カテゴリー「週刊大司教」の111件の記事

2023年1月28日 (土)

週刊大司教第111回:年間第四主日

2023_01_26_rca_0026

1月の最後の日曜日、姉妹教区であるケルンでは、「東京デー」が祝われています。通常、日曜日が4回の1月であれば東京におけるケルンデーとケルンにおける東京デーは同じ日に重なるのですが、今年は5回の日曜があるためずれてしまいました。

今年のケルンにおける東京デーには、東京とケルンで支援するミャンマーから、マンダレー教区のマルコ大司教様が招待されており、東京からは担当のレオ神父様(築地教会)が、ケルンへ出掛けております。明日の日曜に、ケルンの方々が東京のために祈ってくださっていることを、どうか心に留めてくださいますように。

なお1月の最終日曜日は、世界こども助け合いの日となっています。こちらのリンクから、担当の教皇庁宣教事業担当者である門間直輝神父様のメッセージをご覧ください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第111回、年間第四主日のメッセージ原稿です。

年間第4主日A
週刊大司教第111回
2023年1月29日

マタイによる福音は、山上の説教の冒頭部分に記されたいわゆる「真福八端」を伝えています。イエスが指摘する幸福の八つの状態、すなわち「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「あわれみ深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」の八つのタイプの幸福は、そうだと納得できるものもあれば、社会の常識から言えば決してそうとも言えない状態もあります。

それと同時に、よく考えてみるとこの八つの真の幸福を体現されているのは、主イエスご自身であることに気がつかさせられます。つまりここに掲げられているのは、イエスが示す生き方に倣いわたしたちも生きることが、神の定めらた幸福の道なのであり、それは人間の常識が考える幸福とは異なっていることを、このイエスのことばが教えています。

「心の貧しさ」ということばは、特に日本語では否定的な意味にも取られがちなので困惑するのですが、聖書のこの箇所が伝えたいのは、霊的な貧しさであると同時に、物質的な執着からも解放されている、私利私欲にとらわれていない状態を示しています。イエスの生きた姿に学ぶならば、人類の救いのための贖いのいけにえとしてご自分をささげられた主ご自身は、まさしく他者のために仕える者となったという意味で、徹底的に「心の貧しさ」を生きた模範です。わたしたちそれぞれは、どのような生き方をしているでしょうか。常に道からそれるわたしたちに、主は御ことばを通じて、すべてを神に委ねる生き方をするように、繰り返し招いてくださいます。

1月の最後の日曜日は「世界こども助け合いの日」と定められています。この日は、子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。まさしくイエスご自身の生きる姿勢に子どもたちが与り、「心の貧しい人」として生きる道を身につけることを目指している日です。そこで、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげることの大切さを学ぶ日なのです。

現在、日本の教会のこの活動の担当責任者は教皇庁宣教事業の日本における責任者、東京教区の門間神父様です。この日の献金は、全世界からローマの福音宣教省に集められ、世界各地の子どもたちのための活動を支援しています。献金も大切ですが、一番大切なのは、私利私欲に生きるのではなく、他者を支えることに真の幸福の道が隠されていることを、子どもたちに伝えることであろうと思います。

| |

2023年1月21日 (土)

週刊大司教第110回:年間第三主日A

Cologne1801

年間第三主日です。メッセージでも触れていますが、神のことばの主日であり、また東京教区にとってはケルンデーでもあります。さらに1月18日から25日までは、キリスト教一致祈祷週間にもなっています。

それぞれ背景には様々な歴史の積み重ねがある特別な日です。心に留めていただければと思います。特にケルンデーにあたっては、ケルン教区のこれまでの支援に感謝し、ケルンにおける司祭・修道者の召命のために祈りをささげることにしております。どうか主日のミサの中で、ケルン教区の皆さんのためにお祈りください。さらには、この姉妹関係を通じて、今度はミャンマーの教会への支援に繋がりました。ケルンデーには、同時にミャンマーの教会のためにもお祈りください。

またキリスト教一致祈祷週間の東京における合同の祈祷集会は、今年も感染症対策のためオンライン配信となりました。わたしは説教を担当させていただいております。こちらは、このリンクで合同祈祷会の模様をご覧いただけます。

