カテゴリー「週刊大司教」の255件の記事

2026年5月16日 (土)

週刊大司教第256回:主の昇天の主日A

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主の昇天の主日です。

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この一週間は、バンコクで、アジア司教協議会連盟(FABC)の信徒家庭部局(OLF)が主催して、アジアの現実の中で家庭に対する使徒職を考察するシノドス流の集いが行われました。

この10月に教皇様は「愛のよろこび(Amoris Laetitia)」の10周年を記念した会議を開催することを発表されていますが、今回の集いもこの文書の精神が宣教の現場でどう生かされているかについて、講演と参加者による霊における会話が行われました。

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アジア各地から大勢が参加されましたが、日本からは青年司牧を担当しているアンドレア・レンボ司教様が代表として参加。日本の現状について発表されました。

またこの信徒家庭部局の秘書は西村桃子さんが務めており、当然西村さんも参加して初日の司会を務め、さらにわたしもFABC事務局長として開会のミサを捧げるために、三日間だけ出かけてきました。

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またわたしが会長を務めるカトリック美術協会の恒例の「カトリック美術展」は、今年第70回を迎え、5月15日(金)から20日(水)まで、有楽町マリオン11階、朝日ギャラリーで開催されています。

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初日のオープン時に会場を訪ね、出品作品を鑑賞させていただきました。また当日来られていた出品メンバーの方々からは、作品の解説を頂きました。美術に何らかの形で携わっておられる皆さんには、是非、カトリック美術協会のことも心にかけていただけると幸いです。 

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第256回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

主の昇天A
週刊大司教第256回
2026年5月17日

「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と、福音宣教へ旅立つように弟子たちに命じる復活されたイエスの言葉を、マタイ福音は記しています。その言葉とともに、復活された主は昇天されたと、使徒言行録は記しています。

イエスは、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教え」ることが、「すべての民をわたしの弟子に」することなのだと明示されています。

主の受難と死と復活に与り、新しいいのちへと招かれたわたしたちには、福音を告げ知らせる使命が与えられています。イエスをキリストと信じ、その弟子として従う一人ひとりには、福音宣教の使命が与えられています。わたしたちの責任です。

しかし同時にその責任はわたしひとりに課せられる重荷ではなく、キリストのからだである教会に与えられている使命です。なぜならば、福音とは喜びの便りであって、苦しみの重荷ではないからに他なりません。

そしてわたしたちは、ひとりで喜ぶことはできません。喜びはかかわりの中から生まれます。だからこそ、復活されたイエスが弟子に約束された「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という約束の言葉が思い意味を持つのです。わたしたちはともに歩んでくださる主とのかかわりがあるからこそ、喜びを心に抱きます。そして主御自身が弟子たちとともに歩まれたように、現代のわたしたちは主がともに歩まれる教会共同体の中のかかわりによって、心に喜びを抱きます。いのちを生きる希望を抱きます。そしてその喜びと希望を、教会は共同体の存在を通じて、この世界のただ中で、証ししていきたいのです。その歩みには、主イエスがいつもともにおられます。まさしく教会がシノドス的であろうとすることの意味はそこにあります。

シノドスの最終文書「シノドス流の教会」には、神の民が福音を告げ知らせる喜びの共同体となるために、「教会のシノドス流のスタイルを身につける養成が、洗礼によって授かったたまものは、すべての人のために実らせるべき才能であるという自覚を促す」信仰の継続的な養成が不可欠だと指摘しています。

その上で同文書は、「それぞれの人の人生には、主とのかかわりや教会の交わりへと導かれるきっかけとなった、さまざまな・・・出会いがあります。・・・宣教する主の弟子となることは、一度で達成される目標ではありません。それは、絶えざる回心と、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで愛を成長させること、そして、信仰の喜びのあかしのために聖霊のたまものへと開かれていること」が必要だと指摘しています。

宣教へと派遣されたわたしたちは、話のテクニックを深めたり、神学的知識を豊かに蓄えたりしなければ、その使命を果たすことができないのだと考えてはなりません。そうではなくて、神の民としてのわたしたちの教会共同体を、シノドス的な共同体として常に育てること自体が、福音を豊かにあかしする旅路の第一歩です。

もちろん洗礼の数は重要です。ミサに与る信徒数は重要です。しかしそれ以上に、「いつもあなた方と共にいる」と言う主の言葉に信頼し、共同体としてともに支え合い、祈り合い、識別のうちに共に歩む神の民のシノドス的あり方を深めること抜きでは、数字には意味はありません。

 

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2026年5月 9日 (土)

週刊大司教第255回:復活節第六主日A

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復活節も第六主日となりました。

第六主日は世界広報の日です。この日のための教皇様のメッセージ、「人間の声と顔を守る」は、こちらからご覧ください

教皇レオ14世は、人工知能(AI)の倫理的課題について、幾度も発言されています。すでに2024年正月の世界平和の日のメッセージにおいて、当時の教皇フランシスコはそのテーマを「人工知能(AI)と平和」とされ、その中で、「利用者が認識するとは限らない選択基準に従って、データの流れが構成され」ることによって、情報が操作される可能性への懸念を表明されています。
 
