カテゴリー「週刊大司教」の170件の記事

2024年6月15日 (土)

週刊大司教第171回:年間第11主日B

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年間第11主日です。

この一週間は、久しぶりにアジアのカリタスのメンバーの総会に参加しました。2019年5月までの8年間、わたし自身がカリタスアジアの総裁でしたから、この総会には5年ぶりの参加です。これは別途、記事にして掲載します。

本日の第11主日には、東京カテドラル聖マリア大聖堂に所在する韓人教会の堅信式が、いつもの日曜12時からのミサで行われ、私が司式させていただきます。韓国語はできないので、韓国語に日本語を交えたミサと成る予定です。堅信を受けられる方々に聖霊の豊かな祝福を祈ります。

本日土曜日の午後には、教区の宣教司牧評議会も開催されました。昨年までの評議会からの答申を受けて設置された作業部会が、宣教協力体の見直しの提言作成のための作業を進めていますが、現在の宣教司牧評議会は、シノドス的な教会を実現するために、東京教区でどのような取り組みを進めるかを考察するために、実際に霊における会話を体験したりする中で、教皇様が目指している教会の姿を体感として持ち、それをさらに教区に広げていくことを目指しています。このプロセスは、教皇様自身がおっしゃるとおり、一朝一夕で実現する者ではなく、いわば教会全体の体質の改革ですので、息の長い、しかも地道な取り組みが求められます。

今日の宣教司牧評議会では、先般、小教区で働く司祭のためのシノドスの集いがローマで開催された際に、日本の代表として参加された、日本の教会のシノドス特別チームのメンバーでもある大阪高松教区の高山徹神父様にお話をいただいて、そのあとに分かち合いとなりました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第171回目、年間第11主日メッセージ原稿です。

年間第11主日B
週刊大司教第171回
2024年6月16日

炎上商法などと言う言葉をネット上では耳にすることがありますが、今の時代、地味で緻密な論理の積み重ねよりも、大げさなパフォーマンスで注目を浴びることが成功につながると考えられているのかもしれません。

福音宣教の使命を与えられているわたしたち教会も、パッと大きなイベントでも催して、多くの人たちの耳目を惹き、一気に社会をひっくり返せたらどんなに良いかと夢見ますが、しかし今日の福音は、神の国とは地道な積み重ねの上に成り立っていることを、明確に示しています。

「神の国を何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである」と語るイエスの言葉を、マルコ福音は伝えています。

取るに足らない小さな種から始まって、しかし成長して行くにつれ「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝を張る」までになる。その過程を述べて福音は、神の視点がいかに人間の常識的視点と異なるのかを教え、派手なパフォーマンスではなく、神の計画に従った地道な積み重ねが重要であることを教えています。

今年4月の世界召命祈願日のメッセージで教皇様は、来年の聖年のテーマでもある「希望の巡礼者」に触れ、それぞれに固有の召命を見いだす道を巡礼の旅路になぞられて、次のように記しています。

「自分に固有の召命を再発見しつつ、聖霊の多様なたまものを結び合わせ、世にあって、イエスの夢の運び手となり、証人となるために、聖年に向かって「希望の巡礼者」として歩みましょう」

その上で教皇様は、目的地ははっきりしているが、そこに到達するためには、人目を惹くパフォーマンスではなく、地道な一歩が必要だと指摘して、こう述べています。

「その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要なものだけをもち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないよう、日々頑張らなければなりません」

心に主との出会いへの希望を抱くことで、わたしたちは、日々の小さな苦労が決して無駄にならないことを知っています。わたしたちは毎日、「平和と正義と愛を生きる新たな世界に」向かって、毎日巡礼者として一歩を刻んでいきます。

シノドス的であろうとしている教会は、巡礼者としてともに歩む教会であろうとしています。わたしたちは巡礼者です。ともに支え合い、互いに耳を傾けあい、ともに歩む教会は、毎日小さな一歩を社会の中に刻んでいきます。その小さな一歩の積み重ねこそが、暗闇の支配する社会に希望を生み出し、神の計画の実現へとつながっていきます。わたしたちは巡礼者です。福音をともに証ししながら、確実に一歩ずつ前進を続ける希望の巡礼者です。

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2024年6月 8日 (土)

週刊大司教第170回:年間第10主日B

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年間第10主日です。

立場上、いくつかの法人組織で理事や評議員をさせていただいていますが、6月は多くの法人で決算のための理事会や評議員会が開催されます。今週は、そういった理事会や評議員会が目白押しの週でした。そんな中で、5日の水曜日の夜、イグナチオ教会のヨセフホールを会場に、イエズス会社会司牧センターの主催で行われた連続セミナーで、お話をさせていただく機会がありました。テーマはもちろんシノドスです。

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多くの方に参加いただき感謝します。わたしが40分ほど、シノドスの第一会期の体験についてお話しさせていただき、そのあと、6人くらいずつのグループに分かれて、実際に霊における会話を体験しました。今回のシノドスが目指すのは、一朝一夕の改革ではなくて、息が長い、教会の体質改善です。聖霊の導きを共同で識別する教会共同体となっていくことです。これからも地道に、焦ることなく、じっくりと取り組んでいきたいと思います。

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このセミナーはまだまだ続きます。上記のリンクからホームページをご覧になって、ご参加ください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第170回、年間第10主日のメッセージ原稿です。

