カテゴリー「配信ミサ説教」の24件の記事

2020年7月 5日 (日)

年間第十四主日@東京カテドラル

14pa1

年間第十四主日のミサ、インターネット配信用に、前晩土曜日の18時に、カテドラルで捧げたミサの説教原稿です。

この数日、東京では100人を超える感染者が相次いで報告されています。公開ミサをこのまま続けるべきか検討しましたが、感染者が重篤化することの少ない若年層に多いことと、この数日間重症者が少なく、亡くなられる方も出ていないことから、現時点での感染症対策(社会的距離、手指消毒、マスク着用、一斉に歌わない、高齢の方にお待ちいただく)を継続することで、お一人お一人のいのちを守りながら、もっとも大切な秘跡である聖体祭儀を続けることが可能だろうと判断しています。ただ、このまま状況を見守りますが、本日の日曜日も東京都の感染者は100名を超えていますし、今後数日間の感染者、重症者、死者、実効再生産数などに注意を払いながら、判断していきたいと思います。また、現在も主日のミサにあずかる義務は東京教区のすべての方を対象に免除していますので、少しでも不安がある方には、ご自宅でお祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

以下、説教原稿です。

年間第14主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月5日前晩

 

今年の初め頃から今にいたるまで、感染症が拡大し、この数日は東京で感染者が増大傾向にあるものの、この混乱の中で、教会はどのように動いてきたのでしょうか。

もちろん、当初から感染予防を心掛け、2月末からはミサも非公開となり、緊急事態宣言が出てからは、すべての活動が停止しました。ですから、教会は今回の事態の中で、全く動いていなかったと、表面的には見えてしまいます。

今回の事態は、多くの人がいのちの危機に直面するということから、大災害の緊急事態に匹敵しています。わたし自身が担当している教会の援助団体カリタスジャパンでも、今の事態は災害の緊急事態と同等と見なして、緊急募金と支援活動を行っています。

とはいえ、まずもって密接、密集、密閉を避けなければならない状況にあって、従来の大災害への対応のように、ボランティアを集めて一緒に行動することには、制約があります。実際、2011年以来、仙台教区において日本の教会が設置しているいくつかのボランティアベースでは、一時的に人を集めることを中止にせざるを得ませんでした。その意味で、従来のような活動には、感染症の下では、限界があります。

しかし、同時に、社会全体で自粛が続く中で、雇用環境も悪化し、また病院に出かけることもままならない人が出たり、住居を失ったり、職を失ったりと、助けを必要とする人は増加しました。

教皇様は、教皇庁にCovid19委員会を設置され、今回の事態に教会がどのように対応できるのか、統合的人間開発の部署や国際カリタスが協力して取り組むようにと定められました。

その発足を報告する記者会見で、責任者のタークソン枢機卿は、「最初は単に健康問題だったが、経済、雇用、生活スタイル、食料安全保障、AIやインターネットのセキュリティ、政治、政府、政策、研究など、新型コロナ感染症が影響を与えなかった人間の生活の側面は何一つない。教皇フランシスコが教えるように、『あらゆるものはつながりあっている』を象徴している」と述べています。

わたしたちの人生のすべての側面が影響を受け、常日頃から生活に困難を抱えている人たちが、さらに大きな困難に直面し、また国によっては、感染症のためだけではなく、そのようにして生じた様々な側面の困難によって、いのちの危機に直面する人も多数おられます。

そのような中で、活動に困難を抱えながらも、従来のような大きな活動としてではなく、小さな単位で、時には個人的に、時には隣近所で、助けを求めている人に手を差し伸べようとする活動が、水面下で広がっています。カリタスジャパンの緊急支援の対象も、従来のような組織的な活動もありますが、その多くは個人的な支援を中心とした小規模なものが増えています。

すなわち、わたしたちは、この困難な状況の中にあって、隣人と互いに助け合うことの大切さをあらためて認識しています。

冒頭に触れたように、教会も、確かにすべての活動が停止していたものの、信徒の皆さんの個人レベルでは、様々な活動に取り組まれる人が多くいると聞いています。教区でも、食料支援や学習支援など、地道な支援活動を支えたり、従来から行っているCTICを通じた外国籍の方々への支援を継続しています。

14pa2

わたしたち教会の役割は、人と人との出会いのなかにあって安らぎを与えることです。福音に「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されています。教会は、重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場です。そしてそれは、教会という建物が安らぎの場であるということに留まらず、わたしたち自身が安らぎを与える存在であるという意味でもあります。なぜならば、いつも繰り返しているように、教会とはこの建物のことではなくて、共同体を形作り主イエスの体を形作っている、わたしたち一人ひとりのことだからです。わたしたち一人ひとりが、社会にあって、安らぎを与える存在でありたいと思います。

残念ながら、教会にあっても、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。それは否定できない事実であります。教会に集まっているのは天使のような人ばかりではなく、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え欠点を抱えた不十分な人間です。ですから、集まっているだけで、どうしてもそこには対立や争い、無理解や排除が生じてしまいます。

しばしばわたしたちの思い、すなわち人間の知恵や賢さは、自己中心の世界を生み出し、まるで自分の周りに防御壁を築き上げるようにして、そこに近づいてくる人を傷つけている。ですから、わたしたちは常に、自分たちに与えられている使命を思い起こさなくてはなりません。

教会は安らぎを与える場であり、重荷を与える場ではない。そして教会とは誰かのことではなく、自分こそがその教会である。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心には神の霊が宿ります。そのときわたしたちは、どのような生きる道を選ぶのでしょうか。キリストに属する者として、わたしたちに与えられている務めは、「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう。力の限り(典礼聖歌390)」ではないでしょうか。

父である神が与えられた最高のたまものであるいのちを守ることは、最も大切な愛徳の業であります。残念ながら、この困難な時期にあって、教会の中でも、教会の外でも、その最も大切な愛徳の業を二の次に考えるような言動が見られました。愛徳の業のうちに、互いに支え合うことこそが、安らぎを与える教会として、今必要な態度です。

教皇フランシスコは、昨年訪日されて東北の被災者と会われたとき、次のように話されました。
「わたしたちにもっとも影響する悪の一つは、無関心の文化です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決策を総合的に引き受けることのできる唯一のものである、きずなという知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。わたしたちは、互いに互いの一部なのです。」

わたしたちはたまものであるいのちを守ることを大切にする教会でありたいと思います。教皇の呼びかけに応え、力をあわせ、互いの交わりの中で支え合い、重荷を負わせることなく、安らぎを提供する教会であることを目指しましょう。

 

 

|

2020年6月30日 (火)

聖香油ミサ@東京カテドラル

Chrism2001

本来ならば聖週間中に行われるはずの聖香油ミサですが、今年は新型コロナウイルスの影響で、聖木曜日に行うことができず、延期となっていました。例年6月29日に近い月曜日には、司祭団が集まり、その年の金祝や銀祝のお祝いをしております。今年はその6月29日月曜日の午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを行いました。

Chrism2002

残念ながら、司祭が大勢参加するミサですから、大聖堂内のそれぞれの距離を保つため、共同司式の司祭にも会衆席にひろがって座っていただきましたので、基本的に一般の方々には非公開といたしました。

Chrism2003

またミサのはじめには、大聖堂入り口に新しく設置された、教皇フランシスコ訪問の記念プレートを祝福いたしました。1981年の教皇ヨハネパウロ二世訪問記念プレートの反対側の壁面にあります。

以下、聖香油ミサの説教原稿と、一番下に、当日のビデオへのリンクです。

聖香油ミサ(非公開)
2020年6月29日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

 

わたしたちは、必ずや後世の歴史に残るであろう出来事のただ中におります。今年は、わたしたちの信仰生活にとって重要な意味を持つ復活祭を共に祝うことができなかったばかりでなく、教会共同体の皆さんと、四旬節も復活節も、共に過ごすことができませんでした。

あらためて言うまでもなく、新型コロナウイルス感染症は、わたしたちの生活から多くの出来事を奪い去りましたが、信仰生活も大きな打撃を受けてしまいました。

同時に、わたしたちは奪い去られたことで、これまで当然だと思っていたことが、それほど重要ではなかったことにも気がつく機会を与えられたように思います。社会の中で優先するべき価値観は何であるのかを、もう一度考える機会を与えられました。

