カテゴリー「配信ミサ説教」の48件の記事

2021年2月18日 (木)

灰の水曜日ミサ@東京カテドラル

Ashw21a

2月17日は灰の水曜日。東京カテドラルでは関口教会と韓人教会の二つの共同体で、朝7時、午前10時、午後7時の三回のミサが行われ、わたしは夕方午後7時のミサを司式させていただきました。ミサの模様は、関口教会のYoutubeアカウントで配信されています。

Ashw21d

教皇様は四旬節にあたりメッセージを発表されています。中央協議会のこちらからご一読ください

Ashw21b

以下、午後7時のミサの説教原稿です。

灰の水曜日
2021年2月17日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」

東京教区は、戦後にケルン教区から大きな援助をいただきましたが、その友好関係の25周年を祝った1979年以降、今度はケルン教区と共にミャンマーの教会を支援する活動を始めました。これまで主に、ミャンマーの神学校の支援などを行ってきました。自分たちが受けた善意をさらに隣人へとひろげていく心は、感謝され褒められることによる満足のためではなく、隣人の思いに心をあわせ、共に生きていく姿勢、すなわち常に共にいてくださる主ご自身に倣う生き方の具体化です。そのミャンマーでは今月に入ってから軍によるクーデターがあり、非常に不安定な状況が続いています。ヤンゴンのボ枢機卿も、非暴力の内に対話を呼びかけていますが、長期的な混乱も予想されます。この四旬節の間、ミャンマーの兄弟姉妹のためにお祈りください。同時に、わたしたちの近隣には、国家の政策によって、人々や教会が厳しい状況に置かれている国もあります。暴力的な政治や軍の力で、信仰の自由が奪われたり、賜物であるいのちが危機にさらされてはなりません。

さて一年前、先行きの見えない状況の中で四旬節を始めたことを記憶しています。一年前の灰の水曜日の説教で、わたしは、「こういった状況の中では、どうしても自分や自分の近しい人たちの安全と安心だけを追い求める結果、思わず利己的な判断をとってしまうことも少なくありません。暗闇を不安のうちにさまようときにこそ、わたしたちはお互いを思いやり支え合うことの大切さを思い起こしたいと思います」と申し上げました。一年が経過した今も、状況はそれほど変化しておらず、やはり同じ言葉を繰り返さざるを得ません。

こういう状況にあって、いったいどのような道を歩んでいけば良いのか。いったいどのような生き方を選択すれば良いのか。

悩むわたしたちに、今日、預言者ヨエルは、「あなたたちの神、主に立ち帰れ」と呼びかけます。四旬節は、まさしく、わたしたちの信仰の原点を見つめ直すときです。この困難な時期のただ中で、わたしたちは信仰の原点に立ち返りたいと思います。

わたしたちが立ち帰るのは、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいる主であると、ヨエルは記しています。信仰に生きているわたしたちは、主に倣って、憐れみ深いものでありたいと思います。忍耐強い者でありたいと思います。慈しみに富んだ者でありたいと思います。

マタイ福音は、人々からの賞賛を得るために善行を行う偽善者について記します。わたしたち自身が現在の状況のなかで、人々の賞賛を得るために善行を行うということはあまりないのかも知れません。しかしここでのイエスのポイントは、自分は心の眼をどこに向けているのかの問題です。賞賛を得たいと願う心は、心の眼を自分の心の内に留めておこうとする多分に利己的な思いであります。イエスは、「右の手のすることを左の手に知らせるな」と述べることで、心の思いを自分のもとに留めておくのではなく、助けを必要としている隣人のもとへと心を馳せる必要を説きます。なぜならば、わたしたちが倣って生きようとする主は、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいるからであります。わたしたちの信仰は、自己実現の信仰ではありません。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前でわたしたちが誠実な僕であるのかどうかを振り返るよう呼びかけます。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているのでしょうか。

この困難な状況の中で、感染症の治療のため、孤独の内に闘病生活を送る人、医療関係者であるがために、いわれのない差別を受ける人、また経済の悪化によって職を失った人、住む場所を失った人、人間関係を失った人。多くの人が、孤独と孤立の鎖の中で、助けを必要としています。

教会はこの一年の大きな困難の中でもがき苦しみました。いま四旬節となり、信仰の根本を振り返り、見直し、原点に返る時を迎えました。わたしたちがどう生きるのか、あらためて振り返りましょう。主に立ち帰るとき、そこには必ず希望が生まれます。

四旬節にあたり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。

今年のテーマは、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く……」というマタイ福音の20章18節の言葉が選ばれ、副題に「四旬節――信仰、希望、愛を新たにする時」と記されています。

教皇はメッセージで次のように呼びかけます。

「信仰は、神とすべての兄弟姉妹の前で、真理を受け入れ、そのあかし人となるよう、わたしたちに呼びかけています」

その上で教皇は、「断食する人は、貧しさを受け入れるという経験を通して、貧しい人々とともに自ら貧しくなり、受けた愛、分かち合われた愛という富を「蓄えます」。このように理解され実践されることで、断食は、神と隣人を愛する助けとなります。聖トマス・アクィナスが教えているように、愛とは、他者を自分と一体の存在であるとみなして他者に思いを寄せる行動なのです」と指摘します。

教皇は四旬節の節制のつとめが、愛の奉仕に直接つながっていることを述べ、「四旬節は信じる時、つまり神をわたしたちの人生に迎え入れ、わたしたちと一緒に「住んで」いただく(ヨハネ14・23参照)時です」と記しています。愛の奉仕とは、わたしの善行のことではなく、わたしのもとに神を迎え入れる業であるとの指摘です。

Ashw21c_20210218111801

この説教の後、今年は方法が例年と異なりますが、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きるべきかを、心で感じたいと思います。司祭は灰を頭や額にかける前に、皆さんに向かって、「回心して福音を信じなさい」と唱えます。

この言葉は、四旬節の持っている意味、つまりあらためて自分たちの信仰の原点を見つめ直し、神に向かってまっすぐに進めるように軌道修正をするということを明示する呼びかけです。

この四旬節の間、神のいつくしみに包まれながら、わたしたちの信仰の根本を見つめ直しましょう。

 

| |

2021年2月 6日 (土)

奉献生活者の日ミサ@麹町教会

Hoken21a

2月2日は主の奉献の祝日でありました。教皇ヨハネパウロ2世は、1997年に、この祝日を奉献生活者のための祈りの日と定められました。日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2011年に教皇大使故ジョゼフ・チェノットゥ大司教の呼びかけを受け、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることをはじめ、今年の奉献生活者のためのミサは、1月30日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

Hoken21b

感染症対策のため、例年のように大勢の修道者が集まることは出来ませんでしたが、聖堂には10数名の代表の修道者が集まり、ミサは麹町教会からオンライン配信されました。

今年はわたしが司式・説教を担当し、山野内司教様も司式に参加してくださいました。なおミサの終わりに、誓願10年の修道者への特別な祝福が行われました。また教皇庁大使館からはトゥミル臨時代理大使も参加してくださいました。

以下、当日の説教の原稿です

奉献生活者のミサ
2021年1月30日
麹町教会

一年前の奉献生活者のミサのことを思い起こしていました。この聖堂で行われたミサは、聖堂に一杯の男女修道者が集い、聖歌隊が高らかに歌い、男子の修道会の上長たちが大勢一緒に共同司式していました。なによりも、主司式はジョゼフ・チェノットゥ教皇大使でありました。

わたしたちは忍び寄る生命の危機に多少は気がつきながらも、しかし、いつものような日常が続いていくのだろうという根拠のない安心感に身をゆだねておりました。

わたし自身もその直後に、東京教区の司祭たちと一緒にミャンマーに出かけ、教区として援助している神学院などを訪問してきました。それ以降、今日まで、海外はおろか、飛行機にも乗ることのない一年でありました。

皆さんお一人お一人にとって、この一年は、いったいどういう時であったでしょうか。

確かに、欧米の国々に比べれば、感染した方の数や亡くなられた方の数は少ないものの、その理由は判然としません。特に欧米の国々での厳しい現実を目の当たりにするとき、被害が小さいからと言って安心できるものではないことだけは理解できます。また、手を洗ったり、うがいをしたり、マスクをしたり、対面での会話を避けたりと、いくつかの最低限守るべき基本が見えては来ました。しかし、危機が完全に去ったわけではありません。例えば、教会にとっても、当初は多くの司祭や修道者が各地で亡くなられましたが、年が明けたこのひと月の間だけでも、世界各地で10名を超える司教が新型コロナ感染症のために亡くなられました。日本でも、相対的に少ない人数ではあるものの、例えば東京教区内でも、カトリック教会を起源とする集団感染などは発生していませんが、感染した信徒の方がおられるという報告は少なからずあり、亡くなられた方もおられます。

昨年、このミサを共に捧げたときに、わたしは、東北の震災発生から9年となることに関連して説教をいたしました。本来であれば、今年は震災発生から10年となるのですから、この10年の日本の教会の復興支援活動を振り返ってお話ししたいところですが、現在の状況ではそうも行きません。

Hoken21c

昨年わたしは、教皇フランシスコの、被災者との集いでのこのことばを引用しました。
「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません」

すなわち、人間がいのちをつないでいくためには、もちろん「衣食住」が充分に保障されていることが不可欠であることを、教皇様は大前提とした上で、しかし人間は、物質的充足それだけでは生きていけないことを指摘されました。そこでわたしは昨年、次のように申し上げました。

