カテゴリー「配信ミサ説教」の67件の記事

2022年1月24日 (月)

神のことばの主日、ケルンデー@東京カテドラル

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年間第三主日となった1月23日。この日はまず、教皇フランシスコによって定められた「神のことばの主日」です。加えて教会は、1月18日から,パウロの回心の1月25日まで,キリスト教一致祈祷週間としています。さらに1月の第四の日曜日は、東京大司教区にとって、「ケルン・デー」であります。盛りだくさんの日曜日でありました。

東京教区とケルン教区との姉妹関係については,東京教区のホームページに詳しく掲載されています。このリンクから,さらに奥へと探索ください。最初のページに到達すると,左側にいくつか項目が並んでいますから(「ケルン教区の紹介」など),そこをクリックすると,さらに詳しい情報が掲載されています。

そして東京教区とケルン教区の姉妹関係は、さらに白柳枢機卿時代に,ミャンマーの教会への支援へと発展しました。これまでも東京教区では11月にミャンマーデーを行って、ミャンマーの司祭養成の支援を行ってきましたが、2021年2月にクーデターが発生し,軍事政権下で厳しい毎日が続いていることと,キリスト者が少数派の同国で教会への暴力的攻撃も発生していることから、昨年来、しばしば、支援のための祈りをお願いしてきました。今回も,ケルン教区から,一緒にミャンマーのために祈りをささげようという呼びかけがありました。東京教区が,ことさらにミャンマーのための祈りや支援を強調するのは,ミャンマーの教会支援がケルン教区との関係の中で生み出された新たな兄弟姉妹関係であり、ケルンから受けた支援への感謝の気持ちの表現でもあるからです。

クーデター発生から間もなく一年になります。そこで来週、1月30日の日曜日の夕方、東京在住のミャンマー共同体の方々と、築地教会において、私も参加して、平和のための祈りをささげる予定でおります。

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教皇様は,「神のことばの主日」にあたり、サンピエトロ大聖堂で捧げたミサの中で、女性6人、男性2人をカテキスタとして任命し、さらに女性3人と男性5人を朗読奉仕者に任命されました。バチカンニュースから引用します。

「教皇は、2021年1月に、使徒的書簡「スピリトゥス・ドミニ」を通し、教会の朗読奉仕者と祭壇奉仕者に、男性だけでなく、女性も選任することができるよう、教会法を改定した。また、同年5月、自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」をもって、「信徒カテキスタ」の務めを公式に定め、信者がその特性を生かしながら福音宣教へ積極的に取り組むことを励ましている。」

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以下、1月23日日曜日午前10時の,関口教会のミサでの説教の原稿です。一部、前晩の「週刊大司教」メッセージと重複します。

年間第三主日C(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年1月23日

東京教区にとって本日は、「ケルン・デー」であります。東京教区にとって、ケルン教区との繋がりには歴史的な意味があり、また物質的な援助にとどまらず、霊的にも大きな励ましをいただいてきました。東京教区のホームページには、こう記されています。

「まだ第2次世界大戦の傷あとの癒えない1954年、当時ドイツのケルン大司教区の大司教であったヨゼフ・フリングス枢機卿は、ケルン大司教区の精神的な復興と立ち直りを願い、教区内の信徒に大きな犠牲をささげることを求めました。そして その犠牲は、東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助をするという形で実現されていきました」

そこにはフリングス枢機卿と当時の土井枢機卿との、個人的な出会いもあったと記されています。

もちろんドイツも敗戦国であり、当時は復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではありません。にもかかわらず海外の教会を援助する必要性を問われたフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直しにも大きく貢献したと伝えられています。

それ以来、東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設をはじめ、東京教区はケルン教区から多額の援助を受けて、さまざまな施設を整えることができました。東京教区の感謝の気持ちは、白柳枢機卿の時代、1979年の両教区友好25周年を契機として、ミャンマーの教会への支援となりました。それ以来、わたしたちは毎年の「ケルン・デー」に、いただいたいつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身をささげることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげてきました。

友好50周年当時のマイスナー枢機卿の書簡には、東京教区への支援を通じて、「私たちの目と心が、世界中の欠乏、飢え、病気に向けて開かれることとなりました。東京教区との、信仰と祈りの生きた共同体が存在しなかったならば、ケルン教区においてその5年後に、全ドイツの司教たちに働きかけて、世界中の飢えと病気に対する教会の救済組織「ミゼレオール」を創設しようとする歩みはなされなかったかも知れません」と記されています。いまやこの「ミゼレオール」は普遍教会において国際カリタスと並んで立つ、世界的な司牧的援助団体に成長しています。

わたしたちも、余裕があるからではなくて、苦しいからこそ、積極的に支援の手を差し伸べるものでありたいと思いますし、その積極的な行動は、必ずやわたしたちを霊的に成長させてくれると、わたしは信じています。

さて、先ほど朗読されたルカ福音は、公生活の初めに、聖霊に満たされたイエスが、ガリラヤ地方の会堂で教えた話を記します。ナザレの会堂で、イエスに渡されたイザヤ書に記された言葉こそ、イエスが告げる福音の根幹をなす、人となられた神の生きる姿勢を明示したものでした。イエスこそは、とらわれ人に解放を告げ、主の恵みの年を告げる存在であることが明らかにされます。

そのイザヤの言葉を受けて、イエスご自身が、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたと、福音は記します。まさしく、人となられた神の言葉は、力ある生きた言葉であります。

パウロはコリントの教会への手紙で、キリストの体と私たちとの関係を解き明かし、多様性における一致こそが、キリストにおける教会共同体のあるべき姿であることを明確にします。

ネヘミヤ書は、エルサレムの城壁が総督ネヘミヤによって修復された後,祭司エズラが民に向かって律法を読み上げた出来事を記します。この時、民にとって朗読された律法は、単なる神の定めた掟を羅列する文章ではなく、神からの直接の生きた呼びかけの言葉として、心に響き渡ったことが、記されています。

本日、年間第三主日を、教会は「神のことばの主日」と定めています。この主日は、教皇フランシスコによって、2020年に始められました。「神のことばの主日」を制定した使徒的書簡「アペルイット・イリス」で教皇様は、この「神のことばの主日」を、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」主日とされました。その上で教皇様は、この主日がキリスト教一致祈祷週間と重なることも念頭におきながら、次のように記しています。

「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なるということ以上の意味をもっています。「神のことばの主日」を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです」

その上で教皇様は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘し、第二バチカン公会議の啓示憲章が、「聖体の秘跡に与ることに匹敵する」と指摘する神の御言葉との交わりの重要性を説いています。啓示憲章にはこう記されています。

「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)。

いのちのパンとしての主イエスの現存である神のことばに親しむことは、主イエスの現存である聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと、第二バチカン公会議は指摘しています。

ミサの中で聖書が朗読されるとき、神の言葉はそこで生きており、そこに主がおられます。私たちを生かしてくださる主の言葉の朗読に、真摯に耳を傾けましょう。

そして、1月18日から25日までは、キリスト教一致祈祷週間であります。今年は、マタイ2章の「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」をテーマに掲げ、特に中東の諸教会のために、またその地域の人々のために祈ることが求められています。

中東と言えば聖地があるばかりではなく、長年にわたってさまざまな紛争が繰り返されてきた地であり、時に宗教対立を口実に争いが起こったり、領地紛争で罪のない子どもたちの血が流されたりすることが続いているところでもあります。

一致祈祷週間のために用意された資料には「中東の歴史は、昔も今も、紛争と対立にあふれ、血に染まり、不正と抑圧により暗雲に覆われています。・・・この地域では血なまぐさい戦争や革命が繰り返され、宗教的な過激主義が台頭しています」と記されています。

わたしたちはただ単に組織として一緒になればよいものでもなく、同じ祈りを一緒にすれば済むものでもない。それよりも互いのことをよく知り、理解を深め、適切な対話を行って、一致して神の福音を証ししていくことができる福音宣教の道を探っていくよう努めたいと思います。特に今年は、聖地を含めた中東地域の平和のためにともに祈りましょう。神の救いと神の支配の実現がもたらす本当の喜びを共にできるよう、多様性の中で一致して歩み続けたいと思います。

 

 

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2022年1月 1日 (土)

神の母聖マリア@東京カテドラル

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一年の初め、1月1日は、神の母聖マリアの祭日です。また教会はこの日を世界平和の日とも定めています。この一年を聖母の御保護に委ね、その取り次ぎに信頼しながら、聖母とともに主イエスに至る道を歩み続けましょう。

教皇様は年の瀬の12月28日、長崎教区の高見三明大司教様の引退願いを受理され、後任として補佐司教である中村倫明司教様を大司教に任命されました。中村大司教様、おめでとうございます。長崎教区の大司教としての着座式は、2月23日に行われると伺っています。伝統ある教区の責任者として重責を担われる中村大司教様のために、聖霊の助力と導きを祈りましょう。(長崎教区ホームページの、お二人の略歴のページのリンクです

