カテゴリー「配信ミサ説教」の129件の記事

2026年1月 1日 (木)

神の母聖マリア@世界平和の日2026年

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みなさま、新年明けましておめでとうございます。

2026年がみなさまにとって、神様の祝福に満たされた平和な一年となることをお祈りいたします。

1月1日は神の母聖マリアの祝日であり、世界平和の日でもあります。教皇様の世界平和の日のメッセージはこちらからご覧ください

以下、本日午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた、新年最初のミサ、神の母聖マリアの祝日ミサの説教です。

神の母聖マリア
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年1月1日

新しい年、2026年の始まりにあたり、お喜びを申し上げます。

聖母マリアの人生は驚きの出来事によって彩られた人生です。天使ガブリエルによる救い主の母となるというお告げ自体が、ひとりの少女の人生にとっては大きな驚きですが、イエスの誕生に至る日々も様々な驚きの連続であったことが、福音に記された物語から感じ取ることが可能です。驚きだけではなく、その中でマリアは人生をかけた選択をし、神の計画に身を委ねる決意を固めていきます。

人類の救い主の母となることを告げられたそのときから、また神の御言葉を胎内に宿したそのときから、さらに神のひとり子の母となったそのときから、マリアの心は様々に乱れ、恐れや悩みも様々にあったことだと思います。しかしルカ福音は、マリアがそういった一連の出来事に振り回されることなく、神の計画に信頼しながら、すべてを心に納めて、それらの出来事によって神が望まれる道はどこにあるのかを思い巡らし続けていたと伝えます。

わたしたちが生きている現代社会は、様々な情報が人間の処理能力を超えて世界を駆け巡り、さらには誤った理解やねつ造された事実が飛び回るなど、一つ一つの出来事にわたしたちは取り込まれて振り回され、一喜一憂し、現実を直視して深く洞察することもできないままに反応してしまったりします。そのようなことが続く中で、落ち着いて考えれば他の選択肢もあるとは言え、両極端な言説や過激な行動が見受けられるようになりました。そんな時代に生きているからこそ、わたしたちは聖母マリアが、起こっている出来事を心に納め、神の意思と計画を思い巡らしていたその祈りの姿勢に習いたいと思います。

同時に聖母マリアは、単なる模範ではなく、わたしたち教会の母でもあり、歩みをともにしてくださる方でもあります。神は、人となられた神の御言葉、暗闇に輝く一筋の光として、わたしたちの希望の源ですが、聖母マリアは、その御言葉である御子イエスと歩みをともにされ、わたしたち教会と歩みをともにされる希望の母であります。

教皇フランシスコは「福音の喜び」の終わりに、聖母について詳しく触れていますが、そこにこう記されています。

「(マリアは)すべての者の母として、正義を生み出すまで産みの苦しみを味わうすべての民の希望のしるしです。マリアは、わたしたちの人生に同伴するために身近な存在になってくださる宣教者であり、母の愛を持って、わたしたちの心を信仰へと開きます。」

新しい年の初めにあたり、聖母が信仰のうちに神の計画を探し求め、忍耐の内にイエスと歩みをともにされたように、わたしたちも主の示される道、すなわち聖霊の導きを共に祈りのうちに識別し、主とともに歩み、いのちの希望を掲げながら巡礼者としての歩みを続ける決意を新たにしたいと思います。

さて教会は、新年の第一日目を「世界平和の日」と定めています。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。1974年、教皇パウロ6世は、「マリアーリス・クルトゥス」で、世界平和の日を、神の母聖マリアの祝日に合わせて設けた理由に触れ、「この聖なる母を通してこそ、わたしたちは生命の与え主を受けるにふさわしい者とされた」と記し、その上で「今一度天使たちによる喜ばしい知らせに耳を傾け、平和の女王を通じて、このうえない賜物である平和を神に祈り求める」日であると呼びかけられました。

今日、世界の平和を考える時、ある研究所の報告では現在56もの地域紛争が起こっており、これは第二次世界大戦以降最も多いと言われています。また国境を越えて紛争に関与している国は92カ国にも及んでいると言われます。ガザやウクライナでの状況は言うにおよばず、アフリカでも、そしてアジアでも、小規模な紛争は頻発し、それが将来的に大規模な紛争へと繋がっていく可能性を否定することはできません。武力の行使は真の平和の確立には繋がりません。暴力が暴力を呼び起こす、負の連鎖が始まるだけです。

世界平和の日にあたって、紛争に巻き込まれている各地に平和が訪れることを祈りたいと思います。暴力の波に巻き込まれていのちの危機に直面し、絶望の暗闇の中でいのちをつないでいる兄弟姉妹のために祈りたいと思います。

教皇レオ14世は世界平和の日にあたり、「あなたがたに平和があるように――「武器のない平和、武器を取り除く平和」に向けて」と題したメッセージを発表されています。

2025年5月8日夕刻。第267代の教皇に選出されたレオ14世は、集まっていた多くの人たちに、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられました。その上で教皇様は、「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。・・・これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです」と、武器のない平和を呼びかけられました。

教皇のこの最初の呼びかけは、単なる挨拶の言葉としての「平和」ではありません。なぜなら、その最初の挨拶は、教皇選挙後の慌ただしさの中で即興で考えたスピーチではなく、その日の午前中に行われた二回の投票が終わり昼の休憩となったときに、すでに枢機卿たちの投票行動の推移からご自分が選出される可能性があることを感じたプレボスト枢機卿が、仮にそうなった場合に備えて準備されたスピーチだったからです。いわば教皇レオ14世にとっての、一番最初の施政方針演説でありました。この最初の呼びかけを通じて教皇レオ14世は、混迷を深める現代世界において、平和の確立こそが、教会の最優先課題であることを明確にされました。

今年のメッセージに、教皇レオ14世はその最初の言葉に触れて、次のように記しています。「『あなたがたに平和があるように』。わたしはローマ司教に選ばれた晩から、自分のあいさつの中に、この世界中でともに唱えられる告知を含めることを望みました。わたしたちは繰り返して述べたいと思います。これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです。神はわたしたち皆を無条件で愛してくださいます」

その上で教皇様は、「平和は、目的である以前に、存在であり、歩みです。嵐に脅かされた小さな炎のように内外で反対を受けても、平和をあかしした人々の名前と歴史を忘れることなく、平和を保ってください」と呼びかけ、どんな困難に遭ってもくじけることなく、平和を証しすることをやめないようにとわたしたちを招いています。

混乱の中でもすべてを心に留め、取り乱すことなく神の御心を識別しようとした聖母に倣い、わたしたちも平和を求めて諦めることなく、神の御心を識別しながら、ともに歩んで参りましょう。いのちを護り、すべての人の尊厳を護る世界を実現していきましょう。

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2025年12月28日 (日)

2025聖年閉幕ミサ@東京カテドラル

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世界中の各教区で、本日、聖家族の主日に、聖年閉幕ミサが捧げられています。

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東京教区では、本日12月28日午後3時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、閉幕ミサを捧げました。

以下、本日ミサの説教原稿です。

2025年聖年閉幕ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年12月28日

教皇フランシスコによって、昨年12月24日にバチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉が開かれ、2025年聖年が始まりました。そのテーマは、「希望の巡礼者」であります。

それから一年、世界中の各教区の司教座聖堂では、本日聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の閉幕に感謝を捧げるように求められています。その後、年明けの2026年1月6日に、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられることで閉幕となります。

教皇フランシスコは聖年開幕を告げる文書の中に、「キリスト者の希望の光が、すべての人に向けられた神の愛のメッセージとして、一人ひとりに届けられますように。教会が、世界のあらゆる場所でこの知らせを忠実にあかしすることができますように」と、この一年の聖年への期待を記されていました。果たしてこの一年、わたしたちは希望の光をすべての人に届けることができたでしょうか。

教皇フランシスコは、同じ文書の冒頭で、教会は「希望を神の恵みからくみ取ることに加え、主がわたしたちに差し出す、時のしるしの中にも希望を再発見するよう招かれて」いると強調されました。その上で教皇様は、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」と、教会全体がいのちの危機に直面する多くの兄弟姉妹に手を差し伸べともに歩む教会であるようにと招かれていました。

