カテゴリー「配信ミサ説教」の117件の記事

2024年12月 8日 (日)

東京カテドラル聖マリア大聖堂献堂60年

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東京カテドラル聖マリア大聖堂は、1964年12月8日に献堂され、無原罪の聖母に奉献されました。今日で献堂から60年となります。

献堂された1964年というのは、ちょうど教会が第二バチカン公会議の真っ最中であった頃です。第二バチカン公会議は1962年から始まり1965年まで続きました。献堂後の1969年には第二バチカン公会議の典礼改革による新しいミサ典礼が発表され他、ちょうど典礼変革の時代でした。

戦争中に焼け落ちた旧聖堂に代わり、カテドラルを再建することは当時の土井枢機卿様をはじめ教区の願いでしたが、ケルン教区の支援の申し出もあり、第二バチカン公会議が始まる直前、1962年5月締め切りで設計コンペが行われ、丹下健三氏のデザインが採用されました。その経緯から、基本的に、現在でも当初の丹下健三氏の設計に手を加えることなく聖堂は建っております。

本日は献堂60年の記念となる主日ミサですが、わたしが枢機卿親任式などのためローマに出かけているため、主日ミサで、小池神父様にメッセージの代読をお願い致しました。以下に、そのメッセージを記します。

なお大聖堂では、12月8日午後4時から、献堂60年を記念した聖体賛美式と晩の祈りが、アンドレア補佐司教様の司式で行われます。どなたでも自由にご参加頂けます。献堂の60年を祝い、ご聖体の前で、祈りのひとときをお過ごしください。

待降節第二主日C
東京カテドラル聖マリア大聖堂献堂60周年
2024年12月8日

今年は12月8日の無原罪の聖母の祭日が日曜日にあたり、待降節第二主日と重なりました。通常、典礼上の祝日が主日と重なる場合、主日が優先されますが、無原罪の聖母は重要度の高い祭日であることから、今年の典礼の暦では、明日の12月9日が無原罪の聖母の祭日とされています。

東京教区にとっては、12月8日の無原罪の聖母の祭日は司教座聖堂(カテドラル)の献堂記念日であり、聖マリア大聖堂の名前をいただいた「聖マリア」こそは無原罪の聖母です。加えて今年は献堂からちょうど60年の節目の年でもありますので、本日の主日ミサの中で、共にカテドラルの献堂を記念したいと思います。

そもそもカテドラルというのは、司教座が置かれている聖堂のことであり、教区における神の民の一致の目に見える象徴として、教区の母教会という意味を持っている聖堂です。その意味で、献堂記念日は関口教会だけのお祝いではなく、教区全体にとってのお祝いであり、あらためてカテドラルが象徴する司教との交わりのうちに一致する教会共同体のあり方を見つめ直すときでもあります。

1891年に大司教区として設置された東京教区は、当初のカテドラルを築地教会に定めました。その後、1900年に関口小教区が設けられ、1911年にはその構内に現在も残るルルドの洞窟が宣教師によって建設され、1920年には、大司教座が築地から関口に移され、関口教会がカテドラルとなりました。104年前のことです。

関口教会の聖堂は戦争中に東京大空襲で焼失しましたが、戦後、ドイツのケルン教区の支援によって再建が決められ、故丹下健三氏の設計により、1963年に工事が始まり、1964年12月8日に完成して献堂式が行われました。

この東京カテドラル聖マリア大聖堂が建設された経緯を振り返るとき、わたしたちはケルン教区が具体的に示した「ケルン精神」を思い起こさせられます。

先日のミャンマーデーの際にも触れましたが、「ケルン精神」というのは、戦後のドイツの復興期にあって、ケルン教区が掲げた自己犠牲と他者への愛を意味しています。ドイツも敗戦国であり、1954年当時は復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではありません。にもかかわらず海外の教会を援助する必要性を問われた当時のケルンのフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直しにも大きく貢献したと伝えられています。

その「ケルン精神」の最大のシンボルが、この東京カテドラル聖マリア大聖堂です。この大聖堂の中に祈りのうちにたたずむとき、わたしたちはまず第一に、この「ケルン精神」を思い起こし、心に刻みたいと思います。

さらに言えば、その「ケルン精神」その後、ケルン教区と東京教区が一緒になっていまでも続けているミャンマーへの支援に繋がりました。その歴史を顧みるときに、ケルンと東京とミャンマーの教会は、長年にわたってシノドス的な教会であろうとしてきたことが分かります。わたしたちは、ともに歩み、互いに耳を傾けあい、互いの必要に応えて助け合い、共に祈りを続けながら、聖霊の導きを見いだそうとしてきました。その意味で、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、いま教会が歩もうとしているシノドスの道のシンボルの一つです。教会のシノドス性を豊かに表すこの聖堂を、司教座聖堂として与えられていることに、感謝したいと思います。

昨日12月7日、わたしはバチカンの聖ペトロ大聖堂において、教皇様より枢機卿の称号をいただきました。枢機卿は単なる名誉職ではなく、教皇様の顧問団の一人として、教会全体において何らかの役割を果たしていくことが求められる立場です。その求められている役割を果たすには、自分が十分ではないことをよく自覚し、恐れの中で震えております。わたしが忠実に務めを果たすことができるように、これからもみなさまのお祈りによる支えをお願い申し上げます。

今日の主日は、バチカンにおいて教皇様と共に感謝のミサを捧げておりますので、その中で、日本の教会のために、特に東京の教会のためにお祈りさせていただきます。

洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネが救い主の先駆者であることを教えています。洗礼者ヨハネは「荒れ野」で、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だと記されていますが、その響き渡る声によって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と福音は記します。

わたしたち教会も、現代社会という「荒れ野」に生きています。いのちを奪う暴力がはびこり、戦争が続き、利己的な価値観が支配する、「いのちの荒れ野」に生きています。その現代の「いのちの荒れ野」のただ中にあって、教会は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声であり続けたいと思います。

枢機卿がいただく正装の色は深紅です。それは福音のために殉教すらいとわないという決意を象徴しています。ですからわたし自身が教会の先頭に立って、現代社会に向かい、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ覚悟を持たなくてはなりません。同時にそれは教会全体の務め、すなわちキリストに従う皆さんとともにある教会の務めです。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です」と記しています。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方ですと指摘されています。

聖母マリアは。この「いのちの荒れ野」のただ中に立つ教会と歩みを共にしてくださいます。共に闘ってくださいます。傷ついたわたしたちを神の愛で包み込んでくださいます。わたしたちと共に、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声になってくださいます。

ともに歩んでくださる聖母の取り次ぎに信頼しながら、これからも共に、荒れ野に響きわたる先駆者の声であり続けましょう。

 

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2024年11月17日 (日)

2024年東京教区ミャンマーデー

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11月の第三主日は、東京教区において「ミャンマーデー」とされています。ケルン教区とのパートナーシップ関係から発展して、シノドス的教会を具体的に生きるあかしとして、ミャンマーの教会への支援が続けられています。

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今日のミサにはロイコー教区のセルソ・バシュウェ司教とフィリップ神父様を迎え、都内のミャンマー共同体の方々も加わり、共にミャンマーの平和と安定のために祈りを捧げました。

セルソ司教様は、政治的混乱と武力対立が続くなかでカテドラルや教区本部の建物から追い出され、現在は国内避難民の方々と共に生活をされています。ミサの終わりに挨拶をいただきましたが、東京教区からの支援も含めてロイコー教区のための小さな小屋を建て、そこに司教様も住んでおられます。カテドラルを奪われた司教様です。

