カテゴリー「週刊大司教」の31件の記事

2021年6月19日 (土)

週刊大司教第三十一回:年間第12主日

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6月20日は年間第12主日です。週刊大司教も31回目となりました。昨年、2020年11月8日の年間第32主日から、「週刊大司教」を始めました。ミサの公開が再開され、教会活動も徐々に再開されていた昨年秋、11月1日の諸聖人の祭日前晩のミサを持って、関口教会からのわたし司式の主日ミサ配信を一度終わりとしました。毎週土曜日の夕方6時に、イエスのカリタス会のシスター方に来ていただいて、聖歌もお願いしていましたが、関口教会の青年を始め多くの方から積極的なかかわりをいただき、心から感謝しております。

その配信ミサをひとまず休止としましたが、まだ感染症は終息せず、教会活動もさまざまな制約がありましたので、その次の日曜から、主日福音などに基づいたメッセージを、霊的聖体拝領の助けとして配信することにしました。これが「週刊大司教」です。その後も緊急事態宣言が再度発令されたりと、事態は流動的でしたので、「週刊大司教」を継続してきました。

今後を見通すことは難しいのですが、今の段階では、少なくとも五十回までは続けるつもりです。毎回のメッセージ原稿作成もそれなりに時間がかかります。しかしそれ以上に、事前の撮影と字幕入れなどを伴う映像編集には、教区本部の広報担当職員があたっていますが、その職員の通常業務に増し加わる負担も無視することは出来ません。したがって、状況を見極めるものの、今年の待降節の始まる前ころまでは、「週刊大司教」を継続の予定です。

三度目となる緊急事態宣言は、明日6月20日を限度として解除となりますが、翌日からはあらためて「まん延防止等重点措置」の対象地域として、東京都と千葉県が指定されます。7月11日までの予定です。

これにともなう東京教区の対応については、基本的に三度目の緊急事態宣言が発令される前に戻るのですが、公示文書を作成してありますので、各小教区には今日明日中にお伝えします。まだしばらくは、感染対策を緩めることは賢明ではないと思われますので、しばらくは、慎重に行動したいと思います。

オリンピック・パラリンピックが、すでに既定の事実として開催の方向に向かっているようですが、世界中からあれだけたくさんの人が、今の日本の、しかも首都圏で一時に集中することに、一抹の不安を抱かざるを得ません。実施するからには、不安を払拭できるように、できる限りの対策を打たれることを期待します。ワクチン接種については、わたしのところにも、本日土曜日、文京区から接種券が届きましたが、まだまだ全国的に広い範囲で二度の接種が終了するには時間がかかるでしょう。ですから、教会の活動はこれまで通り、当分は慎重な対応を続けていきたいと思います。

そのオリンピックですが、これまでどこの国でも(北京オリンピックでも)、選手村には宗教センターが設けられ、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教という5つのグループが、開催期間中にチャプレンを派遣して、選手の精神的支えとなってきたと聞いています。この選手村に宗教センターを設けることは、必須の条件だという話も耳にしました。

今回の東京オリンピック・パラリンピックでも、当初は同様の計画があり、さまざまな宗教団体が協力して、宗教センターを運営したり、都内で宗教的行事を開催したりする予定で、数年前から話が進んでいました。東京教区でも、キリスト教諸団体のかたがたと協力して対応するために、オリンピック対応チームを任命して計画に参加してきました。残念ながら今回はこのような状況ですので、計画したとおりには進みません。これまでさまざまに話し合ってきた事は、行われません。一応、現時点では、リモートで、数カ国語のミサや聖書の話や、祈りなどを提供する予定で、そのためのビデオ作成に教区本部の広報担当が取り組んでいます。とはいえ、この時点になっても、本当にあるのか、あるならどのようにして行うのかなど、全く情報が伝わらないため、そもそも現実味が出てこないのですが、それでも、対応するためのそのような準備を進めています。当初企画していた、オリンピック・パラリンピック期間中の、カテドラルでの国際ミサなどは、やはり行わない方向です。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第31回目のメッセージ原稿です。

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(なおメッセージ最後で触れている「人間の安全保障」については、こちらの2015年10月5日の司教の日記や、拙著「開発・発展・MDGsと日本」(サンパウロ、2012年)の冒頭の記事などもご覧いただければと思います)

年間第12主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第31回
2021年6月20日

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」

マルコ福音に記されているこの弟子たちの叫びは、現在のわたしたちの叫びでもあります。世界中の人が、新型コロナ感染症と、それに伴う社会経済活動の停滞の中で、いのちと生活の危機にさらされている現在、まさしくわたしたちは、荒波に翻弄される船の中に取り残されたような思いであります。

荒れ狂う波風を鎮められた主は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけます。すなわち、この自然界をコントロールしているのは、人間ではなくて、創造主である神であることをイエスは明確にします。ヨブ記にも、世界を創造したのは神であって、それを支配しているのも神の権威であることが記されていました。

わたしたちは、科学や技術が発達しても、人間の知恵と知識には限界があることを、自然災害などを通じてたびたび思い知らされてきました。歴史に必ず刻まれるであろう今回の事態も、やはりわたしたちの知恵と知識には限界があることを明確にし、この世界を支配する神に祈り求め、叫び続けることの重要さを肌で感じさせています。

人間の限界を超えた出来事がなぜ起こるのかは、わかりません。しかしながら、わたしたちにはその理不尽さの中にあっても、神に祈り求めると同時に、出来ることを懸命に果たしていく務めがあります。弟子たちも、イエスを起こして声をかけるまで、ただあきらめて荒波に翻弄されていたわけではなく、なんとか船をコントロールしようと力を尽くしていたことでしょう。

パウロは、そういうわたしたちに対して、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てています」と、コリントの教会への手紙に記し、キリストのために生きるようにと促します。キリストのために生きるわたしたちは、その愛に駆り立てられて、キリストのように行動する事を求められます。

キリストの愛に駆り立てられ、キリストのように生きようとするとき、神の似姿である人間の尊厳が、ないがしろにされるような事態が、この困難な状況の中で頻繁に起こることを見逃すことは出来ません。疑心暗鬼の中で不安に駆られる人の心は、どうしても安心を求めて利己的になってしまいます。自分のいのちの危機を感じ取るほど、他者への寛容さはたやすく忘れられてしまいます。そんな中で社会にあって異質な存在は、排除の対象となってしまいます。教皇フランシスコは、2018年の難民移住者の日のためのメッセージに、「あらゆる旅人がわたしたちの扉を叩くたびに、それはイエス・キリストとの出会いの機会になる」と記し、その上で、「受け入れ、保護、支援、統合」という四つの行動が重要だと呼びかけました。

わたしたちは、この困難のなかにあっても、助けを必要とする人たちに心を向け、「受け入れ」、「保護」し、「支援」しながら、社会全体へと「統合」しようとしているでしょうか。

