カテゴリー「配信ミサ説教」の134件の記事

2026年4月 5日 (日)

2026年復活の主日@東京カテドラル

御復活おめでとうございます。

復活の主日、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、700人を超える参列者で一杯でした。昨晩は雨でしたが、今日はなんとか天気も回復し、桜も残っており、春らしい分に金の中での復活祭となりました。

以下、本日10時ミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月05日

主イエスの復活は、受難と死の苦しみを経た後の新しいいのちの始まりであり、永遠のいのちへとわたしたちを導く、御父の愛といつくしみの勝利のお祝いです。いのちを生きる希望のお祝いです。

皆様、主イエスの御復活、おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭において洗礼を受けられ、ともに主イエスに従って歩む仲間となった皆さん、おめでとうございます。信仰は一人でこっそりと生きるものではなく、ともに祈り支え合う信仰の友と一緒に、教会共同体の中で生きるものです。この教会共同体の皆さんとともに、新しく洗礼を受けられた皆さんを喜びのうちにお迎えいたします。

本日の第一朗読、使徒たちの宣教は、力強く主イエスについてあかしをするペトロの姿を記しています。ペトロは渾身の力を込めて、「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」と語り、すなわちイエスの福音をのべ伝えていきます。

しかしわたしたちはよく知っています。この勇気に満ちあふれた宣教者は、その少し前に、イエスを知らないと三度にわたって否定し、イエスを裏切り逃げてしまったことを。

ペトロがただの裏切り者にとどまっていたなら、世界に向けて高らかにあかしをするこのペトロの言葉は、全く薄っぺらな言葉になってしまいます。わたしたちは、同じ音を発声していても、それを裏打ちする心があるのかないのかで、言葉の重みが異なることを経験上よく知っています。深い思いと現実の体験に裏打ちされた言葉には、力があります。

2019年に教皇フランシスコが訪日された際、「教皇、日本に難民の受け入れを促す」というような内容のニュースが流れ、それに対して「大きなお世話だ」などという批判的なコメントも散見され、少しだけでしたが炎上いたしました。教皇様の日本での発言を振り返りましたが、実は難民についてはほとんど全く発言しておらず、実際に難民について触れたのは、ここ、東京カテドラルでの青年の集いにおいて、一言、こう述べた部分だけでした。

「とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです。」

しかしこの一言が、すべてのいのちを守るためと言う教皇フランシスコの確固たる信念に基づいた「言葉」であったがゆえに、聞く人に大きなインパクトを与えたのだと思います。

わたしたちはネット上だけに限らず現実の世界でも、薄っぺらな言葉が飛び交う時代に生きています。深く考えることもなく、その背景を探ることもなく、言葉の裏にある心に思いを馳せることもなく、反射的にデジタルの世界に投げつけられる様々な言葉。その言葉の多くが時間とともに消え去って行くことを目の当たりにするとき、これらの言葉の裏には何ら信念も価値観もないことが分かります。そういった時代だからこそ、確固たる信念に基づいた「言葉」は、いのちの「言葉」は、暗闇に輝く一筋の光のように、多くの人の心に突き刺さり、大きな反響を呼び起こします。

ペトロのあの日の力強い宣言が、力強いと感じられるのは、その言葉が信念に基づいているからに他なりません。そのペトロは、数日前の、恐れにとらわれて主を裏切った、人間の心の弱さの中にあるペトロではありません。主イエスの復活を体験し、主の十字架によって変えられ、イエスこそキリストであるという信念と、自らもその新しいいのちに招かれているという確信が、ペトロの言葉を裏打ちする信念となりました。確固たる信念に基づいた言葉には、力があります。

十字架の出来事を通じてペトロが復活の栄光の証人となったという事実を通じて、主の十字架の意味が明確になります。十字架は、神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光を示しています。

わたしたちも、同じ信仰に招かれている者として、確固たる信念に裏打ちされた言葉を語る者でありたいと思います。

2020年に始まった感染症によるいのちの危機以来、世界は常にいのちの危機に直面しています。東京教区では姉妹教会であるミャンマーの方々を忘れることなく、平和のために祈るようにと呼びかけ続けています。今現在も政治的に不安定な状況は変わらず、特に中部から北部にかけて、軍部による攻撃にさらされている地域もあり、平和を訴える教会への攻撃も止むことがありません。

またこの時期に始まったウクライナや聖地、とりわけガザでの紛争状態は解決することなく、いまでも多くの人が暴力にさらされいのちの危機に心安まることのない毎日を過ごしておられます。中東各地では、暴力的な状況を逃れ安全を求めて、少数派であるキリスト者が他の地域へと移住するということも起きています。加えて現時点でも、米国やイスラエルによるイラン攻撃によって始まった戦争状態はどのような展開を見せるのか定かではなく、毎日のようにさらに多くのいのちが危機に直面させられています。神からの賜物であるいのちに対する暴力は絶望を生み出し、いのちを生きる希望を奪い去ります。

十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。ともに歩む中で力づけられ、支え合う仲間とともに、この社会の中にあって、神の愛といつくしみをあかしするようにと招かれています。賜物として与えてくださったいのちを守り、神の似姿としての人間の尊厳を守りぬくようにと招いておられます。ともに歩みながらそのように招いてくださる復活された主イエスこそは、わたし達の希望です。しかしながら世界は、その招きに応えようともせずに神に背を向け、繰り返し絶望を生み出し続けています。

復活祭にあたり、わたしたちはペトロと同じように、主の十字架が示される神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光に与り、新しいいのちへの確信のうちに、いのちの与え主である御父への確固たる信仰に基づいて、力強く福音をあかしするものになりましょう。「わたしたちは、すべての証人です」と語るわたしたち自身の言葉が、薄っぺらな言葉にならないように、教会共同体の中で仲間とともに歩むことで絆を深め、ともに支え合い、ともに祈り合い、ともに感謝を捧げ、信仰における確信を深めながら、神の愛の言葉を告げ知らせるものとなりましょう。

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2026復活徹夜祭@東京カテドラル

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主イエスの御復活、おめでとうございます。

復活徹夜祭で洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。

昨晩、東京カテドラルでは16名の方が洗礼と堅信を受け、共同体に加わりました。

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以下、復活徹夜祭の説教原稿です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月04日

お集まりのみなさま、主イエスの御復活のお喜びを申し上げます。

わたしたちの主イエスの受難と十字架上での死を思い起こし、四旬節の間ともに歩んできたわたしたちにとって、いのちの絶望である死を打ち破り、永遠のいのちへと復活された主エスは、わたしたちの希望の源です。

復活徹夜祭の典礼は、小さな光から始まります。ろうそくにともされた光が、明るい部屋の中であればそれほどのインパクトを残すことはありません。しかし光の祭儀の時に、この聖堂の照明は落とされ、それによって、小さなろうそくの光であっても、暗闇を切り裂くように光り輝く様をわたしたちは体験します。そして旧約聖書に記された様々な物語から語られる、神のことばに耳を傾けました。

これらは神と共に歩む最初の旅路の物語であります。わたしたちすべてを永遠のいのちへと招かれている御父は、それを仰々しい大きな天変地異を持って始めることはされませんでした。すべてを、ひとりの人から、一つの家族から、一つの民から始めて行かれ、まるで暗闇にろうそくの光が輝くように、この世の闇の中で小さく輝く救いの物語でありました。世界の片隅で、神は選ばれた民とともに歩み、その光を徐々に大きく育て上げ、輝きを増していきます。その救いの物語、すなわち救いの計画は、主イエスの受難と死と復活を通じて、小さな民から世界へと羽ばたき、いまや世界中でその光を輝かせる民となりました。

しかし、一人一人が掲げる光は、ろうそくの光のように小さなものであることに変わりはありません。この世界の中で、一人一人は小さな存在に過ぎません。だからこそわたしたちは、この光を輝かせるために、共に神の民として歩み続けます。

暗闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持ちます。いまの世界は、闇を深めています。世界各地で頻発する紛争状態は終わることなく、主イエスご自身が最初に福音を告げた地、聖地を始め、中東での緊張状態は続いています。単に社会の状況が落ち着かないといったレベルではなく、今日、このときにも、いのちの危機に直面し、希望を失い、絶望と嘆きの中で、助けを求めて叫び続けている人がどれほどいることでしょうか。この暗闇だからこそ、わたしたちは光を輝かせなくてはなりません。一緒になって、神の民として、いのちを生きる希望の光を掲げていかなくてはなりません。絶望のうちに失われていくいのちがあることを、いのちの与え主である神ご自身が望まれているはずがありません。

