カテゴリー「配信ミサ説教」の124件の記事

2025年4月21日 (月)

2025年復活の主日@東京カテドラル

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主イエスの復活、おめでとうございます。

雨も心配された東京の復活の主日でしたが、風が強かったものの、天気はなんとか持ちました。多くの方が東京カテドラル聖マリア大聖堂の午前10時のミサに参加してくださいました。いつもの席では足りずに、予備の折りたたみ椅子がかなり使われましたので、五百から六百人以上がミサで祈りを共にされたかと思います。

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ミサ後には、昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられて方へのお祝いも兼ねて、ケルンホールで祝賀会が催されました。おめでとうございます。感染症の影響でこの数年はこういった集まりが困難でしたが、久しぶりに、新しく洗礼を受けた方々を迎えて祝賀会となりました。

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以下、本日のミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月20日

御復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた皆さんには、特にお祝いを申し上げます。

洗礼を受けられたことで、ひとり一人はイエスの弟子としての旅路を始められました。それはただ単にイエスと一緒に歩き始めたということ以上に、キリストの身体を造り上げる一つの部分となったということをも意味しています。

今年教会は25年に一度の聖なる年、聖年の道を歩んでいます。そのテーマは「希望の巡礼者」であります。

聖年の大勅書「希望は欺かない」で教皇フランシスコは、第二バチカン公会議の現代世界憲章を引用して、「神という基礎と永遠のいのちに対する希望が欠けるとき、・・・人間の尊厳はひどく傷つけられ」、それが絶望を生み出すのだと指摘されました。

人間のいのちは、完全な存在である神の似姿として創造されたことによって、はじめから尊厳が与えられています。いのちを賜物として与えられているわたしたちキリスト者には、その尊厳を守る務めが託されています。そこに例外はありません。

教皇様は、絶望に満ちあふれた世界に生きているとは言え、「わたしたちは、自分を救ってくれた希望のおかげで、過ぎ去る時を見て、人類の歴史とひとり一人の人生は、行き止まりや暗黒の深淵に向かっているのではなく、栄光の主にお会いすることに向かって進んでいるという確信を得ています」と記しています。

わたしたちは洗礼を受けることでイエスの死と復活に与り、永遠のいのちの希望を与えられました。わたしたちは復活された主に向かって、常に歩み続けている「希望の巡礼者」であることを心に刻みましょう。

教会はこの巡礼の旅路を、みなで一緒になって歩む共同体です。もちろんひとり一人のキリスト者にはそれぞれ独自の生活がありわたしたちは共同生活をしているわけではないので、みなが同じような仕方で、共同体に関わるのではありません。共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、どのような形であれ、共同体の一員となるということは、日曜日に教会へ来るときだけでのことではなく、洗礼を受けたことで、信仰において共同体にいつでもどこにいても結ばれていることを、心に留めておくことであると思います。

洗礼の恵みによって、さらにはご聖体と堅信の恵みによって、わたしたちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきをわたしたちが消し去ることはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で努めていただくことを期待しています。そしてこれからも一緒に希望をあかしする巡礼者として歩んで参りましょう。

本日の第一朗読である使徒言行録は、弟子たちのリーダーであるペトロが、力強く主イエスについてあかしをしながら語る姿と、その言葉を記しています。

「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」と高らかに宣言するペトロは、ヨハネ福音の中では全くの別人のように描かれています。

あの最後の晩、三度にわたってイエスを知らないと宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、大いなる喪失感と絶望の中で、主の復活という希望をまだ理解できていません。今日のヨハネ福音には復活された主ご自身は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を目の当たりにしながら、しかし理解できずに困惑するペトロや弟子たちの姿です。

その弱々しく絶望に打ちひしがれたペトロを、使徒言行録が記しているような力強くイエスについて宣言するペトロに変えたのは一体何だったのでしょうか。

そこには復活された主ご自身との出会いによって、ペトロや弟子たちが永遠のいのちへの確信を与えられたことと、その確信が生み出す希望がありました。

洗礼によってわたしたちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との出会いがあります。わたしたちはこの共同体の交わりの中で、様々な形で主と出会います。共に祈る中で、主の導きをいただきます。共に与る聖体祭儀で共に主と一致し、信仰における兄弟姉妹と一致します。わたしたちの共同体は交わりの共同体であり、その交わりは信仰における永遠のいのちへの確信を深め、人生の旅路を歩み続ける希望を生み出します。

わたしたちが受けた福音は、わたしたちがいただく信仰は、単なる知識や情報の蓄積ではなくて、具体的にわたしたちが行動するように促し、具体的にそれを多くの人に証しし、世界に希望を生み出すように前進するようにと促す力であります。

2020年に直面した世界的ないのちの危機以来、わたし達は混乱の暗闇の中をさまよい続けています。その間に勃発した、例えばウクライナやガザをはじめ世界各地の戦争や紛争はやむことなく、今日もまた、いのちの危機に直面し、絶望のうちに取り残されている人たちが、世界には多くおられます。クーデター以降不安定な政治状況が続き、平和と民族融和を唱える教会への攻撃まであるミャンマーでは、先日発生した大地震によって、さらに多くの人のいのちが、いま、危機に直面しています。いのちが暴力から守られるように、神の平和が確立するように祈り続けましょう。

このような状況のただ中に取り残されることで、多くの人の心には不安が生み出され、世界全体が身を守ろうとして寛容さを失い、利己的な価値観が横行しています。異質な存在を受け入れることに後ろ向きであったり、それを暴力を持って排除しようとする事例さえ見受けられます。

人はそのいのちを、「互いに助けるもの」となるように神から与えられたと旧約聖書の創世記は教えています。ですから互いに助け合わないことは、わたし達のいのちの否定に繋がります。いのちの否定は、それを賜物として与えてくださった神の否定に繋がります。

互いに助け合わない世界は、神が望まれた世界ではありません。互いに助け合わない世界は、希望を打ち砕き絶望を生み出す世界です。神に背を向ける世界であります。

いのちを生きる希望を、すべての人の心に生み出すことが、いま、必要です。わたし達は、絶望が支配する世界に希望をもたらす者として、人生の旅路を歩み続けましょう。一人で希望を生み出すことはできません。信仰における共同体の中で生かされることを通じて、希望が生み出されます。その希望は、永遠のいのちへと復活された主のうちにあり、ともに歩む教会共同体の中で豊かに育てられます。勇気を持って、この社会に対して、希望の源である復活の主イエス・キリストをあかしして参りましょう。

 

 

 

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2025年4月19日 (土)

2025年復活徹夜祭@東京カテドラル

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御復活おめでとうございます。

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本日の復活徹夜祭で、多くの方が洗礼を受け、新たに教会共同体に迎え入れられた方が多くおられると思います。洗礼、聖体、堅信の秘跡を受けられた皆さんも、おめでとうございます。

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関口教会でも、今晩のミサの中で13名の方が洗礼を受けられました。新しい兄弟姉妹を迎えて、教会は新たにされ常にいのちに満ちあふれていることを実感します。一人でも多くの人に、この希望の喜びを伝えることができるように、復活の主の導きを願いましょう。

以下、本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での復活徹夜祭での説教です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月19日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

わたしたちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、わたしたちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。

この旅路をわたしたちは、一人孤独に歩んでいるわけではありません。先行きが見通せない旅路を、一人孤独に歩むことほど不安なことはありません。わたしたちの旅路は、まずもって主イエスとともに歩む旅路であり、信仰を同じくする兄弟姉妹とともに、支え合いながらともに歩む旅路であります。

この数年間、わたしたちは世界のすべての人たちとともに様々な形でのいのちの危機に直面してきました。感染症の蔓延に始まって、その中で起こった戦争。東京教区の長年のパートナーであるミャンマーで起こったクーデターとその後の混乱。ウクライナでの戦争。ガザでの紛争の激化。中東シリアやアフリカ各地でも紛争は深まっています。多くのいのちが暴力的に奪われ、先行きが見えない不安の中で暗闇だけが深まりました。いのちを暴力的に奪われているのは、わたしと等しく御父から賜物としていのちをいただいている兄弟姉妹です。

暗闇が深まった結果は何でしょうか。それは自分の身を守りたいという欲求に基づく利己主義の蔓延であり、異質な存在に不安を感じることによる排除であり、蔓延する不安は絶望を深め、わたしたちから希望を奪い去りました。