以下、本日午後6時配信の、週間大司教第110回のメッセージ原稿です。

年間第3主日A(神のことばの主日)
週刊大司教第110回
2023年1月22日

今年の年間第三主日である1月22日は、教皇フランシスコによって定められた「神のことばの主日」です。加えて教会は、1月18日から,パウロの回心の記念日である1月25日まで、キリスト教諸教派とともに,キリスト教一致祈祷週間と定めています。

今年のキリスト教一致祈祷週間は、そのテーマを「善を行い、正義を追い求めなさい」というイザヤ書のことばかが採用され、一人ひとりのいのちの尊厳が守られる社会の確立のために、神の正義と平和を確立する道をともに見いだすことを呼びかけています。

第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、「主キリストが設立した教会は単一・唯一のものである」と宣言します。しかし現状はそうではないことを指摘しながら、同教令は、「このような分裂は真に明らかにキリストの意思に反し、また世にとってはつまずきであり、すべての造られたものに福音を宣べ伝えるというもっとも聖なる大義にとっては妨げとなている(1)」と厳しく指摘しています。その上で、真摯な対話を通じて互いの心の回心にいたり、祈りの内に一致し、信仰の宣言の上でも社会での愛の証しにおいても協力する道を模索するように呼びかけています。

マタイによる福音は、イエスの公生活の始まりを描写しています。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」と伝えるイエスの活動は、それを支え、ともに歩む弟子たちを召し出すことから始まりました。ガリラヤ湖畔でイエスは漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけます。さらにはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられます。二人ずつ四人を召し出すこの物語は、イエスの福音宣教の業が、常に共同体の業として遂行されることを象徴しています。いまもなおイエスは「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」を多くの人に声をかけ続けておられます。ただ、司祭になることだけが、この呼びかけに応える道ではありません。教会にはカテキスタなど、信徒の方にも果たしていただける福音宣教の業が多くあります。

第二バチカン公会議の啓示憲章には、こう記されています。

「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)。

そう考えると、ミサの時の聖書朗読の奉仕も、単に役目を果たしているだけでなく、現存される神のことばを語る者としての重要性が理解されると思います。主の呼びかけに応えて、それぞれの役割を果たしていきましょう。

| |

2023年1月14日 (土)

週刊大司教第109回:年間第二主日A

2023_01_03_rca_0373

降誕祭も終わり、次は灰の水曜日から始まる四旬節までのつかの間、「年間」と呼ばれる時期が始まります。主の洗礼直後の週が年間第一週ですので、今年は1月15日が年間第二主日となります。

司祭の養成は神学院に入る前から始まり、神学院での予科の時間を過ごして、哲学を学び、神学を学び、その上で助祭に叙階され、司祭へと至ります。しかし司祭になってそれで養成が終わりではなく、実はここから人生の終わりまで、司祭としての生涯を通じた養成は継続します。この考えそれ自体はまだ新しいもので、数年前から、各国の司教団は、司祭の生涯養成についての計画を練ってきました。日本の司教団でも、司祭叙階後五年目の教区司祭を対象に、養成コースをはじめる事になり、今年、ちょうど現在ですが、初めての叙階五年前後の全国の教区司祭向けの養成コースを行っています。その模様はまた別途報告しますが、司祭のためにお祈りくださるようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第109回、年間第二主日メッセージ原稿です。

年間第2主日A
週刊大司教第109回
2023年1月15日

つい数日前に主の降誕を喜び祝っていたかと思うのですが、典礼の暦は先に歩みを進め、先日の月曜日は主の洗礼の祝日でした。そこで朗読されたマタイの福音は、イエスが洗礼者ヨハネから水の洗礼を受けた様を描写するものでありました。

「罪のゆるしを得させるために悔い改めの」水による洗礼を受けることは、そもそも罪の汚れのない神であるイエスには必要のないことですが、「その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾」であり(カテキズム536)、罪人である人類に加わることで、水を通じてわたしたちをその贖いの技に与る道を開かれました。水による洗礼はイエスの公生活の始まりを告げています。

