カテゴリー「週刊大司教」の242件の記事

2026年2月 7日 (土)

週刊大司教第243回:年間第五主日A

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女子修道会の国際総長会議(UISG)によって提案され進められてきた「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」は2月8日です。今年は主日に重なりましたが、この意向を心に留めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としたいと思います。教皇フランシスコは、2015年2月8日のお告げの祈りの時に、この活動に触れ、積極的に行動するように呼びかけました。UISGが中心になって活動するタリタクムでは、この祈りと啓発の日のホームページを設け、今年の活動を紹介しています(日本語がないので、リンク先は英語です)。

今年も教皇レオ14世が、祈りの呼びかけのメッセージを発表されています。(メッセージは、こちらのリンクは英語版です.そして、こちらが日本語訳へのリンクです。)

2月8日というのは、聖ジョゼッピーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれました。聖人はカノッサ修道会の会員でした。同会のホームページにはこう記されています。

「バキータは男3人、女3人の6人兄弟でした。お姉さんは1874年、奴隷商人たちにさらわれました。バキータは7歳のころ2人のアラビア人にさらわれました。1ヵ月間監禁され、その後、奴隷商人に売り飛ばされます。ありったけの力をしぼって脱走を試みましたが、羊飼いにつかまり、間もなく、冷酷な顔立ちのアラビア人に売り払われます。その後、奴隷商人に売り払われます」

その後、様々な過酷な体験を経て、イタリアにおいて1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。同修道会のホームページに聖バキータの次の言葉が紹介されていました。

「人々は私の過去の話を聞くと、「かわいそう!かわいそう!」と言います。でも、もっとかわいそうなのは神を知らない人です。私を誘拐し、ひどく苦しめた人に出会ったら、跪いて接吻するでしょう。あのことがなかったら、私は今、キリスト者でも修道女でもないからです」

聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間的な尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために、祈りたいと思います。

教皇レオ14世は今年のメッセージで、教皇に就任したときの第一声と同じく「平和がみなさんと共に」という復活した主イエスのことばを繰り返し、「真の平和は、神が与えたすべての人の尊厳が認められ護られるときに始まる」と指摘され、特に現代社会に宛てオンライン詐欺などを通じて人身売取引に巻き込まれる事案に触れ、「例え小さくとも嵐の中で祈りの炎を絶やすことなく、それによってわたし達は不正義に対する無関心に抗う力を与えてくれる」と述べています。

人身売買・人身取引や奴隷などという言葉を聞くと、現代の日本社会とは関係の無い話のように感じてしまうのかもしれません。実際は,そうなのではありません。一般に「人身取引議定書」と呼ばれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性および児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には,次のような定義が掲載されています。

「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」
(同議定書第3条(a))

すなわち、売春を強制されたり、安価な労働力として,自己の意思に反して、人間の尊厳が守られないような状況下で労働に服させられている人たちの存在は、わたしたちの国でも無関係なことではありません。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第243回、年間第五主日のメッセージです。なおメッセージでも触れていますが、2月11日はルルドの聖母の日であり、また世界病者の日でもあります。今年の教皇様の世界病者の日のメッセージは、こちらのリンクからどうぞ。

年間第五主日A
週刊大司教第243回
2026年02月08日

マタイ福音は、イエスの教えとして、「地の塩、世の光」を記しています。

塩も光も、その果たす役割をふさわしく果たしているからこそ意味があるのだとイエスは指摘します。その上でイエスは、弟子が心にかける大切な原則を示します。

人はどうしても他者からの評価を気にしてしまう存在です。良い行いをする時にも、自分がほめたたえられることを、心のどこかで求めてしまいます。皆、自分がかわいいのです。

しかしイエスは、「あなた方の立派な行いを見て」褒め称えられるべきは、その行いを実行する「あなた」ではなくて、皆が「あなた方の天の父をあがめる」ためだと指摘します。与えられた務めを忠実に果たし、その忠実さを通じて、いのちの与え主である神が称えられるように生きること、すなわち神の愛をあかしする者であることが重要であると、イエスは指摘します。

果たしてわたしたちはどうでしょうか。わたしたちが果たすべき役割に忠実であることによって、わたしたちにいのちを与え、救いへと招いてくださる主ご自身の存在をあかしする者でありたいと思います。

今週の水曜日、2月11日は世界病者の日と定められています。

2月11日は1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、湧き出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出し、多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

わたしたちすべての教会共同体が、ルルドの霊的な安らぎの雰囲気に倣い、訪れる多くの人の心に、希望と生きる勇気を生み出すものでありたいと思います。

教皇様は今年の世界病者の日にあたり、「サマリア人のあわれみ、他者の苦しみを担うことで愛する」というメッセージを発表されています。

その中で教皇様は善きサマリア人のたとえ話の現代的意味を探求する必要を説き、「困窮する人に対する思いやりとあわれみは、単なる個人的な努力にとどまらず、さまざまな関係の中で実現されます。すなわち、困窮する兄弟との関係、彼らを世話する人々との関係、わたしたちにご自身の愛を与えてくださる神との関係です」と記し、助けを求める人との出会いの中で、また互いに助け合う人々との出会いの中で、わたしたちは自我を捨てキリストと出会うことを指摘されます。

その上で教皇様は、「自尊心や自己評価を成功やキャリアや地位や家柄といった固定観念に基づかせようとする思いから離れ、神と兄弟の前での自分の位置を再発見すること」が重要であると指摘しています。

現代社会は、忙しい世界です。インターネットの発達は、それをさらに加速させました。すぐに答えがほしいのです。すぐに結論が知りたいのです。でもその中で、立ち止まって、イエスのまなざしを向け、助けを必要としている兄弟姉妹のために、自分の時間を費やすことの必要性を、あらためて心に留めたいと思います。