手元に中村司教様の写真がないか探したのですが、唯一データがあったのは、その昔、新潟教会の四旬節黙想会においでいただいたときのものでしたが、それは「変装」してお話ししておられるので、ここには掲載しません。上のリンク先の長崎教区ホームページに、中村大司教様のお写真があります。高見大司教様のあとに掲載されています。そちらをご覧ください

司教職は叙階によって与えられるので、司祭が生涯司祭であるように、司教も生涯司教です。ただし、教区司教(いわゆる教区長)などの役職には75歳という定年があり、教区司教は75歳になると「必ず」教皇様に引退願いを出さなくてはなりません。高見大司教様の引退は、この75歳という定年の引退です。高見大司教様は、1946年3月生まれで、現在ちょうど75歳です。

教区司教の任命は教皇様の専権事項ですから、提出された引退願いをどのように扱うのかは教皇様次第です。即座に認められることも時にありますが、多くの場合は、後任が決まるまで続けるよう指示されるか、事情がある場合は当分の間とどまるように指示されることもあります。いずれにしろ役職からの引退であって、司教職からの引退ではありません。教皇様によって引退届の取り扱いが、当分の間継続するようにという決定でなく、他の二つの場合、即座に後任を選任する手続きが開始されます。なお枢機卿の場合、教区司教などの役職から引退したとしても、80歳になるまでは教皇選挙の投票権があり、またバチカンの諸省庁のメンバー(委員)としても残ることになります。

司教選任の手続きは、その地方教会がバチカンのどの省庁の管轄下にあるかで異なります。日本などの宣教地は福音宣教省、歴史的にキリスト教国は司教省、カトリックの東方典礼の教会は東方教会省です。フランスなどいくつかの国では、過去の歴史的経緯や条約での取り決めから、司教の任命にその国政府の同意が必要な場合があり、その場合は国務省も関わります。いずれにしろ、それぞれの国に派遣されている教皇大使が、候補者の選任にあっては重要な役割を果たすことはどの場合でも共通です。

以下、本日2022年1月1日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた神の母聖マリアのミサ説教の原稿です。なお説教の最後でも触れている、世界平和の日にあたって発表されている教皇様の年頭の平和メッセージ本文は、中央協議会のこちらのリンクに全文が掲載されています。

神の母聖マリア
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年1月1日

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皆様、新年明けましておめでとうございます。

2022年が、皆様にとっていつくしみ深い神の祝福に満たされた年でありますように、お祈りいたします。

主の御降誕から一週間、御言葉が人となられたその神秘を黙想し、神ご自身のいつくしみに満ちた選択に感謝を捧げる私たちは、暦において新しい一年の始まりのこの日を、誕生した御子の母である聖母に捧げ、神の母聖マリアを記念します。

ルカ福音は、不思議な出来事に遭遇し、その意味を理解できずに翻弄される羊飼いや、その話を聞いた人々の困惑を伝えています。暗闇の中に輝く光を目の当たりにし、天使の声に導かれ聖家族のもとに到達したのですから、その驚きと困惑は想像に難くありません。しかし福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記します。神のお告げを受けた聖母マリアは、その人生において常に、神の導きを黙想し識別に努められた、観想するおとめであります。常に心を落ち着け、周囲に踊らされることなく、神の道を見極めようと祈り黙想する姿を、喧噪のうちにあふれる情報に踊らされる私たち現代社会に生きる者に、倣うべき模範として示されています。

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2020年の初頭からすでに二年間、わたしたちは感染症の脅威にさらされ、命の危機を肌で感じてきました。その危機は、今現在でもまだ過ぎ去ってはいません。その脅威は世界のすべての人に及んでいるとは言え、命の危機の程度には差があり、またその対策にも格差が生じ、経済的にまた政治的に不安定な国では十分な対策を講じることができていないとも報道されています。ある程度の十分な対策に費用を割くことのできる先進国でも、社会全体が被っている影響は大きく、経済格差が広がり、感染症のためだけではなくそれに伴う社会の構造的課題の増大によって、命が危機に直面しています。

新しい年の初めにあたり、ともに祈りをささげたいと思います。現在の世界的な難局を、ともに連帯のうちに支え合いながら乗り越えていくことができるように、聖霊の導きを祈りましょう。教皇様が幾たびも呼びかけられてきた世界的な連帯は、さまざまな理由から実現していません。特に、わたしたちの政治のリーダーたちを、また経済界のリーダーたちを、聖霊が賢明と叡智と剛毅の賜物をもって導いてくださるように祈りたいと思います。またいのちを守るために日夜努力を続けている医療関係者の上に、護りがあるように祈り続けたいと思います。

わたしたちは、それぞれの生きている場で、それぞれができることに忠実でありながら、互いに助け合い支え合う連帯の絆を深める努力に努めたいと思います。神から与えられた賜物である命が、その始めから終わりまで例外なく、守られ育まれ、尊厳が保たれる世界の実現に努めたいと思います。世界の各地で、武力による紛争が、そして圧政による人権侵害が、命を危機にさらしています。命を守るために、危険を冒して旅立ち、国境を越えてきた難民の人たちが、安住の地を得ることなく、命の危機に直面しています。

この混乱のさなかで、聖母の生きる姿勢に倣い、さまざまに飛び交う言葉に踊らされることなく、神が望まれる世界の実現の道を見極めるために、祈りと黙想のうちに賢明な識別をすることができるように、聖霊の導きを祈り、またその導きに従う勇気を祈り願いたいと思います。

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教皇ヨハネパウロ二世は、神からの賜物である命の神秘とその尊さを説く回勅「いのちの福音」の締めくくりにこう記しています。
「キリスト誕生の秘義のうちに神と人との出会いが起こり、神の子の地上での人生の旅、十字架上で自らのいのちをささげることを頂点とする旅が始まります」

その上で教皇は、聖母の役割についてこう記しています。
「すべての人の名のもとに、すべての人のために、『いのちであるかた』を受け入れたのは、おとめにして母であるマリアでした。・・・マリアは、『自身がそのかたどりである教会と同じように、再生の恵みを受けたすべての人の母です。事実、マリアは、すべての人を生かしているいのちそのものである方の母です」

神の母である聖母マリアは、信仰に生きるわたしたちすべての母でもあります。聖母の生きる姿勢に倣い、わたしたちも、神の導きを冷静に識別し、聖霊の導きに勇気を持って身を委ね、神が望まれる正しい道、すなわち人間のいのちの尊厳を守る道を歩んでいきたいと思います。

その意味で、この二年間、教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっている皆様に、心から感謝申し上げます。自分の生命を守るためだけでなく、互いの生命を危険にさらさない行動は、隣人愛の選択であるとともに、神から与えられた賜物である生命を生きている私たちの努めでもあります。もちろん社会のなかにあって霊的な支柱となるべき教会ですから、最も大切なミサの公開中止などは極力避けたいと思いますので、今後も状況を見極めながら、適宜判断を続けます。感染対策の指針がしばしば変更となって混乱を招く場合もあり、大変申し訳なく思っています。新しい年になっても、今しばらくは慎重な対応が必要だと思われます。支え合いながら、互いのいのちに思いを馳せ、歩んで参りましょう。

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ところで一年の初めの日は、教会にとって、世界平和の日でもあります。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。

今年の世界平和の日にあたり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。今年のメッセージのテーマは、「世代間対話、教育、就労――恒久的平和を築く道具として」とされています。

教皇様は今年の平和メッセージで、安定した平和を築くための道として、歴史の記憶を守る高齢者と未来を切り開く若者の対話の必要性を説き、さらには世界各国における教育への投資の重要性、さらには労働者の尊厳の推進の大切さを説いています。

「世代間の対話」は、恒久的な平和を実現するために不可欠であると、教皇様は強調されています。また、「教育」は自由と責任と成長の条件であり、さらには総合的な人類の発展に不可欠な人間の尊厳の完全な実現のために、「労働」を尊厳あるものにすることを避けて通ることはできないと教皇様は説いておられます。

真の平和の実現のために、社会の現実における個々の問題に取り組むことはもちろん不可欠ですが、同時に総合的な視点を持つことの必要性を説かれる教皇様は、誰ひとり排除されない世界の実現を目指して、わたしたちに「歴史から学び、傷をいやすために過去に触れ、情熱を育て、夢を芽生えさせ、預言を生み、希望を花開かせるために未来に触れる」ようにと呼びかけておられます。

あらためて、神の秩序が確立された世界の実現を目指し、すべてのいのちが守られる世界を生み出すことができるように、教皇様の思いに心をあわせ、平和への思いを新たにいたしましょう。