今日朗読されるのは同じ出来事について触れているヨハネ福音です。そこにおいて洗礼者ヨハネは、自分が水の洗礼を授けた方が誰であるのかを宣言しています。

まず第一にイエスは、「世の罪を取り除く神の小羊」であり、そして「神の子」であると洗礼者ヨハネは証言します。それによってヨハネはイエスの誕生の理由が、罪にまみれた人類の救いのためであることを明確にします。

さらに加えて洗礼者ヨハネは、自分の立場を今一度明確にします。つまりイエスは、「私よりも先におられた」方であり、自らが水の洗礼を授ける理由は、「この方がイスラエルに現れるため」であったのです。しかも洗礼者ヨハネがイエスを神の子と証しをした理由は、自分がそう思ったからではなく、自らの派遣の使命を識別し確実に認識していたからだとも証言しています。

いまわたしたち教会に必要なのは、現代社会にある洗礼者ヨハネであることです。わたしたちは自分の思いを伝えているのではありません。自分が褒め称えられるために行動するのではありません。すべては洗礼を通じてイエスの神性に与ったわたしたちに与えられている福音を告げしらせるという使命を果たすためであり、洗礼者ヨハネと同じく、わたしたちの言葉と行いを通じてイエスが現代社会に表されるようになるためです。わたしたちは、社会のなかにあって、自らの言葉と行いが一体何を証ししているのか、今一度振り返ってみたいと思います。

| |

2023年1月 7日 (土)

週刊大司教第108回:主の公現の主日

Img_20230105_143533982_mf_portrait

降誕節も終わりに近づきました。降誕節を締めくくるのは、主の公現の主日です。

東方の三博士の来訪で有名ですが、博士は占星術の専門家だったようです。この三博士には名前があるといわれています。

この時期に見かけられた、「C.M.B.」という表記に見覚えがある方はいませんか。主の公現の主日と切っても切れない関係にある略語です。日本でも海外から来られた宣教師が働いていた地方では、必ず行われていたことだと思います。私も子供の頃、スイス人の宣教師が働いていた岩手県の教会でしたので目にしていましたし、ドイツ人が中心だった神言会の修道院でも行われていました。それぞれの家の玄関などの戸口の上に、白いチョークで、C.M.B.と記され、十字架とその年の年号が記されているのを見たことありませんか。

かつては主の公現の主日の頃に、家の祝別が行われていました。そしてこのC.M.B.とは、三人の博士の頭文字です。カスパー、メルキオール、バルタザール。

わたし個人としては、年の初めのこの頃、司祭を家に招いて家の祝福の祈りをしてもらうという習慣は、一年の始まりに悪いものではないように思います。もっとも家族全員が信徒でないと難しいかもしれません。家庭が教会の基礎となる共同体であるという考えからすれば、家庭ミサをお願いするとか、家を祝福してもらうとかいうことは、守るべき大事なことであるように思います。

以下、本日午後6時配信の、主の公現の主日、週刊大司教第108回目のメッセージ原稿です。

主の公現
週刊大司教第108回
2023年1月8日

新年、明けましておめでとうございます。

新しい年の初めにあたり、この一年、皆様の上に神の祝福が豊かにあるようお祈りいたします。

マタイ福音は、東の方からエルサレムに来た占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと記しています。自らの立場を脅かす存在が現実にいるのだと、占星術の学者が告げているからに他なりません。本来であれば、救い主の誕生の告知は喜びを持って迎えられる一大ニュースです。しかし現実に権力を行使して人々を支配しているヘロデは、その知らせを喜ぶことは出来なかった。自分をこの世の支配者とするものは、神の支配の実現を前にして、喜びではなく不安しか感じることができません。神の前では、自らの不遜さが暴かれてしまうからです。神の栄光の証しとしての光ではなく、自分勝手な光を輝かせていることが露呈するからです。

心のうちの不安は、ヘロデをいのちに対する暴力へと誘います。「わたしも行って拝もう」というヘロデの言葉に、真実はありません。その本意は、自らの権威を守るために神を抹殺することであり、その後の幼子殉教者の出来事へと続いていきます。

不安は利己的な心の姿勢を強め、時として他者のいのちに対する暴力へと発展します。そこにいのちを生きる希望は生まれません。新しい年となっても、ウクライナをはじめとして各地で起こっている不安定な状況は改善せず、多くの人が不安のうちに生きています。不安が生み出す疑心暗鬼は、さらに対立を深め、いのちに対する暴力は続いています。わたしたち人類は、一体何を守ろうとして神に抗っているのでしょうか。

