カテゴリー「週刊大司教」の156件の記事

2024年2月24日 (土)

週刊大司教第157回:四旬節第二主日

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四旬節第二主日となりました。

昨日まで、バンコクではアジア司教協議会連盟(FABC)の年に一度の中央委員会が開催されていました。アジアの各国地域の司教協議会会長がメンバーで、今回は16名の会長司教が集まりました。私はFABCの事務局長を務めています。今回は役職者の選挙があり、来年2025年1月からの3年間の新しい指導体制が決まりました。現在のミャンマーのボ枢機卿様と交代して新しい会長にはインドはゴアのフィリッポ・ネリ・フェラオ枢機卿様、副会長に現在のスリランカのランジット枢機卿様に代わりフィリピンのカローカンのパブロ・ダビド司教様が選出され、事務局長は私が二期目に再選されました。FABCに関しては、別途記します。(下の写真、一列目中央の白いシャツがボ枢機卿、その向かって右がダビド司教、左がフェラオ枢機卿、さらにその左がボンベイのグラシアス枢機卿、その左隣がわたし)

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四旬節には、特に金曜日に十字架の道行きを行うことが勧められており、小教区でそのための時間が設けられているところも多くあろうかと思います。昨年の四旬節に、お一人でも、また自宅でも、十字架の道行きをするための手助けになればと、十字架の道行きのビデオを作成しました。最初に私の解説が少し入っています。本などなくても、画面に言葉で出てきますので、一緒に唱えていただけます。ご活用ください。こちらのリンク先の東京教区Youtubeチャンネルにあります

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第157回、四旬節第二主日メッセージ原稿です。

四旬節第二主日B
週刊大司教第157回
2024年2月25日

イエスの福音宣教は、旅路です。イエスは、一定の成果を手にし、安心と安全を得た地にとどまり続けることをよしとせず、福音を告げるために旅を続けます。その旅は、常に挑戦に満ちあふれていますが、臆することなく、イエスは福音をあかしし続けます。

マルコ福音は、その旅路を歩むイエスが、三人の弟子たちの前で光り輝く姿に変容した出来事を伝えています。神の栄光を目の当たりにし、

「これは私の愛する子、これに聞け」という神の声を耳にしたペトロは、その栄光の輝きの中に留まり続けることを望み、仮小屋を三つ建てることを提案します。しかしイエスは歩み続けます。

本日の第一朗読である創世記は、神からの試練の内にあるアブラハムが、神への信頼のうちに理解不可能な未知の領域に歩みを進める姿を記しています。イサクを献げるようにと言う、神からのいわば無理な要求です。アブラハムは、今の安定に留まることなく、神に従って前進することを選びます。アブラハムの人生は、安定に留まらず、常に挑戦しながら旅を続ける人生でした。その生き方を、神は高く評価しました。

信仰は、わたしたちに常なる挑戦へと旅立つことを求めます。

四旬節にあたり教皇フランシスコは、「荒れ野を通り、神はわたしたちを解放へと導かれる」というタイトルのメッセージを発表されています。

メッセージの中で教皇は、わたしたちが回心の道を歩み続けることを、荒れ野を旅したイスラエルの民になぞらえ、「希望を失い、荒れ果てた地にいるように人生をさまよい、ともに向かっているはずの約束の地が見えないとき」、民は元の奴隷状態を懐かしみ、前進するよりも過去に縛られ続けようとしたことを指摘します。

同じように、現代社会に生きているわたしたちも、「世界規模での兄弟愛の実現を目前にしながら、科学、技術、文化、法制度が、万人の尊厳を保証しうる水準にまで発展しながら、格差と紛争の闇を進んでいること」の理由は、罪の状態から解放されようとするよりも、「自由を犠牲にしてまでも、なじんでいるものの安心感に惹かれる」わたしたちの弱さであり、他者の叫びへの無関心であると指摘されています。

その上で教皇は、教会のシノドス的な姿を追求することは、「四旬節が共同体での決断の時でもあると示唆してくれます。個々人の日常を改め、地域の生活を変えうる、今の流れとは違う選択を大小さまざまに行う時です。購買の意識化、被造物のケア、社会から無視され見下げられている人たちの受け入れ、そうしたことを選択していくのです」とのべています。

わたしたちは安住を求めるのではなく、常に挑戦し続けながら前進を続ける神の民です。希望が見いだせないときにも、「奴隷状態から抜け出る勇気」をもって、歩み続けたいと思います。

教皇様は、「信仰と愛が希望に歩みを教え、希望が信仰と愛を引っぱっていくのです」と記されます。勇気を持ってともに歩み続けましょう。

 

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2024年2月17日 (土)

週刊大司教第156回:四旬節第一主日B

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今年は復活祭が3月の末日と、例年より早い暦となっているため、すでに四旬節が始まりました。先日の水曜、2月14日が灰の水曜日でした。2月18日の日曜日は、四旬節第一主日です。