 

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2021年12月25日 (土)

主の降誕、日中のミサ

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主の降誕のお喜びを申し上げます。

クリスマスの典礼は、前晩のミサに始まって、夜半(本来は深夜)、早朝、日中と、異なる典礼が用意されています。夜半のミサが、通常は一般の方も含めて参列者が一番多いため、すでに24日の夕方から、何回も繰り返して夜半ミサが行われる教会もあるため、前晩のミサは捧げられないこともありますし、早朝のミサは参加者も少ないこともあり、夜半のミサと日中のミサがもっとも知られているミサです。

今年は昨年に続いて、感染症対策のため、残念ながら一般の方の参加をお断りしている教会がほとんどかと思います。そのため24日のミサの回数も少なくなってはいますが、それでも東京カテドラル聖マリア大聖堂にある関口教会は、24日は夕方5時、7時、9時と、三回のミサが捧げられ、大勢の方が祈りをともにしました。

来年のクリスマスは、入場制限のないミサとなり、どなたにでも安心して参加していただけるお祝いと祈りの機会となることを、心から祈っています。

以下、本日25日午前10時から捧げられた、東京カテドラル聖マリア大聖堂での降誕祭・日中のミサの説教原稿です。

主の降誕 日中ミサ(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年12月25日午前10時

主の降誕、おめでとうございます。

「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝えるものの足は」と記すイザヤ預言者は、その「良い知らせ」が、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ」るものであると明示しています。

インターネットが普及した現代社会で、わたしたちはあふれかえる言葉に取り囲まれて生きています。特にこの二年間、感染症対策のために直接出会う機会が減少し、教会などでもミサの配信に始まってさまざまな情報がインターネットを通じて発信されるようになり、これまでは実際に出かけていかなくてはならなかった会議などでもオンラインが普通になり、コミュニケーションには多種多様な手段が提供されています。

わたしたちは、あふれかえる言葉に取り囲まれて生きている時代だからこそ、その言葉の持つ力を振り返ってみなくてはなりません。なぜならば、誕生した幼子が、人となられた神の言であるからにほかなりません。

ヨハネ福音は、他の福音と異なり、その冒頭でイエス誕生物語を記していません。ヨハネ福音には、馬小屋も、羊飼いも、闇夜に光り輝く天使も登場しません。ただ、「初めに言があった」と始まる福音は、受肉し人となられた神の言にこそ、命があり、その命こそが暗闇に輝く光であることが示されています。暗闇に住むすべての人に命を与え、その命を生きる前向きな力を与える希望の光。それこそが、神の言の持つ力であります。私たちの神は、感情的な存在ではなく、はっきりと語られ、私たちの間に現存される言葉の神です。

毎日浪費されるように、さまざまな手段を通じて世界中にあふれかえるわたしたちの言葉には、心の叫びの言葉もあれば、意味のない薄っぺらな言葉もあります。真実を語る言葉もあれば、でたらめな言葉もあります。いのちを生かす言葉もあれば、いのちを奪う言葉もあります。希望を生み出す言葉もあれば、闇に引きずり込む悪意の言葉もあります。言葉は、ひとたび発信されてしまうと、他者に対してなんらかの影響を及ぼす力を、大なり小なり秘めています。

わたしたちが発する言葉は、わたしたち自身の存在そのものを土台として生み出されてきました。わたしたちが発する言葉は、わたしたちの存在そのものの反映です。わたしたちの発する言葉は、わたしたちの心を写す鏡です。

第二バチカン公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘します。わたしたちの信仰生活にとって、聖書は欠くことのできない柱であり、典礼において朗読される御言葉を通じて、主はわたしたちとともにおられます。

典礼憲章は、キリストは救いの業を成し遂げるために、「常にご自分の教会とともにおられ、特に典礼行為のうちにおられる」と記し、続けて、「キリストはミサのいけにえのうちに現存しておられる」と指摘します。(7)

同時に典礼憲章は、「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる」とも記し、「聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語られるからである」と指摘します。ミサにおいて聖書が実際に声にして朗読される意味は、ただ単に本を朗読しているのではなくて、聖書に記されている神の言葉が朗読されることによって、そこに現存されるキリストの生きた言葉として、わたしたちの心に届くところにあります。ミサのいけにえにおいて、御聖体の秘跡を大切にするキリスト者は、同時に神の言葉の朗読をないがしろにすることは出来ません。

教皇フランシスコは、昨年から一月の年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められています。この日を定めることを記した使徒的書簡「アペルイット・イリス」には、次のように記されています。

「聖霊によって書かれた聖書は、その同じ霊の光に照らされて読まれるとき、いつも新鮮です。旧約聖書は新約聖書の一部として理解されるなら、決して古いものではありません。なぜなら、すべては聖書全体に霊感を与える一つの霊によって変容されるからです。全体としての聖書は、そのことばによって養われるすべての人の未来ではなく、現在に関して、預言者的な役割を果たしています。イエス自身が、宣教の初めにあたってはっきりと述べています。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4・21)」

さきほど朗読されたヘブライ人への手紙には、「御子は、・・・万物をご自分の力ある言葉によって支えておられます」と記されています。まさしく主イエスの言葉には力がありました。それはイエスこそが、「真理」だからであります。その言葉は常に真理です。ですから福音の他の箇所で、イエスの言葉を耳にした人々が、「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。

わたしたちも力ある言葉を語りたいと思います。自分勝手な思いや欲望を満たす言葉ではなく、いのちを奪う言葉ではなく、闇をもたらす言葉ではなく、裁き排除する言葉ではなく、それよりも神の真理に基づいた言葉、いのちを生かす言葉、希望を生み出す言葉、慈しみに満ちあふれた言葉、いたわり支え合う言葉、すなわち神の力に満ちた言葉を語りたいと思います。わたしたちは、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ」るものでありたいと思います。

この二年間、感染症の状況のため、世界中の人たちが暗闇の中を彷徨いながらいのちを守ろうと努めてきました。わたしたちも、状況は好転しているとは言え、まだまだ先が完全に読めているわけではなく、しばらくは慎重に対応する必要があると思います。暗闇を手探りで進む状況は、しばらくは変わりがないものと思います。そういうときだからこそ、教会は暗闇の中に輝く光でありたいと思います。命の希望をもたらすものでありたいと思います。命の言葉を語る者でありたいと思います。

わたしが「教会」と言うとき、それは誰かどこかの人のことではありません。どこかにある立派な組織のことではありません。教会は皆さんお一人お一人のことです。幼子は、誰かどこかの他人のために人となり誕生したのではなく、今ここにいる皆さんお一人お一人のもとに受肉されたのです。私たちは力強く響いている希望の光である神の言葉を、今日耳にしました。その光を輝かせ続けるのは、私たち一人ひとりに与えられた、使命であります。

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2021年12月24日 (金)

主の降誕、おめでとうございます。

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主の降誕の夜を迎えました。おめでとうございます。

今年もまた困難な状況の中でのクリスマスとなりました。皆様は、どのような状況で、クリスマスを迎えておられるでしょうか。

暗闇の中に誕生した幼子は、いのちの創造主である神のみ言葉の受肉です。暗闇に輝く、命の希望の光です。クリスマスのミサが、まず最初に夜に行われるのには、闇に輝く光の与える希望を、心で感じるという大切な意味があるのだと思います。

皆様、お一人お一人の心にも、闇に輝く光がともされ、希望が生み出されますように。

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以下、本日午後9時の東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられたミサの説教原稿です。

主の降誕 夜半ミサ(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年12月24日午後9時

順風満帆な人生というものは、どこかにありそうで実際にはないと言うことを、この二年間わたしたちは肌で感じさせられています。どんなに自分の人生がうまくいっていると思っていても、自然の力の前で、わたしたちはなすすべもなく立ち尽くしてしまうことがありうるのだということを、世界的な規模で、この時代を生きているほぼすべての人が自覚するという、凄まじい状況の中に、わたしたちは置かれています。

暗闇に取り残されたとき、希望の光はどこから来るのかと必死になって探し回るように、この二年間、一体何を信じたら良いのかも定かでなく、意見が対立し、互いに自分の正当性を主張して、時にはののしり合いにまで発展しながら、光を求めて、人類は彷徨っています。

助け合わなくては生きていけない。支え合わなければ生きてはいけない。そんなことは当たり前と分かってはいるけれど、しかし自分のいのちが危機に直面するとき、そこまで考える余裕はない。ただでさえ孤立と孤独が深まっていると指摘されてきた現代社会にあって、この二年の感染症による危機は、わたしたちを分断と利己主義と孤立へと強烈にいざなってきました。

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教皇様は、今年の貧しい人のための世界祈願日のメッセージで、パンデミックによって格差が激しくなり貧困が増し加わって命を危機に直面させていることを指摘し、こう記しています。

