カテゴリー「週刊大司教」の44件の記事

2021年9月18日 (土)

週刊大司教第四十四回:年間第25主日

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9月19日、年間第25主日です。

この時期、9月の第3月曜日が敬老の日と定められているため、一番近い主日に、教会でも高齢の方への祝福などの行事を行ってきたところが多いかと思います。大変残念ですが、今年は公開ミサを自粛しているため、こういった行事も中止となっています。カテドラルから配信させていただく9月19日の主日のミサでは、いつも通り教区の皆さんのためにミサを捧げますが、特に敬老の日に因んで、人生の大先輩である兄弟姉妹の皆さんの上に神様の祝福と守りがあるようにお祈りいたします。(上の写真は、教皇様が海外などへ司牧訪問に出かける前後に必ず訪れて祈りをささげるサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の「ローマ人の救い」の聖母)

国民の祝日に関する法律には、この日は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日であると記されています。今日のメッセージでも触れていますが、教皇様は7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。教皇様の意図は、もちろん日本の敬老の日と同様の思いも込められていますが、それと同時に、一人ひとりのいのちに与えられている使命には定年はないことも強調されています。すなわち、年齢や健康や体力の面から、社会の中心から徐々に退いたとしても、福音を告げしらせることや福音に生きることには定年はない。その年代に応じた役割があることを指摘されています。

この祈願日の典礼の手引きには、「若者も高齢者も、祖父母も孫たちも、同じ家庭に属していてもいなくても、わたしたち全員は「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」ということを理解するため」に、この日は定められていると記されています。それぞれに与えられている使命を自覚し、今いのちを生きている状況に応じて、キリストの一つの体の部分としての役割を果たしていきたいと思います。

政権を担っておられる自民党の総裁選が始まっており、その後には新しい首相の誕生とさらには衆議院議員の選挙も控えています。これまで積み重なってきた国内のさまざまな事情と、さらには国際的な関係など、リーダーが対処しなければならない課題は大きく、国家の舵取りは難しいことだと思います。共通善や人間の尊厳の実現に向かって少しでも近づく国家であるように、聖霊の照らしと導きを、そして政治のリーダーたちへの叡智と励ましを、この時期、特に祈りたいと思います。

以下、本日午後6時配信の、「週刊大司教」第四十四回、年間第25主日のメッセージ原稿です。

年間第25主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第44回
2021年9月19日

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に従い真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、平和は実現せず、いのちを奪うような混乱が支配すると、使徒は指摘します。

マルコ福音は、誰が一番偉いのかと議論する弟子たちに対するイエスの言葉を記しています。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」というイエスの言葉は、弟子たちに対する回答と言うよりも、この世への警句であります。神が良しとされる価値観は、弟子たちが捕らわれているような、この世の価値観とは全く異なっているのだと言うことを悟らせようとする言葉です。受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。

その人生にこそ、自らが創造された人類への愛といつくしみが具現化していると頭で理解はしても、心情的にそれを素直にその通りだと認めることは難しい。もっとほかの方法があるだろうと思ってしまいます。しかし神の常識は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果にこそ、神の愛といつくしみがあるとするのです。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、わたしたちは神の愛といつくしみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

日本では明日9月20日が、敬老の日とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。

教皇様は今年から、7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。この機会に、そう定められた教皇様の意向を振り返ってみたいと思います。

教皇様はこの祈願日に向けたメッセージにこう記しておられます。

「わたしたちの孤独は、主にとってどうでもよいことではありません。イエスの祖父である聖ヨアキムも、子どもがいなかったために共同体から孤立していたと伝えられています。彼の人生は、妻アンナ同様、無益なものとみなされていました。けれども主は天使を遣わして彼を慰めました」

その上で教皇様は、「このパンデミックの数か月のように、何もかも真っ暗に思えるときでも、主は天使を遣わし、わたしたちの孤独を慰め続け、「わたしはいつもあなたとともにいる」と繰り返しておられます」と述べておられます。

そして、主が共にいてくださるわたしたち一人ひとりには、年齢に関係なく、使命があるのだとして、こう記します。

「いくつであろうと、仕事を続けていようがいまいが、一人暮らしだろうが家族と一緒だろうが、若くして孫をもとうが老齢になってであろうが、自立できていようが支援が必要だろうが、関係ありません。福音を伝える務め、孫たちに伝統を伝える務めに定年などないのです」

社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音をあかしする生活には、定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音をあかしする業を続けてまいりましょう。

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2021年9月11日 (土)

週刊大司教第四十三回:年間第24主日

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残念なことに、現在の緊急事態宣言は9月30日までの延長となりました。緊急事態宣言とともに自動的に公開ミサの自粛に入る教区もある中、東京教区では、小教区の現場の皆さんのご協力で感染対策に取り組み、できる限りミサを続けるようにしてきました。昨年の最初の公開ミサ自粛以降は、原則として小教区でのミサの公開を継続してきました。感染対策にご協力いただいた小教区の現場の方々に、心から感謝いたします。

しかしこの8月に、検査の新規陽性者が大幅に増加し、自宅療養や入院される発症者も増加し、さらには重症者も200名をはるかに超える人数が続いたこと、さらにはいわゆる変異株による感染が課題として浮かび上がってきたことなど諸要素を勘案し、今回の感染症が昨年初めに始まってから二度目となる、東京教区における公開ミサの自粛に踏み切りました。

もとより、ワクチン接種に関しては、教皇様を始めわたし自身も受けていることや、教皇様の接種を強く勧める言葉もありますので、わたしとしては接種を前向きに受け止めていますが、体調やアレルギーなどで受けることが出来ない方、さまざまな考えから受けないことを選択される方もおられますので、教区として接種を義務化するような判断はしていませんし、今後もするつもりはありません。接種の義務化を求めないのですから、ワクチン接種の有無を教会活動参加の可否に援用することもいたしません。