占星術の学者たちがそうであったように、わたしたちの戻るべき場所はヘロデのところではありません。真の希望の光に触れたわたしたちは、人間の身勝手さの光を輝かせるのではなく、全く異なる道を選び、神の光を輝かせるものでなければなりません。

 

| |

2022年12月31日 (土)

週刊大司教第107回:神の母聖マリア

2022_12_29_rca_0010_20221231093101

間もなく2022年が終わり、新しい年がはじまろうとしています。その喧噪の中で、教会は未だ馬小屋の前にひざまずき、聖家族の喜びに与りながら、神のことばが受肉し、闇に輝く光が誕生したことを祝っています。

この一年、厳しい状況はなかなか好転せず、教会活動も完全にもとの形に戻すことができていません。この困難な中だからこそ、信仰を堅く守り、教会共同体との霊的な絆を再確認することが必要です。わたしたち一人ひとりの信仰の見直しの機会として、生かしていきたいと思います。

2023年が祝福に満ちた良い年となりますように祈ります。また2023年も皆様のお祈りと支えを、お願い申しあげます。

皆様、どうぞ良い年をお迎えください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第107回、神の母聖マリアの主日のメッセージです。なお、1月1日は、午前10時から、神の母聖マリアの主日の大司教ミサが、Youtubeの関口教会のチャンネルから配信されます。

神の母聖マリア
週刊大司教第107回
2023年1月1日

新しい年、2023年が始まります。この3年間、わたしたちは感染症という大きな不安のうちに取り残され、まるで暗闇の中を手探りで歩いているかのような状況でした。加えて、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデターやその後の混乱、ロシアによるウクライナ侵攻とその後の戦争状態、さらには日本を含め世界各地での暴力的な蛮行の頻発。神が賜物として与えてくださったいのちに対する暴力が止むことはなく、あまつさえ暴力に対抗するためには暴力が必要だという機運まで高まってしまいました。暴力の結末は死であり、いのちの創造主である神への挑戦であることを、一年の初めにあらためて強調したいと思います。

主の御降誕から一週間、御言葉が人となられたその神秘を黙想し、神ご自身がそのあわれみといつくしみに基づいて自ら人となるという積極的な行動を取られたことに感謝を捧げる私たちは、暦において新しい一年の始まりのこの日を、人となられた御言葉の母である聖母に捧げ、神の母聖マリアを記念します。

ルカ福音は、「聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」と簡潔に述べることで、驚くべき出来事に遭遇し、その意味を理解できずに翻弄され戸惑う人々の姿を伝えています。暗闇の中に輝く光を目の当たりにし、天使の声に導かれ聖家族のもとに到達したのですから、その驚きと困惑は想像に難くありません。しかし福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とも記します。神のお告げを受けた聖母マリアは、その人生において常に、神の導きに思いを巡らせ、識別に努められた、観想を深めるおとめであります。あふれる情報に振り回されながら現代社会に生きているわたしたちにとって、常に心を落ち着け、周囲に踊らされることなく、神の道を見極めようと祈り黙想する聖母の姿は、倣うべき模範であります。

教皇様は、世界平和の日にあたりメッセージを発表されています。コロナ後の世界の歩むべき道を見据えながら、連帯のうちに支え合って歩み続けることの必要性を説いておられます。わたしたちは、この新しい一年を、あらためて連帯を深め、互いに耳を傾けあい、支えながら、聖霊の導く先を探し求めながら歩むときにしたいと思います。

| |

2022年12月17日 (土)

週刊大司教第一〇六回:待降節第四主日

Img_0054

待降節も第四週となりました。今年は暦の関係で、降誕祭が日曜日となりますから、待降節第四週も7日間あります。例年ですと第四週は付け加えのように数日と言うこともありますが、今年は、降誕祭への霊的な準備の時間は7日間も残されています。この時間を有効に活用して、霊的準備を深めましょう。