四旬節は、信仰の道を歩んでいるものにとって、ふさわしく神の方向を向いて歩んでいるのかどうかを見つめ直す回心の時であり、同時に、復活徹夜祭での洗礼式を目指して、洗礼の準備を続けてきた方々が、個人の信仰における決断の最後の仕上げとして、教会共同体と歩みを共にし始める時でもあります。

多くの小教区で、四旬節第一主日に洗礼志願式が行われますが、これは洗礼への準備が、個人的で内面的な準備の段階から、共同体としての歩みに向けた公の準備の段階に移行したことを象徴しています。四旬節の間、教会共同体は、新しく共同体の一員となろうとしている人たちと、一緒に歩む道のりを開始します。信仰における仲間を迎え入れるプロセスが始まったと認識ください。

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この一週間、日本の司教団は定例司教総会を行いました。今回は、昨年12月に司教叙階されたアンドレア・レンボ司教様にとって、初めての司教総会でした。日本の司教全員が集まり、様々な課題について議論し、また共に学び合いました。議決などについては、今後、カトリック新聞などで広報されることになりますので、そちらをご覧ください。なおレンボ司教様は司教団の中で、司祭生涯養成委員会のメンバーとして関わってくださることになりました。わたしたち司教団のためにお祈りくださっている皆さまに、心から感謝申し上げます。

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先日の月曜日、2月12日午前中に、東京教区内で活動するカトリックスカウトが東京カテドラルに集まり、BP祭ミサが捧げられました。ミサは私が司式いたしました。久しぶりに聖マリア大聖堂に一杯のスカウトが集まり、互いの絆を確認しました。BP祭は、スカウト運動の創始者であるロバート・ベーデン=パウエル卿の誕生を祝って、その誕生日が1857年2月22日であることから、それに近い日を選んで行われています。今年は5月に代表団がケルンを訪問することにもなっており、その方々へのエールも送られました。

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既報ですが、この東京のカトリック・スカウトの代表団は、ケルンでの「アルテンベルグの光」の行事に参加することになっています。「アルテンベルグの光」については、こちらのリンクから、東京教区ニュースの記事をご覧ください

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第156回、四旬節第一主日のメッセージ原稿です。

四旬節第一主日B
週刊大司教第156回
2024年2月18日

マルコ福音は、イエスの物語を、簡潔に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた話ではじめ、そして荒れ野における40日の試練の物語と続けています。この簡潔な荒れ野の試練の物語のなかで、福音は三つのことを伝えようとしています。

まず第一に、イエスは聖霊によって荒れ野へと送り出されました。荒れ野とは、普通で安全な生活を営むことが難しい場であります。いのちを危機に陥れるありとあらゆる困難が待ち構えていることが容易に想像できるにもかかわらず、イエスは聖霊の導きに身をゆだねました。聖霊の働きと導きに恐れることなく完全な信頼を寄せるイエスの姿勢が記されています。

そして第二に、40日にわたって荒れ野でサタンの誘惑を受けられたと記されています。逃げ出すことが出来たのかも知れません。しかし聖霊の働きと導きに完全に身をゆだねたイエスは、困難に直面しながらも、御父の計画に信頼し、その計画の実現のために配慮される御父への信頼のうちに、希望を見いだしていました。

三つ目として、イエスは荒れ野での試練の間、人の命を脅かす危険に取り囲まれながらも、天使たちに仕えられていたと記されています。すなわち困難に直面する中で、聖霊の働きと導きに身をゆだね、御父の計画に信頼を置くものは、神の愛に基づく配慮に完全に包み込まれ、それがために命の危険から守られることが記されています。

荒れ野での40日間の試練は、身体的な困難を乗り越えただけではなく、また心の誘惑に打ち勝っただけではなく、信仰、希望、愛を改めて見いだしそれを確信し、そこから力を得た体験です。信仰、希望、愛に確信を見いだしたとき、イエスは福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見いだしました。

四旬節は、わたしたちが信仰の原点を見つめ直し、いつくしみに満ちあふれた御父の懐にあらためて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。わたしたちも、信仰、希望、愛に生きている自分の信仰を見つめ直すことで、神のあふれんばかりの愛といつくしみのうちに生かされていることを改めて確信し、その確信に基づいて、この世界で福音をのべ伝えるためのふさわしい「時」を見いだすよう招かれています。

そのために教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行いで、自分の信仰の振り返りをするように呼びかけています。また四旬節におこなわれる献金は、特に教会共同体の愛の業を目に見えるものとする象徴です。日本の教会では、四旬節の献金はカリタスジャパンに送られ、国内外の愛といつくしみのための業に使われていきます。

みなさん、この四十日の期間、互いに支え合う心をもって、愛の業のあかしの内に歩み続けましょう。わたしたちの信仰は知識だけで終わるものではありません。

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2024年2月10日 (土)

