カテゴリー「配信ミサ説教」の114件の記事

2024年4月 2日 (火)

2024年御復活の主日@東京カテドラル

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3月31日、復活の主日、午前10時からの東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月31日

皆様、御復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方、堅信を受けられた方、おめでとうございます。

十字架における受難と死を通じて新しいいのちへと復活された主は、わたしたちが同じ新しいいのちのうちに生きるようにと招きながら、ともに歩んでくださいます。

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教会は、単に日曜日に集まるこの建物だけのことではありません。教会とは人の集まりのことです。御父がわたしたちに賜物としていのちを与えと信じ、復活されたイエスを救い主、新しいいのちに招かれる主と信じ、聖霊が常に守り導いていると信じている、信仰者の集まりこそが教会です。旧約においてイスラエルの民が神から選ばれ、神と契約を結んだように、主イエスの御体と御血による新しい契約の民として招かれているわたしたちは、新約における神の民であります。教会は、救いの道をともに歩む神の民であり、その中心には、ご聖体を通じて、また御言葉を通じてわたしたちと共にいてくださるイエスがおられます。そして最後の晩餐で示されたように、イエスはわたしたちに、互いに足を洗いあうように、すなわち互いに愛し合い支え合って歩むようにと命じられました。さらに復活された主は、全世界に行って福音をのべ伝えるようにと命じられました。わたしたち教会は、その命令に生きて、時の流れを旅する神の民であります。

新しい仲間を迎え入れ、互いに支え合いながら、ともに歩んでいきましょう。体が一つの部分でできていないように、そこには様々な人がいて当然です。一致は一緒ではありません。それぞれが自らに与えられたいのちを十全に生き、互いに支え合い、ともに歩むことで、主における一致を実現していきましょう。

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さて教皇様は、3月27日に、聖地で暮らすキリスト者に向けて書簡を送られました。昨晩も触れましたが、イスラエルとパレスチナの対立には長い歴史があり、この数ヶ月は、泥沼のような状況の中で、多くのいのちが危機に直面し、ガザではすでに3万人を超えるいのちをが暴力的に奪われたと報道されています。

教皇様は書簡の冒頭で、「わたしたちの信仰の中心にある御復活は、主御自身が生き、亡くなられ、そして復活したまさしくその地でこれを祝う皆さんにとって特に意味があります。あなた方が何世紀にもわたって生きてきたその地がなければ、救いの歴史は成り立ちません。・・・皆さんの信仰における証しに感謝します。皆さんの間に存在する愛に感謝します。希望のない状況で希望を持ち続ける皆さんの力に感謝します」と呼びかけられました。

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主の復活を今日祝うわたしたちは、その出来事を伝えるヨハネの福音を耳にしました。葬られたはずの主の体が見当たらない「空の墓」は、復活の最も最初の証拠です。その事実が起こったその地で、聖地で、いまこのときも、いのちが危機に直面し、人々は希望を奪われ続けています。教皇様の意向に合わせて、わたしたちも、聖地にとどまり続けている信仰における兄弟姉妹の勇気ある証しに感謝し、パレスチナもイスラエルも、聖地に生きているすべての人の安全と安心のため、平和が確立される道が開かれることを祈りたいと思います。

姉妹教会であるミャンマーのバモー(Banmaw)教区のレイモンド司教様から、聖週間中にメールが来ました。レイモンド司教様は、ミャンマーの司教団を代表して、アンドレア司教様の叙階式に参加してくださった方です。

レイモンド司教様からは、ミャンマー北部にあるバモーの町では、この数日、砲撃やドローンによる爆撃が相次ぎ、司祭や信徒はシェルターに避難せざるを得ず、聖週間の典礼を行うことができないというメッセージでした。果たして本日、復活の喜びを共にすることができているのかどうか、心にかかります。

聖地にしても、ミャンマーにしても、またウクライナでも、さらにはシリアやアフリカ各地。それぞれの国の名前を挙げたらきりがありません。いのちを危機にさらすような状況が、世界各地で収まることがありません。その地で生きる人たちが心に抱く恐怖はいかばかりかと想像いたします。いのちの危機に直面し、不安と絶望のうちに希望を失っている多くの方のために、復活の主がいのちの希望を与えてくださるように祈りましょう。同時に、こういった事態が長期にわたって続くと、どうしてもその存在を、安全なところにいるわたしたちは忘れてしましがちであります。忘却されることほど、危機に直面している方々からいのちを生きる希望を奪うことはありません。常に記憶にとめ、平和が訪れるまで祈り続けましょう。

暴力によって引き起こされる悲しみや恐怖は、怒りと復讐の心を引きずり出します。結局、暴力の連鎖がいつまでも続き、いのちの危機が増し加わるだけで、このような人間の状態は神の御心に適うことでは決してありません。

主イエスが復活によって死の闇を打ち破り、新しいいのちの希望が闇に輝いた喜びの日を祝うわたしたちは、あらためていま世界に必要なのは、まさしく新しいいのちに復活された勝利の主が人類にもたらした恵み、すなわち神の愛に基づくゆるしと愛と希望であって、神の平和が世界を支配するように、争いをやめいのちを守り、人間の尊厳を確立するように、祈りのうちに求めたいと思います。

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第一朗読の使徒言行録をどのように聞かれましたか。ペトロの説教です。ペトロは堂々と、「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をしたわたしたちに対してです」と人々に宣言します。使徒の頭であるペトロだから当然と言えば当然です。しかしそのペトロは、復活の出来事の数日前には、三度にわたって、堂々と、イエスのことを知らないと宣言していました。それが良いか悪いかではありません。つまり、復活の出来事の体験は、それほどにまでに人を変えるのです。古い生き方を脱ぎ捨て、新しいいのちとして生きるように、変えるのです。古い生き方を捨て去り、まったく新しい生き方を選択する。それこそが復活の主にあって生きる道ではないでしょうか。

世界の現実を見るとき、またわたしたちの国の現実を見るとき、時に過去のしがらみ、歴史的背景、様々な過去に基づく理由によっていのちの危機が生み出され続けています。暴力の連鎖によって、憎しみと復讐の道を歩み続けるのではなく、まったく新しいゆるしの道を選択すること。何とか今の生きる道を維持していくのではなくて、神の導きの中で、常に新しくされ、いのちを守る道を見いだそうと努めること。それがわたしたちのたどるべき道です。

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2024年3月31日 (日)

2024年復活徹夜祭@東京カテドラル

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御復活おめでとうございます。

東京カテドラルで行われた復活徹夜祭では、15名の方が洗礼を受けられました。またさらに7名が加わって堅信も行われました。おめでとうございます。今日から一緒に信仰の道を歩んで参りましょう

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以下、復活徹夜祭の説教原稿です。

聖土曜日復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月30日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

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暗闇は光によってのみ打ち払われます。復活讃歌の冒頭には「まばゆい光を浴びた大地よ、喜び踊れ。永遠の王の輝きは地を照らし、世界を覆う闇は消え失せた」と、闇を打ち払う光の輝きが記されています。

それほどの力強い光は、いったいどれほどの大きな光なのでしょうか。復活讃歌の終わりには「このろうそくが絶えず輝き、夜の暗闇が打ち払われますように」と歌われています。「このろうそく」とはどのろうそくでしょう。ここに輝いている復活のろうそくです。大きな光でしょうか。いや少しでも風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎です。弱々しい炎です。

復活讃歌は、「その光は星空に届き、沈むことを知らぬ明の星、キリストと一つに結ばれますように」と続いています。

天地創造を物語る創世記の冒頭で、神はまず「光あれ」と宣言し、混沌とした闇に秩序をもたらします。すなわち神こそは、世界を覆う闇を打ち払う希望の光であり、この世界に正しい秩序を与える世界の王であります。復活讃歌は、この小さな復活のろうそくの光が、世界を照らす希望の光である救い主、キリストと一つに結ばれる、神の存在の象徴であることを明確にします。わたしたちは今宵、暗闇の中に集まって、復活のろうそくに火がともされるのを目撃しました。闇が深ければ深いほど、小さな光でも力を持って輝きます。すなわちわたしたちは、復活のろうそくの小さな光をこの闇の中で体験することで、その光が一つになって結ばれる全能の神の光の輝きを体験しました。復活された主は、人類を覆う最も深い闇である死を打ち破り、新しいいのちへの希望を与え、混沌とした世界に新たな秩序を打ち立てられました。復活のろうそくにともされた炎は、死の闇を打ち破り、新しいいのちへと復活された主イエス・キリストの希望の光です。

暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しいいのちに招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることをわたしたちはあらためて思い起こします。

復活のロウソクにともされた小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられました。皆さんお一人お一人が手にする小さなろうそくに、小さな炎がともされていきました。

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「キリストの光」という呼びかけの声に、なんと応えたでしょうか。「神に感謝」です。何をわたしたちは感謝したのでしょう。それは、神から新しいいのちへの希望を与えられたことをあらためて実感しながら、神に感謝しました。ひとり一人のろうそくの炎は小さくとも、ここに集う多くの人のロウソクにそれが分け与えられ、全体として、聖堂を照らすに十分な光となりました。

わたしたちが成し遂げたいのはそれなのです。ひとり一人ができることには限界があり、一人で掲げることのできるいのちの希望の光は小さなものです。わたしたちの周りの闇は、その小さな炎で打ち払うには深すぎる。だからこそ、皆の小さな炎を一緒になって掲げたいのです。教会が、ともに歩むことを強調する理由はそこにあります。いま教会が歩んでいるシノドスの道の本質は、そこにあります。それぞれ掲げるろうそくは異なっているでしょう。炎の大きさも異なっているでしょう。皆が同じことをするのではありません。しかしそれぞれが勝手に小さな炎を掲げていては打ち払うことができないほど闇は深い。だから連帯のうちに、支え合い助け合いながら、共に光を掲げて歩むのです。教会は、いのちを生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではありません。希望と喜びの光を掲げることができなければ、教会ではありません。

主が復活されたその地、すなわち聖地で、いま多くのいのちが暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは三万人を超えるいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。いのちの希望がもたらされた聖地で、いったいどうしたらいのちの希望を取り戻すことができるのか、その道を世界は見いだせずにいます。今この瞬間も、いのちの危機に直面し、恐れと不安の中で絶望している多くのいのちがあることを考えると、暗澹たる思いがいたします。

ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争も、未だ終わりが見通せません。東京教区の姉妹教会であるミャンマーでも、平和を求めて声を上げる教会に、軍事政権側の武力を持った攻撃が続いているとミャンマーの教会関係者から状況が伝わってきます。

世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいます。教会は、いのちを生きる希望を掲げる存在であることを、改めてわたしたちの心に刻みましょう。

戦地や紛争の地だけでなく、わたしたちの生きている現実の中ではどうでしょう。障害のある人たちや幼い子どもに暴力を加え、いのちを奪ってしまう。様々なハラスメントを通じて、人間の尊厳を奪い去る。多数とは異なる異質な存在だからと、その存在を否定する。暴力を受けているのは、神が賜物としてわたしたちに託されたいのちです。社会に蔓延するいのちへの価値観が、そういった行動に反映されています。この社会の中で、教会は小さいけれども希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。

今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にもあずかるのだと強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるため」に洗礼を受けるのだと指摘しています。洗礼を受けたわたしたちには、キリストとともに、新しいいのちの道を歩むという務めがあります。キリストと共に、そして皆と共に、支え合って歩みます。

主の死と復活にあずかるわたしたちに求められているのは、行動することです。前進することです。なにもせずに安住の地にとどまるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。そこには、ともに歩む仲間がいます。それぞれが自分の小さなろうそくの炎を掲げ、ともに歩むことで、世界を支配する暗闇を打ち払いましょう。

「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現のために、福音を告げしらせ、証しする道をともに歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

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2024年3月30日 (土)

2024年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

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聖金曜日、主の受難を黙想する日です。東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後7時から、関口教会と韓人教会の合同で、典礼が行われました。

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聖金曜日の典礼では、盛式共同祈願や十字架の崇敬の部分で、歌唱するところがあります。特に盛式共同祈願では、冒頭の祈りの意向を歌唱することになっています。司式する私はその後の祈りを唱えますので、どなたかに歌唱していただく必要があります。これを今年は協力司祭の金泌中(キム ピルジュン)神父様が歌われました。ソウル教区司祭のピルジュン神父様は、このたび2年間の日本語習得を終え、復活祭後に西千葉教会などで助任司祭として正式に任命されていますが、兼任する本郷教会のミサを担当して不在の天本主任司祭に代わって、堂々と歌唱されました。今夜の復活徹夜祭の復活讃歌も、ピルジュン神父様と伺っています。

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この祈願の歌唱部分は、簡単なように見えますが、歌うのは難しいのです。というのも、ミサの叙唱もそうですが、結構高めの音をキープして連続でタタタと歌い続けなくてはなりません。ちょっと気を抜くと、終わりの方の音程が見事に二度程度は落ちてしまい、多分終わりはレの音だと思いますが、それよりも遙かに下になって、落ち着きが悪くなり安いのです。伴奏なしで同じ音程で歌い続けるのは、楽なことではありません。

余談でした。以下、聖金曜日主の受難の説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月29日

「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」

イザヤの預言にそう記されていました。

聖金曜日、主の受難を記念する今日、わたしたちは、ともに歩み苦楽をともにしてきた弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ、孤独のうちに十字架上での死に至るまで、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスに心を馳せ、主とともに祈ります。

その苦しみはいったい誰のためだったのか。それを明確に示しているのが、預言者イザヤの言葉です。それはまさしく、わたしたちひとり一人の罪の結果でありました。

イザヤは「彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだ」と記しています。

今日は、主の苦しみこそは、わたしたちの救いのためのあがないの捧げものであったことを、思い起こす日です。一言も語らず、ただ無言のうちに、その姿を持って、わたしたちに神の愛の深さを示された事実を、かみしめる日です。主の十字架を目の当たりにして、ただただその愛といつくしみに心から感謝を捧げる日です。

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受難の朗読では、「イエスを知らない」と、三度にわたって言い張ったペトロの裏切りが記されています。福音はイエスがすでにペトロに告げていたとおり、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と事実だけを記して、ペトロの心持ちを記しません。しかしそのことが、ペトロの陥った後悔の思いの深さと絶望を、わたしたちに感じさせています。

すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべてのいのちを、ひとりたりとも見捨てることなく、永遠のいのちにおける救いへと招くために、わたしたちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。すべての人の罪科を担う神のいつくしみとゆるしです。わたしたちは、主の十字架を目の当たりにして感謝すると同時に、十字架が指し示すその希望と栄光を褒め称えます。

ですからこの裏切りという罪と、その後悔と絶望の淵にあったペトロが次に登場するのは、御復活の出来事の後です。三度にわたって主を知らないと主張し、裏切りの罪を犯したペトロを、十字架の出来事を間に挟んで、復活の栄光の証人とすることで、主の十字架が持っている意味を、福音は明確に示しています。それは神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光です。

わたしたちは、主の苦しみの旅路に心をあわせ、ともに歩むようにと招かれています。主の十字架は、わたしたちの信仰の原点です。そこにこそ神の愛といつくしみが目に見える形で示されています。そこにこそわたしたちの目指すべき希望と栄光が、目に見る形で示されています。わたしたちは、信仰の原点である十字架を高く掲げ、その意味を社会の中であかしするように招かれています。

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十字架の傍らには聖母が佇まれていました。十字架の上で苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母の姿は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に答えたときに始まって、すべてを主の計画に委ね、主とともに歩み続け、主と一致した生き方を、聖母が教会に模範として示し続けていることを明白にします。

主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母と愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架のあかしを受け継ぎ、復活の栄光を目指して希望を掲げながら、共に歩み続けます。

昨年2023年10月27日の夕刻、ちょうど開催されていたシノドス第一会期の参加者を、わたしもそこにいましたが、聖ペトロ大聖堂に招いて、教皇様は世界の平和のためのロザリオの祈りを捧げられました。その祈りの中で、教皇様は、次のように聖母に呼びかけられました。

「聖母よ、いまは暗闇の時です。この暗闇の時に、わたしたちはあなたを見つめます。・・・カルワリオにおいて、剣が母の心を貫きました。しかしその謙遜さと力強さで、悲しみの闇にあっても、復活の希望を燃やし続けました。・・・あなたの呼びかけに耳を塞ぎ続けるわたしたちを、あなたは愛のうちに、見捨てることはありません。聖母よ、あなたの手でわたしたちを回心へと導いてください。再び神を最優先とすることができるように。教会の一致を保つことができるように。世界に一致を生み出すものとなることができるように。」

