カテゴリー「週刊大司教」の181件の記事

2024年9月 7日 (土)

週刊大司教第182回:年間第23主日B

1725064631674

9月になり、少しづつ秋の気配も感じるようになりましたが、まだまだ暑い毎日が続きそうです。

教皇様はインドネシアに始まり、パプアニューギニア、東ティモール、シンガポールを歴訪中です。教皇様の健康のためにお祈りください。わたしも司教協議会の会長として呼ばれたので、12日のシンガポールでのミサに参加させていただく予定です。

シノドスの第二会期がまもなく始まります。第二会期のための討議要項の日本語翻訳ができあがりましたので、中央協議会のホームページで公開されています。また昨日開催された臨時の司教総会で司教様方に報告ができたので、第二会期に備えた様々な準備の記事や呼びかけなどの記事をシノドス特別チームで作成して、中央協議会の特設サイトに掲載いたしました。どうぞご覧ください。冒頭に、わたしからの呼びかけがあり、さらにそのほかの記事へのリンクも張ってあります。そのほかの記事としては、まず5月に行われた小教区で働く司祭の会合について参加した高山徹神父様の報告、8月に行われたアジアのシノドス参加者の会合について参加した西村桃子さんの報告。そして8月末に行われたアジア、アフリカ、ラテンアメリカの司教協議会連盟の会合の報告をわたしが記しました。

さらには、討議要項(第二会期のための公式な手引き書)はかなり長い文書ですので、その要約も特別チームで作成し、さらにそこから読み取れる今後期待される展開について、チームの小西広志神父様(フランシスコ会)に記事を書いていただきました。ご覧いただけましたら幸いです。(なお、シノドス第二会期の準備のために構成されたシノドス特別チームは、わたしと、神学顧問の小西広志神父様、奉献生活者の西村桃子さん、教区司祭の高山徹神父様、信徒の辻明美さんで構成されています。)

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第182回、年間第23主日のメッセージ原稿です

年間第23主日B
週刊大司教第182回
2024年9月08日

マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が、「すべてのいのちを守るための月間」を過ごしているいま朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラウダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、現実に対して閉ざされているわたしたちの心の耳と目が開かれる必要があるからです。

現実の世界におけるしがらみは、わたしたちの思考を制約し、聞こえるはずの叫びに耳を塞がせ、見えるはずの世界から目を背けさせてしまいます。教皇フランシスコは、そういったしがらみによる縛りをすべてうち捨て、いのちが育まれるこの共通の家をどうしたら神が望まれるように育み護ることが出来るのか、目を開き、耳を開くようにと呼びかけます

マルコ福音には、イエスが「エッファタ」の言葉を持って、耳の聞こえない人の耳を開き、口がきけるようにされたと記されています。さまざまな困難を抱えていのちを生きている人に、希望と喜びを生み出した奇跡です。この物語は、具体的に困難の中で生きている多くの方への神のいつくしみの希望のメッセージであると同時に、すべての人にとっても必要な、閉ざされた心の目と耳の解放の物語でもあります。

わたしたちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。わたしたちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、わたしたちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。わたしたち一人ひとりのいのちが豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。だからこそ、わたしたち一人ひとりには今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が必要です。

先頃日本の司教団が発表した総合的エコロジーのメッセージ「見よ、それはきわめてよかった」において、わたしち司教団は、「観る、識別する、行動する」という「三段階を通じて、環境やエコロジーについての理解を深めるよう」勧めています。第一のステップの「観る」について司教団は、「単なる事実の把握にとどまらず、神の思いに包まれながら、心を動かされつつ気づく」ことだとして、それは「出会う」ことでもあると指摘します。その上で、司教団は、「わたしたちはたくさんの思い込みや先入観、自己中心的な願望を持って生きています。また問題の状況・原因は複雑なもので、わたしたちの認識にはいつも限界があります。そのような限界を認めつつ、聖霊を通して豊かに働いてくださる主に信頼して、観る歩みを進めましょう」と呼びかけています。わたしたちの閉ざされた目と耳を開こうと、主は今日も「エファッタ」と呼びかけておられます。

| |

2024年8月31日 (土)

週刊大司教第181回:年間第22主日

Img_20240703_143306730

あっという間に8月は終わり、9月が始まります。

この数日の、台風に伴う大雨の影響で、被害を被られた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

今年の9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日です。この日から10月4日までを、日本の教会は「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。司教協議会の「ラウダート・シ」デスク(責任司教は成井司教様)では、呼びかけのメッセージを発表しています。また教皇様も、世界祈願日にあたって、「被造物とともにあって、希望し行動しよう」というタイトルのメッセージを発表されています。

さらに日本の司教団では、司教団のメッセージとして、「見よ、それはきわめてよかった」を発表しており、書籍でも頒布していますが、中身が重要ですのでテキストを公開しています。是非ご一読ください。

日本カトリック司教協議会(教会法上の一定地域の司教たちの集まりの名称)には、様々な委員会やデスクなどがあり、事務局であるカトリック中央協議会(日本の法律に基づいた宗教法人の名称)を通じて、それぞれのテーマの担当が様々なメッセージを発表しています。

そういったメッセージの中でも「司教団メッセージ」と呼ばれるものは、現役の司教全員が賛成した一つの地域の司教団の総意を表すメッセージとして、一番重要な意味を持つメッセージとお考えください。ですから、「司教団メッセージ」は、それほど頻繁に出されることはありません。

また司教団も、数年でガラリとメンバーが替わります。例えば2015年のアドリミナに出かけた日本の司教団と、今回2024年のアドリミナに出かけた司教団のメンバーは、10名が入れ替わっています。ですので、前回の司教団メッセージである「いのちへのまなざし、増補新版」と今回の「見よ、それはきわめてよかった」では、司教団のメンバーが替わり、そのトーンなどに違いが出ているのを感じ取っていただければと思います。