週刊大司教第155回:年間第6主日B


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メッセージでも触れていますが、2月11日はルルドの聖母の日であり、世界病者の日でもあります。

教皇様はこの日にあたり、世界病者の日のメッセージを発表されています。こちらをご覧ください

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、2月11日の午後2時から、カリタス東京が主催して、世界病者の日のミサが捧げられます。今年の司式は、アンドレア補佐司教様です。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第155回目のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第155回
2024年2月11日
世界病者の日

マルコ福音は、重い皮膚病を患っている人の、「御心ならば、私を清くすることがおできになります」という叫びに対して、イエスが「深く憐れんで」、奇跡的に病気を治癒した物語を記しています。

よく知られているように、このイエスの心持ち、すなわちここで使われる「深く憐れんで」という言葉の原語は、「はらわたが激しく動かされるさまをあらわす語」であります。つまり、病気であることだけではなくそれに伴って社会の中で周辺部に追いやられその存在すら否定されている人に対するイエスの深いあわれみといつくしみの心がこの言葉で明らかにされています。

主イエスによる病者のいやしは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その出来事が神の栄光を現していることは忘れてはなりません。しかし、同時に、さまざまな苦しみから救い出された人の立場になってみれば、それは人と人との繋がりから排除されてしまったいのちを、いやし、慰め、絆を回復し、生きる希望を生み出した業でもあります。孤独の中に取り残され孤立し、暗闇の中で不安におののくいのちに、歩むべき道を見いだす光を照らし、そのいのちの尊厳を回復する業であります。神が与えられた最高の賜物であるいのちの尊厳を明らかにしている、まさしく神の栄光を現し、神のいつくしみと愛を明確にする業であります。

今年の年間第六主日は、世界病者の日であります。1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた奇跡的出来事を記念する日です。聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。わき出る水は、ルルドの地で、また世界各地で病気の治癒の奇跡を起こすことがありますが、それ以上に、病気によって希望を失った多くの人たちに、いのちを生きる希望と勇気を生み出す源となっています。

この日を世界病者の日と定められた教皇聖ヨハネパウロ2世は、病気で苦しんでいる人たちのために祈りをささげるように招くと共に、医療を通じて社会に貢献しようとする多くの医療関係者や病院スタッフ、介護の職員など、いのちを守るために尽くすかたがたの働きに感謝し、彼らのためにも祈る日とすることを呼びかけました。この二つの意向を忘れないようにいたしましょう。

今年の世界病者の日のメッセージにおいて教皇フランシスコは創世記に記された「人が独りでいるのはよくない」という言葉を取り上げ、「関係性をいやすことで、病者をいやす」をテーマとされました。

メッセージで教皇は、「孤立することによって、存在の意味を見失い、愛の喜びを奪われ、人生のあらゆる難局で、押しつぶされそうな孤独を味わうことになる」と指摘し、その上で、「病者のケアとは、何よりその人の関係性、つまり神とのかかわり、他者――家族、友人、医療従事者――とのかかわり、被造物とのかかわり、自分自身とのかかわり、そうしたすべての関係をケアすること」なのだと強調されます。病気に苦しむ人の叫びを耳にして深く憐れまれたイエスに倣い、わたしたちも、イエスのいつくしみ深いまなざしを自分のものとするように、務めたいと思います。

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2024年2月 3日 (土)

週刊大司教第154回:年間第五主日B

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年の初めは普段以上に時間が早く過ぎ去る気がいたします。年度末ということもあるのでしょうが、あっという間に三ヶ月が終わって、呆然とすることがしばしばです。今年はご復活が三月の末日となっていますから、すでにあと数日で四旬節となります。いつにも増して、典礼の暦が早く進む年になりそうですが、ここは心を落ち着けて、霊的にはじっくりと歩むときとしたいと思います。

千葉県の白子にある十字架のイエス・ベネディクト修道院で、シスター・マリア・ファウスティナ小林清美さんが、2月2日、主の奉献の祝日に終生誓願を宣立されました。訪日中のアンゴラのゼフェリーノ大司教様他、チャプレンの野口神父様、西千葉・千葉寺・茂原の福島神父様、小田神父様が参加しました。おめでとうございます。

こちらのリンク記事は2年前に、茂原教会訪問後に修道院を初めて訪問させていただいたときの日記です。九十九里浜のすぐそばです。この修道会の特筆ずるべき特徴については、このリンク先の2022年の日記の後半をご一読ください。下の写真、わたしとゼッフェリーノ大司教のあいだがシスター・マリア・ファウスティナ小林、写真の右端が院長様。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第154回、年間第5主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第154回
2024年2月04日

マルコ福音は、カファルナウムで福音を告げるイエスの姿を描いています。「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」イエスは、権威のある言葉を語り、人々が驚くような業を行います。弟子となったシモンのしゅうとめの熱をさらせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取り憑かれた人が癒やしを求めてイエスのもとに集まってきた様子が描かれています。