年間第10主日B

週刊大司教第170回

2024年6月8日

「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」

マルコによる福音は、神の計画とこの世の常識や秩序がすれ違っている様を記しています。ナザレの田舎から出た大工の息子が、30才になった頃に多くの人を前にして神の真理を語り始め注目を浴びるようになったのですから、それまでの30年間を知っている「身内の人たち」は、それを理解することができません。イエスをよく知った彼らにとって、世の常識に従えば、話している内容ではなくて、その行動自体が奇異に映ったことでしょう。

イエスを取り押さえに来た身内の人たちに対して、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」というイエスの言葉は、神の計画がこの世の常識や秩序と全くかけ離れていることを明確に示し、福音の物語は、多くの人がそれを理解することができない様を記しています。

神のみ旨を知り、そしてそれに従い、さらにそれを広めることに、常につきまとうのはこの世の常識との対立であります。もちろん信仰は、この世界に現実に生きている人間の具体的な心の問題であって、フィクションの世界の夢物語ではありませんから、この世の現実を全く無視して成り立つものではありません。同時に、世の常識や秩序を優先させてしまうと、神が望まれる世界とはかけ離れてしまいます。

第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようとつとめる(11)」と記します。

すなわち、教会は社会の現実から切り離された存在ではなく、積極的に社会の現実を識別し、その中に具体的にある神の計画を見極める存在であります。信仰は社会の現実から遊離しているものではありません。

しかし同時に神の計画は、この世の秩序を完全に否定することから始まるわけでもありません。第二バチカン公会議の信徒使徒職に関する教令は、社会の現実の中で生きる信徒の召命について語っていますが、そこにこう記されています。

「世に対する神の計画とは、人々が互いに心を合わせて現世の事物の秩序を打ち立て、これをたえず完成させることである(7)」

教会は、この世の現実を破壊したり、秩序を打ち壊したり否定することではなく、それを神が望む形で完成させる道を選ぶことで、神の御心を実現し、わたしたちが主の家族となる道を歩もうとしています。

教会はいまシノドスの道を歩んでいますが、それは現実と妥協してしまう道ではなく、互いに耳を傾けあい、違いを認め合いながら、ともに現実を神の計画に近づけるように努める道でもあります。

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2024年6月 1日 (土)

週刊大司教第169回:キリストの聖体の主日B

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キリストの聖体の主日です。

わたしたちの信仰生活の中心にあり、あらゆる意味でわたしたちを一致させる秘跡です。わたしたちはご聖体をいただくことで主イエスと一致し、また聖体における主御自身によって一つの共同体に招かれ、同じ主を信じることで一致しています。

キリストの聖体の主日と言えば、キリスト教国においては、神の民の一致を目に見える形で現し、主の現存に感謝し、主と一致することを心に誓い、愛といつくしみに満ちあふれた唯一の神を礼拝するために、大規模な聖体行列が行われます。主御自身であるご聖体が町の中を顕示され運ばれていく中で、その町に住む多くのキリスト者が表に出て、目に見える形で主を礼拝する姿は、信仰の証しとなります。

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キリストの聖体の主日でいつも懐かしく思いだし、また繰り返し掲載してきたのは、上の写真です。わたしが20代後半から30代前半にかけて主任司祭をしていたガーナの教会の、聖体行列です。ご聖体を納めた顕示台は、教会の長老が頭に載せた木の船の中にあります。この地域の部族のチーフが乗り運ばれる輿のミニチュアです(下の写真がチーフを乗せた輿)。住民の半分以上がカトリック信徒であった村ですので、村の中に四カ所設けられた臨時の礼拝所には多くの人が集まり、行列中に一時的に安置されるご聖体を礼拝しました。写真の中で、ご聖体の前にいる侍者の一人はその後司祭となり、いま目黒教会の助任司祭をしています。

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以下、本日午後6時配信、週刊大司教第169回、キリストの聖体の主日メッセージ原稿です。

キリストの聖体の主日B
週刊大司教第169回
2024年6月2日

主イエスは、最後の晩餐において聖体の秘跡を制定されました。主御自身は、その直後にご自分が捕らえられ十字架への道歩むことで、最愛の弟子たちとの別れが迫っていること、そしてその弟子たちがこれから起こる出来事のあまりの衝撃に打ちのめされ、恐れにとらわれてしまうことをご存じでした。まだまだ弟子たちに伝えたいことは多くあったことでしょう。その弟子たちへの思い、そして弟子たちを通じてわたしたちすべてへの思いを込めて、主はパンをとり、「わたしの体である」とのべ、また杯をとって「わたしの血である」とのべられました。主の心持ちは、その次のことば、すなわち、「わたしの記念としてこれを行いなさい」に込められています。「わたしのことばを、わたしの行いを、決して忘れるな」という切々たるものであります。すべての思いを込めて、すべての愛を込めて、主は聖体の秘跡を制定され、愛する弟子たちに残して行かれました。

この主の思いは日々のミサにおいて繰り返され、わたしたちがミサに与り、聖体を拝領するごとに、あの晩、愛する弟子たちを交わりの宴へと招かれた主イエスの御心が、わたしたちの心を満たします。

教皇ヨハネパウロ二世は、「教会にいのちを与える聖体」に、こう記しています。

「教会は過越の神秘から生まれました。まさにそれゆえに、過越の神秘を目に見えるかたちで表す秘跡としての聖体は、教会生活の中心に位置づけられます。(3)」

その上で教皇は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」(9)と記し、聖体が個人的な信心のためではなく、共同体の霊的な糧であることを明示します。

ご聖体は共同体の秘跡です。そもそもミサそれ自体が、共同体の祭儀です。聖体は一人で受けたとしても、共同体の交わりのうちにわたしたちはご聖体をいただきます。それは司祭がひとりでミサを捧げても、個人の信心のためではなく、共同体の交わりのうちにミサを捧げるのと同じであります。ご聖体は、共同体の秘跡です。