神の似姿として創造された人間には自由意志が与えられていますが、その自由意志を様々な形で制限する情報操作の危険性を指摘された教皇フランシスコは、同時に、「各人が本性的に備える尊厳と、わたしたちを唯一の人類家族として結びつける兄弟愛が、新技術の開発の基盤であるべきで、その実用化にあたっての評価の厳然たる基準とならなければなりません」と指摘し、共通善への貢献が重要であることを指摘していました。

さらに教皇フランシスコは、2024年6月14日、イタリア南部プーリアで開催された先進7カ国首脳会議(G7)に出席、人工知能(AI)をテーマにスピーチをされ、バチカンニュースによれば次のような指摘をされています。

「教皇は、AIが知識へのアクセスの民主化、科学研究の増大的な進歩、重労働を機械に一任する可能性を約束する一方で、先進国と発展途上国の間に、また社会の支配階層と抑圧された階層の間に重大な不正義をもたらし、「切り捨ての文化」によって「出会いの文化」が追いやられる恐れを語った」

ウクライナやイランでの紛争状態では、遠隔操作の兵器の倫理性が課題となっていますが、それを含め、教皇フランシスコは同年の平和メッセージで次のように指摘されてます。

「遠隔操作システムによる軍事作戦が可能になったことで、それらが引き起こす破壊やその使用責任に対する意識が薄れ、戦争という重い悲劇に対し、冷淡で人ごとのような姿勢が生じています。人工知能の軍事利用を含む、いわゆる「自律型致死兵器システム」の分野における新規技術の研究は、重大な倫理的懸念となっています。・・・人間だけが有する道徳的判断力や倫理的意思決定能力は、複雑に集積されたアルゴリズムが及ぶものではなく、その能力をマシーンのプログラミングに落とし込むことは不可能です。」

人間という心と身体を持った存在から切り離された人工的な存在が倫理観を支配するのであれば、その環境の中で人間の尊厳は損なわれ、共通善が崩壊する可能性は増し加わります。あ

以下本日午後6時配信、週刊大司教第255回、復活節第六主日のメッセージです。

復活節第六主日A
週刊大司教第255回
2026年5月10日

御聖体の秘跡のうちに常に現存されることを約束された主は、さらに愛する弟子たちを心に留め、すべてのいのちへの愛といつくしみに駆られて、聖霊の導きを約束されます。イエスが語る言葉は、神の愛といつくしみに裏打ちされた言葉であるがゆえに、その愛に満ちあふれたイエスの御心の思いをわたしたちに伝えています。

「わたしはあなた方をみなしごにはしておかない」、「私もあなた方のうちにいる」というイエスの言葉は、共同体のうちに生きることによってわたしたちが神の愛といつくしみに満たされることを教えています。聖霊は教会共同体に働き、共同体としてイエスの福音を明かしするものであるようにと、わたしたちを導いてくださいます。

教会は、復活節第六主日を、「世界広報の日」と定めています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18)」と、1967年に始まりました。

新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などにとどまらず、いまや時代はインターネットです。すべての人が、この使徒職に関わる道具を手にしています。SNSなどを通じてわたしたちは、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。いまや、広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者にとっての使徒職です。

今年の世界広報の日のメッセージのために教皇レオ14世が選んだテーマは「人間の声と顔を守る」でありました。

教皇様は、就任直後から人工知能(AI))の問題について発言を続けておられます。レオ14世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を枢機卿たちに説明され、こう述べておられます。

「おもな理由は、教皇レオ十三世が、実際に歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです。」

教皇様は、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。教会にとって、人工知能(AI)の問題は避けて通ることのできない社会倫理的な課題となっています。

教皇様はメッセージで、「わたしたちはあらためて人格について語るために顔と声を必要とします。コミュニケーションというたまものを人間のもっとも深遠な真理として守ることを必要とします。すべての技術革新もこの人間の真理へと方向づけられなければなりません」と呼びかけられます。

言葉に愛を込めるためには、言葉の裏に人間の心が必要です。言葉を人々を操る道具ではなく、神の愛といつくしみをあかしする道具とし、聖霊に照らされながら、主の愛を受けて、心をもって語るものでありたいと思います。

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2026年5月 2日 (土)

週刊大司教第254回:復活節第五主日A

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復活節第五主日となりました。

国際政治の世界が混乱する中で、教皇レオ14世の言葉が注目されています。これに関連して、先のアフリカ司牧訪問の際の、教皇レオ十四世の2026年4月16日、カメルーン、バメンダの共同体との平和の集いでのあいさつを是非ご一読ください。こちらのリンクです。その冒頭部分で教皇レオ14世は、「わたしは平和を宣言するためにここにいます」と言われています。まさしく世界における倫理的な権威は政治家にではなく宗教者にあることをしっかりと自覚され、政治のしがらみの外に身を置いて平和を告げ知らせることは、宗教者の務めであることを明確にされています。

5月は聖母の月です。一年の典礼において、聖母を記念する日はいくつもありますが、一ヶ月が聖母のために捧げられているのは5月と10月です。10月は特にロザリオの月とされています。

