カテゴリー「週刊大司教」の55件の記事

2021年12月 4日 (土)

週刊大司教第五十五回:待降節第二主日

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待降節第二主日は、宣教地召命促進の日とされています。

この日について、中央協議会のホームページには、こう記されています。

「キリストを知らない人に救いの福音を伝えることは、キリスト者一人ひとりに課せられた使命であり、神からの呼びかけにこたえること(召命)です。それゆえ、宣教地である日本において、すべての信徒がその使命を果たせるよう、また宣教に従事する司祭・修道者がよりいっそう増えるよう祈ることは、とても大切なことです。この日、わたしたちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられます」

世界の一体どこが宣教地であるのかは、難しい問題です。客観的に見れば、すべての人が洗礼を受けているわけではないので、世界中すべての地域が宣教地であることは間違いありません。しかしここで宣教地と言われているのは、主に福音宣教省が管轄している地域と考えられ、この日の特別献金を集約し配分する担当も、福音宣教省が実務を担当する教皇庁宣教事業・使徒聖ペトロ会とされています。なお日本におけるこの活動の担当者は、東京教区の門間直輝神父様です。中央協議会のホームページに、門間神父様からの呼びかけ文が掲載されています。そして、日本はもちろん福音宣教省の管轄下にあり、宣教地です。

使徒聖ペトロ会は、宣教地における司祭養成のための支援を目的としていますが、日本の教会はこの会自体の創設に深く関わっています。19世紀後半に、日本での再宣教を進めるにあたり邦人司祭養成が急務であると考えたパリ外国宣教会のアルフォンス・クザン長崎司教が、フランスのジャンヌ・ビガー 女史らに支援を求める手紙を書いたのが1889年6月1日で、これが使徒聖ペトロ会の始まりとされています。

日本での召命のために、また世界中での召命のために、お祈りとご支援をお願いいたします。

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教皇大使レオ・ボッカルディ大司教は、12月2日夕方に東京カトリック神学院を訪問され、同神学院の保護の聖人である聖フランシスコ・ザビエルを記念して、神学生たちとミサを捧げました。ちょうど神学院の運営にあたる司教委員会が開催されたので、同委員会メンバーの大塚司教、梅村司教、白浜司教、そしてわたしも一緒にミサを捧げました。(写真は、神学院聖堂に向かって建つザビエル像)

大使は神学院へのお土産に、その昔、聖フランシスコ・ザビエルが日本に派遣されたときの教皇文書の写しを持参され、そこに教皇の代理としてと言う言葉があることから、ミサ後にその写しを見せてくださり、第一号の日本への大使はザビエルだったと、力説されておられました。大使はその後、神学生の食事に加わり、交流のひとときを過ごしてお帰りになりました。コロナ禍で、着任以来、まだ日本の教会の訪問ができず、信徒の皆さんとの交流も持てないことを大変残念がっておられます。イタリア出身のボッカルディ大使は、ご自分で作曲したり歌ったりが大好きな方で、教会の皆さんとの交わりを大変楽しみにしておられますので、状況が改善すれば、大使の小教区訪問なども計画できるかと、期待しています。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第五十五回のメッセージ原稿です。

待降節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第55回
2021年12月5日

洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネの先駆者としての役割を明確にします。福音は、洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶもの」と記しますが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶその声が、救い主である主の到来を準備させるためであり、それによって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と記します。

救いの完成を求めて主の再臨を待ち望む私たちは、現代社会にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声となるよう求められています。

混沌とした事象が複雑に絡み合う現代社会の現実にあって、主を迎える準備を整えよと叫ぼうとする私たちには、「本当に重要なことを見分けられる」目が必要です。パウロはフィリピの教会への手紙で、そのためにはわたしたちが、「知る力と見抜く力とを身につけて」愛を豊かに深めることが必要だと指摘します。先駆者としての役割を果たすにあたって「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ように、私たちも神の言葉によって心が満たされるように聖霊の導きを祈り続けなくてはなりません。

現代社会にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ役割は、キリストに従うすべての人に求められているとは言え、同時にそのために生涯を捧げる人の存在も不可欠です。

教会は12月の最初の主日を、宣教地召命促進の日と定めています。

この日わたしたちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派である事実から宣教地であることは間違いなく、その意味でも、日本における福音宣教を推進するための働き手の存在は不可欠です。同時に、司祭一人あたりの信徒数から言えば、アジアやアフリカの教会と比較しても、実際には司祭数は多い教会でもあります。もう30年も前のことになりますが、わたし自身、アフリカのガーナの小教区で働いていた頃、一人で20を超える教会共同体を担当していました。教会は、司祭を始め福音宣教に生涯を捧げる人を必要としています。荒れ野にあって、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と声を上げる存在が必要です。洗礼者ヨハネのように、「本当に重要なことを見分けられる」目を持ち、勇気を持って困難に立ち向かう存在が必要です。

この一年を聖家族の長である聖ヨセフの年と定められた教皇様は、今年4月の世界召命祈願日のメッセージで、聖ヨセフの生涯を貫く特徴的な生きる姿勢に触れ、その中で、忠実であることに関して、こう記されています。

「聖ヨセフの生涯とキリスト者の召命を貫き、日常生活を漠とはしないもの。忠実です。ヨセフは「正しい人」で、日々の労働を黙々と続け、神とその計画に粘り強く従うかたです。とくに困難なときには、「あらゆることを考え」ています。熟慮し、熟考し、焦りにとらわれず、性急に結論を出す誘惑に負けず、衝動に流されず、近視眼的な生き方をしません。何事にも根気強く励みます。最高の選びに忠実であり続けることによってのみ、人生は築かれると知っているのです」

教皇様は聖ヨセフに倣って生きるようにと、この一年を聖ヨセフの年と定められ、間もなく12月8日に特別年は終了します。宣教者の召命を考え祈るこの日、洗礼者聖ヨハネと聖ヨセフという二人の生き方を黙想し、それに倣って、勇気を持ってまた忠実に、福音を告げましょう。

 

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2021年11月27日 (土)

週刊大司教第五十四回:待降節第一主日

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典礼の暦は新しくなり、待降節が始まります。主日の朗読の周年は「C」となります。

シノドスの歩みのためのビデオはご覧いただいていますか。今はまず、皆で意識を共有し、「教会」という存在への共通の理解を持つために、学ぶときです。もちろん、複数の方で一緒にご覧いただいて、それについていろいろと話し合われても構いません。「分かち合い」という言葉は、何か自分の内面のすべてをさらけ出さなくてはならないような響きがあったり、何らかの手法があったりというイメージがありますが、必ずしもそうではありません。