教皇様は2025年の聖年のテーマを「希望の巡礼者」とされることを決定され、先日の昇天の主日に、聖年を布告する大勅書「Spes non confundit(希望は欺くことがありません)」を発表されました。その中で教皇様は、教会共同体が時のしるしを読み取り、総合的な人間開発の視点から、人間の尊厳をおとしめるような状況にある人たちにいのちを生きる希望をもたらす共同体であることを求められています。そのために、巡礼というのは、単に個人の信心の問題なのではなく、共同体としてともに歩む中で、教会こそが社会にあって希望を生み出し、歩みの中で出会う人々に希望をもたらす存在となることが重要であると指摘されます。

ともすれば聖年にしても、ご聖体にしても、個人の信心の視点から意味を探ろうとしてしまいますが、今私たちに求められているのは、まさしくシノドス的な教会として、ともに歩むことによって、主の現存を告げ知らせ、希望をもたらす教会となることです。

あの晩ご聖体の秘跡を制定された主は、どのような状況にあっても、いつもわたしたちとともに歩んでくださいます。

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2024年5月25日 (土)

週刊大司教第168回:三位一体の主日B

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聖霊降臨祭の次の主日は、三位一体の主日です。

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東京教区司祭使徒ヨハネ小宇佐敬二神父様が、長年の癌との闘いを経て、5月20日に桜町病院のホスピスで帰天されました。76歳でした。葬儀は5月23日午後、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われ、司祭叙階の同級である関町教会主任の稲川保明神父様が、追悼の説教をしてくださいました。

小宇佐神父様は、岡田大司教様からの依頼で、長年にわたって心のケアを重要な使徒職とされ、心に重荷を抱え社会から疎外された人、様々な理由で社会から疎外されている人への寄り添いに取り組んでこられました。また、東京カリタスの家常務理事として理事長であった岡田大司教様を支え、その発展に大きく貢献されました。

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わたしが東京に任命された6年前には、すでに食道癌との闘いのため、ペトロの家に居住されていましたが、手術や化学療法を経て、車いすから杖を使っての歩行へと回復されているようにお見受けしていました。体調の悪い時にも、車いすで、または杖をつかって、ペトロの家からカテドラルの反対側にある東京カリタスの家まで毎日出かけておいででした。

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写真は一年前、2023年3月の誕生日のものです。今年は誕生日の夕食会をペトロの家で行い、みなに故郷宮崎から取り寄せたステーキをふるまい、その翌日に桜町病院のホスピスに入院されました。

小宇佐神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

わたしたちは、「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を受けますから、わたしたちの信仰は三位一体の神秘の上に成り立ってます。その意味で重要な神秘であると同時に、様々な説明が試みられていますが、唯一の神の三つのペルソナは、それぞれの働きをするとともに等しく唯一の神であるということは、簡単には理解することのできない、それこそ神のいのちの神秘でもあります。

カテキズムには、「三位は一体です。三つの神々ではなく、三者として唯一の神、すなわち、実体として一つである三位の神を、わたしたちは信じています。・・・三つのペルソナのそれぞれが、神的実体、神的本質ないし本性という、同じ状態なのです」と記されています(253)。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第168回、三位一体の主日のメッセージです。

三位一体の主日B
週刊大司教第168回
2024年5月26日

三位一体の主日のミサのはじめに唱えられる集会祈願は、「聖なる父よ、あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、神のいのちの神秘を示してくださいました」と始まります。

すなわち、神のいのちの神秘は、父と子と聖霊の三位のいずれかのみにあるのではなく、父と子と聖霊に等しくあり、それぞれ等しく唯一の神であることが明らかに示されています。神のいのちの神秘は、三位一体の神秘のうちに現されます。だからこそわたしたちは、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授けられます。わたしたちキリスト者の信仰が、三位一体の神秘に基づいているからに他なりません。

「至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的な神秘です。・・・信仰の他のすべての神秘の源、それらを照らす光なのです」と教会のカテキズムには記されています。(234)

御父は、人間からかけ離れた遠い存在ではなく、また厳しく裁きを与え罰する存在ではないことを、パウロはローマの教会への手紙に、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記して教えます。わたしたちは聖霊の導きによって、御子と同じように御父をこの上なく親しく感じる者とされ、その一部ではなくすべてを受け継ぐ者と見なされるのだと、「キリストと共同の相続人」という言葉を使ってパウロは強調しています。

マタイ福音は、三位一体の交わりのうちに生かされているわたしたちに、主は、「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼をさずけ」るようにと命じたと記します。すなわちわたしたちは、全世界の人を三位一体の神秘における交わりに招くように、遣わされています。わたしたちは自分の心の思いや自分の信仰理解を告知する者ではなくて、三位一体の神を告げる使者であります。

わたしたちは、日本だけ単独で生きているのではなく、世界の人々と共にあり、また特に近隣であるアジアの兄弟姉妹と共に生きています。

1998年に開催されたアジアシノドスを受けて発表された教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「アジアにおける教会」に、教会の派遣の使命について、次のような指摘があります。

「教会は、聖霊の促しに従うときだけ自らの使命を果たすことができることをよく知っています。教会は、アジアの複雑な現実において、聖霊の働きの純粋なしるしと道具となって、アジアのあらゆる異なった環境の中で、新しく効果的な方法を用いて救い主イエスをあかしするよう招く聖霊の促しを識別しなければなりません(18)」

