カテゴリー「週刊大司教」の36件の記事

2021年7月24日 (土)

週刊大司教第三十六回:年間第十七主日

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7月も終わろうとしています。暑い毎日が続いています。

週刊大司教のメッセージでも触れていますが、教皇様は、今年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。今年は7月25日がこの祈願日となります。

教皇様は、今年の1月31日のお告げの祈りで、次のように述べて、この祈願日の制定を告知されました。

 「2月2日は、イエスが神殿で捧げられたことを記念する、主の奉献の祝日です。そのとき、シメオンとアンナは二人とも年老いていましたが、聖霊に導かれ、イエスがメシアであると認めました。聖霊は、知恵に満ちた考えやことばを高齢者の内にわき上がらせます。高齢者の声はかけがえのないものです。神をたたえて歌い、人々のルーツを守っているからです。年を重ねることはたまものであり、祖父母はその人生体験や信仰を若者に伝えることにより、世代を結びつける輪となっていることを、この二人は思い起こさせてくれます。祖父母は忘れられがちですし、ルーツを守り、伝えるというその宝もないがしろにされています。だからこそ、7月第四主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」とし、教会全体で毎年祝うことにしたのです。この日のころには、イエスの「祖父母」にあたる聖ヨアキムと聖アンナの記念日があります」

今年は初めてのことでもあり、どのようにこの祈願日を祝うのか、定まってはいないのですが、わたしたち自身の祖父母に限らず、教会や社会に多数おられる高齢の方々に思いを馳せ、御父の祝福と守りを祈る日曜にしたいと思います。

なお今年の祈願日のテーマは、「わたしはいつもあなたとともにいる」と定められており、教皇様のメッセージの翻訳は、こちらの中央協議会のホームページへのリンク先に掲載されていますので、ご一読ください

メッセージの中で、教皇様は、特にパンデミックの状況に置かれている現在、孤独のうちに取り残されている人が多くいる中で、特に高齢者の状況には厳しいものがあるとして、次のように希望の言葉を記しておられます。

「このパンデミックの数か月のように、何もかも真っ暗に思えるときでも、主は天使を遣わし、わたしたちの孤独を慰め続け、「わたしはいつもあなたとともにいる」と繰り返しておられます。そうあなたにいっておられ、わたしに、皆にいっておられるのです。これこそが、長い間の孤独と、いまだ時間がかかっている社会生活の回復とを経て、まさに今年に、初回を迎えるこの祈願日の意義です。祖父母の皆さん、高齢者のお一人お一人が、とくに孤独に苦しむかたがたが、天使の訪問を受けられますように」


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以下、本日午後6時配信の週刊大司教第三十六回のメッセージ原稿です。

年間第17主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第36回
2021年7月25日

列王記は、飢饉に見舞われた地にあって、預言者エリシャのもとへ持ってこられた少ないパンが、召使いの常識を越えて、百名の人の空腹を満たした奇跡的な話を記しています。

ヨハネ福音も、いわゆる「五つのパンと二匹の魚」の物語を記し、少年がささげた少ないパンと魚が、イエスのみ言葉を聞くために集まっていた五千人を超える人たちの空腹を満たした、奇跡物語を記しています。

どちらにも通じるのは、もちろん少ない食べ物が多くの人を満たしたと言う奇跡の物語であり、御父である神の、また主イエスの偉大な力を示しています。同時にそれは、自分が持つ数少ないものをまもるのではなく、他者のために惜しみなく分かち合ったときに生まれる愛の絆の物語でもあります。そしてそれは、ミサを通じて主の食卓にあずかり、主イエスご自身の現存である御聖体によって生かされることで教会共同体にもたらされる、霊的な一致の意味をあらためて考えさせるものでもあります。主の十字架上での自己犠牲は、神による最大の愛のあかしであります。

パウロはエフェソの教会への手紙で、まさしくこの霊的一致について語ります。パウロは、例えばローマ書など他の書簡で一致について、一つの体とその部分であるわたしたちのようなたとえを記しますが、一致は決して皆が全く同じように考え、同じように行動するのではないことを明確にしています。それぞれはそれぞれが与えられた使命に自らの決断を持って生きているのであって、一致は同じ霊によって生かされ、同じ主における「一つの希望にあずかるように」と招かれている生き方にあります。主イエスを中心とした愛の絆に結ばれていることこそが、わたしたちの語る一致であります。

さて教皇様は、今年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められ、メッセージを発表されています。今年は7月25日のがこの祈願日となります。教皇様のメッセージのテーマは、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(参照:マタイ28,20)とされています。教皇様はメッセージの中で、今回の「パンデミックは思いがけない嵐のようにそれぞれの生活に試練を与えたが、とりわけお年寄りに与えた影響は厳しいものであった」と述べられ、亡くなられた多数の高齢者への思いを記されています。その上で、「主はわたしたち一人ひとりの苦しみを知り、痛ましい経験をした人々のそばにおられ、その孤独を心にかけておられる」と呼びかけられます。わたしたちが招かれている霊的一致は、いのちが忘れ去られ孤独のうちにあることをよしとしません。すべてのいのちに主が共にいることを、あかしするよう、わたしたちは招かれています。

教皇様の「フラテリ・トゥッティ」にもこう記されています。「わたしたちは、歴史の教訓、「人生の師である歴史」をすぐに忘れます。・・・長年の医療体制の縮小の結果の一部として、呼吸器が不足で亡くなった高齢者を、どうかわたしたちが忘れずにいられますように。・・・わたしたちには互いが必要で、互いに対し義務を負っていることを、はっきりと気づくことができますように」(35)

東京教区の宣教司牧方針も、「わたしはいつもあなた方と共にいる」という御言葉に導かれます。わたしたちは、三つの柱の一つである「すべてのいのちを大切にする共同体」も目指しています。社会の多様化の中で、より小さないのち、より弱いいのちがないがしろにされつつあります。神からいただいたいのちを大切にし、それぞれのいのちを尊重しあう共同体をめざしましょう。

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2021年7月17日 (土)

週刊大司教三十五回:年間第十六主日

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7月18日、年間第16主日となりました。

緊急事態宣言下で、まもなくオリンピック、続いてパラリンピックが行われます。コロナ禍の前には、数年前から、組織委員会と諸宗教団体との間で、選手村に設置される宗教センターで、選手の方々の宗教的必要に応える対応が準備されてきました。これはオリンピック憲章で定められていると聞いています。

されに、オリンピック観戦のために世界中から訪れる方々のために、小教区などでさまざまな対応をする検討を続けていました。組織委員会からの要望に応えるため、また小教区での対応を考えて、東京教区ではオリンピック対応チームを任命し、マルコ神父様を中心に、例えば五大陸のロザリオを準備したり、カテドラルでの国際ミサを企画して準備を進めていました。五大陸のロザリオは、来日する選手と関係者にギフトとして差し上げることも考えていました。

