カテゴリー「配信ミサ説教」の103件の記事

2023年8月15日 (火)

2023年聖母被昇天の祝日@東京カテドラル

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8月15日、聖母被昇天の祝日です。

台風の被害を受けられた多くの方々に、お見舞い申し上げます。東京は、一日曇り空でした。東京カテドラルでは、午前7時と、午後6時の二回、聖母被昇天のミサが捧げられ、午後6時のミサを、大司教司式ミサといたしました。ご一緒にお祈りくださった皆さん、ありがとうございます。

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また初代教会の殉教者であった聖タルチシオは、もともとこの8月15日が記念日でありましたので、わたしは今でも8月15日を霊名の記念日としています。現在の教会の暦では、8月12日に移動しているかと思います。霊名の日にあたり、この数日多くの方からお祝いの言葉をいただきました。感謝申し上げます。これからもお祈りくださること、どうかお願いいたします。

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本日のミサの終わりにもお伝えしましたが、教皇様は、本日ローマ時間正午、大阪大司教区と高松司教区を合併して、新たに大阪・高松大司教区の設立を宣言され、その初代教区司教として、前田万葉枢機卿様を任命されました。

日本の教区の区割りは、20世紀初頭の鉄道網のつながりとその当時の人口分布を優先して決められていますので、21世紀の今では事情が異なる中で、様々な課題が出ております。同時に、社会の人口動態に合わせて、教会の信徒数も移り変わっています。加えて近年、子供の数が社会一般で減少するのに合わせて、司祭召命も少なくなっており、戦後の一時期に叙階された多くの先輩司祭の後を継ぐ若手の司祭が不足しています。様々な事情を勘案して、この数年、大阪教区と高松教区を一緒にすることが検討されてきたと伺っています。司教省の管轄する国では、例えばイタリアのように教区の合併は珍しくありませんが、福音宣教省の管轄する国では、あまり例がないために、福音宣教省も決断をして教皇様に答申をするまで、かなり慎重に検討を重ねてきたと聞いています。

新しく誕生する大阪・高松教区の上に、神様の豊かな祝福と聖霊の導きがあるように、共に祈りましょう。

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以下、本日午後6時の東京カテドラルでのミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年8月15日

平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受け、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。そしてエリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げた讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画の実現された様が記されています。そこでは、この世界の常識が全く覆され、教皇フランシスコがしばしば指摘される、社会の中心ではなく周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが向けられていることが記されています。

しかしわたしたちが生きている現実はどうなのでしょうか。社会の中心ではなく周辺部に追いやられた人に向けられている神の目、神のいつくしみを、わたしたち福音に生きるものは、具体的に実現するように行動しているでしょうか。

もちろんすべてのいのちの創造主である御父にとって、賜物として与えられたすべてのいのちは、等しく愛を注がれる対象であり、大切な存在です。賜物であるいのちは、神がそれほどの愛を注がれ、またご自分の似姿としての尊厳を与えられているからこそ、その始まりから終わりまで、すべからくその尊厳が守られ、大切にされなくてはならない存在です。しかし、世界全体を見れば、様々な理由から、その尊厳が損なわれ、いのちの危機に直面する人も少なくありません。社会から忘れ去られた状況の中で、かろうじて命をつないでいる人も少なくありません。まるで価値がないものであるかのように、いのちを暴力的に奪われていく存在もあります。

今この瞬間にも、例えば戦争が続くウクライナでは、身に迫るいのちの危機に恐怖を抱えながら生きている多くのいのちが存在します。武力によるいのちの危機に直面する人は、世界の様々な地域に多く存在します。

紛争の結果として、また経済的な問題から、生まれ故郷を離れて国境を越える道を選ばざるを得ない人も少なくありません。故郷を捨て、国境を越えることは簡単な選択ではなく、そのひとり一人には、他者の理解を遙かに超えた物語があることでしょう。

国内にあっても、特にこの三年のコロナ禍のもたらした経済への負の影響と、社会全体の状況から、生活の困難に直面し、いのちの危機にさらされている人も少なくありません。かろうじて、いのちをつないでいる人も、おられることでしょう。

神の愛といつくしみは、すべてのいのちに注がれていますが、特にそのすべての危機に直面するいのちに対して、神の愛といつくしみはさらに一層注がれることを、聖母マリアは宣言しています。わたしたちは、その神の愛といつくしみを、具体的に実現するものでありたいと思います。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の終わりに、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記し、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、聖母マリアの讃歌に明記されています。

聖母マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、聖母マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを高らかに歌います。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。

また「身分の低い、この主のはした目にも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が何をもって人間の価値を判断しているのかを明示します。それは人間の常識が価値があるとする量りではなく、神ご自身が持っている量り、すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだという、神のいのちに対する量りが示されています。だから人間が価値がないと見なすいのちにこそ、神は価値を見いだされるのです。

エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。わたしたちにとって、神のことばが実現することこそが、神の秩序の確立、すなわち神の平和の実現であります。真の平和は、弱い存在を排除するところにはありません。自分の利益のみを考えて、他者を顧みないところには、真の平和は存在しません。自分の利益のために、他者のいのちを犠牲にしようなどと考えるところに、神の平和は存在しません。

わたしたちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。

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1981年に広島を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、平和メッセージの中で、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と四回も繰り返され、核兵器の廃絶と戦争のない平和の確立を訴えられました。

8月15日に私たちは毎年、第二次世界大戦の悲劇を思い起こしながら、敵味方に分かれた双方の亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、平和への誓いを新たにしています。残念なことにいま、ウクライナで戦争は続き、姉妹教会であるミャンマーの人々に平和と安定は訪れず、東アジアのこの一角では、以前にも増して、武力攻撃が不可避であるかのような雰囲気さえ漂っています。その現実の中で、教皇ヨハネパウロ二世の呼びかけに応えて、「過去を振り返り」、その上で将来に対してどのような責任ある行動をとるのか、考えなくてはなりません。

わたしたちは、単なる優しさによって、困難に直面する人に手を差し伸べるのではありません。わたしたちは、それが神の平和の確立につながるからこそそうするのです。神がこの世界に実現することを望まれている神の価値観が具体化し、神の秩序が確立するようにと、わたしたちは危機に直面するいのちに手を差し伸べます。愛の奉仕の業は、優しさの結実ではなく、神の平和を確立する行動です。

神の計画を実現するためにすべてを捧げた聖母マリアに倣い、その取り次ぎに信頼しながら、わたしたちもそれぞれの場で、それぞれの方法で、神の平和の確立のために働き続けましょう。

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2023年8月13日 (日)

2023年平和旬間行事@東京カテドラル

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8月6日から15日までの、毎年の平和旬間にあたり、以前はそのための特別な委員会を設置して企画に当たってきました。この委員会は、現在、他の社会系の委員会とともにカリタス東京(東京教区の神の愛の活動を統括する組織)の管轄となり、今年の平和旬間はカリタス東京が企画運営しました。

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これまではイグナチオ教会で講演会を行い、その後、関口まで平和行進を行って、締めくくりに平和を祈るミサとしていました。その後、この3年間は感染症の状況のため、こういった活動はすべて一時停止となっていました。今年は、8月12日の土曜日、まず11時の平和を祈るミサから始まり、その後、昼休みを挟んで、午後からは松元ヒロさんのトークショー、そして宮台真司さんの講演会と続き、夕方5時には終了となりました。

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多くの方に参加いただき感謝いたします。なおミサの様子(一番下に貼り付けます)と、宮台真司さんの講演(こちらのリンクです)は、関口教会のYoutubeチャンネルから、ご覧いただけます。

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聖歌隊を務めたイエスのカリタス会のみなさん、手話通訳や要約筆記にあたってくださったみなさん、会場設営の手伝いや当日の受付・案内をしてくださったみなさん、配信をしてくださったみなさん、そのほか、今回の企画のためにお手伝いいただいたみなさんに心から感謝します。またトークショーの松元ヒロさん、講演の宮台真司さん、ありがとうございました。

以下、平和を祈るミサの説教の原稿です。

平和を願うミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年8月12日

8月5日の午後、広島教区のカテドラルである世界平和記念聖堂で、毎年恒例となっている平和祈願ミサに参加してきました。今年は、アメリカ合衆国から二人の大司教が参加され、なかでも、原子爆弾の研究が行われたロスアラモス研究所を抱えるサンタ・フェ教区のウェスター大司教は、「核兵器を最初に使用したわたしたちだからこそ、核兵器を解体し、二度と使用されないようにしなければならない」と、核抑止力による平和の可能性を否定し、核兵器廃絶を力強く呼びかけられました。核兵器大国の一つであるアメリカ合衆国の教会から、核兵器の廃絶による平和を呼びかける声が上がり、その思いを広島の地で祈りのうちに連帯しながら確認し合うことができたのは、平和の確立に向けて大きな前進の一歩でありました。