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聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきたことを象徴し、全人類を表現しているといわれます。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を象徴しています。さらに先頭の人物は十字架にしっかりと捉まっています。皆の足元には人生の旅に立ち向かう困難の波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は船の「いかり」となり、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないように支えてくださっていることを象徴するこのロゴマークは、まさしくいま教会が追い求めているシノドス的な教会のあり方を象徴しています。シノドス的な教会は、わたしひとりが希望の光を届ける者となるのではなく、教会共同体全体が希望をもたらす巡礼者として、この世界を共に旅する者となることを求めています。

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バチカンの聖ペトロ大聖堂前の広場左手に、大きなブロンズの群衆像が設置されています。何人もの人が固まって立ち尽くす姿は、ボートに乗って避難する人々の姿だと言われています。その群衆像のタイトルは英語で、「Angels Unawares」と呼ばれています。その意味するところは、ヘブライ人への手紙13章2節に記されている次の言葉です。

「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

 「気づかずに天使たちを」というのがその群衆像の名称です。ボートの上に立ち尽くす様々な人たちの真ん中に、天使の羽が見えています。よく見るとボートの右側側面には、大工道具を持った男性が幼子を抱えた女性と一緒に立っている姿が見えます。それが聖家族だと言われています。

本日は聖家族の主日でしたが、本日の主日の福音は、幼子が誕生した馬小屋での希望と平和に満ちた情景ではなく、父ヨセフが、「子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と天使からのお告げを受けて、いのちを守るために必死に行動した様子を記しておりました。広場におかれたこの群衆像は、安全を求めて避難する多くの人たちの姿を描き、その人たちへの心配りを忘れてはならないことを明示するために制作されています。

長年、他の彫刻がおかれることのなかった聖ペトロ広場にこの群衆像を設置するように命じたのは、教皇フランシスコです。絶望の淵にあって希望を求めて旅を続ける人々の中には、天使も、そして聖家族も、すなわち主ご自身がおられるのだということを、あらためてわたしたちに自覚させるためでありました。救いを求め、安全を求め、不安の内に旅を続ける人々に、手を差し伸べるようにと促す教皇フランシスコの思いでありました。

2023年10月19日、シノドス第16回総会の第一会期中に、教皇フランシスコは参加者全員をこの群衆像の前に集め、祈りの集いを行われました。その祈りの集いで、教皇フランシスコはこう述べておられます。

「よきサマリア人のように、私たちはこの時代のすべての旅人にとっての「隣人」となるよう、彼らの命を救い、傷を癒し、痛みを和らげるよう呼ばれています。悲劇的なことに、多くの人々にとっては手遅れであり、私たちは彼らの墓、もし墓があるとしても、その前で泣くことしかできません。あるいは、地中海が彼らの墓となってしまいます。しかし、主は彼ら一人ひとりの顔を知っておられ、それを忘れることはありません」

その上で教皇フランシスコは、難民の保護に関してご自身が何度も繰り返された四つの行動、すなわち「受け入れ、保護し、推進し、統合する」を繰り返し、教会はそれを実行する存在でなければならないと強調されました。

今日、聖家族は、共に歩く誰かを必要としています。主ご自身がその中で、誰かの心が向けられること、そして手が差し伸べられることを待っています。人と人との心からのかかわりこそが、希望を生み出すために不可欠です。

暴力が支配し、いのちを危機にさらす世界は、絶望を生み出す暗闇であります。わたしたちの世界は、いま、暗闇を打ち破り絶望を取り去る希望を必要としています。わたしたちはこの聖年が終わったからと言って、希望をもたらす巡礼者であることをやめるわけではありません。いまの世界には希望が必要です。多くの人の心に、希望をもたらす業を続けていきましょう。

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教皇フランシスコは、聖年開幕の文書の最後に、次のように記されています。

「今より、希望に引き寄せられていきましょう。希望が、わたしたちを通して、それを望む人たちに浸透していきますように。わたしたちの生き方が、彼らに「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27・14)と語りかけるものとなりますように。主イエス・キリストの再臨を信頼のうちに待ちながら、わたしたちの今が希望の力で満たされますように」

わたしたちは希望の巡礼者です。わたしたちはこれからも希望の巡礼者として、歩みを続けて参りましょう。

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2025年12月24日 (水)

主の降誕、おめでとうございます

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降誕祭にあたり、みなさまにお喜びを申し上げます。

みなさまにとって、またみなさまのご家族や友人のみなさまにとって、希望の光が心にともされるクリスマスとなりますように。

以下、本日午後7時半、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主の降誕夜半ミサの説教原稿です。

主の降誕(夜半のミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年12月24日

暗闇に輝く小さな光は、わたしたちの希望の源です。闇が深ければ深いほど、たとえどんなに小さな光でも、わたしたちの心には安心が芽生えます。心の安心は不安と絶望からわたしたちを解放し、心に希望が生まれます。暗闇に輝く小さな光は、わたしたちの希望の光です。

暗闇がもたらす絶望は、わたしたちが前に進もうと一歩を踏み出す勇気を心から奪い去ります。絶望は不安を恐怖に変えてしまいます。恐怖にとらわれた心は、未知の世界へと歩みを進めるよりも、勝手知ったる過去の体験へと戻ることを促します。

幼子イエスの誕生を記す福音には、暗闇の中で羊飼いたちに希望と喜びのメッセージを伝える天使たちの言葉を記しています。天使は「恐れるな」と、闇の中で絶望にとりつかれ、前に進む勇気を失った世界に対して、恐れを取り除く希望の光が与えられたことを告げています。

「恐れるな」と言う天使の言葉は、今宵、この暗闇の中、イエスの誕生を記念して集まったわたしたちにも向けられています。暗闇に輝く小さな光は、恐れを取り除き、闇に打ち勝ち、まだ知らない未来に向かって歩みを進める勇気を生み出す、希望の光であります。クリスマスは、わたしたちが生きる希望を取り戻すために恐れを打ち破る勇気を心にいだく日でもあります。

この夜、誕生したばかりの幼子は、父と母と共に旅の途上にありました。加えてその日、この聖なる家族には、安心して泊る場所さえなかったと福音は伝えています。心の安まらない暗闇の状況で不安を抱える父と母。その家族に新しいいのちが誕生します。この状況の中で、いのちの誕生という人生における重大な出来事に直面したときに、この聖なる家族が抱えた不安は、どれほどだったことでしょう。助けてくれる知り合いとて見つからない旅の途中で、どれほどの不安を抱えていたことでしょう。

その不安を打ち払うために、神が用意されたのは、宿でもなければ食事でもなく、ともに歩む兄弟姉妹との出会いでありました。それこそが、あの夜、羊飼いたちにイエスの誕生の知らせがもたらされた一番の理由です。孤独と不安を打ち破る、共に喜びを分かち合う兄弟姉妹の登場です。闇を打ち破り不安と絶望を払拭する希望は、ともに歩む兄弟姉妹との出会いの中で生まれてきます。いのちを生きる希望は、ともに歩む兄弟姉妹との出会いの中で生まれます。

教皇レオ14世は12月14日、聖年の行事の一つである受刑者の祝祭ミサで説教し、次のように強調されました。

「だれ一人として失われることがありませんように。すべての人が救われますように。これこそが神の望みです。これこそが神の国です。これこそが世における神の業の目的です。降誕祭が近づく中で、わたしたちも揺るぎない決意と信頼をもって、ますます強く神の抱く夢を抱こうではありませんか。わたしたちはどんな困難を前にしても一人きりではないことを知っているからです。主はすぐ近くにおられます。主はわたしたちとともに歩まれます。主がわたしたちのそばにおられるとき、つねに何かすばらしいこと、喜ばしいことが起こるのです」

聖母マリアと聖ヨセフ、そして誕生したばかりのイエスという聖家族は、いのちをつないでいくことに不安を感じていました。暗闇の中で光を求めていました。その光は天使たちによって、そして天使に導かれた羊飼いたちによって聖なる家族にもたらされました。

同じように不安を抱え、心細さのなかで不安を抱えながら旅を続ける家族が、いまの世界にはどれほどいることでしょう。暴力的な出来事に直面し、闇の中をさまよっているいのちが、一体どれほどあることでしょう。誰も助けてくれない。どこにも頼る人がいない。孤独の闇の中で、希望を失い、絶望に支配されているいのちがどれほどいることでしょう。

