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2021年4月 4日 (日)

復活の主日@東京カテドラル2021

Easter21-2

御復活 おめでとうございます。

東京ではすでに桜も散り、季節は足早に進んでいますが、多少すっきりとしない天気の中、復活のお祝いを迎えることが出来ました。例年であれば、ミサ後に復活の祝賀会などが催される教会も少なくないと思いますが、残念ながらそれも叶いません。ご自宅でお祈りされた皆さんにも、いのちを守るための積極的な行動に、復活されたいのちの主の豊かな祝福が注がれますように。

まず、東京教区ホームページに掲載されている、復活のメッセージビデオの原稿です。

困難な状況が続いていますが、今年はなんとか聖週間の典礼と復活の典礼を行うことが出来ました。まだまだお祝いなどのために集まることは出来ませんが、祈りの時を共にしながら、主の復活を祝うことが出来ることに感謝したいと思います。

この復活の季節に、洗礼を受け、教会共同体の一員となられる皆さんに、心からお喜び申し上げます。

現代世界のすべての人々と、喜びと希望、苦悩と不安と共にしている教会は、困難の内にある世界の人々との連帯しながら、主キリストの復活が示している新しいいのちへの希望を高く掲げ、不安と恐れの暗闇を振り払う存在として、現代世界に命を吹き込む存在でありたいと思います。闇に光を輝かせる存在でありたいと思います。

わたしたちはキリストの体の一部です。洗礼を受け、新しいいのちへと招かれ、互いに信仰のきずなに結ばれ、キリストの体を作りあげています。信仰に日々生きているわたしたちが、教会そのものです。

困難な事態は一年以上続いています。今後、いつになったら安心して集まることが出来るのか、まだ分かりません。この状況の中で、忘れ去られて孤立する人、経済的に困窮する人、病床にある人、理解の相違から排除されたり、対立の中に巻き込まれる人など、様々な形で危険にさらされるいのちへの配慮が、大切です。

死に打ち勝って復活された主イエスは、新しいいのちの希望です。わたしたち自身も、社会のただ中で希望の光となりましょう。

あらためて、御復活おめでとうございます。

 

そして、以下は本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での10時のミサの、説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月4日

主の復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

昨年初め頃から今に至るまで、わたしたちは一年以上にわたって、尋常ではない状況の中で生活をしています。今はワクチンの接種も始まっているなど、暗闇の中にも多少の光が見えてきました。それでも社会全体が受けている影響には大きいものがあり、世界の状況にも目を配れば、まだまだこの共通の家に住むわたしたちは、完全な光を見いだしてはいません。いのちの危機は続いています。

教会もこの一年間、厳しい状況の中に置かれています。感染症対策のために、また互いのいのちを守るための責任ある行動として、教会活動の自粛や、一時的な公開ミサの中止など、いわば試練の時が続いています。これを「試練」と感じる一番の理由は、喜びの欠如であります。

もちろん個人的には、日曜のミサに与れないことや、予定されていたイベントが軒並みに中止になるなど、霊的に枯渇し、また楽しみを奪われたという意味で、喜びが欠如しています。しかしわたしたちから喜びを奪う一番の要因は、共同体が集うことが出来ないことにあります。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」を、こう書き始めています。

「福音の喜びは、イエスにであう人々の心と生活全体を満たします」(1)

自分の殻に閉じこもって他者への配慮を忘れる生き方ではなく、出向いていって交わりを深め、福音に生きる喜びをともにすることの重要性を説く教皇は、次のように指摘します。

「福音を宣教する共同体はうれしさに満ちていて、いつも『祝う』ことを知っています。小さな勝利を、福音宣教における一歩一歩の前進を喜び祝います。」(24)

その上で教皇は、「隣人の聖なる偉大さを眺め、あらゆる人間の中に神を見つけ、神の愛により頼むことで、共に生きることの煩わしさに耐え、よいかたである御父のように他者の幸福を望んで神の愛に心を開くことの出来る兄弟愛」こそが、真のいやしを提供すると述べ、「共同体を奪われないようにしましょう」と呼びかけられています。(92)

感染症対策のため、教会が選択した道は、残念ながら実際に集まって共に祈り、共に学び、共に活動する機会を制限することになってしまいました。具体的に肌で感じることの出来る共同体の存在が制限されたことが、信仰における喜びをも制限してしまうことを、いま肌で感じています。

その事実が逆に、意識するしないにかかわらず、キリスト者が共同体として集うこと自体が、どれほどの福音の喜びを自然に生み出していたのか、わたしたちに気づかせます。

わたしたちには、福音の喜びを生み出す共同体が必要です。共に祈る共同体が必要です。兄弟愛を見いだし、兄弟愛を実践する共同体が必要です。福音を共にあかしし、ともに出向いていく共同体が必要です。

もちろんわたしたちは、教会共同体とは、具体的な人の集まりであり現実の組織体であると同時に、霊的な共同体であることも知っています。

カトリック教会のカテキズムには、「わたしたちは生者と死者を問わず万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。地上の旅路を歩む民と天上の栄光にあずかる人たちとには連帯関係があり、共に教会を作り上げています。

それを第二バチカン公会議の教会憲章は、「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と記しています。

わたしたちは、信仰における兄弟姉妹と、そして信仰の先達と共に、キリストの唯一の体において一致して、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。ですから、どこにいても、独りで祈りをささげていても、独りで愛の業に励んでいたとしても、また司祭がひとりでミサを捧げていても、わたしたちはそれを霊的な絆にあって、共同体のわざとして行うのです。一つの体であるキリストに結ばれている限り、わたしたちは霊的に孤立することはありません。

とはいえ、現実社会での生活は、そう簡単に割り切れるものでもありません。

教皇フランシスコは、今年、ヨセフの年を祝うように招かれています。使徒的書簡「父の心で」に、次のように記されています。

「人生には、意味を理解できない出来事が数多く起こります。・・・ヨセフは、起きていることに場を空けるために自分の推論を脇に置き、自分の目にどれほど不可解に映っているとしてもそれを受け入れ、その責任を引き受け、自分の過去に対するわだかまりを解くのです。過去に対するわだかまりを解かなければ、わたしたちは次の一歩を踏み出すことすらできないでしょう。期待とその結果としての失望に、とらわれたままになるからです。ヨセフの霊的生活は、明らかにする道ではなく、受け入れる道を示しています。」

ヨハネ福音は、復活の出来事を目の当たりにしても、いったい何が起こったのかを理解できずにいたペトロの姿を記しています。ところが使徒言行録には、復活の主に出会ったペトロが、力強く語る姿が記されています。

イエスが十字架につけられた日に恐れをなして隠れ、イエスを三度知らないと裏切ってしまったあの夜の態度とは打って変わり、また復活の出来事を目の当たりにしても理解できなかった、ヨハネ福音に記された姿とは打って変わり、力強くイエスについて、そしてイエスの死と復活を通じてもたらされる救いについて語る姿を、使徒言行録は記しています。

それは知識を教えているような姿ではなく、心からあふれてくるものを、どうしても語らずにはいられないペトロの姿です。それほど多くの人に伝えたくて仕方のない話がある。自分には分かち合いたい宝のような話がある。そういうペトロの熱意が伝わってくるような姿です。復活された主と出会ったペトロは、喜びに満ちあふれており、あふれる喜びを分かち合わずにはいられません。復活の主と出会った共同体は、あふれんばかりの福音の喜びに満たされています。

ご存じのように、長年にわたって姉妹関係にあるミャンマーの教会を、東京教区はケルン教区と共に支援してきました。2月1日の軍事クーデター後、自由と民主主義の尊重を訴え抗議する人たちや、以前からあった少数民族との対立の中で難民となった人たちへの、暴力的な対応によって、多くのいのちが奪われています。いのちを奪う現実に喜びはありません。ミャンマーの教会の呼びかけに応え、連帯の内に平和を祈りたいと思います。暴力ではなくて対話の内に、人間の尊厳が守られる社会が確立されるように呼びかけたいと思います。いのちの危機を避けるように呼びかけたいと思います。

わたしたちは、共同体の霊的な繋がりの内に、福音の喜びを共に見いだしたいと思います。不可解な現実の中で、愛を実践するように招いておられる主は、わたしたちとの出会いを待っておられます。困難な中だからこそ、ペトロのように主との出会いの喜びを、福音の喜びを、共にあかしする共同体でありましょう。

 

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2021年4月 3日 (土)

復活徹夜祭@東京カテドラル2021

Ev21a

主の復活 おめでとうございます。

困難な時期にあって、それぞれの地でどのような復活祭を迎えておられるでしょう。昨年は、典礼を公開で行うことが出来ませんでしたが、今年は、さまざまな制約を設けてではあるものの、共に祝うことが出来ました。

とはいえ、事態はまだ収束をしていませんし、今後も予測はつきませんが、多くの方が実際に教会へ足を運ぶことが出来ずに、ご自宅などでお祈りをされたかと思います。復活の主において、わたしたちは霊的な共同体に繋がれていることを心に思い起こされますように。また、いまの、「教会へ行きたい」という強い思いを、大切に心に刻んでおいてください。状況が安心できるようになったら、一緒に祈りをささげましょう。