「人間が人間らしく生きていくためには、いのちを生きるための希望が不可欠です。そしていのちを生きるための希望は、誰かが外から持ってきて与えることができるものではなく、希望を必要としている人自身の心の奥底から生み出されるものです」

この昨年の自分の言葉が、重くのしかかってきます。

この一年ほど、そして今ほど、いのちを生きるための希望が必要なときはありません。いのちの危機という漠然とした不安だけではなく、具体的な問題として、職を失ったり、人間関係を失ったり、差別や排除の犠牲となったり、孤立を深め助けを得られずにいたり、さまざまな側面からいのちの危機に直面し、いのちを生きるための希望を奪い去られた人たちがこれほど多くおられる今、希望はどこにあるのでしょうか。

教皇様は回勅「フラテリ・トゥッティ」において、こう指摘されています。
「確かに、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックのような世界規模の悲劇は、わたしたちがグローバルな共同体であって、同じ船に乗船していて、そこでは一人の問題は皆の問題であると言う感覚を、つかの間ですが復活させた。今一度わたしたちは、一人で救われる人は誰もいないこと、わたしたちは一緒にしか救われないことに、気がつかさせられた。(32)」

しかしこの兄弟愛的な感覚は、利己主義に魅入られた世界では、長続きすることはありません。異質な存在を排除し、自分たちだけの安全を確保しようとする欲求は、ワクチン接種が始まろうとしている今、国家のエゴとして顕在化しようとしています。すでに教皇様は、国家間の貧富の格差がいのちの格差になることのないようにと、繰り返し呼びかけておられます。

そして教皇様は、「フラテリ・トゥッテイ」で、「華麗で壮大な夢を口にした」現代人は、結局のところ、孤独へと誘われ、仮想現実の中で真の「友愛」を忘れたのだと指摘して、次のように述べています。

「このパンデミックによってもたらされた、痛み、不安、恐れ、自分の限界の認識は、これまでの生活様式や人間関係、社会の仕組み、そして何よりもわたしたち自身の生存の意味を緊急に考え直す必要を明確にした。(33)」

Hoken21d

教会はこの10年間、東北の被災地で、いのちを生きる希望を生み出す活動を行ってきました。日本の教会の歴史に残る挑戦であったと思います。以前は考えられなかった修道会の枠を越えた活動も、各地で行われました。教区との契約の枠を越えて、会員を派遣し続けたことで、仙台教区の教会共同体と歩みをともにすること、いのちの希望を生み出すことを優先することの大切さを、具体的に示してきました。常識や慣習を打ち破る決断が、それこそいくつもあったと思います。この10年で、日本の教会は、大きく変わる機会をいただきました。

建物を建てたとか、物資を配布したとか、そういう「衣食住」に関わることも大切ですけれど、やはり、人と人との関わりの中で、そしてともに人生の道を歩むことによって、そして現場で共に生きることによって、わたしたちはいのちを生きる希望を生み出すための種まきをしてきたのだと思っています。

その種を蒔いたところに、新型コロナ感染症がやってきました。すべてのいのちを守ることを最優先とし、無自覚のうちに隣人のいのちを危機にさらすような無責任な行動をすることのないように、さまざまな制約を教会にあっても取り入れました。感染対策を徹底すればするほど、集まったり、共に歌ったり、兄弟姉妹との親交を深めることが難しくなりました。感染拡大期には、わたしたちの信仰にとって最も大切な聖体祭儀に与ることが難しくなりました。教会は、今まで当然として行ってきた活動を、一旦停止せざるを得なくなりました。多くの方が協力してくださっています。なかには、苦しい決断をもってご自分の思いを犠牲にしてまで協力してくださっている方も多くおられます。さまざまな制約が課せられている今、それぞれが信仰における優先事項をどこに定めているのかが明らかになってきています。

困難な状況による制約は、わたしたちに新たな道を模索する機会を提供しています。教会にとってのこのピンチを、前向きにとらえたいと思います。既成概念の枷から強制的に解き放たれたわたしたちは、いま、教会がどのようにあるべきか、何を優先するべきか、徹底的に見直す最高の機会を与えられています。見直しましょう。日本の教会が、主イエスの呼びかけに本当に徹底的に従って生きる共同体であるために、わたしたち自身を見つめ直すときは、いまです。

 

 

| |

2021年1月 1日 (金)

神の母聖マリア@東京カテドラル

Newyear21a

謹賀新年

いつもとは様相が異なる年末年始となりました。新しい年の初めにあたり、皆様の上にいのちの与え主である御父の豊かな祝福があるように、お祈りいたします。

昨年末の12月18日には東京教区の名誉大司教である岡田武夫大司教様が帰天され、さらに12月28日には大分教区の浜口末男司教様が帰天されました。司教様方の永遠の安息のためにお祈りください。

また感染症対策のため大晦日の公共交通機関終夜運転が取りやめになったこともあり、恒例の1月1日深夜ミサは、多くの教会で中止となりました。関口のカテドラルでも、例年は1月1日深夜零時から大司教司式のミサを捧げ、一年の始まりに祈りをささげましたが、今年は1日の午前10時からのみのミサとなりました。これから始まる一年が、どのように展開していくのか予想もつきませんが、少しでも明るい方向へ導かれるように、心から祈っています。2021年のうえに、いつくしみ深い神の祝福と、導きと、守りがありますように。

以下、本日午前10時からの、神の母聖マリアの祝日ミサの説教原稿です。

神の母聖マリア(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年1月1日午前10時

お集まりの皆さん、新年、明けましておめでとうございます。

主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念するわたしたちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

闇にさまよう人間を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画は、聖母マリアの「お言葉通りにこの身になりますように」という、神の前でのへりくだりの言葉がなければ実現しませんでした。そしてその言葉こそは、人生をかけた決断であり、神の意志への完全な信頼の表明でもありました。

神に完全に従うことを決意した聖母マリアの人生は、救い主であるイエスとともに歩んだ人生です。その人生は、シメオンによって預言されたように、「剣で心を刺し貫かれ」た苦しみ、すなわちイエスの十字架での受難に至る、イエスとともに苦しみを耐え忍ぶ人生でもありました。しかしながら、聖母の人生とは、苦しみにだけ彩られた悲しい人生ではありません。

聖母マリアは、天使ガブリエルが、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と告げた言葉を信じることで、その子イエスが人々の希望の光となることを確信していました。ですから、天使のお告げの通りの出来事を目の当たりにして興奮する羊飼いたちの道を急ぐ姿と対照的に、聖母マリアはこれからの救いの出来事の実現という時の流れの先を見据えながら、「すべてを心に納めて、思い巡らしていた」と福音に記されているのです。聖母は「時のしるし」を識別し読み解こうと務める教会の、あるべき姿の模範であります。

2020年という年は、世界中で、希望を見失い、暗闇に彷徨う年でありました。世界で多くのいのちが感染症のために失われ、また感染症対策のために経済状況が悪化したり雇用環境が悪化したりする中で職を失う人も増え、孤立と孤独は深まり、その中でいのちの危機へと追い詰められる人も増えている事例の報道を多々耳にいたします。また多くの国では、その国の経済を支えるために招かれた他国からの方々が、雇用状況の悪化の中で職を失い、加えて感染症対策のため母国に帰ることもできずに、生活の危機に直面している事例も耳にします。教会の中にも、そのようにして危機に直面している方々と、それに手を差し伸べる活動に取り組まれている方もおられます。

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次のような言葉で始めています。
「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

つまり、神の定めた秩序が実現している世界こそが、平和の実現した世界であると説いています。私たちキリスト者は、福音に忠実に生きようとする限りにおいて、「平和」の実現から目を背けて生きていくことは出来ません。なぜなら「平和」の実現とは、単に戦争がないとか武力紛争がないとか治安が良いとかの問題に留まるのではなく、まさしく神の定めた秩序が実現しているのかどうか、つまり神の望まれる世界が実現しているのかどうかの問題だからです。

そして、少なくとも今の私たちが生きる世界をみて、神は満足されていないのであれば、そこには「平和」はありません。神が賜物としてわたしたちに与えられたいのち、神が自ら人として受肉することによって高らかに宣言された人間の尊厳。そのいのちが、人間の尊厳が、ないがしろにされている社会に、神の望まれる秩序は成立せず、従って「平和」もあり得ません。

「お言葉通りにこの身になりますように」と言う聖母の言葉は、まさしく神が定められた秩序が、自らの人生をとおして実現してほしいという願いの表明であり、すなわち聖母の人生は、神の秩序の確立のための人生であり、平和を生み出そうとする人生でありました。聖母は、平和の実現のために働く教会の、あるべき姿の模範であります。

自らの胎に神を人間として生命を宿らせた聖母マリアを、神は教会の母として与えられます。それによって、神はわたしたちに、生命の尊厳を守りぬく責務の重要性を自覚させようとします。聖母は、いのちを守ろうとする教会の、あるべき姿の模範であります。

