カテゴリー「週刊大司教」の76件の記事

2022年5月15日 (日)

週刊大司教第七十六回:復活節第五主日

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復活節第五の主日となりました。

この水曜日、衝撃的なニュースが香港の友人から飛び込んできました。3代前の香港司教である陳日君枢機卿様が、公安当局に逮捕されたというのです。陳枢機卿様は、御年90歳と高齢ですが、香港の民主化のために活動する人々を支え、自らも積極的に行動されていました。ですからその身の安全を慮る声は以前からありましたが、高齢の枢機卿ですから、バチカンとの関係を考えると手荒な選択はないだろうと思われていました。今回は、民主化運動に関連して身柄を拘束された人たちを資金的に支える基金の運営にかかわり、海外の勢力に通じていたとして、国家安全維持法違反で逮捕、拘束となった模様です。即座に保釈されましたが、パスポートを取り上げられているとのことで、今後どのような展開になるのか、ともに拘束された他の3名の方々と共に、注視したいと思います。香港の現在の司教様からもお祈りをとの依頼がありますので、ここは祈りの力をもって支援したいと思います。香港の平和と安定のため、また中国のために祈りましょう。

個人的なことですが、陳枢機卿様とは、2002年に初めてお会いしました。その年に前任者が帰天され、陳枢機卿様は協働司教から教区司教となられて、即座にカリタス香港の見直しに手を付けられました。香港のカリタスはありとあらゆる社会での活動を包括し、学校もあれば社会福祉施設もあれば外国人支援もあれば宿泊施設まで運営している、巨大組織です。ちょうどそのとき私は、カリタスアジアの運営委員の一人として、東アジア担当だったので、即座に、香港に「呼びつけられ」ました。そこで二日間にわたって、いろいろと意見と事情の聴取をされたのが出会いです。

それ以来今に至るまで、ご想像いただけるあの分野について、ありとあらゆることをご教示いただいています。枢機卿様のために、そして香港の教会のために、さらには中国にある教会のために、心からお祈りいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第76回のメッセージ原稿です。

復活節第五主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第76回
2022年5月15日

5月は聖母の月です。5月13日はファティマの聖母の記念日でしたが、10月とともに5月には、聖母の取り次ぎを願って、ロザリオの祈りをささげるように勧められています。

特に2020年以来、感染症の困難によっていのちの危機に直面する中で、教皇様はしばしば、聖母の取り次ぎ願って祈りをささげるようにと、わたしたちを招かれています。

2020年4月26日には、「この試練のときを信仰と希望をもって乗り越えられるよう、聖母マリアが助けてくださいます」とアレルヤの祈りの時に述べて、五月中にロザリオの祈りを唱えるようにと招かれました。その上で、すべての信徒に手紙を送り、そこにこう記されています。

「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。感染症の大流行によるさまざまな制約の結果、わたしたちはこの「家庭で祈る」という側面がなおさら大切であることを、霊的な観点からも知ることになりました。

そこで、わたしはこの五月に、家庭でロザリオの祈りを唱えるすばらしさを再発見するよう皆さんにお勧めしたいと思ったのです。だれかと一緒に唱えることも、独りで唱えることも、どちらの機会も最大限に活用して、状況に応じて決めることができます。」

加えて今年、感染症の状況が終息にまだ向かわない中で、わたしたちは今度は戦争の危機に直面しました。ウクライナへのロシアによる武力侵攻という暴挙の中で、多くの人がいのちを暴力的に奪われる事態を目の当たりにして、教皇様は聖母への祈りを強めるように呼びかけられました。

1965年、特に世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけました。回勅「メンセ・マイオ」で、教皇は5月にロザリオの祈りをささげる伝統について、「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」と述べています。(3)

感染症の状況と戦争の脅威の中に生きるとき、ヨハネ福音に記された主イエスの言葉が、心に強く響き渡ります。

「互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」

愛し合うためには、互いの存在を受け入れることが必要です。いのちの危機の中で、自己防衛の思いは、どうしても人間を利己的にしてしまいます。異質なものへの拒否感と排除の感情を強めます。個人のレベルでも、共同体のレベルでも、国家のレベルでも、自分を守ろうとするとき、わたしたちは排他的になってしまいます。だからこそいま、「互いに愛し合いなさい」という言葉が必要です。互いに心を開き、耳を傾けあい、支え合う連帯こそが、この状況から抜け出すために不可欠だと、教皇フランシスコはたびたび繰り返されます。福音を広く告げしらせることを第一の責務だと考えるのであれば、わたしたちは、互いに愛し合うために、心を開く必要があります。

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2022年5月 7日 (土)

週刊大司教第七十五回:復活節第四主日

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復活節第四主日です。復活節第四主日は、毎年朗読される福音から「善き牧者の主日」とも呼ばれ、世界召命祈願日と定められています。通常であれば、この主日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、教区内で養成を受けている教区や修道会の神学生、修道会の志願者などに参加を呼びかけ、教区の一粒会と一緒に、召命祈願ミサを行うのですが、残念ながら今年もまた、感染症の状況を勘案して、中止とさせていただきました。

どうかこの主日に、司祭、そして修道者の召命のためにお祈りくださるようにお願いします。

また同時に、召命を語ることは、キリスト者の召命、すなわち信徒の召命についても考えるときです。一人ひとりに呼びかけ、福音をそれぞれの場で、それぞれの方法であかしするようにと招いておられる主に、どのように応えていくか。黙想する日曜といたしましょう。