「この夜、キリストは死の枷を打ち砕き、勝利の王として死の国から立ち上がられた」

祈り求めるお一人お一人のもとへ、復活された主の希望の光がしっかりと届きますように。

暗闇に彷徨うわたしたちに、いのちの希望の光が輝きますように。

疑いと不安に苛まれるわたしたちに、いつくしみが豊かに注がれますように。

荒れ野で渇くわたしたちに、慰めで包み込む愛が与えられますように。

復活の主から与えられる愛と希望に包まれたわたしたちが、その愛と希望を、多くの人に分かち合うことが出来ますように。

いのちを賭して、他者のいのちを守り抜こうと奮闘する方々の上に、護りと報いがありますように。

病床にある人に、癒やしの手が差し伸べられますように。

亡くなられた方々に、永遠の安息がありますように。

「わたしの希望、キリストは復活し、ガリレアに行き、待っておられる」

関口教会の今夜の復活徹夜祭では、15名の方が洗礼と堅信を受けられ、お二人の方が転会されて共同体の一員となられました。皆さんおめでとうございます。

Ev21b

以下、今夜の説教の原稿です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月3日

『あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない』

暴力的に奪われた主の死を嘆き悲しむマグダラのマリアたちに天使が告げたのは、驚きの言葉であったことだと思います。

絶望の淵にあったマグダラのマリアたちに、新たな希望の光として差し込んだ天使の言葉は、同時に新たな挑戦を突きつける言葉でもありました。

福音に記されている三人の女性の会話は、「あの石を誰が取りのけてくれるでしょうか」という、イエスの死とは全く関係のない心配事でした。すなわち、亡くなられたイエスとの出来事やその存在はすでに過去の思い出となり、彼女たちの関心は、今現在の心配事である石を取り除くことでありました。もちろん主を失った悲しみに心は満たされていたことでしょうが、イエスご自身の存在は、思い出となり、彼女たちはすでに新しい時を刻み始めていた様を、この会話が描写します。

イエスの復活を告げる天使の言葉は、「あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが」と述べています。天使は、彼女たちにとってのイエスがすでに過去の存在となっていることを、「十字架につけられたナザレのイエス」と形容することで示唆します。しかし、復活されたイエスは、彼女たちが過去の思い出として懐かしんでいるナザレ出身の十字架につけられて殺されたあのイエスとは全く異なっているのだ。新しい生命に生きている存在であるのだということを、天使は「ここにはいない」の一言で示唆します。その上で、これまでの過去の生き方との連続を断ち切るように促し、全く新たにされた生き方へと一歩を踏み出せと言わんばかりに、エルサレムを離れガリラヤへ行くようにと、旅立ちを促します。

イエスに従う者には、過去と訣別し、新たな挑戦へと勇気を持って一歩踏み出すことが求められています。

過去の思いでは、時の流れのある時点に、いつまでも変わることなく留まり続けます。変化することがないので、安心して留まり続けることが出来ます。しかし復活の出来事は、その静止画となった過去の思い出を、動き続け前進し続ける、現在進行形へと変えていきます。信仰は思い出でなく、現実です。

そのことを、出エジプト記の物語は見事に描写しています。救いの歴史にあずかる神の民は、エジプトでの安定した生活を捨て、常に挑戦し続ける旅に駆り立てられ、40年にわたって荒れ野を彷徨います。安定した過去へ戻ろうと神に逆らう民に、神は時として罰を与えながら、それでも常に前進し、新しい挑戦へと民を導きます。

わたしたちの信仰生活は、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。

洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。

創世記には、「海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ」と記されていました。教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」に、次のように記しています。

「わたしたちが神にかたどって創造された大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません。」(67)

教皇は、天地創造の物語が、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っていることを示唆して」いると指摘されます。その上で、「聖書によれば、いのちにかかわるこれらの三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪」なのだと指摘します。(66)

教皇はこの回勅の冒頭で、「わたしたち皆が共に暮らす家」を護ることの責務を指摘しつつ、ヨハネ二十三世教皇の回勅「地上の平和」に触れています。

「地上の平和」の冒頭には、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません(「地上の平和」1)」と記されています。

すなわち、平和とは、神が与えられたこの世界の秩序を回復することであり、それは「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を回復し、「皆が共に暮らす家」を神が望まれるふさわしい姿に回復させることに含まれています。

信仰を生きるためには、心の内側を見つめて、神との個人的な出会いの体験を深めていくことも大切ですが、同時に、社会の現実の中でイエスの思いを実現し、神が望まれる秩序を回復するために、具体的に行動することも不可欠です。神から賜物として与えられたいのちを生きることは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を、ふさわしいあり方に回復させる努力を続けることでもあります。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。つまり洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点に過ぎません。

福音に生きるということは、簡単に手にはいる生き方ではありません。私たちは、強い意志を持ち、たゆまぬ努力を続けることを通じて、信仰を守る挑戦の旅を続けるように呼ばれています。

もちろん現実の世界に生きている私たちにとって、信仰を強固に保って行くには、いささか困難を憶える様々な障害が立ちはだかっていることでしょう。福音をのべつたえることは言うに及ばず、キリスト者であると言うことでさえ、他の人に言うことも出来ない、隠しておきたい。そんな誘惑の中にあって、洗礼を受けたことだけで充分だ、もうそれ以上は仕方がない、とあきらめてしまうこともあるやもしれません。まさしく、墓に向かう途中に、「誰があの石を取りのけてくれるか」と、目前の困難について話し合っていた三人の女性と同じです。

でも彼女たちは、目を上げることによって、そこに解決がすでに用意されていることを知りました。私たちも信仰に生きるにあたって、どんな困難にあっても、神に向かって目を上げることを忘れないようにいたしましょう。そして、よりふさわしく福音に生きるために、妥協に充ちた簡単な方法ではなくて、困難な道を選び取り、強い意志とたゆまぬ努力の内に、常に挑戦し続ける旅路を歩んでまいりましょう。

 

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2021年4月 2日 (金)

聖金曜日主の受難@東京カテドラル2021

Gf2101

本日は聖金曜日。主イエスの受難と十字架上での死を思い、沈黙の内に、神のわたしたちへの愛といつくしみに身を任せ祈る日です。本日、聖金曜日の典礼における、説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月2日

主イエスが耐え忍ばれたのは、愛する弟子たちによって裏切られ、独り見捨てられたことによる心の痛みと苦しみ、そして十字架上での死に至る受難という心と体の痛みと苦しみでありました。主イエスのその苦しみを、あらためてわたしたち自身の心に刻む今日の典礼は、主の苦しみがわたしたち一人ひとりと無関係なのではなく、まさしくわたしたち一人ひとりの罪を背負ったがための苦しみであったことを思い起こすようにと、招いています。

イザヤは、「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・・彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった」と記していました。

人類の救い主である主イエスが、わたしたちの犯した罪と苦しみを背負われて、贖いのいけにえとして、十字架の上で命をささげた事実を指摘する、預言者の言葉です。

わたしたちはミサにあずかるとき、最初に罪のゆるしを願います。それぞれの個別の罪を告白するわけではありませんが、しかしこの時わたしたちは、「兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と言葉にします。

「思い、ことば、行い、怠り」

わたしたちは心に抱えているさまざまな「思い」に基づいて生きています。自分の生きる姿勢を定めている心の思い。表に出さず心に秘めている思いで、わたしたちはしばしば神に背を向けてしまいます。

わたしたちが日々発する「言葉」は、多くの場合、他者との関係の中で口に出る言葉です。わたしたちは、心の思いに促されて発した言葉で、他者を傷つけ、神に背を向けてしまいます。

わたしたちの日々の「行い」も、また、他者との関係の中での行動であり、言葉と同じように、善に資することもありながら、やはり他者を傷つけ、神に背を向けることもしばしばです。

そして、わたしたちはなすべきことを意図的にまたは無意識的に「怠り」に任せることで、他者を傷つけ、神に背を向けてしまいます。

ミサを始めるときに、わたしたちは共同体に対して自らが抱えてきた罪の数々をこの言葉によって告げるのですが、そこで告げられたあまたの罪はどうなるのでしょう。

それはまさしく、聖体を拝領する直前に、「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ」と唱えることで、そのわたしたちの犯したあまたの罪を、これから拝領しようとする聖体に現存される主ご自身が、いけにえの子羊として自ら背負い、取り除いてくださったことを再確認します。わたしたちがいただく聖体は、わたしたちの罪を背負われた神の子羊その方であります。

主イエスが耐え忍ばれた苦しみは、わたしたち一人ひとりと無関係ではなく、わたしたちの罪の結果であることを、あらためて心にとめましょう。わたしたちに対するあふれんばかりの愛の結果として、ご自分を献げてくださる主の愛に、あらためて感謝したいと思います。

