カテゴリー「週刊大司教」の96件の記事

2022年10月 1日 (土)

週刊大司教第九十六回:年間第二十七主日

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早いもので、今年もすでに終盤です。10月となりました。

10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。現代社会にあっては、特に神の秩序の実現である平和の確立をねがうわたしたちの思いを、ロザリオの祈りを通じて御父に届けたいと思います。一人でも、いつでも、またグループでも、10月にはロザリオの祈りを通じて聖母に取り次ぎを願うことを、心に留めましょう。

ケルン教区の代表団が東京教区に滞在中です。長年にわたる両教区の「パートナーシップ」ですが、今回の訪問で、「パートナーシップ」という名称のふさわしいだけの関係が構築されているか、見直しをしたいとの提案が、代表団の担当者から表明されています。もちろんケルン教区という巨大な教区と、東京教区とでは、資金力は言うにおよばず人的可能性でも大きな差がありますので、同じようなことはできませんが、単に資金提供を受けてきたという関係以上の絆を、どのように築き上げることができるのか、考えてみたいと思います。もちろん、両者で協力してきたミャンマーへの支援は、特にいまのような状況下にあって、しっかりと継続していきたいと思います。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第96回、年間第27主日メッセージ原稿です。

年間第27主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第96回
2022年10月2日

9月の初めからこの一ヶ月、わたしたちは教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の精神に倣って、「すべてのいのちを守る月間」を過ごしています。間もなく10月4日をもって、今年の月間は終了します。「ラウダート・シ」に倣うということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、それ以上に、教皇フランシスコが呼びかけるように、これは回心への招きであり、「自然界を通して神の存在を感受するエコロジカルな霊性」の実践への招きです(今年の被造物を大切にする世界祈願日メッセージ)。

教皇様は今年のメッセージにこう記しています。

「わたしたちの過剰な消費主義の支配に、大地はうめき声を上げ、虐待と破壊に終止符を打つようわたしたちに懇願しています。ですから、叫びを上げているのはすべての被造物です。創造のわざにおいて、キリスト中心の対局にある「専制君主的な人間中心主義」に翻弄されることで、無数の種は死に絶え、それらによる神をたたえる賛歌は永遠に失われてしまうのです」

ルカ福音は、務めに対して忠実で謙遜な僕について語るイエスの言葉を記しています。するべき務めをすべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うことこそが、忠実な僕のあるべき姿だと語るイエスは、これを通じて、わたしたちがそれぞれの与えられた召し出しに忠実に生きることが、信仰生活において重要であることを示唆します。

「ラウダート・シ」において教皇フランシスコは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」と記しています(66)。その上で、「わたしたちはずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました」と指摘されました。わたしたちは与えられたそれぞれの召し出しに忠実に生きる謙遜な僕であるでしょうか。

教皇様はさらに、「わたしたちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けなければなりません」と記します。わたしたちには被造界を破壊する横暴な支配者ではなく、それを「世話し、保護し、見守り、保存する」善き管理者として、与えられた務めを忠実に、かつ謙遜に果たすことが求められています。

わたしたちは、「話せず、語れず、声が届かない」被造物や、特に貧しい人々の叫びに耳を傾けるよう招かれています。教皇は今年のメッセージに、「気候危機にさらされることで貧しい人々は、ますます激化し頻発している干ばつ、洪水、ハリケーン、熱波のもっとも深刻な影響を受けています。さらに、先住民族の兄弟姉妹が叫びを上げています。収奪的な経済的利益追求の結果、彼らの祖先の土地は四方八方から侵略され荒廃し、「天へと向かう嘆きの叫び」を上げています」と記し、社会の中心部から忘れ去られた人たちの声に耳を傾けることの重要性を強調されています。

わたしたちの周囲にはどのような声が響いているでしょうか。社会や多数の人々の圧力によって、押し潰されてしまっている声はないでしょうか。「より豊かに、より容易に自己完成を達成できる」よう、共通善の実現を目指して、生き方を見つめ直す回心が必要です(現代世界憲章26)。

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2022年9月24日 (土)

週刊大司教第九十五回:年間第二十六主日

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9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。(上の写真は神学院にて)

中央協議会のホームページには、次のように記されています。

「世界難民移住移動者の日は、各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と「ともに生きる」決意を新たにする日です。日本の教会でこの分野の活動を受け持つ日本カトリック難民移住移動者委員会は、日本と全世界にある協力グループとともに、活動の推進、連絡、協力、支援、情報の交流等を行っています。そのために祈りと献金がささげられます」

教皇様はこの日にあたりメッセージを発表されています。今年のテーマは、「移民や難民と共に未来を作る」とされています。こちらのリンクです

メッセージの中で、教皇様は次のように呼びかけておられます。

「だれ一人、排除されるべきではありません。神の計画は本質的にすべてを包み込むもので、実存的周縁部の住人を中心に据えるのです。その中には、多くの移民や難民、避難民、人身取引の犠牲者が含まれます。神の国の建設はこの人たちとともに行うものです。この人たちなしでは、神が望むみ国はならないからです。もっとも立場の弱い人たちを含めることは、完全に神の国の市民権を得るための必要条件です」

その上で、教皇様は次のように呼びかけて、祈りと共にメッセージを締めくくっておられます。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、とくに若者の皆さん。もし天の父と協力して未来を築きたいのであれば、それを、難民や移民の兄弟姉妹とともに行いましょう。今日築きましょう。未来は今日から、そしてわたしたち一人ひとりから始まるからです」

今般のウクライナの情勢を見るにつけ、難民は遠い世界の出来事ではなくて、世界に生きるすべての人の現実です。そして様々な理由から移動し移住する多くの方も、一人ひとりが神から愛されるいのちをいただいた大切な存在です。すべてのいのちが守られるように祈るためにも、現実に起こっていることを、まず知ることから始めましょう。