いま世界を支配しているのは暴力と、不安と絶望です。あまりにも暴力的な状況が蔓延しているがために、世界には暴力に対抗するためには暴力を用いることが当たり前であるかのような雰囲気さえ漂っています。

御父がいつくしみと愛のうちにわたしたちに与えてくださった賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく、守られなくてはなりません。神の似姿として創造されたすべてのいのちは尊厳が刻み込まれており、その人間の尊厳は例外なく尊重されなくてはなりません。いのちを奪う暴力は、どのような形であれ許されてはなりません。

絶望の闇の中で必要なのは、互いに助け合い支え合いながら、人生の旅路をともに歩むことです。ともに歩む兄弟姉妹の存在こそは、わたしたちの心の支えであり、絶望を希望に変える力を持っています。加えて旅路を歩むわたしたちのその真ん中には、復活された主イエスがおられます。

復活のいのちに生きる主イエスこそは、わたしたちが永遠のいのちを生きる約束であり、真の希望です。わたしたちの信仰者としての人生は、イエスにおける希望に満ちあふれた、希望の巡礼者の旅路であります。

教皇様は、「希望の巡礼者」をテーマとする聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

いま世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。そしてわたしたちは教会共同体の中で生かされ、その中で主イエスと「生き生きとした個人的な出会い」を持ち、永遠のいのちの希望に力づけられ、その希望を掲げながら、ともに人生の旅路を歩み続けます。

週の初めの日の明け方早く、十字架上で亡くなられたイエスの遺体を納めた墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたあのときの衝撃に支配されていたのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。そこに天使が出現し、イエスは生きていると告げます。道を見失い途方に暮れていた婦人たちに、天使は進むべき道を示します。その道はすでにイエスによって示されていたのです。天使はガリラヤを思い起こすようにと告げます。

ガリラヤは、イエスとイエスにしたがった人たちが、最初に出会った地であります。信仰に生きることの意味を、イエス自身がその言葉と行いを持って直接に教えた地です。それは単に過去の思い出ではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える希望に生きるための指針であります。

弟子たちも、頼りにしていた先生を暴力的に奪われ、途方に暮れていたことを福音は記します。実際にイエスの体が墓にはないことを目の当たりにしたペトロは、ただただ「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。ペトロはそれまでいた家に立ち帰ったのであって、旅路を前進したわけではありません。主イエスは立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。

信仰は旅路です。闇雲に歩いているのではなく、主ご自身がともに歩みながら示される指針を心に刻みながら、主とともに、そして兄弟姉妹とともに歩みを続ける、希望の旅路です。

わたしたちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。旅路の希望は、主が示される旅路にしかあり得ません。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点です。

今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。皆さんは一人孤独のうちに歩むのではなく、わたしたち教会共同体の皆と一緒に、互いに助け合い、支え合いながら、祈りのうちともに歩み続けます。そこには必ず主がともにおられます。

復活の主への信仰のうちに、ともに希望を掲げ巡礼の旅路を一緒に歩んで参りましょう。
 

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2025年4月18日 (金)

2025年聖なる三日間:聖金曜日主の受難

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聖金曜日には、通常のミサは捧げられません。多くの国では夕刻に、可能であれば午後3時頃に、主イエスが十字架上で最後の苦しみを受け、亡くなられ、葬られたことを憶えて、十字架を崇敬することを中心に据えた典礼がおこなれます。

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昨晩の、主の晩餐のミサには派遣の祝福がなく、聖体の行列と礼拝で静かに終わりました。協の典礼には始めも終わりもなく、沈黙のうちに始まり沈黙のうちに終わりました。明日の夜の復活徹夜祭も、ろうそくの祝別が特別な挨拶なしに始まります。つまり聖木曜から復活徹夜祭までは、一つに繋がった祈りの時なのです。主の受難と死と復活という、わたし達の信仰の根本にある出来事に思いをはせ、自らの信仰を新たにしましょう。

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以下、本日午後7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた主の受難の典礼での説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月18日

わたしたちの希望である救い主は、今日、愛する弟子たちに裏切られ、群衆からはあざけりを受け、独り見捨てられ、孤独のうちに、さらには十字架上での死に至るまでの苦しみという、心と身体への痛みに耐え抜かれようとされています。

わたしたちは、預言者イザヤが記す、「苦難の僕」についての預言の言葉を耳にしました。

「見るべき面影はなく、・・・彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」たと記すイザヤは、しかしそれだからこそ苦難の僕は、「多くの痛みを負い、病を知っている」と記します。神は、単にわたしたちとともに存在されただけでなく、ともに人生を歩むことでその悩みと苦しみを共にされました。

イザヤは、その苦しみは、「わたしたちの痛み」を負ったのであり、「わたしたちの咎のため」に彼は打ち砕かれ、その苦しみのためにわたしたちに平和が与えられ、その傷によって「わたしたちは、いやされた」と記します。救い主の十字架における苦しみは、わたしたちの平和のための、希望のための、罪のゆるしを願う捧げ物でありました。

今日の典礼は、十字架の傍らに聖母が佇まれ、その苦しみに心をあわせておられたことを、わたしたちに思い起こさせます。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母は、キリストと一致した生き方を通じて、わたしたちに霊的生活の模範を示されています。

教皇様は聖なる年、聖年を告知する大勅書「希望は欺かない」の終わりに、聖母について次のように記しています。

「神の母は、希望の最も偉大なあかし人です。この方を見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みの賜物であることが分かります。・・・無実のイエスが苦しみ死ぬのを見ている間、すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、はいと言い続けたのです(24)」

その上で教皇様は、「海の星(ステラ・マリス)・・この称号は、人生の荒波に中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼を持って希望し続けるように招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しています。

聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきた全人類を表現しています。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を示しています。先頭の人物は十字架をつかんでいます。足元には人生の旅に立ち向かう困難の荒波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は船の「いかり」の形をしており、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないようにしっかりと支えてくださっています。その人生の荒波にあって、希望の光を照らし続ける海の星、ステラ・マリスは、神の母マリアであります。聖母はわたしたちの希望の星です。

人生においてわたしたちは、様々な困難に直面します。人間の知恵と知識を持って乗り越えることのできる困難もあれば、時には今回ミャンマーを襲った大地震などの災害のように、人間の力ではどうしようもない苦しみも存在します。

今年2025年は、第二次世界大戦が終結してから80年となります。人類は過去の歴史から様々な教訓を学んでいるはずですが、残念ながらいまでも世界各地で武力による対立はやむことなく、ウクライナの戦争は続き、聖地ガザでの悲劇的な状況も終わらず、その他多くの地域で、神からの賜物であるいのちが暴力によって危機に直面させられています。

この事態は、しかし、自然災害ではありません。まさしく教皇ヨハネパウロ二世が1981年に広島から世界に呼びかけたように、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。暴力によっていのちを危機にさらしているのは、わたしたち人類であって、それを止めることができるのも、わたしたち人類自身であります。

いのちを賜物として与えてくださる神が人間を愛しているその愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を多くの人の罪の贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。聖母マリアは、イエスとともに歩むこの地上での時の終わりであるイエスの十字架上の苦しみに寄り添いました。聖母の人生は、完全に聖なる方にその身を委ねる人生でした。その身を委ねて、それに具体的に生きる前向きな人生でした。苦しみにあっても、御父に向かって、「お言葉通りにこの身になりますように」と、神にすべてを委ねる人生でした。すべてを神に委ねているからこそ、聖母マリアは海の星としてわたしたちを導く希望の光となりました。

苦しみの中で主は、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこのときから、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。わたしたちは聖母とともに十字架の傍らにたたずみ、御父が望まれる救いの計画が実現するようにと、神のみ旨にわたしたちを委ね続けます。

その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立ち続ける姿です。十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立ち続ける聖母マリアはその希望のしるしです。私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。聖母マリアに倣い主イエスの苦しみに心をあわせ、他者の喜びのために身を捧げ、神の秩序の実現のために、具体的に行動する人生を生きたいと思います。

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2025年4月17日 (木)