広島と長崎の司教様方が中心になって、核なき世界基金を創設し、核兵器の廃絶のための活動を続けておられますが、その意味でも、合衆国の教会と連帯することには重要な意味があると思います。

あらためて教皇フランシスコの長崎における言葉を思い起こします。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられているにもかかわらず、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは天に対する絶え間のないテロ行為です」

さらに教皇は広島で、「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。・・・真の平和とは、非武装の平和以外にありえません」と力強く呼びかけられました。

さて、広島の平和行事の二日目、今年の8月6日は、教皇大使に同行して、平和記念公園で行われた広島市主催の平和記念式典に参加する機会に恵まれました。広島市長の平和宣言は核抑止論を否定し、核兵器禁止条約に日本も参加するように呼びかける力強いものでした。

市長の宣言に続いて、小学生二人の子ども代表が、「平和への誓い」を読み上げました。力強い誓いの言葉でありました。その誓いの言葉は、こうはじまっていました。

「みなさんにとって「平和」とは何ですか。争いや戦争がないこと。差別をせず、違いを認め合うこと。悪口を言ったり、けんかをしたりせず、みんなが笑顔になれること。身近なところにも、たくさんの平和があります」

「みなさんにとって「平和」とは何ですか」。この問いかけは、わたしたちひとり一人への問いかけです。わたしにとって、平和とは一体何なのでしょう。わたしは、何を持って平和と考えているのでしょう。そしてその平和は、いま実現しているでしょうか。

この数年間、世界は未知の感染症の脅威にさらされ、多くのいのちが危機にさらされる中で、互いに連帯し支え合うことでしかわたしたちはいのちをつなぐことができないと納得させられたはずでした。連帯こそがいのちを守り、いのちを生かします。

しかしともに一つの地球に生きている兄弟姉妹であるにもかかわらず、相互不信が争いを引き起こし、その中で実際に戦争が起こり、また各国を取り巻く地域情勢も緊張が続いています。世界的な規模で言えば、ウクライナでの戦争状態に解決の糸口はまだ見えておらず、それどころか、核兵器の使用さえもちらつかせながら、当事国相互の不信感は深まっています。またわたしたちの姉妹教会であるミャンマーの状況も、全く好転することがありません。

そういう不安定な状況が続くとき、どうしてもわたしたちの心は、暴力を制して平和を確立するために暴力を用いることを肯定しようとする思いが生み出されてしまします。多少の暴力による反撃は、平和を確立するためならば仕方がないという思いが、どうしても募ってきます。それに合わせて、日本を含む多くの国では、自衛のための武力を増強することを当たり前だと考える傾向さえ強まっています。

しかし暴力は、真の平和を生み出すことはありません。人間の尊厳は、暴力によって守られるべきものではありません。それは、いのちを創造された神への畏敬の念のうちに、互いに謙遜に耳を傾け合い、支え合う連帯によってのみ守られるものです。

繰り返しになりますが、カテキズムにも記されている通り、目的が手段を正当化することはありません(カテキズム1753)。暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力的手段を、平和の確立という目的のために肯定することはできません。言うまでもなく「戦争は死です」(ヨハネパウロ二世、広島平和メッセージ)。

まだ新潟の司教をしていた2016年7月に、パプアニューギニアの東の端、ブーゲンビル島を訪ねる機会がありました。ラバウルのすぐ隣のブーゲンビル島には、太平洋戦争中、日本軍が航空基地をいくつか開設し、そこに島の中央を割って連合国軍が上陸し、多くの兵士や地元の人も命を落とした地です。さらには日本の連合艦隊司令長官であった山本五十六海軍大将が、1943年4月、ラバウルからの視察途上で搭乗機が撃墜され戦死された地でもあります。

未だに島の各地に戦争の爪痕が残っており、旧日本軍が構築したコンクリート製の要塞も、いくつも残されていました。また山本五十六大将の搭乗した軍用機が撃墜された場所には、その残骸がいまも残されています。すべて深い熱帯ジャングルに、包み込まれていました。

そういった戦争の痕跡を訪れ、亡くなられた方々の安息と恒久の平和を祈りながら、それらすべてが取り残されたジャングルの熱帯という過酷な状況の中で、ふるさとを遠く離れて闘った多くの人の心に思いを馳せました。なぜんこんな遠くまで、しかも過酷な環境の中で、実際の戦闘よりも、病気や飢餓でなくなられた方も少なくなかったと伺いました。その中で、敵味方として戦争を闘った人々のおもい、そして目の前で起こった闘いに巻き込まれた現地の人たちのおもいに心を馳せ、尊厳ある賜物であるいのちを奪い、神が守り育むようにと与えられたこの環境を破壊する暴力の結末に、心が痛みました。「戦争は死です」。同時にそれは、偶然もたらされた災害ではなく、「戦争は人間の仕業」でもあります。ですから、それを止めるのも人間の務めであります。

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毎年のこの時期、広島や長崎での衝撃的な出来事の記憶を新たにして、平和の大切さを思い起こし、多くの人が祈りを捧げます。沖縄の出来事や各地の空襲、そして原爆で亡くなられた方々を思い起こし永遠の安息を祈ります。しかし同時に、遙か彼方の地で、過酷なジャングルの中で、敵味方として闘う中で命を落とした多くの方々、そして巻き込まれ命を奪われた地元の多くの人たちの存在も、忘れるわけにはいきません。暴力によって奪われたひとり一人のいのちには、わたし自身がそうであるように、他人からは計り知ることのできない壮大な人生の物語があります。多くの出会いがあります。多くの喜びと悲しみがあります。支える家族があります。共に生きる兄弟姉妹があります。それらを一瞬にして奪う暴力を肯定することはできません。

平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢をとり続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、いのちを暴力的に奪おうとするすべての行動に抗うことでもあります。

平和旬間にあたり、いのちの創造主が愛といつくしみそのものであることに思いを馳せ、わたしたちもその愛といつくしみを社会の中に実現することができるように、祈り、行動していきましょう。

 

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2023年7月 2日 (日)

麹町教会で堅信式@23年6月25日

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6月25日の日曜日、二つの堅信式を行いました。

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まず午前中は日野市にあるカトリック豊田教会で、8名の方の堅信式。かなり狭い敷地に三階建ての建物が建っている豊田教会です。一階が信徒会館、二階が聖堂、三階が司祭館で、外階段で結ばれています。主任司祭は五十嵐神父様。小さく家庭的な共同体です。

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そして午後からは四谷にある麹町聖イグナチオ教会で104名の堅信式。主任司祭が高祖神父様に交代してからの初めての堅信式でした。

みなさんおめでとうございます。

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以下は、麹町教会の堅信式での説教を文字起こしした原稿です。

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カトリック麹町教会堅信式 @2023年、年間第12主日

「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と、いま、朗読をされた福音書に、主イエスの言葉が記されていました。

暗闇の中で言う、耳打ちをする。それは、小さな声で、一人にしか聞こえない小さな声でということですね。それを明るみで、大きな声で、屋根の上で、多くの人たちに告げ知らせなさい。イエスの福音を宣べ伝えなさいという命令が、この短い言葉に込められています。

最初に聖霊降臨があった時、あの五旬祭の日、11人の弟子たちは恐れて、聖母マリアと共に家の中に隠れて静かにしていました。そこに聖霊が降り、色々な国の言葉で話を始めた。色々な国の言葉で話を始めたので、そこに集まってきた人たちが驚いたと、どうしてこの人たちは、わたしの理解できる言葉で神のわざについて語っているんだろうと驚いたと、記されています。

でも、どうしてあの大勢の人たちはそこにやってきたんでしょう。弟子たちは隠れていたんですよね。弟子たちは、聖母マリアと共に家の中に隠れていたのに、どうしてこの多くの人たちがそこにやってきたのか。それは、ものすごい物音がしたからだと、使徒言行録に書いてあります。大きな音がしたと。騒々しかったんです。騒がしい出来事が起こったので、いったい何事だと思って人々が見に来た。そうしたら、そこで、大きな声でイエスの福音が述べ伝えられていた。その様子が、あの聖霊降臨の日の出来事として記されています。

つまり、聖霊降臨の出来事、聖霊が降ってきている、または聖霊によって満たされているというのは、どういう状態なのか。それは、静かに隠れてボソボソ語るのではなく、大きな声で、イエスについて、神について語っている。そして、居心地が悪いくらいに騒々しくワサワサとしている。それが、聖霊が降っている状態なんですよね。

