カテゴリー「配信ミサ説教」の62件の記事

2021年10月17日 (日)

シノドス開始ミサ@東京カテドラル

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本日10月17日、教皇様は世界中のすべての教区で、2023年秋のシノドスに向けた歩みを始めるようにと指示をされました。東京教区では、カテドラルである関口教会の午前10時のミサを、大司教司式ミサとして、シノドス開始のミサとしました。

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神の民としてともに歩みこの道程は、教会のあり方を見つめ直し、新たなあり方を模索する道ですから、教会にとっての回心の道でもあります。関口教会のミサでは、本来は聖堂の外でシノドスの祈りを唱え、回心を象徴して灌水した後に、皆で入堂する予定でしたが、あいにくの雨模様となり、皆さんには席に着いたままで、侍者と司祭団が大扉から入道しながら灌水して始めることといたしました。

シノドス事務局が準備した文書(リンクは日本語訳です)には、今回のシノドスの目的がこう記されています。

「次の基本となる質問がわたしたちを促し、導いてくれます。今日、さまざまなレベル(地方レベルから全世界レベルまで)で行われているこの「ともに旅をする」ことは、教会がゆだねられた使命に従って福音を宣べ伝えることを可能にするでしょうか。また、シノドス的な教会として成長するために、聖霊はどのような段階を踏むようにわたしたちを招いているでしょうか」

この準備文書に記されている10の「探求すべきテーマ」については、今後順に説明してまいりますし、教区のホームページの特設コーナーでは、今週以降、順次、共通理解のためのビデオを公開します。一緒に歩みましょう。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

年間第29主日B
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年10月17日

教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

その上で教皇様は、教会全体にとって、シノドスがまさしくその意味するところである「ともに歩む」プロセスの具現化となることを望まれて、これまでとは異なるシノドスのあり方を定められました。それは、シノドスがローマで行われる2023年の司教たちによる会議だけに終わらず、世界中すべての教区のすべての人と歩みをともにするプロセスとなることであります。

これまでは、テーマに基づいた準備文書がバチカンの事務局で作成され、それに対して各国の司教団が回答を送り、さらにその回答に基づいて具体的な討議資料が作成されて本番の会議に臨むというプロセスでした。これでは確かに、司教たちの考えは集約されますが、教会全体の識別を反映しているとは言い難い。そこで今回は、2021年10月からシノドスの歩みを始めることになり、まず最初の半年ほどで各教区での振り返りと識別が行われ、そこからアジアやアフリカなどの地域別に繋がり、あらゆる声に耳を傾けた上でのローマでの会議という、2年間にわたるプロセスが開始されることになりました。

すでに先週、教皇様は、今回のシノドスのプロセスの開始を、ローマから告知されていますが、世界中の教区は10月17日の主日を持って、それぞれの教区におけるシノドスの歩みを始めるようにと指示をされています。東京教区では本日のこのミサを持って、また各小教区で同様の意向で捧げられているミサを持って、シノドスの歩みを開始いたします。

9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っているという凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されています。これまでのやり方に固執することなく、勇気を持って新しいあり方を模索することは、教皇フランシスコが教会にしばしば求められる道です。

2015年にシノドス創設50周年の式典が行われたとき、教皇様はこう述べておられます。

「まさに『シノドス性』の歩みとは、神が第三千年期の教会に期待しておられる歩みなのです。ある意味、主がわたしたちに求めておられることは、すべて『シノドス』(ともに歩む)ということばの中にすでに含まれています。信徒と司牧者とローマの司教がともに歩むこと、それをことばでいうのは簡単ですが、実行に移すことは、それほど容易ではありません。」

第二バチカン公会議の教会憲章は、教会が個人の信心の積み重ねと言うよりも、全体として一つの神の民であることを強調しました。教会憲章には、「しかし神は、人々を個別的に、まったく相互の関わりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ」(教会憲章9)と記されています。

さらに教会憲章は、洗礼によって一つの民に結びあわされたわたしたちは、「ある人々はキリストのみ心によって他の人々のための教師、神秘の分配者、牧者として立てられているが、キリストのからだの建設に関する、すべての信者に共通の尊厳と働きについては、真実に平等」(教会憲章32)であると記しています。

ともに旅を続ける神の民にあって、わたしたち一人ひとりには固有の役割が与えられています。共同体の交わりの中で、一人ひとりがその役割を十全に果たすとき、神の民全体はこの世にあって、福音をあかしする存在となり得ます。

わたしたちの信仰は、神の民という共同体の信仰です。一つのキリストの体に結ばれた、共同体の信仰です。わたしたちの信仰は、その共同体における「交わり」のうちにある信仰です。

「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。パウロのコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記されていました。その「あずかる」が、すなわち「交わり」のことです。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。

信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の姿を反映しています。「交わり」は、わたしたちの共同体で行われる典礼や祈りによって生み出され豊かにされていきます。

交わりによって深められたわたしたちの信仰は、わたしたち一人ひとりを共同体のうちにあってふさわしい役割を果たすようにと招きます。交わりは参加を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを十全に果たしていくとき、神の民は福音をあかしする宣教する共同体となっていきます。ここにシノドスのテーマである「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」の意味があります。

今回のシノドスの歩みを通じてわたしたちは、共同体における信仰の感覚をとおして、神の民であるという自覚を深めるように招かれています。社会の現実、特に今般のパンデミックによる痛みへの共感を持つように招かれています。社会にあって今を一生懸命に生きている人たち、すなわち貧しい人々との対話や連帯へと招かれています。いのちを生きる道や文化の多様性を尊重するように招かれています。信仰において、互いに裁くものではなく許し合うようにと招かれています。

シノドスの準備文書の冒頭にこう記されています。
「ともに旅をし、これまでの旅をともに振り返ることで、教会はその経験を通して、どのようなプロセスが、交わりを生き、参加を実現し、宣教に自らを開くのに役立つかを学ぶことができるのです」

東京教区では、折しも宣教司牧方針を、今回と同様に多くの方の意見に耳を傾けながら定めたところです。残念ながら、発表した直後から感染症の状況に翻弄されており、宣教司牧方針を公表したものの、深めることが一切出来ずにおりました。

今回のシノドスの歩みは、そういった状況にある東京教区にとっては、ふさわしい呼びかけとなりました。シノドスの歩みをともにすることで、わたしたちは今の東京教区の現実の中で、神の民であるとはどういう意味があるのかを理解し深めようとしています。そのプロセスの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきます。そのことはちょうど、東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現と直接につながっています。

本日からシノドスの道をともに歩み、ともに振り返り、ともに理解を深め、ともに祈りながら、わたしたちが交わり、参加し、宣教する神の民となるように、教区の宣教司牧方針を深めながら、旅路へと招かれる主の声に耳を傾けてまいりましょう。

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2021年9月26日 (日)

年間第26主日:世界難民移住移動者の日(配信ミサ)

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週刊大司教でも触れていますが、9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。本来であれば、教会の大切な活動である難民や移住者への支えの活動のために、全世界の教会は献金をする日となっているのですが、残念ながら今年はミサの非公開の時期と重なってしまいました。様々な事由から困難な旅路につき、いまその途上にある人たちのために、お祈りくださいますようにお願いします。

教会は従前から、旅路にある人への配慮の必要性を強調してきましたし、特にその命を危機にさらすようなことのないように、特段の配慮をするように教えてきました。また教会のそういった配慮を具体的に表現するため、国際カリタスを通じた全世界での難民支援活動を行い、また教皇庁の人間開発促進の部署に難民セクションを設けて、教皇様が直接関与する形で、支援活動を強めてきました。