T2017_12_16_056

2017年12月16日に、東京大司教として着座し、故岡田武夫大司教様から引き継いで、5年が経ちました。あまりたいしたことを成し遂げることのできない5年間でした。多くの方に祈りを持って支えていただいていることに、心から感謝申しあげます。特に、日々のミサを始め様々な機会にお祈りいただいている東京教区の皆様には、心から感謝申しあげるとともに、今後とも私が司教職をふさわしく果たすことができるように、お祈りをお願いいたします。またいまでも続けてお祈りくださっている新潟教区の多くの方にも、感謝いたします。

2022_12_15_011

降誕祭に先立つ9日間は、伝統的にノベナの祈り(9日間の祈り)がささげられてきました。その期間は、例えばミサのアレルヤ唱でも壮大な内容が語られますが、同じ内容は晩の祈りの聖母讃歌にも使われます。またフィリピンでは、ノベナのミサが早朝にささげられる伝統があり、シンバン・ガビ・ミサと呼ばれています。東京教区内の各地でもこのミサが捧げられていますが、諸事情から早朝ではなく、その前の晩にささげられることが多いかと思います。公式な統計でも東京教区内だけで4万人近いフィリピン出身の方がおられます。目黒教会で行われる晩のシンバン・ガビ・ミサを、東京に来た当初から、その一日を担当させていただいています。今年も、12月15日夜7時から、目黒教会での英語ミサを司式しました。コロナ禍での制限がまだあるため、聖堂は一杯とは行きませんが、大勢が参加されていました。また着任されたばかりだと言う新しい駐日フィリピン大使もミサに参加されました。フィリピンと日本ではキリスト教の文化への浸透の度合いは異なりますが、こういった信心の業には目を向けて、どういった霊的準備ができるのか、この国での可能性を考え深めることができればと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第106回、待降節第四主日のメッセージ原稿です。

待降節第四主日A
週刊大司教第106回
2022年12月18日

「天よ、露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ。地よ開いて救い主を生み出せ」

イザヤ書45章のこの言葉を入祭唱とする待降節第四主日は、わたしたちがもっとも待ち望んでいること、すなわち救い主の誕生についてやっと直接に触れています。主の降誕を待ち望んでいるわたしたちは、雲が露をこの地上にしたたらせるように、神の恵みがわたしたちを包み込み、そのわたしたちの間から救い主が誕生するのだと言うことを明確にします。すなわち、「神はわれわれとともにおられる」のです。

マタイ福音は、イエス・キリストの誕生の次第を記しています。救い主の母となることを天使に告げられた聖母マリアが、その事実を冷静に受け止め、謙遜のうちにしかし力強く他者を助ける行動をとり続けたように、夫であるヨセフも、天使によって告げられた神の思いを受け止め、それに信頼し、謙遜のうちに行動します。この二人の謙遜さ、勇気、そして神への信頼における行動があったからこそ、救い主の誕生が実現します。天から露のように降り注ぐ神の恵みは、それを受けた人の謙遜さ、勇気、信頼を通じた行動によって、実を結びます。わたしたちは、神が降り注がれている恵みを無駄にしてはいないでしょうか。

この3年近くにおよぶ感染症の暗闇の中で、わたしたちに歩み続ける勇気を与えてくださったのは、神がともにおられるという確信でした。神はご自分が創造されたいのちを見捨てることがない。常にわたしたちとともに歩んでくださる。旅する神の民の真ん中に、御聖体とみ言葉を通じて、主は現存される。なぜならば、神は「インマヌエル」だからです。ともにおられる神だからです。

間もなく降誕祭を迎えます。主がわたしたちと共にいてくださる事実を、降誕祭の喜びのうちに再認識を、主への信頼のうちに、その希望の光を暗闇の中でともに掲げて歩み続けましょう。

| |

2022年12月10日 (土)

週刊大司教第一〇五回:待降節第三主日A

2022_12_04_02

待降節の第三主日は、喜びの主日です。

12月8日、無原罪の聖母の祝日に、イエスのカリタス会で3名のシスターの初誓願と3名のシスターの終生誓願宣立式が行われ、サレジオ会の浜口管区長様と共に司式させていただきました。関係する20名近い司祭も参加し、まあ誓願者の6名のうち5名がベトナム出身ということもあり、ベトナムからの家族に加え、ちょうど訪日中であったベトナムのステファン・ティエン司教様も参加してお祝いしてくださいました。おめでとうございます。