この一年、わたしたちは新型コロナ感染症の脅威の前で、立ちすくんでいます。いのちの危機から逃れる術をまだ知らず、神に助けを求めています。苦しみに直面しているわたしたちは、主の十字架での苦しみから何を学ぶことができるのでしょうか。

教皇フランシスコは、2016年年3月19日に発表された使徒的勧告「愛のよろこび」発表から今年で5年となることを記念し、この使徒的勧告「愛のよろこび」についての考察を、特に「家庭」に焦点を当てて考え深める特別年の開催を布告されています。

教皇様は、感染症の拡大という現在の困難な時にこそ、キリスト教的家庭の姿を真の「善き知らせ」として示すべきだと強調されています。また教皇様は、現実社会にはさまざまな形態の家庭があり、困難を抱える家庭や分裂した家庭が多く存在することをよく知った上で、それでも家庭はわたしたちの最も根源的な人間関係を守る存在であり続けるのだと強調されています。

この勧告には、次のように記されています。

「キリストは、とくに、愛のおきてと他者のための自己犠牲をご自分の弟子たちの明白なしるしとし、父親や母親が自らの生活の中でつねづね示している原則を用いて、それを示しました。それは、『友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない』ということです。愛はまた、あわれみとゆるしとなって実を結びます。(27)」

家庭における互いの関係の中に、イエスのあわれみとゆるし、そして自己犠牲の生き方が明確に示されており、その姿を通じて、福音を告げしらせることが出来るのだという指摘です。

Gf2102

十字架上で苦しみの中にある主イエスの傍らには、母マリアと愛する弟子が立っていたと、受難の朗読に記されていました。

苦しみの中でいのちの危機に直面していても、主イエスは、母への配慮を忘れません。神の愛そのものである主の心は、母に対するいつくしみと思いやりにあふれています。

「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。

十字架上の苦しみの中でイエスがあかしされたのは、まさしく「愛のおきてと他者のための自己犠牲」が「ご自分の弟子たちの明白なしるし」である事実でありました。

十字架は、弟子であるわたしたちにどのような生き方をするべきなのかを、明確に示しています。わたしたちのすべての罪を背負われてあがなってくださった主イエスの愛に応えるために、わたしたちは「愛の掟と他者のための自己犠牲」をあかしする者とならなければなりません。その模範は、聖母マリアを母としていただく教会共同体という家庭の中で、わたしたちにすでに示されています。

困難な状況の中にいるから今だからこそ、愛といつくしみをわたしたち自身が身に帯びて、他者のための自己犠牲のあかし人となる道を模索しましょう。十字架上の苦しみにあってさえも、「愛のおきてと他者のための自己犠牲」をあかしされた主イエスに倣い、愛といつくしみに生きるものとなりましょう。

 

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2021年4月 1日 (木)

聖木曜日・主の晩餐@東京カテドラル2021

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聖なる三日間が始まりました。昨年は、ミサは非公開でしたが、今年は数点の感染対策の制約の下、行うことになりました。聖座(バチカン)の典礼秘跡省からも、感染症下での聖週間の典礼について、特別な定めを設けるガイドラインが出ていますが、東京教区の典礼委員会でも、同様にガイドラインを作成して、主任司祭の皆さんに配布してあります。この聖なる三日間も、通常とは異なる点が諸々あると思いますが、どうか事情をご理解くださり御寛恕ください。特に今夜のミサでは、例年行われる洗足式や、ミサ後の聖体礼拝などが行われないことになっています。

Hth2102

なおすでに教区ホームページなどでもお知らせしていますが、ケルン教区の呼びかけで、ケルン教区、レーゲンスブルグ教区、ニューヨーク教区、そして東京教区は、連帯して、聖木曜日にミャンマーの平和と安定のため、自由が守られいのちの尊厳が守られるように、共に祈ることにしています。聖香油ミサでも触れましたが、どうかミャンマーのためにお祈りください。これはチャールズ・ボ枢機卿を始め、ミャンマーの司教団からの要請に応えるものです。今日に間に合わない場合は、明日以降でも構いません。ミャンマーのためにお祈りください

Hth2101

以下、本日のミサの説教原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月1日

教会共同体は、聖体の秘跡によって霊的に養われ、キリストの体にあって一致するように招かれています。わたしたちは聖体の秘跡によって、神のあふれんばかりの愛を、心と体で、具体的に感じさせられます。聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、残していく弟子たちに対する切々たる思いを実感として残し、聖体祭儀が繰り返される度ごとに同じように実感させようとなさいます。

出エジプト記は、「過ぎこし」を定められた神のことばを記していますが、その終わりにはこう記されています。

「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」

パウロはコリントの教会への手紙において、最後の晩餐における聖体の秘跡制定にあたり、「わたしの記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉を記し、さらににこう続けます。

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」

そしてヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、直接に聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

これら聖書に記されている残された言葉に込められた、神の思いはなんでしょうか。それは神がわたしたちに対して行ったわざを、わたしたちがいつまでも記憶にとどめ、それを決して忘れてはならない。その行いに込められた神の思いを、心に刻み込むように。刻み込むことによって、それを忘れないだけではなく、自らも同じように実践し続けよ。そのように願う神の切々たる思いが、感じられる言葉であります。

神のその思いを表現するために、旧約でも新約でも、「記念」という言葉が使われます。この「記念」は、単に「記念日」のように、暦に残しておく過去のある出来事ではなく、具体的な生き方への指示、命令を現す言葉です。忘れずに生きよという指示です。そしてその忘れてはならない記憶は、知識としての記憶ではなく、心が揺り動かされたその衝撃を、心に刻み込んでおく記憶です。わたしたちには、子々孫々まで、その記憶を具体的に生き、伝える務めがあります。

Hth2103

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」に、こう記しています。

「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえそれは教会が歴史の中を旅する上で携えることの出来る、もっとも貴重な宝だということが出来ます。(教会にいのちを与える聖体9)」

その上で教皇は、ヨハネ福音が弟子の足を洗うという愛の奉仕の業を記していることに触れて、「『主が来られるときまで』主の死を告げしらせながら、聖体にあずかる者は誰でも、自分の生活を変え、自分の生活をある意味で完全に『聖体に生かされた』ものにしていくよう導かれます。(20)」と指摘します。すなわち、「わたしの記念としてこれを行え」というイエスの言葉は、単に聖体の秘跡を繰り返すことだけを求めているのではなく、その結果として、日々の生活が「聖体に生かされた」ものとなること、すなわち徹底した愛の奉仕に具体的に生きることが求められているのだと指摘されます。

聖体を受けるわたしたちには、イエスご自身が生きたように、愛といつくしみをもって、隣人を愛しながら、互いに支え合って生きていくことが求められています。それは聖体をいただく者の、聖なる義務であります。

主イエスの言葉を心に刻み、代々受け継ぎながら、社会の現実の直中にあって、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を、あかししていく務めは、わたしたち教会共同体に与えられた使命であります。

教会はこの一年間、新型コロナ感染症の危機のなかにあって、さまざまな困難に直面してきました。そもそも集まることが難しい今、さらには集まったとしても距離を保ち接触を避け、共に歌うこともない状況で、信仰共同体を存続させる危機に直面しています。

自らの存在が危機に直面するとき、どうしてもわたしたちの心は内向きになって、守りに入ってしまいます。自分たちのことばかりを心配するとき、主イエスがその言葉と行いであかしした神のいつくしみを具体的に生きる行動は、背後に追いやられてしまう危険があります。

同時にわたしたちは、今回の危機的状況が、健康だけではなく、例えば経済や雇用などの問題も惹起し、それがいのちの危機をまねいている状況も、直接にまた間接に知らされています。助けを必要とするいのちは、この危機的状況の中で、残念ながら増加しています。

幸いなことに教会には、このような状況にあっても愛の奉仕に務めようとする活動が多く見られます。東京大司教区の災害対応チームでは、そういった活動を紹介しようと、三度にわたってオンラインセミナーを開催してきました。特に先週の日曜日には、小教区を中心に、食を確保するための活動を行っているグループの話を聞くことが出来ました。

賜物であるいのちを守るためには、当然のことですが、「衣・食・住」が充分に保障されていることが不可欠です。かつては、いわゆる途上国の、とりわけ貧困地域で生きる人たちが直面する問題だと思い込み、日本のような先進国では食料は充分に行き渡り、「衣・食・住」の課題で、いのちが危機に陥ることは、それほど多くはないと思われるきらいがありました。しかし、この数年の経済格差の広がりや、この一年の感染症の状況下における経済危機、雇用危機が、「衣・食・住」を、いのちを危機に陥れる連鎖の重要な要因としつつある現実に、今わたしたちの社会は直面しています。その中で、「食」を保障する活動には、愛の奉仕として大きな意味があります。

聖体の秘跡によって生かされている教会は、主イエスの言葉と行いを心に刻み、たまものであるいのちを守るために、互いに支え合い助け合うことの大切さを、社会のただ中に出向いていって、あかししなければなりません。

教皇ヨハネパウロ二世は「聖体には、主の受難と死という出来事が永久に刻み込まれています。聖体は、単にこれらの出来事を思い出させるに留まらず、それらを秘跡によって再現します。聖体は、十字架上のいけにえを世々に永続させるのです。(11)」と述べています。