今夜、このミサの中で、洗礼と堅信と初聖体の秘跡を受けられる方々がおられます。ご存じのようにキリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、今夜、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、そこには大人のキリスト者としての果たすべき責任があります。もちろん、すでに洗礼や聖体や堅信を受けているわたしたちすべてにも、同じ責任があります。それは一体なんでしょうか。

先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。

「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」

モーセに導かれてエジプトでの奴隷状態から逃れようと旅だった民は、エジプトのファラオの強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて神にただただ泣き叫ぶばかりでありました。そこで神は、モーセに対して、行動を促します。勇気を持って前進するようにと命じます。しかもただ闇雲に前進するのではなく、神ご自身が先頭に立って切り開く道を、ともに歩めと、命じておられます。

教会はいま、シノドスの道を歩む教会となろうと呼びかけ続けています。教皇フランシスコが何度も繰り返されたように、それは何か新しい組織になるための制度改革をしようとかそういう話ではなく、まさしくこの旧約聖書の物語にあるように、人間には不可能に見える道を、神の導きに信頼して勇気を持って前進する神の民になろうという呼びかけてあります。そのために神の呼びかけ、聖霊の導きを皆で識別しようという呼びかけです。すなわち旧約聖書に記されているように、希望を掲げて勇気を持って歩み続けるという、神の民の原点に立ち返ろうという呼びかけであります。

復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。

「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。」

イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。力強いリーダーが突然いなくなったのですから、呆然と立ちすくんでいたのかも知れません。絶望のうちにバラバラになろうとしていたのかもしれません。

恐れと不安にとらわれ、前に向かって民としてともに歩むことを忘れた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへと旅立て」とイエスは告げます。立ち止まるのではなく、前進することを求めます。行動するようにと促します。ガリラヤは新しいいのちを生きる希望の原点です。なぜならばガリラヤでこそ、イエスが最初に福音を告げ、最初に弟子たちを呼び集めました。ガリラヤ湖畔で、イエスはペトロをはじめとした弟子たちと出会い、従うようにと呼び出しました。ガリラヤは弟子たちにとっての信仰の原点です。自らが教え諭したその地、信仰の原点に立ち返り、そこから改めて勇気を持って希望の旅路をともに歩み始めるようにと弟子たちに命じています。神の民は旅する共同体です。

主の死と復活にあずかるわたしたちの責務の第一は、勇気を持って前進することです。パウロが聖木曜の朗読であったコリントの教会への手紙で述べていたように、わたしたちの責務は、「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせること」であります。復活の栄光へと繋がった主の死を告げ知らせることです。十字架上での受難と死を通じてあかしされた、神の愛を告げ知らせることです。復活を通じてわたしたちに示された、いのちを生きる希望を告げ知らせることであります。

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2026年4月 2日 (木)

2026年聖木曜日・主の晩餐@東京カテドラル

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2026年聖木曜日、夕方7時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、主の晩餐のミサ説教の原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月02日

「わたしの記念としてこのように行いなさい」

最後の晩餐の席で、ご聖体の秘跡を制定された主イエスは、パンとぶどう酒を弟子たちに与えた終わりに、そう述べられました。

聖週間にあたり、主の受難と死を追憶し、その復活の栄光に与ろうと歩んでいるわたしたちは、その信仰における旅路を、主イエスとともに歩み続けます。そして今夜、主の晩餐を記念してここに集まったわたしたちに対して、パウロは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と、弟子たちに残したイエスのことばを伝えます。

「記念」ということばは、何か記念日などのような響きがありますが、ギリシア語でアナムネシスというこのことばは、単に記憶していることだけではなく、さらに踏み込んで、過去のあるときに行われた出来事に、わたしたちが霊的に結ばれることを求めます。ご聖体祭儀に与るごとにわたしたちは、主の晩餐に招かれ、そこで語られた主イエスの思いへと霊的に繋がります。

イエスは、「行いなさい」と命じられていました。わたしたちは何を行うように命じられているのでしょうか。単にパンを裂きぶどう酒を飲み続けることを繰り返しなさいと命じられているのではありません。わたしたちは主イエスの思いを具体的に生きていくようにと命じられています。主イエスは、その晩、ご自分が賜物として与えられたわたしたち人類のいのちを愛するがあまり、自らを犠牲にして捧げ、人類が数多積み重ねてきた罪のあがないの生け贄となろうとされています。

イエスの受難と死がもたらしたいのちの勝利によって、永遠のいのちへと招かれていると信じるわたし達にとって、その受難と死を通じた復活は、希望の源です。わたし達の希望は、十字架上で捧げられた神の子羊の血によって、罪の枷が永遠に打ち払われる解放へと繋がる過越によって成り立っています。

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福音は、弟子の足を洗う主イエスの姿を記しています。イエスが伝えようとした福音の神髄を、自らの行動で模範として残された、その衝撃的な出来事は、まさしく神の愛といつくしみに基づく具体的な行動の中にこそ、いのちを生きる希望があるのだと言うことを具体的に示しています。キリストに従うものにとって忘れることはできず、自らの行動を持って伝え続けたい出来事が記されていました。

ある研究所の報告では今年2026年に入った段階で、世界では60近い地域紛争が起こっており、それは第二次世界大戦以降最も多いと言われていました。また国境を越えて紛争に関与している国は90カ国を超えるとも指摘されていました。ガザやウクライナでの状況は言うにおよばず、アフリカでも、そしてアジアでも、小規模な紛争は頻発し、それが将来的に大規模な紛争へと繋がっていく可能性を否定することはできません。加えて今現在、世界はイランとイスラエルと米国の動向に注目し、終わりが見通せない戦乱に包まれている中東の状況に、心を痛めています。武力の行使は真の平和の確立には繋がりません。暴力が暴力を呼び起こす、負の連鎖が始まるだけです。

紛争に巻き込まれている各地に平和が訪れることを祈りたいと思います。暴力の波に巻き込まれていのちの危機に直面し、絶望の暗闇の中でいのちをつないでいる兄弟姉妹のために祈りたいと思います。そして暴力を持って争いを解決しようとする政治のリーダーたちに、神の賜物であるいのちを重みに心を馳せ、いのちを守るために自制するように、あらためて呼びかけたいと思います。

このような混乱と悲劇が続く世界にあって、わたしたちのいのちを生きる希望は、どこにあるのでしょうか。すべてのいのちは等しく、神の似姿として尊厳を与えられており、そもそも互いに助けるようにと神から創造されていると創世記に記されていることを考えるとき、世界のどこかでそのいのちが危機に直面している事態は、神が望まれる状況ではありません。

この数年の感染症に始まり各地で頻発する紛争は多くのいのちを暴力に直面させ、奪い去り、世界を利己的で不寛容が支配する場としてしまいました。利己的で不寛容な世界は人間関係を破壊し、人間関係が断絶される中でわたしたちを支配するのは絶望です。いま世界を支配するのは暴力と絶望です。暴力と絶望があまりにも力強く、あまりにもそこかしこにあふれているがために、わたしたちはいまや、それが当たり前であるかのように話し、対抗するためには暴力を肯定することもやむを得ないという雰囲気に包まれてしまっています。

この世界の現実は、主イエスが最後の晩餐の時に、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われた行動なのでしょうか。

わたしたちに必要なのは希望であり、そのためにも互いに支え合いともに歩む人間同士の絆を取り戻すことが不可欠です。この現実の中で、今こそ必要なのは、ともにいのちを生きるために連帯することであり、ともにいのちを生きるために支え合うことであり、神の愛といつくしみを具体的に生きることであって、いのちを暴力を持って奪うことではないとあらためて主張したいと思います。

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最後の晩餐の席でイエスは、別れゆく弟子たちに、心の底からの愛を込めて、ご自分が世々に至るまで共にいるということを明確にする秘跡を残して行かれました。どこか遠くから見守ったり励ましたりするのではなく、旅路を歩む巡礼者であるわたしたちと常に共にいることを、ご聖体の秘跡を制定することで明確にされました。主はご聖体の秘跡を通じて、常にわたしたちと共におられ、その信仰の絆においてわたしたちを愛の行動へと招かれています。

教皇ベネディクト16世は、使徒的勧告「愛の秘跡」において、「聖体によって教会はいつも新たに生まれ変わります」と記しています。その上で教皇は、「神の民は、聖体への信仰が生き生きとしていればいるほど、より深く教会生活に参加し、キリストが弟子たちに委ねた使命にしっかりと結ばれた者となります」と指摘されています。

ご聖体の秘跡は、イエスが残される弟子たちに対して、万感の思いを込めて残された愛の秘跡です。だからこそ聖体の秘跡に与るわたしたちは、万難を排して、主イエスの心からの思いを具体的に生きていかなくてはなりません。あの最後の晩餐の席にわたしたちの信仰生活の原点があります。