その上で教皇ヨハネパウロ二世は、「アジアにおいては非常に異なった状況が複雑に絡み合っていることを深く意識し、『愛に根ざして真理を語り』つつ、教会は、聞き手への尊敬と敬愛を持って福音を告げしらせます。(20)」と記しています。

シノドスの道を歩んでいる教会において、一番大切なことは、互いの声に耳を傾けあい、互いの違いを認識しあい、互いに支え合って歩むことです。アジアの現実における福音宣教は、相手を屈服させ従わせることではなく、「尊敬と敬愛を持って」互いに耳を傾けるところにあります。言葉と行いによる証しを通じて、父と子と聖霊の神のいのちの神秘に、一人でも多くの人が招き入れられるように、耳を傾けあい、支え合いながら、歩んで参りましょう。

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2024年5月18日 (土)

週刊大司教第167回:聖霊降臨の主日B

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聖霊降臨の主日です。この日は、聖母マリアと共にいた弟子たちに聖霊が降り、様々な国のことばで福音がのべ伝えられるようになったと使徒言行録に記されていることから、教会の誕生日とも言われます。

東京教区では、午後からカテドラルで、合同堅信式が行われます。堅信の準備をされてきたみなさん、おめでとうございます。聖霊の豊かな照らしを受けて、成熟した大人の信徒として、共同体においてそれぞれの務めを果たして行かれますように。また主から与えられた、福音宣教の務めを、忠実に果たすものでありますように。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第167回め、聖霊降臨の主日のメッセージ原稿です。

聖霊降臨の主日B
週刊大司教第167回
2021年5月19日

使徒言行録に記されている聖霊降臨の出来事の特徴はいったいなんでしょうか。

まず、聖霊は、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっている」ところで働いています。すなわち、聖霊は単独でひとり一人に他者と無関係に働くのではなく、共同体が一致しているところに働いています。そして、そのときには、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが集まっていた家中に響いた」と記されています。激しい音は周囲にも響き渡り、「この物音に大勢の人が集まってきた」とも記されています。すなわち、聖霊が働いているところには静寂が支配しているのではなく、騒々しさが支配しています。

第二バチカン公会議の教会憲章は、教会に聖霊が与えられたことによって、「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように住み、・・・福音の力を持って教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く(4)」と記します。

重要なのは、聖霊によって生かされ常に刷新されている教会は、聖霊が働いているのですから、決して落ち着いた静かな教会ではあり得ません。騒々しい、落ち着かない教会です。一人でそんなところに取り残されたのなら、耐えきれない騒々しさかもしれません。だからこそ、聖霊は一致して集っている共同体に働くのです。互いに支え合い、助け合い、共に歩む兄弟姉妹がいるところに働くのです。聖霊は教会共同体に、多様性における一致をもたらします。

現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようとつとめる(11)」と記します。すなわち、教会は社会の現実から切り離された隠れ家となるのではなく、積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極めるために出向いていく存在であります。出向いていき、様々な困難な現実と対峙し、そこに神の秩序をもたらそうとするからこそ、常に落ち着かない騒々しさがあるのです。何もせず、平穏無事が支配する静的な共同体は、一見何も問題がなくて好ましく思われますが、もしかしたらそこには聖霊が働いていないがために静けさが支配しているのかもしれません。聖霊の働きと照らしを祈ることは大切です。

昨年10月に開かれたシノドスの第一会期の最終文書は、次のような文章で始まっています。

「一つの霊によって、わたしたちは、……皆一つのからだとなるために洗礼を受け(一コリント12・13)ました。これが、・・・わたしたちが味わった喜びと感謝に満ちた体験です。背景、言語、文化の多様性にもかかわらず、洗礼という共通の恵みによって、わたしたちは、心を一つにしてこの日々をともに過ごすことができました。・・・聖霊がわたしたちに与えてくれたのは、聖霊だけが生み出す方法を知る調和を体験することであり、それは引き裂かれ、分裂した世界におけるたまものであり、あかしです」

シノドスは、霊における会話を通じて互いに耳を傾けることで、妥協による一致ではなく、互いの違いを認識しての一致へと道を歩むよう求めます。教会に働く聖霊は、一部のカリスマのある人にだけ働いているのではなく、皆に違う形で働き、騒々しい常に動きのある共同体を生み出し、同時に共同体のすべての人を等しく一致へと導きます。わたしたちの教会共同体は、どのような共同体でしょうか。

 

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2024年5月11日 (土)

週刊大司教第166回:主の昇天の主日B

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復活祭も終わりに近づき、まもなく聖霊降臨を迎える季節となりました。5月12日は、主の昇天の主日です。本来は木曜日ですが、日本を始め多くの国では主日に移されて祝われています。

イタリアでもいくつかの週日に設定されている教会の祭日や祝日が日曜日に移されることがありますが、バチカン市内では元通りに週日に行われます。そのため、すぐ隣接しているにもかかわらず、バチカン市国領域とローマ市内の教会で、祭日を祝う日が異なったりすることもあります。

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さて今年の4月1日から、東京にある、東京教会管区と大阪高松教会管区が運営してきた神学院と、福岡で産スルピス会に委託して長崎教会管区が運営してきた神学院の二つが、福音宣教省の認可を受けて、「あらためて」統合され、日本カトリック神学院として再出発することになりました。

以前も一度一緒になったことがありますが、そのときは、東京キャンパスと福岡キャンパスを設ける形で、神学生や養成者、そして教員も、東京と福岡を何度も移動することになり、関係者にとっての大きな負担となり、結局、元の二つに戻ってしまっていました。今回改めて、長崎教会管区(九州と沖縄)の司教様たちが話し合い、現実的な視点から神学院統合を決断されましたので、このたび一つになり、名称も、東京カトリック神学院から日本カトリック神学院へ変更しました。