残念ながら、コロナ禍ですべてはご破算となりました。なんと言っても、選手は選手村から出ることが出来ませんし、わたしたち宗教者も選手村には入れません。そこで対応は、組織委員会の要望に応えて、オンラインとしました。教区本部でさまざまなビデオを用意し、それはすべて組織委員会に渡して、その管理下で選手村に提供されます。詳しくは、今週のカトリック新聞をご覧ください。なお五大陸のロザリオは、そのようなわけで在庫が教区本部にあります。ご希望の方は若干の実費等ご寄付頂きますが、教区本部からおわけします。申し込み方法は、今週のカトリック新聞をご覧ください。

また無観客ですので、世界から訪れる方々もおられません。そこで、小教区での特別な対応も必要ではなくなりました。

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7月12日から15日まで、司教総会が開催されました。今回はハイブリッドにして、潮見まで来られた司教さんたちと、オンラインの司教さんたちと分かれましたが、分科会を含め、なんとか議題をこなすことが出来ました。決まったことなどは、後日カトリック新聞などに掲載されると思いますので、そちらに譲ります。潮見のカトリック会館の裏手には、得意な形をした辰巳国際水泳場がありますが、その右手に新しいオリンピックプールが出来ました。そこに通うバスを駐車するためか、臨時の駐車場が、カトリック会館裏手の都有地に設けられていました。無事開催されることを祈ります。

東京も梅雨明けしていますが、先日のスコールのような大雨の直後、夕方の空には虹が出ていました。

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以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第三十五回、年間第16主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第35回
2021年7月18日

エレミヤの預言は、神が愛してやまない人間を、誰かに任せるのではなく、自ら牧者として守り養おうとするその行動を、いつくしみ深い神の「正義と恵みの業」であると記します。

パウロは、エフェソの教会への手紙で、イエスが隔ての壁を取り除き、異邦人とユダヤ人を一つの体に一致させたことを述べ、それが平和の実現であると説きます。まさしく多様性における一致こそが、平和をもたらす道である事が示唆されています。

イエスの時代、エルサレムの神殿において、ユダヤ人以外の異邦人は、「異邦人の庭」と呼ばれた神殿の外庭まで入ることがゆるされていました。そこには「隔ての壁」があったといわれます。そのことから、「隔ての壁」は、ユダヤ人が受ける神の祝福から異邦人は切り離されていることを象徴し、さらに、対立の中に生まれる「敵意」をも象徴していました。

マルコ福音は、先週の続きで、福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれたと記します。

イエスご自身も、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが他の箇所に記されています。善い牧者として、義に基づいた神の平和を実現するというご自分の使命をはたす力を、イエスはその観想の祈りから得ておられたのは、間違いありません。

教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の本質は三つの務めによって表されます。神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』25参照)と記します。神のことばを告げ知らせる宣教の前提には、秘跡を祝う典礼や祈りを大切にする共同体がなければなりません。秘跡を祝う共同体は愛の奉仕へと突き動かされていきます。そもそも愛の奉仕とは、主イエス・キリストの生き方に倣い実践することなのですから、わたしたちは祈ることをないがしろにして、愛の奉仕に努めることは出来ません。

教皇フランシスコは、2月3日の一般謁見で、次のように述べておられます。
「祈りもまた行事であり、出来事であり、現存であり、出会いです。まさにキリストとの出会いです。・・・典礼のないキリスト教は、キリストがおられないキリスト教になってしまいます」

東京教区の宣教司牧方針の二つ目の柱は、「交わりの共同体」を育てることです。教会の本質は「交わり」です。信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の写し絵です。「交わり」を造りあげ、それを豊かにしてくれるのがわたしたちの共同体で行われる典礼であり、祈りです。多様化した社会にあって、できる限り多くの人をわたしたちの「交わり」へと招き入れるために、典礼を豊かにし、共同体の祈りを深め、そこから福音を告げしらせ、またあかしするための力をいただきましょう。

宣教司牧方針にこう記しました。「わたしたちの信仰は「賛美」と「喜び」に彩られています。そのどちらも人間の想いで始まったのではありません。天上の教会では主イエス・キリストを中心に聖母マリア、諸天使、諸聖人、そして地上のいのちを終えたすべての被造物が天の御父を「賛美」し、「喜び」に満たされています。その「賛美」と「喜び」の声に合わせて地上の教会のわたしたちも神を「賛美」し、いのちの「喜び」を共同体と共に表すのです。典礼と祈りは「賛美」と「喜び」の時であり場面です」

言葉と行いを通じたあかしを、祈りと観想からいただいた力のうちに実践いたしましょう。

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2021年7月10日 (土)

週刊大司教三十四回:年間第十五主日

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7月11日は、年間第15主日です。週刊大司教も34回目となりました。(上の写真は築地教会)

先週の日曜日に結腸の手術を受けられた教皇様については、毎日、聖座(バチカン)の広報官が短いステートメントを発表しています。7月9日の広報官マテオ・ブルーニ氏の発表では、多少の熱があったものの平熱に戻り、順調に回復していて、小聖堂でミサを捧げられたと言うことです。また11日の昼のお告げの祈り(アンジェルス)は、やはり病院の十階の病室窓から行われるとのことです。教皇様は寄せられているメッセージや祈りに感謝されており、引き続きお祈りを求めておられます。教皇様の健康のため、また特に今回の手術からの回復のために、お祈りいたしましょう。

昨日も記しましたが、緊急事態宣言が7月12日月曜日に発令されます。それに対する教区の対応は、まん延防止等重点措置の現在とほぼ変更しませんが、公示文書は月曜日午前中にカトリック東京大司教区ホームページに掲載し、また各小教区と主任司祭にも通知します。

現時点で東京教区がどのような感染対策をとっているのかは、教区ホーム頁の一番上に、「在の東京教区における感染症への対応」と書かれたバナー(絵)がありますから、それをクリックすると、対応一覧のページに飛びます。ご参照ください。

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以下、本日土曜日夕方六時配信の、「週刊大司教」34回目の、メッセージ原稿です。前回から数回連続で、メッセージ終わりの部分において、昨年末に発表した教区の宣教司牧方針について触れることにしました。感染症対策の活動自粛で、宣教司牧方針について広くお話しする機会がありませんので、忘れられないように、繰り返し触れさせていただきます。

年間第15主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第34回
2021年7月11日

アモスの預言は、北イスラエル王国の滅亡を告げたアモス自身が、「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培するものだ」と宣言する言葉を伝えています。当時存在したと言われる専門職としての預言者団ではなく、ごく普通の人を通じて、神は運命的なことばを伝達されました。

パウロは、キリストの血によってあがなわれたものはすべて、神によって選ばれたものとしてその救いの計画に参与するものとされたことを指摘します。

マルコ福音は、イエスが十二人の弟子たちを呼び集め、二人ずつ組にして、福音宣教のために送り出したことを記しています。イエスは弟子たちを派遣するにあたって、あれこれと個人的な必要を整えることなく、まずは出かけていって、行った先の家に滞在せよと命じています。下着の枚数が何枚かの議論はさておいて、この派遣の意味は何でしょうか。