移動の途上にあって命を落とされる事案は、増えることはあっても減少してはいません。教皇様が就任直後にアピールをされた、アフリカから地中海へ乗り出して命を落とされる多くの人の存在を始め、アフリカや中東、そしてアジアでも、紛争地域にあっていのちの危機に直面する多くの人たちは後を絶ちません。さらには経済的困難から移住することを選択し、新たな居住地で命の危機に直面する方もおられます。日本でもそういった残念な例がありますが、公的な保護が十分ではなく逆にその尊厳を奪われて、中には命を落とす方もおられるような事案があることも事実です。人間のいのちの尊厳を奪い去る暴言や暴行は、誰であっても、とりわけ保護する立場にある公的機関である場合にはなおさら、それを正当化することは、命が神からの賜物であると主張する限り、出来ることではありません。互いに支え合い助け合うという、賜物である命に与えられたわたしたちの存在の意味を、今一度、心に刻みたいと思います。

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以下、本日午前10時から、カトリック関口教会のYoutubeアカウントから配信された主日ミサの、説教原稿です。

年間第26主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月26日

9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。

旧約聖書のレビ記19章34節には、「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」と記されています。

教会にとって、移住者への司牧的配慮は、その形態や理由の如何を問わず、長年にわたって優先課題とされています。それは旧約時代から続く、寄留者への配慮の定めに基づいています。

現在は人間開発促進の部署として統合されましたが、かつて浜尾枢機卿様が議長を務めておられた教皇庁の移住移動者評議会が2004年に発表した文書、「移住者へのキリストの愛」には、御父によるこの命令を前提としながら、次のように記されています。

「移住者を思うとき、教会は、『わたしが旅をしていたときに宿を貸してくれた』と語られたキリストをいつも観想します。したがって、移住の問題は、信じる者の愛と信仰へのチャレンジでもあります」(12)

その上で同文書は、「今日の移住現象は重要な『時のしるし』であり、また、人類を刷新し、平和の福音を宣言するわたしたちの働きのうちに見いだされ、役立てられる者とするためのチャレンジです」(14)と記し、難民、移住、移動者へのかかわりは、単に教会の慈善事業なのではなく、信仰を生きる上で欠かすことのできない回心への呼びかけであることを明確にします。

教皇フランシスコは、今年の世界難民移住移動者の日にあたりメッセージを発表され、テーマを「さらに広がる“わたしたち”へと向かって」とされました。

教皇様は、「わたしたち」という言葉を、「あの人たち」という言葉への対比として使っておられます。つまり、難民や移住者の抱える困難は、自分とは関係のない他人である「あの人たち」の問題なのではなく、「わたしたち」の問題であることに思いを馳せ、「わたしたち」と言う言葉の包摂する範囲を、自分の知り合いの者たちに限定するのではなく、さらにひろげて、困難に直面するすべての人へとひろげていくことを呼びかけておられます。

同時に教皇様は、この手を差し伸べる業を、単なる慈善のわざとは見なしておられません。教皇庁の人間開発促進の部署には難民セクションがあり、その難民セクションの関係者は直接教皇様に報告をするようにと定められております。その関係者によると、難民や移住者の課題への取り組みについて報告をするとき、教皇様は会話の中でしばしば、「わたしの家は、あなたの家だ」というフレーズを口にされると言います。

「わたしの家は、あなたの家」という言葉は、困難を抱える人をわたしのところへ迎え入れる優しさに満ちあふれた言葉として響きます。しかしそれは単に、自らの家に困窮する人を迎え入れなさいと言う、慈善行為の勧めに留まってはいません。

教皇様のこの言葉の意味は、「わたしの家」と言うことで、自分自身がその家における責任をもった居住者であることを表明するように、迎え入れた「あなた」も、「わたし」と同じように「この家」の責任ある居住者となることを意味しているのだと言います。つまり援助の手を差し伸べ、迎え入れた人は、単なるわたしの家のゲストではないということであります。迎え入れた人は、そのときからわたしと同じ責任ある居住者であることを意味します。もちろん教皇様は「わたしの家」という言葉で、「国家」を意味しておられます。

教皇様はメッセージで、「神が望まれたその“わたしたち”は、崩壊してばらばらになり、傷つき損なわれています」と指摘されます。その上で教皇様は、「内向きで攻撃的なナショナリズムや過激な個人主義は、世の中でも教会内でも、その“わたしたち”をばらばらにしたり分裂させたりします。そしてもっとも大きな犠牲を払わされるのは、すぐに“あの人たち”となりうる人たち、すなわち、外国人、移住者、疎外された人、つまり実存的な周縁部に住まう人たちです」と記され、ともに「共通の家」に住まう兄弟姉妹とともに、「家族」を修復するようにと呼びかけておられます。

民数記は、モーセ以外の70人の長老にも、聖霊の導きがあるときに限り預言を語る力が授けられたことを記します。モーセにだけ与えられていた特権を奪われたという思いが、モーセに長年仕えるヨシュアにはあったのでしょう。やめさせるべきだと進言するヨシュアに対して、モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と述べて、大切なのは、神の民すべてが与えられた役割を忠実に果たして、互いに支え合いながらともに共同体を育てていくことだと指摘します。

使徒ヤコブは、この世の富は、永遠のいのちを保証するものではないことを明確に指摘し、さらにはその富を蓄えるために犠牲となった多くの人の苦しみが、終わりの日には裁きとなって自分に返ってくることを指摘します。

さらに使徒ヤコブは、「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」と記し、弱い立場に置かれた人たちへの正義にもとる行いを咎めています。まさしく多くの移住者が、とりわけ法的に弱い立場にある人たちが、人間の尊厳をないがしろにされ、排除される事例は、現代社会でもしばしば聞かれます。

マルコ福音は、神の国に入る者となるためには、中途半端ではなく、徹底的に福音に生きる必要があることを、イエスが厳しい口調で語っている様を記します。同時にイエスは、その厳しさは自分自身に向かう厳しさであって、他人を裁く厳しさではないことを明確にします。弟子たちは、自分たちの仲間でないものを裁こうとしますが、イエスは「わたしに逆らわない者は、わたしの味方」と述べ、弱い立場にいる人へのいつくしみに徹底的に生きることこそが、救いにとって第一に必要であることを示します。

賜物であるいのちをいただいたわたしたちは、国籍や文化の違いを乗り越えて、神から愛される兄弟姉妹として生かされています。わたしたちがするべき事は、そのいのちがすべて一つの体につながれ、永遠の命を受けるように、いつくしみの手を差し伸べて助け合うことであります。異なる存在を排除して、いのちを危機に直面させることではありません。

福音に徹底的に従おうとするわたしたちは、社会にあって弱い立場にいる多くの人たちへのいつくしみに徹底的に生きる者でありたいと思います。助けを求める人たちに対して、「あの人たち」と見なして背を向けるのではなく、同じいのちを賜物として与えられている「わたしたち」として、創造主である神の懐にともに抱かれ、互いに支え合い助け合いながら、それぞれの役割を果たしていく者となりましょう。

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2021年9月19日 (日)

年間第25主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

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年間第25主日の9月19日、午前10時から、非公開でささげられ配信された主日ミサの説教の原稿です。

新規陽性者数が減少を続けていることが事態が好転している兆しだと信じていますが、このまま9月末日で緊急事態宣言が解除されるのであれば、10月1日からは、以前のステージ3に戻して、ミサを公開するようにしたいと思います。

なお10月以降、小教区の主日ミサとは別に、教区内で土曜日などにミサを伴う行事がいくつか予定されていますが、それぞれの主催者にあっては、必ず聖堂を管理する主任司祭・責任者と相談し、その小教区などの定めている感染対策を遵守されるようにお願いいたします。

以下、本日午前10時に関口教会のYoutubeチャンネルで配信されたミサの、説教原稿です。

年間第25主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月19日

公開ミサを自粛しているために教会活動が立ち止まってしまい、そのためどうしても忘れられがちなのが残念ですが、世界の教会は教皇様の回勅「ラウダート・シ」に触発された「被造物の季節」を、そして日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」を、9月1日から10月4日まで、すなわちただいまの時期に過ごしております。