もちろん聖書のみ言葉に基づいた分かち合いには、それなりの方法があります。例えば、東京教区ホームページに幸田司教様が、「聖書の集い」についてまとめてくださった記事が掲載されています。

しかしここで触れている「分かち合い」は、学んだことに関してのそれぞれの感想を述べることです。誰かがメモを取ってくだされば、後からまとめて、自分たちの信仰生活の振り返りに役立てることができるでしょうし、シノドスの歩みの次の段階に役に立つものとなります。これに関しては、今の段階では、特に何か結果を提出していただくようなことはお願いしていませんのでご安心ください。

シノドスの学びのためのビデオは、こちらのリンクの教区ホームページか、youtubeのカトリック東京大司教区のチャンネルでご覧ください。

なお、今後の「週刊大司教」ですが、十二月中の土曜日はすべて配信を続けます。1月1日(土)については、週刊大司教はお休みとします。なおその日は「神の母聖マリア」の祭日ですから、関口教会のyoutubeチャンネルで、午前10時から大司教司式ミサの配信があります。その後、1月8日(土)からは、「週刊大司教」を配信いたします。また、関口教会のyoutubeチャンネルでは、12月24日午後9時と、25日午前10時にも、大司教司式ミサが配信される予定です。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第54回の、メッセージ原稿です。

待降節第一主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第54回
2021年11月28日

典礼の暦は新しい一年を歩み始め、降誕祭に向けた準備のときである待降節が始まります。待降節の前半は、私たちの救いの完成の時に焦点を当て、後半は救い主の誕生を黙想するように私たちを招きます。

この二年ほどの間、私たちは感染症によってもたらされた命の危機と社会の混乱のただ中に身を置いてきました。想定外で発生したこの事態を通じて、私たちは神の計画が人知をはるかに超えていることをあらためて思い知らされています。人間が計画したことは、ことごとく立ち往生し、なすすべもなく私たちは立ちすくんでしまいました。

このような状況の中にいるからこそ、ルカ福音の言葉は、圧倒的な現実性を持って私たちに迫ってきます。「放蕩や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と弟子たちに語られる主イエスは、「いつも目を覚まして祈りなさい」と促します。

パウロはテサロニケの教会への手紙で、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを」学んだ人々に、「その歩みを今後もさらに続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなた方はよく知っているはずです」と記しています。

「目を覚まして祈りなさい」という言葉は、単に覚醒していることを促しているのではなく、祈りのうちに「ときのしるし」を読み取り、主が命じられた生き方を続けていくこを求めます。私たちは、ただ座して何かを待っているのではなく、常に前進を続けながら行動的に主の時を待たなくてはなりません。今どのように行動するべきなのか。主はそれを、さまざまな「ときのしるし」を通じて示されています。今、感染症の状況のなかにあって、私たちはどう生きるべきなのかを考えさせられていますが、まさしくこの状況における「ときのしるし」に心の目を開き、「神に喜ばれる」生き方を見出し、前進し続けましょう。

教会は今、ともに歩む道、シノドスの道を一緒になって歩んでいます。今回のシノドスは、何かを議論して結論を出すこと以上に、教会が共同体であって、ともに支え合いながら道を一緒に歩んでいるのだという事実を、ともに心で感じ、皆の心に刻み込むことが一番の目的です。東京教区では、そのための一助として、現在、毎週のビデオを作成し配信しています。今更何を学ぶのかとお感じになるかも知れませんが、皆の思いを同じくするためにご覧いただければと思います。

私たちは、感染症の困難の中で、命を守るためには互いに助け合い支え合うことが不可欠であることをあらためて学びました。教会は連帯を呼びかけています。そもそも教会は救いの完成に向けてともに歩む神の民です。一緒になって「ときのしるし」を識別し、進むべき道を見いだし、支え合いながら、神の国の完成に向かって歩んでまいります。

ただ、私たちの歩みは、漠然とした散歩ではありません。私たちは神に喜ばれる生き方をして前進することで、神の福音を社会に向けてあかしする存在となりたいと思います。私たち自身の教会のあり方を振り返ってみましょう。教会共同体は、福音をあかしする共同体となっていますか。教会共同体は、どのような形で、具体的に福音をあかししようとしていますか。あかしするために挑戦したいけれども、それが出来ない原因は何でしょうか。そもそも、「わたしたちの教会」という時の、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。忘れ去られている人、気がつかれていない人はいないでしょうか。この待降節を、教会の振り返りの時、シノドスの歩みをともに歩むときとしましょう。

 

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2021年11月20日 (土)

週刊大司教第五十三回:王であるキリスト

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教会の典礼の暦では一年の最後の主日となりました。11月21日は王であるキリストの主日です。

また教皇様は、今年から世界青年の日を、これまでの受難の主日から王であるキリストの主日に移行されました。さらに、11月の第三の主日にあたるので、東京教区はこの日が恒例の「ミャンマーデー」となります。先日来繰り返していますが、ミャンマーの安定と平和のために祈りましょう。さらにこれまで同様、ミャンマーの教会を支えるために、特に神学生の養成のために献金をお願いします。

すでに小教区には公示を発送しましたが、現在、新規の検査陽性者数が激減した状態が続いており、また政府にあっても行動制限のあり方の見直しをするとの報道もあり、教区の感染対策において多少の緩和を決定し、待降節第一主日から実施します。

主には、これまでミサ中の聖歌歌唱などが全くなくなっていた教会もあるところ、基本的に聖歌を元に戻します。できる限り聖歌隊など一部の方の歌唱を基本としますが、換気が充分で空間があるところでは、皆で一緒に聖歌を歌うことも可能とします。ただしマスクはしっかりと着用ください。

さらにミサの応唱や祈りを一緒に唱えることを中止していましたが、これを再開し、皆で応えたり祈ったりできることとします。少しの緩和ですが、状況が悪化しない限り継続し、クリスマスに向けて、一緒に心安く祈ることができればと思います。ただし状況はまだ不確定な要素がありますから、これまで通り、感染対策は継続するようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第53回目のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第53回
2021年11月21日