弟子が二人で派遣されたことは、宣教の業が個人プレーではなくて、共同体の業であることを明示します。また、準備万端整えられたプログラムを通じてではなく、日々の生活における他者との交わりにあって、支え合いと分かち合いを通じて福音が伝わっていくことが示されています。

すなわち、福音宣教は、特別な人だけが行う特別なことではなく、だれでも神の言葉を告げるように召されるのであり、それは個人プレーではなく共同体の業であり、なおかつ、日々の生活における他者との交わりの中で、支え合いながら、分かち合いながら具体化される神の業です。

教皇フランシスコは「福音の喜び」に、「神は人々を個々としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。ひとりで救われる人はいません(113)」と記して、教会は共同体として救いの業にあずかっていることを強調されます。その上で教皇は、「洗礼を受け、神の民のすべての成員は宣教する弟子となりました。・・・救いをもたらす神の愛を経験している人ならば、それを告げに出向いていくための準備の時間を、さほど必要としないからです(120)」と、呼びかけます。

東京大司教区では、先週も触れたように、多くの方々の声を基にしながら、共同体としての宣教司牧方針を定めました。その三つの柱の一つは、「宣教する共同体」となることです。

わたしたち信仰の共同体は、神の国の福音をこの世に伝えるためにあります。教会共同体は、福音を告げる共同体です。現在、東京大司教区には70を超える小教区共同体が存在します。また、各修道会の共同体も多数存在します。これだけの数の信仰の共同体があるということは、地域の人々に、社会に、そしてこの世に対しての宣教の基盤がすでに十分に存在していることを意味します。福音宣教の道具として、活用していたでしょうか。わたしたち一人ひとりの責任です。今あるものを十分に生かしながら、また場合によっては宣教の拠点を新たに設けながら、主イエス・キリストの福音をさらにあかししていきましょう。

宣教司牧方針に、「宣教する共同体はキリスト者を増やすことだけが目的ではありません。すべての被造物が神の恵みの中に生きることを目指します。すべての被造物が主イエス・キリストの救いのわざにあずかり、天の御父のもとに秩序づけられ、お互いに深い関わりの中にあるようになったら神の国は完成を迎えるでしょう」と記しました。

特別な誰かではなく、わたしたち一人ひとりが、日々の生活における他者との交わりの中で、支え合いながら、分かち合いながら、信仰の共同体が行う福音宣教の業に呼ばれています。

 

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2021年7月 3日 (土)

週刊大司教第三十三回:年間第14主日

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7月となりました。7月4日は年間第14主日です。

「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」というパウロの言葉が、印象深く響く主日であります。わたしたちは、さまざまな困難に立ち向かって生き抜いていくために、強くありたいと思うものです。しかしパウロは、自分の力を前面に押し出していては、肝心の神の力が働かない。自ら神の働きを妨げるバリアを張り巡らしているのだと諭します。自分のバリアは、こちらからも、向こうからも、互いに働きかけようとする人間関係を断ち切ります。人と人との関係性のないところに、神の力も働きません。それは本日の福音に明らかに記されています。自分の弱さを認めるところに、バリアを取り除く秘訣があるとパウロは語ります。

7月3日は使徒聖トマの祝日でした。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じるものは幸い」と復活されたイエスから言われたトマです。「わたしを見たから信じたのか」は、トマの不信仰を咎め立てする言葉にも聞こえますが、それ以上に、実際に存在するイエスと相まみえることと、復活されたイエスと出会い、その主を信仰する事とは異なることを示唆しています。すなわち、イエスご自身が言われた、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ(マタイ二十五章三十五節)」という言葉とそれに続く、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉にあるように、わたしたちは復活された主を、さまざまな場で、さまざまな人のうちに見いだします。助けを必要とする人との出会いのうちにい、わたしたちは主と出会います。従って、「わたしを見たから信じたのか」という主のトマへの問いかけは、実はその後に、「お前が信じたのは、それだけのためではないだろう。この姿を直接見ないとしても、さまざまな出会いの中で、わたしと見いだすだろう。その個人的出会いによって信じなさい」と続いていくのではなかろうかと思います。わたしたちは、「見ないで信じる」ものですが、それは全く出会いがない中で闇雲に信じているのではなく、教皇ベネディクト十六世がしばしば指摘されたように、「主との個人的な出会い」を通じて信じます。そしてその出会いは、現実社会の中でのさまざまな出会いのうちに実存される、主イエスとの出会いです。

ちなみに、聖トマはその後インドへおもむき、現在のインドにおけるカトリック東方典礼であるシロ・マランカラ、シロ・マラバール教会の礎を築いたと言われます。(上の写真は、2009年のアジア司教協議会連盟総会で行われた、シロ・マランカラ(Syro-Malankara)典礼のJoshua Mar Ignathios司教のミサ)

ワクチンの接種が進んでいます。わたしも先日一回目を受けました。七月末までには二回目を受ける予定です。教皇様ご自身も接種を受けられています。もちろん、ワクチン接種は任意でありますし、体質的に避けた方が良い方もおられますので、教会においては接種を勧めるものの、義務とすることは考えていません。どうかご自分で判断なさってください。また近い将来、多くの方が接種を受けた段階になっても、例えば接種証明を持って、ミサの参加の可否を判断するなどということもいたしません。

以下、本日土曜日午後6時公開の、週刊大司教第33回目の、メッセージ原稿です。

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週刊大司教第33回
2021年7月4日

「わたしは弱いときにこそ強いからです」

コリントの教会の手紙でパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理は存在している事を指摘します。人間の常識が優先されるとき、神の真理はその働きを妨げられる。しかしその思い上がりに気づき、人間の力の限界、つまり弱さを認めたときに初めて、それまで働きを阻んできた「キリストの力がわたしのうちに宿」り、その本来の力を発揮するのだと、パウロは指摘します。思い上がり、思い込み、常識、自己保身、虚栄、などなど、神の力が働くことを妨げるわたしたちの利己的な心の動きは、いくつでも見いだすことが出来ます。

マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働きを妨げます。閉ざされたこ心の目は、自分たちが見たいものしか見ようとしません。人間の思い上がりは、簡単に心の目を閉ざし、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ気がつかせません。

「出向いていく教会」であれと呼びかけられる教皇フランシスコは、「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と呼びかけます。

その上で教皇は、「わたしは、出向いていったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうとばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。(49)」と指摘されます。

2023年秋に、シノドス世界代表司教会議が開催されます。教皇はそのテーマを、「ともに歩む教会のため―交わり・参加・そして宣教」と定められました。教皇は、教会の「シノドス性」、すなわち、神の民として「ともに歩む」姿勢をテーマとし、それを具体的に生きる教会であるための道を見いだそうとされています。神の民のすべてが、その識別へ参加するように招かれています。