御聖体に生かされているわたしたちは、神ご自身による目に見える行いによる究極的な愛のあかしである十字架上のいけにえを、代々に渡って告げしらせる務めがあります。この困難な時期だからこそ、常識の枷を打ち破って愛の業を弟子たちの心に焼き付けたイエスに倣い、愛のあかしに生きていきましょう。

 

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聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日の本日、午前十時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、東京教区の聖香油ミサが行われました。新潟もそうですが、他の教区では遠隔地から司教座のある町まで出かけてくる司祭の交通の便を考えて、水曜日、または火曜日に行われることが多いのですが、東京の場合は晩に行われる主の晩餐のミサまでに小教区に戻ることが基本的に可能なことから、聖木曜日に行われています。(例えば新潟教区の場合、司教座のある新潟市から一番遠いのは秋田県の鹿角教会だと思いますが、車で移動するとなると、新潟から鹿角まで、秋田市を経由して、普通に走って7時間弱かかります。秋田市も、車では5時間弱です。)

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なお聖座(バチカン)の典礼秘跡省からは、現在の感染症の状況のため、昨年に続いて今年も、他の時期に聖香油ミサを移動する許可が届いています。東京でも昨年は6月まで移しましたが、今年は聖週間に行うことが出来ました。しかし、残念ですが、感染対策として、ミサは公開せず、司祭と関係者と聖歌を歌ってくれたシスター方だけで執り行いました。また教皇庁大使館の臨時代理大使であるモンセニョール・トゥミル参事官も参加してくださいました。

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本日のミサの中で、秘跡に使われる病者の油、志願者の油、聖香油が祝福・聖別されると共に、司祭団は叙階の誓いを新たにしました。また東京教区の神学生である熊坂直樹神学生と冨田聡神学生の、助祭・司祭候補者認定式が行われました。お二人はこの認定を受けた後から、スータン(黒の長衣・カソック)を公式の場で身につけることが出来、今後神学院で勉学を続けて、数年後の叙階を目指します。お祈りください。

なお本日のミサの模様は、youtubeの関口教会のチャンネルからご覧いただくことが出来ます。

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以下、聖香油ミサの説教原稿です。

聖香油ミサ
2021年4月1日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

あらためて繰り返すまでもなく、昨年2月頃から、新型コロナ感染症に起因する状況の中で、わたしたちは、これまで経験したことのないような人生を送っております。教会においても、通常の活動を制限せざるを得なくなり、毎年恒例の行事はすべてキャンセルとなり、会議はオンライン化され、小教区の典礼も感染状況に応じて中止としました。

入院する人や重篤化する人、さらに亡くなられた方は、他の国々と比較すれば少ないとは言え、それでもいくつもの悲劇的で突然の別れを引き起こしているのは事実であり、その社会への影響には侮れないものがあります。

あらためて亡くなられた方々の永遠の安息を祈ると共に、今も病床にある方々の回復を祈り、さらにはいのちを守るために最前線で働いておられる多くの医療関係者の方々の健康が守られるように祈り続けたいと思います。

教皇フランシスコは、回勅「フラテリ・トゥッティ」において、現在の社会が直面しているさまざまな困難を指摘し、さらには今回のパンデミックの状況にも触れられた後、それでも希望について語り合おうと呼びかけ、こう記しています。

「無視することの出来ない暗雲が立ちこめているというものの、わたしはこの回勅で、希望に至るさまざまな道について取り上げ議論したいと思います。なぜなら神は、わたしたち人類家族に、善の種を豊かに蒔き続けておられるからです。今回のパンデミックは、恐怖にもかかわらず、命をかけて対応したわたしたちの周囲にいる多くの人を認識し評価することを可能にしました」

その上で教皇は、私たちのいのちは、共に生きている歴史の中でさまざまな役割を担うごく普通のありとあらゆる人とのかかわりのうちに成り立っていると指摘し、「独りで救われる人はいない」と述べて、この人と人とのかかわりの中に、今を生きる希望があるのだと諭しています。(54)

教会は、この困難のさなかにあっても、賜物であるいのちを守ることを強調しながら、希望の光を掲げる存在でありたいと思います。

いのちを守ることは、わたしたちの信仰にとって重要な視点です。いのちは、すべからく、その始まりから終わりまで、尊厳が守られなくてはならないと、教会は主張してきました。

いま、例えば東京教区が神学生養成などを支援しているミャンマーでは、軍事クーデターを経て、自由と民主主義を求める人たちが弾圧され、少なからずのいのちが暴力的に奪われる事態となっています。ミャンマーの司教団の要請に応え、ミャンマーの教会と心をあわせて、いのちの尊厳を守る平和が確立されるように祈りたいと思います。

さらに、すべてのいのちを守ろうとすることは、教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、誰ひとりとして排除されない世界を実現しようとすることでもあります。裁き排除する教会ではなく、社会の現実のただ中にあって、いつくしみの手を差し伸べる教会でありたいと思います。

教皇フランシスコは、すべてのいのちを守ることは、同時に神が与えられた被造物を大切に護っていくこと、また共通の家である地球を守ることにも繋がると指摘します。2020年5月24日からの一年間は、教皇によって「ラウダート・シ」に基づいて考察を深める年とされています。

いのちの危機が叫ばれる今だからこそ、わたしたちはさまざまな視点から現実をとらえ、被造物を大切に護るために優先すべき事項を見つめ直し、いのちを守ることを前面に出す教会共同体でありたいと思います。

先般、宣教司牧方針を発表させていただきました。方針なるものは具体的な行動につなげなければ、絵に描いた餅で終わります。そのためにも、司祭、修道者の皆さんのご理解と協力をお願いしたいと思います。

ただ、即座に何か大きな変化があるわけではありません。時間をかけて、方針に記しましたが、それを大枠として、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」を育て上げていきたいと思います。それはベネディクト十六世が指摘された教会の本質である三つの務め、すなわち、「神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』 25 参照)を充分に実現するためです。それぞれの現場で、さまざまな具体的取り組みがこれから考えられることを期待していますが、一番の目的は、福音をあかしし、社会の中で希望の光を輝かせる教会となることであります。

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さて今日は、この聖香油ミサの中で熊坂直樹神学生と冨田聡神学生の助祭・司祭候補者認定式が行われます。

キリストは「収穫のために働き手を送ってくださるよう、収穫の主に願いなさい」とお命じになりました。この方々は、ご自分の群れに対するわたしたちの主の心遣いを思い、教会の必要を考えて、主の招きに対して、かつての預言者と同じように、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」とすすんで答える用意が出来ています。この方々は、主に信頼し、その招きに忠実であるように主に希望をおいているのです。

主の招きの声は、さまざまなしるしによって理解され、識別されなければなりません。このようなしるしによって、主のみ旨は、日々、賢明な人々に明らかにされるのです。キリストの役務としての祭司職にあずかるよう神から選ばれる方々を、主はご自分の恵みで導き、助けてくださいます。同時に、主は、候補者たちがふさわしいかどうか確かめることをわたしたちにおゆだねになります。そして、ふさわしいと認めた後、この方々を招き、聖霊の特別の証印を押して、神と教会の奉仕のために叙階されることになります。この聖なる叙階によって、この方々はキリストが世にあって果たされた救いの業にあずかり、それを果たしてゆくのです。ですから、やがてこの方々はわたしたちの奉仕職に結ばれて教会に仕え、自分が遣わされたキリスト教共同体をことばと秘跡によってはぐくむのです。

ところで、愛する兄弟の皆さん、あなた方はすでに養成の道を歩み始めています。この養成によって、日々、福音の模範に従って生き、信仰と希望と愛のうちに確信を深めることを学んでください。そして、これらを身につけ、祈りの精神を育て、すべての人をキリストのものとする熱意を育んでください。

キリストの愛に駆り立てられ、聖霊の働きに強められて、あなたがたは、聖なる叙階を受けて神と人々への奉仕に身をささげたいという願いを、今、公に示そうとしておられます。わたしたちは、この願いを喜んで受け入れます。

あなた方は今日から、自分の召命をさらに成長させなければなりません。とくに、あなた方の召命を育てるように定められた東京教区の共同体と日本の教会が提示する手段を助けとして、また、支えとして用いてください。

わたしたちは皆、主に信頼し、愛と祈りによって、皆さんの助けとなりたいと思っています。

それでは、ひとりずつ、東京教区の共同体を代表するこの集いの前で、自分の決意を表明してください。

(これ以降、助祭・司祭候補者認定式が続く)

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2021年3月28日 (日)

聖週間:受難の主日ミサ

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聖週間が始まりました。本日は受難の主日または枝の主日と呼ばれます。これまでは、教皇ヨハネパウロ二世の定めにより、この日は世界青年の日とされていましたが、今年から、王であるキリストの主日が世界青年の日となります。