いのちの源である主ご自身によって集められている神の民は、主の現存である聖体の秘跡によって、力強く主に結び合わされ、主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡があるからこそ共同体であり、その絆のうちに一致し、ともに歩み続けながら、社会の現実の中で、神の愛といつくしみに具体的に生きていこうとしています。

パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、自らを犠牲として捧げるところに、主はおられます。自分を守ろうとするのではなく、隣人を思いやり、互いに支え合い、ともに歩むところに、主はおられます。「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」キリスト者であり続けたいと思います。

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2026年2月11日 (水)

2026年世界病者の日ミサ@東京カテドラル

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2月11日は、世界病者の日です。午後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で世界病者の日のミサを捧げました。

今年の世界病者の日に当たり、教皇レオ14世はメッセージを発表されています。邦訳はこちらのリンクです

なお病者の日のミサは東京教区のカリタス東京によって企画されています。カリタス東京は、いわゆるカリタスジャパンの支部のような形で援助の募金を集めたりする団体ではなくて、教会の愛の業(カリタス)を様々な分野から取り組む諸活動団体を束ねる組織です。残念ながらいまの教会には、かつてのように様々な活動に専属する人材を確保する余裕がありません。かつては社会における愛の業を具体化するために、様々な組織が立ち上げられて力強く活動をしてきました。いまは、そういった個々の活動をなくしてしまうことなく続けるために、できるところは(例えば事務処理や行事の企画など)まとめて一つの組織にした方が、継続できると考えて、数年前から社会活動計の様々な委員会をまとめてカリタス東京といたしました。

カリタス東京のホームページには、今後の研修会のお知らせなどもありますから、こちらのリンクから是非ご覧ください

以下、本日のミサの説教原稿です。

世界病者の日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年2月11日

ルルドは単なるフランスの地名ではなく、聖母マリアを通じて心と身体に癒やしがもたらされる聖地を象徴する名前として世界に広く知られています。聖母マリアが少女ベルナデッタに出現されたのは、1858年2月11日のことでした。それから聖母は18回にわたってベルナデッタに出現され、ご自身を「無原罪の御宿り」であると示されました。関口教会にあるルルドは、フランスのルルドの写しであると言われていますが、各地にあるルルドは、フランスのルルドとは異なるそれぞれの形状をしています。しかし異なるそれぞれが「ルルド」と呼ばれて愛されているのは、「ルルド」と言う名前が象徴する癒やしと希望を、多くの人が求めているからに他なりません。

聖母に促されてベルナデッタは洞窟の地面を掘り、湧き出た水は泉となり、その水によってもたらされた病気の奇跡的治癒は、その後いまに至るまで七十以上が、公式な委員会によって奇跡と認定されています。それ以外にも個人的に何らかの形で癒やしを得た人、また心に安らぎを得た人は、数え切れないほど存在しています。

1993年に、教皇聖ヨハネパウロ二世は、聖母マリアを通じたこれらの奇跡的な治癒を思い起こさせるルルドの聖母の記念日、すなわち2月11日を、世界病者の日と定められました。この日の制定にあたって教皇聖ヨハネパウロ二世は、二つの点を心に留めるように呼びかけています。

第一に、善きサマリア人の業を現代社会において具体的に生きることは、教会にとって福音宣教の重要な部分であるということを神の民全体が理解し、教会は自らの働きを通じて、社会全体が病者と苦しむ人へ心を向けるよう努めることを優先すること。

第二には、この世界に蔓延している理不尽とも思える人間の苦しみを、キリストの受難と死における苦しみと一致させることで、わたしたちがキリストの贖いの業における栄光に与ることができるのだと心に留め、キリスト者としての霊的な成長を目指すこと。この二点です。

教皇聖ヨハネパウロ二世は、人類の救いのための力は苦しみから生み出されることを、キリストの生涯が、そしてキリストの自己譲与があかししていると指摘します。イエスの十字架での受難と死の苦しみこそが、復活の栄光を生み出す力を生み出しました。同様に、この世界における人類の苦しみは、いのちを生きる希望を生み出す源であると教皇は強調されました。

もちろん病気から奇跡的に回復を遂げるということは、病気の苦しみのうちにある人にとって、またともに歩む人にとって、大きな意味があります。しかしながら同時に、奇跡的な病気の回復は、日常にありふれたことではなく、本当にまれにしか起こりません。

ですから教会が病者のために祈るというのは、もちろん第一義的には、イエスご自身がそうされたように、具体的に奇跡的な病気の治癒があるようにと願ってのことですが、同時にもっと広い意味をそこに見いだして、祈りを捧げています。それは互いの結びつき、助け合い、思いやりの次元から、主イエスと出会い、ともに歩むためであります。

私たちは、様々な意味で病者であります。完全で完璧な人間などは存在しません。たとえば障がい者という言葉に対峙するかのように、健常者などと言いますが、実際にはすべての人が大なり小なりなにがしかの困難を抱えて生きているのであり、また年齢を重ねれば当然に、心身の困難さは増し加わっていきます。目に見える肉体的な困難さではなく、心に困難さを抱えている人も多くおられるでしょう。その意味で、完全完璧な健常者という存在は、本当はあり得ないものだと思います。

すべての人が、実はなにがしかの困難を抱えて生きているからこそ、その程度に応じて、わたしたちは助け合わなければならないのです。支え合って生きていかなくてはならないのです。支え合いは一方通行ではなく、互いに支え合ってともに歩む。まさしくシノドス的なともに歩む神の民の生きる姿勢であります。わたしたちは誰かに手を差し伸べて生きていくだけでなく、誰かに支えられて生きているのだと意識することは、共に同じ神の賜物であるいのちを生きるものとして、大切な感覚であります。

教会こそは、なにがしかの困難を抱えて生きているわたしたちが、互いに耳を傾け、互いに支え合い、共に祈り、ともに歩んでいく共同体であります。ともに歩むわたしたちに対して、主イエスの癒やしの手が差し伸べられています。神の民としてともに歩む時、その真ん中におられる主イエスは、ご自分の癒やしの手をわたしたちに差し伸べ、わたしたちをその手に抱き、心に安らぎを与え、いのちを生きる希望を生み出してくださいます。

世界病者の日は、具体的な病気や困難さを抱えている人たちだけを対象にした、特別な人のための特別な日なのではなく、わたしたちすべてが、主の癒やしの手に包み込まれ、安らぎと希望を与えられていることに感謝し、自分も同じように生きようと決意する日であります。

教皇レオ14世は、今年の世界病者の日のための特別な行事を、ご自分がかつて働かれたペルーのチクラヨ教区で行うこととされ、ご自分の代理として、総合的人間開発促進省長官のチェルニー枢機卿様を派遣されました。

また、「サマリア人のあわれみ・他者の苦しみを担うことで愛する」と言うテーマのメッセージを発表されています。

その中で教皇様は、 「わたしたちはスピードと即時性と性急さの文化の中に浸されていますが、同時に、使い捨てと無関心の文化の中にも浸されています。そのため、周囲にある必要と苦しみに目を向けるために近づき、途中で立ち止まることができません」と、強盗に襲われた人のために立ち止まることのなかった祭司とレビ人について触れ、現代社会には困難を抱えている人のために自分の時間を割く勇気のある人が欠如していると指摘されます。

その上で教皇様は、「すすんで人に近づかなければ、だれも隣人にはなれません。だから、あわれみを示した人が隣人となったのです」と述べ、サマリア人のあわれみに満ちた行動は「単なる博愛的な行為ではなく、他者の苦しみに個人的にあずかることは自分自身を与えることだということをそこから感じ取らせてくれるしるしです」と指摘しています。

教皇様はわたしたちひとり一人が、自分の時間を割いていつくしみの行動をとることで、「わたしたちが一つのからだの真の部分であると感じる」ことの重要性を説き、その感覚によって、この一つの身体の頭である「キリストの苦しみと一致」することができると述べておられます。

わたしたちは、単に主イエスの癒やしの手に包まれて安心を得たいだけでなく、主イエスと一致したいと願っています。そうであるならば、自分も助けられ生かされていることを自覚しながら、自分の時間を割いて、困難を抱える人とともに歩む道を選択するしかありません。

謙遜さのうちに互いに支え合い、共に祈り、ともに歩んで参りましょう。

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2026年1月31日 (土)

2026年奉献生活者の日ミサ@麹町教会

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2月2日の主の奉献の祝日にあわせて、教皇聖ヨハネパウロ2世は、1997年に奉献生活者のための祈りの日を設けられました。

