カテゴリー「週刊大司教」の143件の記事

2023年9月30日 (土)

週刊大司教第144回:年間第26主日A

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シノドスに参加するために、ローマに出かけています。

10月末日までの一ヶ月間、ローマから、またシノドスの様子などを報告させていただきます。

出発前に撮影していた、週刊大司教第144回、年間第26主日のメッセージ原稿です。

年間第26主日A
週刊大司教第144回
2023年10月01日

この週刊大司教をご覧いただいている本日、わたしはシノドスに参加するためにローマにおります。事前の予定では、9月30日の晩に、エキュメニカルな祈りの集いがあり、その後10月3日まで、ローマ郊外で参加者全員が集まり黙想会が行われます。その後、10月4日からバチカンで今回のシノドスの第1会期がはじまります。また来年の10月には、同じ参加者で、第二会期が行われる予定になっています。

シノドス参加者に聖霊が豊かに注がれ、識別が深められ、教会のためによりよい道を見いだすことができるように、シノドスのために皆様のお祈りをお願いいたします。

マタイ福音には、父親の命令に対する兄と弟の答えと、実際の行動についてのイエスの話が記されていました。兄は命令を拒んだものの、結局考えをあらため父親の望み通りにした。しかし弟右は、命令に従うそぶりを見せたものの、結局それに従わなかった。イエスは「どちらが父親の望み通りにしたか」と尋ねていますが、すなわち神にとって大切なのは、結果として神の望みを実現しようと行動することであって、表向きに積極的なジェスチャーをすることではないということを、明確にします。

残念ながらわたしたちは、見た目にとらわれて人を裁きます。表向きのジェスチャーに簡単にだまされます。かぶった仮面の内側を見抜くことができません。そして時に、表向きの表現や行動をよりよく見せることが、信仰心を表現することだと勘違いすらします。でもそれは、神には通用しません。人の目をごまかすことは容易でも、神の目をごまかすことはできません。

わたしたちは、神の望みをこの世界の中で実現するように、本当に努め、行動しているでしょうか。そのわたしたちの姿勢を問いかけているのが、今回のシノドスです。

今回のシノドスは、教会が教会であるための本当のあり方を再確立しようとする試みです。教会共同体が愛に満ちあふれていたり、敬虔であったり、喜びに満ちあふれているのは、福音を告げ知らせるため、それも言葉の知恵によらずに主の十字架をむなしいものとしないためであります。つまり交わりの共同体は、それ自体が福音をあかしする存在、すなわち宣教する共同体でなくてはなりません。共同体が宣教する共同体であるからこそ、誰ひとり排除されることなくすべての人がその交わりに招かれることができます。そのためにも、教会共同体は、常に聖霊の導く方向性を識別することが必要であり、その導きに身を任せることで、ジェスチャーではない信仰のあり方を具体的に生きることが可能になります。

何か雲をつかむような話をしてしまいましたが、公開されているシノドスの討議要綱などに目を通していただき、シノドス参加者とともに、みなさんそれぞれの場で、祈りと分かち合いのうちに、聖霊の導きを識別する道を歩んでいただければと思います。

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2023年9月23日 (土)

週刊大司教143回:年間第25主日

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東京教区では、悲しいことに、9月に入って帰天する司祭が相次いでいます。森司教様、西川神父様、古賀神父様に続いて、9月20日には星野正道神父様が73歳で帰天されました。葬儀ミサは9月26日の予定です。どうぞパウロ星野正道神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

星野神父様の略歴は、こちらをご覧ください。長年にわたり教育界で働かれ、特に白百合女子大学で長く教授を務められました。

9月はこれで、すべての火曜日が、教区司祭の葬儀ミサとなりました。帰天された司祭の永遠の安息をお祈りいただくと共に、彼らの後を継ぐ後継者が与えられるように、司祭の召命のためにも、どうかお祈りくださいますように、心からお願い申し上げます。

それでも新しい司祭は、少しづつではありますが、確実に誕生し続けています。9月23日土曜日の午後には、イグナチオ教会でイエズス会に二人の新しい司祭が誕生しました。叙階されたのはアシジのフランシスコ森晃太郎さん、洗者ヨハネ渡辺徹郎さんのお二人です。おめでとうございます。これからのお二人の司祭としての人生に神様の祝福を祈ると共に、その活躍に期待しています。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第143回、年間第25主日メッセージ原稿です。