イザヤの預言にあったように、「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった」存在です。その散らされた民を、聖霊の導きの識別のうちに、神の民として再び一致へと導こうとするのが、いまわたしたちが歩んでいるシノドスの道であり、その道を歩む模範は聖母マリアです。わたしたちが身勝手にそれぞれの道を歩もうとするとき、わたしたちは主の十字架にその罪をさらに負わせ続けています。聖母に倣い、勇気を持って神の導きに身を委ね、一致のうちに神の民として神に向かって歩み続けるものでありたいと思います。栄光と希望の十字架の証し人であり続けたいと思います。

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2024年3月29日 (金)

2024年聖木曜日、主の晩餐のミサ@東京カテドラル

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聖木曜日、主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、アンドレア司教様と共に捧げました。

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ミサは、同じ聖マリア大聖堂に所在する関口教会と韓人教会の合同で行われました。

ミサ後にご聖体は、大聖堂向かって左にあるマリア祭壇に安置されました。主の晩餐のミサは沈黙のうちに終わり、聖堂内の装飾は、祭壇の上を含めすべて取り払われます。聖金曜日の主の受難の典礼は、始めも終わりも沈黙で行われ、そのまま暗闇の沈黙で始まる復活徹夜祭につながります。ですから、聖なる三日間は一つにつながった典礼のうちに過ごすときです。

以下、ミサの説教原稿です。

聖木曜日主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

わたしたちは、主イエスご自身によって食事の席に招かれている弟子の共同体です。教会がシノドスの道、すなわちともに歩む道をたどっているのは、教会が本質的に共同体であるからに他なりません。わたしたちはひとりで勝手に独自の信仰を深め歩む存在ではなく、互いに助け合いながら、共に聖霊に導かれて歩みを続ける神の民であります。わたしたちにそのことを明確に示しているのは、最後の晩餐において示された、主御自身の具体的な業による模範です。

最後の晩餐の席で主イエスは立ち上がり、弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音に記されています。弟子たちの足を洗い終えたイエスは、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗いあわなければならない」と言われたと記されています。

自分の足を洗うのではありません。自分と親しい人の足を洗うのではありません。自分が好ましいと思う人の足を洗うのではありません。「互いに足を洗いあわなければならない」と、主は弟子たちに命じます。共同体の属するすべての人に対して、わたしたちはそれぞれが、互いの足を洗うために、その前で身を深くかがめなくてはなりません。共同体のすべてのものが、互いに、相手の前に頭を垂れて、低いところに身をかがめて、互いに足を洗うようにと主は命じます。身をかがめて互いの足を洗うために、自分自身を全くの無防備な状態にせよと主は命じます。互いにすべてを相手に委ねる姿勢をとるようにと主は命じています。

ひとりでは、互いに足を洗うことはできません。自分の親しい人だけでは、互いに足を洗うことにはなりません。

ですから、教会共同体が、自分ひとりで歩むものではなく、また親しい人だけで歩むものではなく、それよりもすべての人と互いに支え合いながら、祈りあいながら、聖霊の導きを識別しながら、ともに歩む教会であることは、この最後の晩餐の時の主御自身の模範によって、定められたことです。すなわち、シノドス的な教会であること、シノドスの道を歩むことは、何か新しいアイディアなのではなくて、そもそも教会のはじめから当然のように内包している、教会の根本的な性格です。

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福音は、「わたしがあなた方にしたように、あなた方もするようにと、模範を示したのである」という主イエスの言葉を記しています。ですからわたしたちは、互いに助け合いながら、互いに身を委ねながら、ともに歩む共同体でなくてはなりません。

主の晩餐に招かれたわたしたちを、集められた多くの人を、一つに結び合わせているのは、ご聖体のうちに現存される主御自身です。その夜、パンをとり祈りを捧げ裂いて弟子に与えられた主は、「これはあなた方のための私の体である」といわれながら、聖体の秘跡を制定されました。すなわちご聖体は、それを与えられた「わたしたちのため」の主の現存です。わたしたちのための主の体。その主の体は、わたしたちを一致させる主の現存です。

第二バチカン公会議の教会憲章には、「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(教会憲章11)」と記されています。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」で聖アウグスチヌスの言葉を引用しながら、「主なるキリストは・・・ご自分の食卓にわたしたちの平和と一致の神秘をささげます。一致のきずなを保つことなしにこの一致の神秘を受ける者は、神秘を自分の救いのために受けることができません」(40)とまで指摘しています。

わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、その一致のうちに互いにいのちを分かち合い、互いに愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。わたしたちは、その一致を、具体的に社会の中であかしする共同体となるようにと、主から命じられています。ご聖体をいただくわたしたちひとりひとりの責務です。

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教皇ヨハネパウロ二世は、同じ回勅で、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。わたしたちは、いのちを生かし、互いを共同体の交わりへと招き、一致のうちに互いに支え合い仕え合う共同体の姿を通じて、いのちのパンにおける交わりへとひとりでも多くの人が招かれるように努めなくてはなりません。

わたしたちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡によって生み出される絆において、共同体でともに一致しています。

御聖体において現存する主における一致へと招かれているわたしたちは、パウロが述べるように、「このパンを食べこの杯を飲む度ごとに、主が来られるときまで、主の死を告げしらせる」務めがあります。わたしたちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ主の願いを同じように受け継ぎ、それをこの世界において告げしらせていかなくてはなりません。世界に向かって福音を宣教する務めを、わたしたち一人ひとりが受け継いでいくことが求められています。主の生きる姿勢に倣って、互いに支え合い、互いに身をかがめ、足を洗いあう姿勢で生きることを求められています。

教皇フランシスコは、回勅「兄弟のみなさん」の中に、こう記しています。

「兄弟的無償性を生きない人は、自身を強欲な商人に変え、自分が与えるものとその見返りに得るものをいつも量っています。対して神は、無償で与えてくださいます。忠実ではないものさえも助けるほどにです。・・・わたしたちは無償でいのちを受けました。いのちを得るのに支払いはしていません。だからわたしたちは皆、何ら期待せず、与えることができるのです。助ける相手に見返りを求めることなく、良いことができるのです(140)」

わたしたちは神からの無償の愛のうちに、主の晩餐に招かれています。主御自身である聖体の秘跡のうちに共同体の交わりの中で歩むようにと、招かれています。幾たびも裏切り続けているにもかかわらず、不忠実なわたしたちを主は、幾たびも幾たびも交わりへと招いてくださっています。今日もまた、その最初の招きである主の晩餐を記念するわたしたちの真ん中に立ち、わたしたちを、互いに支えあうものとなるように招いておられます。

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2024年3月28日 (木)

2024年聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日の本日、午前10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサが行われました。

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学校や特別な業務などがある場合を除いて、教区内の司牧活動で働く司祭は、すべて司教とミサを共にして、叙階の誓いを更新することが求められています。本日のミサには、事前の想定以上に、100名を優に超える司祭が共同司式に参加し、司祭叙階の誓いを更新して行かれました。

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また、ミサのはじめには、サレジオ会の深川信一神学生の祭壇奉仕者選任式と、東京教区の今井克明神学生の助祭・司祭候補者認定式も行われました。また先日、アンドレア司教様から助祭に叙階されたばかりのイエズス会のムカディ助祭(コンゴ出身)が、ミサのために奉仕してくださいました。

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下にビデオも張りますが、本日は私の声の調子が思わしくなく、残念ながら高い音が出ていない調子外れになってしまっています。

以下、本日のミサ説教の原稿です。

聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月28日

教会共同体は、常に聖霊によって導かれ、常に刷新されながら時の流れの道を前進し続けています。教会は、常に古い存在であるけれど、同時に常に新しい存在でもあります。

ガリラヤ湖のほとりで弟子たちを招かれたイエスの呼びかけのことばによって共同体が生まれ、弟子たちと共にした最後の晩餐でご聖体の秘跡を制定され、十字架における受難と死を通じて御復活の栄光を現し、五旬祭の日、人々を恐れ隠れていた弟子たちに聖霊が降り、その出来事を通じて福音を世界各地へと告知する教会が誕生した。教会は、2000年ほど前に起こったこれらの出来事に根ざしています。その意味で、教会は常に古い存在です。しかし同時に、聖霊降臨のその日から、教会は常に聖霊の導きによって先へ先へと、時の流れの中で新たにされながら、前進を続けてきました。その意味で、教会は常に新しい存在です。常に刷新されながら前進する教会です。

