カテゴリー「配信ミサ説教」の91件の記事

2023年3月22日 (水)

司祭叙階式@東京カテドラル

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3月は卒業シーズンですから、各地の教育機関では卒業式が行われています。司祭を養成する学校である神学校も、この時期、神学生が巣立っていきます。厳密な意味では違うのですが(司祭の養成そのものは生涯養成で卒業がないので)、その卒業式にあたるのは司祭叙階式ですが、昨日3月21日には、全国各地で叙階式が行われました。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂では、久しぶりに多くの方に参加していただき、また内陣に司祭団もあげて、司祭叙階式を執り行い、六名の新しい司祭が誕生しました。

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この六名の新しい司祭とは、東京教区のフランシスコ・アシジ 熊坂 直樹(くまさか なおき)師、フランシスコ・アシジ 冨田 聡(とみた さとし)師、コンベンツアル聖フランシスコ修道会の大天使ミカエル 外山 祈(とやま あきら)師、テモテ・マリア 中野里 晃祐(なかのり こうすけ)師、聖パウロ修道会のレオ 大西 德明(おおにし とくあき)師、そしてレデンプトール会のフランシスコ・アシジ 下瀬 智久(しもせ としひさ)師の六名です。みなさんおめでとうございます。

神様からの呼びかけに応え、御父から司祭職を授けられました。この道を生涯歩み続けることができるように、共に祈りを続けたいと思います。

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なおこの日のミサには、先日叙階されたイエズス会の森・渡辺の二人の助祭も参加してくださいました。

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それぞれの修道会での喜びであり、個別にお祝いも考えられたかと思いますが、こうして教区の中心にあるカテドラルで一緒に叙階されることで、司祭誕生の喜びを修道会に留めることなく、教区全体の喜びをして祈りの時を共有できたかと思います。ご一緒にと言う教区からのお誘いに快く応じてくださった修道会の皆様に感謝します。昨日誕生したこの六名の司祭をはじめ、この時期に各地で誕生している新しい司祭たちの、これからの協会での活躍に期待しながら、司祭の召命のために祈り続けます。

なお、熊坂新司祭は北町教会・豊島教会の助任司祭として、また冨田新司祭は松戸・市川教会の助任司祭として、それぞれ、復活祭後から派遣いたします。


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以下、叙階式ミサの最中、呼び出しと養成担当者からの適格性の確認の対話後におこなった、説教の原稿です。

東京教区、レデンプトール会、パウロ会、コンベンツアル会
司祭叙階式ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年3月21日

この三年間、感染症による危機的な状況の中で、わたしたちは、世界中のすべての人たちと一緒になって、どこに光があるのか分からないまま、暗闇の中を彷徨い続けてきました。

いのちは神の似姿として創造された尊厳ある存在であり、すべてのいのちは例外なく神からの賜物として与えられたと信じるわたしたちには、この現実の中でとりわけいのちの意味について深く考え、責任を持っていのちの尊厳を語り、そのために行動する務めがあります。

東日本を襲った巨大地震と津波の発生から、数日前に12年となりましたが、あのときわたしたちは、自然の驚異的な力の前に、人間の知恵や知識のはかなさを痛感し、いのちの創造主の前で謙遜に生きなければならないことを、実感させられました。12年におよぶ復興の時にあっては、互いに支え合い、連帯のうちに歩むことこそが、いのちを生きる希望を生み出すことを学んだはずでした。しかし残念ながら、わたしたちは時の流れとともに教訓を忘れ去ってしまいます。忘れ去ったところに襲いかかったのが、この感染症でありました。

わたしたちはこの一連の時の流れの中で、わたしたちを巻き込む様々な出来事のただ中に身を置きながら、どこに向かって歩むようにと導かれているのかを考えてみる必要があります。

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感染症によってもたらされた危機は、わたしたちを疑心暗鬼の闇に引きずり込みました。先行きが分からない中で、人は自分の身を守ることに躍起になり、心は利己的になりました。利己的になった心は余裕を失い、社会全体は寛容さを失いました。寛容さを失った社会は、暴力的、攻撃的になり、異質な存在を排除して心の安定を求めるようになりました。深まる排他的感情の行き着く先は、いのちへの暴力であり、さらには戦争の勃発です。

この感染症の危機の中で、皆で光を求め、ともに歩まなくてはならないときであるにもかかわらず、ミャンマーではクーデターが起き、一年前にはウクライナで戦争まで始まり、いまだ終結の気配さえ見せていません。

ちょうどこの困難な時期に教皇様は、シノドスの道をともに歩むようにと呼びかけておられます。そのテーマは、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。わたしたちは今その道程を、全世界の教会とともに歩んでいます。各国が報告書を作成し、提出したらそれで終わりではないのです。わたしたちには、教会のあり方そのものを見つめ直し、新たに生まれ変わることが求められています。道程は、まだまだ続いていきます。

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わたしたちはひとりで生きていくことは出来ません。孤独のうちに孤立していのちをつなぐことはできません。神からの賜物である私たちのいのちは、互いに助けるものとなるために与えられています。互いに支え合って、ともに道を歩むことで、わたしたちはいのちを生きる希望を見いだします。

人間関係が希薄になり、正義の名の下に暴力が横行し、排除や排斥の力が強まる陰で孤独や孤立によるいのちへの絶望が深まる今だからこそ、いのちの尊厳を守り抜き、そのために互いに連帯し、支え合いながら、道を歩むことが不可欠です。いのちの与え主である神に向かってまっすぐと歩みを進めるために、聖霊の導きをともに見出さなくてはなりません。そのためにも、互いのうちに働かれる聖霊の声に耳を傾け、共に祈る中で、神の導きを見出していかなくてはなりません。教会共同体がともに歩むことは、いのちを生きる希望を生み出す源です。

交わりによって深められたわたしたちの信仰は、わたしたち一人ひとりを共同体のうちにあってふさわしい役割を果たすようにと招きます。交わりは参加を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを十全に果たしていくとき、神の民は福音をあかしする宣教する共同体となっていきます。果たして今、わたしたちの教会共同体は、何をあかししているでしょうか。

さて皆さん、この兄弟たちは間もなく司祭団に加えられます。・・・
(以下、叙階式定式文に続く)

ビデオでは、2:48:00から、叙階をうけた新司祭のインタビューをご覧いただけます。当日のライブ配信そのままの録画ですので、いろいろと周囲ががたがたしていますが、ご覧いただければと思います。またインタビュー前には、記念撮影の状況もご覧いただけます。

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2023年3月16日 (木)

四旬節第三主日ミサ@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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四旬節第三主日は、関口教会の四旬節黙想会でした。

10時のミサを司式させていただいたあと、引き続いてケルンホールを会場に、一時間、黙想会の講話をいたしました。多くの方に参加いただき感謝します。状況が改善してきているので、こうして大勢の方に集まっていただく行事が回復しているのは喜ばしい限りです。

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なおこの日は、四旬節第二金曜日の、性虐待被害者のための祈りと償いの日の教皇様の意向をもってミサを捧げました。さらに3月11日の翌日でしたので、12年前の災害に思いを馳せ、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、また復興の光が東北の地にともされ続けるようにと祈りました。

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残念ながら黙想会の講話は原稿なしですし、録音もしていませんので、講話の内容を公開できません。以下は当日10時のミサの説教の原稿です。

四旬節第三主日A(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年3月12日

四旬節は、回心の時です。回心の内に、信仰の原点を見つめ直す時です。

回心は、わたしたちが、一体どこを向いて信仰の道を歩んでいるのか、見つめ直す作業です。どこを向いて何を見て歩んでいるのかを、見つめ直す作業です。回心は単に、悪い行いを反省して良い人になろうと努力することに尽きるのではありません。まさしく、回心、回す心という漢字が象徴するように、心を回して真正面から神に向き合うこと、それが回心です。真正面から向き合ったときはじめて、わたしたちは神の存在を、神の愛を、神の憐れみを、神のいつくしみを、受けた恵みを、わたしたち自身が映し出す鏡となることができます。そのためにも、神がいる方向を正しく見極めることは不可欠です。完全ではないわたしたちは、残念ながら、真正面から神に向かっていないことが多いのです。ですから神が与える恵みをしっかりと映し出すものとなっていません。それどころか、時として背を向けてしまって、神を全く映し出すことなく、自分ばかりを見せようとする。 