Img_20221208_122344930_mf_portrait

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第105回、待降節第三主日のメッセージ原稿です。

待降節第三主日A
週刊大司教第105回
2022年12月11日

待降節は後半に入り、主の降誕を待ち望む喜びに焦点が当てられます。特に第三主日は喜びの主日とも呼ばれ、ミサの入祭唱には、フィリピ書4章から、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」と記されています。典礼ではバラ色の祭服が使われることもあります。降誕祭を間近に控えて、主とともに歩む喜びを心に刻む主日です。

先週に続いて、マタイ福音は洗礼者ヨハネについての話を記しています。先週はヨハネが、来られるであろう救い主について、また自分と救い主との関係について語っていましたが、今日の福音では、イエスがご自分が示される栄光と救いの業におけるヨハネの役割について語っています。

ヨハネが預言者として人々に伝えたことは、イエスご自身の業によってあかしされました。イエスはそのことを、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とヨハネの弟子に指示することで、洗礼者ヨハネが果たした役割の偉大さをあらためて確認します。

教会は洗礼者ヨハネに倣い、現代世界の中で預言者としての役割を果たし続けています。教会が語るこの預言の言葉は、具体的に教会共同体の業を通じてあかしされます。教会は社会の現実のなかにあって、イエスの福音の喜びをあかしする存在でありたいと思います。様々な困難に直面する人たちとともに歩む教会でありたいと思います。神が与えられたこの尊いいのちが、例外なく大切にされ、その尊厳が守られる社会を生み出す原動力でありたいと思います。

わたしたちは、主イエスの福音を具体的に生きるとき、喜びに満たされます。イエスとの個人的出会いが心に喜びをもたらすこと、そしてその喜びを多くの人、特に様々な困難を抱えている人と分かち合うことがさらなる喜びをもたらすこと。教皇フランシスコは「福音の喜び」においてそのことを繰り返し指摘されました。

悲しみや怒りではなく、喜びのうちに福音を告げしらせるものであり続けましょう。

| |

2022年12月 3日 (土)

週刊大司教第百四回:待降節第二主日A

2022_11_20_0039

待降節第二主日です。12月の最初の主日は、「宣教地召命促進の日」と定められています。

中央協議会のホームページには、こう記されています。

この日、わたしたちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられます。

またこういった活動を管轄する司教協議会の部署「教皇庁宣教事業」が、ホームページを開設していますので、ご覧ください。日本の「教皇庁宣教事業」の担当責任者は東京教区の門間直輝神父様です。このホームページに、教皇庁宣教事業の活動の詳細な解説が掲載されていますので、ご一読ください。

なお東京教区では宣教地召命促進の日にあわせて、聖体礼拝をライブ配信します。これはライブだけで、後刻ご覧いただくことはできません。12月4日(日)の19時(午後7時)から二〇分間です。こちらのリンクから、東京教区のホームページをご覧ください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第一〇四回、待降節第二主日のメッセージ原稿です。

待降節第二主日A
週刊大司教第104回
2022年12月4日

マタイによる福音は、主の来臨を告げる洗礼者ヨハネについて記しています。

「荒れ野で叫ぶ声」は、ただむなしく響き渡る夢物語ではなく、人々の心に突き刺さる力ある声でありました。その厳しさの故に、後に洗礼者ヨハネは捕らえられ殉教の死を遂げることになります。洗礼者ヨハネが告げる言葉には神の力が宿っており、それを受け入れることのできないものは、いのちに対する攻撃という負の力を持って、神の言葉を否定しようとしました。

教会は、その誕生の時から聖霊によって導かれ、聖霊によって力づけられながら、その時代における預言者としての務めを果たそうとしてきました。

教会憲章(12)には、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、とくに信仰と愛の生活を通してキリストについて生きたあかしを広め、賛美の供え物、すなわち神の名をたたえる唇の果実を神にささげることによって行われる」と記されています。

