カテゴリー「配信ミサ説教」の83件の記事

2022年8月15日 (月)

2022聖母被昇天祭@東京カテドラル

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8月15日、聖母被昇天祭です。

東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会と韓人教会の合同ミサとして、午後6時からミサを捧げました。また本日は私の霊名である聖タルチシオの元来の記念日でもありますので、多くの皆様のお祝いとお祈りをいただきました。感謝申しあげます。聖タルチシオはローマでの迫害時代(3世紀)、捕らわれているキリスト教徒のもとへ御聖体を密かに持って行く際に捕まり、御聖体を守って殉教したと伝えられ、ヨーロッパやアフリカなどでは、侍者の保護の聖人とされています。

以下、本日午後6時にささげられた聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

聖母被昇天祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年8月15日

8月15日は、教会にとっては聖母の被昇天を祝う大切な祝日ですが、同時に日本においては、1945年の戦争の終結を記憶し、過去を振り返り、将来への平和の誓いを新たにする祈りの日でもあります。

1981年に日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、自らを「平和の巡礼者」と呼ばれ、広島では、「戦争は人間の仕業です」と始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界に向けて強調されました。

教皇の言葉に触発された日本の教会は、その翌年の1982年から、「日本カトリック平和旬間」を始めました。わたしたちにとっては、戦争へと至った道を振り返り、同じ過ちを犯さないために学びを深め、祈り続けるときでありますし、同時に、戦後77年が経過しても世界の平和が確立されていない現実を目の前にして、平和の実現を妨げる要因を取り除くための祈りと行動を決意するときでもあります。

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東京教区では、今年の平和旬間を、昨年に続いて、クーデター後の混乱が続いているミャンマーのために祈る時といたしました。皆様のお祈りに感謝します。ミャンマーの司教様たちからも感謝の言葉が寄せられていますし、マンダレーのマルコ大司教様からは、東京教区の今年の平和を求める祈りを翻訳し、この期間に共に祈りをささげているとのメッセージをいただきました。

ミャンマーでは軍政下での混乱が続き、平和を求めて声を上げる人々や教会に対する暴力的な弾圧も続き、先日には民主化運動の指導者たちの死刑も執行されました。暴力を持って他者を従わせ支配しようとすることは、いのちの尊厳への挑戦です。

カテキズムには、「権威が正当に行使されるのはそれが共通善を目指し、その達成のために道徳的に正当な手段を用いるときです。従って、政治体制は国民の自由な決断によって定められ、人々の恣意でなく法が支配する「法治国家」の原則を尊重しなければ」ならないと記されています。(要約406)

残念なことに世界では次から次と暴力的な事態が発生し、社会の関心は移り変わっていきます。世界から忘れ去られたあとに、苦悩に晒された人だけが取り残される悲しみが、幾たび繰り返されてきたことでしょう。わたしたちは、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」という教皇の言葉を心に刻み、姉妹教会であるミャンマーの方々のことを忘れることなく、平和の確立を願いながら、祈り続け、行動したいと思います。

この2年以上にわたる感染症の脅威の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。

しかしながら、特にこの半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。いのちの尊厳をないがしろにする人間の言葉と行いに、ひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、いのちを賜物として与えられた、わたしたちの使命です。本来宗教は、賜物として与えられたいのちを危機にさらすものではなく、神の秩序の確立を目指して、いのちの尊厳を守り、共通善の実現のために資するものであるはずです。暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、どうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちに引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調したいと思います。

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いま世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することであり、神の愛を身に受けて、自らの献身によって他者のためにその愛を分かちあう生き方です。

教皇フランシスコは「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記しています。聖母マリアの人生は、まさしく神の愛を身に受けて、その実現のために自分をささげ、他者を生かそうと努める生き方であります。

教皇フランシスコは、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。聖母マリアの「観想と他者に向けて歩む力」の具体的な表れであります。

マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。今まさしく世界が必要としているのは、その心の姿勢であります。

聖母マリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち神の秩序の実現とは具体的にどういう状態なのかを、マグニフィカトではっきりと宣言します。

「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

聖母が高らかに歌いあげたように、教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていく存在でありたいと思います。

聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜でありながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。

聖母と共に、主イエスに向かって歩み続ける神の民であり続けましょう。

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2022年8月10日 (水)

2022年平和旬間:平和を願うミサ@東京カテドラル

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2022年の東京教区平和旬間は、感染症対策のため、いわゆるイベントを行うことができない状況となっています。特に教区としての平和を願いミサを予定していた関口教会では、主任司祭を含めた司祭・助祭団などに検査陽性があり、予定していた8月7日は、ミサの公開が中止となりました。

とはいえ、「ミサの公開が中止」というのは、「ミサが中止」なわけではなく、司祭がささげるミサに会衆を入れないことを意味していますので、8月7日は、関口教会で非公開の形で平和を願いミサを捧げました。

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すでに触れているように、昨今の国内外の状況で、平和を祈らなくてはならない課題は多々ありますし、そもそも平和旬間が設けられたきっかけも、過去を振り返り将来へ責任を持つことを呼びかけられた、教皇ヨハネパウロ二世の広島アピールにあるのですから、戦争の記憶を振り返りそこから学ぶことも忘れるわけにはいきません。その中で、東京教区では、そういったことを踏まえた上で、ともすれば新しく起こる悲劇の陰で忘れられていくことの多い課題に目を向け、特に姉妹教会であるミャンマーのために祈り続けることを選択しました。ロシアによるウクライナ侵攻や国内での暗殺事件などなど、暴力が支配するかのようなこの世界には、平和の課題が山積しています。その中で、ミャンマーを忘れないでいたいと思います。

なぜミャンマーなのかという問いかけをいくつかいただいています。一番の理由は、幾度も繰り返していますが、ミャンマーの教会が東京教区の姉妹教会だからです。東京教区が戦後にケルン教区から受けた様々な援助へのお返しとして、今度はミャンマーへの支援が始まりました。その関わりを、わたしたちは忘れずにいたいと思います。

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そしてこの一年、クーデター以降、様々な機会にミャンマーの平和のために祈ってきました。残念ながら状況は混迷を極めており、平和は乱されたままです。その中で、わたしたちの兄弟姉妹が、困難に直面しています。それを忘れるわけには行きません。すでに教区のホームページにマンダレーのマルコ大司教様のお手紙が掲載されていますし、そのほかの教区からもいただいていますが、今回のわたしたちの平和旬間の祈りに対して、ミャンマーの教会からはお返事のメッセージをいただいています。そこには、この平和旬間にあわせて、ミャンマーの教会でも、平和旬間に、一緒に平和のために祈ると記されています。この目に見える繋がりを、大切にしたいと思います。(上の写真は2020年2月、マンダレーでマルコ大司教様と)

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以下、8月7日午前10時からカテドラルでささげた平和を願うミサの説教原稿です。なおこのミサは、私と天本師以外では、聖歌隊を務めたイエスのカリタス会の方々、構内におられるシスター方と、配信スタッフのみが参加しました。

年間第19主日(平和を願うミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年8月7日

わたしたちが生きているこの世界は、まるで暴力に支配されているかのようであります。

2020年2月頃から、感染症の状況が世界中を巻き込んで、不安の渦の中でわたしたちから希望を奪い去りました。この状況は多少の改善があったかと思うと再び悪化することを繰り返し、そのたび事に、一体いつまでこのようなことが続くのかという焦燥感がわたしたちを包み込み、その焦燥感がもたらす先の見えない不安が、なおいっそうわたしたちの心を荒れ果てた地におけるすさみへと招き入れています。その中でわたしたちは、いのちを守る道を見いだそうと努めてきました。

この2年以上にわたる感染症の脅威の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。

しかしながら、特にこの半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。この不安な状況の中で、互いに手を取り合って支え合い、いのちを守るために連帯しなくてはならないことが明白であるにもかかわらず、ミャンマーではクーデターが起こりました。ウクライナではロシアの侵攻によって戦争が始まりました。暴力によっていのちを奪い取るような理不尽な事件も起こりました。

1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、平和を呼びかけられました。その言葉に触発されて、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻むために、この10日間の平和旬間を定めました。

「戦争は人間のしわざ」であるからこそ、その対極にある平和を生み出すのは、やはり「人間のしわざ」であるはずです。「戦争は人間の生命の破壊」であるからこそ、わたしたちは神からの賜物であるいのちを守り抜くために、平和を生み出さなくてはなりません。「戦争は死」であるからこそ、わたしたちいのちを生きている者は、戦争を止めさせなくてはなりません。