全体として状況は良い方向に向かっているという判断の声を多く聞くようになりました。今般、9月30日までの緊急事態宣言の延長が決定されたことで、東京教区におけるミサの公開に関してあらためて判断することにしました。一昨日の時点では、全体の状況が徐々に好転しているのは確かですが、入院や療養が必要な方はまだまだ多く、重症者の方も多くは回復されていません。やはり今しばらくは慎重な行動が必要と判断いたしました。

これまで幾たびも繰り返してきたことですが、教会はミサを放棄したわけではありません。ミサは続けられています。一人ひとりのキリスト者の霊的成長のために聖体祭儀は不可欠であると同時に、それは独り個人の信心ではなく、教会共同体としての行為であります。昨年3月9日にわたしはこうメッセージを記しました。

「ミサの中止は、上記のように『公開のミサ』の中止であって、教区内の小教区や修道院にあっては、「公開されない」形で、ミサが通常通り司祭によって毎日捧げ続けられています。教区共同体内から、ミサが消えてしまったわけではありません。司祭はたとえ一人でミサを捧げたとしても、すべては「公」のミサとして捧げるからです。教皇ヨハネパウロ2世の回勅『教会に命を与える聖体』に、こう記されています。
『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』

わたしがミサ公開自粛期間に、自ら司式する主日ミサをカテドラルから配信する一番の理由は、そのミサが、東京教区という共同体全体のミサであることを象徴するためでもあります。わたしはともに祈ってくださる教区の皆さんと霊的に繋がれながら、教区の皆さんとともに、教区共同体の行為として、ミサを捧げます。

どうか困難な状況からの解放を求め、教会共同体の霊的な繋がりの中で、ともに祈り求めましょう。この困難が、わたしたちの教会共同体を、これまで以上に堅固な存在としてくださるように、わたしたちをその体における一致へと招かれる主に信頼して、祈り続けましょう。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第四十三回のメッセージ原稿です。

年間第24主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第43回
2021年9月12日

先週の日曜日9月5日に、パラリンピックが閉会式を迎えました。先に開催されたオリンピックとともに、感染症が終息しない中で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありましたし、実際に参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思います。わたし自身もかなりの不安を抱いておりましたし、感染症に関して社会への影響があったのかどうかは、後にならなければ判明しないのかもしれません。

障がいと共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、その大会が象徴する価値観からも世界にとって重要な出来事であると思うのですが、オリンピックと比較すれば注目度は高いとは言えず、加えて今回の事態でそれがさらにかすんでしまったのは残念です。

パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、スポーツイベントを超えて社会全体へ重要なメッセージを発信していると言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、勇気、強い意志、インスピレーション、公平であります。

同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。

教会はすべてのいのちが神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。またわたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならないと主張しています。残念ながら、多様性を認めながら共に支え合って生きるのではなく、分断し排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって垣間見られます。その社会に対して、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、連帯のうちにともに支え合おうという、いのちを守る社会の実現を呼びかけています。

イザヤは、この世によって排除され迫害されるいのちに対して、そのいのちを愛し守られる創造主が、常に共にいて守られることを記しています。

使徒ヤコブは、行いが伴わない信仰は、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。その上で、「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。

マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、方々で耳にする主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と迫ります。わたしたちは、いま、主によって回答を迫られています。わたしたち一人ひとりは、一体何と応えるのでしょう。わたしにとって、主イエスとは何者なのでしょうか。

わたしたちは、いのちを与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神のいつくしみを、愛を、具体的にわたしたちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。主こそわたしたちの救い主と、ペトロと一緒に応えるのであれば、わたしたちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべてのいのちが神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 

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2021年9月 4日 (土)

週刊大司教第四十二回:年間第23主日

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東京は涼しい9月の始まりとなりました。年間第23主日、週刊大司教は第42回目となります。

政治はめまぐるしく動こうとしていますが、その間の感染症対策は継続しています。東京教区では、主に東京都において毎日発表される検査の新規陽性者数、発症日別の感染者数、重症者数、死亡された方々などの数字を参考にしながら、対応を検討していますが、現時点では収まる方向へ向かいつつあると思われます。緊急事態宣言は、予定では9月12日までとなっていますが、その後に延長されるという話も伝わってまいります。教区としての公開ミサの自粛を12日以降度のようにするのかに関しては、教区のホームページで公示しておりますので、参照ください。

以下、本日9月4日(土)午後6時に配信した週刊大司教第42回目のメッセージ原稿です。

年間第23主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第42回
2021年9月5日

イザヤ書は、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。・・・神は来て、あなたたちを救われる」という神の励ましの言葉を記しています。

感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、わたしたちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧きいで」るように、不安におののく者に希望を生み出し、いのちが生かされる喜びを記します。

マルコ福音は、このイザヤの予言の実現として、イエスがなさった奇跡の業を記しています。イエスは「エッファタ」の言葉を持って、耳を開き、口がきけるようにされたと記されています。さまざまな困難を抱えていのちを生きていた人に、希望と喜びを生み出した奇跡です。

使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かにわたしたちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって、いのちが豊かに生かされていることにあるのだと指摘します。

わたしたちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。わたしたちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、わたしたちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。わたしたち一人ひとりのいのちが豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。だからこそ、わたしたち一人ひとりには今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が必要です。

ところで、教皇フランシスコは、2015年に回勅「ラウダート・シ」を発表され、教会が共通の家である地球環境のさまざまな課題に真摯に取り組むことの重要性を強調されました。その啓発と霊的な深まりのため、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定め、アシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の月間、「被造物の季節(Season of Creation)」としています。

日本の教会も、2019年の教皇訪日に応える形で、この期間を「すべてのいのちを守るための月間」とさだめ、昨年からさまざまな呼びかけを行っています。

教皇様は「ラウダート・シ」において、「総合的エコロジー」という言葉をしばしば使い、環境への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか、温暖化を食い止めようとかいう単独の課題への取り組みを意味するのではなく、全体としての「ともに暮らす家を大切に」することであると強調されます。そのため、いのちに関わるさまざまな課題を総合的に考えなくてはならず、究極的には、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことが求められています。