人類は常になんらかの発展を指向し、与えられた資源を活用することで、より良い生活を、そして社会を手に入れようと努めてきました。もとより生活が便利になり、健康や安全が保証される社会を実現することは、より共通善に近づくことであるとも考え、研鑽を重ね、努力を積み上げてきました。残念なことに、教皇が回勅「ラウダート・シ」の冒頭で指摘するように、その努力の過程でわたしたち人類は、自分たちこそが「地球をほしいままにしても良い支配者や所有者と見なすように」なり、「神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり乱用し」てきました。その結果、共通の家である地球を深く傷つけてしまったと指摘する教皇は、さらにこう述べています。

「わたしたちが神にかたどって創造された大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません。」(67)

その上で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると指摘し、密接に結びあわされている森羅万象を俯瞰するような、総合的視点が不可欠であることを強調されます。

わたしたちの心には、競争の原理が刻み込まれているのでしょうか。競争に打ち勝って、より良い人生を手に入れたい。そう願って、世界的な規模で続けられたさまざまな競争は、結果として、共通の家である地球を傷つけてしまった。それは、わたしたちの願いが、神の御心に適う願いではなかったためではないでしょうか。

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に逆らう者にとっては、神による永遠の救いではなく、この世での救いこそが現実であって、それは、神のいつくしみとは対立する利己的な欲望の実現でしかありません。しかし神に従い真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

教皇は、わたしたちにいのちを与えられた創造主が、人類にどのような使命を与えたのかを記す創世記の話を引いて、「ラウダート・シ」にこう記します。

「聖書が世界という園を『耕し守る』よう告げていることを念頭に置いたうえで、・・・『耕す』は培うこと、鋤くこと、働きかけることを、『守る』は世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」

すなわちわたしたちは、被造物の上に君臨して支配し浪費する存在ではなく、被造物を管理し守り育てるようにと命じられた、奉仕する支配者でなければならないことが記されています。

心に刻み込まれた競争の原理は、利己的欲望と相まって、わたしたちを君臨する支配者にしてしまいました。しかし「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と述べられた主は、わたしたちに奉仕する支配者となることを求められます。それこそは、主イエスご自身が自ら示された生き方であります。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ10章45節)」と、マルコ福音の続きに記されています。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、神の平和は実現せず、いのちを奪うような混乱が支配すると、使徒は指摘します。

使徒は、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです」と記します。「間違った動機」とは、すなわち時空を超えたすべての人との繋がりに目を向けず、今の自分のことだけを考える利己心がもたらす動機です。その利己的な動機による行動の選択が、被造界を破壊してきたのだと教皇は指摘します。

受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類に対する、神の愛といつくしみが具現化しています。イエスの受難への道は、神の愛のあかしであります。十字架は、神の愛の目に見える証しであり、十字架における受難と死こそ、具体的な行いによる神の愛のあかしです。神の常識は、救いへの希望は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果としてあることを強調します。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、わたしたちは神の愛といつくしみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

主イエスは、その受難と死を通じて、わたしたちに君臨する支配者ではなく、奉仕する支配者としての生き方を明確に示し、わたしたちがその生き方をあかしするようにと求められます。

繰り返しわたしたちを襲う大規模な災害は、そのたび事にわたしたちに価値観と発想の転換を求めます。わたしたちの徹底的な回心を求めます。そしていま、感染症のただ中で、わたしたちは価値観と発想の転換を求められ、回心を求められています。

9月7日、教皇フランシスコは、正教会と英国国教会のそれぞれの代表とともに、環境に関するメッセージを発表されました。その中で、環境をめぐる持続可能性を具体化することが急務の課題であると指摘し、さらには環境問題が、特に貧しい人々に与える影響を考慮することや、こういった課題に取り組むための世界的な協力構築の必要性を真摯に考えるようにと求めておられます。その上で、このパンデミックの状況は、わたしたちが短期的視点から目先の利益に捕らわれて行動するのか、はたまた回心と改革の時とするのかの選択肢を与えているのだと呼びかけます。

いまは視点を転換し、常識を打ち破り、神の呼びかけに耳を傾け、その知恵に倣って生きる道を選び取るときであります。

日本では明日9月20日が、敬老の日とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。何歳からを高齢者と呼ぶのかについては、さまざま議論があることでしょうが、人生の経験を積み重ね、いのちの時を刻んでこられた多くの方々のために、神様のさらなる豊かな祝福をお祈りいたします。教皇様は今年から、7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音をあかしする生活には、定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音をあかしするために、神の呼びかけに応える道を選択し、たゆむことのない回心の道を歩みましょう。

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2021年9月12日 (日)

年間第24主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

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教皇様は、本日9月12日朝にローマを発ち、まずハンガリーのブダペストへ向かわれます。ブダペストでは、折から開催されている第五十二回国際聖体大会の閉会ミサを司式されます。

その後、スロバキアの首都ブラチスラヴァへ移動され、15日(水)まで滞在され、さまざまな行事をこなされることになっています。先般手術を受けられたこともあり健康不安説も出たりしましたが、教皇様はいつもと変わらず司牧訪問へ出かけられました。先ほどブダペストへの到着の動画を拝見しましたが、お元気な様子でした。教皇様の今回の司牧訪問の安全と成功のために、お祈りください。

今回の司牧訪問の詳しい日程は、英語ですが、こちらのバチカンのサイトをご覧ください

先日来お知らせしている2023年秋のシノドスへの道程ですが、一番最初の準備文書が、9月7日の教皇庁でのシノドス事務局による記者会見で発表されました。翌日には英語版が、メールで届けられましたので、現在、中央協議会で翻訳中です。これに関しては、想像より長い文書でしたが、10月以降の教区での意見の聴取開始が求められていますので、間もなくないようについてお知らせするように、東京教区の担当者である小西神父様と準備を進めてまいります。また必要な情報は、適宜、教区のホームページに掲載します。

以下、本日9月12日午前10時に東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた配信ミサの、説教の原稿です。昨日の週刊大司教と重なるところが多々ありますが、ご容赦ください。

年間第24主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月12日

感染症の拡大を防ぎ、また自分のことだけではなく、隣人のいのちを守るために、愛の心を持って、教会の活動自粛に協力いただいている皆様に、心から感謝いたします。今日の主日も、教会共同体の霊的な絆に繋がれて、わたしたちは祈りのうちに一致しています。この配信ミサを一つの助けとして、互いの霊的な絆の存在に心を向けたいと思います。またこうしてカテドラルでささげられている大司教司式のミサは、ここにいるごく少数の者の個人的信心のためではなく、教区共同体の典礼行為として、教区のすべての皆様との霊的一致のうちにささげられていることを、あらためて申し上げたいと思います。復活の主は、死に打ち勝ったそのいのちの力をもって、いつもわたしたちと共にいてくださいます。

さて、この夏には、オリンピックとパラリンピックという世界的な行事が、東京を中心に開催されました。先週の日曜日9月5日は、パラリンピックの閉会式でありました。

感染症が終息しない中で一年延期されたこともあり、また緊急事態宣言のなかでもありましたので、先に開催されたオリンピックとともに、こうした状況下で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありました。参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思いますし、わたし自身も含め、開催を不安に感じた方も少なくないと思います。

教区としては、数年前から、選手村での宗教的サポートのために、他の宗派の方々と一緒になって協力する準備を進めていたところでしたが、このような状況下で、実際に選手村で活動することは出来なくなりました。また選手や関係者も外に自由に出てくることが出来ないばかりか、宗教者が選手村に入ることも出来なくなり、結局いくつかの言語で霊的メッセージやロザリオの祈りのビデオを作成して、組織委員会に提供することしか出来ませんでした。組織委員会では各宗派に公平を期すため、そのビデオがどのように公開されどのような反響があったのかは公表されていません。ですからわたしたちとしても、かなりの時間を掛けて準備したそういったビデオが、どのように役に立ったのかどうか、分からないのは残念です。少しでも、参加された方々の霊的な助けとなった事を願っています。

