カテゴリー「配信ミサ説教」の34件の記事

2020年9月12日 (土)

年間第24主日@東京カテドラル

Nuncioignatio

年間第24主日となりました。

9月8日に駐日教皇大使ジョゼフ・チェノットゥ大司教様が帰天されました。76歳でした。大使は、すでに昨年役職の定年を過ぎておられましたが、教皇訪日の準備にあたるために延長されておられ、2011年10月に来日されてからほぼ9年という、長い在任となりました。教皇訪日の準備には心身共に疲れられたことと思いますが、年明けには楽しみにしておられた休暇での故郷インド訪問も、新型コロナ感染症のために取りやめとなり、東京の大使館で自粛生活が続いておりました。そのなか、5月8日早朝に自室で倒れられ、駿河台日大病院で緊急手術を受けられました。脳梗塞と聞いていますが、倒れたときにさまざまな損傷を受けた模様で、複雑な手術が数回続きました。残念ながら、現在の感染症の状況の中、面会は大使館関係者に限定されておりました。その後、意思の疎通も可能になってきたことから、8月初めに聖母病院へ転院。なんとか車椅子でもインドへ帰ることが出来るようにと懸命な闘病生活が続きました。故郷のインドの親戚の方も来日することも出来ず、最後はオンラインでなんとか見舞いをすることが出来たとうかがいました。

葬儀はインドの故郷で行われますが、その前に日本でも追悼ミサを行う予定で調整中です。なにぶん現役の外国大使の帰天ですので、日本政府も関わる調整となります。日時については決定次第、大使館から公表されるものと思います。またこういった状況ですから、多くの方に参列いただけませんので、インターネット中継も行われる予定です。

Nuncioishinomaki

大使は、2011年来日直後、仙台で開催されていた日本と韓国の司教団の集いに出席され、一緒に石巻を訪問されました。そのときからいまに至るまで、東北の復興には常に思いを寄せてくださいましたし、それを教皇様にもしばしば伝えてくださいました。そういった配慮が、昨年の教皇訪日にあって、教皇様ご自身から、東日本大震災の被災者との集いを行いたいというリクエストとなりました。

また教皇大使の重要な役割の一つが、司教選任手続きにありますが、チェノットゥ大使の最初の選任手続きは札幌の勝谷司教でした。ちょうどそのときわたしが札幌教区の使徒座管理者を兼任していましたので、何度も何度も、丁寧なやりとりを重ねたことを覚えています。

Nuncio2020as

チェノットゥ大司教の長年の教会への貢献と信仰のあかしに、御父が豊かに報いてくださいますように。R.I.P.

また今朝ほど入ってきたニュースでは、福音宣教省長官で前のマニラ大司教であったタグレ枢機卿が、所用でマニラに到着した際、空港で受けた検査で新型コロナ陽性となったとのこと。症状はないとのことですから、安心しましたが、枢機卿の健康のためにお祈りください。

東京教区では、現在の検査陽性者などの状況から、感染対策のステージは変更しないものの、いくつかの制限を変更することを検討しており、最終調整中です。9月14日月曜日の午後に、公表いたしますのでお待ちください。ただし、まだ慎重な対応は不可欠だと思いますので、大きな緩和は難しいと思われます。

以下、本日土曜日の夕方6時から関口教会の主日ミサ(公開配信)で行った、ミサ説教の原稿です。

間第24主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年9月12日

 

「あわれみ豊かな神をイエス・キリストは父として現してくださいました」
教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いつくしみ深い神」は、この言葉で始まります。

その上で教皇は、社会をさらに人間的にすることが教会の任務であるとして、こう指摘します。
「社会がもっと人間的になれるのは、多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成しているいつくしみ深い神を持ち込むときです。(14)」

本日の第一朗読であるシラ書も、マタイ福音も、ゆるしと和解について記しています。

自分と他者とのかかわりの中で、どうしても起こってしまう対立。互いを理解することが出来ないときに裁きが起こり、裁きは怒りを生み、対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの思いを抱いたままで、今度は自分自身が神との関係の中でゆるしをいただくことは出来ない。

当然わたしたちは、神の目においては足りない存在であり、神が望まれる道をしばしば外れ、繰り返し罪を犯してしまいます。そのたびごとに神に許しを請うのですが、神はまず、自分と他者との関係を正しくせよと求めます。ゆるしと和解を実現しなければ、どうして神にゆるしを求めることが出来るだろうかと、シラ書は指摘します。

マタイは、借金の帳消しに関わる王と家来とその仲間の話を持ち出し、イエスの言葉として、「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言う言葉を記しています。もちろん490回ゆるせばよいという話ではなく、七の七十倍という言葉で、ゆるしの限りない深さを示します。

なぜゆるし続けなくてはならないのか。それをパウロはローマの教会への手紙で、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、わたしたちの人生は、主ご自身が生きられたとおりに生きることが目的なのだと指摘します。

そして、わたしたちが倣おうとしている主イエスは、自らの命を奪う者を十字架上でゆるすかたであり、まさしくヨハネパウロ二世が言われるように、「あわれみ豊かな神を・・・父として現して」くださる方です。ですからわたしたちは、あわれみ・いつくしみそのものである神に倣い、徹底的にゆるし、和解への道を歩まなくてはならず、それはわたしたち一人ひとりの性格が優しいからではなくて、主イエスに従うのだと人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

わたしたちはこのところ、どちらへ進んだらよいのか迷い続けるはっきりとしない状況の中に取り残されているような思いを抱いています。感染症の事態は終息はせず、今日もまた、懸命にいのちを守るため努力を続ける医療関係者の方々がおられます。医療関係者の働きに敬意を持って感謝すると共に、迷い続けながらも、やはりいのちを守るために慎重な行動をとりながら、わたしたちもともに最善の道を模索し続けていきたいとおもいます。

人生には不確定要素がつきものだとはいえ、いわば五里霧中のような状態が続けば続くほど、わたしたちは不安が増し、心に壁を築き上げ、自分を守ろうとするがあまり、人間の身勝手さが社会の中で目につくようになってしまいます。

自粛警察などという言葉も聞かれましたが、他者の言動に不寛容になるのは、自分の世界を守ろうとする心の壁を強固に築き上げているからではないでしょうか。徹底的に異質なものを排除し、心の安定を得ようとするのは、それだけ心に余裕が失われているからではないかと思います。攻撃的な声もそこここに聞こえてきます。感染症に限らず、例えば暴力的な行為の被害を受けた人に対する攻撃的な言動には、理不尽さを越えて、いのちに対する暴力性すら感じさせられます。わたしたちは、心を落ち着けて、何を大切にしなくてはならないのかを、今一度心に思い起こしたいと思います。

東京ドームでのミサ説教で、教皇フランシスコは、「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」と指摘されました。

またこのカテドラルに集まった青年たちに、「恐れは、つねに善の敵です。愛と平和の敵だからです。優れた宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容を教え、調和を教え、いつくしみを教えます。宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。わたしたちキリスト者は、恐れることはないと弟子たちにいわれるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。わたしたちが神とともにおり、神とともに兄弟姉妹を愛するならば、その愛は恐れを吹き飛ばすからです」と呼びかけられました。

長期にわたる感染症の事態のなかにあって、あらためてこの教皇の言葉を思い起こしたいと思います。いまわたしたちに必要なのは、愛と平和のための行動であり、いつくしみという判断基準です。

もっとも、神のいつくしみは、ただただ優しければよい、何でもかんでも咎めることなくゆるせばよいと言っているわけでもありません。何でもゆるされて、何をしても良いというのであれば、この社会に共同体は存在できません。わたしたちは、ただばらばらになってしまうだけだからです。七の七十倍のたとえは、犯した罪の責任を免除するものではありません。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いつくしみ深い神」にこう記しています。
「出し惜しみしないでゆるす要求が、正義の客観的諸要求を帳消しにするわけではないことは言うまでもありません。・・・福音のメッセージのどのあたりを見ても、ゆるしとか、ゆるしの源泉であるいつくしみは、悪とか人をつまずかせることとか、損害をかけ侮辱したりするのを許容するゆるしというような意味ではありません。どんなときでも、悪とか、人をつまずかせたこととかは償い、損害は弁償し、侮辱は埋め合わせをするのがゆるしの条件となっています。(14)」

他者の言動を裁くのは、常にわたしたちにとって大きな誘惑の一つです。特に不安と不確実さが社会を支配するとき、その原因を求めて他者を裁いてしまう誘惑が増大します。教会共同体の中にさえ、互いを裁く傾向があることは、何年も前から指摘されてきたことでした。わたしたちは常に、裁きの共同体ではなく、ゆるしと和解の共同体になりたいと思います。