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2026年1月31日 (土)

週刊大司教第242回:年間第四主日A

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あっという間に2026年も一ヶ月が終わり、二月になろうとしています。

この数日間、大雪の被害に遭われている地域のみなさまには、心からお見舞い申し上げます。

メッセージでも触れていますが、2月の最初の数日には、日本の殉教者の記念日が二つ設けられています。2月1日の日曜日、その日本26聖人殉教者を保護の聖人とする東京都墨田区の本所教会では、長年の伝統である殉教祭が行われます。今年もわたしが日曜日10時の本所教会のミサを司式させていただきます。

またご存じのように、福者ユスト高山右近に関しては列聖調査が進められています。日本でも大勢の方が右近の取り次ぎを祈っておられますが、帰天の地フィリピンのマニラにも力強く列聖のための運動を続けておられる方々が多数おられます。東京カテドラル聖マリア大聖堂の左手後部に安置されている高山右近像は、そのマニラのグループの方からの寄贈です

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第242回、年間第四主日のメッセージです。

年間第四主日A
週刊大司教第242回
2026年02月01日

2月の最初の週には、日本の教会の殉教者の記念日が二つ並んでもうけられています。2月3日は福者ユスト高山右近、そして2月5日が聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。

福者ユスト高山右近は、生涯をかけて信仰を守りぬいたが故に、すべてを失い、生まれた国を追われ、家族とともにマニラに追放処分となりました。1614年末のことです。右近は、その直後に熱病にかかり、翌1615年2月3日に、マニラで亡くなられたと伝えられています。信仰のために、すべてを奪われ、それでも喜びと希望のうちに信仰を全うした生き方が、殉教者としての生き方であると教会は認めました。

右近を追放しようと決めた秀吉の気持ちを和らげるため対立を避けなさいという周囲の忠告に耳を貸さず、右近は「イエス・キリストの騎士」である名誉を守り通そうとされ、説得する周囲に対して、「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」と述べたと伝えられています。

「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」という覚悟を、現代社会に生きるわたしたちは、どのように考えるのでしょうか。

1597年2月5日、長崎の西坂の地で、信仰を守り抜き、そのいのちを神にささげた26人は、「人間は一体何のために生きるのか」という問いかけに対する答えを、その生涯の言葉と行いを通じて、多くの人に対して証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、そのいのちを失うこと以上に価値のあることなのだという確信を、殉教において証しいたしました。殉教に価値があるのは、勇気を持って死んでいったからだけではなく、勇気を持って最後まで生き抜いた、その生きる姿にこそ、具体的なあかしによる福音宣教としての意味があるのだと思います。

26人の聖なる殉教者たちは、「人間はいったい何のために生きるのか」という問いに、明確な答えを残して、そのいのちを生き抜かれました。聖なる殉教者たちは、現代を生きるわたしたちに、人生においてどのように福音を生き抜くのか、その模範を残されました。

マタイによる福音は、山上の説教の冒頭部分に記されたいわゆる「真福八端」を伝えています。イエスが指摘する幸福の八つの状態、すなわち「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「あわれみ深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」の八つのタイプの幸福は、そうだと納得できるものもあれば、社会の常識から言えば決してそうとも言えない状態もあります。

しかしこの八つの真の幸福を実際に体現されたのは、主イエスご自身であることに気がつかさせられます。八つの幸福は、まさしく主イエスの生きる姿勢そのものであります。神の定められた幸福の道は、人間の常識が考える幸福とは異なっていることを、このイエスのことばが教えています。

わたしたちの信仰の先達である多くの殉教者たちは、本当の価値が、すなわち何のために生きるのかという問いに対する答えが、この世の考える幸福ではなく、神の生き方にこそあることを、見事に証明する人生を全うされました。わたしたちもその姿勢にならって、信仰をあかしする道を歩みたいと思います。

 

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2026年1月24日 (土)

週刊大司教第241回:年間第三主日A

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年間第三主日、神のことばの主日です。

教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』をもって、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に、年間第三主日を神のことばの主日とすることを宣言されました。こちらの中央協議会のページに同書簡へのリンクがありますので、一度ご覧ください。

いのちのパンとしての主イエスの現存である神のことばに親しむことは、主イエスの現存である聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと、第二バチカン公会議は指摘しています。ミサの中で聖書が朗読されるとき、神の言葉はそこで生きており、そこに主がおられます。私たちを生かしてくださる主の言葉の朗読に、真摯に耳を傾けましょう。

また1月の第四日曜日はケルンデーです。戦後からいまに至るまで、多くの支援を頂いたケルン教区のために祈り、同時に現在はともに支えているミャンマーの境界にも思いを馳せていただければと思います。ケルンとの関係の歴史は、東京教区ホームページのこちらをご覧ください。また今年はケルンデーのための共同祈願を用意しました。こちらをご覧ください

年明け早々に衆議院が解散され、2月8日には衆議院議員選挙が行われることになりました。このところ大雪が各地で続いているので、大切な投票日に多くの方が投票所へ足を運べないような事態にならないことを祈っています。

国会議員を選出する選挙は、いつであっても国政の有り様を左右する重要な選挙であり、その結果は日本に住むすべての人の生活に直結するものです。投票する権利のある方にあっては、この機会を大切にしたいと思います。

神から与えられたいのちの尊厳を大切にしているわたしたちは、神の望まれる世界を実現するために力を尽くさなくてはなりません。イエスが告げ知らせ、多くの信仰の先達がいのちをかけて護り伝えてきた福音がわたしたちの社会の価値観を支えるような世界を目指さなくてはなりません。そのためにも、国家の政治のリーダーたちが、聖霊の導きに耳を傾け、神の望まれる平和の実現に向けて歩むように、また、すべてのいのちが守られる世界が実現するように指導力を発揮してくださることを願い、祈りましょう。さらには人間の尊厳が守られる世界の実現に結びつく政治のリーダーが誕生するように、この選挙を前にともに祈り、いつくしみ深い御父の導きと聖霊の照らしを願いましょう。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第241回、年間第三主日のメッセージです。