かつて20世紀の終わりころ、国連が提唱する「人間の安全保障」の重要性を説いて、国際社会で高く評価されていたのは日本政府でした。武力による安全保障ではなく、一人ひとりの人間の尊厳を守ることで、世界の安全を確立しようと、政府は国際社会に呼びかけていました。残念ながら人間の尊厳が等しく守られる社会の実現への道は、まだまだ遠い道程だと感じさせられます。

不安な事態の中で恐れ悩んでいるわたしたちは、神のはからいに信頼して祈り求めながらも、同時にキリストの愛に駆られて、賜物であるいのちが守り抜かれるように、行動していきましょう。

 

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2021年6月12日 (土)

週刊大司教第三十回:年間第11主日

Sacredheart

6月は「みこころの月」と言われます。「みこころ」は、主イエスの心のことで、以前は「聖心」と書いて「みこころ」と読んでいましたが、近頃は「み心」と記されることが多いように思います。イエスのみこころは、わたしたちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水が、いのちの泉であり新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスのみこころ」の祭日が設けられ、今年は6月11日でありました。

みこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖女マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ちあふれる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主はご自分の心に倣うようにと呼びかけられました。そしてみこころの信心を行うものには恵みが与えられると告げ、その一つが、9ヶ月の間、初金に聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあるとされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。

1856年に教皇ピオ9世が「イエスのみこころ」の祭日を定め、さらにその100年後、教皇ピオ12世は、みこころの信心を深めるようにと、回勅をもって励ましを与えられました。さらにそれから50年後、教皇ベネディクト16世は、2006年5月15日付でイエズス会の総長に宛てて書簡を送り、イエスのみこころへの信心は決して過去のものではなく現代的な意味があると述べながら、次のように記します。

「内面的に神を受け入れた人は皆、神によって形づくられます。神の愛を経験した人は、その愛を「召命」として生きなければなりません。人はこの「召命」にこたえなければなりません。主は「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8・17)かたです。この主に目を注ぐことによって、わたしたちは人の苦しみと必要にもっと気づくことができるようになります。
 槍で刺し貫かれたイエスの脇腹を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。この観想によって、わたしたちは、救いをもたらす神の憐れみに自分をゆだねることができるようになります。それと同時に、この観想は、神の救いのわざにあずかり、神の道具となりたいというわたしたちの望みを強めます。」(全文は中央協議会のHPで

みこころの月にあたり、イエスを通じて具体的に表された神の愛の心に触れ、それを自らの心とし、倣って生きることが出来るように、努めたいと思います。

以下、本日午後6時配信の「週刊大司教」第30回目のメッセージ原稿です。

年間第11主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第30回
2021年6月13日

「神の国を何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである」と語るイエスの言葉を、マルコ福音は伝えています。

取るに足らない小さな種から始まって、「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝を張る」までに育っていく過程を述べて、神の創造の業が人間の常識をはるかに超えた神秘のうちにあることを思い起こさせながら、イエスは神の国の実現への道を語ります。

エゼキエル書も同じように、レバノン杉の小さな梢を切り取り、山の上に移すことで、今度は大きな枝を張るレバノン杉が育っていくことを記し、それをつかさどる神の力の偉大さを伝えます。

パウロは、わたしたちの永遠の住みかは天にあるのだとしても、この地上での生活には重要な意味があることを指摘し、「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれるものでありたい」と記します。

すなわち、わたしたちは、主とともに天上の神の国で永遠の喜びのうちに生きることを望んでいるとしても、同時に、今生きているこの世界の現実の中で、同じように神に喜ばれるものとして、主から与えられた使命に忠実に生きる務めがあることが、パウロの言葉から示唆されています。

わたしたちには、主イエスの福音を、ひとりでも多くの人に伝えるという使命が与えられています。その業は、派手なパフォーマンスによって達成されるのではなく、小さな努力の積み重ねの上に成り立つのだということを、からし種のたとえから学びたいと思います。一人ひとりの小さな働きは、まさしくわたしたちが播く小さなからし種であります。しかしその種は、神によって育まれる限り、人間の常識をはるかに超える実りをもたらします。救いの業は、神の業であって、わたしたち人間の業ではありません。

去る5月11日、教皇フランシスコは、自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」を発表され、信徒の奉仕職としての「カテキスタ」を正式に制定されました。

カテキスタというこの奉仕職は、決して新しいものではなく、すでに新約聖書の中に、初代教会における務めとしてその役割を見いだすことが出来ます。教会は当初から、聖霊の働きに従順に従い、教会の働きのために生涯をささげた信徒によって果たされる、さまざまな奉仕職によって支えられてきました。

第二バチカン公会議以降、教会は福音化の働きにおける信徒の役割の重要性を強調してきました。第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

カテキスタは、入信の秘跡の準備から、信徒の生涯養成にいたるまで、神の民に奉仕するための信徒の召命であり、社会におけるパン種として働きかける生き方でもあります。パン種のように、またからし種のように、小さな一人ひとりの忠実な奉仕が、聖霊の導きのうちに、神の国の実現のために大きな実りを生み出します。わたしたちは小さな事に忠実に生きるよう、呼ばれています。

新しく制定された信徒の奉仕職としてのカテキスタに限らず、キリスト者には、すべからく自分の召命に生きる務めがあります。神からの呼びかけに忠実なものでありましょう。

 

  

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2021年6月 5日 (土)

週刊大司教第二十九回:キリストの聖体

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三位一体の主日の週の木曜日は、キリストの聖体の祝日です。ラテン語の呼び名で、しばしば「コルプス・クリスティ」と言われます。もっとも、多くの国では週日に集まることが難しいので、その次の日曜日にこの祝日を移動させることになっており、日本でもこの日曜日が、キリストの聖体の主日となります。

わたしが30年も前に働いていたアフリカのガーナの小教区でも、この祝日は日曜日に移動して祝われていましたが、ほかのキリスト教国と同様、ミサ後には聖体行列を行っていました。わたしが働いていたオソンソンと言う村は、カトリックを含めクリスチャンが多数でしたので、山間部にあり谷底に細長く広がる村を、主な部分だけでも、かなり歩いたことを記憶しています。村の中に4カ所ほど、椰子の木の葉などを組んだ仮の祭壇を設けて、行列の途中で祈りをささげ、御聖体で祝福をして回りました。

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この写真は、しばしば掲載していますが、その聖体行列に出かけるところです。左の後ろ上に見えているのが、オソンソン教会の聖堂入り口。聖堂正面を下っていくと小学校があり、左右へ分かれて村へつながる道です。御聖体は、聖体顕示台を、わたしの右横のおじいちゃんが担いでいる船のような台の中に安置してあります。この船のようなものは、この地域で部族のチーフが担がれて乗る台をイメージした縮小版です。カラフルな傘は、チーフに尊敬を込めてそうするように、御聖体を覆うものです。そのチーフを担いでいるのは、例えば下の写真です。