もちろん病気の癒やしという出来事自体は奇跡であり、驚くべき出来事ですが、それ以上に、人生の中で困難を抱え、絶望に打ちひしがれている人たちが、イエスのもとで安らぎを得、生きる希望を見いだしたことにこそ、重要な意味があると思います。権威あるイエスの姿は、同時に愛といつくしみに満ちあふれた姿でもありました。

押し寄せてくる人生における困難を抱えた人たちを目の当たりにしたとき、イエスはそれを放置することはできなかった。いのちをより良く生きることを阻んでいる悪によってとらわれの身にある人たちを、その束縛から解放されました。

パウロはコリントの教会への手紙に、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」と記し、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と宣言しています。

パウロの宣教への姿勢は、イエスと全く同じように、上からの目線で教え導いてやろうという態度ではなく、困難を抱え希望を失っている人たちと同じ地平に立ち、全力を尽くして神の救いの希望に与ることが出来るようにと、束縛から解放しようとする、手を差し伸べる姿勢です。

だからこそイエスもパウロも、一つのところに留まって褒め称えられるのではなく、ひとりでも多くの人に生きる希望を生み出すために、全力を尽くして出向いて行かれます。教皇フランシスコが、教会は「出向いていく教会であれ」と呼びかけるゆえんです。そのイエスの姿に倣って、わたしたちも神の愛といつくしみを伝え、希望を生み出し続けるものでありたいと思います。

2月5日月曜日は、日本26聖殉教者の記念日に当たります。自分の十字架を背負ってついてきなさいと呼びかけられたイエスに忠実に生きることによって、主ご自身の受難と死という贖いの業に与り、それを通じていのちの福音を身をもってあかしされた聖人たちです。

聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。イエスの福音にこそ、すべてを賭して生き抜く価値があることを、大勢の眼前であかしされた方々です。すべてを投げ打ってさえも守らなくてはならない価値が、いのちの福音にあることをあかしされた方々です。

わたしたちはその、すべてを賭してさえも守り抜かなくてはいけない福音に生きるようにと、聖なる殉教者たちによって招かれています。全力を尽くして、絶望のうちにある人たちの元に駆け寄り、困難を生み出す悪の束縛から解き放ち、喜びと希望を生み出すために、出向いていく教会でありたいと思います。

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2024年1月27日 (土)

週刊大司教第153回:年間第四主日B

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今年の年間第四主日は一月の最後の後曜日となりました。東京教区にとっては「ケルン・デー」であり、教会全体にとっては「世界子ども助け合いの日」であります。

東京教区とケルン教区の友好関係は、今年で70年となります。それを記念した公式巡礼(4月にローマとケルンを巡る10日間)も企画され、さらにボーイスカウトの代表がケルンに招かれている企画もあります。東京教区とケルン教区の関係については、メッセージでも触れていますが、教区ホームページのこちらをご覧ください。(上の写真は、2018年12月にケルンを訪問した際、ケルン教区大司教のヴェルキ枢機卿様と)

また今年も、関口教会の第四主日午前10時の大司教司式ミサには、ドイツ語共同体や支援しているミャンマー共同体の方々も参加され、ケルン教区からも代表が参加します。また偶然ですが、私の長年の友人であるアフリカのアンゴラのフアンボ大司教区のゼッフェリーノ・マルティン大司教様が、ちょうど東京を訪問中で、この日のミサにご一緒いただけることになっています。その昔、私がまだガーナで働いていた当時、神学生だったゼッフェリーノ大司教様が、研修で、ガーナに来た頃からの知り合いです。一週間ほど滞在される予定です。アンゴラの教会のことも、どうぞ心に留めていただけると幸いです。

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今年10月に開催されるシノドスの第二会期に向けて、各国は5月15日までに報告書を提出するようにバチカンの事務局から要請されています。その第二会期に向けた日本における取り組みについて、司教協議会のシノドス特別チームが三つの提案をしていますので、それについては中央協議会のホームページのこちらをご覧ください

また1月25日に教皇様は、日本に駐在する新しい教皇大使を任命されました。新しい教皇大使はフランシスコ・エスカレンテ・モリーナ(Francisco Escalante MOLINA)大司教で、以前、参事官として数年間、日本に駐在されていた方です。詳しくはこちらをご覧ください

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第153回、年間第四主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第153回
2024年1月28日

イエスの言葉には、権威を感じさせる力があったと、マルコ福音は伝えています。「律法学者のようにではなく」と福音は記していますが、この言葉は何を象徴しているのでしょう。学んだ知識を教える律法学者は、自らの権威ではなく神の権威によって解釈を教える立場です。教え指導するという人間関係にあって、人間の弱さから解放されない律法学者は、いわばわたしたち人間の弱さと限界を象徴しています。時に自らの限界を認めず、謙遜さを失い、独断と偏見で判断し、あたかもすべての権威を持っているかのように他者に語り、行動するのがわたしたち人間です。