ヨハネ福音は、この世の権威が支配する国家の構造と、神の国、すなわち神の支配が、全く異なる実体であることを語るイエスの姿を記しています。わたしたちの王であり、すべてを支配する世界の王であるイエスは、今まさにご自分のいのちを奪おうとするこの世の権力を前にして、毅然とした態度でぶれることなく「真理」を語られます。神の支配は神の秩序の確立であり、真理による支配であり、人間の欲望や知識に基づいたこの世の権力が支配する国家とは異なることを、イエスはピラトに向かって宣言されます。

ヨハネの黙示は、すべての人への愛のために、自らの血をもって、すなわち十字架における死をもって、わたしたちすべてを罪から解放された方が、その恵みと平和をもってすべてを支配していると述べ、「罪と苦しみと死に対する勝利」こそが神の支配の実現によって到来するのだと指摘します(カテキズム要約314)。

「キリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、『大いなる力と栄光』とを持って完成されるには至っていません。・・・ですから、キリスト者は、特に感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、『主よ、来てください』と祈るのです」とカテキズムは記し、旅する教会が世界に対して、神の支配のあるべき姿を自らの姿を通じて示し続けることの重要性を説いています(671)。

愚かにも互いのいのちを奪い合い、利己的な野心や欲望に突き動かされて争いを続ける人間に対して、神はそれでもこの不出来な我々を闇に捨て置くことなく、愛を注ぎ続け、その愚かな罪のすべてを赦すために自らを十字架のいけにえとしてささげられた。この世の権力者は、自分ではなく他の誰かのいのちの犠牲や誰かの苦しみによって、野望を成し遂げようとするのでしょう。しかし真理の王は、自ら進んで苦しみを背負い、自らの言葉と行いでその愛をあかしされる。

神がすべての支配者だと信じるわたしたちは、神が望まれる世界の構築を目指して行かなくてはなりません。神が望んでおられるのは神の真理が支配する国、すなわち神の秩序が完全に実現している世界です。それこそが本当の意味での平和な国であります。

教皇様は今年から、世界青年の日を、これまでの受難の主日から、王であるキリストの主日へ移動されました。教皇様は今年のテーマを、使徒言行録26章16節から取った、「起き上がれ。あなたが見たことの証人として任命する」とされています。メッセージの中で教皇様は、パウロの回心の話に触れた後で、「洗礼によって新しいいのちに生きることになったわたしたちに、主は重要で人生を変えるような使命を与えられます。『あなたはわたしの証し人となる』」と、特に青年たちに呼びかけます。

もちろんこの呼びかけは青年たちだけに向けられたものではなく、すべてのキリスト者に向けられた呼びかけです。この世界を支配する価値観と神の支配は異なると、言葉で言うのは簡単ですが、それではわたしたちはその神の支配が実現しているはずの教会で、何を体験しているでしょう。共同体の交わりは喜びと希望を生み出しているでしょうか。互いの尊敬のうちに対話を生み出しているでしょうか。正義と平和を実現し、助けを求める人に手を差し伸べているでしょうか。共通の家である地球とすべてのいのちを守っているでしょうか。わたしたちの教会は、キリストは生きていると告げているでしょうか。真摯に振り返ってみましょう。

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2021年11月13日 (土)

週刊大司教第五十二回:年間第33主日

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2015年から16年と続いたいつくしみの特別聖年の締めくくりにあたり、教皇様は使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」を発表され、年間第33主日を、「貧しい人のための世界祈願日」と定められました。今年は11月14日がその祈願日となっています。

教皇様はこの日のためにメッセージを発表されています。本文はこちらの中央協議会のリンク先をご覧ください。

教皇様はメッセージの中で、マルコ福音書14章7節の「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいる」をテーマとして選び、次のように呼びかけられます。

「貧しい人は共同体にとって「部外者」ではなく、ともに苦しみを担うべき兄弟姉妹であり、彼らの苦労と疎外感を和らげることで失われた彼らの尊厳は回復され、欠かすことのできない社会包摂が確保されるのです。しかし、慈善行為というものは支援者と受益者を前提としていますが、分かち合うことからは兄弟愛が生まれることは、ご存じのとおりです。施しは散発的なもの、他方、分かち合いは永続的なものです」

教会の人道支援組織である国際カリタスは、教皇様のこの永続的な「分かち合い」への呼びかけに応え、特に貧困撲滅のために世界各地で取り組んでいます。1951年12月12日にローマで13のカリタスが集まって誕生した国際カリタスは、今年70周年を記念しています。現在国際カリタスは世界的な連盟組織として162の各地のカリタスをメンバーとして成り立ち、200を超える国と地域で活動しています。12月13日には、新しい世界的なキャンペーンを開始する準備が進められていますが、特にこの「貧しい人の世界祈願日」から次週の「世界青年の日(王であるキリスト)」までの期間、「祈りから行動へ」と題して、教会全体の貧困撲滅への取り組みを促しています。残念ながら日本語訳がなく英語だけですが、興味のある方はこちらの国際カリタスホームページのリンクをご覧ください。本日から来週まで、毎日何らかの行事やリフレクションがビデオで提供されています。また前述の世界的キャンペーンについては、今後、カリタスジャパンから情報が提供されることになります。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第52回目のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第52回
2021年11月14日

教会の典礼の暦は終わりに近づいています。そのため、典礼の朗読は、世の終わりを示唆する朗読が選ばれるようになります。

ダニエルの預言は、救いの日にはさまざまな苦難が伴うが、神の民は大天使ミカエルによって守られるであろう事を記しています。

マルコ福音は、受難の時が間近に迫る中でイエスが語った言葉を記します。さまざまな苦難に直面するものの、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と記すことで、愛に満ちあふれた神はご自分の民を見捨てることはないと、イエスは確約されます。同時にイエスは、わたしたちが「時のしるし」をしっかりと識別し、つねに備えている者であるようにと呼びかけます。

ヘブライ人への手紙は、主ご自身が自らをいけにえとされた唯一の献げものを通じて、わたしたちをあがなってくださった、新しい契約について語ります。赦されたわたしたちは、その愛といつくしみに包まれて、それに応える生き方を選び取らなくてはなりません。契約なのですから、一方的に受けるだけでなく、わたしたちには果たすべき責任が課せられています。

つねに目覚めて備えるわたしたちは、それではどのようにして、自らに課せられた責任を果たしていくのでしょうか。主は、最後の晩餐で聖体の秘跡を制定されて、「わたしの記念としてこれを行え」と命じられました。わたしたちには、主ご自身が語り、行われたように、生き、また語ることが求められています。