ヨハネパウロ2世は広島で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」とも言われました。わたしたちは、過去の歴史を振り返りながら、いま選び取るべき道を見出し、将来に向けて責任ある行動を取りたいと思います。平和は、どこからか降ってくるお恵みではなくて、わたしたち自身はこの地上において具体化するべきものです。

暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、わたしたちはどうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちになってしまいます。しかし暴力の結末は死であります。わたしたちはその事実を、先の参議院選挙期間中に目の当たりにしました。

いのちに対する暴力を働くことによって、自らの思いを遂げようとすることは、いのちを創造された神への挑戦です。神がいのちを与えられたと信じるわたしたちキリスト者にとって、いのちはその始まりから終わりまで守られなくてはならない神からの尊厳ある賜物です。

多くの人が自由のうちにいのちをより良く生きようとするとき、そこに立場の違いや考えの違い、生きる道の違いがあることは当然です。その違いを認め、一人ひとりのいのちがより十全にその与えられた恵みを生きる社会を実現するのが、わたしたち宗教者の務めです。宗教はいのちを生かす道を切り開き、共通善を具体化し、平和を実現する道でなくてはなりません。

わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの方々は、2021年2月1日に発生したクーデター以降、国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われ、さらに先日は民主化運動の活動家に死刑が執行されました。暴力による支配はいのちを生かすことはなく、いのちを奪うのであって、それはいのちの与え主である神への挑戦です。

様々な大きな事件が起こる度に、世界の関心は移り変わっていきます。その背後に、苦しみのうちに忘れ去られる多くの人がいます。いま世界には、平和を破壊するような状況が多々存在し、祈りを必要としています。だからこそわたしたちは、姉妹教会の方々を忘れることなく、今年の平和旬間でも、ミャンマーの方々のために祈り続けたいと思います。

ルカ福音は、主人の帰りを待つ間、常に目覚めて準備している僕の話を記します。「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」

この朗読箇所の直前には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。すなわちイエスが求めているのは、その再臨の時まで、わたしたちがどのように生きるのかであって、常に用意をするとは、単に準備を整えて控えていることではなくて、積極的に行動することを意味しています。

わたしたちは、天に富を積むために、神の意志をこの世界で実現する行動を積極的に取らなくてはなりません。神のいつくしみを具体化したのはイエスご自身ですが、そのイエスに従う者として、イエスの言葉と行いに倣うのであれば、当然わたしたちの言葉と行いも、神のいつくしみを具体化したものになるはずです。

神の望まれている世界の実現は、すなわち神の定めた秩序の具体化に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は、「地上の平和」の冒頭に、こう記しています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「地上の平和」1)

わたしたちは、神の秩序が確立されるために、常に尽くしていきたいと思います。

わたしたちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。わたしたちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、わたしたちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は平和の実現でもあります。

今年の復活祭メッセージで、教皇フランシスコはこう呼びかけました。

「どうか、戦争に慣れてしまわないでください。平和を希求することに積極的にかかわりましょう。バルコニーから、街角から、平和を叫びましょう。「平和を!」と。各国の指導者たちが、人々の平和への願いに耳を傾けてくれますように」(2022年4月17日)。

常に目を覚まして、神の秩序の確立のために、平和の確立のために、「平和を」と叫び続け、また働き続けましょう。

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2022年7月17日 (日)

年間第16主日@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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年間第16主日は、関口教会の午前10時の主日ミサを、司式させていただきました。

ミサの冒頭でもお願いをいたしましたが、今週、司教総会が行われます。通常は月曜からですが、明日月曜が休日のため、今回は火曜日から金曜日まで、全国16教区からすべての現役の司教が集まり、開催されます。また会期中には、シノドスに関連して、キリスト教諸教会の方々をお招きして、今回のシノドスに関しての分かち合いをともにし、また祈りの時を共有することも予定されています。

司教総会は、現在は2月と7月に一週間ずつ、そして12月に一日だけ開催されており、全国の司教が皆集まるのは、それほど回数があるわけではありません。聖霊が豊かに働き、司教総会を導いてくださるように、皆様のお祈りをお願いいたします。

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以下本日の関口教会でのミサ説教の原稿です。

年間第16主日C(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年7月17日

新しい出会いを歓迎し、あたたかくもてなす行動は、わたしたちの心を豊かにし、喜びと希望を生み出します。もてなしをする心は、命を生かす心です。

残念ながら、わたしたちがいま生きている世界では、特にこの二年間、その対極にある暴力的な行動が支配的になっています。教皇様ご自身が、すでに第三次世界大戦が始まっているとまで言われたウクライナを巡る戦争状態は、世界中を巻き込み、それに触発されて、暴力的解決を良しとするような言動すら、当たり前のように耳にします。感染症の状況が続く中で、先の見えない不安のために、多くの人の心は守りの姿勢を強めていて、他者を排除する力へとつながってしまいました。社会にとって異質な存在を受け入れることよりも、排除することによって、安定を見出そうとするところに、喜びと希望を見出すことはできません。命を生かす道を見いだすことはできません。

この状況の中で、見知らぬ旅人をもてなす心の姿勢は、世界にまだ存在しているでしょうか。

日本でも、様々な状況の中で、命の危機に直面して助けを求めている人たちがおられます。戦争のように直接的な命への暴力がまん延するところでは、命を守るために具体的に避難生活を選択せざるを得ない人が多数おられます。神から与えられたこの共通の家に住んでいるわたしたちは、見知らぬ旅人をもてなす心の姿勢を持ち続けているでしょうか。

先日の安倍元総理に対する非道な襲撃事件もそうですし、数年前に発生した障害と共に生きる方々の命に対する暴力的犯罪もそうですが、自らの思いを実現するために、また身勝手で理不尽な理由のために、他者の命に暴力を振るうことは、命を賜物として与えてくださった神に対する攻撃であり、いのちの尊厳を守ろうとするわたしたちの信仰とは対極にある行動です。あらためて言うまでもなく、神からの賜物であるこの命は、その始まりから終わりまで徹底的に守られなくてはなりませんし、神の似姿としてのその尊厳は、常に尊重されなくてはなりません。

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創世記のアブラハムの物語は、神の人であったアブラハムが、旅人を迎え入れた話を記しています。そのもてなしの心は、アブラハムの神への信仰の反映であり、それがために神はその不思議な旅人たちを通じて自らの計画をアブラハムにあかされました。

このことをパウロはヘブライ人への手紙にこう記しています。(ヘブライ人13:1)

「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

またローマ人への手紙にもこう記してあります。(ローマ12:13)

「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人を持てなすよう努めなさい」

使徒言行録の「人々は大変親切にしてくれた」(使徒言行録28・2)をテーマとして掲げた2020年のキリスト教一致祈祷週間を前に、教皇様は当時の一般謁見で次のように述べておられます。

「親愛なる皆さん、もてなす心は大切です。・・・もてなすこころは、一方的に親切を行う行為ではないのです。他の教派のキリスト者をもてなすとき、その人たちを、わたしたちに送られたたまものとして受け入れます。・・・なぜなら、その兄弟姉妹たちのうちに聖霊が種を蒔かれたものを受け取るからです。そして、それがわたしたちにとってのたまものとなります。聖霊はいたるところに、恵みの種を蒔かれるのです」

もてなしの心は、単に優しさの一方通行ではなくて、すでに神が播かれた聖霊の種の実りを、わたしたちは新しい出会いの中で受け取るのだと教皇様は指摘されています。

ルカ福音はよく知られているマリアとマルタの態度を対比させた物語を記しています。イエスを迎え入れたとき、マルタは忙しく立ち振る舞い、マリアはイエスの足元で話に聞き入っています。

手伝おうとしないマリアに業を煮やしたマルタが不平を漏らすとき、イエスは「マリアはよい方を選んだ」と断言します。これでは一生懸命になってもてなしをするマルタがかわいそうです。一体イエスの本意はどこにあるのでしょう。

イエスの本意を知る手がかりは、マルタが「せわしく立ち働いていた」という描写と、イエス自身の「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言う言葉にあります。すなわちイエスは、もてなすために働くマルタを否定し、イエスの言葉を聞くことだけに集中するマリアを肯定しているのではなくて、多くのことに思い悩んで心を乱しているのか、はたまた神の心だけに集中しているのかの選択を迫っています。