2025年聖なる三日間:聖木曜日主の晩餐

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聖なる三日間が始まりました。

前記事にも記しましたが、本日聖木曜日の午前中10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京教区で働いてくださる100名近い司祭団とともに、聖香油ミサが捧げられました。聖香油ミサの中で、秘跡に使われる三つの聖なる油(病者の油、志願者の油、聖香油)が祝別され、また司祭は叙階の日の誓いを心に思い起こしながら、約束の更新を致しました。現代社会にあって、司祭の務めは多岐にわたります。残念ながら司祭はスーパーマンではありません。司祭もまた、一人の弱い人間ですから、できることもあれば苦手なことも多くあります。司祭がよりふさわしく働くためには、神様の祝福と導きが不可欠ですが、同時に共同体としてともに歩んでくださるみなさまのお祈りによる支えがさらに重要です。司祭が聖なる務めを忠実に果たすことができるように、どうかみなさまのお祈りによる支えを心からお願い致します。

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夕方7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で主の晩餐のミサを捧げました。関口教会と韓人教会の二つの共同体から、多くの方がミサに与って祈りをともにし、またご聖体の前で静かなひとときを過ぎしました。ご聖体における主イエスの現存こそは、わたし達の信仰の土台です。どうかみなさま、復活祭に向けて、良い三日間を過ごされますように。

以下、本日の主の晩餐のミサの説教原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月17日

先ほど朗読された出エジプト記は、エジプトで奴隷状態であった民が、モーセに導かれて約束の地へと旅立とうと様々な手立てを尽くしてエジプトの王と交渉を続けた最後の局面で、エジプトに降りかかった災いについて記しています。その夜、生け贄として屠られた子羊の血は、エジプトの民に災いをもたらした神が過ぎ越していくためのしるしとなり、その血は、奴隷としての苦難の生活から解放されるという希望のしるしとなりました。

出エジプトという希望の旅路に躊躇なく歩み出すようにと、神は民に対して「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして」食事をするようにと命じています。希望への旅立ちは未知への旅立ちでもあり、その先に何が待ち構えているのか分からない不安な旅への出発です。様々な思いが交錯する中で、与えられた希望の灯火を消すことなく、勇気を持って歩み出すようにと、神は民が準備を整えているようにと促しています。

イエスにおける永遠のいのちへの招きを信じるわたし達にとって、その受難と死を通じた復活は、希望の源です。わたし達の希望は、十字架上で捧げられた神の子羊の血によって、罪の枷が永遠に打ち払われる解放へと繋がる過越によって成り立っています。イスラエルの民がそうであったように、わたしたち新約に生きる神の民も、解放という希望に向かって、常に旅立つ用意をしているように求められています。

まさしく今年は、聖なる年、聖年として、わたしたちが「希望の巡礼者」となることが求められているときであります。

イスラエルの民は、奴隷状態から解放されて約束の地に導かれるという希望を持って旅を続けました。同じように現代の旅路を歩み続ける神の民も、永遠のいのちへの約束を確信し、ともに歩んでくださる主の現存を心に刻みながら、希望をもって歩み続けます。

教皇様は、聖年の大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持っています」と記しておられます。

わたしたちの希望は、どこにあるのでしょうか。

世界各地で、神からの賜物であるいのちが、様々な形態の危機に直面させられています。すべてのいのちは等しく神の似姿として尊厳を与えられており、そもそも互いに助けるためにと神から創造されていることを考えるとき、世界のどこかでそのいのちが危機に直面している事態は、わたしたちから希望を奪い去ります。実際、この数年の感染症に始まり各地で頻発した紛争は多くのいのちを暴力に直面させ、奪い去り、世界を利己的で不寛容が支配する場としてしまいました。利己的で不寛容な世界は人間関係を破壊し、人間関係が断絶される中でわたしたちを支配するのは絶望です。いまわたしたちに必要なのは希望であり、そのためにも互いに支え合いともに歩む人間同士の絆を取り戻すことが不可欠です。

この現実の中で、今こそ必要なのは、ともにいのちを生きるために連帯することであり、ともにいのちを生きるために支え合うことであり、いのちを暴力を持って奪うことではないとあらためて主張したいと思います。

最後の晩餐の席でイエスは、別れゆく弟子たちに、心の底からの愛を込めて、ご自分が代々に至るまで共にいるということを明確にする秘跡を残して行かれました。どこか遠くから見守ったり励ましたりするのではなく、旅路を歩む巡礼者であるわたしたちと常に共にいることを、ご聖体の秘跡を制定することで明確にされました。主はご聖体の秘跡を通じて、常にわたしたちと共におられ、その信仰の絆において、希望を与えてくださいます。ご聖体は、希望の秘跡であります。

教皇聖ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」の冒頭で、教会は様々な仕方で主の現存を味わうのだけれど、「しかし、聖なる聖体において、すなわちパンとぶどう酒が主のからだと血に変わることによって、教会はこのキリストの現存を特別な仕方で深く味わうのです(1)」と記しています。

その上で教皇は、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

希望の源である主ご自身によって集められている神の民は、主の現存である聖体の秘跡によって、力強く主に結び合わされ、主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡があるからこそ共同体であり、その絆のうちに一致し、互いに希望をいただきながら歩みを続けることができています。

主における一致へと招かれているわたしたちに、聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、わたしの愛といつくしみの言葉と行いを忘れることなく、さらに自分たちがそれを具体的に行い続けるようにと、あとに残していく弟子たちに対する切々たる思いを秘跡のうちに刻み込まれました。このイエスの切々たる思いは、聖体祭儀が捧げられる度ごとに繰り返され、「時代は変わっても、聖体が過越の三日間におけるものと『時を超えて同一である』という神秘を実現」させました(「教会にいのちを与える聖体」5)。わたしたちは、聖体祭儀に与る度ごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の思いを同じように受け継ぎます。

イエスは、裂かれたパンこそが、「私のからだである」と宣言します。ぶどうは踏みつぶされてぶどう酒になっていきます。裂かれ、踏みつぶされるところ、そこに主はおられます。

だからこそヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、自らを犠牲として捧げるところに、主はおられます。自分を守ろうとするのではなく、隣人を思いやり、互いに支え合い、ともに歩むところに、主はおられます。

わたしたちは聖体祭儀に与る度ごとに、自らの身を裂き、踏みつぶされて、それでも愛する人類のために身をささげられた主の愛に思いを馳せ、それを心に刻み、その思いを自分のものとし、そして同じように実践していこうと決意します。イスラエルの民がそうであったように、わたしたちは、聖体祭儀に与るときに、常に旅立つ準備ができていなくてはなりません。

「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」希望の旅路に、歩み出す勇気を持つ者でありたいと思います。

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2024年12月29日 (日)

聖年開幕ミサ@東京カテドラル

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聖年が始まりました。教皇様は12月24日の夜の主の降誕のミサの始めに、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を開き、26日の聖ステファノの祝日には刑務所を訪れてミサを捧げ、刑務所で聖年の扉を開かれました。そして本日聖家族の主日に、世界中すべての教区カテドラルで、聖年開幕ミサを司教が捧げるようにと指示をされています。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂でも、本日、聖家族の主日の午後3時から、聖年開幕のミサを捧げました。ルルドの前に集まり、そこから大聖堂正面扉まで行列をすることから始まりました。

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聖年に関するお知らせは、中央協議会のこちらのホームページをご覧ください。また東京大司教区からは、各小教区を通じて巡礼のなどの手引きの小冊子を配布しております。

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以下、本日の聖年開幕ミサの説教原稿です。

2025年聖年開幕ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年12月29日

教皇さまは12月24日に、バチカンの聖ペトロ大聖堂入り口右手にある聖年の扉を開かれ、聖年を開始されました。世界中の各教区の司教座聖堂では、本日聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。今回の聖年は、来年2025年の12月28日の日曜日に、各教区での閉幕ミサが捧げられ、翌2026年1月8日に、聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が閉じられることで閉幕となります。

特別聖年などの際には、各地方教会にも聖年の扉を設けるように指示が出ることもありますが、今回はローマの四大バジリカの扉だけが聖年の扉とされています。

聖ペトロ大聖堂に続いて、本日12月29日には教皇様のローマ司教としての司教座であるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂、続いて2025年1月1日の神の母聖マリアの祭日に、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、最後に1月25日にサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂の聖なる扉が順番に開かれます。

聖年は、旧約聖書のレビ記に記された「ヨベルの年」に基づいています。50年ごとに、耕作地を休ませることや負債を免除すること、奴隷の解放などを行うようにと、神は民に命じています。それに倣って教会は、50年ごとに聖なる年を設け、神のいつくしみをあらわす「免償」を与える特別な機会としてきました。現在ではより多くの人がその恵みを受けることができるようにと、25年に一度、聖年を行うことになっています。