「貧困層は激増しており、残念ながらそれは今後数か月は続くでしょう。一部の国はパンデミックのきわめて深刻な影響を受け、もっとも弱い立場の人は生活必需品も得られなくなっています。炊き出しに並ぶ長蛇の列は、こうした事態の悪化を如実に表しています」

その上で教皇様は、「個人主義的な生活様式は貧困を生み出すことに加担し、しかも貧困の状況の責任をすべて貧しい人に負わせてばかりです。しかし、貧困は運命の産物ではありません。エゴイズムの結果です」と指摘されています。わたしたちを覆っている暗闇は、その深さを増し加えています。暗闇は命を危機に直面させています。

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主イエスの降誕を祝うこの夜、イザヤ書は「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」と告げています。

ルカによる福音は、闇夜のただ中に、羊飼いが恐れを抱くほどの強烈な光が輝き渡り、救い主の誕生を告げたと記しています。

イザヤ書は、暗闇に輝く光として誕生する幼子が、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であり、その支配は、「正義と恵みの業によって」永遠に続くであろうと記します。

ルカ福音は、輝く光の中で天使たちが、神を賛美して「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったと記します。

パウロは、「恵み」は、わたしたちに「この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」、希望を持って栄光の現れを待つようにと教えている、と記します。

その上でパウロは、キリストが受肉し、わたしたちとともに時の流れの中で命を生き、「ご自身を捧げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖いだし、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだった」と記しています。

わたしたちが光を必要とする暗闇に生きていると言うことは、それは神が定めた秩序に逆らっている状況であり、パウロによれば「不法」の状態であり、「この世で、思慮深く、正しく、信心深く」生きていくための恵みに欠けた状態であり、さらには、命を生きる希望を失った状態であり、平和の欠如であり、それが故に、神の御心に適う状況ではありえない。

だからこそ、神は、自ら定めた秩序を回復し、賜物として与えられた命が生きる希望を取り戻すようにと、自ら人となり、わたしたちとともに歩まれる道を選ばれました。

わたしたちは、キリストの言葉に、命を生きる光を見出します。わたしたちは、キリストの行いに、命を生きる光を見出します。光を見出すからこそ、わたしたちはその言葉と行いを自らのものとし、今度は暗闇の中でわたしたち自身が光を輝かせようとします。わたしたちは、命の希望を告げしらせ、神の秩序を打ち立て、正義と恵みを具体的に生きる者となりたいと思います。

教会は、この困難な社会の状況の中で、広がる格差による分断が孤立と孤独を深める社会の中で、教皇フランシスコが繰り返されるように、いつくしみを具体的にもたらす野戦病院として、出向いていく教会であり続けたいと思います。

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教皇様は回勅「フラテリ・トゥッティ、兄弟の皆さん」において、兄弟愛と社会的友愛に生きるようにと呼びかけ、「一人で救われるのではなく、ともに救われる道しかない(32)」ことを強調されます。その上で教皇様は、「孤立することで、成長したり充実感を得たりする人はいません。愛はそのダイナミズムによって、ますます寛容さ、他者を受け入れるいっそうの力を求めます。・・・わたしたちは、歴史のダイナミズムと、民族・社会・文化の多様性のうちに、互いに受け入れ合い配慮し合う兄弟姉妹から成る共同体を形成する使命が宿っている(96)」と指摘されています。

教会は今、シノドスの道をともに歩んでいます。教会は、救いの完成を目指してともに歩んでいく神の民です。暗闇の中で一人でもがき、道を見いだそうそうとする共同体ではなく、互いに支え合い、受け入れ合い、配慮し合う共同体です。教会は、命の与え主である神が、すべての人を救いへと招いておられる御父であると信じているからこそ、誰ひとり排除されず、忘れ去られることなく、ともに歩む民であることを自覚し実現しようとしています。

シノドスの道をともに歩むときに、互いに「識別する」、「聞く」、「参加する」という三つの行動が、大切であると、準備文書は指摘しています。

わたしたちには、今までの歩み、今の歩み、これからの歩みを静かに黙想し、聖霊はわたしたちをどのように導き、どのように力づけ、どちらの方へと向かわせているのかに気づくことが求められます。

わたしたちは、教会に集う人々が教会をどのように受けとめているのかについて、お互いに耳を傾けあわなければなければなりません。聞くためには、寛容さと忍耐が必要です。

そして、わたしたちキリスト信者の基本的な姿勢の一つは、参加です。ミサに、祈りに、ボランティアグループに、ひいては地域の活動に、社会に積極的に参加することが求められます。コロナ禍で参加の形は変わりつつありますし、参加の仕方についても創造性が求められています。

教会共同体が、互いに支え合い、歩みをともにする交わりの共同体であるならば、教会は救いの完成を先取りする存在として、暗闇の中で輝く光となることができるでしょう。

人となられた神の積極的な行動力に倣い、またわたしたちの贖いのために自らを捧げられた神の愛に倣い、わたしたちも常に前進を続ける連帯の共同体、神の民であるように努めましょう。

 

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2021年12月 7日 (火)

待降節第二主日ミサ:東京カテドラル聖マリア大聖堂

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待降節第二主日は、前記事にもあるように、宣教地召命促進の日ですので、カテドラルでミサを捧げました。関口教会10時のミサです。

関口教会の主日10時ミサは、常に侍者の少年少女が大勢おられ、しかもよく練習を積んでいるので、心配することなくミサを捧げることができます。司教がミサをすると、結構侍者はいろいろとしなくてはならないので大変だと思います。ミトラを着けたり外したり、バクルス(杖)を持ったり持たなかったり、そのほか諸々。荘厳なミサの時には香も使うので、またまた役割が増えます。

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その昔まだ叙階したばかりだった頃、わたしが担当していた教会では、3年に一度、司教様が訪問されて、堅信式を行っていました。アフリカのガーナでの話です。

わたしが一人で担当する巡回教会が23ほどあったので、地区を四つに分け、司教様には四回の堅信式ミサをお願いしていました。もちろん一日に四回ではなくて、司教様は一週間小教区に泊まっていただいて、毎日村を巡回し、一度のミサで堅信を授けていただくのは、200人ほどです。そう、3年に一度の堅信式は、毎回ほぼ800人ほどが対象でした。もちろんすべて野外ミサです。聖堂には入りきれません。正面のステージのところに幕を張って、その前に祭壇をしつらえてあるのですが、しばしばその幕の裏手で、教会の長老たちが休憩をしていました。時に風でその幕が落ち、司教様が堅信を授けている裏手で、くつろぐ長老たちが露わになって大慌てなんて事もよくありました。

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その頃のわたしは、まだ叙階したばかりで司教様のミサを一緒にしたこともなかったので、言葉一つ発せずミトラをかぶったままこちらへ首をかしげる司教様の、無言の圧で、儀式を体で覚えたものです。

そんなわけで、1990年代には本当に司祭が少なかったガーナでしたが、今は地元からの召命も増加し、わたしが働いていたコフォリデュア教区は、首都のアクラ教区から独立した1992年頃、20名ほどしかいなかった教区司祭が、現在は70名を超えています。

まだまだ司祭は必要です。司祭の召命のために、また現在神学院で養成を受けている神学生のためににお祈りください。東京教区には現在、4名の神学生が、東京カトリック神学院で学んでいます。彼らの今年のザビエル祭のビデオをご覧ください。一人ひとりのインタビューもあります。このリンクです。1時間番組です。

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以下、待降節第二主日の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサ説教の原稿です。

待降節第二主日C(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年12月5日

混沌とした暗闇を手探りで歩んでいるこの時代にこそ、「荒れ野で叫ぶ声」が必要です。

感染症との闘いに明け暮れたと言っても過言ではないこの2年間、私たちははっきりとした道を見出すことができず、心に不安を抱えながら、旅路を歩んでいます。この旅路は疑心暗鬼の暗闇の旅路であり、時に自分のいのちを守ることに専念する心は利己的になり、社会全体から寛容さを奪ってしまいました。教会共同体もその影響を大きく受け、教会内でもさまざまな意見が錯綜する中で、本当に進むべき道は一体どこにあるのか模索を続けざるを得ない状況です。そのため教会共同体からも、心の余裕が奪い取られていると感じます。

2年前、2019年の11月、教皇様はこの地におられました。東京ドームのミサ説教で、教皇様はこう呼びかけられました。

「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。」

わたしたちは、創造主からの賜物であるいのちを守るために、また隣人愛の選択として、充分な感染対策に努めてきました。同時に、その対策によって教会のさまざまな活動は制限され、特に神の愛を具体化する奉仕の活動には、実施に困難が伴っています。この困難な状況の中で、どのようにして教皇様の呼びかけに応えるのでしょう。とりわけ、病気に起因するいのちの危機だけではなく、それによってもたらされた経済状況や雇用状況の悪化と、孤独や孤立によっていのちの危機が増大している中で、どうしたら神のいつくしみを届けることができるのか。いまわたしたち教会共同体のあり方が問われていると感じます。

洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネの先駆者としての役割を明確にします。福音は、洗礼者ヨハネこそが、イザヤ書に記された「荒れ野で叫ぶもの」であると記します。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶその声は、混沌とした世界に対して、救い主である主の到来にむけて充分な準備をせよという呼びかけの声であり、その準備を整えることによって始めて、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」のだと記します。

救いの完成を求めて主の再臨を待ち望むわたしたちは、現代社会にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声となるよう求められています。

混沌とした事象が複雑に絡み合う現代社会の現実にあって、主を迎える準備を整えることは簡単ではありません。何か一つのことを推し進めれば、それで全てが解決するような単純な世界ではありません。神の秩序が支配する社会を実現するためには、混沌とした社会のさまざまな側面において、地道に丁寧に、神が望まれる道へと立ち戻らせる努力を積み重ねなくてはなりません。

ですから、「主の道を整えよ」と叫ぼうとするわたしたちは、「本当に重要なことを見分けられる」目を持たなくてはなりません。パウロはフィリピの教会への手紙で、そのためにはわたしたちが、「知る力と見抜く力とを身につけて」、愛を豊かに深めることが必要だと指摘します。

わたしたちが、現代社会にあって、もし洗礼者ヨハネのような先駆者としての役割を果たすのであれば、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ように、わたしたちも神の言葉によって心が満たされるように、聖霊の導きを祈り続けなくてはなりません。教会共同体は、そしてわたしたち神の民は、現代社会にあって「荒れ野で叫ぶものの声」であり続けたいと思います。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ役割は、教会共同体の務めであり、すなわちはキリストに従うすべての人に求められているとは言え、同時にその努めのために生涯を捧げる人の存在も不可欠です。

教会は12月の最初の主日を、宣教地召命促進の日と定めています。

この日わたしたちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。

もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派である事実から、宣教地であることは間違いありません。日本の教会は聖座の福音宣教省という役所の管轄下にあります。アジアでは、フィリピン以外の教会は全て、福音宣教省の管轄下にあり、すなわちアジア全体はほぼ全てが宣教地であります。

その意味でも、日本における福音宣教を推進するために、さらに多くの働き手の存在は不可欠です。まずもって日本の教会の司祭修道者召命のために、どうかお祈りください。

同時に、司祭一人あたりの信徒数から言えば、アジアやアフリカの教会と比較すると、日本は実は司祭数が多い教会でもあります。もう30年も前のことになりますが、わたしはアフリカのガーナの小教区で働いていました。その頃、まだ叙階したばかりのわたしひとりで、20を超える教会共同体を担当し、40名を超えるボランティアのカテキスタとともに、司牧にあたっていました。

アジアやアフリカの教会は、急速に成長しています。そこには司祭修道者の存在が不可欠です。幸いなことに急速に成長する教会には、豊かに召命の恵みが与えられていると聞いています。司祭養成が充分にそして適切に行われるように、支援と祈りを続けましょう。もちろん東京教区は長年にわたってミャンマーの司祭養成に援助を続けてきました。これも大切なことですから、責任を持って続けていきたいと思います。

教会は、司祭を始め福音宣教に生涯を捧げる人を必要としています。荒れ野にあって、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と声を上げる存在を必要としています。洗礼者ヨハネのように、「本当に重要なことを見分けられる」目を持ち、勇気を持って困難に立ち向かう存在を必要としています。

わたしたちは今、シノドスの歩みをともにしています。シノドスへの歩みに関する教皇様の発言には、わたしたちが大切にしなければならない態度、あり方が繰り返し登場することに気がつきます。教区の担当者である小西師のまとめでは、「識別する」、「聴く」、「参加する」という三つの行動が重要であると指摘されています。

私たちは司祭が一人でも与えられるようにと祈り続けると同時に、私たちの共同体のあり方をも見直すことが必要です。そして互いの声に耳を傾け、積極的に自分ができる範囲で、具体的な愛の活動に参加していきましょう。

荒れ野に叫ぶ声として教会共同体が充分に育成され、ともに力強く前進するときに、そこには必ず召命の恵みが豊かに与えられます。共同体を豊かに育てることと、召命の促進は表裏一体です。わたしたち一人ひとりが、勇気を持って荒れ野に叫ぶ声となることができるように、聖霊の導きを願いましょう。

 

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2021年11月21日 (日)

王であるキリストの主日:東京カテドラル

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王であるキリストの主日である本日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた関口教会10時のミサには、ミャンマー出身の信徒の方々と、同じくミャンマー出身のビンセント神父様(ミラノ会・府中教会)がおいでくださいました。東京教区にとっては、11月の第三主日はミャンマーデーです。ミャンマーの平和と安定のために、ともに祈りを捧げました。

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また本日は世界青年の日でもあります。教皇様のメッセージは、こちらの中央協議会のホームページで全文をご覧ください

以下、本日のミサの説教原稿です。

王であるキリストB(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年11月21日

教会は典礼の暦の最後の主日を迎え、来週からは降誕祭・クリスマスに備えての待降節が始まります。年間最後の主日は、王であるキリストの主日となっていますが、この日はいろいろなことを黙想したり、祈ったりする日でもあります。

東京教区では、1979年以来、ミャンマーの教会を支援していますが、毎年11月の第3日曜日が「ミャンマーデー」と定められ、ミャンマーの教会支援のための献金が続けられてきました。今年は本日がミャンマーデーであります。

教区のホームページには、次のように記されています。

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「東京大司教区は1964年よりドイツのケルン大司教区と姉妹関係を結び、お互いに助け合い、祈り合う関係を保っています。1979年には両大司教区の友好25周年のお祝いが行なわれました。当時の白柳誠一東京大司教(後に枢機卿)は、ケルン教区の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の全信者に呼びかけました。来日していたヘフナー枢機卿(当時のケルン教区長)と白柳大司教は、ケルン教区の精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマー(旧ビルマ)の教会を支援することに合意しました。・・・ミャンマーが支援先に選ばれたのは当時ミャンマーが最も貧しい国の一つであり、援助を必要としていたからです」

これまでミャンマーデーの献金は、担当者を通じて現地に送金され、主にミャンマー各地の神学生養成のために使われてきました。昨年2月、コロナ禍が始まる直前には、わたしを始め数名の教区司祭団がミャンマーを訪問し、東京教区が支援して順次建設が進められている神学校を訪れて、新しい建物の起工式なども行いました。

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その後、今年の2月にクーデターが起きたことで、状況は一変しています。

今年の8月の平和旬間の際には現地の平和と安定を願い、特別に祈りを捧げ、さらに支援のための緊急の献金を行いましたが、2月のクーデター後に政権を握った国軍によって、民主選挙の結果は無視され、軍政に反対する民衆のデモは武力で弾圧されていると伝わってきます。多数の死傷者が出ているとの報道もあります。

また仏教国であるミャンマーには、少数派ではありますがカトリック教会が全国各地に存在し、軍による力の支配に反対し、民主的な国の運営を求める民衆を支援しています。警察に立ちはだかるシスターの写真なども報道されたのは記憶されている方もおられると思います。首都ヤンゴンの大司教でありミャンマー司教協議会会長のボー枢機卿は、しばしばメッセージを発表して平和を求めておられますが、メッセージの一つで、「このような暗い時代にあっても、わたしたちに呼びかける主の声が聞こえます。教会が証人となり、正義と平和と和解の道具となり、主の手と足となって貧しい人々や恐れている人々を助け、愛をもって憎しみに対抗するようにと」と述べておられます。

多民族国家であり、民族間の相互理解と連帯が不可欠な中、一つにまとめるのは大変難しい国であるのは事実ですが、しかし暴力をもって人々の自由意思を弾圧し、支配することは、許されることではありません。特に、たまものである人間のいのちを危機にさらす行為を、国家運営の手段とすることを認めることはできません。ミャンマー国軍による支配が、人々の共通善に資するものとなり、いのちを守る道を選択することに目覚め、人々の幸福を実現するよりふさわしい政府の在り方へと舵を切ることを願っています。

本日のヨハネ福音は、この世の権威が支配する国家の構造と、神の国、すなわち神の支配が、全く異なる実体であることを語るイエスの姿を記しています。わたしたちの王であり、すべてを支配する世界の王であるイエスは、今まさにご自分のいのちを奪おうとするこの世の権力を前にして、毅然とした態度でぶれることなく「真理」を語られます。神の支配は神の秩序の確立であり、真理による支配であり、人間の欲望や知識に基づいたこの世の権力が支配する国家とは異なることを、イエスはピラトに向かって宣言されます。