教会は年の初めのこの日を、「世界平和の日」と定め、この世界に神が望まれる秩序が確立され、平和が実現するようにと祈り求めます。

Newyear21b

54回目となる今年、教皇フランシスコはそのテーマを、「平和への道のりとしてのケアの文化」と定められました。
メッセージの中で教皇は、昨年一年の新型コロナ感染症によるいのちの危機への取り組みを振り返り、すべての人の尊厳と善を守り育てる、互いに思いやりいたわる文化、つまりケアの文化を確立することこそが、平和構築にとって最優先の課題であると指摘しています。

教皇様は、このパンデミックによって、家族や愛する人を亡くした人、さらには仕事を失った人たち、医師、看護師、薬剤師、研究者、ボランティア、チャプレン、病院や保健機関の職員など、いのちを守るために最前線で働き、時には命さえ犠牲にしている人たちへ、特別な感謝の思いを表明されています。そういった思いやりと助け合いの現実が見られるにもかかわらず、「さまざまなかたちのナショナリズム、人種差別、外国人嫌悪、さらには死と破壊をもたらす戦争や紛争が、新たに勢いを増していること」は悲しいことだったと振り返ります。

教皇様は、霊的・物的ないつくしみの業による助け合いと支え合いは、初代教会からの愛の奉仕の伝統であり、現代社会にあって教会は「ケアの文化」を確立するために、「人間の尊厳と権利の促進」「共通善」「連帯」「被造物の保護」を推進するようにと求めておられます。

その上で、教皇様は次のように記しておられます。

「連帯とは、統計上の数字や、酷使され、役立たなくなれば捨てられる道具としてではなく、わたしたち同様、神から等しくいのちの祝宴に招かれている隣人、旅の同伴者として、他の人々を見る助けとなるものです」

新しい年の初めにあたり、わたしたちはまだ困難な闇の中に取り残されています。徐々に光が見えてきているものの、闇は深く、この一年わたしたちが歩む道には、さまざまな困難が予想されます。困難のなかにあってもなお見いだされる、愛といつくしみの連帯に希望を見いだしましょう。対立や排除のなかにあっても見いだされる、いたわりの心に希望を見いだしましょう。そして見いだした希望を、聖母マリアの模範に倣って心の中で育み、自らの人生での言葉と行いで、あかしし続けてまいりましょう。

闇に彷徨う民であるわたしたちに、民数記は神からの祝福の言葉を記し、心に勇気と希望を与えてくださいます。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」

 

| |

2020年12月26日 (土)

主の降誕、日中のミサ@東京カテドラル

Christmasday20a

12月25日午前10時に、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた主の降誕・日中のミサの説教原稿です。

主の降誕・日中のミサ(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年12月25日午前10時

お集まりの皆様、インターネット配信を通じて共に祈りをささげておられる皆様、主の降誕おめでとうございます。

多くの地域では、昨晩でクリスマスは終わり、年末年始に向けての準備が始まっているのかも知れません。しかし、教会では降誕節が始まったばかりです。神のみ言葉の受肉の神秘を、わたしたちは信仰におけるさまざまな視点から見つめ、黙想し、喜びと感謝のうちにこの時期を過ごしてまいります。

さきほどの福音は、ヨハネ福音の冒頭でありました。それはイエスの物語の冒頭であるにもかかわらず、飼い葉桶も、マリアもヨセフも登場せず、ましてや羊飼いも天使も登場しません。

ヨハネによる福音の冒頭にはただ、「はじめに言があった」とだけ記されています。その受肉され人となられた神のことばは、わたしたちが普段何気なく口にする言葉とは異なり、いままさしく生きている神の言、神の思いそのものが人となられ実在している。それこそが誕生した幼子なのだと私たちに伝えています。

誕生した幼子。言葉を知らない幼子であっても、父ヨセフと母マリアとの関係性の中で示される存在そのもの。成長した後には、その語る言葉と行い。それこそが神の思いそのものを具体的に表すのであり、そこにこそいのちがあり、人を照らす希望の光があるのだと、ヨハネは私たちに伝えます。暗闇に輝くいのちの希望の光。そのいのちの言を、ヨハネは福音書に綴っていきます。

パウロはヘブライ人への手紙で、人となられた神のことばとは、すなわち、かつて預言者を通じて語りかけようとしてこられた神が、いまや直接語りかけている証左であると教えます。神はその思いを間接的に伝えようとするのではなく、人となってこの世に来られ、人類の歴史に介入することで、わたしたちに直接語りかけようとされています。

Christmasday20b

今年わたしたちは、まさしく暗闇の中にあります。年の初めから今に至るまで、新型コロナ感染症は収束せず、それが未知の感染症であるが故に、なかなか確実なことを確信を持って知ることが出来ず、半ば闇の中で右往左往しています。世界の各地では、多くの方がいのちの危機に今でも直面していますし、比較的影響が軽く住んでいる日本でも、いのちの危機は終わったと断言することは出来ていません。

病床にある多くの方のためにお祈りいたします。医療関係者の方々の献身的働きに感謝します。もちろん病気はこの感染症だけではありませんから、いのちの危機に直面し、不安の中にある多くの方々のために、主の降誕の日にあたり、不安と恐れの闇を照らすキリストの光がもたらされるように心から祈ります。

1995年に教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」を発表され、「死の文化」と「いのちの文化」という対比する二つの文化の存在を指摘されました。「文化」とは社会を支配する価値観と言えるかも知れません。そして、信仰に生きるわたしたちにどちらの文化を選択するのかと問いかけました。教皇はいのちの尊厳をないがしろにする現代社会の傾向をさまざま指摘した後に、このように記しています。

「現代世界には、いのちを脅かす重大な脅威が無数にあります。これらに直面するとき、人間はまったくなすすべがないと圧倒されてしまいます。善は、悪に勝利を収めることが出来るだけの力を持たないと感じるのです(29)」

その上で教皇は、「そのようなとき、ずべての信仰者を含む神の民は、『いのちのことば』であるイエス・キリストへの信仰を、謙虚に勇気を持って表明するよう招かれるのです」と記します。(29)

教皇はさらに、「イエスのことばと行い、またイエスその人をとおして、人間には人間のいのちの価値についての完全な真理を『知る』可能性が与えられました」と指摘します。(29)

賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、ありとあらゆる脅威にさらされてきました。それはいのちへの直接の脅威であったり、武力や暴力による脅威であったり、人間の悪意による脅威であったり、排除や差別による攻撃であったり、政治的意図や政治的支配欲による脅威であったり、政治思想に基づく圧政であったり、貧困や疾病による脅威でありました。今年はその脅威に、未知の感染症が加わりました。いのちは常に、なにがしかの脅威にさらされています。

その中にあって、わたしたちは「いのちのことば」に耳を傾け、そのあかしに倣い、自らの言葉と行いで、「神の言」を具体的に生きるよう呼ばれています。

Christmasday20c

この数年の間、世界では、利己的な思想や価値観が広まり、助け合うことや支え合うことが意味を失い、孤独や孤立のうちに取り残される人が多く見られるようになりました。異質な存在を排除し、自己の価値観を守ることに専念する社会は、寛容さを失います。教皇フランシスコは、しばしば誰も排除しない社会の実現を呼びかけ、隔てる壁を打ち壊し、広がる溝に橋を架けるようにと諭してきました。

心の不安を増幅するような事態の頻発は、疑心暗鬼の闇をひろげてしまいます。疑心暗鬼の相互不信には、対立を引き起こす負の力があり、寛容さを広める前向きの力はありません。

そういう中で、あたかも人間のいのちには価値の違いがあるかのような思い違いすら、簡単に生み出されてしまう可能性があります。自分たちを守るためなら、異質なものは排除しても構わないという考えは、いのちに対する尊厳の欠如です。まさしく、寛容さを失い、相互不信にあえぐ社会は、「死の文化」に彩られた社会です。闇の中を歩んでいる今だからこそ、教会はあらためてこの社会の中で、「いのちの文化」を強調していかなければなりません。善が悪に勝利を収めるだけの力を持っていることを、証明していかなくてはなりません。

イエスの誕生にこそ、また神の言の受肉にこそ、神の愛といつくしみとゆるしの深さがはっきりと表れています。自らが創造された人間を、神は愛し抜かれていたからこそ、忍耐に忍耐を重ねて、しばしば預言者を通じて道をただそうとしてきた。しかし人間はなかなかそれに従わない。そこで神はすべてを終わらせることも出来たであろうに、そうではなく、自ら人となり直接語りかけ、そして最後には人間の罪をすべて背負い十字架の上でその身をあがないの生け贄として捧げ、永遠の生命への道を開かれた。私たちの信仰の核心です。

今日、イエスの誕生を祝ってここに集う私たちは、神の尽きることのない愛といつくしみとゆるしの結果として、私たちに与えられた「神の言」にあらためて触れています。神の思いそのものである「神の言」に触れ、包まれる機会を与えられています。私たちがクリスマスに教会に集まって喜びの思いを抱くのは、単にイエスの誕生を祝っているという喜びではなく、つきることのない神の愛といつくしみとゆるしに、あらためて包み込まれているからではないでしょうか。弱い私たちは、日々、神の呼びかけに耳を傾けずに、様々な裏切りを積み重ねています。にもかかわらず、神はわたしたちを見捨てることなく、このクリスマスにあたって、あらためてヨハネ福音の呼びかけを通じて、わたしたちに、その愛といつくしみとゆるしの深さを感じさせてくださっています。感謝のうちに、降誕節を過ごしてまいりましょう。

 

| |

2020年12月25日 (金)