日本の司教団も、個別の委員会の課題としてではなく、司教全員の総意として、今ひとつの問題について政府にお願いをしています。多くの課題が存在する中で、小さな一つの課題ですが、いのちを守るための大切な課題の一つだと考えています。こちらのリンクです。司教全員のメッセージビデオもありますので、一度ご覧いただければ幸いです。(下の写真はウガンダ北部にあった国内避難民キャンプで。2005年)


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以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第95回、年間第26主日メッセージ原稿です。

年間第26主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第95回
2022年9月25日

「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります」

2015年に発表された教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」205項にそう記されています。そしてまさしくこの数年間、感染症による先の見えない不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。

教皇は続けてこう記します。「人は、自己中心的にまた自己完結的になるとき、貪欲さを募らせます。心が空虚であればあるほど、購買と所有と消費の対象を必要とします。・・・こうした地平においては、共通善に対する真正な感覚もなくなります」

ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人は存在する場所すらありません。死後の苦しみの中で神の裁きに直面するときでさえ、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期におよんでもラザロを自分の目的のために利用しようとします。

2016年5月18日の一般謁見で、教皇様はこの話を取り上げ、こう述べておられます。

「ラザロは、あらゆる時代の貧しい人々の叫びを表わすと同時に、莫大な富と資源がごく少数の人の手に握られている世界の矛盾をも示す良い例です」。

その上で教皇様は、「神のわたしたちに対するあわれみは、わたしたちの隣人に対するあわれみと結びついています。それが欠けていたり、わたしたちの心の中に無ければ、神はわたしたちの心に入ることはできません。もし、自分の心の扉を貧しい人々に向けて押し開かなければ、扉は閉ざされたままです。神への扉も閉ざされたままです。それは恐ろしいことです」と指摘されます。こころの扉を開いて、出向いていく教会であることが、集団的利己主義から脱却する道であることが示唆されています。

教皇様が指摘されるように、世界における貧富の格差の問題は、「先進諸国や社会の富裕層では、浪費と廃棄の習慣がこれまでにないレベルに達しており、そうした消費レベルの維持は不可能であることをわたしたちは皆知って」いるにもかかわらず、全く解決されていません(27)。扉は閉ざされたままです。

9月の最後の主日は世界難民移住移動者の日です。教皇様は今年のテーマを、「移民や難民とともに未来を作る」とされました。教皇様は今年のメッセージの終わりにイザヤ書を引いて、「新しいエルサレムの住人は、都の門をつねに大きく開いておき、異邦人が贈り物を携えて入ってこられるようにする」と記しています。わたしたちは、扉を開くことを心に留めましょう。

この一ヶ月、10月4日まで、わたしたちは」ラウダート・シ」の精神に倣って「すべてのいのちを守る月間」を過ごしています。「ラウダート・シ」に倣うということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、教皇フランシスコの呼びかけは個別の課題をはるかに超え、わたしたちの存在の有り様全体にに対して、回心を呼びかけています。

わたしたちは扉を閉ざして籠もってしまうのではなく、扉を開いて外へ出向いていき、共通善の実現のために汗を流す教会でありたいと思います。

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2022年9月17日 (土)

週刊大司教第九十四回:年間第二十五主日

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9月も半ばを過ぎました。(上の写真は、松原教会聖堂)

教皇様は、先日カザフスタンに出かけられ、無事にローマに戻られました。

教皇様は、同国首都ヌルスルタンで、諸宗教のリーダーを招き、9月14日から2日間の日程で開かれた「第7回世界伝統宗教指導者会議」に出席され、バチカンニュースによれば、共同宣言を受けてのスピーチで、『今回の共同宣言にある、「過激主義、原理主義、テロリズム、その他、憎悪・暴力・戦争をあおるすべてのもの・動機・目的は、真の宗教精神と一切の関係がないものであり、断固として退けられるものである」という言葉を繰り返された』と報道されています。真の宗教精神が、いま、問われています。

なおカザフスタンを含む中央アジア諸国の司教団は、つい先日から一つの司教協議会を構成しており、FABCのメンバーとして、アジアの教会の一員です。一言で『アジア』と言ったときの、多様性を物語る地域の一つでもあります。

本日9月17日午後2時から、麹町教会でイエズス会の司祭叙階式が執り行われ、二人の司祭が誕生しました。ヨアキム・グェン・ミン・トァン神父様、ペトロ・カニジオ越智直樹神父様。叙階おめでとうございます。

また、明日9月18日日曜日には、高円寺教会で、新しい信徒会館と司祭館の祝別式、並びに堅信式が行われます。高円寺教会の司祭館は数年前に火事で失われ、その後コロナ禍で再建が遅れていましたが、完成しました。また、明日以降に報告します。

以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第94回、年間第25主日のメッセージ原稿です。

年間第25主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第94回
2022年9月18日

パウロはテモテへの手紙に、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と記し、自ら創造されたすべてのいのちを包み込もうとする、神の愛といつくしみを語ります。

ルカ福音は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」というイエスの言葉を記します。

わたしたちは、神の愛といつくしみから、誰ひとり忘れ去られることなく、また誰ひとり排除されることのない世界を実現することを目指しています。神の愛はすべての人に向けられているにもかかわらず、それを妨害しようとするのは、わたしたちの不忠実さであります。わたしたちは神の愛といつくしみの前に立ちはだかる様々な障壁を取り除くという大きな目的を達成するために、目の前の小さな事への取り組みを忠実に果たしていかなくてはなりません。