教皇フランシスコの指摘です。「必要なのは、自分の過去を振り返って祈り、自分自身を受け入れ、自分の限界をもって生きることを知り、そして、自分をゆるすことです。他者にも同じ姿勢でいられるようにです。(「愛のよろこび」107)

いつくしみそのものである神に倣い、互いにゆるしと和解を実現し、神の正義に支配される社会の実現を目指していきましょう。

 

 

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2020年9月 5日 (土)

年間第23主日@東京カテドラル

Tokyolaudatosi

9月に入りました。最初の日曜日は被造物を大切にする世界祈願日です。

また今年から、9月1日から10月4日までは、教皇フランシスコ訪日を記念して、「すべてのいのちを守るための月間」となっています。これについて解説する司教協議会会長高見大司教の文章の註には、次のように記されています。

「すでに正教会は、コンスタンティノープル全地総主教ディミトリオス一世のイニシアティブにより、1989年から9月1日を「被造物の保護を祈る日」としていました。その後2007年に開催された第3回ヨーロッパエキュメニカル会議において、その9月1日からアシジの聖フランシスコの記念日である10月4日までを「被造物のための期間」とすることが提唱され、世界教会会議(WCC)がそれを支持し、現在では「被造物の季節(Season of Creation)」としてエキュメニカルな年間行事になっています」(全文はこちら

すなわち9月は、日本のカトリック教会だけではなく、世界中のキリスト者が、ともに天地の創造主である御父の与えてくださった共通の家のために、思いを馳せ、心を砕き、祈りをささげる「とき」です。

東京教区のホームページには、FABCの人間開発局(OHD)が整えた毎日の祈りの翻訳が掲載されています。すでに触れたように、原文が送付されてきたのが8月末で、9月に間に合わせるため、教区本部広報担当が急遽翻訳してくれました。短いけれど、豊かなテーマの祈りです。ご活用いただければと思います。リンクはこちらです

さて、新型コロナウイルスの感染は、毎日新規に公表されるPCR検査の陽性者数が、若干低い数字で推移しているようですし、このところ東京の実効再生産数も1を切る日が続いています。まだまだ慎重な対応が必要ですが、現在の教会における感染症対策としての活動制限を、多少緩和することが出来るかどうか、意見を交換中です。とはいえ、即座に制限を撤廃できる要素はあまりありませんから、しばらくは慎重な対応が必要だと判断しています。したがって、9月6日から13日までの一週間も、これまで通りの感染症対策を継続します

以下、本日の東京カテドラルにおける公開配信ミサの説教原稿です。

年間第23主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)
2020年9月6日
被造物を大切にする世界祈願日

 

「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ(わたしの主よ、あなたはたたえられますように)」というアシジの聖フランシスコのことばで始まる回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本の教会は、9月1日が平日となることも多いことから、その直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月6日が、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。

教皇はこの祈願日について、2016年の最初のメッセージで、「被造物の管理人となるという自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理をわたしたちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、わたしたちが生きているこの世界に対して犯された罪へのゆるしを乞うのにふさわしい機会」となる日であると述べています。

教皇フランシスコが語る被造物への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めよういう環境問題の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、教皇がもっとも強調する課題は「ともに暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことを求めているものです。

そのために教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると指摘し、それを総合的エコロジーの視点と呼んでいます。

そこでは、わたしたちが暮らす「共通の家」で発生しているすべての課題が教会の、そして全人類の取り組むべき課題であって、全体を総合的に考察することの重要性が強調されています。

日本の教会は、昨年の教皇訪日を記念し、今年からこの世界祈願日にあわせて、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めました。

日本の司教団は呼びかけのメッセージで、「すべてのいのちを守るためには、ライフスタイルと日々の行動の変革が重要であることはいうまでもありませんが、とくにこの月間に、日本の教会全体で、すべてのいのちを守るという意識と自覚を深め、地域社会の人々、とくに若者たちとともに、それを具体的な行動に移す努力をしたいと思います」と、その趣旨を説明しています。

パウロはローマの教会への手紙で、「そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません」と記していました。

パウロは隣人への愛こそが、すべての掟の根本にあるのだと強調します。

おなじように、「共通の家」への配慮も、単に住環境をよくしたいとか健康を守りたいとか、自分の利益を中心にした考えではなく、まさしく自分以外のすべての人に対する愛、隣人への愛に基づく配慮であり、行動です。

新型コロナウイルス感染症によってもたらされた混乱の中に、わたしたちは立ちすくんでいます。今回の事態は、わたしたちに価値観を転換する機会を提供しています。これまで生活のために不可欠だ、変えることは出来ないと思われていたことが、実は他にも選択肢があり得ること、変える可能性があることを、今回の事態は教えています。

もちろん感染拡大以前の世界に戻ることが一番簡単でしょう。しかし今回の事態は、いのちを守るために、わたしたちは何を大切に生きるのかを問いかけています。隣人への愛を生きるために、どのような道を歩むべきなのかを、問いかけています。共通の家を守るために、何を選び、何を捨て去るのかと、問いかけています。

しばしば耳にするようになった「新しい生活様式」とは、単に物理的な行動の変革で感染を防止しようという消極的な視点に留まらず、神からのたまものであるいのちを守るために、いったい人類が何を優先するべきなのかを今一度考え直し、隣人愛に基づいていのちを生きる新たなスタイルを確立するように求める概念であるように思います。

しかしながら同時に、「共通の家」への配慮は、単に表面的な行動の改革を求めているものではありません。

教皇は「ラウダート・シ」に、こう記しています。
「『内的な意味での荒れ野があまりにも広大であるがゆえに、外的な意味での世の荒れ野が広がっています』。こうした理由で、生態学的危機は、心からの回心への召喚状でもあります。」(217)

その上で、教皇フランシスコは、「必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界とのかかわりの中であかしさせます。(217)・・・永続的な変化をもたらすために必要とされるエコロジカルな回心はまた、共同体の回心でもあるのです」(219)と指摘されています。

わたしたちは賜物として与えられているいのちを、一人で生きてはいません。創世記に記されているように「「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう(創世記2章18節)」と言われて、神はいのちを与えてくださいました。ですからわたしたちには、「共通の家」にあって互いに助ける者として存在し、互いへの愛、すなわち隣人愛の実践において、いのちを守る務めがあります。

「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」に答えを見いだそうとすることは、まさしく回心の第一歩であり、わたしたちはその回心を共同体として共に行わなければなりません。そしてその回心こそが、わたしたちを信仰における「新しい生活様式」へと導いてくれるでしょう。

福音にあるように、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」という、主ご自身の約束に信頼するとき、共同体としての回心の歩みには、常に主ご自身が同伴してくださることをわたしたちは確信します。

与えられた賜物であるいのちを大切にし、互いのいのちを守り、神によって創造された「共通の家」を大切にしながら、福音に基づいた生きる道を模索し続けましょう。

 

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2020年8月29日 (土)

年間第22主日@東京カテドラル

8月もあと数日で終わりに近づき、今月最後の日曜日は年間第22主日となります。

次週、9月6日の日曜日は、被造物を大切にする世界祈願日と定められています。教皇フランシスコは、2015年に回勅「ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に」を発表され、全世界の人に向けて、「私たちの共通の家」という総合的な視点から、エコロジーの様々な課題に取り組むことを呼びかけられました。その上で教皇は、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではこの世界祈願日を9月最初の主日と定めています。

また今年から、昨年の教皇訪日を受けて、9月1日から10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」とすることも決められています。関連メッセージは教区ホームページに掲載しましたが、この月間のための祈りも用意され、カードが配布されています。なお教区本部広報担当では、アジア司教協議会連盟(FABC)の人間開発局(Office for Human Development)が用意した資料に基づいて、この月間のための毎日の「日毎の祈り」を、順次ホームページに掲載する予定です。

この数日も東京では、PCR検査の陽性者数が一定程度、継続して報告されています。今回の感染はピークを越えたと言う専門家の指摘もありますが、いましばらくは推移を見守り、慎重に判断したいと思います。従って、8月30日から9月6日までの一週間も、これまで通りの感染対策を持って教会の活動を継続していきます

以下、8月29日(土)午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、関口教会の主日ミサ(公開・配信)の説教原稿です。

年間第22主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年8月30日

 