主の降誕、夜半のミサ@東京カテドラル

Christmasmidnight20b

主の降誕のお喜びを申し上げます。

皆様にはどのような夜をお過ごしになられたでしょうか。通常であれば、12月24日の夜は、大勢の方が教会を訪れてくださいます。関口のカテドラルも、特に夕方5時と7時のミサは、事前に列を作って並ばれる方も多数おられ、聖堂は一杯となってきました。

ところが今年はコロナ禍です.感染症対策のため、かなり前から、一般の方の参加をお断りし、信徒や求道者の事前登録となりました。なお関口教会のYoutubeチャンネルで配信しておりますので、いつでも見ていただけます。(ミサの中継は関口教会のチャンネルですが、教区からのメッセージや週刊大司教は、東京教区のチャンネルで配信します。東京教区のチャンネルも、あわせてご登録ください。)

また現時点での東京教区の感染症対策については、常にまとめて掲載していますので、ホームページのこちらをご覧ください。変更があった場合も即座に反映しています。また、現時点では、行政からの緊急事態宣言などがない限り、これまで通りの厳重な感染対策をとったまま、ミサなどの典礼は行っていきますが、現時点では典礼以外の集まりや会議は、自粛をお願いしています。

Christmasmidnight20a

以下、12月24日午後10時から行われた夜半のミサの説教原稿です。(なお配信映像の最初の部分に、カテドラル大聖堂内の気流のシミュレーションを見ていただけます。それによれば、参加者の大きな扉を半開することで、10分程度で聖堂内の空気が外気と入れ替わることが分かります。また三カ所の扉を全開すると、5分程度で外気と入れ替わるようです。)

主の降誕・夜半のミサ(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年12月24日午後10時

 

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

お集まりの皆さん、そしてインターネット配信を通じて共に祈りをささげておられる皆さん、主の降誕、おめでとうございます。

このイザヤの言葉を切実に感じた一年でありました。今年の初めから、世界各地で猛威を振るっている新型コロナウイルス感染症は、未知の感染症であるが故にその実体の解明に時間がかかり、多くの方が感染したりいのちを落とされてしまいました。日本も欧米と比較すれば人数は少ないとは言え、どのように対処したら良いのかが徐々に分かり始めてきたものの、長期間にわたっていのちの危機という暗闇の中を彷徨っているような気分であります。

現時点でも病床にある多くの方のためにお祈りいたします。また医療関係者の方々にあっては、その献身的な働きに、心から感謝申し上げます。

医療関係者や研究者の方々の努力の積み重ねによって、徐々にではありますがその事態が解明されはじめ、暗闇にも光が差してきたように思います。

わたしたちは、暗闇の中を明確な方向性を確認できないまま進まなければならないとき、どうしても疑心暗鬼になってしまいます。疑心暗鬼に包み込まれた心は、不安のあまり恐れを生み出します。恐れを振り払うかのようにしてわたしたちは、暗闇にかすかに差し込む光を求めてもがき続けてしまいます。暗闇には、さまざまな光が差し込んできます。不安と恐れに駆られるとき、じっくりとそれらの光を見極めて、正しい道を識別する作業を待っていることが出来ずに、不安な心を満たしてくれる目の前の光に飛びついてしまうことがあります。確かに今でも何が真実なのかを確実に把握している人はいないでしょうから、安心を求めて飛びついた光が、正しくなかったこともあるでしょう。偽の光に踊らされてしまったこともあるでしょう。浮き足立っているのですから、それは不思議ではありません。

自分ひとりが浮き足立っているだけならば構わないのですが、不安や恐れは安心を求めて自分の立ち位置を明確にしようとさせ、ともすれば攻撃的になってしまいます。自分を不安に陥れる存在に対して、攻撃的な姿勢を見せてしまう誘惑があります。

感染した人への過度な批判や、自分と異なる存在への過度な攻撃。その中で人間関係は崩壊し、孤立と孤独が支配するようになります。

Christmasmidnight20c

教皇フランシスコは、先日発表された回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」においても、兄弟愛と社会的友愛をキーワードに、わたしたち人類は、同じ一つの家に共に暮らす一つの家族であることを強調されています。誰ひとり排除されて良い人はいない、忘れられて良い人はいないと繰り返し強調されてきた教皇は、この回勅にあっても、一つの家族の一員として、互いに助け合い、支え合うことの重要さを強調されています。人類すべてが、神から与えられた共通の家でいのちを生きる家族であると強調されています。

昨年11月に東京で、東北の被災者の方々と出会った教皇の、あの言葉を思い起こします。
「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

同じように教皇は、この新しい回勅を準備されているときに発生した感染症のパンデミックによる「世界的な危機は、『誰も一人で自分を救えない』こと、そして、『わたしたち皆が兄弟』として『ただ一つの人類として夢見る』べき時がついにやって来たことを示した」と、新しい回勅に記しています(バチカンニュースから)

神が天地を創造された最初の状態にこそ、神が定められた秩序が実現しており、それこそが本当の意味での正義と平和に満ちあふれた状態でありました。しかし人間は与えられた自由意志を乱用し、その世界から逃げだし神から逃れようとすることによって、闇の中をさまようことになりました。しかしそれでも自ら創造された人類を愛し続ける神は、闇の中をさまよい続ける民に、自らが道しるべの光となるために、そして神の道に立ち返るよう呼びかけるために、自ら人となって誕生し、人類の歴史に直接介入する道を選ばれました。裏切りに対する神の答えは怒りと裁きではなく、愛といつくしみでありました。死の暗闇ではなく、いのちの希望の光でありました。

いつくしみと愛そのものである神は、自ら出向いていくことで人となり、遠くから照らす光ではなく、人々の中で輝く希望の灯火となろうとされました。愛といつくしみを必要としているところへ、直接出向いていこうとする行動原理です。この神の行動原理に、わたしたちも倣って生きたいと思います。

「出向いていく教会」は、教皇フランシスコが繰り返し強調される教会の姿です。

教皇は使徒的勧告「愛のよろこび」において、「わたしたちが呼ばれているのは、良心をそだてることであり、それに取って代わろうと思い上がることではありません(37)」と指摘して、教会が裁きの場となることのないようにと呼びかけます。それは「福音の喜び」における次の言葉に繋がっています。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従う良い生活を送るよう励まされる感じられる場でなければならない」(114)

Christmasmidnight20d

この一年、感染症という見えない脅威を前にして、いのちの危機という暗闇に取り込まれてきたわたしたちには、自信を持って歩みを進めるために、光を探し求めてきました。その光は、誰かを裁いたり、排除したり、攻撃するための光ではなく、いつくしみと愛を持って支え合い、慰め合い、喜びを生み出す光です。その光はわたしたちを、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会い」へと導いてくれる光です。この輝く光には、いのちの希望があります。なぜならばこの輝く光は、いのちそのものであり、いのちを賜物として創造された神の愛といつくしみそのものであり、わたしたちを包み込む神のことばそのものであります。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

飼い葉桶に寝かされた幼子の前に佇み、その小さないのちに込められた神の愛といつくしみに感謝いたしましょう。そしてそのいのちが与える希望をわたしたちも心にいただき、その希望を喜びのうちに、多くの人たちに分け与えてまいりましょう。いま、多くの人たちが不安と疑心暗鬼の暗闇の中で、喜びと希望の光を待ち望んでおられます。
 

 

| |

2020年12月23日 (水)

ペトロ岡田武夫大司教葬儀ミサ@東京カテドラル

Okadafuneral20a

12月18日に帰天された東京教区名誉大司教ペトロ岡田武夫大司教の葬儀ミサを、本日12月23日午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行いました。

現在の感染症の状況から、葬儀には、東京教区で働く司祭団と、親族関係者の方々に参列を限定させていただきました。なおミサの模様は、以下のYoutubeでご覧いただけます。

Okadafuneral20c

また、年が明けて来年1月19日に、これも参加者は限定となりますが、全国の司教様方もお招きして追悼ミサを行います。その後、同じ1月19日の午後1時から4時の間、聖マリア大聖堂にて献花とお別れのお祈りの時間を設けます。密を避けるため、聖堂内に皆さん留まっていただくことは出来ませんが、順番に献花とお祈りをして、岡田大司教様とのお別れをしていただければと思います。この献花とお別れの祈りの時間については、どなたでもおいでいただけます。

なお岡田大司教様のご遺体に関しては、在宅療養中の大量吐血であったため、救急搬送先の東京医科歯科大学救急救命センターで帰天されましたが、その後PCR検査が行われなかったことから、ご遺体は陽性と同じ取り扱いとなってしまいました。そのため、葬儀に先立って日曜日午後に、立ち会いなしで火葬されています。葬儀のビデオの終わりに、わたしのあいさつの中で説明しております。

以下、本日の葬儀ミサの説教原稿です。

ペトロ岡田武夫大司教葬儀ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年12月23日

 

人となられた神のみ言葉の神秘という、新しい命の誕生を祝う準備を進めているわたしたちは、今日、いのちが与えられることではなく、いのちが取り去られた事実を目の当たりにして、祈りの内に佇んでいます。東京教区で、そしてさいたま教区で、司教職を全うされたペトロ岡田大司教様は、クリスマスが目前に迫った12月18日昼、御父の御許にお帰りになりました。