教会は、9月1日から10月4日までを「被造物の季節」と定めて、総合的エコロジーの観点から、日々の生活の中で小さな行動を忠実に積み重ねて、わたしたちに神から与えられた共通の家を大切にすると言う目標を達成するための啓発の時としています。日本の教会も、2019年の教皇訪日のメッセージに触発されて、同じ期間を「すべてのいのちを守る月間」と定め、神からの呼びかけに忠実であるようにと啓発活動を行っています。今年の7月の司教総会では、この取り組みを更に強化するために、司教協議会に「ラウダート・シ・デスク」を設置することも決めています。

2020年初め頃から、世界中を巻き込んでいる感染症がもたらすいのちの危機は、目に見えない小さなウイルスによってもたらされました。わたしたちは人間の知恵と知識には限界があることを思い知らされています。しかし往々にしてわたしたちはその限界を忘れ、あたかも人類がこの世界の支配者であるかのように振るまい続けてきました。その結果が、教皇様が指摘されるように、共通の家である地球の破壊です。

教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に」を発表され、すべての被造物は互いにすべてつながっているがために、互いの調和のうちに生きていく道を探ることの重要性を強調されました。これを教皇様は、総合的エコロジーという言葉で表します。その意味は「さまざまなことが、本質をめぐってそれぞれつながり合い、影響し合っている」ことです。そこから教皇様は「環境問題は孤立した分野ではなく、社会の問題、人間の問題、そして根本的に神との関わりの中にある」と指摘します。

その上で教皇様は、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか」といった問いかけに忠実に答えること姿勢を求めます。

教会は今、シノドスの道を歩み続けています。神の民として、ともに歩もうとしています。わたしたちはそれぞれの生きている現実の中で、小さな事に忠実に取り組む姿勢を忘れることなく、神が与えてくださった大地の叫びと、社会から忘れられ排除されている人たちの叫びに耳を傾け、それを神の視点で識別し、具体的な行動を積み重ねていきたいと思います。

教皇フランシスコが東京ドームミサで呼びかけたように、「キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り、知恵と勇気をもってあかし」する忠実な僕でありたいと思います。

 

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2022年9月10日 (土)

週刊大司教第九十三回:年間第24主日


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教区カテキスタの養成講座の、今年度のコースが終わりを迎え、本日午後、最終回の講話(わたしが担当)、修了式と任命・派遣のミサがカテドラルで行われました。これについては、別途また別の記事でお知らせします。新しくカテキスタとして任命された方々には、今後の活躍を期待します。ともに歩む教会共同体を、一緒に育てて参りましょう。(写真はアシジ)

毎年9月14日と15日には、秋田の聖体奉仕会修道院で、聖母マリアと共に祈る秋田の聖母の日が、2014年から行われてきました。残念ながら、コロナ禍のために中止となってきました。今年こそは再開できるかと期待して、いつもの信徒による旅行社パラダイスさんと巡礼を組もうと企画していましたが、今年も中止となってしまいました。もう一年だけの辛抱であることを祈ります。来年こそは。祈りの雰囲気に満ちあふれた秋田の地で、聖母を通じて主イエスへと導かれるために、共にロザリオの祈りを捧げることができる日の再開を,祈り続けます。聖体奉仕会では、今年の秋田の聖母の日のために、20分程度のメッセージビデオを用意しているようです。14日には公開の予定と聞いていますので、またお知らせします。

本日9月10日は、日本205福者殉教者の記念日です。そしてこの日は、「元和の大殉教」の日でもあります。今年でちょうど400年となり、長崎教区では祈念の祈りがささげられています。長崎教区のお知らせには、次のように記されています。

「毎年9月10日は日本205福者殉教者の記念日です。1622(元和8)年9月10日に長崎西坂の丘にて55名(うち52名は福者)が火刑・斬首され、「元和の大殉教」と呼ばれています。今年で400年目を迎えます。長崎の地は日本二十六聖人の殉教をはじめ、多くのキリシタンが殉教した土地です。彼らはその信仰をなによりの宝とし、死を前に恨み言ではなく、神への賛美と感謝のうちに、命の限り神の愛を人々にあかししました」

あらためて、日本の殉教者の信仰における勇気に倣い、わたしたちも現代社会にあって福音をあかしする信仰を持つことができるよう、その取り次ぎを祈りましょう。

以下、本日午後時配信、週刊大司教第93回、年間第24主日メッセージ原稿です。

年間第24主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第93回
2022年9月11日

出エジプト記は、モーセが不在の間、不信に陥ったイスラエルの民が、金の雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏しいけにえをささげた様を記しています。民のこの行動は神の怒りを招きますが、モーセはなんとか神の怒りをなだめようと努めます。出エジプトの出来事を体験したイスラエルの民でさえ、先行きの不安に駆られ不信感が増大したときに、自分の心を落ち着けてくれる存在に頼ってしまう。人間の心の弱さを象徴している話です。

わたしたちは、基本的に変革よりも安定を望みます。自分の心を落ち着けてくれる道を求めようとします。その思いが募るとき、結果として手に入れるのは、自分の願いを満たしてくれる答えであり、往々にしてその答えは、真理とはほど遠い道であることが、この物語から示唆されます。

真理の道は神が用意された道であるにもかかわらず、不安や不信、または利己的な思いは、真理の道からわたしたちの目をそらせ、自分が思い描いた欺瞞の道へと誘います。そこに神のいのちはありません。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の中で、「出向いていく」教会であることを求めながら、教会共同体が福音宣教のために「司牧的な回心が要請する構造改革」に取り組むように求めています(27)。その上で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と記し、自分たちが経験に基づいて思い描いている理想に固執することなく、常に聖霊の働きに心を開き真理の道を識別し続けるようにと求めています。