しかしイエスは真理そのものです。すべての権威は神にあります。完全完璧な立場からものを語り行動されるのが、神の子であるイエスです。だから人々は「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。そういえば本日の第一朗読の申命記には、神の命じていない言葉を語る預言者は死に値すると、モーセが語ります。真理を身に帯びていない者の言葉には、権威はありません。

わたしたちは、どのような言葉を語っているでしょうか。自分勝手な思いや欲望を充足させる言葉ではなく、神によって生かされているという謙遜さのうちに自らの限界を認め、イエスが権威を持って示された真理を身に帯びた言葉を語るものでありたいと思います。命を奪う暴力的な言葉ではなく、命を生きる希望を生み出す言葉を語りたいと思います。暗闇を生み出す言葉ではなく、光を掲げる言葉を語りたいと思います。他者を裁き、排除する言葉ではなく、受け入れともに歩む言葉を語るものでありたいと思います。攻撃する言葉ではなく、思いやりのうちにケアする言葉を語るものでありたいと思います。

1月の最終主日は、「世界こども助け合いの日」です。「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定」され、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげる日です。子どもたちの信仰における成長のために祈りましょう。

また東京教区にとっては、本日は「ケルン・デー」であります。

東京教区とケルン教区との歴史的な繋がりは、物質的な援助にとどまらず、互いの霊的な成長のためのパートナー関係です。この関係は,互いの教会が具体的に主の言葉を生きるようにと行動を促し、ミャンマーの教会への支援につながりました。

1954年、ケルン大司教区のフリングス枢機卿様は、戦後の霊的な復興を念頭に、自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする福音に基づく行動を提唱され、東京の支援に乗り出されました。わたしたちは毎年の「ケルン・デー」に、いただいたいつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身をささげることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげています。

私たちと共におられる神の言葉を具体的にあかしするキリスト者であり続けたいと思います。

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2024年1月20日 (土)

週刊大司教第152回:年間第三主日

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今日のメッセージでも触れていますが、年間第三主日は、神のことばの主日です。

中央協議会のホームページには、次のように解説が掲載されています。なお、こちらのリンク先の解説のページの下部にあるリンクから、教皇様の文書「アペルイット・イリス」をダウンロードして読むこともできます。

『教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』を、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布して、年間第三主日を「神のことばの主日」と名付け、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」ことを宣言されました。また、「神のことばの主日」は、キリスト教一致祈禱週間(毎年1月18日~25日)とも重なり、「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる」よう、エキュメニカルな意味を深めるものでもあります』

またこの解説にも触れられているとおり、1月18日から25日は、キリスト教一致祈祷週間です。今年のテーマは、ルカ福音10章27節から「あなたの神である種を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とされ、日本キリスト教協議会とカトリック中央協議会でともに準備した文書では、今年は特に、アフリカ西部のブルキナファソ(ガーナのすぐ北です)の教会に思いを馳せて祈りを捧げることが勧められています。今年は久しぶりに、東京での合同の一致祈祷会がカテドラルで開催されます。詳細はこちらのリンクへ。参加は自由ですので、多くの皆さんの参加をお待ちしております。東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で、1月21日の午後2時からです。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第152回、年間第三主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第152回
2024年1月21日

「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」

マルコ福音の冒頭には、馬小屋でのイエスの誕生の物語は記されていません。マルコはイエスの物語を、洗礼者ヨハネの出現を預言したイザヤの言葉、「荒れ野で叫ぶものの声がする」をもって始めています。さらにその直後にイエスの洗礼について記し、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という神のことばを記します。その直後にマルコ福音は、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と記しています。

すなわち、マルコ福音はその冒頭から、この世界に響き渡る声こそが神の意志を告げる声であり、イエスこそはその神のことばの受肉であって、その本性からして福音そのものであり、福音をのべ伝えることこそがイエスの人生そのものであることを明確にします。

ですから、イエスと弟子たちとの歩みは、議論や対話のうちに始まったのではなく、神ご自身からの一方的な宣言によって始まります。信仰はわたしたちの選択なのではなく、神からの一方的な呼びかけによって成り立っています。人間の都合から言えば、その場ですべてを捨てて従うことなど、とんでもないことです。この世の常識に従うなら、よく話し合って納得してから従うのかどうかを決めたいところです。しかしイエスはなんとも身勝手に、神の意志を言葉として発してこられます。一方的に呼びかけてこられます。同じ呼びかけは、日々わたしたちに対しても聖書のみ言葉の朗読を通じて行われています。その呼びかけに、わたしたちは応えているでしょうか。

教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。今年は1月21日が、「神のことばの主日」であります。教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちとともにとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しています(80)。

教皇は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘します。

第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。

それぞれの生きる場で、神のことばをあかしして生きるように、招かれているわたしたちは、日頃から、また典礼祭儀において、神のことばに耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心にそれを刻み込んであかしするものでありたいと思います。

 

