カテゴリー「週刊大司教」の18件の記事

2021年3月 6日 (土)

週刊大司教第十八回:四旬節第三主日

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残念ながら、緊急事態宣言は二週間ほどの延長となりました。このままですと、なんとか聖週間は典礼が行えるだろうと想定しています。すでにお知らせしていますし、同様のお知らせは8日の月曜日小教区に送付しますが、現在の感染症対策をこのまま継続します。現在の対策の一覧は、教区のホームページのこちらです

また聖週間の典礼については、すでに教区の典礼担当者(4月以降の教区典礼委員会)から、主任司祭宛にガイドラインを送付しています。基本的にそれぞれの小教区における典礼の最終責任者は主任司祭ですので、主任司祭の指示に従うようにお願いしたいのですが、行列の中止や洗足式の中止、また歌唱部分の変更など、いつもとは異なる聖週間の典礼となります。ご協力をお願いいたします。

教皇様は昨日3月5日から8日まで、教皇として初めてとなるイラクの司牧訪問中です。教皇様のため、またイラクの方々のためにお祈りください。

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以下、本日夕方公開した、週刊大司教のメッセージ原稿です。

四旬節第三主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第18回
2021年3月7日
性虐待被害者のための祈りと償いの主日

いのちは神の賜物であると、わたしたちは信じています。神から与えられたいのちの尊厳を守ることは、わたしたちの務めです。残念ながらその務めの模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という、いのちの尊厳を辱め蹂躙する行為におよんだ事例が、世界各地で、過去長年にさかのぼって報告されています。

またわたしたち司教をはじめとした教会の責任者が、事実を隠蔽した事例も、各地で明らかになっています。日本の教会も例外ではありません。

被害者が未成年や子どもであった場合、その事実を公にできるまでには、深い苦しみと大きな葛藤があり、充分な時間が必要です。何十年も経ってから、その事実を公にされた方も少なくありません。そのような深い苦しみと大きな葛藤を長年にわたって強いたにもかかわらず、教会の対応が全く十分とは言えないことを含め、被害を受けられた多くの皆様に、心からお詫びいたします。

教皇フランシスコは、教会全体がこの問題を直視し、その罪を認め、ゆるしを願い、また被害にあった方々の尊厳の回復のために尽くすよう求め、特別な祈りの日を設けるようにと指示されました。日本では、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を、四旬節・第二金曜日と定めました。今年は、去る3月5日です。東京教区では、今日の主日にも祈りをささげています。

出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いのちの福音」にはこう記されています。
「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

今回の感染症に直面する中で、教会が選択した公の活動の停止という行動は、後ろ向きな逃げるための選択ではなく、いのちを守るための積極的な選択でした。それはカテキズムにも記されているとおり、まさしく「殺してはならない」という掟が、他者をいのちの危機にさらすことも禁じているからであり、それはすなわち、「隣人を自分のように愛せよ」という掟を守るためでもあります。

人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。いのちを賜物として大切にしなければならないと説くわたしたちは、その尊厳を、いのちの始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。

教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージにこう記しています。
「愛は、他の人がよい方向に向かうのを見て、喜びます。だれかが孤独、病気、住む場所のない状態、侮辱、貧困などによって苦悩していれば、愛も苦しむからです。愛は心の躍動であり、それがわたしたちを自らの外へと出向かせ、分かち合いと交わりのきずなを築くのです」

イエスは神殿が、その本来の目的と異なるあり方をしていることに怒りを表されました。神が与えてくださったいのちが、神が望まれる生き方をすることが出来るように、その尊厳が守られるように、愛に満ちあふれた存在であるように、努めていきたいと思います。

 

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2021年2月27日 (土)

週刊大司教第十七回:四旬節第二主日

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東京は坂が多いところだと、つくづく思います。アップダウンが結構激しい。東京カテドラルのある関口も丘の上ですから、例えば地下鉄の駅を出てからカテドラルに向かうと、有楽町線の江戸川橋駅でも護国寺駅でも、どちらから来ても、だらだらと長い坂を上ることになります。

今朝ほど所用で、後楽園にある文京区役所へ。天気も良かったので、関口から音羽通りの「谷」へ歩いて下り、大塚警察からお茶の水女子大学の横の「丘」を登り、茗荷谷の駅まで20分ほどの散歩。そこから丸ノ内線の地下鉄で後楽園駅まで。この区間は、地下鉄とはいえ、見事に地上の鉄道です。

後楽園駅は地下二階で文京区役所とつながっています。到着したときはそれほど感じなかったものの、所要を済ませて帰り道。地下二階の連絡通路から後楽園駅に入り、ホームに向けて、ひたすら上る。写真の通り、丸ノ内線のホームは隣の文京区役所の地上二階あたりです (文京シビックホールと隣接のビルが区役所)。「地下鉄」の改札を入ってから、なんとなく常識的に下へ降りる階段を探してしまいますが、ホームへは上りの階段。連絡通路からは四階分を上ります。鉄道はなるべく高低差を設けないで進みますから、それだけこのあたりの地形がアップダウンしているわけで、茗荷谷から後楽園に向けて、かなりの谷になっているんですね。東京は、坂が多い町です。

さて、緊急事態宣言は、東京都と千葉県ではまだ解除になりません。したがって、現在の教会活動における感染症対策は、現状の通り継続します。それぞれの時点での東京教区の対応は、一覧を教区ホームページに掲載しています。教区ホームページの一番上に、常に現時点での対応へのリンクのバナーが掲示されています。こちらのリンクをご覧ください

3月7日に解除になることを期待しつつ、解除された場合には、その時点での新たな対応について、別途お知らせいたします。

コロナ禍になって以来、オンラインでの会議が当たり前になりました。Zoomなんて手段、一年前までは名前も知りませんでした。日本の司教協議会関連の会議も、このところオンラインですが、海外との会議もオンラインになりました。国内も海外も、実際に移動しなくて済むのは良いのですが、海外の場合は参加者の時差があり、どこの時間に合わせて行うかが、今度は難しい調整になります。また物理的に移動する必要がないので、立て続けにさまざまな会議が続いてみたりして、自分の事務室の机の前に、朝から晩まで張り付いている羽目になることもしばしばです。