例年、教皇様はこの日にあわせてメッセージを発表されます。今年は発表が大幅に遅れ、つい2・3日前の発表となりました。そのため、中央協議会での翻訳は間に合いません(日本では連休中の発表でしたので)。今年のメッセージのテーマは「Called to build a Human Family(人類家族を造るために呼ばれて)」となっています。翻訳の発表までは今しばらくお待ちください。

メッセージで教皇様は、教会がいまともに歩んでいるシノドスの道に触れ、まずはじめに教会全体が福音宣教の主役となるように召されていると強調されます。すなわち、召命は特定の人、特に聖職者の召命だけを語るのではなく、それぞれの場でどのように福音を宣教する主役となるのかを考える、教会全体への召命であることを指摘されています。

その上で、教会全体が、分断された人類を再び一致させ神と和解させるというキリストの使命にともに与るように招かれていると強調されます。

もちろん司祭や修道者の召命が増えるようにと、その道を歩み出す勇気が呼ばれている人に与えられるようにとお祈りいただきたいのですが、同時にわたしたち一人ひとりが、また教会共同体が、神からの呼びかけに応え、与えられたタレントを共通善のために十分に生かすために、互いに何ができるのだろうか。教皇様の呼びかけに耳を傾け、この主日に、お祈りください。

なお教皇様はこの数日、様々な要因から歩くことや立っていることに困難を感じておられます。どうか教皇様の健康のためにも、お祈り下さい。

以下、本日午後6時に配信された週刊大司教第七十五回、復活節第四主日メッセージ原稿です。

復活節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第75回
2022年5月8日

復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。今日は特に、司祭・修道者の召命のために、お祈りをお願いいたします。

第二バチカン公会議の会期中、1964年4月11日のラジオメッセージで、教皇パウロ六世は、こう述べておられます。

「十分な数の司祭を確保するという問題は、すべての信者にすぐさま影響を与えます。それは、彼らがキリスト教社会の宗教的な未来をそのことに託しているためだけではありません。この問題は、小教区や教区の各共同体の信仰と愛の力を正確かつ如実に表す指標であると同時に、キリスト者の家庭の道徳的な健全性のしるしだからです。司祭職と奉献生活への召命が多く見られるところではどこでも、人々は福音を豊かに生きています」

すなわち召命の問題は、組織としての将来的存続の課題にとどまるのではなくて、福音が豊かに生きられているかどうかの指標でもあるというのです。これはわたしたちにとっては、厳しい指摘です。国内には修道会立も含めていくつもの神学院があり、司祭養成が行われてきました。さらに各修道会では国内外各所で志願者の養成が行われてきました。しかし近年、司祭や修道者を志願する信徒の数は減少傾向にあり、例えば東京教区でも、司祭を目指す神学生は、現時点では四名しかおりません。

一人の神学生が司祭になるまで養成するためには、最低でも7年が必要です。将来の教区組織維持の観点からも厳しいものがありますし、教皇パウロ六世の指摘されるように、それが福音が豊かに生きられているかの指標であるとするなら、まさしくその数字自体が厳しい指摘となっています。まずは司祭・修道者の召命のために祈りましょう。同時に、わたしたち教会共同体の責務として、さらに福音に生きる姿勢を追い求め、福音をあかしして参りましょう。

実際、召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

いまほど、司祭・修道者の召命に加えて、信徒の召命を深める必要があるときはありません。牧者であるキリストの声を、すべての人に届けるためには、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

召命の促進は、特別な人の固有の務めではなく、教会共同体全体の責務であります。

ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえを記しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と主は言われます。わたしたちは常にわたしたちと共にいてくださり、先頭に立ってわたしたちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を聞き分けているでしょうか。それとも、もっと他の声に気を取られて、そちらへと足を向けているのでしょうか。それぞれに与えられた召命を理解し、その召命に忠実に生きるとき、わたしたちは羊飼いの声を聞き分ける羊となることができます。

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2022年4月30日 (土)

週刊大司教第七十四回:復活節第三主日

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今年の復活節第三主日は、5月最初の日となりました。5月と言えば、聖母の月です。

 1965年、特に東西冷戦が深刻さを増し、ベトナムでの軍事的緊張は東西の代理戦争の様相を帯びていた時期に、世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけました。回勅「メンセ・マイオ」で、教皇パウロ六世は5月にロザリオの祈りをささげる伝統について、「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです」と教会が大切にしてきた聖母への祈りの重要性を指摘されました。その上で教皇は、「教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」と述べています。(3)

主キリストのあがないの業の第1の協力者は、十字架の傍らに立ち、イエスの苦しみを共にされた聖母マリアです。聖母の人生は、主の思いをと心をあわせ、主とともに歩む人生です。それだからこそ、聖母の取り次ぎには力があります。この5月を聖母を通じて私たちが主イエスに達することが出来るように、その取り次ぎのうちに、あがない主への信仰を深めるときにしたいと思います。特に、感染症や戦争など、世界的規模でいのちが危機に直面するような事態に直面するいま、一日も早い終息と平安を求めて、聖母にわたしたちの祈りを委ね、その取り次ぎを祈ることは、教会の伝統です。

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以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第74回、復活節第三主日のメッセージ原稿です。(写真上はガリラヤ湖畔のペトロ首位権教会にある、主イエスによるペトロの選び。「わたしの羊の世話をしなさい」と銘板に刻まれています)

復活節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第74回
2022年5月1日

復活された主イエスをあかしする弟子たちの言葉と行いは、どれほど力強いものだったのでしょう。その影響力に恐れをなした大祭司たちは、ペトロをはじめ弟子たちを最高法院に引いていき尋問し、黙らせようと試みます。最後の晩餐の頃の弟子たちであれば、あっという間にその脅しに負けて、口を閉じたのかも知れません。しかし使徒言行録が記している弟子たちは、大きく変わっていました。激しくののしられ脅されても、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」最高法院を出て行ったと記されています。この大きな生き方の転換には、復活の主との出会いがありました。