教会にあっても、日曜日に集まることができなくなって、教会共同体とはいったい何であるのかをあらためて考える機会を与えられたと思っています。日曜日にミサのために信徒が集まってくることで、教会は教会であると実感することができていたのですが、今回の出来事は、教会であるということの意味をあらためて考える時を、わたしたちに与えてくれたように思います。

また、わたしたちは福音を告げしらせる教会ですが、今回の事態が、積極的にメッセージを届けるための方法を考える機会をも提供してくれたと思います。大げさに言えば、待ちの姿勢の教会から、積極的に打って出る教会へと変わっていく機会が、このたびの出来事を通じて、わたしたちには与えられていると感じております。

さて、人類のいのちの危機は、ほんの小さな、弱々しい、ウイルスによってもたらされました。まだまだ予防法や治療法が確立されたわけではありませんし、東京では連日感染者の報告があります。ですから、長い自粛期間からの解放感の中で、すべてが解決したようなムードが漂っていますが、当分の間は慎重に行動しなければなりません。

感染が発覚した当初は、まるでちょっとした風邪のようだという楽観論が主流でした。しかし、それほど時間を必要としないうちに、そういった楽観論は打ち砕かれてしまいました。今や、歴史に残る人類のいのちの危機に直面していることは明白です。

感染がある程度落ち着いた現在は、今度は「新しい生活様式」などと政府も音頭をとって、これまでとは異なる社会のあり方が模索されています。

わたしたちは今、価値観の転換を求められています。感染拡大以前の世界に戻ろうとする力は、強く存在するでしょう。しかし今回の事態は、いのちを守るために、わたしたちは何を大切に生きるのかを問いかけ、今までのような社会のあり方を、そのままで続けていくことを許さないでしょう。「新しい生活様式」とは、単に物理的な行動の変革で感染を防止すると言う視点に留まらず、いのちを守るために人類が何を優先するべきなのかを今一度考え直し、新たな生きるスタイルを確立するように求めているように、私は感じています。

いのちを守ることは、わたしたちの信仰にとって重要な視点です。あらためて、昨年の教皇訪日のテーマを持ち出すまでもなく、わたしたちは、神が賜物として与えられたいのちを、徹底的に守り抜くことを主張してきました。いのちは、例外なく、その始まりから終わりまで、その尊厳が守られなくてはならないと主張してきました。

教会は、これまでの歴史の中で、しばしばいのちを守る立場から離れてしまったことを反省しなくてはなりません。特に、わたしたちの人間関係の中で、一人ひとりの尊厳を大切にすることなく、例えばハラスメントのような形で人間の尊厳を傷つけてきたことを、世界中の教会、そして日本の教会は反省し、それを正していく強い決意がいま必要だと思います。

また、すべてのいのちを守ろうとすることは、教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、誰ひとりとして排除されない世界を実現しようとすることでもあります。常にいつくしみの手を差し伸べる教会でありたいと思います。

そしてすべてのいのちを守ることは、同時に神が与えられた被造物を大切に護っていくことにも繋がります。教皇フランシスコは、2020年5月24日からの一年間を、「ラウダート・シ」に基づいて考察を深める年とされました。

感染症の拡大で自粛が続く中、言葉のやりとりでも、人間関係でも、社会の雰囲気でも、殺伐とした雰囲気が世界に広がっているように感じます。いわば心の荒れ野が広がったように思います。同時に、心の荒れ野は、これまで理性が覆い隠していた、排除の思いや差別の思い、暴力的な思いをあからさまにしてしまいました。教会は、人間の尊厳を傷つけるそのような言動を、容認することはできません。いま回心が必要です。

「ラウダート・シ」には、こういう記述がありました。
「『内的な意味での荒れ野があまりにも広大であるがゆえに、外的な意味での世の荒れ野が広がっています。』こうした理由で、生態学的危機は、心からの回心への召喚状でもあります。」(217)

その上で、教皇フランシスコは、「必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界とのかかわりの中であかしさせます。(217)・・・永続的な変化をもたらすために必要とされるエコロジカルな回心はまた、共同体の回心でもあるのです」(219)と指摘されています。

いのちの危機が叫ばれる今こそ、わたしたちは視点を変え、優先事項を見つめ直し、いのちを守ることを前面に出し、共同体としてイエスとのかかわりをあらためて見つめ直す回心が求められています。

さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない東京教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。

そして、司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司祭団は司教と共にこのミサの中で祝福いたします。

加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、そしてインターネットを通じてご覧の皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、お祈りくださるよう、お願いいたします。

 

 

 

|

2020年6月27日 (土)

年間第十三主日ミサ@東京カテドラル

Nenkan12d

年間第十三主日です。前晩の6月27日土曜日夜6時から行われた、配信ミサの説教原稿を掲載します。

東京では連日五十人ほどの感染者の報告があります。まだまだ感染症の終息からはほど遠いと感じております。ミサの再開と言っておりますが、実際には、まだまだ教会の活動を全面的に再開するにはほど遠い状況であり、慎重に対応しなければなりません。教会はまだ普通の状態に戻っているわけではありません。

先週よりミサを再開しましたが、これはミサの再開と言うよりも、再開に向けた段階的な試みであるとご理解ください。2月27日以降、ミサはまだ完全には再開されておらず、いまは完全な再開を目指して、様々な条件を定めて、教会のメンバーの安全を優先しながら、限定的にミサを行っている段階です。ですから、様々な制約があり、みなさまにはご迷惑をおかけしております。

「ミサが再開されたのに、自分は参加できない」という声があることも承知しております。申し訳ありません。それぞれの小教区で状況が異なりますから、全体の大枠方針に沿って、それぞれの対応をお願いしています、現在の状況や条件が、未来永劫続く制度改革なのではありませんから、状況に応じて制約の条件は変更されますので、いましばらくは、お互いのためにご協力いただきますようにお願いいたします。宣言自体は解除されていますが、現実にはいまだ緊急事態は継続していると考え、緊急避難的な制約にご協力いただけますようにお願いいたします。

Nenkan12b

以下、説教原稿です(写真は先週のミサです)。

年間第十三主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開収録ミサ)
2020年6月28日の前晩

 

教会活動の段階的な再開を始めてから一週間が過ぎました。ご存じのように、未だ感染者は毎日のように報告されており、以前のような完全な状態で安心してミサなどを再開できる状況ではありません。まず第一に、まだ安全な状況ではないのだということを念頭に置いていただければと思います。

その状況下でも、なんとかひとりでも多くの方に秘跡にあずかっていただきたいと考えて、様々な制約の中で、ミサなどを再開いたしました。とりわけ、感染した場合に重篤化し、いのちのリスクがある高齢のみなさまには、まだ今しばらく自宅に留まってくださるようにお願いしており、大変申し訳なく思っています。歴史に残る事態の荒波の中を、先へと進んでいるわたしたちは、互いにいのちを守るために、耐え忍びながら、支えあっていきたいと思います。

本日の、マタイ福音は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という、主イエスの言葉を記しています。

「十字架を担って生きていく」と耳にすると、どのような状況を想像されるでしょう。苦しみを背負って耐え忍びながら、ひっそりと生きていくようなイメージでしょうか。感染症が終息しない中で、様々な困難に直面し、教会でも様々な制約を課されてしまった。十字架を背負って耐えて生きていこうと呼びかけている言葉でありましょうか。
そうではないように、わたしは思います。

そもそも、十字架とはいったいなんでしょう。重荷のことでしょうか。苦しみのことでしょうか。十字架が重荷や苦しみだけであるならば、それはどう見てもマイナスのイメージでしかありません。しかしここでイエスが語る十字架は、主にふさわしいものとされるための十字架であり、すなわち神に良いものとして認められるための、前向きな存在であります。十字架とはいったいなんでしょう。

コリントの信徒への第一の手紙の一章十七節に、パウロの言葉が記されています。
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

コリントの教会にあって、誰から洗礼を受けたのかということで派閥争いが起きたとき、パウロは、自らに与えられた使命は、「洗礼を授けるためではなく、福音を告げしらせる」ことなのだと宣言します。

もちろん、救いのために洗礼が必要であることは否定できませんが、洗礼よりも前に、まず大切なことがある。それはイエス・キリストの福音を告げることなのだと、パウロは宣言します。

加えてパウロは、「しかも」と続けます。「しかも、キリストの十字架がむなしいものとなってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げしらせるためだからです」