しかし神は、「だれ一人として失われることがありませんように。すべての人が救われますように」と願っています。その神の願いを実現するためには、暗闇の中で光を届ける人が必要です。ともに歩もうとする人が必要です。いのちをまもるためによりそい、手を差し伸べ、光を届ける人が必要です。

紛争の地にあって、毎日のいのちの危険から逃れるために、旅に出ざるを得なかった人。政治の対立に翻弄されて、生きる場を失った人。国際関係の波間で、人間の尊厳を奪われ、自らの意思に反して旅に出ざるを得なかった人。厳しい経済環境の中で、生きるために旅に出る選択をせざるを得なかった人。愛する家族と一緒になるため、愛する人と一緒に生きていくために、法律の枠を超えて旅に出る人。多くのいのちが、先行きの見えない暗闇の中で、さまよっています。光を求めています。希望を求めています。

自分の存在を忘れられ、孤独のうちに取り残されるとき、人はいのちを生きる希望を失います。世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプや、経済的に困窮する社会の現実の中で、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいる、その声が耳に響いてこないでしょうか。 

クリスマスのお祝いは、明るいイルミネーションに照らされることで、なにやら明るく楽しいイベントになっていますが、その理由は、暗闇の中で輝く光が、心の不安を打ち破り希望を生み出す力となることを実感するために他なりません。喜びは、多くの人と分かち合う喜びであってほしいと思います。光は多くの人と分かち合われる光であってほしいと思います。ひとり一人の心に芽生える希望は、最大の希望、すなわち神の救いへと繋がる希望であってほしいと思います。

教会は、人間のいのちは神からの賜物であると信じています。聖書の冒頭、創世記に記された天地創造の物語から、人のいのちには神の似姿としての尊厳があり、またそれは「互いに助け合う者」として創造されたと信じています。そうであるならば教会は、神からの賜物であるいのちを守り抜く存在として、社会の中で率先して共に歩む存在でありたいと思います。暴力を持っていのちを危機にさらす紛争が勃発する社会に対して、互いの尊厳をまもり、違いを尊重し、弱い存在を支え、声なき声に耳を傾け、誰ひとりとして排除されることなく、忘れ去られることのない世界を実現するために、共に歩みを続ける教会でありたいと思います。

クリスマスおめでとうございます。この喜びを、希望を、一人でも多くの人と分かち合うことができますように。共に希望を心に抱いて、最大の希望である神に向けて、ともに歩んでいくことができるように、常に努力を続けるものでありましょう。

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2025年8月15日 (金)

2025年聖母マリアの被昇天

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8月15日は、聖母マリアの被昇天の祝日です。そして、日本では終戦記念日でもあります。さらには、元々はローマの殉教者である聖タルチシオの祝日でもあります。わたしの霊名でもあり、お祝いの言葉や霊的花束を多くの方からいただきました。みなさまのお心に、感謝いたします。(上の写真はローマ某所の祭壇下にある聖タルチシオの像。下は板橋教会の聖タルチシオ像の前です)

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中央協議会のホームページので解説には、「マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を荘厳に公布しました」と記されています。全文はこちらのリンクから。なお8月15日が聖母の祝日になったことから、現在の暦では、聖タルチシオは8月12日に記念されていますが、それも近年のことですので、基本的にはもともとの8月15日をお祝いの日としています。また聖タルチシオは、3世紀頃の迫害の中で、とらわれた信徒へ運ぶご聖体を護って殉教したことから、侍者の保護の聖人となっています。

80年目の終戦記念日にあたり、戦争の犠牲となり亡くなられた数多の方々の永遠の安息のために、心から祈ります。あらためて戦争のない世界の実現のために祈り、今まさに世界の各地でおきているいのちへの暴力をやめるように呼びかけます。そして、すべての人間の尊厳が尊重される世界の実現のために祈り、語り、行動していく誓いを新たにしたいと思います。

8月6日から続いたカトリック教会の平和旬間は、今日、8月15日で終わりますが、平和への呼びかけは一年を通じて続けていかなくてはなりません。なぜなら神の望まれる世界は、いまだ実現する気配すらないからです。

以下、本日8月15日午後6時に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた聖母マリアの被昇天の祝日ミサの説教原稿です。

聖母マリアの被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年8月15日

「神の母は、希望の最も偉大なあかし人です」

教皇フランシスコは、いままさしく行われている聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」で、そう宣言されています。

教皇は続けて、「この方を見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みの賜物であることが分かります」と記しています。聖母マリアは人生の中の出会いや体験の中で、苦しみもがきながらも神の意志に常に従い、それによって大きな恵みに到達されました。

天使ガブリエルによる救い主の母となるという驚くべきお告げの出来事に始まって、ベトレヘムへの旅路、そして宿すら見つからない中での出産。その後、成長するイエスとともに歩む人生の旅路における様々な出来事、さらにはイエスの十字架上での苦しみに最後まで寄り添うことで、「すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、『はい』と言い続けた」聖母マリアは、地上でのいのちが終わった後に、身体も魂も、ともに天の国に引き上げられたことで、わたしたち人類すべての希望の星となりました。わたしたちひとり一人に、神の栄光に達するためには、どのように生きるべきなのかという道を指し示しているのは、聖母マリアです。その生き方に、神の前における謙遜に、そして主イエスとともに歩み続ける姿勢に、わたしたちのいのちを生きる希望の模範があります。

聖年の大勅書「希望は欺かない」で教皇フランシスコは、「民間の信心の中で、聖なるおとめマリアが「海の星(ステラ・マリス)」と呼ばれているのは偶然ではありません。この称号は、人生の荒波の中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼をもって希望し続けるよう招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しておられます。人生の荒波を生き抜こうとしているわたしたちにとって、聖母マリアは希望の光で照らし続ける海の星であります。

聖母マリアは平和の元后でもあります。エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げた讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画が実現された様が記されています。そこでは、この世界の常識や価値観は覆され、社会の中心ではなく周辺部に追いやられ、忘れ去られた人にこそ、神の目が注がれ、祝福が向けられていることが記されています。神の計画が実現し、神の定めた秩序が存在している世界こそ平和な世界でありますが、その平和な世界の実現を、すでに聖母マリアはマグニフィカトの中で高らかに歌い上げています。ですから聖母マリアは平和の元后であります。

聖母マリアの生きる姿勢から、教会は、社会から排除され忘れ去られて人々に目を向け、そこへと出向いていく教会であることを、つねに学び続けていると、教皇フランシスコは度々繰り返されました。

マグニフィカトの終わりには、こう記されています。

「その僕イスラエルを受け入れて、あわれみをお忘れになりません」

すなわち、神は自らが選ばれた民であるイスラエルとかつて交わした契約を忘れることなく、その業を必ずや成し遂げられると言うことです。キリストにおける新しい契約に生きている現代の神の民であるわたしたちにも、同じように、神が望まれる世界を生み出すための努力をすることが求められています。その道は、聖母マリアに倣って、神の「平和」を実現する道であります。

すべてのいのちの創造主である御父にとって、賜物として与えたすべてのいのちは、等しく愛を注ぐ対象であり、大切な存在です。賜物であるいのちは、神がそれほどの愛を注がれ、またご自分の似姿としての尊厳を与えられたからこそ、その始まりから終わりまで、すべからくその尊厳が守られ、大切にされなくてはならない存在です。わたしたちにはいのちを守り、その尊厳を守り抜く使命が与えられています。

しかし、世界全体を見れば、様々な状況の中で人間の尊厳は損なわれ、様々な方法を持っていのちに暴力が襲いかかっています。賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、すべての段階で、様々な暴力にさらされ続けています。社会から忘れ去られた状況の中で、かろうじていのちをつないでいる人も少なくありません。まるで価値がないものであるかのように見捨てられ、暴力的に奪われていくいのちもあります。