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運営の母体は、日本のすべての司教ですので、今回、初めて、神学院に日本のすべての司教17名が集まり、開講感謝ミサをともに捧げ、一晩泊まって神学生と交流し、そして今朝は午前中、神学院の運営について話し合う神学院司教会議を開催しました。

昨日夕方に行われたミサは、前田枢機卿様が司式され、冒頭で私が司教協議会会長として、福音宣教省の統合の認可宣言を読み上げ、説教は神学院司教委員会の委員長である大塚司教様が担当されました。

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新しく全国からの神学生を迎えて出発する神学院です。そこには明るい一致の雰囲気がみなぎっていました。この霊的な明るさを証しとして、一人でも多くの神学生の召命につながることを祈っています。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第166回目、主の昇天のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第166回
2024年5月12日

頼りにしていたリーダーを突然暴力的に奪われ、絶望に支配されていた弟子たちにとって、復活された主との再会は、新たな希望を生み出しました。使徒言行録は、使徒たちに芽生えたその希望を、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけで明らかにしています。

復活されたイエスは、弟子たちの、いわば現世的な望みに答えるのではなく、復活の命に生かされ希望に生きるものへ、新たな道を指し示します。

マルコ福音は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、復活された主による宣教命令を記しています。同様に主の昇天の模様を詳しく伝える使徒言行録も、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主の弟子たちに対する言葉を記し、昇天された主が、宣教命令を残されたことを明示しています。

新たな命によって生かされる希望の道は、福音を世界の隅々にまで伝える道です。自らが想像された愛すべき命が、すべからく救いに与ることを望まれる御父は、主の復活に与るわたしたちがそのために働くことを望んでおられます。この世界にあって、キリスト者であるわたしたちには、福音を告げしらせ、命の希望の灯火をともしていく務めがあります。教会に与えられた、福音宣教の命令は、すなわちわたしたちひとり一人に与えられた使命です。

第二バチカン公会議の「教会の宣教活動に関する教令」は「教会の使命は、キリストの命令に従い、聖霊の恵みと愛に動かされて、すべての人と民族の前に完全に現存するものとなるとき、初めて遂行される」と記し、さらに「キリストが神の国の到来のしるしとして、あらゆる病気や患いをいやしながら町や村を残らず巡ったように、教会もまた、その子らを通して、どのような状況にあるとしても、人々とくに貧しい人や苦しんでいる人と結ばれ、彼らのために喜んで自分を差し出す」(12)と、福音をあかしすることの意味を教えています。

パウロは教会がキリストの一つの体において一致していることの重要性をエフェソの教会への手紙に記し、「わたしたちひとり一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と、その霊的な一致は賜物の多様性のうちにあることを明示しています。

教会憲章の第32項に、「聖なる教会は、神の制定によって、みごとな多様性をもって組織され統治されている。・・・教会の中では、すべての人が同じ道を進んでいるわけではないが、しかしすべての人が聖性に招かれ、神の義によって、信仰を同等に分け与えられているのである。・・・こうして、多様性の中にあって、すべての人がキリストのからだにおける優れた一致についてあかしを立てる」と記されています。

わたしが20年ほど前に、初めて新潟の司教の任命を教皇様からいただいたとき選んだ司教職のモットーは、ここからとられています。わたしは「多様性における一致」を、この20年間、司教職のモットーとしてきました。

いま教会はシノドスの道を歩んでいますが、まさしく今ほど「多様性における一致」が重要なときはありません。聖霊の導きに耳を塞いだままでいるのか、聖霊の導きに身を任せようとするのか、それぞれの決断が、福音の証し人となるために必要です。

 

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2024年5月 4日 (土)

週刊大司教第165回:復活節第六主日B

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連休中ですが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

私はいつものように執務室で、原稿を書いております。休みのうちに書いておかないと、締め切りや行事に間に合わないものですから、休日で誰もいない教区本部の執務室は、書き物をするのに最適な空間です。

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先日、駐日ガーナ大使であるジェネヴィーブ・エドナ・アパロ大使(上の写真右)が、教区本部を訪れてくださいました。大使はカトリック信徒でもあり、様々な分野に話は及びましたが、本題は、わたしが今年の8月にガーナの神言会から司祭叙階式を依頼されており、8月10日前後に一週間ほどガーナを訪問する予定となっていますので、その訪問についての話でした。8月10日に叙階する新司祭の中に、わたしがかつて主任司祭を務めていた教会の出身者がおり、叙階式を行い、その翌日には出身教会のオソンソン、つまり私が昔いた教会での初ミサに参加することになりました。

なおもしこの機会にガーナを訪れたいという方がおられましたら、近日中に同行旅行団の募集が信徒の運営する旅行会社パラダイスさんから呼びかけられる予定です。日程は8月6日夜発、8月14日夕方帰着の予定で、現地での宿泊は主に教会関係の黙想の家などになりますので、普段の巡礼旅行のようなホテル利用ではありません。その旨ご承知おきください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第165回、復活節第六主日のメッセージ原稿です。なおメッセージも触れている世界広報の日の教皇様のメッセージは、こちらのリンクから、中央協議会のホームページでご覧ください。

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週刊大司教第165回
2024年5月5日

「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」と述べる主イエスは、私たちが自分の知識や好みに従って信仰を築きあげるのではなく、イエス御自身が望まれることを具体的に成し遂げるようにと求めています。信仰は、私たちの都合で作り出す創作物ではなく、具体的に生きておられる主によって与えられるものです。