なお免償とは直接的な罪のゆるしではなくて、カテキズムには「罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるし(1471)」であると記されています。教皇庁内赦院は、「免償のたまものは「神のあわれみがいかに無限であるかを分からせてくれます。古代において、「あわれみ(misericordia)」ということばは、「免償」ということばと互換性のあるものだったのは偶然ではありません。なぜなら、まさに「免償」は、限界を知らない神のゆるしの十全さを表そうとするものだからです」と、今回の聖年の免償について記した文書で述べています。

ご存じのように東京教区では小冊子を作成し、これらのポイントについての解説を掲載し、この聖年の間に勧められる巡礼の指定教会を記していますので、是非手に取って、ご活用ください。

さて、聖年のテーマは、「希望の巡礼者」とされていますが、そこには二つのテーマ、すなわち「希望」と「旅路を歩む」という、現代社会に生きる教会にとって重要な二つのテーマが示されています。

聖年のロゴには四人の人物が描かれています。それは地球の四方から集まってきた全人類を表現しています。全人類を代表する四人が抱き合う姿は、すべての民を結びつける連帯と友愛を示しています。先頭の人物は十字架をつかんでいます。足元には人生の旅に立ち向かう困難の波が押し寄せていますが、長く伸びた十字架の先は「いかり」となり、信仰の旅を続ける四人が流されてしまうことのないように支えています。人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないように支えてくださっていることを象徴するこのロゴマークは、まさしくいま教会が追い求めているシノドス的な教会のあり方を象徴しています。

教皇さまは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています(1)」と記し、この世界を旅し続けるわたしたちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されます。同時に教皇さまは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。

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この数年間、世界各地でいのちに対する暴力が激しさを増しています。ミャンマー、ウクライナ、聖地ガザなどなど。神から与えられた賜物であるいのちは、幼子が暗闇の中に輝く希望の光として誕生したように、わたしたちの希望の源です。その希望の源への暴力は、どのような形であれゆるされてはなりません。いのちはその始めから終わりまで、例外なく守られなくてはなりません。いのちに対する暴力の広がりは世界から希望を奪い去り、絶望の闇が支配しています。暗闇の中を孤独のうちに歩いているわたしたちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在が必要です。

この聖年において、教会はこの二つ、すなわち希望と巡礼者を掲げて、暗闇の中に小さく輝く幼子のように、暴力と孤独が支配する闇の中で、希望の光を掲げ、ともに支え合いながら道を歩もうと呼びかけています。

教皇さまは、「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神のことばが、その根拠を見つけるのを助けてくれます(1)」と、人となれらわたしたちのうちに住まわれた神のみことばに耳を傾け、希望を見いだすよすがとするように勧めておられます。
 果たしていまのわたしたちの教会は、希望を生み出しているでしょうか。暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。希望の光を求めて訪れる人たちに、安住の地を提供しているでしょうか。絶望と不安の闇にさまよう多くの人を忘れることなく心を向け、光を提供するものとなっているでしょうか。振り返るときにしたいと思います。

10月の末に閉幕したシノドスは、2021年に始まって3年間にわたり、教会のシノドス性、特に宣教するシノドス的な教会となる道を模索してきました。

教皇様は10月26日、最終文書の採択が終わった直後の総会でスピーチされ、「わたしたちは世界のあらゆる地域から集まっています。その中には、暴力や貧困や無関心がはびこっている地域があります。一緒になって、失望させることのない希望を掲げ、心にある神の愛によって結ばれて、平和を夢見るだけでなく全力を尽くして、平和が実現するよう取り組みましょう。平和は耳を傾け合うこと、対話、そして和解によって実現します。シノドス的教会は、ここで分かち合われた言葉に具体的な行動を付け加えることが必要です。使命を果たしに出かけましょう。これがわたしたちの旅路です」と呼びかけられました。

いま世界は希望を必要としています。絶望に彩られた世界には、希望が必要です。

希望は、どこからか持ってこられるような類いのものではなく、心の中から生み出されるものです。心の中から希望を生み出すための源は、共同体における交わりです。互いに支え合い、ともに歩むことによって生まれる交わりです。少ない中からも、互いに自らが持っているものを分かち合おうとする心こそは、交わりの共同体の中に希望を生み出す力となります。希望の巡礼者こそは、今の時代が必要としている存在です。

 

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2024年12月24日 (火)

主の降誕、夜半のミサ

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主の降誕のお喜びを申し上げます。

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、12月24日は午後5時(アンドレア司教様司式)、午後7時半(小池神父様司式)、午後10時(わたしが司式)にミサが捧げられました。どのミサも多くの方が参加し、祈りを捧げてくださいました。

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また、クリスマスにあたり、多くの方からカードやメッセージをいただいています。特に今年は、例年と比べても数が増えています。みなさまの温かいお言葉に感謝申し上げます。いただいたカードは写真のように、教区本部のわたしの執務室に飾ってあります。感謝です。

以下、本日午後10時の夜半のミサの説教原稿です。

なお明日12月25日は午前10時からわたしが司式します。こちらは中継はありません。

加えて、次の日曜日、12月29日午後3時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、2025年聖年の開幕ミサをわたしの司式で捧げます。ご参加いただき、祈りの時をともにしていただければ幸いです。こちらのミサはYoutubeで中継配信される予定です。一年間にわたる、25年に一度の聖年が始まります。

主の降誕(夜半のミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年12月24日

暗闇に包まれたベトレヘムに、主の栄光の光が輝いたと、ルカによる福音はイエス誕生の物語を記しています。

羊飼いたちに現れた天使は、「いと高きところには栄光、神にあれ」と、神を褒め称えた後に、こう続けたと福音は伝えています。「地には平和、御心に適う人にあれ」

全人類に希望を告げるこの言葉が天使から伝えられた地、それをわたしたちは聖地と呼んでいます。聖地という言葉は、近頃は様々なジャンルで用いられ、そこに出かけることを聖地巡礼と呼んだりもするようですが、聖地も聖地巡礼も、キリスト者にとってはイエスの誕生した聖地です。

その聖なる地で一体何が起こり続けているのか。神の御子が誕生した聖地はいま、暗闇と絶望に支配されています。

12月21日の土曜日、教皇様はバチカンで働く枢機卿や聖職者とお会いになった際に、準備された原稿を読む前に、聖地にあるガザ地区での出来事に触れられました。エルサレム総大司教のピッツァバラ枢機卿様がクリスマスのミサをささげるために、ガザへ入ることが事前に合意されていたにもかかわらず、その直前にガザは爆撃され、5人の子どもたちを含む少なくとも22名が命を奪われました。このことに触れた教皇様は、「これは戦争なんかではなく、残虐行為だ」と強く批判され、特に子どもたちへのために心を痛めていることを述べられました。

一昨日の昼の祈りでは、「苦しめられているウクライナでは都市が未だに攻撃にさらされ、時に学校や病院や教会が破壊されています。武器の音がやみ、クリスマスの歌が響くことを祈ります。様々な前線で、クリスマスにあたって戦闘がやむことを祈りましょう。ウクライナで、聖地で、中東全域で、世界中で。そして悲しみのうちにガザのことを考えています。残虐にさらされ、子どもたちにマシンガンの銃撃が浴びせられ、学校や病院が爆撃されている。何という残虐さでしょう」と、呼びかけられました。

しばしば報道されていることですし、わたし自身も直接教皇様から伺いましたが、教皇様はガザでの戦闘が始まってから可能な限り毎日、夜になるとガザの教会に電話をかけ、主任司祭から状況を聞き取っておられますので、その現状が、いかに暴力的であり絶望的であるのかをよくご存じです。

羊飼いたちに現れた天使は、「民全体に与えられる大きな喜び」の目に見えるしるしは、華々しく輝く光だったり、驚くような出来事ではなくて、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であると告げました。誕生したばかりの小さな命です。暗闇に弱々しく輝く小さな光です。

しかし暗闇が深ければ深いほど、小さな光でも輝き渡ります。いま、深い暗闇に覆われ絶望が支配するこの世界に、必要なのは小さな希望の光であります。残虐な暴力は自然に発生するものではなくて、人間の意思によって生み出されています。神からの賜物である命をいただいている人間同士が、その命に対して暴力を働く。その暴力的行為そのものが、わたしたちを取り巻く闇を深めます。