5月に聖母マリアに祈りを捧げることについては、歴代の教皇がその大切さを説いてきたところですが、例えばパウロ六世は第二バチカン公会議後の典礼改革のなかにあって、聖母への信心の重要性を説いた「マリアーリス・クルトゥス」でこう述べています。

「ロザリオは天使による喜ばしいあいさつとおとめの敬虔に満ちた承諾から始まって、福音からインスピレーションを受けて、信者がそれを唱えるべき態度を示唆しています。アヴェ・マリアの祈りを繰り返して唱え続けてゆくことによって、ロザリオはわたしたちに今一度福音における基本的な神秘であるみことばの受肉を提示してくれます。マリアはこの神秘をお告げという決定的な瞬間において黙想したのでした。このようにして、ロザリオは過去におけるよりもおそらく今日において、司牧担当者や神学者たちが好んで定義するように、「福音の祈り」であるといえるのです。」(44)

また1965年に、特に世界平和のために聖母に祈ってほしいと呼びかけた「メンセ・マイオ」では、こう述べています。

「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」(3)

対立と分断が深刻化し混乱する現代社会にあって、政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい決断をすることができるように、そして世界に神の平和が実現するように、この5月にロザリオの祈りを通じて、聖母マリアの取り次ぎを祈りましょう。

東京教区のyoutubeのページには、これまでに制作した、ロザリオを一緒に唱えるための動画がいくつかあげられています。例えばこのリンクをご覧ください。ご自宅でのお祈りのためなどにご活用いただければと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第254回、復活節第五主日のメッセージです。

復活節第五主日A
週刊大司教第254回
2026年5月03日

「わたしは道であり、真理であり、命である。」

国際社会はこのところ大きく揺らいでいます。国際政治の最前線にいるわけではないわたしたち大多数にとっては、報道される事実と、近年ではネット上であふれ出ている情報によってしか知り得ないことであり、必ずしもそれがすべての真実を語っているわけでもないのですから、本当のことは分かりません。そのため周囲で起こっている出来事や、リーダーたちの言説によって、どうしても判断は揺れ動くことになります。

政治のリーダーたちによる国際政治の世界の駆け引きと、わたしたち信仰者が信仰に基づいて選択する言動は、そもそも全く異なる性質のものであり、それを混同してしまうと、互いに理解することができないまま、対立だけが深まります。

先般の教皇レオ14世の信仰と福音に基づいた平和を求める発言は、国際社会の政治のリーダーにとっては、非現実的なメッセージにしか聞こえなかったことでしょう。教皇レオ14世は、アフリカ司牧訪問に向かう機上でインタビューに答え、「わたしたちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、わたしたちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と述べておられます。まさしくわたしたちも、主イエスにこそ、すなわち福音にこそ「道、真理、いのち」があるのだと信じています。ですからその福音のメッセージに基づいて、人間の尊厳を護り、いのちを守り、平和を築き上げる必要を語ることは信仰者の責務であることを忘れないようにしたいと思います。

主イエスの言葉は、ご自分はすでにできあがっている道を案内する者ではなく、ご自分こそが何もないところに新たに切り開かれていく「道」そのものであるのだと宣言する言葉であります。すなわち、御父へと至る道は、すでにあるのではなく、新しく切り開かれていく道であります。イエスは、その新しい道こそ真理であり、そこにこそいのちがあるといわれます。主イエスは、わたしたちに、主ご自身を信頼し、その新しい道を勇気を持って歩むようにと促しておられます。未知への旅立ちを求めています。

真理といのちへと至る道を、一人で勝手に見つけて歩むことはできません。イエスご自身しか、その新しい道を知らないからです。だからこそわたしたちはイエスに付き従って、歩み続けなければなりません。イエスは、「わたしのいるところに、あなた方もいることになる」と、先ほどの福音に記されているように、主は信仰の共同体とともにおられます。わたしたちはイエスという新しい道を、イエスとともに、そして兄弟姉妹の共同体とともに歩み続けます。

わたしたちは、ともに歩みともに祈ることで、主が「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と言われ、ご自分であかしされたように、神からの賜物であるいのちを愛し守り抜き、すべての人間の尊厳がないがしろにされることのない世界を目指して、語り行動していく者でありたいと思います。

 

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2026年4月25日 (土)

週刊大司教第253回:復活節第四主日A

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復活節第四主日は、世界召命祈願日です。

召命を祈ることは、もちろん第一に、将来福音宣教と司牧に携わる司祭の志願者が誕生するようにと祈ることであり、同時に教会の霊的成長のためにも、修道生活に身を捧げる男女の志願者が誕生するように祈ることでもあります。

しかし同時に、聖霊による賜物はすべてのキリスト者に与えられているのですから、そこには信徒の召命もあります。キリストに従う者として、この世界でどのような役割を果たすことができるのか、祈り黙想することも不可欠です。