そもそも話の冒頭で、イエスを迎え入れるのはマルタです。創世記でアブラハムが三人の旅人を無理にでもと迎え入れたように、マルタはイエスを家に迎え入れます。マルタのこの迎え入れるもてなしの態度がなければ、全ては始まりません。マルタがイエスを迎え入れていなければ、マリアはその足元でイエスの言葉に耳を傾けることもなかったことでしょう。

マルタのこの行動とアブラハムの行動は、わたしたちに、もてなしの心を持って他者を迎え入れる態度こそが、神との出会いの鍵であることを教えています。

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先日のカトリック新聞で(6月26日号)、麹町教会のウェルカム・テーブルのことが大きく紹介されていました。同様の取り組みをしている教会は他にもあると聞いています。多くの人を迎え入れる行動は、神との出会いの場をもたらします。キリストの弟子であるわたしたちに必要な基本的な生きる姿勢の一つは、この迎え入れる態度であって、それはわたしたちが人なつこくて優しいからではなくて、その態度と行動が、神との出会いの場を生み出すからに他なりません。

様々なことに心を奪われ、心を乱していたマルタは、思いの外激しい口調で、迎え入れた客であるはずのイエスに不平をぶつけます。そのときマルタの迎え入れる心はどこにあったのでしょうか。肝心のもてなす対象であるイエスに、苦情を言いつける態度は、どう見ても目的を取り違えた態度です。つまり、何のためにもてなしているのかを忘れて、もてなすことそれ自体が重要であるかのように勘違いをしてしまったのです。イエスは、正しくふさわしい目的に、心を集中させるようにと諭します。

教皇フランシスコは2019年7月21日のお告げの祈りでこの話を取り上げ、次のように述べています。「マリアの姿勢を褒めることで、イエスは、わたしたち一人ひとりに再びこういっておられるのではないでしょうか。『しなければならないことに翻弄されず、何よりもまず、主の声に耳を傾けなさい。そうすれば、あなたの人生に課されたことを、しっかり果たせるようになります』」。

わたしたちはこの世界に神との出会いの場を一つでも多く生み出すために様々なことに挑戦していきます。わたしたちの弟子としての福音宣教です。多くのことをしていたとしても、その目的は神と共にいることであり、他の人たちを神と共にいる場に招くことです。招く行動それ自体が大切なのではなくて、大切なのは神と共にいる場を生み出すことであります。目的をしっかりと心に留め、そのための手段を神聖化するような間違いを犯さないように、福音を告げるために神との出会いの場を一つでも多く作り上げていきましょう。

 

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2022年6月27日 (月)

年間第13主日ミサ@関口教会

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昨日6月26日、年間第13主日は、久しぶりに関口教会の10時のミサを司式させていただきました。先日のコロナ感染で、聖霊降臨のミサを司教総代理の稲川神父様に交代していただいたこともあり、関口でのミサは5月15日以来です。教区の行事以外でも、できる限り月に一度は、関口教会の主日ミサを司式させていただけるように、できる範囲で予定を調整しています。

まだのどと声に自信がなかったので、一部だけの歌唱ミサとさせていただきましたが、声は80%は戻ってきました。

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以下、年間第13主日の関口教会でのミサの説教原稿です。なお説教でも触れていますが、シノドスに対する教区回答は締め切られ、16教区からの報告が出そろいました。7月の司教総会で全国の報告書を採択し、8月15日の締めきりまでにローマに送付します。個人やグループで、締めきりまでに寄せられた文書も、バチカンの事務局の指示通り、そのままローマに送付します。教区からの報告書送付へのお礼の言葉を、中央協議会のホームページにも掲載しました。ご一読いただければと思います。

なおこのあとですが、11月頃を目途に、バチカンの事務局が、世界中からの報告をまとめた文書を作成することになっています。そして今度はそれを基にして、各大陸別の話し合いが行われます。世界にある7つの司教協議会連盟で、何らかの話し合いが行われます。アジア司教協議会連盟(FABC)は、来年2月の末に開催予定の中央委員会に合わせて、行われる予定です。そしてこの大陸別の話し合いの結果に基づいて、準備文書が作成され、それに基づいて2023年10月に、本番のシノドスがローマで行われる予定になっています。

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以下、説教原稿です。

年間第13主日C(配信ミサ説教)
関口教会主日ミサ
2022年6月26日

ご存じのように、教会は今、シノドスの道をともに歩んでいます。6月初めが締めきりでしたが、各教区から提出された報告をもとに、司教協議会としての報告書を8月半ばまでにバチカンのシノドス事務局へ提出することになっています。

これまでのシノドスであれば、特定の課題について小教区などで話し合っていただき、その意見を集約して教区の回答を作成し、さらに集約して司教協議会の回答を作るという過程があり、小教区や教区レベルでは、その回答を作成した段階で、シノドスへの関わりは終わりでした。

しかし今回は、全く違います。シノドスの歩みは始まったばかりか、実はまだ始まってもいないかのどちらかであり、これからも続けられていきます。なぜならば、このシノドスで求められている課題は、教会が本来の教会であり続けることであり、すなわち教会とは一体何であるのかを、皆の共通認識としてあらためて共有することにあるからなのです。

教皇フランシスコは、「ある意味、主がわたしたちに求めておられることは、すべて「シノドス、共に歩む」ということばの中にすでに含まれています」と指摘されています(2015年10月17日)

その上で教皇様は、「教会の中の役目がどんなものであっても、また信仰の素養に差があっても、洗礼を受けた一人ひとりが福音宣教者なのです。だから資格のある者だけがそれを進め、残りの信者はこれを受け取るだけだと考える福音宣教の図式は適当ではありません」と指摘されています。

また今回のシノドス準備文書には、「教会のメンバーが皆ともに旅をし、集いに集まり、教会の福音化の使命に能動的に参加するとき、交わりとしての教会の存在を明らかにし、実体を与えます」と記され、ともに歩む共同体こそが聖霊に導かれた真の教会共同体の姿であることを明示しています。

ですから、教会が今求められているのは、何らかの設問に対して答えを出すことではなくて、わたしたち自身は旅する教会としてどうしたら歩みを共にできるのかという課題に、それぞれの場で取り組むことに他なりません。ですからこの歩みは、報告書の提出を持って終わるのではなく、これから先、長い期間、続いていくであろうわたしたちの歩みそのものであります。教会は、これまでの自らのあり方を振り返り、これからどのように歩むのかを共に見出していくために、互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、共に祈りあうことが不可欠です。

わたしたちに投げかけられている根本的な問いが、準備文書に記されています。

「シノドス的教会は、福音を告げながら、「ともに旅をする」のです。この「ともに旅をする」ということは、今日、みなさんの部分教会(教区)の中で、どのような形で起こっているでしょうか。わたしたちが「ともに旅をする」中で成長するために、霊は、わたしたちがどのような段階を踏むよう招いているでしょうか」

この問いに答えて続けていくために、わたしたちは、聖霊の導きに身を委ねていかなくてはなりません。教会は、聖霊によって生み出され、聖霊によって導かれ、聖霊によって生かされているからです。

列王記は、エリヤが主からの命令に従い、自らの後継者であるエリシャを召し出す様子を伝えています。エリヤとエリシャにとって、この出来事は人生の大きな転換点であるにもかかわらず、全てが粛々と、というよりも、淡々と進められていった様が記されています。それは神の聖霊の導きに対して、二人が完全な信頼を寄せているからにほかなりません。

ガラテヤ人への手紙でパウロは、キリストによって罪の枷から解き放たれ、自由の身となったのだから、奴隷のくびきに再び繋がれることのないようにと諭します。パウロは、そのために必要なことは、「霊の導きに従って歩」む事だと指摘します。

ルカ福音は、イエスの言葉に従って歩む者に、徹底的な決断を促す言葉を記します。
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」

そもそもわたしたちの人生は、すべからく選択の連続です。大なり小なり、わたしたちは常に選択に直面し、その都度、進むべき道を選びとるために決断を迫られます。もちろん自信を持って行う選択もあるでしょう。しかし、自信が持てない状況、例えば先を見通すことが難しい時には先立つのは不安です。不安は決断を鈍らせ、躊躇させてしまいます。まさしくそういったときに、わたしたちは「鋤に手をかけ」たは良いものの、不安に駆られて「後ろを顧み」てしまいます。