イエスが捕らえられたあと、三度にわたってイエスを知らないと否んだペトロに対して、復活されたイエスは、同じく三度にわたって、「私を愛しているか」と尋ねたことを、ヨハネ福音は記しています。あの晩の苦い思い出を心に抱くペトロは、しかし三度「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えます。

よく知られていることですが、愛するという行為にイエスはアガペーを使います。それに対してペトロはフィリアを使って応えます。アガペーは命をかけて相手のために身をささげる愛であり、フィリアは友愛です。命をかけてわたしの愛に生きるのかというイエスの重ねての問いかけに、ペトロは友愛的な感情、すなわち自分を中心に据えた心持ちを持って応えます。しかしそれではイエスが弟子として従うものに求める生き方、つまり無私の愛には結びつきません。イエスは、自分を捨てて、自分の十字架を背負って従うことを求めていました。それを具体的に意味するアガペーの愛をペトロは理解できていません。そこでイエスは三度目に、ペトロが理解するフィリアの愛を使って、重ねて尋ねます。

ここでペトロは始めてイエスの願いを心に感じ、「主よあなたは何もかもご存じです」と応えています。やっと、愛する行動の中心はペトロ自身からイエスに移ります。ペトロはイエスに身を委ねることで、始めてイエスのように生きることが可能となりました。

イエスに従うものの人生の中心にあるのは、自分ではなくてイエスご自身です。イエスご自身に完全に身を委ねることができたとき、つまりわたしたちが自分の弱さを認めたときに、初めて私を通じて福音があかしされるのです。福音のあかしは、私が中心になっているときには実現しません。伝えるのは私の思いではなくて、私を生かしてくださる主ご自身です。

今年わたしたちはウクライナへのロシアの武力攻撃という事態に直面し、戦争の危機を肌で感じる中で、教皇様と一致して、全人類を、そして特にロシアとウクライナを聖母の汚れなきみこころに奉献しました。

聖母への奉献という行為は、本質的に聖母を通じてイエスに奉献するという行為です。わたしたちは完全に聖なる方にわたしたちを「委ね」て、それでよしとするのではなく、委ねることで完全に聖なる方がわたしたちを聖なるものとしてくださるように決意をするのです。つまり、ただ恵みを受けるだけの受動態ではなくて、わたしたちが能動的に聖なるものとなるために行動することが不可欠です。ですから、奉献の祈りをしたから、あとは自動的に聖母が平和を与えてくださるのを待つと言うことではなくて、奉献の祈りをしたからこそ、完全に聖なる方に一致するための行動を起こすことが必要です。復活の主との出会いは、主との一致のうちに福音をあかしする行動へと、わたしたちを招いています。イエスを心に抱いて、一歩前進する信仰に生きましょう。

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2022年4月23日 (土)

週刊大司教第七十三回:復活節第二主日

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復活節第二主日です。

復活節第二主日は、神のいつくしみの主日とされています。主のいつくしみのメッセージはポーランドの聖ファウスティナ・コヴァルスカの受けた神のいつくしみに関するメッセージに基づくもので、聖ファウスティナは聖ヨハネパウロ二世教皇によって、2000年に列聖されています。なお聖人の聖遺物が、東京カテドラル聖マリア大聖堂の右手に、聖ヨハネパウロ二世教皇の聖遺物とともに、安置されています。聖堂右手のピエタ像の前です。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第73回めのメッセージ原稿です。

復活節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第73回
2022年4月24日

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められています。「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに信頼し、その愛に身をゆだね、わたしたち自身が受けたいつくしみと愛を、今度は隣人に分かちあうことを黙想する日であります。

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。
「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれています」(いつくしみ深い神3)

その上で、「この愛を信じるとは、いつくしみを信じることです。いつくしみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(いつくしみ深い神7)と言われます。

「あわれみ深い人々は幸いである、その人たちはあわれみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『いつくしみをもつ』ように命じられている」と指摘される教皇は、人類の連帯を強調されました。いつくしみに基づいた行動は、神からの一方通行ではなく、それを受けるわたしたちの霊的変革が求められるごとく、相互に作用するものだとも語ります。教皇は「人間的なものに対する深い尊敬の念をもって、相互の兄弟性の精神を持って、人と人との間の相互関係を形成していくために、いつくしみは不可欠の要素となる」と指摘しています。正義には愛が不可欠であることを、愛といつくしみが介在して始めて相互の連帯が生まれることを強調するヨハネパウロ二世は、教会が「多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成している『いつくしみ深い愛』を持ち込む」ために働くよう求められました。(いつくしみ深い神14)

教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。
「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。主は復活によって、死をもたらす悪に、神の愛といつくしみが打ち勝つことを示され、その上で、「平和があるように」、すなわち神の支配が弟子たちと常にあることを明確にして恐れを取り除きます。そして弟子たちを罪のゆるしのために派遣されました。罪のゆるし、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神のいつくしみによって包み込む業を行うことであります。

福音に記されたトマスと主との関係は、神のいつくしみは完全な存在であり常にわたしたちに向けられているのに、それを拒むのは人間の側の不信仰であることを浮き彫りにします。信じようとしないトマスを、それでもイエスは愛といつくしみで包み込もうとなさいます。放蕩息子の父親に通じる心です。この世界には、神の愛といつくしみが満ちあふれています。互いに連帯し、支え合い、賜物であるいのちを尊重して生きるようにとわたしたちを招く、神の愛といつくしみに満ちあふれています。それを拒絶するのは、わたしたちの側の不信であり、怠慢であり、悪意であります。