年間第三主日A(神のことばの主日)
週刊大司教第241回
2026年01月25日

年間第三主日は、「神のことばの主日」です。

イエスはその宣教活動を、「悔い改めよ。天の国は近づいた」ということばを持って始められました。イエスこそは、神の言葉そのものの受肉です。この主日を定められた教皇フランシスコは、使徒的書簡「アペルイット・イリス」で、第二バチカン公会議の「啓示憲章』に言及し、「かつて永遠なる父のみことばが人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったと同様に、神のことばは人間の言語で表現されて人間のことばと同じようなものにされた」と指摘されています。そこに、神が自らいのちを創造し与えられた人間に対する愛の発露が、神ご自身のへりくだりによって明確に表されていると教皇は述べています。

聖書を通じて聖霊の働きを持っていまもわたしたちとともにおられる神のことばは、単にあがめ奉る対象ではなく、「主は自らの花嫁に生きたことばを絶えず語り続け」ているのであって、そのことばに生かされることによって「花嫁である教会は愛のうちに、また信仰のあかしのうちに成長することができます」と教皇は呼びかけます。神のことばは、神の愛の発露であります。

マタイによる福音は、イエスの公生活の始まりを伝えています。

イエスの宣教活動は、それを支え、ともに歩む弟子たちを召し出すことから始まりました。ガリラヤ湖畔でイエスは漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とことばを持って呼びかけます。さらにはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられます。二人ずつ四人を召し出すこの物語は、福音宣教の業が、常に共同体の業であることを象徴しています。同じ愛のことばを持ってイエスは、現代社会にあってもわたしたちに「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけ続けておられます。わたしたちはその声に応えて、「愛のうちに、また信仰のあかしのうちに成長」しているでしょうか。神のことばに呼びかけられているわたしたちひとりひとりの責任は、イエスの言葉に応えて行動することです。

啓示憲章には、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)とも記されています。ご聖体に対する信心を深めるわたしたちは、聖書を通じて語られる神のことばにも、同じように深い尊敬の念を持って耳を傾けたいと思います。そこに主がおられます。

先日行われた臨時の枢機卿会の閉会にあたって、教皇レオ14世はこれから数年間の教会の優先課題を明確にするために、多くの声に耳を傾ける姿勢を明確にし、その上で、「わたしたちはキリストのことばを告げ知らせたいと望みます。それゆえ、現代世界の中であかしを行うことができる、真の霊的生活をわたしたち自身においても生きることが重要です」と呼びかけられました。

わたしたちは、それぞれが生きている場において、それぞれに与えられた方法を持って、神の言葉をあかしする者、すなわち主イエスを多くの人にもたらす者でありたいと思います。

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2026年1月17日 (土)

週刊大司教第240回:年間第二主日A

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降誕祭も終わり、典礼は年間に入りました。年間第二主日です。

教皇レオ14世の最初の使徒的勧告、「わたしはあなたを愛している(Dilexi Te)」の邦訳が終わり、書籍として発売されています。教皇フランシスコが準備されていた、貧しい人への教会とわたしたちひとり一人のかかわりについて記した文書を、教皇職を引き継いだレオ14世が完成させた内容です。この文書を出すことを通じて、教皇レオ14世は、教皇フランシスコが示されたいつくしみの神にならう教会のあり方を引き継いでいくことを宣言されています。ご一読ください、

1月17日の土曜日、東京教区の年始の集いが行われました。以前から行われていた恒例の年初の行事ですが、コロナ禍の中で中止になったり規模の縮小もありました。また以前のように戻していきたいと思いますが、教区内のすべての小教区共同体などから代表の方においでいただき、この一年の教会活動の方針について思いを共有し、聖霊の導きをともに祈る場としたいと思います。今回は土曜日の開催となりましたが、できれば来年以降は成人の日(月曜日祝日)に開催することを考えておりますし、内容も充実させたいと検討中です。

1月18日から25日までは、毎年のキリスト教一致祈祷週間です。東京教区では、1月18日(日)午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でエキュメニカル祈祷集会を行います。事前の予約など不要です。どなたでも参加いただけます。

今年の祈祷集会は司式をわたしが担当し、説教は日本キリスト教協議会の議長である吉高叶先生が担当されます。どうぞご参加くださり、お祈りの時を一緒にしていただければ幸いです。なお今年の全国の祈祷集会の情報などは、中央協議会のこちらをご覧ください

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第240回、年間第二主日のメッセージです。

年間第二主日A
週刊大司教第240回
2026年01月18日

ヨハネ福音に記されている主の洗礼の出来事が、本日朗読されます。その中で、洗礼者ヨハネは、いま自分が洗礼を授けたイエスは、「世の罪を取り除く神の小羊」であって、イエスの誕生の理由が、罪にまみれた人類の救いのためであることを宣言します。

その上で洗礼者ヨハネは、自分の立場を明確にします。つまりイエスは、「私よりも先におられた」方であり、「この方がイスラエルに現れるため」に、自分は水の洗礼を授けてきたのだと語ります。つまりヨハネは、自分が理解したことを語り行っていたのではなく、神によってそうするようにと派遣の使命を受けていたのだということを証言しています。

すべからく預言者は自分の思いや言葉を語るのではなく、神から与えられた使命を果たすために語ります。教会は現代社会にあって預言者でありたいと願っています。再び来られる主イエスを迎えるために、道を備えるものでありたいと思っています。