さらには、わたしたちは独りよがりな存在ですから、自分の思いによって勝手に神のいる方向を定めて、そちらに向かっているからと、あたかも回心したと思い込みがちであります。その方向性の正しさは、一体誰が保証してくれるのでしょうか。

保証するのは、教会共同体です。わたしたちはこの教会共同体にあって、皆で共に祈り、互いの中に働かれる聖霊の声に耳を傾け、神に向かってまっすぐ歩む道を見出します。そして教会共同体にあって互いに支え合い、連帯する中で、その方向に向かって一緒になって歩み始めるのです。四旬節の回心は、個人の回心に留まらず、教会共同体としての回心を求めます。

回心を語るとき、わたしたちは、自分自身と、信仰における決まり事との関係だけを見つめがちであります。しかしわたしたちにはそれに加えて、互いの存在、具体的な兄弟姉妹の存在そのものに目を向ける必要があります。出会いの中に主はおられます。兄弟姉妹の中に、主はおられます。わたしたちは何を見ているでしょう。どこに目を向けているでしょう。

教会は、正しい人だけのものではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。わたしたちは、ご自分が創造されたすべてのいのちを、永遠のいのちにおける救いへと招こうとされている御父のいつくしみが、具体的にその業を全うすることができるようにと、すべての人を招き入れる教会である必要があります。まず招き入れ、その共同体の中で共に祈り、共に耳を傾けあい、聖霊の声に導かれながら、ともに回心の道を歩みます。すべての人が、回心へと招かれています。罪における弱さの内にあるわたしたちは、神に向かってまっすぐに進むことができずにいます。だからこそ、神に背を向けたままでいることのないようにと、教会は常に回心を呼びかけています。

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ヨハネによる福音は、シカルというサマリアの町で、イエスがサマリアの女に喉の渇きをいやすための水を求める話が朗読されました。終始、会話の中で喉の渇きをいやす水について話すサマリアの女に対して、イエスは、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語り続けます。

出エジプト記も、荒れ野の苦しみの中で、イスラエルの民が喉の渇きをいやす水を求め続け、モーセたち指導者に対する不穏な状況が生じてくる様を記しています。

サマリアの女には、現実の世界の喉の渇きに固執するがあまり、目の前に存在する永遠の救いの神が全く見えていません。イスラエルの民も、現実の喉の渇きに固執するがあまり、その先に存在し導かれる神の存在が全く見えていません。

イエスはサマリアの女に対して、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われ、本当に大切なもの、すなわち永遠のいのちへと目を向けるように促します。水の定義について語るのではなく、目の前に存在する永遠のいのちの源である御自分に目を向けるようにと、促します。

わたしたちは、どこへと目を向けているでしょうか。神に向かってまっすぐと歩むために、見つめなくてはならないのは、永遠のいのちの源である主ご自身です。そして主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言葉を残されています。主は、わたしたちの兄弟姉妹として、常にわたしたちと共におられます。

この言葉を心に留めるとき、わたしたちは人生の歩みの中で、数多くの機会に、主御自身と出会ってきましたし、これからも出会い続けるであろう事に気がつきます。わたしたちは、悲しみにある人に慰めを与えるものだったでしょうか。苦しむ人に手を差し伸べるものだったでしょうか。あえぎ歩む人とともに歩むものであったでしょうか。罪を悔いる人をゆるしへと招くものだったでしょうか。自分とは異なる存在を裁くことなく、ともに歩もうとするものだったでしょうか。永遠のいのちの水へと、招くものだったでしょうか。わたしたちの信仰は、出会いにおける信仰です。文字として記された教えに留まるのではなく、具体的な出会いの中で生きられる信仰です。

永遠のいのちに至る水を与えると語る主イエス。その主に従う教会は、「いのちの福音」を語り続けます。人間のいのちは、神から与えられた賜物であるが故に、その始まりから終わりまで例外なく守られ、神の似姿としての尊厳は尊重されなくてはならないと、教会は主張し続けます。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという考えは、いのちの創造主である神の前での思い上がりだと戒め、いのちに対する様々な暴力的攻撃に満ちあふれた現代社会の現実を、「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を告げしらせ、実現しなければならないと強調されました。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています」と記しています。

キリストに従うわたしたちの心には、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声が響き渡ります。わたしたちは、キリストの与えるいのちの水を、この世界の現実の中で分け与えるものでなくてはなりません。いのちの水を奪い去るものではなく、与えるものでなくてはなりません。

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先日3月10日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」でした。率先していのちを守り、人間の尊厳を守るはずの聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が、相次いで報告されています。被害を受けられた方々に長期にわたる深い苦しみを生み出した聖職者や霊的指導者の行為を、心から謝罪いたします。

教会全体として対応を進めていますが、いのちを守り、人間の尊厳を守るための務めに終わりはありません。聖職者をはじめ教会全体の意識改革などすべきことは多々あり、教会の取り組みもまだ十分ではありません。ふさわしい制度とするため、見直しと整備の努力を続けてまいります。

教会がいのちの水を生み出し分け与える存在となるように、教会が悲しみや絶望を生み出す源ではなく、いのちを生きる希望を生み出すものであるように、すべてを受け入れともに回心への道を歩むものであるように、主の声に耳を傾け、目の前におられる主に目を向け、これからもともに務めて参りましょう。

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2023年2月11日 (土)

世界病者の日ミサ@東京カテドラル

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2月11日はルルドの聖母の記念日であり、世界病者の日と定められています。

毎年この日の午後には、教区の福祉委員会の主催でミサが捧げられてきましたが、現在は福祉委員会は他の社会活動系の委員会とともに、カリタス東京にまとめられましたので、今年はカリタス東京の主催で、午後から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサが捧げられました。

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このミサには、教区内で活動している団体など50近い団体、組織、活動グループが参加しました。今後、時間がかかるとは思いますが、教区内の社会系の活動のネットワークを、カリタス東京を核として発展させることができればと思います。それについては、下記のビデオの最後、わたしのあいさつのことろで詳しく語っています。(ビデオの59分あたりからです)

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本日の世界病者の日にあたっての、教皇様のメッセージは、こちらの中央協議会のHPからご覧ください

またカリタス東京のホームページはこちらのリンクです。

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以下、本日のカテドラルでのミサの説教の原稿です。

世界病者の日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年2月11日

いまや心と身体に癒やしをもたらす聖地として有名となったフランスのルルドにおいて、聖母マリアが少女ベルナデッタに出現されたのが、1858年2月11日のことでした。聖母に促されてベルナデッタは洞窟の地面を掘り、湧き出た泉の水によってもたらされた病気の奇跡的治癒は、その後いまに至るまで七十以上が、公式な委員会によって奇跡と認定されています。それ以外にも個人的に何らかの形で癒やしを得た人は、数え切れないほど存在しています。

ちょうど30年前、1993年に、教皇聖ヨハネパウロ二世は、聖母マリアを通じたこれらの奇跡的な治癒を思い起こさせるルルドの聖母の記念日を、世界病者の日と定められました。この日の制定にあたって教皇聖ヨハネパウロ二世は、二つの点を心に留めるように呼びかけています。

第一に、善きサマリア人の業を現代社会において具体的に生きることは、福音宣教の重要な部分であると神の民全体が理解し、社会全体が病者と苦しむ人へ心を向けるよう努めること。

第二には、理不尽とも思えるこの世における人間の苦しみを、キリストの苦しみと一致させることで、わたしたちがキリストの贖いの業における栄光に与ることができるのだと心に留め、キリスト者としての霊的な成長を目指すこと。この二点です。

教皇聖ヨハネパウロ二世は1984年2月11日に教皇書簡「サルヴィフィチ・ドローリス」を発表され、人間の苦しみのキリスト教的意味を考察されました。この考察を通じて教皇は、人類の救いのための力は苦しみから生み出されることを、キリストの生涯が、あかししていると指摘します。イエスの十字架での受難と死こそが復活の栄光を生み出す力でありました。同様に、この世界における人類の苦しみは、いのちを生きる希望を生み出す源であります。