第二バチカン公会議の教会憲章は、「聖なる方から油を注がれた信者の総体は、信仰において誤ることができない」と記し、その特性は、「司教をはじめとして全ての信徒を含む信者の総体が信仰と道徳のことがらについて全面的に賛同するとき、神の民全体の超自然的な信仰の感覚を通して現れる」と記します(12)。

今教会がともに歩んでいるシノドスの道も、この信仰の感覚に教会共同体が信頼を寄せ、聖霊の導きに全幅の信頼を寄せながら、その導きに身を委ねることの重要性を強調します。その上で、シノドスの準備文書は、「霊の働きを通して、使徒たちに由来するこの聖伝は、……教会の中で進展し、それによって神の民は、伝えられた事物やことばの理解の中で成長できる」としるします。

わたしたちは、洗礼を受ける事によってキリストの身体に結ばれ、聖体をいただくことによって一致の交わりに招かれています。わたしたちが一致のうちに結ばれるキリストのからだである教会共同体は、聖霊によって導かれています。

わたしたちは、すでに鋤に手をかけています。特に東京教区は、数年をかけて多くの方の意見に耳を傾け、宣教司牧方針を策定する道を歩んできました。ですからシノドスの歩みはすでに始まっているはずなのです。すでにわたしたちは鋤に手をかけました。前に向かって歩んでいくしか道はありません。

教会共同体の信仰の感覚に信頼し、教会が示す誤りのない道を、勇気を持って、しかし淡々と、前に向かって歩み続けていきたいと思います。教会共同体は誰かの教会ではなくて、わたしたち一人ひとりの教会です。教会共同体は何かが起こるのを待つ教会ではなくて、何かを起こすために行動する教会です。教会共同体は自分の好き勝手を実現する教会ではなくて、耳を傾けあい、互いに心の思いを分かち合い、一緒になって支え合い歩みながら、導いてくださる聖霊に一緒に従う教会です。

全人類に対する神の愛といつくしみを象徴するのは、イエスのみこころです。その深い愛といつくしみのみこころでわたしたちを包み込み、まもり導いてくださる主の思いに信頼することで、聖霊の導きを、この世の価値観や自分自身の独善的なおもいと取り違えるような選択をすることのないように、共同体の絆の中で信仰を生きましょう。教会に働かれる聖霊の導きをわたしたちに感じさせる、教会に満ちあふれる信仰の感覚を大切にしたいと思います。一緒に歩み続けましょう。

このミサのビデオは、カトリック関口教会のyoutubeアカウントで、ご覧いただけます。

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2022年5月16日 (月)

復活節第五主日:関口教会ミサ

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復活聖第五主日の午前中は、関口教会で10時のミサを司式しました。このミサでは、特に香港の状況に思いを馳せ、香港と中国の教会のため、特に今回の事態に遭遇している陳日君枢機卿様のために、皆さんにお祈りしていただきました。

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また同日午後2時半からは、六本木にあるフランシスカン・チャペルセンターで、堅信式を行いました。チャペルセンターは、英語を基本とする小教区ですので、この日の堅信式ミサも英語ミサです。いつもであれば聖堂は一杯になるのですが、感染対策のため、受堅者と代父母、その家族だけに参加者を限定し、4名ほどのコーラスの聖歌隊が素晴らしい歌を披露してくださいました。堅信を受けられたのは22名の方々。おめでとうございます。

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以下、関口教会10時ミサの説教の原稿です。

復活節第五主日(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年5月15日午前10時

復活された主との出会いを通じて、その生き方を大きく変えられたパウロは、各地に福音を宣べ伝える旅に出ます。最初の宣教旅行の締めくくりを、本日の使徒言行録は記していました。

パウロとバルナバが成し遂げた福音宣教の成果は、「神の恵みに委ねられて送り出された」ためであり、すべては「神が自分たちと共にいて行われ」事であると、記されています。

わたしたちは、復活された主によって力をいただき、福音を全世界にあかしするようにと派遣されています。わたしたちが告げるのは、自分自身の考えではありませんし、自分の知識をひけらかすことでもなく、告げるのはわたしを通じて語られる主ご自身です。わたしたちが自分自身を語ろうとするとき、そこに神の力が働く余地はなくなります。

ヨハネ福音は、主が最後の晩餐で弟子たちの足を洗った後に、弟子たちに与えた「新しい掟」を記しています。その直前に、「栄光を受ける」という言葉がくり前されます。ここでイエスは、そのあとに起こる十字架での受難と死について語っています。この世の常識から言えば悲惨な敗北でしかない十字架での受難と死とは、それを通じて神が自らを贖いのいけにえとしてささげる業であり、それが神の完全なる愛の目に見える証しとなることから、神の栄光を具体的にしめすことになります。その栄光を受けた主から派遣されるわたしたちは、主が命じたように生きることによって、主が受けられた栄光にさらなる栄光を増し加えることになります。わたしたちの福音宣教の業は、わたしたち自身の栄光のためではなく、神に栄光を帰するためであります。

「互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」

わたしたちが互いに愛し合うのは、まさしく、その行いを通じて、「皆が知るようになる」ための福音の生きたあかしであり、神ご自身による十字架での受難と死という最大の愛のあかしの行動を無にせず、その栄光を増し加えるためであり、究極的には福音宣教の業であります。

もちろん互いに愛し合うためには、互いの存在を受け入れあうことが必要です。感染症や戦争など、この数年間わたしたちはいのちの危機の中で生き続けています。不条理に、また暴力的にいのちを奪われる方々が、数多くおられる事実を目の当たりにし続けています。その中でどうしても自己防衛の思いが強くなり、その思いは人間を利己的にしてしまいます。安心を求めて、異質なものへの拒否感と排除の感情が強まります。個人のレベルでも、共同体のレベルでも、国家のレベルでも、自分を守ろうとするとき、わたしたちは排他的になってしまいます。

まさしく今の時を生きているからこそ、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を、具体的に生きることは、イエスの福音のあかしであり、十字架をむなしいものとせず、神の栄光を増し加える業であります。

互いに心を開き、耳を傾けあい、支え合う連帯こそが、この状況から抜け出すために不可欠だと、教皇フランシスコはたびたび繰り返されてこられました。福音を広く宣べ伝えることを第一の責務だと考えるのであれば、わたしたちは、互いに愛し合うために、お互いに耳を傾けあい、心を開く必要があります。誰ひとりとして排除されない世界を生み出すための一歩を、踏み出さなければなりません。

単なる優しさではなく、単なる物わかりの良さではなく、対立していても、相互理解が難しくとも、排除するのではなく、互いに耳を傾け合うために必要なのは、忍耐です。一番大切なものは、神が賜物として与えられたいのちであるという、心の根底を支える確信です。十字架での受難と死によってすでに目に見える形であかしされた神の愛に、希望を抱いて従うことです。模範は主ご自身によって示されました。それに従うかどうかの選択は、わたしたちの決断にかかっています。

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さて5月は聖母の月です。先日5月13日はファティマの聖母の記念日でしたが、10月とともに5月には、聖母の取り次ぎを願って、ロザリオの祈りをささげるように勧められています。

特に2020年以来、感染症の困難によっていのちの危機に直面する中で、教皇様はしばしば、聖母の取り次ぎを願って祈りをささげるようにと、わたしたちを招いてこられました。

2020年4月26日には、「この試練のときを信仰と希望をもって乗り越えられるよう、聖母マリアが助けてくださいます」とアレルヤの祈りの時に述べて、その年の5月中にはロザリオの祈りを唱えるようにと招かれました。その上で、すべての信徒に手紙を送り、そこにこう記されています。

「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。・・・そこで、わたしはこの五月に、家庭でロザリオの祈りを唱えるすばらしさを再発見するよう皆さんにお勧めしたいと思ったのです。だれかと一緒に唱えることも、独りで唱えることも、どちらの機会も最大限に活用して、状況に応じて決めることができます。」

加えて今年、感染症の状況が終息せず、わたしたちが暗闇の中を彷徨っていると感じ続けているさなかに、今度は戦争の危機が発生しました。ウクライナへのロシアによる武力侵攻という暴挙の中で、多くの人がいのちを暴力的に奪われる事態を目の当たりにして、教皇様は聖母への祈りを強めるように呼びかけられ、全世界を、特にロシアとウクライナを聖母に奉献され、またわたしたちもそれに倣って、聖母への奉献の祈りをささげました。