以下、配信ミサの説教原稿です。

年間第33主日
ミャンマーデー
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年11月17日

今日はミャンマーデーであり、ミャンマーロイコー教区のセルソ・バシュウェ司教とフィリップ神父様を迎え、東京在住のミャンマー共同体のみなさまと共に、ミャンマーのために祈りを捧げています。ミャンマーの教会は東京教区にとって長年の姉妹教会・パートナー教会ですが、そのパートナーシップの原点は、東京教区が第二次世界大戦後、ドイツのケルン教区によって支援を受けたことに遡ります。

2004年2月、東京教区とケルン教区のパートナーシップ発足50周年を迎え、当時の岡田大司教はメッセージにこう記されました。

「1979年、両教区の友好25周年にあたり、当時の白柳誠一東京大司教は「ケルン精神」を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の信者に呼びかけました。そして、来日した当時のケルン教区長ヘフナー枢機卿と白柳大司教はケルン精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマーの教会を支援することに合意しました。こうして東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけることになった」と記されています。

ケルン精神というのは、戦後のドイツの復興期にあって、ケルン教区が掲げた自己犠牲と他者への愛の精神を意味しています。ドイツも敗戦国であり、1954年当時は復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではありません。にもかかわらず海外の教会を援助する必要性を問われた当時のケルンのフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直しにも大きく貢献したと伝えられています。

その「ケルン精神」に倣い、今度は東京の教会が具体的にその精神に生きるためにと始まったのが、ミャンマーへの支援でした。

そう考えてみると、まさしくいま教会がその必要性を説いているシノドス性は、すでに1954年にケルンが東京を支援し始めたとき、そして1979年に両教区が協力しながらミャンマー支援を始めたときに、ケルンと東京とミャンマーの教会の間に存在していたということができると思います。わたしたちはすでに長年にわたって、互いに支え合うことで、シノドス的な教会、すなわちともに歩む教会であろうとしてきました。いまそのシノドス性の重要性が説かれ、教会がシノドス的であることが求められているからこそ、わたしたちはその先駆者として、率先して教会のシノドス性を深め、その重要性を説いていかなくてはなりません。

白柳枢機卿の時代に始まり、岡田大司教の時代を経て今に至るミャンマーデーです。東京の教会は特に、ミャンマーにおける神学生養成の援助に力を注ぎ、具体的に神学校の建物の建設も行ってきました。さらにこの数年は、コロナ禍の混乱の中で起こったクーデターの後、混乱するミャンマーの安定と平和を祈ることも、大事な意向となっています。

ミャンマーでは未だに政治状況は安定しておらず、セルソ司教様はご自分のカテドラルを追い出され、国内避難民と共に生活をされています。平和を呼びかける教会は、暴力にさらされているのが現実です。

マルコ福音は、世の終わりを示唆する様々な困難を記しています。ミャンマーでの不安定な状況、ウクライナでの戦争、ガザでの紛争など、各地での頻発する武力行使を伴ういのちへの暴力、政治や経済の混乱と国際関係の混乱は、現代社会がまさしくこの世の終わりの状況に直面していると思わせます。しかし同時に、そういった今すぐに世の終わりが来るというような危機感は、歴史を通じてしばしば起こったことでもあり、そのときの社会の状況に一喜一憂するよりも、その中に示されている「時のしるし」を読み取ることの大切さを福音は説いています。

「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と始まる第二バチカン公会議の現代世界憲章は、全人類との対話のうちに神の福音をあかしするために、「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務が」あると指摘しています。目の前で起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点からそこに示される「時のしるし」を読み取ることは、教会の務めです。

わたしたちの眼前で、神が賜物として与えてくださったいのちが暴力的に奪われる状況が続いている中で、わたしたちが読み取る「時のしるし」は一体なんでしょうか。賜物であるいのちは、その始めから終わりまで例外なく尊厳が護られなくてはならないとわたしたちは信じています。社会の現状はこの信仰への挑戦です。その現実からわたしたちはどのようなときのしるしを読み取るのでしょうか。

人類はさまざまな苦難に直面するものの、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と語ることで、愛に満ちあふれた神はご自分の民を決して見捨てることはないと、主イエスは断言されます。わたしたちは神からに捨てられることはないという事実は、わたしたちの信仰において大前提です。どのような困難な時代に合っても、神の言葉は滅びることはありません。神の言葉は常にわたしたちと共にあります。神の言葉は主イエスご自身であります。

わたしたち神の民にとって時のしるしを読み取るために歩むべき道は、今回のシノドスの中で示されています。シノドスは、神によって集められたわたしたち神の民が、ともに耳を傾けあい、支え合い、祈り合い、ともに歩むことによって、聖霊の導きを一緒に識別することの重要性を説いています。まさしく時のしるしを読み取るのは、特別な才能を持った予言者の務めではなく、共に識別する神の民の務めであり、その意味で、教会は現代に生きる預言者であります。

教皇様は、シノドスの最終日に採択された最終文書を受け取られて、この最終文書をご自分の文書とされることを公表されました。これまでの通例であったシノドス後の使徒的勧告は、あらためて書くことをしないと宣言されました。

その上で教皇様は、「(具体的な目に見える)あかしを伴わない文書は価値を失ってしまう」と指摘され、「暴力、貧困、無関心など」が蔓延する世界に生きるわたしたちは、「失望させることのない希望をもって、それぞれの心に授けられた神の愛のもとに一致し、平和をただ夢見るだけでなく、そのために全力を尽くさなければならない」と、シノドス参加者に求められました。

わたしたちは希望をどこかから持ってくることはできません。希望は心の中から生み出されます。教会は、希望を生み出す共同体でありたいと思います。そのためにも互いに支え合い、耳を傾け合い、ともに歩む教会でありたいと思います。長年のケルンとミャンマーと東京のパートナーシップは、シノドス的な教会の模範として、多くの人の心に希望を生み出してきました。混迷を極める現代社会に預言者として存在する教会は、「時のしるし」を共に識別し、福音を具体的に明かしする存在であり続けたいと思います。

なお、ミサの最後にはセルソ司教様からの英語での挨拶もありますので、是非ビデオをご覧ください。

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2024年8月15日 (木)

聖母被昇天@東京カテドラル

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聖母被昇天の祝日の今日、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後6時からミサが捧げられ、わたしが司式しました。

ガーナ訪問からは、昨晩帰国しました。8名の方々と一緒の訪問団となり、皆無事に帰国致しました。お祈りいただいた皆さまに感謝致します。今回訪問した、わたしがかつて主任司祭であったオソンソン村の出身で、現在目黒教会助任のマーティン神父が同行してくれたおかげで、いろいろと現地での手配が進み、同行してくださった方々には、5時間かかるミサとか、いろいろと体験していただいたと思います。これについては稿をあらためて記します。

以下、本日午後6時の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年8月15日

聖母被昇天を祝うこの日、日本では太平洋戦争が終戦となった日を記憶に留め、多くの人が平和を求めて祈っています。神の望まれる世界の実現を求めているわたしたちは、わたしたちのいのちの創造主である御父の御心を思いながら、具体的にこの地において、神の平和が実現するように祈り、語り、また行動していきましょう。平和の元后である聖母マリアの取り次ぎに信頼しながら、祈りを深めたいと思います。

あらためて繰り返すまでもなく、わたしたちの信仰は、いのちは神からの賜物であって、それがゆえにいのちを守り、またいのちが十全に生きることができるように努めることは、わたしたちの使命であります。また神は、ご自身の似姿としていのちを創造されました。完全であり完璧である神の似姿として、いのちには尊厳がその始まりから与えられています。ですからいのちの始まりから終わりまで、人間の尊厳が保たれるように努めることも、わたしたちに与えられた大切な使命です。