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オンラインで会議が淡々と進行するのは良いのですが、そして時間の節約にもなっていますが、やはり実際に会って話をすること、休憩時間に一緒にお茶をいただくことの大切さを感じています。そんな休憩のときに、それまで懸案となっていた事案が思いの外解決したりすることをこれまで何度も体験してきたので、やはりオンラインだけですべてはすませられないとも感じています。写真は、数日前のFABC(アジア司教協議会連盟)のオンライン会議参加者の一部です。

以下、本日夕方公開の週刊大司教第17回目のメッセージ原稿です。

四旬節第二主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第17回
2021年2月28日

イエスは常に歩み続けます。権威をもって教え、人知を遙かに超える奇跡を行い、多くの人から賞賛を受けていても、その賞賛の場に留まることなく、さらに多くの人に神の福音を宣べ伝えるために、旅を続ける方です。

本日のマルコ福音は、旅路を歩むイエスが、三人の弟子たちの前で光り輝く姿に変容した出来事を伝えています。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、驚きのあまり何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を建てることを提案したと福音は伝えます。ペトロは、その輝かしい神の栄光の場に留まり続けることを望みました。しかしイエスは歩み続けます。福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。律法と預言書、すなわち旧約聖書は、神とイスラエルの民との契約であり、信仰と生活の規範でありました。そこに神の声が響いて、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と告げたと記されています。イエスこそが旧約を凌駕する新しい契約であることを、神ご自身が明確にしました。

創世記は、神からの試練の内にあるアブラハムの姿を記します。イサクを献げるようにと言う、神からのいわば無理な要求です。アブラハムは、今の安定に留まることなく、神に従って前進することを選びます。アブラハムの人生は、安定に留まらず、常に挑戦しながら旅を続ける人生でした。その生き方を、神は高く評価しました。

信仰は、常なる挑戦へと旅立つことをわたしたちに求めます。この世でその挑戦が完成することはないでしょう。しかしそれは、ただ闇雲に前進する旅ではなく、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と神ご自身が宣言された主イエスの言葉に導かれながら歩む旅路です。

四旬節にあたり教皇フランシスコはメッセージを発表されています。今年のテーマは、マタイ福音20章18節からとられた、「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく」とされています。

教皇は、歩み続ける姿勢を、いま見直すようにと呼びかけ、こう記します。

「四旬節は信じる時、つまり神をわたしたちの人生に迎え入れ、わたしたちと一緒に『住んで』いただく時です。・・・四旬節の間、わたしたちは『人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう』、いっそう気をつけなければなりません」

その上で教皇は、「愛は、一人ひとりを気づかい思いやりながら、キリストの足取りをたどって生きることであり、わたしたちの信仰と希望の至高の表現です」と指摘します。

四旬節に信仰を見直すよう、わたしたちは求められています。原点に立ち返ることが求められています。イエスと歩みを共にしているのか、その言葉に耳を傾け、共に旅路を歩んでいるのか、見直すことが求められています。

今年は、1981年2月23日から26日に、教皇ヨハネ・パウロ二世が教皇としてはじめて日本を訪問されてから40年となります。広島や長崎で平和を求める姿勢を力強く表明された教皇は、東京のミサでも平和を語りました。

「平和は人間の心の貴重な宝です。平和は正義の実りです。平和はまた愛の実りです。・・・キリストが私たちに人々との平和を保つ力を与えてくださいますように」

イエスに倣って、愛の実りである平和を実現することが出来るように、主とともに挑戦し続ける旅路を歩みましょう。

 

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2021年2月20日 (土)

週刊大司教第十六回:四旬節第一主日

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2月17日は灰の水曜日でしたから、四旬節が始まりました。第一主日のメッセージです。

四旬節には、祈り、節制、愛の業が勧められています。その三つを具体的に行動で現すのが、四旬節愛の献金です。カリタスジャパンが毎年とりまとめていますが、これは通常のカリタスがお願いする募金とは異なり、「祈り、節制、愛の業」を具体的に生きる行為であることを心にとめてください。四旬節献金は、世界各地で必要とされている方々のいのちを守り育むための活動に活用されていきます。教皇様のメッセージと併せて、詳細はこちらのカリタスジャパンのホームページをご覧ください

なお、教皇庁典礼秘跡省から、昨年に引き続き、聖週間の典礼について指示が送付されてきました。すでに東京教区の典礼担当でまとめた内容と同じでしたので、小教区の主任司祭にはガイドラインを配布してあります。昨年は聖週間の典礼は非公開でした。今年は、現状であれば、感染対策の上で入場制限を行って典礼を行うことは可能であろうと判断しています。もちろん、状況が悪化した場合は別途判断いたします。

行政の緊急事態宣言が解除となった時点で、あらためてその時点以降の感染対策についてお知らせしますが、聖週間の典礼は、バチカンの指示に準拠して、かなり例年とは異なる形になります。特に行列を行う場面はすべて中止となり、また洗足式なども行いません。またやはり全員での一斉の歌唱は難しいと思いますが、聖歌隊など少人数での歌唱が可能となる状況であるように期待しています。

2月28日の日曜日には、ヨハネパウロ二世の訪日40年の記念ミサを、ポーランド大使館の主催で、カテドラルで行う予定でした。残念ながら、これもまた延期となりました。40年前、わたし自身はまだ神言修道会の修練士(ノビス)でしたが、東京カテドラルで行われた聖職者の集いに、他の修練士と一緒に参加することが出来ました。その時点では、まさかその同じ教皇様に、20数年後に新潟の司教に任命されるとは思ってもみませんでした。今のように携帯電話などない時代でしたので、集会後の大混乱の中で、一緒にマイクロバスで名古屋から来ていた修道会の仲間と落ち合うのに、難儀したことを記憶しています。聖ヨハネパウロ二世の訪日については、中央協議会のこちらをご覧ください。また同じ中央協のページで、当時の写真はこちらです

なお、東京教区の人事異動の第一次を発表してあります。今年は、これまでも感染症の状況のため、小教区活動がほとんど滞っている現状を考慮して、教区に関しては、通常の御復活での人事異動を最低限といたしました。今後、状況に応じて9月頃にもう一度小規模な人事異動を考えております。ただし教区内で働かれる修道会関係では動きがありますので、これも随時、公示いたします。

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以下、本日夕方公開の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