福音を、言葉の知恵に頼って告げていたのでは、キリストの十字架がむなしいものとなるというのです。ここではじめて、パウロが語る十字架の意味が明らかになります。すなわち、言葉の知恵によらずに福音を告げしらせているのが、キリストの十字架そのものであります。

言葉の知恵によらないとは、具体的に目に見える行動をもってのあかしが、十字架だということであります。十字架は、自らが創造された人間の救いのために、神ご自身がその愛といつくしみの充満として、積極的に行動した愛のあかしであります。神ご自身の行いによる愛のあかしそのものが、十字架です。十字架は、重荷や苦しみの象徴ではなく、積極的な愛の行動の象徴です。神の満ちあふれる愛といつくしみが、目に見える形となった時、イエスは十字架に自らかかり、そのいのちをいけにえとして御父にささげられました。これほど前向きで、積極的な、愛のあかしはありません。

Nenkan12

教会は、神がその似姿として創造された人間のいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく尊重され護られなくてはならないと、繰り返し主張してきました。

いま、いのちを守るために世界が連帯しようとするとき、政治体制の違いや経済的利益の追求などの壁を乗り越えて、優先するべき価値を見直すときに来ていると感じます。

教皇フランシスコは、人間のいのちの尊厳を守るために、そのいのちが生きている地球全体を守ることの大切さを強調されています。

教皇フランシスコは、5月24日のアレルヤの祈りの際に、このように宣言されました。
「5月24日から来年(すなわち2021年)の5月24日までのこの一年間は、この回勅(「ラウダート・シ」)について考える特別な年となります。わたしたちがともに暮らす家である地球と、もっとも弱い立場にある兄弟姉妹を大切にするために力を合わせるよう、わたしはすべての善意の人に呼びかけます」

教皇はこの回勅「ラウダート・シ」の中で、現代社会についてこう指摘しています。
「現在の世界情勢は、『不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床』となります。人は、自己中心的にまた自己完結的になるとき、貪欲さを募らせます。」(204)

教皇は、世界に広がりつつある個人主義や利己主義を克服するために、新しいライフスタイルを生み出し、社会を変えていかなくてはならないと呼びかけています。世界中で自粛生活が続いた今、わたしたちはライフスタイルを見直すチャンスを与えられているようにも思います。

「神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生活には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとっての任意の、あるいは副次的な要素ではありません」(217)と教皇は呼びかけます。

愛のあかしである十字架を、わたしたちは自らの生き方で、言葉で、行いであかししていきたいと思います。あかしして生きることこそ、十字架を担って生きていくことです。そうすることで、神のふさわしいものとされることができます。神にふさわしいものは、当然、神が愛を込めて創造されたこの世界を大切にするものでもあります。

いま、わたしたちにとって必要な生きる道は、どこに向かって開かれているのかを、信仰の目をもって見極めてまいりましょう

 

 

|

2020年6月20日 (土)

年間第12主日ミサ@東京カテドラル

長い自粛期間を経て、公開ミサが再開されます。年間第12主日にあたる6月21日からの再開です。前晩のミサを捧げたところも多くあったと思います。関口教会では、日曜日の午前10時は主任司祭がささげますので、わたしの配信ミサは前晩土曜日の午後6時からといたします。当分は継続いたします。

早速、先ほど、最初の公開ミサを捧げました。聖歌はいつもの通りイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。カテドラルの大聖堂は、他の教会と比べても空間が広いため、互いの距離を十分にとって、シスター方に歌っていただいています。

しばらくは状況を見極めますので、ミサの公開に制約があり、申し訳ありません。この状況下では、いのちをリスクにさらさないことが最も重要かと思います。教会にとっても、互いに、感染しない、感染させないためにも、そして神のたまものであるいのちを守ることを最優先にするためにも、慎重な行動をとってくださるようにお願いいたします。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

年間第12主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年6月21日

四旬節から復活節に至る長い自粛期間を経て、やっとミサを公開で行うことができる状況になりました。ただ、感染には波があるとも指摘され、完全に終息したわけではありませんから、しばらくの間、ミサを捧げることにも制約が伴います。その一つが、時間の短縮です。多くの聖堂は、どうしても密接・密集・密閉の状態を生み出しやすいものですから、なるべく集まっている時間を短くしようということで、例えば説教も、通常よりも短くと言うことにしております。

さて、いのちを守るためとはいえ、普段の活動が制限され、自粛ばかりを求められていると、どうしても思考が内向きになってしまいます。内向きになった思いは、自分の心の世界を中心に展開しますから、ともすればとても利己的になり、さらには、普段であれば心の奥底に秘めているような思いや、社会常識が盾となって表に出さない感情までも、あらわにしてしまいます。

自分とは異なる存在との差異を強調して、自らの立場を有利にし、自尊心を保とうとする行為は、差別を生み出す可能性があります。残念ながら人間の心には、自分と他者との相違をことさらに意識して、差別をする誘惑が存在しています。普段は理性や常識がそれをカバーしているのでしょうが、心が内向きになるとき、そういった誘惑が顔を覗かせてしまいます。

米国では、警察官の暴行が黒人男性の死を招き、人種差別への怒りが爆発してしまいました。日本でも、感染症が拡大してからインターネット上では、いつも以上に攻撃的な会話が展開されたり、具体的な差別的言動も耳にいたします。

今更ですが、第二バチカン公会議の現代世界憲章から、次の言葉を引用します。
「すべての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として造られ、同じ本性と同じ根源をもち、さらにキリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。したがって、すべての人が基本的に平等であることは、よりいっそう認められなければならない(29)」

わたしたちキリスト者にとっての人間の尊厳の根源は、創世記の記述にありますが、それを明確に記している公会議の言葉です。

さらに現代世界憲章は、差別についてこう語ります。
「社会的差別であれ、文化的差別であれ、あるいは性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づく差別であれ、基本的人権に関するすべての差別は神の意図に反するものであり、克服され、排除されなければならない。・・・人々の間に差異があるのは当然のこととはいえ、人格の尊厳は平等であり、このことから、より人間らしい公正な生活条件に届くことが要求される」(29)

北半球での感染にようやく出口の希望が見え始めた今、今度は南半球で、特に南米やアフリカでの感染拡大が心配されています。とりわけ、もともと医療資源に乏しく経済的にも厳しい状況のアフリカ諸国では、現地の司教たちが、感染症後の世界のあり方について、国際社会に向かってのアピールを出しています。日本を含めた先進諸国でさえも、経済に大きな打撃を被ることは確かでありますから、アフリカ諸国の状況はさらに厳しくなることが想定され、感染症以上に、経済危機によって、多くのいのちが危機に直面することが予測されています。

いのちの危機という不安の中に長期間を過ごし、活動の自由が制限される中で、殺伐とした雰囲気に包まれている世界は、いま、連帯とはほど遠い状況に立ち位置を定めようとしています。

ですから教会は、この世界に対して、ひるむことなく福音を告げしらせる義務があります。経済を優先して、あらためて以前のような世界に戻ろうとする流れに抗って、一人ひとりのいのちを大切にし、誰ひとりとして排除されない世界を、連帯のなかで実現しようと、明るみで、そして屋根の上で、ひるむことなく、大きな声で告げなくてはなりません。

教皇フランシスコの呼びかけを思い起こします。
「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(福音の喜び20)

あらためて教会に集うことを始めようとしているわたしたちは、快適な場所を見つけて留まることなく、常に勇気を持って出かけなくてはなりません。それは、流れに逆らうことでもあるので、容易な挑戦ではありません。

現代における宣教について教えるパウロ六世の使徒的勧告「福音宣教」には、次のような興味深い指摘があります。
「人間は、たとえ私たちが福音をのべなくとも、神の憐れみによって、何らかの方法で救われうるのでしょう。しかし、もし私たちが、怠りや恐れ、または恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、はたして私たちは救われうるのでしょうか。

なぜなら、もし宣教しないならば、福音の種が宣教者の声をとおして実を結ぶことを望まれる神の呼びかけに背くことになるからです。種が木となり実を付けるかどうかはわたしたち次第なのです』(使徒的勧告「福音宣教」80)

愛するすべてのいのちが救われるようにと、福音の種が、わたしたちの「声をとおして実を結ぶこと」を神は望まれる。常に困難に向かって立ち向かうようにと、わたしたちは呼ばれています。