この世のいのちには始まりがあり、そして終わりがある。しかしこの世のいのちの終わりはすべての終結ではないこともわたしたちは信じています。イエスをキリストと信じる私たちは、神は「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。

同時に、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉に信頼し、いつくしみ深い神が、その限りない愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれていることも信じています。

親しい人とのこの世での別れは悲しいことではありますが、教会は同時に、永遠のいのちへの希望を高く掲げることを止めることはありません。葬儀ミサで唱えられる叙唱にも、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

Okadafuneral20d

岡田大司教様は、1973年に司祭叙階されてから47年間、司祭としての道を歩んでこられました。1991年には当時の浦和教区、現在のさいたま教区司教に叙階され、2000年に東京大司教として任命され着座されました。その後再びさいたま教区の使徒座管理者を兼任されましたが、2017年10月に76歳を持って引退願いが受理され、教区司教の職を退かれていました。

帰天されるまでの29年間の司教としての歩みには、特に日本カトリック司教協議会会長として、日本における教会が直面するさまざまな課題に取り組まれ、また聖座との交渉にもしばしば出かけておいででした。また東京カリタスの家の理事長やロゴス点字図書館の理事長なども兼任され、社会の中で困難に直面する人たちのために力を尽くす姿勢も示してこられました。

わたしは2017年12月に東京大司教を引き継ぎましたが、その際に岡田大司教様は、引退されても小教区司牧を手伝いたいと希望されておりました。主任司祭が不在であった本郷教会の小教区管理者として、司牧のお手伝いをお願いいたしました。大司教様はそのとき、これまで忙しくて考えをまとめることも出来なかったので、本を書きたいのだといわれていました。

本郷教会では、小教区の司牧に留まらず、研究会の開催などに取り組まれ、同時にさまざまな思索の断片を、ブログやSNSなどで、積極的に発信されていました。近頃は特に善と悪についての考察を深めておられたように思います。

今年、2020年1月末に、飲み込みがうまく出来なくなっておられたようで、周囲の勧めで病院を受診したところ食道癌のステージ4と診断を受けられました。いろいろなことをお考えになったと思います。大司教様は手術を選択しないことを早い段階で決断され、本郷教会に在宅のまま、化学療法や放射線治療を受けて、病気と闘っておられました。闘病中に本郷教会の信徒の皆さんをはじめ、大司教様を支えてくださった多くの方々の献身的なお働きに、心から感謝申し上げます。

ブログの最後のエントリーは12月12日でありました。そのタイトルは「主にあっていつも喜べ」であります。待降節第三主日のホミリアでありました。

当日のテサロニケの教会への手紙の朗読を取り上げ、こう記しておられます。長くなりますが引用します。
『「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(一テサロニケ5・16-18)これこそ究極の福音とでも言うべき言葉ではないでしょうか。

わたしたちは人生において度々喜びの体験をしますが、それは多くの場合、やがて儚く消え去る不確かな喜びにすぎません。人生にはむしろ悲しみの方が多いのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。」といわれても、「冗談ではない、なかなかそうは行かないよ」という気持ちになります。

この世界は過酷であり、人生は困難であります。この世界は、生きるのが難しい「荒れ野」ではないでしょうか。この世界は大きな闇で覆われているように感じることがしばしばです。

しかし、今日聖書が告げる「喜び」は人間としての自然の喜びではなく、信仰の喜び、厳しい現実があっても与えられる喜びです。イエス・キリストにおいて示された神の愛、無限の神の愛と出会い、愛の泉から受ける信仰の喜びです。(『福音の喜び』7)

主イエスはすべての人の人生の苦悩をいわば吸い取ってくださった方であると言えましょう。キリスト教は復活の宗教です。復活とは弱い人間性が不死の喜びの状態に挙げられることです。主の降誕を準備するこの季節、主の復活にも思いを馳せることは意義深いことです』

Okadafuneral20e

岡田大司教様は、新しい命の誕生を祝う準備をする今こそ、真の喜びに至る復活について思いを馳せることの大切さを最後に書き残されました。

79歳というのは、現代の平均では早い人生の終わりであります。教区大司教の職を引退されたときには、それからの長い時期を、さまざまに有効活用しようと計画されていたことと思います。しかし、命の与え主である御父は、全く異なる計画をお持ちでした。

日本の教会のために、また普遍教会のために大きく貢献された人生でした。福音をあかしし、多くの人に伝えようとした人生でした。困難に直面する人、助けを必要とする人に思いを寄せ手を差し伸べる人生でありました。牧者として先頭に立ち続ける人生でありました。「自分のことではなくキリストのことを考えて」、キリストに倣い「仕えられるためではなく仕えるため」に生きる人生でありました。そして人知を遙かに超えた神の計らいにすべてをゆだね、神の計画の実現を最優先とした人生でありました。ですから多くのことを成し遂げ、多くの功績を残しながら、それをすべてうち捨て、神の計画に従って御父のもとへと召されていきました。

ヨブ記の言葉を思い出します。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1章 21節)

 

| |

2020年11月25日 (水)

教皇訪日一周年感謝ミサ@東京カテドラル

Ichineni

教皇フランシスコの訪日から、一年となりました。ちょうど一年前のこの日、11月25日は、教皇フランシスコが東京で一日を過ごされていました。前日の日曜日、王であるキリストの主日は、長崎と広島を訪問。25日の月曜日は、朝から東北の被災者との集い、皇居で天皇陛下と会談、その後東京カテドラルを訪問し青年との集い。午後からは東京ドームでミサを捧げた後、首相官邸で首相と会談後に政府や外交団にスピーチ。内容の濃い一日でした。

Ichinena

訪日から一年となったこの時期、残念ながら新型コロナウイルス感染症のため、行事を行うことが難しくなりました。司教団も来月12月の初めにシンポジウムなどを計画していましたが、コロナ禍で断念。それでも、教皇がカテドラルを訪れてくださったことを記念し感謝することは大切ですし、またそこで語られた言葉に、あらためて耳を傾け学ぶことも大切ですから、まさしく東京カテドラルを訪問くださったその日に、ミサを捧げることにしました。通常、韓人教会の週日ミサが行われる水曜の10時ですが、関口教会と韓人教会の合同行事として、韓人教会の高神父、関口教会の天本神父、ホルヘ神父が共同司式され、イエスのカリタス会のシスター方が聖歌を歌ってくださいました。ありがとうございます。また当初はスタッフの手配の関係で配信は難しいと思っておりましたが、忙しいところ駆けつけてくださったボランティア(留学先の某国の時間でオンライン授業を終えたばかりの大学生)のおかげで、配信も出来ました。感謝です。

なお司教団としては、12月9日の夕方に、イグナチオ教会で感謝ミサを捧げる予定です(入場制限あり、配信あり)。

Ichinenb

教皇が地方の教会を訪れると言うことは滅多にないことですから、教皇の司牧訪問を契機として新しい挑戦を始めたり、記念の何かを建設したりするものだと思います。残念ながら、訪問直後からコロナ禍に突入し、すべてが自粛ムードとなってしまったこともあり、新しく何かを始める状況ではありません。それでも教皇の言葉に刺激を受けて、東京大司教区でも前向きに進み続けたいと思います。今日のミサの説教の終わりで、少しだけそのことに触れさせていただきました。

以下、本日のミサの説教原稿です。

教皇訪日一周年記念ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年11月25日

Ichinenc2

一年前の今日、教皇フランシスコをこのカテドラルにお迎えしました。

一年前のあの日、この大聖堂は興奮のるつぼと化していました。そんな中で、入堂された教皇は静かに左手へと進まれ、マリア祭壇の前で御聖体に静かに祈りをささげました。そして祭壇中央へ向かう際には、一番前に陣取った難民青年たちと親しく言葉を交わし、セルフィーで写真まで撮られました。そして待ち受けた聖堂一杯の青年たちに、力強く語りかけられました。

一年前のあの日、この聖堂で語られた教皇の言葉は、アドリブに満ちていて、滞在中一番長いスピーチとなりました。その興奮は、その後に何か新しいことが生まれるのではないかという期待を生み出すものでありました。この聖堂で、青年たちにみなぎる、エネルギーを感じました。

ところが、その後にどうなったのかは、皆さんよくご存じの通りであります。年が明けてすぐ、世界は新型コロナウィルスの感染症に襲われることになり、今に至るまで続いているいのちの危機が始まってしまいました。

人類の歴史に必ずや残るであろうこのコロナ禍は、未知の感染症であるが故に、そのはじめから今に至るまで、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込み、その出口が見えないまま、わたしたちは闇の中を光を求めて彷徨い続けています。

Ichinenf

教会もその荒波の中で、対応を迫られました。なんと言っても、密接・密集・密閉を避けるようにと呼びかけられているのに、教会はその三つの密のオンパレードですし、ましてや一緒になって大きな声で聖歌を歌ったりいたします。

「いのちを守るための行動を」などという呼びかけが、当たり前のように、行政のリーダーたちの口から発せられています。そういえば、一年前の教皇訪日のテーマは、「すべてのいのちを守るため」でありました。「いのちを守る」は、今や教会の専売特許ではなくなりました。違いがあるとすれば、わたしたちは「すべての」と加えることによって、教皇フランシスコが常に示してきた、誰ひとり排除されない世界、忘れられて良い人は誰ひとりいないという姿勢を明確にしているところでしょうか。