四旬節第一主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第16回
2021年2月21日

イエスは聖霊によって、荒れ野へと送り出されました。普通に生活を営むことが難しい場であるからこその荒れ野です。そこにはいのちを危機に陥れるありとあらゆる困難が待ち構えていると、容易に想像できるにもかかわらず、イエスは聖霊の導きに身をゆだねました。

イエスは40日にわたって荒れ野に留まり、サタンの誘惑を受けられました。逃げ出すことも出来たのかも知れません。しかし聖霊の導きに信頼するイエスは、御父への信頼のうちに希望を見いだしていました。

イエスは荒れ野での試練の間、人の命を脅かす危険に取り囲まれていながら、天使たちに仕えられていたと記されています。すなわち神の愛に基づく配慮に包み込まれることによって、命の危険から守られていました。

福音を宣べ伝えるための「時」が満ちるのを待ち続けたイエスは、信仰の内に真理を受け入れ、神の導きに身をゆだね、その導きの内に希望を見いだし、それが故に神の愛に包まれていました。荒れ野での40日間の試練は、身体的な困難を乗り越えただけではなく、また心の誘惑に打ち勝っただけではなく、神に対する信仰、希望、愛を確認し、それを確信し、それによって力を得た体験です。信仰、希望、愛に確信を見いだしたとき、イエスは福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見いだしました。

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この一年、わたしたちは命の危機に直面する中で、信仰の危機にも直面しています。今この時点でも、命を守るために取り組んでおられる医療関係者の皆さんに感謝し、また病床にある多くの方のためにお祈りいたします。わたしたちの信仰生活の頂点には、感謝の祭儀があります。

「聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されていますから、ミサにあずかることと、聖体を拝領することは、わたしたちの信仰生活にとって欠くべからざる重要なことであります。共に集う共同体のない信仰は、考えられません。

いま、集うことや共に聖体祭儀に与ることが難しい状態にあります。自分自身の感染を避け、また隣人の命を守るための選択ですが、共同体を解散したわけではありません。互いの信仰の絆が消え去ることはありません。困難な試練の時にあっても、聖霊の正しい導きを共に識別し、それに信頼し、その正しい導きに身をゆだねましょう。さまざまな甘言を弄する誘惑に惑わされないようにしましょう。聖霊の導きの内に、命の希望を見いだしましょう。互いの信仰の絆の内に、御父の愛を見いだしましょう。信仰、希望、愛に信頼を置き、勇気を持って福音を告げてまいりましょう。

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四旬節の始まりに当たり、教会は第一主日に洗礼志願式を行うように勧めています。それは、キリスト者として生きることを望み、そのための学びと祈りの時を過ごしてきた方々が、洗礼への最後の準備をするために最もふさわしいのが、四旬節だからです。

四旬節にわたしたちは信仰の根本に立ち返り、何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどのように生きるのかを見つめ直すよう招かれています。

したがって、洗礼を望まれる方々が信仰における決断を下そうと最終的な準備をするとき、教会共同体も洗礼志願者と一緒になって信仰を振り返る道を歩むことは、わたしたちの教会が徹頭徹尾「共同体」であることを考えたとき、ふさわしいことです。それぞれの教会共同体で洗礼の準備をされている洗礼志願者の方々のために、特に祈りをささげましょう。

 

 

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2021年2月13日 (土)

週刊大司教第十五回:年間第六主日

日本のカトリック司教団は、一年に三回、総会を開催しています。そのうち、12月に開催される臨時総会は一日だけで、基本的には翌年の予算の承認を目的としていますが、それ以外の二回は、月曜から金曜までの日程を組んであり、さまざまな議題が話し合われます。現在は2月を定例、7月を臨時と呼んでいます。司教団と言えば、何か年中集まっていろいろと話し合っているように思われているのかも知れませんが、全員が集まって議論するのは年にこの三回だけです。「司教団」の名前で発表するメッセージなどは、すべての司教の賛同が必要ですから、つまりはこういった年に三回の総会の機会にしか決議されません。

今年は2月15日からの5日間、定例司教総会が開催されます。司教たちの集まりの上に、聖霊の働きをお祈り下さい。なお今年の総会は、現状に鑑み、オンラインで行われることになりました。

なお、2月17日は灰の水曜日で、四旬節が始まります。例年の通り、カリタスジャパンによって教皇メッセージを含めたカレンダーや、四旬節愛の献金の封筒などが準備されています(リンクはカリタスジャパンです)。灰の水曜日は、関口教会のミサが朝7時、午前10時、午後7時と三回行われますが、夕方午後7時のミサは大司教司式ミサといたします。また灰の水曜日は、大斎と小斎の日です。大斎と小斎の解説については、こちらのリンクを。そこに記されているとおり、大斎に関しては、「満18歳以上満60歳未満の信者が守ります」と定められたいます。

以下、週刊大司教第十五回のメッセージ原稿です。

年間第六主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第15回
2021年2月14日

マルコ福音は、重い皮膚病を患っている人の、イエスによる奇跡的な治癒の物語を記しています。

主イエスによる病者のいやしは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その出来事が神の栄光を現していることは忘れてはなりません。しかし、同時に、さまざまな苦しみから救い出された人の立場になってみれば、それは人と人との繋がりから排除されてしまったいのちを、いやし、慰め、絆を回復し、生きる希望を生み出した業であります。孤独の中に取り残され孤立し、暗闇の中で不安におののくいのちに、歩むべき道を見いだす光を照らし、そのいのちの尊厳を回復する業であります。パウロはコリントの教会への手紙で、「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と勧めていますが、イエスによる病気のいやしという業こそ、その業の偉大さの故に、そして神が与えられた最高の賜物であるいのちの尊厳を明らかにしているが故に、まさしく「神の栄光を現す」わざと言えるでしょう。

本日の朗読にある創世記は、いのちという賜物を最初に与えられた二人の人間の関係性について語っていますが、その前提は同じ創世記2章18節に記されている、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という創造主の言葉であります。

すなわち創造主から与えられたいのちは、互いに支え合い、助け合って生きることこそが、本来のあり方であります。いのちは関係を絶たれて孤立のうちに忘れ去られるべき存在ではないが故に、失われた関係性を回復し、排除された者を本来のいのちのあり方へと引き戻すことが、いのちの与え主である神が病のいやしを通じてなさったことでありました。