わたしたちは、人生の道程を歩むとき、常に選択を迫られて生き続けています。人生の歩む方向を大きく変えてしまうような重大な選択もあれば、日々の生活の中で次に何をするべきなのかと言った小さな選択まで、ありとあらゆる選択に直面しながら、わたしたちは人生を歩み続けています。

新型コロナの感染症がなかなか終息する気配を見せない中、教会もこの数ヶ月間、様々な選択を迫られ続けてきました。中でも、わたしたちの信仰生活の中心であり、共同体のきずなの見える形でもある主日のミサを、続けるべきなのか中止するべきなのか。その選択は、簡単な決断ではありませんでした。教会はこれからも当分のあいだ、一番大切な聖体祭儀に関して、難しい選択を迫られることになるだろうと想定しています。

教会にとってご聖体の秘跡は「教会生活の中心に位置づけられます」と指摘されたのは、教皇ヨハネパウロ二世でした。(「教会にいのちを与える聖体」3)

単に教会に集まって祈りの時を一緒にできないということに留まらず、聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致するという信仰生活の根幹を、教会が自ら放棄することが許されるのだろうか。聖体の秘跡は単なる象徴ではなく、「信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧」であり、「もっとも貴重な宝」であります(「教会にいのちを与える聖体」9)。それを簡単に手放すことなど出来るわけがありません。わたし自身の霊名でもある聖タルチシオのように、命を賭けて御聖体を守りながら殉教していった信仰の先達も多くおられます。

教会全体において、こういった緊急事態に遭遇したときにどうするのかを定めた規則はありません。世界中の司教さんたちが、同じことを考え、悩んだことと思いますが、わたし自身もさまざまな対応を考えながら、いろいろ思いつく度に、今日のマタイ福音のことばが頭に浮かびました。

「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」

昨年の東京ドームで行われたミサで、教皇フランシスコは説教の最後にこう指摘されました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。」

教皇フランシスコは、教会はいのちの福音を告げるための野戦病院であれと言われます。そうであるならば、教会は、困難な状況にあっても、扉を閉ざすことなく祈りの共同体として続けるべきではないのか。ミサを止めようなどと言うのは、恐れをなした人間の弱さに基づく判断ではないのか。そう思い悩みました。いまでも悩み続けています。

同時に教皇フランシスコは、わたしたちには判断の基準があるともいわれます。同じ説教の中で、「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」と指摘されていました。すなわちわたしたちは、神のいつくしみという視点から判断した場合に、どういう道を選択するべきなのかを考え、よりふさわしい道を識別しなくてはなりません。

教皇ヨハネパウロ二世は回勅「いつくしみ深い神」の中で、こう記しています。
「イエスはとくに生き方と行動を通して、わたしたちの住むこの世の中に愛のあること、行動となる愛、人間に声をかけ、人の人間性を作り上げているすべてを抱きしめる愛のあることを露わにされました。この愛が特に気づかれるのは、苦しみ、不正、貧困に接するときです」

その上で、教皇は、「愛が自らを表す様態とか領域が、聖書のことばでは「あわれみ」と呼ばれています(3)」と指摘します。

すなわち教会はいま、苦しみに接するときにこそ、イエスの模範に倣って、その生き方と行動を通して、愛があることをあかししなくてはなりませんし、その愛のあかしこそは、「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれると言うことになります。

神のあふれんばかりのいつくしみは、たまものであるいのちへの愛として表されていることを考えれば、現在の混乱を極めている危機的状況の中で、神のいつくしみという基準からの判断は、いのちを最優先することに他なりません。

たまものであるいのちを守ることを最優先にして、教会は、危機に直面する中での一連の選択を行ってきましたし、その対応が大げさに過ぎるという指摘も受けることがありますが、現在の状況の中でいのちを守ることは、最優先の選択です。

同時に、それでもなお教会は野戦病院であることを止めることも出来ません。わたしたちは、いまのような状況にあっても、「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院」であり続けなくてはなりません。それはすなわち、これまで存在しなかった新しい方法で、野戦病院となる道を探らなくてはならないことを意味しています。わたしたちは、知恵を絞りながら、これまでの前例に縛られることなく、神の望まれる道を実現するための道を見いだす努力を続けていかなくてはなりません。

教皇フランシスコは、「教会を老けさせ、過去に執着させ、停滞させ、動かないものにしてしまうものから、解き放たれていられるように主に願いましょう(35)」と使徒的勧告「キリストは生きている」に記しています。

いま、この困難な状況に直面する中で、教会は様々な選択を迫られています。同時にそれが、信仰をより良く生きるための振り返りの機会をも生み出しています。これまで通りにすべてをつつがなく進めようという誘惑から解き放たれ、教会が教会らしく、常に若さにあふれた教会となるための道を選択する機会を与えられています。

「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とパウロがローマの教会に呼びかけたように、わたしたちもまた、この状況の中だからこそ、「何が神の御心であるか」をじっくりと時間をかけながら識別する時を与えられています。

神の道を探し求めながら、信仰をよりふさわしく生きる道を選び続けましょう。

 

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2020年8月22日 (土)

年間第21主日@東京カテドラル

暑い毎日が続いています。残暑お見舞い申し上げます。

新型コロナウイルス感染症による社会生活への影響はまだ続いており、新規陽性者の報告も続く中、今の段階の感染はそろそろピークに到達しているのではないかという専門家の指摘も聞かれるようになりました。幸い、教会においてクラスターが発生するような事態はこれまで報告されていませんが、以前にも記したように、それが教会の行う活動制限や感染症対策の効果なのか、はたまた現在の感染症の状況がそういう程度なのかは、簡単に判断出来るものではありません。もっともさまざまな体験を積み重ねる中で、解明されたことも専門家からは多く報告されていますが、未知の部分も多々あり、いのちを守るために、現時点ではやはり慎重な行動をとることが賢明だと思われます。

従って、8月23日から30日までの一週間も、これまで同様の対応を継続いたします。

以下、本日土曜日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第21主日ミサの説教原稿です。

年間第21主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)
2020年8月23日

わたしたちは、情報が満ちあふれている社会に生きています。ほんの十数年前と比較しても、驚くほどのスピードで、驚くほどに大量の情報を、どこにいても自由に手にする手段を、わたしたちは手に入れました。ただ、それほど大量に情報を手に入れるようになったわたしたちが、果たして十数年前より賢明な判断をするようになったのかどうかは、わかりません。なぜならば、情報は受け手であるわたしたち一人ひとりがふさわしく処理しなければ意味がなく、わたしたち自身の処理能力にはそれほど大きな変化があったとは思われないからです。もしかしたら、あまりに大量の情報を前にして、翻弄されているだけなのかも知れません。

飛び交っている情報の中には、様々な種類があることをわたしたちは知っています。信頼に足る情報もあれば、全くでたらめな情報もある。善意に満ちた情報もあれば、悪意に満ちた情報すら存在する。

押し寄せる情報の中に取り込まれながら、与えられたいのちをより良く生きようとするとき、わたしたちは、いのちを豊かに育み、心の糧となる情報を見分けなくてはなりません。

残念ながら実際には、例えばフェイクニュースと呼ばれる真実とはほど遠い情報が存在したり、悪意のある情報が、人の心を傷つけ、時には大切ないのちを奪うほどの負の力となることもあります。

今年5月の第54回「世界広報の日」にあたり教皇フランシスコはメッセージを発表され、そのなかで次のように指摘されています。
「わたしたちはどれだけおしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。・・・裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです」

その上で教皇は、「道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。いのちをはぐくむものなので、幾世紀を経ても普遍なのです」と指摘され、主イエスご自身によって紡ぎ出されるいのちを育む物語にこそ普遍的な価値があるとして、耳を傾けるようにと呼びかけられます。

さらに教皇は、聖書に記された物語は、イエスを中心にした「神と人間との壮大なラブストーリー」だと指摘して、次のように述べています。
「イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません」

情報が荒波のように押し寄せる現代社会に翻弄されながら、いのちをより良く生きようとするわたしたちは、時空を越えていのちを育む物語を選び取り、それに生き、そしてその物語を自分のものとして、さらに多くの人へと語り継いでいかなくてはなりません。

本日のマタイ福音では、主イエスが弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねた話が記されています。

主は、「みんなはわたしのことをなんて言っているのだ」と、まるで現代を生きるわたしたち自身が、しばしば気に病んでいるようなことを尋ねられます。

それに対して弟子たちは、現代を生きるわたしたちがそうするように、「あっちではこう言っていた、こちらではこう言っていた、あの人はこう言っていた」などと、聞いてきた話をイエスに伝えます。聞いてきた話、すなわち「うわさ話」であります。