なお「ラウダート・シ」デスクが主催して、東京教会管区では、同メッセージ発表に伴う出版記念シンポジウムを、9月7日に、東京四谷のニコラ・バレ修道院を会場に、午前10時半から昼過ぎまで開催いたします。当日は管区内の司教のうち、わたしや成井司教を含め数名も参加します。詳細は、こちらの東京教区ホームページをご覧ください。(東京教会管区:札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、東京の各教区で構成)

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第181回、年間第22主日のメッセージ原稿です。

年間第22主日B
週刊大司教第181回
2024年9月01日

9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日であり、日本の教会は、本日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。

教皇様は今年の祈願日にあたりメッセージを発表され、そのタイトルを「被造物とともにあって、希望し行動しよう」とされています。

教皇様はメッセージで、「キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です。・・・信仰は贈り物、わたしたちの内なる聖霊の実なのです。けれども同時に、自由意志で、イエスの愛の命令への従順をもって果たすべき務めでもあります。これこそが、わたしたちがあかしすべき恵みの希望です」と記します。

その上で教皇様は、「イエスが栄光のうちに到来するのを希望をもって辛抱強く待ち望んでいる信者の共同体を、聖霊は目覚めさせておき、たえず教え、ライフスタイルの転換を促し、人間が引き起こす環境悪化を阻止して、変革の可能性の何よりのあかしとなる社会批評を表明するよう招くのです」と呼びかけておられます。

司教団の優先的取り組みとして、司教協議会には「ラウダート・シ・デスク」が設けられており、その責任者である成井司教様は、「月間」の呼びかけで、「イエスのセンス・オブ・ワンダー、驚きに満ちたまなざしは、わたしたちが総合的な(インテグラル)エコロジー、すなわち神と、他者と、自然と、そして自分自身と調和して生きる道筋を示しています。今年のすべてのいのちを守るための月間の間、イエスの驚きに満ちたまなざしで自分を取り巻くいのちのつながりに目を向けてみませんか」と呼びかけておられます。司教団が先般発表したメッセージ、「見よ、それはきわめてよかった――総合的な(インテグラル)エコロジーへの招き」を、是非ご一読ください。

マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対してイエスは、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘されます。

さまざまな掟や法が定められた背後にある理由は、人を規則で縛り付けて自由を奪うためではなく、神の望まれる生き方に近づくための道しるべであること思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

神がそのいつくしみの御心を持って愛のうちに創造された全被造界は、わたしたちに守り耕すようにと委ねられたものであって、好き勝手に浪費するために与えられてはいません。わたしたちは神から与えられた使命を忠実に果たす、本当の意味での神の掟を守るものでありたいと思います。

| |

2024年8月24日 (土)

週刊大司教第180回:年間第21主日B

P1000726c

8月の最後の日曜日となりました。年間第21主日です。

今週は、シノドスの関連で、アジアと南米とアフリカの、それぞれの地域司教協議会連合体の責任者を集めて、シノドスについての準備の会合が、オロリッシュ枢機卿様の教区ルクセンブルグで開催されます。主催者によると、南の司教協議会連合の意見を集約するためとのことで、わたしもアジア司教協議会連盟(FABC)の事務局長として参加してきます。アジアからは、FABCの現在の会長であるミャンマーのボ枢機卿、来年からの次期会長であるインドのフェラオ枢機卿様、次期副会長のフィリピンのダビド司教様、さらに副事務局長のラルース神父様が参加し、さらに講師として、ボンベイのグラシアス枢機卿様も来られると伺っています。これについては、また記します。

シノドスはまもなく第二会期ですが、すでに何度も繰り返しているように、第二会期で何かを決めて、それで今回のシノドスが終わるのではありません。

従来のシノドスは、特定の課題について世界各国の様々な意見を集約し、それに基づいてローマの会議で議論して、教皇様への提言を作成するというプロセスでした。今回は全く異なります。何度も繰り返していますが、今回のシノドスは特定のテーマについて何かを決めることではなくて、霊における会話などを通じて教会共同体が共に霊的な識別をして、聖霊の導きを見極めるようになることを目指しています。

そのために、特に第二会期の準備では、草の根の共同体がそれぞれ何かを提言して、それを国などの単位でまとめ上げて、さらにローマで集約するという手段は採用されていません。それよりも、これから先に向かって、長期的な視点から、霊における会話を通じた共同識別を根付かせるために、何がその壁になっているかを見いだし、その壁を乗り越えるにはどうしたらよいのかの道を見いだすことを、まさに霊における会話を通じて話し合い識別するのが、この10月の第二会期です。

ローマに自分たちの意見が届いていない、反映していないとご心配されている方の声を聞きますが、それはこの第二会期の課題ではありませんのでご安心ください。そうではなくて、これから10月の会期が終わっても、将来に向かって、このシノドス的な霊的識別の方法を、いかにして根付かせていくのかを具体的に実践していくのがいまの課題です。教会の方向性の変革は、まだ始まったばかりです。今年の10月で終わりではありません。

したがって、先般シノドス特別チームが作成したハンドブックは、第二会期に間に合わせるために作成したのではなくて、将来を見越して、これから長期的に実践していくための手引きです。来年も再来年も長期的に使っていた抱くものです。この数ヶ月に慌てて実践するためではなくて、これから先何年にもわたって息長く実践することで、霊における会話による霊的識別を定着させるためのハンドブックです。

すでに東京教区においても、いくつもの小教区から追加で注文をいただいています。東京教区の宣教司牧評議会でも、毎回実践して、だんだんと当たり前の識別方法として定着させようとしています。来年以降の教区宣教司牧評議会では、5年目になる東京教区の宣教司牧方針の中間見直しを、霊における会話を通じて深めていくことを考えています。

ハンドブックは中央協議会のシノドス特設ページからPDFでダウンロードもしていただけます。どんどん利用して、多くの方に実践していただきたいと思います。司教協議会のシノドス特別チームでは、必要であれば、教区単位などの研修会のお手伝いをしたり、そのための講師を斡旋することも可能ですので、必要の際には、中央協議会までご相談ください。