実際の世界は残念ながらその事実を認めていません。わたしたち人類は、その時々に様々な理由をこじつけては、賜物であるいのちに対する暴力を肯定してきました。そういったいのちに対する暴力を肯定する様々な理由は自然に発生するものではなく、人間の都合で生み出されたものです。すなわち、いのちに対する暴力は、自然に発生するものではなく、わたしたち自身が生み出したものであります。

いまわたしたちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、いのちを暴力的に奪い去る出来事で彩られています。いのちに対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。

ウクライナやガザでの現実を見るとき、また長年のパートナー教会であるミャンマーの現状を見るとき、神が愛される、一人ひとりの人間の尊厳は、暴力の前にないがしろにされています。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、政治的な混乱が続き、多くの人がいのちを奪われました。

毎年8月6日から15日までの10日間、日本の教会は平和旬間を定めて、平和について祈り、語り、行動する決意を新たにしています。もちろん平和について考え祈ることは、8月だけの課題ではありません。なぜならば、平和とは単に戦争がないことだけを意味してはいないからです。

ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。

そう考えるとき、平和とは単に戦争がないことではないと気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。いまの世界に神の平和は実現していません。

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今年の平和旬間に寄せて、ミャンマーのヤンゴン教区大司教であるボ枢機卿様から、ビデオメッセージをいただきました。そのメッセージの中で枢機卿様は、現在のミャンマーの状況を詳しく述べられ、平和を求めて声を上げる教会が暴力にさらされていることを訴えられています。その上で枢機卿様は、「正義とは報復を意味するのではなく、互いを認めることと悔い改めを意味します」と強調されています。

いま必要なことは、対立し憎しみを増やすような暴力に暴力を持って対抗することではなく、ともに歩みより、互いの声に耳を傾けあうことです。

平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受け、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。

エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画実現とはいかなる状態なのかが明示されています。

そこでは、この世界の常識が全く覆され、教皇フランシスコがしばしば指摘される、社会の中心ではなく周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが向けられていることが記されています。

聖母マリアがその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な、救い主の母となるという役割であるにもかかわらず、その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを、讃歌の中で高らかに歌っています。

また「身分の低い、この主のはした目にも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が何をもって人間の価値を判断しているのかを明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りで量るのではなく、神ご自身の量りで判断される価値です。

すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだという、神のいのちに対する価値観が、そこに明示されています。わたしたち人間が価値がないとみなすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。

エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。わたしたちにとって、神のことばが実現することこそが、神の秩序の確立、すなわち神の平和の実現であります。真の平和は、弱い存在を排除するところにはありません。自分の利益のみを考えて、他者を顧みないところには、真の平和は存在しません。自分の利益のために、他者のいのちを犠牲にしようなどと考える利己的な心の思いのうちに、神の平和は実現しません。

いのちに対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりし、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日もわたしたちが生きる道筋を示そうとたたずまれています。栄光のうちに天にあげられた平和の元后、聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の平和の実現のために、ともに歩んで参りましょう。

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2024年4月 2日 (火)

2024年御復活の主日@東京カテドラル

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3月31日、復活の主日、午前10時からの東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月31日

皆様、御復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方、堅信を受けられた方、おめでとうございます。

十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。

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教会は、単に日曜日に集まるこの建物だけのことではありません。教会とは人の集まりのことです。御父がわたしたちに賜物としていのちを与えと信じ、復活されたイエスを救い主、新しいいのちに招かれる主と信じ、聖霊が常に守り導いていると信じている、信仰者の集まりこそが教会です。旧約においてイスラエルの民が神から選ばれ、神と契約を結んだように、主イエスの御体と御血による新しい契約の民として招かれているわたしたちは、新約における神の民であります。教会は、救いの道をともに歩む神の民であり、その中心には、ご聖体を通じて、また御言葉を通じてわたしたちと共にいてくださるイエスがおられます。そして最後の晩餐で示されたように、イエスはわたしたちに、互いに足を洗いあうように、すなわち互いに愛し合い支え合って歩むようにと命じられました。さらに復活された主は、全世界に行って福音をのべ伝えるようにと命じられました。わたしたち教会は、その命令に生きて、時の流れを旅する神の民であります。

新しい仲間を迎え入れ、互いに支え合いながら、ともに歩んでいきましょう。体が一つの部分でできていないように、そこには様々な人がいて当然です。一致は一緒ではありません。それぞれが自らに与えられたいのちを十全に生き、互いに支え合い、ともに歩むことで、主における一致を実現していきましょう。

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さて教皇様は、3月27日に、聖地で暮らすキリスト者に向けて書簡を送られました。昨晩も触れましたが、イスラエルとパレスチナの対立には長い歴史があり、この数ヶ月は、泥沼のような状況の中で、多くのいのちが危機に直面し、ガザではすでに3万人を超えるいのちをが暴力的に奪われたと報道されています。

教皇様は書簡の冒頭で、「わたしたちの信仰の中心にある御復活は、主御自身が生き、亡くなられ、そして復活したまさしくその地でこれを祝う皆さんにとって特に意味があります。あなた方が何世紀にもわたって生きてきたその地がなければ、救いの歴史は成り立ちません。・・・皆さんの信仰における証しに感謝します。皆さんの間に存在する愛に感謝します。希望のない状況で希望を持ち続ける皆さんの力に感謝します」と呼びかけられました。

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主の復活を今日祝うわたしたちは、その出来事を伝えるヨハネの福音を耳にしました。葬られたはずの主の体が見当たらない「空の墓」は、復活の最も最初の証拠です。その事実が起こったその地で、聖地で、いまこのときも、いのちが危機に直面し、人々は希望を奪われ続けています。教皇様の意向に合わせて、わたしたちも、聖地にとどまり続けている信仰における兄弟姉妹の勇気ある証しに感謝し、パレスチナもイスラエルも、聖地に生きているすべての人の安全と安心のため、平和が確立される道が開かれることを祈りたいと思います。

姉妹教会であるミャンマーのバモー(Banmaw)教区のレイモンド司教様から、聖週間中にメールが来ました。レイモンド司教様は、ミャンマーの司教団を代表して、アンドレア司教様の叙階式に参加してくださった方です。

レイモンド司教様からは、ミャンマー北部にあるバモーの町では、この数日、砲撃やドローンによる爆撃が相次ぎ、司祭や信徒はシェルターに避難せざるを得ず、聖週間の典礼を行うことができないというメッセージでした。果たして本日、復活の喜びを共にすることができているのかどうか、心にかかります。

聖地にしても、ミャンマーにしても、またウクライナでも、さらにはシリアやアフリカ各地。それぞれの国の名前を挙げたらきりがありません。いのちを危機にさらすような状況が、世界各地で収まることがありません。その地で生きる人たちが心に抱く恐怖はいかばかりかと想像いたします。いのちの危機に直面し、不安と絶望のうちに希望を失っている多くの方のために、復活の主がいのちの希望を与えてくださるように祈りましょう。同時に、こういった事態が長期にわたって続くと、どうしてもその存在を、安全なところにいるわたしたちは忘れてしましがちであります。忘却されることほど、危機に直面している方々からいのちを生きる希望を奪うことはありません。常に記憶にとめ、平和が訪れるまで祈り続けましょう。

暴力によって引き起こされる悲しみや恐怖は、怒りと復讐の心を引きずり出します。結局、暴力の連鎖がいつまでも続き、いのちの危機が増し加わるだけで、このような人間の状態は神の御心に適うことでは決してありません。

主イエスが復活によって死の闇を打ち破り、新しいいのちの希望が闇に輝いた喜びの日を祝うわたしたちは、あらためていま世界に必要なのは、まさしく新しいいのちに復活された勝利の主が人類にもたらした恵み、すなわち神の愛に基づくゆるしと愛と希望であって、神の平和が世界を支配するように、争いをやめいのちを守り、人間の尊厳を確立するように、祈りのうちに求めたいと思います。

