年間第24主日の午前10時のミサで、関口教会では5名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。
以下に、週刊大司教と若干かぶりますが、当日のミサの説教の原稿を掲載しておきます。東京カテドラル聖マリア大聖堂では、毎年聖霊降臨祭の午後に、教区合同堅信式を行って50名以上の方が毎年堅信の秘跡を受けられますが、関口教会単独での堅信式は久しぶりであったかと思います。
なお、9月14日の十字架称賛の祝日には、聖心女子大学聖堂にて、渡辺宏子先生主宰のCantate Dominoと由比ヶ浜グレゴリアンを歌う会主催で、グレゴリオ聖歌を歌うラテン語ミサを捧げました。典礼は朗読と説教以外はすべてラテン語ですが、現在の典礼です。
そもそも第二バチカン公会議後の典礼改革で、それまでのミサ式文が改定され日本語の現行のミサに変わったのが、わたしが小学三年生の頃です。それまでに小学一年生から侍者を始めていて、必死でカタカナで憶えたラテン語の階段祈祷などは、典礼が変わったので使わなくなりました。せっかく憶えたのにとがっかりしたことを記憶しています。
典礼が変わるとともに言葉も日本語になったのですから、以前の典礼はいざ知らず、現行の典礼でラテン語ミサに与っている人は、実はそんなに多くはないはずです。グレゴリオ聖歌自体は、今回のグループを始め、多くの方が歌い継いでくださっています。
わたしが現行のラテン語ミサを歌って司式することができるのは、中学生で入学した当時の小神学校が、日曜日と大きな祝日のミサをすべてラテン語で行い、グレゴリアンを歌うミサとしていたからです。毎週土曜日の夜には、ドイツ人の神父様を指導者に、グレゴリアンの歌の練習までありました。今考えると、ありがたいことでありました。
以下、9月13日、関口教会での堅信式ミサでの説教の原稿です。
年間第24主日Aミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年9月13日
本日の第一朗読であるシラ書も、マタイ福音も、ゆるしと和解について語ります。わたしたちは基本的に自分勝手な存在です。人生の始まりから終わりまで、様々な人間関係の中で生きていくのですから、そこには多くの間違いが発生します。自分が犯した間違いにはできるだけ寛大にゆるしてほしいと思う反面、自分に対する他者の過ちに対しては、それほど寛大になれないどころか、時としてできる限る厳しく罰してしまおうとさえします。
ゆるしを願っている相手の立場に立って、相手の心持ちを客観的に想像できるのであれば、ゆるしを願っている人の立場がどれほど大変であるかは分かりそうなものですが、わたしたちはなかなかそうは簡単に、相手の立場に立って寛大にはなれないものです。自分の心の動きは確実に把握できても、相手の心の動きは想像するしかすべがないからかもしれません。
この世界に生きていく限り、全く他者との関係なしに生きていくことができませんから、わたしたちは常に他者との関係の中でいのちを生きています。人生をある程度生きてくると、自分と全く同じ人に遭遇する可能性は、極めて低いことにだんだんと気がつきます。考えることも判断することも行動も感情の動きも、全く同じ人には、なかなか出会うことはありません。ですからわたしたちの人生は、常に理解の相違に満ちあふれ、互いのことを理解することが出来ないことが続き、互いの行動や判断を理解できず、それがためにどうしても相手を裁いてしまいます。時として、その裁きはわたしの心の中に怒りを生みだし、怒りは憎しみに発展することもあります。結果として、この世界には対立関係が蔓延しています。
第一朗読のシラ書はこう始まります。「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方がつきまとう。・・・隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、おまえの罪は赦される。」
他者に対して憤りと怒りの感情を抱き、相手を裁いたままでは、自分と神との関係をただすこともできないと、シラ書は記しています。
わたしたちは完全なものではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度そういった過ちを悔い、神にゆるしを願うことでしょう。しかし神は、神にゆるしを請う前に、他者と自分の関係を正しくすることを求めます。他者との人間関係において、ゆるしと和解が実現しなければ、どうして神にゆるしを求めることが出来るだろうかと、シラ書は指摘します。