今年の10月から、世界各地の教区において、草の根の声を吸い上げるプロセスが始まります。そのための前提となる質問書は準備が進んでいます。先日のシノドス事務局とのオンライン会議によれば、準備されている質問書は、これまでのような重厚な文書ではなく、短い、理解しやすいものとのこと。どのような方法になるかはまだ定まっていませんが、東京教区でも、また日本の教会全体でも、この秋以降、できる限り多くの方の声をうかがい、バチカンに届けたいと思います。

また東京教区では、同じように、宣教司牧方針を定めるために、多くの方からの意見聴取を時間をかけて行い、昨年末に、今後10年ほどの方向性を記した文書をお示ししたところです。残念ながら、感染症の状況の中で教会活動の自粛が続き、具体的な動きを始めようとするところで滞っていますが、徐々に方針の三つの柱である「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」を実現する道を歩みはじめたいと思います。

これまでこうしてきたからとか、こうして成功したとか、さまざまな人間の思いにがんじがらめになるとき、新しい挑戦へと踏み出すことを躊躇してしまい、結局、神の力が働くのを妨げることを繰り返しています。勇気を持って、傷つくのを恐れず、出向いていく教会として、福音に生き、福音をあかしして参りましょう。弱さを認めたとき、初めて神の力が働きます。

 

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2021年6月26日 (土)

週刊大司教第三十二回:年間第13主日

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6月最後の主日となりました。年間第13主日です。週刊大司教は32回目です。

6月29日が聖ペトロ聖パウロの祝日ですので、毎年この直前の主日には、各小教区において、聖ペトロ使徒座への献金が行われます。以下その意義を解説する、中央協議会のホームページからの抜粋です。

「キリストの代理者、教会の最高牧者である教皇は、祈りと具体的な援助を通して全世界の人々にいつも寄り添っているのです。この教皇に心を合わせて、わたしたちも世界中の苦しんでいる人々のために祈りと献金をささげます。教皇のこうした活動のために充てられる聖ペトロ使徒座への献金は、8世紀ごろイギリスで始まった、大人も子どもも一番小さなお金である1ペニーを毎年教皇に献金する運動がもとになって世界中に広まったものです」

この困難な状況の中、世界各地において、教会はこれまでとは異なる方法で助けを必要としている人たちにアプローチしようとしています。教皇様ご自身も、援助を必要としている世界各地の人々への配慮を、さまざまな具体的形で示しておられます。教皇様の活動を支えるためにも、献金にご協力ください。

6月29日に近い月曜日には、毎年、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、東京教区で働く司祭の叙階金祝・銀祝などが行われてきました。また、土井枢機卿様、白柳枢機卿様、岡田大司教様と、1937年以来、歴代の教区司教の霊名がペトロだったこともあり、この月曜にお祝いのミサが捧げられてきました。今年は昨年と同様、感染症の状況下ですので、司祭叙階金祝・銀祝のお祝いは、年末の「テ・デウム」の際に行うことにしました。それでもこの月曜には、司祭団だけで、一般には非公開で、ペトロとパウロの祝日のミサを捧げる予定にしています。

どうぞこの月曜日、東京教区で働いてくださる司祭たちのためにお祈りください。また特に、ペトロとパウロの霊名をお持ちの神父様方のために、お祈りくださいますようにお願いいたします。

以下、本日午後6時公開の、週刊大司教第32回、年間第13主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第32回
2021年6月27日

「タリタ、クム。少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」

マルコ福音は、会堂長ヤイロの幼い娘が病気で伏せっていたときに、父親の頼みに応えてイエスが出かけた出来事を描写しています。福音は、到着したときにはすでに亡くなっていたヤイロの娘を、イエスが生き返らせたという奇跡物語を伝えています。

パウロはコリントの教会への手紙で、キリストから与えられた恵みと、教会における交わりによって豊かにされた者は、豊かに分かち合うものとならなければならないことを説いています。

知恵の書は、万物を造られた創造主が、それを滅びのためではなく「生かすためにこそ」創造されたのだと強調し、「世にある造られたものは価値がある」と記します。

イエスが行われた奇跡は、病によってうちひしがれ、人生の絶望の淵にある人たちが、イエスとの出会いによって生きる希望を取り戻した話でもあります。

教皇ベネディクト16世は回勅「希望による救い」に、「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです」と記しています。その上で教皇は、福音が伝えられることによって、「時間、すなわち未来の未知の扉が開かれます。希望を持つ人は、生き方が変わります。あたらしいいのちのたまものをあたえられるからです」(2)と記します。

教皇は回勅の中で、福音とはすなわちイエス・キリストとの個人的な出会いの体験であることを強調し、次のように続けています。

「このかたは自らこの道を歩き、死の国に降り、死に打ち勝って、戻ってきてくださいます。それは、この世でわたしたちとともに歩み、このかたとともにいれば、道を最後まで歩き通すことが出来ると確信させてくださるためです。死の時もわたしたちとともに歩んでくださる方。・・・この方が現実におられると知っていること。それが、信じるものの人生に生まれる、新しい『希望』です」(6)

豊かな希望に満たされたとき、人はその与えられた賜物を分かち合うために行動し、神が望まれたように、すべての被造物が滅びのためではなく「生かすためにこそ」創造されたことをあかししていきます。それが福音が伝わると言うことだと、教皇は強調しています。

神の似姿として、すべてのいのちはその尊厳を護られなくてはならないと、教会は常に主張しています。なぜならば、いのちはまさしく「生かすためにこそ」創造されているからです。人間の尊厳への理解が進んだ現代社会にあっても、いまだにさまざまな形でその尊厳がないがしろにされている存在があります。また現在の感染症による困難な状況の下、経済も悪化し、雇用環境も厳しさを増す中で、生活に困窮し、孤立のうちにいのちの危機に直面する人も少なくありません。異質な存在を排除しようとする差別的な言動によって、尊厳を否定されている人もおられます。さらに世界的なレベルでは、貧困や紛争が、多く人生を狂わせ、中には人間の尊厳を否定するような扱いを受けたり、物のように売買されたり、いのちを奪われたりする現実があることも否定できません。

福音は、希望をもたらす光であり、この社会を神が望むように働きかける力です。神の似姿であるすべての人の人間の尊厳が守られるように、福音を告げていきたいと思います。困難に直面する一人ひとりへ、立ち上がって希望を手にするようにと、今日主は「タリタ、クム」と呼びかけます。自らとの出会いへ招かれる主イエスの福音を、あかしする努力をいたしましょう。

 

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2021年6月19日 (土)