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第一朗読の使徒言行録をどのように聞かれましたか。ペトロの説教です。ペトロは堂々と、「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をしたわたしたちに対してです」と人々に宣言します。使徒の頭であるペトロだから当然と言えば当然です。しかしそのペトロは、復活の出来事の数日前には、三度にわたって、堂々と、イエスのことを知らないと宣言していました。それが良いか悪いかではありません。つまり、復活の出来事の体験は、それほどにまでに人を変えるのです。古い生き方を脱ぎ捨て、新しいいのちとして生きるように、変えるのです。古い生き方を捨て去り、まったく新しい生き方を選択する。それこそが復活の主にあって生きる道ではないでしょうか。

世界の現実を見るとき、またわたしたちの国の現実を見るとき、時に過去のしがらみ、歴史的背景、様々な過去に基づく理由によっていのちの危機が生み出され続けています。暴力の連鎖によって、憎しみと復讐の道を歩み続けるのではなく、まったく新しいゆるしの道を選択すること。何とか今の生きる道を維持していくのではなくて、神の導きの中で、常に新しくされ、いのちを守る道を見いだそうと努めること。それがわたしたちのたどるべき道です。

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2024年3月31日 (日)

2024年復活徹夜祭@東京カテドラル

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御復活おめでとうございます。

東京カテドラルで行われた復活徹夜祭では、15名の方が洗礼を受けられました。またさらに7名が加わって堅信も行われました。おめでとうございます。今日から一緒に信仰の道を歩んで参りましょう

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以下、復活徹夜祭の説教原稿です。

聖土曜日復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月30日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

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暗闇は光によってのみ打ち払われます。復活讃歌の冒頭には「まばゆい光を浴びた大地よ、喜び踊れ。永遠の王の輝きは地を照らし、世界を覆う闇は消え失せた」と、闇を打ち払う光の輝きが記されています。

それほどの力強い光は、いったいどれほどの大きな光なのでしょうか。復活讃歌の終わりには「このろうそくが絶えず輝き、夜の暗闇が打ち払われますように」と歌われています。「このろうそく」とはどのろうそくでしょう。ここに輝いている復活のろうそくです。大きな光でしょうか。いや少しでも風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎です。弱々しい炎です。

復活讃歌は、「その光は星空に届き、沈むことを知らぬ明の星、キリストと一つに結ばれますように」と続いています。

天地創造を物語る創世記の冒頭で、神はまず「光あれ」と宣言し、混沌とした闇に秩序をもたらします。すなわち神こそは、世界を覆う闇を打ち払う希望の光であり、この世界に正しい秩序を与える世界の王であります。復活讃歌は、この小さな復活のろうそくの光が、世界を照らす希望の光である救い主、キリストと一つに結ばれる、神の存在の象徴であることを明確にします。わたしたちは今宵、暗闇の中に集まって、復活のろうそくに火がともされるのを目撃しました。闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持って輝きます。すなわちわたしたちは、復活のろうそくの小さな光をこの闇の中で体験することで、その光が一つになって結ばれる全能の神の光の輝きを体験しました。復活された主は、人類を覆う最も深い闇である死を打ち破り、新しいいのちへの希望を与え、混沌とした世界に新たな秩序を打ち立てられました。復活のろうそくにともされた炎は、死の闇を打ち破り、新しいいのちへと復活された主イエス・キリストの希望の光です。

暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しいいのちに招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることをわたしたちはあらためて思い起こします。

復活のロウソクにともされた小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられました。皆さんお一人お一人が手にする小さなろうそくに、小さな炎がともされていきました。

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「キリストの光」という呼びかけの声に、なんと応えたでしょうか。「神に感謝」です。何をわたしたちは感謝したのでしょう。それは、神から新しいいのちへの希望を与えられたことをあらためて実感しながら、神に感謝しました。ひとり一人のろうそくの炎は小さくとも、ここに集う多くの人のロウソクにそれが分け与えられ、全体として、聖堂を照らすに十分な光となりました。

わたしたちが成し遂げたいのはそれなのです。ひとり一人ができることには限界があり、一人で掲げることのできるいのちの希望の光は小さなものです。わたしたちの周りの闇は、その小さな炎で打ち払うには深すぎる。だからこそ、皆の小さな炎を一緒になって掲げたいのです。教会が、ともに歩むことを強調する理由はそこにあります。いま教会が歩んでいるシノドスの道の本質は、そこにあります。それぞれ掲げるろうそくは異なっているでしょう。炎の大きさも異なっているでしょう。皆が同じことをするのではありません。しかしそれぞれが勝手に小さな炎を掲げていては打ち払うことができないほど闇は深い。だから連帯のうちに、支え合い助け合いながら、共に光を掲げて歩むのです。教会は、いのちを生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではありません。希望と喜びの光を掲げることができなければ、教会ではありません。

主が復活されたその地、すなわち聖地で、いま多くのいのちが暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは三万人を超えるいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。いのちの希望がもたらされた聖地で、いったいどうしたらいのちの希望を取り戻すことができるのか、その道を世界は見いだせずにいます。今この瞬間も、いのちの危機に直面し、恐れと不安の中で絶望している多くのいのちがあることを考えると、暗澹たる思いがいたします。

ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争も、未だ終わりが見通せません。東京教区の姉妹教会であるミャンマーでも、平和を求めて声を上げる教会に、軍事政権側の武力を持った攻撃が続いているとミャンマーの教会関係者から状況が伝わってきます。

世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいます。教会は、いのちを生きる希望を掲げる存在であることを、改めてわたしたちの心に刻みましょう。

戦地や紛争の地だけでなく、わたしたちの生きている現実の中ではどうでしょう。障害のある人たちや幼い子どもに暴力を加え、いのちを奪ってしまう。様々なハラスメントを通じて、人間の尊厳を奪い去る。多数とは異なる異質な存在だからと、その存在を否定する。暴力を受けているのは、神が賜物としてわたしたちに託されたいのちです。社会に蔓延するいのちへの価値観が、そういった行動に反映されています。この社会の中で、教会は小さいけれども希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。

今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にもあずかるのだと強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるため」に洗礼を受けるのだと指摘しています。洗礼を受けたわたしたちには、キリストとともに、新しいいのちの道を歩むという務めがあります。キリストと共に、そして皆と共に、支え合って歩みます。

主の死と復活にあずかるわたしたちに求められているのは、行動することです。前進することです。なにもせずに安住の地にとどまるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。そこには、ともに歩む仲間がいます。それぞれが自分の小さなろうそくの炎を掲げ、ともに歩むことで、世界を支配する暗闇を打ち払いましょう。

「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現のために、福音を告げしらせ、証しする道をともに歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

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2024年3月30日 (土)

2024年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

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聖金曜日、主の受難を黙想する日です。東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後7時から、関口教会と韓人教会の合同で、典礼が行われました。

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聖金曜日の典礼では、盛式共同祈願や十字架の崇敬の部分で、歌唱するところがあります。特に盛式共同祈願では、冒頭の祈りの意向を歌唱することになっています。司式する私はその後の祈りを唱えますので、どなたかに歌唱していただく必要があります。これを今年は協力司祭の金泌中(キム ピルジュン)神父様が歌われました。ソウル教区司祭のピルジュン神父様は、このたび2年間の日本語習得を終え、復活祭後に西千葉教会などで助任司祭として正式に任命されていますが、兼任する本郷教会のミサを担当して不在の天本主任司祭に代わって、堂々と歌唱されました。今夜の復活徹夜祭の復活讃歌も、ピルジュン神父様と伺っています。