今年の世界召命祈願日の教皇メッセージのテーマは、「神のたまものの内的発見」とされています。全文はこちらのリンク先で読むことができます。

なお東京教区では、この主日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、一粒会の主催で、召命祈願ミサが捧げられます。今年はわたしが昨年の教皇選挙出席に続いて今年も会議でローマに出張中のため、日本カトリック神学院院長の稲川圭三神父様が司式してくださいます。どうぞ参加くださり、召命のためにお祈りくださいますと幸いです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第253回、復活節第四主日のメッセージです。

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週刊大司教第253回
2026年4月26日

復活された主イエスとは一体どのような方なのか。本日の福音では、イエスはご自分のことを、「わたしは羊の門である」と宣言されています。

イエスによって与えられる羊への護りは、イエスという門を通った羊にのみ与えられると福音は記します。しかしそれだけなのでしょうか。つまりイエスによって呼び集められた羊、すなわちキリスト者であるわたしたちは、教会という囲いの中で、護られているだけの存在なのでしょうか。安心と安全の中で自分たちだけの幸福を願う者なのでしょうか。

福音をよく読んでみると、そこには門を通って囲いの中にいる羊について、「その人は、門を出入りして牧草を見つける」と記されていることに気がつきます。「出入り」であります。つまりイエスによって神の民へと招かれた者は、囲いの中にとどまるのではなく、外へと出かけていき、そこでも牧草を見つけるというのです。わたしたちはイエスを通じてこの共同体へと導かれ、そこで霊的に養われるだけではなく、外の社会でいのちを受けるための業、すなわちイエスが命じられる福音宣教の業に取り組む力も頂くのです。

教会は復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りをお願いする日としています。毎年東京教区では教区の一粒会が主催して、神学生や志願者と一緒に、召命祈願ミサがささげられます。ちなみに東京教区の信徒の皆さん全員が、この召命のために祈り献金する一粒会の会員です。

イエスの招きに答えて、羊の囲いの外に出て、福音をあかしし告げ知らせる人が必要です。イエスの業を受けついで、羊の牧者となる人が必要です。あらためてみなさまには、司祭や修道者への召命のために、またその道を歩んでいる神学生や志願者のために、お祈りくださるよう、お願いいたします。

また、召命を語ることは、ひとり司祭や修道者への召命を語ることにとどまらず、すべてのキリスト者、つまり信徒の召命を語ることでもあります。「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されています

教皇レオ14世は今年の世界召命祈願日のメッセージに、「召命は、人生と同じように発展していく旅路です。わたしたちはこの旅路の中で、与えられたたまものを守るだけでなく、召命が成長して実を結ぶよう、それを日々の神との関係によって育てていかなければなりません」と記しています。

希望を失い利己主義と排他主義の深まる社会にあって、パン種のように、「神の国を探し求める」召命に生きる人の存在が必要です。召命とは一度識別すればそれで終わるのではなく、人生のすべての段階で育まれていくものです。つまり生涯を通じて、わたしたちには小さなパン種として、福音宣教のために働く道が用意されています。

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2026年4月18日 (土)

週刊大司教第252回:復活節第三主日A

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復活節第三主日です。

教皇様はアフリカを司牧訪問中です。教皇様のためにお祈りください。教皇様は、その就任からまもなく一年となりますが、教皇に選出されたその日の第一声、「平和が皆さんにありますように」から始まって、常に、武器を捨てていのちを守ることでの平和の確立を訴えておられます。この数週間は、中東の情勢に呼応して、平和を呼びかける教皇様の呼びかけが、政治の世界では現実を無視した夢物語と響くことから、両者が対立状態にあるように報道されています。

教会は福音に基づいて、例えば広島を訪れて「戦争は人間の仕業です。戦争は死です」と語りかけた聖ヨハネパウロ二世や、核兵器の廃絶を広島から訴えた教皇フランシスコのように、人類全体に対して平和を語るのが、その使命の一つです。核兵器による戦争の危険性に対しては、キューバ危機の当時のヨハネ23世の政治のリーダーたちへの呼びかけに始まり、同教皇の「地上の平和に象徴されるように、第二次世界大戦後、歴代の教皇様たちは、平和への呼びかけを続けてきました。

緊張の度合いを増し、将来への不透明さが増す中で、命に対する暴力が横行する世界に向かって、わたしたちも教皇様とともに、信仰に基づいた倫理的選択の呼びかけを続けたいと思います。私たちが護りたいのは神からの賜物であるいのちであり、神の似姿として創造された人間の尊厳です。

そして、宗教を紛争の口実に利用することは倫理的にふさわしいことではなく、単に分裂と分断の傷を深めるに過ぎません。ましてや、いのちに対する暴力を正当化するために、信仰を持ち出すことは、信仰者にとってふさわしいあかしではありません。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第252回、復活節第三主日のメッセージです。

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週刊大司教第252回
2026年4月19日

エマオへ向かっていた二人の弟子が象徴しているのは何でしょうか。福音は、イエスが二人に話しかけたとき、「二人は暗い顔をして立ち止まった」と伝えています。

さらに弟子のひとりクレオパが、イエスの質問にあきれたように答えていく中で、「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」という言い方をしています。つまり、彼らの望みは絶たれてしまった。いまや弟子たちは絶望の淵にいるのです。