聖霊に満たされた教会と、よく言いますよね。聖霊に満たされた教会とは、どういう教会なんでしょう。それは、みんなが静かにして、ニコニコしながら聖堂の中でお祈りをしている、落ち着いた教会……、ではないんですよ。

聖霊によって満たされている教会は、ワサワサしていて、居心地が悪いんです。あっちでもこっちでもいろんなことが起こって、あっちでもこっちでもいろんなことを語る人たちがいて、落ち着かないのが、聖霊が実際に働いている教会です。

なので、教会が、とっても静かで、みんなが一致していて、楽しく、にこやかにしている時には、もしかしたら聖霊は働いていないのかもしれません。

いま教皇様は、シノドスの道をともに歩もうと呼びかけておられます。

残念ながら、特に日本やアジアの多くの国では、新型コロナ感染症の蔓延と重なってしまったので、あまりできていないのですけれども、それでも様々なところで、このシノドスについて耳にされることがあると思います。

教皇様が目指しているシノドス的な教会というのは、まさしくそれなんですよ。あっちでもこっちでもワサワサいろんなことを言っていて、落ち着かないけれど、それでも一致している。いろんなことをいろんなところで、聖霊に導かれている通りに、それぞれ自由に発言をして、そしてワサワサして、大騒ぎをして、なかなか落ち着かない。けれども一致しているんです。身勝手に分裂しないのです。なぜ分裂しないかというと、それは聖霊によって導かれているからです。もしも落ち着きがない上に、さらに分裂するのならば、それは聖霊による導きではないです。
騒々しく落ち着きのない共同体が、聖霊によって導かれているのか、そうではないのかの最終的な判断、それは同じ目的に向かって一致しているか、分裂しているかです。

その聖霊の導きを一緒に識別しながら、でも、皆が皆、同じことを考え同じことをするためのシノドスの歩みではなく、聖霊の導きに委ね、それぞれが与えられた賜物を豊かに、忠実に生きている、落ち着きのないワサワサとした教会共同体。でも同じ目的で一致している。聖霊によって一致している教会共同体を作り上げることを、このシノドスは目指しているのだと、わたしは思っています。

水による洗礼、ご聖体、そして聖霊による堅信という、この3つの秘跡を通じてキリスト教入信の秘跡が完成します。完成するので、今日、堅信を受けられる方々は、完成したキリスト者になるはずですよね。昔は、キリストの兵士になると言いました。それくらいの思いで、キリストにすべてを捧げて、完成したキリスト者として、今日ここに誕生するはずです。

多くの恵みをいただきます。聖霊による多くの助けをいただきます。でも多くの恵みを受ければ受けるほど、責任が伴うわけですよね。その恵みに対する責任が生じます。わたしたちの責任って、いったいなんでしょう。わたしたちの責任、それは、小さくささやかれた言葉を屋根の上から大きな声で告げ知らせることです。

自分の生活の中でイエスの言葉を語り、自分の生活の中での行いを通じて、イエスの福音を証しする。言葉と行いをもって福音を証しするということが、完成した、成熟したキリスト者一人ひとりの務めです。

堅信を受けられる方々には、毎日の生活の中で、自らの言葉と行いを通じて、このイエスの福音を証しをしていく責任が、今日から発生します。

でもそれは、簡単なことではないと、今日の第一の朗読にも記されていました。
エレミヤの預言に記されています。みんなから非難されると。「多くの人の非難」「恐怖が四方から迫る」「共に彼を弾劾しよう」と、迫害を受けると。多くの人に簡単に受け入れてもらえる、神の言葉ではありません。
妥協したくなりますよね。

でも恐れずに、神の言葉を告げなさいということが、今日のイエスの福音の言葉にも記されていました。「恐れるな」と。
なぜならば聖霊が、福音を証ししようと思う、その熱意を、心を、決意を、必ずや後ろから後押しをしてくださるからです。

聖霊の恵みは、人を急にスーパーマンに変えてくれるということではないです。福音を証ししていこうと思う、その決意を、神の息吹として後ろからブワーッと吹きつけて支えてくださるのです。前に進むことができるように、支えてくれる力です。

聖霊の導きに信頼しながら、そしてイエス様が、いつも共にいてくださることを信じながら、御父に向かって、勇気をもって、イエスキリストの福音を証ししてゆくことができますように。言葉と行いを持って証ししていくことができますように。
今日、堅信を受ける時に決意を新たにし、そしてその決意を神様が支えてくださるように、祈り続けたいと思います。

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2023年6月11日 (日)

キリストの聖体の主日@東京カテドラル

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キリストの聖体の主日の今日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた関口教会の午前10時のミサにおいて、5名の子供たちが、初聖体を受けられました。おめでとうございます。

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説教の後に、内陣に呼ばれた白いドレスとベールで着飾った5名は、復活のろうそくから火をとったそれぞれの初聖体の記念のろうそくを受け取り、祝福をいただきました。そして拝領の時も内陣に上がり、わたしから直接に聖体を拝領。拝領祈願後には、教会からのお祝いが主任司祭から贈られました。

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以下、本日の説教の原稿ですが、途中から、内容はほぼそのままですが、実際には話し方を変更しました。配信されていたビデオをご覧ください。配信担当者には、話している内容に合わせて、オリジナルの原稿を提示していただくことになり、申し訳ありませんでした。

なお昨日土曜日の午後5時から、吉祥寺教会でキリストの聖体の主日のミサの中で、18名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。そちらのミサの説教も、大体の話の筋は一緒です。そちらは原稿はありません。吉祥寺教会のyoutubeからビデオを見ることができます。

キリストの聖体の主日A (配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年6月11日

わたしたちは、ミサに与るとき、どうしてご聖体を拝領するのでしょうか。ミサは聖体の祭儀ですから、聖体を拝領できる人は拝領することが当たり前と、当然のように拝領していないでしょうか。

もちろん主御自身が最後の晩餐の席上で、「これはわたしの体、これはわたしの血。わたしの記念としてこれを行え」と、聖体の秘跡を制定し、それを続けていくことを命じられたからこそ、わたしたちはミサを捧げ続けています。弟子たちは最後の晩餐の席で、「『とって食べなさい』、『皆、この杯から飲みなさい』というイエスの招きを受けました。こうして彼らは初めてイエスとの秘跡による交わりに与りました」と教皇ヨハネパウロ二世は「教会にいのちを与える聖体」に記しています(21)。

その上で教皇は、「このときから、世の終わりまで、わたしたちのためにいけにえとされた神の子との秘跡による交わりを通じて、教会は築き上げられていくのです」と記し、わたしたちがご聖体をいただくのは、一人個人的な霊的な充足のためだけではなく、教会共同体を築き上げていくためであることを明確にします。わたしたちは、自分自身がキリストと一致するために、そして同時に教会共同体の一致のために、ご聖体を拝領します。

教皇は「信者は洗礼によってキリストの体と一つにされますが、この一致は、聖体のいけにえにあずかることによってつねに更新され、強められます(22)」とも記しています。ご聖体は、それを実際に拝領することと霊的に拝領することの両方を通じて、わたしたちひとり一人をキリストのただ一つの体との一致へと招きます。そして、そのキリストの体を目に見える形であかししている教会共同体の一致へと招きます。聖体に生かされている教会共同体は、一致の共同体です。

ご聖体のいけにえは、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と教会憲章は記しています(11)。キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに現存される主御自身は、この秘跡を通じて、わたしたちとともに常におられます。

ご聖体の秘跡は、わたしと主との交わりという意味で、極めて個人的な秘跡でもありますが、同時にそれは共同体の秘跡でもあります。そもそもミサそれ自体が、個人の信心ではなくて、共同体の交わりの祭儀です。わたしたちは常に、共同体の交わりのうちにご聖体をいただきます。

パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。

わたしたちの信仰と共同体は切り離すことができません。共同体の交わりのうちにある信仰です。しばしばわたしたちは「交わり」という言葉を使いますが、どういう意味でしょう。人がたくさん集まって、その交わりを深めると言えば、それは互いをよく知り合い仲良くなっていくことを意味しているのでしょうが、教会で語る交わりはそれにとどまってはいません。

パウロはコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。わたしたちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。わたしたちの信仰は、キリストの体にあずかる信仰です。そのキリストの体はたくさんある体ではなく、唯一の体です。唯一の体の一部分として生きるようにと、わたしたちは招かれています。一部分として生きるとき、わたしたちの役目は、その一つの体を生かすことであって、殺すことではありません。そのためには自分勝手なことをしているわけにはいきません。一つの体の様々な部分と互いに手を携え、支え合ってこそ初めて、キリストの体を生かすものとなることができます。わたしたちは共同体を通じて、キリストの体にあずかり、それによっていのちを分かち合い、愛を共有するという「交わり」のなかで、生きている信仰です。教会共同体を、生きたキリストの体をあかしする存在とするために、わたしたちひとり一人は、主御自身によって招かれています。