週刊大司教第三十一回:年間第12主日

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6月20日は年間第12主日です。週刊大司教も31回目となりました。昨年、2020年11月8日の年間第32主日から、「週刊大司教」を始めました。ミサの公開が再開され、教会活動も徐々に再開されていた昨年秋、11月1日の諸聖人の祭日前晩のミサを持って、関口教会からのわたし司式の主日ミサ配信を一度終わりとしました。毎週土曜日の夕方6時に、イエスのカリタス会のシスター方に来ていただいて、聖歌もお願いしていましたが、関口教会の青年を始め多くの方から積極的なかかわりをいただき、心から感謝しております。

その配信ミサをひとまず休止としましたが、まだ感染症は終息せず、教会活動もさまざまな制約がありましたので、その次の日曜から、主日福音などに基づいたメッセージを、霊的聖体拝領の助けとして配信することにしました。これが「週刊大司教」です。その後も緊急事態宣言が再度発令されたりと、事態は流動的でしたので、「週刊大司教」を継続してきました。

今後を見通すことは難しいのですが、今の段階では、少なくとも五十回までは続けるつもりです。毎回のメッセージ原稿作成もそれなりに時間がかかります。しかしそれ以上に、事前の撮影と字幕入れなどを伴う映像編集には、教区本部の広報担当職員があたっていますが、その職員の通常業務に増し加わる負担も無視することは出来ません。したがって、状況を見極めるものの、今年の待降節の始まる前ころまでは、「週刊大司教」を継続の予定です。

三度目となる緊急事態宣言は、明日6月20日を限度として解除となりますが、翌日からはあらためて「まん延防止等重点措置」の対象地域として、東京都と千葉県が指定されます。7月11日までの予定です。

これにともなう東京教区の対応については、基本的に三度目の緊急事態宣言が発令される前に戻るのですが、公示文書を作成してありますので、各小教区には今日明日中にお伝えします。まだしばらくは、感染対策を緩めることは賢明ではないと思われますので、しばらくは、慎重に行動したいと思います。

オリンピック・パラリンピックが、すでに既定の事実として開催の方向に向かっているようですが、世界中からあれだけたくさんの人が、今の日本の、しかも首都圏で一時に集中することに、一抹の不安を抱かざるを得ません。実施するからには、不安を払拭できるように、できる限りの対策を打たれることを期待します。ワクチン接種については、わたしのところにも、本日土曜日、文京区から接種券が届きましたが、まだまだ全国的に広い範囲で二度の接種が終了するには時間がかかるでしょう。ですから、教会の活動はこれまで通り、当分は慎重な対応を続けていきたいと思います。

そのオリンピックですが、これまでどこの国でも(北京オリンピックでも)、選手村には宗教センターが設けられ、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教という5つのグループが、開催期間中にチャプレンを派遣して、選手の精神的支えとなってきたと聞いています。この選手村に宗教センターを設けることは、必須の条件だという話も耳にしました。

今回の東京オリンピック・パラリンピックでも、当初は同様の計画があり、さまざまな宗教団体が協力して、宗教センターを運営したり、都内で宗教的行事を開催したりする予定で、数年前から話が進んでいました。東京教区でも、キリスト教諸団体のかたがたと協力して対応するために、オリンピック対応チームを任命して計画に参加してきました。残念ながら今回はこのような状況ですので、計画したとおりには進みません。これまでさまざまに話し合ってきた事は、行われません。一応、現時点では、リモートで、数カ国語のミサや聖書の話や、祈りなどを提供する予定で、そのためのビデオ作成に教区本部の広報担当が取り組んでいます。とはいえ、この時点になっても、本当にあるのか、あるならどのようにして行うのかなど、全く情報が伝わらないため、そもそも現実味が出てこないのですが、それでも、対応するためのそのような準備を進めています。当初企画していた、オリンピック・パラリンピック期間中の、カテドラルでの国際ミサなどは、やはり行わない方向です。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第31回目のメッセージ原稿です。

Chosho2012

(なおメッセージ最後で触れている「人間の安全保障」については、こちらの2015年10月5日の司教の日記や、拙著「開発・発展・MDGsと日本」(サンパウロ、2012年)の冒頭の記事などもご覧いただければと思います)

年間第12主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第31回
2021年6月20日

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」

マルコ福音に記されているこの弟子たちの叫びは、現在のわたしたちの叫びでもあります。世界中の人が、新型コロナ感染症と、それに伴う社会経済活動の停滞の中で、いのちと生活の危機にさらされている現在、まさしくわたしたちは、荒波に翻弄される船の中に取り残されたような思いであります。

荒れ狂う波風を鎮められた主は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけます。すなわち、この自然界をコントロールしているのは、人間ではなくて、創造主である神であることをイエスは明確にします。ヨブ記にも、世界を創造したのは神であって、それを支配しているのも神の権威であることが記されていました。

わたしたちは、科学や技術が発達しても、人間の知恵と知識には限界があることを、自然災害などを通じてたびたび思い知らされてきました。歴史に必ず刻まれるであろう今回の事態も、やはりわたしたちの知恵と知識には限界があることを明確にし、この世界を支配する神に祈り求め、叫び続けることの重要さを肌で感じさせています。

人間の限界を超えた出来事がなぜ起こるのかは、わかりません。しかしながら、わたしたちにはその理不尽さの中にあっても、神に祈り求めると同時に、出来ることを懸命に果たしていく務めがあります。弟子たちも、イエスを起こして声をかけるまで、ただあきらめて荒波に翻弄されていたわけではなく、なんとか船をコントロールしようと力を尽くしていたことでしょう。

パウロは、そういうわたしたちに対して、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てています」と、コリントの教会への手紙に記し、キリストのために生きるようにと促します。キリストのために生きるわたしたちは、その愛に駆り立てられて、キリストのように行動する事を求められます。

キリストの愛に駆り立てられ、キリストのように生きようとするとき、神の似姿である人間の尊厳が、ないがしろにされるような事態が、この困難な状況の中で頻繁に起こることを見逃すことは出来ません。疑心暗鬼の中で不安に駆られる人の心は、どうしても安心を求めて利己的になってしまいます。自分のいのちの危機を感じ取るほど、他者への寛容さはたやすく忘れられてしまいます。そんな中で社会にあって異質な存在は、排除の対象となってしまいます。教皇フランシスコは、2018年の難民移住者の日のためのメッセージに、「あらゆる旅人がわたしたちの扉を叩くたびに、それはイエス・キリストとの出会いの機会になる」と記し、その上で、「受け入れ、保護、支援、統合」という四つの行動が重要だと呼びかけました。

わたしたちは、この困難のなかにあっても、助けを必要とする人たちに心を向け、「受け入れ」、「保護」し、「支援」しながら、社会全体へと「統合」しようとしているでしょうか。

かつて20世紀の終わりころ、国連が提唱する「人間の安全保障」の重要性を説いて、国際社会で高く評価されていたのは日本政府でした。武力による安全保障ではなく、一人ひとりの人間の尊厳を守ることで、世界の安全を確立しようと、政府は国際社会に呼びかけていました。残念ながら人間の尊厳が等しく守られる社会の実現への道は、まだまだ遠い道程だと感じさせられます。