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そして、上述した、村の中に設けた仮の祭壇で聖体顕示台を一時安置し、祈りをささげ、祝福をして回りました。

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もちろん日本でも聖体行列が出来ればそれに越したことはありませんが、御聖体が見世物のように見なされる事態は避けなければなりません。御聖体はキリストの実存であり、ふさわしい敬意のうちに礼拝され、共にいてくださる主に感謝と祈りがささげられるのですから、持って回れば良いというものではありません。そういったふさわしい宗教的環境を整えていく必要も、常々感じています。

キリストの聖体の主日にあたり、こういった信仰の表現や行動が制限され、信教の自由が侵害されている国で、こころといのちの危機を肌で感じながら信仰を守っている多くの兄弟姉妹に、聖体のうちに現存される主が、常に共にいてくださることを、そして護り導いてくださることを、心から信じ、また祈ります。

さて以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第29回目の、メッセージ原稿です。

キリストの聖体の主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第29回
2021年6月6日

主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。それは、今も日々のミサにおいて繰り返され、わたしたちはミサに与り、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心に、思いを馳せます。

主は、すべての思いを込めて、残していく弟子たちに、パンと葡萄酒のうちに自らが現存し続けること、すなわち、世の終わりまで共にいることを宣言なさいました。

「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」と、教皇ヨハネパウロ二世は「教会にいのちを与える聖体」に記しています。(9)

主イエス・キリストは、世の終わりまで、御聖体のうちに現存し、わたしたちとともに歩み続けておられます。

教皇ヨハネパウロ二世は、2004年の聖体の年にあたり発表された書簡「主よ、一緒にお泊まりください」に、こう記しています。

「信仰は、わたしたちがキリストご自身に近づくのだということを十分に意識して、聖体に近づくことを求めます。聖体の他の側面、つまり食事であること、過越の神秘であること、終末の先取りであることに、しるしに過ぎないものをはるかに凌駕した重要性を与えるのは、まさにキリストの現存なのです。聖体は、現存の神秘、世の終わりまでわたしたちとともにおられるというイエスの約束の完全な成就なのです。(16)」

御聖体のうちに主ご自身が現存されるからこそ、聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」だと、教会憲章は指摘します。その上で、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と指摘します(11)。

すなわち、御聖体をいただくことは、神からお恵みをいただくという受動的な側面だけではなく、わたしたち自身が自分をいけにえとしてささげるという、能動的側面も伴っています。では、自らをいけにえとしてささげるとはどういう意味でしょうか。御聖体をいただくわたしたちには、どのような行動が求められるのでしょうか。

そもそも御聖体をいただくわたしたちには、主の死と復活を、世々に至るまで告げしらせる務めがあります。その上で、わたしたちには、その福音に生き、言葉と行いで、現存される主イエスそのものである神の愛をあかしする務めがあります。さらにわたしたちには、御聖体によってキリストの体と一致することで、一つの体としての教会共同体の一致を推し進める務めがあります。

教皇ヨハネパウロ二世は、「主よ、一緒にお泊まりください」で、こう指摘しています。

「たとえば、何億人もの人類を苦しめている飢餓の惨状や発展途上国を苦しめている病気、老人の孤独、失業者たちが直面している困難、移住者たちの苦労などをわたしは思い巡らしています。・・・わたしたちが真にキリストに従う者であると認められるのは、互いの愛と、とりわけ困窮している人たちへの配慮によるのです。これが、わたしたちのささげる感謝の祭儀が真正なものであるかどうかを判断するための基準となります。(28)」

御聖体の秘跡のうちに現存される主は、歴史の流れをわたしたちとともに歩みながら、自らの愛をわたしたちがあかしするように招いておられます。出向いていく教会であることを求めています。神のその愛に基づいた招きに、応える者でありましょう。

 

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2021年5月29日 (土)

週刊大司教第二十八回:三位一体

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聖霊降臨の主日の次の日曜日は、三位一体の主日です。(写真は、2009年にマニラで開催されたFABC総会。故岡田大司教も参加されました。なぜこの写真かは、メッセージを参照ください)

わたしたちが洗礼を受けた「父と子と聖霊」である神の三位一体について、教会のカテキズムには、こう記されています。

「三位は一体です。三つの神々ではなく、三者として唯一の神、すなわち、実体として一つである三位の神を、わたしたちは信じています。三者が唯一の神性を分かち持つのではなく、それぞれのは神そのものなのです。・・・三つのペルソナのそれぞれが、神的実体、神的本質ないし本性という、同じ状態なのです」(253)

わたしたちは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」に(コリントへの手紙)、すなわち三位一体の神における交わりに常に招かれています。

緊急事態宣言が、6月20日まで延長されることになりました。東京教区としては、これまで継続してきた感染対策を今一度見つめ直し、徹底させていくようにいたします。変異したウイルスの存在も顕著になってきているようです。感染の機会をできる限り避けるように務めるとともに、ご自身やご家族の方々に少しでも不安がある場合は、ご自宅でお祈りをお続けください。

確かに実際に教会で互いに出会わないことで、教会における絆が薄れてしまっているように感じます。しかし昨年来たびたび申し上げているように、教会は交わりの共同体であって、三位一体の神における交わりへと招かれている共同体です。ですからその共同体は霊的につながっています。聖堂に集まってともに祈り、感謝の祭儀にあずかることは、もちろんわたしたちの信仰の中心にありますが、同時にわたしたちの信仰における絆は、時間と空間を超越していることも、そしてどこにあっても三位一体の神の懐に抱かれていることを、心に留めましょう。

以下、本日夕方6時配信の、週刊大司教第28回目の、メッセージ原稿です。メッセージの中で、アジアにおけるカトリック司教協議会の連盟組織であるFABCに触れています。もちろん日本の司教協議会もそのメンバーで、現在は常任委員会に会長として高見大司教が参加しております。またわたしも、来年までの任期で、人間開発局(Office for Human Development)の委員を拝命しています。現在二回目の二期目です。FABCは昨年、創立50年を迎えました。

三位一体の主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第28回
2021年5月30日

「至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的な神秘です。・・・信仰の他のすべての神秘の源、それらを照らす光なのです」と教会のカテキズムには記されています。(234)

わたしたちが「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けること、それが、「すべてのキリスト者の信仰は、三位一体に基づいて」いることを明示すると、カテキズムは記します。(232)

パウロはローマの教会への手紙に、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記します。御父を、我々からは、かけ離れた厳しく裁く存在としてみるのではなく、わたしたちは聖霊の導きによって御子と同じように御父を親しく感じる者とされているのだと、パウロは強調しています。

復活の主に出会い、聖霊をいただいたわたしたちは、その聖霊に導かれ、父と子と聖霊の交わりへと招かれ、神の子としてキリストと同じ相続人となるのだと強調することで、パウロはわたしたちの信仰が、三位一体の神秘のうちにあることを強調します。