2015年から16年と続いたいつくしみの特別聖年の締めくくりにあたり、教皇様は使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」を発表され、年間第33主日を、「貧しい人のための世界祈願日」と定められました。

主イエスの言葉と行いに倣って生きようとするわたしたちにとって、貧困にあえぎ、生きることに困難を抱える方々への心配りは、忘れてはならない行動であります。教皇様の書簡にはこう記されています。

「人工の楽園で安易な幸福を約束する幻想を追い払うためには、わたしたちには希望と真の喜びのあかし人が必要です。多くの人が抱く深い空虚さの感情は、わたしたちが心に保つ希望と、それが与える喜びによって克服することができます。わたしたちは、いつくしみに触れられることによって心にわき上がる喜びを認める必要があります(3)」

神のあふれんばかりの愛といつくしみに包まれていることを自覚するとき、わたしたちはこの社会にあって、真の希望と喜びをあかしする者となることができます。

教皇様は、「イエスの間近にあることへの願望は、兄弟たちの隣人となることを求めます。なぜなら、具体的ないつくしみのしるし以上に御父に喜ばれるものはないからです」と記して、わたしたちを具体的な愛の行動へと招いておられます。

教会は今、そのあり方を振り返る回心の道を歩んでいます。シノドスの歩みは、「参加する」、「聴く」、「識別する」ことを、教会に属するすべての人に求めています。とりわけ教会は人々の声に耳を傾けて「聴く」ようにと神から招かれています。また人は隣人の声なき声に真摯に耳を傾けなければならないのです。耳を傾けあうところに「交わり」が生まれるからです。

助けを必要としている人の声に耳を傾け、そのもとへと駆けつける教会でありましょう。

 

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2021年11月 6日 (土)

週刊大司教第五十一回:年間第32主日

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11月の最初の日曜日です。11月は死者の月でもあるので、この日曜に追悼ミサを行う小教区も多いのではないでしょうか。わたしも、現在の状況で合同追悼ミサを行うのが難しいこともあり、11月7日の主日は五日市霊園が隣接するあきる野教会で、主日ミサを捧げさせていただいて、亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りさせていただくことにしています。

11月3日には、午前10時から午後4時まで、zoomを利用して、カリタスジャパンの主催によるオンラインセミナーが行われ、わたしも責任者ですので参加して、最初のあいさつをさせていただきました。カリタスジャパンの活動は、国内外の援助活動と、援助を必要とする状況に関する啓発活動の二本柱がありますが、今回のセミナーは「コロナ禍と私たち」というテーマで、啓発活動を行う部会が中心となって開催されました。画面でざっと見た限り、全国から70名近い方が参加してくださったのではないでしょうか。

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教会におけるカリタスの活動は、カリタスジャパンに限定されるわけではなく、ベネディクト16世が指摘する教会の本三つの本質(福音を告げる、礼拝する、愛の奉仕)の一つとして、小教区から始まって教区、そして全国から世界へと、全てのレベルで行われる教会の愛の活動を指しています。その意味では、小教区を構成する一人ひとりの活動がベースとなっているとも言えます。

今回のセミナーでは、まず午前中を使い、各教区でのコロナの状況での主な取り組みをそれぞれの教区担当者が発表し、午後には、担当司教である成井司教、ノンフィクションライターである飯島裕子さん、大学院生の小林未希さん、大阪教区シナピスのビスカルド篤子さん、麹町教会の吉羽弘明さんが参加してのパネルディスカッションとなりました。それぞれの現場から、貴重なお話を聞くことが出来ました。ありがとうございます。

教会にはいろいろなレベルでのさまざまな活動があります。それらが連携して行くことが出来れば、さらに大きな力となるでしょうし、何を最優先するべきなのかを明確にする中で、教会内に留まらず、さまざまな団体と連携していくことも、さらに必要となっていくと思われます。神から与えられた賜物である命を最優先に守っていき、その尊厳を保つために、努力を続けたいと思います。今日のメッセージで教皇様の言葉にも触れていますが、教皇様は常に挑戦するようにと教会を鼓舞しておられますが、そのときに避けるべきリスクを、シノドスに関連して三つあげられています。その三つのリスクに触れていますので、以下のメッセージをご一読ください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第五十一回めのメッセージ原稿です。

年間第32主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第51回
2021年11月7日

列王記は、貧しい一人のやもめと預言者エリヤとの出会いを描きます。貧しさと飢えの中でいのちの危機に直面する女性に、エリヤはそれでも施しをするようにと迫ります。しかし、いのちを賭けたその施しの業、すなわち犠牲の業に、豊かな報いがあったことが記されています。 

マルコ福音は、有り余る中で見せかけばかりに気を取られる律法学者の姿との対比の中で、イエスが、貧しいやもめが「乏しい中から自分の持っているものをすべて」神にささげた行為を評価した話を記しています。「生活費を全部入れたからである」と述べることで、イエスはこの女性の信仰が、まさしく自己犠牲の上に成り立ったいのちがけの信仰であることを明白にします。

ヘブライ人への手紙は、わたしたちの大祭司であるキリストは、この世の聖所に鎮座する存在ではなく、あがないを成し遂げて、御父のもとで執り成してくださっていると強調します。その上で、人類に対する神の愛は、まさしくいのちがけの自己犠牲によって具体的に表されたと指摘します。

わたしたちの信仰は、あたかも趣味のように、余裕があるから身につけるようなものではなくて、いのちがけで全てを神にゆだねる自己犠牲によって成り立っています。それは主ご自身が、わたしたちのために、まさしくそのいのちを投げ打って自らを神にゆだねたからに他なりません。わたしたちは、どのような覚悟で、何を犠牲にしてこの信仰を生きているのでしょうか。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と、マタイ福音に記されていました。信仰が、余裕があるから身につけるたしなみではないように、わたしたちの愛の行動も、余裕があるから行うものではありません。助けを必要としている人たちに、力を尽くして愛を実践する教会共同体でありたいと思います。

教会は今、シノドスの歩みをともに歩んでいます。聖霊に導かれて、これまでの教会の歩みを振り返り、現代社会にあって教会がどのようにあることを神が望まれているのかを、一緒になって見出していこうとしています。

シノドス開会ミサを翌日に控えた10月9日に、バチカンで行われたシノドスに向けた集いにおいて、教皇様は、シノドスは司牧的回心のための大きな機会である一方で、いくつかの「リスク」も抱えている、と指摘されました。それは、このシノドスの歩みを中身のない表面上のものにしてしまう「形式主義」、高尚だが概念的で世界の教会の現実から離れた「主知主義」、今までどおりでよいと考え何も変える意志がない「現状維持主義」の三つのリスクであります。