小さな希望の光は、ろうそくの炎のように、吹き荒れる暴力の巻き起こす風で、あっという間に吹き消されてしまうような弱々しい存在です。ですから、必死になって守られなくてはならない。飼い葉桶に寝かされた幼子が、ヨセフとマリアの保護を必要としたように、希望の光は皆によって支えられ守られなくてはならない。

暴力が吹き荒れる暗闇にいると、不安のあまり身を守るために、自分も暴力を用いなければならないという思いに駆られます。暴力の行使を正当化し肯定しようとする誘惑に駆られます。でも絶望を打ち破り暗闇を吹き払う希望の光は、小さく守られなくてはならない炎です。すでに吹き荒れている暴力の嵐に、さらに風を加えることほどおろかなことはありません。

希望は、衣食住のように、外から持ってきて与えることはできません。希望は、それを失い、絶望に打ちひしがれている人の心の中に生み出されなくてはなりません。小さくても良い、か弱くても良い。

でもこの小さな炎は自然には生まれては来ません。希望という小さな炎は、ともに歩み支えてくれる誰かとの出会いの中で心の内に生まれます。飼い葉桶に寝かされた幼子がヨセフとマリアに守られたように、心にかけてくれる人との出会いが、誰かがわたしを守ってくれているという思いが、心に希望を生み出します。だからわたしたちは、暴力の闇にさいなまれ不安に打ち震えている人たちを、決して忘れてはなりません。

平和とは、単に闘いがないことではありません。天使の言葉が示しているように、「御心に適う人」のもとに平和は実現します。つまり平和は、神の思いを実現しようとするところに誕生します。神は何を求めているのか。飼い葉桶に寝かされた幼子をヨセフとマリアが守り育てたように、わたしたちにも、小さな希望の光を守り育て、それをひとりでも多くの人に伝え、小さな希望の炎が多くの人の心にともるようにすることです。小さな希望の光が多くの人の心に宿るとき、この夜を支配する絶望の暗闇は吹き払われます。それが神の平和の実現です。

教皇様は本日12月24日に聖年の扉を開かれ、25年に一度の聖年を開始されます。世界中の各教区の司教座聖堂では、12月29日の聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。

この聖年のテーマは、「希望の巡礼者」」であります。「希望」と「巡礼者」。それこそ今の時代に必要な二つの要素です。暗闇の中を孤独のうちに歩いているわたしたちには、闇を打ち破る希望と、その希望を生み出してくれる一緒に旅をする仲間の存在。教会はこの二つを掲げて、暗闇の中に小さく輝く幼子のように、暴力と孤独が支配する闇の中で、希望の光を掲げ、ともに支え合いながら歩もうと呼びかけています。

教皇様は聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」において、「希望の最初のしるしは、世界の平和を求める願いであるべきです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。教会は絶望ではなくて、希望を生み出す源となることが求められています。

いま教会は希望を生み出しているでしょうか。裁きや暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。謙遜に自らを振り返りながら、希望を生み出す旅路を、続けて参りましょう。小さな希望の炎を吹き消さないように努めましょう。

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2024年12月22日 (日)

枢機卿親任感謝ミサ@東京カテドラル

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12月7日の枢機卿会において、教皇様から枢機卿に親任(公式の教会法の用語では「叙任」)いただいた後、公式に最初に自分の司教座聖堂に入堂する儀式を、12月21日の枢機卿就任感謝ミサ(正式には枢機卿親任祝賀ミサ)の冒頭で行わせていただきました。わたしもアンドレア補佐司教様も、「アビト・コラーレ」と呼ばれる格好をしています。直訳すると「聖歌隊服」ですが、別に歌を歌うのではなく、典礼儀式などの際に着用するものです。枢機卿の場合は、枢機卿会などで教皇様とともに集まる場合にも、着用するように指定されます。

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入堂の際には、司祭と信徒の代表に迎えられ、十字架に接吻の表敬をし、灌水をすることになっています。その後、中央の祭壇前で、しばらくお祈りをいたしました。その間、聖歌隊(イエスのカリタス会のシスター方にお願いしました。「Christus Vincit 」をラテン語で歌ってくださいました。

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ちなみにミサ中に、わたしがその昔、神学生時代に作詞作曲した歌を二つ歌っていただきました。ありがとうございます。一つはよく使っていただいている「主とともに」(聖公会の聖歌集に収録されています)。もう一つは聖体拝領で歌われた「いま、わかつ」。

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ミサには日本の司教団のほぼ全員と、引退されている仙台の平賀司教様もご参加くださり、司教団は二つに分けて司教座側に東京教会管区の司教様たちと前田枢機卿様、反対側に大阪高松、長崎の教会管区の司教様方と、東京教区の司祭評議会評議員の司祭が代表として座りました。それ以外の共同司式の神父様方は、会衆席前方右に集まられました。

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クリスマス前の忙しいときに出席くださった来賓のみなさまには感謝申し上げます。諸宗教関係のみなさま、そして在東京外交団からもご出席いただきました。ありがとうございます。その昔、宣教師として働かせていただいたアフリカのガーナからは、大統領がメッセージをくださいました(上の写真)。これも感謝です。

そして何よりも、教区内外から、多くの信徒・修道者のみなさまにご参加いただいたこと、みなさまの心強いお支えのしるしとして、心より感謝申し上げます。またさらに多くの方がYoutubeの配信でご一緒いただいたり、その後ご覧いただいて、多くのメッセージをいただいております。感謝いたします。

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ミサでは、冒頭で、教皇庁臨時代理大使のモンセニョール・ファブリスが、教皇様からの信任状をラテン語で朗読してくださいました。上の写真は朗読後に、皆さんに、本当に教皇様の書簡があるのだと示しているところです。この書簡の用紙が特別で、多分アイロンでもかけないとまっすぐにならないのかもしれないほど硬質ですが、なんとか押さえて撮影したのが下の写真です。

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すでに何度かお伝えしましたが、ここに私の名義教会名が記されています。San Giovanni Leonardi教会です。今のところ、来年の10月9日に、同教会で着座式を行う予定にして調整中です。最終的に日時が決定したときに、またお知らせいたします。同教会の主任司祭によれば、10月9日は、保護の聖人の記念日なのだそうです。思いのほかローマの中心部から離れているので、訪問するのは簡単ではありませんが、他の枢機卿さんのお話によれば、名義教会は年に一度くらいは訪問することになろうかと思います。新しい住宅地で、子どもが多い教会だと、すでに訪れてくださった日本の巡礼グループの方に伺いました。

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ミサの終わりには、男女修道会代表、司祭団代表、信徒代表など多くのみなさまのご祝辞や花束をいただきました。ありがとうございます。こういうときは司教協議会の会長が司教団を代表して挨拶するのですが、それはいまわたしが務めているので、副会長の梅村司教様にお願いしました。しかも前晩に急にお願いしたにもかかわらず、喜んでお話ししてくださいました。感謝です。その中に、枢機卿の三つの段階のお話があり、わたしも初めて知りました。

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枢機卿には司教枢機卿、司祭枢機卿、助祭枢機卿があり、わたしは司祭枢機卿に任じられています。多くのバチカンの役所で働く枢機卿様や教区を持たない枢機卿様は助祭枢機卿であることは知っていましたが、梅村司教様が語られた歴史的背景によれば、最初はローマ教皇(ペトロの後継者)を周りで助ける助祭が枢機卿になり、その後、ローマの教会の主任司祭が枢機卿に任ぜられるようになり、さらに教会が発展して、ローマ以外の教区の司教が顧問として枢機卿に任ぜられるようになったということです。

以下、感謝ミサでの説教の原稿です。要約筆記をしてくださったみなさん、ありがとうございます。また下にリンクを張りますが、久しぶりに中継をしてくださった関口教会の皆さん、ありがとうございます。そして準備に関わり、当日もスタッフとして働いてくださった多くの方々に、心から感謝申し上げます。