一年前のあの日、教皇はこの聖堂で、集まった青年たちにこう語りかけられました。
「夢を見ない若者がいます。夢を見ない若者は悲惨です。夢を見るための時間も、神が入る余地もなく、ワクワクする余裕もない人は、そうして、豊かな人生が味わえなくなるのです。笑うこと、楽しむことを忘れた人たちがいます。すごいと思ったり、驚いたりする感性を失った人たちがいます。ゾンビのように心の鼓動が止まってしまった人たちです」

コロナ禍の闇の中を彷徨っているわたしたちは、不安にとりつかれています。世界は、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独を深めています。まさしく「すべてのいのちを守るため」に、わたしたちは行動しなければならないと感じさせられます。

この社会を目の当たりにして教皇は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する姿勢を示してこられました。とりわけ教会が、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと呼びかけてこられました。

Ichinene

一年前のあの日、この聖堂に集まった青年たちを前にして、「夢を見ない若者」の話をした教皇は、その理由をこう指摘されました。
「なぜでしょうか。他者との人生を喜べないからです。聞いてください。あなたたちは幸せになります。ほかの人といのちを祝う力を保ち続けるならば、あなたたちは豊かになります。世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔の見えないことがほとんどな社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います」

同じ日の午後、東京ドームのミサの説教では、次のように述べています。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました」

同じ日の朝、東北の被災者との集いでも、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べ、人間関係の崩壊が社会における孤立や孤独を生み出し、ひいては神からの賜物であるいのちを危機にさらしているのだと指摘されていました。

教皇フランシスコの語られる「出向いていく教会」は、神の言葉が人となられてわたしたちのうちにおいでになったという救いの業の行動原理に倣う、教会のあるべき姿を表しています。

教皇は青年たちに、こう呼びかけました。
「次の問いを問うことを習慣としてください。『何のために生きているかではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか』と。」

教皇訪問を受けて新しく出発しようとしていた日本の教会は、いまアイデンティティの危機に直面しています。なにぶんこれまでは、日曜日にできる限りたくさんの人が教会に集まってくれるようにと働きかけてきたのです。少しでもミサに参加する人が増えることが、宣教の成功の一つの指標だったのです。言うならば、わたしたちは、日曜日に教会に集まることで、教会共同体となっていたと思い込んでいたのでした。

それが物理的に集まることが難しくなった今、わたしたちは教会共同体というのはいったい何のことだろうかと自問させられています。集まらなくても繋がっている共同体というのは、いったい何のことなのだろうと考えさせられています。わたしたちは何のためにこの社会に存在しているのかを、あらためて見つめ直させられています。

わたしたちは昨年の教皇の呼びかけを思い起こし、「何のために生きているかではなく、誰のために生きているのか。誰と人生を共有しているのか」を、あらためて見つめ直してみたいと思います。

Ichinenh

ちょうど、教皇訪日の前から、東京教区の宣教司牧方針の見直しの作業を進めておりました。訪日の準備と、その後のコロナ禍で、策定作業は遅れておりましたが、まもなく文書をお示しできるところまでこぎ着けました。あまり難しいことや、事細かな指針を作成することは辞めました。大枠を示すための、短くて分かりやすいものを提示したいと思います。

その中で、昨年の訪日で残された教皇様の呼びかけを具体化するために、特に一つのことを実現したいと考えています。それは、教区の中でのさまざまな社会への奉仕活動、愛の活動がありますが、それらを一つに集約する組織を作りたいと思います。名称はどうなるか分かりませんし、まだ模索中ですが、いわゆる教区のカリタスであります。現在、社会奉仕活動においてもっとも活躍しているCTIC・カトリック東京国際センターを核にして、社会活動を集結する組織を実現することで、教皇の残された言葉に応えていきたいと思います。

 

| |

2020年10月31日 (土)

諸聖人の祭日@東京カテドラル

Chuukei20oct

11月1日は諸聖人の祭日で、今年は日曜日となりましたから、主日にお祝いすることになりました。

公開ミサを一時中止にした2月27日以降の主日、すなわち3月1日から、インターネットを通じて、大司教司式ミサを配信してまいりました。6月半ば、キリストの聖体の主日の次の日曜、6月21日から限定的ながらも公開ミサが再開されたこともあり、それまでの日曜午前10時の配信から、土曜日午後6時の配信へと変更して続けてきました。毎回、生中継した映像を、そのままYoutubeに残していますから、別途編集することの出来ない映像をその場で作成しなくてはなりません。関口教会の田村さんをはじめボランティアスタッフが、本当に努力してくれました。またできる限り、美しい典礼をと言うことで、聖歌隊としてイエスのカリタス会の志願者とシスター方が、交代で毎回参加してくださいました。毎回、さまざまな歌をご自分たちで選択し、週日にはよく練習してきてくださり、事前の準備も大変だったことだと思います。感謝します。

幸いカテドラル内は他の小教区聖堂にはないほどの大きな空間がありますし、内陣から会衆席までの距離も空間も大きなものがあります。それでも互いに充分な距離を開けて飛沫感染を防ぐこと、ミサの最中でも必要に応じて手指の消毒を繰り返すことなど、いろいろ注意をしてきましたし、公開ミサが再開となってからは、関口教会の定めた方法で参加人数を絞り、また座席は一列ずつ移動させて前後左右2メートルを確保、歌唱は聖歌隊のみ、また聖体拝領直前には全員の手指をあらためて消毒するなど、感染対策をとってまいりました。

小教区でのミサも徐々に再開されてきたこともあり、週末のさまざまな教会行事も再開しスケジュール調整が必要となってきたこともあり、カテドラルからの大司教司式ミサの配信は、本日をもって一時中止とします。今後は大きな儀式や祭日には中継をいたしますし、状況に応じては、あらためて再開することになるかも知れません。ミサの配信に協力してくださった多くの方に、心から感謝します。今後の配信の際には、東京教区ホームページでお知らせいたします。

なお、今回の事態の中で、ミサの配信を始めた小教区も少なくありません。そういった小教区で、情報を公開しているところに関しては、東京教区ホームページで情報を提供していますので、ご覧ください。

Asd20c

以下、諸聖人の祭日ミサ、10月31日土曜日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げたミサの説教原稿です。

諸聖人の祭日(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月31日

教会は、11月1日を諸聖人の祭日、そして11月2日を死者の日と定め、さらに11月全体を「死者の月」としています。11月1日には、すべての殉教者と証聖者を記念し、11月2日にはわたしたちに先立って御父のもとへと旅立ったすべての人を思い起こし、祈りをささげます。

イエスをキリストと信じる私たちは、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。

同時に、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉に信頼し、いつくしみ深い神が、その限りない愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれていることも信じています。

親しい人とのこの世での別れは悲しいことではありますが、教会は同時に、永遠のいのちへの希望を高く掲げることを止めることはありません。葬儀ミサで唱えられる叙唱にも、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

カトリック教会のカテキズムには、「わたしたちは生者と死者を問わず万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。地上の旅路を歩む民と天上の栄光にあずかる人たちとには連帯関係があり、共に教会を作り上げています。それを第二バチカン公会議の教会憲章は、「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と記しています。わたしたちは、信仰における先達と共に、キリストの唯一の体において一致して、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。教会共同体はこの世における目に見える組織だけのことではなく、信仰の先達との霊的な絆のうちに、普遍的に存在している実体であります。

その中でも、諸聖人は、その生き方をもって、すなわちその言葉と行いを持って、信仰を力強くあかしした存在として、この世を歩む教会にとっての模範であります。

教皇ベネディクト16世は回勅「希望による救い」において、「人間は単なる経済条件の生産物では」ないからこそ、「有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできない(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

今日私たちが記念するすべての聖人や殉教者たちは、その人生における言葉と行いを通じて、また他者とのかかわりを通じて、この世の命を生き抜いた姿を通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確にあかしした存在であります。

その人生において聖人や殉教者は、人とともに、人のために苦しみ抜きました。真理と正義のために苦しみ抜きました。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために、苦しみ抜きました。

苦しみ抜き、生き抜いたとき、その真摯な生きる姿が、多くの人から尊敬を持って評価される生き方となりました。使徒言行録に記された初代教会の姿を思い起こします。

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒言行録2章44節~47節)

聖徒の交わりである教会は、現代社会にあって何をあかししているのでしょうか。一致でしょうか、分裂でしょうか。愛でしょうか、憎しみでしょうか。いつくしみでしょうか、排除でしょうか。ゆるしでしょうか、裁きでしょうか。賛美でしょうか、ののしりでしょうか。

Shinjo2010a

山形県の北の外れに新庄という町があります。この郊外に今年で献堂10年を迎える小さな教会共同体が存在しています。所属している信徒の9割は、近隣の農家でお嫁さんとなったフィリピン出身の信徒の方々です。

10年前、献堂式の時に、リーダーのフィリピン出身の女性信徒が、教会誕生までの道程を話してくれました。20年以上前の来日当初、教会が近くにはなかったため、毎日曜日にご主人に頼んで遠くの町の教会まで送ってもらっていました。それが続いていたあるとき、親戚の方から、「あなたは教会がないと生きていけないのか」と問い詰められたと言います。自分の信仰について真剣に考え抜いた結論は、「もちろん教会がなければ生きてはいけない」でありました。