今この瞬間にも、例えば非人道的な攻撃にさらされているガザで、また先行きの見通せない戦争が続くウクライナで、そしてミャンマーや南スーダン、コンゴなどなど、目の前に迫るいのちの危機のただ中で、恐怖におびえながらいのちをかろうじてつないでいる多くの兄弟姉妹が存在します。あらためて、平和の元后である聖母の祝日に当たり、いのちに対する暴力を今すぐにやめ、人間の尊厳を守り抜くように、世界に向けて声を上げたいと思います。

8月6日から今日15日まで、日本の教会は、平和旬間を過ごしてきました。今年は日本が直面した最後の戦争が終わってから80年となります。この時期には、わたしたちが受けた戦争の被害に焦点が当てられますが、同時に戦争を行うことによって、多くの国、特にアジアの諸国に深い傷跡を残し、その地において多くの人のいのちを暴力的に奪ってしまったことも忘れるわけにはいきません。教皇ヨハネパウロ二世が広島でかつて言われたように、「戦争は人間の仕業です。戦争は死です」。だからこそわたしたち人間は、戦争という暴力を、再び現実としてはなりません。

どんなに時間が経過したとしても、起こった事実は変わりません。その事実を目の当たりにしたからこそ心に誓った願いは、どんなに時間が経過したとしても、変わることはないはずです。だからこそ、80年前の悲劇を記憶するこの日、わたしたちはあらためて起こった出来事の記憶を新たにし、その直後の誓いを新たにしなければなりません。過去に起こった出来事とその教訓を忘れ去ることは、時の流れを支配する神に対する不遜な行動です。

しかし近年、わたしたちは記憶が薄れることをいいことに、様々な理由をつけては、いのちに対する暴力を肯定する誘惑に駆られます。武力の行使を現実的選択だとまで言い始め、なかにはあれほどの惨禍を経験しているにもかかわらず、核武装の必要まで当たり前のことのように口にされるようになりました。

わたしたちの信仰の中心には、あの最後の晩餐の席で主イエスご自身が、「わたしの記念としてこれを行え」と命じられたように、連綿と伝え続けられている記憶があります。時間の流れの中で薄められ忘れられてはならない記憶です。記憶を伝え続けることの大切さを十分に知っているわたしたちだからこそ、教会は、平和の確立のために戦争の記憶を伝え続けることを放棄することはできません。

希望の聖年において巡礼の歩みを続けているわたしたちは、暴力による絶望をもたらす道ではなく、神の意志に従い希望を生み出す道をしっかりと見いだし、わたしたちの希望の星である聖母マリアの光に導かれながら、神の平和の実現のために力を尽くしていきたいと思います。

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2025年8月 9日 (土)

2025年平和旬間:広島、そして東京教区平和祈願ミサ

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日本の教会は毎年、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。今年は特に戦後80年の節目の年であり、それは同時に、広島と長崎での原爆投下の80年でもあります。

今年の平和旬間を前に、先日、6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、日本のカトリック司教団はまず、80年の平和メッセージを採択しました。そのタイトルを「平和を紡ぐ旅、平和を携えて」といたしました。全文はこちらのリンク先の中央協議会ホームページにあります。是非ご一読ください。

さらに司教団は、核兵器廃絶宣言も採択いたしました。全文はこちらのリンク先です

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今年の平和旬間には、米国の司教団からお二人の枢機卿様とお二人の大司教様、そして大勢の巡礼団がおいでになり、広島と長崎での平和行事に参加されています。シカゴのスーピッチ枢機卿、首都ワシントンのマッケロイ枢機卿、サンタフェのウェスター大司教、シアトルのエティエンヌ大司教の四名が来日され、8月5日の昼から、エリザベト音楽大学のホールを会場に、被団協のノーベル平和賞受賞の祝賀式、引き続いて、核兵器廃絶を呼びかける日本、米国、韓国の司教有志が集まって、シンポジウムを開催し、終わりに平和宣言を発表しました。今年の広島教区の平和行事のテーマは、「原爆投下80年 平和への希望を新たに ~核廃絶をわたしたちはあきらめない~」です。

この後に、世界平和記念聖堂(広島教区カテドラル)に移動し、平和祈願ミサを捧げました。わたしはこのミサの司式と説教を担当させていただきました。また教皇レオ14世から送られた平和メッセージが、教皇大使によって朗読されました。メッセージ全文はこちらです

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翌朝、広島に原爆が投下されて80年目の朝、8時から世界平和記念聖堂に多くの方々、修道者、司祭と共に、あらためて日米韓の司教有志が集まり、投下時間に黙祷を捧げた後、白浜司教の司式でミサが行われました。なおこのミサの説教は、シカゴのスーピッチ枢機卿です。

どちらのミサも映像を、カトリック広島教区「平和の使徒推進本部」のYoutubeチャネルでご覧いただけます。

 今回お祝いを申し上げ、また協働していくことを誓った被団協のノーベル平和賞受賞ですが、司教団の80周年平和メッセージでは、次のように指摘いたしました。

「日本被団協のノーベル平和賞受賞は、世界が核兵器使用の脅威の中で「核抑止」から抜け出し、核兵器廃絶に向かうための大きな一歩です。・・・今回の受賞が、核兵器のない世界に向けた希望の灯となるように祈るとともに、世界と日本政府がこの「時のしるし」を深く心に留め、一刻も早く核兵器禁止条約の署名・批准に向けて行動することを強く求めます」

 教皇フランシスコが指摘されたように、核兵器を使用することだけでなく保持することにさえ倫理的な問題があることを同じように指摘し、平和のためにという口実でいのちに対する暴力を行使することを認めず、神からの賜物であるいのちの尊厳が、その始めから終わりまで護られ尊重される世界の確立を目指したいと思います。

東京教区の平和旬間行事は、基本的にはそれぞれの小教区や宣教協力体で行われますが、教区全体の行事としては、本日8月9日午後1時から、同志社大学名誉教授でエコノミストの浜矩子さんを迎え、『戦後80年キリスト者としての平和への新たな決意』と言うテーマで講演をいただきました。浜矩子さんは東京教区の信徒です。その後、質疑応答を経て、午後3時半から、大勢の方が参加する中で、わたしが司式して平和祈願ミサを捧げました。ミサ終了後、有志の方々が、カテドラルから目白駅まで、平和ウォークをされました。参加された多くの皆さん、ありがとうございます。

以下、本日8月9日、長崎の原爆忌の日に東京教区で行われた、その平和祈願ミサの、説教原稿を掲載します。

平和祈願ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年8月9日

心に深く刻み込まれた戦争の記憶は、多くの人がそれを共有してきた時代に、同じ過ちを繰り返してはならないという誓いを常に新たにする原動力となってきました。ところが戦争が終結してから80年という時の流れのなかで、実際に戦争を体験したことのない世代が増え、伝えられなくてはならないその記憶を少しでも薄めよう、忘れようとする力が働いています。いまでは、国家間の対立を解決するためには、まず武力の行使も仕方がない、いや外交努力は武力の行使によってこそ強められるという考えまでが、現実的な選択だと言われるようになりました。

現代を生きているわたしたちは、あたかも過去の歴史に対して敬意を払うことなく、それをなかったこととして忘れ去ろうとし続けているかのようであります。

人間のいのちを暴力を持って奪い取ることが、どれほどの悲劇を生み出してきたのか。利己的な欲望を満たすために他者を犠牲にし、自己正当化を繰り返しながら歩み続けることが、どれほど多くの人の希望を奪い取り絶望を生み出してきたのか。わたしたちは何度も何度も同じ間違いを繰り返してきました。何度も繰り返すのですから、間違いなのではなくて、それがわたしたちの本当の姿なのかもしれません。いまもまた、わたしたち人類は、様々な正当化の理由の元、例えばガザで多くのいのちに暴力的に襲いかかり、すさまじいいのちの危機が続いているにもかかわらず、それを止めるすべを持ちません。コロナ禍で始まったウクライナでの戦争で、どれほど多くのいのちが奪われても、それを止めるすべを持ちません。同じくコロナ禍で起こったミャンマーでのクーデターでは、その後の混乱が、平和を求める教会の叫びにまで襲いかかり、絶望を生み出し続けています。それどことか近隣のタイとカンボジアで、武力による衝突まで起きています。