わたしたちは現代社会を旅する神の民として、常に恐れることなく神の言葉をあかしする預言者でありたいと思います。

待降節第二主日は、宣教地召命促進の日とされています。

宣教地において、すべての信徒が福音をあかしする使命を果たせるよう、また宣教に従事する司祭・修道者がよりいっそう増えるよう祈ることは、とても大切なことです。この日、わたしたちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられます。日本も宣教地の一つですから、この日には日本における召命促進のためにもお祈りください。

教会が神の民としてふさわしく預言者としての使命を果たしていくことができるように、豊かな召命が与えられるよう祈り続けましょう。

 

| |

2022年11月26日 (土)

週刊大司教第百三回:待降節第一主日A

2022_11_06_img_0016

待降節となり、降誕祭に向けての霊的な準備の時期が始まりました。

また日本の教会では、待降節第一主日から、ミサにおける式文の翻訳が新しくなります。

今日のメッセージでも触れましたが、聖書週間中です。今年は11月20日から27日まで。今年のテーマは、「教皇様の回勅『兄弟の皆さん』より「あなたの隣人とはだれか」(ルカ10・25-37)とし、聖書のことばは「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10・37参照)」と中央協議会のホームページに掲載されています。聖書週間は聖書に親しみ、聖書をより良く理解するために日本のカトリック教会で設けられました。現在私が副理事長を務めさせていただいている日本聖書協会でも、この聖書週間に合わせて活動への協力を呼びかけています。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第103回目のメッセージ原稿です。

待降節第一主日A
週刊大司教第103回
2022年11月27日

待降節となりました。今日から、降誕祭に向けての霊的な準備期間が始まります。待降節の前半は主に世の終わりに焦点を当て、後半では救い主の誕生に焦点を当てながら、その全期間を通じて、本日の福音に記されている、「目を覚ましていなさい」、「用意していなさい」という主の言葉を心に留め、それに生きるようにと促しています。

待降節という言葉自体が象徴するように、わたしたちは救い主の再臨を待ち望んでいます。当然ですが、待つことには様々な態度が思い起こされます。いつだろうとそわそわしていることも待つことですが、なにもせずに眠りこけていたとしても、それは待っていることに変わりはありません。しかしイエスの指摘される「待つ」姿勢は、目を覚まして準備すると言う二つの行動を柱とする待つ姿勢です。わたしたちは時のしるしをよく識別できるように、常に目覚めたものでありたいと思います。より良い準備ができるように、主ご自身の模範に倣って、愛といつくしみに積極的に生き行動するものでありたいと思います。助けを必要とする人々のところへ出向いていこうとする、積極的な待つ姿勢の教会でありたいと思います。

教会は11月の第三日曜から第四日曜までを、「聖書週間」と定めています。今年は王であるキリストの主日から待降節第一主日までが、聖書週間です。聖書週間は、すべての人、とくに信徒が、聖書により強い関心をもち、親しみ、神の心に生きるように、様々な啓発活動を行うときとされています。

第二バチカン公会議の啓示憲章には、こう記されています。

「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである。・・・神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである。(21)」

あらためて聖書を紐解き、響き渡る聖霊の声に耳を傾けましょう。

| |

2022年11月19日 (土)

週刊大司教第百二回:王であるキリストの主日

2022_11_13_

典礼暦では年間の最後の主日である王であるキリストの主日となりました。次の日曜日からは待降節となります。(写真は田園調布教会)

今年の待降節から、ミサの式文の翻訳が変更となります。これについて少しだけ記しますが、「これまで使われてきたカトリック聖歌集や典礼聖歌集が廃止になるのでは」と言う噂が流れているようです。廃止にはなりません。歌唱する際には、これまで通りカトリック聖歌集や典礼聖歌集を使い続けてください。ミサ曲(キリエなど)に関しても、従来の歌詞のままで使い続けることができます。

これは現行の典礼聖歌集にあっても、451番に高田三郎先生の「やまとのささげ歌」が収録されている事と同様の考えで、「やまとのささげ歌」は、カトリック聖歌集の51番に第一ミサとして掲載されていたものです。カトリック聖歌集は、1966年に神言会のローテル神父様や当時は南山大学教授であられた山本直忠先生、そしてその後典礼聖歌をリードされた高田三郎先生たちが中心となって公教聖歌集を改訂し、発行したものですが、ちょうどその作業中に第二バチカン公会議の典礼改革があり、それにあわせた曲作りは、その後に典礼聖歌として始まりました。典礼聖歌自体も現在のような一冊になるまでには長い時間を要しましたし、それとても完結しているわけではありません。そもそもいくつかの聖歌の番号が典礼聖歌集で欠番となっているのは、将来への布石のはずでした。せっかく作曲された作品ですから、頻度の問題はさておいて、歌い続けることには問題はありません。