ですからこの二人の弟子が象徴しているのは、恐れと不安の中で希望を失い、バラバラになっていく共同体の姿であります。共同体のひとり一人を結び合わせていた中心が突然亡くなったときに、バラバラに崩壊していく姿であります。

教会は共同体であると、わたし自身も何度も言いますし、特に第二バチカン公会議以降、幾たびと教会の共同体性について多くの方が語ってきました。教会が共同体である一番の理由は、人がたくさん日曜日に集まってくるからではありません。教会は寄り合い場所としての共同体ではありません。教会は復活されたイエスによって結び合わされている弟子たちの集まりです。

混乱に心が翻弄され、不安にとりつかれ、希望を失うときに必要なのは、落ち着いた心での振り返りです。イエスが何を教えきたのか。何をあかししてきたのか。そしていま眼前で起こっている出来事を通じて、神は何を語りかけているのか。落ち着いて見つめ直し、より良い道を探し求めなくてはなりません。まさしくシノドス的な教会のあり方が求めているのは、そのことであります。

二人の弟子が象徴するのは、自分たちを結び合わせる中心を失って、進む方向を見失いバラバラになった共同体です。その二人にイエスは寄り添い、ともに歩みます。その上で、議論をするのではなく、イエスは弟子たちのやり取りに耳を傾けます。イエスは弟子たちと語り合い、すべての出来事が神の計画の元にあることを気がつかせるために識別へと導きます。食卓でパンを裂くことで目が開かれた後に弟子が語る「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」という言葉こそは、識別の中で聖霊の導きを見いだしたときの心の動きであります。二人は聖霊の導きにしたがって、他の弟子たちの所へ戻り、共同体は再びイエスによって力強く結び合わされ、与えられた福音宣教の使命を果たしていきます。

まさしくシノドス的な歩みそのものであります。

あの夕方、エマオへの道で、二人の弟子と共に歩み、辛抱強く耳を傾けたように、主は今日もわたしたちと歩みを共にされ、辛抱強くわたしたちの叫びに耳を傾け、時のしるしをどのように読み解くのか、わたしたちが聖霊の導きに気づくように導きながら、いつも待っておられます。わたしたちは聖霊に導かれて常に前進を続ける神の民であります。

復活の主とともに、シノドス的な歩みを続ける教会共同体であり続けたいと思います。

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2026年4月11日 (土)

週刊大司教第251回:復活節第二主日A

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復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、いつくしみの主日と定められています。

今回のメッセージの中で触れている、2005年4月3日の教皇ヨハネパウロ二世最後のメッセージは、こちらのリンクからお読みいただけます。またいつくしみの主日についての解説も、その末尾に記されています。

教皇レオ14世は、現在の世界情勢、特に中東における米国やイスラエルの主導する戦乱を憂慮され、4月11日の夕刻に平和のための祈りを行うことを決め、参加できる方には一緒に祈るようにと呼びかけています。ローマ時間の夕方ですので、日本時間では日曜の午前1時という深夜となります。可能であればこちらのリンクから中継をご覧いただけますし、ご自分の良い時間に、教皇様の平和への意向に心を合わせて、お祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第251回、復活節第二主日のメッセージです。

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週刊大司教第251回
2026年4月12日

週の初めの日の夕方、恐れて隠れていた弟子たちのもとにおいでになった復活の主が、最初に口にした言葉は「あなた方に平和があるように」でありました。

一年程前、2025年5月8日。教皇選挙の二日目の夕刻、第267代の教皇に選出されたレオ14世が聖ペトロ大聖堂のバルコニーに姿を現し、集まっていた多くの人たちに、牧者として語りかけた最初の言葉も、この「あなたがたに平和があるように」という呼びかけでした。

教皇様は続けてこう呼びかけました。

「愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。・・・これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです。」

各地で武力による暴力の行使が続き、神からの賜物であるいのちが危機に直面するこのとき、絶望の暗闇のうちあるわたしたちに、主は「あなた方に平和があるように」と呼びかけておられます。

さらに5月18日に聖ペトロ大聖堂前で行われた就任ミサの説教において、教皇レオ14世はこう述べておられます。

「わたしたちの第一の大いなる望みはこれだと言いたいと思います。すなわち、世の和解のためのパン種となる、一致と交わりのしるしである、一致した教会です」

こう呼びかけることで教皇は、分断と対立をもたらす暴力が支配する現代社会の中で、和解と一致を生み出すことはキリストの弟子であるわたしたちにとって、重要な使命であることを指摘されています。

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められました。聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに身をゆだね、互いに分かちあう大切さを黙想する日であります。

よく知られていますが、2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の神のいつくしみの主日のためにメッセージを用意されていました。そこには、こう記されています。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

神のいつくしみを目に見える形とするのは、わたしたちの愛の具体的な実践です。わたしたちの教会共同体における愛に基づくゆるしと和解は希望を生み出し、わたしたちを一致と交わりのしるしであるパン種へと育んでいきます。

教会は絶望を生み出す対立の場ではありません。混乱する世界の中で、互いの愛のうちに、平和を生み出すパン種として、あかしする者でありたいと思います。

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2026年3月28日 (土)