1965年、東西の対立が激しくなる中で、特に世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけ、回勅「メンセ・マイオ」で、「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」と呼びかけられました。(3)

もちろん祈りをささげ、全てを委ねたからと言って、それで平和が自動的に実現するものではありません。パウロがそうであったように、委ねたあとに、主とともにわたしたちは行動するのです。主のおもいが具体的に実現するようにと、導かれるままに行動するのです。平和の実現のためには、祈りとともに、主の導きに従った、わたしたちの行動が不可欠です。

なぜならば、ヨハネパウロ二世が広島で語られたように、「戦争は人間のしわざ」だからであります。「人間のしわざ」であるからこそ、それを解決するのも、人間の業にかかっています。

福音をあかししましょう。イエスの福音は一体どのような世界の実現を求めているでしょうか。どのような人間関係を求めているでしょうか。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように」

わたしたちは、新しい掟に忠実に生きる者であり続けましょう

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2022年4月24日 (日)

復活節第二主日「神のいつくしみの主日」@関口教会ミサ

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復活節第二主日は「神のいつくしみの主日」です。

この日は関口教会の10時のミサを司式いたしました。(写真上:聖マリア大聖堂右手に安置されている、聖ファウスティナの聖遺物)

東京教区のカリタス組織である「カリタス東京」は、昨年夏に設立を公示して以来、この「神のいつくしみの主日」に立ち上げることを目指して準備を進めてきました。組織としての「カリタス東京」は、本日付で立ち上げることになりましたが、当初予定していたCTICを核としての新しい組織体にするためには、今しばらく調整の時間が必要です。とはいえ、新しい組織はそれ以外の教区の社会活動も包括するので、調整がつくまで立ち上げを延期することもできません。したがって、本日付で「カリタス東京」は立ち上がります。

今後、調整がついた段階で、あらためて全体としてのカリタス東京のあり方などについては、お知らせいたします。

カリタス東京は、いわゆるカリタスジャパンの教区における支部ではありません。確かにカリタスジャパンに対する教区の窓口を含みますが、教区のカリタス組織は、カリタスジャパンの業務の教区版ではありません。全く異なる組織体です。

どうしても「カリタス」という名前を耳にすると、カトリック教会が組織する災害救援や人道援助の団体としての「カリタス(カリタスジャパンや国際カリタス)」を思い起こされるのかも知れません。しかし「カリタス」という言葉は、それをはるかに超えた、キリスト者が生きる道の基本を指し示す言葉です。信仰に生きるわたしたちは、カリタスに生きるのです。

第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「各自は隣人を例外なしに「もう一人の自分」と考えなければならず、何よりもまず隣人の生活と、それを人間にふさわしいものとして維持するために必要な手段について考慮すべきである(27)」と記されています。隣人愛の行動は、隣人への生活へと思いを馳せ、それを「人間にふさわしいものとして維持するために」手を尽くすことを求めますが、「人間にふさわしい」すなわち「人間の尊厳」を守るための行動は、ありとあらゆる事を含んでいます。

教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」において「総合的エコロジー」という言葉を使い、この世界にある諸々はすべてつながっているのだと指摘されました。カリタスの行動も、その対象を「総合的」に考えます。教皇フランシスコが、社会に対する様々な教会の活動を統括する部門として、「総合的人間開発促進の部署」を設立した由縁です。それは、個々の評議会、例えば正義と平和や難民移住者などの活動が、教皇庁にとって不要となったための統合ではなくて、単なるネットワーク化では現実の要求に応えることができないがために、全てを統合する部署を創設して、あらゆる視点から対応をしていくものです。バチカンでの同部署の創設時の会合の模様を、2017年4月5日の「司教の日記」に記していますので、ご一読いただければと思います。この時、教皇様は盛んに、パウロ六世の「諸国民の進歩(ポプロールム・プログレッシオ)」50周年を記念するときでしたので、同文書に記された「総合的人間開発」に触れて、教会の社会の課題に対する対応も総合的であるべきことを強調されていました。

東京教区のカリタス組織として設立された「カリタス東京」は、災害救援や人道援助団体としてだけ組織されたのでなく、それも含めて、「人間の尊厳」を守るためのありとあらゆる必要に「総合的」に応える組織となることを、最終的に目指しています。既存のいくつかの組織を統合したりするため、今後さらに組織としての調整が必要になりますが、できる限り早い段階で、これまでの教区の諸活動をさらに深め、総合的な取り組みとして、「人間の尊厳」を守り高める組織となってまいります。

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以下、本日午前10時からの、関口教会での主日ミサでの説教原稿です。(写真上:聖マリア大聖堂右手に安置されている聖ヨハネパウロ二世の聖遺物)

復活節第二主日C(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月24日

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められています。「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに信頼を持って近づき、それを黙想する日であります。同時にわたしたちは、神のいつくしみに身をゆだね、それによって今度は、自分自身が受けたいつくしみと愛を、隣人に分かちあうことを決意する日でもあります。

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2005年4月2日に帰天された教皇ヨハネパウロ二世は、その翌日の神のいつくしみの主日のために、メッセージを用意されていました。そこにはこう記されていました。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

「悪と利己主義と恐れの力に負けて」、わたしたち人類がどれほど愚かな間違いを犯すのか、わたしたちはこの四旬節に目の当たりにしました。ロシアによるウクライナへの武力侵攻は、武力の行使によって多くのいのちを奪い去っただけでなく、数限りない人がいのちを守るために故郷を離れ難民となって周辺の国へ旅立たなくてはならなくなりました。その数は聖週間が始まる頃に、国連の発表では450万人を超えています。

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わたし自身は1994年に、アフリカのルワンダで起こった虐殺事件の後に発生した難民の流出という事態に、カリタスジャパンの一員として現地で救援事業に取り組みました。そのとき、200万人を超える人が、いのちを守るために周辺国に流出し、歴史に残る規模だと言われていました。今回はその倍以上です。市民への虐殺とも言うべき暴虐行為の話も伝わってきます。まさしく今こそ、「ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる」神の愛しみ深い愛に包まれることが必要です。

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇ヨハネパウロ二世は、「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれています(3)」と記し、愛と、あわれみと、いつくしみは、切り離すことができないと主張されます。

その上で教皇は、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『いつくしみをもつ』ように命じられている」と指摘し、そのためにこそ互いに支え合う連帯が不可欠だと強調されました。

さらに教皇は、正義には愛が不可欠であると指摘して、教会が「多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成している『いつくしみ深い愛』を持ち込む」ために働くよう求められました。(いつくしみ深い神14)

教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。
「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

「平和があるように」と、復活された主は弟子たちに語りかけました。死をもたらす悪に、神の愛といつくしみが打ち勝つことを示された主は、「平和があるように」、すなわち神の支配が弟子たちと常にともにあることを明確に宣言して、弟子たちの恐れを取り除きます。平和は、神の打ち立てられる秩序が実現している状態です。目に見えるリーダーであったイエスを失っておののく弟子たちに対して、神の秩序が彼らを常に支配しているからこそ、どこにいてもどのような状況でも、主は弟子たちとともにおられることを明確にされました。復活された主は、常に共にいてくださいます。わたしたちをその平和で包み込んでくださいます。

そして弟子たちを罪のゆるしのために派遣されました。罪のゆるし、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神のいつくしみによって包み込む業を行うことであります。

福音に記されたトマスと主との関係は、神のいつくしみは完全な存在であり常にわたしたちに向けられているのに、それを拒むのは人間の側の不信仰であることを浮き彫りにします。信じようとしないトマスを、それでもイエスは愛といつくしみで包み込もうとなさいます。放蕩息子の父親に通じる心です。この世界には、神の愛といつくしみが満ちあふれています。互いに連帯し、支え合い、賜物であるいのちを尊重して生きるようにとわたしたちを招く、神の愛といつくしみに満ちあふれています。それを拒絶するのは、わたしたちの側の不信であり、怠慢であり、悪意であります。 

ベネディクト16世は回勅「神は愛」に、「キリストとの一致は、キリストがご自分を与えるすべての人との一致でもあります(14)」と記しています。

その上で教皇は、「神への愛と隣人愛は、真の意味で一致します」と述べて、神の平和のうちに生きる者は、神の愛に包み込まれ、神と一致しようとするときに、同時に隣人愛の行動に向かうのだと記しています。従って、神の愛に具体的に生きる行為、つまりカリタスの行いは、イエスの言葉と行いに付き従うものにとって選択肢の一つではなく、義務でもあります。