その日から、出会うすべての同郷の友人たちに声をかけ、日曜日に誰かの家に集まり、司祭を招いてミサを立ててもらい、共同体を育てていきました。

私が彼女たちと出会ったのは新潟の司教となった直後の2005年です。大きな農家の居間でミサを捧げた後に、彼女たちから、自分たちの教会がほしいと懇願されました。近隣に定住した信徒がどれほどいるのか数えてもらったら、フィリピン出身の信徒が90名を超えていました。一緒に歩んでいた日本人信徒は3名です。

Shinjo1701

新しい教会を作るなど、財力もないこの小さな教区では無理だと思いましたが、その5年後には、献堂式にまでこぎ着けました。彼女たちの熱心さに感銘した多くの人が、教区内外から支援を申し出て、廃園になった幼稚園の建物を手に入れて改築したのです。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

すべてをなげうってただ神のことだけを求め生きる人たちを、イエスは幸いだと呼ばれました。「教会がなければ生きていけない」と言う一途さが、周囲の人を巻き込んで、教会共同体を生み出し、教会の献堂まで実現してしまいました。

わたしたちは、信仰に生きていると言いながら、何に全身全霊をささげているでしょうか。
わたしたちは、共同体において一致していると言いながら、何をあかししているのでしょうか。
わたしたちは、聖体の秘跡に養われていながら、何を告げしらせているのでしょうか。

聖人たちに倣って生きること、すなわち聖性への招きは、すべての人に向けられた召命であります。もちろん自力でそれを達成できるものではなく、神からの恵みが不可欠ですが、同時に招きに応えようとする決意も必要です。聖人たちの生涯に目を向ければ、聖性への招きへの答えは、日々の小さな行動の積み重ねであることが分かります。その積み重ねを支えるのは、主に対する一途な思いであります。

わたしたちの信仰の先達である諸聖人、殉教者の模範に倣い、わたしたちも苦しみを耐え忍びながら、勇気を持ってイエスの福音をあかしできるよう、聖霊の導きを祈りましょう。

Asd20d

(追伸)

なお教会の伝統は、11月2日「死者の日」または11月1日から8日までの間に全免償を得、それを煉獄の魂に譲ることが出来ると定めてきました。今年はコロナ禍にありますので、教皇庁内赦院は特別の定めを行いました。詳しくはこのリンクのバチカンニュースをご覧ください。その核心部分は以下の通りです。(また免償についての簡単な解説は、例えばこのリンク先を参照ください)

 a.  11月1日から11月8日までの各日において、故人のために、たとえ精神の上だけでも、墓地を訪問し、祈る者に与えられる全免償を、11月中の他の日々に代替できる。これらの日々は、個々の信者が自由に選ぶことができ、それぞれの日が離れていても可能である。

 b. 「死者の日」を機会に、聖堂を敬虔に訪問し、「主の祈り」と「信仰宣言(クレド)」を唱えることで与えられる11月2日の全免償は、「死者の日」の前後の日曜日、あるいは「諸聖人の日」に代替できるものであるが、信者が個々に選べる11月中の別のある1日に代替することもできる。

 

| |

2020年10月24日 (土)

年間第30主日@東京カテドラル

Jyukeisha20a

10月最後の主日となりました。年間第30主日です。次の日曜は11月1日で、今年は諸聖人の祭日が次の日曜に祝われます。そのため、前晩である10月31日土曜日18時の配信ミサも、諸聖人の祭日となります。

なお、東京カテドラルからの大司教司式配信ミサは、次の土曜日、この10月31日の配信を持って一旦区切りを付けさせていただきますが、現在ではイグナチオ教会をはじめ多くの小教区で配信ミサが行われるようになりましたので、是非そちらをご利用ください。東京カテドラルからの大司教司式ミサの次の配信予定は、主の降誕深夜ミサの予定です。カテドラルからの配信予定については、随時、東京教区ホームページでお知らせいたします。

先週10月17日土曜日午後には、受刑者・出所者の社会復帰支援などを行うNPO法人マザーハウス(代表:五十嵐弘志さん)の主催で、受刑者と共に捧げるミサがイグナチオ教会で行われ、教誨師などで関わる司祭たちと一緒に、司式をさせていただきました(上の写真)。これも配信ミサで行われました。詳しくは、マザーハウスのホームページなどをご覧ください。当日のビデオもホームページからご覧いただけます。

Himonyaconf20a

また10月18日の午後には、碑文谷教会で26名の方の堅信式も行われました。当初は世田谷南宣教協力体(上野毛、田園調布、碑文谷)の合同堅信式の予定でしたが、現在の状況から、碑文谷の方だけの堅信式となりました。また宣教協力体の各教会から主任司祭と役員の方に集まっていただき、ミサ後に短い時間でしたが、現状についてのお話を聞かせていただくことも出来ました。

Himonyaconf20b

先般、典礼秘跡省から送付された指示に従い、堅信を授ける際には直接指で聖香油を塗るのではなく、一人ひとり脱脂綿で塗油をいたしました。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

Himonyaconf20c

以下、本日10月24日土曜日18時から行われた年間第30主日ミサの、説教原稿です。

年間第30主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月25日

教会にはいのちの福音を告げしらせる使命があります。神のことばがひとりの人として誕生した受肉の神秘こそが、すべてのいのちの尊厳を明確に示し、すべてのいのちに比類なき価値があることを明確にしています。

「いのちを守るための行動」などという呼びかけが繰り返される中で、今年わたしたちはいのちが危機に直面する事態を実際に体験し、いのちの価値、そしていのちの意味をあらためて考えさせられています。

災害や疾病など、人間の力の及ばないいのちの危機が存在する反面、世界には人間が生み出した様々な事由から、危機に直面させられている多くのいのちがあります。

教皇フランシスコは先日の一般謁見で、「社会内の不正義、不公平に与えられる機会、貧しい人を社会の周縁に追いやること、貧しい人への保護の欠如」を、「より大きなウィルス」とまで指摘されていました(8月19日一般謁見)

また2018年の一般謁見では、「戦争、人間を搾取する組織、被造物を投機の対象とすること、使い捨て文化、さらには人間存在を都合良く支配するあらゆる構造によって、いのちは攻撃されています。そうして考えられないほど大勢の人が、人間にふさわしいとは言えない状況で生きています。これはいのちへの侮蔑であり、ある意味での殺人です」とまで述べておられます(2018年10月10日)。

感染症への対策を強める中で、明らかに拡大している貧富の格差。社会の不安が増大する中で頻発する、異質な存在への排除の傾向。統制を強める国家による圧政の結果としての、民族や思想に対する迫害。排除の力が強まる中で、顧みられることなく孤立するいのち。

一年前の訪日で、教皇フランシスコは日本の現状を次のように話されていました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会ですが、今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりがだれかを支え、助ける場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。(東京ドームミサの説教)」

いまや、その始まりから終わりまで、すべての段階でいのちは危機に直面しています。

29pa01

マタイによる福音は、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えるイエスの言葉を書き記しています。

第一の最も大切な掟は、当然ですが、心と精神と思い、すなわち感情もいのちも知性も、人間の存在のすべてを尽くして、いのちの与え主である神を愛せよと教えます。

そして第二の掟として、「隣人を自分のように愛せよ」と教え、その二つを持ってすべての掟の土台となるのだとイエスは教えます。

教皇ヨハネパウロ二世は「いのちの福音」で、「『殺してはならない』というおきては、自分の隣人を愛するという積極的な命令の中に含まれ、いっそう完全な形で表現される(41)」と記し、隣人愛の教えは、そもそも「殺してはならない」という、神の十戒の第五の掟に基づいているのだと指摘されます。

しばしば繰り返してきましたが、今回の感染症に直面する中で、教会が選択した公の活動の停止という行動は、後ろ向きな逃げるための選択ではなく、いのちを守るための積極的な選択でした。それはカテキズムにも記されているとおり、まさしく「殺してはならない」という掟が、他者をいのちの危機にさらすことも禁じているからであり、それはすなわち、「隣人を自分のように愛せよ」という掟を守るためでもあります。

わたしたちはあらためてこの危機的な社会の状況の中で、いのちを守ることの大切さを強調したいと思います。

教皇ヨハネパウロ二世は「いのちの福音」の中で、いのちを守ることに対する厳格な教会の姿勢を明確にすると同時に、それは人を裁くためではないこともはっきりと言明されています。

例えば「いのちの福音」には、次のように記されています。
「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

すなわち、わたしたちはいのちの危機を生み出しているさまざまな社会の現実に目を向け、その社会の現実を、「いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導く」務めがあります。いのちを危機にさらしている事態そのものを指摘することも重要ですが、同時にそういった危機的状況を生み出している社会のあり方そのものを変えていこうとすることも大切です。

いのちの危機を生み出す社会の状況を、教皇ヨハネパウロ二世は、「構造的罪」とよび、それを打破するために世界的な連帯の力が必要であると指摘されています。

29pa02

出エジプト記は、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」と記していました。

イエスの言葉と行われた業は、弱い立場に置かれているいのち、すなわち危機に直面しているいのちに対して、わたしたちが積極的に関わらなければならないことを明確に示しています。わたしたちはこの世界にあって、時として、まるで自分たちがこの世の支配者であるかのように振る舞います。そのとき弱い立場にある人への配慮の心は消え失せてしまいます。