わたしたちは闇の中に取り残された不安の中で、この三年間を過ごしてきました。世界的な規模での「いのちの危機」に直面して来たことは確実です。

あらためて、亡くなられた方々の永遠の安息を祈るとともに、現時点で病床にある方々の一日も早い回復を祈ります。またいのちを守るために、日夜懸命に努力を続けている医療スタッフ、介護職にある方々、また未知の感染症の解明のために日夜研究を続けている専門家の方々。その懸命な働きに、心から感謝すると共に、皆さんの心と体の健康が守られるようにお祈りいたします。

このいのちの危機という大きな苦しみは、あらためて互いに助け合うことの重要性をわたしたちに思い起こさせました。助けを必要とする人への思いやりの大切さを感じさせました。人間は一人では生きてはいけない、誰かの助けによって生かされていることを肌で感じさせました。

それにもかかわらず、世界の現実はどうでしょうか。思いやりのある助け合いの世界は実現しているでしょうか。現実は全く反対です。

教皇フランシスコは、感染症が広がった当初から、助け合うことの大切さを述べてきました。

2020年9月2日の一般謁見では、「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」と呼びかけ、その上で、 「調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です」と、世界的な連帯が不可欠であることを強調されました。

しかしながら、この三年間、わたしたちの眼前には、調和も多様性も連帯も実現していません。目の前に展開しているのは、分裂であり、排除であり、暴虐です。

例えばミャンマーではクーデターが起こり、ウクライナではロシアの侵攻によって戦争が始まり、日本でも元首相の暗殺などという、暴力によって他者のいのちを奪い取るような、いのちに対する暴虐は続いています。

暴力による支配が続く中で、先行きの見えない不安は暗闇をさらに深く増し、わたしたちは疑心暗鬼に捕らわれます。一体これからどうなるのだろうという、先行きの不透明性は、心の不安を増し、いのちの危機の状況が続く中で疑心暗鬼はさらに深まり、他者への思いやりの心は薄れ、利己的な保身に走ってしまいます。社会は寛容さを失ってしまったかのようです。

そのような状況が続いていると、心の一部を占めてしまった不安が、暴力を止めるためには暴力を持って対抗することを認める思いを強くします。いのちを守るためには、多少の犠牲はやむを得ないという気持ちになってきます。しかし暴力の結末は死であります。

キリストの苦しみに与ることが、いのちを生きる希望を生み出す源となるのだと信じるわたしたちは、内向きになり自分を守る利己的な生き方ではなく、積極的に出向いていき、互いに支え合う思いやりに満ちあふれた社会を、いまだからこそ実現するように努めなくてはなりません。

教皇フランシスコは、今年の世界病者の日のメッセージのテーマを、善きサマリア人のたとえ話から、「この人を介抱してください」とされ、副題として、「シノドスの精神にかなう、いやしの実践としてのあわれみの心」を掲げておられます。シノドスの精神こそが、互いに連帯の内に助け合いながら道を歩むことですから、まさしく。この苦難に満ちあふれた現実の中で、いのちの希望を生み出す道であります。

メッセージで教皇様は、ともに歩むことの大切さを強調した上で、「本当に一緒に歩んでいるのか、それとも同じ道にはいても、それぞれ、自己の利益を優先し、ほかの人には『自分でどうにか切り抜けて』もらって、わが道を行っていないか」自分に問いかけることが大切だと指摘されます。

その上で教皇様は、様々なレベルでのケアの実践の必要性を説いて、こう述べています。
「わたしたちが今まさに経験している歴史的状況において、教会の使命は、まさしく、ケアの実践に表れます。わたしたちは皆、もろくて弱い存在です。立ち止まり、近づき、介抱し、起き上がらせる力のある、あわれみの心で注意を向けてもらうことを、皆が必要としています。ですから病者の置かれている状況は、無関心を打ち破る呼びかけであり、姉妹や兄弟などいないかのように突っ走る人々に、ペースを落とすよう訴えるのです」

世界病者の日は、私たちを包み込む神の癒やしの手に、いつくしみの神の手に、ともに包み込まれることを実感し、それを今度は自らが実践しようと心に誓う日です。主の癒やしといつくしみの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくともに歩む民でありましょう。キリストの苦しみに心をあわせ、十字架のもとに佇まれ苦しみを共にされた聖母と心をあわせて、この世界の苦しみのなかに、いのちを生きていく希望を見いだす日でもあります。共同体における連帯の絆を回復させる日でもあります。

神のいやしの奇跡の泉へとベルナデッタを導かれたルルドの聖母マリアが、同じようにわたしたちを、いのちを生きる希望の源であり、神のいつくしみそのものである御子イエスへと導いてくださいますように、聖母の取り次ぎを祈りましょう。

 

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2023年1月22日 (日)

年間第三主日@関口教会

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ケルンデーにあたる本日、関口教会の10時のミサに、ドイツ語共同体の担当司祭であるミルコ神父様や、ミャンマー共同体の方を迎えて、ケルンデーのミサを捧げました。

もちろん今日はそのほかにも、神のことばの主日であり、さらにはキリスト教一致祈祷週間中の主日でもあります。ミサの最後には、御公現の頃に子どもたちが博士の扮装をし各家庭を訪問してイエスの祝福を祈る、その祝福の源である三博士の聖遺物をもっての祝福が、ミルコ神父様の素晴らしい歌と共にいただきました。

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以下、本日の関口教会でのミサの説教原稿です(上の写真はケルンの大聖堂・2018年12月。説教原稿の中、下の写真は、ケルン大聖堂の三博士の聖遺物を治めた箱です)。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年1月22日

今年の年間第三主日である1月22日は、教皇フランシスコによって定められた「神のことばの主日」です。教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。

第二バチカン公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。

先日帰天された教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」の冒頭に、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです」と記し、それはまずもって典礼における神の言葉との出会いを通じて始まることを強調されました。なぜなら神の言葉は単に情報を伝える記号ではなく、人格を持った神が何かを成し遂げるために実在するものだからです。

御聖体の秘跡の内に現存される主との出会いはミサの中心をなす神秘ですが、同時にミサの中で朗読される聖書にも、言葉の内に現存される神との出会い、主イエスとの出会いという神秘のために重要な意味があります。わたしたちは、ミサにおいて、あがないの秘跡である御聖体を大切にするように、朗読される神の言葉も大切にしなければなりません。

そう考えると、ミサの時の聖書朗読の奉仕も、単に役目を果たしているだけでなく、現存される神の言葉を語る者としての役割の重要性が理解されると思います。主の呼びかけに応えて、それぞれの役割を果たしていただければと思います。

教皇フランシスコは「アペルイット・イリス」に、「聖書なしには、イエスの宣教の出来事、そしてこの世界におけるイエスの教会の宣教の出来事は理解できません」と記し、さらに、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘し、わたしたちが聖書を通じて神の言葉に触れることの信仰における重要性を改めて強調されています。わたしたちは聖書を通じて神の言葉に触れ、その神の言葉を通じて現存される主と出会い、その言葉を通じていのちを生かされ、あらためて自らはその言葉を告げるものとなります。

同時に教皇様は、この時期に神の言葉の主日を定めることには,キリスト教一致というエキュメニカルな意味があることも指摘して、「聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示す」と記しています。

神のみ言葉との出会いにあらためて心を向けるこの主日は、1月18日からパウロの回心の記念日である1月25日までと定められているキリスト教一致祈祷週間と重なっています。

今年のキリスト教一致祈祷週間は、そのテーマを「善を行い、正義を追い求めなさい」というイザヤ書のことばかが採用され、一人ひとりのいのちの尊厳が守られる社会の確立のために、神の正義と平和を確立する道をともに見いだすことを呼びかけています。