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2022年4月 9日 (土)

週刊大司教第七十二回:受難の主日

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聖週間が始まります。4月10日の主日は、受難の主日(枝の主日)であります。

聖週間は、関口教会で、受難の主日午前10時、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日(復活徹夜祭)の三日間のミサと典礼が午後7時、そして復活の主日は午前10時が、大司教司式の典礼です。すべてのミサが、関口教会のYouTubeチャンネルから配信されます。

また聖木曜日午前10時半からは、聖香油ミサが行われ、その中で神学生の認定式や祭壇奉仕者選任式が行われますが、現在の状況に鑑み、残念ですが非公開で行います

なお4月16日の聖土曜日は、午後7時から復活徹夜祭が配信されますので、「週刊大司教」は一回分お休みとさせていただき、4月23日午後6時が次回となります。

すでに旧聞となりましたが、4月6日、教皇様は、浜口司教様が帰天されてから空位が続いていた大分教区の新しい司教として、中央協議会の事務局長である福岡教区のスルピス森山信三師を任命されました。森山被選司教様は1959年1月生まれですから、いわゆる学年的には私と一緒です。スルピスという霊名は、私のタルチシオ以上に、あまり耳にしない聖人名です。これについて、森山被選司教様ご自身が、インタビューに答えておられる映像が、中央協議会から公開されていますので、一度ご覧ください。

森山被選司教様、大分教区の皆様、本当におめでとうございます。新しい牧者とともに、祝福されたさらなる一歩を踏み出されますように。

特段の事情がない限り、司教叙階式は任命から3ヶ月以内に行うことと定められていますので、程なく日程は決まることでしょう。司教団としては、新年度が始まったばかりですし、各教区の司祭人事も変わったばかりですので、森山師の後任の中央協議会事務局長選任が容易ではないと感じています。

とはいえ業務は遂行しなくてはなりませんから、4月7日の法人役員会で、現在、中央協の法人事務部長などを務めてくださっている東京教区の川口薫神父様に、当分の間、事務局長代行をお願いすることにいたしました。またこの4月から、任期満了で離任したイグナシオ神父様に代わり、広島教区の原田豊己神父様が社会福音化推進部部長として赴任されました。川口神父様、原田神父様、よろしくお願いします。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第72回、受難の主日のメッセージ原稿です。

受難の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第72回
2022年4月10日

愛する家族のひとりが、目の前でいのちの危機に直面しているならば、多くの人は平然としてはおられず、どうにかして助けたいと思うのではないでしょうか。

世界がいま平和な解決を祈るウクライナへのロシアによる武力侵攻や、東京教区が姉妹教会として平和を祈り続けているミャンマー。そのただ中でいのちの危機に直面する一人ひとりは、すべからく神ご自身が賜物としていのちを与えられた、神が愛する存在です。いのちの与え主である神が平然としておられるはずがありません。わたしたちに、いのちを守るために祈り行動するようにと、神は求めておられると確信します。

多くの人が犠牲になる戦争のような事態であっても、それが遙か彼方で発生すると、どういうわけか、あれやこれやと理屈を並べて、まるで人ごとのように眺めてしまいます。その傍観者のような態度、すなわち無関心は、いのちを奪います。神のひとり子を十字架につけて殺した、あの大勢の群衆のような、傍観者としての「無関心」であります。

歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。起こっている出来事を傍観者として無責任に眺める群衆は、そのときの感情に支配され、周囲の雰囲気に流されていきます。

イザヤは、絶望的とでもいう状況の中で苦しみとともに生き抜こうとするイエスの姿を、苦難のしもべの姿として預言書に書き記しています。

主なる神が「弟子としての舌」を与え、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして」くださったがために、「わたしは逆らわず、退かなかった」。苦しみに直面したイエスの御父に対する従順と不退転の決意を、イザヤはそう記します。

パウロは、イエスがそのように、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

神が与えられた「弟子としての舌」は、「疲れた人を励ますように」語るための舌であると、イザヤは記します。その舌から語られる言葉は、いのちを生かす言葉であり、生きる希望を生み出す言葉であり、励まし支える言葉であります。

加えて、その舌が語る言葉は、自分の知識に基づく言葉ではなく、「朝ごとに」呼び覚まされる主の言葉に耳を傾け、それを心に刻んで従おうと決意する、神ご自身の言葉であります。

人間の知識や感情や思いに左右される言葉は、イエスを十字架の死へと追いやった傍観者である群衆を扇動し、無関心で人ごとのような言葉をもって、いのちを危機に追いやり、いのちを奪います。神のことばに耳を傾け、それを心に刻み、不退転の決意をもってそれに従い、それを語り、それに生きる主イエスの言葉は、互いを支え、傷を癒やし、希望の光をともす、いのちを生かす言葉そのものであります。苦しみのただ中から語られる、いのちの言葉です。

傍観者としての無関心が支配する現代社会にあって、わたしたちはイエスご自身に倣い、希望に満ちたいのちの言葉を語る者でありたいと思います。弟子の舌をもって語る者でありたいと思います。無責任に放言するものではなく、苦しみのただ中にいるいのちに心をあわせ、いのちを守る言葉を語る者でありたいと思います。

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2022年4月 2日 (土)

週刊大司教第七十一回:四旬節第五主日

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四旬節も終わりに近づいています。復活祭に向けて、良い準備はできているでしょうか。特に洗礼の準備をしておられる方々に心を向け、洗礼のその日まで力強く歩みを続けることができるように、聖霊の導きを祈りましょう。