マタイ福音は、三位一体の交わりに招かれたわたしたちに、主は、「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼をさずけ」るようにと命じたと記します。すなわちわたしたちは、三位一体の神秘にあずかることによって生かされ、その交わりに招かれた者として使命をいただき、全世界の人を三位一体の神秘における交わりに招くように、遣わされています。わたしたちは自分のおもいを告げる者ではなく、三位一体の神を告げる使者であります。

アジアのさまざまな国や地域に置かれている司教協議会の連盟組織であるFABCアジア司教協議会連盟は、昨年で創立50年となりました。この50年間、アジア全域において、三位一体の神をあかしし、イエスの福音を告げしらせるために、牧者である司教たちの交わりを通じて、福音宣教への共通理解を深めてきました。中でも、FABCは三つの対話、すなわち、「人々(特に貧しい人々)との対話、諸宗教との対話、多様な文化との対話」が、アジアでの宣教において共通する重要課題であると指摘を続けてきました。

教皇ヨハネパウロ二世は、1998年のアジア特別シノドス後に発表した「アジアにおける教会」に、 「わたしたちは、アジアの膨大な人口そのものと、人類家族の遺産と歴史のかなりの部分を形作っている多くの文化、言語、信条、伝統の複雑なモザイク模様に驚かずにはいられません」(6)と、アジアの現実を生み出す背景を記しました。

その上で、「教会はこれらの伝統を非常に深く尊敬し、これらの信者と誠実な対話をしようと努力しています。彼らが教えている宗教的価値は、イエス・キリストにおいて成就されることを待っているのです」(6)と記しています。

同時に教皇は、「シノドス参加者は、アジアの社会と文化と宗教における聖霊の働きを喜んで認めました。それらをとおして御父は、アジアの諸民族の心をキリストにおいて完全に成熟するように準備しているのです」(2)とも指摘されます。

アジアの一員であるこの国において、わたしたちは聖霊に導かれて、御子イエスの福音をあかししようとしています。聖霊の導きに勇気を持って信頼し、さまざまなレベルでの対話を忍耐と喜びを持って続けながら、交わりへと招かれる三位一体の神を、あかしし続けて参りましょう。

 

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2021年5月22日 (土)

週刊大司教第二十七回:聖霊降臨

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聖霊降臨の主日となりました。

聖霊降臨祭をもって、復活節は終了です。復活祭の締めくくりとして、聖霊降臨のミサでは、最後の派遣の言葉、「行きましょう、主の平和のうちに」のあとに、復活の八日間と同様、「アレルヤ」を唱えます。

先週もお伝えしましたが、5月24日は、一年前から続いていた「ラウダート・シ特別年」の締めくくりの日です。2015年5月24日の聖霊降臨の日に、回勅「ラウダート・シ」が発表され、昨年がちょうど5周年となることから、教皇様はこの一年を、特別年として、「ラウダート・シ」について振り返り、考察を深めるように呼びかけられていました。

教皇庁の人間開発のための部署(長官:タークソン枢機卿)では、これから数年間にわたり教会の多くの部門を巻き込んだ、ラウダート・シの精神を実現する具体的な行動計画を作成しています。そのキーワードはエコロジカルな回心(回勅の216項以下)と総合的エコロジー(回勅の137項以下)。そして同部署では、ラウダート・シに基づいた7つの目標を掲げています。この目標については、東京教区広報で抄訳を準備中ですので、間もなくホームページに掲載される予定です。

もちろんこれらの目標や取り組みは、神の計画を実現するためであり、すべての人にイエス・キリストの福音を告げしらせることを、その基礎においてることは、言うまでもありません。エコロジカルな回心を語る教皇フランシスコは、「生態学的危機は、心からの回心への召喚状」だと記し、「熱心でよく祈ってはいても、・・・環境への関心を嘲笑しようとするキリスト者がいると言うことも知らねばなりません」と記します。その上で、「そうした人々皆に必要なものは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界とのかかわりの中であかしさせます。神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生活には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとって任意の、あるいは副次的な要素ではありません」と指摘しています。(217)

さて、例年、聖霊降臨の主日には、午後から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教区の合同堅信式を行っていました。残念ながら、昨年と同様、現在の状況のため、合同堅信式を行うことが出来ません。またこれまでは、なるべく司教が小教区を訪問して堅信式を行ってきましたが、このような状況下で司牧訪問も適わず、小教区での司教司式の堅信式を行うこともできていません。すでにいくつもの小教区でおこなわれていますが、現在の状況が続く中ですので、主任司祭に堅信を授けるようにと委任しております。一日も早く、安心して皆で集まって祈り、賛美と感謝をささげる事が出来るようになる日が来ることを願い、祈り続けましょう。また病床にある方々の回復のため、医療関係者の健康のため、祈り続けましょう

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第27回のメッセージ原稿です

聖霊降臨の主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第27回
2021年5月23日

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」

五旬祭の日に聖霊を受けることで誕生した教会共同体は、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で」神の福音を語り始めました。パウロはその教会が、「霊の導きに従ってまた前進」し続けることで、どのような実りを生み出すのかを明確にします。

ヨハネ福音は、「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」と語るイエスの言葉を記して、教会共同体が、常に聖霊によって真理へと導かれていることを明確にします。

第二バチカン公会議の教会憲章は、教会に聖霊が与えられたことによって、「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように住み、彼らの中で祈り、彼らが神の子となったことを証明する」と記します。

その上で、「福音の力を持って教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く(4)」のは、聖霊であると明示します。

教会は、常に聖霊に満たされ、聖霊によって導かれています。第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようとつとめる(11)」と記します。すなわち、教会は社会の現実から切り離された隠れ家となるのではなく、積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極めるために出向いていく存在であります。

聖霊の導きに信頼していますか。社会の現実に働く神の力を識別し、時のしるしを読み取り、聖霊の導きに身をゆだねているでしょうか。わたしたちが生み出すべきは。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実りです。常に若返り、新たに変えられていく勇気がありますか。すべての人に理解される言葉で、福音を語り続けているでしょうか。現代世界憲章が、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と、その冒頭に記していることを、常に心に留めたいと思います。

感染症への対応が社会にさまざまな影響を及ぼしています。病床にあっていのちのために闘う人たちのために、またいのちを救うために奮闘される医療関係者に心からの敬意をもって、祈ります。そして、この困難な状況の一日も早い終息を求めて、祈り続けましょう。

同時に、感染症対策に伴って、経済が悪化し、生きる困難を抱える人たちが増え、さらには自殺・自死も、とりわけ若い世代で増加していると指摘されています。闇の中を歩む不安な心は、寛容さをわたしたちから奪っています。法的立場や国籍をこえて、また社会的背景をこえて、助けを求めている多くの人たちを、まず守ろうとする寛容な社会でありたいと思います。いのちを守ることを最優先とする社会の実現は、現代社会にあって聖霊に導かれる教会にとって、まさしく自分たちの問題であります。