イエスは福音で、「あなた方が出かけていって実を結び、その実が残るように」、私たちが「互いに愛し」合うことを命じておられます。バーチャルな世界でならまだしも、現実の世界で一人で愛し合うことはできません。「愛し合いなさい」という命令は、具体的に人と関わることを私たちに求めています。ですから教会は、人と人との交わりによる共同体を基礎としているのです。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と呼びかける使徒ヨハネは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしに」なったところに、神の愛が示されていると強調します。すなわち、神の愛は、御子が十字架の上でその身をささげられたほどの、命がけの愛であります。その愛によって生かされているのだから、わたしたちも、口先ではなく、「命がけ」で愛に生きるようにとヨハネは語ります。

「隣人を愛する。友を愛する」と口にするのは簡単です。ひたすら優しくなれば良いというのは、残念ながら思い違いです。単に優しくなることを意味してはいません。イエスが語る「愛」の意味は、イエス御自身が目に見える形で実行されたその行動にあります。十字架です。すべての人の罪を背負い十字架上で命を捧げる。まさしく、命がけの愛であります。それが神の愛の本質です。それは単なる優しさではありません。

さて教会は、復活節第六主日を、世界広報の日と定めています。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、インターネットなどの広報媒体を用いて行う宣教について、教会全体で考え、振り返り、祈り、献金をささげる日です。この日にあたり教皇フランシスコは、「AIと心の知恵:真に人間らしいコミュニケーションのために」というメッセージを発表されています。今年の正月の世界平和の日のメッセージについで、教皇は一般的に広く受け入れられつつあるAIの課題について触れています。

教皇は、「技術は豊かでも人間らしさは希薄なこの時代にあっては、人間の心だけがわたしたちの考察の起点となります」と記し、機械とは無縁な人間の心の知恵の重要さを説きます。その上で教皇は、「取り上げるべきは、機械に人間らしさを要求することではありません。全能という妄想によって陥った催眠状態から人を目覚めさせることなのです。自分は完全に自律した自己言及的な主体で、社会的つながりとは無縁だとして、被造物としての己を顧みない思い込みから目を覚まさせることです」と記します。

「わたしたちは、人間性において、そして人間として、ともに成長するよう求められて」いると指摘する教皇は、神の知恵を求めながら、人間らしいコミュニケーションをとることの必要性を説いています。

私たちにとっても、「自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語り、そしてまさしくそのことばを実行した主イエスと、具体的に現実の中で出会うことが、信仰を豊かにし、また人生を豊かなものとすることでしょう。

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2024年4月27日 (土)

週刊大司教第164回:復活節第五主日B

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桜の季節はあっという間に終わり、季節は夏に向けて歩みを進めています。教会の典礼も、5月19日の聖霊降臨祭に向けて、復活の神秘を思い起こしながら、初代教会の発展の歴史にも心を留め、主の復活によって力強い宣教者へと変えられた弟子たちに倣い、自らの毎日の信仰生活を深めるためにともに歩みを進めます。

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先日、4月21日の日曜日には、午前中に下井草教会の創立75周年ミサが行われました。サレジオ会に司牧が委託されている教会です。下井草教会の皆様、サレジオ会の皆様、おめでとうございます。下井草教会の歴史については、教区のホームページのこちらをご覧ください

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青少年司牧に力を入れているサレジオ会だけあって、侍者をはじめたくさんの若者が集まっていました。ちょうど午前中は天気に恵まれ、聖堂と信徒会館の間の中庭で、祝賀会も行われました。現在の主任司祭はサレジオ会の並木神父様です。

教区ホームページには創立の経緯がこう記されています。

「1948年、時の東京教区長・土井大司教は下井草の地に教会建設を依頼され、サレジオ会に対し3000ドルを寄贈された。サレジオ会はマンテガッツア神父を主任司祭に任命し、新聖堂の建設に着手することとなる。戦後、育英学院付属の小さな聖堂を使用していた経緯もあって、1949年4月17日の復活祭には、東京教区第18番目の教会として認可された。下井草教会は、この日をもって教会創立の日としている。マンテガッツア師が夢に抱いていた願いどおり、新聖堂は「扶助者聖母マリア」に捧げられ(た)」

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また同日午後2時半からは、アンドレア司教様司式で、世界召命祈願の日のミサがカテドラルで捧げられ、コロナ以前のように多くの方が集まってくださり、当日参加した男女の修道者や教区の神学生とともに、召命のための祈りをささげてくださいました。また数年ぶりに、ミサ後の懇親会も復活し、養成を受けている方々など、修道会や神学院の紹介も行われました。司祭・修道者の召命のためにお祈りください。またキリスト者一人一人に与えられている召命を、自覚し、ふさわしく生きていくことができるように、互いに祈りあいましょう。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第164回、復活節第五主日のメッセージ原稿です。

復活節第5主日B
週刊大司教第164回
2024年4月28

日本の司教団は先日、アドリミナの訪問のために、全員でローマに出かけてきました。定期的にローマを訪れ、教皇様を始め聖座に、それぞれの教会についての定期的な報告をすることや、聖座の省庁から指導を受けることもありますが、もう一つ大事なことは、使徒の後継者として、聖ペトロと聖パウロの墓前でミサを捧げ、司教としての務めを果たすことを改めて心に誓うことがあります。