また4月末に行われた、教区司祭のためのシノドスの集まりには、日本から大阪高松教区の高山徹神父様が参加してくださいました。高山神父様もシノドス特別チームのメンバーですが、各地の司祭の研修会などで、その貴重な体験をお話しくださいますので、お声がけください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第180回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

年間第21主日B
週刊大司教第180回
2024年8月25日

福音書は、弟子たちに対して自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。人々がイエスを預言者だとかメシアだとか褒め称えていた話を伝えたとき、イエスが弟子たちに、「それではあなた方はわたしを何者だというのか」と問いかけた話が福音の他の箇所にありますが、今日もまたイエスは弟子たちに自ら判断するようにと迫ることで、わたしたちの信仰が、誰かに言われて信じるものではなくて、自らの判断と決断に基づいた信仰であることを明示しています。

自らをいのちのパンとして示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、多くの人々は理解することが出来ません。世の常識と全くかけ離れたところにイエスが存在しているからです。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。

ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。

ペトロの応えの特徴は何でしょうか。それは、ペトロ自身が体験し、納得した事実に基づいている自己決断の言葉であります。ペトロはイエスと出会い、イエスと旅路を共にする中で、イエスこそが永遠の命の言葉であると確信しました。誰かにそう教えられたのでもなく、どこかで学んできたことでもない。自分自身の「イエス体験」に基づいて、ペトロは自己決断をしています。

わたしたちにとって必要なのは、この自己決断に至るための、「イエス体験」、つまりイエスとの具体的な出会いです。

教皇様は、来年の聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「すべての人にとって聖年が、救いの門である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように」と記し、その上で、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると指摘されます。

教皇様は、キリスト者の人生は希望と忍耐によって彩られているけれど、希望は人生の旅路の中でわたしたちをイエスとの出会いへと導いてくれる伴侶であると指摘されています。

わたしたちには、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」との出会いの中で、「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」において、そしてご聖体の秘跡において、主と直接に出会う機会が与えられています。

さらに教皇様が今回の聖年で示されるように、主における希望を抱きその希望を多くの人にもたらすことを通じて、わたしたちは主との出会いへと導かれます。

主との具体的な出会いを通じて、わたしたちは信仰における確信を深め、自らの決断のうちに、ペトロと共に、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と力強く応えるものでありたいと思います。

| |

2024年8月17日 (土)

週刊大司教第179回:年間第20主日B

2024_08_15

八月も後半となりました。お盆休みに日本を襲った台風の被害を受けられた方々に、お見舞い申し上げます。

8月10日にガーナの首都アクラで行われた神言修道会の司祭叙階式を司式してきました。5名の新司祭が誕生しました。そのうちの一人が、わたしがかつて、1986年から1994年まで主任司祭などを務めた教会の出身でしたので、招かれて参りました。同じく同教会出身で、いまは東京教区内で働く神言会のマーティン・デュマス神父と、その他7名の方が同行してくださいました。

叙階式も翌日のオソンソン村での初ミサも、どちらも4時間を越える長丁場でした。聖歌隊の素晴らしい歌と、皆さんの躍動する踊り。久しぶりに、アフリカの喜びに満ちあふれた典礼に与りました。その後14日深夜に無事帰国しております。ガーナについては、稿をあらためて記します。(下の写真、叙階式の最後に、新司祭からの祝福を受けるわたしと、アクラ教区のアサリ補佐司教様)

Img_1402

以下本日午後6時配信、週刊大司教第179回、年間第20主日のメッセージ原稿です

年間第20主日B
週刊大司教第179回
2024年8月18日

イエスは今日の福音で、ご自分こそが永遠の命の源であることを宣言されています。イエスが福音で、「永遠に生きる」と言われるとき、それがいわゆるわたしたちのこの世における人生がいつまでも続くことを意味していないのは、次のイエスの言葉から理解されます。

イエスは、ご自分の肉を食べ血を飲まなければ、「あなたたちのうちに命はない」と言われます。しかしよく考えてみれば、そう言われているユダヤ人たちは、目の前で生きている人間です。生きている人間、すなわちいま命を生きている人間に対してイエスは、「あなたたちのうちに命はない」と言われるのですから、イエスの言う命、すなわち永遠の命とは、いまのこの人生をいつまでも続けることとは全く異なることを意味していることが理解されます。

わたしたちのいのちは神からの賜物です。神は自らが創造されたいのちを愛し抜かれ、ご自分が望まれるようにそのいのちが十全に生きられる世界を実現されようとしています。そのいのちが生きる世界は、この地上にとどまるのではなく、御父の元での永遠の中にあるいのちです。

だからといって、この世界は仮の住まいだからどうでも良い、御父の元での永遠のいのちのことさえ考えれば良いと、この世界の現実から目を背けようとする人たちもいます。果たしてそれはどうでしょう。

イエスは福音で、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉」だと言われます。「世を生かす」糧であります。すなわち、神の望まれる世界は、死後の永遠の世界のことだけではなく、いまわたしたちが生きているこの世界のことでもあり、それがためにわたしたちには、永遠のいのちの一部分を構成するこの世界の現実を、神が望まれる世界へと変えていく務めがあります。それこそがわたしたちの福音宣教です。

福音は、死んだ後に永遠の救いに与るためだけではなく、この地上において神の秩序が実現し、神が望まれる世界を生み出すことによって、賜物であるいのちが十全に生き、尊厳を守られるような世界を実現するためにも、一人でも多くの人に伝えられなくては成らない宝物です。

主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。それは、今も日々のミサにおいて繰り返され、わたしたちはミサに与り、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心に、思いを馳せます。主はご聖体のうちに現存されます。

聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」だと、教会憲章は指摘します。その上で、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘します(11)。

すなわち、御聖体をいただくことは、神からお恵みをいただくという受動的な側面だけではなく、わたしたち自身が自分をいけにえとしてささげるという、能動的側面も伴っています。。