聖霊降臨を祝う今日、わたしたち現代社会に生きる教会共同体は、あらためて聖霊に満たされ、聖霊の導きに信頼し、その実りをわたしたちの言葉と行いを持って生み出すことが出来るように、努める決意を新たにいたしましょう。

 

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2021年5月15日 (土)

週刊大司教第二十六回:主の昇天

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復活節第七主日は、主の昇天です。(写真は西千葉教会のヨセフ像)

この一週間は、月曜の東京教区の司祭評議会に始まって、水曜日の司教協議会のHIV/AIDSデスク事務局会議、そして社会司教委員会、木曜日には司教協議会の常任司教委員会と東京カトリック神学院の常任司教委員会などと、すべてオンラインでの会議が続きました。どの会議でも、今後の年間予定をどうするのかが重要な議題のひとつとなり、秋以降に予定されているさまざまな行事は、状況が見通せないことや準備の時間も考えて、軒並み、中止やオンライン化が決まっていきました。オンラインでの行事は、全国どこにいても参加できるメリットがある反面、やはり実際に出会って交わるという部分に、まだ欠けているように感じます。慣れるのかもしれません。またオンラインの会議は、移動する時間と経費が節約できますが、移動時間がないぶん、立て続けに会議が続くことがあり、モニター画面の前に座りっぱなしになったり、海外との会議ですと時差を考慮に入れて、とんでもない時間に始まったりと、それはそれで大変です。

中止になった行事といえば、5月21日から26日まで、有楽町で、カトリック美術協会の毎年の美術展が開催される予定でした。これも、昨年同様、中止となってしまいました。わたし自身はカトリック美術協会の顧問司教を務めていますが、わたしの父親も絵描きですので出品されることがあります。信徒の美術家の方々の渾身の作品が展示され、広く一般の方にも鑑賞いただく機会でしたので、残念です。来年は、安心して開催されますように。

ワクチン接種が少しずつ進んでいるようです。司祭や修道者の方でも、高齢者が多いですから、順番に接種の予約が取れたかたが出ているようです。わたしはまだ65歳前ですので、ワクチン接種はかなり先のことになるのではないかと思われます。まだまだ気を抜くことは出来ません。

以下、本日土曜日午後6時に配信された、週刊大司教第二十六回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

復活節第七主日B・主の昇天(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第26回
2021年5月16日

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」

復活された主イエスは、40日にわたって弟子たちとともにおられ、神の国について教え、ご自分が新しい命に生きていることを数多くの証拠を持って示されたと、使徒言行録の冒頭に記されています。

十字架上での死によって主を失った弟子たちには、大きな絶望があったことでしょう。神の国の実現という、将来に向けての具体的な目的が潰えてしまったからです。復活された主に出会った弟子たちの、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけに、弟子たちの心に再び芽生えた希望が表現されています。

残念ながら、弟子たちの心に再燃したその希望は、主が示す新たないのちへの道とは異なりました。マルコ福音には、天に上げられ、神の右の座につかれたイエスが、弟子たちに残した言葉が記されています。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

これこそが、主イエスが示される新たな命への希望の道であります。

福音を伝えることによって、多くの人が神の救いにあずかること。多くの人が神の愛に包まれて生きること。そこに本当の命の希望があるのだと、主は進むべき道を示されます。

わたしたちには、福音を告げしらせ、命の希望の灯火をともしていく務めがあります。教会に与えられた、福音宣教の命令です。わたしたちの使命です。

昨年から一年以上、わたしたちは困難な状況の中にあります。希望の光であるワクチン接種も徐々に始まってはいますが、しかし、緊急事態宣言やそのほかの措置が繰り返され、まだまだ油断することはできません。気を緩めることはまだ出来ませんが、かすかながら光が見えつつあり、希望を感じ取ることができます。希望は人を生かします。希望は不安を打ち砕き、行動へと駆り立てる勇気を与えます。希望は、守りに入って自分のことだけを心配する目を、助けを必要とする他者へと開きます。希望は、わたしたちが一歩前へと足を踏み出す力を生み出します。

この希望への道を切り開いてくださっている医療関係者の努力に、あらためて感謝すると共に、病床にある方々の一日も早い回復を心から祈ります。

「教会の使命は、キリストの命令に従い、聖霊の恵みと愛に動かされて、すべての人と民族の前に完全に現存するものとなるとき、初めて遂行される」と記している第二バチカン公会議の『教会の宣教活動に関する教令』は、愛のあかしによる福音宣教についてこう記します。

「キリストが神の国の到来のしるしとして、あらゆる病気や患いをいやしながら町や村を残らず巡ったように、教会もまた、その子らを通して、どのような状況にあるとしても、人々とくに貧しい人や苦しんでいる人と結ばれ、彼らのために喜んで自分を差し出す」(12)

イエスは苦しみの意味を問うわたしたちに、抽象的に意味を説明するのではなく、ただ、「わたしに従って来なさい」と招き、ご自分の愛の業に参加するように呼ばれるのだと記したのは、ヨハネパウロ二世でありました。(「サルヴフィチ・ドローリス」26)

いまこの状況の中で、わたしたちには、福音を、愛の業によるあかしを持って告げしらせる務めがあります。希望の光を届け、主が示される新しい命への真の希望の道を歩みましょう。

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2021年5月 8日 (土)

週刊大司教第二十五回:復活節第六主日

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復活節もすでに第六主日となりました。

残念なことに、緊急事態宣言は当初の5月11日は解除とならず、東京都に関しては月末まで延長されることが発表されています。千葉県のまん延防止等重点措置も、月末まで継続です。従って、東京大司教区では、現時点で行っている感染対策などを、そのまま継続します。現時点での教区の対策は、東京大司教区のホームページの一番トップに、常に掲示されていますので、ご参照ください。『現在の東京教区における感染症への対応」と記されたバナーがありますので、クリックされてください。

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5月8日土曜日の午前11時から、ごく一部の方々に参加者を限定して、昨年12月に帰天されたペトロ岡田武夫大司教と、昨年9月に帰天されたフランシスコ・ザベリオ岸忠雄神父の納骨式を、府中カトリック墓地で行いました。晴天に恵まれ、暑いほどの陽気でしたが、両師のご親族代表ほか10名ほどで、教区司祭団の共同納骨墓にお二人の御遺骨を納めさせていただきました。府中墓地の聖堂の目の前にあるのが教区司祭団の共同墓です。府中墓地にお出での節には、是非お祈りをお願いいたします。

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以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第二十五回目の、メッセージ原稿です。

復活節第六主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第25回
2021年5月9日

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と呼びかける使徒ヨハネは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしに」なったことにこそ、神の愛が示されていると強調します。すなわち、神からわたしたちへ向けられた愛は、御子が十字架の上でその身をささげられたほどの愛であり、まさしく命がけの愛であります。その愛によって生かされているのだから、わたしたちも、口先ではなく、「命がけ」で愛に生きるようにという、実のところきわめて激しい呼びかけの言葉であります。