司教にとってそれは、自分たちがどこにつながっているのかを確認することであり、また同時に司教たちを通じて、それぞれの地方教会が、どこにつながっているのかを再確認することでもあります。イスラエルなどの聖地巡礼は、私たちの信仰の原点を思い起こさせますが、アドリミナでのローマ訪問は、教会が普遍教会として世界に広がり、また同時に一つにつながっていることを思い起こさせます。

私たちは、ローマの司教であり聖ペトロの後継者である教皇様につながることで、主イエスによって呼び集められた弟子たちにつながり、今もまた聖霊によって導かれている教会共同体の一員であることを、再確認します。

使徒言行録は、回心したパウロが、当初は彼を迫害の手先として恐れていた弟子たちから受け入れられ、その出来事を通じて教会が、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」言った様を記しています。

神の救いの計画は、人知をはるかに超えた方法をとりながら、成就する道をたどることを、あらためてわたしたちに認識させます。教会は、その始まりから、聖霊に導かれ、人間の知恵を遙かに超える道を歩み続けてきました。教会は、聖霊によって導かれています。。

ヨハネ福音は、主ご自身が、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と指摘された話を記しています。

ぶどうの木である主イエスにつながっている限り、枝である私たちは「豊かに実を結ぶ」ことが可能となります。私たちはぶどうの木の枝として、世界に広がりつながっている教会です。

しかし同時に、その豊かな実の中身がどのようなみのりであるのかは、枝が自由に決めることはできません。すなわち、わたしたちが幹である主イエスに枝としてつながっているのであれば、それは私たちが好ましいと考えるみのりを生み出すためではなくて、主ご自身が望まれるみのりを、主の思いのままに実らせることであります。聖霊の導きのままに、みのりを生み出すことです。

豊かな実りは、主の実りであって、わたしたちの実りではありません。仮に、自分の理想の実現を実りだと考えるのであれば、それは教会に働く聖霊の導きを否定することにつながります。教会が今歩んでいるシノドスの道こそは、わたしたちが一つの幹に連なっている枝であり続けることを、明確に思い起こさせています。わたしたちは、自分の実りではなく、主の実りを生み出す枝でありたいと思います。

 

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2024年4月20日 (土)

週刊大司教第163回:復活節第四主日B

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アドリミナで、わたしもアンドレア司教様もローマに滞在中の4月11日、東京教区司祭団の最長老である澤田和夫神父様が帰天されたとの連絡を受けました。104歳と高齢であり、この数年は介護施設で暮らしておられたものの、教区での様々な機会には車椅子で出席されたり、もう危ないと言われながら何度も神父様特有の自然体でそれを乗り越えてこられた澤田神父様でした。

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わたしがわざわざ語ることもないほど、多くの方に霊的な影響を与え、人生の友となり、語り尽くせぬほどの様々なエピソードを残された偉大な司祭が、一世紀を超える人生の歩みを終え、御父の元へ戻られました。

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葬儀は、わたしが帰国した翌日、4月18日の午後1時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂をいっぱいに埋めた多くの方の参列の中で、執り行いました。アドリミナ後にふるさとに戻られていたアンドレア司教様も、当日の朝に帰国され、葬儀ミサに出席されました。ミサの説教は、洗足教会の山根神父様が、様々な思い出を語りながら担当してくださいました。

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40年ほど前、まだわたしが神学生であった頃、名古屋の神言会の神学院でも、霊性神学の講義を担当していただいておりました。夜行の高速バスで東京からおいでになり、あのいつもの姿に長靴で、早朝に神学院の中をそろそろと歩かれているのを見て、澤田神父様を存じ上げない若い神学生が、不審者が侵入したと勘違いして大騒ぎになったことを懐かしく思いだしました。常に主の現存の前に身をかがめ、ご自分のスタイルを貫き、名声を求めず、淡々と語られる偉大な司祭でした。澤田神父様のこれまでのお働きに感謝しながら、御父が豊かに報いを与え、その御許で永遠の安息を与えてくださることを祈ります。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第163回、復活節第四主日のメッセージ原稿です。

復活節第四主日B
週刊大司教第163回
2024年4月21日

復活節第四主日は、善き牧者の主日です。ヨハネ福音には、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という主イエスの言葉が記されています。

主が羊飼いなのですから、彼に従っているわたしたちはその羊飼いに導かれる羊の群れであります。羊飼いと羊の関係というと、羊飼いが先頭に立って羊の群れを導いている姿を想像しますが、実際の羊飼いは、群れの先頭に立つと言うよりも、少し離れた場所から、時には後ろから、常に見守り、時には正しい方向へ進むようにと追い立てる存在です。

教会における牧者のイメージも、ともすると先頭に立って、「私についてこい」と群れを導く姿を想起しますが、主イエスの語る牧者は、ご自分が賜物としていのちを与えられたわたしたちを、ご自分の羊、ご自分の一部として心にかけ、傍らから見守る存在です。しかもご自分の羊たちを愛するがあまり、その羊のために命をかけるとまで宣言されます。その上で、イエスは、「ひとりの羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことが最終的な目的であるとして、誰ひとり排除することなく、賜物としていのちを与えたすべての人を、自らの群れに取り込むことが神の望みであることを明示します。

良い羊飼いである主イエスは、「私は自分の羊を知っている」といわれ、同時に「羊も私を知っている」と断言されています。果たしてわたしたちは、主を知っているでしょうか。どこで主と出会ったでしょうか。日々の生活の中で出会う人、とりわけいのちの危機に直面している人、人間の尊厳をないがしろにされている人、忘れ去られている人のうちにこそ、主はおられます。