故チェノットゥ教皇大使の呼びかけに応え、日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることにして、すでに10年以上の歴史を刻んできました。2026年の奉献生活者のためのミサは、本日1月31日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

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わたしが司式と説教を担当し、修道者担当の山野内司教様他大勢の修道会司祭が参加してくださり、聖堂も様々な形態の奉献生活者で一杯でした。今年は、なんと新潟の上越のクララ会修道院から、お二人が参加してくださいました。

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またミサの前には四名の若い奉献生活者の体験の分かち合いもあり(下のビデオ冒頭をご覧ください)、また拝領後には、誓願10周年の男女奉献生活者のお祝いもありました。これからも多くの青年たちが、奉献生活の道へと歩みを進めてくださることを祈っています。

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以下、本日手元にあった説教原稿です。

奉献生活者のミサ
2026年1月31日
聖イグナチオ麹町教会

昨年一年、正確には2024年12月24日にバチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉が教皇フランシスコによって開かれて、2026年1月6日に教皇レオ14世によって閉じられるまで、わたしたちは「希望の巡礼者」をテーマとした聖年を過ごしてきました。

教皇フランシスコは聖年開幕を告げる文書の中に、「キリスト者の希望の光が、すべての人に向けられた神の愛のメッセージとして、一人ひとりに届けられますように。教会が、世界のあらゆる場所でこの知らせを忠実にあかしすることができますように」と、この聖年への期待を記されていました。果たしてこの聖年を通じて、わたしたちは希望の光をすべての人に届ける者となることができたでしょうか。

教皇フランシスコは、同じ文書の冒頭で、教会は「希望を神の恵みからくみ取ることに加え、主がわたしたちに差し出す、時のしるしの中にも希望を再発見するよう招かれて」いると強調されました。その上で教皇様は、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」と、教会全体がいのちの危機に直面する多くの兄弟姉妹に手を差し伸べともに歩む教会であるようにと招かれていました。

聖年の閉幕にあたり主の公現のミサで教皇レオ14世は、占星術の学者たちが「宮殿や神殿を後にして、ベツレヘムへと旅立」ったことによって希望の星を再び見いだしたことに触れ、現代にあっても多くの人が占星術の学者たちと同様に、危険や困難を顧みずに希望を求めて歩みを進めようとしていることを指摘します。

教皇様は、「わたしたちの教会の中にいのちはあるだろうか。生まれようとするもののための場所はそこにあるだろうか。わたしたちは、自分たちを旅立たせる神を愛し、告げ知らせているだろうか」と問いかけ、さらに「主の道はわたしたちの道ではありません。暴力をふるう者がそれを支配することはできません。世の権力ある者もそれを妨げることはできません。ここに占星術の学者たちの大きな喜びがあります。彼らは宮殿や神殿を後にして、ベツレヘムへと旅立ちます。そのとき、彼らは星を再び見つけたのです」と指摘されています。この世の栄光や価値観の中に安住し挑戦や変化を避けていたのでは、神における希望を見いだすことはできないと強調されます。

その上で、教皇様は、「だから、希望の巡礼者となることはすばらしいことです。そして、ともに希望の巡礼者であり続けることもすばらしいことです。神の忠実さはわたしたちを驚かせ続けます。わたしたちの教会を記念物にしてしまわず、わたしたちの共同体が帰るべき家であり続け、わたしたちが権力ある者の誘惑に抗い続けるなら、そのときわたしたちは新しい夜明けの世代となることでしょう」と呼びかけられています。

まさしくわたしたちがこの数年間追い求めているシノドス的な教会とは、単なる機構改革ではなく、生き方の変革、すなわち希望をもたらす巡礼者としてともに歩んでいく生き方を選択し、ともに祈りのうちにそれを生きようとする共同体としての教会となることであります。シノドス的な教会は、わたしひとりが希望の光を届ける者となるのではなく、教会共同体全体が希望をもたらす巡礼者として、この世界を共に旅する神の民となるようにと、わたしたちを招いています。

先日一月七日と八日に行われた臨時の枢機卿会の閉会にあたって、教皇レオ14世はこれから数年間の教会の優先課題を明確にするために、多くの声に耳を傾ける姿勢をご自分もそして教会全体も持つことの重要性を指摘され、教皇フランシスコが第二バチカン公会議の仕上げとして始められた今回のシノドス的な教会となる道を継続することを明確にされました。その上で教皇様は、「わたしたちの使命の中心にキリストを見いだすこと。福音をのべ伝えること。わたしたちは皆、イエス・キリストが中心であることをよく知っています。わたしたちはキリストのことばを告げ知らせたいと望みます。それゆえ、現代世界の中であかしを行うことができる、真の霊的生活をわたしたち自身においても生きることが重要です」と呼びかけられています。

この教皇様のことばを念頭に置く時、奉献生活者の神の民における役割の一つに、率先して真の霊的生活を生き、その共同体の中で、教会のシノドス性を具体的に生き、希望を証しする者となることがあると思います。

 「必要とされるのは、神の父としての顔と教会の母としての顔を示すことができる人々です。また、他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です。教会が必要とする奉献された人々とは・・・神の恵みによって変容されることに身を委ね、自分をあますところなく福音に一致させる人です(105)」と使徒的勧告「奉献生活」に記されたのは教皇ヨハネパウロ二世でした。

暴力が支配し、いのちを危機にさらす世界は、絶望を生み出す暗闇であります。社会の混乱は、先行きが見通せない不安を生み出し、不安は希望を消し去ります。災害による社会の混乱をわたしたちがコントロールすることはできませんが、しかしいま世界を混乱させている状況は、人間が生み出した状況です。相互不信と対立は、排除と暴力を容認しています。社会の混乱の中で希望の見いだせない不安にいる人間は、疑心暗鬼を深めます。疑心暗鬼を深めたとき人間は、少なくとも自分にとって確実なものだけは守ろうといたします。自分にとって確実なもの、それは自分自身の存在であります。すなわち、不安と相互不信と混乱の行き着く先は、自己保身であり、究極的には徹底した自己中心、利己主義であり、異質な存在の排除であります。

そうであるにもかかわらず、人間は社会という共同体の中で生きていかなくてはなりません。共同体の構成員が自己保身を深めるとき、社会全体も自己保身的になってまいります。ひとり一人が排除する傾向を強める時、社会全体もそのようになっていきます。

そういう時代であるからこそ、わたしたちは、神はわたしを愛してわたしだけにいのちを与えてくださったのではなく、わたしたちを愛してわたしたちにいのちを与えてくださったのだ。だからこそわたしたちは互いに助け合って、互いを尊重して、ともに歩み、神からの賜物であるいのちの尊厳が護られる社会を生み出していかなくてはならないと、自分たちの存在を通じて、社会に訴えていく存在でありたいと思います。奉献生活に生きる皆さんには、先頭に立たなくてもかまいませんが、率先してその証しに生きる者であってほしいと思います。

世界は、いま、暗闇を打ち破り、絶望を取り去る希望を必要としています。わたしたちはこの聖年が終わったからと言って、希望をもたらす巡礼者であることをやめるわけではありません。いまの世界には希望が必要です。多くの人の心に、希望をもたらす巡礼者の旅路を一緒に続けていきましょう。

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2026年1月 1日 (木)

神の母聖マリア@世界平和の日2026年

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みなさま、新年明けましておめでとうございます。

2026年がみなさまにとって、神様の祝福に満たされた平和な一年となることをお祈りいたします。

1月1日は神の母聖マリアの祝日であり、世界平和の日でもあります。教皇様の世界平和の日のメッセージはこちらからご覧ください

以下、本日午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた、新年最初のミサ、神の母聖マリアの祝日ミサの説教です。

神の母聖マリア
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年1月1日

新しい年、2026年の始まりにあたり、お喜びを申し上げます。

聖母マリアの人生は驚きの出来事によって彩られた人生です。天使ガブリエルによる救い主の母となるというお告げ自体が、ひとりの少女の人生にとっては大きな驚きですが、イエスの誕生に至る日々も様々な驚きの連続であったことが、福音に記された物語から感じ取ることが可能です。驚きだけではなく、その中でマリアは人生をかけた選択をし、神の計画に身を委ねる決意を固めていきます。

人類の救い主の母となることを告げられたそのときから、また神の御言葉を胎内に宿したそのときから、さらに神のひとり子の母となったそのときから、マリアの心は様々に乱れ、恐れや悩みも様々にあったことだと思います。しかしルカ福音は、マリアがそういった一連の出来事に振り回されることなく、神の計画に信頼しながら、すべてを心に納めて、それらの出来事によって神が望まれる道はどこにあるのかを思い巡らし続けていたと伝えます。