使徒ヨハネの言葉は、イエスご自身のさらに激しい呼びかけ、すなわち、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉に根ざしています。

「隣人を愛する。友を愛する」と口にするのはたやすいことです。もしかしたら「互いに愛し合いなさい」と言う呼びかけも、簡単なことだと思ってしまうこともあるやも知れません。でもそれは思い違いです。それは、単に優しくあることを意味しているからではありません。

イエスが語る「愛」は、ご自身がそうされたように、命がけの愛であります。神の愛を具体化するために、イエスは受難の道を歩まれ、十字架の苦しみの中に、ご自身を贖いのいけにえとしてささげられました。それが神の愛です。

この言葉を耳にするとき、わたしはどうしても、ルワンダ難民キャンプでの体験を思い起こしてしまいます。25年ほど前、当時の旧ザイールにあったルワンダ難民キャンプで、襲撃事件に遭遇しました。キャンプに二時間にわたって銃弾が撃ち込まれる中で、隣に一緒にいたはずのルワンダ人の神父が、外国人のわたしたちが襲撃されないようにと、建物の外に立ち、襲撃してきた一団の注意を引こうとしていたのでした。幸い彼が襲撃してきた一団に遭遇することがなかったのですが、その直後、「君たちを守るために、注意を引こうとしていたのだ」と口にした彼の言葉を耳にしたとき、自分がそれまで「友のためにいのちを捨てる」という言葉を、いかに軽々しく口にしてきたことかと思い知りました。

そしてイエスの言葉がどれほど命がけの行動を促しているのかを、思い知りました。愛は簡単に口に出来ますが、神の愛に生きることは、命がけであります。

5月は聖母月ですが、聖母マリアは命がけの愛に生きる模範を示されています。教皇フランシスコはそのことを「福音の喜び」で、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)と記して、聖母の愛が、単なる優しさにあるのではなく、「革命的な力」という表現で、命をかけた生き方によってあかしされていること示唆します。

さて教会は、復活節第六主日を、世界広報の日と定めています。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、インターネットなどの広報媒体を用いて行う宣教について、教会全体で考え、振り返り、祈り、献金をささげる日です。この日にあたり教皇フランシスコは、『「来て、見なさい」(ヨハネ1・46)人々と、彼らのいる場で、そのままの彼らと会って、伝えなさい』というメッセージを発表されています。教皇は、「ことばは、それが「見てもらえる」ときにのみ、あなたを経験の中に、対話の中に、巻き込むときにのみ力を得ます」と記して、イエスと出会った者がその体験を、実際の出会いの中で具体的に言葉と行いを持ってあかしするように招かれます。

わたしたちは主イエスに倣い、命がけの愛に生きている姿を、具体的にあかしするように、努めていきたいと思います。

 

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2021年5月 1日 (土)

週刊大司教第二十四回:復活節第五主日

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復活節も第五主日となりました。東京教区でも東京都は緊急事態宣言の対象となっておりますし、都県境をまたいで千葉県などで隣接する教会も多いことから、それぞれの小教区の事情に応じて、ミサの公開を一時中止としているところもあること、報告をいただいています。

4月29日には、上の写真にあるとおり、小田神父様、古市神父様の司祭叙階式を、参加者を限定して執り行うことが出来ました。それ以外は、多くの予定されていた行事が中止や延期となっています。この主日、5月2日は五井教会で堅信式の予定でしたが中止。5月5日は豊四季教会の五十周年ミサを司式する予定でしたが、これもプライベートなミサに変更。昨年から一年延期となり、連休中に予定されていた全国のカトリック青年の集まりも再度の延期。などなど、それ以外にも、特にこの連休中に予定されていた諸行事が、延期や中止となっているものと思います。

一日も早くこの困難な状況が終息し、再び笑顔で教会に集える日が戻るように、病床にある方々に回復を、医療関係者の健康が守られるように、五月中は特に聖母の取り次ぎを願って、祈り続けましょう。祈りの力で、霊的に結ばれていることを、再確認いたしましょう。

教皇様の、五月中にロザリオ・マラソンを行うという呼びかけに応え、急遽、東京教区でもロザリオのビデオを作成しています。5月3日から5月31日の、五月中の毎週月曜日昼に、東京教区のyoutubeアカウントから、週刊大司教と同じように配信します。準備するにはとても短い時間ですが、担当者がオーバータイムで必死に作成してくれていますので、これが皆様のお祈りの一助となれば、幸いです。

配信内容としては、ロザリオの前にわたしのメッセージがあり、そのあと、月曜ですが復活節でもあるので「栄えの神秘」を、毎回一連ずつ唱えましょう。(毎月曜に一連で、今年の5月は5回月曜があるので、一ヶ月でちょうど一環となります)最後に、昨年の信徒への手紙に記されていた、教皇フランシスコの祈りを唱えて終わります。もちろんその後で、それぞれの場で、一環、またはそれ以上、祈り続けてくださって構いません。

いわゆる入管法(出入国管理及び難民認定法)などの一部を改正する案が国会で審議され、先般の名古屋入管におけるウィシュマ・サンダマリさんの死亡の事案などもあり、改正に反対する声が上がっています。こういったことに関する教会の態度は明確です。

教会は、その旅路がどのような理由で始められようとも、そのどこにあっても、どのような状況にあっても、神の似姿である人間のいのちの尊厳は、常に守られなくてはならないと主張します。

申命記10章19節には、「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」と記されていました。困難に直面する人々に、救いの手を差し伸べることは、そもそもの神の民の務めです。

わたしたちが最優先するべきなのは、移住者の現在の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳であると、教会は長年にわたり主張してきました。例えば1996年世界移住の日のメッセージで、教皇ヨハネパウロ二世はこう指摘しています。

「違法な状態にあるからといって、移住者の尊厳をおろそかにすることは許されません。・・・違法状態にある移住者が滞在許可を得ることができるように、手続きに必要な書類をそろえるために協力することはとても大切なことです。・・・特に、長年その国に滞在し地域社会に深く根をおろして、出身国への帰還が逆の意味で移住の形になるような人々のために、この種の努力をしなければなりません。」

教皇フランシスコは、難民や移住者への配慮を、いのちの尊厳に基づいて強調されています。それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたり、さらには社会にあって異質な存在として必ずしも歓迎されないどころか、しばしば排除されている人たちが世界に多く存在する。教皇フランシスコは、危機に直面するそのようないのちの現実を前にして、法律的議論はさておいて、人間のいのちをいかにして護るのかを最優先にするよう呼びかけています。従って、現在の法律の改正論議にあっても、人間のいのちの尊厳が守られることをまず優先してくださることを希望してやみません。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第二十四回目のメッセージ原稿です。

復活節第五主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第24回
2021年5月2日

使徒言行録は、回心したパウロが、当初は彼を迫害の手先として恐れていた弟子たちから受け入れられ、その出来事を通じて教会が、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」言った様を記しています。