ちょうど数日前、2月11日は世界病者の日でありました。この日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた奇跡的出来事を記念する日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。わき出る水は、ルルドの地で、また世界各地で病気の治癒の奇跡を起こすことがありますが、それ以上に、病気によって希望を失った多くの人たちに、いのちを生きる希望と勇気を生み出す源となっています。その希望と勇気は、この世のいのちを生きる力ともなり、また同時に、永遠のいのちの約束の内に、いのちの与え主である神との繋がりを再確認させる招きともなっています。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に2月11日を世界病者の日と定められました。教皇は、病気で苦しんでいる人たちのために祈りをささげるように招くと共に、医療を通じて社会に貢献しようとする多くの医療関係者や病院スタッフ、介護の職員など、いのちを守るために尽くすかたがたの働きに感謝し、彼らのためにも祈る日とすることを呼びかけました。特に今年は、感染症が続いている中で、それに起因する不安のために、感染者や医療関係者への差別的言動が見られるとも聞いています。いのちを守る立場からは、決してあってはならないことです。

わたしたちは、日頃から主の祈りの中で、「みこころが天に行われるように、地にも行われますように」と唱えています。福音でイエスを前にした病人が、「御心ならば」と治癒を願ったように、わたしたちも心と体を束縛しふさわしい関係性を断ち切ろうとする鎖から解放してくださるように願いたいと思います。賜物であるいのちが、御心のままに生かされますように。

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2021年2月 6日 (土)

週刊大司教第十四回:年間第五主日

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あっという間に今年も2月となりました。東京教区の管轄する東京都と千葉県に発出されていた緊急事態宣言は、3月7日まで延長となりました。

報道によれば『首相は衆参両院の議院運営委員会で、延長に関し「全国の新規感染者数は減少傾向にあるが、今後もこの傾向を継続させ、入院者数や重症者数を減少させる必要がある」と説明』したとのことです。(東京新聞2月2日)

確かに毎日報道される新規の感染者数は減少していますが、この数週間、亡くなられる方、特に高齢の方が増えているのが気になります。教会はこれまで通り、できる限りの感染対策を続けますし、対策に困難がある場合は、それぞれの小教区の判断でミサの公開を中止にします。

2月の初めは、大切な祝日が続きました。

2月2日は主イエス誕生40日目に神殿に奉献されたことを記念する「主の奉献」の祝日です。福音朗読にはシメオン讃歌が記されていますが、この中に「異邦人を照らすまことの光」と幼子がいったい誰なのかを明確に示す言葉あります。このことから伝統的に、この祝日にはロウソクの祝別が行われてきました。またキャンドルサービスの原型ともいわれるロウソク行列が行われる伝統のある国もあります。典礼書の規範版には祝福とロウソク行列の式文が掲載されていますが、翻訳されていないため行われることが少ないのですが、新しい翻訳が出来るときには含まれている予定です。

その翌日2月3日は聖ブラジオの祝日ですが、この日に伝統的に喉の祝福をする国もあります。ちょうど冬で風邪がはやる時期でもあるので、日本でもやってみたらどうだろうと思います。女子パウロ会のホームページに聖人カレンダーがあり、簡略な聖人伝が記されていますが、そこには聖ブラジオの逸話が次のように記されています。

「あるとき、幼い息子を持つ母親が現れ、子どもの喉に引っかかった魚の骨を取り除いてくれるように、ブラジオに願った。ブラジオの祈りによって、子どもは咳をし、喉から骨が出てきた」

ただし、現在この日は日本では、福者ユスト高山右近の記念日となりました。そして2月5日は日本26聖人の記念日です。1597年2月5日に、長崎の西坂で殉教した26名の聖人は、迫害のなかにあっても勇気を持って信仰を守りました。現代に生きるわたしたちに、信仰に生きるとはどういうことなのかを、問いかけています。

例年であれば、その日に近い日曜日は、本所教会で殉教祭が行われ、わたしも出かけていってミサを捧げるのですが、残念ながら今年はこの状況で、中止となりました。一番上の写真は昨年の26聖人殉教祭で撮影した、本所教会です。下の写真は、ローマ郊外、チビタベッキアにある日本26聖人記念聖堂。壁画は長谷川路可によるものです。

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以下、本日夕方に配信した週刊大司教十四回目のメッセージ原稿です。

年間第五主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第14回
2021年2月7日

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」

先週のマルコ福音は、神の真理に裏打ちされた権威ある言葉を語るイエスを伝えていました。今週のマルコ福音はその続きです。先週と同じようにイエスは「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」と記されていますから、権威を持って言葉を語り、人々が驚くような業を行っています。弟子となったシモンのしゅうとめの熱をさらせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取り憑かれた人をいやしていったと記されています。

マルコ福音がこの話を通じて描こうとするイエスの姿は何でしょうか。もちろん先週と同様、権威あるイエスの姿であるとも言えますが、それ以上に、イエスの愛といつくしみをこの行いは象徴しています。マルコ福音が「病人や悪霊に取り憑かれた者」と記す人たちは、さまざまな困難を抱え、人生を、いのちを生きることに希望を見いだすことが出来ずにいる人たちです。神の愛といつくしみそのものであるイエスは、そういった人々を目の前にしたとき、放置しておくことは出来なかった。いのちをより良く生きることを阻んでいる悪にとらわれている人たちを、解放しました。

イエスは真理に裏付けられた権威ある言葉を語る強い存在であると同時に、あふれんばかりの神の愛といつくしみを体現する存在でもあることを、マルコ福音は伝えています。

パウロはコリントの教会への手紙で、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。なんとかして何人かでも救うためです」と記し、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と宣言しています。

イエスや、それに倣うパウロの姿勢は、高いところから教え導くのではなく、困難を抱え希望を失っている人たちのところへ出向いていき、なんとしてでも神の救いの希望に与ることが出来るようにと手を差し伸べる姿勢です。教皇フランシスコは、そのことを、「出向いていく教会」という言葉で表しています。だからこそイエスは、一つのところに留まって、褒め称えられるのではなく、ひとりでも多くの人に生きる希望を生み出すために、村々を巡って「出向いていく」のです。