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この祈願の歌唱部分は、簡単なように見えますが、歌うのは難しいのです。というのも、ミサの叙唱もそうですが、結構高めの音をキープして連続でタタタと歌い続けなくてはなりません。ちょっと気を抜くと、終わりの方の音程が見事に二度程度は落ちてしまい、多分終わりはレの音だと思いますが、それよりも遙かに下になって、落ち着きが悪くなり安いのです。伴奏なしで同じ音程で歌い続けるのは、楽なことではありません。

余談でした。以下、聖金曜日主の受難の説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月29日

「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」

イザヤの預言にそう記されていました。

聖金曜日、主の受難を記念する今日、わたしたちは、ともに歩み苦楽をともにしてきた弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ、孤独のうちに十字架上での死に至るまで、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスに心を馳せ、主とともに祈ります。

その苦しみはいったい誰のためだったのか。それを明確に示しているのが、預言者イザヤの言葉です。それはまさしく、わたしたちひとり一人の罪の結果でありました。

イザヤは「彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだ」と記しています。

今日は、主の苦しみこそは、わたしたちの救いのためのあがないの捧げものであったことを、思い起こす日です。一言も語らず、ただ無言のうちに、その姿を持って、わたしたちに神の愛の深さを示された事実を、かみしめる日です。主の十字架を目の当たりにして、ただただその愛といつくしみに心から感謝を捧げる日です。

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受難の朗読では、「イエスを知らない」と、三度にわたって言い張ったペトロの裏切りが記されています。福音はイエスがすでにペトロに告げていたとおり、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と事実だけを記して、ペトロの心持ちを記しません。しかしそのことが、ペトロの陥った後悔の思いの深さと絶望を、わたしたちに感じさせています。

すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべてのいのちを、ひとりたりとも見捨てることなく、永遠のいのちにおける救いへと招くために、わたしたちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。すべての人の罪科を担う神のいつくしみとゆるしです。わたしたちは、主の十字架を目の当たりにして感謝すると同時に、十字架が指し示すその希望と栄光を褒め称えます。

ですからこの裏切りという罪と、その後悔と絶望の淵にあったペトロが次に登場するのは、御復活の出来事の後です。三度にわたって主を知らないと主張し、裏切りの罪を犯したペトロを、十字架の出来事を間に挟んで、復活の栄光の証人とすることで、主の十字架が持っている意味を、福音は明確に示しています。それは神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光です。

わたしたちは、主の苦しみの旅路に心をあわせ、ともに歩むようにと招かれています。主の十字架は、わたしたちの信仰の原点です。そこにこそ神の愛といつくしみが目に見える形で示されています。そこにこそわたしたちの目指すべき希望と栄光が、目に見る形で示されています。わたしたちは、信仰の原点である十字架を高く掲げ、その意味を社会の中であかしするように招かれています。

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十字架の傍らには聖母が佇まれていました。十字架の上で苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母の姿は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に答えたときに始まって、すべてを主の計画に委ね、主とともに歩み続け、主と一致した生き方を、聖母が教会に模範として示し続けていることを明白にします。

主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母と愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架のあかしを受け継ぎ、復活の栄光を目指して希望を掲げながら、共に歩み続けます。

昨年2023年10月27日の夕刻、ちょうど開催されていたシノドス第一会期の参加者を、わたしもそこにいましたが、聖ペトロ大聖堂に招いて、教皇様は世界の平和のためのロザリオの祈りを捧げられました。その祈りの中で、教皇様は、次のように聖母に呼びかけられました。

「聖母よ、いまは暗闇の時です。この暗闇の時に、わたしたちはあなたを見つめます。・・・カルワリオにおいて、剣が母の心を貫きました。しかしその謙遜さと力強さで、悲しみの闇にあっても、復活の希望を燃やし続けました。・・・あなたの呼びかけに耳を塞ぎ続けるわたしたちを、あなたは愛のうちに、見捨てることはありません。聖母よ、あなたの手でわたしたちを回心へと導いてください。再び神を最優先とすることができるように。教会の一致を保つことができるように。世界に一致を生み出すものとなることができるように。」

イザヤの預言にあったように、「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった」存在です。その散らされた民を、聖霊の導きの識別のうちに、神の民として再び一致へと導こうとするのが、いまわたしたちが歩んでいるシノドスの道であり、その道を歩む模範は聖母マリアです。わたしたちが身勝手にそれぞれの道を歩もうとするとき、わたしたちは主の十字架にその罪をさらに負わせ続けています。聖母に倣い、勇気を持って神の導きに身を委ね、一致のうちに神の民として神に向かって歩み続けるものでありたいと思います。栄光と希望の十字架の証し人であり続けたいと思います。

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2024年3月29日 (金)

2024年聖木曜日、主の晩餐のミサ@東京カテドラル

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聖木曜日、主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、アンドレア司教様と共に捧げました。

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ミサは、同じ聖マリア大聖堂に所在する関口教会と韓人教会の合同で行われました。

ミサ後にご聖体は、大聖堂向かって左にあるマリア祭壇に安置されました。主の晩餐のミサは沈黙のうちに終わり、聖堂内の装飾は、祭壇の上を含めすべて取り払われます。聖金曜日の主の受難の典礼は、始めも終わりも沈黙で行われ、そのまま暗闇の沈黙で始まる復活徹夜祭につながります。ですから、聖なる三日間は一つにつながった典礼のうちに過ごすときです。

以下、ミサの説教原稿です。

聖木曜日主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

わたしたちは、主イエスご自身によって食事の席に招かれている弟子の共同体です。教会がシノドスの道、すなわちともに歩む道をたどっているのは、教会が本質的に共同体であるからに他なりません。わたしたちはひとりで勝手に独自の信仰を深め歩む存在ではなく、互いに助け合いながら、共に聖霊に導かれて歩みを続ける神の民であります。わたしたちにそのことを明確に示しているのは、最後の晩餐において示された、主御自身の具体的な業による模範です。

最後の晩餐の席で主イエスは立ち上がり、弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音に記されています。弟子たちの足を洗い終えたイエスは、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗いあわなければならない」と言われたと記されています。

自分の足を洗うのではありません。自分と親しい人の足を洗うのではありません。自分が好ましいと思う人の足を洗うのではありません。「互いに足を洗いあわなければならない」と、主は弟子たちに命じます。共同体の属するすべての人に対して、わたしたちはそれぞれが、互いの足を洗うために、その前で身を深くかがめなくてはなりません。共同体のすべてのものが、互いに、相手の前に頭を垂れて、低いところに身をかがめて、互いに足を洗うようにと主は命じます。身をかがめて互いの足を洗うために、自分自身を全くの無防備な状態にせよと主は命じます。互いにすべてを相手に委ねる姿勢をとるようにと主は命じています。

ひとりでは、互いに足を洗うことはできません。自分の親しい人だけでは、互いに足を洗うことにはなりません。

ですから、教会共同体が、自分ひとりで歩むものではなく、また親しい人だけで歩むものではなく、それよりもすべての人と互いに支え合いながら、祈りあいながら、聖霊の導きを識別しながら、ともに歩む教会であることは、この最後の晩餐の時の主御自身の模範によって、定められたことです。すなわち、シノドス的な教会であること、シノドスの道を歩むことは、何か新しいアイディアなのではなくて、そもそも教会のはじめから当然のように内包している、教会の根本的な性格です。

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福音は、「わたしがあなた方にしたように、あなた方もするようにと、模範を示したのである」という主イエスの言葉を記しています。ですからわたしたちは、互いに助け合いながら、互いに身を委ねながら、ともに歩む共同体でなくてはなりません。