年間第25主日A
週刊大司教第143回
2023年9月24日

マタイの福音に記されたぶどう園で働く労働者と主人の話は、なんとなく心が落ち着かない話であります。確かに記されている話では、主人は最初の労働者に一日につき一デナリオンの支払いを約束して雇用したのですから、何も約束違反はしていません。しかし実際には、明らかに自分より短い時間しか働いていない労働者が、自分より先に一デナリオンもらっているのだから、もっと働いた自分にはより多くの報いがあるはずだと考えるのは、支払いが労働の対価であるという考え方からは、当然です。実際問題、雇用の現場で、同じ職種にもかかわらず、丸一日働く人と1時間しか働かない人を、全く同じ給与にしたとしら、あっという間に労働争議が発生しそうです。

しかしイエスの本意は、労働の対価としての支払いのことにないことは、その終わりの方の言葉によって少し理解できるような気がします。

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」

すなわち、イエスはここで、ご自分のいつくしみについて語っておられます。ご自分が愛を持って創造し、賜物として与えられたいのちを、神がどれほど大切にしておられるか。そのいのちに対する愛は、分け隔てなく、価値における優劣の差もなく、すべからく大切であり、愛を注ぐ対象であり、いつくしみのうちに包み込む対象であることを、この言葉は明確にしています。

この世界は、往々にして、数字で見える成果によって人間を評価し格付けします。それが極端になると、人間のいのちの価値を、能力の優劣によって決定し、この世界に役に立たないいのちには存在する意味がないという暴力的な排除の論理にまで到達してしまいます。数年前に発生した、障害者の方々の施設を元職員が襲撃し、19名の入所者を殺害するという事件思い起こします。犯人の、「重度の障害者は生きていても仕方がない。そのために金を投じるのは無駄だ」などという主張が、極端に走ったいのちへの価値判断を象徴しています。神にとっては、どのような違いがあったとしても、ご自分が創造されたいのちは、すべからく等しく大切な存在であることを、今日の福音は明確にしています。

本日は、世界難民移住移動者の日であります。教皇様は「移住かとどまるかを選択する自由」をテーマとして掲げられました。メッセージの中で教皇様は、ヨハネパウロ二世のこの言葉を引用しています。

「移民と難民のために平和的状況を築くには、まず、移民しない権利、すなわち母国に平和と威厳をもって住む権利の保護に真剣に取り組まなくてはなりません」

その上で教皇様は、「移民難民は、貧困、恐怖、絶望から逃れるのです。こうした原因を根絶し、やむにやまれぬ移住に終止符を打つには、わたしたち全員が、おのおのの責任に応じて、それぞれが協力して行う取り組みが求められます」と呼びかけておられます。

すべてのいのちは、優劣の差なく、すべてが神の目にとって大切な存在です。その愛といつくしみは、すべてのいのちに向けられています。神の愛といつくしみのまなざしを、わたしたちの利己心が、差別意識が、排除の心が、遮ることのないようにいたしましょう。

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2023年9月16日 (土)

週刊大司教第142回:年間第24主日A

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東京教区では、森司教様、西川哲彌神父様に続いて、9月10日にパウロ・テレジオ古賀正典神父様が帰天されました。葬儀は9月19日火曜日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。お祈りください。

古賀神父様は、一時、神学生時代にレデンプトール会の志願者として名古屋で養成を受けられたこともあり、わたしにとってはその当時からの知り合いでありました。年齢のわたしより一つ下であります。東京教区司祭として1990年に叙階後、小教区司牧や教区本部事務局で働かれ、わたしが司教になった2004年頃は、中央協議会の法人事務部長も務めておられました。その後体調を崩し、2017年からはペトロの家で療養生活を続けておられましたが、この9月10日の早朝、帰天されました。古賀神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

秋田の涙の聖母で世界に知られている聖体奉仕会修道院で、4年ぶりに秋田聖母の日が開催され、地元の成井司教様に、大阪の酒井司教様とわたしも加わり、9月15日のミサは秋田県内外の司祭も含めて、司教三名、司祭6名で、集まった150名を超える方々とともに、ミサを捧げ祈ることができました。わたしはミサを司式させていただきましたので説教原稿は別掲します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第142回、年間第24主日メッセージ原稿です。

年間第24主日A
週刊大司教第142回
2023年9月17日

多分に身勝手なわたしたちは、自分の過ちは無条件で許してほしいと願うのに、自分に対する他者の過ちには、そう簡単に許してしまおうという気持ちにはなりません。いつくしみとゆるしは、わたしたちにとって生涯の課題であるともいえるでしょう。