不安な事態の中で恐れ悩んでいるわたしたちは、神のはからいに信頼して祈り求めながらも、同時にキリストの愛に駆られて、賜物であるいのちが守り抜かれるように、行動していきましょう。

 

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2021年6月12日 (土)

週刊大司教第三十回:年間第11主日

Sacredheart

6月は「みこころの月」と言われます。「みこころ」は、主イエスの心のことで、以前は「聖心」と書いて「みこころ」と読んでいましたが、近頃は「み心」と記されることが多いように思います。イエスのみこころは、わたしたちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水が、いのちの泉であり新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスのみこころ」の祭日が設けられ、今年は6月11日でありました。

みこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖女マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ちあふれる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主はご自分の心に倣うようにと呼びかけられました。そしてみこころの信心を行うものには恵みが与えられると告げ、その一つが、9ヶ月の間、初金に聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあるとされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。

1856年に教皇ピオ9世が「イエスのみこころ」の祭日を定め、さらにその100年後、教皇ピオ12世は、みこころの信心を深めるようにと、回勅をもって励ましを与えられました。さらにそれから50年後、教皇ベネディクト16世は、2006年5月15日付でイエズス会の総長に宛てて書簡を送り、イエスのみこころへの信心は決して過去のものではなく現代的な意味があると述べながら、次のように記します。

「内面的に神を受け入れた人は皆、神によって形づくられます。神の愛を経験した人は、その愛を「召命」として生きなければなりません。人はこの「召命」にこたえなければなりません。主は「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8・17)かたです。この主に目を注ぐことによって、わたしたちは人の苦しみと必要にもっと気づくことができるようになります。
 槍で刺し貫かれたイエスの脇腹を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。この観想によって、わたしたちは、救いをもたらす神の憐れみに自分をゆだねることができるようになります。それと同時に、この観想は、神の救いのわざにあずかり、神の道具となりたいというわたしたちの望みを強めます。」(全文は中央協議会のHPで

みこころの月にあたり、イエスを通じて具体的に表された神の愛の心に触れ、それを自らの心とし、倣って生きることが出来るように、努めたいと思います。

以下、本日午後6時配信の「週刊大司教」第30回目のメッセージ原稿です。

年間第11主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第30回
2021年6月13日

「神の国を何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである」と語るイエスの言葉を、マルコ福音は伝えています。

取るに足らない小さな種から始まって、「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝を張る」までに育っていく過程を述べて、神の創造の業が人間の常識をはるかに超えた神秘のうちにあることを思い起こさせながら、イエスは神の国の実現への道を語ります。

エゼキエル書も同じように、レバノン杉の小さな梢を切り取り、山の上に移すことで、今度は大きな枝を張るレバノン杉が育っていくことを記し、それをつかさどる神の力の偉大さを伝えます。

パウロは、わたしたちの永遠の住みかは天にあるのだとしても、この地上での生活には重要な意味があることを指摘し、「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれるものでありたい」と記します。

すなわち、わたしたちは、主とともに天上の神の国で永遠の喜びのうちに生きることを望んでいるとしても、同時に、今生きているこの世界の現実の中で、同じように神に喜ばれるものとして、主から与えられた使命に忠実に生きる務めがあることが、パウロの言葉から示唆されています。

わたしたちには、主イエスの福音を、ひとりでも多くの人に伝えるという使命が与えられています。その業は、派手なパフォーマンスによって達成されるのではなく、小さな努力の積み重ねの上に成り立つのだということを、からし種のたとえから学びたいと思います。一人ひとりの小さな働きは、まさしくわたしたちが播く小さなからし種であります。しかしその種は、神によって育まれる限り、人間の常識をはるかに超える実りをもたらします。救いの業は、神の業であって、わたしたち人間の業ではありません。

去る5月11日、教皇フランシスコは、自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」を発表され、信徒の奉仕職としての「カテキスタ」を正式に制定されました。

カテキスタというこの奉仕職は、決して新しいものではなく、すでに新約聖書の中に、初代教会における務めとしてその役割を見いだすことが出来ます。教会は当初から、聖霊の働きに従順に従い、教会の働きのために生涯をささげた信徒によって果たされる、さまざまな奉仕職によって支えられてきました。

第二バチカン公会議以降、教会は福音化の働きにおける信徒の役割の重要性を強調してきました。第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

カテキスタは、入信の秘跡の準備から、信徒の生涯養成にいたるまで、神の民に奉仕するための信徒の召命であり、社会におけるパン種として働きかける生き方でもあります。パン種のように、またからし種のように、小さな一人ひとりの忠実な奉仕が、聖霊の導きのうちに、神の国の実現のために大きな実りを生み出します。わたしたちは小さな事に忠実に生きるよう、呼ばれています。

新しく制定された信徒の奉仕職としてのカテキスタに限らず、キリスト者には、すべからく自分の召命に生きる務めがあります。神からの呼びかけに忠実なものでありましょう。

 

  

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2021年6月 5日 (土)

週刊大司教第二十九回:キリストの聖体

Corpuschristios2

三位一体の主日の週の木曜日は、キリストの聖体の祝日です。ラテン語の呼び名で、しばしば「コルプス・クリスティ」と言われます。もっとも、多くの国では週日に集まることが難しいので、その次の日曜日にこの祝日を移動させることになっており、日本でもこの日曜日が、キリストの聖体の主日となります。

わたしが30年も前に働いていたアフリカのガーナの小教区でも、この祝日は日曜日に移動して祝われていましたが、ほかのキリスト教国と同様、ミサ後には聖体行列を行っていました。わたしが働いていたオソンソンと言う村は、カトリックを含めクリスチャンが多数でしたので、山間部にあり谷底に細長く広がる村を、主な部分だけでも、かなり歩いたことを記憶しています。村の中に4カ所ほど、椰子の木の葉などを組んだ仮の祭壇を設けて、行列の途中で祈りをささげ、御聖体で祝福をして回りました。

Corpuschristios

この写真は、しばしば掲載していますが、その聖体行列に出かけるところです。左の後ろ上に見えているのが、オソンソン教会の聖堂入り口。聖堂正面を下っていくと小学校があり、左右へ分かれて村へつながる道です。御聖体は、聖体顕示台を、わたしの右横のおじいちゃんが担いでいる船のような台の中に安置してあります。この船のようなものは、この地域で部族のチーフが担がれて乗る台をイメージした縮小版です。カラフルな傘は、チーフに尊敬を込めてそうするように、御聖体を覆うものです。そのチーフを担いでいるのは、例えば下の写真です。

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そして、上述した、村の中に設けた仮の祭壇で聖体顕示台を一時安置し、祈りをささげ、祝福をして回りました。