ウクライナにおけるロシアの武力侵攻は、両国の和平交渉に多少の希望が持てるようですが、しかし先行きは不透明です。平和のために祈り続けたいと思います。

先週3月25日の夕方6時半頃(ローマ時間)、教皇様は、全人類を、そして特にウクライナとロシアを、聖母の汚れなきみ心に奉献されました。日本では同じ時間は26日早朝深夜2時半頃でしたので、皆さんに集まっていただく典礼はできなかったものの、わたし自身は同じ時間にインターネットの中継に与りながら、教皇様と祈りをささげました。さらに東京教区全体がこの奉献に加わることを象徴できるように、この日(26日)に開催された教区宣教司牧評議会で、冒頭に評議員の皆さんと祈りをささげました。ご存じのように教区宣教司牧評議会は、東京教区のすべての宣教協力体から信徒の方が参加され、加えて司祭評議会の代表と、修道者の代表が参加している会議体であり、司祭評議会と並んで、教区全体を代表する重要な場です。その総会で祈りをささげることで、教区全体の参加を象徴できたのではないかと思います。

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個人的に祈りをささげて、教皇様の奉献に加わってくださった方々に感謝します。またすでに教皇様ご自身の奉献は終わりましたが、その後いつであっても、教皇様に心を一致させて祈ることは良いことです。祈りはここにリンクがありますから、全人類を、そして特にロシアとウクライナを聖母の汚れなきみこころに委ね、今日にでも、また明日以降にでも、ひとりでも多くの人に祈りをささげ、参加していただければと思います。ウクライナにおける平和の実現を聖母の取り次ぎを通じて祈ることで、さらに世界の各地で起きている様々な対立が解消され、世界的な平和の実現へとつながるよう祈り続けましょう。またこの祈りだけでなく、ロザリオの祈りをささげることも、良いことです。聖母の取り次ぎの力に信頼し、祈りましょう。

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以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第71回のメッセージ原稿です。

四旬節第五主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第71回
2022年4月3日

イザヤの預言は、出エジプトの出来事を追憶しながら、「見よ、新しいことを私は行う」という主の言葉を記し、過去の常識に捕らわれずに神の新しい働きに身を委ねよと呼びかけます。

パウロもフィリピの教会への手紙で、「キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と記して、過去に捕らえられることなく、キリストに身を委ねて前進を続けるようにと励ましを与えています。

ヨハネ福音は、これもよく知られた「姦通の現場で捉えられた女」の話です。時代と文化の制約があるとはいえ、共犯者であるはずの男性は罪を追及されることがなく、女性だけが人々の前に連れ出され断罪されようとしています。イエスはそのいつくしみの心を持って、罪を水に流して忘れてしまうのではなく、一人責めを受けいのちの尊厳を蹂躙されようとしている人を目前にして、その尊厳を取り戻そうとされます。「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい」

2016年の「いつくしみの特別聖年」閉幕にあたって、教皇フランシスコは使徒的書簡「あわれみあるかたと、あわれな女」を発表され、その中でこの物語を取り上げてこう記しています。

「(イエスの行いの)中心にあるのは、法律や法的正義ではなく、それぞれの人の心の中を読み取り、その奥に隠された願望を把握することのできる神の愛です。・・・ゆるしは、御父の愛のもっとも目に見えるしるしです。それをイエスは、その全生涯を懸けて現そうとしました。(同書簡1)」

その上で教皇様は、「ゆるしの喜びは口で言い表し尽くすことはできませんが、ゆるしを体験するつど、わたしたちは周囲にそれを輝かします。その源には愛があり、それとともに神がわたしたちにまみえようとなさいます。わたしたちを取り囲む自己中心主義の壁を突き破りながら、今度はわたしたちを、いつくしみの道具とならせます」と記しています。

罪を犯したと断罪のために連れてこられた女性に対するイエスの言葉と行いは、断罪による共同体の絆からの排除ではなく、御父との絆を回復するための回心への招きでした。御父に向かってあらためて歩むようにとの招きです。過去に捕らえられることなく、新たにされて、キリストに身を委ね、前進を続けるようにとの励ましです。

教会のゆるしの秘跡の緒言は、「ミサの奉献の中においてはキリストの受難が再現され、わたしたちのために渡されたからだと、罪のゆるしのために流された血が、全世界の救いのために再び教会によってささげられる」と指摘し、聖体のうちに現存されるキリストを通じて、それに与るわたしたちは聖霊によって「一つに結ばれる」と記しています。

その上で、キリストご自身が弟子たちに罪をゆるす権能を授けたことを記し、「教会は水と涙、すなわち洗礼の水と回心の涙を持っている」ものとして、教会がその存在を通じて神の愛しみに満ちあふれるものであろうとする事実を伝えます。

具体的にいつくしみを表す行動を呼びかける教皇様は、「ひとたびいつくしみの本当の姿に触れたならば、後戻りすることはありません。・・・それは新しい心、せいいっぱい愛すること、より隠れた必要をも見分けるよう目を清めてくれる、本物の新たな創造です」と励ましておられます。(同上書簡16)。主はいつくしみで常にわたしたちを包み込み、過ちを徹底的にゆるし、いのちの尊厳を回復してくださいます。わたしたちはいつくしみの業に励み、世界に希望を生み出しましょう。

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2022年3月26日 (土)