ルカ福音は、99匹の羊を野原に残してでさえも見失った一匹を探しに出かける「善い牧者」の姿を記しています。

このたとえ話の導入では、やはり過去のしがらみや倫理的基準に捕らわれたファリサイ派や律法学者が、罪人と食事をともにするイエスを批判する姿が記されています。自分たちの安全地帯に留まろうとする選択は、真理からはほど遠いことが示唆されています。

そしてイエスは、1対99の比較という選択肢を持ち出し、1をあきらめても99を確保するであろう常識的判断ではなく、神の判断は、一人も失われることなくすべてのいのちを徹底的に愛し守り救うのだという、神の真理の道を明確に示します。常識と、神の真理。わたしたちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

2016年5月4日の一般謁見で、教皇様は、「わたしたちは皆、見失った小羊を肩に担いだよい羊飼いの姿をよく知っています。その姿は、罪人に対するイエスの心配りと、だれかが居なくなっても決してあきらめずに探してくださる神のいつくしみをつねに表わしています」と述べています。

その上で、「だれも何も救いのみ旨から神を引き離すことはできません。神は現代の使い捨て文化とは無関係です。まったく関係ありません。神はだれも見捨てません。神は皆を一人ひとり愛し、探しておられます。神は「人を見捨てる」ということばを知りません。なぜなら、神は完全な愛であり、完全ないつくしみだからです」と指摘されています。

更に教皇様は、「自分が「正しい」と思いこみ、自分自身の中に、自分の小さな共同体の中に、そして小教区の中に閉じこもってはなりません。それは、他者との出会いへとわたしたちを導く宣教への熱意が欠けているときに起こります」とも指摘されます。

常識と神の真理。わたしたちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

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2022年9月 3日 (土)

週刊大司教第九十二回:年間第二十三主日

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9月の最初の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

9月1日から、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までは、「被造物の季節」と定められており、カトリック教会だけでなくキリスト教諸教派と共に、わたしたちが「ともに暮らす家」のために祈り、またそれを守るための啓発と行動を呼びかけています。このエキュメニカルな活動に参加するよう教皇庁総合人間開発省が毎年呼びかけを行っていますが、日本の教会は、2019年の教皇訪日に触発されて、この期間を「すべてのいのちを守るための月間」と命名し、さまざまな取り組みを行ってきました。

今年も教皇様のメッセージが発表されています。こちらのリンクです。今年の「被造物の季節」のテーマは「被造物の声に耳を傾ける」で、詩編19編2節~5節から取られています。 

東京教区のホームページでも特設コーナーを開設しました。こちらのリンクです

またカリタスジャパンでも、特設コーナーを設けています。こちらのリンクです。特にカリタスジャパンのコーナーでは、この期間、毎日の黙想と行動の指針のための言葉が準備されていますから、是非とも毎日の異なる呼びかけに耳を傾けていただければと思います。

この期間のために準備されている「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」は、こちらのリンクからPDFでカード印刷ができるようになっていますが、全文を以下に引用します。

宇宙万物の造り主である神よ、
あなたはお造りになったすべてのものを
ご自分の優しさで包んでくださいます。

わたしたちが傷つけてしまった地球と、
この世界で見捨てられ、忘れ去られた人々の叫びに
気づくことができるよう、
一人ひとりの心を照らしてください。

無関心を遠ざけ、
貧しい人や弱い人を支え、
ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、
わたしたちの役割を示してください。

すべてのいのちを守るため、
よりよい未来をひらくために、
聖霊の力と光でわたしたちをとらえ、
あなたの愛の道具として遣わしてください。

すべての被造物とともに
あなたを賛美することができますように。

わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。
(2020年5月8日 日本カトリック司教協議会認可)

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第92回、年間第二十三主日のメッセージ原稿です。

年間第23主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第92回
2022年9月4日

ルカ福音は、イエスの弟子となる条件として、「自分の十字架を背負ってついてくる者」であれと記します。同時に、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」ことを不可欠であるとも記します。一体これは何を意味しているのでしょうか。

一つのヒントは、パウロのフィレモンへの手紙に記されています。この短い書簡で、パウロはコロサイの裕福な信徒であるフィレモンに、彼の元から逃げてきて、その後洗礼を受けた奴隷であったオネシモを、一人のキリスト者としての兄弟として送り返すことを記しています。当時の常識の枠組みの中で、自分の奴隷であった人物を兄弟として受け入れるフィレモンの行動は、他の人たちにとってこの世の常識をはるかに超える大きな意味を持つ愛のあかしの行動となったことでしょう。

パウロは第一コリントの1章17節で十字架の意味を、神ご自身によるすべてを賭した愛のあかしの目に見える行いそのものであると記します。この世の知恵に頼って愛をあかしするのではなく、全身全霊を賭して神の愛をあかししたイエス。それこそが十字架の持つ意味であることをパウロは強調します。

したがって、このルカ福音における十字架も、単に苦行をしろといっているのではありません。この世で生きていくために大切だと思っていること、すなわち人間の知恵が作り上げた常識に捕らわれるのではなく、そこから離れ、自らの全身全霊を賭して、神の愛をあかしするための行動にでるようにと、イエスは弟子に求めておられます。

その一つの道として、神がわたしたち人類に管理を任されているすべての被造物を守る行動が、過去の強欲な搾取に別れを告げて、神の愛に生きる具体的なあかしになるとして、教皇様は9月1日を被造物を大切にする世界祈願日と定められました。日本の教会では、9月の最初の主日に祝います。教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」を発表され、教会がエコロジーの課題に真摯に取り組むことの大切さを強調されました。

教皇様が強調されるエコロジーへの配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めようとかいう単独の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、課題は「ともに暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合い、社会全体の進む道を見つめ直す回心が求められています。