考えてみれば、わたしたちは「うわさ話」に取り囲まれています。わたしたちを包み込んで大量に流れている情報の多くも、極端に言えば「うわさ話」に過ぎません。その内容にだれも責任を負うことなく、出所も確かではなく、それがどういう効果を社会に及ぼすのかも配慮されないまま、そして時には悪意を込めて、一人歩きをするように社会に流されていく「うわさ話」は、なぜなのかわたしたちの興味をそそります。大量に流れている情報を処理できずに困惑するとき、単純明快に結論を出してくれる「うわさ話」を、ありがたいと感じる誘惑もあります。しかし「うわさ話」は多くの場合、自分とは異なる存在との差異を強調することで、自らの立場を有利に感じさせ、自尊心をくすぐってくれる誘惑です。無責任な「うわさ話」は、差別を生み出す負の力を秘めています。いや、実際にいのちを奪ってしまうほどの、暴力的な負の力を秘めています。

だからこそ主イエスは弟子たちに、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と迫ります。「うわさ話はもう良い、あなた自身はどう考え、どう判断しているのだ。自分の決断をここで明確にしろ」と、迫力を込めてイエスは弟子たちに迫ります。

すなわち、どこかの誰かが解説してくれるわかりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その物語に直接耳を傾け、具体的に出会う中で見いだした、「わたしのイエス」について語るように求めているのです。

いのちを育む真理の物語は、どこかの誰かの知恵から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち人となられた神の言葉である主イエスから生み出され、物語られます。

教皇は先ほどのメッセージの終わりにこう記します。
「そうしてわたしたちは、語り手である主──決定的な視点をもつ唯一のかた──のまなざしをもって、主要な登場人物たち、つまり今日の物語の中でわたしたちのすぐそばにいる役者である兄弟姉妹に歩み寄ります。そうです。世界という舞台では、だれも端役ではありませんし、どの人の物語も、生じうる変化に開かれているからです」

すなわち、ご自分の真理の物語を語られる主イエスは、今度はわたしたち自身が自分と主との物語を他の人に向けて物語ることを待っておられます。そしてそのすべてが、たとえどんな物語であっても、いのちの与え主である神の前では、一つ一つが大切なのだと指摘されています。

「わたしたちは、欺きはしないいのちと愛という宝と、誤らせも失望もさせないメッセージを持っています。・・・それは時代後れのものになったりはしない真理です」と、教皇フランシスコは「福音の喜び」(265)に記していました。

あふれんばかりの情報に翻弄されることなく、心静かにイエスの物語に耳を傾け、イエスと出会い、いのちを育むメッセージを、ひとりでも多くの人に伝えていく努力を続けましょう。
 

 

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2020年8月15日 (土)

聖母被昇天祭@東京カテドラル

Assump2007

8月15日は聖母被昇天祭です。

暑い毎日が続いています。どうかみなさま、感染症対策と共に熱中症にも対策をされ、健康にはくれぐれもお気をつけください。東京都と千葉県は、感染症の終息はなかなか見通すことが出来ていません。教会でのクラスターなどの発生は、いまのことろ教区内からは報告がありませんが、まだまだ慎重に対処したいと思います。幸いなことですが、みなさまにご協力いただいている感染症対策が、功を奏しているのもと思います。十分に納得いただけないような状況の中で、不便を忍び、ご自分の思いを心に治め、感染症対策にご協力いただいている多くのみなさまに、心から感謝申し上げます。ほんとうにありがとうございます。みなさまの忍耐は、いのちを守る行動です。

みなさまの健康が守られ、またわたしたちを取り巻くこの不安な状況が一日も早く解消されるように、聖母の取り次ぎの元、父である神の守りと祝福を祈りたいと思います。

8月16日から23日までの一週間も、これまでと同様の感染症対策をとりながら、気を緩めることなく慎重に、教会活動を続けます。

Assump2004

以下、本日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた、聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年8月15日

 

聖母被昇天を祝う今日8月15日は、あらためて言及するまでもなく、日本においては平和を祈念する日でもあります。

毎年、8月6日の広島原爆の日から8月9日の長崎原爆の日を経て、8月15日の終戦記念日に至るまでの10日間を、日本のカトリック教会は「平和旬間」と定めています。

1981年2月23日から26日、日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、自らを「平和の巡礼者」と呼ばれ、昨年11月の教皇フランシスコと同様に、東京だけではなく広島と長崎を訪れました。特に広島では、「戦争は人間の仕業です」という有名になった文言で始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界の人に向けて強調されました。

当時の司教団は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動を伴わなくてはならないと考え、その翌年(1982年)から、日本にとってもっとも身近で忘れることのできない広島や長崎の事実を思い起こす8月6日から終戦の15日までの10日間を、「日本カトリック平和旬間」と定めました。日本の教会にとって聖母被昇天祭は、平和旬間を締めくくる日でもあります。神の母であり、教会の母であり、平和の女王である聖母マリアの取り次ぎによって、わたしたちが神の平和の実現に至る正しい道を見いだし、その道を勇気を持って歩み続けることが出来るように、祈り続けましょう。

広島平和アピールの終わりで、教皇ヨハネパウロ二世は神を信じる人々に向けて、「愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目覚めようではありませんか」と呼びかけています。「神の平和への道」とは、すなわち「愛を持ち自己を与える」行動であると教皇は指摘します。

Assump2001

あらためて言うまでもなく、教会が語る「平和」とは、単に戦争や紛争がないことを意味してはいません。教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。残念ながら、核兵器をはじめとして人間の抱く不信や敵対心に至るまで、神の定めた秩序の実現を妨げる要因は、数多く存在しています。

その文脈で、教皇ヨハネパウロ二世は、「愛を持ち自己を与える」行動が、神の平和を実現する道の一つであることに気がつくようにと促しています。

今年も梅雨の間に各地で集中豪雨が発生し、特に九州では大きな被害が発生しました。加えて新型コロナウイルス対策のため、県外からのボランティア参加が認められず、必要な助けが集まらないのではないかとの不安の声が聞かれました。しかし実際には多くの方が県内から駆けつけ、互いを支え合いながら、復興支援のボランティア活動に取り組まれたとうかがいました。

まさしく、愛を持って自己を犠牲にしながら、助けを求めている人のところへ駆けつけるボランティアの活動は、単なる優しさの象徴ではなく、平和構築の道そのものであります。

その意味では、新型コロナウイルス感染症と闘う医療関係者の方々は、まさしく危機に直面するいのちを救うために、いのちへの愛と尊敬を持って尽力されているのですから、その活動は、平和構築の道でもあるといえます。その働きに、心から感謝したいと思います。

教皇フランシスコは、教会が新たにされて福音宣教へ取り組むようにと鼓舞する使徒的勧告「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記しています。

聖母マリアの人生は、まさしく「愛を持ち自己を与える」生き方であります。聖母マリアの人生は、神の平和を構築する道として、教会に模範を示している生き方であります。

教皇フランシスコは、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。「観想と他者に向けて歩む力」であります。

Assump2002

マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。

そして「マグニフィカト」でマリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち神の秩序の実現とは具体的になんであるのかをはっきりと宣言しています。

「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

教皇フランシスコが私たちに求めている教会のあるべき姿は、「出向いていく教会」です。教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていかなくてはならない。この教会の姿勢は、聖母マリアの「マグニフィカト」にしっかりと根ざしています。

わたしたちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。

神の母聖マリア、あなたのご保護により頼みます。苦難のうちにあるわたしたちの願いを聞き入れてください。栄光に輝く幸いなおとめよ、あらゆる危険から、いつもわたしたちをお救いください。

 

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2020年8月 8日 (土)

2020年平和旬間「平和を願うミサ」@東京カテドラル

Heiwa2001

8月に入り、東京はやっと梅雨も明け、一気に真夏となりました。新型コロナによる感染症の状況は終息せず、今年の平和旬間は、あらゆる行事を中止としました。毎年の恒例行事となっていただけに残念である反面、平和は一年の一時期だけ考え祈れば実現するものではなく、いつでも思い祈り行動しなくてはならない課題であることを考えるとき、平和への取り組みを振り返り、今後の取り組みを考えてみる機会を与えられたようにも思います。

国際関係における政治や経済の様々な利害が複雑に絡み合い、そこに自然現象の変化も加わり、加えて歴史の歩みの中での様々な積み重ねがいまにのしかかり、簡単に世界の平和は実現しそうにありません。だからこそ、常に平和について考え祈り行動することは、ますます持って重要ですし、そもそもわたしたちは「平和」と言って何を目指しているのかを、信仰の立場からはっきりと自覚することも大切であると思います。