さて、障がいと共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、大会が象徴する価値観からも重要な意味をもつ出来事であると思います。しかし、オリンピックと比較すれば、報道などの面で特にそうですが注目度は高いとは言えず、加えて今回の感染症の事態で、さらにパラリンピックの存在がかすんでしまったのは、残念です。

パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、スポーツイベントを超えて社会全体へ重要なメッセージを発信していると言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」であります。

同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。

教会はすべてのいのちが神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。また教会は、わたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならないと主張します。

残念ながら、いのちの多様性を認めながら共に支え合って生きる社会を目指すのではなく、互いの違いを強調して分断し、異なる存在を排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって見受けられます。

世界を巻き込んでいま発生しているいのちの危機は、その解決のためにも、世界全体の視点からの強固な連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態に直面しても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは取り残されようとしています。

教皇フランシスコは、パンデミックの中で長らく中断していた一般謁見を2020年9月2日再開したとき、こう話されていました。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。」

しかし今年の復活祭のメッセージで教皇は、国際的な連帯が実現していない事実を指摘し、「悲しいことに、このパンデミックにより、貧しい人の数と、数えきれないほど多くの人の絶望が激増しています」と述べられています。

この状況の中でも、一人ひとりのいのちの尊厳をないがしろにするような行動や事件は相次いでいます。いのちを賜物として与えられた存在として、わたしたちすべては、互いに助け合い、支え合い、お互いの持ついのちの驚くべき物語に耳を傾け、尊敬の念を持って、いのちを生きていかなくてはなりません。

この社会の現実に対して、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、連帯のうちにともに支え合おうという、いのちを守る社会の実現を力強く呼びかけています。

使徒ヤコブは、信仰があるといっても行いが伴わないのであれば、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。その上で、「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。

マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、各地で耳にしてきた主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と迫ります。わたしたちは、いま、主によって回答を迫られています。自ら決断して回答するように求められています。わたしたち一人ひとりは、一体何と応えるのでしょう。誰かから、どこかで聞いた話ではなくて、わたしにとって、主イエスとは何者なのでしょうか。

わたしたちは、いのちを与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神のいつくしみを、愛を、具体的にわたしたちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。主こそわたしたちの救い主と、ペトロと一緒に応えるのであれば、わたしたちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべてのいのちが神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 

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2021年9月 5日 (日)

年間第23主日:被造物を大切にする世界祈願日ミサ

Cathedral210905

9月第一の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、主日ミサを捧げ配信いたしました。本日の閉祭に歌われたのは、2019年に教皇様が訪日されたとき、東京ドームでのミサなどで歌われたものです。「すべてのいのちを守るため」のテーマに合わせての選曲です。この歌の譜面は、このリンクの中央協議会ホームページからダウンロードすることが出来ます。楽譜は一番下の「楽譜(伴奏つき)」からPDFで、録音も聞くことが出来ます。

以下、本日主日配信ミサの説教原稿です。

年間第23主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月5日

回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではその直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月5日の年間第23主日、本日が、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。また「ラウダート・シ」の理念の啓発と、それを霊的に深めるため、9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日」からアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な期間、「被造物の季節(Season of Creation)」と定められました。

この祈願日にあたって、マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラーダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、わたしたちの心の耳が開かれる必要があるからです。時に現実だとか常識だとかしがらみだとか、さまざまに呼ばれている壁、すなわち歴史における時間の積み重ねが生み出した結果は、わたしたちの思考を縛り付けてしまっています。縛り付けるだけではなく、その壁は、思考の自由も行動の自由も奪ってしまいます。

教皇フランシスコは、そういった壁をすべて打ち壊し、常識や人間関係のしがらみにとらわれることなく、いのちが育まれるこの共通の家をどうしたら守ることが出来るのか、総合的な視点を持って取り組むようにと呼びかけます。その呼びかけは、教皇個人の呼びかけではなく、わたしたちの共通の家からの叫びであり、神からの呼びかけです。その叫びは、呼びかけは、聞こえているでしょうか。心の耳を開いていただく必要が、ここにあります。

教皇はこの祈願日について、2016年の最初のメッセージで、「被造物の管理人となるという自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理をわたしたちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、わたしたちが生きているこの世界に対して犯された罪へのゆるしを乞うのにふさわしい機会」となる日であると述べています。

教皇フランシスコが「ラウダート・シ」で語る被造物への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めよういう環境問題の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、教皇がもっとも強調する課題は「ともに暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことを求めているものです。

そのために教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると指摘し、それを総合的エコロジーの視点と呼んでいます。

日本の教会も、2019年の教皇訪日に触発され、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めました。これは1981年に教皇ヨハネパウロ二世が訪日され、その平和アピールに触発されて8月の平和旬間を定めたように、教皇の「すべてのいのちを守るため」という呼びかけに応えるためであります。

教皇フランシスコは、神がよいものとして与えてくださったこの共通の家を、わたしたちが乱用し破壊しているとして、「ラウダート・シ」の冒頭にこう記しています。

「この姉妹は、神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり濫用したりすることによって生じた傷のゆえに、今、わたしたちに叫び声を上げています。わたしたちは自らを、地球をほしいままにしてもよい支配者や所有者とみなすようになりました」(2)

さらに教皇は、人間のいのちが成り立っている三つの関係、すなわち、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」が引き裂かれている状況を指摘し、こう記します。

「聖書によれば、いのちにかかわるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です。わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました」(66)

すなわち、環境破壊や温暖化も含めて、共通の家である地球の危機は、この三つの関係の破壊による罪の結果であると教皇は指摘されます。そうであればこそ、わたしたちはその関係の修復に努めなければなりません。その意味で、「ラウダート・シ」は環境問題解決への問いかけの文書ではなく、被造物全体を包括した問題への取り組みへの呼びかけであり、罪の状態を解消するための回心の呼びかけの書でもあります。

したがって「すべてのいのちを守るための月間」は、具体的なエコロジーの活動への招きと言うよりも、わたしたちの生き方の根本姿勢の見直しの呼びかけであり、神との関係、被造物との関係を見つめ直す具体的な行動への呼びかけを伴って、霊的な深まりと回心へとわたしたちを招いています。

イザヤ書は、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。・・・神は来て、あなたたちを救われる」という神の励ましの言葉を記しています。

感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、わたしたちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧きいで」るように、不安におののく者に希望を生み出し、いのちが生かされる喜びを記します。

使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かにわたしたちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって、いのちが豊かに生かされていることにあるのだと指摘します。

わたしたちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。

わたしたちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、わたしたちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。わたしたち一人ひとりのいのちが豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。わたしたち一人ひとりの心には今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が、福音朗読を通じて響き渡っています。神の呼びかけに、耳を傾けましょう。

 

 

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2021年8月29日 (日)

年間第二十二主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

210829a

8月29日、年間第二十二主日の午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信した大司教司式ミサの説教原稿です。前日土曜日午後6時配信の週刊大司教のメッセージは、この説教の短縮版ですので、多少重複するところがあるのはお許しください。

年間第22主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年8月29日

緊急事態宣言は継続しており、社会生活にあってわたしたちには、感染対策として慎重な行動をとる必要がまだまだ求められています。すべてのいのちを守る選択として、また隣人愛にもとづく行為として、教会は現在の選択を続けていきたいと思います。同時に病床にある方々の一日も早い回復と、命を助けるために日夜努力を続けておられる医療関係者の方々のために、あらためて祈りたいと思います。