教会は、自分の思いを伝えているのではありません。自分の考えを表明しているのでもありません。自分が褒め称えられるために行動するのではありません。すべては洗礼を通じてイエスの神性に与ったわたしたちに与えられた、イエスの福音を告げしらせるという使命を果たすためであります。わたしたち教会の語る言葉と行いで、主イエスが現存することを証ししようとしています。わたしたちが伝えるのは、自分ではなく、主イエスです。いのちを生きる希望の源、主イエスであります。

今年も1月18日から1月25日まで、キリスト教一致祈祷週間が行われます。東京でも18日に行われますが、各地でエキュメニカルな祈祷集会が企画されていることだと思います。

今年のテーマはエフェソ書4章4節から「からだは一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」とされています。ここにもわたしたちが、希望の巡礼者としての歩みを続けるようにという招きが記されています

第二バチカン公会議以降、エキュメニズムという言葉で進められている一致運動では、様々な取り組みがなされています。教義の側面や神学的な対話は行われてきてはいますが、実際的にはやはり長年にわたって異なる道で信仰を守っていますから、具体的な組織の合同と言う一致は容易ではありません。しかし、社会のさまざまな問題に取り組む現場では、教団・教派の枠を超えて、互いに協力し合いながら活動することが当たり前になっています。つまり福音を生きる側面での一致はかなり進んでいるとも言えるかと思います。その現場での一致を、霊的な側面にいかに波及させるのかが課題の一つです。

同じ一つのからだ、一つの霊に与り、同じ希望に招かれている兄弟姉妹として、共に社会の中を歩みながら希望の福音を証しする巡礼者であり続けたいと思います。

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2026年1月10日 (土)

週刊大司教第239回:主の洗礼の主日A

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新しい年の最初の週刊大司教です。主の洗礼の主日となります。

2026年も「週刊大司教」の配信は、定期的に継続していく予定です。どうぞよろしくお願いします。以前にも記しましたが、毎週の配信は千人を超える方に見ていただき、時には二千人を超えることもあります。話しているわたしにも、製作している教区広報担当にとっても、多くの方が視聴してくださっていることは継続する力の源となっています。ありがとうございます。心から感謝申し上げます。皆様の主日に向けての祈りの一助になっているのであれば、幸いです。

また、「週刊大司教」や、このブログ「司教の日記」をご存じない方も多くおられると思いますので、ご覧頂いている皆様には、お知り合いの方に紹介などしていただけると幸いです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第239回、主の洗礼の主日のメッセージです。

主の洗礼の主日A
週刊大司教第239回
2026年01月11日

新しい年のはじめにあたり、みなさまにお喜びを申し上げます。

教皇フランシスコによって始められた25年に一度の聖年は、1月6日に聖ペトロ大聖堂の聖年の扉が教皇レオ14世によって閉じられ、終わりを迎えました。このたびの聖年は、聖年としての行事と共に、教皇フランシスコの帰天とレオ14世の選出という出来事が重なり、様々な意味で特別な年でありました。

その聖なる一年は終わりを迎えましたが、教皇フランシスコによって選ばれた「希望の巡礼者」というテーマは、教皇レオ14世に引き継がれ、これからも教会を導き重要なテーマとしてわたしたちに与えられています。わたしたちは、これからも、この混迷し暗闇に沈む社会の中で、希望を証しする巡礼者であり続けたいと思います。

マタイの福音は、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネの所へ出向き、洗礼を受けた様を記しています。神の子羊が洗礼を受けに来たことに驚き、躊躇する洗礼者ヨハネに対して、イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と述べています。

もちろん「正しいこと」とは、神の目において「正しいこと」、つまり神の定めた秩序の実現のために欠かすことのできない選択のことであります。そして、ヨハネが躊躇するのは、自分がそのような尊大な行動は選択できないという人間のごく当然の価値判断に依っているからです。つまり神の計画の実現には、人間の価値観を遙かに超える神の意志に従った行動を選択することが不可欠であることを、イエスご自身の行動が示しています。

「罪のゆるしを得させるために悔い改めの」水による洗礼を受けることは、そもそも罪の汚れのない神であるイエスには必要のないことですが、カテキズムによれば、「その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾」であり(カテキズム536)、罪人である人類に神ご自身が加わることで、水を通じてわたしたちにその贖いの業に与る道が開かれました。水による洗礼はイエスの公生活の始まりを告げています。

希望の巡礼者として、混迷する世界の暗闇の中で希望を証しすることは、それほどたやすいことではありません。神の平和を説き、人間の尊厳を護り、神の賜物であるいのちを守ることを主張することは、必ずしも現実社会の選択と轍を同じくする主張とは限りません。時に、福音に基づいて発言し行動することは、夢物語に生きている非現実的な主張と見なされることも少なくありません。

それでもわたしたちは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」という主御自身の言葉に励まされ、福音のメッセージを証しする巡礼者であり続けたいと思います。

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2025年12月27日 (土)

週刊大司教第238回:聖家族の主日A

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暦の上での今年最後の主日は聖家族の主日です。

そして今日、世界中の教区で、聖年の閉幕ミサが行われます。希望の巡礼者としてのわたしたちの歩みは終わることはありません。これからもいのちを生きる希望を多くの人に証ししていくたび日であり続けたいと思います。

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今日の週刊大司教のメッセージの中で、バチカンにおかれている群衆像について触れています。ボートの上に乗って避難する多くの人を守るように、その中に天使の羽が見えています。そして真ん中あたりには、大工道具を持った男性と子どもを抱えた女性の姿があります。聖家族です。

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メッセージでも触れましたが、2023年10月のシノドスの最中に、教皇フランシスコは、シノドス参加者を招いてここで夕べの祈りを捧げ、いのちを守るために旅を続ける人に手を差し伸べる様にと呼びかけられました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第238回、聖家族の主日のメッセージです。なお週刊大司教は、来週はお休みで、1月11日から再開です。