すべてのいのちを大切にせよと命じられる神の言葉を心に刻むために、主の「エッファタ」という力強い言葉によって、心の耳を開いていただきましょう。神の言葉に心を向けましょう。

 

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2021年8月28日 (土)

週刊大司教第四十一回:年間第22主日

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8月の最後の主日、年間第二十二主日です。土曜日夕方配信の週刊大司教も第41回目です。(上の写真は、師イエズス修道女会のシスター作品)

ご存じのように、東京教区では9月12日(日)までの小教区でのミサを、非公開としています。大変申し訳ないと思いますが、どうかご理解ください。

聖体拝領についてのご質問をいくつかいただいていますが、基本的に御聖体はミサの中でいただくのですが、病気の時など事情がある場合には、司祭に依頼して他の機会に拝領することが出来ます。現在は、ミサが非公開になっていますし、信徒の皆さんには主日のミサにあずかる義務を免除するという「通常ではない」状態であります。通常ではないのですから、信徒の皆様にあっては、ミサにあずかれない中で、聖体拝領を司祭に直接お願いすることができます。ミサ以外の時にも、司祭は個別に聖体を授けることが出来ますから、直接、小教区の司祭にご相談ください。

それから聖歌に関するお問い合わせもいただいています。通常、youtubeの関口教会アカウントから配信される主日ミサは、原則として関口教会の信徒を対象としていますので、聖歌なども関口教会で通常歌われる聖歌が関口教会の聖歌隊によって歌われます。日本の教会では、典礼聖歌集とカトリック聖歌集が主に使われていますが、教会によっては他の歌集や独自の歌集を採用しているところも少なくありません。通常の日曜日の配信に関しては、関口教会の独自の配信ですので、配信ミサにあずかる方の手元に歌集がない可能性に関しては、御寛恕ください。譜面を画面上に出すことは、さまざまな制約があるため、出来ません。

しかし、現在のようにミサの公開が中止となっている間は、関口教会のyoutubeアカウントから日曜10時のミサを配信しますが、これは大司教司式で、先唱、朗読、聖歌なども関口教会ではなくイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。こちらは、ミサの配信の対象をすべての方にしていますので、聖歌もできる限り、お手元に聖歌集がある歌にするよう努めます。ただ聖体拝領時には、一緒に歌うと言うよりも感謝の黙想の助けとして聞いていただきたいので、一般の歌集にない歌も使われます。できる限り譜面が手元にあるような聖歌を使うように努力いたします。なお譜面を画面上に映し出すことは、さまざまな制約があるため出来ません。

なお、週刊大司教に関しては、始めの歌、途中の演奏、終わりの歌のすべてが、わたしの作曲ですので著作権の問題はありません。演奏者名は最後に短いですがクレジットされています。許可いただいた演奏者の皆さん、ありがとうございます。

間もなく9月です。9月1日から10月4日までは、「すべてのいのちを守る月間」です。これについては9月一日付けで、公示文書を出しますので、後日、東京大司教区ホームページからご覧ください。

また2023年秋の通常シノドス(世界代表司教会議)にむけた、教区での準備も始まりますが、これについても上記同様、9月1日付けで、公示文書を出しますので、後日、東京大司教区のホームページをご確認ください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

年間第22主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第41回
2021年8月29日

申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るようにと命じられた話を記しています。さらに、掟と法を守るというその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになるとも記します。すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけではなく、神の栄光を具体的に表すためであり、新約の言葉で言えば、福音宣教の業であります。

使徒ヤコブは、わたしたちの心に植え付けられた神のことばこそが神からの賜物であり、その言葉は救いを与える真理の言葉であると記します。その上で使徒は、心に植え付けられた御言葉を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。

マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対して福音は、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘したイエスの言葉を記します。

マタイ福音の5章17節には、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。さまざまな掟や法が定められた背後にある理由、すなわち神の望まれる生き方に近づくための道しるべとして与えられた役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

あらためて言うまでもなく、わたしたちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記します。

「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。(119)」

その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます。・・・一体、わたしたちは何を待っているのでしょうか。(120)」と記し、福音宣教者としての召命に、わたしたち一人ひとりが目覚めるように促します。

福音を告げるためには、わたしたち自身がそれに生きていなくてはなりません。わたしたちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、わたしたちが人生で出会う人をキリストとの個人的出会いへと招かなくてはなりません。

そのためにこそ、わたしたちは、神の言葉をただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

困難な状況が続く中で、不安の暗闇は、わたしたちを分断と対立へと誘います。わたしたちは神の言葉を行うものとして一致を実現するために、愛といつくしみを実践する者となりましょう。

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2021年8月21日 (土)

週刊大司教第四十回:年間第21主日

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週刊大司教も、今回で通算40回目の配信となりました。ご視聴いただいている皆様の、何らかの霊的な手助けとなっているのあれば、幸いです。現在のような社会の状況ですので、この週刊大司教の配信は、このままの形で、今年の待降節前あたりまでは継続する予定です。その後、同じ形で続けるかどうかは、状況を見ながら考えてまいります。

なお8月16日から9月12日まで、東京教区では、小教区におけるミサの公開を中止にしています。東京教区でミサの公開中止は、昨年来のコロナ禍にあって、今回が二回目です。公開を中止にしている間は、関口教会の日曜日午前10時のミサを大司教司式ミサとして、配信をいたします。

週刊大司教は、Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントから配信されます。このページに入って「動画」というところをクリックしていただくと、過去のすべての週刊大司教やロザリオの祈りをご覧いただくことが出来ます。

関口教会のミサの配信は、Youtubeのカトリック関口教会のアカウントです。こちらもそのページに到達して「動画」というところをクリックいただくと、過去の大司教司式ミサをご覧いただくことが出来ます。小教区のミサ配信動画は保存いたしませんが、大司教司式ミサに関しては動画を保存してあります。