教会は、アシジのフランシスコの祝日である10月4日までを「被造物の季節」としており、日本の教会もこの期間に様々な啓発活動を行います。教皇様が定めた今年のテーマは、詩篇19編から取られた「被造物の声に耳を傾ける」とされ、メッセージが発表されています。

その中で教皇様は、「被造物が上げる苦い叫びは、母なる大地の叫びであり、生態系から消えゆく多くの生物の叫び、また、気候危機の影響を最も強く受けている貧しい人々の叫び、先祖からの土地を経済的利益のために搾取される先住民たちの叫び、そして地球のエコシステムの崩壊を食い止めるために可能な限りの努力を望む若者たちの叫びでもある」と記し、そのためには個人的な回心にとどまらず、共同体の回心が必要だと指摘されています。

神の愛をあかしするために、いまどのような十字架を背負って歩もうとしているでしょうか。

 

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2022年8月27日 (土)

週刊大司教第九十一回:年間第二十二主日

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8月も間もなく終わりに近づきました。毎日不安定な天気ですが、今年は残暑は長く続くでしょうか。

現在の感染状況はピークを越えたようにも思われますが、毎回「波」が押し寄せる度に新たな指摘が専門家からはあり、なかなか気が抜けない時間が続いています。これだけ多くの人が気をつけていても検査陽性になったり発症したりしていますので、教区内の司祭の感染も広がり、いくつかの小教区では、そのためにミサができなくなっているところもあります。できる限りお手伝いできる司祭を探してはいますが、それもなかなか難しい状況が続いています。いましばらくは、皆様ご理解のうえ、なんとか乗り越える努力を継続するようお願いいたします。

全国に目を向けると、わたし自身も五月末に感染しましたが、札幌、さいたま、名古屋の司教様方が検査陽性になったとの報告を受けています。幸いなことに症状は軽いと聞いています。このような状況の中ではできることは限られていますので、教区としては、基本を忠実に守って、教会活動を慎重に継続する道を選択しています。どうかこれまで続けてきた基本的な感染対策を今一度心に留め、教会の活動を続けてくださるようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第91回、年間第22主日メッセージの原稿です。

年間第22主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第91回
2022年8月28日

「人間は、『余すことなく自分自身を与えない限り』、自己実現も成長もなく、充足も得られないように造られています」(「兄弟の皆さん」87)

教皇フランシスコは、回勅『兄弟の皆さん」にこう記しています。その上で教皇は、「いのちがあるのは、きずな、交わり、兄弟愛のあるところです。・・・自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだとうぬぼれるなら、そこにいのちはありません。そうした姿勢には、死がはびこっています」と述べています。

ルカ福音は、「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」というイエスの教えを記しています。人間関係において謙遜さが重要だとするこの話は、ここで終わっていたらマナーを教える話に留まったのかも知れません。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記しています。

宴席に招かれる人と招かれない人の対比は、ここで意図的に持ち出されているとしか思えません。それはこの話が、処世術やマナーを語っているのではなく、神の国に招かれるとは一体どういう意味であるのかを説き明かしているからに他なりません。

すなわち、上席に着こうとする人が象徴するのは、神の国に招かれるのは自分が勝ち得た権利の行使なのではなく、徹頭徹尾、神からの恵みでしかあり得ない事実であります。そして、すべてのいのちを神が愛おしく思われているからこそ、その招きからは、誰ひとりとして忘れ去られることはないと、その続きの話が示唆します。

その中にあって、天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いのきずな、交わり、兄弟愛を深めなくてはならないことが示され、それに対してあたかも自分が勝ち得た権利の行使のように高慢に振る舞い、隣人への視点を失ったところにはいのちがないことが示されています。

現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られたと、教皇フランシスコはたびたび指摘してきました。

第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「地上の富は万人のためにある」という原則を示します(69)。そこにはこう記されています。

「神は、地とそこにあるあらゆる物を、すべての人、すべての民の使用に供したのであり、したがって造られた富は、愛を伴う正義に導かれて、公正にすべての人に行き渡るはずのものである。・・・それゆえ人間は、富の使用に際して、自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、すなわち富が自分だけでなく他人にも役立ちうると言う意味において共同のものであると考えなければならない」

教皇フランシスコはこれを受けて、「兄弟の皆さん」にこう記しています。

「人は皆、同じ尊厳をもって、この地球に生まれ・・・肌の色、宗教、能力、出生地、居住地、そのほか多くのことの違いを、重視したり、皆の権利を損なって一部の人の特権を正当化することに利用してはなりません(118)」。

神ご自身がそうされるのですから、わたしたちも主の僕として、誰も忘れることなく、すべての人を等しく神の国に招き入れるよう努めましょう。

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2022年8月20日 (土)

週刊大司教第九十回:年間第二十一主日

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8月も後半に入り、多少の涼しさを感じるようになってきました。

東京都内の感染状況は厳しいままで、この数日は、司祭の中にも検査陽性となり、軽症ですが発症された方も少なくありません。現在、教区として主日にミサに与る義務は免除していませんが、これは条件がついているので、健康について心配がある場合は免除と考えてください。

アジア各地の司教協議会の連盟組織であるFABC(アジア司教協議会連盟)は、1970年に教皇パウロ六世がマニラを訪問された際に集まった司教たちの話し合いで、誕生した組織です。司教協議会が各教区の上部組織ではないように、この連盟も各司教協議会の上部組織ではありませんが、第二バチカン公会議の教会憲章で示された司教の団体性や協働性と翻訳される「コレジアリタス」を具体化し、アジアの教会の意味を更に具体化するための組織として誕生しました。2020年がその50周年でした。2020年には50周年を記念する総会が予定されていましたが、コロナ禍のため開催が延期となり、結局今年の10月に、FABC50と銘打って、記念の総会がバンコクで開催されることになりました。FABC50のホームページがありますので、参照ください。(上がFABC50のロゴです)テーマが、「アジアの民として、ともに歩み続けよう」となっています。