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2024年1月13日 (土)

週刊大司教第151回:年間第二主日

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元旦に発生した能登半島を中心とする大地震は、時間が経過するにつれて、その被害の甚大さが明らかになりつつあります。

被災された多くの皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

カトリック教会は、被災地を管轄する名古屋教区と、カリタスジャパンの連携の中で、被災地の支援に当たって参ります。またその活動にあっては、東日本大震災の教訓を元に設置された司教協議会の緊急対応支援チーム(ERST)が名古屋教区が金沢に設置する拠点と協力して、支援活動の調整にあたります。今後の対応についての報告が、中央協議会のこちらに掲載されていますので、ご覧ください。司教協議会としては、1月11日に開催された常任司教委員会で、名古屋教区の松浦司教様とカリタスジャパンの責任者である成井司教様から直接説明を受け、今後もできる限りの支援をしていくことで合意しています。

1月14日は、アンドレア司教様が、司教叙階後に初めて堅信式を行う日となります。市川教会で行われる京葉宣教協力体の堅信式です。堅信を受けられる皆さま、おめでとうございます。

毎年1月18日から25日まではキリスト教一致祈祷週間とされています。今年の東京における集会は1月21日日曜日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で行われます。コロナ禍でオンラインが続いていましたが、久しぶりに実際に集まってお祈りができるようになりました。今ある教会を解体して組織として全く新たな一つの教会とすることは即座に可能ではありませんが、同じ主に従うものとして、互いの壁を乗り越え、耳を傾けあい、協力しあいながら、共に福音の実現のための道を歩むことは不可能ではありません。一致の理想の道を諦めることなく、ともに歩んでいきたいと思います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第151回、年間第二主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第151回
2024年1月14日

主の神殿で寝ていた少年サムエルに、主は直接声をかけ呼び出されます。

サムエル記は、少年サムエルがたびたび神からの呼びかけを受けた話を記し、それに対して祭司エリが、「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と応えるようにと指示をした話を記します。謙遜に耳を傾けたときにはじめて、神の声がサムエルの心の耳に到達しました。

教会がいまともに歩んでいるシノドスの道も、同じことを求めています。霊的な会話という分かち合いの中で、互いに語る言葉に耳を傾け、議論することなくその言葉を心に留め、さらに耳を傾けて祈るときに、初めて聖霊の導きを見いだす準備ができる。決して、おまえはどうしてそんなことを語るのだと議論することではなく、耳を傾けるところからすべては始まります。

インターネットが普及した現在、わたしたちはその中で、耳を傾けることよりも、議論し、論破することに快感を感じてしまっているのではないでしょうか。そこに神の声は響いているのでしょうか。

「来なさい。そうすれば分かる」とイエスに呼びかけられたヨハネの二人の弟子も、納得できる証拠を求め徹底的にイエスと議論したからではなく、イエスの存在とその語る言葉を心に響かせたからこそ、イエスがメシアであることを確信しました。だからこそ福音は、「どこにイエスが泊まっておられるかを見た」と記し、徹底的に議論したとは記しません。サムエルの「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と言う態度に通じる謙遜さです。

今年の世界平和の日に当たり、教皇様は視点を大きく変え、「AIと平和」というメッセージを発表されました。それは尊厳ある人間と、その人間が生み出した技術を対比させるなかで、人間とは一体何者であるのかを改めて見つめ直そうという呼びかけです。

教皇様は、「死ぬことを免れえない人間が、あらゆる限界をテクノロジーによって突破しようと考えれば、すべてを支配しようという考えに取りつかれ、自己を制御できなくなる危険があります。・・・被造物として、人間には限界があると認識しそれを受け入れることは、充満に至るため、さらにいえば贈り物として充足を受け取るために、欠いてはならない条件です」と記して、自らが生み出した技術に過信し、逆にそれに支配されることのないようにと警告されています。

「どうぞお話しください。しもべは聞いております」という、謙遜な態度で、他者の声に、そして神の声に耳を傾けて参りましょう。

 

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2024年1月 6日 (土)

週刊大司教第150回:主の公現の主日

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一年の始まりに能登半島を中心とした地震が起こり、また航空機の事故もありました。この事態に巻き込まれた多くの方々にお見舞い申し上げます。また亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。

教皇様からは、国務長官名でお見舞いの電報が届きまた水曜日の謁見でも、教皇様ご自身からのお見舞いの言葉と祈りの呼びかけがありました。教皇様に感謝いたします。

能登半島は名古屋教区に属しています。時間とともに、全体の被害状況が明らかになりつつありますが、教会の施設も被害を受けていると報告されています。名古屋教区を中心に、司教団の緊急支援チーム、そしてカリタスジャパンが連携して、今後の救援事業にあたっていくことになります。具体的な対応については、今後、中央協議会のホームページやカリタスジャパンのホームページから報告があることと思います。名古屋教区からの報告は、こちらのリンクです