週刊大司教第七十回:四旬節第四主日

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四旬節も第四主日となりました。

復活節に洗礼を受けられる準備をされている皆さんには、あと三週間ほどの準備期間です。特に成人洗礼の皆さんには、洗礼と初聖体と堅信を一度に受けられることが通常ですので、そうなると、この受洗の機会のあとに、学びを深めたり、祈りを深めることから離れてしまうこともあり得ます。実際、毎年に洗礼を受けたすべての人が日曜日に教会に来ていたとしたら、教会はあっという間に人であふれてしまうはずなのですが、実際にはそうなっていない。もちろん同じような課題は幼児洗礼の方々や、長年信徒である方々にも、何らかのきっかけで教会から足が遠のいてしまうことはあります。そういったことも含めて、わたしたちキリスト信者のすべてには、洗礼後の継続した信仰養成が、重要な意味をもっています。わたしたちは洗礼を受けた後も、生涯をかけてキリストについて学び続けたいと思いますし、神との祈りにおける対話を続け深めたいと思います。また「二人三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイ18:20)と約束された主に信頼し、教会共同体における交わりを深め続けたいと思います。(写真はエルミタージュ美術館のレンブラントの放蕩息子の帰還)

教皇様のロシアとウクライナの聖母の汚れなきみこころへの奉献に合わせて、この3月25日または26日に祈りをささげてくださった皆様に感謝いたします。まだ状況は不確実です。聖母の取り次ぎによって神の平和が確立されますように、これからもお祈りをお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第70回、四旬節第四主日のメッセージ原稿です。

四旬節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第70回
2022年3月27日

ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

2016年の「いつくしみの特別聖年」のあいだ、教皇フランシスコはしばしば父である神のあわれみ深さを語り、そのいつくしみの姿勢に倣うようにと勧められました。その年の5月11日の一般謁見で、この物語に触れこう語っています。

「父親のいつくしみは満ちあふれるほど豊かで無条件です。その優しさは、息子が話す前に示されています。・・・(弟が自らの過ちを認める)ことばは、父親のゆるしの前に崩れ去ります。父親の抱擁と接吻により、彼は何があってもつねに自分は息子だと思われていたと悟ります」

その上で教皇は、「父親の論理はいつくしみの論理です。弟は自分の罪のために罰を受けて当然だと思っていました。兄は、自分の奉仕の報いを期待していました。二人は互いに話し合うこともなく、異なる生き方をしていましたが、両者ともイエスとは違う論理のもとに考えています」

「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求める教皇フランシスコは、しばしば神のいつくしみの深さとそれに倣うことをわたしたちに説いておられます。

同時に教皇フランシスコは、特に現在の感染症の状況になってからそれが顕著ですが、わたしたちが世界的規模で「連帯」することの必要性を強調されます。「放蕩息子」のたとえ話も、単に父親の限りない優しさを記しているだけではなく、その優しさが、実のところ「連帯」に基づいていることを明示しています。

弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。弟は何に死んでいたのでしょうか。

弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、父は「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げています。

すなわち、ここで家族として描かれている「共同体」の絆から離れていることは、いのちを生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人はいのちを十全に生きることができるのです。父親の優しさは、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心に基づいています。

「連帯」の意味についてしばしば語られた教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「真の開発とは」にこう記しています。

「(連帯とは)、至るところに存在する無数の人々の不幸、災いに対するあいまいな同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思いでもありません。むしろそれは、確固とした決意であり、・・・共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです(「真の開発とは」38)」

四旬節にあたって、わたしたちは「愛の業」に生きるようにと招かれます。その一助として、カリタスジャパンなどを通じた援助事業に資するための献金をするようにと勧められます。そういった行動は、わたしたちがキリスト者として優しい人だからそうするのではありません。それは、あの父親に倣い、連帯を実現しようとする、一人ひとりの信仰における決断に基づく行動です。

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2022年3月19日 (土)

週刊大司教第六十九回:四旬節第三主日

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四旬節第三主日です。

3月16日深夜に、東北地方を襲った地震の被害を受けられた方々に、お見舞い申しあげます。

ちょうど本日19日が仙台教区のガクタン司教様の司教叙階式にあたり、昨日18日には東京から仙台へ移動しなくてはなりませんでした。結局、自分で運転して移動することにしました。東京から仙台への車での移動ですと、新潟へ向かう距離とそれほど変わりません。

ガクタン司教様の叙階式については、別途掲載します。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第69回、四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

四旬節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第69回
2022年3月20日

出エジプト記は、モーセの選びの物語を記します。神は自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗り、神の救いの計画を形作る時間の流れが、人間の常識をはるかに超えて連綿と続き、その一つ一つの時代の中での関わりが、すべからく結びあわされて一つの流れを形作っていることを明確にされます。

神の救いの計画を形作る時の流れは、今も連綿と続いており、わたしたちの理解をはるかに超えたところで、神はご自分の計画を成し遂げて行かれます。

パウロもこの雄大な時間の流れに触れ、神の救いの計画の中にあって、すべてが結びあわされていることを明確にし、今を生きているわたしたちも、その流れの中で結びあわされていることを示します。パウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と記すことで、わたしたちが自力ではなく、実は神のはからいの中で生かされている存在であることを示唆します。

ルカ福音は、神がその怒りをわたしたちに向けないのは、忍耐強く待っておられるからであり、わたしたちはそのあわれみの中で生かされているものであり、何気なく毎日を過ごしてはいけないということを示唆する、イエスの言葉を記します。わたしたちは、常なる回心へと招かれています。四旬節は、わたしたちを包み込む神のあわれみの中で、わたしたちが神によって生かされていることを悟り、回心へと導かれるときでもあります。

四旬節の第二金曜日、先日3月18日が、日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」でありました。多くの教会で、本日四旬節第三主日に、この意向でミサが捧げられます。

いのちを賜物として与えてくださった神を信じるわたしたちには、いのちの尊厳を守る務めがあります。したがって教会の聖職者には、その務めを率先して果たすことが求められます。