本日の第一朗読であるシラ書も、そしてマタイ福音も、ゆるしと和解について記しています。

わたしたちが他者との関係の中で生きている限り、どうしてもそこには理解の相違が生じ、互いを理解することが出来ないがために裁いてしまい、その裁きは時として怒りを生み、結局のところ相互の対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの感情を抱いたままでは、自分と神との関係の中で、ゆるしをいただくことは出来ない。

わたしたちは完全なものではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度そういった過ちを悔い、神にゆるしを願うことでしょう。しかし神は、神にゆるしを請う前に、他者と自分の関係を正しくすることを求めます。他者との人間関係において、ゆるしと和解が実現しなければ、どうして神にゆるしを求めることが出来るだろうかと、シラ書は指摘します。

マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言うイエスの言葉を記しています。もちろん490回ゆるせばよいという話ではなく、七の七十倍という言葉で、限りない深さを持った神のゆるしを示します。またそのゆるしをいただいたものが、そのあわれみを他者との関係における自らの行動につなげるのではなく、反対に隣人を無慈悲に裁いた話をイエスはたとえとしてあげ、他者を裁くものには、神のゆるしがないことも明示されています。

わたしたちは、なぜ、ゆるし続けなくてはならないのか。それをパウロはローマの教会への手紙で、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、わたしたちの人生そのものが、主ご自身が生きられたとおりに生きることを目的としているのだと指摘します。

その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、自らの命を奪おうとしているものをゆるすいつくしみであり、愛するすべてのいのちの救いのために、自らを犠牲にする愛といつくしみそのものの人生です。ですからわたしたちは、あわれみ・いつくしみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的にゆるし、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。それは、わたしたちが、愛といつくしみそのものである主イエスに従うのだと、この人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」というパウロの言葉に、今一度心を向けましょう。

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2023年9月 9日 (土)

週刊大司教第141回:年間第23主日

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年間第23主日となりました。この数日、台風の影響を大きく受けた地域があります。東京教区でも千葉県内で大雨が降り、教会がある地域でも大きな影響があった模様です。今の段階では、教会自体の被害の報告はありませんが、今回の台風に伴う大雨で被害を受けられた皆様にお見舞い申し上げます。

東京教区では、先週の森司教様に続いて、9月8日の早朝にセバスチャン西川哲彌神父様が、80歳で帰天されました。1年半ほど前、清瀬教会の主任をされていたときに階段から転落されて、その後、入院生活を送っておられました。葬儀ミサは9月12日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行います。西川神父様の永遠の安息をお祈りください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第141回、年間第23主日のメッセージ原稿です。

年間第23主日A
週刊大司教第141回
2023年9月10日

わたしたちは、人生の旅路の中で、決して一人で置き去りにされることはありません。わたしたちは、「世の終わりまでともにいる」と約束された主が、常に歩みをともにしてくださると信じています。

その主は、わたしたちを共同体へとつないでくださいました。実際に手をつないで歩んでいるわけではなく、実際の人生の旅路では、物理的に一人で歩みを進めることもあるでしょう。しかしわたしたちは、主の名の下に集められた共同体に、信仰の絆で常につながっています。

この3年間のコロナ禍の間、感染対策のために離ればなれにならざるを得ない事態が続いていたとき、わたしたちは普及したインターネットによって、互いにつながっているという感覚を持つことができました。わたしたちの信仰の絆は、インターネットの絆以上の存在です。その絆は、神の与えた掟によって結び合わされているからです。パウロはローマ人の手紙に、「どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます」と記しています。その相互の愛の絆によって、わたしたちは物理的に離れていてもつながっており、世界中の兄弟姉妹とともに、一つの共同体を作り上げています。

主の名によって集められたその共同体には、主御自身が常に存在されます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。

この主御自身の存在によって結び合わされたわたしたちは、感謝の祭儀に与ることで、朗読される御言葉のうちに現存される主と出会い、ご聖体の秘跡のうちに現存される主をいただきます。

わたしたちを結び合わせる掟の中心にある「隣人愛」とは一体何なのでしょうか。「自分のように愛する」」とは一体どういうことでしょう。それはただひたするに優しくすることでもなければ、自分の思いを押しつけることでもありません。それは、自分自身が生きて行くことを肯定しているのと同じように、交わる他者がいのちを生きていくことを肯定する態度であります。生きるための希望は、互いに支え合う交わりの絆を確認するところから生み出されます。すなわち連帯こそが、生きる希望を生み出します。そこに隣人愛の根本があります。

常にともにいてくださる主イエスこそ、わたしたちがいのちを生きようとする思いを肯定し、支えてくださる方です。わたしたちがいのちを豊かに生きる希望を生み出すことができるようにと、道をともに歩まれる方です。その愛をわたしたちは心にいただき、主と一致しながら、さらに愛の絆を多くの人へと広げて参りましょう。