わたしたちは、実際に教会に集まってともに感謝の祭儀にあずかることの出来ない今だからこそ、主イエスのわたしたちの間での現存について考えてみたいと思います。

主は救いの業を成し遂げるために、「常にご自分の教会とともにおられ、特に典礼行為のうちにおられる」と記す第二バチカン公会議の典礼憲章は、続けて、「キリストはミサのいけにえのうちに現存しておられる」と指摘します。(7)

その上で、主ご自身はミサのいけにえをささげる奉仕者のうちに現存し、「何よりも聖体の両形態のもとに現存しておられる」と強調します。

しかし同時に典礼憲章は、「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる」とも記し、「聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語られるからである」と指摘します。この指摘には重要な意味があります。ミサにおいて聖書が実際に声にして朗読される意味は、書かれている言葉が朗読されることによって、生きた神の言葉としてわたしたちの心に届くからです。ミサのいけにえにおいて、御聖体の秘跡を大切にするキリスト者は、同時に神の言葉の朗読をないがしろにすることは出来ません

同じ公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、いのちのパンとしての主イエスの現存である神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。

使徒ヤコブは、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなた方の魂を救うことが出来ます」と書簡に記しています。

その上で使徒は、その心に植え付けられた御言葉、すなわち主ご自身を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。わたしたちは、典礼の中で語られる神の言葉に現存される主を心にいただき、常にその呼びかけに応える者でありたいと思います。朗読される御言葉を通じて、神が今日、わたしたちに何を呼びかけておられるのか、この喧噪に満ちあふれた社会のただ中で、心の耳を澄ます謙遜な者でありたいと思います。あふれんばかりに与えられわたしたちを取り囲む情報に翻弄され、時にわたしたちの心の耳は、神の御言葉を聞き逃してしまうことがあります。心の耳を研ぎ澄ます者でありたいと思います。

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さて、申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るようにと命じられた話を記しています。さらに、掟と法を守るというその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになるとも記します。すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけなのではなく、神の栄光をすべての人に対して具体的に表すためであります。

マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対して福音は、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘したイエスの言葉を記します。

この一年以上わたしたちは、感染対策の基本として、手を洗ったりうがいをしたり、人と交わるときにマスクをしたりすることが、ある意味で当然と考えられるような現実の中にいます。もちろんそういった選択が法で決められているわけではありませんが、繰り返すうちに当たり前の行動となり、そしてそれが長期に及ぶに至って、ルーティン化してしまうこともあり得ます。さすがに今の段階でそういった行動の持つ意味が忘れられたと言うことはないでしょうが、仮に何年も続くのあれば、なぜ手を洗うのか、なぜうがいをするのかの背後にある理由が顧みられなくなり、ただ手を洗うことやマスクをすることやうがいをすると言う行為自体が大切だと思われてしまう可能性もあります。

マタイ福音の5章17節には、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。

定められた掟の背後にある理由、すなわち神の望まれる生き方に近づくための道しるべとして与えられた法や掟の役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。

使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた背景にある神の呼びかけを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、神の思いに忠実である者、すなわち「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

あらためて言うまでもなく、わたしたちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記します。

「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。(119)」

その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます。・・・一体、わたしたちは何を待っているのでしょうか。(120)」と記し、福音宣教者としての召命に、わたしたち一人ひとりが目覚めるように促します。

福音を告げるためには、わたしたち自身がそれに生きていなくてはなりません。わたしたちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、わたしたちが人生で出会う人をキリストとの個人的出会いへと招かなくてはなりません。

そのためにこそ、わたしたちは、神の言葉をただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

わたしたちは、聖体の秘跡を通じて、現存される主と出会いますが、同時に典礼において語られる神の言葉を通じても出会っていることを思い起こしましょう。そして、語られる御言葉に心の耳を傾け、主の語りかけを具体的に生きる者となりましょう。

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2021年8月15日 (日)

聖母の被昇天2021@関口教会

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8月15日。聖母の被昇天の祭日であるとともに、終戦の日でもあり、教会はこの日で8月6日から始まった平和旬間を締めくくります。

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関口教会では、強い雨が降りしきる中でしたが、11名の子どもたちが初聖体を受けられました。おめでとうございます。初聖体を受けた子どもたちは、説教の後に前に出て、復活のロウソクからそれぞれのロウソクに火をいただいて祝福を受け、また聖体拝領も内陣に上がっていただきました。またミサの最後には、関口教会からお祝いのメダイやカードをいただきました。

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また本日はわたしの霊名であるタルチシオの記念日です。現在の典礼暦では8月12日に移動しているかと思いますが、3世紀頃のローマでの殉教者で、8月15日に殉教したと言われます。捕らわれている人たちに密かに聖体を届けようとして捕まり、殉教した少年と言われますが、実際にはもう少し青年の助祭であったともいわれます。ヨーロッパでは昔から侍者の保護の聖人です。関口教会を始め、多くの方からお祝いの言葉とお祈りをいただきました。ありがとうございます。聖タルチシオのように、最後まで主に忠実に従うものであることが出来るよう、お祈り下さい。

以下、本日の関口教会でのミサの説教原稿です。

聖母の被昇天祭日
2021年8月15日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

8月15日は、聖母被昇天を祝う祝日であり、同時に日本においては、1945年のこの日に終わりが宣言された戦争の記憶を思い起こす日でもあります。教皇フランシスコは、2019年11月24日に広島を訪れ、次のように呼びかけられました。

「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。・・・この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません」 

その上で教皇は、「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」と述べ、核兵器廃絶への決意を世界に向けて宣言されました。

教皇フランシスコが呼びかけるように、「平和となる道を」切り開き続けるために、わたしたちは過去を振り返り、「思い出し、ともに歩み、守る」事を通じて、神の平和の実現のために祈り続け、また行動し続けていきたいと思います。わたしたち人類が、「和解と平和の道具となり」、世界的な連帯のうちに互いを大切にしようと誓うとき、そこに希望が生まれると教皇フランシスコは説いておられます。

教皇は、今般のコロナ禍にあっても、連帯して支え合うことの重要さを強調されてきました。

しかし、このいのちの危機に直面するなかにあってさえも、世界的な連帯と支え合いは実現していません。コロナ禍は疑心暗鬼の暗闇の中で、分断と対立を助長してしまいました。今年の復活祭メッセージで、教皇は次のように失望を露わにされました。

 「社会的、経済的な危機はいまだに深刻な状態にあり、とくに貧しい人に大きな影響を及ぼしています。それにもかかわらず武力紛争と軍備拡張はとどまることを知りません。今、こんなことがあっていいはずがありません。」

わたしたちには、神の平和を確立するため、するべき事が山積みであることは明らかです。教皇の連帯への呼びかけを胸に刻みながら、平和へのさらなる祈りと行動をあらためて誓い、今年の平和旬間を締めくくりたいと思います。

本日のルカ福音は、聖母讃歌「マグニフィカト」を記しています。

「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が人を計る量りについて語ります。それは人間の常識が定める価値に基づく量りではなく、神ご自身の価値観に基づいた量り、すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだ、愛する存在なのだ、という量りであります。人間の常識の量りが価値を認めない存在にも、神は十分な価値を見いだされると聖母は歌います。

神は、自らが創造されたすべてのいのちが、一つの例外もなく大切なのだと言うことをあかしするため、具体的に行動された。そこに神の偉大さがあるのだと聖母は宣言します。自らの神の母としての選び、それ自体が、人間の常識をはるかに越えた神の価値観と、すべてのいのちを愛する神の行動の具体的な現れであると、聖母は強調します。

「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし」と歌うことで、聖母は、あたかもこの世を支配しているという幻想におぼれて神を忘れ、傲慢に生きるわたしたち人類に対する警告を発しておられます。誰ひとり排除せず、徹底的に愛を注がれる神は、わたしたちが連帯の絆を深め、互いに支え合うことで、神からの賜物であるいのちを守り、生かすようにと求められます。