ヨハネの黙示は、すべての人への愛のために、自らの血をもって、すなわち十字架における死をもって、わたしたちすべてを罪から解放された方が、その恵みと平和をもってすべてを支配していると述べ、「罪と苦しみと死に対する勝利」こそが神の支配の実現によって到来するのだと指摘します(カテキズム要約314)。

教会のカテキズムは、「キリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、『大いなる力と栄光』とを持って完成されるには至っていません。・・・ですから、キリスト者は、特に感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、『主よ、来てください』と祈るのです」と記し、旅する教会が世界に対して、神の支配のあるべき姿を自らの姿を通じて示し続けることの重要性を説いています(671)。

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愚かにも互いのいのちを奪い合い、利己的な野心や欲望に突き動かされて争いを続ける人間に対して、神はそれでもこの不出来な我々を闇に捨て置くことなく、愛を注ぎ続け、その愚かな罪のすべてを赦すために自らを十字架のいけにえとしてささげられた。この世の権力者は、自分ではなく他の誰かのいのちの犠牲や誰かの苦しみによって、野望を成し遂げようとするのでしょう。しかし真理の王は、自ら進んで苦しみを背負い、自らの言葉と行いでその愛をあかしされる。

神がすべての支配者だと信じるわたしたちは、神が望まれる世界の構築を目指して行かなくてはなりません。神が望んでおられるのは神の真理が支配する国、すなわち神の秩序が完全に実現している世界です。それこそが本当の意味での平和な国であります。

教皇様は今年から、世界青年の日を、これまでの受難の主日から、王であるキリストの主日へ移動されました。教皇様は今年のテーマを、使徒言行録26章16節から取った、「起き上がれ。あなたが見たことの証人として任命する」とされています。メッセージの中で教皇様は、パウロの回心の話に触れた後で、「洗礼によって新しいいのちに生きることになったわたしたちに、主は重要で人生を変えるような使命を与えられます。『あなたはわたしの証し人となる』」と、特に青年たちに呼びかけます。

もちろんこの呼びかけは青年たちだけに向けられたものではなく、すべてのキリスト者に向けられた呼びかけです。この世界を支配する価値観と神の支配は異なると、言葉で言うのは簡単ですが、それではわたしたちはその神の支配が実現しているはずの教会で、何を体験しているでしょう。共同体の交わりは喜びと希望を生み出しているでしょうか。互いの尊敬のうちに対話を生み出しているでしょうか。正義と平和を実現し、助けを求める人に手を差し伸べているでしょうか。共通の家である地球とすべてのいのちを守っているでしょうか。わたしたちの教会は、キリストは生きていると世界に向かって告げているでしょうか。真摯に振り返ってみましょう。

 

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2021年9月26日 (日)

年間第26主日:世界難民移住移動者の日(配信ミサ)

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週刊大司教でも触れていますが、9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。本来であれば、教会の大切な活動である難民や移住者への支えの活動のために、全世界の教会は献金をする日となっているのですが、残念ながら今年はミサの非公開の時期と重なってしまいました。様々な事由から困難な旅路につき、いまその途上にある人たちのために、お祈りくださいますようにお願いします。

教会は従前から、旅路にある人への配慮の必要性を強調してきましたし、特にその命を危機にさらすようなことのないように、特段の配慮をするように教えてきました。また教会のそういった配慮を具体的に表現するため、国際カリタスを通じた全世界での難民支援活動を行い、また教皇庁の人間開発促進の部署に難民セクションを設けて、教皇様が直接関与する形で、支援活動を強めてきました。

移動の途上にあって命を落とされる事案は、増えることはあっても減少してはいません。教皇様が就任直後にアピールをされた、アフリカから地中海へ乗り出して命を落とされる多くの人の存在を始め、アフリカや中東、そしてアジアでも、紛争地域にあっていのちの危機に直面する多くの人たちは後を絶ちません。さらには経済的困難から移住することを選択し、新たな居住地で命の危機に直面する方もおられます。日本でもそういった残念な例がありますが、公的な保護が十分ではなく逆にその尊厳を奪われて、中には命を落とす方もおられるような事案があることも事実です。人間のいのちの尊厳を奪い去る暴言や暴行は、誰であっても、とりわけ保護する立場にある公的機関である場合にはなおさら、それを正当化することは、命が神からの賜物であると主張する限り、出来ることではありません。互いに支え合い助け合うという、賜物である命に与えられたわたしたちの存在の意味を、今一度、心に刻みたいと思います。

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以下、本日午前10時から、カトリック関口教会のYoutubeアカウントから配信された主日ミサの、説教原稿です。

年間第26主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月26日

9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。

旧約聖書のレビ記19章34節には、「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」と記されています。

教会にとって、移住者への司牧的配慮は、その形態や理由の如何を問わず、長年にわたって優先課題とされています。それは旧約時代から続く、寄留者への配慮の定めに基づいています。

現在は人間開発促進の部署として統合されましたが、かつて浜尾枢機卿様が議長を務めておられた教皇庁の移住移動者評議会が2004年に発表した文書、「移住者へのキリストの愛」には、御父によるこの命令を前提としながら、次のように記されています。

「移住者を思うとき、教会は、『わたしが旅をしていたときに宿を貸してくれた』と語られたキリストをいつも観想します。したがって、移住の問題は、信じる者の愛と信仰へのチャレンジでもあります」(12)

その上で同文書は、「今日の移住現象は重要な『時のしるし』であり、また、人類を刷新し、平和の福音を宣言するわたしたちの働きのうちに見いだされ、役立てられる者とするためのチャレンジです」(14)と記し、難民、移住、移動者へのかかわりは、単に教会の慈善事業なのではなく、信仰を生きる上で欠かすことのできない回心への呼びかけであることを明確にします。

教皇フランシスコは、今年の世界難民移住移動者の日にあたりメッセージを発表され、テーマを「さらに広がる“わたしたち”へと向かって」とされました。

教皇様は、「わたしたち」という言葉を、「あの人たち」という言葉への対比として使っておられます。つまり、難民や移住者の抱える困難は、自分とは関係のない他人である「あの人たち」の問題なのではなく、「わたしたち」の問題であることに思いを馳せ、「わたしたち」と言う言葉の包摂する範囲を、自分の知り合いの者たちに限定するのではなく、さらにひろげて、困難に直面するすべての人へとひろげていくことを呼びかけておられます。

同時に教皇様は、この手を差し伸べる業を、単なる慈善のわざとは見なしておられません。教皇庁の人間開発促進の部署には難民セクションがあり、その難民セクションの関係者は直接教皇様に報告をするようにと定められております。その関係者によると、難民や移住者の課題への取り組みについて報告をするとき、教皇様は会話の中でしばしば、「わたしの家は、あなたの家だ」というフレーズを口にされると言います。

「わたしの家は、あなたの家」という言葉は、困難を抱える人をわたしのところへ迎え入れる優しさに満ちあふれた言葉として響きます。しかしそれは単に、自らの家に困窮する人を迎え入れなさいと言う、慈善行為の勧めに留まってはいません。

教皇様のこの言葉の意味は、「わたしの家」と言うことで、自分自身がその家における責任をもった居住者であることを表明するように、迎え入れた「あなた」も、「わたし」と同じように「この家」の責任ある居住者となることを意味しているのだと言います。つまり援助の手を差し伸べ、迎え入れた人は、単なるわたしの家のゲストではないということであります。迎え入れた人は、そのときからわたしと同じ責任ある居住者であることを意味します。もちろん教皇様は「わたしの家」という言葉で、「国家」を意味しておられます。

教皇様はメッセージで、「神が望まれたその“わたしたち”は、崩壊してばらばらになり、傷つき損なわれています」と指摘されます。その上で教皇様は、「内向きで攻撃的なナショナリズムや過激な個人主義は、世の中でも教会内でも、その“わたしたち”をばらばらにしたり分裂させたりします。そしてもっとも大きな犠牲を払わされるのは、すぐに“あの人たち”となりうる人たち、すなわち、外国人、移住者、疎外された人、つまり実存的な周縁部に住まう人たちです」と記され、ともに「共通の家」に住まう兄弟姉妹とともに、「家族」を修復するようにと呼びかけておられます。

民数記は、モーセ以外の70人の長老にも、聖霊の導きがあるときに限り預言を語る力が授けられたことを記します。モーセにだけ与えられていた特権を奪われたという思いが、モーセに長年仕えるヨシュアにはあったのでしょう。やめさせるべきだと進言するヨシュアに対して、モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と述べて、大切なのは、神の民すべてが与えられた役割を忠実に果たして、互いに支え合いながらともに共同体を育てていくことだと指摘します。