しかしわたしたち自身、この世界を自ら生み出したわけではなく、そもそもいのちすら自分で生み出したものではない。すべては神から与えられ生かされている立場であることを考えるとき、いのちの危機に直面する人へ思いを馳せるのは当然の務めであります。

パウロはテサロニケの教会に対して、その生活が周囲に対する模範となっているとの賛辞の言葉を贈ります。そして「主の言葉があなた方のところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなた方の信仰が至るところで伝えられて」いると記しています。

わたしたちの教会は現代社会にあってどうでしょうか。

教会が、いのちを守る場として、この不安が支配する時代に希望の光を輝かせる存在となるよう、またいのちの福音を自信を持って告げしらせる存在となるよう、聖霊の導きに身をゆだねながら、確実に歩みを進めたいと思います。

 

 

| |

2020年10月17日 (土)

年間第29主日:世界宣教の日@東京カテドラル

20e

年間第29主日です。10月の終わりから二つ目の日曜日は、世界宣教の日と定められています。説教の中で詳しく触れました。

福音を宣教することは教会の大切な使命です。カトリック教会のカテキズムには、こう記されています。

「洗礼が救いに必要なことは、主ご自身が断言しておられます。キリストは弟子たちに、すべての民に福音を告げ、洗礼を授けるようにお命じになりました。福音が伝えられてこの秘跡を願うことの出来る人々の救いのためには、洗礼が必要です」

同時にカテキズムは、「神は救いを洗礼の秘跡に結びつけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません」とも記され、望みの洗礼や、洗礼を受けずになくなった幼児の救いについて、神ご自身の御手の中にあるいつくしみによる救いの可能性にもふれ、詳しく解説されています。是非一度、カテキズムの1257番以降をご覧ください。

わたしたちは、すべての人が洗礼の恵みにあずかるように目指して、福音を広く伝えていく努力を続けていかなければなりません。ですから教会にとって福音宣教は、欠かすことのできない務めであります。

20a

さて昨日、10月16日、ベタニア修道女会の初誓願式と終生誓願式が行われました。例年であれば、修道会の本部がある徳田教会で行われますが、今年は新型コロナの感染症対策のため、広いスペースでと言うことで、東京カテドラルで行われました。

20b

初誓願を宣立されたシスターフランシスカ齋藤美紀さん、終生誓願を宣立されたシスターテレサ川鍋真澄さん、おめでとうございます。それぞれ派遣される現場で、福音をその言葉と行いであかしされますように、活躍を期待しています。

ベタニア修道女会は、東京教区立の修道会です。当時東京を含む日本の再宣教を福音宣教省から委託されていたパリ外国宣教会のフロジャック神父様が始めた社会福祉の事業がうみだした姉妹たちの会が発展し、1937年に教皇庁布教聖省(現在の福音宣教省)の許可のもと東京のシャンボン大司教によって認可されたものです。詳しくは、ベタニア修道女会のホームページをご覧ください。

教会は、例えば教区などの単位に分けられ、それぞれが司教などの教区長によって司牧されています。一見、さまざまな修道会や宣教会が、それぞれの事情で勝手に活動しているように見えますが、教会法の定めに従って教区長の認可がなければ、その地域で活動することはおろか修道院を作ることも出来ません。ですから、ある意味、すべての修道会や宣教会は、教区長の招きによって教区内に存在しています。多くの修道会や宣教会は、教区長が海外から招いたものですが、中にはベタニア修道女会のように国内で創立された修道会も少なくありません。いくつご存じでしょう。東京教区にも、複数のそういった、日本国内で誕生した修道会が働いておられます。

以下、本日10月17日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげた、年間第29主日公開配信ミサの説教原稿です。

年間第29主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月18日・世界宣教の日

教会は10月の終わりから二番目にあたるこの主日を、毎年、「世界宣教の日」と定めています。教会の最も大切な使命である福音宣教への理解を深め、その活動のために祈る日であり、また世界中の教会が、福音宣教にあって互いに助け合うための献金の日でもあります。

バチカンには福音宣教省という役所があり、日本のようにキリスト教国ではない地域の教会を管轄しています。その福音宣教省には教皇庁宣教事業と名付けられたセクションがあり、この世界宣教の日に集められた世界中の献金を集約し、宣教地における教会の活動を資金的に援助する事業を行っています。各国にはこの部門の担当者が司教団の推薦で聖座から任命されており、日本の教会では、立川教会の門間直輝神父様が、日本の代表として教皇庁宣教事業の活動をとりまとめておられます。昨年は日本の教会からの献金が、福音宣教省の指示に従い、インドの教会活動の援助などに使われたと聞いています。

さて、教会にとって福音宣教は最も大切な使命の一つであります。あらためて引用するまでもなく、例えば、マルコ福音書の終わりには「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、復活されたイエスによる弟子たちへの宣教命令が記されています。

第二バチカン公会議の教会憲章は、その冒頭で、「諸民族の光はキリストであり、そのため聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げ、教会の面に輝くキリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む(1)」と、教会に与えられた福音宣教の使命を再確認しています。

本日の第二朗読、テサロニケの教会への手紙でパウロは、「わたしたちの福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信によったからです」と記しています。同じパウロは、コリントの教会への手紙に、次のように記していました。

「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しくならないように、言葉の知恵を用いずに告げ知らせるためだからです(1コリント1章17節)。」

もちろんわたしたちは、何かを信じようとするとき、論理的に構築された事実を理解し、十分に納得した上で、その次の決断を下します。十分に納得するために、さまざまな知識を積み重ねていきます。もちろんそういった知識の積み重ねの重要さを否定することは出来ませんが、しかし、パウロは、そういった知識の積み重ねを、「言葉の知恵」と言い表します。

テサロニケの教会への手紙では、「ただ言葉だけによらず」と記し、コリントの教会への手紙では「言葉の知恵を用いずに」と書いています。福音は積み重ねられた知識によってだけではなく、ほかの方法でこそ告げられなくてはならないと指摘しています。

それは、わたしたちの伝えようとしている福音が、イエスそのものであり、イエスはわたしたち人間の知恵と理解を遙かに超える存在であるからです。すなわち人知の積み重ね、言葉の知恵を遙かに凌駕する存在だからであります。

そのことをイエスご自身は福音の中で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と表現します。

すなわちこの世の価値観によって構築された世界と、神の価値観によって構築される世界は、全く異なる存在であって、神の価値観に基づく言動は、この世の価値観ではその意義を計ることが出来ないからにほかなりません。その二つを無理に一緒にしようとするとき、神の価値観に基づく言動は、妥協のうちに失われてしまいます。

それでは言葉の知恵によらないイエスの存在そのものは、どこで知ることが出来るのか。

パウロは、コリントの教会への手紙でそれを、「キリストの十字架」であると言い切ります。同じことをパウロはテサロニケの教会への手紙では、「力と、聖霊と、強い確信」と言い表します。

キリストの十字架は、神ご自身が、自ら創造された人間のいのちを愛するがあまり、自らその罪科を背負い、究極の理不尽さの中で、自らをご自身への贖罪のいけにえとされた事実、すなわち神の愛の目に見える行いそのものであります。

ですからパウロは、テサロニケの教会の人々が、「信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」を神に感謝します。キリストの愛を、目に見える形で生き抜いている教会の姿への感謝です。

わたしたちはキリストの十字架というもっとも強烈な神の愛のあかしを目の当たりにして、神の愛の価値観に虜にされ、その神の愛の価値観に基づいて生き、語り、行動することを通じて、福音をあかししていくのであります。

教皇フランシスコは、本日の世界宣教の日にあたって、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)と言うタイトルでメッセージを発表されています。

教皇は特に、感染症の非常事態に直面しているわたしたちは、「福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです」と記しています。

その上で教皇は、そういった体験を通じてわたしたちは、「自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。・・・皆でともに舟を漕ぐよう求められていて、だれもが互いに慰め合わなければならないのだと」と、共通の理解を持ち始めていると指摘します。世界的な規模での連帯の必要性に、わたしたちは気がつかさせられています。

こうした状況のなかにあるからこそ、教会は福音宣教の必要に目覚め、さらに取り組まなくてはならないと教皇は指摘し、次のようにメッセージで述べています。

「宣教への呼びかけと、神と隣人への愛のために自分の殻から出るようにとの招きは、分かち合い、奉仕し、執り成す機会として示されます。神から各自に託された使命は、おびえて閉じこもる者から、自分を差し出すことによって自分を取り戻し、新たにされる者へとわたしたちを変えるのです」

教会共同体は、未知の感染症の状況の中でどのような道を歩むべきなのか迷っています。すべてのいのちを守るために、これまで慎重な道を選択してきました。こうした状況にあっても、いやこうした状況だからこそ、わたしたちにはそれぞれの生きる場での福音宣教者となることが求められています。不安が渦巻く困難な状況のなかにあっても、だれひとり忘れられてはいないのだ、神から心をかけられないいのちはありえないのだ、愛されていないいのちはないのだと、声を大にしてこの社会のただ中で叫びたい思いであります。

世界宣教の日に当たり、あらためて、「だれを使わすべきか」と問いかける神の声に気がつきましょう。そして自信を持って、「私がここにおります」と応えましょう。日々の生活の中で、自分が生きる姿勢、人と関わる姿勢、配慮の心、そして語り記す言葉をもって、愛といつくしみそのものであるイエスの福音をあかししてまいりましょう。

 

 

 

| |

より以前の記事一覧