「カリタス」という名前を耳にすると、カトリック教会が組織する災害救援や人道援助の団体を思い起こされるのかも知れません。しかし「カリタス」という言葉は、それをはるかに超えた、キリスト者が生きる道の基本を指し示す言葉です。信仰に生きるわたしたちは、カリタスに生きるのです。

第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「各自は隣人を例外なしに「もう一人の自分」と考えなければならず、何よりもまず隣人の生活と、それを人間にふさわしいものとして維持するために必要な手段について考慮すべきである(27)」と記されています。隣人愛の行動は、隣人への生活へと思いを馳せ、それを「人間にふさわしいものとして維持するために」手を尽くすことを求めますが、「人間にふさわしい」すなわち「人間の尊厳」を守るための行動は、ありとあらゆる事を含んでいます。教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」において「総合的エコロジー」という言葉を使い、この世界にある諸々はすべてつながっているのだと指摘されました。カリタスの行動も、その対象を「総合的」に考えます。

本日、東京教区のカリタス組織として「カリタス東京」が設立されます。まだまだこれから中味を整えていかなくてはなりませんし、組織を整える調整が必要です。カリタス東京は、災害救援や人道援助団体としてだけ組織されたのでなく、それも含めて、「人間の尊厳」を守るためのありとあらゆる必要に「総合的」に応える組織となることを、最終的に目指しています。神の愛といつくしみに、すべての人が包み込まれるように、社会の現実のあらゆる側面で、総合的に神の秩序の確立のために取り組んでいきます。教区内において、様々な側面から社会の課題に取り組んできた多くの方を、ネットワーク化し、互いに支え合うようにしたいとも考えています。どうか皆さん、神のいつくしみに勇気を持って身を委ね、受けた愛を多くの人に分かちあう道を歩みましょう。

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2022年4月17日 (日)

2022年復活の主日@東京カテドラル

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皆様、主の復活おめでとうございます。

この数日は肌寒い雨模様が続きましたが、復活の主日の今日は、少しばかりの曇り空ですが晴れ上がり、暖かな春の日となりました。復活祭と言うこともあり大勢の信徒の方がミサに参加されました。聖マリア大聖堂は、堂内の人数制限をしているため、今日は正面扉を開放して、その外にも、ミサに与る人が互いの距離を取りながら、祈りをささげておられました。

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今日のミサで、これから異動となる神父様方も多数おられると思います。関口教会でも、助任のホルヘ神父様が、来週から高幡教会で働かれることになります。ミサの最後に、関口教会からお祝いとホルヘ神父様の趣味でもある盆栽が贈られました。新しい任地で、新しい責務を負われるホルヘ神父様に、聖霊の導きを祈ります。

新しい主任司祭や助任司祭を迎える教会共同体にあっては、どうか司祭のためにお祈りください。新しい任地へ向かう司祭のため、そして新たに皆さんの共同体に赴任される司祭のため、どうか祈りをお願いします。わたしたちは、祈りの力を信じています。祈りを忘れたとき、人間の力に頼らざるを得なくなり、それが生み出す結果は神様の望まれる道とは異なる方向を向いてしまう可能性すらあります。

洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。これからキリストの身体の一部分として、共同体の大切なメンバーとして、ともに歩んで参りましょう。

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以下、本日午前10時の、関口教会でのミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月17日

主の復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

洗礼を受けられたことで、皆さんはキリストの身体を構成する一部分となりました。そのことを目に見える形で象徴するように、共同体の一員としても迎え入れられることになります。教会は共同体です。お一人お一人にそれぞれの人生の歩みがあることでしょうから、共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、信仰はパートタイムではなくてフルタイムであって、どこにいても常に、わたしたちキリスト者は霊的な絆で共同体に、そしてキリストの身体に結ばれていることを心に留めておくことだと思います。わたしたちから神に背を向けて離れていくことはいくらでもできますが、神は自分の身体の一部であるわたしたちを離しません。洗礼の恵みによって、さらには聖体と堅信の恵みによって、わたしたちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきをわたしたちが切り離すことはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で貢献をしていただくことを期待しています。

主の復活を祝うこの日は、わたしたちの信仰の中心にある喜びの日です。十字架の苦しみと死に打ち勝って、新たないのちへと復活されたイエスの勝利がなければ、今日の使徒言行録に記されているようなペトロの力強い宣言はなかったのです。ヨハネ福音に記されたペトロと、使徒言行録に記されたペトロは、同じ人物ですが、そこには大きな違いがあります。

あの晩、三度にわたってイエスを知らないと宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、主の復活を理解できません。ヨハネ福音には復活された主は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を見てもまだ理解できずにまだまだ困惑しているペトロや弟子たちの姿です。

しかしそのペトロは、使徒言行録で、力強くイエスについて宣言するペトロになりました。その異なるペトロの姿の間には、復活された主ご自身との出会いがあります。

教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」にこう記しておられます。
「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです(1)」

こう記した教皇は、繰り返し、わたしたちの信仰は、イエスとの個人的な出会いの体験によって生み出されると強調されました。イエスとの出会いは、ペトロやパウロがそうであったように、いのちを生きる希望を生み出します。

その上で教皇ベネディクト16世は、「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。・・・希望を持つ人は、生き方が変わります(回勅「希望による救い」2)」とも指摘されています。

洗礼によってわたしたちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との個人的な出会いがあります。主との出会いはいのちを生きる希望を生み出します。その希望を心に受けた者は、それを力強くあかしする人生を歩み始めます。なぜならば、わたしたちが受けた福音は、単なる知識や情報ではなくて、何かを引き起こし、生活を変えるような力を持っているはずだからであります。

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いま、たぶんわたしは、理想を述べています。現実はそう簡単にはいかないことを、わたしたちはこの四旬節の間、目の当たりにしてきました。そもそもこの二年間以上、感染症の影響で、希望のない暗闇の中を彷徨ってきました。彷徨い続けているにもかかわらず、多くの人が暴力的にいのちを奪われうるような戦争状態が発生し、世界中が希望を見失ってしまいました。喜びの季節であるはずなのに、心のどこかに不安が根を張っています。

教会は霊的な絆に結びあわされた共同体であるにもかかわらず、実際に集まることができない状態が長く続く中で、その状態にとどまり続けるのは容易なことではありません。どこからか甘い言葉がささやかれると、思わず飛びつきたくなる心持ちです。でも甘い言葉には、真理と平和はありません。

なんとわたしたちの信仰の弱いことかと、思い知らされ続ける二年間でありました。これまで当たり前だと思っていた、日曜日に教会へ行ってミサに与ること、それが難しくなったとき、初めてわたしたちは、集まること自体が喜びを生み出していたことを心で感じました。わたしたち、と言って、皆さんのことを私が判断することはできませんから、少なくともわたし自身は、人間の心の弱さを、この二年間、つくづく思い知らされています。そして他者のいのちを暴力的に奪ってでも、政治的野望を成し遂げようとする人間の心の醜さを目の当たりにして、ただただ、主よ助けてください、と叫び続けるしかありません。

このような時代に生きているからこそ、わたしたちは福音の基本に立ち返り、現実社会の中で教会がどうあるべきなのか、わたしたちがどのように生きるべきなのかを、思い起こしたいと思います。

わたしたちの信仰を支える教会共同体には、三つの本質的務めがあると、教皇ベネディクト16世は指摘されていました。

回勅「神は愛」に、「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせること(宣教とあかし)、秘跡を祝うこと(典礼)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕)です。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことのできないものです(25)」と記されています。

教会は、福音をあかしする存在です。教会は祈りを深め神を礼拝する存在です。教会は愛の奉仕を行う存在です。どれかが大切なのではなくて、この三つの務めは互いを前提としているので、それぞれのが十分になされていなければなりません。

これに基づいて東京教区では、全体の方向性を示す「宣教司牧方針」を、定めています。宣教司牧方針の柱は三つあり、①宣教する共同体、②交わりの共同体、③すべてのいのちを大切にする共同体を育てていくことを目指しています。それによって先ほどの三つの本質的務めを十全に果たしていく共同体になりたいと思います。