主の晩餐に招かれたわたしたちを、集められた多くの人を、一つに結び合わせているのは、ご聖体のうちに現存される主御自身です。その夜、パンをとり祈りを捧げ裂いて弟子に与えられた主は、「これはあなた方のための私の体である」といわれながら、聖体の秘跡を制定されました。すなわちご聖体は、それを与えられた「わたしたちのため」の主の現存です。わたしたちのための主の体。その主の体は、わたしたちを一致させる主の現存です。

第二バチカン公会議の教会憲章には、「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(教会憲章11)」と記されています。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」で聖アウグスチヌスの言葉を引用しながら、「主なるキリストは・・・ご自分の食卓にわたしたちの平和と一致の神秘をささげます。一致のきずなを保つことなしにこの一致の神秘を受ける者は、神秘を自分の救いのために受けることができません」(40)とまで指摘しています。

わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、その一致のうちに互いにいのちを分かち合い、互いに愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。わたしたちは、その一致を、具体的に社会の中であかしする共同体となるようにと、主から命じられています。ご聖体をいただくわたしたちひとりひとりの責務です。

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教皇ヨハネパウロ二世は、同じ回勅で、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。わたしたちは、いのちを生かし、互いを共同体の交わりへと招き、一致のうちに互いに支え合い仕え合う共同体の姿を通じて、いのちのパンにおける交わりへとひとりでも多くの人が招かれるように努めなくてはなりません。

わたしたちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡によって生み出される絆において、共同体でともに一致しています。

御聖体において現存する主における一致へと招かれているわたしたちは、パウロが述べるように、「このパンを食べこの杯を飲む度ごとに、主が来られるときまで、主の死を告げしらせる」務めがあります。わたしたちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の願いを同じように受け継ぎ、それをこの世界において告げしらせていかなくてはなりません。世界に向かって福音を宣教する務めを、わたしたち一人ひとりが受け継いでいくことが求められています。主の生きる姿勢に倣って、互いに支え合い、互いに身をかがめ、足を洗いあう姿勢で生きることを求められています。

教皇フランシスコは、回勅「兄弟のみなさん」の中に、こう記しています。

「兄弟的無償性を生きない人は、自身を強欲な商人に変え、自分が与えるものとその見返りに得るものをいつも量っています。対して神は、無償で与えてくださいます。忠実ではないものさえも助けるほどにです。・・・わたしたちは無償でいのちを受けました。いのちを得るのに支払いはしていません。だからわたしたちは皆、何ら期待せず、与えることができるのです。助ける相手に見返りを求めることなく、良いことができるのです(140)」

わたしたちは神からの無償の愛のうちに、主の晩餐に招かれています。主御自身である聖体の秘跡のうちに共同体の交わりの中で歩むようにと、招かれています。幾たびも裏切り続けているにもかかわらず、不忠実なわたしたちを主は、幾たびも幾たびも交わりへと招いてくださっています。今日もまた、その最初の招きである主の晩餐を記念するわたしたちの真ん中に立ち、わたしたちを、互いに支えあうものとなるように招いておられます。

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2024年3月28日 (木)

2024年聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日の本日、午前10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサが行われました。

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学校や特別な業務などがある場合を除いて、教区内の司牧活動で働く司祭は、すべて司教とミサを共にして、叙階の誓いを更新することが求められています。本日のミサには、事前の想定以上に、100名を優に超える司祭が共同司式に参加し、司祭叙階の誓いを更新して行かれました。

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また、ミサのはじめには、サレジオ会の深川信一神学生の祭壇奉仕者選任式と、東京教区の今井克明神学生の助祭・司祭候補者認定式も行われました。また先日、アンドレア司教様から助祭に叙階されたばかりのイエズス会のムカディ助祭(コンゴ出身)が、ミサのために奉仕してくださいました。

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下にビデオも張りますが、本日は私の声の調子が思わしくなく、残念ながら高い音が出ていない調子外れになってしまっています。

以下、本日のミサ説教の原稿です。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

教会共同体は、常に聖霊によって導かれ、常に刷新されながら時の流れの道を前進し続けています。教会は、常に古い存在であるけれど、同時に常に新しい存在でもあります。

ガリラヤ湖のほとりで弟子たちを招かれたイエスの呼びかけのことばによって共同体が生まれ、弟子たちと共にした最後の晩餐でご聖体の秘跡を制定され、十字架における受難と死を通じて御復活の栄光を現し、五旬祭の日、人々を恐れ隠れていた弟子たちに聖霊が降り、その出来事を通じて福音を世界各地へと告知する教会が誕生した。教会は、2000年ほど前に起こったこれらの出来事に根ざしています。その意味で、教会は常に古い存在です。しかし同時に、聖霊降臨のその日から、教会は常に聖霊の導きによって先へ先へと、時の流れの中で新たにされながら、前進を続けてきました。その意味で、教会は常に新しい存在です。常に刷新されながら前進する教会です。

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2020年から続いた世界的なパンデミックは、社会に、そして教会にも大きな負の影響を残しました。教皇様は今年の2月11日、2025年の聖年の開催を新福音化推進評議会議長フィジケラ大司教に宛てた書簡を発表されました。その中で教皇様はこの数年を振り返って、「孤独死という悲劇、存在の不確かさ、はかなさを見せつけられたことに加え、わたしたちの生き方も変えられてしまった」と指摘され、その上で、「わたしたちは、与えられた希望の炎を燃やし続け、すべての人に、開かれた精神、信頼する心、広い視野をもって未来を見つめる力と確信を回復させるため、全力を尽くさなければなりません」と呼びかけておられます。

教皇様は2025年の聖年が、「わたしたち全員が緊急性を感じている新たな再生のしるしとして、希望と自信に満ちたムードを再構築するために、大いに助けとなるでしょう」と指摘され、そういったことを踏まえた上で、聖年のテーマを、「希望の巡礼者」と定めておられます。

教皇様は2024年を祈りのうちに聖年に向けての準備を進めるときとするように求められ、その中でも特に、「この数十年間の教導権とともに、聖なる神の民を方向づけ、導き続け、すべての人に喜びに満ちた福音を告げ知らせるという使命を発展させる」ために、第二バチカン公会議の四つの憲章を学び直すことを求めておられます。教会全体が巡礼者として「多様性の調和の中で一致して」シノドスの道を歩むことが、「教会が従うよう求められている共通の道」を明らかにすると、教皇様は指摘されます。

現代世界憲章には、「神の民は、世界を満たす主の霊によって導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、展望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようと努める(11)」と記されています。ですから、時のしるしを読み取ることは、教会共同体にとって忘れることのできない責務です。

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とはいえ、常に新しくされて前進し続ける教会共同体というのは威勢の良い響きですが、日本の教会の現実はどうでしょうか。昨年、日本の教会の教区数は、16から15に減りました。全国各地で信徒数の減少や司祭不足から、小教区の統廃合が聞かれるようになりました。二つあった神学院も、今年から東京に一本化されます。修道院の閉鎖は相次いでいます。もちろん日本の社会全体が少子高齢化の影響で縮小減速傾向にあるのですから、教会もその影響を受けるのは当然ですが、マイナスのイメージが顕著です。

パウロ6世の使徒的勧告「福音宣教」に、「たとえわたしたちが福音をのべ伝えなくとも、人間は神のあわれみによって、何らかの方法で救われる可能性があります」(80)と記されています。

救いのわざは、人間のわざではなくて、神様のご計画のもとにあるので、わたしたちは何も心配する必要はないのかもしれません。しかし問題はそこではありません。「福音宣教」の続きには、「しかし、もしわたしたちが、怠りや恐れ、また恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、果たしてわたしたちは救われるでしょうか」(80)と記されています。

わたしたちはネガティブな現実の前で嘆いて後ろを振り返るのではなく、前を向いて前進を続ける必要があります。なんとしてでも福音を一人でも多くの人に伝えようと様々な手を尽くされる御父の熱意を、具体的に実行するのは、わたしたちの務めです。ですから教会は、福音宣教を「目的」としているのではなくて、福音宣教こそが教会がこの世界に存在する「理由」そのものです。