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2023年9月 2日 (土)

週刊大司教第140回:年間第22主日A

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早いもので、9月となってしまいましたが、まだまだ暑さは続いています。

9月1日から10月4日までは、教皇様が「ラウダート・シ」の呼びかけに基づいて定めた「被造物の季節」であり、日本の教会はさらに広げて「すべてのいのちを守る月間」としています。教皇様は、今年の被造物の季節の終わりにあたる10月4日、アシジのフランシスコの祝日に、新たなインテグラルエコロジーについての文書を発表される予定だと伺っています。

日本の司教団も、全教会レベルで教皇様の呼びかけに応え、霊的な視点からインテグラルエコロジーの課題に向き合うために、司教協議会にラウダート・シ・デスクを開設し、新潟教区の成井司教様を責任者に任命して、様々な取り組みを始めています。成井司教様の呼びかけを含め、ラウダート・シ・デスクについて、また今年のすべてのいのちを守る月間の取り組みについては、こちらのホームページをご覧ください

教皇様は8月31日から9月4日までの日程で、モンゴルを訪問されています。モンゴルは、日本からは遠いようで、しかし割と近い国であり、また相撲界などでモンゴル出身者が活躍されています。地政学的には、ロシアと中国に挟まれた地でもあり、この時期、教皇様がモンゴルの地からどういった発信をされるのかが注目されています。教皇様の訪問の日程などは、こちらのバチカンニュースをご覧ください

9月1日は関東大震災の発生から100年の節目となりました。当時亡くなられた多くの方々の永遠の安息を改めて祈るとともに、教会でもいつ発生してもおかしきないと言われている大きな災害への対応を改めて心しておきたいと思います。いつ起きるのかわからないのが災害です。東京教区にも災害対応チームがありますが、平時から少しづつ備えを進めていかなくてはなりません。ご協力ください。

また災害などの緊急事態が発生し、パニック状態になるとき、もちろんそこにはヒロイックな助け合いの出来事もあるでしょうが、同時に、先行きの見えない不安が生み出す疑心暗鬼と、心に潜む利己的な指向性が、自らの保身へと人を向かわせるとき、時に流言飛語に踊らされて暴力的な行為を生み出すことがあります。関東大震災の時にも、そのようなパニック状態の中で、朝鮮半島を始め他の地域出身の人たちへの暴力的な行動があったことは当時の裁判などの記録に残されており、人間の負の側面の表れとして、残念で悲しい出来事でありました。パニックになったときにこそ、互いに連帯して助け合う世界を実現しようとすることが、神の賜物である生命を守ることにつながります。歴史の中には、世界各地で、災害や戦争などのパニック状態が、人を暴力的な排除差別の行動に駆り立てる事例が記されています。同じことを繰り返してはなりません。そういった排除差別的暴力によって生命を奪われた多くの方々のために、心から祈り、同じ過ちを繰り返すことのないように学びを深め、互いに助け合うことを心に誓いたいと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第140回、年間第22主日メッセージの原稿です。

年間第22主日A
週刊大司教第140回
2023年9月03日

今年の夏は、例年以上の早くから台風の影響があり、特にお盆の帰省時期に台風が重なって交通機関に影響が出たりしました。まだ台風シーズンは終わっていませんから今後どうなるか想像もできませんが、これまでのこの夏の洪水や土砂災害の被害を受けられた方々には、心よりお見舞い申し上げます。

線状降水帯という言葉も、少し前までは集中豪雨などと言っていましたが、だんだんと耳に慣れてきました。わたしは30年くらい前に、赤道直下のアフリカのガーナで働いていましたが、日本で言う夏はちょうどガーナでは雨期でありました。雨期と言っても朝から晩まで降っていることはなく、午後2時過ぎくらいから、やにわに雲が沸き立ち、すさまじいスコールが降ったり風が吹き荒れたりしたものです。確かにこの数年、日本の気候は荒々しくなり、まるでかつてのアフリカのような気候になりました。いわゆる温暖化による気候変動の結果、なのでしょう。

気候変動の様々な影響が語られ、その原因が様々に取り沙汰される中で、2015年、教皇フランシスコは「ラウダート・シ」という文書を発表されました。この文書の副題は、「ともに暮らす家を大切に」とされています。広く環境問題に取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託された自然界を、養い育てる責務を果たすことにつながり、それは信仰上の責務でもあると強調されました。