キリストの聖体のお祝いは、主御自身がご聖体のうちに現存され、ともにいてくださることを称えるのみならず、ご聖体をいただくわたしたちが交わりのうちに一致していることを積極的にあかしする決意を新たにするときでもあります。教会共同体の中で、自らに与えられた役割を自覚し、その役割を、他の方々との支え合いと分かち合いのうちに生かしていく決意を新たにするときでもあります。

あらためて最後の晩餐の席上で、主御自身の言葉と思いに心をむけましょう。イエスはすでにご自分が弟子たちの元から去って行くのをご存じでした。しかし弟子たちはまだそのことを理解していません。そういう中で、残される弟子たちのことを思うイエスの思いは、どれほど苦しかったことでしょう。ミサの中で司祭は、「わたしの記念としてこれを行いなさい」と唱えます。「記念として」という言葉は、なんともドライな言葉です。この言葉にイエスはどういう思いを込めておられたでしょう。「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」そう願う、イエスの切々たる思いが、この言葉に込められていると、「わたしの記念としてこれを行いなさい」と唱えながら、わたしは常々感じています。

「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」

その言葉は、今日、ミサに与るわたしたちひとり一人に向かって、主御自身が語りかける主の思いに満ちあふれた言葉です。

「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」

この言葉を心に深く刻みつけておきたいと思います。主の切々たる思いを、心に刻みつけておきたいと思います。

聖変化の直後、司祭は、「信仰の神秘」と呼びかけます。それに対して、新しくなった応答の言葉の一番目は、「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られるときまで」となっています。以前は「主の死を思い復活をたたえよう。主が来られるまで」と翻訳されていました。原文のラテン語は一緒です。新しい翻訳と以前の翻訳の大きな違いは、「あなたの死を告げ知らせ」が付け加えられたことです。そして主の死と復活をこの世において告げ知らせるのは、わたしたちに与えられた使命です。その使命を明確にする翻訳に変わりました。

わたしたちは、「わたしを忘れるな。わたしの言葉を忘れるな。わたしの思いを忘れるな」と主御自身から呼びかけられた直後に、「主の死と復活を告げ知らせる」と宣言しているのです。誰かがするのではなくて、キリストの体に与るようにと招かれたわたしたちひとり一人が、ひいてはその交わりにあって教会共同体そのものが、現代世界のただ中で、主イエスを告げ知らせることを高らかに宣言しているのです。聖体祭儀に与るわたしたちの務めです。

直接に、または霊的にご聖体をいただくわたしたちは、キリストの一つの体にあずかり、その交わりの中で互いに支え合い、分かち合いながら、主の思いを心に刻み、共同体の一致のうちに、主の福音を告げ知らせるものでありましょう

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2023年5月28日 (日)

2023年教区合同堅信式@東京カテドラル

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東京教区では、聖霊降臨の主日の午後に、カテドラルで、教区合同堅信式を行ってきました。それぞれの小教区で司牧訪問に合わせて堅信式を行う共同体も多くありますが、合同堅信式に参加される小教区も、少なくありません。カテドラルでの司教ミサに与る機会でもあります。

二年ほどは感染症の蔓延のため中止となり、昨年は規模を縮小して行いましたが、わたし自身が新型コロナに感染して発症し、発熱と激しい喉の痛みで声を失い、司式を稲川総代理に委任しましたので、今年の合同堅信式は、わたしにとっても久しぶりの行事となりました。

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今日午後の堅信式では、同じ関口教会にある韓人教会の方々も含めて、110名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。

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これから大人の信徒として、福音をあかしし、広く伝えていく務めを、それぞれの場で、それぞれの方法で、しっかりと果たしていってください。また、教会共同体とともにミサに与り、御言葉と御聖体のうちに現存される主イエスによって力づけられ、共同体を導かれる聖霊に身を委ね、御父の愛といつくしみを、広くあかしする者となってください。

以下、本日のミサの説教の原稿です。

聖霊降臨の主日合同堅信式ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年5月28日

わたしたちは、どうやって、自分の信仰をあかしできますか。どんな言葉で、どんな行いで、イエスをキリストだと信じていることをあかしできますか。信仰をあかしすることは、教会共同体に与えられた務めです。この世界に生きる教会共同体は、その義務を果たさなくてはなりません。

そしてわたしたちひとり一人は、その教会共同体を形作っている一員です。ですから、自分の信仰を生活の中であかしすることは、わたしたちひとり一人の務めでもあります。

「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」

パウロはコリントの教会への手紙にこう記しています。

第二バチカン公会議は教会憲章で、教会はキリストの体であると宣言しています。教会は、キリストの一つの体を形作っています。この体において「キリストのいのちが信じる者に注ぎ込まれ、・・・(わたしたちは)諸秘跡を通して、苦しみと栄光を受けたキリストに神秘的かつ現実的な方法で結ばれる」と信じています。洗礼を通じてキリストの死と復活に与り、聖体をいただくことでキリストと一致し、そして聖霊によってそれぞれがふさわしいたまものをいただきます。

わたしたちは、どうやって、自分の信仰をあかしできますか。教会共同体におけるわたしの務めは何でしょうか。キリストの体の一部分として、わたしはどんな役割を果たしていくのでしょうか。

先日帰天された教皇ベネディクト16世は、教皇に就任して一番最初に、「神は愛」というタイトルの回勅を発表されました。その冒頭に、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです」と記しておられます。

わたしたちは、信仰を深めるためにいろいろなことを学びます。過去の大聖人の言葉に触れたりします。聖書に記された言葉について、様々な学問的な見解を学びます。わたしたちは、時間をかけて様々に知識を積み重ねていきます。歴史の中で積み重ねられた様々な知識を身につけたとき、初めてそれに基づいて信仰における選択をすることができるように思ってしまいます。

しかしベネディクト16世は、それだけでは人はキリスト者にはならないというのです。教皇は、必要なことは「出会い」だと言います。誰との出会いですか。主イエスとの個人的な出会いです。知識の積み重ねが不要だとは決して言いません。その知識の積み重ねは、主イエスとの個人的出会いで初めて、命を吹き込まれ生かされるのです。命を吹き込むのは聖霊です。

ヨハネ福音は恐れのあまり部屋に隠れていた弟子たちの姿を記しています。弟子たちはイエスと一緒に時を過ごし、イエスの教えたことについて十分な知識を積み重ねていました。しかし恐れは彼らにその知識を封印させてしまいます。そこに復活された主御自身が現れ、「あなた方に平和があるように」」と告げられます。その言葉は、日常のあいさつの言葉に留まらす、恐れに束縛される弟子たちの心には、神の平和が欠如しているのだという事実をも指摘しています。

神の平和とは、なんでしょうか。ヨハネ23世の回勅「地上の平和」の冒頭にこう記されています。

「すべての時代にわたり人々が絶えず切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

すなわち、神の平和とは、神の定めた秩序が実現していることを指しています。

ですから、イエスが弟子たちに指摘された神の平和の欠如とは、すなわち、神が求めておられる世界のあり方とは、正反対にある状態です。恐れる心は自分を守ろうとする思いに満たされ、他者への配慮に欠ける利己的な心となってしまいます。グローバル化された世界で、この3年間私たちがパンデミックのさなかにあって目撃してきたのは、互いに助ける世界の姿ではなくて、互いに罵り合い、排除し合い、挙げ句の果てには暴力が支配する世界を生み出してしまう身勝手さでありました。わたしたちは、互いに助け合う者として共に生きるようにと、このたまものであるいのちを与えられています。そのわたしたちが、他者への心配りを忘れて自己保身に走るとき、そこに神の秩序の実現はあり得ません。

「聖霊を受けなさい」と恐れる弟子たちに、イエスは語りかけます。聖霊は、「いのちの霊、すなわち永遠のいのちの水がわき出る泉」であります(教会憲章4)。聖霊は、心の恐れを打ち砕く、いのちの源です。わたしたちが聖霊の息吹に満たされたとき、はじめて、神の平和が実現する道が開けます。聖霊降臨の主日の今日、主御自身がわたしたち教会共同体の真ん中にたち、わたしたちひとり一人に「平和があるように」と呼びかけ、「聖霊を受けなさい」とその息吹で包んでくださっていることを、あらためて心に刻みます。

使徒言行録は、聖霊によって生かされた弟子たちが、恐れから解き放たれて、まるで人が変わったかのように勇気に満ちあふれて、様々な言葉で福音を語る姿を記しています。聖霊をいただいた教会は、言葉や文化の壁を乗り越えて福音が伝えられ、理解され、それを通じて神の平和が実現するようにと、世界に向けて遣わされています。神の望まれる世界が実現するように働きかけるために、遣わされています。