教皇様は、8月6日の広島の原爆忌にメッセージを寄せ、昨年広島と長崎を「平和の巡礼者」として訪問したことを思い起こしながら、「わたくしは、平和を強く希求し、平和のために自らを捧げようとする、今日の人々、特に若い人々の熱望を、今も心にとどめ続けています」と述べて、平和を祈り求め行動する人たちとの連帯を示されました。

その上で、教皇様はあらためて核兵器の廃絶を訴え、世界の人々に向かって、「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」と、昨年広島から世界に向けて発信したメッセージを繰り返されます。

さらに、「広島と長崎の被爆者の方々の預言的な声が、わたしたちと未来の世代への警鐘であり続けますように」と述べてメッセージを締めくくることで、広島と長崎から世界に向けて発信される核兵器廃絶と平和への願いにご自分も連帯して、自らの声を加えて世界に発信されることを誓われています。

Heiwa2002

さて、感染症の状況は流動的ですが、東京教区内においては、現在の感染症対策を緩めることなく守りながら、限定した形での活動を継続します。8月9日から16日までの一週間、現在の対応をこのまま継続いたします。感染症対策だけではなく、熱中症にも十分にご配慮ください。

以下、本日8月8日夕方に行われた、今年の平和旬間の「平和を願うミサ」での、説教の原稿です。

 東京大司教区「平和を願うミサ」(公開配信)
2020年平和旬間
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年8月8日

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

主ご自身の、この言葉から励ましと勇気をいただき、わたしたちは平和の実現を目指しています。とりわけ、今年、2020年の夏は、1945年に広島と長崎で核兵器が使用され、多くの人命が奪われた悲劇と、それに続く太平洋戦争の終結をもって、第二次世界大戦が終わりを迎えてから75年という節目の年でもあります。

「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島で述べています。

この75年の間、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語られてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能であるからに他なりません。

教会はこの節目の年の平和旬間にあたり、教皇フランシスコの昨年の広島における言葉を引用して、こう主張します。

「戦争のために原子力を使用することは、……これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次の言葉で始め、教会が考える「平和」の意味を明らかにしています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。

教皇ヨハネ23世は「地上の平和」において、自然法に基づく人間の権利と義務について触れ、その権利がすべからく実現していることこそ、神の望まれる世界の実現であると説きます。

教皇が指摘する人間の権利とは、「生存と尊厳ある生活水準への権利、倫理的および文化的価値に与る権利、良心に従って神を礼拝する権利、生き方を自由に選択する権利、経済における権利、集会と結社の権利、移住および移民の権利、政治に関連する権利」であります。そして教皇は、わたしたちには、他者の権利を尊重し互いにそれを実現していく義務があるのだと説かれます。すなわち、そうした様々な権利が実現していない限り、神の定めた秩序はこの世界に実現していないのであり、「平和」はもたらされていません。

今年の初めから、わたしたちは経験したことのない事態のただ中におります。新型コロナウイルスの感染拡大のため、日常生活や仕事にも大きな影響が出る中、教会も今年の平和旬間行事を含め、その活動を中止せざるを得なくなりました。

感染症は一つの国に留まらず、いまや世界中を巻き込んで拡大し、各地に多大な影響を与えています。多くの方が大切ないのちをなくされた国も多数存在し、今この時点でも、いのちの危機に直面している人は少なくありません。いのちを守るために努力を続ける医療関係者に、敬意を表したいと思います。

世界を巻き込んで発生したいのちの危機は、その解決のためにも、世界全体の視点から連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態にあっても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは取り残されようとしています。

教皇フランシスコの指示を受けて、この危機に総合的に対処するために、教皇庁には特別な委員会が設置されました。その責任者であるタークソン枢機卿は、7月7日に会見を開き、次のように述べておられます。

「現在の互いに関連した危機は、世界が互いに結びあわされている事実を反映して、連帯のグローバル化が緊急に必要であることを示している。わたしたちの世界には、一致のきずなを回復し、誰かをスケープゴートにせず、互いの批判合戦を止め、卑劣な国家主義を否定し、孤立化を否定し、そのほかの利己主義を否定するようなリーダーが必要だ」

その上で、枢機卿は今回の感染症といういのちの危機は、教皇フランシスコが強調する、共通の家を守る必要性にあらためて気づかせるとして、こう述べています。

「(人類は)第二次世界大戦以降最大の人道的危機に直面している。現在、これまでにないような金額が軍事目的で支出されているもかかわらず、病人、貧困者、排除された人、紛争の犠牲者が、比較にならないほど現在の危機の影響を受けている。現在、健康、社会経済、環境において互いに関連した危機が、富める者と貧しい者の間だけでなく、平和、富、環境正義を享受している地域と、紛争、貧困、環境破壊に直面している地域の格差も広げ続けている」

教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています」(137)と指摘し、総合的エコロジーへの取り組みを提唱します。

総合的エコロジーは、単に環境問題への配慮だけではなく、貧困の解決、健康の確保、基本的人権の確立、武器の放棄、紛争の停止を包摂した概念であり、すなわち平和構築を目指す道の、別の名前に他なりません。

すべては、わたしたちの共通の家の未来をどのように描き、それをわたしたちがどのように実現しようとするかにかかっています。平和の問題は、複雑に絡み合った人間の生の営みと、被造物との関係、そして創造主である神との関係を、一つ一つ解きほぐして、神が望まれる有り様に紡ぎ直していく、途方もない作業であります。たまものであるいのちに関わるすべての課題は、密接につながっており、複雑に絡み合っています。解決のための近道はありません。地道な取り組みが必要です。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

わたしたちは、あらためて主のこの言葉に励まされ、平和を実現するために、様々な課題に地道に取り組んでいく決意を、今日、戦後75年の平和旬間にあたり、新たにしたいと思います。

 

 

 

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2020年8月 1日 (土)

年間第18主日@東京カテドラル

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毎年夏が始まるこの時期には、「あっという間に」月日が過ぎてしまったなどと実感させられることが多いのですが、今年はいつもと異なります。まずもって8月が始まったのに、まだ梅雨の中にいるような毎日が続いており、暦の感覚と肌感覚が調和していません。加えて、新型コロナウイルス感染症の事態はいっこうに終息せず、毎日のように両極端の様々な意見が飛び交う中で、ただただ時間だけが過ぎています。

東京都で毎日報告される新規の感染者数は増加していますが、先週も触れたように、その増減に一喜一憂することなく、わたしたちは基本の感染症対策に徹して、互いのいのちを守ることを心したいと思います。密集・密接・密閉を避け、手指を消毒し、マスクを着用しながら、信仰生活を可能な範囲で続け、深めていきたいと思います。

なお、現在のステージにおいて教会活動参加に大きな制約のある、特に高齢の信徒のみなさまへ、特別な司牧的配慮を、それぞれの小教区の事情と地域の事情に応じて考えてくださるように、小教区を担当する司祭方には依頼をしてあります。すべて一概に同じような対応をすることは難しいとは思いますが、それぞれの事情に応じて、霊的な側面での司牧的配慮を講じていくことが出来るように、それぞれの現場で取り組まれていることと思います。ただし、どうか高齢の方にあっては、これまでのインフルエンザなどと異なり、今回の新型コロナウイルスにあっては解明されていないことが今の段階では多々ありますので、「健康に問題はないから」と過信されずに、是非とも慎重に行動されますようにお願いいたします。

現時点での東京や千葉における感染の報告は日々ありますが、幸いなことに教会活動を通じた感染の報告は今のところなく、教会の感染対策にも一定の効果があるものと思われますので、次の一週間、8月2日から9日まで、現在の制約を伴った活動状況を継続いたします。

以下、本日の夕方6時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第18主日の公開配信ミサの説教原稿です。なお以下の写真は、7月25日に午後に麹町教会で行われた、五大陸ロザリオの模様です。

年間第18主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年8月2日 前晩

 

5contirosary01

人間の幸せとは、いったい本当はどういうことなのでしょう。わたしたちはそれをよくわかっているようで、その実、人間を幸せにしてくれるのは何か、考えれば考えるほど様々な課題が浮かび上がってきて、明確に定義づけることができません。