東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会の10時のミサを司式いたしました。今年は、感染予防策として、聖座の典礼秘跡省からも指針が出ていますが、東京教区でも典礼委員会が指針を策定しました。最終的な指針の適用は、それぞれの地域・小教区で事情が異なりますので、主任司祭の判断です。皆様には、制約がさまざまあろうかと思いますが、主任司祭の指示に従ってくださるようお願いします。

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関口教会も、そんなわけで、今朝は外からの行列は中止。本当はルルドから行列するのですが、しかたがありません。皆さんには会衆席についていただいたままで、司祭と侍者が聖堂入り口で枝の祝福をし、会衆席を聖水を撒いて祝福して回り、福音を朗読してから、入祭となりました。

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聖週間の主な典礼は、関口教会のyoutubeチャンネルから、配信されています。

以下、本日のミサの説教原稿です。

受難の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年3月28日

一年前の聖週間、教会の扉は閉じられたままでありました。一年前、新型コロナウイルスによる感染症が拡大する中で、わたしたちは先行きの見えない不安に苛まれながら、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という受難朗読にあるイエスの言葉を、自分の言葉としていました。残念ながら状況は劇的に改善してはいないものの、ことしはそれでも、さまざまな制約を設けながらではありますが、聖週間の典礼を行うことが可能となりました。今しばらくは、状況を見極めながら、慎重な行動を選択し続けたいと思います。

この一年、世界各地で、また日本において、今回の感染症のために亡くなられた方々の永遠の安息を、そして、いま病床にある方々の回復と、医療関係者の健康のために、祈ります。

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歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。

しかしパウロは、イエスが「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

イザヤは、そういったイエスの生きる姿を、苦難のしもべの姿として預言書に書き記しています。

主なる神が「弟子としての舌」を与え、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして」くださったがために、「わたしは逆らわず、退かなかった」。苦しみに直面したイエスの従順と不退転の決意を、イザヤはそう記します。

神が与えられた「弟子としての舌」は、「疲れた人を励ますように」語るための舌であると、イザヤは記します。その舌から語られる言葉は、いのちを生かす言葉であり、生きる希望を生み出す言葉であり、励まし支える言葉であります。

加えて、その舌が語る言葉は、自分の知識に基づく言葉ではなく、「朝ごとに」呼び覚まされる主の言葉に耳を傾け、それを心に刻んで従おうと決意する、神ご自身のことばであります。

人間の知識や感情や思いに左右される言葉は、イエスを十字架の死へと追いやった群衆の熱狂の内にある言葉のように、いのちを危機に追いやり、いのちを奪う言葉となります。

神のことばに耳を傾け、それを心に刻み、不退転の思いをもってそれに従い、それを語る主イエスの言葉は、互いを支え、傷を癒やし、希望の光をともす、いのちを生かす言葉であります。

今のこの時代、わたしたちは、熱狂の言葉ではなく、希望に満ちたいのちの言葉を語る者でありたいと思います。弟子の舌をもって語る者でありたいと思います。

この一年を「聖ヨセフの年」と定められた教皇フランシスコは、使徒的書簡「父の心で」において、イエスの物語の背景であまり目立つことのない聖ヨセフの生き方について、さまざまな視点を提供しています。

その書簡の中で、自らの弱さのうちに神の力が働くことを知った聖ヨセフの「いつくしむ心の父」としての側面に触れ、こう記しています。

「救いの歴史は、わたしたちの弱さを通して、『希望するすべもなかったときに、……信じ』ることで成就します。あまりにしばしばわたしたちは、神はわたしたちの長所、優れているところだけを当てにしていると考えてしまいますが、実際には、神の計画のほとんどは、わたしたちの弱さを通して、また弱さがあるからこそ、実現されるのです」

その上で教皇は、次のように指摘します。

「ヨセフは、神への信仰をもつということは、わたしたちの恐れ、もろさ、弱さを通しても神は働かれると信じることをも含むのだと教えてくれます。また、人生の嵐の中にあっても、わたしたちの舟の舵を神にゆだねることを恐れてはならないと教えます。時にわたしたちは、すべてをコントロールしようとします。ですが、主はつねに、より広い視野をもっておられるのです」

この一年、感染症によってもたらされた混乱と不安の中で、わたしたちはさまざまな視点から語りかける言葉を耳にしてきました。特に近年は、インターネットの普及で、さまざまな情報がわたしたちを取り囲むようにして飛び交っています。かつては人の口伝えによって広まった噂も、今やインターネットを通じて瞬時に、考えられないような数の人に伝わっていきます。

飛び交う言葉には、いのちを生かす言葉もあるでしょう。希望の光をともす言葉もあるでしょう。支え合ういたわりの言葉もあるでしょう。

しかし、しばしばわたしたちが耳にしたのは、根拠の薄いうわさ話であったり、見知らぬ他者をののしる言葉であったり、弱い立場にある人や保護を必要とする人をさげすむ言葉であったり、排除する言葉であったり、そういった負の力を持つ言葉が心を傷つけ、希望を奪い、時にはいのちをも奪い去るような出来事でありました。

あの日イエスを王のように歓呼をもって迎え入れた群衆のように、あの晩イエスを十字架につけよと叫び続けた群衆のように、高揚した自分の心の動きに支配されて叫ぶ言葉は、真理からはほど遠いところにあり、だからこそ負の力に満ちあふれており、究極的にはいのちを奪います。

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わたしたちは、今のような困難なときに生きているからこそ、自分たちの弱さをしっかりと自覚しなければなりません。わたしたちは自分の力だけで生きているのではなく、互いに支えられて生きていることを自覚し、神から生かされていることを心に刻んで、弱さの内にあることを認めなくてはなりません。

神は弱さにうちひしがれるわたしたちを通じて、その力を発揮され、救いの計画を成就させようとされるでしょう。今のこの状況を通じて、神がいった何を成し遂げようとしているのかを知ることは出来ませんが、そのはからいに信頼こそすれ、わたしたちの思い上がりで神の計画を妨げてはなりません。

わたしたちは弱さの内にあると自覚するからこそ、いのちの与え主である神のことばに耳を傾け、朝毎にそのことばによって生かされて、弟子の舌をもって語り続けることが出来ます。わたしたちは、疲れた人を励ます、いのちの希望の言葉を語る者でありたいと思います。自分の激した心の赴くままに放言するものではなく、自分たちの力に過信して語るのではなく、まず弟子として神に聞き従う耳を持ちながら、主イエスご自身の生きる姿に倣い、不退転の決意をもって、いのちの言葉を語ってまいりましょう。

 

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2021年3月11日 (木)

東日本大震災発生から10年。祈ります。

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2011年3月11日に、東日本大震災が発生して10年となりました。

大震災によって亡くなられた方々、またその後の過酷な生活の中で亡くなられた方々、あわせれば二万人近くになります。亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。また今でも行方が分からない方や、避難生活を続けられる方も多数おられ、一日も早く、希望が回復するように、心からお祈りいたします。

命の希望を掲げる教会はこの10年間、東北の地に生きる存在として、その役割を果たそうと務めてきました。特に東北の沿岸部に9カ所設けられたボランティアの活動拠点は、その基礎となる地元の教会と共に、地域の方々と一緒に時を過ごす中で、求められている希望は具体的に何であるのかを模索しようとしてきました。そのために日本の教会は、10年間と期間を定めて、全国の教会を上げての復興支援活動を行ってきました。この3月末で、ひとまずこの全国を上げての活動は、一旦終了となります。同時に、教会はそもそも地元に根付いてある存在ですし、教会は普遍教会として一つの体ですから、これからも、東北各地の教会を通じて、教会としての支援の歩みは続けられます。

10年の節目と言うこともあり、当初は仙台に司教団も集まり、ミサを捧げる予定でおりましたが、新型コロナ感染症の影響のため、それぞれの教区で祈りをささげることに変更となりました。東京教区でも、午後2時半から、東京教区ボランティアセンター(CTVC)が中心となって、祈りのひとときを持ち、ミサを捧げました。

なお、日本の司教団からの震災10年目のメッセージは、こちらのリンクからご覧ください。

わたし自身が責任者を拝命しておりました司教団の復興支援室も、3月末で閉鎖となります。大阪教区の神田神父、濱口氏との三名で、さまざまな調整作業にあたってきましたが、これも、特別な儀式的なことは一切なく終わりを迎えることになりました。仙台教区のサポートセンターも同様です。さらには東京教区のCTVCも、同様に3月末で活動を終えます。

活動終了にあたり、まず司教団の復興支援活動に関しては、活動評価作業を実施しており、7月頃にはまとまる予定です。仙台サポートセンターからは、この10年の活動を振り返る130ページもの記録集が発行されました。CTVCも記録を発行しています。この10年間の活動は、教会の宝として残されています。宝を隠してしまうことなく、今後の教会のあり方に、行かしていきたいと思います。

東京教区のCTVCの活動は、今後計画されている社会系活動を統合した教区カリタス組織に受け継がれていきますし、同時に、この10年のかかわりを通じて育まれた東北の方々との歩みは、特にカリタス南相馬とのかかわりなどを通じて、これからも続いていきます。