世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主に力づけられ、あらためて勇気をいただきながら、福音の種を蒔き続ける宣教者として、神が愛されるいのちの尊厳を、言葉と行いで告げしらせてまいりましょう。

 

|

2020年6月14日 (日)

キリストの聖体@東京カテドラル

梅雨入りして最初の日曜日がキリストの聖体の主日となりました。元来は木曜日とされていますが、多くの国で現在は、その次の主日に移動して祝われています。

今日の配信ミサは、公開ミサの自粛を2月27日以降継続してきた中で、今のところは最後の「非公開ミサ」となります。四旬節から復活節と続いた「非公開」ミサにあって、配信ミサの作成のために協力してくださった、師イエズス修道女会、宣教ドミニコ会、女子パウロ会、ノートルダム・ド・ヴィのそれぞれの会員、毎回のミサで聖歌を選び歌ってくださったイエスのカリタス会の志願者と会員のみなさまに心から感謝申し上げます。また、映像を作成し配信してくださる田村さんを初め、関口教会の信徒のボランティアの方々に、感謝申し上げます。

次の日曜日以降は、それぞれの小教区でも、限定的とはいえ公開ミサを徐々に始めますので、関口教会でも同様に公開ミサが始まります。そのため、日曜日午前10時のミサの映像配信はいたしません。その代わり、当分の間は、前晩、土曜日の午後6時から、東京カテドラルの主日ミサを配信します。司式はわたしです。土曜の午後6時が中継です。それ以降はこれまで同様、同じ関口教会のチャンネルから、録画された映像を見ていただくことができます。(少なくとも、現時点では、7月中は配信ミサを土曜日晩に続ける予定ですが、8月以降は未定です。)

公開ミサが再開されるといっても、感染が終息したわけではなく、新規の感染者の報告は続いています。経済活動を優先させるために、社会の中の様々な制約が緩和され続けていますので、すでにすべては解決したような気分にされますが、まだまだ慎重であるべきかと思います。

緊急時代のただ中にいまでもまだいると判断していますから、ミサの再開には様々な制約を設けました。いのちを守るための責任ある選択はどれであるかを、最優先でお考えいただきますように、あらためてお願いいたします。

もちろん、現在は緊急事態であり、様々な緊急避難的な判断をしていますが、それを固定化することのないように、できる限る早く、感染の状況に応じて通常に戻す努力をしたいと思います。緊急事態に対応した制限が固定化されることを懸念する声もありますが、そのような不信を払拭できないわたしの力不足を自覚させられております。

本日のミサの説教の原稿です。

キリストの聖体
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年6月14日

東京教区では、緊急事態宣言の解除後、状況を見守ってきましたが、次の日曜日から、小教区における活動を段階的に再開することにしました。もちろん感染が終息したわけではありませんから、慎重に行動しなければなりませんので、当初の間は、感染対策をしたり、距離を保ったり、重篤化のリスクが高い高齢の方にはしばらくは我慢をお願いしたり、いろいろな制約の中での再開となります。

四旬節第一主日に始まって三ヶ月半に及ぶ長い期間、小教区でのミサや活動を中止してきました。霊的な渇きのうちにあっても、お互いのいのちを守るために耐え忍び、協力してくださった皆さんには、心から感謝申し上げます。

今日もまたこのミサの中で、治療のために全力を尽くしておられる医療関係者と、病床にある皆さんのために、心からお祈りいたします。

この長い自粛の期間を、キリストの聖体の主日で終わりとすることは、意義深いことです。なんといってもこの自粛は、共に教会に集い、祈りの時を一緒にできなかったと言うだけではなく、聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致するという、信仰にとって一番大切な秘跡から、わたしたちを遠ざけてしまいました。

教会憲章において、聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘されています(11)。

また教皇ヨハネパウロ二世は、「教会にいのちを与える聖体」において、ご聖体の重要性をこう述べています。
「教会は過越の神秘から生まれました。まさにそれゆえに、過越の神秘を目に見えるかたちで表す秘跡としての聖体は、教会生活の中心に位置づけられます。(3)」

実際にミサにあずかることができず、教会共同体にとって一番大切なこの聖体の秘跡に共にあずかることができなかったことは、教会にとって大きな苦しみであり、悲しみでありました。

お一人お一人の霊的な渇きを癒やすという、個人の信仰の充足という側面ももちろん大事ですが、それ以上に、ご聖体は共同体の秘跡です。そもそもミサそれ自体が、共同体の祭儀です。聖体は一人で受けたとしても、霊的聖体拝領を一人でしたとしても、共同体の交わりのうちにわたしたちはご聖体をいただきます。

それは司祭がひとりでミサを捧げても、個人の信心のためではなく、共同体の交わりのうちにミサを捧げるのと同じであります。

「教会にいのちを与える聖体」には、次のように記されています。

「(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら『たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです』」(31)

パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調されます。

「聖体は交わりを造り出し、交わりを育みます」と指摘する教皇ヨハネパウロ二世は、聖アウグスチヌスの言葉を引いて、「主なるキリストは・・・ご自分の食卓にわたしたちの平和と一致の神秘をささげます。一致のきずなを保つことなしにこの一致の神秘を受ける者は、神秘を自分の救いのために受けることができません」(40)とまで指摘しています。

わたしたちの信仰は、共同体の信仰です。わたしたちの信仰は、「交わり」のうちにある信仰です。「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。パウロのコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記されていました。その「あずかる」が、すなわち「交わり」のことです。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。

これから段階的に公開ミサが再開されて、制約があるとはいえ、ご聖体をいただく機会があることでしょう。三ヶ月間、あずかれない状態が強制されていたのですから、そのときの喜びには大きいものがあることだと思います。でもその霊的渇きの期間を過ごしたわたしたちは、ご聖体を受ける意味をあらためて理解してから、拝領したいと思います。自分がキリストと信仰において一致するという個人的な喜びと同時に、拝領は共同体の交わりのうちに、兄弟姉妹と共に一つの体にあずかるのであり、だからこそ、一緒にあずかることのできない方々へ思いを馳せ、様々な思いを心に抱いている兄弟姉妹に思いを馳せ、配慮と心配りの時としていただきたいのです。

同時に、わたしたちはご聖体をいただくことで、「世の終わりまで、あなた方と共にいる」といわれた主イエスの約束を思い起こします。共にいてくださる主イエスは、その福音を世の終わりまで、世界の果てまで告げ知らせよと命じられた主です。ですから、ご聖体の秘跡にあずかるわたしたちは、福音を告げしらせないわけには行きません。

「教会にいのちを与える聖体」で、教皇ヨハネパウロ二世はこう記します。
「キリストとのこの一致によって、新しい契約の民は、自分たちだけで固まるのではなくて、人類一致のための「秘跡」となります。すなわち、すべての人のあがないのために、キリストによってもたらされる救いのしるしと道具、世の光、地の塩となるのです。教会の使命とキリストの使命は連続しています。・・・感謝の祭儀はあらゆる福音宣教の源泉であると同時に頂点でもあるのです。」(22)

申命記に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と記されていました。

ご聖体を受けるわたしたちは、人となられた神のみ言葉をわたしたちのうちにいただくのですから、聖書に記された神の言葉に耳を傾け、それを通じて、イエスと日々出会うことも欠かせません。

公開ミサがなかったことで、ご聖体を実際にいただくことに思いが集中しますが、ミサを形作っている言葉の祭儀において、まず神のみ言葉に耳を傾けることも、忘れてはなりません。

共同体の交わりと一致のなかで、ご聖体と御言葉のうちに現存される主イエスと出会い、心のうちに一致し、愛の分かち合いから力をいただき、宣教への熱意を受け、聖霊に導かれながら、社会のただ中にあって、福音をあかしし、告げてまいりましょう。

 

|

2020年6月 7日 (日)

三位一体の主日@東京カテドラル

6月に入っても、東京教区ではミサの非公開を続けております。東京都ではこの数日、毎日のように二桁の感染者が報告されていますので、慎重に判断したいと思います。

さて本日は三位一体の主日でした。昨日の土曜日には、午後2時から、これも関係者だけが集まって、二人の助祭叙階式がありましたが、これはまた別に投稿します。

聖歌の選択は、イエスのカリタス会のシスター方にお任せなのですが、今日のミサ曲は、たぶん今日はじめて聞きました。今朝は高い方の音が出ず、ミサ前のシスター方の歌の練習にご一緒して、栄光の賛歌の歌い出しを何度か練習しましたが、いつもは軽く出る高い方のレが出ない。ミサ曲のキーがDなので、当然高いほうのレが続出する歌です。朝の声出しが足りなかったかも知れません。シスター方のおかげで、新しい聖歌を、今年はいくつも知ることになりました。一番驚いたのは、、5月17日世界広報の日の閉祭の歌。自分が昔、神学生の頃に作曲したマリア様の聖歌が突然歌われて、びっくりでした。