週刊大司教第250回:受難の主日A

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週刊大司教の250回目にあたる本日は、受難の主日(枝の主日)であり、聖週間が始まります。

すでに東京大司教区のホームページでも公表されているとおり、聖週間中の東京カテドラル聖マリア大聖堂での典礼は、インターネットで配信されますし、後刻にご覧頂くことも可能です

なお、聖土曜日については、「週刊大司教」の配信はお休みです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第250回、受難の主日のメッセージです。

受難の主日A
週刊大司教第250回
2026年03月29日

わたし達は受難の主日から始まる聖週間において、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。受難の主日では、まず冒頭に主イエスのエルサレム入城が朗読され、そしてミサでは主の受難が朗読されます。今週の週刊大司教では、冒頭のエルサレム入城を朗読いたしました。

エルサレムに入城するイエスを、人々は熱狂のうちに迎えます。しかし支配者からの解放をもたらす政治的なリーダーの誕生を待ちわびている民衆の願望は、熱狂を生み出し、熱狂は、心の目をふさいでしまいます。謙遜さのうちにロバに乗って人々と共に入場するイエスの姿を見つめる群衆は、その心の目が熱狂に支配され、イエスが生涯をかけて伝えた神の福音の真髄が、ロバに乗った謙遜な姿に凝縮されていることに気がつきません。心は自分たちの勝手な願望に支配されているからです。

イエスを熱狂のうちに迎えた群衆は、その数日後に、今度はイエスを十字架につけて殺すようにと要求する群衆へと変身していきます。熱狂は冷めやすいのです。扇動された熱狂に支配された人々の心の目には、十字架を背負い罵られながら歩みを進めるイエスの姿に、イエスが生涯をかけて伝えた神の福音の神髄が凝縮されていることに気がつきません。わたしたちに必要なのは、自分たちの願望が生み出す熱狂から距離を置き、心を落ち着かせ、現実のうちに時のしるしを探ることであります。

時として熱狂は、暴力的な負の力を生み出します。熱狂が生み出す暴力は、わたし達のいのちに対して牙をむくことがあります。信仰は興奮の産物ではありません。信仰は静かな出会いの中で見いだされるものです。熱狂した心が見ようともしない現実のうちに、主はおられます。

便利になった世界でインターネットによる情報の拡散は、時にイエスをエルサレムに迎え入れた群衆を支配したような熱狂で、世界を包み込む力を持っています。善と悪の対立のような単純な構造は現実にはあり得ないにもかかわらず、熱狂による興奮は判断を単純化した裁きへとわたし達を誘います。その裁きがさらに生み出す熱狂は、自分勝手なイメージを増幅し、そのイメージに支配される心の目は、そこに生身の人間の存在があることを、賜物であるいのちを生きている神から愛される人間の存在があることを、人の心があることを、見えなくしてしまいます。時としてその熱狂は、イエスを十字架の死に追いやったように、暴力的な負の力を持って賜物であるいのちを破滅へと追いやることさえあります。

教皇様は今年の四旬節メッセージで、「断食」」について語る中で、こう呼びかけます。

「隣人を攻撃し、傷つけることばを控えることです。ことばの武装を取り除くことから始めようではありませんか。辛辣なことば、性急な判断、その場におらず弁解できない人の悪口をいうこと、中傷することをやめようではありませんか。むしろ、ことばを慎み、優しさをはぐくむことを学ぶために努力しようではありませんか。家庭の中で、友人の間で、職場で、ソーシャルメディアにおいて、政治的な議論において、メディアにおいて、キリスト教共同体において。そうすれば、多くの憎しみのことばは希望と平和のことばに代わることでしょう」。

主は、わたしたちの目の前に静かに佇まれ、わたし達が熱狂から解放され、「多くの憎しみのことば」を「希望と平和のことば」に変えられるのを待っておられます。いったいわたしたちは何を見ているのでしょうか。

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2026年3月21日 (土)

週刊大司教第249回:四旬節第五主日A

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四旬節第5主日です。

この一週間は、国際カリタスの総裁の業務で、カリタスアフリカの総会に出席するため、アフリカのコートジボアールへ出かけており、土曜の夜まで帰国していません。詳細については、帰国後に報告します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第249回、四旬節第五主日のメッセージです

四旬節第五主日A
週刊大司教第249回
2026年03月22日

復活祭を間近に控えた四旬節第五主日、イエスの親しい友であったラザロの死と復活の話が、ヨハネ福音から朗読されます。特に復活祭に洗礼を受けるために最終の準備の時期に入る教会は、本日のミサにおける洗礼志願者のための祈りで、「あなたはラザロと墓の中から呼び起こし、またご自分の復活によってすべての人を死から解放して」くださった記します。それによってラザロの復活と主の復活は異なる現実であることを明示します。すなわち、ラザロは主によって呼び起こされたのであり、主はご自分で復活されたと明示することで、主こそがいのちの与え主であり、復活であり、永遠のいのちであることを、信仰においてわたしたちが再確認するようにと促しています。主こそはいのちの与え主であり、復活であり、いのちであります。