エリザベトは「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と聖母に語りかけます。わたしたちにとって、神のことばが実現することこそが、神の望まれる世界の実現であり、平和の実現であります。平和の実現のために働く者は、神から喜ばれる幸いな存在であります。平和の実現を求めて、神の母、教会の母、平和の女王である聖母に倣って、神の導きに信頼しながら、信仰生活を歩んで参りましょう。

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本日このミサの中で、初聖体を受けられる方々がおられます。イエス様は、弟子たちに、「いつも共にいる」と約束されました。わたしたちは、どこに進んでいけば良いのか分からない暗闇の中に捨て置かれているのではなく、いつもイエス様が共にいてくださることを信じています。とはいっても、わたしたちは直接この目でイエス様を見ることは出来ません。でもイエス様は最後の晩餐の時に、弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えて、これこそがご自分の体、ご自分の血であると宣言されました。わたしたちは、御聖体のうちに、イエス様が共にいてくださることを信じています。御聖体を拝領する度ごとに、イエス様が自分のところへ来てくださったことを感謝いたしましょう。イエス様は御聖体を通じて、いつもわたしたちと一緒にいてくださいます。

最後の晩餐の時、イエス様は、「これをわたしの記念として行いなさい」と言われました。この意味は、「わたしの行ったこと、教えたことを、忘れるな」という命令です。そしてこの命令は、単に忘れないだけではなくて、御聖体をいただくわたしたち一人ひとりが、イエス様の教えたように、語ったように、行ったように、行動することを求めています。いつも一緒にいてくださるイエス様は、わたしたちが、イエス様のように生きるようにと求めています。

御聖体をいただくとき、わたしたちはこのイエス様の命令を思い出して、イエス様が教えたことを思い出し、イエス様が語ったことを思い出し、イエス様がなさったことを思い出し、自分も同じように生きる決意を持ちましょう。わたしたちはその挑戦を独りでするのではなく、御聖体をいただく人は皆、互いに助け合う仲間です。

今日のミサで御聖体を一緒にいただく仲間と励まし合いながら、イエス様の模範に倣って生きていきましょう。

 

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2021年8月 8日 (日)

2021年平和旬間「平和を願うミサ」@関口教会

今年の平和旬間の諸行事は、感染症の状況のために中止となりましたが、本日、年間第19主日の、それぞれの小教区で「平和を願う」意向でミサを捧げていただきました。今年は、すでにお知らせしているとおり、姉妹教会であるミャンマーの教会のため、またミャンマーの人々のため、その平和のために特に祈り、特別献金もお願いしています。なおミサ以外の特別献金も受け付けていますので、こちらのリンクから、教区ホームページをご覧ください。

平和旬間の「平和を願うミサ」として、本日10時の関口教会主日ミサを大司教司式ミサといたしました。またこのミサには、ミャンマーからの信徒の方や、ミャンマー出身のミラノ宣教会司祭で府中教会助任のビンセント神父様も参加してくださり、祈りのうちに連帯を強めました。

以下、本日のミサの説教原稿です。

東京大司教区「平和を願うミサ」
2021年平和旬間
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年8月8日

今年も8月6日から15日まで、日本の教会は平和旬間を迎えます。1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われました。それ以来、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻み、この10日間を過ごしてきました。

東京教区ではこれまで、平和旬間委員会を設け、平和旬間の企画運営を行ってきましたが、昨年に続き今年もまた感染症の状況の中、特に今年は緊急事態宣言の下、平和行進や講演会などのすべての企画を中止とせざるを得ない状態になっています。大変残念ですが、しかしだからといって平和のために祈ることをあきらめる必要はありません。わたしたちは、この10日間を通じて、また特に今日のミサを通じて、神の望まれる世界の実現である平和が確立されるように、それぞれの場でともに祈りをささげたいと思います。

今年の平和旬間は、特に東京教区の姉妹教会であるミャンマーの教会に思いを馳せ、ミャンマーの人々のために、またその平和のために特に祈るときとしたいと思います。

2021年2月1日に発生したクーデター以降、ミャンマーの国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿は、2021年5月23日夜、ミャンマー東部ロイコー県カヤンタヤルの聖心教会への攻撃によって4名が亡くなり、大勢が負傷した時に声明を発表され、そこにこう記しておられます。

「私たちは、地域社会の文化財である礼拝所が、国際協定による保護対象となっていることに注目していただきたいと思います。教会、病院、学校は、ハーグ陸戦条約によって紛争時であっても保護されています。そもそも国際協定を持ち出すまでもなく、そこで流された血は敵の血ではないことを忘れないでください。亡くなった方も負傷した方もこの国の国民です。彼らは武装さえしていませんでした。家族を守るために教会の中にいただけなのです。この国のすべての心が、罪のない人々の死に涙しています。今、何百人もの人々が亡くなり、何千人もの人々が難民や国内避難民となっています」

その上でボ枢機卿は、「平和は可能です。平和こそ唯一の道です」と呼びかけています。

ボ枢機卿はクーデター直後の3月に発表したビデオメッセージで、現在のミャンマーの状況を克明に述べた後、次のように教会の使命を指摘しています。

「しかし、このような暗い時代にあっても、わたしたちに呼びかける主の声が聞こえます。教会が証人となり、正義と平和と和解の道具となり、主の手と足となって貧しい人々や恐れている人々を助け、愛をもって憎しみに対抗するようにと」

ボ枢機卿のこの呼びかけに応え、姉妹教会であるわたしたちは、ミャンマーの地に神の望まれる平和が確立されるように、教会としての使命を果たしていきたいと思います。

ところで教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、教会が考える「平和」の意味を明らかにして、こう記しています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。神からの賜物であるいのちが危機にさらされているような状況は、神が望まれる状態ではありません。恐れが支配する社会は、神が望まれる状態ではありません。憎しみが支配する社会は、神が望まれる状態ではありません。わたしたちは、神の望まれる社会の実現、すなわち平和のために働き続けたいと思います。

第一朗読列王記には、預言者エリヤがバアルの祭司たちと対峙し勝利した後、王妃イゼベルから恨みを買って、荒れ野へと逃れていく話が記されていました。神の道に忠実であり、その義を貫徹しようとすることは命がけであることが明示されている一方、精根尽き果てた義の人エリヤを、神は励まし続けたとも記されています。神の与えた使命を果たそうとする人に、神は寄り添って励ましてくださいます。わたしたちは、神が望まれる秩序の確立した世界、平和に満ちあふれた世界を実現しようとしています。しかしその神の望みに忠実であることは、たやすいことではありません。教皇ヨハネパウロ二世やオスカル・ロメロ大司教の人生がそうであったように、平和を求め行動することは、時にいのちの危機を伴います。それでもわたしたちは、主が共におられ、慰めを与えてくださることを信じています。

パウロはエフェソの教会への手紙で、わたしたちを生かし力づけてくださる聖霊に逆らうことなく、神に倣うものとして、「互いに親切にし、憐れみに心で接し、・・・ゆるし合いなさい」と勧めます。

ヨハネ福音は、先週に続けて、主ご自身が「いのちのパン」であり、「天から降ってきた生きたパン」を食べるものは、「永遠に生きる」と宣言された言葉を記しています。

主ご自身が自ら十字架へと歩まれたその自己犠牲の理由は、賜物であるいのちを生かし続けようとする神の愛であることが、ここに明示されています。わたしたちには、キリストをいただくものとして、すべてのいのちを守り生かそうとする神の愛に応えて生きる務めがあります。

パウロが指摘するように、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど」は、「一切の悪意」」とともに、いのちを大切にする行動とは対極にあり、すなわち平和を破壊する行動につながります。しかし「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し」あうことは、いのちを守る行動に繋がり、平和を築き上げます。