教皇フランシスコは使徒的勧告「愛のよろこび」にこう記しています。
「大切に思っている人それぞれを、神のまなざしをもってじっくりと見つめ、その人の中におられるキリストに気づくことは、深い霊的体験です。・・・イエスは模範でした。誰かが話そうとして近づくと、イエスはその人にまなざしを据え、愛をもってじっとご覧になったのです。イエスの前でないがしろにされていると感じる人はいません」(323)

昨年来、感染症の困難の中で、さまざまな側面での生きづらさを抱えておられる方が少なくありません。病気だけでなく、経済や職業や法的身分など、さまざまな側面で困難を抱え、人生を、いのちを生きることに希望を見いだすことが出来ずにいる方、不安の内に生きておられる方がおられます。わたしたちは、イエスのまなざしで「じっくりと見つめ、その人の中におられるキリストに気づく」者でありたいと思います。いのちの希望を生み出すため、ひとりでも多くの人に救いをもたらすため、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と宣言したパウロに倣って、わたしたちも必死になって福音に生き、福音をあかしし、福音を伝えてまいりましょう。

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2021年1月30日 (土)

週刊大司教第十三回:年間第四主日

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本日のメッセージでも触れていますが、1月最後の主日は、「世界子ども助け合いの日」とされています。(写真は、ダンスで賛美を表現するガーナの子どもたち。2010年)

この日は、「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。この日はまず第一に、子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金をささげます。毎日のおやつや買いたいものなどを我慢してためた子どもたち自身のお小遣いの中から献金することが勧められています。日本では、各教会だけでなく、カトリック系の幼稚園や保育園の大勢の子どもたちがこの日の献金に協力しています」と、中央協議会のホームページに説明されています。現在、日本の教会の担当責任者は教皇庁宣教事業の日本の責任者である立川教会の門間神父様です。

この日の献金は、全世界からローマの福音宣教省に集められ、世界各地の子どもたちのために活用されています。門間神父様によれば、昨年のこの献金日に、日本の教会の「皆さまから寄せられた献金総額は47,541,928円でした。今年は、ブルンジ、ガーナ、ザンビア、ナイジェリア、リベリア、タンザニア、バングラディッシュ、インドの各国に合計43,742,881円を援助」したということです。

今年のテーマは、「あかしする子どもたち」とされています。ポスターや趣旨など、詳細は、こちらの中央協議会のホームページをご覧ください。

以下、本日土曜日の夕方に公開した、週刊大司教第十三回目のメッセージ原稿です。

年間第四主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第13回
2021年1月31日

インターネットが普及した現代社会で、わたしたちはあふれかえる言葉の中で生きています。感染症対策のために直接出会う機会が減少しているとは言え、インターネットが直接語り合うにしても、文字でコミュニケーションを図るにしても、多種多様な手段を提供しています。

毎日浪費されるようにあふれかえる言葉には、心の叫びの言葉もあれば、何気なく発信される薄っぺらな言葉もあります。真実を語る言葉もあれば、でたらめな言葉もあります。いのちを生かす言葉もあれば、いのちを奪う言葉もあります。希望を生み出す言葉もあれば、闇に引きずり込む言葉もあります。言葉は、それが前向きであろうと後ろ向きであろうと、ひとたび発信されてしまうと、他者に対してなんらかの影響を及ぼす力を秘めています。

2018年の世界広報の日メッセージでしたが、教皇フランシスコはフェイクニュースのもたらす影響について指摘をされました。その中で、「フェイクニュースは、不寛容で過敏な姿勢の表れであり、それによって広まるのは傲慢さと憎しみだけです。これこそが嘘が最終的に行き着く先です」と述べ、さまざまな局面で顔を覗かせるフェイクニュースの危険性に警鐘を鳴らされました。

わたしたちが社会全体に対して広く自由に発信をする手段を持たなかったかつての時代にあっても、いわゆる「うわさ話」が社会生活に大きな影響を及ぼしたり、命に関わる結果を生み出した事例がありました。今や誰でもいつでも、世界中に対して自らの言葉を発信できる時代となり、時に、何気なく発信した言葉ですら、後ろ向きな結果を生み出すこともあり得ます。

わたしたちが発する言葉には、わたしたち自身の存在がその背後に隠されています。わたしたちが発する言葉は、わたしたちの存在そのものの反映です。わたしたちの発する言葉は、わたしたちの心を写す鏡です。

教皇は同じメッセージで、フェイクニュースは、「ソーシャル・メディアの特徴である分かち合いの精神のためではなく、人間の心にいとも簡単にわき上がる、飽くことを知らない欲望に訴えかけ・・・。その渇きは結局、わたしたちを欺きという何よりも悲惨なもの、すなわち心の自由を盗み取るために嘘から嘘へと渡り歩く悪魔のわざの犠牲者にします」と述べています

イエスの言葉には力がありました。それはイエスこそが、「真理」だからであります。だから人々は「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。申命記は、神の命じていない言葉を語る預言者は死に値すると、モーセに語らせます。真理を身に帯びていない者の言葉だからです。

わたしたちも力ある言葉を語りたいと思います。自分勝手な思いや欲望を満たす言葉ではなく、いのちを奪う言葉ではなく、闇をもたらす言葉ではなく、裁き排除する言葉ではなく、それよりも神の真理に基づいた言葉、いのちを生かす言葉、希望を生み出す言葉、慈しみに満ちあふれた言葉、いたわり支え合う言葉、すなわち神の力に満ちた言葉を語りたいと思います。

1月の最終主日は、「世界こども助け合いの日」と定められています。「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定」され、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげる日となっています。あふれる言葉の洪水の中で生きている子どもたちが、神の真理に裏付けされた言葉に触れ、その言葉を心に刻み、語り、実行していきますように。子どもたちを育む大人が、神の力に満ちた言葉を語り行うことが出来ますように。

 

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2021年1月23日 (土)

週刊大司教第十二回:年間第三主日神のことばの主日

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今日公開のメッセージの中でも触れていますが、年間第三の主日は、神のことばの主日とされています。この主日は教皇フランシスコによって制定され、昨年から始まりました。(写真は、喜びの内に福音書を迎えるガーナの子どもたち。2010年アクラで)