教会はこの復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りを捧げる日としています。東京教区では、この主日の午後、教区の一粒会が主催して、東京カテドラル聖マリア大聖堂で召命祈願ミサが捧げられます。

召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまりません。キリスト者すべての召命についても考える必要があります。司祭・修道者の召命のために祈ることは重要ですが、同時に信徒の召命が生かされるように祈ることも重要です。

わたしたちは就職活動や求職活動のように、召命を人間が生み出すことはできません。それは神からの賜物です。召命は、神からの呼びかけです。あの日、ガリラヤ湖の湖畔で、イエスご自身が声をかけられたように、徹頭徹尾、神からの一方的な呼びかけです。主イエスは、常に呼びかけておられます。私たちに必要なのは、その呼びかけに耳を傾け、前向きに応える勇気を、多くの人が持つことができるよう、祈りをもって励ますことであります。ですから祈りましょう。召命が増えるようにではなくて、主からの呼びかけに応える勇気を持つ人が増えるように祈りましょう。

呼びかけておられる善き牧者、主イエスと出会いましょう。わたしたちは教会共同体の中で、ミサにともに集う中で、告げられる御言葉のうちで、生け贄として捧げられる御聖体のうちに、そこにおられる主と出会います。困難に直面する人、忘れられた人、助けを必要とする人との関わりの中で、小さな人々の一人一人のうちにおられる主と、出会います。主はいつも呼びかけておられます。

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2024年4月 6日 (土)

週刊大司教第162回:復活節第二主日B

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復活節第二主日は神のいつくしみの主日です。

メッセージの中でも触れていますが、日本の司教団は4月8日から13日まで、定期的な聖座訪問「アドリミナ」のために、全員がローマに出かけます。もちろん様々な理由から、全員が一緒に飛ぶことはありませんが、この数日以内に、日本の現役のすべての司教はローマに集合し、バチカンの各省庁を訪問して意見交換をし、さらに教皇様と謁見して、日本の教会についての報告をしてきます。

また滞在中には、省庁訪問や教皇様との謁見だけでなく巡礼の要素もあり、特にペトロとパウロの墓前で司教団はミサを捧げます。

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私にとっては、2007年のベネディクト16世教皇、2015年の現フランシスコ教皇と、三回目のアドリミナになります。上の写真は、その2015年のアドリミナに参加した日本の司教団ですが、よく見るとそのときから9年で、現在の司教団の顔ぶれは大きく変わっていることが分かります。この写真に写っている2015年当時の日本の司教団は16名ですが、そのうち、すでに10名が引退され、そこには新しい司教様が任命されています。一口に「日本の司教団」と言ったとしても、その顔ぶれは10年くらいでガラリと変わっているものです。

アドリミナに出かけている日本の司教団のため、また教皇様のために、どうぞお祈りください。お願いいたします。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第162回、復活節第二主日のメッセージ原稿です。

復活節第二主日B
週刊大司教第162回
2024年4月7日

ヨハネ福音は、主が復活された日の夕刻、まだ何が起こったかを理解していない弟子たちが、恐れのうちに隠れてしまっている様を伝えています。もちろん自分たちのリーダーを殺害した人々の興奮への恐れもあったでしょうし、同時に、見事にイエスを裏切り見捨ててしまったことへの自責の念もあったことでしょう。

その弟子たちの真ん中に現れたイエスは、弟子たちの心の闇を打ち払うように、平和を告げます。平和は神が定められた秩序が完全に存在する状態です。神との完全な交わりのうちにある状態です。すなわちここで、イエスは神がいつくしみそのものであり、常に神との完全な交わりへと招き続け、見捨てることはないことを明白に示します。神のいつくしみに完全に包み込まれていることを知ったとき、弟子たちの心の暗闇は打ち払われました。

復活節第二主日は、「神のいつくしみの主日」です。1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」に、教皇ヨハネパウロ二世は、「(神の)愛を信じるとは、いつくしみを信じることです。いつくしみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(7)と断言されています。

教皇フランシスコは、2015年12月8日から一年間を、「いつくしみの特別聖年」と定められ、神のいつくしみについてあらためて黙想し、それを実行に移すようにと招かれました。

その特別聖年の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」には、「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父のいつくしみを現さなければなりません」(12)と記されていました。

わたしたちはいま、世界の各地で、いのちの危機に直面し、暗闇の中で恐れに打ち震えています。どこへ向かって歩みを進めれば良いのか分からずに、混乱した世界で生きています。そのわたしたちに、常に共にいてくださる主イエスは、わたしたちの直中に立ち、「あなた方に平和があるように」と告げながら、わたしたちをそのいつくしみで包み込もうとされています。復活された主は、わたしたちの具体的な愛の行動を通じて、世界に向かって平和と希望を告げしらせようとしています。「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命が」あります。

不安に打ち震える社会の中で教会が希望の光となるためには、キリストの体である教会共同体を形作っているわたしたち一人ひとりが、いつくしみに満ちあふれた存在となる努力をしなければなりません。

明日4月8日から13日まで、日本の司教団は全員で、アドリミナの訪問のためにローマを訪れています。アドリミナとは、世界中の司教団が、定期的に聖座を訪問し、ペトロの後継者である教皇様に謁見して教会の現勢について報告をし、聖座の各省庁を訪問して情報交換するために行われます。さらには教会の礎を築いた二人の偉大な使徒、聖ペトロと聖パウロの墓前でミサを捧げ、サンタマリアマジョーレとラテランの両大聖堂にも巡礼します。前回は2015年でした。ローマを訪問している日本の司教団のために、また教皇様のために、お祈りください。

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