聖家族の主日A
週刊大司教第238回
2025年12月28日

バチカンの聖ペトロ大聖堂前の広場左手に、大きなブロンズの群衆像が設置されています。そのタイトルは英語で、「Angels Unawares」と呼ばれています。その意味するところは、ヘブライ人への手紙13章2節に記されている次の言葉です。

「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

「気づかずに天使たちを」というのがその群衆像の名称です。それはボートの上に立ち尽くす様々な人たちの姿で、その真ん中に天使の羽が見えています。よく見ると真ん中に、大工道具を持った男性が幼子を抱えた女性と一緒に立っている姿が見えます。そう、聖家族です。

本日の福音は、幼子が誕生した後、父ヨセフが、「子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と天使からのお告げを受けて行動した様子が記されていました。広場におかれたこの群衆像は、安全を求めて避難する多くの人たちの姿を描き、その人たちへの心配りを忘れてはならないことを明示するために制作され、教皇フランシスコによってそこに置かれています。絶望の淵にあって希望を求めて旅を続ける人々の中には、天使も、そして聖家族も、すなわち主ご自身がおられるのだということを、あらためて自覚させる群衆像です。

2023年10月19日、シノドス第16回総会の第一会期中に、教皇フランシスコは参加者全員をこの群衆像の前に集め、祈りの集いを行われました。その祈りの集いで、教皇フランシスコはこう述べておられます。

「よきサマリア人のように、私たちはこの時代のすべての旅人にとっての「隣人」となるよう、彼らの命を救い、傷を癒し、痛みを和らげるよう呼ばれています。悲劇的なことに、多くの人々にとっては手遅れであり、私たちは彼らの墓、もし墓があるとしても、その前で泣くことしかできません。あるいは、地中海が彼らの墓となってしまいます。しかし、主は彼ら一人ひとりの顔を知っておられ、それを忘れることはありません」

その上で教皇フランシスコは、「受け入れ、保護し、推進し、統合する:これが私たちが実行しなければならない働きです」と呼びかけられました。

今日、聖家族は、共に歩く誰かを必要としています。主ご自身がその中で、誰かの心が向けられること、そして手が差し伸べられることを待っています。

神のことばである幼子イエスは、家族のうちに誕生しました。幼子イエスは、聖ヨセフと聖母マリアによって大切に育てられ成長していきました。聖なる家族が救いの歴史において重要な役割を果たしたという事実が、家族という存在の持つ役割の大切さを教えています。現代ではさまざまな形態の家族が存在するとは言え、人と人との繋がりの中で、互いに支え合い助け合う連帯の心を育む場として、家族という共同体は重要な意味を持っています。

同時に、いのちの危機に直面し、助けを求めている家族も多く存在しています。その危機は紛争や政治や経済に起因する暴力によってもたらされ、家族を崩壊の危機に追い込みます。

神からの賜物であるいのちが、当然のように守られる世界を目指したいと思います。

 

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2025年12月20日 (土)

週刊大司教第237回:待降節第四主日A

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待降節の最後の週に入り、まもなくクリスマスです。どうか良いクリスマスと、祝福に満ちた年末年始をお迎えください。

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目黒教会では毎年恒例の降誕祭に向けたノベナミサ、シンバンガビが行われています。本来は早朝のミサということですが、日本の社会事情を考慮して、前晩、午後7時から行われます。わたしは12月15日月曜のミサを司式。翌日は教皇大使、三日目はアンドレア司教様です、その後、いろいろな神父様につながれて。降誕祭への準備が進められています。ミサは英語でしたので、主にフィリピン出身の皆さんを中心に、聖堂には一杯の方が集まり、ミサに与られました。

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なおすでにご案内かと思いますが、聖年の閉幕ミサが、世界中の教区で、12月28日の聖家族の主日に捧げられることになっています。その後、1月6日、公現の祝日に教皇様が聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を閉めることによって、聖年は正式に閉幕となります。このスケジュールは、聖年のはじめから決まっていたものです。

東京教区では、12月28日午後3時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、わたしが司式して閉幕ミサを行います。

12月28日から1月6日までの間、つまり年始年末に聖年は終わっているのか続いているのか、お問い合わせがありますが、一応、それぞれの教区では12月28日で閉幕です。しかしながら、教会全体としては1月6日が聖年の最後の日です。ロゴやスタンプなどは、1月6日までとされてください。なお聖年のテーマソングを歌い続けること自体には何も問題ありませんので、ミサなどで使いたい場合は、遠慮なく歌ってください。聖年が1月6日の教皇様による閉幕の後であっても、歌っていただいて何も問題はありません。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第237回、待降節第四主日のメッセージです。

待降節第四主日A
週刊大司教第237回
2025年12月21日

降誕祭を目前にした今日、典礼は霊的な準備の仕上げをするかのように、わたしたちに「神は我々と共におられる」ことを、繰り返し伝えます。

イザヤの預言はまさしく「おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と記します。マタイ福音はこのイザヤの予言を引用しながら、イエスの誕生の次第を記しています。

神は、わたしたちと共におられます。神がわたしたちひとり一人と歩みを共にしてくださるのですから、当然神を信じるわたしたちは兄弟姉妹として、ともに歩みます。シノドス的教会です。ともに歩む神の民です。その中心には、インマヌエル、神が共におられます。

救い主の母となることを天使に告げられた聖母マリアが、その事実を冷静に受け止め、謙遜のうちにたたずみ、しかし同時に他者を助けるために行動したように、夫であるヨセフも、天使によって告げられた神の思いを受け止め、それに信頼し、謙遜のうちに行動します。この二人の謙遜さ、勇気、そして神への信頼における行動の選択があったからこそ、救い主の誕生が現実のものとなりました。