わたしたちの信仰は、徹底的に共同体的でありながら、同時に徹底的に個人的でもあります。わたしたちはキリストの体の一部分として共同体の中で信仰を生き、信仰をあかしします。しかしその信仰は、わたしと主との個人的出会いの中で実現していきます。

共同体として集まり、ミサの中でこの朗読台から聖書が朗読される。その神のみことばの中に、主は現存される。ここで語られるのは、昔、書かれた古文書を読み上げているだけではないのです。いまここに、ことばで語られることによって、声に出して語られることによって、そこに主は現存されている、と教えています。

共同体として集まり、ミサの中で捧げられる御聖体のいけにえ。そのご聖体のうちに主は必ずそこに現存される。それは主ご自身が「わたしのからだ」「わたしの血」だと約束されたからに他ありません。この二つ現存、朗読されるみことばにおける現存と捧げられるご聖体における現存。わたしたちが聖堂に集まっているとき、主はここにおられるのです。そしてもう一つあります。
 

それは、主ご自身が、「二人、三人がわたしの名によって集まるところに、わたしはそこにいる」とおっしゃったことです。わたしたちがこうして一緒になって集まっているとき、そこに主ご自身がおられるんだと信じている。だから共同体は不可欠なのです。

堅信の秘跡を受けられる皆さん、教会共同体と歩みをともにしてください。一緒になって主から与えられた務めを果たしていきましょう。ともにミサに与り、御言葉のうちに、御聖体のうちに現存される主との個人的出会いの場をいただきましょう。共同体のただ中にともにおられる主に信頼しましょう。一緒になって、信仰をあかしする者であり続けましょう。聖霊がその努力を後押ししてくださいます。

 

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2023年4月30日 (日)

世界召命祈願日ミサ@東京カテドラル

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復活節第四主日の今日を、教会は世界召命祈願日と定めています。1964年に教皇パウロ6世によって定められました。

カトリック中央協議会のホームページには、次のように解説されています。

「神は、すべての人が誠実に自分の生涯を過ごすように招いています。ある人は社会の中で会社員、医師、看護師、教員、工場で働く人として、また夫、妻、父、母としてよい家庭を築くように、そして、ある人は神と人とに仕える司祭、修道者となるように招かれています。神の招きはこのように人それぞれ異なりますが、自分に対する神の望みを祈りつつ探していくことが大切です。近年、司祭や修道者の減少、高齢化が進んでいます。とくに「召命祈願の日」には、司祭、修道者への招き(召命)に1人でも多くの人がこたえることができるように祈りましょう」

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東京教区では、召命のために祈り献金し神学生や修道志願者を支える活動をしている一粒会があります(「いちりゅうかい」と読みます)。一粒会の会員は、東京教区に所属するすべての信徒・司祭・修道者です。ですから、皆さんも一粒会の大切な会員です。お祈りをお願いします。

ご存じのように、教区司祭の養成に限って言えば、その養成期間は最低でも7年とされています。時間がかかるとともに、共同生活を神学院で過ごしますから、その費用もかかります。上石神井にある東京カトリック神学院は、東京教会管区と大阪教会管区が合同で運営する神学院ですが、その養成費用・運営費用は、信徒数に応じて按分されます(なお神学生の学費はひとりあたり同額で、それぞれの教区の負担です)。信徒数が一番多い東京教区の負担は小さいものではありません。皆様の支援をお願い申し上げます。

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また現時点では、司祭志願者は受洗3年後以降で、23歳以上とされておりますが、近年は30代後半や40代の志願者も増加しています。神の呼びかけはいつあるかわかりませんし、それに応えることも容易ではありませんが、同時に、司祭養成にはラテン語やギリシア語の習得も含まれるため、よく知られているようにそういった言葉の習得は年齢とともに難しさが増していきます。ですので多くの人が神の呼びかけに気がつき、躊躇することなくその道を歩み始めることができるように、お祈りでの支えをどうかお願いいたします。

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以下、本日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた召命祈願ミサの、説教原稿です。

世界召命祈願日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月30日

現代の教会は、果たして召命の危機に直面しているのでしょうか。そもそも教会内でよく言われる「召命の危機」とはいったどういう意味なのでしょうか。

この言葉を使う人によって、その意味するところは多少異なるのだろうと思います。一般的には「召命の危機」という言葉によって、司祭や修道者の道を志す人が少なくなっている現実を指しているのだろうと思います。しかし同時にこの言葉は、すでにその道を歩み始めた司祭・修道者が霊的な歩みの中で直面する、いわば霊的な危機をも指している言葉です。

司祭・修道者の霊的な召命の危機については、教皇様もシノドスの歩みを進める中で、霊的識別を解き明かす中で触れておられます。2022年10月5日の一般謁見で、次のように述べておられます。

「霊的な疑いや召命の危機の根底には、宗教的な生活と、わたしたち人間、認識、感情の側面の間の対話が十分ではないということが少なくありません」

その上で教皇様は、「真の識別(そして祈りにおける真の成長)の最大の障害は、神という実体のない本質ではなく、わたしたち自身が自らのことを十分に知り得ていない、あるいは、ありのままの自分自身を知りたいとさえ思わないという事実であると、わたしは確信に至りました。わたしたちほぼ全員が、他者の前だけでなく、鏡を見るときでも仮面の下に隠れています」というイエズス会会員であるトマス・ヘンリー・グリーン師の言葉を引用され、常に、そして繰り返し自らのあり方を振り返り、客観的に見つめ直すことで、自分自身を知ろうとすることが識別のために重要であると強調されています。

私たちが生きている現代社会は、超越者に対する畏敬の念を失いつつある世界です。大災害に襲われ、目に見えない小さなウイルスに翻弄されているにもかかわらず、それでも人間の知恵と知識で世界をコントロールできるという確信から解放されない世界です。具体的ないのちの危機に直面しているにもかかわらず、それでもなお互いの利己的思惑のために暴力を持って対立し、いのちを奪い合い、悲しみと絶望を生み出している世界です。

そのような社会の現実の中で、宗教的価値観は単なる理想として夢物語のように片付けられ、私たち宗教者は立ちはだかる現実の前で「仕方がない」と諦めに近い感情に支配されます。そのようなときに、私たちは仮面の下に隠れ、ありのままの自分に目を塞いでしまう。仮の姿を生きているときに、神が示される進むべき道は見えなくなってくるのではないでしょうか。「仕方がない」に流されるとき、私たちは召命の危機の道に足を踏み入れてしまいます。

その意味で、いまの世界は、召命を生きるには挑戦的な現実に満ちあふれています。キリスト者としての信仰生活そのものが常に挑戦にさらされ、道を模索して試行錯誤の繰り返しに生きるものですから、司祭・修道者としての召命を生きる道は、なお一層の挑戦にさらされ続けています。その中で、現実に妥協し諦めの中で仮面をつけて隠れるのではなく、自分をしっかりと見つめ、常に神の導きを識別し続けるものでありたいと思います。

これは司祭養成に限定された文書ですが、2016年に教皇庁聖職者省が出された司祭養成基本綱要である「司祭召命のたまもの」には、こう記されています。

「司祭養成は、一連のキリストの弟子としての歩みである。それは、洗礼と時に始まり、他のキリスト教入信の諸秘跡によって強化されて、神学校入学時にはその者の生活の中心として意識され、さらに生涯を通して継続されるものである」

司祭に限らず修道者にあっても、また固有の召命を生きるすべてのキリスト者にとって、召命を生きることは、常に完成を目指しながら継続される生涯を通じた養成の道であります。

ところで、一般に広く言われる「召命の危機」はどうでしょう。神学生が少ない、修道志願者が少ない。統計上の数字を見て、その少なさに不安に駆られる。当然だと思います。社会に存在する組織としては、後継者がいないことには大きな不安を覚えてしまいます。確かにその意味では「召命の危機」がそこにはあり、その原因が様々に取り沙汰されます。

しかしながら、人数が足りないという意味での召命の危機なるものは、存在していません。確かに数としての司祭修道者志願者が減少していて、組織としての教会は困難に直面していますが、それと召命の話は別問題であります。

なぜならば、召命は就職活動や求職活動ではなく、そもそも人間が生み出すものではないからです。努力をして召命の数を増やすなどというのは、召命の本質を考えるのであれば、なんとおこがましい不遜な言葉でしょうか。まるで召命を人間が生み出すことができるとでも言っているようなものです。わたしたちは召命を生み出すことはできません。それはわたしたちがいのちをコントロールできないのと同じです。いのちが神からのたまものであるように、召命は、たまものです。ですから先ほどの司祭養成の基本綱要も、そのタイトルを「司祭召命のたまもの」としています。