わたしたちが生きている現代社会は、様々な情報が人間の処理能力を超えて世界を駆け巡り、さらには誤った理解やねつ造された事実が飛び回るなど、一つ一つの出来事にわたしたちは取り込まれて振り回され、一喜一憂し、現実を直視して深く洞察することもできないままに反応してしまったりします。そのようなことが続く中で、落ち着いて考えれば他の選択肢もあるとは言え、両極端な言説や過激な行動が見受けられるようになりました。そんな時代に生きているからこそ、わたしたちは聖母マリアが、起こっている出来事を心に納め、神の意思と計画を思い巡らしていたその祈りの姿勢に習いたいと思います。

同時に聖母マリアは、単なる模範ではなく、わたしたち教会の母でもあり、歩みをともにしてくださる方でもあります。神は、人となられた神の御言葉、暗闇に輝く一筋の光として、わたしたちの希望の源ですが、聖母マリアは、その御言葉である御子イエスと歩みをともにされ、わたしたち教会と歩みをともにされる希望の母であります。

教皇フランシスコは「福音の喜び」の終わりに、聖母について詳しく触れていますが、そこにこう記されています。

「(マリアは)すべての者の母として、正義を生み出すまで産みの苦しみを味わうすべての民の希望のしるしです。マリアは、わたしたちの人生に同伴するために身近な存在になってくださる宣教者であり、母の愛を持って、わたしたちの心を信仰へと開きます。」

新しい年の初めにあたり、聖母が信仰のうちに神の計画を探し求め、忍耐の内にイエスと歩みをともにされたように、わたしたちも主の示される道、すなわち聖霊の導きを共に祈りのうちに識別し、主とともに歩み、いのちの希望を掲げながら巡礼者としての歩みを続ける決意を新たにしたいと思います。

さて教会は、新年の第一日目を「世界平和の日」と定めています。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。1974年、教皇パウロ6世は、「マリアーリス・クルトゥス」で、世界平和の日を、神の母聖マリアの祝日に合わせて設けた理由に触れ、「この聖なる母を通してこそ、わたしたちは生命の与え主を受けるにふさわしい者とされた」と記し、その上で「今一度天使たちによる喜ばしい知らせに耳を傾け、平和の女王を通じて、このうえない賜物である平和を神に祈り求める」日であると呼びかけられました。

今日、世界の平和を考える時、ある研究所の報告では現在56もの地域紛争が起こっており、これは第二次世界大戦以降最も多いと言われています。また国境を越えて紛争に関与している国は92カ国にも及んでいると言われます。ガザやウクライナでの状況は言うにおよばず、アフリカでも、そしてアジアでも、小規模な紛争は頻発し、それが将来的に大規模な紛争へと繋がっていく可能性を否定することはできません。武力の行使は真の平和の確立には繋がりません。暴力が暴力を呼び起こす、負の連鎖が始まるだけです。

世界平和の日にあたって、紛争に巻き込まれている各地に平和が訪れることを祈りたいと思います。暴力の波に巻き込まれていのちの危機に直面し、絶望の暗闇の中でいのちをつないでいる兄弟姉妹のために祈りたいと思います。

教皇レオ14世は世界平和の日にあたり、「あなたがたに平和があるように――「武器のない平和、武器を取り除く平和」に向けて」と題したメッセージを発表されています。

2025年5月8日夕刻。第267代の教皇に選出されたレオ14世は、集まっていた多くの人たちに、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられました。その上で教皇様は、「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。・・・これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです」と、武器のない平和を呼びかけられました。

教皇のこの最初の呼びかけは、単なる挨拶の言葉としての「平和」ではありません。なぜなら、その最初の挨拶は、教皇選挙後の慌ただしさの中で即興で考えたスピーチではなく、その日の午前中に行われた二回の投票が終わり昼の休憩となったときに、すでに枢機卿たちの投票行動の推移からご自分が選出される可能性があることを感じたプレボスト枢機卿が、仮にそうなった場合に備えて準備されたスピーチだったからです。いわば教皇レオ14世にとっての、一番最初の施政方針演説でありました。この最初の呼びかけを通じて教皇レオ14世は、混迷を深める現代世界において、平和の確立こそが、教会の最優先課題であることを明確にされました。

今年のメッセージに、教皇レオ14世はその最初の言葉に触れて、次のように記しています。「『あなたがたに平和があるように』。わたしはローマ司教に選ばれた晩から、自分のあいさつの中に、この世界中でともに唱えられる告知を含めることを望みました。わたしたちは繰り返して述べたいと思います。これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです。神はわたしたち皆を無条件で愛してくださいます」

その上で教皇様は、「平和は、目的である以前に、存在であり、歩みです。嵐に脅かされた小さな炎のように内外で反対を受けても、平和をあかしした人々の名前と歴史を忘れることなく、平和を保ってください」と呼びかけ、どんな困難に遭ってもくじけることなく、平和を証しすることをやめないようにとわたしたちを招いています。

混乱の中でもすべてを心に留め、取り乱すことなく神の御心を識別しようとした聖母に倣い、わたしたちも平和を求めて諦めることなく、神の御心を識別しながら、ともに歩んで参りましょう。いのちを護り、すべての人の尊厳を護る世界を実現していきましょう。

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2025年12月28日 (日)

2025聖年閉幕ミサ@東京カテドラル

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世界中の各教区で、本日、聖家族の主日に、聖年閉幕ミサが捧げられています。

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東京教区では、本日12月28日午後3時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、閉幕ミサを捧げました。

以下、本日ミサの説教原稿です。

2025年聖年閉幕ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年12月28日

教皇フランシスコによって、昨年12月24日にバチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉が開かれ、2025年聖年が始まりました。そのテーマは、「希望の巡礼者」であります。

それから一年、世界中の各教区の司教座聖堂では、本日聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の閉幕に感謝を捧げるように求められています。その後、年明けの2026年1月6日に、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられることで閉幕となります。

教皇フランシスコは聖年開幕を告げる文書の中に、「キリスト者の希望の光が、すべての人に向けられた神の愛のメッセージとして、一人ひとりに届けられますように。教会が、世界のあらゆる場所でこの知らせを忠実にあかしすることができますように」と、この一年の聖年への期待を記されていました。果たしてこの一年、わたしたちは希望の光をすべての人に届けることができたでしょうか。

教皇フランシスコは、同じ文書の冒頭で、教会は「希望を神の恵みからくみ取ることに加え、主がわたしたちに差し出す、時のしるしの中にも希望を再発見するよう招かれて」いると強調されました。その上で教皇様は、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」と、教会全体がいのちの危機に直面する多くの兄弟姉妹に手を差し伸べともに歩む教会であるようにと招かれていました。

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聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきたことを象徴し、全人類を表現しているといわれます。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を象徴しています。さらに先頭の人物は十字架にしっかりと捉まっています。皆の足元には人生の旅に立ち向かう困難の波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は船の「いかり」となり、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないように支えてくださっていることを象徴するこのロゴマークは、まさしくいま教会が追い求めているシノドス的な教会のあり方を象徴しています。シノドス的な教会は、わたしひとりが希望の光を届ける者となるのではなく、教会共同体全体が希望をもたらす巡礼者として、この世界を共に旅する者となることを求めています。

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バチカンの聖ペトロ大聖堂前の広場左手に、大きなブロンズの群衆像が設置されています。何人もの人が固まって立ち尽くす姿は、ボートに乗って避難する人々の姿だと言われています。その群衆像のタイトルは英語で、「Angels Unawares」と呼ばれています。その意味するところは、ヘブライ人への手紙13章2節に記されている次の言葉です。

「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

 「気づかずに天使たちを」というのがその群衆像の名称です。ボートの上に立ち尽くす様々な人たちの真ん中に、天使の羽が見えています。よく見るとボートの右側側面には、大工道具を持った男性が幼子を抱えた女性と一緒に立っている姿が見えます。それが聖家族だと言われています。

本日は聖家族の主日でしたが、本日の主日の福音は、幼子が誕生した馬小屋での希望と平和に満ちた情景ではなく、父ヨセフが、「子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と天使からのお告げを受けて、いのちを守るために必死に行動した様子を記しておりました。広場におかれたこの群衆像は、安全を求めて避難する多くの人たちの姿を描き、その人たちへの心配りを忘れてはならないことを明示するために制作されています。