以下、本日の説教の原稿です。

三位一体の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年6月7日

 

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」

パウロはコリントの教会に宛てた書簡を、この言葉で締めくくっています。コリントの教会共同体への様々な忠告や教えに満ちあふれた書簡は、いつの時代にも立ち返るべき教会共同体のあり方を教えるパウロの心のこもった書簡です。愛情に満ちあふれた教えや、時に厳しい訓告をさまざまにしたためた言葉を、パウロはこの祝福の言葉で締めくくります。

そして今を生きるわたしたち教会は、感謝の祭儀を始めるために、この言葉を司祭のあいさつの一つとしています。パウロが自らの教えの締めくくりとした言葉によって、わたしたちは感謝の祭儀を始めます。すなわち現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるごとに、パウロが締めくくった地点から、そのたびごとに新しいスタートを切っています。

教会は、主イエスの恵みにあずかり、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされていきます。主イエスの恵みにしても、神の愛にしても、人間の常識を越えたあふれるばかりの恵みであり愛であることを、ヨハネ福音は示唆しています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」
「自ら創造した人間を、独りたりとも滅びの道に捨て置くことはない。愛に根ざした神の決意が伝わってくる福音の言葉です。三位一体の神とは、わたしたちに、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして迫ってくる、神の愛の迫力を感じさせる神秘であります。

「兄弟たち、喜びなさい」。パウロは、コリントの教会に向かってそう呼びかけます。様々な試練があり、教会共同体には諸々の課題や難題があったとしても、その人間の限界を凌駕するほどの三位一体の神の愛に包まれていることを実感するならば、悲しんでいたり怒っていたりする暇はない。その神の愛の迫力で、喜び以外には考えられないだろうというパウロの呼びかけです。

「完全な者となりなさい」。完全な者は神ご自身以外には考えられず、わたしたちは自分の力では完全になることはあり得ません。それならこの言葉の意味は何だろう。「初心に返りなさい」と訳している聖書もあるのですが、信仰の原点、すなわち、主イエスをはじめて信じた時のように、自分の思いではなくて、神の心にすべてをゆだねまかせよという、呼びかけです。わたしたちは自分の弱さを自覚したときにはじめて自我の殻を捨て去り、神の力が存分に働く者となります。

「励まし合いなさい」。わたしたちは、励まし合う共同体でしょうか。互いに牽制し合う共同体になっていないでしょうか。一つの体の部分としての役割を果たすならば、裁きあったり咎め合ったりするのではなく、互いに励ましあうことで、自分の足りないところが支えられます。

「思いを一つにしなさい」。わたしたちが語るキリストの体における一致は、同じことをおなじように考えて、おなじように行動することではありません。一致は一緒ではありません。聖霊はわたしたち一人ひとりに異なるたまものを与えられた。その聖霊のたまものを忠実に生かし、聖霊の交わりの中に生きるとき、わたしたちは異なる場で異なることをしていても、同じ聖霊に満たされ導かれることで、一致しています。

「平和を保ちなさい」。平和は、しばしば指摘されるように、単に争わないことではありません。平和は、神の秩序の実現です。神が最初に世界を創造されたときの、秩序の実現です。

パウロは、わたしたちが共同体にあって、喜び、完全な者を目指し、励まし合い、思いを一つにし、平和を保つときに、愛と平和の神が共にいてくださると指摘します。

ですから、わたしたちの共同体に、もし仮に、愛と平和の充満が感じられないのであれば、喜び、完全な者を目指す、励まし合う、思いを一つにする、平和を保つの、どれか一つが欠けているのかも知れません。

新型コロナウイルス感染症の蔓延で、わたしたちは、四旬節も復活節も、教会に集うことができませんでした。復活節が終わった今、少しばかりですが、希望が見えてきました。緊急事態宣言が解除され、しばらく様子を見極めていましたが、そろそろ教会に集まる準備を始めても良い時期になってきたと思います。

もちろん感染症が終息したわけではなく、未知の危険が潜んでいますから、慎重に行動しましょう。教会に集まったり、ミサに出たりすることにも、しばらくはいろいろな制約を設けなくてはなりません。不満に感じること、面倒に感じることも多々あるでしょう。大変申し訳ないと思います。しかしそれは、自分の健康を守るためだけではなく、他の人たちのいのちを守るための積極的な行動です。それがひいては、社会の一員としての教会の責任を果たすことにもつながります。

長い自粛期間を経て、再び教会に集おうとしているわたしたちは、これからどのような共同体として存在しようとしているのでしょう。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と締めくくったパウロの言葉を受けて、そこから新しいスタートを切ろうとするのです。灰の水曜日以前の教会に、そのまま戻ることを考えないでください。わたしたちを交わりに導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。わたしたちは、過去に戻りません。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう書いておられました。 
「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すというこの課題に対して、大胆かつ創造的であってください。」(33)

教会に出かけることもできずに自粛生活を続けてきた結果として、何か新しい発見はあったでしょうか。大切にしなくてはならないものに、何か新しい気づきはあったでしょうか。

これまで教会は、日曜日に集まってくることで、共同体であるつもりでいました。でも三ヶ月以上も、実際に教会に集まれなくなっています。わたしたちは、共同体でしょうか。共同体であるならば、何がわたしたちを繋いでいるのでしょう。わたしたちをつなげているのは、オンラインのミサではありません。

わたしたちは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」によって、繋がれています。わたしたちに迫ってくる迫力に満ちあふれた、神の愛で繋がっています。わたしたちは、24時間その愛に包まれているのですから、わたしたちはどこにいても、常に、教会です。教会に行くから、教会になるのではなく、わたしたちそのものが教会です。

わたしたちは今、教会共同体として新たなスタートを切るための準備を始めなくてはなりません。三ヶ月前の続きを再開するのではなく、困難を乗り越えてきたいま、新たなスタートを切ることを目指したいと思います。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」に包まれて、心と思いを一つにした教会共同体で、信仰を深め、信仰に生き、信仰を伝えてまいりましょう。

 

 

 

|

2020年5月31日 (日)

聖霊降臨の主日@東京カテドラル

復活節の締めくくりでもある聖霊降臨の主日となりました。結局、2020年は、四旬節も復活節も、教会のミサを公開で行うことができませんでした。受洗を予定されていた多くの方や、また今日の聖霊降臨にカテドラルで合同堅信式を予定されていた多くの方。大変申し訳ない。大きな喜びの時を、大きな試練の時としてしまい、大変残念です。

今後、ミサが公開となっていった段階で、小教区教会共同体全体とは行かないかも知れませんが、共同体の中で、洗礼や堅信を受けるようにしてください。個人的に個別に行うと言うアイディアもありましたが、やはり洗礼も堅信も、緊急の場合を除いて、共同体のお祝いであり、共同体の一員として秘跡にあずかっていただくのが本来の姿です。今後、主任司祭が様々な工夫をして洗礼や堅信を行っていくことになりますので、よくご相談ください。

なお、現時点では、東京教区の小教区公開ミサを再開することはできません。もうしばらくお待ちください。緊急事態解除後に、感染者がゼロになったわけでもなく、亡くなられるかたもおられます。状況を見極め、また特に東京都のロードマップを参考にしながら、時期を定めてまいります。互いのいのちを守るために、慎重に行動したいと思います。

具体的な指針についての問い合わせが、いくつか教区本部にありました。お知らせしたように、4月末に、具体的な対応のガイドラインを小教区の司祭に配布しました。それぞれに必要な対応を準備していただくためです。公開していない理由は、東京教区の中でも地域によって状況が異なりますので、すべての小教区で統一した全く同じ対応をすることは難しいと思われるからです。ガイドラインの一人歩きは避けた方が賢明だと思います。各小教区では、教区のガイドラインに沿って、地域の状況に合わせたアレンジをしていただかなくてはなりません。その作業を、主任司祭と、この数週間は教会の役員の方々などと一緒に、進めていただいております。

