2025年復活の主日@東京カテドラル
主イエスの復活、おめでとうございます。
雨も心配された東京の復活の主日でしたが、風が強かったものの、天気はなんとか持ちました。多くの方が東京カテドラル聖マリア大聖堂の午前10時のミサに参加してくださいました。いつもの席では足りずに、予備の折りたたみ椅子がかなり使われましたので、五百から六百人以上がミサで祈りを共にされたかと思います。
ミサ後には、昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられて方へのお祝いも兼ねて、ケルンホールで祝賀会が催されました。おめでとうございます。感染症の影響でこの数年はこういった集まりが困難でしたが、久しぶりに、新しく洗礼を受けた方々を迎えて祝賀会となりました。
以下、本日のミサの説教原稿です。
復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月20日御復活おめでとうございます。
昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた皆さんには、特にお祝いを申し上げます。
洗礼を受けられたことで、ひとり一人はイエスの弟子としての旅路を始められました。それはただ単にイエスと一緒に歩き始めたということ以上に、キリストの身体を造り上げる一つの部分となったということをも意味しています。
今年教会は25年に一度の聖なる年、聖年の道を歩んでいます。そのテーマは「希望の巡礼者」であります。
聖年の大勅書「希望は欺かない」で教皇フランシスコは、第二バチカン公会議の現代世界憲章を引用して、「神という基礎と永遠のいのちに対する希望が欠けるとき、・・・人間の尊厳はひどく傷つけられ」、それが絶望を生み出すのだと指摘されました。
人間のいのちは、完全な存在である神の似姿として創造されたことによって、はじめから尊厳が与えられています。いのちを賜物として与えられているわたしたちキリスト者には、その尊厳を守る務めが託されています。そこに例外はありません。
教皇様は、絶望に満ちあふれた世界に生きているとは言え、「わたしたちは、自分を救ってくれた希望のおかげで、過ぎ去る時を見て、人類の歴史とひとり一人の人生は、行き止まりや暗黒の深淵に向かっているのではなく、栄光の主にお会いすることに向かって進んでいるという確信を得ています」と記しています。
わたしたちは洗礼を受けることでイエスの死と復活に与り、永遠のいのちの希望を与えられました。わたしたちは復活された主に向かって、常に歩み続けている「希望の巡礼者」であることを心に刻みましょう。
教会はこの巡礼の旅路を、みなで一緒になって歩む共同体です。もちろんひとり一人のキリスト者にはそれぞれ独自の生活がありわたしたちは共同生活をしているわけではないので、みなが同じような仕方で、共同体に関わるのではありません。共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、どのような形であれ、共同体の一員となるということは、日曜日に教会へ来るときだけでのことではなく、洗礼を受けたことで、信仰において共同体にいつでもどこにいても結ばれていることを、心に留めておくことであると思います。
洗礼の恵みによって、さらにはご聖体と堅信の恵みによって、わたしたちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきをわたしたちが消し去ることはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で努めていただくことを期待しています。そしてこれからも一緒に希望をあかしする巡礼者として歩んで参りましょう。
本日の第一朗読である使徒言行録は、弟子たちのリーダーであるペトロが、力強く主イエスについてあかしをしながら語る姿と、その言葉を記しています。
「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」と高らかに宣言するペトロは、ヨハネ福音の中では全くの別人のように描かれています。
あの最後の晩、三度にわたってイエスを知らないと宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、大いなる喪失感と絶望の中で、主の復活という希望をまだ理解できていません。今日のヨハネ福音には復活された主ご自身は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を目の当たりにしながら、しかし理解できずに困惑するペトロや弟子たちの姿です。
その弱々しく絶望に打ちひしがれたペトロを、使徒言行録が記しているような力強くイエスについて宣言するペトロに変えたのは一体何だったのでしょうか。
そこには復活された主ご自身との出会いによって、ペトロや弟子たちが永遠のいのちへの確信を与えられたことと、その確信が生み出す希望がありました。
洗礼によってわたしたちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との出会いがあります。わたしたちはこの共同体の交わりの中で、様々な形で主と出会います。共に祈る中で、主の導きをいただきます。共に与る聖体祭儀で共に主と一致し、信仰における兄弟姉妹と一致します。わたしたちの共同体は交わりの共同体であり、その交わりは信仰における永遠のいのちへの確信を深め、人生の旅路を歩み続ける希望を生み出します。
わたしたちが受けた福音は、わたしたちがいただく信仰は、単なる知識や情報の蓄積ではなくて、具体的にわたしたちが行動するように促し、具体的にそれを多くの人に証しし、世界に希望を生み出すように前進するようにと促す力であります。
2020年に直面した世界的ないのちの危機以来、わたし達は混乱の暗闇の中をさまよい続けています。その間に勃発した、例えばウクライナやガザをはじめ世界各地の戦争や紛争はやむことなく、今日もまた、いのちの危機に直面し、絶望のうちに取り残されている人たちが、世界には多くおられます。クーデター以降不安定な政治状況が続き、平和と民族融和を唱える教会への攻撃まであるミャンマーでは、先日発生した大地震によって、さらに多くの人のいのちが、いま、危機に直面しています。いのちが暴力から守られるように、神の平和が確立するように祈り続けましょう。
このような状況のただ中に取り残されることで、多くの人の心には不安が生み出され、世界全体が身を守ろうとして寛容さを失い、利己的な価値観が横行しています。異質な存在を受け入れることに後ろ向きであったり、それを暴力を持って排除しようとする事例さえ見受けられます。
人はそのいのちを、「互いに助けるもの」となるように神から与えられたと旧約聖書の創世記は教えています。ですから互いに助け合わないことは、わたし達のいのちの否定に繋がります。いのちの否定は、それを賜物として与えてくださった神の否定に繋がります。
互いに助け合わない世界は、神が望まれた世界ではありません。互いに助け合わない世界は、希望を打ち砕き絶望を生み出す世界です。神に背を向ける世界であります。
いのちを生きる希望を、すべての人の心に生み出すことが、いま、必要です。わたし達は、絶望が支配する世界に希望をもたらす者として、人生の旅路を歩み続けましょう。一人で希望を生み出すことはできません。信仰における共同体の中で生かされることを通じて、希望が生み出されます。その希望は、永遠のいのちへと復活された主のうちにあり、ともに歩む教会共同体の中で豊かに育てられます。勇気を持って、この社会に対して、希望の源である復活の主イエス・キリストをあかしして参りましょう。
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