長年、他の彫刻がおかれることのなかった聖ペトロ広場にこの群衆像を設置するように命じたのは、教皇フランシスコです。絶望の淵にあって希望を求めて旅を続ける人々の中には、天使も、そして聖家族も、すなわち主ご自身がおられるのだということを、あらためてわたしたちに自覚させるためでありました。救いを求め、安全を求め、不安の内に旅を続ける人々に、手を差し伸べるようにと促す教皇フランシスコの思いでありました。

2023年10月19日、シノドス第16回総会の第一会期中に、教皇フランシスコは参加者全員をこの群衆像の前に集め、祈りの集いを行われました。その祈りの集いで、教皇フランシスコはこう述べておられます。

「よきサマリア人のように、私たちはこの時代のすべての旅人にとっての「隣人」となるよう、彼らの命を救い、傷を癒し、痛みを和らげるよう呼ばれています。悲劇的なことに、多くの人々にとっては手遅れであり、私たちは彼らの墓、もし墓があるとしても、その前で泣くことしかできません。あるいは、地中海が彼らの墓となってしまいます。しかし、主は彼ら一人ひとりの顔を知っておられ、それを忘れることはありません」

その上で教皇フランシスコは、難民の保護に関してご自身が何度も繰り返された四つの行動、すなわち「受け入れ、保護し、推進し、統合する」を繰り返し、教会はそれを実行する存在でなければならないと強調されました。

今日、聖家族は、共に歩く誰かを必要としています。主ご自身がその中で、誰かの心が向けられること、そして手が差し伸べられることを待っています。人と人との心からのかかわりこそが、希望を生み出すために不可欠です。

暴力が支配し、いのちを危機にさらす世界は、絶望を生み出す暗闇であります。わたしたちの世界は、いま、暗闇を打ち破り絶望を取り去る希望を必要としています。わたしたちはこの聖年が終わったからと言って、希望をもたらす巡礼者であることをやめるわけではありません。いまの世界には希望が必要です。多くの人の心に、希望をもたらす業を続けていきましょう。

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教皇フランシスコは、聖年開幕の文書の最後に、次のように記されています。

「今より、希望に引き寄せられていきましょう。希望が、わたしたちを通して、それを望む人たちに浸透していきますように。わたしたちの生き方が、彼らに「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27・14)と語りかけるものとなりますように。主イエス・キリストの再臨を信頼のうちに待ちながら、わたしたちの今が希望の力で満たされますように」

わたしたちは希望の巡礼者です。わたしたちはこれからも希望の巡礼者として、歩みを続けて参りましょう。

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2025年12月24日 (水)

主の降誕、おめでとうございます

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降誕祭にあたり、みなさまにお喜びを申し上げます。

みなさまにとって、またみなさまのご家族や友人のみなさまにとって、希望の光が心にともされるクリスマスとなりますように。

以下、本日午後7時半、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主の降誕夜半ミサの説教原稿です。

主の降誕(夜半のミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年12月24日

暗闇に輝く小さな光は、わたしたちの希望の源です。闇が深ければ深いほど、たとえどんなに小さな光でも、わたしたちの心には安心が芽生えます。心の安心は不安と絶望からわたしたちを解放し、心に希望が生まれます。暗闇に輝く小さな光は、わたしたちの希望の光です。

暗闇がもたらす絶望は、わたしたちが前に進もうと一歩を踏み出す勇気を心から奪い去ります。絶望は不安を恐怖に変えてしまいます。恐怖にとらわれた心は、未知の世界へと歩みを進めるよりも、勝手知ったる過去の体験へと戻ることを促します。

幼子イエスの誕生を記す福音には、暗闇の中で羊飼いたちに希望と喜びのメッセージを伝える天使たちの言葉を記しています。天使は「恐れるな」と、闇の中で絶望にとりつかれ、前に進む勇気を失った世界に対して、恐れを取り除く希望の光が与えられたことを告げています。

「恐れるな」と言う天使の言葉は、今宵、この暗闇の中、イエスの誕生を記念して集まったわたしたちにも向けられています。暗闇に輝く小さな光は、恐れを取り除き、闇に打ち勝ち、まだ知らない未来に向かって歩みを進める勇気を生み出す、希望の光であります。クリスマスは、わたしたちが生きる希望を取り戻すために恐れを打ち破る勇気を心にいだく日でもあります。

この夜、誕生したばかりの幼子は、父と母と共に旅の途上にありました。加えてその日、この聖なる家族には、安心して泊る場所さえなかったと福音は伝えています。心の安まらない暗闇の状況で不安を抱える父と母。その家族に新しいいのちが誕生します。この状況の中で、いのちの誕生という人生における重大な出来事に直面したときに、この聖なる家族が抱えた不安は、どれほどだったことでしょう。助けてくれる知り合いとて見つからない旅の途中で、どれほどの不安を抱えていたことでしょう。

その不安を打ち払うために、神が用意されたのは、宿でもなければ食事でもなく、ともに歩む兄弟姉妹との出会いでありました。それこそが、あの夜、羊飼いたちにイエスの誕生の知らせがもたらされた一番の理由です。孤独と不安を打ち破る、共に喜びを分かち合う兄弟姉妹の登場です。闇を打ち破り不安と絶望を払拭する希望は、ともに歩む兄弟姉妹との出会いの中で生まれてきます。いのちを生きる希望は、ともに歩む兄弟姉妹との出会いの中で生まれます。

教皇レオ14世は12月14日、聖年の行事の一つである受刑者の祝祭ミサで説教し、次のように強調されました。

「だれ一人として失われることがありませんように。すべての人が救われますように。これこそが神の望みです。これこそが神の国です。これこそが世における神の業の目的です。降誕祭が近づく中で、わたしたちも揺るぎない決意と信頼をもって、ますます強く神の抱く夢を抱こうではありませんか。わたしたちはどんな困難を前にしても一人きりではないことを知っているからです。主はすぐ近くにおられます。主はわたしたちとともに歩まれます。主がわたしたちのそばにおられるとき、つねに何かすばらしいこと、喜ばしいことが起こるのです」

聖母マリアと聖ヨセフ、そして誕生したばかりのイエスという聖家族は、いのちをつないでいくことに不安を感じていました。暗闇の中で光を求めていました。その光は天使たちによって、そして天使に導かれた羊飼いたちによって聖なる家族にもたらされました。

同じように不安を抱え、心細さのなかで不安を抱えながら旅を続ける家族が、いまの世界にはどれほどいることでしょう。暴力的な出来事に直面し、闇の中をさまよっているいのちが、一体どれほどあることでしょう。誰も助けてくれない。どこにも頼る人がいない。孤独の闇の中で、希望を失い、絶望に支配されているいのちがどれほどいることでしょう。

しかし神は、「だれ一人として失われることがありませんように。すべての人が救われますように」と願っています。その神の願いを実現するためには、暗闇の中で光を届ける人が必要です。ともに歩もうとする人が必要です。いのちをまもるためによりそい、手を差し伸べ、光を届ける人が必要です。

紛争の地にあって、毎日のいのちの危険から逃れるために、旅に出ざるを得なかった人。政治の対立に翻弄されて、生きる場を失った人。国際関係の波間で、人間の尊厳を奪われ、自らの意思に反して旅に出ざるを得なかった人。厳しい経済環境の中で、生きるために旅に出る選択をせざるを得なかった人。愛する家族と一緒になるため、愛する人と一緒に生きていくために、法律の枠を超えて旅に出る人。多くのいのちが、先行きの見えない暗闇の中で、さまよっています。光を求めています。希望を求めています。

自分の存在を忘れられ、孤独のうちに取り残されるとき、人はいのちを生きる希望を失います。世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプや、経済的に困窮する社会の現実の中で、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいる、その声が耳に響いてこないでしょうか。 

クリスマスのお祝いは、明るいイルミネーションに照らされることで、なにやら明るく楽しいイベントになっていますが、その理由は、暗闇の中で輝く光が、心の不安を打ち破り希望を生み出す力となることを実感するために他なりません。喜びは、多くの人と分かち合う喜びであってほしいと思います。光は多くの人と分かち合われる光であってほしいと思います。ひとり一人の心に芽生える希望は、最大の希望、すなわち神の救いへと繋がる希望であってほしいと思います。

教会は、人間のいのちは神からの賜物であると信じています。聖書の冒頭、創世記に記された天地創造の物語から、人のいのちには神の似姿としての尊厳があり、またそれは「互いに助け合う者」として創造されたと信じています。そうであるならば教会は、神からの賜物であるいのちを守り抜く存在として、社会の中で率先して共に歩む存在でありたいと思います。暴力を持っていのちを危機にさらす紛争が勃発する社会に対して、互いの尊厳をまもり、違いを尊重し、弱い存在を支え、声なき声に耳を傾け、誰ひとりとして排除されることなく、忘れ去られることのない世界を実現するために、共に歩みを続ける教会でありたいと思います。