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2020年から続いた世界的なパンデミックは、社会に、そして教会にも大きな負の影響を残しました。教皇様は今年の2月11日、2025年の聖年の開催を新福音化推進評議会議長フィジケラ大司教に宛てた書簡を発表されました。その中で教皇様はこの数年を振り返って、「孤独死という悲劇、存在の不確かさ、はかなさを見せつけられたことに加え、わたしたちの生き方も変えられてしまった」と指摘され、その上で、「わたしたちは、与えられた希望の炎を燃やし続け、すべての人に、開かれた精神、信頼する心、広い視野をもって未来を見つめる力と確信を回復させるため、全力を尽くさなければなりません」と呼びかけておられます。

教皇様は2025年の聖年が、「わたしたち全員が緊急性を感じている新たな再生のしるしとして、希望と自信に満ちたムードを再構築するために、大いに助けとなるでしょう」と指摘され、そういったことを踏まえた上で、聖年のテーマを、「希望の巡礼者」と定めておられます。

教皇様は2024年を祈りのうちに聖年に向けての準備を進めるときとするように求められ、その中でも特に、「この数十年間の教導権とともに、聖なる神の民を方向づけ、導き続け、すべての人に喜びに満ちた福音を告げ知らせるという使命を発展させる」ために、第二バチカン公会議の四つの憲章を学び直すことを求めておられます。教会全体が巡礼者として「多様性の調和の中で一致して」シノドスの道を歩むことが、「教会が従うよう求められている共通の道」を明らかにすると、教皇様は指摘されます。

現代世界憲章には、「神の民は、世界を満たす主の霊によって導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、展望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようと努める(11)」と記されています。ですから、時のしるしを読み取ることは、教会共同体にとって忘れることのできない責務です。

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とはいえ、常に新しくされて前進し続ける教会共同体というのは威勢の良い響きですが、日本の教会の現実はどうでしょうか。昨年、日本の教会の教区数は、16から15に減りました。全国各地で信徒数の減少や司祭不足から、小教区の統廃合が聞かれるようになりました。二つあった神学院も、今年から東京に一本化されます。修道院の閉鎖は相次いでいます。もちろん日本の社会全体が少子高齢化の影響で縮小減速傾向にあるのですから、教会もその影響を受けるのは当然ですが、マイナスのイメージが顕著です。

パウロ6世の使徒的勧告「福音宣教」に、「たとえわたしたちが福音をのべ伝えなくとも、人間は神のあわれみによって、何らかの方法で救われる可能性があります」(80)と記されています。

救いのわざは、人間のわざではなくて、神様のご計画のもとにあるので、わたしたちは何も心配する必要はないのかもしれません。しかし問題はそこではありません。「福音宣教」の続きには、「しかし、もしわたしたちが、怠りや恐れ、また恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、果たしてわたしたちは救われるでしょうか」(80)と記されています。

わたしたちはネガティブな現実の前で嘆いて後ろを振り返るのではなく、前を向いて前進を続ける必要があります。なんとしてでも福音を一人でも多くの人に伝えようと様々な手を尽くされる御父の熱意を、具体的に実行するのは、わたしたちの務めです。ですから教会は、福音宣教を「目的」としているのではなくて、福音宣教こそが教会がこの世界に存在する「理由」そのものです。

わたしたちは教会共同体として存在している限り、福音を告げ、多くの人を救いに招くのが当然であって、それはわたしたちにとって副次的な存在理由ではありません。福音宣教はわたしたちの、この世界における根本的な存在理由です。

教皇フランシスコの「福音の喜び」には、「人々との現実の出会いを失って、人間よりも組織に注意を払う、人間不在の司牧」への指摘があり、「歩みそのものよりも『道案内図』に熱心」な教会は、結局、そこに集う人々から熱意を奪い、希望を失わせると記されています(81)。わたしたちも、聖霊の導きに素直に従って、嘆きではなく希望を生み出すような教会でありたいと思います。

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共にシノドスの道を歩み続ける教会共同体にとって、牧者である司祭の存在は重要です。今日のこのミサで、教区で働く司祭団が見守る中で、助祭・司祭候補者認定式と祭壇奉仕者選任式が行われることには、福音宣教の後継者の誕生につながるという大切な意味があります。

司祭への道は、決して共同体の中で序列が上がり段々と偉くなっていくのではなく、反対に、出会う多くの人にいのちを生きる希望を見いだす道を示し、互いの絆を生み出し深めていくために、ともに歩む姿勢を学んでいく道です。司祭養成の道を歩むことは、力強いものとなっていく道ではなく、自分の弱さ、足りなさの自覚を深める道です。自分の弱さを自覚するからこそ、神の力が自分のうちで働くのです。力不足を自覚するからこそ、支えてくださる多くの方々の祈りの力を感じることができるのです。どうか、常に謙遜な奉仕者であってください。

同時に、司祭の養成には、信仰共同体の愛に満ちた関わりも不可欠です。司祭の養成は、養成担当者だけの責任ではなく、教会共同体の皆が責任を分かち合い、祈りを通じて、養成を受ける神学生と霊的に歩みをともにすることが必要です。また神学生にあっては、養成の歩みを進める中で、しばしば困難に直面し、人生の岐路に立たされます。そのようなとき、ふさわしい選択をするために、多くの人の祈りによる支えが必要です。司祭修道者の召命も、信仰における連帯によって生かされます。どうぞ、神学生のために、そして新たな召命のために、お祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、祈りを持って支えてくださるように、歩みを共にしてくださるように、お願いいたします。

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2024年3月27日 (水)

2024年受難の主日(枝の主日)@東京カテドラル

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2024年3月24日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での受難の主日(枝の主日)ミサの説教原稿です。今年は、聖堂の外に集まり、短いですが行列をして入堂することができました。

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なおすでにお知らせしていますが、今後、東京カテドラル聖マリア大聖堂からのミサ配信は、司教司式ミサを中心に、一部のみとなります。配信がある場合は、東京教区ホームページなどでお知らせします。また配信元のYoutubeチャンネルも、関口教会から東京教区に変更となります。詳しくは、東京教区のホームページを、こちらのリンクからご覧ください

なお今年、2024年の聖週間の聖なる三日間は、聖木曜日の聖香油ミサも含めて、すべて配信されます。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月24日

わたしたちが語る言葉は、ただ風に流されて消えていく音の羅列ではありません。わたしたちの語る言葉の背後には、わたしたちの存在そのものがあり、わたしたちの心があり、それだからこそ、わたしたちが語る言葉には力があります。わたしたちの存在を生み出しているいのちが、その背後にあるからです。

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今年の正月の世界平和の日のメッセージで教皇フランシスコは、「AIと平和」というテーマを掲げ、人工知能などのもたらす可能性とその倫理的な方向性を明確にしようとされました。

教皇は、科学技術の進歩と人工知能がもたらす様々な可能性と、新しい技術の裏に隠れて、古来から人類が内包する未知の存在を恐れて、排除する壁を築こうとする傾向が再燃していることを指摘した上で、「人工知能は、人間の比類なき潜在能力や、より高い志に仕えるべきで、それらと競合するものであってはなりません」と指摘されます。

わたしたちは機械ではありません。人工的に合成された音を、外に向かって発生する存在ではありません。わたしたちの発する音は、わたしたちの心を反映した心の叫びであり、その言葉には力があります。

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四旬節を通じて霊的な回心の道程を歩んできたわたしたちは、受難の主日の今日から、聖週間を過ごし、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。その聖週間の冒頭で、主イエスのエルサレム入城の福音が朗読され、そしてミサの中では主の受難の福音が朗読されました。

この二つの朗読ほど、わたしたちの発する言葉の力を考えさせる朗読はありません。その力とは、二つの力です。一つは人のいのちを生かす言葉。そしてもう一つは人のいのちを奪う力。

捕らえられたイエスを目の前にして問いかけるピラトに対して、集まった人々は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音の受難の朗読には記されています。