教皇フランシスコは、2019年長崎の爆心地公園を訪れ、いのちを守るために費やされるべき資源が、軍事的争いのために使われ続けている事実を指摘し、こう述べられました。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です」

その上で教皇は、「どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように」と呼びかけられました。

慰め主である主が、常にともにおられ力づけてくださることを心に刻みながら、神の平和の確立を求めて、神の愛が支配する世界の実現を目指して、祈り、語り、行動して参りましょう。

 

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2021年4月 4日 (日)

復活の主日@東京カテドラル2021

Easter21-2

御復活 おめでとうございます。

東京ではすでに桜も散り、季節は足早に進んでいますが、多少すっきりとしない天気の中、復活のお祝いを迎えることが出来ました。例年であれば、ミサ後に復活の祝賀会などが催される教会も少なくないと思いますが、残念ながらそれも叶いません。ご自宅でお祈りされた皆さんにも、いのちを守るための積極的な行動に、復活されたいのちの主の豊かな祝福が注がれますように。

まず、東京教区ホームページに掲載されている、復活のメッセージビデオの原稿です。

困難な状況が続いていますが、今年はなんとか聖週間の典礼と復活の典礼を行うことが出来ました。まだまだお祝いなどのために集まることは出来ませんが、祈りの時を共にしながら、主の復活を祝うことが出来ることに感謝したいと思います。

この復活の季節に、洗礼を受け、教会共同体の一員となられる皆さんに、心からお喜び申し上げます。

現代世界のすべての人々と、喜びと希望、苦悩と不安と共にしている教会は、困難の内にある世界の人々との連帯しながら、主キリストの復活が示している新しいいのちへの希望を高く掲げ、不安と恐れの暗闇を振り払う存在として、現代世界に命を吹き込む存在でありたいと思います。闇に光を輝かせる存在でありたいと思います。

わたしたちはキリストの体の一部です。洗礼を受け、新しいいのちへと招かれ、互いに信仰のきずなに結ばれ、キリストの体を作りあげています。信仰に日々生きているわたしたちが、教会そのものです。

困難な事態は一年以上続いています。今後、いつになったら安心して集まることが出来るのか、まだ分かりません。この状況の中で、忘れ去られて孤立する人、経済的に困窮する人、病床にある人、理解の相違から排除されたり、対立の中に巻き込まれる人など、様々な形で危険にさらされるいのちへの配慮が、大切です。

死に打ち勝って復活された主イエスは、新しいいのちの希望です。わたしたち自身も、社会のただ中で希望の光となりましょう。

あらためて、御復活おめでとうございます。

 

そして、以下は本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での10時のミサの、説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月4日

主の復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

昨年初め頃から今に至るまで、わたしたちは一年以上にわたって、尋常ではない状況の中で生活をしています。今はワクチンの接種も始まっているなど、暗闇の中にも多少の光が見えてきました。それでも社会全体が受けている影響には大きいものがあり、世界の状況にも目を配れば、まだまだこの共通の家に住むわたしたちは、完全な光を見いだしてはいません。いのちの危機は続いています。

教会もこの一年間、厳しい状況の中に置かれています。感染症対策のために、また互いのいのちを守るための責任ある行動として、教会活動の自粛や、一時的な公開ミサの中止など、いわば試練の時が続いています。これを「試練」と感じる一番の理由は、喜びの欠如であります。

もちろん個人的には、日曜のミサに与れないことや、予定されていたイベントが軒並みに中止になるなど、霊的に枯渇し、また楽しみを奪われたという意味で、喜びが欠如しています。しかしわたしたちから喜びを奪う一番の要因は、共同体が集うことが出来ないことにあります。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」を、こう書き始めています。

「福音の喜びは、イエスにであう人々の心と生活全体を満たします」(1)

自分の殻に閉じこもって他者への配慮を忘れる生き方ではなく、出向いていって交わりを深め、福音に生きる喜びをともにすることの重要性を説く教皇は、次のように指摘します。

「福音を宣教する共同体はうれしさに満ちていて、いつも『祝う』ことを知っています。小さな勝利を、福音宣教における一歩一歩の前進を喜び祝います。」(24)

その上で教皇は、「隣人の聖なる偉大さを眺め、あらゆる人間の中に神を見つけ、神の愛により頼むことで、共に生きることの煩わしさに耐え、よいかたである御父のように他者の幸福を望んで神の愛に心を開くことの出来る兄弟愛」こそが、真のいやしを提供すると述べ、「共同体を奪われないようにしましょう」と呼びかけられています。(92)

感染症対策のため、教会が選択した道は、残念ながら実際に集まって共に祈り、共に学び、共に活動する機会を制限することになってしまいました。具体的に肌で感じることの出来る共同体の存在が制限されたことが、信仰における喜びをも制限してしまうことを、いま肌で感じています。

その事実が逆に、意識するしないにかかわらず、キリスト者が共同体として集うこと自体が、どれほどの福音の喜びを自然に生み出していたのか、わたしたちに気づかせます。

わたしたちには、福音の喜びを生み出す共同体が必要です。共に祈る共同体が必要です。兄弟愛を見いだし、兄弟愛を実践する共同体が必要です。福音を共にあかしし、ともに出向いていく共同体が必要です。

もちろんわたしたちは、教会共同体とは、具体的な人の集まりであり現実の組織体であると同時に、霊的な共同体であることも知っています。

カトリック教会のカテキズムには、「わたしたちは生者と死者を問わず万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。地上の旅路を歩む民と天上の栄光にあずかる人たちとには連帯関係があり、共に教会を作り上げています。

それを第二バチカン公会議の教会憲章は、「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と記しています。

わたしたちは、信仰における兄弟姉妹と、そして信仰の先達と共に、キリストの唯一の体において一致して、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。ですから、どこにいても、独りで祈りをささげていても、独りで愛の業に励んでいたとしても、また司祭がひとりでミサを捧げていても、わたしたちはそれを霊的な絆にあって、共同体のわざとして行うのです。一つの体であるキリストに結ばれている限り、わたしたちは霊的に孤立することはありません。

とはいえ、現実社会での生活は、そう簡単に割り切れるものでもありません。

教皇フランシスコは、今年、ヨセフの年を祝うように招かれています。使徒的書簡「父の心で」に、次のように記されています。

「人生には、意味を理解できない出来事が数多く起こります。・・・ヨセフは、起きていることに場を空けるために自分の推論を脇に置き、自分の目にどれほど不可解に映っているとしてもそれを受け入れ、その責任を引き受け、自分の過去に対するわだかまりを解くのです。過去に対するわだかまりを解かなければ、わたしたちは次の一歩を踏み出すことすらできないでしょう。期待とその結果としての失望に、とらわれたままになるからです。ヨセフの霊的生活は、明らかにする道ではなく、受け入れる道を示しています。」

ヨハネ福音は、復活の出来事を目の当たりにしても、いったい何が起こったのかを理解できずにいたペトロの姿を記しています。ところが使徒言行録には、復活の主に出会ったペトロが、力強く語る姿が記されています。

イエスが十字架につけられた日に恐れをなして隠れ、イエスを三度知らないと裏切ってしまったあの夜の態度とは打って変わり、また復活の出来事を目の当たりにしても理解できなかった、ヨハネ福音に記された姿とは打って変わり、力強くイエスについて、そしてイエスの死と復活を通じてもたらされる救いについて語る姿を、使徒言行録は記しています。

それは知識を教えているような姿ではなく、心からあふれてくるものを、どうしても語らずにはいられないペトロの姿です。それほど多くの人に伝えたくて仕方のない話がある。自分には分かち合いたい宝のような話がある。そういうペトロの熱意が伝わってくるような姿です。復活された主と出会ったペトロは、喜びに満ちあふれており、あふれる喜びを分かち合わずにはいられません。復活の主と出会った共同体は、あふれんばかりの福音の喜びに満たされています。

