週刊大司教第265回:年間第16主日
年間第16主日です
今週は成井司教様と一緒に、インドネシアのフローレス島にあるエンデ大司教区を訪問しています。この教区の司教様は、神言会の前総会長であるブディ・クレドン大司教様です。またフローレス島のエンデ教区も、神言会の古くからの宣教地の一つです。
来週月曜から一週間は、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会がインドネシアのジャカルタで開催されます。こちらの模様はまた、お知らせします。
本日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。
年間第16主日A
週刊大司教第265回
2026年7月19日現代社会の現実は、まさしく福音が記しているように、神が望まれている良い麦と、人間の欲望に支配された悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。
神からの賜物であるいのちに対する暴力が横行する現実の中にあっても、同時にそのいのちを守るために、困窮する他者に手を差し伸べ、ともに歩もうとする人も多く存在します。神の愛をその言葉と行いであかしする人も多くおられます。
しかし暴力の支配と、賜物であるいのちが危機に直面する悲劇的現実があまりに目立っているがために、おもわず、神が悪の存在を容認しているのだろうかと考えてしまいます。全能の神がそのように容認するのであれば、社会の現実の中で悪と対峙することには、全く意味がないことになってしまいます。
福音は、神は良い麦と悪い麦の存在を知ってはいるが、それを刈り入れの時まであるがままにされているのだと記します。善と悪を明白に峻別できるそのときを待っておられるのだと記します。すなわちいのちの与え主である御父は、悪がこの世界を支配するような状況を容認しているわけではありません。悪がその力を振るうことを容認しているわけではありません。
そのことを心に留め、毒麦を凌駕するほどに良い麦が世界を支配するように、わたし達は良い麦を一層力強く増やしていく努力をしなければなりません。わたしたちはただ荒れ狂う暴力の嵐の前に力なく傍観するのではなく、良い麦をさらに広く蒔き続ける努力をしなければなりません。わたしたちに与えられている使命は、畑に入って毒麦を抜きととることに専念することではありません。それよりも毒麦を凌駕するように、良い麦をさらに広く蒔き続けることに他なりません。そのためにも、どこに毒麦があるのかを知り、指摘することには大きな意味があります。毒麦がはびこっているところにこそ、わたし達は良い麦を蒔かなくてはならないからです。
現代世界憲章は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と始まっています。教会は、現代社会の現実の中で、いのちの危機に直面し、人間の尊厳を奪われ、生きるための困難に直面する一人一人に、思いをはせ、その心に寄り添いたいと願っています。
現代世界憲章はさらに、「全ての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。従って全ての人が基本的に平等であることは、ますます認められなければならない(29)」と記します。
私たちが生きている世界は、その「いのち」をないがしろにし、あまつさえ人間自身が「いのち」をコントロールする権利があるとでも言わんばかりの傲慢さに満ちあふれ、いのちを守るどころかいのちを奪う暴力が支配しています。こういった現実の中で、現代世界憲章は、全人類との対話のうちに神の福音をあかしするために、「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務が」あると指摘しています。社会の現実の中で、神の望まれる世界の実現を妨げている出来事に目を向け、起きている出来事に翻弄されるのではなく、福音的視点からそこに示されるしるしを読み取り、共通善を念頭に置いて発言することはることは、教会の務めです。それこそが毒麦を凌駕するために必要なわたし達の務めです。
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