三つの務めや三つの柱は、共同体の効率化だとか、そういったことを求めて定めてあるのではありません。それは、教会共同体が主ご自身との個人的な出会いを生み出す場となるためであり、主との出会いによる喜びに満たされている場となるためであり、社会に対してその喜びを宣言し希望を生み出すものとなるためであります。

皆さん、歩みを共にしながら、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」をつくり育んでまいりましょう。喜びと希望を生み出す、教会共同体でありましょう。

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2022年復活徹夜祭@東京カテドラル

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主の復活おめでとうございます。

聖土曜日はいわゆる固有の典礼のない日です。静かに主の墓の前に佇みその受難と死を黙想する日です。そしてその日の夕刻、日が沈んで、聖書的には翌日が始まる土曜日の夜、主の復活の徹夜祭が行われます。その中心にあるのは、復活された主イエスが、暗闇に輝く希望の光であることを明確に示す光の祭儀、そして出エジプトの物語を中心とした旧約聖書の朗読を通じた救いの歴史の黙想、そして感謝の祭儀です。通常この復活徹夜祭が新しいいのちのよみがえりを祝うのですから、古い自分に死んでキリストのうちに新しい後を生きる洗礼がおこなれます。

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東京カテドラル聖マリア大聖堂では、この晩、12名の方が洗礼を受け、3名の方が転会し、さらに10名が加わって堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

以下、復活徹夜祭の説教原稿です。なお、洗礼式で個人名が読み上げられることもあり、ビデオは添付いたしません

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月16日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

わたしたちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、わたしたちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。

この二年間、わたしたちは様々な危機に直面し、あたかも暗中模索を続けているようです。どこへどう進んでいったら良いか分からず、立ち止まってしまったとしても、時の流れはとどまることを知りませんから、わたしたちの人生はそれでも前進を続けています。

わたしたちの信仰の旅路も、とどまることなく前進を続けています。週の初めの日の明け方早く、墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたそのときで止まってしまったのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。そこに天使が出現し、イエスは生きていると告げます。途方に暮れた婦人たちに、天使は進むべき方向性を思い起こさせます。それはすでに与えられているのです。ガリラヤはイエスに従う人々がイエスと初めて出会った地です。信仰に生きるとはどういうことか、イエスが言葉と行いを持って教えた地です。それは単に過去の記憶として留めておくべきものではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える指針であります。

弟子たちも、十字架上での主の死という喪失に捕らわれ、途方に暮れて立ち止まっていたことを福音は記します。実際にイエスのからだがそこにはないことを目で見たペトロが、ただただ「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。ペトロは家に帰ったのであって、前に進もうとはしません。イエスご自身が現れるまで、前に進まないのです。主は立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。信仰は旅路です。闇雲に歩いているのではなく、主ご自身が示された方向性の指針に基づいて、歩みを続ける旅路です。

出エジプト記において、救いの歴史にあずかる神の民は、エジプトでの安定した生活を捨て、常に挑戦し続ける旅に駆り立てられ、40年にわたって荒れ野を彷徨います。安定した過去へ戻ろうと神に逆らう民に、神は時として罰を与えながら、それでも常に前進するように命じます。その旅路は過酷であり、あたかも彷徨っているようにしか見えませんが、しかし神の救いの計画、すなわち進むべき方向性の指針はすでに明確に示されていました。

わたしたちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点に過ぎません。今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。

とはいえ、一人で旅路を歩むのは心細いものです。本当にそれが正しい道なのかどうか、分からないときもしばしばでしょう。ですからわたしたちは、ともにこの道を歩みます。教会は共同体であり、わたしたちは信仰の旅路を、共同体としてともに歩みます。一人孤独のうちに歩むのではなく、互いに助け合いながら、歩み続けます。

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ちょうどいま教会は、シノドスの道を歩んでいます。そのテーマは、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められています。シノドスは信仰の旅路の刷新を目指します。東京教区では、集まることが難しい中、定期的にビデオを作成し公開していますが、ご覧になったことはありますか。一つ一つは短いものですので、是非ご覧になって、何人かの方々とその内容について分かち合い、理解を深めていただければと思います。このシノドスは、何か決議文を生み出すのではなく、互いに信仰を深め、進むべき方向性の指針を再確認し、助け合い支え合いながら、信仰の旅路をともに歩み続けることが目的です。

東京教区では、折しも宣教司牧方針を、教区の多くの方の意見に耳を傾けながら定めたところです。残念ながら、発表した直後から感染症の状況に翻弄されており、宣教司牧方針を公表したものの、深めることが一切出来ずにおりました。

今回のシノドスの歩みは、そういった状況にある東京教区にとっては、ふさわしい呼びかけとなりました。シノドスの歩みをともにすることで、わたしたちは今の東京教区の現実の中で、神の民であるとはどういう意味があるのかを理解し深めようとしています。そのプロセスの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきます。そのことはちょうど、東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現と直接につながっています。

復活された主は、わたしたちの信仰の旅路に常に寄り添ってくださいます。ともに歩んでくださるのは主ご自身です。互いに支え合いともに歩む教会共同体を生み出していきましょう。

 

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2022年4月16日 (土)

2022年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

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聖金曜日の主の受難の典礼です。

今年もまた、感染対策のため、通常通りの典礼ができていません。残念です。特に十字架の崇敬を、本来はお一人お一人にしていただきたいのですが、全員で一緒に崇敬という形にさせていただきました。来年こそは、元に戻すことができるのを願っています。また盛式共同祈願では、教区司教の定めとして、ウクライナの平和とミャンマーの平和のため、また感染症の終息のため、教区典礼委員会が準備した祈願文二つを使いました。

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以下、聖金曜日主の受難の典礼の説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月15日

この日わたしたちは、愛する弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ孤独のうちに、さらには十字架上での死に至るまでの受難という、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスの苦しみに心を馳せ、祈ります。今日の典礼は、十字架の傍らに聖母が佇まれ、その苦しみに心をあわせておられたことを、わたしたちに思い起こさせます。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母は、キリストと一致した生き方を通じて、教会に霊的生活の模範を示されています。

教皇パウロ六世は、「(聖母の)礼拝が人の生活を神に対する奉献とさせる点」において、また「私は主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」という言葉に生きたことによって、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるようにとの教訓であり、模範で」あると指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)

人生においてわたしたちは、様々な困難に直面します。人間の知恵と知識を持って乗り越えることのできる困難もあれば、時には大災害のように、人間の力ではどうしようもない苦しみも存在します。この数年間、わたしたちは日本において、例えば東北の大震災のような大きな自然災害によって、人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。そして2020年、新型コロナウィルスによって、あらためて人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。

そして今度は戦争の危機に直面することになりました。今年の四旬節は、ロシアによるウクライナへの武力侵攻とともにある四旬節でした。核戦争の可能性さえ感じさせるこの事態は、しかし、自然災害ではありません。まさしく教皇ヨハネパウロ二世が1981年に広島から世界に呼びかけたように、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。

第二次世界大戦という悲劇を経験した人類は、それを繰り返さないために、戦後、さまざまな国際的規約を定め、国際機関を設立し、平和を確立しようとしました。東西対立が深まり核戦争の危機が現実となった時代に、教皇ヨハネ23世は「地上の平和」を著し、「武力に頼るのではなく、理性の光によって、換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(62)」、国家間の諸課題を解決せよと呼びかけました。その上で、その解決を、いのちを危機に直面させ、さらには人間の尊厳を奪う、武力行使に委ねることはできないと主張しました。

今回のウクライナでの事態にあたり、教会は教皇フランシスコの度重なる祈りの呼びかけに応え、平和のための祈りをささげてきました。しかしながら平和は自然現象ではありません。戦争が人間のしわざであるように、平和も人間の業によって生み出されなくてはなりません。平和は、教皇ヨハネ23世によれば、単に戦争のない状態ではなくて、神の秩序が完成している状態です。平和は神から恵みとしてもたらされるものではなくて、わたしたちがそのために力を尽くして確立するものであり、神は共通善に向けたわたしたちの行動を、聖霊を持って祝福し導いてくださいます。神の導きに応えて行動するのは、わたしたちです。

「地上の平和」にこう記されています。
「一人ひとりの中に平和がなければ、換言すれば、一人ひとりが自分自身の中に神が望む秩序を植え付けなければ、人々の間に平和は成立しえません。(88)」