第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、「主キリストが設立した教会は単一・唯一のものである」と宣言します。しかし現状はそうではないことを指摘しながら、同教令は、「このような分裂は真に明らかにキリストの意思に反し、また世にとってはつまずきであり、すべての造られたものに福音を宣べ伝えるというもっとも聖なる大義にとっては妨げとなっている(1)」と厳しく指摘しています。その上で、真摯な対話を通じて互いの心の回心にいたり、祈りの内に一致し、信仰の宣言の上でも社会での愛の証しにおいても協力する道を模索するように呼びかけています。

マタイによる福音は、イエスの公生活の始まりを描写しています。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」と伝えるイエスの活動は、それを支え、ともに歩む弟子たちを召し出すことから始まりました。ガリラヤ湖畔でイエスは漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけます。さらにはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられます。二人ずつ四人を召し出すこの物語は、イエスの福音宣教の業が、常に共同体の業として遂行されることを象徴しています。

いまもなおイエスは「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と多くの人に声をかけ続けておられます。ただ、司祭になることだけが、この呼びかけに応える道ではありません。教会には先ほどの御言葉の朗読者や聖歌隊や侍者やカテキスタなど、信徒の方にも果たしていただける福音宣教の業が多くあります。またそれぞれの人生の歩みの中で出会う人たちに、直接ではなくとも、ご自分の言葉と行いを通じて,福音的な生き方を証しする道は多くあります。キリストの福音にしたがって生きようとすることは、ひとり自分自身の聖化のためだけではなく、福音を証しするためであることを心にとめておきたいと思います。わたしたちは、御聖体を通じて現存する主と出会い、また御言葉を通じて語りかける主と出会います。ガリラヤ湖畔においてそうであったように。共におられ語りかけられる主は、私たち共同体に、「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と今日も呼びかけられます。その呼びかけは、私たち一人一人に、行動を求めています。

その具体的な行動の一つとして、東京教区では本日、ケルンデーを祝っています。

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東京教区にとって、ケルン教区との繋がりには歴史的な意味があり、また物質的な援助の関係にとどまらず、互いの霊的な成長のためにも重要な姉妹関係をなっています。その姉妹関係は,互いの教会に、具体的に主の言葉を生きるようにと行動を促しています。

1954年、ケルン大司教区のフリングス枢機卿様は、戦後の霊的な復興を念頭に教区内の信徒に大きな犠牲をささげることを求め、その精神の具体的な行動として東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助を始められました。

自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする福音に基づく行動は、多くの人の心を動かし、東京にあっても白柳枢機卿様の時代、1979年の友好25周年を契機として、ケルンと東京の両教区によるミャンマーの教会支援へと発展していきました。それ以来、わたしたちは毎年の「ケルン・デー」に、いただいたいつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身をささげることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげています。

わたしたちも、余裕があるからではなくて、苦しいからこそ、積極的に他者と連帯し支えるものであり続けたいと思います。またその行動を通じて、私たちと共におられる神の言葉を具体的にあかしするものであり続けたいと思います。

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2023年1月11日 (水)

名誉教皇ベネディクト十六世追悼ミサ

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12月31日に95歳で帰天された名誉教皇ベネディクト十六世の追悼ミサが、司教協議会と教皇庁大使館の共催で、1月10日午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われました。外交関連の日程なども配慮して1月10日となりましたが、連休明けの平日の日中と言うこともあり、また感染症対策も考慮したため、多くの方に自由に参加いただくことはできませんでした。追悼ミサには教皇大使をはじめ、日本の司教団からは10名の司教が参加し、東京教区の二名の助祭が奉仕しました。

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オンラインでの配信も行われましたが、この記事の最後にリンクしますので、またご覧いただき、名誉教皇ベネディクト十六世を偲び、永遠の安息をお祈りいただければ幸いです。

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ミサ後の午後からは、ご自由に献花し祈っていただく場を設け、多くの方にお祈りをいただきました。感謝申しあげます。

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以下、当日ミサを司教協議会会長として司式させていただきましたので、その説教の原稿です。

名誉教皇ベネディクト十六世追悼ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年1月10日

「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」
ヨハネの第一の手紙の一節で始まる回勅「神は愛」は、名誉教皇ベネディクト十六世の最初の回勅でありました。

「神は愛:Deus Caritas Est」というタイトルが示すように、神の愛、カリタスは、教皇ベネディクト十六世のペトロの後継者としての役割の中で、大きな位置を占めていたとあらためて思い起こしています。

教皇就任以前に、長らく教理省長官として活躍されたため、その印象が強く残り、頑固で厳しい保守的な人物だとか頭脳明晰な神学者というイメージが先行しましたが、実際には、慈愛に満ちたベネディクト十六世は「愛(カリタス)」を語る教皇でありました。

ベネディクト16世は、教会における愛(カリタス)の業を重要視され、それが単に人間の優しさに基づくのではなく、信仰者にとって不可欠な行動であり、教会を形作る重要な要素の一つであることを明確にされました。

回勅「神は愛」には明確にこう記されています。
「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げしらせること、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです(25)」

当時、国際カリタスの理事会に関わっていたわたしにとっては、ベネディクト16世が、この分野に大きな関心を寄せられ発言されたことから、力強い励ましをいただきました。わたしはベネディクト16世は後代の歴史家から、「愛(カリタス)の教皇」と呼ばれるのではないかと期待しています。

2011年3月11日の東日本大震災の折りには被災された方々へ心を寄せ、その年の5月初めに被災地にサラ枢機卿をご自分の特使として派遣され、また被災者のために寄付をされたことも鮮明に記憶に残っています。またその年、4月に、メディアの企画で、世界の子どもたちの質問に答えたことがありましたが、教皇ベネディクト16世は、日本の少女からの質問も受けられました。

「なんで子どもも、こんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」と問いかける少女に対して、教皇は、「他の人たちが快適に暮らしている一方で、なぜ皆さんがこんなにたくさん苦しまなくてはならないのか? 私たちはこれに対する答えを持ちません」と、正直に応えられました。

その上で、「でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。・・・神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。・・・今、大切なことは、『神様はわたしを愛しておられる』と知ることです」と、苦しみのなかにあっても神の愛に身を委ねることが希望を生み出すのだと強調されました。

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新しい福音宣教を掲げ、2010年に新福音化推進評議会を設置されたベネディクト十六世は、世俗化が激しく進み、多くの人の宗教離れが進むヨーロッパでの再宣教だけではなく、教会の本質的な三つの務めである、福音宣教、典礼、愛の奉仕をそれぞれに重要視し、整えていくことを念頭に置かれながらペトロの後継者として教会を導かれたのだと思います。

回勅「神は愛」の冒頭にこう記されています。
「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです」

深い思索の内に生きる神学者である教皇ベネディクト十六世は、信仰が具体的に生きられることの重要性を強調された方でありました。

2007年に司教として初めてアドリミナでローマに出かけたとき、教皇ベネディクト十六世から、個人謁見の場で、「あなたの教区の希望は何ですか」と尋ねられ、答えに窮したことがあります。しかし教皇は、福音宣教とは他者との出会いと交わりの中で希望を見出すことだと強調された方でありました。

回勅「希望による救い(Spe Salvi)」の2項の最後には、次のように記されております。
「キリスト教は単なる『よい知らせ』ではありません。すなわち、単にこれまで知られていなかった内容を伝えることではありません。現代の用語でいえば、キリスト教のメッセージは『情報伝達的』なだけでなく、『行為遂行的』なものでした。すなわち、福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。すなわち未来の扉が開かれます。希望を持つ人は、生き方が変わります。新しいいのちのたまものを与えられるからです」

さらに同じ回勅に、「人間は単なる経済条件の生産物ではありません。有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできないのです(21)」との指摘があります。

その上で、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と記されています。

先ほども触れましたが2007年12月、アドリミナ訪問でローマを訪れていた日本の司教団に教皇ベネディクト十六世はこう話しておられました。

「世界は、福音がもたらす希望の知らせを渇望しています。皆様の国のようなきわめて発展した国々においても、経済的な成功や技術の進歩だけでは人間の心を満たすことができないことに多くの人が気づいています。神を知らない人には「究極的な意味で希望がありません。すなわち、人生全体を支える偉大な希望がありません」(教皇ベネディクト十六世回勅『キリスト教的希望について(Spe salvi)』27)。人生には職業上の成功や利益を超えたものがあることを、人々に思い起こさせてください。家庭や社会の中で愛のわざを行うことを通じて、人々は「キリストの内に神との出会い」へと導かれます」