社会はそういう罪人であるわたしたちによって成り立っている集まりなのですから、その中に存在している教会共同体も、基本的には同じように罪人の集まりです。教会は決して罪を犯さない聖人のような選ばれた人だけが集まっている場ではありません。そういう人もいるでしょう。しかし大多数は、罪人です。自分と神との関係をただすことができずにもがいている罪人です。
教会共同体は、そうであったとしても罪人がともに集い、互いに向き合い、互いの関係をゆるしの心のうちに修復し、その上で一緒になって神に向き合い、ともに神のゆるしを求める、ゆるしと寛容さに満ちあふれた共同体であるはずです。わたしたち同士のゆるしと寛容さのないところに、神のゆるしはありません。ゆるしと寛容さに満ちあふれた共同体の姿こそが、現代社会にあって、希望のあかしのしるしとなります。
マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言うイエスの言葉を記しています。七の七十倍という言葉で、限りない深さを持った神のいつくしみを示します。またそのゆるしをいただいたものが、そのあわれみを他者との関係において分かち合うことなく、それどころか隣人を無慈悲に裁いた話をイエスはたとえとしてあげ、ゆるし合うことなく、無慈悲に他者を裁くものには、神のゆるしがないことも明示されています。
信仰者としてのわたしたちの人生は、主ご自身が生きられたとおりに生きることを目的としています。その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、ご自分に襲いかかるものをゆるすいつくしみであり、愛するすべてのいのちの救いのために、自らを犠牲として捧げた、隣人愛の極みであります。ですからわたしたちは、あわれみ・いつくしみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的にゆるし、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。
主イエスの生き方にならう、あかしの人生を歩みましょう。
キリスト教入信の秘跡は三つの秘跡を受けることによって完成します。一番重要なのはすべての基本にある洗礼の秘跡です。でもそれだけですべてが完成するわけではありません。ご聖体の秘跡、そして堅信の秘跡が続きます。わたしたちはこの三つの秘跡を通じてキリスト者になっていきます。信仰に生きるということは、キリストとともに道を歩むことであって、しかもわたしたちはその歩みを同じ信仰を持つ兄弟姉妹とともに歩みます。信仰は旅路です。この世の旅路が終わるまで、キリストとともに、また信仰における兄弟姉妹とともに、わたしたちは旅人として一緒に歩み続けます。
教会は聖霊の働きによって誕生し、共同体としての歩みを始めました。そのことを念頭に、儀式書の冒頭には、「堅信によって、わたしたちは父の賜物である聖霊のしるしを受け、主にいっそう似る者となり、聖霊に満たされる」と記されています。
イエスによって呼び集められた弟子たちが最初の教会共同体となったように、わたしたちも三つの秘跡を受けることによって、弟子たちと同じようにキリストと共に歩み、キリストの言葉を語り、キリストの行いを行い、キリストの一つの体にすべての人が集められ一致するようにと、ともに歩みを始めます。それが教会です。教会とは建物のことではなく、イエスとともに歩み続ける神の民のことであります。
今日、堅信の秘跡を受ける皆さんは、堅信という三つ目の入信の秘跡を受けることのよって完全なキリスト者としてたてられます。完全なキリスト者には、果たすべき使命が与えられています。堅信の秘跡を受けることによって自ら責任を負う大人の信徒となります。その責任とはキリストの使命を果たすために働く責任です。堅信を受けられる皆さんには、是非ともそのことを心に留めていただきたいと思います。大人のキリスト者としての責任を心に留めてください。
今日から、キリストと共に歩み、キリストの言葉を語り、キリストの行いを目に見える形で具体的に行い、キリストの一つの体にすべての人が集められるように働き、一致を実現するものとなってください。キリストの体における一致が実現するところに、神の望まれる平和があります。神におけるゆるしと寛容さこそが、成熟した教会共同体のあかしです。喜びと希望のあかしです。わたしたちは社会の中にあって、一致と平和のうちに生き、喜びと希望をあかしする者でありたいと思います。