「天よ、露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ。地よ開いて救い主を生み出せ」

今日の典礼の入祭唱に記されるイザヤ書の言葉は、わたしたちがもっとも待ち望んでいること、すなわち救い主の誕生を直接言及しています。主の降誕を待ち望んでいるわたしたちは、雲が露をこの地上にしたたらせるように、神の恵みがわたしたちを包み込み、そのわたしたちの間から救い主が誕生するのだと言うことを確信しています。

天から露のように降り注ぐ神の恵みは、それを受けた人の謙遜さ、勇気、信頼を通じた行動によって、初めて実を結びます。わたしたちの決断と選択と行動が伴わなければ、神が豊かに降り注がれているその恵みを、わたしたちは無駄にしてしまいます。神が人となられともに歩まれたように、わたしたちも既成の概念にとらわれることなく殻を破り、神がそうされたように、ともに歩み支え祈り合うこと、すなわちシノドス的な教会共同体を構成することが、まさしくいま求められています。

暗闇の中を希望を求めてさまようわたしたちは、一つのことを確信しています。それは、神がわたしたちとともにおられるという確信です。見捨てられることがないという確信です。神はご自分が愛を込めて創造された賜物であるいのちを見捨てることは決してない。常にわたしたちとともに歩んでくださる。旅する神の民の真ん中に、御聖体とみ言葉を通じて、主は現存される。その確信がわたしたちに希望をもたらします。共におられる神は、わたしたちの希望です、わたしたちは、その希望を掲げ分かち合うために巡礼の旅路を続ける、希望の巡礼者です。

間もなく降誕祭を迎えます。主がわたしたちと共にいてくださる事実を、降誕祭の喜びのうちにあらためて黙想し、主への信頼のうちに、その希望の光を暗闇の中でともに掲げて巡礼者としての旅路を歩み続けましょう。

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2025年12月13日 (土)

週刊大司教第236回:待降節第三主日A

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待降節は後半に入り、主の降誕に焦点が当てられます。

待降節前のノベナが行われる教会もあることだと思います。重要な典礼上の祝日や、意向のために、九日間連続で祈りをささげることを、「九」のラテン語からとってノベナと呼ばれており、様々な機会にノベナが行われます。かつて修道会で生活をしていた頃には、特に神学院共同体でクリスマス前のノベナを晩の祈りに行っていましたが、小教区などでは、主にフィリピン出身の信徒の共同体が、シンバンガビと呼ばれるクリスマス前のノベナを行っています。フィリピンでは早朝に行われると伺いましたが、東京教区内のいくつかの小教区では、夕方に行われています。メッセージでも触れましたが、私も毎年、目黒教会で晩7時に行われているシンバンガビのミサを一度は捧げるようにしています。英語ミサですが、よろしければご参加ください。今年は12月15日の夜7時が、私の司式です。

今回の香港教区創設80年のお祝いの機会に、香港で働く30名ほどの神言会会員と出会うことができました。香港の司祭養成共同体は郊外の3階建て一軒家の半分を改装して設置されていましたが、このたび隣の部分も購入でき、一棟すべてを共同体に使うことができるようになったそうです。30年来の悲願だったとのことでした。

共同体との昼食後に、数名と一緒に香港郊外の塩田梓島を訪問することができました。釣り客相手の店やシーフードレストランが並ぶ港でモーターボートをチャーターして海を渡り、10分ほど。

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1875年に創設された神言会の最初の中国宣教師であった聖ヨゼフ・フライナデメッツが、中国本土に向かう前にこの島に渡り、1879年に聖堂を建て、二年間司牧をされた地です。1881年に聖人は山東省に移動市、その後中国本土の宣教で活躍されました。150年近い歴史を持つ聖堂は、史跡として指定されているとのこと。

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いまではこの島に住む人はいなくなったものの、塩田事業は続いており、また聖堂は香港教区の巡礼地として大切にされているとのこと。下の写真は、かつて聖人が住んでいた司祭館の跡地に据えられている聖ヨゼフ・フライナデメッツの像です。

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島の船着き場も新しく立派なものでした。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第236回め、待降節第三主日のメッセージです。

待降節第三主日A
週刊大司教第236回
2025年12月14日

待降節は後半に入ります。前半の二週間は、キリストの再臨、すなわち世の終わりに向けて、過去のしがらみにとらわれずに、謙遜に神の呼びかけに耳を傾け心を向け、回心することに焦点が当てられました。

待降節の後半は、主の降誕を待ち望む喜びに焦点が当てられます。教会の伝統は、大きな祝日や重要な願いのために、九日間の祈りを捧げることを勧めてきました。ノベナの祈りと呼ばれます。東京教区を始め日本の教会にはフィリピン出身の信徒の方が多くおられますが、フィリピンの教会では降誕祭前のノベナの早朝のミサと祈りが捧げられ、シンバンガビと呼ばれています。その伝統も今週から始まります。東京教区でもフィリピン出身の信徒の共同体がある教会では、早朝よりも夕方にこのミサが捧げられており、私も毎年、目黒教会で夕刻に行われるシンバンガビのミサを司式しています。今年は15日の月曜に目黒教会で英語ミサを捧げる予定です。主の降誕という大きなお祝いの喜びをさらに大きな喜びとするために、それぞれの形で喜びのうちにノベナの祈りを捧げることはふさわしい準備ではないでしょうか。

そしてその準備が始まる待降節第三主日は喜びの主日とも呼ばれ、ミサの入祭唱には、フィリピ書4章から、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」と記されています。典礼では教会によってはバラ色の祭服が使われることもあります。降誕祭を間近に控えて、主とともに歩むという喜びを、しっかりと心に刻む主日です。