なお霊的聖体拝領ではなく、実際に拝領を希望される方は、それぞれの主任司祭にご相談ください。なおカテドラルの関口教会では、以前より、毎週木曜日の午後1時から聖体礼拝を行っていますが、その際にも、司祭にご相談くだされば、聖体拝領が可能です。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第40回目のメッセージ原稿です。

年間第21主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第40回
2021年8月22日

ヨシュア記は、イスラエルの全部族に対して、ヨシュアが決断を求める様子を記しています。主に仕えるのか、またはほかの神々に仕えるのか、それは自由なのだから自分で決断せよと、ヨシュアは民に迫ります。もちろんイスラエルの民は、「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」と応えて、唯一の神への忠誠を誓います。神の偉大な力によって解放された救いの記憶が、心に刻み込まれていたからに他なりません。

ヨハネ福音は、同じように自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。自らをいのちのパンとして示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、人々は理解することが出来ません。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。

ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。日本の教会が、長年にわたって聖体拝領の前に唱えてきた言葉の一部です。その前には、マタイ福音の言葉から、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧」が唱えられます。

わたしたちは、主こそが永遠の命の糧であり、主こそいのちの言葉であり、主こそが真理へと至る道であると信じるように、決断を促されています。救いへと至る命の希望は、主イエスにしかあり得ないと信じるように、決断を促されています。いつまでも共にいると約束されたのは主ご自身であって、ヨシュアがそう迫ったように、わたしたちはそれを信じると決断することも、離れていくことも自由です。

わたしたちが、主の現存を信じ選び取る決断するためには、イスラエルの民の決断の根底に、エジプトからの解放の記憶があったように、わたしたち自身と主との出会いの体験の記憶が不可欠です。

それではわたしたちは、一体どこで主と出会うのでしょうか。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」と述べられる主は、生活の現実の中でのさまざまな出会いを通じて、とりわけ神の愛といつくしみを具体的にあらわす出会いを通じて、個人的に出会う機会を与えられます。同時に、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と約束された主は、共同体の交わりの中で出会いの機会を与えられます。しかしそれ以上に、主は御聖体における現存のうちに、わたしたちを個人的な出会いへと招いておられます。

わたしたちの信仰にとって、キリストとの生きた関係が重要だと、回勅「神は愛」に記された教皇ベネディクト16世は、2011年の主の晩餐のミサの説教で、こう述べています。

「聖体は、一人ひとりの人が深く主に近づき、主と交わる神秘です。・・・聖体は一致の秘跡です。・・・聖体は主とのきわめて個人的な出会いです。にもかかわらず、聖体は単なる個人的な信心業ではありません。わたしたちは感謝の祭儀をともに祝わなければなりません。主はあらゆる共同体の中に完全なしかたで現存されます」

主は常に、わたしたちとともに道を歩んでおられます。主は常に、わたしたちを出会いへと招いておられます。その主に留まると言うわたしたちの決断を、共同体の決断を、待っておられます。

 

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2021年8月14日 (土)

週刊大司教第三十九回:聖母の被昇天

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今年は聖母被昇天祭が主日と重なりました。8月15日の日曜日は、聖母の被昇天です。

東京教区ホームページに掲載した公示のとおり、大変残念ですが、ミサの公開を自粛することにいたしました。期間は8月16日から4週間で、9月12日の日曜まで。それ以降をどうするのかについては、9月5日の日曜までにお知らせいたします。詳しくはホームページに掲載の公示をご一読ください。

できる限り秘跡にあずかる機会を提供することは教会の務めですから、ミサの公開を自粛することは本来あってはならないことです。皆様のご協力で、度重なる緊急事態宣言下にあっても小教区における感染対策をしっかりと実施してきたことで、ミサにあずかる皆さんが感染したという事例は報告されていないのですが、信徒の方で感染者が出たという報告は受けています。小教区の事情に応じて最終的には主任司祭が判断できるようにしておりましたので、すでにミサの公開を中止にしていた小教区も、教区内には複数存在しますが、現在の対応で今回の感染の波も乗り切ることが出来るだろうと考えておりました。

しかしそれは甘い判断だったと思います。この数日、毎日報告される検査においての新規陽性者数が高い数字を続けていることや、重症者が東京都で200名を超えていること、ワクチン接種が進んでおり高齢者の重症化は減少したものの、若い世代の重症者が増加していること、さらにこの数日の行政からの人流をさらに減らすなどの強い措置が次の2週間ほどは必要だという呼びかけもあり、これらを踏まえてこの二日ほどで司祭評議会や司教顧問団の意見を聞いた上で、今回の決定をいたしました。即日ミサを中止にすることも考えましたが、多くの皆さんに周知するために主日にアナウンスすることも必要ですので、明日15日にアナウンスすることにして、公開の中止を16日からの4週間といたしました。

感染対策にご理解くださり、ご協力いただいている多くの方々、特に小教区で受付などで奉仕してくださっている皆様に、心から感謝いたします。また今回の措置について、皆様のご理解をいただきますようにお願いいたします。

公示でも触れていますが、信徒の皆様の霊的な糧として一助となればと願い、すでに今回で39回目となる「週刊大司教」のビデオメッセージを、土曜日18時に配信していますが、これは今後も継続します。

同時に、昨年のミサ公開中止時にそうであったように、関口教会の主日10時のミサを大司教司式として、ミサの公開が中止となっている期間は配信します。

「週刊大司教」はYoutubeの東京大司教区のアカウントから、主日のミサはYoutubeのカトリック関口教会のアカウントからの配信です。

またこういった配信が、同時に福音宣教の一助となることを、心から願って作成しておりますので、お知り合いの方々にもお勧めいただければと思います。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第三十九回聖母の被昇天のメッセージ原稿です。

聖母の被昇天(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第39回
2021年8月15日

「ともに手をとり合って、友情と団結のある未来をつくろうではありませんか。窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。」

1981年の2月25日、教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージのなかで、特に若者に対して呼びかけて、そのように述べられました。