「十字架につけろ」。なんとわかりやすい短い叫びでしょう。興奮した人々をさらに興奮させるのは、興奮した心に入り込み、それを捉える、わかりやすく短いキャッチフレーズです。「十字架につけろ」という簡単明瞭な叫びは、瞬く間に人々の興奮した心を捉え、大きなうねりを生み出していきました。人の言葉が持つ負の力。暴力的に人のいのちを奪う力は、短いキャッチフレーズが飛び交う中で増幅され、このとき最大限に発揮されていました。

興奮状態の渦の中で、どんな理性的な言葉も興奮した人々を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、抵抗することをやめてしまいます。大きな興奮のうねりに身を任せ、犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡してしまいます。

口々に「十字架につけろ」と叫んでいた人々は、いったい誰でしょうか。

最初に朗読された福音にその同じ人たちの姿が記されています。イエスを喜びの声を持ってエルサレムに迎えた群衆であります。この同じ群衆は、数日後に、イエスを「十字架につけろ」と叫びました。興奮の渦は、理性的な判断をかき消してしまいます。

目の前に展開する大きな興奮の波にただ身を任せ、喜んでみたり悲しんでみたりと、流されるだけの存在が、そこに集まった多くの人たち、すなわち「群衆」です。なぜ自分がそう叫んでいるのか、その理由を考えることはありません。しかし口から発する言葉には、力があります。人のいのちを生かす力、人のいのちを奪う力。自分が発する「十字架につけろ」という言葉が、ひとりの人の、いのちを奪おうとしていることに、気がつこうともしません。

もしタイムマシンが本当にあって、その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆の所へ出かけることができたとして、ひとり一人に尋ねてみたら、どう答えるのでしょう。「別に死んでほしいなんて、自分は思っていない」、「だって、みんながそういっているから」、などなど、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰も感じません。でも口から出た言葉には、力があります。

今の時代のコミュニケーションでは、時として、短い言葉の投げ合いになり、興奮状態の中で、理性的な判断が見過ごされてしまい、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすく、興奮をもたらすその言葉は、いのちを生かす言葉でしょうか。それとも、救い主を十字架につけて殺害したような、いのちを奪う言葉でしょうか。

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わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの人々が、クーデターのあと、いまに至るまで、どれほど翻弄され、暴力の中でいのちの危機に直面しているのか。ウクライナで続いている戦争のただ中で、どれほど多くの人がいのちの危機に直面し、恐怖の中で日々の生活を営んでいることか。ガザを始め聖地で、どれほど多くのいのちが、暴力の中で奪われていることか。

多くのいのちが、恐怖の中で「いまを生きていたい」と叫んでいます。その声が、直接わたしたちの耳に届くことはありませんが、しかし、いのちの危機に直面する人たちの存在は、その言葉に力を与え、その言葉の力をわたしたちは感じることができます。

経済の悪化で職を失った人たち、経済の混乱や地域の紛争の激化によって住まいを追われ、家族とそのいのちを守るために母国を離れ移り住む人たち。思想信条の違いから迫害され差別され、いのちの危機に直面する人たち。異質な存在だからと、共同体から、そして社会から排除される人たち。一人ひとりは、すべて、そこに存在する、賜物であるいのちを生きているかけがえのない神の似姿です。ひとり一人が、「いのちを生きたい」と叫んでいます。その言葉の持つ力をわたしたちは感じることができます。

わたしたちは、いのちを生かす言葉を語るものでありたいと思います。いのちを生きたいと叫ぶ言葉に応えるものでありたいと思います。無責任に、いのちを奪う言葉を語るものとならないように心するものでありたいと思います。

聖週間が始まります。あの日のイエスの出来事にこの一週間心を馳せながら、自分はどこに立っているのか、何を叫んでいるのか、振り返ってみたいと思います。

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2024年3月 3日 (日)

2024年四旬節第三主日ミサ@東京カテドラル

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四旬節第三主日の午前10時の関口教会のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げました。

3月1日は、今年の性虐待被害者のための祈りと償いの日でしたが、その直後の日曜日にも、各小教区では教皇様の意向を持ってミサを捧げることにしております。昨日の日記でも紹介いたしましたが、司教協議会の会長として全国にこの日の祈りの意向を伝え、自らを振り返り反省に基づいて、被害を受けられた方々のために祈り、また対策に真摯に取り組むようにと呼びかけた、わたしの呼びかけ文が、中央協議会のホームページに掲載されています。こちらのリンクです

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以下、本日のミサの説教原稿です。なお、現在、東京カテドラルでは聖堂内の音響設備に不具合が生じており、中継ビデオへの音声の転送ができておりません。そのため、中継映像の音声は、聖堂内のスピーカーからの音声をマイクで拾ったものとなり、不明瞭な部分があることをご承知おきください。聖週間を前にして、その前には、修理が完了すると担当から聞いております。お聞き苦しいとは思いますが、ご容赦ください。

四旬節第三主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年3月3日

今年一年の幕開けは、能登半島での大きな地震でありました。大きな災害となり、200人を超える方が亡くなられ、復興のためにはまだまだ時間がかかるであろうことが想定されています。教会も、名古屋教区を中心に支援体制を整え、カリタスジャパンも協力しながら、長期的な視点をもって、被災地の方々と共にあり続ける教会の姿を明確に示す道を歩んでいます。

2019年11月に、東北の大震災被災者の方々と会われた教皇様の言葉を思い起こします。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

わたしたちも困難に直面する方々とともに歩み続けることで、展望と希望を回復するための出会いを生み出す友人であり兄弟姉妹であり続けたいと思います。

さて、こういった災害などの大きな出来事が発生すると、今の時代ですから、あっという間にその現場の映像が飛び回ることになります。もちろん報道など、テレビ画面に映し出される映像もあれば、インターネットの時代ですから様々な方が流す映像をわたしたちは目にします。

ただ、画面に映し出されるのは一部を切り取った映像であって、必ずしも起こっている出来事のすべてではありません。その場に実際にいたとしても、それぞれの人の受け取り方は異なっており、同じ出来事に遭遇したすべての人が、必ずしも全く同じ認識を持つとは限りません。情報の受け手が注意深くなければ、自分が生み出した勝手なイメージを信じ込んでしまう可能性すらあります。全体を把握するには、注意力と想像力に基づいた慎重な判断が必要です。

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ご記憶の通り、十字架につけられたイエスの目の当たりにしたとき、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と集まった人々はあざ笑いました。

このあざけりの言葉は、人々が勝手に創り上げたイエスへの期待やイメージに、イエス自身がまったく応えてくれない。力強い預言者リーダーをイエスに求めていたのに、その期待はまったく裏切られた。目の前にいるのは、力なく十字架上で死に行く、敗北者の姿であります。

だからこそパウロはコリントの教会への手紙で、わたしたちが宣べ伝えている十字架につけられたイエスは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人にはおろかなもの」と記します。切り取られたイメージは自分勝手なイエス像を産みだし、その全体の姿を見ようともしません。勝手に生み出したイメージに妨害されて、十字架の持つ意味を多くの人は理解することができません。

十字架とは何でしょう。パウロは同じコリントの教会の手紙の冒頭に、こう記しています。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

パウロは、言葉の知恵により頼むと十字架が虚しくなるといいます。すなわち十字架は人知を遙かに超えた存在であり、それは具体的な行いによって神ご自身がその愛といつくしみをあかしした、行いによる福音の告知そのものであります。十字架は神の愛のあかしです。

十字架上で息絶えていくイエスだけを見るならば、それは敗北者の姿でしかありません。しかしそこに至る道のりと、その後の死と復活の栄光を全体としてみるとき、初めて十字架こそは、神ご自身が自ら創造された人類を愛するがあまり、自らのいのちを犠牲にして人類を救うためにとられた神の愛のあかしの具体的な行動であることが理解されます。

ヨハネ福音は、神殿の境内に入ったイエスが、商売人や両替商を鞭で追い出した話を記しています。その場面だけを切り取ってみれば、イエスを知らない人たちにとっては、とんでもない暴虐を働く人物と映ったでしょうし、その直後に、「三日で建て直してみせる」という言葉を耳にしたときには、夢物語だとイエスをあざ笑ったことでしょう。

人々の目には、そこで起こった出来事だけが切り取られて理解されてしまいます。イエスが、ご自分こそ人々の歩むべき道を示す神、すなわち生きる神殿であることを語ろうとする、その全体的な姿が見えていません。

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わたしたちは、世界に向かって何を示していこうとしているのでしょうか。