ミサを公開する日時を定めましたら、その10日くらい前にはお知らせします。その際には、教区がすでに定めた具体的なガイドラインも公開します。それに基づいたそれぞれの小教区の対応も、お知らせすることになると思いますので、主任司祭の指示に従ってくださるように、お願いいたします。

以下、本日の説教の原稿です。

聖霊降臨の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年5月31日

緊急事態宣言が解除され、わたしたちは、閉じこもっていた部屋から解放されたように感じています。あの日の、恐れのなかにあった弟子たちのように、部屋の鍵をかけて隠れているような心持ちで、わたしたちも毎日を過ごしてまいりました。

感染にはこれからも繰り返し波があると指摘されていますから、緊急事態宣言の解除が安全宣言ではないことを心にとめて、慎重な行動をとらなければなりません。教会も、社会の中における責任を自覚し、また大切ないのちを守ることを優先して行動していきたいと思います。

あらためて、今回の事態にあたり、日夜努力を続けておられる医療関係者の方々に感謝し、また病床にある方々へいつくしみ深い御父の癒やしの手が差し伸べられるように祈ります。

恐れはわたしたちの心を束縛します。弟子たちは恐れに束縛されて、部屋に閉じこもりました。イエスはその部屋に入り、聖霊を与え、弟子たちを恐れの束縛から解放します。

「あなた方に平和があるように」と、「死」という最大の束縛から解放された復活の主は、弟子たちに言葉をかけます。それは、いつものあいさつの言葉に留まらす、恐れに束縛される心には、神の平和が欠如しているという事実を指摘しています。

神の平和とは、すなわち、神の秩序の実現です。神の平和の欠如とは、すなわち、神が求めておられる世界のあり方とは、正反対にある状態です。恐れる心は自分を守ろうとする思いに満たされ、他者への配慮に欠ける心となりかねません。互いに助けるものとして共に生きるようにといのちを与えられたわたしたちが、他者への心配りを忘れては、神の秩序の実現はあり得ません。

「聖霊を受けなさい」と恐れる弟子たちに、イエスは語りかけます。聖霊は、「いのちの霊、すなわち永遠のいのちの水がわき出る泉」であります(教会憲章4)。聖霊は、心の恐れを打ち砕く、いのちの源です。聖霊に生かされたとき、はじめて、神の平和が実現します。

使徒言行録は、聖霊によって生かされた弟子たちが、様々な言葉で福音を語る姿を記しています。もちろん聖霊をいただくことによって、様々な言葉が話せるようになれば、それはそれで素晴らしいことですが、この出来事が記されている本質はそこにはありません。大切なのは、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が理解されたときに、はじめて、神の平和が実現する一歩が踏み出されると言うことです。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とイエスは、弟子たちに勇気を持って一歩前に踏み出すように促します。聖霊を受けた教会は、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が理解され、神の平和が実現するようにと、遣わされています。神の望まれる世界の実現のために、遣わされています。

あらためて言うまでもなく、わたしたち一人ひとりはキリストの体の一部として、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」のですから、主によって派遣されている教会の一部として、おなじように、一人ひとりがイエスによって派遣されています。

わたしたちの派遣の使命は、聖霊の導きに従いながら、復活された主イエスの福音をありとあらゆる方法で、なおかつ理解される方法で多くの人に伝え、神の平和を実現することにあります。

1998年に開催されたアジアシノドスを受けて発表された教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「アジアにおける教会」に、教会の派遣の使命について、次のような指摘があります。

「教会は、聖霊の促しに従うときだけ自らの使命を果たすことができることをよく知っています。教会は、アジアの複雑な現実において、聖霊の働きの純粋なしるしと道具となって、アジアのあらゆる異なった環境の中で、新しく効果的な方法を用いて救い主イエスをあかしするよう招く聖霊の促しを識別しなければなりません(18)」

その上で教皇ヨハネパウロ二世は、アジアにおける福音宣教の道を次のように示唆します。
「アジアにおいては非常に異なった状況が複雑に絡み合っていることを深く意識し、『愛に根ざして真理を語り』つつ、教会は、聞き手への尊敬と敬愛を持って福音を告げしらせます。(20)」

同じアジアにおける教会の一員であるわたしたちは、日本社会の現実の中へと派遣されて、「愛に根ざして真理を語」らなくてはなりません。わたしたちは、「尊敬と敬愛を持って」対話のうちに福音を告げなくてはなりません。聖霊の促しを受けて、その働きの純粋なしるしと道具となって、神の平和が実現するようにと、福音を告げなくてはなりません。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりに、「聖霊と共にある福音宣教者」というひと項目を設けています。そこに「聖霊は、福音を宣教する教会の魂」だと言う言葉があります。

そして教皇は、こう呼びかけます。
「宣教活動の中心にイエスの現存を見いだすことがなければ、すぐに熱意を喪失して、伝えていることに確信が持てず、力と情熱を失うことでしょう。信念も、熱意も、自信も、愛情もない者は、誰も納得させえません。イエスと結ばれ、イエスが求めるものを求め、イエスが愛するものを愛してください(266)」

わたしたち自身が、イエスの現存を肌で、心で感じていなければ、何も伝えることはできない。わたしたちがそれを生きていなければ、何も伝えることはできない。

恐れは不信を生み、不信は利己主義へとつながり、連帯のきずなは崩壊します。恐れの内に閉じこもろうとする社会に、わたしたちはいのちの泉である聖霊の息吹を吹き込みたい。

だからこそ、聖霊に導かれる教会は、常に新たにされ、恐れて閉じこもることなく、勇気を持って福音を告げる努力を続けなくてはなりません。教会は常に、聖霊の呼びかけに応えているかを見つめ直さなくてはなりません。感染症の拡大という困難は、三ヶ月にわたって、これまでの教会活動を止めてしまいました。しかしそのことが同時に、この現実の中で教会のあるべき姿をあらためて探求しようとする、いわば黙想の時間を、わたしたちに与えてくれました。教会は、困難な状況をくぐり抜けた後で、新たに立ち上がることを求められています。一人ひとりがキリストの体の一部として、現実の中で福音をあかしするよう派遣されている使命を、あらためて自覚するときは、今です。

社会に定着しようとする新しい生活様式とは、単にマスクをいつも着けることだとか、充分な社会的距離を保つといった、外面的な規則を守ることに留まるのではありません。それは生き方の転換や価値観の転換を促す、社会構造の変革の機会でもあります。

発表されてちょうど五年となる回勅「ラウダート・シ」において、総合的エコロジーの視点を強調される教皇フランシスコは、「後続する世代の人々に、今成長しつつある子どもたちに、どのような世界を残そうとするのでしょうか」と問いかけ、さらに「この世界でわたしたちは何のために生きるのか。わたしたちはなぜここにいるのか」と言う根本的な問いに対して、真摯に向き合うようにと呼びかけます(160)。

聖霊に導かれて、恐れに打ち勝ち、日々新たにされながら、神の望まれる世界、すなわち神の正義が具体化する新たな世界の実現を目指して、一歩前に踏み出しましょう。

 

 

|

2020年5月24日 (日)

復活節第七主日・主の昇天@東京カテドラル

復活節第七の主日は、日本を初め多くの国で、その前の木曜日の「主の昇天」を、この日曜に移動させて祝います。復活節も終わりに近づき、来週は聖霊降臨の主日となりました。

公開ミサを四旬節第一主日から非公開として、だいぶ時間が経ちました。その間には、政府による緊急事態宣言もあり、社会全体が立ち止まっているように感じます。教会も集まることができなくなり、ミサを通じて神の言葉をいただき、聖体の秘跡に共にあずかることができなくなっています。共同体としての一致を求める教会は、いま、あらためてその存在の意味を共に見つめ直し、これからの教会共同体の姿を模索する時を与えられています。よりふさわしい道を見いだすことができるように、聖霊の導きを願いましょう。

なおみなさまご承知の通り、緊急事態宣言の解除は、そのままで安全宣言ではありません。従って、東京教区を構成する東京都と千葉県を対象とした緊急事態宣言が解除されたからといって、即座に教会活動を再開させることはできません。政府は現在、明日25日の解除を検討中とうかがっていますが、その翌日に教区としての今後についてお知らせします。また東京都の「ロードマップ」の各ステップにおける集会の人数制限もありますので、教会にとっても難しい選択が待ち構えています。なお、その後の教会活動については、すでに教区としての検討は終わり、4月30日に司祭に伝達して、それぞれの小教区での具体的な対応の検討を始めていただいています。教区としての大枠であるガイドラインも、時期を見計らって公示いたしますが、それに基づいて今後示されることになるであろう、それぞれの主任司祭と小教区の役員の方々の判断に、どうかご協力くださるようにお願いいたします。