わたしたちは教会共同体として存在している限り、福音を告げ、多くの人を救いに招くのが当然であって、それはわたしたちにとって副次的な存在理由ではありません。福音宣教はわたしたちの、この世界における根本的な存在理由です。

教皇フランシスコの「福音の喜び」には、「人々との現実の出会いを失って、人間よりも組織に注意を払う、人間不在の司牧」への指摘があり、「歩みそのものよりも『道案内図』に熱心」な教会は、結局、そこに集う人々から熱意を奪い、希望を失わせると記されています(81)。わたしたちも、聖霊の導きに素直に従って、嘆きではなく希望を生み出すような教会でありたいと思います。

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共にシノドスの道を歩み続ける教会共同体にとって、牧者である司祭の存在は重要です。今日のこのミサで、教区で働く司祭団が見守る中で、助祭・司祭候補者認定式と祭壇奉仕者選任式が行われることには、福音宣教の後継者の誕生につながるという大切な意味があります。

司祭への道は、決して共同体の中で序列が上がり段々と偉くなっていくのではなく、反対に、出会う多くの人にいのちを生きる希望を見いだす道を示し、互いの絆を生み出し深めていくために、ともに歩む姿勢を学んでいく道です。司祭養成の道を歩むことは、力強いものとなっていく道ではなく、自分の弱さ、足りなさの自覚を深める道です。自分の弱さを自覚するからこそ、神の力が自分のうちで働くのです。力不足を自覚するからこそ、支えてくださる多くの方々の祈りの力を感じることができるのです。どうか、常に謙遜な奉仕者であってください。

同時に、司祭の養成には、信仰共同体の愛に満ちた関わりも不可欠です。司祭の養成は、養成担当者だけの責任ではなく、教会共同体の皆が責任を分かち合い、祈りを通じて、養成を受ける神学生と霊的に歩みをともにすることが必要です。また神学生にあっては、養成の歩みを進める中で、しばしば困難に直面し、人生の岐路に立たされます。そのようなとき、ふさわしい選択をするために、多くの人の祈りによる支えが必要です。司祭修道者の召命も、信仰における連帯によって生かされます。どうぞ、神学生のために、そして新たな召命のために、お祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、祈りを持って支えてくださるように、歩みを共にしてくださるように、お願いいたします。

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2024年3月27日 (水)

2024年受難の主日(枝の主日)@東京カテドラル

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2024年3月24日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での受難の主日(枝の主日)ミサの説教原稿です。今年は、聖堂の外に集まり、短いですが行列をして入堂することができました。

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なおすでにお知らせしていますが、今後、東京カテドラル聖マリア大聖堂からのミサ配信は、司教司式ミサを中心に、一部のみとなります。配信がある場合は、東京教区ホームページなどでお知らせします。また配信元のYoutubeチャンネルも、関口教会から東京教区に変更となります。詳しくは、東京教区のホームページを、こちらのリンクからご覧ください

なお今年、2024年の聖週間の聖なる三日間は、聖木曜日の聖香油ミサも含めて、すべて配信されます。

受難の主日Bミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月24日

わたしたちが語る言葉は、ただ風に流されて消えていく音の羅列ではありません。わたしたちの語る言葉の背後には、わたしたちの存在そのものがあり、わたしたちの心があり、それだからこそ、わたしたちが語る言葉には力があります。わたしたちの存在を生み出しているいのちが、その背後にあるからです。

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今年の正月の世界平和の日のメッセージで教皇フランシスコは、「AIと平和」というテーマを掲げ、人工知能などのもたらす可能性とその倫理的な方向性を明確にしようとされました。

教皇は、科学技術の進歩と人工知能がもたらす様々な可能性と、新しい技術の裏に隠れて、古来から人類が内包する未知の存在を恐れて、排除する壁を築こうとする傾向が再燃していることを指摘した上で、「人工知能は、人間の比類なき潜在能力や、より高い志に仕えるべきで、それらと競合するものであってはなりません」と指摘されます。

わたしたちは機械ではありません。人工的に合成された音を、外に向かって発生する存在ではありません。わたしたちの発する音は、わたしたちの心を反映した心の叫びであり、その言葉には力があります。

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四旬節を通じて霊的な回心の道程を歩んできたわたしたちは、受難の主日の今日から、聖週間を過ごし、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。その聖週間の冒頭で、主イエスのエルサレム入城の福音が朗読され、そしてミサの中では主の受難の福音が朗読されました。

この二つの朗読ほど、わたしたちの発する言葉の力を考えさせる朗読はありません。その力とは、二つの力です。一つは人のいのちを生かす言葉。そしてもう一つは人のいのちを奪う力。

捕らえられたイエスを目の前にして問いかけるピラトに対して、集まった人々は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音の受難の朗読には記されています。

「十字架につけろ」。なんとわかりやすい短い叫びでしょう。興奮した人々をさらに興奮させるのは、興奮した心に入り込み、それを捉える、わかりやすく短いキャッチフレーズです。「十字架につけろ」という簡単明瞭な叫びは、瞬く間に人々の興奮した心を捉え、大きなうねりを生み出していきました。人の言葉が持つ負の力。暴力的に人のいのちを奪う力は、短いキャッチフレーズが飛び交う中で増幅され、このとき最大限に発揮されていました。

興奮状態の渦の中で、どんな理性的な言葉も興奮した人々を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、抵抗することをやめてしまいます。大きな興奮のうねりに身を任せ、犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡してしまいます。

口々に「十字架につけろ」と叫んでいた人々は、いったい誰でしょうか。

最初に朗読された福音にその同じ人たちの姿が記されています。イエスを喜びの声を持ってエルサレムに迎えた群衆であります。この同じ群衆は、数日後に、イエスを「十字架につけろ」と叫びました。興奮の渦は、理性的な判断をかき消してしまいます。

目の前に展開する大きな興奮の波にただ身を任せ、喜んでみたり悲しんでみたりと、流されるだけの存在が、そこに集まった多くの人たち、すなわち「群衆」です。なぜ自分がそう叫んでいるのか、その理由を考えることはありません。しかし口から発する言葉には、力があります。人のいのちを生かす力、人のいのちを奪う力。自分が発する「十字架につけろ」という言葉が、ひとりの人の、いのちを奪おうとしていることに、気がつこうともしません。

もしタイムマシンが本当にあって、その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆の所へ出かけることができたとして、ひとり一人に尋ねてみたら、どう答えるのでしょう。「別に死んでほしいなんて、自分は思っていない」、「だって、みんながそういっているから」、などなど、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰も感じません。でも口から出た言葉には、力があります。

今の時代のコミュニケーションでは、時として、短い言葉の投げ合いになり、興奮状態の中で、理性的な判断が見過ごされてしまい、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすく、興奮をもたらすその言葉は、いのちを生かす言葉でしょうか。それとも、救い主を十字架につけて殺害したような、いのちを奪う言葉でしょうか。

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わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの人々が、クーデターのあと、いまに至るまで、どれほど翻弄され、暴力の中でいのちの危機に直面しているのか。ウクライナで続いている戦争のただ中で、どれほど多くの人がいのちの危機に直面し、恐怖の中で日々の生活を営んでいることか。ガザを始め聖地で、どれほど多くのいのちが、暴力の中で奪われていることか。

多くのいのちが、恐怖の中で「いまを生きていたい」と叫んでいます。その声が、直接わたしたちの耳に届くことはありませんが、しかし、いのちの危機に直面する人たちの存在は、その言葉に力を与え、その言葉の力をわたしたちは感じることができます。