どんなに時間が経過したとしても、起こった事実は変わりません。その事実を目の当たりにしたからこそ心に誓った願いは、どんなに時間が経過したとしても、変わることはありません。だからこそ、80年前の悲劇を記憶し平和を祈るこの10日間、特に今日は長崎の原爆忌ですが、わたしたちはあらためて起こった出来事の記憶を新たにし、その直後の誓いを新たにしつづけなくてはなりません。過去に起こった出来事とその教訓を忘れ去ることは、時の流れを支配する神に対する不遜な行動です。

わたしたちの信仰の中心には、あの最後の晩餐の席で主イエスご自身が、「わたしの記念としてこれを行え」と命じられたように、連綿と伝え続けられている記憶があります。時間の流れの中で薄められ忘れられてはならない記憶です。わたしたちの信仰は、最初にあった出来事を記憶し、それを次の世代へと連綿と伝え続ける信仰です。記憶を伝え続けることの大切さを十分に知っているキリスト者だからこそ、教会は、平和の確立のために戦争の記憶を伝え続けることを放棄することはできません。

日本のカトリック司教団は戦後80年にあたり、先日6月23日の沖縄慰霊の日の直前に開催された司教総会で、「平和を紡ぐ旅 -希望を携えて-」と題する平和メッセージを採択しました。

その冒頭でわたしたち司教団は、教皇フランシスコの広島での言葉、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません」を、引用いたしました。

わたしたちは歴史的事実に誠実に向き合い、謙虚に学び、深く心と記憶にとどめ、さらには次の世代に確実にそれを伝え、その上で、この世界において神の平和を確立するための努力を続けていかなくてはなりません。

80年以上前に広島、長崎で、また日本各地、さらに世界各地で起こった戦争と核爆弾によるいのちの悲劇。それを実際に体験した多くの方にとっては、どんなに時間がたっても、その出来事はいのちに対して襲いかかった暴力という負の力として、心に深く刻み込まれ、忘れ去られることはないものと思います。

わたしたちは記憶が薄れることをいいことに、さらには時間の経過とともに実体験として暴力の記憶を心に刻みこんだ人が少なくなることをいいことに、様々な理由を見つけてきてはいのちに対する暴力を肯定する誘惑に駆られます。そのような弱いわたしたちに対して、教皇フランシスコは力強く挑戦状を突きつけました。

2019年、広島で「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」といわれました。

使うことだけではなくて、使いたいという誘惑にわたしたちを駆り立てる核兵器の所有でさえ、倫理に反していると断言されました。

この呼びかけは夢物語なのでしょうか。非現実的なのでしょうか。平和を確立しようと声を上げるたびに、冷ややかな批判の声が聞こえてきます。夢物語を語るな。現実を直視せよ。

はたして、核兵器のない世界の実現を、そして平和に対する呼びかけを、もしも夢物語であり、非現実的だというのであれば、福音に記されたイエスの言葉は、まさしく夢物語です。

「心の貧しい人々。悲しむ人々。柔和な人々。義に飢え乾く人々。あわれみ深い人々。心の清い人々。平和を実現する人々。義のために迫害される人々」を幸いだと言われる主の言葉を、夢物語にするのか、現実とするのか。それは、わたしたちの決断にかかっています。主イエスの言葉を現実のものとするために、罵られ、迫害され、悪口を浴びせられるのか、それを避けようとするのか。主は、前者こそが幸いであると言われます。わたしたちはどちらを選択するのでしょうか。

ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は、冒頭で、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」と記しています。

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。ありとあらゆる方法で、そして口実で、神からの賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。賜物であるいのちはその始まりから終わりまで、例外なく護られなくてはなりません。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。賜物であるいのちを守るのは、わたしたちの信仰における決断です。平和を確立するための道です。

平和旬間にあたり、あらためてわたしたちの信仰に生きる姿勢を見直しましょう。伝えるべき記憶をしっかりと伝え続けるものでありましょう。神の支配が確立するように、働くものでありましょう。 

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2025年4月21日 (月)

2025年復活の主日@東京カテドラル

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主イエスの復活、おめでとうございます。

雨も心配された東京の復活の主日でしたが、風が強かったものの、天気はなんとか持ちました。多くの方が東京カテドラル聖マリア大聖堂の午前10時のミサに参加してくださいました。いつもの席では足りずに、予備の折りたたみ椅子がかなり使われましたので、五百から六百人以上がミサで祈りを共にされたかと思います。

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ミサ後には、昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられて方へのお祝いも兼ねて、ケルンホールで祝賀会が催されました。おめでとうございます。感染症の影響でこの数年はこういった集まりが困難でしたが、久しぶりに、新しく洗礼を受けた方々を迎えて祝賀会となりました。

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以下、本日のミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月20日

御復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた皆さんには、特にお祝いを申し上げます。

洗礼を受けられたことで、ひとり一人はイエスの弟子としての旅路を始められました。それはただ単にイエスと一緒に歩き始めたということ以上に、キリストの身体を造り上げる一つの部分となったということをも意味しています。

今年教会は25年に一度の聖なる年、聖年の道を歩んでいます。そのテーマは「希望の巡礼者」であります。

聖年の大勅書「希望は欺かない」で教皇フランシスコは、第二バチカン公会議の現代世界憲章を引用して、「神という基礎と永遠のいのちに対する希望が欠けるとき、・・・人間の尊厳はひどく傷つけられ」、それが絶望を生み出すのだと指摘されました。

人間のいのちは、完全な存在である神の似姿として創造されたことによって、はじめから尊厳が与えられています。いのちを賜物として与えられているわたしたちキリスト者には、その尊厳を守る務めが託されています。そこに例外はありません。

教皇様は、絶望に満ちあふれた世界に生きているとは言え、「わたしたちは、自分を救ってくれた希望のおかげで、過ぎ去る時を見て、人類の歴史とひとり一人の人生は、行き止まりや暗黒の深淵に向かっているのではなく、栄光の主にお会いすることに向かって進んでいるという確信を得ています」と記しています。

わたしたちは洗礼を受けることでイエスの死と復活に与り、永遠のいのちの希望を与えられました。わたしたちは復活された主に向かって、常に歩み続けている「希望の巡礼者」であることを心に刻みましょう。

教会はこの巡礼の旅路を、みなで一緒になって歩む共同体です。もちろんひとり一人のキリスト者にはそれぞれ独自の生活がありわたしたちは共同生活をしているわけではないので、みなが同じような仕方で、共同体に関わるのではありません。共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、どのような形であれ、共同体の一員となるということは、日曜日に教会へ来るときだけでのことではなく、洗礼を受けたことで、信仰において共同体にいつでもどこにいても結ばれていることを、心に留めておくことであると思います。

洗礼の恵みによって、さらにはご聖体と堅信の恵みによって、わたしたちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきをわたしたちが消し去ることはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で努めていただくことを期待しています。そしてこれからも一緒に希望をあかしする巡礼者として歩んで参りましょう。

本日の第一朗読である使徒言行録は、弟子たちのリーダーであるペトロが、力強く主イエスについてあかしをしながら語る姿と、その言葉を記しています。

「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」と高らかに宣言するペトロは、ヨハネ福音の中では全くの別人のように描かれています。

あの最後の晩、三度にわたってイエスを知らないと宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、大いなる喪失感と絶望の中で、主の復活という希望をまだ理解できていません。今日のヨハネ福音には復活された主ご自身は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を目の当たりにしながら、しかし理解できずに困惑するペトロや弟子たちの姿です。

その弱々しく絶望に打ちひしがれたペトロを、使徒言行録が記しているような力強くイエスについて宣言するペトロに変えたのは一体何だったのでしょうか。

そこには復活された主ご自身との出会いによって、ペトロや弟子たちが永遠のいのちへの確信を与えられたことと、その確信が生み出す希望がありました。

洗礼によってわたしたちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との出会いがあります。わたしたちはこの共同体の交わりの中で、様々な形で主と出会います。共に祈る中で、主の導きをいただきます。共に与る聖体祭儀で共に主と一致し、信仰における兄弟姉妹と一致します。わたしたちの共同体は交わりの共同体であり、その交わりは信仰における永遠のいのちへの確信を深め、人生の旅路を歩み続ける希望を生み出します。