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第150回目のメッセージ原稿です。

主の公現の主日
週刊大司教第150回
2024年1月07日

新しい年がはじまりました。この一年が神の平和が支配するときとなりますように祈ります。

教皇フランシスコが「ラウダーテ・デウム」に記すように、一人でも多くの人が「わたしたちの住まいである世界との和解のこの旅路に加わり、それぞれ固有の貢献で世界をより美しく」する務めに目覚める年となりますように。

占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。救い主の誕生の告知とは、本来であれば喜びを持って迎えられたことでしょう。しかしこの世の王として人々を支配しているヘロデにとっては、自らの立場を危うくする脅威でしかありません。神の支配が実現することで、自分は権力を失うことになるのです。この世界で権勢を誇り権力の行使を謳歌する者は、真の世界の王である神の支配の実現の可能性を耳にして、喜びではなく不安しか感じることができません。真理の前では、自らの不遜さが明らかになってしまうからに他なりません。

「ラウダーテ・デウム」の終わりに、教皇フランシスコは、「人間は、神に代わる存在になろうとするとき、自分自身の最悪の敵になる」と記しています。この世の権力に溺れ、神の存在を忘れたとき、その自分自身の選択が、結局のところ自らのいのちを危機にさらすような状況を招くのだと、教皇フランシスコは、共通の家を守るための環境問題への取り組みを先送りしようとする人類の怠慢を指摘してやみません。

教皇は、「本物の信仰は、人間の心を強めるばかりでなく、生き方を変え、わたしたちの目標を変え、他者への関わりや全被造界との関わりを照らし導いてくれることを、わたしたちは知っている」と記します(61)。

占星術の学者たちは、旅路の困難を乗り越え、光に導かれて、救い主のもとにたどり着き、宝物をささげました。闇のなかにあって、輝く光こそが希望を示していることを確信した学者たちは、すべてを神にささげて神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従って行動していきます。

神の光に、すなわち本物の信仰に導かれたとき、占星術の学者たちは生き方を変え、導きに従うことで、真理の光へと到達しました。

教会は、暗闇に光として輝く人となられた「神の言」の導きに身を委ね、常に変化を恐れることなく挑戦を続ける、光をあかしする存在であり続けたいと思います。

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2023年12月30日 (土)

週刊大司教第149回:聖家族の主日

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2023年の最後の日は日曜日となり、教会はこの日、聖家族の主日を祝います。

一年の終わりにあたり、東京教区の皆さまに心から感謝申し上げます。皆さまのお祈りに支えられて、一年間、教区の司牧や運営にあたることができました。また今年は年末に、補佐司教が誕生しました。新しい年には、わたしとアンドレア司教様と一緒に、教区で働いてくださる司祭修道者、そして信徒のみなさんとともに、東京教区の宣教と司牧の一層の充実のために取り組んで参りたいと思います。この一年の皆さまのお祈りとご協力に感謝すると共に、新しい年、2024年にあっても、今年と同様に、霊的に歩みを共にしていただければと思います。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第149回、聖家族の主日のメッセージ原稿です。

聖家族の主日
週刊大司教第149回
2023年12月31日

2023年の最後の日は、日曜日となりました。この一年を締めくくる最後の日は、聖家族の主日です。わたしたちと共にいてくださる神は、人となられ、家族のうちに誕生されました。

教皇フランシスコは使徒的勧告「愛のよろこび」において、「ナザレの、人間の家庭へのみことばの受肉は、その新しさによって世界の歴史を揺り動かします(65)」と記しています。教皇様は、第二バチカン公会議の教会憲章が「家庭の教会」という言葉を使って信仰者の家庭に聖なる意味と価値があることを再確認し、「家庭が健全であることは、世界と教会の将来にとって、決定的に重要なことです(31)」と記します。

同時に教皇様は、そうは言いながらも、「今日の家庭の現実に、それが置かれているあらゆる複雑さを含め、光の面も影の面も見ています(32)」と記し、様々な危機に直面して崩壊している家庭の課題にも触れています。その上で教皇様は、「家庭が、いのちが生まれ、育まれる、いのちの聖域であるならば、そこが、いのちを否定し、破壊する場になってしまうという事態は、恐るべき矛盾である(83)」と強調されます。

いのちが否定され破壊される環境とは何でしょう。しばしば耳にする家庭内の暴力や虐待によって、子どもたちのいのちが危機にさらされている状況もその一つです。同時に教皇様は、移民や難民となること、戦争や紛争に巻き込まれること、貧困や劣悪な環境に放置されることも、家庭においていのちが否定され危機にさらす環境であることを指摘されます。わたしたちの国においても、様々な要因が複雑に絡み合う中で、家庭の崩壊や、家庭におけるいのちの危機が現実の課題として存在しています。