翻訳にしても作曲にしても、時間のかかる作業ですから、その作業の最中に、典礼それ自体が変更になったりすると、対応は大変です。今回の翻訳がそうでした。現行のミサ典書が発行された直後から、それは暫定訳で翻訳されていない箇所が多々あったこともあり、翻訳の見直し作業が進められていました。しかしそれが完成する前に、ローマ典礼の規範版そのものが2000年に第3版として改訂され、翻訳作業はそこからすべて見直しとなりました。新たに始められた現在の翻訳作業は、20年でよくここまで到達したと思います。作業にあたってくださっている典礼委員会の関係者の皆さんに、心から敬意を表して、来週から使わさせていただきます。

なお、王であるキリストの主日は、世界青年の日でもあります。第37回目となる今年の世界青年の日の教皇メッセージ。今年のテーマはルカ福音書から取られ、マリアは出掛けて、急いで……行った」 となっています。その全文はこちらのリンク先の中央協議会HPにあります。

さらに明日は、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーの方々のために祈り献金をささげる「ミャンマーデー」です。まだ不安定な状況が続いているミャンマーです。様々な理由、特に非常に政治的な理由から身柄を拘束されていた多くの人たちが、数日前に大量に釈放されましたが、全体としての状況は変わらず、軍事政権による圧政が続いています。ミャンマーの平和のためにお祈りください。東京教区のホームページもご覧ください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第102回、王であるキリストの主日のメッセージ原稿です。

王であるキリストの主日C
週刊大司教第102回
2022年11月20日

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで,選ばれたものなら、自分を救うがよい」

このイエスをあざける議員たちの言葉こそが、王であるキリストとはいったい何者であるのかを,明確に示しています。

全世界の王である神は、自分自身の誉れのために、自分自身の欲望を満たすために、皆に仕えられる存在ではなく、自らがいのちをあたえた全ての人を救うために、自分を犠牲にする王であることを、議員たちは図らずもあかししてしまっています。

加えて、議員たちは、自らの願望を神に投影して、その願いを満たさないものを神と認めないという本末転倒の過ちを犯してしまいます。神はご自分からその姿を示すものであって、人間の願望を満たすための存在ではありません。

時として私たち自身も同じような思い違いをしてしまいます。自分が願っていることが適わないときに、神の存在を疑ってみたり、さらには神をののしってみたり、自分自身の願望を叶えるために神を利用しようとしたりするのが私たちです。時に自らの願望を神に投影しようとしたりします。いったい神と私たちと,どちらが世界を支配するものなのでしょうか。

思い違いをしている私たちを目の前にしても,神は常にご自分のありのままであり続けられます。口を閉ざしてあざけりに耐え、いのちを賭してまで、仕えるものであろうとされます。世界を支配する王であるキリストは、私たちがその模範に倣い、常に仕えるものであろうとすることを求めています。自分の願望や欲望を満たすためではなく、他者のいのちを生かすために行動することを求めています。

王であるキリストの主日は,世界青年の日と定められています。教皇様は来年リスボンで開催される世界青年大会を視野に、青年たちに教会とともに歩み続けるように呼びかけます。今年のメッセージのテーマはルカ福音書からとられた、「マリアは出かけて、急いで・・・行った」とされています。教皇様はメッセージで、「マリアが急いで出かけたように、神から特別の恵みを受けた人はそれを分かち合うために急いで出かけるのです。それは自分の必要よりも他者の必要を優先することができる人の急ぎです。・・・マリアは出会いと分かち合いと奉仕から生まれる純粋なつながりを見出すために出かけたのです」と述べています。

私たちも、出会いの中で分かち合い助け合ってともに歩み続けるものでありましょう。

 

 

| |

より以前の記事一覧