教皇様は、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」とさだめ、日本では9月の第一の日曜日にこの祈願日を定めています。またアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の期間として、「被造物の季節」と定められました。

ここで教皇フランシスコが強調されるエコロジーへの配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めようとかいう単独の課題にとどまりません。「ラウダート・シ」の副題が示すように、課題は「ともに暮らす家を大切に」することです。それは、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に、ひとり一人が真摯に向き合うことに他なりません。

日本の教会は同じ期間を、さらに視点を広げて、「すべてのいのちを守る月間」として、司教団のラウダート・シ・デスクが、様々な活動を呼びかけています。

環境への配慮をすることは、いまわたしたちが享受している生活を変えていくことを意味しているため、容易なことではありません。しかし、神がこの世界を創造し守り育み管理するようにとわたしたちに託した意図を考えれば、福音にあったように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」とわたしたちも主から叱責されるものであるのは間違いありません。

主イエスが、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」といわれるとき、それは苦行を強いているのではなく、神様の計画を最優先に考えて、人間の都合を捨て去るように求めておられるに違いありません。

 

 

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2023年8月26日 (土)

週刊大司教第139回:年間第21主日A

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8月も終わりに近づき、そろそろ秋の気配を感じても良い頃なのですが、東京では暑い毎日が続いています。

先日、その「統合」が発表された大阪高松大司教区では、これまでの大阪教区と高松教区とは異なる全く新しい教区が誕生することになるので、その初代の教区司教である前田枢機卿様も、同様に改めて新しい教区の大司教として着座をしなくてはなりません。先日発表がありましたが、10月9日の月曜日午後1時から大阪カテドラル聖マリア大聖堂で、新しい大司教区の設立式と、前田枢機卿様の着座式が行われることになりました。また教区の本部は玉造に、大阪高松大司教区の司教座聖堂は大阪カテドラル聖マリア大聖堂(玉造)となることが発表されています。

ちょうどわたし自身は、シノドスに参加するため10月はローマに滞在中のため参加することができませんが、どうか新しい大阪高松大司教区のために、皆様のお祈りをお願いいたします。

8月18日の夕方6時から2時間ほど、オンラインでそのシノドスの打ち合わせのミーティングが行われました。ミーティングはバチカンのシノドス事務局が主催し、それぞれの大陸別で行われています。アフリカなどは、三日間の実際の集まりを行ったと聞きましたが、アジアは、特に南や東南アジア諸国では休みの季節ではなく普通の日なので、オンラインで行うことを求めて、結局この日だけになりました。シノドスの作業文書の後半には、三つの優先事項と、それぞれの課題が記してありますが、10月のローマでの会議では、参加者全員をこのテーマと課題と言語別に15人ほどずつのグループに分け、基本的にグループでの分かち合いを中心に行うことが示されました。また今回の参加者が、そのまま、来年10月に行われる第二会期にも参加するように求められました。さらに、通常のこれまでのシノドスのように、各国からの報告などは特に行われない模様で、事前に司教協議会からの発表を用意していく必要もない模様です。

アジアからは参加する枢機卿や司教を始め、司祭、修道者、信徒の参加者も含め、40名以上が参加。その中には、わたしを含め、日本から3名が参加しました。

どのような実りが10月の会議から生まれてくるのか想像もつきませんが、聖霊の導きに任せながら、互いに耳を傾け、識別することができればと思います。

なお先日8月20日の聖書と典礼の7ページ目に、シノドスについてのわたしのコラムがありますが、そのタイトルがちょっと誤解を招くものになっていたので、訂正しておきます。タイトルは「シノドスの道を歩む教会のゴール」となっています。あながち間違いではないのですが、これだと教会そのものにゴールがあるように読めてしまいます。ゴールは「シノドスのゴール」です。そして本文を読んでいただければわかるように、ローマで開催される会議が今回のシノドスのゴールなのではなくて、実はゴールは存在しておらず、教会が教会として存在するための姿勢を身につけることを目指してこれからも歩み続けなくてはならないことを記してあります。

今回のシノドスはこれまでと違い、何かつかみ所がないプロセスのため、様々な憶測を呼んでいます。批判も多く聞こえてきます。しかしこれからの教会の歩みを定める重要な機会であると感じています。どうか、あらためて、シノドスのために皆様のお祈りをお願いいたします。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第139回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

年間第21主日A
週刊大司教第139回
2023年8月27日

「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と弟子たちに迫るイエスの言葉は、わたしたちひとり一人への問いかけでもあります。