これまで10年の活動に関わってくださった多くの皆様に、心から感謝申し上げます。教会が本物の希望の光となって、闇の中でも道をしっかりと照らす存在となることができるように、これからも務めたいと思います。

以下、本日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、「「思い続ける3.11」オンライン 東日本大震災 犠牲者・被災者・避難者のために祈るつどい」のミサ説教原稿です。

東日本大震災10年
思い続ける3.11 ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年3月11日

あの日から10年という時間が経過しました。人生の中で、あの日あの時間にどこで何をしていたのか、明確に記憶している出来事はそう多くはありません。10年前のあの日あのとき、わたしは秋田から新潟へ帰る羽越線の電車の中にいました。山形県の鶴岡駅手前で立ち往生した電車の中で、携帯も通じなくなり、繰り返す余震に揺られながら、まだそのときは東北各地の被害の大きさは、想像も出来ていませんでした。

未曾有の大災害が、東北の太平洋沿岸部を中心に東日本を襲ってから10年です。あらためてこの10年の間に亡くなられた2万人近い方々の永遠の安息をお祈りいたします。消防庁の統計によれば、2020年3月の段階で2,500名を越える方の安否が不明であり、また復興庁によれば同年10月現在で、4万を超える方が避難生活を続けておられます。心からお見舞い申し上げます。

これまでの経験したこともない規模の災害です。わたしたちの想像を遙かに超える被害に呆然とする中、世界中の方々から支援をしていただきました。震災の翌日から、カリタスジャパンには世界中からの問い合わせと支援の申し出が相次ぎました。結果として国内は言うに及ばず、世界各地から多くの支援がよせられました。この10年間のカトリック教会の復興支援活動を支えてくださったのは、世界中の兄弟姉妹の皆様が、被災地への思いを寄せてくださるあかしとしての支援のおかげです。

また多くの方がボランティアに駆けつけてくださいました。この10年の東北各地の復興に寄り添い歩みをともにするボランティアの活動は、世界に広がる連帯の絆を生み出し、その後、今に至るまで毎年頻発している各地の大規模災害にあって、その支援活動に繋がっています。わたしたちはこの10年の時の流れの中で、互いに支え合うことの大切さを、心で実感し、学びました。

日本のカトリック教会は、災害発生直後の3月16日に、仙台において復興支援のためのセンターを立ち上げました。被災地はそのほとんどが仙台教区の管轄地域と重なっていましたので、仙台教区を中心として、復興支援活動を行ってきました。その後3月の末には司教たちが集まり、全国16の教区が一丸となって力を結集し、10年間にわたり復興支援活動を行うことを決めました。わたしたちはこれを「オールジャパン」などと呼んできました。

沿岸部を中心に被災地にはボランティアベースがいくつか設けられ、この10年の間、教会内外、そして国内外から、ボランティアベースに多くの方が駆けつけ、また中にはリピーターとして何度も足を運び、復興を目指して歩み続ける被災地の方々と、その歩みをともにする活動に参加してくださいました。東京教区でも、CTVCを中心として、そのほかにも多くの信徒の方の団体が結成され、今に至るまでの息の長い支援活動を続けてきました。参加してくださった多くのボランティアの皆様に、心から感謝申し上げます。

いったいこの10年の体験は、教会にとってどういう意味を持っていたのでしょうか。

先ほど朗読されたエレミヤ書には、神が幾たびも幾たびも、さまざまな方法でご自分の民に語りかけられ、しかしながら民が耳を傾けようとしないことが記されていました。

耳を傾けようとせず、自分たちの思いのままに生きようとする民に、それでも神は辛抱強く語りかけられます。回心することなく耳を傾けない民を前にして、神が最終的に決断されたのは、罰することではなく、自ら人となり、直接語りかけ、さらにはその罪の贖いのために、十字架上で自らをいけにえとして献げることでありました。なぜなら神は、慈しみにあふれた神だからです。忍耐にあふれる神だからです。ご自分の賜物として創造し与えられたいのちを、徹底的に愛される神だからです。

災害がどうして起こるのかその理由は誰にも分かりません。しかしわたしたちは、災害そのものではなく、その後に起こったさまざまな体験を通じて、神からの語りかけを学ぶことが出来ます。

わたしはこの10年間の歩みを通じて、とりわけ「人は何のために生きるのか」という問いかけへの神からの答えを体験してきたと感じています。

それは、2019年11月に日本を訪れた教皇フランシスコの言葉からも耳にすることが出来ました。教皇は、東京での被災者との集いで、次のように述べておられます。
「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

わたしたちは、互いに助け合うために、支え合っていのちを生かすために、展望と希望を生み出すために、いのちを生きていることを、この10年間の歩みを通じて神はわたしたちに語りかけ続けています。

カトリック教会は、災害の前から地元に根付いて共に生きてきた存在であり、これからも地元と共に歩み続ける存在です。ですからわたしたちの歩みは、どこからかやってきて去って行く一時的な救援活動に留まらず、東北のそれぞれの地で、地域共同体の皆さんと将来にわたって歩みをともにする中で、命の希望の光を生み出すことを目指す活動です。仙台教区は、復興支援の先頭に立つとき、「新しい創造」をモットーとして掲げ、過去に戻る道ではなく、希望を持って前進を続ける道を選びました。ですから教会の復興支援活動は、10年という節目を持って終わってしまうわけではありません。普遍教会は、仙台教区の小教区共同体として存在を続け、わたしたちはその教会共同体を通じて、これからも展望と希望を回復する道を歩み続けます。

教皇は、東北の被災地の方々との集いにおいて、「日本だけでなく世界中の多くの人が、・・・祈りと物資や財政援助で、被災者を支えてくれました。そのような行動は、時間がたてばなくなったり、最初の衝撃が薄れれば衰えていったりするものであってはなりません。むしろ、長く継続させなければなりません」とも指摘されています。

旧約の時代にそうであったように、神は辛抱強く語りかけられます。語り続けます。わたしたちが耳を傾ける時を忍耐強く待っておられます。
 わたしたちは、互いに助け合い、支え合っていのちを生かし、展望と希望を生み出す世界を生み出しているでしょうか。誰ひとり排除することなく、すべてのいのちが守られ、人間の尊厳が尊重され、闇に取り残されることのない社会を実現しているでしょうか。教会はその中にあって、暗闇に輝く光となっているでしょうか。

この10年の歩みを振り返りながら、あらためてわたしたち自身の生きる姿勢を見直してみましょう。そしてあらためて、東北の被災地の上に、神様の豊かな祝福と守りがあるように、祈り続けましょう。

 

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2021年2月18日 (木)

灰の水曜日ミサ@東京カテドラル

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2月17日は灰の水曜日。東京カテドラルでは関口教会と韓人教会の二つの共同体で、朝7時、午前10時、午後7時の三回のミサが行われ、わたしは夕方午後7時のミサを司式させていただきました。ミサの模様は、関口教会のYoutubeアカウントで配信されています。

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教皇様は四旬節にあたりメッセージを発表されています。中央協議会のこちらからご一読ください

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以下、午後7時のミサの説教原稿です。

灰の水曜日
2021年2月17日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」

東京教区は、戦後にケルン教区から大きな援助をいただきましたが、その友好関係の25周年を祝った1979年以降、今度はケルン教区と共にミャンマーの教会を支援する活動を始めました。これまで主に、ミャンマーの神学校の支援などを行ってきました。自分たちが受けた善意をさらに隣人へとひろげていく心は、感謝され褒められることによる満足のためではなく、隣人の思いに心をあわせ、共に生きていく姿勢、すなわち常に共にいてくださる主ご自身に倣う生き方の具体化です。そのミャンマーでは今月に入ってから軍によるクーデターがあり、非常に不安定な状況が続いています。ヤンゴンのボ枢機卿も、非暴力の内に対話を呼びかけていますが、長期的な混乱も予想されます。この四旬節の間、ミャンマーの兄弟姉妹のためにお祈りください。同時に、わたしたちの近隣には、国家の政策によって、人々や教会が厳しい状況に置かれている国もあります。暴力的な政治や軍の力で、信仰の自由が奪われたり、賜物であるいのちが危機にさらされてはなりません。

さて一年前、先行きの見えない状況の中で四旬節を始めたことを記憶しています。一年前の灰の水曜日の説教で、わたしは、「こういった状況の中では、どうしても自分や自分の近しい人たちの安全と安心だけを追い求める結果、思わず利己的な判断をとってしまうことも少なくありません。暗闇を不安のうちにさまようときにこそ、わたしたちはお互いを思いやり支え合うことの大切さを思い起こしたいと思います」と申し上げました。一年が経過した今も、状況はそれほど変化しておらず、やはり同じ言葉を繰り返さざるを得ません。

こういう状況にあって、いったいどのような道を歩んでいけば良いのか。いったいどのような生き方を選択すれば良いのか。

悩むわたしたちに、今日、預言者ヨエルは、「あなたたちの神、主に立ち帰れ」と呼びかけます。四旬節は、まさしく、わたしたちの信仰の原点を見つめ直すときです。この困難な時期のただ中で、わたしたちは信仰の原点に立ち返りたいと思います。