その上で教皇様は、今回のともに歩む旅路が、無計画にではなく「構造的に」歩む可能性を、また皆が教会を自分の家のように感じ、誰もが参加できる場所となるために「耳を傾ける教会」となる可能性を、さらには兄弟姉妹の希望や困難に耳を傾けることで司牧生活を刷新し、「寄り添う教会」となる可能性を与えていると指摘されます。わたしたちの教会はどうでしょう。

教会のこういった呼びかけに積極的に応えることは、思いの外面倒ですし、さまざまな犠牲を伴います。出来れば誰か余裕のある人に取り組んでほしいものだと思われるのかも知れません。しかし第二バチカン公会議に始まった教会の回心の道は、まだまだ途上であることを感じさせられる出来事が相次いでいる昨今、教会は自らのあり方を振り返り、神の導きに従う存在とならなくてはなりません。余裕があるからではなくて、すべてをかけて神に身をゆだね、自己犠牲の心を持って互いの命を守り抜き支え合う、奉仕する共同体となる道を歩みましょう。

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2021年10月30日 (土)

週刊大司教第五十回:年間第31主日

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10月もこの日曜日で終わりとなります。週刊大司教も50回目の節目を迎えることが出来ました。視聴して、共にお祈りくださっている皆様に感謝申し上げます。

ミサの公開が再開したことで、視聴していただく方も減ると予想していましたが、例えば現時点で、先週の第49回は千人を超える方にご覧いただいています。時には千五百人を超える週もあります。ありがとうございます。皆様の霊的な糧として役に立っているのであれば、それに勝る幸いはありません。

感染症対策でミサの参加を制限せざるを得ない状況の中で、霊的な助けとなればとの思いで始めた主日福音のメッセージ配信ですが、わたし自身の原稿の準備もそうですし、広報職員も撮影と編集にかなりの時間を費やすことになっていますので、このままいつまでも続けるのは難しいかと感じています。

一つの目安としては、視聴してくださる方が千人を割り込むことが続いた場合は、その段階で他の形への移行を考えることにしたいと思います。現時点では11月の王であるキリストまでは撮影が済んでいますので、待降節以降について検討中です。

毎日報告される検査陽性者の数は以前と比較すれば断然に低い数字で推移しています。さまざまな規制も解除されつつあります。同時に、第6波の可能性を指摘する声もあります。すでにクリスマスと年末年始についてはお知らせしたところですが、現状の推移を見ながら、医療関係者の意見を伺い、例えば祈りを一緒に唱えることや、聖歌隊による歌唱の制限緩和などを検討しております。ただマスクを着用することや、ある程度の距離を空けて着席することなどは、まだ当分の間、変更することは難しいと思われます。ご協力をお願い申し上げます。

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10月はロザリオの月です。月末になりましたが、あらためてロザリオについてメッセージで振り返りました。ロザリオは5月や10月に限定されているわけでもなく、日頃から手軽に唱えることが出来る貴重な祈りです。そして聖母の取り次ぎには、力があります。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第五十回目のメッセージ原稿です。

年間第31主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第50回
2021年10月31日

申命記は、「聞け、イスラエルよ」で始まる掟の言葉を記しています。旧約の掟の中心となる一節であり、イエスご自身が「第一の掟」として言及していることが、マルコ福音には記されています。

全身全霊をあげて、唯一の神を愛することを最も大切な掟であるとする主イエスは、同時に、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記に記された言葉を、それに続く第二の大切な掟であると教えます。すなわち、唯一の神を愛することは、その神が創造された賜物であるいのちを生きる自分自身を愛することであり、それは同時に、同じいのちを生きている隣人を愛することをも意味するのですから、この三つの愛は、切り離すことは出来ません。

ヘブライ人への手紙は、創造主である神ご自身が、わたしたちへの愛を、自らの命を犠牲にしてまで具体化されたことを記し、完全な救いのために永遠に執り成してくださる祭司である主により頼むようにと呼びかけます。

いのちの与え主である神を信じるわたしたちキリスト者は、人間の性格として優しくあるから他者を愛し、助けを求める人に手を差し伸べるのではありません。わたしたちが信じる神が、まずいのちを賭してわたしたちへの愛に生きたからこそ、神から愛されてこのいのちを与えられ、生かされているわたしたちは、当然のこととして、隣人を愛するのです。隣人愛は優しさではなく、神から受けた愛の反映です。

神からわたしたちが受けている愛を、被造物として最も美しく反映しているのは、わたしたちの母である聖母マリアであります。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。10月も終わりを迎えますが、その意味を振り返ってみましょう。

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

とりわけ昨年から今に至る感染症による困難な状況の中で、わたしたちを祈りのうちに霊的な絆で結び、さらには聖母の取り次ぎによって、聖母とともにこの困難に立ち向かう霊的な力をいただくためにも、ロザリオはわたしたちにとって、信仰の危機に立ち向かう武器であるとも言えます。

教皇パウロ六世は、使徒的勧告「マリアーリス・クルトゥス」で、「(マリアが)信仰と愛徳との両面において、さらにまた、キリストとの完全な一致を保ったという点において、教会の卓越した模範であると仰がれている」(16)と指摘します。

ロザリオの祈りを唱えることで、わたしたちを結び合わせているキリストの体における神秘的一致へと導かれ、どこにいても、いつであっても、ひとりでも、複数でも、ロザリオを唱えることで、わたしたちは聖母マリアがそうであったように、キリストの体において一致することが出来ます。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛するわたしたちは、聖母に倣って、キリストと一致しながら、命を守る愛の業に励みたいと思います。

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2021年10月23日 (土)

週刊大司教第四十九回:年間第30主日

Rozario8

ロザリオの月である10月も後半。と言うことは今年も間もなく終わりに近づき、典礼も徐々に待降節をどことなく意識し始めてきます。

そろそろ小教区ではクリスマスについて計画する時期です。現時点で感染症の状況は落ち着いており、毎日報告される検査の新規陽性者の人数も、低い数字で留まっています。同時に、今後年末、または年始にかけて、もう一度、いわゆる第6波が襲来するという指摘もあります。