クリスマスおめでとうございます。この喜びを、希望を、一人でも多くの人と分かち合うことができますように。共に希望を心に抱いて、最大の希望である神に向けて、ともに歩んでいくことができるように、常に努力を続けるものでありましょう。

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2025年8月15日 (金)

2025年聖母マリアの被昇天

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8月15日は、聖母マリアの被昇天の祝日です。そして、日本では終戦記念日でもあります。さらには、元々はローマの殉教者である聖タルチシオの祝日でもあります。わたしの霊名でもあり、お祝いの言葉や霊的花束を多くの方からいただきました。みなさまのお心に、感謝いたします。(上の写真はローマ某所の祭壇下にある聖タルチシオの像。下は板橋教会の聖タルチシオ像の前です)

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中央協議会のホームページので解説には、「マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布しました」と記されています。全文はこちらのリンクから。なお8月15日が聖母の祝日になったことから、現在の暦では、聖タルチシオは8月12日に記念されていますが、それも近年のことですので、基本的にはもともとの8月15日をお祝いの日としています。また聖タルチシオは、3世紀頃の迫害の中で、とらわれた信徒へ運ぶご聖体を護って殉教したことから、侍者の保護の聖人となっています。

80年目の終戦記念日にあたり、戦争の犠牲となり亡くなられた数多の方々の永遠の安息のために、心から祈ります。あらためて戦争のない世界の実現のために祈り、今まさに世界の各地でおきているいのちへの暴力をやめるように呼びかけます。そして、すべての人間の尊厳が尊重される世界の実現のために祈り、語り、行動していく誓いを新たにしたいと思います。

8月6日から続いたカトリック教会の平和旬間は、今日、8月15日で終わりますが、平和への呼びかけは一年を通じて続けていかなくてはなりません。なぜなら神の望まれる世界は、いまだ実現する気配すらないからです。

以下、本日8月15日午後6時に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた聖母マリアの被昇天の祝日ミサの説教原稿です。

聖母マリアの被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年8月15日

「神の母は、希望の最も偉大なあかし人です」

教皇フランシスコは、いままさしく行われている聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」で、そう宣言されています。

教皇は続けて、「この方を見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みの賜物であることが分かります」と記しています。聖母マリアは人生の中の出会いや体験の中で、苦しみもがきながらも神の意志に常に従い、それによって大きな恵みに到達されました。

天使ガブリエルによる救い主の母となるという驚くべきお告げの出来事に始まって、ベトレヘムへの旅路、そして宿すら見つからない中での出産。その後、成長するイエスとともに歩む人生の旅路における様々な出来事、さらにはイエスの十字架上での苦しみに最後まで寄り添うことで、「すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、『はい』と言い続けた」聖母マリアは、地上でのいのちが終わった後に、身体も魂も、ともに天の国に引き上げられたことで、わたしたち人類すべての希望の星となりました。わたしたちひとり一人に、神の栄光に達するためには、どのように生きるべきなのかという道を指し示しているのは、聖母マリアです。その生き方に、神の前における謙遜に、そして主イエスとともに歩み続ける姿勢に、わたしたちのいのちを生きる希望の模範があります。

聖年の大勅書「希望は欺かない」で教皇フランシスコは、「民間の信心の中で、聖なるおとめマリアが「海の星(ステラ・マリス)」と呼ばれているのは偶然ではありません。この称号は、人生の荒波の中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼をもって希望し続けるよう招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しておられます。人生の荒波を生き抜こうとしているわたしたちにとって、聖母マリアは希望の光で照らし続ける海の星であります。

聖母マリアは平和の元后でもあります。エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げた讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画が実現された様が記されています。そこでは、この世界の常識や価値観は覆され、社会の中心ではなく周辺部に追いやられ、忘れ去られた人にこそ、神の目が注がれ、祝福が向けられていることが記されています。神の計画が実現し、神の定めた秩序が存在している世界こそ平和な世界でありますが、その平和な世界の実現を、すでに聖母マリアはマグニフィカトの中で高らかに歌い上げています。ですから聖母マリアは平和の元后であります。

聖母マリアの生きる姿勢から、教会は、社会から排除され忘れ去られて人々に目を向け、そこへと出向いていく教会であることを、つねに学び続けていると、教皇フランシスコは度々繰り返されました。

マグニフィカトの終わりには、こう記されています。

「その僕イスラエルを受け入れて、あわれみをお忘れになりません」

すなわち、神は自らが選ばれた民であるイスラエルとかつて交わした契約を忘れることなく、その業を必ずや成し遂げられると言うことです。キリストにおける新しい契約に生きている現代の神の民であるわたしたちにも、同じように、神が望まれる世界を生み出すための努力をすることが求められています。その道は、聖母マリアに倣って、神の「平和」を実現する道であります。

すべてのいのちの創造主である御父にとって、賜物として与えたすべてのいのちは、等しく愛を注ぐ対象であり、大切な存在です。賜物であるいのちは、神がそれほどの愛を注がれ、またご自分の似姿としての尊厳を与えられたからこそ、その始まりから終わりまで、すべからくその尊厳が守られ、大切にされなくてはならない存在です。わたしたちにはいのちを守り、その尊厳を守り抜く使命が与えられています。

しかし、世界全体を見れば、様々な状況の中で人間の尊厳は損なわれ、様々な方法を持っていのちに暴力が襲いかかっています。賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、すべての段階で、様々な暴力にさらされ続けています。社会から忘れ去られた状況の中で、かろうじていのちをつないでいる人も少なくありません。まるで価値がないものであるかのように見捨てられ、暴力的に奪われていくいのちもあります。

今この瞬間にも、例えば非人道的な攻撃にさらされているガザで、また先行きの見通せない戦争が続くウクライナで、そしてミャンマーや南スーダン、コンゴなどなど、目の前に迫るいのちの危機のただ中で、恐怖におびえながらいのちをかろうじてつないでいる多くの兄弟姉妹が存在します。あらためて、平和の元后である聖母の祝日に当たり、いのちに対する暴力を今すぐにやめ、人間の尊厳を守り抜くように、世界に向けて声を上げたいと思います。

8月6日から今日15日まで、日本の教会は、平和旬間を過ごしてきました。今年は日本が直面した最後の戦争が終わってから80年となります。この時期には、わたしたちが受けた戦争の被害に焦点が当てられますが、同時に戦争を行うことによって、多くの国、特にアジアの諸国に深い傷跡を残し、その地において多くの人のいのちを暴力的に奪ってしまったことも忘れるわけにはいきません。教皇ヨハネパウロ二世が広島でかつて言われたように、「戦争は人間の仕業です。戦争は死です」。だからこそわたしたち人間は、戦争という暴力を、再び現実としてはなりません。

どんなに時間が経過したとしても、起こった事実は変わりません。その事実を目の当たりにしたからこそ心に誓った願いは、どんなに時間が経過したとしても、変わることはないはずです。だからこそ、80年前の悲劇を記憶するこの日、わたしたちはあらためて起こった出来事の記憶を新たにし、その直後の誓いを新たにしなければなりません。過去に起こった出来事とその教訓を忘れ去ることは、時の流れを支配する神に対する不遜な行動です。

しかし近年、わたしたちは記憶が薄れることをいいことに、様々な理由をつけては、いのちに対する暴力を肯定する誘惑に駆られます。武力の行使を現実的選択だとまで言い始め、なかにはあれほどの惨禍を経験しているにもかかわらず、核武装の必要まで当たり前のことのように口にされるようになりました。

わたしたちの信仰の中心には、あの最後の晩餐の席で主イエスご自身が、「わたしの記念としてこれを行え」と命じられたように、連綿と伝え続けられている記憶があります。時間の流れの中で薄められ忘れられてはならない記憶です。記憶を伝え続けることの大切さを十分に知っているわたしたちだからこそ、教会は、平和の確立のために戦争の記憶を伝え続けることを放棄することはできません。

希望の聖年において巡礼の歩みを続けているわたしたちは、暴力による絶望をもたらす道ではなく、神の意志に従い希望を生み出す道をしっかりと見いだし、わたしたちの希望の星である聖母マリアの光に導かれながら、神の平和の実現のために力を尽くしていきたいと思います。

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2025年8月 9日 (土)

2025年平和旬間:広島、そして東京教区平和祈願ミサ

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日本の教会は毎年、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。今年は特に戦後80年の節目の年であり、それは同時に、広島と長崎での原爆投下の80年でもあります。