わたしたちが受けた福音は、わたしたちがいただく信仰は、単なる知識や情報の蓄積ではなくて、具体的にわたしたちが行動するように促し、具体的にそれを多くの人に証しし、世界に希望を生み出すように前進するようにと促す力であります。

2020年に直面した世界的ないのちの危機以来、わたし達は混乱の暗闇の中をさまよい続けています。その間に勃発した、例えばウクライナやガザをはじめ世界各地の戦争や紛争はやむことなく、今日もまた、いのちの危機に直面し、絶望のうちに取り残されている人たちが、世界には多くおられます。クーデター以降不安定な政治状況が続き、平和と民族融和を唱える教会への攻撃まであるミャンマーでは、先日発生した大地震によって、さらに多くの人のいのちが、いま、危機に直面しています。いのちが暴力から守られるように、神の平和が確立するように祈り続けましょう。

このような状況のただ中に取り残されることで、多くの人の心には不安が生み出され、世界全体が身を守ろうとして寛容さを失い、利己的な価値観が横行しています。異質な存在を受け入れることに後ろ向きであったり、それを暴力を持って排除しようとする事例さえ見受けられます。

人はそのいのちを、「互いに助けるもの」となるように神から与えられたと旧約聖書の創世記は教えています。ですから互いに助け合わないことは、わたし達のいのちの否定に繋がります。いのちの否定は、それを賜物として与えてくださった神の否定に繋がります。

互いに助け合わない世界は、神が望まれた世界ではありません。互いに助け合わない世界は、希望を打ち砕き絶望を生み出す世界です。神に背を向ける世界であります。

いのちを生きる希望を、すべての人の心に生み出すことが、いま、必要です。わたし達は、絶望が支配する世界に希望をもたらす者として、人生の旅路を歩み続けましょう。一人で希望を生み出すことはできません。信仰における共同体の中で生かされることを通じて、希望が生み出されます。その希望は、永遠のいのちへと復活された主のうちにあり、ともに歩む教会共同体の中で豊かに育てられます。勇気を持って、この社会に対して、希望の源である復活の主イエス・キリストをあかしして参りましょう。

 

 

 

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2025年4月19日 (土)

2025年復活徹夜祭@東京カテドラル

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御復活おめでとうございます。

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本日の復活徹夜祭で、多くの方が洗礼を受け、新たに教会共同体に迎え入れられた方が多くおられると思います。洗礼、聖体、堅信の秘跡を受けられた皆さんも、おめでとうございます。

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関口教会でも、今晩のミサの中で13名の方が洗礼を受けられました。新しい兄弟姉妹を迎えて、教会は新たにされ常にいのちに満ちあふれていることを実感します。一人でも多くの人に、この希望の喜びを伝えることができるように、復活の主の導きを願いましょう。

以下、本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での復活徹夜祭での説教です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月19日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

わたしたちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、わたしたちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。

この旅路をわたしたちは、一人孤独に歩んでいるわけではありません。先行きが見通せない旅路を、一人孤独に歩むことほど不安なことはありません。わたしたちの旅路は、まずもって主イエスとともに歩む旅路であり、信仰を同じくする兄弟姉妹とともに、支え合いながらともに歩む旅路であります。

この数年間、わたしたちは世界のすべての人たちとともに様々な形でのいのちの危機に直面してきました。感染症の蔓延に始まって、その中で起こった戦争。東京教区の長年のパートナーであるミャンマーで起こったクーデターとその後の混乱。ウクライナでの戦争。ガザでの紛争の激化。中東シリアやアフリカ各地でも紛争は深まっています。多くのいのちが暴力的に奪われ、先行きが見えない不安の中で暗闇だけが深まりました。いのちを暴力的に奪われているのは、わたしと等しく御父から賜物としていのちをいただいている兄弟姉妹です。

暗闇が深まった結果は何でしょうか。それは自分の身を守りたいという欲求に基づく利己主義の蔓延であり、異質な存在に不安を感じることによる排除であり、蔓延する不安は絶望を深め、わたしたちから希望を奪い去りました。

いま世界を支配しているのは暴力と、不安と絶望です。あまりにも暴力的な状況が蔓延しているがために、世界には暴力に対抗するためには暴力を用いることが当たり前であるかのような雰囲気さえ漂っています。

御父がいつくしみと愛のうちにわたしたちに与えてくださった賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく、守られなくてはなりません。神の似姿として創造されたすべてのいのちは尊厳が刻み込まれており、その人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。いのちを奪う暴力は、どのような形であれ許されてはなりません。

絶望の闇の中で必要なのは、互いに助け合い支え合いながら、人生の旅路をともに歩むことです。ともに歩む兄弟姉妹の存在こそは、わたしたちの心の支えであり、絶望を希望に変える力を持っています。加えて旅路を歩むわたしたちのその真ん中には、復活された主イエスがおられます。

復活のいのちに生きる主イエスこそは、わたしたちが永遠のいのちを生きる約束であり、真の希望です。わたしたちの信仰者としての人生は、イエスにおける希望に満ちあふれた、希望の巡礼者の旅路であります。

教皇様は、「希望の巡礼者」をテーマとする聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

いま世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。そしてわたしたちは教会共同体の中で生かされ、その中で主イエスと「生き生きとした個人的な出会い」を持ち、永遠のいのちの希望に力づけられ、その希望を掲げながら、ともに人生の旅路を歩み続けます。

週の初めの日の明け方早く、十字架上で亡くなられたイエスの遺体を納めた墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたあのときの衝撃に支配されていたのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。そこに天使が出現し、イエスは生きていると告げます。道を見失い途方に暮れていた婦人たちに、天使は進むべき道を示します。その道はすでにイエスによって示されていたのです。天使はガリラヤを思い起こすようにと告げます。

ガリラヤは、イエスとイエスにしたがった人たちが、最初に出会った地であります。信仰に生きることの意味を、イエス自身がその言葉と行いを持って直接に教えた地です。それは単に過去の思い出ではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える希望に生きるための指針であります。

弟子たちも、頼りにしていた先生を暴力的に奪われ、途方に暮れていたことを福音は記します。実際にイエスの体が墓にはないことを目の当たりにしたペトロは、ただただ「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。ペトロはそれまでいた家に立ち帰ったのであって、旅路を前進したわけではありません。主イエスは立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。

信仰は旅路です。闇雲に歩いているのではなく、主ご自身がともに歩みながら示される指針を心に刻みながら、主とともに、そして兄弟姉妹とともに歩みを続ける、希望の旅路です。

わたしたちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。旅路の希望は、主が示される旅路にしかあり得ません。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点です。

今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。皆さんは一人孤独のうちに歩むのではなく、わたしたち教会共同体の皆と一緒に、互いに助け合い、支え合いながら、祈りのうちともに歩み続けます。そこには必ず主がともにおられます。

復活の主への信仰のうちに、ともに希望を掲げ巡礼の旅路を一緒に歩んで参りましょう。
 

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2025年4月18日 (金)

2025年聖なる三日間:聖金曜日主の受難

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聖金曜日には、通常のミサは捧げられません。多くの国では夕刻に、可能であれば午後3時頃に、主イエスが十字架上で最後の苦しみを受け、亡くなられ、葬られたことを憶えて、十字架を崇敬することを中心に据えた典礼がおこなれます。

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昨晩の、主の晩餐のミサには派遣の祝福がなく、聖体の行列と礼拝で静かに終わりました。協の典礼には始めも終わりもなく、沈黙のうちに始まり沈黙のうちに終わりました。明日の夜の復活徹夜祭も、ろうそくの祝別が特別な挨拶なしに始まります。つまり聖木曜から復活徹夜祭までは、一つに繋がった祈りの時なのです。主の受難と死と復活という、わたし達の信仰の根本にある出来事に思いをはせ、自らの信仰を新たにしましょう。

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以下、本日午後7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた主の受難の典礼での説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月18日

わたしたちの希望である救い主は、今日、愛する弟子たちに裏切られ、群衆からはあざけりを受け、独り見捨てられ、孤独のうちに、さらには十字架上での死に至るまでの苦しみという、心と身体への痛みに耐え抜かれようとされています。