教会の三つの本質的な務めを明確に意識しながら、多くの人に愛と希望を生み出そうとされた教皇ベネディクト十六世のことばは、文書として、著作として多く残され、いまもその著作を愛読される方は少なくありません。残されたことばにあらためて耳を傾けながら、その永遠の安息を祈り、わたしたち自身も福音に耳を傾け、福音を生き、福音を告げるものでありましょう。

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2023年1月 1日 (日)

2023年神の母聖マリア@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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2023年元旦の最初のミサは、神の母聖マリアの主日となり、同時に世界平和の日でもありますが、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会の主日10時のミサとしてささげさせていただきました。

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ミサ中には、新しい一年に神様の豊かな祝福と守りがあるように祈りましたし、また全日に帰天された名誉教皇ベネディクト十六世の永遠の安息のためにも祈りをささげました。

世界平和の日にあたり、教皇様はメッセージを発表されています。今年のメッセージのタイトルは、「だれも一人で救われることはない。COVID-19からの再起をもって、皆で平和への道を歩む」とされており、教皇様はコロナ後の世界を見据え、あらためて連帯のうちに支え合ってともに歩むことの大切さを強調されています。日本語翻訳は中央協議会のこちらのリンク先にあります。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

神の母聖マリア(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年1月1日

新年明けましておめでとうございます。

新しい年、2023年が始まりました。2020年の春に始まった現在の困難な状況は、すでに3年になろうとしています。様々な情報が錯綜する中で、この3年間、わたしたちははっきりとした道筋を見出すことができずに不安のうちに取り残され、まるで暗闇の中を手探りで歩いているかのような状況であります。

3年近い時間の経過が、専門家の知見を深め、またわたしたちにもどのように対処するべきかを学ばせてくれましたから、徐々にではありますが、先行きに光が見えるようになってきました。しかしまだ、自信を持って、以前のような普通の生活に戻ったとは言い難い状況が続いています。

この困難と不安な状況に加えて、暴力によるいのちへの攻撃も続き、さらに闇を深めています。東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデターとその後の混乱は続いており、平和と自由を求める人々、特にその先頭に立つ宗教者への暴力的攻撃も頻発し続けています。

またロシアによるウクライナ侵攻とその後の戦争状態は続いており、世界中からの平和への呼びかけにもかかわらず、終わりが見えない泥沼の戦いが続いています。さらには日本を含め世界各地で、自らの感情にとらわれ、いのちに対する暴力的な蛮行に走る事例も頻発しています。

神が賜物として与えてくださったいのちに対する暴力が止むことはなく、闇が深く増し加わるほどわたしたちは疑心暗鬼に捕らわれ、疑心暗鬼は不安を呼び覚まし、それがために暴力に対抗するためには暴力が必要だという声が普通に聞かれるようになってしまいました。

あらためて言うまでもなく、暴力の結末は死であり、いのちの創造主である神への挑戦です。あらためて1981年2月の広島における教皇ヨハネパウロ二世のことばに耳を傾けたいと思います。

「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です」

いのちの尊厳を繰り返し説かれた教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても一人ひとりに拘束力を持っています」と記します。わたしたちには、自らに与えられたいのちを大切にし、それを守ることに留まらず、同じ賜物を与えられているすべての人のいのちを「尊び、愛し、守り育てる」務めが与えられています。

一年の初めのこの日は、世界平和の日と定められています。

教皇様は、世界平和の日にあたりメッセージを発表されています。コロナ後の世界の歩むべき道を見据えながら、連帯のうちに支え合って歩み続けることの必要性を説いておられます。わたしたちは、この新しい一年を、あらためて連帯を深め、互いに耳を傾けあい、支えながら、聖霊の導く先を探し求めながら歩むときにしたいと思います。

主の御降誕から一週間、御言葉が人となられたその神秘を黙想し、神ご自身がそのあわれみといつくしみに基づいて自ら人となるという積極的な行動を取られたことに感謝を捧げる私たちは、主の降誕の出来事に思いを馳せながら、人となられた神の御言葉の母である聖母マリアを記念します。

神が自ら人となられた神秘、そして人間として私たちと共に生きられたという神秘、その不思議な業は人間であるマリアによって実現したという事実によって、神ご自身が創造された人間の持つ尊厳をあらためて私たちに示されました。

神ご自身が人間となり、母マリアから生まれたことをあらためて黙想するこの日、ひとりひとりに神から与えられた賜物である「いのち」の尊厳をあらためて黙想し、いただいたその恵みに感謝したいと思います。

ルカ福音は、「聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」と簡潔に述べることで、その夜、驚くべき出来事に遭遇し、そしてその意味を理解できずに翻弄され戸惑う人々の姿を伝えています。暗闇の中に輝く光を目の当たりにし、天使の声に導かれ誕生した幼子とそれを守る聖家族のもとに到達したのですから、その驚きと困惑は想像に難くありません。

しかしルカ福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とも記します。神のお告げを受けた聖母マリアは、その人生において常に、神の導きに思いを巡らせ、識別に努められた、観想を深めるおとめであります。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、聖母マリアを「福音宣教の母」と呼ばれています。神の御旨を受け入れる聖母マリアは、祈りかつ働き、即座に行動し、他者を助けるために出向いていく方であったとする教皇は、同時に、「マリアは、神の霊の足跡を、大きな出来事の中にも些細なことと見える出来事の中にも見いだせる方です。・・・正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と記しておられます。(288)

あふれるかえるほどの情報に振り回されながら現代社会に生きているわたしたちにとって、常に心を落ち着け、周囲に踊らされることなく、神の道を見極めようと祈り黙想する聖母の姿は、倣うべき模範であります。

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新しい年の初めにあたり、ともに祈りをささげたいと思います。

わたしたちがこの数年遭遇している世界的な困難の時を、連帯のうちにともに支え合いながら乗り越えていくことができるように、聖霊の導きを祈りましょう。シノドスの道をともに歩んでいる教会は、互いに耳を傾けあい、支え合い、祈り合いながら、聖霊の導く道を見いだすように招かれています。この状況の中で、聖霊に導かれる教会こそが、社会の中で連帯と交わりの証しになりたいと思います。

政治のリーダーたちを、また経済界のリーダーたちを、聖霊が賢明と叡智と剛毅の賜物をもって導いてくださるように祈りたいと思います。また感染症の状況の中で、この数年間、いのちを守るために日夜努力を続けている医療関係者の上に、護りがあるように祈り続けたいと思います。

神から与えられた賜物であるいのちが、その始めから終わりまで例外なく、守られ育まれ、尊厳が保たれる世界が実現するように祈りましょう。

圧政による人権侵害によっていのちの危機に直面している人たちに、神の正義の支配がおよぶように祈りましょう。自らのいのちを守るために、危険を冒して旅立ち、国境を越えてきた難民の人たちが、安住の地を得ることができるように祈りましょう。力による対立ではなくて、互いの存在に思いを馳せ、謙遜に耳を傾け、愛をもって支え合う社会が実現するように祈り、また努めましょう。

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平和を実現する道を歩まれたイエスの旅路に、聖母マリアが信仰のうちに寄り添ったように、私たちも神が大切にされ愛を注がれる一人一人の方々の旅路に寄り添うことを心がけましょう。聖母マリアのうちに満ちあふれる母の愛が、私たちの心にも満ちあふれるように、神の母であり、教会の母である聖母マリアの取り次ぎを求めましょう。

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2022年12月25日 (日)

2022年主の降誕(日中のミサ)

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皆様、主の御降誕、おめでとうございます。

今年はクリスマスが日曜になりましたので、大勢の方がミサに与られる可能性がありました。しかし同時に、感染症の状況が完全に落ち着いていない中、まだまだ多少の入堂制限をせざるを得ず、特に信徒ではない方には、クリスマスの機会にミサに与るという事ができなかった方も大勢おられたかと思います。来年こそは、安心してともに集うことができる状況になることを、心から祈りたいと思います。