御聖体をいただくわたしたちには、主の死と復活を、世々に至るまで告げしらせる務めがあります。その上で、わたしたちには、その福音に生き、言葉と行いで、現存される主イエスそのものである神の愛をあかしする務めがあります。さらにわたしたちには、御聖体によってキリストの体と一致することで、一つの体としての教会共同体の一致を推し進める務めがあります。

| |

2024年8月 3日 (土)

週刊大司教第178回:年間第18主日B


2024_07_28_rca_0250

あっという間に8月になりました。8月は特に、6日と9日の広島と長崎の原爆忌に始まり15日の終戦記念日までの10日間、平和旬間が定められており、平和について語り、平和について祈り、平和について行動するときとなっています。東京教区における平和旬間の行事は、こちらの教区ホームページのリンクにある内容で予定されています

あらためてですが、本日のメッセージでも触れている司教協議会の会長としての平和旬間の談話はこちらです。そこでも触れていますが、平和は、総合的な視点からみて、この世界におけるわたしたちの命の始まりから終わりまで、すべからくその尊厳が守られることによってのみ確立されます。ですから平和を求める動きは、戦争だけではなく、命にかかわるすべての出来事を考察の対象としなくてはならず、一年を通じた課題です。八月はその中でも、過去の歴史の経緯から、特に戦争など命に対する暴力に注目しながら、平和を語り祈るときとしたいと思います。

夏休み期間でもあることから、教会学校などの行事もあることでしょう。どうか安全に留意しながら、心と体が豊かに成長する時を過ごされますように、皆さまの安全と霊的成長のためにお祈り致します。

わたしは、目黒教会の助任であるマーティン神父を同行者として、ガーナで8月10日に行われる神言会の司祭叙階式を司式するために、まもなくガーナへ一週間、出かけて参ります。日本から数名の方々がご一緒くださることになり、心強く思います。新しい交わりが開かれることを期待しての旅です。マーティン神父様自身が、わたしがガーナで働いていたときの担当小教区の出身者ですが、今回叙階される新司祭の中にも、その同じ村の出身者がおります。その関係で、かつて主任司祭を務めていたわたしが、叙階式に呼ばれることになりました。通信環境がどうか分かりませんが、随時現地から報告できればと願っています。なお次の土曜日、8月10日の週刊大司教はお休みです。次回は8月17日の予定です。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第178回、年間第18主日メッセージ原稿です。

年間第18主日B
週刊大司教第178回
2024年8月4日

「私が命のパンである」と宣言される主イエスの言葉を、ヨハネ福音は記しています。集まっている人々は、この世の生命を長らえるための食物を求めているのですが、イエスは永遠の命を与えるパン、すなわちご自身のことを語っておられます。

わたしたちはこの世界で生きていますから、「いまどう生きるのか」に関心を寄せてしまいます。しかし、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」とペトロの第二の手紙の三章に記されているとおり、永遠に至る神の救いの計画から見れば、人間の人生における例えば百年は、一瞬にすぎません。わたしたち人類は、ほんの短い先すらも見通すことができず、いまを生きることに心をとらわれて、数々の過ちを積み重ねています。

その最たるものは、様々な理由を見いだして始められる戦争や武力紛争です。確かにその時点の世界における力関係では、戦争だけが選択肢に見えたことでしょう。しかし戦争を始めることは、命を危機にさらすことに他なりません。神の救いの計画の中では、賜物として神が創造し与えてくださったこの命を、すべからく守り抜くことこそが最も大切であるはずです。にもかかわらず、わたしたちは短期的な人間の視点から様々な理由を持ち出しては、護るべき命を暴力にさらし続けています。

ご聖体をいただくわたしたちは、ご聖体のうちに現存される主との一致のうちに、主が教えてくださる道を歩むように務めることで、自分自身の救いのためだけではなく、人類全体の救い、すなわち神の救いの計画に与り、その計画の実現のために働く者となります。視点を自分のうちだけに留め、短期的な思惑に振り回されることなく、ご聖体に現存される主イエスに生かされて、常に新たにされ、神の視点で世界を見るものでありたいと思います。

8月は、平和について思いを巡らし、平和を祈るときであります。広島、長崎における原爆忌から終戦の日までの10日間を、日本の教会は平和旬間と定めています。

平和旬間にあたり、司教協議会の会長談話を発表しています。今年はテーマを、教皇様が繰り返される言葉に触発されて、「無関心はいのちを奪います」といたしました。

教皇聖ヨハネ23世の「地上の平和」の冒頭には、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることも」ないと記されています。したがって、神の定めた秩序の実現を妨げる出来事は、そのすべてが平和の実現を阻んでいると教会は考えます。もちろんその筆頭には、神からの賜物である命を暴力的に奪う戦争や紛争があるのは間違いがありません。

しかし同時に、神の定めた秩序の実現を阻む状況とは、武力の行使だけにとどまらず、ありとあらゆる命への暴力がそこには含まれています。神の秩序の実現を妨げ、人間の尊厳をないがしろにする現実は、神の平和の実現を阻害するものです。あらためて平和の実現を、祈りたいと思います。

| |

2024年7月27日 (土)

週刊大司教第177回:年間第17主日B

2024_07_07_rca_0062

7月も最後の日曜日となりました。全国的に暑い毎日が続いております。大雨で土砂災害や洪水の被害に遭っている地域も多くあります。被害を受けられた多くの皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

中央協議会からは、この数日の間に、様々な出版物が出ました。まずは聖年の大勅書「希望は欺かない」です。これは高見大司教様が翻訳をしてくださいました。税込み220円の定価のついた小冊子としてあります。聖年に向けた準備として、是非手元に置いてください。またできる限り多くの肩に触れていただきたく、テキストをそのまま中央協のホームページに掲出してありますので、ご活用ください。

なお同時に発表された聖年に伴う教皇庁内赦院の「教皇フランシスコにより発表された 2025年の通常聖年の間に与えられる免償に関する教令」は、翻訳を中央協議会のこちらのリンクから読んでいただくことができます。