枢機卿親任感謝ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年12月21日

シノドスの第二会期の第一週が終わった10月6日の日曜日、ローマの日本人会のミサが神言会の総本部小聖堂で行われ、司式するために出かけてきました。ミサ後の交流会も終わり、宿舎のあるバチカンのサンピエトロ広場の近くでタクシーを降りると、日曜日の昼の教皇様によるアンジェルスのお祈りが終わり、人の波が広場の外へ向けて移動していました。その波にのまれながら歩いていると、顔見知りの聖年から声をかけられました。「東京の大司教が枢機卿に任命された。おめでとう」

それがすべての始まりでした。その瞬間は信じられませんでしたが、宿に着くとコロンビアの枢機卿さんがロビーにおられ、即座にスマホで映像を見せてくださいました。本当でした。そのときからわたしの人生は大きく変わり、今でもまだその変化に自分自身がついて行くことができずにいます。

人間の人生には、それほど豊かな時間が与えられているわけではありませんが、そこにはそれぞれの喜びがあり、希望があり、涙があり、苦しみがあり、いわばそれぞれのドラマがあります。時に予期しなかったこと、自分では考えてもいなかったことに遭遇することもあります。時に自分が予定したとおりに、また準備したとおりに道が開けることもあれば、全く逆にすべての門が閉ざされることすらあり得ます。自分の人生のために努力をすることは不可欠ですが、同時にそこには自分ではどうしようもないハプニングもつきものです。そのハプニングに、わたし達キリスト者は、しばしば神のみ手がどこにわたし達を導こうとしているのか、識別するためのきっかけを見いだそうとします。

そして今、わたしは、自分の人生の中で今のところ一番のハプニングであるこの任命に、いったいどのような神様の計画があるのか、識別するためのきっかけを必死になって探しています。

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枢機卿への任命が発表された翌日、シノドスの会場にいたわたしの手元に、大きな封筒が届きました。何だろうと思って開けてみると、教皇様からの書簡でした。教皇フランシスコの手紙の特徴は、一番最後のご自分の署名が虫眼鏡でも使わないと読めないくらい小さいことです。教皇様御自身の生きる姿勢を、その小さな署名が表していると言われます。

その書簡は、新しく任命された枢機卿をローマの教会の聖職者として迎え入れる歓迎の内容ですが、その中心には、次のように記されています。少し長いですが、翻訳したものを朗読します。

「かつてアルゼンチンの詩人(フランシスコ・ルイス・ベルナルデス)が十字架の聖ヨハネを特徴づけた三つ姿勢、すなわち「目を上げ、手を合わせ、裸足でいる」を自ら体現するために、あなたが枢機卿としてあらゆる努力をされることを強く勧めます。

あなたの教会への奉仕は、より遠くを見渡し、より広く、より熱烈に愛に生きるために、遙か彼方へと目を向け、心を大きく開くことを必要とするので、「目を上げ」なくてはなりません。十字架の聖ヨハネとともに、キリストの刺し貫かれた脇腹を仰ぎ見て学ぶためです。

教会が最も必要としているのは、福音を告げ知らせることと共に、キリストに従う群れをよりよく牧するためのあなたの祈りですから、「手を合わせ」なくてはなりません。祈りは、私たちの民に対する神の御旨を求め見いだし、それに従うための識別そのものです。

戦争、差別、迫害、飢餓、さまざまな形態の貧困による痛みや苦しみに打ちひしがれている世界のすべての地域の厳しい現実に触れるため、「裸足でいる」ことが必要です。これらの世界の現実は、あなたの大いなる思いやりといつくしみを必要としています。」

このように記された後教皇様は締めくくりとして、「あなたの寛大さに感謝するとともに、「仕えるもの」の称号が 「猊下」の称号を凌駕するようになることを祈ります」と書簡を締めくくっておられます。

教会が宣教するシノドス的な教会であることを求められる教皇フランシスコは、共に支え合い、助け合いながら、力を合わせて祈り続けることで、聖霊の導きを共に識別し、進むべき方向性を見いだす必要性をしばしば強調されています。教皇様の貧しい人や困難に直面する人への配慮は、単に個人的に優しい人だからという性格の問題ではなくて、教会が神の愛といつくしみを具体的に体現する存在であるからに他なりません。従って、教会がともに歩む教会であるのであれば、それは当然、神の愛といつくしみを具体的に示しながらともに歩む教会であって、そこに排除や差別、そして利己主義や無関心が入り込む余地はありません。

教皇フランシスコの前任であるベネディクト16世は、御自身の最初の回勅「神は愛」において、教会における愛(カリタス)の業を重要視され、それが単に人間の優しさに基づくのではなく、信仰者にとって不可欠な行動であり、教会を形作る重要な要素の一つであることを明確にされました。

回勅「神は愛」には明確にこう記されています。

教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げしらせること、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです(25)」

教会は愛である神を具体的に示すものでなくてはなりません。その愛は、単なる慈善活動にとどまらないことは、回勅において、「愛の奉仕」が「神の言葉を告げ知らせること」と「秘跡を祝うこと」とともに、互いに互いを必要とする教会の本質の一部であるという指摘から分かります。つまり、教会の愛の奉仕のわざは、神の福音の実現であり神への賛美の礼拝でもあります。ですから、愛の奉仕のわざは、それを必要とするような社会の現実を変革し、神が望まれる社会を生み出すことへとつながっていかなくてはなりません。そのためにも、聖霊の導きを識別することは重要ですし、その識別の結果として見いだされた方向へ、神の民を導く牧者の存在も不可欠です。

教皇フランシスコは、この度の新しい枢機卿への書簡の中で、その識別に基づいて、神の愛といつくしみを実現し、神の望まれる世界の実現のために、神の民を導く牧者であれと呼びかけておられます。そのよびかけに、忠実に生きるものでありたいと思います。

わたし達は人間の知恵と欲望だけに従って、富と繁栄の世界を築きあげることはできません。わたし達にいのちを賜物として与えてくださった神が望まれる世界を、実現することこそが、本当の意味での、富と繁栄の世界です。世界はハプニングに満ちあふれていますが、その中にこそ、神の望まれる計画への道がしばしば隠されています。共に祈りのうちに神の導きを識別し、互いに支え合いながら、歩みを続けて参りましょう。

あらためて多くの皆様のお祈りと励ましの言葉に感謝し、これからわたしが与えられた役割をふさわしく果たしていくことができるように、皆様のより一層のお祈りをお願い申し上げます。

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2024年12月 8日 (日)

東京カテドラル聖マリア大聖堂献堂60年

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東京カテドラル聖マリア大聖堂は、1964年12月8日に献堂され、無原罪の聖母に奉献されました。今日で献堂から60年となります。

献堂された1964年というのは、ちょうど教会が第二バチカン公会議の真っ最中であった頃です。第二バチカン公会議は1962年から始まり1965年まで続きました。献堂後の1969年には第二バチカン公会議の典礼改革による新しいミサ典礼が発表され他、ちょうど典礼変革の時代でした。

戦争中に焼け落ちた旧聖堂に代わり、カテドラルを再建することは当時の土井枢機卿様をはじめ教区の願いでしたが、ケルン教区の支援の申し出もあり、第二バチカン公会議が始まる直前、1962年5月締め切りで設計コンペが行われ、丹下健三氏のデザインが採用されました。その経緯から、基本的に、現在でも当初の丹下健三氏の設計に手を加えることなく聖堂は建っております。

本日は献堂60年の記念となる主日ミサですが、わたしが枢機卿親任式などのためローマに出かけているため、主日ミサで、小池神父様にメッセージの代読をお願い致しました。以下に、そのメッセージを記します。

なお大聖堂では、12月8日午後4時から、献堂60年を記念した聖体賛美式と晩の祈りが、アンドレア補佐司教様の司式で行われます。どなたでも自由にご参加頂けます。献堂の60年を祝い、ご聖体の前で、祈りのひとときをお過ごしください。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂献堂60周年
2024年12月8日

今年は12月8日の無原罪の聖母の祭日が日曜日にあたり、待降節第二主日と重なりました。通常、典礼上の祝日が主日と重なる場合、主日が優先されますが、無原罪の聖母は重要度の高い祭日であることから、今年の典礼の暦では、明日の12月9日が無原罪の聖母の祭日とされています。

東京教区にとっては、12月8日の無原罪の聖母の祭日は司教座聖堂(カテドラル)の献堂記念日であり、聖マリア大聖堂の名前をいただいた「聖マリア」こそは無原罪の聖母です。加えて今年は献堂からちょうど60年の節目の年でもありますので、本日の主日ミサの中で、共にカテドラルの献堂を記念したいと思います。