イデオロギーの相違から来る東西の対立が深刻となり、全面的な核戦争の可能性も否定できなかった時代に、教皇は「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、広島の地から力強く宣言されました。

それから38年後、同じ広島の地から、教皇フランシスコはこう呼びかけられました。

「だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです」

人間はいのちの危機を避けるために、「友情と団結」のうちに、「ともに歩む」ことを通じて行動できるはずだと、教皇たちは広島から平和のための行動を求めて声を上げました。

教皇フランシスコは、「フラテリ・トゥッテイ」にこう記します。

「予期せず新型コロナウイルス感染症のパンデミックが押し寄せ、わたしたちの偽りの安全を露呈しました。・・・共同での行動が取れないことが明らかにされました。過度につながりがあるにもかかわらず、わたしたち全員に影響する問題の解決をいっそう困難にする分裂が存在しました。・・・わたしたちが生きるこの時代に、一人ひとりの尊厳を認めることで、兄弟愛を望む世界的な熱意を、すべての人の間によみがえらせることを、わたしは強く望んでいます。(7,8)」

神の秩序が確立された世界、すなわち平和を求めて、国際的な連帯が不可欠であることが浮き彫りになりました。残念ながら、「友情と団結」のうちに、「ともに歩む」連帯は、実現していません。

聖母被昇天にあたり、ルカ福音は、聖母讃歌「マグニフィカト」を記します。聖母マリアは、全身全霊をもって神を褒め称える理由は、へりくだるものに目をとめられる主のあわれみにあるのだと宣言されています。

すなわち、人間の常識が重要だと判断している当たり前の価値観とは異なっている、神ご自身の価値観に基づいて、自らが創造されたすべてのいのちが、一つの例外もなく大切なのだと言うことをあかしするため、神は具体的に行動された。そこに神の偉大さがあるのだと、聖母は自らの選びに照らし合わせて宣言します。神ご自身の価値観は、「思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き降ろ」して、排除された人々を兄弟愛のうちに連れ戻す価値観であり、まさしく「友情と団結」のうちに、「ともに歩む」連帯に支えられています。

教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」の終わりにこう記しています。

「イエスを大切になさった母マリアは、今、傷ついたこの世界を、母としての愛情と痛みをもって心にかけてくださいます。・・・天に上げられたマリアは、全被造界の母であり女王です。」(241)

聖母の悲しみに心をとめ、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の平和の実現のために、ともに歩んで参りましょう。

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2021年8月 7日 (土)

週刊大司教第三十八回:年間第19主日

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暑い毎日が続いております。暑いとは言え、8月7日は立秋です。ですので、この場を借りて、教区の皆様に残暑お見舞い申し上げます。どうか暑さに気をつけて、同時に感染対策も怠らずに、安全にお過ごしください。

現在東京教区が管轄する東京都と千葉県は、緊急事態宣言の対象となっています。この数日発表される、毎日の新規陽性者の数も高い数字が連続しています。加えて感染力が高いと言われるデルタ株が広まっているという報道もありました。

高齢の方を中心にワクチン接種が進んでおり、高齢者が感染しても重症化は避けられているという話も耳にしますが、しかし、慎重な感染対策を続けることは不可欠です。

マスクをすること、手洗いやうがいを徹底すること、互いの距離をとることは、絶対に忘れないでください。加えて、教会でお願いしている、一斉に唄ったり祈りを唱えないことを徹底してくださるようにお願いします。6日の東京都知事の記者会見では、マスク着用や手指の消毒の徹底に加えて、施設の入場制限を徹底することや、互いの距離を1.8mはとることが強く求められています。聖堂の人数制限の厳守と、互いの距離の確保を、今一度、徹底してくださるように、お願いします。

その上で、特にミサが終わった後のことですが、ミサの前も同様です。互いのおしゃべりです。そもそも聖堂では、日頃からいわゆる「おしゃべり」は避けて沈黙のうちに祈りの雰囲気を保っていただきたいのです。そして、対策への慣れもあるのだと思いますが、中にはよく聞き取れないからとマスクをずらしたり、互いに近づいたり、大声になったり、数名の方が密集したりと、今少し慎重に行動してくださるようにお願いいたします。

わたしとしてはなんとか安全を確保しながら、できる限りミサの公開を継続し、秘跡にあずかっていただく機会を確保したいと願っています。ですので、どうか今しばらくの間は、慎重な対策の徹底をお願いします。

すでに何度もお知らせしているように、ミサ参加者の受付をしてくださる方や消毒を担当してくださる方の確保が難しい場合、またそういった方々から不安が聞かれる場合は、主任司祭は「躊躇せず」に、ミサの公開を中止してください。地域によって感染の事情が大きく異なっていますので、基本的には、「いまはミサのために聖堂に集まることは難しいことなのだ」と言う認識を大前提に、お考えください。

少しでも体調の悪い方や、不安のある方は、どうか自宅でお祈りください。主日のミサの義務は、現在も教区全体に対して免除しています。

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以下、本日夕方6時配信の、週刊大司教第三十八回のメッセージ原稿です。

年間第19主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第38回
2021年8月8日

列王記は、預言者エリヤがバアルの祭司たちと対峙し勝利した後、王妃イゼベルから恨みを買って、荒れ野へと逃れていく話を記します。神の道に忠実であり、その義を貫徹しようとすることは命がけであることが明示されている一方、精根尽き果てた義の人エリヤを、神は励まし続けたとも記されています。神の与えた使命を果たそうとする人に、神は寄り添って励ましてくださいます。

パウロはエフェソの教会への手紙で、わたしたちを生かし力づけてくださる聖霊に逆らうことなく、神に倣うものとして、「互いに親切にし、憐れみに心で接し、・・・ゆるし合いなさい」と勧めます。神の聖霊に満たされているものは、キリストご自身が愛ゆえにあがないのいけにえとなられたことに倣い、愛によって歩むのだとパウロは指摘します。