Corpuschristios5

もちろん日本でも聖体行列が出来ればそれに越したことはありませんが、御聖体が見世物のように見なされる事態は避けなければなりません。御聖体はキリストの実存であり、ふさわしい敬意のうちに礼拝され、共にいてくださる主に感謝と祈りがささげられるのですから、持って回れば良いというものではありません。そういったふさわしい宗教的環境を整えていく必要も、常々感じています。

キリストの聖体の主日にあたり、こういった信仰の表現や行動が制限され、信教の自由が侵害されている国で、こころといのちの危機を肌で感じながら信仰を守っている多くの兄弟姉妹に、聖体のうちに現存される主が、常に共にいてくださることを、そして護り導いてくださることを、心から信じ、また祈ります。

さて以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第29回目の、メッセージ原稿です。

キリストの聖体の主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第29回
2021年6月6日

主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。それは、今も日々のミサにおいて繰り返され、わたしたちはミサに与り、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心に、思いを馳せます。

主は、すべての思いを込めて、残していく弟子たちに、パンと葡萄酒のうちに自らが現存し続けること、すなわち、世の終わりまで共にいることを宣言なさいました。

「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」と、教皇ヨハネパウロ二世は「教会にいのちを与える聖体」に記しています。(9)

主イエス・キリストは、世の終わりまで、御聖体のうちに現存し、わたしたちとともに歩み続けておられます。

教皇ヨハネパウロ二世は、2004年の聖体の年にあたり発表された書簡「主よ、一緒にお泊まりください」に、こう記しています。

「信仰は、わたしたちがキリストご自身に近づくのだということを十分に意識して、聖体に近づくことを求めます。聖体の他の側面、つまり食事であること、過越の神秘であること、終末の先取りであることに、しるしに過ぎないものをはるかに凌駕した重要性を与えるのは、まさにキリストの現存なのです。聖体は、現存の神秘、世の終わりまでわたしたちとともにおられるというイエスの約束の完全な成就なのです。(16)」

御聖体のうちに主ご自身が現存されるからこそ、聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」だと、教会憲章は指摘します。その上で、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘します(11)。

すなわち、御聖体をいただくことは、神からお恵みをいただくという受動的な側面だけではなく、わたしたち自身が自分をいけにえとしてささげるという、能動的側面も伴っています。では、自らをいけにえとしてささげるとはどういう意味でしょうか。御聖体をいただくわたしたちには、どのような行動が求められるのでしょうか。

そもそも御聖体をいただくわたしたちには、主の死と復活を、世々に至るまで告げしらせる務めがあります。その上で、わたしたちには、その福音に生き、言葉と行いで、現存される主イエスそのものである神の愛をあかしする務めがあります。さらにわたしたちには、御聖体によってキリストの体と一致することで、一つの体としての教会共同体の一致を推し進める務めがあります。

教皇ヨハネパウロ二世は、「主よ、一緒にお泊まりください」で、こう指摘しています。

「たとえば、何億人もの人類を苦しめている飢餓の惨状や発展途上国を苦しめている病気、老人の孤独、失業者たちが直面している困難、移住者たちの苦労などをわたしは思い巡らしています。・・・わたしたちが真にキリストに従う者であると認められるのは、互いの愛と、とりわけ困窮している人たちへの配慮によるのです。これが、わたしたちのささげる感謝の祭儀が真正なものであるかどうかを判断するための基準となります。(28)」

御聖体の秘跡のうちに現存される主は、歴史の流れをわたしたちとともに歩みながら、自らの愛をわたしたちがあかしするように招いておられます。出向いていく教会であることを求めています。神のその愛に基づいた招きに、応える者でありましょう。

 

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2021年5月29日 (土)

週刊大司教第二十八回:三位一体

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聖霊降臨の主日の次の日曜日は、三位一体の主日です。(写真は、2009年にマニラで開催されたFABC総会。故岡田大司教も参加されました。なぜこの写真かは、メッセージを参照ください)

わたしたちが洗礼を受けた「父と子と聖霊」である神の三位一体について、教会のカテキズムには、こう記されています。

「三位は一体です。三つの神々ではなく、三者として唯一の神、すなわち、実体として一つである三位の神を、わたしたちは信じています。三者が唯一の神性を分かち持つのではなく、それぞれのは神そのものなのです。・・・三つのペルソナのそれぞれが、神的実体、神的本質ないし本性という、同じ状態なのです」(253)

わたしたちは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」に(コリントへの手紙)、すなわち三位一体の神における交わりに常に招かれています。

緊急事態宣言が、6月20日まで延長されることになりました。東京教区としては、これまで継続してきた感染対策を今一度見つめ直し、徹底させていくようにいたします。変異したウイルスの存在も顕著になってきているようです。感染の機会をできる限り避けるように務めるとともに、ご自身やご家族の方々に少しでも不安がある場合は、ご自宅でお祈りをお続けください。

確かに実際に教会で互いに出会わないことで、教会における絆が薄れてしまっているように感じます。しかし昨年来たびたび申し上げているように、教会は交わりの共同体であって、三位一体の神における交わりへと招かれている共同体です。ですからその共同体は霊的につながっています。聖堂に集まってともに祈り、感謝の祭儀にあずかることは、もちろんわたしたちの信仰の中心にありますが、同時にわたしたちの信仰における絆は、時間と空間を超越していることも、そしてどこにあっても三位一体の神の懐に抱かれていることを、心に留めましょう。

以下、本日夕方6時配信の、週刊大司教第28回目の、メッセージ原稿です。メッセージの中で、アジアにおけるカトリック司教協議会の連盟組織であるFABCに触れています。もちろん日本の司教協議会もそのメンバーで、現在は常任委員会に会長として高見大司教が参加しております。またわたしも、来年までの任期で、人間開発局(Office for Human Development)の委員を拝命しています。現在二回目の二期目です。FABCは昨年、創立50年を迎えました。

三位一体の主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第28回
2021年5月30日

「至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的な神秘です。・・・信仰の他のすべての神秘の源、それらを照らす光なのです」と教会のカテキズムには記されています。(234)

わたしたちが「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けること、それが、「すべてのキリスト者の信仰は、三位一体に基づいて」いることを明示すると、カテキズムは記します。(232)

パウロはローマの教会への手紙に、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記します。御父を、我々からは、かけ離れた厳しく裁く存在としてみるのではなく、わたしたちは聖霊の導きによって御子と同じように御父を親しく感じる者とされているのだと、パウロは強調しています。

復活の主に出会い、聖霊をいただいたわたしたちは、その聖霊に導かれ、父と子と聖霊の交わりへと招かれ、神の子としてキリストと同じ相続人となるのだと強調することで、パウロはわたしたちの信仰が、三位一体の神秘のうちにあることを強調します。

マタイ福音は、三位一体の交わりに招かれたわたしたちに、主は、「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼をさずけ」るようにと命じたと記します。すなわちわたしたちは、三位一体の神秘にあずかることによって生かされ、その交わりに招かれた者として使命をいただき、全世界の人を三位一体の神秘における交わりに招くように、遣わされています。わたしたちは自分のおもいを告げる者ではなく、三位一体の神を告げる使者であります。