わたしたちが立ち帰るのは、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいる主であると、ヨエルは記しています。信仰に生きているわたしたちは、主に倣って、憐れみ深いものでありたいと思います。忍耐強い者でありたいと思います。慈しみに富んだ者でありたいと思います。

マタイ福音は、人々からの賞賛を得るために善行を行う偽善者について記します。わたしたち自身が現在の状況のなかで、人々の賞賛を得るために善行を行うということはあまりないのかも知れません。しかしここでのイエスのポイントは、自分は心の眼をどこに向けているのかの問題です。賞賛を得たいと願う心は、心の眼を自分の心の内に留めておこうとする多分に利己的な思いであります。イエスは、「右の手のすることを左の手に知らせるな」と述べることで、心の思いを自分のもとに留めておくのではなく、助けを必要としている隣人のもとへと心を馳せる必要を説きます。なぜならば、わたしたちが倣って生きようとする主は、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいるからであります。わたしたちの信仰は、自己実現の信仰ではありません。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前でわたしたちが誠実な僕であるのかどうかを振り返るよう呼びかけます。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているのでしょうか。

この困難な状況の中で、感染症の治療のため、孤独の内に闘病生活を送る人、医療関係者であるがために、いわれのない差別を受ける人、また経済の悪化によって職を失った人、住む場所を失った人、人間関係を失った人。多くの人が、孤独と孤立の鎖の中で、助けを必要としています。

教会はこの一年の大きな困難の中でもがき苦しみました。いま四旬節となり、信仰の根本を振り返り、見直し、原点に返る時を迎えました。わたしたちがどう生きるのか、あらためて振り返りましょう。主に立ち帰るとき、そこには必ず希望が生まれます。

四旬節にあたり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。

今年のテーマは、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く……」というマタイ福音の20章18節の言葉が選ばれ、副題に「四旬節――信仰、希望、愛を新たにする時」と記されています。

教皇はメッセージで次のように呼びかけます。

「信仰は、神とすべての兄弟姉妹の前で、真理を受け入れ、そのあかし人となるよう、わたしたちに呼びかけています」

その上で教皇は、「断食する人は、貧しさを受け入れるという経験を通して、貧しい人々とともに自ら貧しくなり、受けた愛、分かち合われた愛という富を「蓄えます」。このように理解され実践されることで、断食は、神と隣人を愛する助けとなります。聖トマス・アクィナスが教えているように、愛とは、他者を自分と一体の存在であるとみなして他者に思いを寄せる行動なのです」と指摘します。

教皇は四旬節の節制のつとめが、愛の奉仕に直接つながっていることを述べ、「四旬節は信じる時、つまり神をわたしたちの人生に迎え入れ、わたしたちと一緒に「住んで」いただく(ヨハネ14・23参照)時です」と記しています。愛の奉仕とは、わたしの善行のことではなく、わたしのもとに神を迎え入れる業であるとの指摘です。

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この説教の後、今年は方法が例年と異なりますが、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きるべきかを、心で感じたいと思います。司祭は灰を頭や額にかける前に、皆さんに向かって、「回心して福音を信じなさい」と唱えます。

この言葉は、四旬節の持っている意味、つまりあらためて自分たちの信仰の原点を見つめ直し、神に向かってまっすぐに進めるように軌道修正をするということを明示する呼びかけです。

この四旬節の間、神のいつくしみに包まれながら、わたしたちの信仰の根本を見つめ直しましょう。

 

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2021年2月 6日 (土)

奉献生活者の日ミサ@麹町教会

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2月2日は主の奉献の祝日でありました。教皇ヨハネパウロ2世は、1997年に、この祝日を奉献生活者のための祈りの日と定められました。日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2011年に教皇大使故ジョゼフ・チェノットゥ大司教の呼びかけを受け、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることをはじめ、今年の奉献生活者のためのミサは、1月30日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

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感染症対策のため、例年のように大勢の修道者が集まることは出来ませんでしたが、聖堂には10数名の代表の修道者が集まり、ミサは麹町教会からオンライン配信されました。

今年はわたしが司式・説教を担当し、山野内司教様も司式に参加してくださいました。なおミサの終わりに、誓願10年の修道者への特別な祝福が行われました。また教皇庁大使館からはトゥミル臨時代理大使も参加してくださいました。

以下、当日の説教の原稿です

奉献生活者のミサ
2021年1月30日
麹町教会

一年前の奉献生活者のミサのことを思い起こしていました。この聖堂で行われたミサは、聖堂に一杯の男女修道者が集い、聖歌隊が高らかに歌い、男子の修道会の上長たちが大勢一緒に共同司式していました。なによりも、主司式はジョゼフ・チェノットゥ教皇大使でありました。

わたしたちは忍び寄る生命の危機に多少は気がつきながらも、しかし、いつものような日常が続いていくのだろうという根拠のない安心感に身をゆだねておりました。

わたし自身もその直後に、東京教区の司祭たちと一緒にミャンマーに出かけ、教区として援助している神学院などを訪問してきました。それ以降、今日まで、海外はおろか、飛行機にも乗ることのない一年でありました。

皆さんお一人お一人にとって、この一年は、いったいどういう時であったでしょうか。

確かに、欧米の国々に比べれば、感染した方の数や亡くなられた方の数は少ないものの、その理由は判然としません。特に欧米の国々での厳しい現実を目の当たりにするとき、被害が小さいからと言って安心できるものではないことだけは理解できます。また、手を洗ったり、うがいをしたり、マスクをしたり、対面での会話を避けたりと、いくつかの最低限守るべき基本が見えては来ました。しかし、危機が完全に去ったわけではありません。例えば、教会にとっても、当初は多くの司祭や修道者が各地で亡くなられましたが、年が明けたこのひと月の間だけでも、世界各地で10名を超える司教が新型コロナ感染症のために亡くなられました。日本でも、相対的に少ない人数ではあるものの、例えば東京教区内でも、カトリック教会を起源とする集団感染などは発生していませんが、感染した信徒の方がおられるという報告は少なからずあり、亡くなられた方もおられます。

昨年、このミサを共に捧げたときに、わたしは、東北の震災発生から9年となることに関連して説教をいたしました。本来であれば、今年は震災発生から10年となるのですから、この10年の日本の教会の復興支援活動を振り返ってお話ししたいところですが、現在の状況ではそうも行きません。

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昨年わたしは、教皇フランシスコの、被災者との集いでのこのことばを引用しました。
「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません」

すなわち、人間がいのちをつないでいくためには、もちろん「衣食住」が充分に保障されていることが不可欠であることを、教皇様は大前提とした上で、しかし人間は、物質的充足それだけでは生きていけないことを指摘されました。そこでわたしは昨年、次のように申し上げました。

「人間が人間らしく生きていくためには、いのちを生きるための希望が不可欠です。そしていのちを生きるための希望は、誰かが外から持ってきて与えることができるものではなく、希望を必要としている人自身の心の奥底から生み出されるものです」

この昨年の自分の言葉が、重くのしかかってきます。

この一年ほど、そして今ほど、いのちを生きるための希望が必要なときはありません。いのちの危機という漠然とした不安だけではなく、具体的な問題として、職を失ったり、人間関係を失ったり、差別や排除の犠牲となったり、孤立を深め助けを得られずにいたり、さまざまな側面からいのちの危機に直面し、いのちを生きるための希望を奪い去られた人たちがこれほど多くおられる今、希望はどこにあるのでしょうか。

教皇様は回勅「フラテリ・トゥッティ」において、こう指摘されています。
「確かに、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックのような世界規模の悲劇は、わたしたちがグローバルな共同体であって、同じ船に乗船していて、そこでは一人の問題は皆の問題であると言う感覚を、つかの間ですが復活させた。今一度わたしたちは、一人で救われる人は誰もいないこと、わたしたちは一緒にしか救われないことに、気がつかさせられた。(32)」

しかしこの兄弟愛的な感覚は、利己主義に魅入られた世界では、長続きすることはありません。異質な存在を排除し、自分たちだけの安全を確保しようとする欲求は、ワクチン接種が始まろうとしている今、国家のエゴとして顕在化しようとしています。すでに教皇様は、国家間の貧富の格差がいのちの格差になることのないようにと、繰り返し呼びかけておられます。

そして教皇様は、「フラテリ・トゥッテイ」で、「華麗で壮大な夢を口にした」現代人は、結局のところ、孤独へと誘われ、仮想現実の中で真の「友愛」を忘れたのだと指摘して、次のように述べています。

「このパンデミックによってもたらされた、痛み、不安、恐れ、自分の限界の認識は、これまでの生活様式や人間関係、社会の仕組み、そして何よりもわたしたち自身の生存の意味を緊急に考え直す必要を明確にした。(33)」