ヨハネ福音は、先週に続けて、主ご自身が「いのちのパン」であり、「天から降ってきた生きたパン」を食べるものは、「永遠に生きる」と宣言された言葉を記しています。

賜物であるいのちを生かし続けようとする神の愛は、主ご自身が自ら十字架へと歩まれたその行為のうちに明示されています。わたしたちには、キリストをいただくものとして、その神の愛、すなわちすべてのいのちを守り生かそうとする神の愛に応えて生きる務めがあります。

わたしたちにとって、すべてのいのちを守るために行動することは、平和のための行動でもあります。パウロが指摘するように、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど」は、「一切の悪意」」とともに、いのちを大切にする行動とは対極にあり、すなわち平和を破壊する行動につながります。しかし「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し」あうことは、いのちを守る行動に繋がり、平和を築き上げます。

「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島で述べられました。

第二次世界大戦が終結してから今に至るまで、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語り続けられてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であるからに他なりません。そして、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能です。

教皇フランシスコは、長崎の爆心地公園で、こう述べられました。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です」

教会にとって平和とは、戦争がないことだけを意味してはいません。それは神の秩序が確立された状態であり、すべてのいのちが大切にされている共通の家で、だれも排除されることのない社会を実現することであります。天上での完成の日を目指して、わたしたちは神が愛をもって創造されたこの世界を、日々、神の望まれる姿へ近づける努力を怠ってはなりません。その使命を果たす努力を続けるわたしたちに、なかなかゴールに到達できずに疲れ切ったわたしたちに、主は常に寄り添い、ともに歩んでくださいます。

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2021年7月31日 (土)

週刊大司教第三十七回:年間第18主日

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もう8月です。オリンピックが開催される中、東京圏における検査陽性者数は増加を続け、政府はこの金曜日に、緊急事態宣言の8月31日までの延長と、新たな地域への発令を決められました。東京教区においては、東京都はこれまでの緊急事態宣言が8月末までの延長、千葉県がこれまでのまん延防止等重点措置から緊急事態宣言へと移行することになりました。教区としての対応は、現在の緊急事態宣言下でお願いしている感染対策をさらに徹底していただきたいと思います。今一度、教区ホームページから、現在の対応をご確認ください。

対策への「慣れ」も見られるようになりましたし、主に高齢の方々のワクチン接種率が高まるにつれて、安心してしまう傾向もあろうかと思います。慎重な対応は、まだまだ必要だと判断していますので、ご協力をお願いいたします。

土曜日7月31日の午前中に、調布にある晃華学園聖堂で、汚れなきマリア修道会のお二人のシスターの、終生誓願式が行われました。お二人はベトナム出身です。シスター・マリア・レ ティ チャウ、シスター・テレサ・ファン ティ トゥ ニュオン、おめでとうございます。

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お二人の誓願式は、感染症のために何度か延期されてきました。有期誓願を延長するにも限度があるので、本日行うことになったとうかがいました。現在の状況で、ベトナムのご家族などの参加は適いませんでしたし、多くの方に集まっていただくことも出来ませんでした。聖堂には、近隣の司祭と、マリア会の司祭、そして主に同じ修道会の姉妹たちと、一部の人だけが参加し、ベトナムにいるご家族のためには、オンラインでの配信が行われました。また誓願式後の祝賀会もキャンセルとなりました。厳しい状況での誓願式となりましたが、これからのお二人の修道会での、そして教会での活躍をお祈りしています。

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以下本日夕方六時配信の、週刊大司教第37回目のメッセージ原稿です。

年間第18主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第37回
2021年8月1日

「私が命のパンである」と宣言される主イエスの言葉を、ヨハネ福音は記しています。集まっている人々は、この世のいのちを長らえるために、実際に空腹を満たしてくれるパンを求めているのですが、イエスは永遠の命を与えるパン、すなわちご自身のことを語っておられます。

出エジプト記は、荒れ野で彷徨うイスラエルの民が、空腹のあまり、モーセとアロンに不平を述べ立て、エジプトでの奴隷状態の方がまだましだったとまで言いつのる姿を描いています。ここでも人々が求めるのはこの世のいのちを長らえるために、実際に空腹を満たしてくれる食料のことですが、神の視点は救いの計画の実現という永遠を視野に入れたところにあり、全能の神は天から降らせた食物によって、選ばれた民にそれを示唆します。

パウロはエフェソの教会への手紙で、こういった事柄を念頭に、キリストに結ばれているわたしたちは、「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たに」されるようにと呼びかけます。

どうしてもわたしたちの視点はこの世のいのちに縛られており、永遠にまで至る神の計画の中で、どのように生き、どのように行動し、どのような道を進むべきなのかという視点に欠けてしまいます。わたしたち自身の望みや欲望を優先させている限り、神の真理に近づくことは出来ません。

御聖体を、霊的にまた直接いただくわたしたちは、御聖体のうちに現存される主との一致を願いながら、主が教えてくださる道を歩むように務めることで、自分自身の救いのためだけではなく、人類全体の救い、すなわち神の救いの計画にあずかる者となります。視点を自分のうちだけに留めることなく、常に新たにされて、真理であるイエスに倣っていきたいと思います。

さて8月は、広島、長崎における原爆投下や太平洋戦争の終結という戦争の歴史をたどる月でもあり、そのため平和について考え、平和を祈り求める月でもあります。日本の教会は、広島の原爆の日である今週金曜日、8月6日から、終戦記念日、8月15日までを、平和旬間と定めています。あらためて、教皇フランシスコの広島における言葉を思い起こしたいと思います。

「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」

教皇様は、真の平和は、「正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれる」と指摘されました。

東京教区の宣教司牧方針の三本の柱の三つ目は、「すべてのいのちを大切にする共同体」です。これは単に環境問題への取り組みを促しているだけではなく、「神からいただいたいのちを大切にし、それぞれのいのちを尊重しあう共同体を」目指している柱です。