パウロがコリントの教会への手紙で言うとおり、わたしたちは、世界に向かって十字架を示していこうとしています。その十字架におけるイエスの受難を告げ知らせていこうとしています。しかし今の時代にあっても、わたしたちのあかしは、一部を切り取って勝手に夢物語と思い込まれ、神の愛といつくしみ、そして神の平和のその全体像を伝えることは、容易なことではありません。

だからこそ、一部の人だけではなく、教会共同体全体が、福音宣教者として召されているのだという意識の改革、つまり教会でいう回心が必要です。一部しか伝わらないのですから、皆がそれぞれに語らなくてはなりません。それぞれが語り行動することは異なっていて当然です。信仰は、私とイエスとの出会いに基づいているからです。しかし皆がそこに責任を持って関わることが重要です。ともに歩む教会は、共に責任を持って福音を告げ知らせる教会です。わたしたちひとり一人が、それぞれの方法で語り続けるとき、やっとそこに全体の姿が見えてくるようになります。イエスの十字架の神秘を告げ知らせるために、皆さんひとり一人が必要です。

さて、教皇フランシスコの指示によって、日本の教会では四旬節第二金曜日を、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定めており、今年は3月1日がその日にあたります。東京教区では、今日の主日にも教皇様の意向で祈りをささげています。

出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いのちの福音」にはこう記されています。

「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。・・・このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

教会にあって、聖職者や霊的な指導者が、いのちに対する暴力を働き、人間の尊厳をないがしろにする行為を働いた事例が存在しています。共同体の一致を破壊し、性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為によって、多くの方を深く傷つけた聖職者や霊的な指導者が存在します。長い時間を経て、ようやくその心の傷や苦しみを吐露された方々もおられます。なかには、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で、さらなる被害の拡大を生じた事例もしばしば見受けられます。人間の尊厳をおとしめるこういった聖職者の行為を心から謝罪します。責任は加害者にあるのは当然です。

人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。いのちを賜物として大切にしなければならないと説くわたしたちは、その尊厳を、いのちの始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。全体として、教会が、神の愛といつくしみをあかしする者となるよう努めましょう。

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2024年1月31日 (水)

ケルン教区とのパートナーシップが70周年です。

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東京教区とドイツのケルン教区の協力関係が、今年で70年となります。

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ケルン・デーミサ

1月最後の主日は、東京教区では「ケルン・デー」、ケルン教区では「トーキョー・デー」とされ、互いの教区のために祈りを捧げています。今年の東京カテドラルのミサには、折から東京を訪問されているアフリカはアンゴラのフアンボ教区のゼフェリーノ・マルティンス大司教様が一緒に参加してくださいました。

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また、東京教区のケルンとのパートナーシップの窓口を務める古市神父様も参加。さらにはケルン教区から訪日中のマリアンヌ・バウアーさん(ケルン大司教区青少年カテケージス・霊的指導担当 )が、ケルンのヴェルキ枢機卿様のメッセージを代読してくださいました。さらにこのミサには、ドイツ語共同体の代表や、ミャンマー共同体の代表も参加して、インターナショナルな雰囲気のミサとなりました。

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パートナーシップ70周年にあたっての巡礼

この70年を記念して、ローマとケルンへの巡礼旅行を企画しています。取り扱いは巡礼には定評のある阪急交通社。日程はこちらから、阪急交通社のサイトにつながります。円安のため、現時点では料金が以前と比較して高くなってしまっているのが残念です。もし参加を考えてくださる方がおられましたら、お早めに阪急交通社の担当にお問い合わせください。

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カトリック・スカウトのケルン派遣

なお、東京からはこの巡礼団の他に、カトリック・スカウトの代表団が、5月にケルンを訪問し、「アルテンベルグの光」の行事に参加することになっています。カトリック・スカウトの面々も、ケルン・デーのミサに参加してくださいました。「アルテンベルグの光」については、こちらのリンクから、東京教区ニュースの記事をご覧ください。

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以下、ケルン・デーミサの説教の原稿です。

年間第四主日ミサ説教
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年1月28日

1月の最終主日は、「世界こども助け合いの日」と定められています。今年は本日の日曜日が、「世界子ども助け合いの日」とされています。

以前は、「カトリック児童福祉の日」とも呼ばれ、ともすると大人が子どもたちの福祉について考える日であるかのように理解されていました。

しかしこの特別な祈願日は、「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定」され、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげる日であります。日本の教皇庁宣教事業の担当者である東京教区の門間神父様のメッセージによれば、「子どもは子どものために祈り、子どもは子どもに福音宣教し、子どもは子どもを助ける」というのがこの活動のモットーであり、今年の世界子ども助け合いの日のテーマは、「あなたはわたしのあいするこども」(マルコ1・11参照)とされています。イエスご自身に対して御父は「あなたはわたしの愛する子」と宣言されましたが、同じように神から愛されているすべての子どもたちが、主イエスに倣って、福音に学び、福音を告げ、互いに助け合う世界を生み出すものとなるように、今日祈りましょう。

さて東京教区にとって、1月最後の主日は「ケルン・デー」です。

東京教区にとって、ドイツのケルン教区との繋がりには歴史的な意味があり、また物質的な援助の関係にとどまらず、互いの霊的な成長のためにも重要なパートナーとして、ともに歩む関係になろうとしています。どうしても資金を援助する側と援助される側という関係にばかり目が行ってしまいますが、2022年9月末に来日されたケルン教区の司教総代理グィド・アスマン師をはじめとした代表団の方々と話し合ったとき、これからは単に金銭的な支援の関係だけでなく、互いの霊的な成長を目指してともに歩んでいきたいとの意向が示されました。ちょうどいま教会でしばしば聞かれる、シノドス的な歩みを共にする関係を構築しようという呼びかけです。

この二つの教会の歩みは、1954年、当時のケルン大司教区のフリングス枢機卿様が、戦後の霊的な復興を念頭においてケルン教区内の信徒に、苦しいときだからこそ積極的に困難の中にある隣人へ手を差し伸べようと呼びかけたことに始まります。自ら大きな犠牲をささげることこそが、苦しみから立ち上がり霊的に大きく成長する力を生み出すと考えたフリングス枢機卿様は、個人的に知り合いであった東京の土井枢機卿様と話し合い、具体的な行動として東京教区と友好関係を結び、東京の宣教活動と教会の戦後の復興のために援助を始められました。

自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする福音に基づく行動は、多くの人の心を動かし、東京にあってもその後、白柳枢機卿様の時代、1979年の友好25周年を契機として、ケルンと東京の両教区によるミャンマーの教会支援へと発展していきました。それ以来、わたしたちは毎年の「ケルン・デー」に、ケルン教区からいただいた豊かないつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して自らも愛の奉仕に身をささげることを心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげてきました。

わたしたちも、余裕があるから善意の行動をとるのではなく、苦しいからこそ、積極的に他者と連帯し支えるものであり続けたいと思います。またその行動を通じて、私たちと共におられる神の言葉を具体的にあかしするものであり続けたいと思います。

本日のマルコ福音は、イエスの言葉には、権威を感じさせる力があったと伝えています。「律法学者のようにではなく」と福音は記していますが、この言葉は何を象徴しているのでしょう。神の掟について学んだ知識を教える律法学者は、自らの権威ではなく神の権威によって解釈を教え指導する立場です。教え指導するという人間関係にあって、人間の弱さから解放されない律法学者は、いわばわたしたち人間の弱さと限界を象徴しています。時に自らの限界を認めず、謙遜さを失い、独断と偏見で判断し、あたかもすべての権威を持っているかのように他者に語り、行動するのがわたしたち人間です。律法学者は、時にすべての権威を自分が握っているかのような錯覚に基づく行動、すなわち、他者を裁く権能など持ち合わせていないはずなのに、罪を犯した人たちを裁いてしまい排除する行動をとってしまいます。わたしたちも、同じことです。簡単に他者を裁き、排除するのが弱いわたしたちたちです。しかしこのいのちを創造したわけでもないわたしたちには、他者を裁く権威はありません。

しかしイエスの言葉には力がありました。イエスの言葉によって汚れた霊が出て行くという事実を目の当たりにして、人々はイエスの教えは「権威ある新しい教えだ」と驚いたと福音に記されていました。イエスの言葉に力があったのは、それは神の真理の言葉であり、そしてイエスご自身が真理そのものであったからに他なりません。すべての権威は神にあります。完全完璧な立場からものを語り行動されるのが、神の子であるイエスです。だから人々は「権威ある新しい教え」とイエスの言葉に驚いたのです。