そもそもカテドラルというのは、司教座が置かれている聖堂のことであり、教区における神の民の一致の目に見える象徴として、教区の母教会という意味を持っている聖堂です。その意味で、献堂記念日は関口教会だけのお祝いではなく、教区全体にとってのお祝いであり、あらためてカテドラルが象徴する司教との交わりのうちに一致する教会共同体のあり方を見つめ直すときでもあります。

1891年に大司教区として設置された東京教区は、当初のカテドラルを築地教会に定めました。その後、1900年に関口小教区が設けられ、1911年にはその構内に現在も残るルルドの洞窟が宣教師によって建設され、1920年には、大司教座が築地から関口に移され、関口教会がカテドラルとなりました。104年前のことです。

関口教会の聖堂は戦争中に東京大空襲で焼失しましたが、戦後、ドイツのケルン教区の支援によって再建が決められ、故丹下健三氏の設計により、1963年に工事が始まり、1964年12月8日に完成して献堂式が行われました。

この東京カテドラル聖マリア大聖堂が建設された経緯を振り返るとき、わたしたちはケルン教区が具体的に示した「ケルン精神」を思い起こさせられます。

先日のミャンマーデーの際にも触れましたが、「ケルン精神」というのは、戦後のドイツの復興期にあって、ケルン教区が掲げた自己犠牲と他者への愛を意味しています。ドイツも敗戦国であり、1954年当時は復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではありません。にもかかわらず海外の教会を援助する必要性を問われた当時のケルンのフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直しにも大きく貢献したと伝えられています。

その「ケルン精神」の最大のシンボルが、この東京カテドラル聖マリア大聖堂です。この大聖堂の中に祈りのうちにたたずむとき、わたしたちはまず第一に、この「ケルン精神」を思い起こし、心に刻みたいと思います。

さらに言えば、その「ケルン精神」その後、ケルン教区と東京教区が一緒になっていまでも続けているミャンマーへの支援に繋がりました。その歴史を顧みるときに、ケルンと東京とミャンマーの教会は、長年にわたってシノドス的な教会であろうとしてきたことが分かります。わたしたちは、ともに歩み、互いに耳を傾けあい、互いの必要に応えて助け合い、共に祈りを続けながら、聖霊の導きを見いだそうとしてきました。その意味で、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、いま教会が歩もうとしているシノドスの道のシンボルの一つです。教会のシノドス性を豊かに表すこの聖堂を、司教座聖堂として与えられていることに、感謝したいと思います。

昨日12月7日、わたしはバチカンの聖ペトロ大聖堂において、教皇様より枢機卿の称号をいただきました。枢機卿は単なる名誉職ではなく、教皇様の顧問団の一人として、教会全体において何らかの役割を果たしていくことが求められる立場です。その求められている役割を果たすには、自分が十分ではないことをよく自覚し、恐れの中で震えております。わたしが忠実に務めを果たすことができるように、これからもみなさまのお祈りによる支えをお願い申し上げます。

今日の主日は、バチカンにおいて教皇様と共に感謝のミサを捧げておりますので、その中で、日本の教会のために、特に東京の教会のためにお祈りさせていただきます。

洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネが救い主の先駆者であることを教えています。洗礼者ヨハネは「荒れ野」で、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だと記されていますが、その響き渡る声によって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と福音は記します。

わたしたち教会も、現代社会という「荒れ野」に生きています。いのちを奪う暴力がはびこり、戦争が続き、利己的な価値観が支配する、「いのちの荒れ野」に生きています。その現代の「いのちの荒れ野」のただ中にあって、教会は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声であり続けたいと思います。

枢機卿がいただく正装の色は深紅です。それは福音のために殉教すらいとわないという決意を象徴しています。ですからわたし自身が教会の先頭に立って、現代社会に向かい、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ覚悟を持たなくてはなりません。同時にそれは教会全体の務め、すなわちキリストに従う皆さんとともにある教会の務めです。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です」と記しています。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方ですと指摘されています。

聖母マリアは。この「いのちの荒れ野」のただ中に立つ教会と歩みを共にしてくださいます。共に闘ってくださいます。傷ついたわたしたちを神の愛で包み込んでくださいます。わたしたちと共に、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声になってくださいます。

ともに歩んでくださる聖母の取り次ぎに信頼しながら、これからも共に、荒れ野に響きわたる先駆者の声であり続けましょう。

 

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2024年11月17日 (日)

2024年東京教区ミャンマーデー

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11月の第三主日は、東京教区において「ミャンマーデー」とされています。ケルン教区とのパートナーシップ関係から発展して、シノドス的教会を具体的に生きるあかしとして、ミャンマーの教会への支援が続けられています。

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今日のミサにはロイコー教区のセルソ・バシュウェ司教とフィリップ神父様を迎え、都内のミャンマー共同体の方々も加わり、共にミャンマーの平和と安定のために祈りを捧げました。

セルソ司教様は、政治的混乱と武力対立が続くなかでカテドラルや教区本部の建物から追い出され、現在は国内避難民の方々と共に生活をされています。ミサの終わりに挨拶をいただきましたが、東京教区からの支援も含めてロイコー教区のための小さな小屋を建て、そこに司教様も住んでおられます。カテドラルを奪われた司教様です。

以下、配信ミサの説教原稿です。

年間第33主日
ミャンマーデー
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年11月17日

今日はミャンマーデーであり、ミャンマーロイコー教区のセルソ・バシュウェ司教とフィリップ神父様を迎え、東京在住のミャンマー共同体のみなさまと共に、ミャンマーのために祈りを捧げています。ミャンマーの教会は東京教区にとって長年の姉妹教会・パートナー教会ですが、そのパートナーシップの原点は、東京教区が第二次世界大戦後、ドイツのケルン教区によって支援を受けたことに遡ります。

2004年2月、東京教区とケルン教区のパートナーシップ発足50周年を迎え、当時の岡田大司教はメッセージにこう記されました。

「1979年、両教区の友好25周年にあたり、当時の白柳誠一東京大司教は「ケルン精神」を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の信者に呼びかけました。そして、来日した当時のケルン教区長ヘフナー枢機卿と白柳大司教はケルン精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマーの教会を支援することに合意しました。こうして東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけることになった」と記されています。

ケルン精神というのは、戦後のドイツの復興期にあって、ケルン教区が掲げた自己犠牲と他者への愛の精神を意味しています。ドイツも敗戦国であり、1954年当時は復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではありません。にもかかわらず海外の教会を援助する必要性を問われた当時のケルンのフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直しにも大きく貢献したと伝えられています。

その「ケルン精神」に倣い、今度は東京の教会が具体的にその精神に生きるためにと始まったのが、ミャンマーへの支援でした。

そう考えてみると、まさしくいま教会がその必要性を説いているシノドス性は、すでに1954年にケルンが東京を支援し始めたとき、そして1979年に両教区が協力しながらミャンマー支援を始めたときに、ケルンと東京とミャンマーの教会の間に存在していたということができると思います。わたしたちはすでに長年にわたって、互いに支え合うことで、シノドス的な教会、すなわちともに歩む教会であろうとしてきました。いまそのシノドス性の重要性が説かれ、教会がシノドス的であることが求められているからこそ、わたしたちはその先駆者として、率先して教会のシノドス性を深め、その重要性を説いていかなくてはなりません。

白柳枢機卿の時代に始まり、岡田大司教の時代を経て今に至るミャンマーデーです。東京の教会は特に、ミャンマーにおける神学生養成の援助に力を注ぎ、具体的に神学校の建物の建設も行ってきました。さらにこの数年は、コロナ禍の混乱の中で起こったクーデターの後、混乱するミャンマーの安定と平和を祈ることも、大事な意向となっています。

ミャンマーでは未だに政治状況は安定しておらず、セルソ司教様はご自分のカテドラルを追い出され、国内避難民と共に生活をされています。平和を呼びかける教会は、暴力にさらされているのが現実です。

マルコ福音は、世の終わりを示唆する様々な困難を記しています。ミャンマーでの不安定な状況、ウクライナでの戦争、ガザでの紛争など、各地での頻発する武力行使を伴ういのちへの暴力、政治や経済の混乱と国際関係の混乱は、現代社会がまさしくこの世の終わりの状況に直面していると思わせます。しかし同時に、そういった今すぐに世の終わりが来るというような危機感は、歴史を通じてしばしば起こったことでもあり、そのときの社会の状況に一喜一憂するよりも、その中に示されている「時のしるし」を読み取ることの大切さを福音は説いています。