わたしたちには、いのちをコントロールする権利は与えられていません。それは、唯一、いのちの創造主である神の手の中にのみある権利です。

この一年を振り返るとき、世界各地では紛争状態の中でいのちが暴力的に奪われる状況が数多く見られ、その中で特に、大切にされ豊かに育まれなくてはならない子どもたちのいのちが暴力的に奪われる事態も発生しています。とりわけこの降誕祭の期間、わたしたちは神の言葉が人となられた聖地において、いのちを奪う暴力が吹き荒れていることを憂慮せざるを得ません。

また貧富の格差が拡大する中で、さらには環境が破壊される中で、家庭の存続が危うくなり、守られるべき幼子たちのいのちが危機に直面する事態も広く見られます。

一年を締めくくるこの日、神が人となられ、ナザレの聖家族のもとに誕生されたことを思い起こしましょう。その家庭でイエスが30年間、豊かに育まれたことを思い起こしましょう。いのちを否定し、破壊するあらゆる状況に、勇気を持って立ち向かうことができるように、聖霊の導きを願いましょう。 新しい年が、豊かに祝福された一年となりますように。

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2023年12月23日 (土)

週刊大司教第148回:待降節第四主日B

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まもなく降誕祭です。

今年は待降節第四主日が12月24日のため、待降節第四週は一日しかありません。典礼の暦上、日没後は翌日ですから、24日の夜に主の降誕をお祝いします。

寒い毎日が続いており、わたしも司教叙階式あたりから喉の調子を崩し、今週は体調不良が続いていました。明日、24日の東京カテドラル聖マリア大聖堂は、午後5時がアンドレア・レンボ司教様司式、午後7時が天本神父様司式、午後9時が大司教司式ミサとなります。なおこの日、カテドラル構内は駐車ができませんので、公共交通機関でおいでください。有楽町線江戸川橋、または護国寺、山手線目白駅からバスで椿山荘前まで15分ほどです。

毎年、この時期になると、フィリピンではSimbang Gabiと呼ばれる、クリスマスに向けたノベナ(9日間の祈り)のミサが捧げられると言います。フィリピンでは早朝に行われているのだそうです。東京でもこのミサが、フィリピン出身お方が多い地域で捧げられています。日本の社会事情を考慮して、このミサは夕方に行われるところが多いと聞いています。わたしも毎年、そのうちの一つである目黒教会捧げられるミサの一回を担当させていただいています。例年は最初の日のミサを司式することが多かったのですが、今年は補佐司教の叙階式日程などもあり、12月20日の夜7時からのミサを司式いたしました(冒頭の写真)。ミサは英語です。音楽担当の奉仕者の方も素晴らしい歌を聴かせてくださり、そのほか司会、朗読や侍者など、多くの奉仕者の方の協力でミサは成り立っています。これからも続けられることを願うと共に、日本の教会でも同じように、降誕祭前の9日間の祈りのミサを、日本なりに捧げることができれば良いと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第148回、待降節第四主日のメッセージ原稿です。

待降節第四主日B
週刊大司教第148回
2023年12月24日

まもなく主の降誕のお祝いです。今年は24日が日曜となったため、待降節第四週は一日で終わってしまいます。今日の福音は、天使によるお告げの部分ですが、神の一人子が人となりわたしたちと共にいてくださるためには、聖母の強い信仰と謙遜さが不可欠であったことを教え、またわたしたちがそれに倣うようにと勧めています。

マリアは「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という言葉を持って、神の母となりました。天使ガブリエルからのお告げに対して、マリアは「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と言う、強い否定の言葉を口にします。そこにはこの理不尽な出来事に対するマリアの困惑の度合いが感じられます。しかしマリアは、「神に出来ないことはなに一つない」と言う天使の言葉に信頼を置き、神の計画にその人生をゆだねることを決意します。

聖母マリアの決断は、この世界を支配しているのは人間ではなくて、世界を創造された神であるという、明確な謙遜の態度と信仰における確信に基づいています。

この世界を支配しているのは一体誰なのか。現代社会は大きな思い違いをしています。世界を支配するのは人間の知恵と知識ではなく、創造主である神であり、わたしたちは常にその計画の中で生かされているのだという事実を忘れ、あたかもこの世界のオーナーであるかのように振る舞っています。その結末が環境の破壊であり、いのちへの暴力的な攻撃です。聖母マリアがお告げを受けたその地、聖地は、いま暴力によって支配され、神の賜物であるいのちが暴力的に奪われる不正義が横行しています。その世界に対して、聖母マリアはご自分の人生を通じて、この世界を支配するのは創造主である神であることを明確に宣言しています。

聖母マリアに倣い、神の計画の実現のために身を委ね、その実現のために行動することが、わたしたちには求められています。それはわたしたちも聖母マリアのように、「神に出来ないことは何一つない」という信仰に生きているからに他なりません。平和を諦めてはなりません。

聖母マリアがその胎にイエスを宿したように、教会も、主ご自身が「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と言われた約束を信じ、教会にキリストが共におられ、歩みを共にしておられることを信じています。

 

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