いている人は8月15日に今でもお祝いをするかと思いますが、その8月15日が聖母の祭日となったため、典礼の暦上は8月12日へ前倒しになっています。この霊名の祝日のために、わたしのためにお祝いとお祈りをくださっている多くの皆さまに感謝申し上げます。タルチシオという霊名は、わたしが生まれた当時、父も母も教会で働いていたこともあり、わたしたち家族が住んでいた岩手県の宮古教会で司牧にあたっていたスイス人宣教師が、「聖タルチシオがヨーロッパでは侍者の保護の聖人だから」ということで選んでくださったと聞いています。
以下、本日午後6時から配信している関口教会の聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。
聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年8月15日聖母マリアは平和の元后です。
なぜそうなのかと言えば、聖母マリアは、神の定めた秩序がこの世界に実現するために、人生のすべてを捧げられた方だからであります。
教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。すなわち神の望まれる世界の実現こそが、平和の達成なのですから、神の意志を実現するために生きるすべての人は、平和を実現するために生きていると言っても過言ではありません。
はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる口実を見つけ出しては、わたし達人類は神からの賜物であるいのちに暴力的に襲いかかり、その尊厳をないがしろにしています。そのようないのちの状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物であるいのちはその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。なぜならそれはわたし達が作ったものではなくて、神から無償で与えられた賜物であるからです。
神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。わたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るために人生をかけることこそは、それこそが平和を確立するための道です。ですから聖母マリアは、平和の元后です。神の意思の実現のためにすべてを投げ出して人生を捧げたからであります。
平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受けたときに、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。
教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。
エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と記されています。神の意志が実現する、すなわち平和の実現とはいかなる状態なのかがそこに明示されています。
そこでは、この世界の常識が全く覆され、多くの人から見捨てられ、忘れられ、いらないものとして排除され、社会の中心から追われて周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが豊かに向けられていることが記されています。
聖母マリアがその人生のすべてをかけてその身に引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な、救い主の母となるという役割でありました。その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって忘れられた人たちへのいつくしみに満ちた配慮と思いやりを、この讃歌は高らかに歌っています。
また神がどこに人間の価値を見いだすのかについて、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りではなくて、人間が価値を見いださない存在のうちにこそ神は価値を見いだすのだと宣言します。
すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとしてすべからく大切なのだという、神のいのちに対する価値観が、そこには明示されています。わたしたち人間が価値がないとみなすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。
エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。神の意志が実現すること、神の秩序が実現すること、つまり神のことばが実現することこそが、神がよしとされる状態であり、それが神の平和の実現であります。弱い存在や異質な存在を排除するところに、平和は実現しません。自分の利益のために他者を犠牲にしても構わないと判断するところに、真の平和は存在しません。自分の存在を守るために、誰かが犠牲になるのはやむを得ないと考えるところに、神の平和は実現しません。
いまもまた、わたしたち人類は、様々な理由を見つけては自らの行動を正当化し、ガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、ウクライナでの戦争は終わりが見えず、米国が主導しイスラエルと一緒になったイランとの戦争は終わったのかどうかも定かではなく、どれほど多くのいのちが暴力的に奪われても、世界はそれを止めるすべを持ちません。それどころか、一部のリーダーたちの好戦的な発言や行動に対し、褒め称えるかのような喝采の声すら上がっています。その喝采の陰に、どれだけの人が子供や親や親しい人を暴力的に奪われて嘆き悲しんでいることでしょう。戦地で親しい人を奪われて嘆き悲しむ姿を、ニュースなどで目にすることがあります。それをどこかの誰かの悲劇に留めず、その悲しみをわたし達自身の心に刻み込みたいと思います。
2026年5月30日の夕刻、バチカン庭園で行った平和のためのロザリオの集いの終わりのあいさつで、教皇レオ14世はこう述べられました。
「マリアとともにロザリオの神秘を観想することは、御父が語られた唯一の決定的なことば、悔い改めの心をもって御父に立ち帰るすべての者にとっての平和のことばを、イエス・キリストのうちに見いだすようにわたしたちを導きます。」
その上で教皇は、「平和は正義と愛からほとばしり出ます。人々と家庭と地域社会と民族を結びつける調和と同じように。この緊張と紛争の時代においても、平和は、平和を奪われた人々の叫び声にわたしたちが耳を傾けるならば可能です。――罪のない子どもたち、苦悩のうちにある母親と父親、虐待された受刑者、避難民、あらゆる年齢の苦しむ人々の叫び声に。彼らのすべてが発することばはただ一つ、平和です」と述べて、聖母マリアと共にいのちを守り平和を実現するように祈り行動するように招いておられます。
いのちに対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりにし、またその暴力を肯定し、暴力の源である兵器を増強しようとする社会の風潮の中にあって、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日もわたしたちが生きる道筋を示そうとされています。栄光のうちに天にあげられた聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の言葉が実現し、その秩序が確立され、神の平和が実現するように、聖母マリアと共に歩んで参りましょう。
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