イエスは、ラザロの死という苦しみに直面して、単に悲しみに暮れるのではなく、その痛みと苦しみを通じてこそ、神は栄光を現すのだと明示されました。そして御自身も受難の道へと歩みを進められ、十字架上で苦しみの後にいのちをささげられます。しかしその苦しみを通じて、神は永遠のいのちへの復活という栄光を世に示されました。

教皇ベネディクト十六世は、15年前の3月11日に発生した東日本大震災の苦しみを経験した日本の少女の質問に、海外メディアの企画でしたが、答えたことがありました。

「なんで子どもも、こんなに悲しいことにならなくてはいけないのですか」と問いかける少女に対して、教皇は、「これに対する答えを持ちません」と、正直に応えられました。

その上で、「でも、イエスが皆さんのように無実でありながらも苦しんだこと、イエスにおいて示された本当の神様が、皆さんの側におられることを、私たちは知っています。・・・神様が皆さんのそばにおられるということ、これが皆さんの助けになることはまちがいありません。・・・今、大切なことは、『神様はわたしを愛しておられる』と知ることです」と、苦しみのなかにあっても神の愛に身を委ねることが希望を生み出すのだと強調されました。

ベネディクト16世は回勅「希望による救い」のなかで、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

復活祭が近づいた今、改めてわたし達の信仰の原点であるいのちの与え主との出会い、そして苦しみを通じてこそ現される神の栄光に信頼し、特にこの時期、洗礼の準備をしている兄弟姉妹と歩みを共にしながら、信仰における希望を新たにいたしましょう。

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2026年3月14日 (土)

週刊大司教第248回:四旬節第4主日A

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四旬節も後半、第四主日となりました。

米国とイスラエルによるイランへの攻撃以来、すでに混乱していた世界はさらに暴力の支配による混乱によって翻弄されています。あらためて忍耐と対話による信頼醸成を基礎とした平和構築を呼びかけ、神からの賜物であるいのちが、暴力的に奪われることのない世界の実現に努めることを、特に政治のリーダーたちに求めたいと思います。

第二次世界大戦後、その悲劇的な体験から多くを学んだはずの人類は、例えば国連憲章などを通じて、国家が武力によって現状変更することを否定してきたはずでした。すでにこの数年の暴力的な混乱と戦争の状況で、国連自体が力を失い、国連憲章は忘れ去られようとしています。国連憲章の第2条四項には、こう記されています。

国連憲章第2条4項:「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」

残念ながら、こう定められた理念は、全く非現実の定めとなってしまいました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第248回、四旬節第四主日のメッセージです。

四旬節第四主日A
週刊大司教第248回
2026年03月15日

ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復するという奇跡を行い、それに対してファリサイ派の人々が、安息日の掟を破ったとして、イエスの示される神の真理に自ら目を塞いでしまった話を記しています。

この物語からわたし達は、「見える」と言うことばが、実際に目で見ることと、そうではなく心の目で見ることの二つの意味があることを知ることができます。そしてイエスが強調しているのは、目で見えることに心を惑わされずに、心の目で真理を見いだすことの重要性です。

福音の終わりに記されている、視力を回復した人とイエスとの会話は象徴的です。視力を回復した人は、実際に目でイエスを見ており、その人がこの奇跡を働いたことを十分に知っているにもかかわらず、イエスに対して「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と問うています。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。そのことばによって心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。奇跡を働いた神の真理に触れることができたが故の信仰告白です。

ファリサイ派の人たちは、自らの前に枠を設置しているかのように、自分たちが見たいものしか見ない態度を象徴しています。福音は、ファリサイ派の人たちと視力を回復した人とのやりとりを記しています。不可思議な病気の治癒が起こったからこそ、この人を呼び出したにもかかわらず、ファリサイ派の人たちは、自分たちの枠組みでしかこの世界を見ることができません。枠からはみ出すものは、存在しないも同様です。ですからその枠に収まらない奇跡的出来事を目前にして理解することができずに、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、逆ギレして見せます。わたしたちは、自分の価値観に基づいた枠を目前に堅持している限り、心の目を通じて神の真理に到達することはできません。

わたし達は、目の前で展開する現実に対して謙遜でありたいと思います。現実はわたし達の思い通りにはなりません。何でも自分でコントロールできるわけでもありません。謙遜に、目前に展開する現実と対峙し、そこに響いている真理の声に耳を傾けたいと思います。心の目で見るためには、謙遜にまっすぐに耳を傾けることが必要です。

教皇様は今年の四旬節メッセージで、回心における「耳を傾ける」ことの重要性に触れて次のように記しています。

「燃える柴からご自分をモーセに現された神ご自身が、耳を傾けることがご自身の存在の特徴であることをお示しになっています。・・・このように耳を傾ける内的な態度をもつとは、今日、神から、神と同じように耳を傾けることを学ばせていただくことです。そこからわたしたちは、『貧しい人々の状況が上げる叫び声が、人類の歴史を通じて、わたしたちの生活、社会、政治・経済体制、とりわけ教会にたえず問いかける』ことを認識します」。

心の目で真理を見いだすことができるように、耳を傾け謙遜に学ぶ姿勢でありたいと思います。

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2026年3月 7日 (土)