開発と発展は、社会の多様化と大きな変化をもたらし、結果として共通の家である地球を傷つけながら、いのちを危機にさらしています。神の救いの計画は、永遠の命を目指す道程にあって、この共通の家において、賜物である私たちのいのちが十全に生かされその尊厳が守られる世界の実現を求めます。世界における平和の実現はその道の一つであり、貧困や飢餓の撲滅、さまざまな疾病への公平な対策の実現など、いわゆる社会正義の実現は重要な福音的課題です。神の計画にあずかり、わたしたちの欲求ではなく、神の望みに従い、真理であるイエスに倣いましょう。

 

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2021年7月24日 (土)

週刊大司教第三十六回:年間第十七主日

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7月も終わろうとしています。暑い毎日が続いています。

週刊大司教のメッセージでも触れていますが、教皇様は、今年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。今年は7月25日がこの祈願日となります。

教皇様は、今年の1月31日のお告げの祈りで、次のように述べて、この祈願日の制定を告知されました。

 「2月2日は、イエスが神殿で捧げられたことを記念する、主の奉献の祝日です。そのとき、シメオンとアンナは二人とも年老いていましたが、聖霊に導かれ、イエスがメシアであると認めました。聖霊は、知恵に満ちた考えやことばを高齢者の内にわき上がらせます。高齢者の声はかけがえのないものです。神をたたえて歌い、人々のルーツを守っているからです。年を重ねることはたまものであり、祖父母はその人生体験や信仰を若者に伝えることにより、世代を結びつける輪となっていることを、この二人は思い起こさせてくれます。祖父母は忘れられがちですし、ルーツを守り、伝えるというその宝もないがしろにされています。だからこそ、7月第四主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」とし、教会全体で毎年祝うことにしたのです。この日のころには、イエスの「祖父母」にあたる聖ヨアキムと聖アンナの記念日があります」

今年は初めてのことでもあり、どのようにこの祈願日を祝うのか、定まってはいないのですが、わたしたち自身の祖父母に限らず、教会や社会に多数おられる高齢の方々に思いを馳せ、御父の祝福と守りを祈る日曜にしたいと思います。

なお今年の祈願日のテーマは、「わたしはいつもあなたとともにいる」と定められており、教皇様のメッセージの翻訳は、こちらの中央協議会のホームページへのリンク先に掲載されていますので、ご一読ください

メッセージの中で、教皇様は、特にパンデミックの状況に置かれている現在、孤独のうちに取り残されている人が多くいる中で、特に高齢者の状況には厳しいものがあるとして、次のように希望の言葉を記しておられます。

「このパンデミックの数か月のように、何もかも真っ暗に思えるときでも、主は天使を遣わし、わたしたちの孤独を慰め続け、「わたしはいつもあなたとともにいる」と繰り返しておられます。そうあなたにいっておられ、わたしに、皆にいっておられるのです。これこそが、長い間の孤独と、いまだ時間がかかっている社会生活の回復とを経て、まさに今年に、初回を迎えるこの祈願日の意義です。祖父母の皆さん、高齢者のお一人お一人が、とくに孤独に苦しむかたがたが、天使の訪問を受けられますように」


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以下、本日午後6時配信の週刊大司教第三十六回のメッセージ原稿です。

年間第17主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第36回
2021年7月25日

列王記は、飢饉に見舞われた地にあって、預言者エリシャのもとへ持ってこられた少ないパンが、召使いの常識を越えて、百名の人の空腹を満たした奇跡的な話を記しています。

ヨハネ福音も、いわゆる「五つのパンと二匹の魚」の物語を記し、少年がささげた少ないパンと魚が、イエスのみ言葉を聞くために集まっていた五千人を超える人たちの空腹を満たした、奇跡物語を記しています。

どちらにも通じるのは、もちろん少ない食べ物が多くの人を満たしたと言う奇跡の物語であり、御父である神の、また主イエスの偉大な力を示しています。同時にそれは、自分が持つ数少ないものをまもるのではなく、他者のために惜しみなく分かち合ったときに生まれる愛の絆の物語でもあります。そしてそれは、ミサを通じて主の食卓にあずかり、主イエスご自身の現存である御聖体によって生かされることで教会共同体にもたらされる、霊的な一致の意味をあらためて考えさせるものでもあります。主の十字架上での自己犠牲は、神による最大の愛のあかしであります。

パウロはエフェソの教会への手紙で、まさしくこの霊的一致について語ります。パウロは、例えばローマ書など他の書簡で一致について、一つの体とその部分であるわたしたちのようなたとえを記しますが、一致は決して皆が全く同じように考え、同じように行動するのではないことを明確にしています。それぞれはそれぞれが与えられた使命に自らの決断を持って生きているのであって、一致は同じ霊によって生かされ、同じ主における「一つの希望にあずかるように」と招かれている生き方にあります。主イエスを中心とした愛の絆に結ばれていることこそが、わたしたちの語る一致であります。

さて教皇様は、今年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められ、メッセージを発表されています。今年は7月25日のがこの祈願日となります。教皇様のメッセージのテーマは、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(参照:マタイ28,20)とされています。教皇様はメッセージの中で、今回の「パンデミックは思いがけない嵐のようにそれぞれの生活に試練を与えたが、とりわけお年寄りに与えた影響は厳しいものであった」と述べられ、亡くなられた多数の高齢者への思いを記されています。その上で、「主はわたしたち一人ひとりの苦しみを知り、痛ましい経験をした人々のそばにおられ、その孤独を心にかけておられる」と呼びかけられます。わたしたちが招かれている霊的一致は、いのちが忘れ去られ孤独のうちにあることをよしとしません。すべてのいのちに主が共にいることを、あかしするよう、わたしたちは招かれています。

教皇様の「フラテリ・トゥッティ」にもこう記されています。「わたしたちは、歴史の教訓、「人生の師である歴史」をすぐに忘れます。・・・長年の医療体制の縮小の結果の一部として、呼吸器が不足で亡くなった高齢者を、どうかわたしたちが忘れずにいられますように。・・・わたしたちには互いが必要で、互いに対し義務を負っていることを、はっきりと気づくことができますように」(35)