またすでに様々な方が触れてくださっていますが、久しぶりの司教団全員一致で発出した司教団メッセージとしての「見よ、それはきわめてよかった」も、出版されています。こちらも定価がついた小冊子ですが、特に内容を多くの方に読んでいただきたく、無料でテキストを中央協議会のサイトに掲出しております。どうぞご活用ください。教皇様の「ラウダート・シ」に触発されて、司教団は総合的エコロジーの視点を持つことの重要さを強調しており、メッセージの内容もさることながら、「ラウダート・シ・デスク」を司教協議会に設置し、成井司教様を責任者に、今後各地で啓発のためのプログラムを展開していくことになっています。東京教会管区でも、9月7日の午前中に、東京でシンポジウムを行いますが、これについては別途お知らせします。なおこちらのリンクは新潟教区のホームページですが、担当の成井司教様が、早速シンポジウムの案内を掲出されていますのでご覧ください。またデスクの責任司教である成井司教様と担当のアベイヤ司教様のお二人で、このメッセージについて解説したビデオが作成されています。こちらのリンクからYoutubeでご覧いただけます。是非。

さらに、先日の司教総会で司教様方に報告された今年の平和旬間のためのわたしが書いた司教協議会会長談話「無関心はいのちを奪います」も、すでに公開されています。こちらのリンクから是非一度ご覧いただければと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第177回、年間第17主日メッセージ原稿です。

年間第17主日B
週刊大司教第177回
2024年7月28日

ヨハネ福音は、「五つのパンと二匹の魚」の物語を記しています。

ひとりの少年がささげたのは、五つのパンと二匹の魚でしたが、そこに集まった五千人を超える人たちの空腹を満たしたという、奇跡物語です。

この物語は、少ない食べ物が多くの人を満たしたと言う奇跡の物語であると同時に、自分が持つ数少ないものをまもるのではなく、他者のために惜しみなく分かち合ったときに生まれる愛の絆の物語でもあります。

教皇フランシスコは2015年7月26日のお告げの祈りの際にこの福音の箇所に触れ、次のように述べておられます。

「イエスは「買う」という論理の代わりに「与える」という別の論理を用いています」

その上で教皇は、この物語が、ミサを通じて主の食卓にあずかり、主イエスご自身の現存である御聖体によって生かされることで教会共同体にもたらされる、共同体の交わりにおける霊的な一致の意味をあらためて考えさせると指摘します。

教皇はそのことを、「ミサにあずかることは、イエスの論理、すなわち無償の論理、分かち合いの論理に分け入ることを意味します。また、わたしたちは皆、貧しいからこそ、何かを与えることができます。「交わる」ことは、自分自身や自分が持っているものを分かち合えるようにしてくださる恵みを、キリストから受けることを意味するのです」と記します。

さらに教皇は、わたしたちひとり一人を「与える」ことへと招かれて、こう述べています。

「わたしたちは確かに、一定の時間や何らかの才能、技能を持っています。「五つのパンと二匹の魚」を持っていない人などいるでしょうか。わたしたちは皆、それらを手にしています。もし、わたしたちが主の御手にそれらをゆだねたいと望むなら、世界が少しでも愛、平和、正義、そしてとりわけ喜びに満たされるのに、それらは十分、役立つでしょう」

世界は希望を必要としています。とりわけ、各地で頻発し、なおかつ解決の道が見いだせない武力による対立は、多くのいのちを危機に陥れ、絶望を生み出しています。世界は希望を必要としています。

希望は、どこからか持ってこられるような類いのものではなく、心の中から生み出されるものです。心の中から希望を生み出すための触媒は、共同体における交わりです。互いに支え合い、ともに歩むことによって生まれる交わりです。少ない中からも、互いに自らが持っているものを分かち合おうとする心こそは、交わりの共同体の中に希望を生み出す力となります。

 

 

| |

2024年7月20日 (土)

週刊大司教第176回:年間第16主日B

2024_07_15-_rca_0014

東京は梅雨が明け、本格的な夏となりました。

臨時司教総会が、7月16日午後から19日昼まで、潮見にある日本カトリック会館で開催され、全国15の教区から17名の現役司教と男女修道会の代表4名が集まりました。開会にあたって、着任されたばかりの新しい教皇大使モリーナ大司教様が潮見までおいでくださり、挨拶をしてくださいました。モリーナ大司教は、以前、参事官として日本で働いた経験もあるので、司教団の中にも、わたしを含めて大使を存じ上げているものもおりますし、また教会の中には、以前の参事官としての任期の時に交流があった共同体もあると聞いています。大使ご本人も、改めて日本に着任されたことをお喜びで、これから全国各地の教会をできる限り訪問したいという意向が表明されています。

Img_20240214_105323707_20240719181001

具体的な司教総会の決定などについては、別途、中央協議会のホームページなどをご覧ください。ただ一点付け加えるならば、今回の総会中に、会長選挙を行いました。現在のわたしの会長任期は来年6月に開催される定例司教総会までとなります。したがって次期会長の任期は2025年6月から3年間となります。

選挙の結果、わたしが再選され、改めて来年の6月以降3年間、会長を続投することになりました。どうぞよろしくお願い致します。

また同時に行われた選挙で、梅村司教様が副会長に、大塚司教様が事務局担当に再選され、常任司教委員会のメンバーも数名が入れ替わることになりました。これについても、別途お知らせ致します。

また、8月の平和旬間に先立って、今年は会長談話を用意させていただきましたが、これについても司教団の承認をいただき、中央協議会のホームページなどに掲載されることになります。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第176回、年間第16主日メッセージ原稿です。

年間第16主日B
週刊大司教第176回
2024年7月21日

マルコ福音は、先週の続きで、福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれたと記します。

シノドス第一会期の最終文書は、信仰養成について触れた箇所で、次のように記しています。

「イエスが弟子たちを養成した仕方は、わたしたちが従うべき模範です。イエスは単に教えを授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました。自らの祈りによって、「祈ることを教えてください」という問いを彼らから引き出し、群衆に食事を与えることによって、困っている人を見捨てないことを教え、エルサレムへ歩むことによって、十字架への道を示しました(14b)」