使徒ヤコブは、この世の富は、永遠のいのちを保証するものではないことを明確に指摘し、さらにはその富を蓄えるために犠牲となった多くの人の苦しみが、終わりの日には裁きとなって自分に返ってくることを指摘します。

さらに使徒ヤコブは、「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」と記し、弱い立場に置かれた人たちへの正義にもとる行いを咎めています。まさしく多くの移住者が、とりわけ法的に弱い立場にある人たちが、人間の尊厳をないがしろにされ、排除される事例は、現代社会でもしばしば聞かれます。

マルコ福音は、神の国に入る者となるためには、中途半端ではなく、徹底的に福音に生きる必要があることを、イエスが厳しい口調で語っている様を記します。同時にイエスは、その厳しさは自分自身に向かう厳しさであって、他人を裁く厳しさではないことを明確にします。弟子たちは、自分たちの仲間でないものを裁こうとしますが、イエスは「わたしに逆らわない者は、わたしの味方」と述べ、弱い立場にいる人へのいつくしみに徹底的に生きることこそが、救いにとって第一に必要であることを示します。

賜物であるいのちをいただいたわたしたちは、国籍や文化の違いを乗り越えて、神から愛される兄弟姉妹として生かされています。わたしたちがするべき事は、そのいのちがすべて一つの体につながれ、永遠の命を受けるように、いつくしみの手を差し伸べて助け合うことであります。異なる存在を排除して、いのちを危機に直面させることではありません。

福音に徹底的に従おうとするわたしたちは、社会にあって弱い立場にいる多くの人たちへのいつくしみに徹底的に生きる者でありたいと思います。助けを求める人たちに対して、「あの人たち」と見なして背を向けるのではなく、同じいのちを賜物として与えられている「わたしたち」として、創造主である神の懐にともに抱かれ、互いに支え合い助け合いながら、それぞれの役割を果たしていく者となりましょう。

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2021年9月19日 (日)

年間第25主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

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年間第25主日の9月19日、午前10時から、非公開でささげられ配信された主日ミサの説教の原稿です。

新規陽性者数が減少を続けていることが事態が好転している兆しだと信じていますが、このまま9月末日で緊急事態宣言が解除されるのであれば、10月1日からは、以前のステージ3に戻して、ミサを公開するようにしたいと思います。

なお10月以降、小教区の主日ミサとは別に、教区内で土曜日などにミサを伴う行事がいくつか予定されていますが、それぞれの主催者にあっては、必ず聖堂を管理する主任司祭・責任者と相談し、その小教区などの定めている感染対策を遵守されるようにお願いいたします。

以下、本日午前10時に関口教会のYoutubeチャンネルで配信されたミサの、説教原稿です。

年間第25主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月19日

公開ミサを自粛しているために教会活動が立ち止まってしまい、そのためどうしても忘れられがちなのが残念ですが、世界の教会は教皇様の回勅「ラウダート・シ」に触発された「被造物の季節」を、そして日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」を、9月1日から10月4日まで、すなわちただいまの時期に過ごしております。

人類は常になんらかの発展を指向し、与えられた資源を活用することで、より良い生活を、そして社会を手に入れようと努めてきました。もとより生活が便利になり、健康や安全が保証される社会を実現することは、より共通善に近づくことであるとも考え、研鑽を重ね、努力を積み上げてきました。残念なことに、教皇が回勅「ラウダート・シ」の冒頭で指摘するように、その努力の過程でわたしたち人類は、自分たちこそが「地球をほしいままにしても良い支配者や所有者と見なすように」なり、「神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり乱用し」てきました。その結果、共通の家である地球を深く傷つけてしまったと指摘する教皇は、さらにこう述べています。

「わたしたちが神にかたどって創造された大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません。」(67)

その上で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると指摘し、密接に結びあわされている森羅万象を俯瞰するような、総合的視点が不可欠であることを強調されます。

わたしたちの心には、競争の原理が刻み込まれているのでしょうか。競争に打ち勝って、より良い人生を手に入れたい。そう願って、世界的な規模で続けられたさまざまな競争は、結果として、共通の家である地球を傷つけてしまった。それは、わたしたちの願いが、神の御心に適う願いではなかったためではないでしょうか。

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に逆らう者にとっては、神による永遠の救いではなく、この世での救いこそが現実であって、それは、神のいつくしみとは対立する利己的な欲望の実現でしかありません。しかし神に従い真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

教皇は、わたしたちにいのちを与えられた創造主が、人類にどのような使命を与えたのかを記す創世記の話を引いて、「ラウダート・シ」にこう記します。

「聖書が世界という園を『耕し守る』よう告げていることを念頭に置いたうえで、・・・『耕す』は培うこと、鋤くこと、働きかけることを、『守る』は世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」

すなわちわたしたちは、被造物の上に君臨して支配し浪費する存在ではなく、被造物を管理し守り育てるようにと命じられた、奉仕する支配者でなければならないことが記されています。

心に刻み込まれた競争の原理は、利己的欲望と相まって、わたしたちを君臨する支配者にしてしまいました。しかし「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と述べられた主は、わたしたちに奉仕する支配者となることを求められます。それこそは、主イエスご自身が自ら示された生き方であります。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ10章45節)」と、マルコ福音の続きに記されています。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、神の平和は実現せず、いのちを奪うような混乱が支配すると、使徒は指摘します。

使徒は、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです」と記します。「間違った動機」とは、すなわち時空を超えたすべての人との繋がりに目を向けず、今の自分のことだけを考える利己心がもたらす動機です。その利己的な動機による行動の選択が、被造界を破壊してきたのだと教皇は指摘します。

受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類に対する、神の愛といつくしみが具現化しています。イエスの受難への道は、神の愛のあかしであります。十字架は、神の愛の目に見える証しであり、十字架における受難と死こそ、具体的な行いによる神の愛のあかしです。神の常識は、救いへの希望は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果としてあることを強調します。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、わたしたちは神の愛といつくしみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

主イエスは、その受難と死を通じて、わたしたちに君臨する支配者ではなく、奉仕する支配者としての生き方を明確に示し、わたしたちがその生き方をあかしするようにと求められます。

繰り返しわたしたちを襲う大規模な災害は、そのたび事にわたしたちに価値観と発想の転換を求めます。わたしたちの徹底的な回心を求めます。そしていま、感染症のただ中で、わたしたちは価値観と発想の転換を求められ、回心を求められています。

9月7日、教皇フランシスコは、正教会と英国国教会のそれぞれの代表とともに、環境に関するメッセージを発表されました。その中で、環境をめぐる持続可能性を具体化することが急務の課題であると指摘し、さらには環境問題が、特に貧しい人々に与える影響を考慮することや、こういった課題に取り組むための世界的な協力構築の必要性を真摯に考えるようにと求めておられます。その上で、このパンデミックの状況は、わたしたちが短期的視点から目先の利益に捕らわれて行動するのか、はたまた回心と改革の時とするのかの選択肢を与えているのだと呼びかけます。

いまは視点を転換し、常識を打ち破り、神の呼びかけに耳を傾け、その知恵に倣って生きる道を選び取るときであります。

日本では明日9月20日が、敬老の日とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。何歳からを高齢者と呼ぶのかについては、さまざま議論があることでしょうが、人生の経験を積み重ね、いのちの時を刻んでこられた多くの方々のために、神様のさらなる豊かな祝福をお祈りいたします。教皇様は今年から、7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音をあかしする生活には、定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音をあかしするために、神の呼びかけに応える道を選択し、たゆむことのない回心の道を歩みましょう。

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2021年9月12日 (日)

年間第24主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

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教皇様は、本日9月12日朝にローマを発ち、まずハンガリーのブダペストへ向かわれます。ブダペストでは、折から開催されている第五十二回国際聖体大会の閉会ミサを司式されます。

その後、スロバキアの首都ブラチスラヴァへ移動され、15日(水)まで滞在され、さまざまな行事をこなされることになっています。先般手術を受けられたこともあり健康不安説も出たりしましたが、教皇様はいつもと変わらず司牧訪問へ出かけられました。先ほどブダペストへの到着の動画を拝見しましたが、お元気な様子でした。教皇様の今回の司牧訪問の安全と成功のために、お祈りください。

今回の司牧訪問の詳しい日程は、英語ですが、こちらのバチカンのサイトをご覧ください

先日来お知らせしている2023年秋のシノドスへの道程ですが、一番最初の準備文書が、9月7日の教皇庁でのシノドス事務局による記者会見で発表されました。翌日には英語版が、メールで届けられましたので、現在、中央協議会で翻訳中です。これに関しては、想像より長い文書でしたが、10月以降の教区での意見の聴取開始が求められていますので、間もなくないようについてお知らせするように、東京教区の担当者である小西神父様と準備を進めてまいります。また必要な情報は、適宜、教区のホームページに掲載します。