残念ながら模範であるはずの聖職者が、いのちの尊厳をないがしろにする行為、とりわけ性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為におよんだ事例が、世界各地で多数報告されています。なかでも保護を必要とする未成年者に対する性虐待という、卑劣な行為を行った聖職者の存在も明らかになっています。日本の教会も例外ではありません。

加えて司教をはじめとした教会の責任者が、聖職者のこうした加害行為を隠蔽した事例が、世界各地で報告されています。

いまシノドスの道をともに歩んでいる教会は、互いに耳を傾けあい、支え合いながら、連帯の絆に結ばれた共同体であることを目指しているはずです。互いの絆の中で、同じ尊厳あるいのちを与えられたものとして、ともに神によって生かされている共通理解を持とうとしているはずです。賜物であるいのちとその尊厳を守ることが、教会の一人ひとりの務めであり、そして共同体の努めであることを認めようとしているはずです。日本の教会が、いのちの尊厳を守り抜くための努力を怠らない教会共同体となることを、わたしたち司教をはじめ聖職者が妨げている事例があることを、大変申し訳なく思っています。

世界中の教会に多くの被害者がおられます。教会は、しばしば無関心や隠蔽も含め、被害を受けられた方々に大きな罪を犯してきました。申し訳ありません。わたしたち司教や聖職者がこのような罪を繰り返すことのないように、信仰における決意を新たにし、わたしたちを生かしてくださる神のいつくしみによりすがり、愛のうちに祈り、行動したいと思います。

 

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2022年3月12日 (土)

週刊大司教第六十八回:四旬節第二主日

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四旬節は第二週に入ります。復活祭に向けて、洗礼の最終的な準備をされている方々のために、この四旬節の間は特に祈りましょう。また洗礼志願者の方々とともに、わたしたち自身も信仰の歩みを振り返り、何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどう生きるのか、あらためて見つめ直してみましょう。(写真は本所教会のみちの光なる聖母の像)

この一週間は、年に二度ほど開催される定例のFABC(アジア司教協議会連盟)の中央委員会会議の週でした。FABC中央委員会は、アジア各地の司教協議会会長で構成されています。今回私は、日本の司教協議会会長として、またFABCの事務局長(SG)として参加しました。

会議はボンベイ(ムンバイ)で開催の予定でしたが、このような世界の状況ですので実際に集まることは難しく、オンラインを併用したハイブリッド会議です。最初の二日間は、FABCの各部局の責任者も入れての会議で、特に、今年の秋10月に予定されているFABC50年を記念する総会の準備についてが主要議題でした。FABC50年は2020年でしたが、当然この状況で2年間延期され、今回の秋の総会もハイブリッドになる模様です。開催地はバンコクが予定されています。もっともオンライン会議に対する否定的な意見も多くあり、できる限りタイに集まることが勧められる模様ですが、広いアジアですから、それぞれの地域の状況も異なり、実際にこの秋にどうなっているのかは分かりません。ただ逆にそれは準備をするバンコク教区に、非常に大きな負担を強いることになります。あと半年ほどしかないのに、具体的にどうなるのかが分からないのですから、準備のしようがありません。

いずれにしろ、FABC自体がアジアの各地の教会でよく知られているわけでもありませんし、創立から50年経って、日本の教会でも、FABCの活動がそれほど知られていないのも事実です。また実際に関わっている司教たちには、アジアの教会のこれからの方針の策定という思いがありますが、アジアの教会全体で見れば、FABCが司教さんたちの内輪の団体と見なされている嫌いもあります。10月に予定されている総会が、これまでの歴史を振り返り、しっかりと評価を行い、今の時代に何ができるのか、見つめ直す機会になればと思います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第68回、四旬節第二主日のメッセージ原稿です。

四旬節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第68回
2022年3月13日

四旬節は、わたしたちが信仰の原点に立ち返るときです。その原点は、一体どこにあるのでしょうか。

創世記は、まだアブラムと呼ばれていたアブラハムを神が選び、契約を結ばれた出来事を記しています。暗闇の中で天を仰ぎ、「星を数えることができるなら、数えてみるが良い」と告げられたアブラハムの驚きを想像します。現代の東京の夜空であれば、もしかしたらすべての星を数えてしまえるのかも知れませんから、それではなんとも情けない話ですが、創世記の時代の夜空ですから、まさしく満天の星であったことだろうと思います。逆に言えば、そのこと自体が、人間が築き上げた繁栄が、結局は神の存在を見えないものとしてしまっていることを象徴しているのかも知れません。アブラハムの信仰の原点は、暗闇に満天の星を眺め、未来に向けた想像を超えた約束を与えられ神と契約を結んだ、そのときの驚きであったと思います。

パウロはフィリピの教会への手紙で、キリストの十字架にこそわたしたちの信仰の原点があることを強調し、信仰における旅路は、わたしたちをこの世での繁栄ではなく、本国である天の国へと導いていることを指摘します。

ルカ福音は、イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブの眼前で栄光を示された御変容の出来事を記します。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を三つ建てることを提案したと福音は伝えます。ペトロはその栄光の中にとどまりたかったのでしょうが、イエスは困難に向けて前進を続けます。福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。律法と預言書、すなわち旧約聖書は、神とイスラエルの民との契約であり、信仰と生活の規範でありました。そこに神の声が響いて、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と告げたと記されています。イエスこそが旧約を凌駕する新しい契約であること、すなわちイエスに従う者にとっての信仰の原点であることを、神ご自身が明確にしました。

わたしたちの信仰の原点は、イエスの言葉と行いにあります。教皇ベネディクト16世は、それについて、「信仰とは、何よりもまず、イエスとの深く個人的な出会いです。そして、イエスの近さ、友愛、愛を体験することです(2009年10月21日の一般謁見)」と述べています。