今日の福音では、実際に宣教に出かけて戻ってきた弟子たちに、「しばらく休むが良い」と休息をとることを勧めた話になっていますが、これは単に身体的な休息だけではなく霊的な休息、すなわち観想と祈りにおける振り返りの必要性を弟子たちに教えた話です。

イエスご自身も、人々の間での様々な教えや具体的な行動の前、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが他の箇所に記されています。ご自分の使命をはたす力を、観想の祈りから得ておられた主イエスは、まさしくやってみせることで、弟子たちにその重要性を示しました。

シノドス第一会期の最終文書は、シノドス的な教会共同体であるために必要な要素を記している箇所に、次のように記しています。

「イエス・キリストを人生の中心に据えるには、ある程度、自己を空にすることが必要です。・・・各人が自分の限界と自分の視点の偏りを認識することを強いる、厳しい禁欲的な実践です。このため、教会共同体の境界を越えて語りかける神の霊の声に耳を傾ける可能性が開かれ、変化と回心の旅を始めることができるのです(16c)」

シノドス的な教会を求める旅路には、例えば霊における会話のように重要な道具が用意されています。霊における会話が強調されることで、それをその通りに行うこと自体が重要視されてしまうきらいがありますが、あくまでもそれは重要ではあるけれど道具の一つに過ぎません。霊における会話のプロセスの中で大切なことは、やはり沈黙と祈りです。もちろん参加者がそれぞれの思いを語ることと耳を傾けることは重要ですが、それ以上に、沈黙のうちに共に祈ることが欠いていては、霊における会話は成り立ちません。沈黙の祈りは考え込むときではなく、「自己を空にする」時であります。「自分の限界と自分の視点の偏りを認識する」時でもあります。

わたしたち教会の福音宣教の活動は、必ずや沈黙のうちの振り返りの祈りの時に支えられていなくてはなりません。

| |

2024年7月13日 (土)

週刊大司教第175回:年間第15主日B

2024_06_30_rca_0095

七月も半ばに入り、暑い日が繰り返し不安定な天候が続いています。大雨の被害を受けられた方々に、お見舞い申し上げます。

今年は、ちょうど20年前、新潟の司教に任命された直後のこの時期、新潟の三条市周辺で大雨による洪水被害がありました。被災地に、当時の主任であった佐藤神父様や、故川崎神父様と、自転車に乗って出かけて行ったことを思い起こしております。

Messenger_creation_ad8b48a7d8874aca962b7

一週間前の土曜日、晴天で暑い日でしたが、カトリック府中墓地において、三名の東京教区司祭の納骨式を執り行いました。府中墓地に入ると過ぎ左手に事務所や聖堂がありますが、その前にあるのが、東京教区司祭の共同納骨墓です。

このたびの納骨式は、2024年2月13日に帰天されたパドアのアントニオ泉富士男神父、2024年4月11日に帰天された使徒ヨハネ澤田和夫神父、2024年5月20日に帰天された使徒ヨハネ小宇佐敬二神父の三名でした。この三人の司祭方は、小教区でも活躍されましたが、同時にそれぞれ独特な使徒活動において大きな功績を残されました。その中でも澤田神父様にあっては104才の長寿を全うされ、長年にわたり独自の霊性で多くの人に深い思い出を残されました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第175回、年間第15主日のメッセージ原稿です。

年間第15主日B
週刊大司教第175回
2024年7月14日

マルコ福音は、イエスが十二人の弟子たちを呼び集め、二人ずつ組にして、福音宣教のために送り出したことを記しています。あらためて強調するまでもなく、わたしたちの信仰は、共同体によって成り立っています。もちろんひとり一人の個人的な回心と決断が不可欠であるとはいえ、わたしたちの信仰は常に共同体の中で育てられ、共同体を通じて具体的に実現していきます。

教会とは礼拝の場所のことではなく、共同体です。

いま進められているシノドスの道のりは、まさしく、教会が共同体によって成り立っていることをわたしたちに思い起こさせ、その共同体における共同の識別が不可欠であることを自覚するように促しています。

今日の福音に記されている、イエスが弟子たちをひとりずつではなく二人の組で派遣された事実は、宣教の業が個人プレーなのではなくて、共同体の業であることを明確にさせます。また、準備万端整えられたプログラムを実施するのではなく、日々の生活における他者との交わりにあって、支え合いと分かち合いを通じて福音が伝わっていくことが示されています。福音は共同体の交わりのうちに実現します。

シノドスの歩みが求めている、互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに祈り合うことこそは、わたしたちの信仰が共同体の中で育てられ、共同体の中で実現し、共同体を通じて告げ知らされていくことの具体化の道です。

教皇フランシスコは「福音の喜び」に、「神は人々を個々としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。ひとりで救われる人はいません(113)」と記して、教会は共同体として救いの業にあずかっていることを強調されます。

シノドス第一会期の最終文書には、「共同体」と言う言葉が80回以上使われ、シノドスの歩みがまさしく共同体としての教会のあり方を問いかけていることを明確にしています。その第三部、「絆を紡ぎ、共同体を築く」には、こう記されています。

「イエスが弟子たちを養成した仕方は、わたしたちが従うべき模範です。イエスは単に教えを授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました。・・・福音書からわたしたちは、養成とは、単に自分の能力を強化するのみ、またはそれを中心にするだけではなく、敗北や失敗さえも実りあるものとするみ国の「論理」へ回心することだと学ぶのです」

その上で最終文書は、「聖なる神の民は、養成の対象であるだけでなく、何よりもまず、養成にとって共同責任のある主体です。・・・一人ひとりが自分のカリスマと召命に従って、教会の宣教に能動的に参加できるようにすることなのです」と記しています。

わたしたちは弟子たちのように、主御自身によってこの世界に派遣されています。その派遣は、わたしたちが「自分のカリスマと召命にしたがって、教会の宣教に能動的に参加」することで実現します。そのためにもわたしたちは、信仰を育むわたしたちの信仰共同体が、シノドス的な歩みをする共同体であるのかどうか、真摯に振り返ってみる必要があります。

| |

2024年7月 6日 (土)