わたしたちは、預言者イザヤが記す、「苦難の僕」についての預言の言葉を耳にしました。

「見るべき面影はなく、・・・彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」たと記すイザヤは、しかしそれだからこそ苦難の僕は、「多くの痛みを負い、病を知っている」と記します。神は、単にわたしたちとともに存在されただけでなく、ともに人生を歩むことでその悩みと苦しみを共にされました。

イザヤは、その苦しみは、「わたしたちの痛み」を負ったのであり、「わたしたちの咎のため」に彼は打ち砕かれ、その苦しみのためにわたしたちに平和が与えられ、その傷によって「わたしたちは、いやされた」と記します。救い主の十字架における苦しみは、わたしたちの平和のための、希望のための、罪のゆるしを願う捧げ物でありました。

今日の典礼は、十字架の傍らに聖母が佇まれ、その苦しみに心をあわせておられたことを、わたしたちに思い起こさせます。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母は、キリストと一致した生き方を通じて、わたしたちに霊的生活の模範を示されています。

教皇様は聖なる年、聖年を告知する大勅書「希望は欺かない」の終わりに、聖母について次のように記しています。

「神の母は、希望の最も偉大なあかし人です。この方を見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みの賜物であることが分かります。・・・無実のイエスが苦しみ死ぬのを見ている間、すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、はいと言い続けたのです(24)」

その上で教皇様は、「海の星(ステラ・マリス)・・この称号は、人生の荒波に中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼を持って希望し続けるように招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しています。

聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきた全人類を表現しています。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を示しています。先頭の人物は十字架をつかんでいます。足元には人生の旅に立ち向かう困難の荒波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は船の「いかり」の形をしており、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないようにしっかりと支えてくださっています。その人生の荒波にあって、希望の光を照らし続ける海の星、ステラ・マリスは、神の母マリアであります。聖母はわたしたちの希望の星です。

人生においてわたしたちは、様々な困難に直面します。人間の知恵と知識を持って乗り越えることのできる困難もあれば、時には今回ミャンマーを襲った大地震などの災害のように、人間の力ではどうしようもない苦しみも存在します。

今年2025年は、第二次世界大戦が終結してから80年となります。人類は過去の歴史から様々な教訓を学んでいるはずですが、残念ながらいまでも世界各地で武力による対立はやむことなく、ウクライナの戦争は続き、聖地ガザでの悲劇的な状況も終わらず、その他多くの地域で、神からの賜物であるいのちが暴力によって危機に直面させられています。

この事態は、しかし、自然災害ではありません。まさしく教皇ヨハネパウロ二世が1981年に広島から世界に呼びかけたように、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。暴力によっていのちを危機にさらしているのは、わたしたち人類であって、それを止めることができるのも、わたしたち人類自身であります。

いのちを賜物として与えてくださる神が人間を愛しているその愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を多くの人の罪の贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。聖母マリアは、イエスとともに歩むこの地上での時の終わりであるイエスの十字架上の苦しみに寄り添いました。聖母の人生は、完全に聖なる方にその身を委ねる人生でした。その身を委ねて、それに具体的に生きる前向きな人生でした。苦しみにあっても、御父に向かって、「お言葉通りにこの身になりますように」と、神にすべてを委ねる人生でした。すべてを神に委ねているからこそ、聖母マリアは海の星としてわたしたちを導く希望の光となりました。

苦しみの中で主は、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこのときから、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。わたしたちは聖母とともに十字架の傍らにたたずみ、御父が望まれる救いの計画が実現するようにと、神のみ旨にわたしたちを委ね続けます。

その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立ち続ける姿です。十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立ち続ける聖母マリアはその希望のしるしです。私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。聖母マリアに倣い主イエスの苦しみに心をあわせ、他者の喜びのために身を捧げ、神の秩序の実現のために、具体的に行動する人生を生きたいと思います。

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2025年4月17日 (木)

2025年聖なる三日間:聖木曜日主の晩餐

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聖なる三日間が始まりました。

前記事にも記しましたが、本日聖木曜日の午前中10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京教区で働いてくださる100名近い司祭団とともに、聖香油ミサが捧げられました。聖香油ミサの中で、秘跡に使われる三つの聖なる油(病者の油、志願者の油、聖香油)が祝別され、また司祭は叙階の日の誓いを心に思い起こしながら、約束の更新を致しました。現代社会にあって、司祭の務めは多岐にわたります。残念ながら司祭はスーパーマンではありません。司祭もまた、一人の弱い人間ですから、できることもあれば苦手なことも多くあります。司祭がよりふさわしく働くためには、神様の祝福と導きが不可欠ですが、同時に共同体としてともに歩んでくださるみなさまのお祈りによる支えがさらに重要です。司祭が聖なる務めを忠実に果たすことができるように、どうかみなさまのお祈りによる支えを心からお願い致します。

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夕方7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で主の晩餐のミサを捧げました。関口教会と韓人教会の二つの共同体から、多くの方がミサに与って祈りをともにし、またご聖体の前で静かなひとときを過ぎしました。ご聖体における主イエスの現存こそは、わたし達の信仰の土台です。どうかみなさま、復活祭に向けて、良い三日間を過ごされますように。

以下、本日の主の晩餐のミサの説教原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月17日

先ほど朗読された出エジプト記は、エジプトで奴隷状態であった民が、モーセに導かれて約束の地へと旅立とうと様々な手立てを尽くしてエジプトの王と交渉を続けた最後の局面で、エジプトに降りかかった災いについて記しています。その夜、生け贄として屠られた子羊の血は、エジプトの民に災いをもたらした神が過ぎ越していくためのしるしとなり、その血は、奴隷としての苦難の生活から解放されるという希望のしるしとなりました。

出エジプトという希望の旅路に躊躇なく歩み出すようにと、神は民に対して「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして」食事をするようにと命じています。希望への旅立ちは未知への旅立ちでもあり、その先に何が待ち構えているのか分からない不安な旅への出発です。様々な思いが交錯する中で、与えられた希望の灯火を消すことなく、勇気を持って歩み出すようにと、神は民が準備を整えているようにと促しています。

イエスにおける永遠のいのちへの招きを信じるわたし達にとって、その受難と死を通じた復活は、希望の源です。わたし達の希望は、十字架上で捧げられた神の子羊の血によって、罪の枷が永遠に打ち払われる解放へと繋がる過越によって成り立っています。イスラエルの民がそうであったように、わたしたち新約に生きる神の民も、解放という希望に向かって、常に旅立つ用意をしているように求められています。

まさしく今年は、聖なる年、聖年として、わたしたちが「希望の巡礼者」となることが求められているときであります。

イスラエルの民は、奴隷状態から解放されて約束の地に導かれるという希望を持って旅を続けました。同じように現代の旅路を歩み続ける神の民も、永遠のいのちへの約束を確信し、ともに歩んでくださる主の現存を心に刻みながら、希望をもって歩み続けます。

教皇様は、聖年の大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持っています」と記しておられます。

わたしたちの希望は、どこにあるのでしょうか。

世界各地で、神からの賜物であるいのちが、様々な形態の危機に直面させられています。すべてのいのちは等しく神の似姿として尊厳を与えられており、そもそも互いに助けるためにと神から創造されていることを考えるとき、世界のどこかでそのいのちが危機に直面している事態は、わたしたちから希望を奪い去ります。実際、この数年の感染症に始まり各地で頻発した紛争は多くのいのちを暴力に直面させ、奪い去り、世界を利己的で不寛容が支配する場としてしまいました。利己的で不寛容な世界は人間関係を破壊し、人間関係が断絶される中でわたしたちを支配するのは絶望です。いまわたしたちに必要なのは希望であり、そのためにも互いに支え合いともに歩む人間同士の絆を取り戻すことが不可欠です。

この現実の中で、今こそ必要なのは、ともにいのちを生きるために連帯することであり、ともにいのちを生きるために支え合うことであり、いのちを暴力を持って奪うことではないとあらためて主張したいと思います。

最後の晩餐の席でイエスは、別れゆく弟子たちに、心の底からの愛を込めて、ご自分が代々に至るまで共にいるということを明確にする秘跡を残して行かれました。どこか遠くから見守ったり励ましたりするのではなく、旅路を歩む巡礼者であるわたしたちと常に共にいることを、ご聖体の秘跡を制定することで明確にされました。主はご聖体の秘跡を通じて、常にわたしたちと共におられ、その信仰の絆において、希望を与えてくださいます。ご聖体は、希望の秘跡であります。