以下、本日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主の降誕日中ミサの説教原稿です。

主の降誕日中のミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年12月25日

皆さん、主の降誕おめでとうございます。

誕生した幼子は、暗闇に響き渡る希望の声、神の言葉そのものでありました。ヨハネ福音は、神の言葉にどれほどの力があるのかを、「万物は言によってなった。言のうちに命があった」と記すことで明確に示しています。その上で、その命こそが暗闇に輝く光であることを明示します。

言葉は単なる音の羅列ではありません。どんなに科学技術が進んだとしても、機械が発する合成された音の羅列の「ありがとう」と、何か実際に手助けを受けて感謝の思いを込めて人間が発する「ありがとう」には、決定的な違いがあります。その違いを感じ取る能力を、わたしたちは持っているはずです。この二つの大きな違いは、音の羅列の背後に、心があるのか、ないのかの違いです。機械が生み出す「ありがとう」と言う音は、あくまでも音の羅列であり、その背後には、感謝の気持ちはありません。機械が感情を持っていないからです。しかし人間が心の底から発する「ありがとう」には、その人間の心から湧き上がる感謝が込められています。わたしたちはその違いを感じ取ることができます。

教皇ベネディクト16世は。使徒的勧告「主のことば」に、こう記しています。

「キリスト教は『神のことばの宗教』ですが、この神のことばは『書かれた、ものをいわないことばではなく、受肉した生きたみことば』です(7)」。

その上で教皇は、「教会とは、神のことばを聞き、のべ伝える共同体なのです。教会は、自分だけで生きることはできません。教会は福音によって生きています。また、教会は、自らが歩んでいく方向を、福音のうちに、つねに、そして新たに見出します(51)」と記しています。

わたしたちは、文字の羅列や音の羅列としての神のことばではなく、いま生きている、いまわたしたちと共にいる、神の思いが込められたことばと出会うことによって生かされます。そのことばを受け継いで、主の思いを込めて、そのことばを伝えていきます。むなしい音の羅列ではなく、神の思いを込めたことばを語るものでありたいと思います。

しかしながら現代社会は、特にインターネットが当たり前の存在となる中で、重さの全く伴わない、軽いことばが飛び交う時代となりました。時に匿名性の背後に隠れて、他者の真摯な思いを揶揄してみたり、批判してみたりする中で、炎上などと言うことが普通に言われるようになりました。

心のこもらない軽いことばは、しかし、時としてその字面だけで思いの外、強烈な負の力を発揮します。ネット上のやりとりから絶望に追いやられ、自ら、または他者のいのちへの暴力と発展することも珍しくなくなりました。

受肉されわたしたちと共に生きておられる神のことばは、神の愛といつくしみを具体化したことばです。自らが創造されたいのちを、区別することなく、無条件に愛しぬかれる神の愛のことばです。賜物であるいのちを生かすことばです。この現代社会にあって、この神のことばを受け、それを証ししようとするわたしたちは、自分が発することばに責任を持ちたいと思います。神の愛といつくしみを体現するものとして語りたいと思います。排除することばでなく受け入れることばを、いのちを生かすことばを、心の傷を癒やすことばを、絶望を希望に変えることばを、語るものでありたいと思います。

この3年間の新型コロナ感染症の状況が始まる以前から、世界はすでに非寛容さを深めていました。自らの存在を守るため、異質なものを排除しようとする傾向が強まっていました。教皇フランシスコが選出された後に、早い段階で訪れたのは、地中海に浮かぶイタリア領の島ランペデゥーザであったのはご記憶かと思います。そこで教皇は、アフリカから逃れたきた難民の方々と出会い、ミサを捧げられました。

あらためてそのときの教皇の説教のことばに耳を傾けたいと思います。

「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

教皇フランシスコは、自分の安心や繁栄ばかりを考える人間は、突けば消えてしまうシャボン玉の中で、むなしい繁栄におぼれているだけであり、その他者に対する無関心が、多くのいのちを奪っていると指摘し続けてきました。

パンデミックの中で、教皇は「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」こそが、この閉塞した状況を打ち破る唯一の道であると強調されてきました。

しかし残念なことに、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は実現していません。「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。わたしたち人間の限界です。調和を求めるがあまりに、みんなが同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。様々な人がいて当然だからと多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

暴力が支配する世界で、いま、わたしたちの眼前で展開しているのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐であります。教会は、いのちに対する暴力を否定します。教会は、いのちを排除するような行動を否定します。

受肉されわたしたちのうちに来られた神は、すべての人を照らす光です。すべての人の希望の光です。その救いの福音は、すべての人に告げしらされなくてはなりません。

神のこのすべてを包み込む愛といつくしみ、そのあわれみ深いまなざしを、一部の選ばれた人だけが独占することはゆるされません。

「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」の道をたどる教会は、すべてのいのちが等しく大切にされ、尊重され、生かされ、生きる希望と喜びを得ることができるように努めなくてはなりません。そのためにこそ、神は自ら人となり、わたしたちの間にあって、いまもその力ある言葉を響き渡らせているのです。わたしたちがその言葉の響きを押しとどめてはなりません。

「山々を行き巡り、良い知らせを伝えるもの」となりましょう。

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2022年12月24日 (土)

2022年主の降誕(夜半のミサ)

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主の御降誕、おめでとうございます。

今年は、雪の中でのクリスマスを迎えておられる地域も多いのではないでしょうか。東京は晴れていますが、風がとても冷たいクリスマスとなりました。

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、主の降誕夜半のミサとして夕方5時、7時、9時の三回のミサが捧げられ、私は夜9時のミサを司式させていただきました。例年ですと、大勢の方で聖堂は一杯になります。今年はなんとか定員近い人が入れるように、感染対策を緩和しましたが、それでもまだまだ以前とは異なります。それでも大勢の方に参加していただいて、感謝いたします。

明日25日は日中のミサ、東京カテドラル聖マリア大聖堂は午前8時と10時で、わたしは10時のミサを司式いたします。今夜のミサと明日のミサとも、関口教会のYoutubeチャンネルでご覧いただくことができます。

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以下、24日午後9時の主の降誕夜半のミサの説教の原稿です。

主の降誕(夜半ミサ)
2022年12月24日午後9時
東京カテドラル聖マリア大聖堂

皆様、主の降誕、おめでとうございます。

栄光の輝きの中で誕生した小さないのちは、暗闇を打ち破り、喜びと希望を生み出す源である、神ご自身でした。栄光に輝く神は、ご自分が賜物として人類にあたえたいのちが、どれほど尊いものであるのかをあかしするために、自らがそのいのちを生きるものとなられました。神が望まれる平和の支配は、いのちを守ることによってのみ成し遂げられることを、神の受肉の神秘は私たちに示しています。私たちの間に来られ、私たちと共にいてくださる神は、「平和の君」であります。

今年の11月の第6回「貧しい人のための世界祈願日」に発表された教皇フランシスコのメッセージには、「愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人やいちばん弱い人にとって打撃となるかが分かります。数えられないほどの人が、とりわけ子どもたちが、根ざしている地から引きはがして別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています」と、今の世界の有り様を悲しむ言葉が記されています。

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この3年間、私たちは感染症と対峙する中で、生命の危機の暗闇を生き抜いてきました。まだ多少の不安は残されているものの、2020年の初め頃に比べれば、どのように行動するべきなのか経験を積み重ね、専門家の知見も深まっています。いわゆるパンデミックによる暗闇は、徐々に明けつつあります。しかしその間に、今度は暴力を直接行使するいのちの危機が始まってしまいました。すでに2021年2月には、ミャンマーでクーデターが起こり、自由を求める多くの人への暴力的圧迫が今でも続いています。世界に様々な暴力的な出来事がある中で、しばしばミャンマーに触れるのは、東京のカトリック教会とミャンマーのカトリック教会が、長年の姉妹関係にあるからに他なりません。わたしたちは、いのちの危機に直面する兄弟姉妹を目前にして、沈黙しているわけにはいきません。