神の救いの計画は、人知をはるかに超えた方法をとりながら、成就する道をたどることを、あらためてわたしたちに認識させます。同時にわたしたちは、その人知をはるかに超える道は、聖霊によって導かれていることも知っています。

教会は、聖霊によって導かれています。第二バチカン公会議の教会憲章は、五旬祭の日に遣わされた聖霊が教会を導き続けていることを明確に指摘し、「聖霊は福音の力を持って教会を若返らせ、絶えず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」と記しています。(4)

ヨハネも手紙の中で、「神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります」と記すことで、教会に働き、教会を導き続ける聖霊の働きを明確にします。

ヨハネ福音は、主ご自身がぶどうの木であり、わたしたちは枝として連なっているのだという話を記します。主イエスは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と指摘されます。

枝は、ぶどうの木である主イエスにつながっている限り、「豊かに実を結ぶ」ものの、どのような実を結ぶのかは、枝の自由にはなりません。すなわち、わたしたちが幹である主に枝としてつながると言うことは、自分が生み出したい実りを生み出すためではなく、主が望まれる実りを、主に与えられるがままに実らせることであります。

わたしたちはこのことを理解しているでしょうか。信仰を深めたとき、自分自身がよしとする理想を、真の実りと取り違えてしまうことはないでしょうか。豊かな実りは、主の実りであって、わたしたちの実りではありません。しかもその実りは、教会を導く聖霊による実りでもあります。聖霊は人知をはるかに超える方法で、教会に実りをもたらします。仮に、自分の理想を実りだと思い違いをするならば、それは教会に働く聖霊の導きを否定することにもなりかねません。

聖霊の導きに全幅の信頼を寄せ、自らの理想に固執することなく、神の御手にすべてをゆだねたのは、聖母マリアでありました。

教会は5月を聖母の月として、ロザリオの祈りをささげるよう勧めています。パウロ6世は第二バチカン公会議後の典礼改革のなかにあって、聖母への信心の重要性を説いた「マリアーリス・クルトゥス」に、「ロザリオは天使による喜ばしいあいさつとおとめの敬虔に満ちた承諾から始まって、福音からインスピレーションを受けて、信者がそれを唱えるべき態度を示唆しています」と記し、聖母が「お言葉通りにこの身になりますように」と神の御手にご自身をすべてゆだねた態度に倣うように勧めています。また教会は伝統的に、人類が危機に直面するとき、聖母の取り次ぎを求めて、祈りをささげてきました。コロナ禍の今、わたしたちはこれまで以上に祈らなくてはなりません。

わたしたちは、聖母に倣い、聖霊の導きに勇気を持って身を任せましょう。自分の実りではなく、主の実りを生み出す枝でありましょう。

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2021年4月24日 (土)

週刊大司教第二十三回:復活節第四主日

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三度目となりますが、政府から緊急事態宣言が出されることになりました。期間は4月25日から5月11日までとされ、東京教区では東京都がその対象となっています。千葉県は、先に発令されているまん延防止等重点措置が、5月11日まで続くものと思われます。

さまざまな対策が行政側から発表されていますが、東京大司教区としては、これまで行ってきた感染対策を徹底して、互いのいのちをしっかりと守る行動を続けたいと思います。祈りの時を共有し、御聖体の秘跡にあずかる機会を失わないように、基本的にはミサの公開を継続しますが、小教区の状況によっては、主任司祭の判断で非公開とされる可能性もあります。教区からの公示は、こちらのリンク先をご覧ください

また、4月29日に予定されている、小田助祭と古市助祭の司祭叙階式は予定通り執り行いますが、感染対策のため、参加者の限定と式の簡素化をさせていただきます。詳細はこちらのリンク先をお読みください。困難な時期に叙階される二人の新司祭のために、お祈りくださいますと幸いです。

困難な状況が継続していますが、互いに集まりともに祈り合えないときであるからこそ、それぞれの場でのお祈りを深めてください。特に、この困難な状況から一日も早く抜け出すことが出来るように、闇に光がさすように、いのちが守られるように、医療関係者の健康が守られるように、病床にある方々の回復のために、祈りをささげましょう。これまでも、お祈りくださっていることに感謝するとともに、感染対策をあらためて引き締めるのと同様、祈りを続け深めることも、心を引き締めて継続いたしましょう。

教皇様は昨年も5月に、ロザリオの祈りをとおして、パンデミックという試練を乗り越えることが出来るように、聖母の取り次ぎを祈るように呼びかけられました。そのときの教皇の呼びかけの言葉です。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちの母マリアの心でキリストのみ顔をともに観想することは、霊的な家族としてのわたしたちの結びつきをさらに強め、この試練のときを乗り越える助けとなるでしょう。わたしは皆さんのため、とくにもっとも苦しんでいる方々のために祈ります。皆さんもわたしのために祈ってください」

今年は、教皇様の呼びかけに応え、新福音化推進評議会が、5月の間、世界中の30の聖母巡礼所と共に、「ロザリオ・マラソン」を提案しています。間もなく始まる5月は聖母月です。わたしたちも教皇様の呼びかけに応えて、この5月に、パンデミックの収束を願って、ロザリオの祈りをささげましょう。この提案のテーマは、使徒言行録12章5節の、牢に捕らわれたペトロのために教会共同体が祈ったという記述からインスピレーションを受けて、「教会では熱心な祈りが神にささげられていた」とされています。

東京教区でも、通常土曜日夕方に配信している「週刊大司教」に加えて、わたしと一緒にロザリオを唱えていただけるようなビデオを、五月中定期的にyoutubeで配信する予定で準備しています。一緒に祈りをささげてくださいますと幸いです。

祈りには力があるとわたしたちは信じています。ヤコブの手紙5章16節に「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」と記されているとおりです

なお一番上の写真は、4月28日までの予定で、カテドラルのケルンホールで開催されている、『ミャンマーの平和願う写真展」アウンサンスーチーと家族の写真を中心に』を昨日訪れたときのものです。4月28日まで、「ビルマ応援の会」が主催して、11時から4時まで行われております。

以下、復活節第四主日の週刊大司教メッセージ原稿です。なおメッセージでも触れているように、この主日は、世界召命祈願日でもあり、司祭・修道者の召命のために、特にお祈りと献金をお願いする日でもあります。

復活節第四主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第23回
2021年4月25日

「わたしは良い羊飼いである」とイエスはヨハネ福音で宣言されます。「良い羊飼い」がいるのであれば、「悪い羊飼い」もいるのでしょうが、それをイエスは「自分の羊を持たない雇い人」と述べ、羊のことを自らの一部として心にかけることのない者だと指摘します。すなわち神は、ご自分が賜物としていのちを与えられたわたしたちを、ご自分の羊、ご自分の一部として心にかけ、その羊のためならば命をかけるとまで宣言されます。その上で、イエスは、ご自分の羊となっていない羊の存在をも心にかけ、「ひとりの羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことが最終的な目的であることを明示します。