週刊大司教第247回:四旬節第三主日A

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四旬節第三主日です。

アジア司教協議会連盟(FABC)は、今週、3月3日朝から5日夕方まで、バンコクのカミロ会司牧センターで、年に一度の中央委員会を開催しました。中央委員会はアジアの各国地域の司教協議会会長と、香港・マカオ・ネパールなど司教協議会に属していないアソシエートメンバーの代表(現在は香港が代表)、そして各部局の責任司教と秘書も参加します。わたしは日本の司教協議会会長として、また現在二期目を務めているFABCの事務局長として、参加しました。 

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現在の会長はインド、ゴア教区のフィッポネリ枢機卿、副会長はフィリピン、カローカン教区のダビド枢機卿で、実際にバンコクの事務局を切り盛りしているのは、メリノール会のウィリアム神父です。

会場は、バンコクのスワンナプーム国際空港の近くにある、カミロ会が開設する児童のための福祉施設に隣接している、司牧センターです。司牧センターには、貧しい人のための優先的関わりを再確認した教皇レオ14世のディレクシ・テのバナーが掲げられていました。

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中央委員会は年に一度集まり、四年ごとに行われる総会の決めた方向性に従って、各部局がどのような活動をしており何を企画しているのかを聞きながら、全体の活動などについて具体的な決定をしていきます。また現在、規約を現状に見合う形で改定する作業を続けていますし、また今年の7月にインドネシアで開催される総会の内容についても話し合いました。

同時に、現在のイランをはじめとした中東での不安定な状況に鑑みて、平和を求める声明も採択しました。


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また昨年11月にマレーシアのペナンで行われたアジア宣教大会(GPH:希望の偉大なる巡礼)の報告書もできあがり、そのプレゼンも行われました。(下の写真)

アジアは中央アジア、南アジア、東南アジア、東アジアの四つの地域に分かれており、それぞれから、9ある部局に責任司教と委員司教、そして秘書を、まんべんなく選出し、アジア全体で福音宣教の課題に取り組んでいく司教達の組織です。しかし、公用語である英語で責務を果たしていく必要から、どうしても英語を日常的に使う国の出身者が多く任命されることになっています。それでも日本を含めてアジア全体で、できる限り役割を分担して、一緒に取り組んでいくという、シノドス的なあり方が、再確認されました。また司教達の組織ですので、勢い男性ばかりになりがちですが、女性心との神学者もアジアには大勢いることから、様々な分野で、今後も女性信徒や奉献生活者の関わりを増やしていくことも確認されました。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第247回、四旬節第3主日のメッセージです。

四旬節第三主日A
週刊大司教第247回
2026年03月08日

教会とは、どういうところでしょう。教会とは正しい人だけの集まりではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。いつくしみ深い御父は、ご自分が創造されたすべてのいのちを、永遠のいのちにおける救いへと招こうとされています。教会は御父のその招きが具体化し全うされるようにと、すべての人を招き入れる存在であるはずです。回心を成し遂げた人だけを迎え入れるので把握、まずすべてのいのちを招き入れ、共同体の中で共に祈り、共に耳を傾けあい、聖霊の声に導かれながら、ともに回心の道を歩まなくてはなりません。シノドス的な教会は、特定の人だけの共同体ではなく、すべての人を招き入れる神の民です。すべての人が、回心へと招かれています。罪における弱さの内にあるわたしたちに、教会は常に回心を呼びかけています。

ヨハネによる福音は、のどの渇きをいやすこの世界の水について話すサマリアの女に対して、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語るイエスのことばを記しています。

イエスはサマリアの女に対して、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われ、この世における乾きの癒やしではなく、本当に大切なもの、すなわち永遠のいのちへと目を向けるように促します。水の定義について語るのではなく、目の前に存在する永遠のいのちの源である御自分に目を向けるようにと、促します。

わたしたちは、どこへと目を向けているでしょうか。神に向かってまっすぐと歩むために、見つめなくてはならないのは、永遠のいのちの源である主ご自身です。主ご自身との具体的な出会いが、サマリアの女を救いへと招きました。主との出会いは、回心への招きです。

今年の教皇様の四旬節メッセージ、「耳を傾け、断食する」には、「回心は、一人ひとりの良心にかかわるだけでなく、人間関係のあり方、対話の質、現実からも問い直され、教会共同体においても正義と和解に飢え渇く人類においても真の欲求を方向づけるもの、それを見いだす能力にもかかわります」と記されています。わたし達の回心は、自分とは異なる存在と歩みを共にし、困難の直面する人に手を差し伸べ、罪を悔いる人をいのちの希望を見いだす回心へと招くものであるはずです。

福音は、「わたし達が信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」というサマリア人達のことばを記しています。主との出会いを通じて強められるわたし達の関係は、さらにそれを多くの人へと伝える業へとわたし達を招きます。回心は宣教への招きでもあります。わたし達の証しを通じて回心へと招かれた人は、さらに自分自身の回心における主との出会いを通じて、さらなる福音宣教者へと変えられていきます。

わたし達ひとり一人への回心への招きは、神の民に対する福音宣教者となる招きでもあります。

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