すでにそういう状況であったのに、今度は2022年2月に、ロシアという大国によるウクライナ侵攻が始まり、今でも戦争状態が続いています。平和的解決を求める声が国際社会に響き渡っているものの、今の時点でそれが実現する見込みはなく、それどころか欧州における戦火の拡大すら懸念されています。

先日、ウクライナの平和を願いながら祈りを捧げた教皇様は、祈っても呼びかけても平和が実現せず、多くの人が生命の危機に直面している現実を目の当たりにしながら、涙されました。

2000年前、自ら人となり私たちと共におられることを具体的にあかしされた神ご自身も、まさしく同じ思いであったのだと思います。

旧約の歴史を通じて、預言者や様々な人の言葉と行いを通じて、神はご自分の平和を確立するために働きかけてこられた。にもかかわらず、人類はその呼びかけに耳を傾けず、私利私欲を追求し、暴力に明け暮れ、いのちを奪い合い、対立しあっている。その愚かさに業を煮やされた神は、ご自分が直接行動し、歴史に介入する道をお選びになりました。

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教皇様は,先ほどの「貧しい人のための世界祈願日」のメッセージの中で、互いに助け合うことの重要さを説いた後で、こう述べておられます。

「使徒パウロはキリスト者に愛のわざを強いているわけではないことです。・・・むしろ、彼らの貧しい人への配慮と気遣いに、その愛の「純粋さを確かめ」ようとしています。パウロが求めることの根底にあるのは、もちろん具体的な援助の要請ですが、しかしながら使徒の意図はそれ以上のものです。・・・貧しい人に寛大であることへの最大の動機づけは、ご自分を貧しくなさろうとした神の御子の選びにあるのです(6)」。

目の前で展開するあまりにも愚かな人類の行動が、尊い賜物であるいのちを危機に陥れ、平和の確立を遠い夢物語にしている。その現実を目の当たりにしながら、神は、全てをあきらめてしまうのではなく、自ら行動して人類と共にいるという選択をされました。私たちが語る連帯の根本は、この神ご自身の選択にあります。わたしたちは、いのちをあたえてくださった神ご自身がそう選択され行動されたのだからこそ、それに倣って連帯のうちに支え合うのです。

業を煮やして私たちのもとに来られた神ご自身が、両親の助けがなければ生き抜くことができないであろう幼子のいのちのうちに宿られたからこそ、いのちの尊さを繰り返し強調するのです。

この3年間、大げさに聞こえるのかもしれませんが、私たちはいのちの危機の暗闇で生きてきました。暗闇に生きるものは,先行きが見えない不安から、なんとしてでも光を手にしようともがきます。不安の継続する時間が長くなればなるほど、少しでも光のようなものが目に入れば、中身を良く吟味することなく飛びついてしまう誘惑に駆られます。加えて、この暗闇の中で、今度は暴力的な戦争や事件が続いて起こり、その状態はさらに深まる様相を呈しています。ますます持って、わたしたちはいのちを守ろうとして、心は消極的になっていきます。

そのような心理状態の中で、いつしか,暴力に対抗するためには暴力が必要だといざなう光を手にしたとしても,その光の存在に疑問を抱かなくなってしまいます。暴力を押さえ込むためには多少の暴力はかまわない。いのちを守るためには多少の犠牲はかまわない。

歴史の中で,わたしたちは同じような選択を繰り返してきたのでしょう。そのたびごとに、愚かな選択を重ねる私たち人類を目前にして、いのちを賜物として与えられた神ご自身も涙されたやもしれません。歴史はわたしたちに教えています。暴力の行き着く先は死です。暴力はいのちのあたえ主である神への挑戦です。

教会が今歩んでいるシノドスの道は、私たちに教会が現代社会のただ中にあってどのような存在であるべきなのかを,あらためて見つめ直すように,私たちを招いています。

その中心になるのは連帯することです。連帯するためには、互いの声に耳を傾け合う姿勢が必要であり、互いの存在への思いやりの心が不可欠であり、それは全て、お互いのうちに宿っている神からの賜物であるいのちへの尊敬に基礎づけられています。

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わたしたちはこの暗闇の中で、繰り返し響き渡る悲嘆の声に耳を傾け、互いのいのちへの尊重の内に思いやり、心を遣い、互いに助け合いながら、共にいてくださる主御自身があたえてくださるいのちの希望の光を、高く掲げるものでありましょう。わたしたちの努めは、幼子として誕生した主イエスがもたらしてくださった神の栄光の光を受け継いで、それを一人でも多くの人の前で輝かせることであり、互いに連帯し助け合い支え合いながら、いのちを守り抜くことであります。

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2022年8月15日 (月)

2022聖母被昇天祭@東京カテドラル

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8月15日、聖母被昇天祭です。

東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会と韓人教会の合同ミサとして、午後6時からミサを捧げました。また本日は私の霊名である聖タルチシオの元来の記念日でもありますので、多くの皆様のお祝いとお祈りをいただきました。感謝申しあげます。聖タルチシオはローマでの迫害時代(3世紀)、捕らわれているキリスト教徒のもとへ御聖体を密かに持って行く際に捕まり、御聖体を守って殉教したと伝えられ、ヨーロッパやアフリカなどでは、侍者の保護の聖人とされています。

以下、本日午後6時にささげられた聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

聖母被昇天祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年8月15日

8月15日は、教会にとっては聖母の被昇天を祝う大切な祝日ですが、同時に日本においては、1945年の戦争の終結を記憶し、過去を振り返り、将来への平和の誓いを新たにする祈りの日でもあります。

1981年に日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、自らを「平和の巡礼者」と呼ばれ、広島では、「戦争は人間の仕業です」と始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界に向けて強調されました。

教皇の言葉に触発された日本の教会は、その翌年の1982年から、「日本カトリック平和旬間」を始めました。わたしたちにとっては、戦争へと至った道を振り返り、同じ過ちを犯さないために学びを深め、祈り続けるときでありますし、同時に、戦後77年が経過しても世界の平和が確立されていない現実を目の前にして、平和の実現を妨げる要因を取り除くための祈りと行動を決意するときでもあります。

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東京教区では、今年の平和旬間を、昨年に続いて、クーデター後の混乱が続いているミャンマーのために祈る時といたしました。皆様のお祈りに感謝します。ミャンマーの司教様たちからも感謝の言葉が寄せられていますし、マンダレーのマルコ大司教様からは、東京教区の今年の平和を求める祈りを翻訳し、この期間に共に祈りをささげているとのメッセージをいただきました。

ミャンマーでは軍政下での混乱が続き、平和を求めて声を上げる人々や教会に対する暴力的な弾圧も続き、先日には民主化運動の指導者たちの死刑も執行されました。暴力を持って他者を従わせ支配しようとすることは、いのちの尊厳への挑戦です。

カテキズムには、「権威が正当に行使されるのはそれが共通善を目指し、その達成のために道徳的に正当な手段を用いるときです。従って、政治体制は国民の自由な決断によって定められ、人々の恣意でなく法が支配する「法治国家」の原則を尊重しなければ」ならないと記されています。(要約406)

残念なことに世界では次から次と暴力的な事態が発生し、社会の関心は移り変わっていきます。世界から忘れ去られたあとに、苦悩に晒された人だけが取り残される悲しみが、幾たび繰り返されてきたことでしょう。わたしたちは、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」という教皇の言葉を心に刻み、姉妹教会であるミャンマーの方々のことを忘れることなく、平和の確立を願いながら、祈り続け、行動したいと思います。

この2年以上にわたる感染症の脅威の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。

しかしながら、特にこの半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。いのちの尊厳をないがしろにする人間の言葉と行いに、ひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、いのちを賜物として与えられた、わたしたちの使命です。本来宗教は、賜物として与えられたいのちを危機にさらすものではなく、神の秩序の確立を目指して、いのちの尊厳を守り、共通善の実現のために資するものであるはずです。暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、どうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちに引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調したいと思います。

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いま世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することであり、神の愛を身に受けて、自らの献身によって他者のためにその愛を分かちあう生き方です。

教皇フランシスコは「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記しています。聖母マリアの人生は、まさしく神の愛を身に受けて、その実現のために自分をささげ、他者を生かそうと努める生き方であります。