今年の平和旬間を前に、先日、6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、日本のカトリック司教団はまず、80年の平和メッセージを採択しました。そのタイトルを「平和を紡ぐ旅、平和を携えて」といたしました。全文はこちらのリンク先の中央協議会ホームページにあります。是非ご一読ください。

さらに司教団は、核兵器廃絶宣言も採択いたしました。全文はこちらのリンク先です

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今年の平和旬間には、米国の司教団からお二人の枢機卿様とお二人の大司教様、そして大勢の巡礼団がおいでになり、広島と長崎での平和行事に参加されています。シカゴのスーピッチ枢機卿、首都ワシントンのマッケロイ枢機卿、サンタフェのウェスター大司教、シアトルのエティエンヌ大司教の四名が来日され、8月5日の昼から、エリザベト音楽大学のホールを会場に、被団協のノーベル平和賞受賞の祝賀式、引き続いて、核兵器廃絶を呼びかける日本、米国、韓国の司教有志が集まって、シンポジウムを開催し、終わりに平和宣言を発表しました。今年の広島教区の平和行事のテーマは、「原爆投下80年 平和への希望を新たに ~核廃絶をわたしたちはあきらめない~」です。

この後に、世界平和記念聖堂(広島教区カテドラル)に移動し、平和祈願ミサを捧げました。わたしはこのミサの司式と説教を担当させていただきました。また教皇レオ14世から送られた平和メッセージが、教皇大使によって朗読されました。メッセージ全文はこちらです

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翌朝、広島に原爆が投下されて80年目の朝、8時から世界平和記念聖堂に多くの方々、修道者、司祭と共に、あらためて日米韓の司教有志が集まり、投下時間に黙祷を捧げた後、白浜司教の司式でミサが行われました。なおこのミサの説教は、シカゴのスーピッチ枢機卿です。

どちらのミサも映像を、カトリック広島教区「平和の使徒推進本部」のYoutubeチャネルでご覧いただけます。

 今回お祝いを申し上げ、また協働していくことを誓った被団協のノーベル平和賞受賞ですが、司教団の80周年平和メッセージでは、次のように指摘いたしました。

「日本被団協のノーベル平和賞受賞は、世界が核兵器使用の脅威の中で「核抑止」から抜け出し、核兵器廃絶に向かうための大きな一歩です。・・・今回の受賞が、核兵器のない世界に向けた希望の灯となるように祈るとともに、世界と日本政府がこの「時のしるし」を深く心に留め、一刻も早く核兵器禁止条約の署名・批准に向けて行動することを強く求めます」

 教皇フランシスコが指摘されたように、核兵器を使用することだけでなく保持することにさえ倫理的な問題があることを同じように指摘し、平和のためにという口実でいのちに対する暴力を行使することを認めず、神からの賜物であるいのちの尊厳が、その始めから終わりまで護られ尊重される世界の確立を目指したいと思います。

東京教区の平和旬間行事は、基本的にはそれぞれの小教区や宣教協力体で行われますが、教区全体の行事としては、本日8月9日午後1時から、同志社大学名誉教授でエコノミストの浜矩子さんを迎え、『戦後80年キリスト者としての平和への新たな決意』と言うテーマで講演をいただきました。浜矩子さんは東京教区の信徒です。その後、質疑応答を経て、午後3時半から、大勢の方が参加する中で、わたしが司式して平和祈願ミサを捧げました。ミサ終了後、有志の方々が、カテドラルから目白駅まで、平和ウォークをされました。参加された多くの皆さん、ありがとうございます。

以下、本日8月9日、長崎の原爆忌の日に東京教区で行われた、その平和祈願ミサの、説教原稿を掲載します。

平和祈願ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年8月9日

心に深く刻み込まれた戦争の記憶は、多くの人がそれを共有してきた時代に、同じ過ちを繰り返してはならないという誓いを常に新たにする原動力となってきました。ところが戦争が終結してから80年という時の流れのなかで、実際に戦争を体験したことのない世代が増え、伝えられなくてはならないその記憶を少しでも薄めよう、忘れようとする力が働いています。いまでは、国家間の対立を解決するためには、まず武力の行使も仕方がない、いや外交努力は武力の行使によってこそ強められるという考えまでが、現実的な選択だと言われるようになりました。

現代を生きているわたしたちは、あたかも過去の歴史に対して敬意を払うことなく、それをなかったこととして忘れ去ろうとし続けているかのようであります。

人間のいのちを暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。わたしたちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、間違いなのではなくて、それがわたしたちの本当の姿なのかもしれません。いまもまた、わたしたち人類は、様々な正当化の理由の元、例えばガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、すさまじいいのちの危機が続いているにもかかわらず、それを止めるすべを持ちません。コロナ禍で始まったウクライナでの戦争で、どれほど多くのいのちが奪われても、それを止めるすべを持ちません。同じくコロナ禍で起こったミャンマーでのクーデターでは、その後の混乱が、平和を求める教会の叫びにまで襲いかかり、絶望を生み出し続けています。それどことか近隣のタイとカンボジアで、武力による衝突まで起きています。

どんなに時間が経過したとしても、起こった事実は変わりません。その事実を目の当たりにしたからこそ心に誓った願いは、どんなに時間が経過したとしても、変わることはありません。だからこそ、80年前の悲劇を記憶し平和を祈るこの10日間、特に今日は長崎の原爆忌ですが、わたしたちはあらためて起こった出来事の記憶を新たにし、その直後の誓いを新たにしつづけなくてはなりません。過去に起こった出来事とその教訓を忘れ去ることは、時の流れを支配する神に対する不遜な行動です。

わたしたちの信仰の中心には、あの最後の晩餐の席で主イエスご自身が、「わたしの記念としてこれを行え」と命じられたように、連綿と伝え続けられている記憶があります。時間の流れの中で薄められ忘れられてはならない記憶です。わたしたちの信仰は、最初にあった出来事を記憶し、それを次の世代へと連綿と伝え続ける信仰です。記憶を伝え続けることの大切さを十分に知っているキリスト者だからこそ、教会は、平和の確立のために戦争の記憶を伝え続けることを放棄することはできません。

日本のカトリック司教団は戦後80年にあたり、先日6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、「平和を紡ぐ旅 -希望を携えて-」と題する平和メッセージを採択しました。

その冒頭でわたしたち司教団は、教皇フランシスコの広島での言葉、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません」を、引用いたしました。

わたしたちは歴史的事実に誠実に向き合い、謙虚に学び、深く心と記憶にとどめ、さらには次の世代に確実にそれを伝え、その上で、この世界において神の平和を確立するための努力を続けていかなくてはなりません。

80年以上前に広島、長崎で、また日本各地、さらに世界各地で起こった戦争と核爆弾によるいのちの悲劇。それを実際に体験した多くの方にとっては、どんなに時間がたっても、その出来事はいのちに対して襲いかかった暴力という負の力として、心に深く刻み込まれ、忘れ去られることはないものと思います。

わたしたちは記憶が薄れることをいいことに、さらには時間の経過とともに実体験として暴力の記憶を心に刻みこんだ人が少なくなることをいいことに、様々な理由を見つけてきてはいのちに対する暴力を肯定する誘惑に駆られます。そのような弱いわたしたちに対して、教皇フランシスコは力強く挑戦状を突きつけました。

2019年、広島で「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」といわれました。

使うことだけではなくて、使いたいという誘惑にわたしたちを駆り立てる核兵器の所有でさえ、倫理に反していると断言されました。

この呼びかけは夢物語なのでしょうか。非現実的なのでしょうか。平和を確立しようと声を上げるたびに、冷ややかな批判の声が聞こえてきます。夢物語を語るな。現実を直視せよ。

はたして、核兵器のない世界の実現を、そして平和に対する呼びかけを、もしも夢物語であり、非現実的だというのであれば、福音に記されたイエスの言葉は、まさしく夢物語です。

「心の貧しい人々。悲しむ人々。柔和な人々。義に飢え乾く人々。あわれみ深い人々。心の清い人々。平和を実現する人々。義のために迫害される人々」を幸いだと言われる主の言葉を、夢物語にするのか、現実とするのか。それは、わたしたちの決断にかかっています。主イエスの言葉を現実のものとするために、罵られ、迫害され、悪口を浴びせられるのか、それを避けようとするのか。主は、前者こそが幸いであると言われます。わたしたちはどちらを選択するのでしょうか。

ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は、冒頭で、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる方法で、そして口実で、神からの賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物であるいのちはその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るのは、わたしたちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

平和旬間にあたり、あらためてわたしたちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。伝えるべき記憶をしっかりと伝え続けるものでありましょう。神の支配が確立するように、働くものでありましょう。 

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