使徒言行録は、ペトロとヨハネが共に、足の不自由な人をいやしたことで捕らえられ、議員、長老、律法学者たちから、「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」と尋問を受けた時の、ペトロの答えを記しています。自らが権威をもって人々を教え導いていた議員、長老、律法学者にしてみれば、自分たちこそが民の指導者、すなわち羊飼いであるとの自負があったことでしょう。それを打ち砕くように、どこの誰とも分からないペトロたちが人々からの賞賛を浴びていたのですから、困惑や妬みから、二人をゆるすことが出来なかったのかもしれません。

それに対してペトロは、イエスこそが救いをもたらす真の羊飼いであることを、高らかに宣言します。しかもその羊飼いは、すべての人の救いのために、すでに自らの命を捨ててその愛をあかししているのです。人々から見捨てられた主は、今や復活されて、動くことのない隅の親石として世界を支配しているのだと、明確に宣言します。

イエスご自身が明示されたように、「ひとりの羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことが最終的な目的であるならば、ペトロがそうしたようにわたしたちも、真の羊飼いの存在を高らかに告げしらせなければなりません。使徒ヨハネも手紙に、「世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです」と記していますが、そうであればこそわたしたちは、御父の存在を告げしらせなくてはなりません。

教会は復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りを捧げる日となっています。例年であれば、教区の一粒会が主催して、この日の午後に東京のカテドラルでは、神学生や志願者を招いて召命祈願ミサが捧げられてきました。残念ながら、昨年に続いて今年も、このミサは中止となりましたが、あらためてみなさまには、司祭・修道者への召命のために、またその道を歩んでいる多くの方のために、お祈りくださるようにお願いいたします。

もちろん召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。わたしたち皆が、ペトロに倣って、真の羊飼いの存在を高らかに告げしらせる、言葉と行いによるあかしの業に取り組まなくてはなりません。

同時に教会共同体には、真の牧者に倣ってそれぞれの群れを導く牧者も必要です。生活のすべてを賭けて福音をあかしする修道者も必要です。世界召命祈願日にあたり、信徒一人ひとりが固有の召命に目覚め、また司祭修道者の召命に目覚める人がひとりでも多くあるように祈りましょう。

参考までに、教皇様の世界召命祈願日のメッセージは、こちらのリンクからお読みいただけます。

 

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2021年4月17日 (土)

週刊大司教第二十二回:復活節第三主日

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復活節も第三主日となりました。(写真は、先週、4月11日に行われた、お告げのフランシスコ姉妹会での、シスター堀内桐子の終生誓願式の様子です。シスター堀内、おめでとうございます)

東京教区内でも、東京都の一部の地域はこの月曜日からすでにまん延防止等重点措置の対象となっていますが、今度は千葉県の一部も、4月20日から5月11日まで、同措置の対象となることが発表されています。対象となる地域は、船橋市と市川市、松戸市、柏市、浦安市と報道されています。

先般東京が対象となったときの公示にも記しましたが、新たに対象となった地域の教会にあっては、感染対策を今一度徹底してくださるようにお願いします。現時点での東京教区の感染対策については、このリンクの東京教区ホームページをご覧ください。

昨年12月18日に帰天されたた東京教区名誉大司教ペトロ岡田武夫大司教の追悼ミサは、1月に予定されていましたが、感染対策のため延期となっていました。このたび、4月19日の月曜日に、追悼ミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行うことといたしました。残念ながら、感染対策のため、皆さんに自由に参列していただけません。申し訳ありませんが、ミサへの参加は、小教区などの代表者の方に限定とさせていただきます。

しかしながら、ミサ後、午後2時半頃から4時までの間は、どなたでも自由に大聖堂にお入りいただき、献花や追悼のお祈りをしていただくことができます。大聖堂内の「密」の状況によっては、入場制限を行うことになるかも知れませんが、この時間に、岡田大司教様の永遠の安息のためのお祈りをささげていただけますと幸いです。

なお、5月8日には、府中墓地に納骨いたします。5月8日以降、府中墓地を訪れる際には、教区司祭の墓所でも、お祈りいただければと思います。

以下、本日土曜日午後6時公開の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

復活節第三主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第22回
2021年4月18日

ルカ福音は、エマオへの道で復活された主と歩みをともにし、食卓を囲み、パンを割いたときにイエスだと気がついた二人の弟子について触れています。

イエスが復活された主だと悟った二人の弟子は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、その心の高ぶりを分かち合うためにエルサレムへととって返します。

本日のルカ福音はその二人がエルサレムに戻った様から、話を始めています。二人は、復活された主との出会いという自らの体験と心の思いを分かち合う、復活の主の証し人、証人となりました。

そこに現れた主ご自身は、さまざまな手段を講じてご自分を示され、弟子たちの理解を促します。それによってイエスは、復活が単なるこの世のいのちへの復帰の奇跡ではなく、体の復活でありながらも、同時に超越したいのち、すなわち「死の状態から時空を超えた別のいのちに」移ったことを明示します。(カテキズム646)

弟子たちに復活のいのちを解き明かしたイエスは、今日の福音の終わりに、「あなた方はこれらのことの証人となる」と告げられます。

使徒言行録は、復活の出来事を体験したペトロが、力強くイエスについてあかしする姿を記しています。ペトロは変身したのでしょうか。もちろん復活の主との出会いが彼の心に勇気を与え、揺るぎない信仰を持って語る使徒に変えたのは間違いがないでしょう。しかし、全く異なる人に変身してしまった訳ではありません。ペトロは、復活の主との出会いの体験を通じて何を語るべきなのかを悟ったのです。それが、ペトロがここで強調する、「わたしたちは、このことの証人です」と言う言葉に込められています。

使徒ヨハネは手紙で、「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」と記します。

すなわち、恐れていたペトロは、自分の心のうちを語る自分の証人でした。ですから恐れをあかししていたのです。しかし復活された主との出会いによって、神のことばを心に植え付けられ、心は燃え立たせられ、その言葉を守ることで、心のうちに神の愛が実現しました。そして使徒は、自らが何を語るべきなのかを悟ったのです。神が求める証人は自分の心のうちを語るのではなく、復活された主との出会いで与えられた神のことばを語るのです。復活された主との出会いによって燃え立たせられた心のうちに実現する、神の愛をあかしするのです。

2015年12月に、教皇フランシスコは、「いつくしみの特別聖年」を始めるにあたり、大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」にこう記していました。

「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父のいつくしみを現さなければなりません」(12)

わたしたちは、何をあかしする証人なのでしょう。わたしたちの教会共同体は、何をあかしする証人となっているのでしょう。対立やいがみ合いや差別や排除ではなく、いつくしみをもってすべてを包み込み、互いに支え合う愛をあかしする証人でありたいと思います。

 

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