東京教区の宣教司牧方針も、「わたしはいつもあなた方と共にいる」という御言葉に導かれます。わたしたちは、三つの柱の一つである「すべてのいのちを大切にする共同体」も目指しています。社会の多様化の中で、より小さないのち、より弱いいのちがないがしろにされつつあります。神からいただいたいのちを大切にし、それぞれのいのちを尊重しあう共同体をめざしましょう。

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2021年7月17日 (土)

週刊大司教三十五回:年間第十六主日

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7月18日、年間第16主日となりました。

緊急事態宣言下で、まもなくオリンピック、続いてパラリンピックが行われます。コロナ禍の前には、数年前から、組織委員会と諸宗教団体との間で、選手村に設置される宗教センターで、選手の方々の宗教的必要に応える対応が準備されてきました。これはオリンピック憲章で定められていると聞いています。

されに、オリンピック観戦のために世界中から訪れる方々のために、小教区などでさまざまな対応をする検討を続けていました。組織委員会からの要望に応えるため、また小教区での対応を考えて、東京教区ではオリンピック対応チームを任命し、マルコ神父様を中心に、例えば五大陸のロザリオを準備したり、カテドラルでの国際ミサを企画して準備を進めていました。五大陸のロザリオは、来日する選手と関係者にギフトとして差し上げることも考えていました。

残念ながら、コロナ禍ですべてはご破算となりました。なんと言っても、選手は選手村から出ることが出来ませんし、わたしたち宗教者も選手村には入れません。そこで対応は、組織委員会の要望に応えて、オンラインとしました。教区本部でさまざまなビデオを用意し、それはすべて組織委員会に渡して、その管理下で選手村に提供されます。詳しくは、今週のカトリック新聞をご覧ください。なお五大陸のロザリオは、そのようなわけで在庫が教区本部にあります。ご希望の方は若干の実費等ご寄付頂きますが、教区本部からおわけします。申し込み方法は、今週のカトリック新聞をご覧ください。

また無観客ですので、世界から訪れる方々もおられません。そこで、小教区での特別な対応も必要ではなくなりました。

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7月12日から15日まで、司教総会が開催されました。今回はハイブリッドにして、潮見まで来られた司教さんたちと、オンラインの司教さんたちと分かれましたが、分科会を含め、なんとか議題をこなすことが出来ました。決まったことなどは、後日カトリック新聞などに掲載されると思いますので、そちらに譲ります。潮見のカトリック会館の裏手には、得意な形をした辰巳国際水泳場がありますが、その右手に新しいオリンピックプールが出来ました。そこに通うバスを駐車するためか、臨時の駐車場が、カトリック会館裏手の都有地に設けられていました。無事開催されることを祈ります。

東京も梅雨明けしていますが、先日のスコールのような大雨の直後、夕方の空には虹が出ていました。

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以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第三十五回、年間第16主日のメッセージ原稿です。

年間第16主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第35回
2021年7月18日

エレミヤの預言は、神が愛してやまない人間を、誰かに任せるのではなく、自ら牧者として守り養おうとするその行動を、いつくしみ深い神の「正義と恵みの業」であると記します。

パウロは、エフェソの教会への手紙で、イエスが隔ての壁を取り除き、異邦人とユダヤ人を一つの体に一致させたことを述べ、それが平和の実現であると説きます。まさしく多様性における一致こそが、平和をもたらす道である事が示唆されています。

イエスの時代、エルサレムの神殿において、ユダヤ人以外の異邦人は、「異邦人の庭」と呼ばれた神殿の外庭まで入ることがゆるされていました。そこには「隔ての壁」があったといわれます。そのことから、「隔ての壁」は、ユダヤ人が受ける神の祝福から異邦人は切り離されていることを象徴し、さらに、対立の中に生まれる「敵意」をも象徴していました。

マルコ福音は、先週の続きで、福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれたと記します。

イエスご自身も、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが他の箇所に記されています。善い牧者として、義に基づいた神の平和を実現するというご自分の使命をはたす力を、イエスはその観想の祈りから得ておられたのは、間違いありません。

教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の本質は三つの務めによって表されます。神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』25参照)と記します。神のことばを告げ知らせる宣教の前提には、秘跡を祝う典礼や祈りを大切にする共同体がなければなりません。秘跡を祝う共同体は愛の奉仕へと突き動かされていきます。そもそも愛の奉仕とは、主イエス・キリストの生き方に倣い実践することなのですから、わたしたちは祈ることをないがしろにして、愛の奉仕に努めることは出来ません。

教皇フランシスコは、2月3日の一般謁見で、次のように述べておられます。
「祈りもまた行事であり、出来事であり、現存であり、出会いです。まさにキリストとの出会いです。・・・典礼のないキリスト教は、キリストがおられないキリスト教になってしまいます」

東京教区の宣教司牧方針の二つ目の柱は、「交わりの共同体」を育てることです。教会の本質は「交わり」です。信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の写し絵です。「交わり」を造りあげ、それを豊かにしてくれるのがわたしたちの共同体で行われる典礼であり、祈りです。多様化した社会にあって、できる限り多くの人をわたしたちの「交わり」へと招き入れるために、典礼を豊かにし、共同体の祈りを深め、そこから福音を告げしらせ、またあかしするための力をいただきましょう。

宣教司牧方針にこう記しました。「わたしたちの信仰は「賛美」と「喜び」に彩られています。そのどちらも人間の想いで始まったのではありません。天上の教会では主イエス・キリストを中心に聖母マリア、諸天使、諸聖人、そして地上のいのちを終えたすべての被造物が天の御父を「賛美」し、「喜び」に満たされています。その「賛美」と「喜び」の声に合わせて地上の教会のわたしたちも神を「賛美」し、いのちの「喜び」を共同体と共に表すのです。典礼と祈りは「賛美」と「喜び」の時であり場面です」

言葉と行いを通じたあかしを、祈りと観想からいただいた力のうちに実践いたしましょう。

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