一番の問題は、幸せというのが、何かを持って計ることのできる絶対的な概念ではなくて、一人ひとりでその中身が全く異なる相対的な概念であることです。

そうであったとしても、少なくともわたしたちは、決して皆が不幸になるようにではなく、皆が幸せになるようにと、歴史の中で努力を続けてきたはずであります。

第二次世界大戦の後、荒廃した世界の現実から立ち上がり、再び愚かな戦いをすることなく、幸せな世界を築き上げようとした国際社会は、世界人権宣言を採択します。

その冒頭に、「全ての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳及び権利について平等である」と力強い宣言が記され、さらに第25条には「全ての者は、自己及び家族の健康及び福祉のための相当な生活水準についての権利、並びに失業、疾病、障害、配偶者の死亡、老齢そのほか不可抗力による生活不能の場合に保障を受ける権利を有する」と記されています。

1966年に定められた社会権規約には、「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善について全ての者の権利を認める(11条)」と記されていました。

しかしながら、そういった理想と様々な努力にもかかわらず、現実の世界では貧富の格差が拡大し、世界銀行が定める一日1.9米ドル未満と言う極度の貧困ライン以下で生きる人たちは、改善されたとはいえ、いまでも世界人口の一割ほどをしめています。

教皇ヨハネパウロ二世は、1991年に発表された回勅「新しい課題」に、こう記しています。
「より良く暮らしたいと願うことは間違いではありません。間違っているのは、『あること、生き方』よりも『持つこと、所有』を目指すことが、より良い暮らしに繋がると決めてかかる生活様式であり、より良く生きるためではなく、快楽を人生の目的とし快楽のうちに人生を送るために、より多く持ちたいと願う生活様式なのです(36)」

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教皇フランシスコも、東京ドームでのミサ説教で、このように述べていました。
「子としての自由が抑え込まれ弱まるときがあることを知っています。それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。あるいは、息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを無関心、無感覚にし、表面的ではかないことがらに胸がときめくように仕向けるのです」

その上で、教皇フランシスコは、「イエスにおいてわたしたちは、自分たちは神の子どもだと知って自由を味わう、新たないのちを見いだすのです」と指摘されます。

あらためて言うまでもなく、神が与えようとされているのは、この世の幸福ではなく、神の言葉に聞き従うことによって、魂がその豊かさを楽しみ、いのちを得る心の糧であります。本当の幸せは、「イエスに出会う人々の心と生活全体を満たす」福音の喜びであると、教皇フランシスコは、「福音の喜び」の冒頭で指摘します

わたしたちには、その福音の喜びこそが真の幸福の源であると主張し、それを多くの人に伝えていく義務があります。

今日の福音は、五つのパンと二匹の魚の奇跡物語でありました。その奇跡が起こる前の、弟子たちとイエスとの会話に注目したいと思います。

大勢の人がイエスの話を聞くために集まっている中で、当然、人間的な必要を満たしていくことを無視することはできません。そこで弟子たちは、それぞれが食事を求めるように人々を解散させようとします。それぞれの思いのままに人々を散らしてしまおうとする弟子たちに対して、イエスは、「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい」と指示をします。

集まっている大勢の人にとって必要なのは、真の幸せをもたらすイエスの福音であって、イエスから離れてこの世の充足を求めることではないと指摘する、イエスの弟子たちへの指示であります。もちろん実際に空腹を満たすことの必要も否定しないイエスは、パンと魚の奇跡を起こしてそれに応えますが、しかしこの場面で重要なのは、その弟子とイエスのやりとりです。

世間の常識に従って行動しようとした弟子たちに、イエスは、真の幸福の源はどこにあるのかをもう一度見直すようにと求められました。

その同じことを、現代に生きる弟子であるわたしたちは、主イエスからおなじように問いかけられています。本当の幸福は、この世の生み出す幸福にはあり得ないことを、そして、本当の幸福は、イエスの福音にあることを、多くの人に伝えるように求められています。福音に従ってより良く生きることこそが、本当の幸福の源であることを、わたしたち自身の生き方と、語る言葉であかししながら伝える務めがあります。

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社会の現実の中で、福音を伝えようとすることには、当然さまざまな困難があります。パウロはそれを、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」による抵抗と記していました。形を変えて、これらの抵抗は現代社会にも存在していますし、そのためにわたしたちは福音を伝えることを躊躇してしまいます。しかしパウロは、そういった苦しみは、「キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできない」と断言します。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」に、「もし、イエスを伝えたいという強い思いを抱いていないなら、イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと、もっと祈る必要があります(264)」と記しています。

人間の真の幸福の源であるイエスの福音を、勇気を持って困難を乗り越え、多くの人に伝える思いを抱くことができるように、「再びあなたに引き寄せてください」と、さらに祈り続けましょう。

わたしたちの「心と生活全体を満たし」てくれるのは、福音の喜びであって、それは「イエスに出会う人々」に与えられるからです。「罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放」するのは、「イエスの差し出す救い」にあるからです。

だから、すべての人の幸せを願いながら、「イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと」、何度も何度も祈り続けましょう。

 

 

 

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2020年7月25日 (土)

年間第17主日@東京カテドラル

このところ、毎日のように発表される感染の数にどうしても大きな関心が寄せられていますが、特に東京都の場合はその日に検査が陽性となった方ではなくて、当日朝までに保健所から都に報告され、内容が確認された件数と言うことのようですので、必ずしも、今日は多いとか少ないとか、数字の多寡に一喜一憂する必要はないものと考えています。とはいえ、感染が終息に向かっているようには見えませんし、日々状況が変化しますが重症者数も増減を繰り返していますので、まだまだ慎重に行動する必要があります。

これまでのところ、小教区において感染の報告はありませんが、それが現在の各小教区の感染対策の結果なのか、それとも今般の感染症がそういった程度のことなのかは、残念ながら確証を持ってどちらかだと断定することは出来ません。ですから現時点では、教区としてはより慎重な判断を優先させる必要があると考えています。

したがって、これまで同様の小教区における感染対策を、次週も継続していきたいと思います。原則として、7月26日から8月2日までの一週間は、教会活動にあってはこれまで同様、「感染しない・感染させない」ための対応を継続します。(現在の対応については、東京教区のホームページをご参照ください。また教区の大枠に基づいて、各小教区での独自の対応も定められていますので、ご不明の点は小教区の主任司祭にご確認ください)

以下、年間第17主日ミサ、土曜日午後6時の関口教会でのミサ説教の原稿です。

年間第17主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月26日

 

「良き友は人生の宝だ」とか、「苦難は人生の宝だ」とか、「出会いは人生の宝だ」とか、わたしたちの人生には、さまざまな「宝」がつきものです。

人間関係だとか、社会での体験だとか、そういった多くの宝は、誰かとの出会いの中で、自分の人生を豊かにしてくれる得がたい存在であります。

もちろん、趣味で何かを集めているときなどに、そういったコレクションが「宝」となることもあるでしょうが、いずれにしろわたしたちが「宝」と言うときには、実際の貨幣的な富としてわたしたちを経済的に豊かにしてくれる「宝」のことではなくて、貨幣的な価値では計ることのできない豊かさを与えてくれるものをさして、「宝」と呼んでいます。

マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を記しています。さらには、「持ち物をすっかり売り払い」手に入れようとするほどの、「良い真珠」の話を記しています。

すなわち、何か経済的な付加価値を与えてくれるような「宝」ではなくて、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような「宝」であります。

この話は、ともすれば、非常に利己的な響きを持つ話でもあります。自分の人生の利益のために、隠し持っておこうとする宝の話のようにも聞こえます。

列王記には、ダビデ王を継いだソロモンが、「何事でも願うが良い」と神に言われたときに、自分のための様々な利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願うことで、神からよしとされ、「知恵に満ちた賢明な心を」与えられたと、記されています。

神から、それこそ人生の最高の宝を与えようと言われたときに、ソロモンは自分の利益のためではなく、自分に託された神の民のための宝を求めた。ここに福音に記された、すべてをなげうってでも手に入れたくなる宝の意味が示されています。

自分の利益のためではなく、他者の利益となるために、宝を手に入れる。すなわちわたしたちは、社会の共通善に資するために、宝を求め続ける。
わたしたちの宝とは、いったい何でしょうか。

昨年東京ドームでミサを捧げられた、教皇フランシスコの説教の言葉を思い起こします。
教皇はマタイ福音の6章33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言う言葉を引用した後に、次のように言われました。

「主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。この世での己の利益や利潤のみを追い求める世俗の姿勢と、個人の幸せを主張する利己主義は、実に巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします」

教皇フランシスコは、無関心のグローバル化という言葉を使って、現代社会に生きるわたしたちが、利己主義を強めながら、むなしいシャボン玉の中に閉じこもって、はかない夢を見ながら、他者への関心を示さなくなっていると、教皇就任直後から指摘を続けておられました。