四旬節は、信仰の原点、すなわちイエスとの個人的出会いに立ち返るために、御父のいつくしみに生きるようにと勧めます。いつくしみの具体的な行動の中でわたしたちは人と交わり、そこにいつくしみそのものである主がおられるからに他なりません。わたしたちは自らのあわれみ深い行動を通じて、また他者からのあわれみの業によって、そこにおられる主と出会います。わたしたちの信仰の原点の一つは、いつくしみの業、愛の業であります。

先日3月11日で、東日本大震災から11年となりました。教会は、災害の前から地元に根付いて共に生きてきた存在として、これからも東北の地元の方々と共に歩み続ける存在です。教会の東北におけるこの11年間の歩みは、どこからかやってきて去って行く一時的な救援活動に留まらず、東北のそれぞれの地で、地域共同体の皆さんと将来にわたって歩みをともにする中で、いのちの希望の光を生み出すことを目指してきました。そこに主イエスがおられます。連帯と支え合いの交わりの中に、主イエスがおられます。具体的な人と人との交わりの中で、わたしたちは主と個人的に出会います。それぞれの信仰の原点を、見つめ直しましょう。

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2022年3月 5日 (土)

週刊大司教第六十七回:四旬節第一主日

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四旬節第一主日です。

四旬節について全体像を一つにまとめて解説している記事が、中央協議会のホームページにあります。こちらのリンクです。良くまとめられているので、是非ご参照ください。

特にその記事の冒頭の典礼憲章の引用で、四旬節の持つ二重の性格が次のように強調されています。

「四旬節の二重の性格が、典礼においても典礼に関する信仰教育においても、いっそう明らかにされなければならない。すなわち、とくに洗礼の記念または準備を通して、そして悔い改めを通して、信者は神のことばをいっそう熱心に聞き、祈りに励んで、過越の神秘を祝うために備えるのである」

人数に違いはあれど、多くの小教区で、復活祭に洗礼を受ける準備をしておられる方がおられることと思います。四旬節は、わたしたち自身の信仰を見つめ直す回心のときであると同時に、新しく信仰の道を歩もうとして準備の最終段階に入った人たちと、ともに歩んでいくときでもあります。洗礼志願者の方々のために祈りましょう。四旬節第一主日には洗礼志願式が行われる教会もあることと思います。

ウクライナの状況は変わりません。世界中で平和のための祈りが捧げ続けられています。世界の進む方向を大きく変えてしまう可能性すらある大国の行動です。灰の水曜日だけでなく、ウクライナの平和のために、また政治の指導者が聖霊の導きによって、共通善の実現のためのふさわしい道を見いだすことができるように、祈り続けたいと思います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第67回、四旬節第一主日のメッセージ原稿です。

四旬節第一主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第67回
2022年3月6日

3月2日の灰の水曜日から、四旬節が始まりました。今日は四旬節第一主日です。

四旬節は、わたしたちの信仰を見つめ直し、その原点に立ち返るときです。また御父のいつくしみを自らのものとし、それを多くの人に具体的に示す、あかしの時でもあります。

教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行動をもって、信仰を見つめ直すようにわたしたちに呼びかけています。また教会は四旬節に特別な献金をするようにも呼びかけます。この献金は、犠牲としてささげる心をもって行う具体的な愛の業に他なりません。またその犠牲を通じてわたしたちは、助けを必要としている多くの人たちに思いを馳せ、傍観者ではなくともに歩む者になることを心掛けます。互いに支えあう連帯の絆のうちに、いのちを生きる希望を回復する道を歩みましょう。

申命記は、イスラエルの民に原点に立ち返ることを説いています。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神のいつくしみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。神に救われた民の原点に立ち返ろうとする、記憶の言葉です。

パウロはローマの教会への手紙に、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と記しています。申命記は、共同体の記憶に基づいたイスラエルの民に限定的な救いを記しますが、パウロはここで、神の救いはすべての人に向けられていることを明確にします。パウロは、復活された主イエスとの具体的な体験こそが、新約の民の共同体における共通の記憶であることを記します。わたしたちが立ち返る信仰の原点は、ここにあります。

ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、いのちを生きるには極限の状態である荒れ野で悪魔のさまざまな誘惑を受けます。それは空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することでありました。すべてはこの世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることにこそ、この世のさまざまな欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。信仰共同体に生きているわたしたち一人ひとりは、立ち返るべき信仰の原点を共有しているでしょうか。

四旬節の初めにあたり、教皇様はメッセージを発表されています。今年のメッセージのテーマは、ガラテヤ書6章の言葉で「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、善を行いましょう」とされています。(ガラテヤ 6 ・ 9 ー 10a)

その中で教皇様は、四旬節こそ将来の豊かな刈り入れのために種を蒔くときであるとして、「四旬節はわたしたちを回心へと、考え方を改めることへと招きます。それによって人生は、本来の真理と美しさを得るでしょう。所有するのではなく与えることが、蓄えるのではなくよい種を蒔いて分かち合うことが、できるようになるのです」と呼びかけます。その上で教皇様は、「他の人のためによい種を蒔くことは、個人の利益だけを考える狭量な論理からわたしたちを解放し、行動に無償性ゆえの悠然とした大らかさを与えてくれます。そうしてわたしたちは、神のいつくしみ深い計画の、すばらしい展望に加わるのです」と記されています。わたしたちもこの四旬節に信仰の原点に立ち返り、良い種を蒔くものとなり、神のいつくしみの計画に与るものとなるよう努めたいと思います。

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