「あなた自身はわたしのことをどう考え、どう判断しているのか。自分自身の決断をここで明確にしろ」と、迫力を込めてイエスは迫ってきます。そしてそれは、今の時代に生きているわたしたちだからこそ、真摯に応えなくてはならない問いかけです。

なぜでしょうか。それはわたしたちが、あふれんばかりの情報の渦に取り囲まれて生活を営んでいるからに他なりません。いまやわからないことがあれば、ネット上でいくらでも簡単に答えを見いだすことができます。信仰についででさえも、ネット上で問いかければ、誰かが即座にわかりやすい答えを提供してくれる時代です。そんな時代にイエスは、「あなた方はわたしを何者だというのか」と問いかけます。つまりあふれかえっている情報のどこに何が述べられていたのかを知りたいのではないのです。真偽すらわからない、どこかの誰かが教えてくれた、簡単に理解できる情報ではなくて、「おまえ自身はどう考えるのか」とイエスは迫ります。

どこかの誰かが解説してくれるわかりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その言葉に直接耳を傾け、具体的に、個人的に、イエスと出会う中で見いだした、「わたしのイエス」について語るように求めているのです。噂話のイエスではなくて、いまそこに生きているイエスについて語ることを求めているのです。

わたしたちがこのあふれんばかりの情報の渦の中で見聞きしていることは何でしょう。無責任な情報の垂れ流しは、前向きないのちを生きる力を生み出すよりも、いのちに対する攻撃や差別を生み出す負の力をより強く持っています。いや、実際にいのちを奪ってしまうほどの、暴力的な負の力をもって、わたしたちを、いのちの尊厳を軽んじる暗闇に引きずり込もうとしています。

わたしたちは、自分自身の言葉に責任を持って、いのちを生かす言葉を語るものでありたいと思います。

いのちを育む真理の物語は、どこかの誰かの人間的知恵から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち人となられた神の言葉である主イエスから生み出されます。主の語る言葉を、わたしたち自身の言葉として語り続けましょう。

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2023年8月19日 (土)

週刊大司教第138回:年間第20主日A

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8月も半ばを過ぎました。今年は荒々しい天候の夏になり、全国的に台風などの影響を大きく受けている地域があります。被害を受けられた多くの皆様に、お見舞い申し上げます。特にこの炎天下で復旧作業にあたられる方々の健康が守られますようにお祈りいたします。

新潟教区の秋田も洪水の被害を受け、新潟教区の数少ないカトリック学校である秋田市の聖霊高校もあふれた水による被害を大きく受けられました。同じく秋田市郊外にある聖体奉仕会近くでも土砂崩れが発生したと伺っています。9月15日には秋田聖母の日が予定されており(参加は予約が必要です)、わたしも巡礼団と一緒に聖体奉仕会を訪れる予定です。今回の災害で開催も危ぶまれましたが、無事に開催できる見込みです。カトリック新潟教区のホームページには、最新の情報やボランティア受付などが掲載されていますので、一度ご覧ください。新潟教区のホームページはこちらのリンクです

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第138回、年間第20主日のメッセージ原稿です。

年間第20主日A
週刊大司教第138回
2023年8月20日

マタイ福音は、イエスがティルスとシドンの地方に行かれたときに、カナンの女性が娘の病を癒やしてくれるように求めた話を記しています。確かにイエスの福音はすべての人に告げ知らされなくてはならないということをわたしたちは知っていますが、受難と復活の出来事の前、すなわち旧約の枠組みの中にあっては、救いは選ばれた民にのみ向けられていることは常識でした。イエスは、その常識の枠組みを徐々に打ち破りながら、ご自分の受難と復活の後には新しい契約の枠組みの中で、選ばれた一部の民ではなく、すべての人に救いを述べ伝えるようにと、弟子たちを導いて行かれます。

今日の福音には、そのイエスの弟子たちに対する注意深い導きが記されています。すなわち主御自身はどこを見ているのか、そのまなざしの向けられる先を教えようとするイエスの姿です。

当時の常識の枠を無視しながら、「主よ、わたしをあわれんでください」と叫び続けるカナンの女性に対し、弟子たちは、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので」とイエスに進言します。つまり、常識では対処できない課題に真摯に取り組むのは面倒なので、厄介払いに病気でも治してやったらどうでしょうという進言です。しかしイエスはその進言に耳を貸しません。イエスが望まれる神のいつくしみの業は、厄介払いのために渋々するようなものではないからに他なりません。