週刊大司教第174回:年間第14主日B

2024_06_30_rca_0093

年間第14主日です。

7月の16日から19日まで、司教総会が開催されます。毎年、2月と7月の二回、ほぼ一週間の日程で全国の司教が集まり、様々な課題について司教の意見を交換する機会となります。現在その議題を最終調整しているところですが、今回は、一年先の2025年6月以降に任期が始まる司教協議会の会長などの役職や常任委員会の委員の選挙も行われます。なぜこんなに早く選挙をするのかと言えば、それは次に定時の総会をする予定が来年の2月であって、そこで選任していたのでは、委員会の担当者などの諸般の調整が6月に間に合わなくなるからです。

ちなみに、司教協議会というのは教会の内部の組織としての名称で、各教区の教区長である司教は任命権者の教皇様に直結しており独立していますが、その地域や国に共通の課題に取り組んだり調整を図ったりするための、いわば一定の地域の司教の協力互助組織として、司教協議会は存在しています。普遍教会の内部の組織であるので、名称は、日本カトリック司教協議会です。

もう一つのカトリック中央協議会というのは、日本における法律に基づいた法人組織の名称です。日本の法律に基づいて日本にあるので、その名称には「日本」はついていません。なお日本の法律に基づく法人としては、日本にある15の教区はそれぞれが独立した宗教法人であり、また修道会もそのほとんどが、それぞれ独立した宗教法人となっています。また教会が関わる様々な事業体も、そのほとんどが日本の法律に基づいて学校法人や社会福祉法人などなどとして独立した法人組織になっています。

ところでこの司教総会に合わせて、日本のシノドス特別チームは、シノドスへの取り組みの今後の道筋を明確にするために、ハンドブックを作成しました。製本したハンドブックも各教区などにサンプルとして無料で配布しますが、主に中央協議会のホームページからダウンロードしてご利用いただけるように考えております。これは公表した段階で、またお知らせします。

「霊における会話」をしばしば耳にするが、実際にどこでそれをしているのか分からないという質問も届いています。即座にどこでもそれを始めるとが可能ではないことも、心に留めてください。「霊における会話」ができれば、シノドスの道が完成するということではないのです。それは、共同で方向性を見極める(聖霊の導きの共同識別)ための強力なツールであることは間違いないのですが、それだけですべてが完成するわけでもありません。

これまでもお話をする機会があれば繰り返していますが、今回のシノドスで教皇様が目指しているのは、まず何か新しいことを決めて始めることではありません。また教会の組織を改革することでもありません。教皇様が目指しているのは、息の長いスパンで考えて、教会の体質を改善することです。教会がシノドス的な体質となるために、今後も時間をかけて、徐々に体質改善に取り組もうとされています。

東京教区でも、様々なメディアで語りかけていますが、同時に宣教司牧評議会の皆さんや、司祭の集まりなどで、霊における会話の実践やシノドス的な歩みについて、これから何ヶ月もかけて、繰り返し繰り返し、取り組んでいきます。

その息の長い、そして少しづつの取り組みを通じて、徐々にそれが教区全体に浸透していくようにしたいと思います。そうでないと、一時的なイベントで終わってしまいます。最終的には、今年の10月の第二会期が終わり、その答申に基づいて、教皇様が来年に発表するであろうシノドス後の使徒的書簡が、これからのわたしたちの羅針盤になろうかと思います。ですので、焦ることなく、できることから徐々に、浸透させていく忍耐を持ってくださることを希望します。

なお、今年10月の第二会期のための作業文書は、来週中にもバチカンの事務局から発表される見込みです。できる限り早急に、翻訳して公開できるように努めます。

東京都では、7月7日が都知事選挙の投票日です。せっかく手にしている権利です。投票を通じて意思表示をする権利は無駄にしないようにいたしましょう。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第174回目、年間第14主日のメッセージ原稿です。

年間第14主日B
週刊大司教第174回
2024年7月7日

正常性バイアスという言葉があります。災害などに直面しても、いつもの生活の延長上で物事を判断し、都合の悪い情報を無視することで、根拠のない、「自分は大丈夫」、「まだまだ大丈夫」などという思い込みが、災害時の被害を大きくすることだと、ネット上などにはその意味が記載されています。

多くの場合わたしたちは、人生の中で大きな変化を嫌います。とりわけ予測できない出来事に遭遇したとき、判断するための自らの能力を出来事が超えてしまうため、これまでのいつもの経験に基づいて判断しようとするために、実像を把握することができません。

「わたしは弱いときにこそ強いからです」と逆説的な言葉をコリントの教会への手紙に記すパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理は存在している事を指摘しています。わたしたちの判断能力を遙かに超える神の働きを知るためには、人間の常識にとらわれていては、実像を把握することはできないことをパウロは指摘します。

いわば信仰における正常性バイアスを捨て去り、人間の力の限界を認めたときに初めて、「キリストの力がわたしのうちに宿」り、その本来の力を発揮するのだと、パウロは指摘します。

マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働き直視することができません。判断する能力を遙かに超えることが起こっているために、都合の悪い情報から目を背け、自分の常識の枠内で判断しようとするのですから、神の子の言葉と行いを、故郷の人々は理解することができません。

思い上がりのうちに生きている人間は、簡単に過去の常識の枠にがんじがらめにされ、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ気がつかせません。

昨年10月にバチカンで開催されたシノドス第一会期の際に、教皇様は幾たびも会場に足を運び、集まったわたしたちに、「聖霊が主役です。あなた方が主役ではありません。あなた方が何をしたいのかを聞きたいのではありません。政令が何を語りかけているのかを聞きたいのです」と繰り返されました。

教皇様は、「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と呼びかけておられました。

いま教会に必要なことは、前例にとらわれて自らの常識の枠にがんじがらめになることではなく、自らの弱さを認め、神の働きを識ることができるように、聖霊の導きに勇気を持って身を任せることです。

| |

2024年6月29日 (土)