大変残念ですが、今年のクリスマスも、東京教区では(東京都と千葉県)、昨年と同様に、感染症対策を施し、入場を制限して行わざるを得ません。普段教会に足を運ばれる事のない方が大勢教会を訪れるのがクリスマスですが、大変申し訳ありませんが、教会は今年のクリスマスも感染対策を継続して入場を制限せざるを得ませんので、ご承知起きください。来年こそは、またコロナ禍前のいつものように、大勢の方に自由に足を運んでいただけるようになることを、心から願っています。

すでにお知らせしているように、シノドスの歩みが教区で始まっています。前記事にもあるように、教区の皆さんに共通理解を持っていただくために、教区担当者の小西神父様がビデオを用意され、これは今後も続いて配信されますので、ご活用ください。

Bangla

10月の最後から二番目の主日、すなわち今年は10月24日が、世界宣教の日と定められています。この日は、すべてのキリスト者が宣教の心を呼び起こし、世界の福音化のために、霊的物的な援助をすることを目的としています。教皇庁の福音宣教省には世界各地の教会活動を支援する部署が設けられ、世界宣教の日の献金がそのために使われています。それぞれの小教区での献金に、ご協力くださいますようにお願いいたします。(写真は、バングラデシュの先住民族のお父さん。2009年)

この日のための教皇様のメッセージは、タイトルが「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4・20)とされています。教皇様のメッセージの全文は、こちらのリンクから、中央協議会のホームページでご覧ください。

以下、本日夕方6時配信の、週刊大司教第四十九回のメッセージ原稿です。

年間第30主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第49回
2021年10月24日

マルコ福音は、バルティマイの目が癒やされた奇跡物語を記しています。病気の治癒の奇跡であるこの物語には、実はイエスによる二つの「治す業」が記されています。

一つは当然、バルティマイの不自由だった目が癒やされ、見えるようになったという「治す業」であります。もう一つは、そこに集まった大勢の群衆の心を、助けを求める人の叫びに無関心な心から、希望を生み出すかかわりの心へと「治す業」であります。

バルティマイが叫び声を上げたときに、群衆は「叱りつけて黙らせようとした」と福音は記します。すなわち助けを求める人の声を押さえ込み、その存在を見えない者とした行動であります。その群衆は、福音の後半で、バルティマイに対して、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と声をかけるようになります。助けを求める人の声を押さえ込みその存在を無視しようとした群衆の無関心の心は、励ましを与える配慮に満ちた関わりの心へと変えられ、バルティマイに生きる希望を生み出しました。群衆の心を変えたのは、イエスの一言です。「他の誰でもない。あの男を呼んで来なさい」。すなわち、いのちの与え主である主にとって、今大切なのは助けを求めているバルティマイをおいて他にはいないと、群衆に心を向けるようにと語られました。

マルコ福音のこの奇跡物語は、すべてのいのちを守ろうとする創造主が、わたしたちに求めている互いの関係性を明確にします。確かに具体的に病気を治すようないつくしみの行為は大切ですが、それは同時に、助けを求めているいのちが、自ら立ち上がって生きる希望を見いだすために、その存在を認め励ますような関わりをすることも重要であることを教えています。

10月の最後から二番目の主日は、世界宣教の日と定められています。この日は、すべてのキリスト者が宣教の心を呼び起こし、世界の福音化のために、霊的物的な援助をすることを目的としています。教皇庁の福音宣教省には世界各地の教会活動を支援する部署が設けられ、世界宣教の日の献金がそのために使われています。

今年のテーマは、使徒言行録から、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4・20)とされており、教皇様はメッセージを発表されています。

教皇様はメッセージで、「神の愛の力を経験したとき、個人や共同体の生活の中で御父の存在に気づかされたとき、わたしたちは、見たことや聞いたことを告げ、分かち合わずにはいられません」と記し、その上で、「福音宣教の道のりは、どこにいようとも一人ひとりを呼び出し、友としての対話をしたいと望んでおられる主を熱心に探し求めることから」始まると記しています。まさしく、群衆の中からバルティマイを見いだし、声をかけ、その行為を通じて多くの人の回心をもたらし、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」といのちの希望を生み出す言葉をかける人へと変えてくださった主イエスが、わたしたちに従うべき生き方を示しておられます。

教皇様は、パンデミックという状況が分断と孤立化を深め、「わたしたちは落胆し、幻滅し、疲労し、希望を奪うあきらめの気持ちに、視野が遮られてしまったのです」と指摘します。しかし、「希望のことばは、そのことばにふれるがままでいる人にあらゆる決定論を打ち破らせ、自由と立ち上がるために必要な勇気を贈ります」とも指摘します。わたしたちも、希望を生み出すいのちの言葉を語る者となりましょう。助けを求める人たちに心を向ける者となりましょう。関わりの中で、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と声をかける者となりましょう。

 

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2021年10月16日 (土)

週刊大司教第四十八回:年間第29主日

Rozario21b

10月17日は、先頃からお知らせしているように、2023年秋に開催される世界代表シノドスの、それぞれの教区ので「歩み」の始まりです。設問を出して、大きな会議を開いて、結論を議決することは、手間がかかりますが、明白な答えが出てすっきりします。しかし今回教皇様は、そのような手法ではなくて、皆で一緒に識別をして現状に対する共通理解を持ち、ともに旅する神の民として歩んでいこうと呼びかけます。

言葉でそういうのは簡単ですが、これを具体的に実施していくのは難しいことです。大きな会議を開いた方が簡単です。しかし教皇様は、面倒なことをしなければ、現状は変わらないと言われます。来年二月末に司教団へ教区としての回答を提出するまで時間が限られているのですが、やり方はそれぞれの教区に任されていますので、東京教区では、まず皆で共通の理解を持つことから始めたいと思います。教区のホームページで順次情報を提供していきますので、どうかご覧ください。

教皇様は、10月9日のシノドス開始を告げる考察の集いで、こう述べておられます。(バチカンニュースから)

「教皇は、シノドスは司牧的回心のための大きな機会を与える一方で、いくつかの「リスク」も抱えている、と指摘。そのリスクとして、シノドスを中身のない表面上のものにしてしまう「形式主義」、高尚だが概念的で世界の教会の現実から離れた「主知主義」、今までどおりでよいと考え何も変える意志がない「現状維持主義」の3つに注意するよう促された」