イエスは、まるで挑発するように、「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」と女性に告げています。そして女性の心の奥が明示される、その答えを待っていたのでしょう。彼女のイエスに対する信仰は、表面的な病気の癒やしを求めることではなく、もっと深い、心の底からの救い主に対する信頼に基づいた信仰であることを、彼女は、その謙遜さに満ちあふれた答えで証明して見せました。イエスが「あなたの信仰は立派だ」とまで認めたその信仰は、どんな困難の中でも、諦めることなく、イエスに対する信頼を深め続ける、神の前での謙遜なその態度に表されていました。

わたしたちも、日々の生活の中で様々な困難に直面し、また社会に満ちあふれた暴力や不正義に翻弄され、「主よ、わたしたちをあわれんでください」と祈りのうちに声を上げ続けています。時に、状況は全く好転せず、くじけてしまいそうになります。でも、神の力に、そのいつくしみに、その愛に、わたしたちは信頼を置きました。その信頼を失うことなく、すべてを治められる御父の前にたたずみ、謙遜にその計らいに身を委ね続けて参りましょう。

 

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2023年8月12日 (土)

週刊大司教第137回:年間第19主日A

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8月6日から15日まで、ともに平和旬間を過ごしている日本の教会です。

本日8月12日は、午前中に平和を祈るミサをカテドラルで捧げ、その後、午後からいくつかの行事がありました。ミサの説教とともに、別途報告します。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第137回、年間第19主日のメッセージ原稿です。

年間第19主日A
週刊大司教第137回
2023年8月13日

日本の教会は、過去の歴史を心に留め、その体験から謙遜に学び、同じ過ちを繰り返すことのないように行動するために、8月6日から15日までを平和旬間と定めています。この時期、いつもよりさらに力を込めて、平和の実現のために祈り行動するように呼びかけています。

マタイ福音はパンを増やす奇跡に伴う驚きと喧噪のやまない興奮状態の直後に、イエスが一人山に登って祈られたことを記しています。わたしたちは、特に感情が高ぶっているときには、どうしてもその感情にとらわれて、思いと行いが先走ってしまう誘惑の中で生きています。平和を求める願いも、なかなかそれが実現しないどころか、全く反対に平和をないがしろにするように現実を目の当たりにするとき、どうしても心は高ぶり、感情と行動が先走ってしまうこともあります。思いが強ければ強いほど、この現実を目の当たりにすれば、当然の心の動きだと思います。

しかしそんなときでも、イエスは、心の高ぶりから離れ、一人落ち着いて祈りのうちに振り返ることの大切さを教えています。

平和旬間は、もちろん、現実の世界の中で次々と起こるいのちに対する暴力的な出来事を学び、それに対抗して行動するための重要な時期でもありますが、同時に、それが教会が定めた時期なのですから、祈りのうちに平和を願い黙想し振り返ることも忘れてはいけません。一つの体に様々な役割の部分があるように、キリストの体にも様々な部分があります。平和を求める願いも、具体的な行動でそれを示そうとする人もいれば、祈りを持ってそれを実現しようとする人もいる。それぞれにふさわしい方法で、この平和旬間を過ごしていただければと思います。

戦争は自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能です。暴力が世界を席巻し、いのちを守るためには暴力で対抗することも肯定するような風潮の中、わたしたちは神から与えられた賜物であるいのちを守り抜くものとして、あらためて「戦争は死です」と声を上げたいと思います。

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2023年8月 5日 (土)

週刊大司教第136回:主の変容の主日

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8月6日は主の変容の主日です。

また広島の原爆の出来事を記憶するこの日から、8月9日の長崎の日を経て、8月15日までは、平和旬間です。毎年のように、わたしたちは平和を考え、平和を黙想し、平和を求めて祈り続けていますが、残念ながら、世界はいのちに対する暴力に満ちあふれています。くじけることなく、神の平和の実現を叫び続けていきたいと思います。

8月5日の午後には、広島教区が主催する平和行事に参加し、ともにミサの中で平和を祈りました。これについては別途記載します。

司教協議会会長としての今年の平和旬間の談話は、こちらのリンクからご覧ください。

また東京大司教としての呼びかけは、別途掲載します。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第136回目のメッセージ原稿です。

主の変容の主日A
週刊大司教第136回
2023年8月6日

主の変容の主日にあたり、マタイ福音はイエスがペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネの眼前で栄光を示された出来事を記します。神の栄光に包み込まれたペトロは、あまりの驚きに何を言っているのか分からないまま、そこに仮小屋を三つ建てることを提案したと福音は伝えます。ペトロはその栄光の中にとどまり続けたかったのでしょう。しかしイエスは、さらなる困難に向けて前進を続けます。