週刊大司教第173回:年間第13主日B

2024_06_16_rca_0049

年間第13主日となりました。

この日曜日、東京教区の築地教会では、150周年を感謝するミサが捧げられます。築地教会は1876年から1920年まで、東京大司教区の司教座聖堂とされていました。その歴史は、東京教区のホームページに詳しく記載されています。

それによれば、「横浜から派遣されたマラン神父とミドン神父(共にパリ外国宣教会)は1871年秋ごろ東京に入り、宣教を始め」、さらに「1872年には千代田区三番町にラテン学校(神学校)を開校し、70人余りの学生を収容」と初期の発展を続けました。そこで当時の宣教師たちは、「宣教の発展のために、借家の仮教会を出て、築地の居留地内に教会を建てる」ことを決意し、それが1874年11月22日、築地教会として聖堂が献堂されることになりました。東京大司教区は1891年に大司教区として独立しましたので、当初からこの築地教会が司教座指聖堂とされたのは自然の成り行きで会ったかと思います。

現在の主任司祭は、コロンバン会のレオ神父様で、築地教会にコロンバン会の日本の本部が置かれています。

日本カトリック小中高連盟が主催の、第33回全国カトリック学校校長・教頭合同研修会が、6月27日と28日に、名古屋で開催されました。日本にあるカトリック学校は、幼稚園から大学まで、それぞれ連盟組織を持っており、全体として日本カトリック学校連合会を構成しています。この連合会は一般財団法人で、司教団から顧問の司教が出ていますが、司教協議会からは独立した、学校主体の組織です。司教協議会には、カトリック学校教育委員会が設けられており、現在は前田枢機卿と酒井司教が担当しています。こちらは司教協議会の組織です。この二つが、両輪となって、カトリック学校教育を推進しています。司教協議会側はどちらかというと理念に関して、連合会側は具体的な学校運営を取り扱います。

今回の研修会は、学校連合会の主催ですので、具体的な学校運営の問題などについて、意見交換する場で、今回の研修会のテーマは「現代のグローバルな課題にカトリック学校はどう答えることができるのか」とされていました。

Img_20240627_150850748_hdr

初日には、わたしと、成井司教、長崎南山の西校長が講演しましたが、三名とも神言会会員です。というのも、今回の企画の中心には名古屋の南山中高の方々がおられ、南山は神言会が経営母体です。わたしは、シノドスのことから始まって、それが単に今年の10月で終わって何か結論が出るようなものではなくて、これからも先の息の長い教会の体質改善の取り組みであり、その「教会」には、教育機関も含まれていることなどをお話ししました。(なお上の写真は当日会場ですが、わたしと成井司教と、その後ろは名古屋の南山中高の赤尾校長です)

成井司教は、カリタスジャパンの取り組みについて解説をされました。特に災害などが起こると、真っ先に募金協力してくださる一つが、学校です。西校長は、この界隈では有名な、笑って泣かせる話をする教育者です。

全国から120名を超える校長・教頭が参加されました。28日は南山大学で研修会が継続され、11時から、松浦司教様司式で、閉会ミサが、南山大学キャンパスに隣接する神言神学院で捧げられます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第173回、年間第13主日のメッセージ原稿です。

年間第13主日B
週刊大司教第173回
2024年6月30日

マルコ福音は、会堂長ヤイロの幼い娘が病気で伏せっていたときに、その父親の願いに応えてイエスが出かけたときの出来事を記しています。

すでになくなったと言われる少女が、イエスの一言によっていのちを取り戻したのですから、この奇跡物語は、病気などの予期せぬ状況によって希望を奪われ、人生の絶望の淵にある人たちが、イエスとの出会いによって生きる希望を取り戻した話であります。

同時に、この物語でのイエスの言葉には、それ以上の意味が込められています。

「タリタ、クム。少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」

病のためにいのちを十全に生きるすべを奪われた少女に、イエスはいのちをよみがえらせることによって、自ら立ち上がり、自らの運命の手綱を握って、歩み始めるようにと力を与えます。

この言葉は、単にいのちをよみがえらせた奇跡の言葉ではなく、人間の尊厳を奪われているすべてのいのちに対して、そのいのちを十全に生きる道を自ら切り開いていく力を与える言葉でもあります。

そう考えるとき、いま世界の現実の中には、人間の尊厳を奪い去り、希望を奪い去り、絶望の淵へと追いやるようなありとあらゆる理由が存在しています。もちろん、戦争はその最たるものですが、同時に教会は、この「タリタクム」の言葉に促されて、様々な自由から強制的に尊厳を奪われる人身取引の課題にも心を砕いています。

15年前に、女子修道会国際総長連盟が中心となり、世界の様々な人身取引の問題にカトリック教会として取り組むために設立されたネットワークは、その名をこの主イエスの言葉から取り、「タリタクム」と名乗っています。日本でもその活動は行われています。

教皇様は今年の5月に行われた「タリタクム」の総会にメッセージを送り、その中で、「人身取引は組織的な悪であるからこそ、わたしたちも組織的に、また様々なレベルで取り組む必要がある」と述べ、その上で、「被害者のそばに立ち、彼らに耳を傾け、自分の足で立ち上がれるようにと手を貸し、一緒になって人身取引に対抗する行動をすることが大切だ」と強調されました。

人身取引は、遠い世界の話ではなく、日本社会の現実の中でも発生しており、日本政府自身も「『人身取引』は日本でも発生しています。あなたの周りで被害を受けている人はいませんか?」と政府広報で啓発しているほど、世界の深刻な問題となっています。

いのちを生きるようにと少女に手を差し伸べ、その尊厳を回復させた主イエスに倣い、わたしたちもこの世界の中で、人間の尊厳を奪われ絶望の淵に追いやられている多くの人が、自らの足で立ち上がることのできるように、心を配りたいと思います。

| |

より以前の記事一覧