教皇様をお迎えして、はや3年
教皇様を東京にお迎えして、東京ドームでミサに参加してから、もう3年です。2019年11月25日に、教皇様は朝から東北の被災者の方々と出会い、皇居を訪問され、東京カテドラルで青年たちと出会い、東京ドームでミサを捧げ、最後に首相官邸に出かけられました。
私も東京の大司教として、皇居以外はすべで同行させていただきました。東京ドームに移動する前には、教皇庁大使館で昼食があり、教皇様のすぐ近くで食事を共にする機会もいただきました。人生でも一番の緊張でありました。教皇様が残された様々な言葉は、中央協議会のホームページでご覧いただけます。素晴らしい言葉をたくさん残されました。その直後に始まった感染症の状況のため、その言葉を生かすことができていないのは残念ですが、これからの長きにわたって教会のあるべき姿を指し示す羅針盤のような言葉の数々です。
東京カテドラルの中央入り口左手の壁面には、上の写真ですが、教皇訪問の記念プレートが掲げられています。(その反対の右側には1981年のヨハネパウロ二世の訪問記念プレートがあります)。そしてドームミサの最後に教皇様から頂いたカリスは、カテドラルの司教ミサの時に使わせていただいています。
東京ドームのミサの時は、主司式の教皇様を挟んで、前田枢機卿様と私が祭壇に一緒に立ちました。私は奉献分の終わり、主の祈りの前の栄唱「キリストによって」をうたうように言われていました。教皇様は歌われないからです。その部分はラテン語で歌うと指示されていました。
もろもろ事前には忙しかったのでよく確認していなかったのです。当日の祭壇では、目の前には上の写真の、ミサ典書がおかれていました。歌う番になってみたら、なんと譜面がついていない。ラテン語の式文しか書いていない。一瞬「これはまずい」と思って、教皇様のほうを見ると、すでに教皇様はご聖体の入ったチボリウムをもって、目力で「早く歌え」と促しておられる。あれほど血の気が引いたことはありません。記憶の糸をたどって、ゆっくりとなんとか歌い切りました。実は、教皇様の訪日でいろいろ体験しましたが、あの瞬間が一番鮮明に記憶に残っています。
先日も東京カテドラルで、カトリックアクション同志会主催のラテン語のミサが捧げられ、司式をさせていただきました。明後日の待降節第一主日から日本語の式文の翻訳が変更になりますが、そのもとになる第三版のラテン語式文です。最初から最後まで、すべてを歌いました。各地様々な方々が聖歌隊を組織して、各部分をよく歌ってくださいました。今回は特に世界の平和のために祈りを捧げ、ウクライナ関係の方々も招待されて参加されていました。
わたしがそういったミサでラテン語の式文を歌える一番の理由は、事前に良く練習したからではないのです。今回も譜面が用意されていましたが、私の手元に届いたのは数日前で、ほかの所要もあったりしたため、事前に目を通したのは当日の午前中だけです。
歌える一番の理由は、生まれてからずーっとそういう環境にいたからにほかなりません。どこかのお話でも触れましたが、わたしは父親の仕事の関係で、教会に住んでいました。生まれた時から小学校4年生まで、教会の中に住んでいました。その後2年間だけの「外」での生活を経て、中学一年からは修道会の神学校に入ったので、人生のほとんどを教会関係で過ごしてきました。
小学校の2年くらいまでは、公会議前の典礼でしたから、当然ラテン語です。修道会に来てからも、最初の4年間くらいは、毎週日曜日をはじめ週に2・3度ほどラテン語のミサがあり、週末にはみっちりと一時間グレゴリアンの練習までありました。これが何とか今でも歌える理由です。同じようなことは、今ではちょっと難しいですね。でも教会の宝として、守っていく必要があるとも思います。
あらためて、3年前のあの興奮を思い起こし、教皇様が日本に残された言葉の宝物を、今一度心に刻み、目に見える形にしていきたいと思います。
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