ドームミサの説教で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる「わたし」に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる「わたしたち」、これしかありません」と指摘されました。

わたしたちは、社会という共同体の中で、孤立することなく、互いの交わりの中で、共同体全体の益、すなわち共通善に資するよう、持っている宝を分かち合わなくてはならない。

教皇ヨハネパウロ二世の「アジアの教会」に、次のように記されています。

「イエスに対する教会の信仰は、いただいたたまものであり、分かち合うべきたまものです。その信仰こそ、教会がアジアに差し出すことのできる最大の贈り物なのです。イエス・キリストの真理を他の人々と分かち合うことは、信仰のたまものを与えられたすべての人にとって重要な義務です(10)」

信仰は、わたしたちにとって宝であることは間違いがありません。そしてその宝は、自分の心に秘めて隠しておくためではなく、また自分だけの救いの鍵でもなく、共通善に資するように、多くの人と分かち合われなければなりません。わたしたちは、受けた信仰を分かち合うために、キリストに呼ばれています。

教皇フランシスコは、昨年この場所で青年たちと出会ったとき、こう述べられました。

「あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在してほしいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんの資質、好み、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためのものなのです」

わたしたちの宝である信仰は、いのちは神からの贈り物であると教えます。教会は、神が愛を込めて創造されたすべてのいのちは、例外なく、その始めから終わりまで大切にされ、守られ、その人間の尊厳が保たれなくてはならないと主張します。すなわち、いのちは最高の宝物です。

その宝物であるいのちは、自分だけのものではなく、他者のために与え尽くすいのちであるようにと、教皇は強調されました。

相模原の障害のある方の施設で、19名の尊厳あるいのちが暴力的に奪われてから26日で4年となります。最高の宝物であるいのちを、互いに与え尽くし支え合うためではなく、価値がないとして暴力的に奪うことは許されることではありません。事件の衝撃が残っているにもかかわらず、いまでも、いのちの価値の差異を強調して選別することをよしとする声が聞こえるのは、大変残念です。最高の宝物であるいのちは、互いの支え合いの中で、尊厳のうちに護られなくてはなりません。

「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と約束された主ご自身が、わたしたちのためにそのいのちを分かち合い共に生き、支えてくださるように、その主に従うわたしたちも、兄弟姉妹との交わりの中で、互いに支え合ういのちを生きていかなくてはなりません。

わたしたちの宝は、すべからく自分だけのものではなく、他者と分かち合うためにある。宝物である信仰を分かちう。たまものであるいのちを共に生きる。互いに助け合い、思いやり、きずなを深め、豊かないのちを生きることができるように、努めてまいりましょう。

 

 

 

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2020年7月18日 (土)

年間第16主日@東京カテドラル

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この数日間、東京では感染者数が拡大しています。このままミサを含めた小教区での活動を継続するべきなのか、それとも再び中止するべきなのか、判断に迷うところです。

これから先、少なくとも一年以上にわたって、感染者数が増減したりする状況は続くことでしょうし、有効な予防策や治療法が確立されるまでには、その程度か、それ以上の時間が必要なことと想定されます。従って、選択肢は二つで、安心安全が確立されるまですべてを中止するのか、または、そういった状況の変化に合わせて教会活動も強弱を付けながら行うことができる道を模索し続けるのか。

6月21日に教会の活動の再開を決めたときの選択は後者です。再開からそろそろ一ヶ月になりますから、それぞれの小教区では出来ることと出来ないことが明らかになりつつあると思います。またミサだけでなく、司牧的配慮の様々な道が模索されていることと思います。しばらくは、気を緩めることなく、常により慎重な道を選択しながら、感染しないことと感染させないことを念頭に、判断していきたいと思います。少なくとも、今週中(7月19日から25日)は、教会の活動を十分な感染対策をとりながら現状のように継続します。

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年間第16主日のミサ説教の原稿です。

年間第16主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月19日

 

「すべてに心を配る神はあなた以外におられない」と、知恵の書は記していました。
わたしたちはこの世界が、創造主である神によって支配されていることを信じています。神は「正義の源」であるその力を通じて「万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方」であると、わたしたちは信じています。

しかしながら、同時にわたしたちは、この世界が様々な矛盾に包まれていることも知っています。神が、その愛といつくしみをもって創造された世界であるにもかかわらず、そこに大きな矛盾が生じるのはなぜなのか。

それは例えば、環境破壊もその矛盾の一つであります。いったいなぜ、そのような矛盾が生じるのでしょうか。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、こう記されています。
「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました。このことによって、わたしたちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任にゆがみが生じたのです(66)」

すなわち、人間の欲望や思い上がりが、あたかも人間が神の座を奪い取り、神の存在なしですべてをコントロールできるかのように勘違いをさせ、勝手な行動を続けてきたがために、この世界に矛盾を生じさせてしまったのだと、教皇は指摘されます。

人間の生を成り立たせているのは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」であるにもかかわらず、その三つのかかわりは、外面的にも内面的にも引き裂かれてしまった。その三つのかかわりが引き裂かれた状態こそ、罪であると、教皇は述べています。

大きな災害に襲われるとき、大自然の脅威の前にたたずみ、わたしたちは人間の力や知恵がいかに小さな存在であるかを思い知らされてきました。同様に、今年の初めから続いている新型コロナウイルスによる感染症によってわたしたちは、目に見えない小さなウイルスの前で、人間の力がどれほど弱いものであるのか、人間のいのちがいかにもろい存在であるのかを、あらためて思い知らされました。

思い知らされるとき、わたしたちは一時的に、謙遜に生きる決意を心に刻みます。思い上がりを正さなければと、心に誓います。残念なことに、その決意は長続きしません。長続きするのであれば、わたしたちは真摯に神の前で謙遜に生き、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を、それぞれ大切にする世界を構築してきたことでしょう。しかし現実は異なります。すぐに忘れてしまうわたしたちは、繰り返し人間の欲望に負け続け、大きな矛盾はわたしたちの共通の家の破壊につながりました。

マタイ福音には厳しい言葉が記されていました。

創造主である神は、良い麦も後で蒔かれた毒麦も、共に育つことを容認するけれども、最終的には刈り入れの時に峻別すると記されていました。一般的に、このたとえでの刈り入れの時は、世の終わりの最後の審判です。

いまの世界は、まさしく神が創造された良い麦と、人間の欲望が生み出した悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。刈り入れの時まで待っておられる主は、決して悪の存在を容認しているのではなく、峻別できるそのときを待っておられるのだと福音は記します。

パウロはローマの教会への手紙に、「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」と記します。その上で、聖霊がわたしたちの祈りを執り成してくださるとも記します。

わたしたちは、「わたしたちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任」を忠実に果たすように求められています。すなわち、この世にはびこる毒麦をしっかりと識別して、それを良い麦へと変えていくこと。そのために、良い麦と毒麦をしっかりと峻別できる識別の目を与えてくださるように、聖霊の取りなしと導きを祈ること。

わたしたちはあらためて天地の創造主である神の前で謙遜になり、いのちを与えられているものとして、人間の欲望ではなく、神の導きに従って、この共通の家を「耕し、守る」務めを果たしていかなくてはなりません。刈り入れの時までに、力の限りをつくして、悪い麦を減らし、良い麦へと変えていく努力を続けなくてはなりません。

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教皇フランシスコは、昨年11月に日本を訪れた際、首相官邸で政府や外交団の関係者に話をされました。その中で、次のように述べています。

「地球は自然災害だけでなく、人間の手によって貪欲に搾取されることによっても破壊されています。被造物を守るという責務を国際社会が果たすのは困難だとみなすとき、ますます声を上げ、勇気ある決断を迫るのは若者たちです。若者たちは、地球を搾取のための所有物としてではなく、次の世代に手渡すべき貴重な遺産として見るよう、わたしたちに迫るのです。わたしたちは彼らに対し、むなしいことばでではなく、誠実にこたえなければなりません。まやかしではなく、事実によって、こたえるのです」

その上で教皇は、世界が共通の家を守るために連帯して取り組むようにと求め、次のように述べられました。

「人間の尊厳が、社会的、経済的、政治的活動、それらすべての中心になければなりません。世代間の連帯を促進する必要があり、社会生活においてどんな立場にあっても、忘れられ、排除されている人々に思いを寄せなければなりません。・・・孤独に苦しむ高齢者や、身寄りのない人のことも考えます。結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、いのちを生み、守る力があるかによって測られるものなのです」