「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と始まる第二バチカン公会議の現代世界憲章は、全人類との対話のうちに神の福音をあかしするために、「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務が」あると指摘しています。目の前で起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点からそこに示される「時のしるし」を読み取ることは、教会の務めです。

わたしたちの眼前で、神が賜物として与えてくださったいのちが暴力的に奪われる状況が続いている中で、わたしたちが読み取る「時のしるし」は一体なんでしょうか。賜物であるいのちは、その始めから終わりまで例外なく尊厳が護られなくてはならないとわたしたちは信じています。社会の現状はこの信仰への挑戦です。その現実からわたしたちはどのようなときのしるしを読み取るのでしょうか。

人類はさまざまな苦難に直面するものの、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と語ることで、愛に満ちあふれた神はご自分の民を決して見捨てることはないと、主イエスは断言されます。わたしたちは神からに捨てられることはないという事実は、わたしたちの信仰において大前提です。どのような困難な時代に合っても、神の言葉は滅びることはありません。神の言葉は常にわたしたちと共にあります。神の言葉は主イエスご自身であります。

わたしたち神の民にとって時のしるしを読み取るために歩むべき道は、今回のシノドスの中で示されています。シノドスは、神によって集められたわたしたち神の民が、ともに耳を傾けあい、支え合い、祈り合い、ともに歩むことによって、聖霊の導きを一緒に識別することの重要性を説いています。まさしく時のしるしを読み取るのは、特別な才能を持った予言者の務めではなく、共に識別する神の民の務めであり、その意味で、教会は現代に生きる預言者であります。

教皇様は、シノドスの最終日に採択された最終文書を受け取られて、この最終文書をご自分の文書とされることを公表されました。これまでの通例であったシノドス後の使徒的勧告は、あらためて書くことをしないと宣言されました。

その上で教皇様は、「(具体的な目に見える)あかしを伴わない文書は価値を失ってしまう」と指摘され、「暴力、貧困、無関心など」が蔓延する世界に生きるわたしたちは、「失望させることのない希望をもって、それぞれの心に授けられた神の愛のもとに一致し、平和をただ夢見るだけでなく、そのために全力を尽くさなければならない」と、シノドス参加者に求められました。

わたしたちは希望をどこかから持ってくることはできません。希望は心の中から生み出されます。教会は、希望を生み出す共同体でありたいと思います。そのためにも互いに支え合い、耳を傾け合い、ともに歩む教会でありたいと思います。長年のケルンとミャンマーと東京のパートナーシップは、シノドス的な教会の模範として、多くの人の心に希望を生み出してきました。混迷を極める現代社会に預言者として存在する教会は、「時のしるし」を共に識別し、福音を具体的に明かしする存在であり続けたいと思います。

なお、ミサの最後にはセルソ司教様からの英語での挨拶もありますので、是非ビデオをご覧ください。

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2024年8月15日 (木)

聖母被昇天@東京カテドラル

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聖母被昇天の祝日の今日、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後6時からミサが捧げられ、わたしが司式しました。

ガーナ訪問からは、昨晩帰国しました。8名の方々と一緒の訪問団となり、皆無事に帰国致しました。お祈りいただいた皆さまに感謝致します。今回訪問した、わたしがかつて主任司祭であったオソンソン村の出身で、現在目黒教会助任のマーティン神父が同行してくれたおかげで、いろいろと現地での手配が進み、同行してくださった方々には、5時間かかるミサとか、いろいろと体験していただいたと思います。これについては稿をあらためて記します。

以下、本日午後6時の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年8月15日

聖母被昇天を祝うこの日、日本では太平洋戦争が終戦となった日を記憶に留め、多くの人が平和を求めて祈っています。神の望まれる世界の実現を求めているわたしたちは、わたしたちのいのちの創造主である御父の御心を思いながら、具体的にこの地において、神の平和が実現するように祈り、語り、また行動していきましょう。平和の元后である聖母マリアの取り次ぎに信頼しながら、祈りを深めたいと思います。

あらためて繰り返すまでもなく、わたしたちの信仰は、いのちは神からの賜物であって、それがゆえにいのちを守り、またいのちが十全に生きることができるように努めることは、わたしたちの使命であります。また神は、ご自身の似姿としていのちを創造されました。完全であり完璧である神の似姿として、いのちには尊厳がその始まりから与えられています。ですからいのちの始まりから終わりまで、人間の尊厳が保たれるように努めることも、わたしたちに与えられた大切な使命です。

実際の世界は残念ながらその事実を認めていません。わたしたち人類は、その時々に様々な理由をこじつけては、賜物であるいのちに対する暴力を肯定してきました。そういったいのちに対する暴力を肯定する様々な理由は自然に発生するものではなく、人間の都合で生み出されたものです。すなわち、いのちに対する暴力は、自然に発生するものではなく、わたしたち自身が生み出したものであります。

いまわたしたちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、いのちを暴力的に奪い去る出来事で彩られています。いのちに対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。

ウクライナやガザでの現実を見るとき、また長年のパートナー教会であるミャンマーの現状を見るとき、神が愛される、一人ひとりの人間の尊厳は、暴力の前にないがしろにされています。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、政治的な混乱が続き、多くの人がいのちを奪われました。

毎年8月6日から15日までの10日間、日本の教会は平和旬間を定めて、平和について祈り、語り、行動する決意を新たにしています。もちろん平和について考え祈ることは、8月だけの課題ではありません。なぜならば、平和とは単に戦争がないことだけを意味してはいないからです。

ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。

そう考えるとき、平和とは単に戦争がないことではないと気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。いまの世界に神の平和は実現していません。

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今年の平和旬間に寄せて、ミャンマーのヤンゴン教区大司教であるボ枢機卿様から、ビデオメッセージをいただきました。そのメッセージの中で枢機卿様は、現在のミャンマーの状況を詳しく述べられ、平和を求めて声を上げる教会が暴力にさらされていることを訴えられています。その上で枢機卿様は、「正義とは報復を意味するのではなく、互いを認めることと悔い改めを意味します」と強調されています。

いま必要なことは、対立し憎しみを増やすような暴力に暴力を持って対抗することではなく、ともに歩みより、互いの声に耳を傾けあうことです。

平和の元后である聖母マリアは、天使のお告げを受け、「お言葉通りにこの身になりますように」と、全身全霊をささげて神の計画の実現のために生きることを宣言されました。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢は、福音に記されているこの聖母マリアの讃歌に明らかに示されています。

エリザベトを訪問したときに高らかに歌い上げたこの讃歌には、「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます」と、神の計画実現とはいかなる状態なのかが明示されています。

そこでは、この世界の常識が全く覆され、教皇フランシスコがしばしば指摘される、社会の中心ではなく周辺部に追いやられた人にこそ、神の目が注がれ、いつくしみが向けられていることが記されています。

聖母マリアがその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な、救い主の母となるという役割であるにもかかわらず、その選びを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを、讃歌の中で高らかに歌っています。

また「身分の低い、この主のはした目にも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が何をもって人間の価値を判断しているのかを明示します。それは人間の常識が価値があるとみなす量りで量るのではなく、神ご自身の量りで判断される価値です。

すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだという、神のいのちに対する価値観が、そこに明示されています。わたしたち人間が価値がないとみなすところに、神はご自分が大切にされる価値を見いだされます。

エリザベトは、「神の祝福は、神のことばが実現すると信じるものに与えられる」と宣言します。わたしたちにとって、神のことばが実現することこそが、神の秩序の確立、すなわち神の平和の実現であります。真の平和は、弱い存在を排除するところにはありません。自分の利益のみを考えて、他者を顧みないところには、真の平和は存在しません。自分の利益のために、他者のいのちを犠牲にしようなどと考える利己的な心の思いのうちに、神の平和は実現しません。

いのちに対する暴力がはびこる世界の現実を目の当たりし、十字架上のイエスのもとに悲しみのうちにたたずまれたあの日のように、聖母は今日もわたしたちが生きる道筋を示そうとたたずまれています。栄光のうちに天にあげられた平和の元后、聖母マリアの御心をおもい、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の平和の実現のために、ともに歩んで参りましょう。

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