召命は、神からの呼びかけです。あの日、ガリラヤ湖の湖畔で、イエスご自身が声をかけられたように、徹頭徹尾、神からの一方的な呼びかけです。私たちにできるのは、それに応えるかどうか、応えて具体的に生きるのかどうかの決断であります。そして決断をしたものが、その召命を生き抜くことができるように助けることであります。主イエスは、常に呼びかけておられます。私たちに必要なのは、その呼びかけに耳を傾け、前向きに応える勇気を、多くの人が持つことができるよう、祈りをもって励ますことであります。ですから祈りましょう。召命が増えるようにではなくて、主からの呼びかけに応える勇気を持つ人が増えるように祈りましょう。

教皇様は、2023年2月15日の一般謁見で、召命についてこう語られています。

「福音宣教は、主との出会いから生まれ、すべてのキリスト教的活動、特に福音宣教は、ここから始まります。学校で学んだことからではありません。違います。主との出会いから始まるのです。・・・主とともに過ごさないなら、主ではなく自分自身をあかしすることになり、まったくの無駄に終わってしまいます」

イエスと出会いましょう。わたしたちは教会共同体の中で、イエスと出会います。ミサにともに集う中で、そこにおられる主と出会います。告げられる御言葉に現存される主と出会います。捧げられる御聖体のうちに現存される主と出会います。困難に直面する人、忘れられた人、助けを必要とする人との関わりの中で、小さな人々の一人一人のうちにおられる主と、出会います。

主との出会いから召命への道が開かれます。その召命への道は、司祭であり修道者であり、また信徒としての召命を生きる道です。イエスと出会いましょう。その呼びかけの声に耳を澄ませましょう。そしてその呼びかけに応えることができるように、勇気を願いましょう。

 

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2023年4月 9日 (日)

2023年復活の主日@東京カテドラル

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主イエスの御復活、おめでとうございます。

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聖週間中は肌寒く雨が降ったり風が吹いたりの、ちょっと荒れ気味の天気が続いた東京でしたが、復活の主日の今日は、朝からきれいに晴れ渡りました。

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東京カテドラル10時のミサには、座席の後ろで立ってミサに与る人も出るほど、大勢の方に参加していただきました。入堂の制限をほとんどしなくなりましたので、久しぶりに大勢の方が参加する復活祭でした。たまたま東京におられたのでしょうが、海外から団体で来られていた方も30名以上おられました。

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またミサ後には、これも2019年の復活祭以来、本当に久しぶりに、ケルンホールで復活の祝いの茶話会(食事会はまだ実現していません)が行われ、昨晩受洗した方々だけでなく、2020年、2021年、2022年の受洗者や転入者の方々も紹介され、お祝いのひとときとなりました。

以下、本日のミサの説教原稿です。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月9日

みなさん、主の復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方、堅信を受けられた方、おめでとうございます。

十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。

あらためて、感染症によるパンデミックの暗闇が始まった初期、3年前の9月に、教皇様が謁見で語られた言葉を思い起こしたいと思います。

「この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません」

この3年間、教会は互いに支え合い連帯することの大切さを、繰り返し強調してきました。いままさに全世界の教会が、進むべき道を模索して歩み続けているシノドスの道程のように、教会は、信仰を共同体の中で、互いに支え合って生きるのだと繰り返してきました。とりわけ、感染症がもたらした暗闇は、物理的に集まることを難しくしてしまいましたが、その中にあって、教会は、ともに歩むことと、単に一緒にいることは異なっているのだと言うことをはっきりと自覚させられました。神の民はどこにいても、常に歩みをともにする共同体です。それぞれがどこにいたとしても、洗礼の絆で結ばれた兄弟姉妹は、連帯のうちに神に向かって歩みを進めます。わたしたちは、ともに歩む神の民であります。

主イエスが受難の道を歩まれた晩に、恐れから三度にわたってイエスを知らないと口にしてしまったペトロは、先ほど朗読された使徒言行録では、全くの別人となっていました。ペトロはイエスについて、「聖霊と力によってこの方を油注がれた者とされました」と語っていますが、ペトロ自身が、主の復活の体験によって力づけられ聖霊を受けたことによって、力強い宣教者に変えられました。ペトロは盛んに、自分は「証人」であると強調します。すなわち彼自身が証しをする出来事そのものが、彼を変えた。だからこそ、ペトロはその出来事を語らざるを得ない。そうする力は、その体験から生み出されてくる力です。

ペトロは、その体験が個人的体験なのではなく、共同体としての体験であることを、たとえば「ご一緒の食事をしたわたしたち」というように語り、「わたしたち」が証人であると強調します。復活の体験は個人の体験ではなく、共同体の体験です。力強く変えられるのはわたしひとりではなく、互いに歩む兄弟姉妹と共にであります。信仰は、共に体験し、共に学び、共に深め、共に歩む道であります。

わたしたちは、創世記の2章18節にあるように、互いに助け合う者となるためにいのちを与えられています。ですから、連帯の内に互いに支え合うことは、わたしたちの優しい性格の賜物なのではなく、賜物として与えられたいのちを生きる者にとっての務めです。

しばしば引用していますが、2019年11月25日、東京で行われた東北被災者との集いでの教皇フランシスコの言葉を思い起こします。

「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。」

教会の愛に基づく様々な支援活動は、困難に直面するひとたちが、「展望と希望を回復」するために、自らは出会いの中で「友人や兄弟姉妹」の役割を果たすことです。「展望と希望」を、外から提供することはできません。連帯における支え合いこそが、いのちを生きる希望を生み出します。わたしたちが共同体として信仰を生きる理由は、教会共同体が社会にあっていのちを生きる希望を証しする存在となり、神による救いの道を指し示す、闇に輝く希望の光として存在するためであります。信仰は、自分の宗教的渇望を満たすためではなく、神から与えられたいのちがその尊厳を守られ与えられた使命を果たすためであり、その使命は共同体における連帯のうちに実現されます。

教皇ベネディクト16世は回勅「神は愛」に、 「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです」と記しています。

わたしたちは、生きている主イエスと出会いたいのです。復活された栄光の主と出会いたいのです。その主イエスは、教会共同体の中におられます。ミサに与るとき、朗読される聖書のことばに主は現存されます。御聖体の秘跡のうちに主は現存されます。そしてともに歩む兄弟姉妹の一人ひとりのうちに、主はおられます。「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25:40)」と、イエスのことばが福音には記されています。

第二バチカン公会議は、教会とは、神との交わりと全人類の一致を目に見える形で表す存在として、また世の光、地の塩として、いのちと希望をもたらすためにこの世界に派遣されている神の民であると強調しています。わたしたちは一緒になって旅を続ける一つの民であり、その中心には主ご自身が常におられます。主とともに歩む神の民は、人類の一致の見えるしるしとして、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。この教会の姿を具体的に生きようとしているのが、教皇フランシスコが共に歩むことを呼びかけているシノドスの道であります。

今回のシノドスは、参加すること、耳を傾けること、識別することの三つが重要だと言われています。そのために教皇様は、教会全体が参加して耳を傾けあい、祈り合い、識別するための長いプロセスを選択されました。それは決して、下からの決議を積み重ねて、民主主義の議会のように多数決で何かを決めていくようなプロセスを定める事を目的としているのではなく、識別するための姿勢、耳を傾けあう姿勢、互いに連帯の内に支え合う姿勢を、教会の当たり前の姿勢にすることを一番の目的としています。教会がその姿勢を身につけることができたのなら、それは聖霊の導きの識別へと自ずとつながります。ですから、準備された様々なステージが終わったからもう関係がないのではなくて、このシノドスの道で求められていることは、これからも続いて取り組まなくてはならないことです。

共同体における連帯はいのちを生きる希望を生み出します。共同体においてともに歩むことで、わたしたちは聖霊の導きを識別します。互いに支え合うことで、主ご自身と出会います。共に御言葉と御聖体に生かされることで、復活を体験したペトロのように大きく変えられていきます。

教会共同体が希望を生み出す存在であるように、互いに連帯のうちに、支え合いながら歩み続けましょう。
 

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2023年復活徹夜祭@東京カテドラル

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主の御復活、おめでとうございます。

本日午後7時からの、東京カテドラル聖マリア大聖堂での復活徹夜祭では、25名の方が洗礼を受けられました。おめでとうございます。また転会の方もあり、成人の受洗者と一緒に堅信を受けられました。心からお慶び申しあげます。