衆議院が解散され選挙が行われます。国政にとって大切な選挙ですから、より良い方向へ進むよう聖霊の導きがあるよう祈りましょう。また今回の選挙で選ばれる方々の上にも、聖霊の祝福と導きがあるように祈りましょう。特に今はロザリオの月である10月ですので、ロザリオの祈りをとおして、わたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、現代世界における神の平和の実現をめざしてわたしたちが行動する神の知恵を与えられるよう、祈り続けましょう。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第四十八回目のメッセージ原稿です。

年間第29主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第48回
2021年10月17日

神ご自身による苦しみは、いのちへの希望を生み出しました。イザヤは、「自らを償いの捧げ物とした」事を通じて、「子孫が末永く続くのを見る」と記し、さらに「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」と記すことで、イエスご自身による受難の道程と、それによってもたらされた栄光への希望を預言します。

ヘブライ人への手紙は、選ばれた民を代表して神の前に立つ存在である大祭司を持ち出し、すでに御父のもとにあられるその大祭司である主イエスが、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」、人類の罪を背負ってくださったのだから、神とわたしたちとの結びつきは揺るぎないことを強調します。その上で、わたしたちの弱さに心をよせてくださる主イエスのいつくしみを記すことで、神の憐れみが豊かに与えられていることを確信するように促します。

マルコ福音は、再び、奉仕するリーダーについて語るイエスの姿が記されています。イエスご自身が、「仕えるために来た」と言われたように、そしてまさしくご自身がすべての人の罪を背負って、すべての人に仕える者として、その身をあがないのいけにえとしてささげてくださったように、わたしたちも、君臨するものではなく、互いに仕え合う者となることが求められています。

教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

その上で教皇様は、教会全体にとって、シノドスがまさしくその意味するところである「ともに歩む」プロセスである事を望まれて、ローマでの2023年の会議だけでなく、世界中すべての教区を巻き込んで、2021年10月から始められるようにと指示をされました。

すでに先週、教皇様は、今回のシノドスのプロセスの開始を、ローマから告知されていますが、世界中の教区は10月17日の主日を持って、それぞれのシノドスのプロセスを始めるようにと指示をされています。

9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っているという凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されています。

2015年にシノドス創設50周年の式典が行われたとき、教皇様はこう述べておられます。

「まさに『シノドス性』の歩みとは、神が第三千年期の教会に期待しておられる歩みなのです。ある意味、主がわたしたちに求めておられることは、すべて『シノドス』(ともに歩む)ということばの中にすでに含まれています。信徒と司牧者とローマの司教がともに歩むこと、それをことばでいうのは簡単ですが、実行に移すことは、それほど容易ではありません。」

教皇様は、例えば教会がこの世の団体であるかのように、民主的に運営される仲良しの共同体であろうとはされていません。そうではなくて、地上を旅する神の民として、司教も司祭も修道者も信徒も、ともに手を携えて、互いに奉仕し合い、互いに支え合い、歩みをともにする共同体となることです。交わりの共同体は、福音を生きる共同体です。参加する共同体は、責任を共有する共同体です。宣教する共同体は、福音をあかしする共同体です。神ご自身が人となり、へりくだりのうちにわたしたちと歩まれたように、わたしたちも互いに仕え合う者として歩みましょう。

 

 

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2021年10月 9日 (土)

週刊大司教第四十七回:年間第28主日

Rozario21a

10月10日は年間第28主日です。週刊大司教も、本日の配信で第47回目となりました。ご視聴いただいている皆様に感謝申し上げるとともに、現在の状況の中でまだまだ教会に出かけることに困難がある方々に、週刊大司教をおすすめいただければと思います。パソコンからだけでなくスマートフォンからもYoutubeでビデオをご覧いただくことが出来ますし、過去の動画もそのまま保存してあります。ご活用ください。

教皇様は本日と明日の典礼を持って、シノドスの歩みを開始されます。シノドスの歩みは世界のすべての教区を巻き込んで始まり、2023年秋にローマで開催される世界代表司教会議まで継続します。各教区では来週、10月17日に教区での歩みを始めるようにと指示をされております。現在の状況ですから特別な典礼儀式は行いませんが、カテドラルの関口教会で、10月17日の午前10時のミサを大司教司式ミサとして、これを持ってシノドスの歩みを開始といたします。

今回のシノドスは、設問に対する回答を見いだすための会議ではなくて、神の民としての教会が、聖霊に導かれてともに歩む方向性を識別するために、できる限り多くの人の声に耳を傾けたいという教皇様の願いを実行に移すプロセスです。

すでにバチカンの事務局からは、このプロセスを始めるために各教区に対して10の設問が送られてきています。これらについては、この数日中に、これからどのように取り組むのかを含めて、お知らせをいたしますが、バチカンの事務局もこの10の設問への正解を求めているのではなく、それに基づいて各自が、また教区内のさまざまなレベルの共同体が、振り返り、深め、道を見いだす時をともにすることを求められています。従って、教区として何か会議を行ったり、または宣教司牧方針の時のように10の設問への回答を募集するような形ではなく、教皇様が望まれている教会のあり方について、ともに理解を深める時をまず持ちたいと考えています。そのために、シノドスが目指すところなどを解説する連続ビデオを作成して、教区のホームページで公開する準備をしています。

シノドスについての情報は、随時、教区ホームページに特設ページを設け掲載していきますので、どうぞご活用ください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第47回目のメッセージ原稿です。

年間第28主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第47回
2021年10月10日

「善い先生」と呼びかけ、イエスのもとにひざまずいた人物は、忠実に掟を守る正しい生き方をする人だったのでしょう。マルコ福音は、イエスから基本となる掟を教示されたこの人が、「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と応えた様を記し、彼の正しさを強調します。イエスもその事実自体を否定はせず、しかしそこには欠けていることがあると指摘しています。

この正しい人に欠けていたのは、一体何だったのでしょうか。イエスは、二つのことを問いかけ、求められます。まず第一に、たくさんの財産を持っていたこの人に、すべてを売り払い、貧しい人たちに施しをすることを求め、さらに加えて第二に、「わたしに従いなさい」と、イエスとともに歩むことを求めます。そしてこの二つこそ、掟を守る正しいこの人に欠けている事柄であります。

すなわち、第一に彼の正しさは、神の掟を忠実に守っているところにあるのですが、そもそも掟は何のために守るのか。掟とは、神が求められるいのちの生き方に、わたしたちが忠実であるために与えられた道しるべです。掟は、それを守ることを目的として与えられているのではなく、守ることによって具体的にどのような生き方が実現するのかが問題です。