知恵の書に、「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」と記されていました。

人間のわがままな心の思いを主張し続けるのではなくて、愛を込めてこの世界を、私たちのいのちを創造された神のいつくしみと愛に満ちた心に、耳を傾けるときです。すべてのいのちを守るために、排除ではなく互いに支え合いながら、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を大切にするときです。人間の尊厳を掲げて、連帯のうちに互いのいのちへの思いを馳せるときです。

 

 

 

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2020年7月11日 (土)

年間第15主日@東京カテドラル

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この数日の豪雨によって、大きな被害を受けられたみなさまに、心からお見舞い申し上げます。被害の大きかった福岡教区では、すでに被災地支援のための募金が始まっています。(東京教区ホームページでのリンクはこちらです)。被災地では復旧のために人手が足りないことが報告されておりますが、このたびの感染症対策のため、ボランティアは県内の方だけに限られているようです。従って、全国に向けてのボランティア受付のようなことは難しいかと思います。まずは現地からの情報に耳を傾け、できることでの支援を、そして祈りをしていきたいと思います。

この数日、東京都では新型コロナ感染者が100名を超え、さらにこの三日間は200名を超えています。いまの時点では、重症者が少ないことや、亡くなられる方が6月24日から出ていないことを踏まえて、即座に教会活動を停止するようなことはしておりません。現時点での感染対策をしっかりと守りながら、慎重に教会運営を続けてまいります。

しかし今後は、仮に感染者数がこのまま増加し続け、重症者が増加した場合などには、現在の対応を一段厳しいものに戻すことも念頭に、日々刻々と変化する状況を見つめております。これからかなり長期にわたって、現在のように社会の現実として新型コロナウイルスがあるということを前提として、その中で教会活動を続けていく方策を慎重に模索して行かざるを得ないものと思われます。

あらめて申し上げますが、教区の基本方針は三つです。(詳しくは、教区ホームページに掲載しているビデオを、是非一度ごらんください)

1: 教区内地域で新規感染者がいる限り、教会活動では「密接・密集・密閉」を避ける
2: 感染しない、感染させない
3: 秘跡にあずかる機会を提供し、霊的な一致を促す

教会活動を停止するという歴史に残るような事態に、東京教区だけではなく世界中の教会が直面しているのですが、その中で東京教区は6月21日に活動を再開して、まだまだ4回目の日曜日です。教区としての大枠はありますが、それぞれの小教区では事情が異なりますので、感染対策への対応もそれぞれ異なっています。なにぶん誰ひとり経験したことのない事態なのですから、当然どの対応も完璧ではあり得ず、当分は試行錯誤の繰り返しにならざるを得ないでしょう。これからさらに何回かの日曜日の経験を通じて、徐々に改善していくしかありません。なんと言っても、感染症の事態が即座に終息するとは思われず、わたしたちは長期戦を心しなければなりません。

現時点での対応にはまだまだ不備もあることでしょう。大変申し訳ありませんが、しばらくはこの事態を一緒になって乗り越えるため、耐え忍んでくださるようにお願いいたします。教会内での意見の交換は歓迎しますが、あたかも教会がすべて変わってしまったかのように喧伝するような行為は慎まれるよう心されることを希望します。

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以下、年間第15主日、7月11日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信された公開ミサの説教原稿です。

年間第15主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年7月12日

 

神の言葉は、受肉の神秘によって人となられたそのときから、今に至るまで、わたしたちとともに現存しています。人となられた神の言葉である主イエスを通じて直接語られたその言葉は、日々の聖書の朗読を通じて、教会の教えを通じて、典礼を通じて、祈りを通じて、繰り返しわたしたちに伝えられてきました。

第二バチカン公会議の啓示憲章にこう記されています。
「教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである(啓示憲章21)」

すなわち、様々な出来事が時の流れの中で刻まれ歴史は形作られてきたのですが、その間常に神の言葉は時の流れの中に現存していました。しかし世界の現実は、神の言葉に耳を傾けてこようとはしませんでした。時には耳を傾けようとしたこともあったのでしょうが、それは例外です。少なくとも今に至るまで、神が望まれる世界は実現しておらず、神が愛を込めて創造されたいのちは危機にさらされ、人間の尊厳はないがしろにされ、神の似姿がその尊厳を暴力的に奪い取られる事例は、世界に数多く見られます。

わたしたちの国にあっても、近年、数多くのいのちが孤独と孤立のうちに危機に直面しており、とりわけ今般の感染症が拡大し経済が混乱する中で、雇用の不安定さが増大し、いのちをつなぐために十分な助けを得られることなく孤立している人も少なくありません。

もちろん社会には、教会の信徒をはじめとして多くの善意の方々が、積極的に助けの手を差し伸べており、そういったボランティア活動の団体も多く存在しています。東京教区の災害対応チームでも、そういった支援を提供する団体などの情報を集めて、インターネット上で提供していますが、数多くの善意の方々が存在しているという心強い現実を、そういった情報収集から垣間見ることができます。善意の多くの方の存在を知り、その心配りに感謝するとともに、それでもまだ取り残されているいのちがたくさんあることを思わざるを得ません。

また今般の事態にあって、特に医療関係者の皆さんには、常日頃心にかけておられることであろうと思いますが、たまものであるいのちを守るために、日夜尽力されておられることに、心から感謝申し上げたいと思います。

神の十戒の第五の掟は、「殺してはならない」と定めています。

この掟はすなわち、わたしたちに「人間の生命が神聖である」ことを教え、いのちを守ることの重要性を認識することも求めています。カトリック教会のカテキズムには、第五の掟の箇所に、「道徳律は、重大な理由もなく誰かを死の危険にさらさせること、さらに、危険な状態にある人を見捨てることさえも禁じています(2269)」と記されています。

今般の感染拡大の事態にあたって教会が取り入れている感染症対策は、「感染しない」ことだけではなく「感染させない」ことも重要視していると、常々申し上げてきた背景は、そこにあります。「殺してはならない」と神から命じられているわたしたちは、他者をいのちの危険にさらすことも、危険な状態にある人を見捨てることも、禁じられているからです。

神の言葉は、この世界の現実のなかにあって、様々な方法を通じて幾たびも幾たびも繰り返され響き渡っているにもかかわらず、世界全体には浸透していません。

ヨハネ福音の冒頭に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおりであります。

耳を傾けようとする人の心に蒔かれた神の言葉の種は豊かに実を結び、善意の人を駆り立てて、助けを必要としているいのちへ、危険な状態にあるいのちへと、その思いを向かわせます。残念ながら、神の言葉の種は、まだ多くの人の心のうちで、豊かな実を結んではいません。

この危機的な状況の中で、これから今以上に孤立を深めながら危機に直面するいのちは増えていくことが想定されます。ですから、わたしたちは、いただいている神のいのちのことばの種を、蒔き続けなくてはなりません。さらには、蒔かれた種が豊かに実を結ぶようにと、その土壌を良いものとしておく努力も必要です。ただただひたすらに種を蒔き続けるだけではなく、まずは最初に種が蒔かれる土壌を良いものに変えて行く努力も必要です。種を蒔く前に、しなければならない準備もあります。

その準備、すなわち土壌改良を成し遂げるのは、わたしたち一人ひとりの日々の生活における、言葉と行いによる神の愛といつくしみのあかしであります。人とのかかわりの中で、わたしたちの言葉と行いは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

語られる言葉は、わたしたちの口から出る実際の言葉であると共に、わたしたちが、例えばインターネットなどに残していく言葉でもあります。時にクリスチャンを標榜しながら、他者のいのちを守ることをないがしろにするような、きわめて利己的な主張や攻撃的な主張を目にするとき、いったいどのような土壌を神の言葉の種のために備えようとされているのかと思い、悲しくなることがあります。わたしたちは口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても自分の言葉が、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためなのだと、常に心しておきたいと思います。

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「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」

神は自らの言葉が、その使命を果たさないままに、むなしく戻ってくることはないと宣言されています。人となられた神の言葉である主イエスによって、神の言葉はわたしたちの間に現存されています。現存されているのですから、どのような困難にあっても、必ずその使命を果たされます。

この神の約束に信頼し勇気をいただきながら、小さな歩みではありますが、わたしたちの言葉と行いを通じて、多くの人の心の土壌を改良し、そこに蒔かれる神の言葉の種が豊かに実を結び、それを通じて神が愛されるすべてのいのちが大切にされ、守られ、その尊厳が尊重される世界が実現するように、努力を続けてまいりましょう。

 

 

 

 

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