皆様の教会ではいかがでしたでしょうか。

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毎年多くの方が洗礼を受けられますが、いつまで経っても聖堂がパンクすることはありません。確かに健康や年齢のために教会に足を運ぶことができなくなる方もおられるでしょうし、帰天された方もおられたでしょう。しかし、いつの間にか足が遠のいてしまう方がおられるのも事実です。時に教会での様々なレベルでの人間関係がその要因だというお話しを伺って、残念に思うことがあります。信仰生活は独りで孤独のうちに歩むのではなく、共同体で歩むものです。一緒に支える信仰です。といっても、すべての人が同じように、例えば教会の活動に参加できるわけではないですし、グループ活動はちょっとと感じられる方もいるでしょう。共同体の絆は信仰における絆であって、具体的な活動によって生み出されるものではないと思うのですが、それではどうするのかと問われると、明確な答えを持っていません。同じ信仰によって結びあわされているのだという確信が、お互いの心に芽生えるような教会共同体のあり方を、模索していきたいと思います。

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以下、本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂における復活徹夜祭の説教原稿です。

聖土曜日復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月8日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

復活徹夜祭は、小さなロウソクの光で始まりました。暗闇に光り輝く小さな炎は、わたしたちの希望の光です。すべてを照らして輝く太陽のような巨大な光ではなく、小さなロウソクの炎です。キリストがもたらす新しいいのちへの希望は、その小さな炎にあります。暗闇が深ければ深いほど、たとえ小さな光であっても、その炎は不安をかき消す希望の力を秘めています。

希望は、キリストがもたらす新しいいのちへの希望です。暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しいいのちに招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることをあらためて思い起こします。

復活のロウソクにともされた小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられていきました。復活のロウソクにともされたたった一つの小さな炎は、ここに集う多くの人のロウソクに分け与えられ、一つ一つは小さいものの、全体としては、聖堂を照らす光となりました。

わたしたちは復活のいのちの希望の光を、兄弟姉妹と分かち合い、共にその光を掲げることで、皆で暗闇を照らす光となります。教会が呼びかける連帯の意味はそこにあります。

死に打ち勝って復活された主イエスは、新しいいのちへの希望を、わたしたちに与えています。わたしたちは孤独のうちに閉じこもることなく、連帯のきずなをすべての人へとつなげていき、死を打ち砕き、いのちの希望を与えられるキリストの光を、一緒になってこの社会の現実の中で高く掲げたいと思います。教会は、いのちを生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではなく、希望と喜びを掲げる存在です。

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今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にもあずかるのだと強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるため」に洗礼を受けるのだと指摘しています。洗礼を受けたわたしたちには、キリストとともに、新しいいのちの道を歩む務めがあります。

先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。

「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」

モーセに導かれて奴隷状態から逃れようとしたイスラエルの民は、エジプトのファラオの強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて叫ぶばかりでありました。そこで神は、モーセに、行動を促します。前進せよと求めます。しかもただ闇雲に前進するのではなく、神ご自身が先頭に立って切り開く道を、勇気を持って歩めと、命じておられます。

復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。

「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。」

イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。力強いリーダーが突然いなくなったのですから、呆然と立ちすくんでいたのかも知れません。

恐れと不安にとらわれ、前に向かって歩むことを忘れた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへと旅立て」とイエスは告げます。立ち止まるのではなく、前進することを求めます。行動するようにと促します。ガリラヤは新しいいのちを生きる希望の原点です。最初にイエスが福音を告げ、弟子たちを呼び出したのはガリラヤでした。自らが教え諭した原点に立ち返り、そこから改めて旅路を歩み始めるようにと弟子たちに命じています。

主の死と復活にあずかるわたしたちに求められているのは、行動することです。前進することです。なにもせずに安住の地にとどまるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。

とはいえ、一人で旅路を歩むのは心細いものです。本当にそれが正しい道なのかどうか、分からないときもしばしばでしょう。ですからわたしたちは、ともにこの道を歩みます。教会は共同体であり、わたしたちは信仰の旅路を、共同体としてともに歩みます。一人孤独のうちに歩むのではなく、互いに助け合いながら、歩み続けます。

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ちょうどいま教会は、シノドスの道を歩んでいます。そのテーマは、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められています。シノドスは信仰の旅路の刷新を目指します。東京教区では、集まることが難しい中、定期的にビデオを作成し公開していますが、ご覧になったことはありますでしょうか。一つ一つは短いものですので、是非ご覧になって、何人かの方々とその内容についてご自分の思いを話し合い、分かち合う機会を持ってくださればと願っています。互いに信仰を深め、進むべき方向性の指針を再確認し、助け合い、支え合いながら、信仰の旅路をともに歩み続ける教会となることが目的です。

シノドスの歩みをともにすることで、洗礼と堅信によって与えられた信仰者としての責務を、共に助け合いながら連帯のうちに果たす道を見いだしましょう。その歩みの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきましょう。東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現のために、福音を告げしらせ、証しする道をともに歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

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2023年4月 7日 (金)

2023年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

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主の受難を黙想する聖金曜日です。この日は、通常のミサは行われません。各教会では、それぞれの慣習に従って、十字架の道行きをされたところも多かったのではと思いますが、今年の東京は、猛烈に風の吹く聖金曜日となりましたので、参加が難しい方もおられたかと思います。このブログの一番下に、東京教区で作成した十字架の道行きのビデオを貼り付けておきます。

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また、本来、主の受難の典礼は、午後3時頃に行われ、夜には悲しみの聖母の崇敬式(スタバート・マーテルが歌われます)が行われたりしましたが、現在では、週日の金曜と言うこともあり、夕方に主の受難の典礼が行われることになっています。東京カテドラルの主の受難の典礼も、午後7時から行われました。(なお、東京カテドラル聖マリア大聖堂の正面に向かって右手側には、聖ペトロ大聖堂に置かれているミケランジェロのピエタ像のレプリカが安置されています。サンピエトロにあるものと全く同じものです。また東京カテドラルの聖櫃は、他の大聖堂などと同じく、正面祭壇ではなく、脇祭壇や小聖堂に置かれることになっているため、むかって左側のマリア祭壇に置かれています。)

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以下、本日午後7時の主の受難の典礼における、説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月7日

わたしたちの信仰は、道を歩み続ける信仰です。時の流れの中で、どこかに立ち止まってしまうのではなく、常に歩みを続ける旅路です。時にはその歩みは遅くなったり、速くなったり、横にそれてみたり、後ろを振り返ってみたり、それでもなんとか前進を続ける旅路です。

その信仰生活の歩みの中でも、四旬節には特別な意味があります。今年は2月22日の灰の水曜日から、わたしたちは四旬節の旅路をともに歩んできました。

四旬節は私たちの信仰の原点を見つめ直すときです。私たちの信仰の原点には、主の十字架があります。その十字架を背負い、苦難のうちに死に向かって歩まれる主の受難の姿があります。主イエスの苦難の旅路こそは、わたしたちの信仰の旅路の原点であります。

すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべてのいのちを、ひとりたりとも見捨てることなく、永遠のいのちにおける救いへと招くために、わたしたちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。

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わたしたちは、主の苦しみの旅路に心をあわせ、ともに歩むようにと招かれています。主ご自身が悪との戦いの中で苦しみを受けられたように、わたしたちもこの世界の現実の中で神の正義の実現を阻む悪との戦いで苦しみ、主ご自身がその苦難と死を通じて新しい復活のいのちの栄光を示されたように、わたしたちも苦しみの後に主の復活の神秘に与って、永遠のいのちに与る者とされます。十字架とともに歩む旅路は、わたしたちの信仰の原点です。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主イエスの言葉を心に留めるとき、わたしたちは人生の歩みの中で、数多くの機会に、主御自身と出会って来たことに気がつきます。またこれからの旅路の中で繰り返し主と出会い続けることでしょう。主とともに歩む十字架の道は、また様々な現実の出会いを通じて、主ご自身と出会う旅路でもあります。ともに歩まれる主は、人生の様々な十字架を背負い、苦しい挑戦の中でいのちを生きている多くの方を通じて、わたしたちをご自身との出会いへと招いておられます。

わたしたちは、悲しみの中で希望を求める人に、慰めを与えるものだったでしょうか。苦しみの中で絶望にうちひしがれる人に手を差し伸べるものだったでしょうか。あえぎながら歩む人とともに歩むものであったでしょうか。神の前で罪を悔いる人に寄り添い、ゆるしへと招くものだったでしょうか。自分自身の常識とは異なる存在の人たちを裁くことなく、ともに歩もうとするものだったでしょうか。黙して語らず、ただただすべての人の罪を十字架として背負われ、あえぎながら歩みを進める主イエスのその傍らに立ちながら、他者の罪を裁こうとする自分の姿を想像するとき、自分の傲慢さに恥ずかしくなります。