アジアのさまざまな国や地域に置かれている司教協議会の連盟組織であるFABCアジア司教協議会連盟は、昨年で創立50年となりました。この50年間、アジア全域において、三位一体の神をあかしし、イエスの福音を告げしらせるために、牧者である司教たちの交わりを通じて、福音宣教への共通理解を深めてきました。中でも、FABCは三つの対話、すなわち、「人々(特に貧しい人々)との対話、諸宗教との対話、多様な文化との対話」が、アジアでの宣教において共通する重要課題であると指摘を続けてきました。

教皇ヨハネパウロ二世は、1998年のアジア特別シノドス後に発表した「アジアにおける教会」に、 「わたしたちは、アジアの膨大な人口そのものと、人類家族の遺産と歴史のかなりの部分を形作っている多くの文化、言語、信条、伝統の複雑なモザイク模様に驚かずにはいられません」(6)と、アジアの現実を生み出す背景を記しました。

その上で、「教会はこれらの伝統を非常に深く尊敬し、これらの信者と誠実な対話をしようと努力しています。彼らが教えている宗教的価値は、イエス・キリストにおいて成就されることを待っているのです」(6)と記しています。

同時に教皇は、「シノドス参加者は、アジアの社会と文化と宗教における聖霊の働きを喜んで認めました。それらをとおして御父は、アジアの諸民族の心をキリストにおいて完全に成熟するように準備しているのです」(2)とも指摘されます。

アジアの一員であるこの国において、わたしたちは聖霊に導かれて、御子イエスの福音をあかししようとしています。聖霊の導きに勇気を持って信頼し、さまざまなレベルでの対話を忍耐と喜びを持って続けながら、交わりへと招かれる三位一体の神を、あかしし続けて参りましょう。

 

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2021年5月22日 (土)

週刊大司教第二十七回:聖霊降臨

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聖霊降臨の主日となりました。

聖霊降臨祭をもって、復活節は終了です。復活祭の締めくくりとして、聖霊降臨のミサでは、最後の派遣の言葉、「行きましょう、主の平和のうちに」のあとに、復活の八日間と同様、「アレルヤ」を唱えます。

先週もお伝えしましたが、5月24日は、一年前から続いていた「ラウダート・シ特別年」の締めくくりの日です。2015年5月24日の聖霊降臨の日に、回勅「ラウダート・シ」が発表され、昨年がちょうど5周年となることから、教皇様はこの一年を、特別年として、「ラウダート・シ」について振り返り、考察を深めるように呼びかけられていました。

教皇庁の人間開発のための部署(長官:タークソン枢機卿)では、これから数年間にわたり教会の多くの部門を巻き込んだ、ラウダート・シの精神を実現する具体的な行動計画を作成しています。そのキーワードはエコロジカルな回心(回勅の216項以下)と総合的エコロジー(回勅の137項以下)。そして同部署では、ラウダート・シに基づいた7つの目標を掲げています。この目標については、東京教区広報で抄訳を準備中ですので、間もなくホームページに掲載される予定です。

もちろんこれらの目標や取り組みは、神の計画を実現するためであり、すべての人にイエス・キリストの福音を告げしらせることを、その基礎においてることは、言うまでもありません。エコロジカルな回心を語る教皇フランシスコは、「生態学的危機は、心からの回心への召喚状」だと記し、「熱心でよく祈ってはいても、・・・環境への関心を嘲笑しようとするキリスト者がいると言うことも知らねばなりません」と記します。その上で、「そうした人々皆に必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界とのかかわりの中であかしさせます。神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生活には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとって任意の、あるいは副次的な要素ではありません」と指摘しています。(217)

さて、例年、聖霊降臨の主日には、午後から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教区の合同堅信式を行っていました。残念ながら、昨年と同様、現在の状況のため、合同堅信式を行うことが出来ません。またこれまでは、なるべく司教が小教区を訪問して堅信式を行ってきましたが、このような状況下で司牧訪問も適わず、小教区での司教司式の堅信式を行うこともできていません。すでにいくつもの小教区でおこなわれていますが、現在の状況が続く中ですので、主任司祭に堅信を授けるようにと委任しております。一日も早く、安心して皆で集まって祈り、賛美と感謝をささげる事が出来るようになる日が来ることを願い、祈り続けましょう。また病床にある方々の回復のため、医療関係者の健康のため、祈り続けましょう

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第27回のメッセージ原稿です

聖霊降臨の主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第27回
2021年5月23日

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」

五旬祭の日に聖霊を受けることで誕生した教会共同体は、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で」神の福音を語り始めました。パウロはその教会が、「霊の導きに従ってまた前進」し続けることで、どのような実りを生み出すのかを明確にします。

ヨハネ福音は、「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」と語るイエスの言葉を記して、教会共同体が、常に聖霊によって真理へと導かれていることを明確にします。

第二バチカン公会議の教会憲章は、教会に聖霊が与えられたことによって、「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように住み、彼らの中で祈り、彼らが神の子となったことを証明する」と記します。

その上で、「福音の力を持って教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く(4)」のは、聖霊であると明示します。

教会は、常に聖霊に満たされ、聖霊によって導かれています。第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようとつとめる(11)」と記します。すなわち、教会は社会の現実から切り離された隠れ家となるのではなく、積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極めるために出向いていく存在であります。

聖霊の導きに信頼していますか。社会の現実に働く神の力を識別し、時のしるしを読み取り、聖霊の導きに身をゆだねているでしょうか。わたしたちが生み出すべきは。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実りです。常に若返り、新たに変えられていく勇気がありますか。すべての人に理解される言葉で、福音を語り続けているでしょうか。現代世界憲章が、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と、その冒頭に記していることを、常に心に留めたいと思います。

感染症への対応が社会にさまざまな影響を及ぼしています。病床にあっていのちのために闘う人たちのために、またいのちを救うために奮闘される医療関係者に心からの敬意をもって、祈ります。そして、この困難な状況の一日も早い終息を求めて、祈り続けましょう。

同時に、感染症対策に伴って、経済が悪化し、生きる困難を抱える人たちが増え、さらには自殺・自死も、とりわけ若い世代で増加していると指摘されています。闇の中を歩む不安な心は、寛容さをわたしたちから奪っています。法的立場や国籍をこえて、また社会的背景をこえて、助けを求めている多くの人たちを、まず守ろうとする寛容な社会でありたいと思います。いのちを守ることを最優先とする社会の実現は、現代社会にあって聖霊に導かれる教会にとって、まさしく自分たちの問題であります。

聖霊降臨を祝う今日、わたしたち現代社会に生きる教会共同体は、あらためて聖霊に満たされ、聖霊の導きに信頼し、その実りをわたしたちの言葉と行いを持って生み出すことが出来るように、努める決意を新たにいたしましょう。

 

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