以下、本日9月12日午前10時に東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた配信ミサの、説教の原稿です。昨日の週刊大司教と重なるところが多々ありますが、ご容赦ください。

年間第24主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月12日

感染症の拡大を防ぎ、また自分のことだけではなく、隣人のいのちを守るために、愛の心を持って、教会の活動自粛に協力いただいている皆様に、心から感謝いたします。今日の主日も、教会共同体の霊的な絆に繋がれて、わたしたちは祈りのうちに一致しています。この配信ミサを一つの助けとして、互いの霊的な絆の存在に心を向けたいと思います。またこうしてカテドラルでささげられている大司教司式のミサは、ここにいるごく少数の者の個人的信心のためではなく、教区共同体の典礼行為として、教区のすべての皆様との霊的一致のうちにささげられていることを、あらためて申し上げたいと思います。復活の主は、死に打ち勝ったそのいのちの力をもって、いつもわたしたちと共にいてくださいます。

さて、この夏には、オリンピックとパラリンピックという世界的な行事が、東京を中心に開催されました。先週の日曜日9月5日は、パラリンピックの閉会式でありました。

感染症が終息しない中で一年延期されたこともあり、また緊急事態宣言のなかでもありましたので、先に開催されたオリンピックとともに、こうした状況下で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありました。参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思いますし、わたし自身も含め、開催を不安に感じた方も少なくないと思います。

教区としては、数年前から、選手村での宗教的サポートのために、他の宗派の方々と一緒になって協力する準備を進めていたところでしたが、このような状況下で、実際に選手村で活動することは出来なくなりました。また選手や関係者も外に自由に出てくることが出来ないばかりか、宗教者が選手村に入ることも出来なくなり、結局いくつかの言語で霊的メッセージやロザリオの祈りのビデオを作成して、組織委員会に提供することしか出来ませんでした。組織委員会では各宗派に公平を期すため、そのビデオがどのように公開されどのような反響があったのかは公表されていません。ですからわたしたちとしても、かなりの時間を掛けて準備したそういったビデオが、どのように役に立ったのかどうか、分からないのは残念です。少しでも、参加された方々の霊的な助けとなった事を願っています。

さて、障がいと共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、大会が象徴する価値観からも重要な意味をもつ出来事であると思います。しかし、オリンピックと比較すれば、報道などの面で特にそうですが注目度は高いとは言えず、加えて今回の感染症の事態で、さらにパラリンピックの存在がかすんでしまったのは、残念です。

パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、スポーツイベントを超えて社会全体へ重要なメッセージを発信していると言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」であります。

同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。

教会はすべてのいのちが神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。また教会は、わたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならないと主張します。

残念ながら、いのちの多様性を認めながら共に支え合って生きる社会を目指すのではなく、互いの違いを強調して分断し、異なる存在を排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって見受けられます。

世界を巻き込んでいま発生しているいのちの危機は、その解決のためにも、世界全体の視点からの強固な連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態に直面しても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは取り残されようとしています。

教皇フランシスコは、パンデミックの中で長らく中断していた一般謁見を2020年9月2日再開したとき、こう話されていました。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。」

しかし今年の復活祭のメッセージで教皇は、国際的な連帯が実現していない事実を指摘し、「悲しいことに、このパンデミックにより、貧しい人の数と、数えきれないほど多くの人の絶望が激増しています」と述べられています。

この状況の中でも、一人ひとりのいのちの尊厳をないがしろにするような行動や事件は相次いでいます。いのちを賜物として与えられた存在として、わたしたちすべては、互いに助け合い、支え合い、お互いの持ついのちの驚くべき物語に耳を傾け、尊敬の念を持って、いのちを生きていかなくてはなりません。

この社会の現実に対して、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、連帯のうちにともに支え合おうという、いのちを守る社会の実現を力強く呼びかけています。

使徒ヤコブは、信仰があるといっても行いが伴わないのであれば、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。その上で、「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。

マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、各地で耳にしてきた主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と迫ります。わたしたちは、いま、主によって回答を迫られています。自ら決断して回答するように求められています。わたしたち一人ひとりは、一体何と応えるのでしょう。誰かから、どこかで聞いた話ではなくて、わたしにとって、主イエスとは何者なのでしょうか。

わたしたちは、いのちを与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神のいつくしみを、愛を、具体的にわたしたちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。主こそわたしたちの救い主と、ペトロと一緒に応えるのであれば、わたしたちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべてのいのちが神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 

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2021年9月 5日 (日)

年間第23主日:被造物を大切にする世界祈願日ミサ

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9月第一の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、主日ミサを捧げ配信いたしました。本日の閉祭に歌われたのは、2019年に教皇様が訪日されたとき、東京ドームでのミサなどで歌われたものです。「すべてのいのちを守るため」のテーマに合わせての選曲です。この歌の譜面は、このリンクの中央協議会ホームページからダウンロードすることが出来ます。楽譜は一番下の「楽譜(伴奏つき)」からPDFで、録音も聞くことが出来ます。

以下、本日主日配信ミサの説教原稿です。

年間第23主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月5日

回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではその直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月5日の年間第23主日、本日が、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。また「ラウダート・シ」の理念の啓発と、それを霊的に深めるため、9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日」からアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な期間、「被造物の季節(Season of Creation)」と定められました。

この祈願日にあたって、マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラーダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、わたしたちの心の耳が開かれる必要があるからです。時に現実だとか常識だとかしがらみだとか、さまざまに呼ばれている壁、すなわち歴史における時間の積み重ねが生み出した結果は、わたしたちの思考を縛り付けてしまっています。縛り付けるだけではなく、その壁は、思考の自由も行動の自由も奪ってしまいます。

教皇フランシスコは、そういった壁をすべて打ち壊し、常識や人間関係のしがらみにとらわれることなく、いのちが育まれるこの共通の家をどうしたら守ることが出来るのか、総合的な視点を持って取り組むようにと呼びかけます。その呼びかけは、教皇個人の呼びかけではなく、わたしたちの共通の家からの叫びであり、神からの呼びかけです。その叫びは、呼びかけは、聞こえているでしょうか。心の耳を開いていただく必要が、ここにあります。

教皇はこの祈願日について、2016年の最初のメッセージで、「被造物の管理人となるという自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理をわたしたちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、わたしたちが生きているこの世界に対して犯された罪へのゆるしを乞うのにふさわしい機会」となる日であると述べています。

教皇フランシスコが「ラウダート・シ」で語る被造物への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めよういう環境問題の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、教皇がもっとも強調する課題は「ともに暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことを求めているものです。

そのために教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると指摘し、それを総合的エコロジーの視点と呼んでいます。

日本の教会も、2019年の教皇訪日に触発され、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めました。これは1981年に教皇ヨハネパウロ二世が訪日され、その平和アピールに触発されて8月の平和旬間を定めたように、教皇の「すべてのいのちを守るため」という呼びかけに応えるためであります。

教皇フランシスコは、神がよいものとして与えてくださったこの共通の家を、わたしたちが乱用し破壊しているとして、「ラウダート・シ」の冒頭にこう記しています。

「この姉妹は、神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり濫用したりすることによって生じた傷のゆえに、今、わたしたちに叫び声を上げています。わたしたちは自らを、地球をほしいままにしてもよい支配者や所有者とみなすようになりました」(2)

さらに教皇は、人間のいのちが成り立っている三つの関係、すなわち、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」が引き裂かれている状況を指摘し、こう記します。

「聖書によれば、いのちにかかわるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です。わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました」(66)

すなわち、環境破壊や温暖化も含めて、共通の家である地球の危機は、この三つの関係の破壊による罪の結果であると教皇は指摘されます。そうであればこそ、わたしたちはその関係の修復に努めなければなりません。その意味で、「ラウダート・シ」は環境問題解決への問いかけの文書ではなく、被造物全体を包括した問題への取り組みへの呼びかけであり、罪の状態を解消するための回心の呼びかけの書でもあります。

したがって「すべてのいのちを守るための月間」は、具体的なエコロジーの活動への招きと言うよりも、わたしたちの生き方の根本姿勢の見直しの呼びかけであり、神との関係、被造物との関係を見つめ直す具体的な行動への呼びかけを伴って、霊的な深まりと回心へとわたしたちを招いています。

イザヤ書は、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。・・・神は来て、あなたたちを救われる」という神の励ましの言葉を記しています。

感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、わたしたちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧きいで」るように、不安におののく者に希望を生み出し、いのちが生かされる喜びを記します。

使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かにわたしたちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって、いのちが豊かに生かされていることにあるのだと指摘します。

わたしたちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。

わたしたちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、わたしたちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。わたしたち一人ひとりのいのちが豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。わたしたち一人ひとりの心には今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が、福音朗読を通じて響き渡っています。神の呼びかけに、耳を傾けましょう。

 

 

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