以下、本日の配信ミサの説教原稿です。

復活節第七主日・主の昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年5月24日

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」

新しいいのちへと復活された主イエスは、40日にわたって弟子たちとともにおられ、神の国について教え、地の果てに至るまで、イエスの証し人となるようにと命じられた後に、天にあげられたと、使徒言行録の冒頭に記されています。

十字架上での死によって、主が取り去られてしまった弟子たちは、大きな絶望を味わったことでしょう。神の国の実現という、将来に向けての具体的な目的が潰えてしまったからです。しかし主は復活されて現れ、あらためて弟子たちを力づけられた。弟子たちには再び希望が芽生えます。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけに、あらためて将来に向けて生きる目的を見いだした弟子たちの希望が表されています。

しかし、主は再び自分たちから離れて行かれた。弟子たちは呆然として、天を見上げて立ちすくんでいたことでしょう。手にしかけた希望を、あらためて奪われてしまったのです。

その茫然自失の状態で立ち尽くす弟子たちに、天使は希望の言葉を告げます。
「天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」

困難な状況の中にあるわたしたちは、感染予防のために続けてきた活動の自粛の出口を、かろうじて見通すことができるようになってきました。感染には波があると指摘されており、まだまだ油断することはできませんが、当初の頃に較べれば、そこには光が見えつつあり、希望を感じ取ることができます。希望は人を生かします。希望は不安を打ち砕き、行動へと駆り立てる勇気を与えます。希望は、守りに入って自分だけを見つめる目を、助けを必要とする他者へと開きます。

この希望への道を切り開いてくださっている医療関係者の努力に、あらためて感謝すると共に、病床にある方々の一日も早い回復を心から祈ります。

「あなたの教区の希望は何ですか」
司教になって初めての定期訪問アド・リミナで2007年にローマを訪れたとき、当時の教皇ベネディクト十六世との個別謁見で、そう尋ねられました。「教区の将来への不安」であればいくらでも並べることができますが、希望はなかなか思いつかず、考え込んだことを記憶しています。

信仰・希望・愛の三つの徳を重要なテーマとされ深めたベネディクト十六世は、希望についてしばしば語り、わたしたちの信仰とは希望であると断言されます。

回勅「希望による救い」で、テサロニケの信徒へあてたパウロの言葉を引用した上で、教皇はこう述べています。
「(当時の)キリスト信者は、将来自分たちを待ち受けていることを正確に知っていたわけではありませんでした。けれども彼らは、いかなる人生も無で終わるのでないことを知っていたのです。未来が積極的な現実として確実に存在するとき、初めて現在を生きることも可能になります」(2)

その上で、その人生に希望をもたらす、イエスの福音とは何なのかを、次のように続けます。
「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。時間、すなわち未来の未知の扉が開かれます。希望を持つ人は生き方が変わります。新しいいのちのたまものを与えられるからです」(2)

いま、わたしたちは、困難な状況を克服しようと努めていますが、その道程にあって、どのような希望を求めているのでしょうか。どのような未来を実現しようとしているのでしょうか。そのためにどのような生き方を選び取ろうとしているのでしょうか。

マタイ福音に記されたイエスご自身の言葉は、わたしたちの生きる希望です。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

様々な困難に直面し、人間という存在の弱さと小ささを自覚させられるときに、それでもわたしたちは見捨てられることはない。いつまでも共にいてくださる主が、未来に向かって歩みを共にしてくださる。わたしたちは、この約束の言葉に、生きる希望を見いだします。

いのちの危機という困難を克服しようとしている今、世界に必要なのは希望です。希望は過去にはなく、これから進み行く未来にあります。過去に夢を見て戻ろうとするところに、真の希望はありません。苦しみのその先にある未知の扉を開き、希望を生み出すために、わたしたちはいったいどこに向かって、どう生きていけば良いのか。

その鍵は、教会がこれまでたびたび指摘してきた「連帯」にあります。

ベネディクト十六世は、「救いへの希望」で、こう述べています。
「わたしだけの希望は、真の希望ではありません。それは他の人を忘れ、ないがしろにするからです」(28)

困難な状況の中でいのちの危機に直面している世界は、この数ヶ月の間、いのちを守るためには連帯しなければならないことを心に感じ取っています。同時に、身を守ろうとするあまり利己的になり、名ばかりの連帯で、関係性にあって攻撃的な言動も見られます。攻撃性は、社会にあっては差別的言動も生み出しています。そこに希望は見いだせません。

わたしたちは真の希望を求めています。いのちの希望を求めています。救いへの希望を求めています。その希望は、「わたしだけの希望」では、「真の希望では」ない。「他の人を忘れ、ないがしろにする」希望は、真の希望ではない。真の希望は、共有する希望です。互いを思いやり支え合うきずなの中で、共にいのちを守るために連帯するとき、世界ははじめて生きる希望を生み出すことができます。

教皇ヨハネパウロ二世は、連帯の重要性も強調された教皇ですが、回勅「真の開発とは」に、連帯の意味をこう記しています。
「(連帯とは)至るところに存在する無数の人々の不幸、災いに対する曖昧な同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思いでもありません。むしろそれは、確固とした決意であり、共通善に向かって、すなわちわたしたちは、すべての人々に対して重い責任を負うがゆえに、個々の人間の善に向かい、人類全体の善に向かって自らをかけて、共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです」(38)

わたしたちは、単なる優しさに基づいた行動としての連帯を目指してはいません。わたしたちの目指す連帯は、自分の利益のためではなく、すべての人の善益のためであり、互いに関心を寄せ合い、思いやり、支え合い、互いを忘れることなく、一致を目指す連帯です。わたしたちと常に共にいてくださる主イエスの存在を確信させるため、その言葉と行いを具体的にあかしする行動です。真の希望を生み出すため、共通の家を互いに守り、誰ひとりとして排除されることのない世界を生み出そうとする、明確な決断を伴う行動です。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束された主の言葉に信頼しながら、困難に直面する社会で真の希望を生み出すために、すべての人と真の連帯を強め、忍耐と謙遜の内に希望の福音をあかしする者となりましょう。

 

|

2020年5月17日 (日)

復活節第六主日@東京カテドラル

復活節第六主日です。復活の主日から、あっという間にひと月ほどが経過し、昇天祭(今週の木曜日ですが、日本をはじめいくつかの国では、次の主日に祝います)や聖霊降臨祭が近づいてきました。

本日の説教でも触れていますが、教会は今日の主日を、「世界広報の日」と定めています。教皇様の世界広報の日のメッセージは、こちらのリンクから、中央協議会ホームページで読むことができます。

また、明日、5月18日は聖ヨハネパウロ二世教皇の生誕100年の日です。これも説教で触れていますが、本来であれば、ポーランド大使との協力の中で、本日日曜の夕方に、わたしの司式でカテドラルにおいて記念ミサを捧げる予定でした。残念ながら、現在の状況で延期となりました。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

復活節第六主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年5月17日

わたしたちは、イエス・キリストの福音をのべ伝えます。人となられた神のことばである、イエスを告げしらせます。「折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」とパウロがテモテへの手紙に記すように、ありとあらゆる困難を乗り越えてでも、わたしたちは福音をのべ伝えます。福音を告げしらせることが、わたしたちに与えられた使命だからに他なりません。

困難な状況が続く中でも、次のステップに進む可能性がかろうじて見えてきたいま、三ヶ月近くも教会に集まれずにいるわたしたちは、どうしても、教会へと実際に足を運び、一緒になってミサにあずかることに、思いを集中させてしまいます。もちろん集まることは大切なことですし、ご聖体における一致は、教会共同体の根本を形作るものであります。

しかし同時に、わたしたちは、与えられている大切な使命を思い起こしたい。福音を、社会のただ中で、すべての人へ告げるようにと派遣されている、その使命を思い起こしたい。とりわけ、この困難な状況の中で、暗闇における希望の光を輝かせる務めが、教会にはあるのだと思い起こしたい。そして、その教会とは、誰かのことではなく、わたしたち一人ひとりのことだと、自分のことなのだと、思い起こしたい。