教皇フランシスコは、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。聖母マリアの「観想と他者に向けて歩む力」の具体的な表れであります。

マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。今まさしく世界が必要としているのは、その心の姿勢であります。

聖母マリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち神の秩序の実現とは具体的にどういう状態なのかを、マグニフィカトではっきりと宣言します。

「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

聖母が高らかに歌いあげたように、教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていく存在でありたいと思います。

聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜でありながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。

聖母と共に、主イエスに向かって歩み続ける神の民であり続けましょう。

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2022年8月10日 (水)

2022年平和旬間:平和を願うミサ@東京カテドラル

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2022年の東京教区平和旬間は、感染症対策のため、いわゆるイベントを行うことができない状況となっています。特に教区としての平和を願いミサを予定していた関口教会では、主任司祭を含めた司祭・助祭団などに検査陽性があり、予定していた8月7日は、ミサの公開が中止となりました。

とはいえ、「ミサの公開が中止」というのは、「ミサが中止」なわけではなく、司祭がささげるミサに会衆を入れないことを意味していますので、8月7日は、関口教会で非公開の形で平和を願いミサを捧げました。

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すでに触れているように、昨今の国内外の状況で、平和を祈らなくてはならない課題は多々ありますし、そもそも平和旬間が設けられたきっかけも、過去を振り返り将来へ責任を持つことを呼びかけられた、教皇ヨハネパウロ二世の広島アピールにあるのですから、戦争の記憶を振り返りそこから学ぶことも忘れるわけにはいきません。その中で、東京教区では、そういったことを踏まえた上で、ともすれば新しく起こる悲劇の陰で忘れられていくことの多い課題に目を向け、特に姉妹教会であるミャンマーのために祈り続けることを選択しました。ロシアによるウクライナ侵攻や国内での暗殺事件などなど、暴力が支配するかのようなこの世界には、平和の課題が山積しています。その中で、ミャンマーを忘れないでいたいと思います。

なぜミャンマーなのかという問いかけをいくつかいただいています。一番の理由は、幾度も繰り返していますが、ミャンマーの教会が東京教区の姉妹教会だからです。東京教区が戦後にケルン教区から受けた様々な援助へのお返しとして、今度はミャンマーへの支援が始まりました。その関わりを、わたしたちは忘れずにいたいと思います。

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そしてこの一年、クーデター以降、様々な機会にミャンマーの平和のために祈ってきました。残念ながら状況は混迷を極めており、平和は乱されたままです。その中で、わたしたちの兄弟姉妹が、困難に直面しています。それを忘れるわけには行きません。すでに教区のホームページにマンダレーのマルコ大司教様のお手紙が掲載されていますし、そのほかの教区からもいただいていますが、今回のわたしたちの平和旬間の祈りに対して、ミャンマーの教会からはお返事のメッセージをいただいています。そこには、この平和旬間にあわせて、ミャンマーの教会でも、平和旬間に、一緒に平和のために祈ると記されています。この目に見える繋がりを、大切にしたいと思います。(上の写真は2020年2月、マンダレーでマルコ大司教様と)

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以下、8月7日午前10時からカテドラルでささげた平和を願うミサの説教原稿です。なおこのミサは、私と天本師以外では、聖歌隊を務めたイエスのカリタス会の方々、構内におられるシスター方と、配信スタッフのみが参加しました。

年間第19主日(平和を願うミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年8月7日

わたしたちが生きているこの世界は、まるで暴力に支配されているかのようであります。

2020年2月頃から、感染症の状況が世界中を巻き込んで、不安の渦の中でわたしたちから希望を奪い去りました。この状況は多少の改善があったかと思うと再び悪化することを繰り返し、そのたび事に、一体いつまでこのようなことが続くのかという焦燥感がわたしたちを包み込み、その焦燥感がもたらす先の見えない不安が、なおいっそうわたしたちの心を荒れ果てた地におけるすさみへと招き入れています。その中でわたしたちは、いのちを守る道を見いだそうと努めてきました。

この2年以上にわたる感染症の脅威の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。

しかしながら、特にこの半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。この不安な状況の中で、互いに手を取り合って支え合い、いのちを守るために連帯しなくてはならないことが明白であるにもかかわらず、ミャンマーではクーデターが起こりました。ウクライナではロシアの侵攻によって戦争が始まりました。暴力によっていのちを奪い取るような理不尽な事件も起こりました。

1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、平和を呼びかけられました。その言葉に触発されて、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻むために、この10日間の平和旬間を定めました。

「戦争は人間のしわざ」であるからこそ、その対極にある平和を生み出すのは、やはり「人間のしわざ」であるはずです。「戦争は人間の生命の破壊」であるからこそ、わたしたちは神からの賜物であるいのちを守り抜くために、平和を生み出さなくてはなりません。「戦争は死」であるからこそ、わたしたちいのちを生きている者は、戦争を止めさせなくてはなりません。

ヨハネパウロ2世は広島で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」とも言われました。わたしたちは、過去の歴史を振り返りながら、いま選び取るべき道を見出し、将来に向けて責任ある行動を取りたいと思います。平和は、どこからか降ってくるお恵みではなくて、わたしたち自身はこの地上において具体化するべきものです。

暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、わたしたちはどうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちになってしまいます。しかし暴力の結末は死であります。わたしたちはその事実を、先の参議院選挙期間中に目の当たりにしました。

いのちに対する暴力を働くことによって、自らの思いを遂げようとすることは、いのちを創造された神への挑戦です。神がいのちを与えられたと信じるわたしたちキリスト者にとって、いのちはその始まりから終わりまで守られなくてはならない神からの尊厳ある賜物です。

多くの人が自由のうちにいのちをより良く生きようとするとき、そこに立場の違いや考えの違い、生きる道の違いがあることは当然です。その違いを認め、一人ひとりのいのちがより十全にその与えられた恵みを生きる社会を実現するのが、わたしたち宗教者の務めです。宗教はいのちを生かす道を切り開き、共通善を具体化し、平和を実現する道でなくてはなりません。

わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの方々は、2021年2月1日に発生したクーデター以降、国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われ、さらに先日は民主化運動の活動家に死刑が執行されました。暴力による支配はいのちを生かすことはなく、いのちを奪うのであって、それはいのちの与え主である神への挑戦です。

様々な大きな事件が起こる度に、世界の関心は移り変わっていきます。その背後に、苦しみのうちに忘れ去られる多くの人がいます。いま世界には、平和を破壊するような状況が多々存在し、祈りを必要としています。だからこそわたしたちは、姉妹教会の方々を忘れることなく、今年の平和旬間でも、ミャンマーの方々のために祈り続けたいと思います。

ルカ福音は、主人の帰りを待つ間、常に目覚めて準備している僕の話を記します。「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」

この朗読箇所の直前には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。すなわちイエスが求めているのは、その再臨の時まで、わたしたちがどのように生きるのかであって、常に用意をするとは、単に準備を整えて控えていることではなくて、積極的に行動することを意味しています。

わたしたちは、天に富を積むために、神の意志をこの世界で実現する行動を積極的に取らなくてはなりません。神のいつくしみを具体化したのはイエスご自身ですが、そのイエスに従う者として、イエスの言葉と行いに倣うのであれば、当然わたしたちの言葉と行いも、神のいつくしみを具体化したものになるはずです。

神の望まれている世界の実現は、すなわち神の定めた秩序の具体化に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は、「地上の平和」の冒頭に、こう記しています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「地上の平和」1)

わたしたちは、神の秩序が確立されるために、常に尽くしていきたいと思います。

わたしたちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。わたしたちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、わたしたちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は平和の実現でもあります。

今年の復活祭メッセージで、教皇フランシスコはこう呼びかけました。

「どうか、戦争に慣れてしまわないでください。平和を希求することに積極的にかかわりましょう。バルコニーから、街角から、平和を叫びましょう。「平和を!」と。各国の指導者たちが、人々の平和への願いに耳を傾けてくれますように」(2022年4月17日)。

常に目を覚まして、神の秩序の確立のために、平和の確立のために、「平和を」と叫び続け、また働き続けましょう。

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