教皇聖ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」の冒頭で、教会は様々な仕方で主の現存を味わうのだけれど、「しかし、聖なる聖体において、すなわちパンとぶどう酒が主のからだと血に変わることによって、教会はこのキリストの現存を特別な仕方で深く味わうのです(1)」と記しています。

その上で教皇は、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

希望の源である主ご自身によって集められている神の民は、主の現存である聖体の秘跡によって、力強く主に結び合わされ、主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡があるからこそ共同体であり、その絆のうちに一致し、互いに希望をいただきながら歩みを続けることができています。

主における一致へと招かれているわたしたちに、聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、わたしの愛といつくしみの言葉と行いを忘れることなく、さらに自分たちがそれを具体的に行い続けるようにと、あとに残していく弟子たちに対する切々たる思いを秘跡のうちに刻み込まれました。このイエスの切々たる思いは、聖体祭儀が捧げられる度ごとに繰り返され、「時代は変わっても、聖体が過越の三日間におけるものと『時を超えて同一である』という神秘を実現」させました(「教会にいのちを与える聖体」5)。わたしたちは、聖体祭儀に与る度ごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の思いを同じように受け継ぎます。

イエスは、裂かれたパンこそが、「私のからだである」と宣言します。ぶどうは踏みつぶされてぶどう酒になっていきます。裂かれ、踏みつぶされるところ、そこに主はおられます。

だからこそヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、自らを犠牲として捧げるところに、主はおられます。自分を守ろうとするのではなく、隣人を思いやり、互いに支え合い、ともに歩むところに、主はおられます。

わたしたちは聖体祭儀に与る度ごとに、自らの身を裂き、踏みつぶされて、それでも愛する人類のために身をささげられた主の愛に思いを馳せ、それを心に刻み、その思いを自分のものとし、そして同じように実践していこうと決意します。イスラエルの民がそうであったように、わたしたちは、聖体祭儀に与るときに、常に旅立つ準備ができていなくてはなりません。

「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」希望の旅路に、歩み出す勇気を持つ者でありたいと思います。

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2024年12月29日 (日)

聖年開幕ミサ@東京カテドラル

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聖年が始まりました。教皇様は12月24日の夜の主の降誕のミサの始めに、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を開き、26日の聖ステファノの祝日には刑務所を訪れてミサを捧げ、刑務所で聖年の扉を開かれました。そして本日聖家族の主日に、世界中すべての教区カテドラルで、聖年開幕ミサを司教が捧げるようにと指示をされています。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂でも、本日、聖家族の主日の午後3時から、聖年開幕のミサを捧げました。ルルドの前に集まり、そこから大聖堂正面扉まで行列をすることから始まりました。

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聖年に関するお知らせは、中央協議会のこちらのホームページをご覧ください。また東京大司教区からは、各小教区を通じて巡礼のなどの手引きの小冊子を配布しております。

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以下、本日の聖年開幕ミサの説教原稿です。

2025年聖年開幕ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年12月29日

教皇さまは12月24日に、バチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉を開かれ、聖年を開始されました。世界中の各教区の司教座聖堂では、本日聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。今回の聖年は、来年2025年の12月28日の日曜日に、各教区での閉幕ミサが捧げられ、翌2026年1月8日に、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が閉じられることで閉幕となります。

特別聖年などの際には、各地方教会にも聖年の扉を設けるように指示が出ることもありますが、今回はローマの四大バジリカの扉だけが聖年の扉とされています。

聖ペトロ大聖堂に続いて、本日12月29日には教皇様のローマ司教としての司教座であるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、続いて2025年1月1日の神の母聖マリアの祭日に、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、最後に1月25日にサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂の聖なる扉が順番に開かれます。

聖年は、旧約聖書のレビ記に記された「ヨベルの年」に基づいています。50年ごとに、耕作地を休ませることや負債を免除すること、奴隷の解放などを行うようにと、神は民に命じています。それに倣って教会は、50年ごとに聖なる年を設け、神のいつくしみをあらわす「免償」を与える特別な機会としてきました。現在ではより多くの人がその恵みを受けることができるようにと、25年に一度、聖年を行うことになっています。

なお免償とは直接的な罪のゆるしではなくて、カテキズムには「罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるし(1471)」であると記されています。教皇庁内赦院は、「免償のたまものは「神のあわれみがいかに無限であるかを分からせてくれます。古代において、「あわれみ(misericordia)」ということばは、「免償」ということばと互換性のあるものだったのは偶然ではありません。なぜなら、まさに「免償」は、限界を知らない神のゆるしの十全さを表そうとするものだからです」と、今回の聖年の免償について記した文書で述べています。

ご存じのように東京教区では小冊子を作成し、これらのポイントについての解説を掲載し、この聖年の間に勧められる巡礼の指定教会を記していますので、是非手に取って、ご活用ください。

さて、聖年のテーマは、「希望の巡礼者」とされていますが、そこには二つのテーマ、すなわち「希望」と「旅路を歩む」という、現代社会に生きる教会にとって重要な二つのテーマが示されています。

聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきた全人類を表現しています。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を示しています。先頭の人物は十字架をつかんでいます。足元には人生の旅に立ち向かう困難の波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は「いかり」となり、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないように支えてくださっていることを象徴するこのロゴマークは、まさしくいま教会が追い求めているシノドス的な教会のあり方を象徴しています。

教皇さまは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています(1)」と記し、この世界を旅し続けるわたしたちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されます。同時に教皇さまは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。

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この数年間、世界各地でいのちに対する暴力が激しさを増しています。ミャンマー、ウクライナ、聖地ガザなどなど。神から与えられた賜物であるいのちは、幼子が暗闇の中に輝く希望の光として誕生したように、わたしたちの希望の源です。その希望の源への暴力は、どのような形であれゆるされてはなりません。いのちはその始めから終わりまで、例外なく守られなくてはなりません。いのちに対する暴力の広がりは世界から希望を奪い去り、絶望の闇が支配しています。暗闇の中を孤独のうちに歩いているわたしたちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在が必要です。

この聖年において、教会はこの二つ、すなわち希望と巡礼者を掲げて、暗闇の中に小さく輝く幼子のように、暴力と孤独が支配する闇の中で、希望の光を掲げ、ともに支え合いながら道を歩もうと呼びかけています。

教皇さまは、「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神のことばが、その根拠を見つけるのを助けてくれます(1)」と、人となれらわたしたちのうちに住まわれた神のみことばに耳を傾け、希望を見いだすよすがとするように勧めておられます。
 果たしていまのわたしたちの教会は、希望を生み出しているでしょうか。暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。希望の光を求めて訪れる人たちに、安住の地を提供しているでしょうか。絶望と不安の闇にさまよう多くの人を忘れることなく心を向け、光を提供するものとなっているでしょうか。振り返るときにしたいと思います。

10月の末に閉幕したシノドスは、2021年に始まって3年間にわたり、教会のシノドス性、特に宣教するシノドス的な教会となる道を模索してきました。

教皇様は10月26日、最終文書の採択が終わった直後の総会でスピーチされ、「わたしたちは世界のあらゆる地域から集まっています。その中には、暴力や貧困や無関心がはびこっている地域があります。一緒になって、失望させることのない希望を掲げ、心にある神の愛によって結ばれて、平和を夢見るだけでなく全力を尽くして、平和が実現するよう取り組みましょう。平和は耳を傾け合うこと、対話、そして和解によって実現します。シノドス的教会は、ここで分かち合われた言葉に具体的な行動を付け加えることが必要です。使命を果たしに出かけましょう。これがわたしたちの旅路です」と呼びかけられました。

いま世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。

希望は、どこからか持ってこられるような類いのものではなく、心の中から生み出されるものです。心の中から希望を生み出すための源は、共同体における交わりです。互いに支え合い、ともに歩むことによって生まれる交わりです。少ない中からも、互いに自らが持っているものを分かち合おうとする心こそは、交わりの共同体の中に希望を生み出す力となります。希望の巡礼者こそは、今の時代が必要としている存在です。

 

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