教会は、今日の主日を、「世界広報の日」と定めています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18)」と、1967年に始まりました。

もちろん当初は、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などの広報媒体を用いて行う専門的な使徒職が対象でしたが、今や時代はインターネットです。SNSの様々な手段を通じてわたしたちは、個人的なコミュニケーションにとどまらず、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。いまや、広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者が関わることのできる福音宣教のための使徒職ともなりました。

広報専門職の重要性には変わりがありませんが、同時に、すべてのキリスト者が、福音宣教のための道具を手にしているのです。もう、福音宣教ができない口実を並べることはできません。わたしたちは、道具を手にしているからです。

「広報メディアに関する教令」には、こう記されています。
「母である教会は、これらのメディアが正しく活用されるなら、人類に大きく貢献することを熟知している。それらが人々を憩わせ、精神を富ませ、また神の国をのべ伝え、堅固なものとするために大いに貢献するからである(2)」

しかし同時に、この教令は、次のような警告も記しています。
「人々が神である創造主の計画に反してメディアを用い、それらを人類への損失に変えうることを、教会は認識している。実に、その誤用によって人間社会に幾たびとなくもたらされた損害を前に、教会は母としての痛みを感じている(2)」

確かにこの数年、わたしたちは簡便なコミュニケーション手段を手に入れ、どこにいたとしても、十数年前とは比べものにならないほど大量の情報を、あっという間に集めることができるようになりました。さらには、SNSを通じて、簡単に不特定多数に向けての情報発信ができます。

それと同時に、「フェイク・ニュース」という言葉に代表される裏付けのないデマに、簡単に踊らされる事態に直面する危険も増えています。

さらには、発信される言葉が時として暴力的になり、人間の尊厳をおとしめるような差別を生み出す原因となったり、いのちを危機にさらすような出来事の引き金を引く可能性すら存在します。この数ヶ月のように、先行きが見通せない中で不安が積み重なっている状況は、疑心暗鬼の中で殺伐とした言葉のやりとりを生み出す可能性を持っています。

ペトロは今日の第二朗読の中で、「あなた方の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意を持って、正しい良心で、弁明するようにしなさい」と諭しています。

イエスご自身から、福音宣教の使命を与えられているわたしたちは、SNSなどを通じた発信が、福音宣教の使徒職を果たすための手段となるという可能性を、意識したいと思います。

わたしたちは、自分の言葉を、「穏やかに、敬意を持って、正しい良心」のうちに、ネットに向けて発信するように、心したいと思います。

今年の世界広報の日にあたり教皇フランシスコは、一人ひとりが語る物語の重要性を指摘するメッセージを発表されています。教皇は、メッセージ冒頭でこう述べておられます。

「道に迷ったままにならないためには、よい物語から真理を吸収する必要があると、わたしは信じているからです。よい物語とは、壊すのではなく築き上げる物語、自分のルーツと、ともに前に進むための力を見いだす助けとなる物語です」

人はそれぞれの物語を語り、互いに分かち合うことで豊かにされ、成長すると指摘する教皇は、現状を次のように分析しています。

「幸せになるためには、獲得し、所有し、消費することを続ける必要があると信じ込ませ、説き伏せる物語がどれほど多くあることでしょう。・・・裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです」

当然、わたしたちが伝える福音は、物語です。わたしたちは、イエスの物語を受け継ぎ、それを他の人へ物語ろうとしています。福音の物語は、イエスについての教えや知識にとどまらず、それを受け取ったわたしたちが、具体的にそのもの語りを生きるようにとうながします。いのちを大切にし、互いに助け合い、尊重し合い、ともに道を見いだすようにとうながす物語です。

明日、5月18日は聖ヨハネパウロ二世の生誕100年にあたります。特に、ポーランドの皆さんにお祝いのことばを述べたいと思います。本来は、今夕に、ポーランド大使館の主催で、生誕100年記念のミサを、ここカテドラルでささげる予定でした。

その聖ヨハネパウロ二世は、2002年の世界広報の日のメッセージで、インターネットを通じた福音宣教の可能性に触れながら、こう記しておられます。

「大切になるのは、キリスト教共同体が実践的な方法を考案し、インターネットを通して初めて接触してきた人たちが、サイバースペースの仮想世界から現実のキリスト教共同体世界へと移行する助けとなることです」

わたしたちは、与えられた福音宣教の道具を賢明に用いながら、仮想世界であっても現実世界であっても、福音をのべ伝え、信仰における深いきずなに結ばれた信仰共同体を実現し、育んでいくことができるように、努めたいと思います。

 

|

2020年5月14日 (木)

ロザリオの祈りの夕べ@東京カテドラル

Fatimarosary20c

ファティマの聖母の記念日にあたる5月13日午後7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、ロザリオの祈りの夕べを行いました。

本日5月14日に祈りをささげるようにと教皇様が呼びかける前に決まっておりましたので、13日に行いましたが、祈りの意向は同じです。「新型コロナ感染症拡大のさなかにささげる祈り」として「混乱する事態の早期終息と病症にある方々の快復、及び亡くなられた方々の永遠の安息のために」、聖母の取り次ぎを求めて祈りをささげました。

Fatimarosary20a

全体の構成と、始めと終わりの祈願については、先日、アメリカ合衆国の司教団が行った祈りの集いの式次第を参考にしたもので、翻訳は私訳です。感染対策のため非公開でしたし、聖堂内での互いの距離を保つために、参加してくださったのは、いつもの配信ミサと同じ少数のシスター方です。平日の夜にもかかわらず、ネット中継のためにお手伝いくださった関口教会の信徒の方々に感謝いたします。

Fatimarosary20d

なお水曜日ですので「栄えの神秘」の黙想でしたが、五つの黙想の本文は、京都教区の北白川教会のホームページを参考にさせていただきました。

以下、祈りの集いの中で、ロザリオの祈りへの導入として行ったお話の原稿です。

<祈りへの招きの言葉: 2020年5月13日 ロザリオの祈りの夕べ>

5月の聖母月にあたり、特に新型コロナウイルス感染症による困難な状況に直面する中で、教皇様は、ともにロザリオを祈るように呼びかけられました。特に、外出自粛などが続く中で、多くの人がこれまで以上に家族と一緒に時間を過ごすことになっていますが、その中にあって、家族とともに祈ることの大切さを、呼びかけのメッセージでこう述べておられます。

「五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。感染症の大流行によるさまざまな制約の結果、わたしたちはこの「家庭で祈る」という側面がなおさら大切であることを、霊的な観点からも知ることになりました」

日本では、多くの場合、家族全員が信徒であることは少ないのが現実だと思いますが、信仰における家族として、ファティマの聖母の祝日である今日、ロザリオの祈りをともにいたしましょう。また教皇様は、明日、5月14日を、「祈りと断食と愛のわざの日」とされ、すべての宗教者と霊的に結ばれ、新型コロナウイルスのパンデミック収束のために人類を助けてくださるよう神に祈ることを呼びかけられました。

1965年に、特に世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと呼びかけた「メンセ・マイオ」で、教皇パウロ六世はこう述べています。

「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」(3)

同時にパウロ六世は、ロザリオの重要な要素として「賛美と祈願」に加えて、「観想」の重要性を説いておられます。「マリアーリス・クルトゥス」には、「観想という要素がないならば、ロザリオは魂の抜けた体にすぎません。・・・主にもっとも近かったマリアの目を通して主の生涯における神秘を黙想できるように役立つべき」とも記されています。(47)

十字架上で主イエスご自身から、「見なさい。あなたの母です」と、教会の母として民を託された聖母マリアは、ルルドやファティマでのロザリオの祈りへの招きを通して、母としてのわたしたちへの気遣いを示そうとしておられます。ロザリオの祈りは、聖母マリアを通して主イエス・キリストへとわたしたちを導く賛美と祈願と観想の道です。神の御旨が実現するために自分自身のすべてを神にゆだねる勇気を持つことができるように、聖母マリアに従って、主イエスへと至る道を歩み続ける祈りです。

聖母の取り次ぎを求めながら、祈りましょう。

一日も早く今般の事態が終息するように、また病床にある人たちにいやしが与えられるように、医療関係者に守りがあるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい判断をすることができるように。

そして、すべての人の上に復活の主イエスの守りと導きが豊かにあるように、神の母である聖母の取り次ぎを祈りましょう。

 

 

|