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教会はこの10年間、東北の被災地で、いのちを生きる希望を生み出す活動を行ってきました。日本の教会の歴史に残る挑戦であったと思います。以前は考えられなかった修道会の枠を越えた活動も、各地で行われました。教区との契約の枠を越えて、会員を派遣し続けたことで、仙台教区の教会共同体と歩みをともにすること、いのちの希望を生み出すことを優先することの大切さを、具体的に示してきました。常識や慣習を打ち破る決断が、それこそいくつもあったと思います。この10年で、日本の教会は、大きく変わる機会をいただきました。

建物を建てたとか、物資を配布したとか、そういう「衣食住」に関わることも大切ですけれど、やはり、人と人との関わりの中で、そしてともに人生の道を歩むことによって、そして現場で共に生きることによって、わたしたちはいのちを生きる希望を生み出すための種まきをしてきたのだと思っています。

その種を蒔いたところに、新型コロナ感染症がやってきました。すべてのいのちを守ることを最優先とし、無自覚のうちに隣人のいのちを危機にさらすような無責任な行動をすることのないように、さまざまな制約を教会にあっても取り入れました。感染対策を徹底すればするほど、集まったり、共に歌ったり、兄弟姉妹との親交を深めることが難しくなりました。感染拡大期には、わたしたちの信仰にとって最も大切な聖体祭儀に与ることが難しくなりました。教会は、今まで当然として行ってきた活動を、一旦停止せざるを得なくなりました。多くの方が協力してくださっています。なかには、苦しい決断をもってご自分の思いを犠牲にしてまで協力してくださっている方も多くおられます。さまざまな制約が課せられている今、それぞれが信仰における優先事項をどこに定めているのかが明らかになってきています。

困難な状況による制約は、わたしたちに新たな道を模索する機会を提供しています。教会にとってのこのピンチを、前向きにとらえたいと思います。既成概念の枷から強制的に解き放たれたわたしたちは、いま、教会がどのようにあるべきか、何を優先するべきか、徹底的に見直す最高の機会を与えられています。見直しましょう。日本の教会が、主イエスの呼びかけに本当に徹底的に従って生きる共同体であるために、わたしたち自身を見つめ直すときは、いまです。

 

 

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2021年1月 1日 (金)

神の母聖マリア@東京カテドラル

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謹賀新年

いつもとは様相が異なる年末年始となりました。新しい年の初めにあたり、皆様の上にいのちの与え主である御父の豊かな祝福があるように、お祈りいたします。

昨年末の12月18日には東京教区の名誉大司教である岡田武夫大司教様が帰天され、さらに12月28日には大分教区の浜口末男司教様が帰天されました。司教様方の永遠の安息のためにお祈りください。

また感染症対策のため大晦日の公共交通機関終夜運転が取りやめになったこともあり、恒例の1月1日深夜ミサは、多くの教会で中止となりました。関口のカテドラルでも、例年は1月1日深夜零時から大司教司式のミサを捧げ、一年の始まりに祈りをささげましたが、今年は1日の午前10時からのみのミサとなりました。これから始まる一年が、どのように展開していくのか予想もつきませんが、少しでも明るい方向へ導かれるように、心から祈っています。2021年のうえに、いつくしみ深い神の祝福と、導きと、守りがありますように。

以下、本日午前10時からの、神の母聖マリアの祝日ミサの説教原稿です。

神の母聖マリア(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年1月1日午前10時

お集まりの皆さん、新年、明けましておめでとうございます。

主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念するわたしたちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

闇にさまよう人間を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画は、聖母マリアの「お言葉通りにこの身になりますように」という、神の前でのへりくだりの言葉がなければ実現しませんでした。そしてその言葉こそは、人生をかけた決断であり、神の意志への完全な信頼の表明でもありました。

神に完全に従うことを決意した聖母マリアの人生は、救い主であるイエスとともに歩んだ人生です。その人生は、シメオンによって預言されたように、「剣で心を刺し貫かれ」た苦しみ、すなわちイエスの十字架での受難に至る、イエスとともに苦しみを耐え忍ぶ人生でもありました。しかしながら、聖母の人生とは、苦しみにだけ彩られた悲しい人生ではありません。

聖母マリアは、天使ガブリエルが、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と告げた言葉を信じることで、その子イエスが人々の希望の光となることを確信していました。ですから、天使のお告げの通りの出来事を目の当たりにして興奮する羊飼いたちの道を急ぐ姿と対照的に、聖母マリアはこれからの救いの出来事の実現という時の流れの先を見据えながら、「すべてを心に納めて、思い巡らしていた」と福音に記されているのです。聖母は「時のしるし」を識別し読み解こうと務める教会の、あるべき姿の模範であります。

2020年という年は、世界中で、希望を見失い、暗闇に彷徨う年でありました。世界で多くのいのちが感染症のために失われ、また感染症対策のために経済状況が悪化したり雇用環境が悪化したりする中で職を失う人も増え、孤立と孤独は深まり、その中でいのちの危機へと追い詰められる人も増えている事例の報道を多々耳にいたします。また多くの国では、その国の経済を支えるために招かれた他国からの方々が、雇用状況の悪化の中で職を失い、加えて感染症対策のため母国に帰ることもできずに、生活の危機に直面している事例も耳にします。教会の中にも、そのようにして危機に直面している方々と、それに手を差し伸べる活動に取り組まれている方もおられます。

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次のような言葉で始めています。
「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

つまり、神の定めた秩序が実現している世界こそが、平和の実現した世界であると説いています。私たちキリスト者は、福音に忠実に生きようとする限りにおいて、「平和」の実現から目を背けて生きていくことは出来ません。なぜなら「平和」の実現とは、単に戦争がないとか武力紛争がないとか治安が良いとかの問題に留まるのではなく、まさしく神の定めた秩序が実現しているのかどうか、つまり神の望まれる世界が実現しているのかどうかの問題だからです。

そして、少なくとも今の私たちが生きる世界をみて、神は満足されていないのであれば、そこには「平和」はありません。神が賜物としてわたしたちに与えられたいのち、神が自ら人として受肉することによって高らかに宣言された人間の尊厳。そのいのちが、人間の尊厳が、ないがしろにされている社会に、神の望まれる秩序は成立せず、従って「平和」もあり得ません。

「お言葉通りにこの身になりますように」と言う聖母の言葉は、まさしく神が定められた秩序が、自らの人生をとおして実現してほしいという願いの表明であり、すなわち聖母の人生は、神の秩序の確立のための人生であり、平和を生み出そうとする人生でありました。聖母は、平和の実現のために働く教会の、あるべき姿の模範であります。

自らの胎に神を人間として生命を宿らせた聖母マリアを、神は教会の母として与えられます。それによって、神はわたしたちに、生命の尊厳を守りぬく責務の重要性を自覚させようとします。聖母は、いのちを守ろうとする教会の、あるべき姿の模範であります。

教会は年の初めのこの日を、「世界平和の日」と定め、この世界に神が望まれる秩序が確立され、平和が実現するようにと祈り求めます。

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54回目となる今年、教皇フランシスコはそのテーマを、「平和への道のりとしてのケアの文化」と定められました。
メッセージの中で教皇は、昨年一年の新型コロナ感染症によるいのちの危機への取り組みを振り返り、すべての人の尊厳と善を守り育てる、互いに思いやりいたわる文化、つまりケアの文化を確立することこそが、平和構築にとって最優先の課題であると指摘しています。

教皇様は、このパンデミックによって、家族や愛する人を亡くした人、さらには仕事を失った人たち、医師、看護師、薬剤師、研究者、ボランティア、チャプレン、病院や保健機関の職員など、いのちを守るために最前線で働き、時には命さえ犠牲にしている人たちへ、特別な感謝の思いを表明されています。そういった思いやりと助け合いの現実が見られるにもかかわらず、「さまざまなかたちのナショナリズム、人種差別、外国人嫌悪、さらには死と破壊をもたらす戦争や紛争が、新たに勢いを増していること」は悲しいことだったと振り返ります。

教皇様は、霊的・物的ないつくしみの業による助け合いと支え合いは、初代教会からの愛の奉仕の伝統であり、現代社会にあって教会は「ケアの文化」を確立するために、「人間の尊厳と権利の促進」「共通善」「連帯」「被造物の保護」を推進するようにと求めておられます。

その上で、教皇様は次のように記しておられます。

「連帯とは、統計上の数字や、酷使され、役立たなくなれば捨てられる道具としてではなく、わたしたち同様、神から等しくいのちの祝宴に招かれている隣人、旅の同伴者として、他の人々を見る助けとなるものです」

新しい年の初めにあたり、わたしたちはまだ困難な闇の中に取り残されています。徐々に光が見えてきているものの、闇は深く、この一年わたしたちが歩む道には、さまざまな困難が予想されます。困難のなかにあってもなお見いだされる、愛といつくしみの連帯に希望を見いだしましょう。対立や排除のなかにあっても見いだされる、いたわりの心に希望を見いだしましょう。そして見いだした希望を、聖母マリアの模範に倣って心の中で育み、自らの人生での言葉と行いで、あかしし続けてまいりましょう。

闇に彷徨う民であるわたしたちに、民数記は神からの祝福の言葉を記し、心に勇気と希望を与えてくださいます。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」

 

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