経済の悪化で職を失った人たち、経済の混乱や地域の紛争の激化によって住まいを追われ、家族とそのいのちを守るために母国を離れ移り住む人たち。思想信条の違いから迫害され差別され、いのちの危機に直面する人たち。異質な存在だからと、共同体から、そして社会から排除される人たち。一人ひとりは、すべて、そこに存在する、賜物であるいのちを生きているかけがえのない神の似姿です。ひとり一人が、「いのちを生きたい」と叫んでいます。その言葉の持つ力をわたしたちは感じることができます。

わたしたちは、いのちを生かす言葉を語るものでありたいと思います。いのちを生きたいと叫ぶ言葉に応えるものでありたいと思います。無責任に、いのちを奪う言葉を語るものとならないように心するものでありたいと思います。

聖週間が始まります。あの日のイエスの出来事にこの一週間心を馳せながら、自分はどこに立っているのか、何を叫んでいるのか、振り返ってみたいと思います。

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2024年3月 3日 (日)

2024年四旬節第三主日ミサ@東京カテドラル

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四旬節第三主日の午前10時の関口教会のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げました。

3月1日は、今年の性虐待被害者のための祈りと償いの日でしたが、その直後の日曜日にも、各小教区では教皇様の意向を持ってミサを捧げることにしております。昨日の日記でも紹介いたしましたが、司教協議会の会長として全国にこの日の祈りの意向を伝え、自らを振り返り反省に基づいて、被害を受けられた方々のために祈り、また対策に真摯に取り組むようにと呼びかけた、わたしの呼びかけ文が、中央協議会のホームページに掲載されています。こちらのリンクです

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以下、本日のミサの説教原稿です。なお、現在、東京カテドラルでは聖堂内の音響設備に不具合が生じており、中継ビデオへの音声の転送ができておりません。そのため、中継映像の音声は、聖堂内のスピーカーからの音声をマイクで拾ったものとなり、不明瞭な部分があることをご承知おきください。聖週間を前にして、その前には、修理が完了すると担当から聞いております。お聞き苦しいとは思いますが、ご容赦ください。

四旬節第三主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月3日

今年一年の幕開けは、能登半島での大きな地震でありました。大きな災害となり、200人を超える方が亡くなられ、復興のためにはまだまだ時間がかかるであろうことが想定されています。教会も、名古屋教区を中心に支援体制を整え、カリタスジャパンも協力しながら、長期的な視点をもって、被災地の方々と共にあり続ける教会の姿を明確に示す道を歩んでいます。

2019年11月に、東北の大震災被災者の方々と会われた教皇様の言葉を思い起こします。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

わたしたちも困難に直面する方々とともに歩み続けることで、展望と希望を回復するための出会いを生み出す友人であり兄弟姉妹であり続けたいと思います。

さて、こういった災害などの大きな出来事が発生すると、今の時代ですから、あっという間にその現場の映像が飛び回ることになります。もちろん報道など、テレビ画面に映し出される映像もあれば、インターネットの時代ですから様々な方が流す映像をわたしたちは目にします。

ただ、画面に映し出されるのは一部を切り取った映像であって、必ずしも起こっている出来事のすべてではありません。その場に実際にいたとしても、それぞれの人の受け取り方は異なっており、同じ出来事に遭遇したすべての人が、必ずしも全く同じ認識を持つとは限りません。情報の受け手が注意深くなければ、自分が生み出した勝手なイメージを信じ込んでしまう可能性すらあります。全体を把握するには、注意力と想像力に基づいた慎重な判断が必要です。

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ご記憶の通り、十字架につけられたイエスの目の当たりにしたとき、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と集まった人々はあざ笑いました。

このあざけりの言葉は、人々が勝手に創り上げたイエスへの期待やイメージに、イエス自身がまったく応えてくれない。力強い預言者リーダーをイエスに求めていたのに、その期待はまったく裏切られた。目の前にいるのは、力なく十字架上で死に行く、敗北者の姿であります。

だからこそパウロはコリントの教会への手紙で、わたしたちが宣べ伝えている十字架につけられたイエスは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人にはおろかなもの」と記します。切り取られたイメージは自分勝手なイエス像を産みだし、その全体の姿を見ようともしません。勝手に生み出したイメージに妨害されて、十字架の持つ意味を多くの人は理解することができません。

十字架とは何でしょう。パウロは同じコリントの教会の手紙の冒頭に、こう記しています。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

パウロは、言葉の知恵により頼むと十字架が虚しくなるといいます。すなわち十字架は人知を遙かに超えた存在であり、それは具体的な行いによって神ご自身がその愛といつくしみをあかしした、行いによる福音の告知そのものであります。十字架は神の愛のあかしです。

十字架上で息絶えていくイエスだけを見るならば、それは敗北者の姿でしかありません。しかしそこに至る道のりと、その後の死と復活の栄光を全体としてみるとき、初めて十字架こそは、神ご自身が自ら創造された人類を愛するがあまり、自らのいのちを犠牲にして人類を救うためにとられた神の愛のあかしの具体的な行動であることが理解されます。

ヨハネ福音は、神殿の境内に入ったイエスが、商売人や両替商を鞭で追い出した話を記しています。その場面だけを切り取ってみれば、イエスを知らない人たちにとっては、とんでもない暴虐を働く人物と映ったでしょうし、その直後に、「三日で建て直してみせる」という言葉を耳にしたときには、夢物語だとイエスをあざ笑ったことでしょう。

人々の目には、そこで起こった出来事だけが切り取られて理解されてしまいます。イエスが、ご自分こそ人々の歩むべき道を示す神、すなわち生きる神殿であることを語ろうとする、その全体的な姿が見えていません。

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わたしたちは、世界に向かって何を示していこうとしているのでしょうか。

パウロがコリントの教会への手紙で言うとおり、わたしたちは、世界に向かって十字架を示していこうとしています。その十字架におけるイエスの受難を告げ知らせていこうとしています。しかし今の時代にあっても、わたしたちのあかしは、一部を切り取って勝手に夢物語と思い込まれ、神の愛といつくしみ、そして神の平和のその全体像を伝えることは、容易なことではありません。

だからこそ、一部の人だけではなく、教会共同体全体が、福音宣教者として召されているのだという意識の改革、つまり教会でいう回心が必要です。一部しか伝わらないのですから、皆がそれぞれに語らなくてはなりません。それぞれが語り行動することは異なっていて当然です。信仰は、私とイエスとの出会いに基づいているからです。しかし皆がそこに責任を持って関わることが重要です。ともに歩む教会は、共に責任を持って福音を告げ知らせる教会です。わたしたちひとり一人が、それぞれの方法で語り続けるとき、やっとそこに全体の姿が見えてくるようになります。イエスの十字架の神秘を告げ知らせるために、皆さんひとり一人が必要です。

さて、教皇フランシスコの指示によって、日本の教会では四旬節第二金曜日を、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定めており、今年は3月1日がその日にあたります。東京教区では、今日の主日にも教皇様の意向で祈りをささげています。

出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いのちの福音」にはこう記されています。

「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。・・・このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

教会にあって、聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が存在しています。共同体の一致を破壊し、性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為によって、多くの方を深く傷つけた聖職者や霊的な指導者が存在します。長い時間を経て、ようやくその心の傷や苦しみを吐露された方々もおられます。なかには、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で、さらなる被害の拡大を生じた事例もしばしば見受けられます。人間の尊厳をおとしめるこういった聖職者の行為を心から謝罪します。責任は加害者にあるのは当然です。

人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。いのちを賜物として大切にしなければならないと説くわたしたちは、その尊厳を、いのちの始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。全体として、教会が、神の愛といつくしみをあかしする者となるよう努めましょう。

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