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この事態にあたり、教皇フランシスコは、3月25日、全人類と、特にロシアとウクライナを、聖母の汚れなきみこころに奉献することを宣言し、全世界の教会に、教皇様と一致して祈りをささげるようにと招かれました。その原点は、ファティマで出現された聖母が、ルチアに伝えた第一、第二の秘密に記されています

聖母への奉献という行為は、聖母を通じてイエスに奉献するという行為です。教皇ヨハネパウロ二世は、1982年5月13日、ファティマでのミサにおいて、こう述べておられます。

「マリアにわたしたちを奉献するという意味は、わたしたちと全人類を聖なる方、つまり完全に聖なる方にささげるために、聖母の助けを求めるということです。それは、十字架のもとですべての人類への愛、全世界への愛に開かれたマリアの母なるみこころに助けを求め、世界を、人類一人ひとりを、人類全体を、そしてすべての国を完全に聖なる方にささげるためです」

わたしたちは完全に聖なる方にわたしたちを「委ね」て、それで終わりとするのではなく、委ねることで完全に聖なる方がわたしたちを聖なるものとしてくださるようにと、行動を決意をするのです。つまり、ただ恵みを受けるだけの受動態ではなくて、わたしたちが能動的に聖なるものとなるために行動することが不可欠です。ですから、奉献の祈りをしたから、あとは自動的に聖母が平和を与えてくださるのを待つのではなく、奉献の祈りをしたからこそ、完全に聖なる方に一致するための行動を起こすことが必要です。平和を求めて、全人類を聖母の汚れなきみこころに奉献したわたしたちの、具体的な行動が問われています。

いのちの与え主である神が人間を愛しているその愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。聖母マリアは、イエスとともに歩む時の終わりである、イエスの十字架上の苦しみに寄り添いました。聖母の人生は、完全に聖なる方にその身を委ねる人生でした。その身を委ねて、それに具体的に生きる前向きな人生でした。

苦しみの中でいのちの危機に直面していた主は、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこのときから、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。

その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立ち続ける姿です。十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立ち続ける聖母マリアはその希望のしるしです。私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。聖母マリアに倣い主イエスの苦しみに心をあわせ、神の秩序の実現のために、具体的に行動する人生を生きたいと思います。

 

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2022年4月15日 (金)

2022年聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

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聖木曜日の主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行いました。例年、聖なる三日間の典礼は、関口教会と韓人教会の合同で行われていますので、昨晩のミサには韓人教会の主任である高神父様も参加、さらに昼間の聖香油ミサに引き続いて、大分教区の新しい司教である森山信三被選司教様も参加して祈りの時をともにしてくださいました。

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感染対策中のため、残念ですが、今年も、洗足式を中止とし、さらにミサ後に御聖体を仮祭壇に運ぶ際も、会衆も共同司式司祭も、自席からお祈りしていただきました。来年こそは元に戻したい。そう思い、また願います。

なおビデオを見ていただく分かりますが、ミサでは第一奉献文を歌っています。あまり歌われることがありませんし、わたし自身が私の名前を呼ぶ(「わたしたちの司教○○」のところです)ところをどうしたのかも、一度ご覧いただければと思います。

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以下、主の晩餐のミサの説教原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月14日

この2年間、感染症の状況のただ中にあって、わたしたちは孤立するのではなく互いに連帯して助け合うことの重要性を肌で感じ、同時に、いのちの危機に直面するとき、人がどれほど容易に利己的になり、様々なレベルで連帯が実現しない現実も目の当たりにしてきました。

その最たるものは、今年の四旬節を悲しみと恐れの影で覆い尽くしたウクライナにおける戦争です。そこには様々な政治的な理由があることでしょう。それを持って武力の行使を正当化しようとする立場もあることでしょう。しかし信仰に生きるわたしたちは、すでに感染症によって世界中のいのちが危機にさらされている中で、今こそ必要なのはともにいのちを生きるために連帯することであって、いのちを奪うことではないとあらためて、しかも愚直に主張したいと思います。

教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」で、現在の世界情勢を「散発的な第三次世界大戦」と指摘した上で、こう記しています。

「わたしたちを一つに結びつける展望の欠如に気づくならば、これは驚くことではありません。どの戦争でも、破壊されるのは『人類家族の召命に刻み込まれた兄弟関係そのもの』で、そのため『脅威にさらされた状況はことごとく、不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向け』るからです(26)」

いのちを守るために世界的な連帯が必要とされる今、世界はそれに逆行するかのように、互いの絆を断ち、利己的になり、互いに無関心になり、いのちをさらなる危機に追いやっています。

感染症対策がわたしたちを孤立させ、できる限り人間関係を希薄にさせ、教会に集まることすら困難にさせている中で、わたしたちはあらためて教会の共同体性を考えさせられています。教会は何を持って共同体なのでしょうか。2年前まで、日曜日に教会に集まることで、わたしたちは教会共同体であると思っていました。しかしそれが不可能となったとき、わたしたちを結びつけているのは一体何なのだろうかと、考える機会を与えられました。

私はこの感染症の状況の中で、教会活動に様々な対策を講じる中で、福音に記された、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という主イエスの言葉を、わたしたちを結びつける絆のしるしとして掲げてきました。わたしたちは、どんな状況に置かれていても、主ご自身が、世の終わりまで共にいてくださると言われた、その約束に信頼し、主ご自身を通じて共同体の絆に結びあわされています。わたしたちは、仲良しクラブの会員ではありません。仲が良いから集まっているのではありません。わたしたちは、仲が良かろうと良くなかろうと、世の終わりまで共にいてくださる主がわたしたちとともにおられるから、この共同体に集められているのです。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」の冒頭で、主ご自身のこの約束の言葉に触れ、教会は様々な仕方で主の現存を味わうのだけれど、「しかし、聖なる聖体において、すなわちパンとぶどう酒が主のからだと血に変わることによって、教会はこのキリストの現存を特別な仕方で深く味わうのです(1)」と記しています。

その上で教皇は、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

わたしたちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡があるからこそ共同体であり、その絆のうちに一致しているのです。

主における一致へと招かれているわたしたちに、聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定にともなわせることによって、あとに残していく弟子たちに対する切々たる思いを秘跡のうちに刻み込まれました。このイエスの切々たる思いは、聖体祭儀が繰り返される度ごとに繰り返され、「時代は変わっても、聖体が過越の三日間におけるものと『時を超えて同一である』という神秘を実現」させました(「教会にいのちを与える聖体」5)。わたしたちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ思いを同じように受け継ぎます。

パウロはコリントの教会への手紙において、最後の晩餐における聖体の秘跡制定の出来事を記す中で、「わたしの記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉に続けて、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と呼びかけています。この呼びかけは、いま聖体祭儀に与るわたしたち一人ひとりへの呼びかけです。

イエスは、裂かれたパンこそが、「私のからだである」と宣言します。ぶどうは踏みつぶされてぶどう酒になっていきます。裂かれ、踏みつぶされるところ、そこに主はおられます。

だからこそヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、互いに自分を主張するのではなく、相手を思いやり支え合い、そのために自らの身を犠牲とするところ、そこに主はおられます。

わたしたちは聖体祭儀に与る度ごとに、自らの身を裂き、踏みつぶされて、それでも愛する人類のために身をささげられた主の愛に思いを馳せ、それを心に刻み、その思いを自分のものとし、そして同じように実践していこうと決意します。主の愛を自分のものとして具体的に生きるとき、そこに主はおられます。

教会は今、「ともに歩む教会のために--交わり、参加、そして宣教」というテーマを掲げて、ともにシノドスの道を歩んでいます。3月19日に世界中の司祭に向けて、聖職者省長官とシノドス事務局長が連名で書簡を出されました。そこに教会の新たな姿を求めるこの旅路について、こう呼びかけが記されています。

「わたしたちは、神の民全体とともに聖霊に耳を傾け、信仰を新たにし、兄弟姉妹と福音を分かち合うために新たな手段と言語を見出す必要があります。教皇フランシスコがわたしたちに提案しているシノドスの歩みは、まさにこのことを目的としています。つまり、相互に耳を傾け、アイデアやプロジェクトを共有しながら、教会の本当の顔を示すために、ともに歩み出すのです。その教会とは、主が住まい、友愛に満ちた関係性によって励まされる、扉の開け放たれた、もてなしのあふれる「家」です」

聖体の秘跡を制定された主イエスの切なる思いを心に刻み、聖体に現存される主に生かされて、その主を多くの人に告げしらせるために、主のおられる教会共同体となりましょう。

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