仮に掟を完璧に守っているのであれば、それを実際の行動として具体的に生きているのかどうかが問われることになります。イエスがここで指摘する、「貧しい人々に施す」行為は、神の求める生き方であり、具体的には助けを必要としている人、一人ひとりのうちにおられる神を見いだし、ともに歩もうとする愛の具現化です。神に喜ばれるその生き方は、天に宝を積むことでもあります。

さらにイエスは、神に従うという決断が欠けていることを指摘します。掟を守ることが神が求める生き方をすることであるならば、それはすなわち全身全霊を持って神に従う決断をすることへとつながります。中途半端な信仰ではなく、すべてを賭けた決断をイエスは求めます。

知恵の書は、どのような財宝よりも優れている知恵について語ります。知恵と賢明さは、わたしたちを神の求める生き方へと導く手立てであり、加えて知恵は「すべての善」とともにあると知恵の書は記します。神に従うという徹底的な決断をするためには、善とともにある知恵と賢明さが必要です。

ヘブライ人の手紙も、同様に、生きている「神の言葉」は、「心の思いや考えを見分けることが出来」る力があると記します。わたしたちの善に従う決断のために必要なのは、神の知恵、そして賢明さ、それをもたらす神の言葉であって、この世の成功や富ではありません。

ところで2023年秋に開催される世界代表司教会議(シノドス)は、世界中の教区に属するすべての人をともに、本日その歩みを始めます。それぞれの教区での歩みは来週から始まりますが、教皇様は10月9日と10日に、シノドスのプロセス開始を告げられます。

テーマは、「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」と定められています。前回の通常シノドス閉幕にあたり、教皇様は、「傾聴というこの基本的な手だてを通して、わたしたちは現実を解釈し、現代のしるしを把握しようとしました。そして、みことばと聖霊の光のもとに、「共同体としての識別」が行われました」と述べておられます。今こそわたしたちに、教会全体に、知恵と賢明さが必要です。生きている神の言葉に促されて、教会共同体の識別が賢明に行われるように祈るとともに、神の呼びかけに全身全霊を持って徹底的に従うことが出来るように、知恵と賢明さと信仰における勇気を願いましょう。

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2021年10月 2日 (土)

週刊大司教第四十六回:年間第27主日

Kojimachibvm

時間は本当に飛ぶように過ぎ去ってしまいます。とりわけ、現在のように不確定要素のただ中で翻弄され、対応に追われるとき、心はどうしても落ち着きを失い、気がつくと、あっという間に時間だけが過ぎていたと言うことなのでしょうか。10月となり、今年も年末に向けての3ヶ月となりました。

10月はロザリオの月です。(聖母子像の写真は麹町教会)

教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そしてわたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そしてわたしたちの心と体に、神の平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みをともにしながら、命の与え主である御父に祈り続けましょう。

東京教区では、すでに教区ホームページなどで公示したように、10月1日から、感染対策を取りながら教会活動を再開しています。今後状況がどのように変化するのかまだ見通せませんが、互いの命を守るための積極的な愛の行動として、感染対策にご協力ください。

なお昨日付で人事の公示をいたしましたが、これまで10年以上にわたって東京教区の司牧のために貢献してくださった李 宗安師(現青梅・あきる野教会主任司祭)は、李神父様の所属するソウル教区と東京教区との契約が満了し、10月末をもって帰国されることになりました。ソウル教区からは、すでに後任の神父様が任命され、派遣の手続きが進んでいますが、残念ながら現在の感染症の状況で日本政府から宗教ヴィザが発給されず、入国できずに待機されている状態です。李神父様のこれまでの東京での司牧に対する貢献に感謝するとともに、帰国されてからのソウル教区でのご活躍をお祈りいたします。(なお、フランス語共同体の新しい担当司祭もフランス司教団から任命されていますが、同様の理由で、入国できず、待機中です)

以下、本日午後6時公開の、週刊大司教第四十六回のメッセージ原稿です。

年間第27主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第46回
2021年10月3日

創世記は、冒頭で神による天地創造の業を記していますが、二章においては創造物語の視点を変え、人が賜物であるいのちを与えられた理由を記しています。

二人の人が創造された理由がそこに記されているように、わたしたちは互いに「彼に合う助ける者」となるように、そのいのちを与えられている。そう記す創世記は、わたしたちが互いに助け合い、支え合うことこそが、いのちを生きる本質であると強調します。

マルコ福音も、ファリサイ派の人たちとイエスの、離縁に関する議論について記しながら、二人の人が一体となることの根本にある、いのちに与えられた使命、すなわち、互いに助け合い、支え合うことこそがわたしたちがいのちを生きる意味であることを明確にします。

ヘブライ人への手紙は、救いの創始者、すなわち天地を形作られた神ご自身が、数々の苦しみを通じて完全な者となったことで、「多くの子らを栄光へと導いた」と記します。

教皇ベネディクト16世は回勅『希望による救い』の中で、「人間は単なる経済条件の生産物ではありません。有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできないのです(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

教会が常に顕彰してやまない殉教者たちは、その人生における苦しみを通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確に表現した存在です。殉教者たちは信仰を生き抜くことで苦しみ抜きながらも、賜物としていのちを与えられた人間の生きる意味を明確にした存在です。主ご自身が苦しみを通じて多くの人を救いへと導いたように、苦しみを通じて人間の本質を明確に示した殉教者たちは、そのいのちは、自分のためではなく、互いに助け合うため、支え合うためにこそ与えられていることをはっきりと示されました。

わたしたちには、苦しみのうちにあっても連帯のうちに、互いのいのちを支え合って生きることが求められています。

教皇フランシスコは、一般謁見を昨年9月2日に一時中断後再開した時、こう話されました。
「このパンデミックは、わたしたちが頼りあっていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。独力ではなく、協力するのです。独りでは決してできないからです。一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。」

感染症の状況の中で、わたしたちはいのちの危機を肌で感じました。この不安と苦しみのなかにあって、わたしたちの心はどうしても自分の方へと向かってしまいます。自分のいのちを守ろうとして、利己的になってしまいます。分断と分裂、そして孤立と孤独は、この数年、世界各地で社会の課題となって顕在化してきましたが、このパンデミックによって、さらに明確な社会の課題として、いや、いのちの危機をもたらす要因として、わたしたちの目前に立ちはだかっています。わたしたちは、互いに助け合う者としていのちを与えられていることを思い起こし、殉教者の勇気に倣い、いのちを生きる本当の意味を、広くあかしし、伝えてまいりましょう。

 

 

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