本日の第一朗読の申命記には、神の命じていない言葉を語る預言者は死に値すると、モーセが語ります。真理を身に帯びていない者の言葉には、権威はありません。

わたしたちは、どのような言葉を語っているでしょうか。自分勝手な思いや欲望を充足させる言葉ではなく、神によって生かされているという謙遜さのうちに自らの限界を認め、イエスが権威を持って示された真理を身に帯びた言葉を語るものでありたいと思います。

命を奪う暴力的な言葉ではなく、命を生きる希望を生み出す言葉を語りたいと思います。暗闇を生み出す言葉ではなく、光を掲げる言葉を語りたいと思います。他者を裁き、排除する言葉ではなく、受け入れともに歩む言葉を語るものでありたいと思います。攻撃する言葉ではなく、思いやりのうちにケアする言葉を語るものでありたいと思います。

シノドスの道を歩み続ける教会は、互いの声に謙遜に耳を傾けるところからすべてを始めようとしています。聖霊の導きを一緒になって見いだすためには、自分の思いを主張するだけでなく、互いに心に響き合う神の声を反映に、真摯に耳を傾けることが必要です。その耳を傾けることには、実際に話を聞くことに始まり、お互いに思いやりケアし合うこと、すなわち互いのいのちを大切にしあうことも含まれています。わたしたちはひとりだけで生きていくことはできません。

本日、「ケルン・デー」と「世界子ども助け合いの日」を迎えているいま、わたしたちは福音の真理に基づいて語り行動された権威あるイエスの言葉に従い、苦しみのうちにあっても互いに助け合い、支え合って、共に道を歩み続ける、シノドス的な教会であることを心に誓いましょう。

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2024年1月 1日 (月)

神の母聖マリア:世界平和の日

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新年1月1日は、教会にとって神の母聖マリアの祝日であると共に、世界平和の日でもあります。

一年の初めにあって、聖母マリアの取り次ぎのうちに、神の平和が実現するように、祈り続けたいと思います。

以下、1月1日午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げたミサの、説教原稿です

神の母聖マリア(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年1月1日

お集まりの皆さん、新年明けましておめでとうございます。

主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念する私たちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

闇にさまよう人間を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画。それが実現するためには、「お言葉通りにこの身になりますように」という、聖マリアの人生をかけた決断が必要でした。その言葉こそは、神の計画に対する聖マリアの絶対的な信頼を象徴し、神の御手に身をすべて任せる、聖マリアの完全な謙遜を現すものでもありました。

もちろん神の計画にすべてを委ねる人生は、単に栄光ある道なのではなく、大きな困難を伴う茨の道を歩むことでもありました。聖マリアの人生は、救い主であるイエスの苦しみととともに歩んだ人生でありました。ともに歩むことは決して楽なことではなく、決断と忍耐を要することであると、イエスの十字架での受難に至る苦しみの道をともに歩まれた聖母の人生がわたしたちに教えています。

教会はいま、シノドスの道を歩むことの重要さを強調しています。聖霊の導きを識別し続けながらともに歩むこの道のりは、簡単な道ではありません。時間と手間のかかることでもあり、まずもって忍耐を必要とします。同時にそこで見いだされる神の計画の道は、常に安楽の道であるとも限りません。なぜならば、神の救いの計画の中心には常に十字架の苦しみが存在しているからです。シノドスの道をともに歩むことで、わたしたちは様々な困難に直面することでしょう。様々な意見の対立に翻弄されるでしょう。常識の壁が立ちはだかることでしょう。決断の及ぼす影響を考え、たじろいでしまうのかもしれません。そのときこそ、わたしたちは聖母マリアの人生を振り返り、主イエスとともに歩まれた聖母の信仰の深さと謙遜の強さに倣い、支え合いながらともに歩む道で前進を続けたいと思います。

主の降誕を祝うこの季節に、主が誕生した聖なる地では、賜物として与えられたいのちが暴力的に奪われる事態が続いてきました。わたしたちはあらためて、いのちが神からの賜物であり、その尊厳は徹底的に守られなくてはならないことを強調し、いのちを暴力を持って奪うことは許されないことだと主張し続けたいと思います。平和がこの世界を支配するように、祈り続け、声を上げ続けたいと思います。聖地における混乱と暴力的行動が収まり、いのちの尊厳が守られることを心から祈ります。

またコロナ禍の中ではじまって、未だ終わりの見えないウクライナでの戦争が、何らかの解決の道を見いだすことができるように心から祈ります。東京教区の姉妹教会であるミャンマーの方々は、いまこのときも、自分たちの存在を忘れてくれるなと、わたしたちに呼びかけます。ミャンマーの平和の確立のためにも心から祈り続けます。

イエスが背負われた十字架、イエスがそのいのちをささげられた十字架、それは、私たち人類が、神からの愛に背いて犯し続ける数限りない罪の結果です。私たちは、まるで主の十字架における苦しみと自己犠牲が、2000年前のあの日に終わってしまい、すべてが許されたかのような傲慢さで、今日もまた罪を犯し続けています。その中でも、賜物として神が与えてくださったいのち、神の似姿としての尊厳を与えられたいのちを、人間自身の暴力を持って奪うことほど大きな罪はありません。

十字架の上で私たちの罪を背負い苦しまれた主イエスの傍らで、御子の苦しみをともにしながら立ち尽くす聖母マリアとともに、教会は、現代社会の直中にあって、人類が犯し続ける数々の罪を悲しみのうちに見つめながら、祈りのうちに立ち尽くしています。ゆるしを求めて立ち尽くしています。平和を求めて立ち尽くしています。

神の平和を実現するためには、単にきれいな言葉を並べ立てるだけでは足りません。そこには必ずや困難や苦しみが伴います。イエスの背負われる十字架の重さを、聖母とともにわたしたちも背負わない限り、神の秩序は完成に至ることがないからです。

教皇パウロ6世は、「平和の女王を通じて」、平和を神に祈り求める日として、この日を世界平和の日と定められています。新しい年、2024年がはじまった今日、わたしたちはあらためて信仰のうちに、平和の実現を求めて声を上げましょう。平和の実現のために苦労をしましょう。わたしたちの信仰の実践が、神の秩序の実現、すなわち神の平和の確立につながるように、務めていきましょう。

東京教区ニュースの冒頭に司牧書簡を掲載いたしました。東京の大司教として、皆さんと一緒に、この一年をどのように生きるのかの呼びかけです。

東京教区の大司教として2017年12月に着座してから6年が過ぎましたが、このあいだ、わたしは「つながり」、あるいは「交わり」を大切にしようと、様々な形を持って呼びかけてきました。それは2015年に教皇フランシスコが発表された回勅「ラウダート・シ」に触発されてのことです。

この文書はいわゆる環境問題や気候変動について語っている文書と片付けられるきらいがありますが、実際にはわたしたちに信仰における回心と具体的な生活における回心を呼びかける文書でもあります。

この文書には、よく読んでみると「つながっている」という表現が何度も登場します。回勅「ラウダート・シ」は、わたしたちが生きている現代社会が忘れてしまった「つながり」をもう一度回復しようと呼びかけます。具体的な回心の呼びかけです。

わたしたちが洗礼の時にいただいた恵みをさらに豊かにするため、「つながり」という視点からわたしたちの生き方と生活を見直す必要があります。そのつながりを具体的に表す言葉として、教会で近頃よく聴かれるのは、「ケア」という言葉であります。兄弟姉妹として、お世話し、気づかい、配慮し、寄り添うという意味での「ケア」です。「ケア」はお互いを大切にし、お互いに耳を傾け、向き合い、対話することを目指します。言い換えれば「ともに歩む」ことです。すなわち、シノドスの道を歩むこととは、互いを大切にすること、支え合うことですから、「ケア」の文化を深めていくことでもあります。

教会はケアの場所です。人と人との「つながり」を大切にするからです。誰も排除されず、相手の言葉を聞きとり、違う立場の人と向き合い、対話を重ね、そして一緒になって神様を賛美し感謝します。聖母マリアの人生も、まさしく寄り添って歩む「ケア」の文化を生きた人生です