神のことばの主日制定の使徒的書簡「アペルイット・イリス」は、中央協議会のこちらから読むことが出来ます。

この書簡の中で教皇は、神のことばの主日を定めて、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげることを宣言」されました。その上で教皇は、この主日がちょうどキリスト教一致祈祷週間と重なることも念頭に、次のように記しています。

「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なるということ以上の意味をもっています。「神のことばの主日」を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです」

聖書を通じて尊場に触れることの大切さを強調する教皇は、「主は自らの花嫁に生きたことばを絶えず語り続け、花嫁である教会は愛のうちに、また信仰のあかしのうちに成長することができます」と、この書簡の中で指摘されています。この主日が、聖書を通じてさらに神のことばに触れる契機となればと思います。

ところで、今年は2月17日が灰の水曜日となり、間もなく四旬節が始まります。昨年は灰の水曜日の翌日から、ミサの公開を中止しました。今年がどうなるのかは、今の時点では想定できませんが、現時点では、これまで同様の感染症対策を施した上で、それぞれの小教区の事情が許し、対応が充分に出来る場合には、四旬節の典礼を行う予定でおります。

なお灰の水曜日に関して、聖座から、今般の自体への対応の指示が来ていますので、それに基づいて、詳細を教区典礼担当者から神父様方にはすでに通知をいたしました。

主な注意点は、できる限り沈黙を守るため、灰をかけるときのことば、「回心して福音を信じなさい」または「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」を、全員に対して一度だけ唱え、個別には唱えないこととと、灰で額に直接触れながら十字のしるしをすることはせず、かけるだけにすることなどです。

また昨年は受難の主日の典礼が出来ていませんので、祝福された枝をお持ちでない方も大勢おられることと思います。仮に小教区で昨年の枝を充分に集めることが出来ない場合には、今年に限ってそのほかの枝を利用して灰をつくることも認めています。

以下、1月23日土曜日夜公開の、週刊大司教第十二回のメッセージ原稿です。

年間第三主日B神のことばの主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第12回
2021年1月24日

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」
マルコ福音書はその冒頭で、洗礼者ヨハネの出現を伝え、さらにイエスの洗礼について述べた後、荒れ野における四十日の試練に簡潔に触れています。そしてその直後に「ヨハネが捕らえられた後」として、イエスが神の福音を宣べ伝えたと記します。本日の福音朗読です。すなわち、「神の言」の受肉であるイエスは、その本性からして福音そのものであり、存在すること自体が神の福音のあかしでありますから、当然、福音を宣べ伝えることがイエスの公生活を根底から支える礎であると明確に示しています。

さらにマルコ福音書は続けて、イエスがガリラヤ湖のほとりでシモンとアンデレを弟子として召し出された話を記します。すなわち、福音を宣べ伝える業を、イエスはその最初から共同体の交わりの中で行ったのだと記すことで、福音宣教は教会にとって本質的な働きであり、なおかつ共同体の業であることを明示しています。

「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて弟子を召し出される主は、その「人をとる漁」なるものを、突拍子もない驚愕的な業を持ってするのではなく、地道だけれど徹底した福音のあかしによって行うのだということを、マルコ福音書は、すべてを捨てて主イエスの働きに身を投じる弟子の姿を記すことで明らかにします。わたしたちの信仰は、神の言葉の存在とその宣言抜きには考えられない信仰です。

教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。今年は1月24日が、「神のことばの主日」であります。

教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちとともにとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しています(80)。

それを前提として教皇は、「神の言」の重要さを指摘する聖ヒエロニムスの言葉、「聖書についての無知はキリストについての無知である」(聖ヒエロニムス『イザヤ書注解』)を引用します。

その上で教皇は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘します。

第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。

わたしたちはシモンとアンデレのように、今日、「私についてきなさい.人間をとる漁師にしよう」と召し出されています。それぞれの生きる場で、神のことばをあかしして生きるように、招かれています。その招きに答えるために、わたしたちは、日頃から、また典礼祭儀において、神のことばに耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心にそれを刻み込んでおきたいと思います。

 

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2021年1月16日 (土)

週刊大司教第十一回:年間第二主日

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降誕節が終わり、典礼の暦は「年間」が始まっています。今年は1月17日の日曜が、年間第二主日となります。(上の写真は、1月15日が祝日であった神言修道会の創立者聖アーノルド・ヤンセンが眠るオランダのシュタイルにある記念聖堂で捧げたミサの様子です)

緊急事態宣言が発出されていますので、健康に不安のある場合は、無理することなく行動くださるようにお願いします。また、自分が感染しないだけではなく、他者を危険にさらすようなことのないように、慎重な行動をいたしましょう。

通常の教会の活動が難しい状況にありますが、出来ないからダメだと後ろ向きになることなく、この状況の中で、どのようにしたら信仰をより良く生きることが出来るのか、霊的絆を保つために何が出来るのか、互いに知恵を絞ってみましょう。

なお1月18日から25日までは「キリスト教一致祈祷週間」とされています。今年のテーマは、「わたしの愛にとどまりなさい。そうすれば、あなたがたは豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15・5-9参照)とされています。歴史ある祈りの週間ですが、今年はコロナ禍のために、祈祷集会を実際に開催することが難しいと思われます。この一週間の間、異なる派に分かれているキリストの弟子たちが、思いを一つにして、神の福音を告げていくことが出来るように、お祈りください。詳しくは、中央協議会のホームページへ 

以下、土曜日夕方に公開した「週刊大司教」第十一回目のメッセージ原稿です。ご家庭でお祈りされる場合には、霊的聖体拝領の一助としてご利用ください。

年間第二主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第11回
2021年1月17日

「来なさい。そうすれば分かる」

この一言を信じて、ヨハネの二人の弟子はイエスについて行きました。その晩、イエスとどのようなやりとりがあったのかは記されていませんが、少なくとも翌日、自分の兄弟の人生を変えるような決断を促すほどの、大きな出会いとなりました。

わたしたちは、どちらかといえば、論理的に納得したいと思っています。子どもの頃には口論になると、負けたくない一心で『証拠を見せろ』と言ってみたり、大人になった今はSNSが発達して誰でも情報を発信する洪水の中で、『エビデンスを示せ』と迫ってみたりします。いくつになっても、信じるためには納得できるだけの証拠がほしいのです。わたしたちは本性的に疑り深いのだろうと思います。