主の背負う十字架に、さらなる重さを加えているのは、傍らで傲慢な生き方をするわたしたち自身です。わたしたちにできるのは、苦しみを受け、耐え忍び、黙しながら歩みを続けた神の旅路に心を合わせ、すべてを包み込むその愛とゆるしといつくしみに感謝し、苦しみの先にある復活の栄光を信じながら、主イエスとともにひたすら歩み続けることです。同じ思いを持つ信仰の仲間と共に、歩み続けることです。

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十字架を背負った苦難の道は、ゴルゴタで終わります。この世での旅路が終わり、復活を通じて新しいいのちの旅路が始まる転換点は、ゴルゴタです。そこには、わたしたちの母である聖母マリアがおられました。

受難の朗読は、十字架の傍らに聖母マリアが佇まれ、御子の苦しみに心をあわせておられたことを、わたしたちに伝えています。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母マリアは、キリストと一致した生き方を貫き、十字架を背負いながら他者のために身をささげて黙して歩み続ける模範を、教会に示されています。

教皇パウロ六世は、「私は主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」という言葉を生涯にわたって生き抜いた聖母マリアは、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるようにとの教訓であり、模範で」あると指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)

主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母マリアと愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。聖母マリアは天使ガブリエルのお告げを通じて神から選ばれた人生を、謙遜のうちに歩みましたが、このゴルゴタでの転換点を通じて、いのちを生きる模範を示すために、永遠にその母であるようにと、新しい歩みを始めるように主ご自身から招かれました。聖母マリアは、わたしたちイエスに従おうとする者の先頭に立つ、いのちを生きる道の模範です。教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架を受け継ぎ、復活の栄光を目指して歩み続けます。

聖母マリアは、わたしたち一人ひとりの信仰者にとっての模範でもあります。「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に応えた聖母は、すべてを神にゆだねる謙遜さの模範を示されました。黙して語らず、他者の罪を背負って十字架の道を歩まれた主の謙遜さを、その苦しみに心をあわせて生き抜いた聖母マリアの謙遜さに倣い、わたしたちも神の計画に、勇気を持ってそして謙遜に、身をゆだねる恵みを願いたいと思います。

聖母マリアは、わたしたち一人ひとりの霊的な母でもあります。真の希望を生み出すために苦しみを耐え忍ばれたイエスに、身も心も併せて歩みをともにされた聖母に倣い、わたしたちも、主イエスの苦しみにあずかり、真の栄光と希望への道を切り開いていきたいと思います。

主の十字架に心をあわせ、主の旅路をともに歩むわたしたちは、絶望と恐れではなく、希望と喜びを生み出すものであり続けたいと思います。

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2023年4月 6日 (木)

2023年聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

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聖なる三日間は、主の晩餐のミサで始まります。このミサの終わりは聖体安置式で、いつものような派遣の祝福はありません。

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次に派遣の祝福があるのは、復活徹夜祭の終わりです。明日の聖金曜日、主の受難の典礼は、はじめのあいさつもなければ終わりの祝福もありません。ですから、この三日間の典礼は、連続しています。主の受難と死と復活の出来事に、心をあわせる典礼です。

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以下、本日聖木曜日午後7時から、関口教会と韓人教会の合同で行われた、主の晩餐のミサの説教原稿です。

聖木曜日主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年4月6日

わたしたちの信仰生活は、キリストに倣って生きるところに始まり、キリストの死と復活を通じて永遠のいのちへの道をたどる、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに歩み続ける道であります。

パンデミックに見舞われたこの3年間の暗闇が生み出したグローバルな不安体験が、国家のレベルでも個人のレベルでも利己主義を深め、寛容さを奪い去り、連帯の中で支え合うことよりも、様々な種類の暴力による対立がいのちに襲いかかる世界を生み出してしまいました。賜物であるいのちを守ることよりも、異質な存在を排除することによって、自分の周囲を安定させ、心の不安から解放されようとする世界となってしまいました。

最後の晩餐の席で主イエスは立ち上がり、弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音に記されています。弟子たちの足を洗い終えたイエスは、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗いあわなければならない」と言われたと記されています。弟子たちにとっては衝撃的な出来事であったと思いますが、衝撃的であったからこそ、こうして福音書に書き残された心に深く刻まれた出来事でありました。

足を洗うためには、身を深くかがめなくてはなりません。相手の前に頭を垂れて、低いところに身をかがめなくては、他者の足を洗うことはできません。身をかがめて足を洗っている間、自分自身は全くの無防備な状態になります。すべてを相手に委ねる姿勢です。

2019年4月、アフリカの南スーダンで続く内戦状態の平和的解決を求めて、教皇様は南スーダンで対立する政府と反政府の代表をバチカンに招待されました。その席上で、教皇様は突然、対立する二つの勢力のリーダーたちの面前で跪き、身を低くかがめ、両者の足に接吻をされました。この教皇様の姿は、弟子の足を洗う主ご自身の姿そのものでありました。暴力による対立ではなく、対話による解決を求めて、互いに信頼を深め、互いに無防備な状態になって、連帯のうちに支え合う道を見いだして欲しいという、教皇様の強い願いの表れでありました。互いに足を洗い合うものであって欲しいという、教皇様の願いの表れでありました。

いまの世界で求められているのは、対立することではなく、互いに身をかがめあい、相手に信頼して身を委ね、足を洗う姿勢ではないでしょうか。

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福音はそのあとに、「わたしがあなた方にしたように、あなた方もするようにと、模範を示したのである」という主イエスの言葉を記しています。主に従うことを決意したわたしたちの人生の歩みは、キリストに倣って生きるところに始まり、キリストの死と復活を通じて永遠のいのちへの道をたどり、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに歩み続ける道程です。

最後の晩餐で、聖体の秘跡が制定されたことを、パウロはコリントの教会への手紙に記しています。聖木曜日主の晩餐のミサは、御聖体の秘跡の大切さについて、改めて考えるときであります。

第二バチカン公会議の教会憲章には、次のように記されています。

「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(教会憲章11)。」

またヨハネパウロ二世は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえそれは教会が歴史を旅するうえで携えることのできる、最も貴重な宝だと言うことができます」と述べて(回勅『教会にいのちを与える聖体』)、御聖体の秘跡が、個人の信仰にとってもまた教会共同体全体にとっても、どれほど重要な意味を持っているのかを繰り返し指摘されます。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」で、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

わたしたちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡によって生み出される絆において、共同体でともに一致しています。

御聖体において現存する主における一致へと招かれているわたしたちは、パウロが述べるように、「このパンを食べこの杯を飲む度ごとに、主が来られるときまで、主の死を告げしらせる」務めがあります。わたしたちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の願いを同じように受け継ぎ、それをこの世界において告げしらせていかなくてはなりません。世界に向かって福音を宣教する務めを、わたしたち一人ひとりが受け継いでいくことが求められています。主の生きる姿勢に倣って、身をかがめ足を洗いあう姿勢であることが求められています。

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教皇フランシスコは、回勅「兄弟のみなさん」の中に、こう記しています。

「愛は最終的に、普遍的な交わりへとわたしたちを向かわせます。孤立することで、成長したり充実感を得たりする人はいません。愛はそのダイナミズムによって、ますますの寛容さ、他者を受け入れるいっそうの力を求めます(95)。」

わたしたちの福音宣教は、まずわたしたちの日々の生活の中での言葉と行いを通じて、福音を告知することに始まります。福音の告知は、直接に福音を語ることではなく、言葉と行いを通じた証しです。しかしわたしたちに求められている福音宣教は、そこに留まるものではありません。わたしたちのうちに宿る神の愛は、「普遍的な交わりへとわたしたちを向かわせ」るからであります。教会共同体における交わりへと、多くの人が招かれるようにすることは、神の愛が注がれているすべてのいのちが、十全に生きられるようにするために必要です。

教皇パウロ六世は使徒的勧告「福音宣教」において、「よい知らせを誠意を持って受け入れる人々は、その受容と分かち合われた信仰の力によって、イエスの名のもとに神の国を求めるために集まり、神の国を建て、それを生きます(13)」と述べておられます。

御聖体の秘跡に与ることは、個人的なことではありません。御聖体を通じて、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに歩み続けるわたしたちには、身をかがめ他者の足を洗う姿勢が求められ、福音を言葉と行いで証しすることが求められ、教会共同体における交わりに多くの人を招き入れることが求められています。難しいことです。どうすれば良いか悩みます。しかし、そこにはつねに、主ご自身が常にわたしたちと共におられ導いてくださっています。

御聖体の秘跡のうちに主がそこに現存されているという神秘を、聖体祭儀を通じて、改めて心に刻み、共におられる主から力をいただきましょう。

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