マタイ福音は今週も洗礼者ヨハネについて記しています。福音では、イエスが、ご自分が示される栄光と救いの業におけるヨハネの役割について語っています。

ヨハネが預言者として人々に伝えたことは、イエスご自身の業によってあかしされました。イエスはそのことを、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とヨハネの弟子に指示することで、洗礼者ヨハネが果たした役割の偉大さをあらためて確認します。そしてこれまで道しるべとして救い主に至る道を示してきたヨハネに代わり、ご自分の言葉と行いこそが救いのしるしであり、それに躓くことのないようにと呼びかけます。

教会は洗礼者ヨハネに倣い、現代世界の中で預言者としての役割を果たし続けています。教会は、自らが信じる神の言葉を具体的に明かしするものであろうとしています。それはイエスにこそいのちを生きる希望があるからであり、その希望を、神が賜物として与えられたいのちを生きるすべての人に分かち合いたいと願っているからに他なりません。願っているだけではないのです。それが私たちの使命です。

わたしたちは、主イエスの福音を具体的に生きるとき、喜びに満たされ、いのちを生きる希望を抱きます。希望はものではありませんから、はいどうぞと分かち合うことはできません。私たちは人との出会いを通じて言葉と行いで希望をあかしし、希望の種が出会う人の心に蒔かれるように努めます。

絶望や、悲しみや怒りではなく、喜びのうちに福音を告げ、希望をあかしするものであり続けましょう。

香港滞在中に訪問した神言会共同体で、インタビューを受けましたので、それも紹介します。冒頭の紹介は中国語で英語字幕、インタビュー自体は英語です。

 

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2025年12月 6日 (土)

週刊大司教第235回:待降節第二主日A

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待降節も第二主日です。良い準備の時を過ごされますように。

12月7日で、教皇フランシスコから枢機卿に叙任されて一年となります。この一年間、いろいろとありましたが、多くのみなさまに支えていただき、心から感謝申し上げます。

枢機卿に任じられるという個人的にも衝撃的な驚きのニュースを耳にしたのが昨年10月6日。その後、12月7日の枢機卿会に向けて、生まれて初めての経験をいくつもしながら、バタバタと準備をしました。そして年が明けて今年、2025年の春には教皇フランシスコが帰天。その後の葬儀や教皇選挙への参加。新しい牧者教皇レオ14世の誕生。さらに10月9日のローマ、サン・ジョバンニ・レオナルディ教会での枢機卿名義教会への着座式と、この一年は普段とは異なる出来事への準備と対応で翻弄され、ローマに出かけることも続き、教区を不在にすることが多くなってしまいました。その間、多くの方にお祈りと励ましを戴いたことに、心から感謝申し上げます。

枢機卿になったからといってローマからなにか特別な手当や給与が出るわけではありませんので、公務出張が極端に増え、折からの円安で、教区財政に大きな負担をかけていることも大変申し訳なく感じています。

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また不在が続く間にはアンドレア司教様に、補佐司教として多くの責任を担っていただいています。心から感謝しています。アンドレア司教様がこれからも健康で教区のために一緒に働いてくださるよう、どうぞお祈りください。みなさまのお祈りと支えがなければ、とてもではありませんが、司教は立場に伴う責任を果たしていくことはできません。今後とも、わたしにも、またアンドレア司教様にも、どうぞ、みなさまのお力を貸してくださるように、心からお願い申し上げます。

(この上下の写真は、11月末にローマで行われた国際カリタスの理事会の際、教皇謁見の後に、聖ペトロ大聖堂の聖年の門を、理事会参加者で通り、聖堂内で祈りを捧げたときのものです)

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メッセージでも触れていますが、待降節第二主日は宣教地召命促進の日です。福音宣教の取り組む司祭修道者の召命のためにお祈りください。なお教皇庁宣教事業の聖ペトロ事業がこの担当ですが、日本の教皇庁宣教事業(門間直輝神父様担当)のホームページにその制定の経緯など詳細が記されていますので、ご一読ください。日本の宣教とも密接に関わりある歴史です。

待降節第二主日A(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第235回
2025年12月07日

マタイによる福音は、主の先駆者として悔い改めて準備をするようにと告げる洗礼者ヨハネについて記しています。

ヨハネは、既得権益のように自分たちの立場を優位に考えているファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって、思い上がりをただし、神の前に謙遜であるようにと諭します。

「出向いていく教会」であれと呼びかけ続けられた教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と呼びかけていました。その声は今でも力を持っています。

これまでこうしてきたからとか、こうして成功してきたとか、これが当然なのだとか、さまざまな人間の思いやおごりにがんじがらめになるとき、私たちは新しい挑戦へと踏み出すことを躊躇してしまい、結局、神の力が働くのを妨げてしまいます。ヨハネの前に立ちはだかった伝統に生きる人たちも、その過去のしがらみに縛られて、新しい道を見いだすことができずにいます。ヨハネの言葉はわたしたちに、勇気を持って、傷つくのを恐れず、出向いていく教会として、福音に生き、福音をあかししていくようにと力強く呼びかけています。

神の正義の実現のためには、教会の中にでも変えなくてはならないことが多々あります。人間の尊厳を守り抜くために、正していかなければならないしがらみも多くあります。一歩ずつそのしがらみから自分を解き放つ努力を続けたいと思います。

「荒れ野で叫ぶ声」、すなわち洗礼者ヨハネの呼びかけは、ただむなしく響き渡る夢物語ではなく、人々の心に突き刺さる力ある声でありました。その厳しさの故に、後に洗礼者ヨハネは捕らえられ殉教の死を遂げることになります。洗礼者ヨハネが告げる言葉には神の力が宿っており、それを受け入れることのできないものは、いのちに対する暴力で、神の言葉を否定しようとしました。