今回の総会のための祈りやテーマソングが準備されていますが、10月に間に合うように、祈りに関しては翻訳を進めています。

この総会を始めるにあたり、現在のシノドスの歩みに触発され、実行委員会は、10月の総会本番に先立って、総会開始のための典礼を、来る8月22日月曜日に行うことになりました。バンコクで行われ、教皇様からのメッセージを含め、様々な方のメッセージと、テーマソングの披露など、ネットで中継される予定です。22日月曜日の日本時間13時開始です。この行事中継のYoutubeリンクはこちらです。またはFacebookのリンクはこちらです。ご覧いただければ幸いです。

なお私はこのFABCの事務局長を務めていますので10月の会議には参加しますが、現在の感染症の状況などに鑑み、8月22日の開始のための典礼は、現地ではなくオンラインで参加します。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第90回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

年間第21主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第90回
2022年8月21日

パウロ6世が第二バチカン公会議閉幕から10年となる1975年、大聖年に発表された使徒的勧告「福音宣教」は、現代社会にあって福音に生き、福音をあかししようとするわたしたちにとって、今でも重要な道しるべとなっています。

教会が福音を告げしらせる必要性を、教皇パウロ6世は、「教会も目の前に、福音を必要とし、それを受ける権利を持っている無数の人々を見ています。なぜなら、『神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる』からです」(57)と記しています。

その上で教皇は、「たとえわたしたちが福音をのべ伝えなくても、人間は神のあわれみによって、何らかの方法で救われる可能性があります(80)」とまで記しています。

「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約に記されています(119)。

神はすべての人が救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられたすべてのいのちを愛おしく思われる神は、その救いがすべての人におよぶことを望まれています。

だからといって、わたしたちがなにもしないで、それどころか自分勝手に生きていたのであれば、果たしてそこに救いはあるのだろうかと、今日のルカ福音は問いかけています。

イエスは、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いに、直接には答えていません。なぜならば、救われるはずの者は、すべての人だからです。しかしその「すべて」を、「少ない」者とするのは、神の側ではなくて人間の側の勝手であることを、「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉が示唆しています。それに続く話で常に目覚めて準備をしている必要性が語られていますが、ここで重要なのは、救われるはずのわたしたちが、いかにしてそれを「少ない者」としないように、常に努力をしているのかどうかであります。

先ほどの「福音宣教」におけるパウロ6世の言葉には、続きがあります。

「しかし、もしわたしたちが、怠りや恐れ、また恥あるいは間違った説などによって、福音を述べることを怠るならば、果たしてわたしたちは救われるでしょうか(80)」

この世における狭い戸口は、わたしたちが福音の証し人となることを躊躇させるような、様々な誘惑のなせるところであります。福音を告げ知らせることへの怠り、それによってどういう反応があるのか見通せない不安による恐れ、社会全般を支配する価値観の中で、それとは異なる価値観を生きる事への恥ずかしさ、真理とかけ離れた説による誘惑。こちらにこそ真理がある、こちらこそ正しい道だという主張には、時としてわたしたちを惑わせ、イエスの福音から引き離す誘惑の力が潜んでいます。

パウロ6世の「福音宣教」の続きには、教皇の願いがこう記されています。

「願わくば、現代の人々が、悲しみに沈んだ元気のない福音宣教者、忍耐を欠き不安に駆られている福音宣教者からではなく、すでにキリストの喜びを受け取り、その熱意によって生活があかあかと輝いている福音宣教者、神の国がのべ伝えられ、教会が世界のただ中に建設されるために喜んでいのちをささげる福音宣教者から福音を受け取りますように」

イエスに従うと決めたわたしたち一人ひとりが、その福音宣教者です。

 

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2022年8月13日 (土)

週刊大司教第八十九回:年間第二十主日

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台風が接近する天候の不安定な週末となりました。東北をはじめ各地で大雨の被害が続出しています。被害に遭われた皆様に心からお見舞い申しあげると共に、この週末もまた充分に気をつけられますように、皆様の安全をお祈りいたします。

旧統一協会の事が、大きく取り上げられています。日本のカトリック司教協議会は、いわゆる霊感商法の被害などが大きな社会問題となり、またカトリック教会内での混乱も見られた1985年に、「世界基督教統一神霊協会に関する声明」を発表しており、その内容は現在も変わりません。

この声明では教えが全く異なっていることを指摘し、関連のいかなる運動や会合にも参加しないようにと、カトリックの信者に呼びかけています。また2008年の情報ハンドブックの特集でも、詳しく取り上げていますので、ご一読ください。

このような状況にあって、わたしたちの信仰は、神からの賜物である人のいのちを生かす信仰であって、人のいのちを見捨てたり、排除したり、暴力的に奪う信仰ではないこと、さらには社会の共通善の実現を目指す信仰であることを、あらためて心に留めたいと思います。

(なお「共通善」とは、第二バチカン公会議の現代世界憲章26に、「集団と個々の成員とが、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるような社会生活の諸条件の総体である」と記されています)

8月14日は年間第二十主日、その翌日8月15日は聖母被昇天の祝日です。聖母被昇天の祝日は、関口教会で午前十時(訂正:10時のミサはありません。)と午後六時のミサがささげられる予定ですが、午後六時、夕方のミサが、大司教司式ミサとなります。

以下、本日午後六時配信の「週刊大司教」第89回、年間第20主日メッセージ原稿です。

年間第20主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第89回
2022年8月14日

ルカ福音は、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」とイエスが述べた言葉を記しています。しかし同時にイエスは、自らの十字架での受難と死と復活を経なければ、その火が燃えさかることはないとも述べています。このことから、地上に投じられる火は、聖霊の火を示唆する言葉であろうと推測されます。もちろん聖霊に導かれて、神の福音が燃えさかる火のように広がっていくことも示唆しています。