サムエル記は、少年サムエルがたびたび神からの呼びかけを受けた話を記し、それに対して祭司エリが、「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と答えるように勧めた話を記します。祭司エリは、決して声の主に、「お前は誰なのか、証拠を見せろ」と迫ることではなく、耳を傾けその語る言葉に心を開くようにと諭します。その時はじめて神の声が心の耳に到達します。

イエスについて行ったヨハネの二人の弟子も、納得できる証拠を求めるのではなく、イエスの存在と語る言葉を心に感じたことで、イエスがメシアであることを確信しました。福音には「どこにイエスが泊まっておられるかを見た」と記され、また「イエスのもとに泊まった」と記されていますが、イエスが何者かを知るために議論をしたとは記されていません。それは「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と言う態度に通じるものです。

わたしたちは言葉があふれかえっている世界に生きています。インターネットの時代ですから、そのように取り囲まれざるを得ません。その中で、静かに心を開き、神の声に耳を傾ける時をもつことは、大切なひとときであると思います。

教会は、1月18日から25日までを、キリスト教一致祈祷週間と定めています。この日付となったのは、こういった一致祈祷が最初に提起された1908年に、当時ペトロの使徒座が祝われていた1月18日からパウロの回心の25日までという、キリスト教の発祥に深く関わる聖ペトロと聖パウロという二人の偉大な聖人を象徴として、キリスト者の一致を祈り求めるためであったと伝えられています。なお現在の典礼暦では、ペトロの使徒座は2月22日に移動しています。

毎年、一致祈祷週間のためのテーマが教皇庁キリスト教一致推進評議会と世界教会協議会(WCC)によって選ばれ、手引きの小冊子が発行されています。今年のテーマはヨハネ福音から「わたしの愛にとどまりなさい。そうすれば、あなた方は豊かに実を結ぶ」とされています。

今年の小冊子はテーマを解説し、「霊性と連帯は分かちがたくつながっています。キリストにつながっていれば、不正義と抑圧の構造に対抗するための、人類家族の兄弟姉妹であることを真に自覚するための、さらには、すべての被造物と敬意を持って交わるという新しい生き方を生み出すための、力と知恵を受けることが出来ます」と記しています。

わたしたちは霊的な祈りにおける連帯の内に、互いに心を静かにし、神の声に耳を傾けたいと思います。「どうぞお話しください。しもべは聞いております」という姿勢で、互いの連帯を深め、御父からの力と知恵をいただき、信仰において強められましょう。 

 

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2021年1月11日 (月)

週刊大司教第十回:主の洗礼の主日

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主の洗礼の主日をもって、降誕祭は終了となります。1月11日の月曜からは、年間第一週の典礼となり、灰の水曜日まで続きます。(写真は聖地、ヨルダン川の洗礼所。ちなみにこのヨルダン川は国境で、すぐそこの対岸はヨルダン国内です)

1月8日に緊急事態宣言が政府から再度発出されました。東京大司教区としての対応は、政府の発表(総理会見)の直後に公示した通りで、その公示文書と現在の対応については、それぞれ東京大司教区のホームページに掲載してありますので、ご一読ください。なおホームページには、その時点での感染症対策についてのまとめを見ていただけるよう、上部にバナーを設けていますので、それをクリックしてご確認ください。

ぎりぎりまで政府の宣言に基づく要請内容と自治体の要請内容が把握できなかったため、いくつかのパターンを想定して対応を準備していましたが、最終的に総理の会見を受けて、文書を再度見直し公示としました。

なお11月に司教団としてのガイドラインを定めていますが、同ガイドラインとは異なる判断をいたしました。ガイドラインには、「これをもとに、教区・地区・小教区の地域性や状況を考慮し、適応させてください。その際、感染症によって医学的な対応が異なることもありえますので、専門家や医療関係者の意見を聞くことをお勧めします」と記されているとおり、そのときの状況や地域の事情に応じてそれぞれの教区が判断することになっています。今回は、政府や自治体からの要請が、夜の飲食店に重点が置かれ、集会などに関しては中止などが含まれず、人数制限と感染症対策の強化となっていましたので、現時点での教会の感染症対策をあらためて強化確認することで、ミサを続ける可能性を残しました。ただし、公示文書にも記しましたが、現時点ではカトリック教会でクラスターが発生したり、教会活動を起源として感染が拡大したという報告は届いていませんが、信徒の方が普段の生活の中で感染されたり、また亡くなられた方がいるという報告をいただいています。少しでも不安がある場合は、無理をなさいませんように。なお主日のミサに参加する信徒の義務については、引き続き、東京大司教区のすべての方を対象に免除しています。

以下、第十回目となる「週刊大司教」のメッセージ原稿です。

主の洗礼の主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第10回
2021年1月10日

ヨルダン川における洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼の出来事は、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う神ご自身の言葉によって、イエスこそが聖霊の充満であり、神の御旨の実現であることを高らかに宣言しています。

使徒ヨハネは手紙の中で、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と記しています。すなわち、イエスがキリストであると信じるわたしたちは、神を愛する者であり、神を愛するわたしたちは、神の掟を守ります。神の掟を守ることは、すなわち、神が望んでいるように生きることであり、それはわたし個人に留まるのではなく、この世界に神の望みが実現すること、福音の教えが実現していること、つまり神の国が到来することに他なりません。

わたしたちは、個人的に信仰を深めて、自らの内へと籠もってしまうのではなく、神の国が実現するようにと、外に向かって「出向いていく」教会になろうとしています。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」に、次のように記しています。
「福音の提言は神との個人的な関係だけで成り立つものではないということも、聖書を読めば明かです。また、わたしたちの愛の応答を、助けを必要としている人のためのささやかな個人的行為の単なる積み重ねだと理解すべきでもありません。・・・福音の提言とは、神の国、すなわち、世を治める神を愛することを示すことです。神の支配がわたしたちのもとに及んでいる限り、社会生活はすべての人にとって、兄弟愛、正義、平和、尊厳の場となるでしょう」(福音の喜び180)

教皇は、信仰が神の支配の実現へと向かっていなければ、その信仰に基づく良い行いも、「良心の平穏を守るだけの一連の行為、いわゆる「お好みの善行」になっている可能性があります」とまで指摘されています。