教会は、その誕生の時から聖霊によって導かれ、聖霊によって力づけられながら、その時代における預言者としての務めを果たそうとしてきました。わたしたちは現代社会を旅する神の民として、ヨハネの姿勢にならい、過去のしがらみから自らを解き放ち、常に恐れることなく神の言葉をあかしする預言者でありたいと思います。

待降節第二主日は、宣教地召命促進の日であります。日本だけでなく、多くの国で司祭・修道者の召命は危機的状況にあります。数字の上ではそうでしょう。主は呼びかけることをやめたのでしょうか。そんなはずはありません。呼びかけに耳を傾け、それに勇気を持って「はい」と答えることができる霊的な環境を、共同体の中で整えたいと思います。

宣教地において、すべての信徒が福音をあかしする使命を果たせるよう、また宣教に従事する司祭・修道者がよりいっそう増えるよう祈ることは、とても大切なことです。この日、わたしたちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。教会が神の民としてふさわしく預言者としての使命を果たしていくことができるように、豊かな召命が与えられるよう祈り続けましょう。

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2025年11月29日 (土)

週刊大司教第234回:待降節第一主日A

典礼の暦は新しく始まり、本日はその最初、待降節第一主日です。

降誕祭に向けた霊的な準備が始まりました。町中にはすでにクリスマスをイメージした飾りがあったり、クリスマス商戦が始まっていたり、きれいなイルミネーションが暗闇を照らしています。その本当の意味、特に、絶望にとらわれて暗闇を歩んでいるわたしたちに、神の御子の受肉と誕生という希望の光が差し込んだ出来事の意味を、少しでも伝えることができればと思います。

今週末、11月27日から30日まで、アジア司教協議会連盟(FABC)、同福音宣教部門、そして教皇庁宣教事業が共催で、マレーシアのペナンにおいてアジア宣教大会が開催されています。同地の宗教的文化的背景を考慮に入れて、「The Great Pilgrimage of Hope(希望の大巡礼)」という名称で呼ばれています。

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アジアでの宣教大会は、2006年のチェンマイに続いて二回目となります。日本からも、森山、ガクタン、中野、酒井司教を始め全国教区からの20名ほどの代表団が参加しています。わたしも、他の予定との関連で全日程に参加することができませんが、金曜と土曜の二日間は、FABCの事務局側として現地へ飛び、参加してきます。アジアの教会の様々な人との出会いを経験した日本からの参加者の声を待ちたいと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第324回、待降節第一主日のメッセージです。

待降節第一主日A(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第234回
2025年11月30日

待降節が始まりました。典礼の暦は新しい年の始まりです。今日から、主の降誕・クリスマスに向けて、わたし達の信仰における準備が始まります。四週間もうけられている待降節は、前半と後半で焦点が異なります。前半は主に世の終わりに焦点があてられ、後半は救い主の受肉と誕生に焦点をあてています。

しかしその全期間を通じて、中心に置かれているメッセージは、本日の福音に記されている、「目を覚ましていなさい」、「用意していなさい」という主の言葉にあります。いつ起こるのか分からない出来事に備えて、目を覚まし準備を整えておくことの重要性が繰り返されます。

まさしく待降節という言葉自体が表しているように、わたし達は待っています。パウロがコリント人への手紙に記したように、わたし達は「マラナタ」、主よ来てくださいと祈っています。救い主の再臨を待ち望んでいます。

当然ですが、待つことには様々な態度が思い起こされます。いつだろうとそわそわしていることも待つことですが、なにもせずに眠りこけていたとしても、それは待っていることに変わりはありません。しかしイエスの指摘される「待つ」姿勢は、「目を覚ましている」ことと、「準備整えている」という二つの行動を必要とします。ただ立ち尽くすのではなく、行動して待つのです。

わたしたちは、主の時がいつであるのかを知らないのですから、ただ立ち尽くして待つのではなく、その時のしるしをよく識別できるように、常に準備をするために行動するものでありたいと思います。その準備は、主に従って生きることなのですから、自分自身のためではなく、主が愛されているすべての人のためであります。主ご自身の模範に倣って、愛といつくしみに積極的に生き行動するものでありたいと思います。助けを必要とする人々のところへ出向いていこうとする、常に積極的な待つ姿勢をあかしする教会共同体でありたいと思います。

ただ立ち止まって待っているだけでなく、行動する神の民は、主に立ち返る者でもあります。いま一年間わたし達が過ごしている聖年が終わりに近づきました。聖年は祈るときでもありますが、巡礼を促しているように、行動するときでもあります。積極的に待つ姿勢をあかしするときです。

昨年の降誕祭に教皇フランシスコは、次のように述べておられました。

「イエスは門です。・・・すべての人が主に立ち帰ることができるようにするためです。わたしたちは皆、失われた羊のようであり、牧者を必要としていて、御父の家に帰るための門を必要としているのです。イエスは牧者であり、門です」

その上で教皇は、「わたしたちは時として、・・・門をくぐる勇気がないのです。わたしたちの生き方を見つめ直すことが求められるからです。門を通るには、前に一歩を踏み出すという犠牲が求められます。・・・平和の君である御子の大きく開かれた両腕に自分自身を委ねるためです。聖年の始めのこのクリスマス、わたしは一人ひとりの人、すべての民族と国家に呼びかけます。その扉をくぐる勇気を持って、希望の巡礼者となり、武器の轟音を黙らせ、分裂を克服しましょう」

世界は希望を必要としています。その希望は、ただ立ち尽くしていたのでは生まれません。主の再臨を待ち望むわたし達は、その主が求められている神の平和が確立されるために、積極的に行動しながら、主を待ち望む者でありたいと思います。

マラナタ。主よ来てください。

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