使徒言行録に記された聖霊降臨の出来事は、騒々しくて落ち着かない出来事でありました。粛々と進むのではなく、周囲の人たちが驚いて見物に来るような、騒々しい出来事です。聖霊の働きがあるところには、騒々しさがあります。なにぶん火が燃えさかるのですから、落ち着いているはずがありません。聖霊が豊かに働くところは、騒々しくて落ち着かないのです。

ルカ福音は、対立と分断をもたらすというイエスの言葉を記します。これこそ落ち着かない言葉です。感染症の不安の中で戦争まで始まり、様々な暴力が支配する社会は、まさしく対立と分断の社会であり、現実は教会が主張し続ける支え合いと連帯の社会の対極にあります。一体これがイエスがもたらす現実なのでしょうか。

もちろんイエスの言葉は、対立や分断を推奨しているわけではありません。イエスの真意は、福音の価値観を前面に掲げ、聖霊の燃えさかる炎をひろげようとするならば、この世を支配する価値観と対立するという指摘です。

ヘブライ人への手紙でパウロは、この世の迫害に負けることなく、受難と死を耐え忍んだイエスの模範に倣い、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」と呼びかけます。

日本の教会は8月15日の聖母被昇天の祝日までを、平和旬間としています。コロナ禍でまだ制約がありますが、各地で平和を求める行動が繰り広げられています。わたしたちの行動は、この世界に神の秩序を実現させ、福音の価値観を生きる社会を実現し、賜物であるすべてのいのちがその始めから終わりまで尊重され守られる社会を実現しようとする行動です。あたかも暴力が支配するかのような現実は、ともすれば同じ暴力に頼って自らを守ることを良しとする方向に、わたしたちをいざないます。激しくそちらへ引き込もうとする潮流の中で、立ち止まって平和を唱えることは、容易なことではありません。まさしく福音の価値観を堅持しようとするとき、そこに社会の主流である価値観との対立が生じかねません。イエスの模範に倣い、忠実に忍耐強く、走り続けたいと思います。

その聖母被昇天の祝日に朗読されるルカ福音は、聖母讃歌「マグニフィカト」を記しています。

「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が人を計る量りについて語ります。その量りは人間の常識が定める価値観によるのではなく、神ご自身の価値観に基づく量り、すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだ、愛する存在なのだ、という神の愛といつくしみに基づいた量りであります。

自らの神の母としての選び、それ自体が、人間の常識をはるかに越えた神の価値観に基づいた、すべてのいのちを愛する神の具体的な行動であると、聖母は強調します。

わたしたち一人ひとりを、そのいつくしみを持って導かれる主の愛に信頼し、この世界に投じられた聖霊の炎がさらに燃えさかるように務めて参りましょう。

 

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2022年8月 6日 (土)

週刊大司教第八十八回:年間第19主日


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8月に入り、本日8月6日から日本の教会は平和旬間を過ごします。昨日、8月5日、広島の世界平和記念聖堂では毎年恒例の平和祈願ミサが捧げられ、私も司教団の一員として参加いたしました。また8月6日の朝、8時15分の原爆投下の時間の黙祷に続いて捧げられたミサにも参加いたしました。いつもであれば、東京も含め全国から多くの方が参加して行われる平和行事ですが、残念ながら、コロナ禍のため、今年も平和公園からカテドラルまでの平和行列などは中止となり、ミサや講演会も参加者を限定してオンライン配信で行われました。

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東京教区においては、都内の感染者の状況や、司祭が複数名検査陽性や発症していることなどもあり、ミサなどの公開を中止にしている教会も少なくありません。関口教会も、主任司祭など複数名の検査陽性のため、8月7日はミサが非公開ですが、オンライン配信で、大司教司式の平和祈願ミサを行います。

感染対策がおろそかにならないように、あらためて基本を見直してください。聖堂内でのマスク着用、手指の消毒、十分な換気に気を配り、適度な距離をとることや、帰宅時のうがいなどを忘れないようにいたしましょう。またミサでの歌唱は、全員ではなく、聖歌隊や独唱者に任せることを続けます。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第88回、年間第19主日のメッセージ原稿です。

年間第19主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第88回
2022年8月7日

ルカ福音は、主人の帰りを待つ間、常に目覚めて準備している僕の話を記します。「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」

この朗読箇所の直前には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。すなわちイエスが求めているのは、その再臨の時まで、わたしたちがどのように生きるのかであって、常に用意をするとは、単に準備を整えて控えていることではなくて、積極的に行動することを意味しています。

わたしたちは、天に富を積むために、神の意志をこの世界で実現する行動を積極的に取らなくてはなりません。神のいつくしみを具体化したのはイエスご自身ですが、そのイエスに従う者として、イエスの言葉と行いに倣うのであれば、当然わたしたちの言葉と行いも、神のいつくしみを具体化したものになるはずです。

神の望まれている世界の実現は、すなわち神の定めた秩序の具体化に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は、「地上の平和」の冒頭に、こう記しています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「ヨハネ23世地上の平和1)

わたしたちは、神の秩序が確立されるために、常に尽くしていきたいと思います。

日本の教会は、教皇ヨハネパウロ二世の平和への願いに触発されて、日本訪問の翌年から、8月6日の広島の日に始まり、9日の長崎の日、そして15日の終戦の日にいたる10日間を「平和旬間」と定めて、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、戦争の記憶を伝え、平和のために祈る時としてきました。

わたしたちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。わたしたちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、わたしたちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は平和の実現でもあります。

教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島の地から世界に向けてこう語りかけました。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません」