モーセとエリヤは律法と預言書、すなわち旧約聖書を象徴する存在です。それは神とイスラエルの民との契約であり、神に選ばれた民の生きる規範でありました。しかし響き渡る神の声は、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と告げます。つまり、イエスは旧約を凌駕する新しい契約であり、イエスに従う者にとっての生きる規範であることを、神ご自身が明確に宣言されました。

ペトロはその手紙の中で、「わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません」と強調し、キリストの栄光に触れたときにどれほど心を動かされたのかを強調します。ペトロが伝えたいことの原点は、変容を目の当たりにしたときに彼の心を揺さぶった驚きでありました。

わたしたちは主イエスとの出会いに、心を揺さぶられたことがあるでしょうか。この人生の中で、どのような出会いに心を揺さぶられたことでしょうか。

教会は今日から10日間を、平和を想い、平和を願い、平和の実現のために行動するように呼びかける平和旬間と定めています。広島と長崎の日にはじまり終戦の日まで続く10日間は、抽象的な出来事ではなく、そこにひとり一人の人間の心が揺さぶられた実体験の積み重ねの10日間です。そしてその10日間にとどまるのではなく、そこに至るまでの沖縄や南太平洋や中国や朝鮮半島を含めた人間の争いが生んだ悲劇の積み重ねと、いまに至るまで平和を確立することができずにいる中での多くの人の心の思いという、具体的な出来事の積み重ねでもあります。わたしたちは抽象的に平和を語るのではなく、神が愛してやまない賜物であるひとり一人のいのちが、いま危機に直面している事実を心に刻み、そのひとり一人の体験に心を揺さぶられながら、平和を語らずにはいられません。

平和を語ることは、戦争につながる様々な動きに抗う姿勢をとり続けることでもあり、同時に人間の尊厳を危機にさらし、いのちを暴力的に奪おうとするすべての行動に抗うことでもあります。

平和旬間にあたり、いのちの創造主が愛といつくしみそのものであることに思いを馳せ、わたしたちもその愛といつくしみを社会の中に実現することができるように、祈り、行動していきましょう。

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2023年7月29日 (土)

週刊大司教第135回、年間第17主日A

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暑い毎日が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

この時期、学校も夏休みに入り、教会のキャンプなど様々な行事があろうかと思います。どうか暑さに気を付けて、無理はなさいませんように。またWYDワールド・ユース・デーに参加する青年たちや同行司教、司祭、修道者も、すでにポルトガルに向けて出発しています。本番の大会が始まる前に、現地の教区との交流のプログラムが用意されています。こちらからフォローください。日本からは、勝谷司教、酒井司教、成井司教も同行しています。ヨーロッパも暑いみたいです。参加者たちの健康のために、またワールド・ユース・デーの成功のために、お祈りください。

以下、今夕6時配信の週刊大司教第135回、年間第17主日のメッセージ原稿です。

年間第17主日A
週刊大司教第135回
2023年7月30日

マタイ福音は、「宝」について語るイエスのことばを記します。「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」です。ここでイエスが語る「宝」は、経済的な付加価値を与えてくれる財産としての「宝」ではなく、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、いのちを生かす「宝」であります。

それをよく表しているのが、第一朗読の列王記の話です。神はダビデの王座を継いだソロモンに、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われます。それに対してソロモンは、経済的な付加価値を持った「宝」を求めることもできたでしょう。しかしソロモンは、自分の利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願い、神から喜ばれることになります。その結果として、「知恵に満ちた賢明な心を」神から与えられたと、記されています。

ソロモンは自分の利益ではなく、自分に託された神の民のための「宝」を求めた。ここに福音に記された、すべてをなげうってでも手に入れたくなる「宝」の意味が示されています。

わたしたちが求め続ける「宝」は、自分の利己的な欲望を満たす宝ではなく、他者のいのちを生かし、社会の共通善に資するような「宝」であって、わたしたちが人生を賭けてでも求め続けなくてはならない「宝」であります。そしてわたしたちには、その「宝」が、イエス・キリストの福音として与えられています。「宝」そのものである主御自身が、常にわたしたちと歩みをともにしてくださっています。人生のすべてを賭けて、その主に従っていきたいと思います。

まもなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、毎年恒例の平和旬間がはじまります。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。

夏になって戦争の記憶をたどり、平和を祈るとき、この教皇の言葉を思い出したいと思います。わたしたちは過去を振り返り平和を祈るとき、将来に対する平和を生み出す責任を担います。

暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(カテキズム1753)。「戦争は死です」。賜物であるいのちを生かす神の「宝」から目をそらすことなく、ともに歩まれる平和の主に従っていきたいと思います。

 

 

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