世界中に暴力が満ちあふれているいま、必要なのは、「ケア」の文化を確立することです。そのためにも教会はその働きを具体化する場として役割を果たしていきたいと思います。互いへの思いやり、いたわり、迎え入れる態度、耳を傾ける態度は、ですから福音宣教の態度です。

世界に神の平和が確立するために、まず足もとから、自分のいる教会共同体から、互いに助け合う「ケア」の共同体を生み出し、聖母マリアと共にこの一年、福音をあかしして歩みましょう。

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2023年12月25日 (月)

主の降誕、おめでとうございます

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主の降誕、クリスマス、おめでとうございます。

暗闇の中で誕生した幼子は、闇に差し込む一筋の光です。その光はいのちを生きる希望の光です。ご自分の似姿として人を創造することで、神はわたしたちのいのちに尊厳を与えられました。そして幼子イエスとして誕生することで、その尊厳をさらに明確にされました。わたしたちには、この尊厳あるいのち、神が愛を込めて創造されたいのちを守る務めがあります。

暴力が荒れ狂う現代社会にあって、とりわけ戦争や紛争という力の暴力に巻き込まれ、いま、多くのいのちが危機に直面しています。いのちが守られないところに神の平和はありません。だからこそ、いま、希望の光が必要です。誕生した幼子が輝かせた、神のいのちの希望が必要です。

いのちへの暴力を捨て去り、神の平和が確立されるよう、クリスマスにあたって祈りましょう。

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2023年のクリスマス、12月24日の午後、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、主の降誕の夜半のミサとして三回のミサが捧げられました。夕方5時はアンドレア司教様、7時は天本神父様、そして9時をわたしが司式しました。そのミサもネット配信され、関口教会のYoutubeからご覧いただけます。

午後5時が一番たくさんの方に来ていただいたと思います。予備の椅子も出して、大聖堂は一杯でした。ミサにおいでになった、洗礼を受けておられない多くの方に、祝福と守りがありますように。すこしでも、神の愛が伝わったであろうと信じています。その愛を、社会の中で花開かせてください。

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以下、12月24日午後九時のミサの説教原稿です。

主の降誕(夜半)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年12月24日

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

お集まりの皆さん、主の降誕、おめでとうございます。

主イエスの誕生を記念し、救い主が人となられ、わたしたちのうちにお住みになられ、人としての時の流れの中での歩みを共にしてくださったことを喜び、感謝するこの降誕祭に、その出来事が起こった聖なる地で、一体何が起きているでしょうか。

神の御言葉が人となられ、平和の君がわたしたちと共にいてくださり、直接語りかけてくださったその聖なる地で、多くのいのちが暴力的に奪われ続けています。すでにガザでは二万人に迫るいのちが、暴力的に奪われたと報道されています。イスラエル側にも多くの死者が出ています。一体どうしたら長年にわたるこの対立が終結し、聖なるこの地に神の平和が訪れるのか、わたしたちにはその道すら見えません。そこには長い歴史的背景があり、その歴史の流れの中で培われた相互不信があり、同時に、世界の様々な国家がその背後でうごめき合っているのもよく知られています。簡単に解決策は見いだされないというのは誰しもが感じているところでありますが、しかし、あたかも暗闇に包まれているかのような聖なる地の現状を目の当たりにして、何もしないでいることもできません。

12月17日、教皇様はバチカンにおけるお告げの祈りの際に、前日16日にガザ地区の聖家族教会で二人の女性が射殺された事件について触れ、次のようにのべられています。

「狙撃兵によって、母と娘、ナヒダ・カリル・アントンさんと、娘のサマル・カマル・アントンさんが殺害され、他の人々は負傷しました。彼らは手洗いに行く途中でした。マザー・テレサの会の修道院では、発電機が破壊され、修道院は被害を受けました。「これがテロリズムだ。これが戦争なのだ」という人がいるかもしれません。そうです。これが戦争です。テロリズムです。だからこそ、聖書はこう強調するのです。「神は戦いを絶ち…弓を砕き、槍を折られる」(参照 詩編46,9)。平和のために主に祈りましょう」

2020年から3年以上にわたり、世界は感染症による大混乱の中にありました。一時は、多くの人が、いのちの危機を肌で感じ、実際にいのちを落とされた方も多数おられます

教皇フランシスコは、互いに連帯し支え合うことがこの危機から抜け出す唯一の道であることを、混乱がはじまった当初から繰り返し述べてこられました。

しかしこの3年間、世界で起こっているのは一体なんでしょう。それは互いに支え合い連帯することではありません。

その中でも一番大きな衝撃を与えたのは、ウクライナへのロシアによる侵攻によって始まった戦争です。未だにその終結の道が見えません。クーデターが発生したミャンマーはどうでしょう。ミャンマーの教会は、長年にわたって東京教区とケルン教区が一緒になって支え連帯するパートナー教会です。そのミャンマーではいまに至るも平和の糸口が見いだせず、この数ヶ月は、平和を求めて声を上げる教会を敵対勢力に加担する者と見なして、軍事政権側による武力を持っての攻撃が起こり、多くのいのちが危機にさらされています。

数日前にこの聖堂で行われた東京教区の新しい補佐司教であるアンドレア司教様の叙階式には、ミャンマーの司教様たちを代表して、レイモンド司教様がおいでになっておられました。司教様とゆっくり話をする時間があり、ミャンマーの現状をいろいろとお聞きしました。軍隊は目に見えないが、空爆によって多くのいのちが危機にさらされている状況をお話くださった後に、司教様は「世界ではいろいろ起こっているけれど、わたしたちを忘れないでください」と強調されました。

その存在を忘れさられ、孤独のうちに取り残されるとき、人はいのちを生きる希望を失います。世界各地に広がる紛争の現場や、災害の現場や、避難民キャンプなどなどで、多くの人が「わたしたちを忘れないで」と叫んでいる、その声が耳に響いてくるように感じました。

教会は、人間のいのちは神からの賜物であると信じています。聖書の冒頭、創世記に記された天地創造の物語から、人のいのちには神の似姿としての尊厳があり、またそれは「互いに助け合う者」として創造されたと信じています。そうであるならば教会は、神からの賜物であるいのちを守り抜く存在として、社会の中で率先して共に歩む存在でありたいと思います。暴力を持っていのちを危機にさらす紛争が勃発する社会に対して、互いの尊厳をまもり、違いを尊重し、弱い存在を支え、声なき声に耳を傾け、誰ひとりとして排除されることなく、忘れ去られることのない世界を実現するために、共に歩みを続ける教会でありたいと思います。

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10月4日に発表された環境に関する文書「ラウダーテ・デウム」の終わりに、教皇フランシスコは、「人間は、神に代わる存在になろうとするとき、自分自身の最悪の敵になる」と記しています。この世の権力に溺れ、神の存在を忘れたとき、その自分自身の選択が、結局のところ自らのいのちを危機にさらすような状況を招くのだと、教皇フランシスコは指摘されてます。

その上で教皇は、「本物の信仰は、人間の心を強めるばかりでなく、生き方を変え、わたしたちの目標を変え、他者への関わりや全被造界との関わりを照らし導いてくれることを、わたしたちは知っている」と記します(61)。暴力による対立ではなくて、連帯における支え合いを実現するためにも、わたしたちは生き方を大きく変える必要があります。それを心を回すと書いて、回心といいます。

わたしたちには、希望の光が必要です。暗闇を照らす光が必要です。その光に導かれるためには、謙遜になり、神の御手にすべてを委ねる勇気が必要です。そのためにもわたしたちの心を回し、神に向かおうとする努力、回心が必要です。

回心をするために、心に言い聞かせましょう。誕生された幼子が主イエスとしてその模範を示されたように、誰かを裁いたり、排除したり、いのちに対する暴力を働くのではなく、いつくしみと愛を持って互いに支え合い、慰め合い、歩みを共にしましょう。誕生された幼子は、暗闇に輝く光です。その光は、喜びと希望を生み出す光です。その光はわたしたちを、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会い」へと導いてくれる光です。この輝く光には、いのちの希望があります。なぜならばこの輝く光は、いのちそのものであり、いのちを賜物として創造された神の愛といつくしみそのものであり、わたしたちを包み込む神のことばそのものであります。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

飼い葉桶に寝かされた幼子の前に佇み、その小さないのちに込められた神の愛といつくしみに思いを馳せましょう。賜物であるいのちには希望があります。喜びがあります。その希望と喜びを、多くの人たちに分け与えてまいりましょう。

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