ご存じのように、長年にわたって姉妹関係にあるミャンマーの教会を、東京教区はケルン教区と共に支援してきました。2月1日の軍事クーデター後、自由と民主主義の尊重を訴え抗議する人たちや、以前からあった少数民族との対立の中で難民となった人たちへの、暴力的な対応によって、多くのいのちが奪われています。いのちを奪う現実に喜びはありません。ミャンマーの教会の呼びかけに応え、連帯の内に平和を祈りたいと思います。暴力ではなくて対話の内に、人間の尊厳が守られる社会が確立されるように呼びかけたいと思います。いのちの危機を避けるように呼びかけたいと思います。

わたしたちは、共同体の霊的な繋がりの内に、福音の喜びを共に見いだしたいと思います。不可解な現実の中で、愛を実践するように招いておられる主は、わたしたちとの出会いを待っておられます。困難な中だからこそ、ペトロのように主との出会いの喜びを、福音の喜びを、共にあかしする共同体でありましょう。

 

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2021年4月 3日 (土)

復活徹夜祭@東京カテドラル2021

Ev21a

主の復活 おめでとうございます。

困難な時期にあって、それぞれの地でどのような復活祭を迎えておられるでしょう。昨年は、典礼を公開で行うことが出来ませんでしたが、今年は、さまざまな制約を設けてではあるものの、共に祝うことが出来ました。

とはいえ、事態はまだ収束をしていませんし、今後も予測はつきませんが、多くの方が実際に教会へ足を運ぶことが出来ずに、ご自宅などでお祈りをされたかと思います。復活の主において、わたしたちは霊的な共同体に繋がれていることを心に思い起こされますように。また、いまの、「教会へ行きたい」という強い思いを、大切に心に刻んでおいてください。状況が安心できるようになったら、一緒に祈りをささげましょう。

「この夜、キリストは死の枷を打ち砕き、勝利の王として死の国から立ち上がられた」

祈り求めるお一人お一人のもとへ、復活された主の希望の光がしっかりと届きますように。

暗闇に彷徨うわたしたちに、いのちの希望の光が輝きますように。

疑いと不安に苛まれるわたしたちに、いつくしみが豊かに注がれますように。

荒れ野で渇くわたしたちに、慰めで包み込む愛が与えられますように。

復活の主から与えられる愛と希望に包まれたわたしたちが、その愛と希望を、多くの人に分かち合うことが出来ますように。

いのちを賭して、他者のいのちを守り抜こうと奮闘する方々の上に、護りと報いがありますように。

病床にある人に、癒やしの手が差し伸べられますように。

亡くなられた方々に、永遠の安息がありますように。

「わたしの希望、キリストは復活し、ガリレアに行き、待っておられる」

関口教会の今夜の復活徹夜祭では、15名の方が洗礼と堅信を受けられ、お二人の方が転会されて共同体の一員となられました。皆さんおめでとうございます。

Ev21b

以下、今夜の説教の原稿です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月3日

『あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない』

暴力的に奪われた主の死を嘆き悲しむマグダラのマリアたちに天使が告げたのは、驚きの言葉であったことだと思います。

絶望の淵にあったマグダラのマリアたちに、新たな希望の光として差し込んだ天使の言葉は、同時に新たな挑戦を突きつける言葉でもありました。

福音に記されている三人の女性の会話は、「あの石を誰が取りのけてくれるでしょうか」という、イエスの死とは全く関係のない心配事でした。すなわち、亡くなられたイエスとの出来事やその存在はすでに過去の思い出となり、彼女たちの関心は、今現在の心配事である石を取り除くことでありました。もちろん主を失った悲しみに心は満たされていたことでしょうが、イエスご自身の存在は、思い出となり、彼女たちはすでに新しい時を刻み始めていた様を、この会話が描写します。

イエスの復活を告げる天使の言葉は、「あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが」と述べています。天使は、彼女たちにとってのイエスがすでに過去の存在となっていることを、「十字架につけられたナザレのイエス」と形容することで示唆します。しかし、復活されたイエスは、彼女たちが過去の思い出として懐かしんでいるナザレ出身の十字架につけられて殺されたあのイエスとは全く異なっているのだ。新しい生命に生きている存在であるのだということを、天使は「ここにはいない」の一言で示唆します。その上で、これまでの過去の生き方との連続を断ち切るように促し、全く新たにされた生き方へと一歩を踏み出せと言わんばかりに、エルサレムを離れガリラヤへ行くようにと、旅立ちを促します。

イエスに従う者には、過去と訣別し、新たな挑戦へと勇気を持って一歩踏み出すことが求められています。

過去の思いでは、時の流れのある時点に、いつまでも変わることなく留まり続けます。変化することがないので、安心して留まり続けることが出来ます。しかし復活の出来事は、その静止画となった過去の思い出を、動き続け前進し続ける、現在進行形へと変えていきます。信仰は思い出でなく、現実です。

そのことを、出エジプト記の物語は見事に描写しています。救いの歴史にあずかる神の民は、エジプトでの安定した生活を捨て、常に挑戦し続ける旅に駆り立てられ、40年にわたって荒れ野を彷徨います。安定した過去へ戻ろうと神に逆らう民に、神は時として罰を与えながら、それでも常に前進し、新しい挑戦へと民を導きます。

わたしたちの信仰生活は、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。

洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。

創世記には、「海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ」と記されていました。教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」に、次のように記しています。

「わたしたちが神にかたどって創造された大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません。」(67)

教皇は、天地創造の物語が、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っていることを示唆して」いると指摘されます。その上で、「聖書によれば、いのちにかかわるこれらの三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪」なのだと指摘します。(66)

教皇はこの回勅の冒頭で、「わたしたち皆が共に暮らす家」を護ることの責務を指摘しつつ、ヨハネ二十三世教皇の回勅「地上の平和」に触れています。

「地上の平和」の冒頭には、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません(「地上の平和」1)」と記されています。

すなわち、平和とは、神が与えられたこの世界の秩序を回復することであり、それは「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を回復し、「皆が共に暮らす家」を神が望まれるふさわしい姿に回復させることに含まれています。

信仰を生きるためには、心の内側を見つめて、神との個人的な出会いの体験を深めていくことも大切ですが、同時に、社会の現実の中でイエスの思いを実現し、神が望まれる秩序を回復するために、具体的に行動することも不可欠です。神から賜物として与えられたいのちを生きることは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を、ふさわしいあり方に回復させる努力を続けることでもあります。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。つまり洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点に過ぎません。

福音に生きるということは、簡単に手にはいる生き方ではありません。私たちは、強い意志を持ち、たゆまぬ努力を続けることを通じて、信仰を守る挑戦の旅を続けるように呼ばれています。

もちろん現実の世界に生きている私たちにとって、信仰を強固に保って行くには、いささか困難を憶える様々な障害が立ちはだかっていることでしょう。福音をのべつたえることは言うに及ばず、キリスト者であると言うことでさえ、他の人に言うことも出来ない、隠しておきたい。そんな誘惑の中にあって、洗礼を受けたことだけで充分だ、もうそれ以上は仕方がない、とあきらめてしまうこともあるやもしれません。まさしく、墓に向かう途中に、「誰があの石を取りのけてくれるか」と、目前の困難について話し合っていた三人の女性と同じです。

でも彼女たちは、目を上げることによって、そこに解決がすでに用意されていることを知りました。私たちも信仰に生きるにあたって、どんな困難にあっても、神に向かって目を上げることを忘れないようにいたしましょう。そして、よりふさわしく福音に生きるために、妥協に充ちた簡単な方法ではなくて、困難な道を選び取り、強い意志とたゆまぬ努力の内に、常に挑戦し続ける旅路を歩んでまいりましょう。

 

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