その上で、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と指摘されましたが、今年、国際社会は過去の悲惨な経験を忘れ去り、連帯の必要性をかなぐり捨て、将来への責任を放棄するかのように、暴力的な大国の行動に翻弄されています。

戦争によって暴力的にいのちを奪われる多くの方の存在を目の当たりにし、起こっている出来事の理不尽さに心が打ちのめされるとき、わき上がる恐怖と怒りは、思いやりや支え合いを、感情の背後に追いやってしまいます。今世界は、暴力によって平和を獲得することを肯定する感情に流されています。しかしそれは、真の平和を踏みにじることにしかなりえません

常に目を覚まして、神の秩序の確立のために、平和の確立のために、働き続けましょう。

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2022年7月30日 (土)

週刊大司教第八十七回:年間第18主日

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あっという間に7月も終わりです。学校も夏休みの真っ最中で、本来であれば、各地の小教区でも、様々な夏の行事が行われたり準備されたりしている時期です。東京では、このところ自治体からの検査陽性者の報告が相次ぎ、教区内の教会でも、様々な要因を勘案して夏恒例の行事を中止としたところも少なくないと報告を受けています。大変残念ですが、一日も早くこの状況から脱することができるように、わたしたちにできる祈りを続けたいと思います。また教会活動にあっては、手洗い、うがい、換気、マスク、適度な距離といった基本を、忘れないようにいたしましょう。

感染の拡大が続いている東京教区内では、この数日、いくつかの教会で、司祭の検査陽性が報告されています。また信徒の方々にも、検査で陽性となる方が増えていますし、発症されている方も少なくありません。特に司祭が感染した場合、それぞれの小教区のミサをどのようにするかは、現場の司祭に判断の権限をゆだねていますので、教会からのお知らせなどにご注意ください。

なお関口教会も、司祭ほかの検査陽性のため、明日7月31日のミサは、中止となっています。その後、8月7日については、平和祈願ミサを非公開配信で行うことができるか、検討中です。

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教皇様は7月24日から本日30日まで、カナダを司牧訪問されました。バチカンニュースは今回の訪問について、「今回の訪問は、カナダの政府と、カトリック教会、そして先住民共同体の招きに応えて行われるもの。教皇はこの訪問を通し、カナダのかつての先住民同化政策下、カトリック教会が運営に関わった寄宿学校において先住民の人々が体験した苦しみに耳を傾け、ご自身の寄り添いを直接伝えたいと願われている」と伝えています。

教皇様はカナダのエドモントン郊外で行われた先住民族の方々との集いで、「多くのキリスト教徒たちが様々な形で、先住民の人々を抑圧した権力者たちの植民地主義的なメンタリティーを支持したこと、中でもカトリック教会や修道会のメンバーが、無関心をも含めた態度をもって、当時の政府による文化の破壊と、寄宿学校制度を頂点とする強制的な同化政策に協力したことに対し赦しを願った」と報道されています。

教皇様はご自分のツイッターでも、この謝罪ですべてが終わるのではなく、いやしのプロセスの始まりであり、同時にゆるしは人間の努力だけではなく神からの恵みを必要とするとも述べておられます。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第87回、年間第18主日のメッセージ原稿です。

年間第18主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第87回
2022年7月31日

コヘレトの言葉は、「何というむなしさ。すべてはむなしい」と始まります。一体何がむなしいのでしょうか。コヘレトの言葉はそのあとで、「全てに時がある」という有名な一節を記します。この時は時計で計ることのできる時間ではなく、被造物に対して神が定めた時のことを指していますが、その神の定めた時に逆らって生きようとする姿勢やその価値観を、コヘレトの言葉がむなしいのだと指摘しています。

パウロはコロサイの教会への手紙で、「上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と述べています。ここにおいても、この世界を支配する人間的な価値観は、脱ぎ捨てるべき古い人の生き方を支配するものであって、造り主の姿に倣う新しい人を支配するものではない事を明示します。

ルカ福音は、自らのために蓄財しようと、新しく大きな蔵を建てようとしている金持ちのたとえ話を記しています。この世の価値観の典型である自分のための蓄財行為に対して、神が「愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる」と言ったというこのたとえ話は、まさしく、この世の価値観に支配され、徹底的に利己的な動機から行動するものに、その「むなしさ」を突きつけています。同時に、この世界を支配しているのは神であって、人間の都合で世界が動くわけではないと言う事実、すなわち、全ては神の時によって定められており、それに逆らうことは全くむなしいとこのたとえ話は教えています。

貧しい人のために積極的に出向いていく教会であることを求める教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」に次のように記しています。

「世界はすべての人のために存在しています。人は皆、同じ尊厳を持って、この地球に生まれるからです」(118)

その上で教皇様は、「共同体としてわたしたちには、すべての人が尊厳を持って生き、十全な発達のための適切な機会が得られることを保障する責務があるのです」と記します(118)

さらに教皇様は聖ヨハネ・クリゾストモの言葉を引用して、こう記します。

「自分の財産を貧しい人々に分かち与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。わたしたちが持っている物はわたしたちのものではなく、貧しい人々の物です」(119)

第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「人間の価値は、その人が何を持っているかではなく、どのような者であるかによる(35)」という一節があります。わたしたちは、どのような者であろうとしているのでしょうか。自分自身を世界の中心に据え、自分の計画で人生が動いていると思い込む生き方なのか、それともすべての人の尊厳が守られ、賜物である命が十全な発達の機会を与えられるよう努める生き方なのか。

教皇様の「福音の喜び」に記された呼びかけに、あらためて耳を傾けたいと思います。

「出向いていきましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いていきましょう。・・・わたしは出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。(49)」

神の定められた時に敏感に心を向け、それを悟り、それに従う人生を歩みましょう。

 

 

 

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