わたしたちが実現したいのは、わたしたちの人間としての思いや願いではなく、神の思い、神の計画、神の支配であります。

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神の計画の実現ということを考えるとき、教皇フランシスコがこの一年を、「聖ヨセフの特別年」と定められたことは興味深いことです。

教皇は、使徒的書簡「パトリス・コルデ」を発表され、2020年12月8日からの一年を特別年とされましたが、その書簡において、「イエスの養父、聖ヨセフの優しさ、従順、受容の心、創造性をもった勇気、労働者としての姿、目立たない生き方に触れ」、ヨセフこそは救い主に「奉仕する愛において完全に自己を捧げた」生き方を通じて、贖いの偉大な計画のための協力者となった指摘しています。(バチカンユース)

内にこもらず出向いていく教会となろうと呼びかけるとき、なにか偉大なことを成し遂げなくてはならないと意気込んでしまったり、または自分にはそんな才覚はないとあきらめてしまったりすることもあるでしょう。そんなときに、教皇は、聖ヨセフの生き方に目を向けるように呼びかけます。偉大なことではなく、神の支配の実現のために、「優しさ、従順、受容の心、創造性を持った勇気」をもって、神の望まれる社会の実現のために、言葉と行いを通じて、神の思いを具体的に示してまいりましょう。今この状況の下にあって、どういった言葉と行いが、神の思いに適っているのかを、祈りの内に識別いたしましょう。わたしたちも、ヨルダン川での洗礼の日のように、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神から呼ばれるように。

 

 

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2021年1月 2日 (土)

週刊大司教第九回:主の公現の主日

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新しい年がはじまって3日となります。どのような新年を迎えておいででしょうか。

2017年12月16日に東京大司教として着座して以来、東京大司教区における宣教司牧方針を定めようと努めてまいりました。信徒数にしても組織にしても、また内包する修道会の数や諸施設の規模や数にしても、大変大きな教区ですので、そこにはさまざまな課題が存在いたします。東京都と千葉県では、それぞれの都県内でも、地域によって直面する課題は異なります。ましてや現在のコロナ禍です。小教区が直面する宣教の現実は異なっていますし、信徒の方々が感じておられる課題にも大きな幅があります。そういった諸点を包括しながら、宣教司牧方針を定めることは、難しい課題でありました。教区の方針が、わたし個人の考えや興味に基づいた方針では意味がありません。そこで、多くの方の意見を伺いながら識別を深め、検討を進めることにしたのはご存じの通りです。教会には聖霊が働いていることを信じていますから、ご意見は個人ではなく、教会の共同体で検討していただきました。「二人三人がわたしの名のもとに集まっているところに、わたしもいる」と言う主の言葉を信じ、共同体にこそ聖霊が豊かに働いていると信じるていますから、共同体での識別の道を歩みたいと考えました。同時に、その頃にちょうど行われた青年のためのシノドスで、教皇様が複数で分かち合いながら共に道を歩んでいくシノドス的方法を強調されたことにも示唆を受けました。

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さまざまな意見をいただき、それに基づいて識別を深め、最終的に、このたび完成させることが出来、23ページほどの文書となりました。作業は予定よりも時間がかかってしまいました。19年の教皇訪日、さらには今年のコロナ禍で、一年ほど予定より遅れてしまいましたが、多くの方のご協力で、やっと形にすることが出来ました。宣教方針は基本的に大枠を示しているだけです。物足りなく感じられるかも知れません。大枠ですのでその中で方向性を一つにして、具体的な現場での適応は、それぞれの共同体で、これから話し合っていただきたいと思いますし、また教区のさまざまな組織や委員会で取り上げて深めていく課題も多々あります。教区のホームページに掲載してありますので、PDFファイルをダウンロードしてご一読いただけますと幸いです。これから徐々に、具体的な方策を探っていきたいと思います。どうか皆様にあっては、単に協力ではなく、一緒にこの道を歩んでいってくださるようにお願い申し上げます。

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以下、新年最初、第九回となる週刊大司教のメッセージ原稿です。

主の公現の主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第9回
2021年1月3日

皆様、新しい年の初めにあたり、この一年、神様の祝福が豊かにあるようにお祈りいたします。

新年、明けましておめでとうございます。

新しい年がはじまりましたが、今年はなんとなく、いつもとは様子が異なるクリスマスと年末年始になりました。昨年初めから今に至るまで続いている新型コロナ感染症は、その実体についてさまざまな意見が表明されており、教会としても対応に苦慮しています。アジアの国々は欧米とは状況が異なっており、感染された方の規模や亡くなられた方の規模が比較的少ないのは事実ですが、その理由は判明しておらず、実際に世界では多くの方が生命の危機に直面しています。国内でも、さまざまな事例が報告され、生命の危機に直面しておられる方も少なくありません。ですから、多くの方が集う教会としては慎重な道を選択し続けざるを得ません。

昨年一年は、教会においての活動の自粛や、4ヶ月にわたるミサの公開停止など、特に霊的生活において、忍耐を必要とする年となってしまいました。信仰における積み重ねはそれぞれ異なり、今回の事態にあっても一人ひとりの考えには相違があり、ご理解いただくことが難しい制約も多々お願いしたことを大変申し訳なく思っています。同時に、この試練の時にあって、互いへの思いやりの心をもってご協力くださった多くの方々の、寛容と忍耐の心に、感謝いたします。

占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。ヘロデ王の不安はいったいどこから来るのでしょう。救い主の誕生の告知は、本来であれば喜びを持って迎えられたことでしょう。しかし現実に王として人々を支配しているヘロデは、その知らせを喜ぶことは出来なかった。自分をこの世の支配者とするものは、神の支配の実現を前にして、喜びではなく不安しか感じることができません。神の前では、自らの不遜さが暴かれてしまうからです。自分勝手な光を輝かせていることが露呈するからです。

回勅「ラウダート・シ」に、教皇フランシスコは、次のように記しています。

「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」

「いのちにかかわるこれら三つのかかわり」が、引き裂かれてしまう状態が罪だと、教皇は指摘します。人間の傲慢な支配におごり高ぶっている姿が暴かれることで、自らが罪の状態にあることが明らかになってしまいます。そこに不安が生じます。

占星術の学者たちは、旅路の困難を乗り越え、光に導かれて、救い主のもとにたどり着き、宝物をささげました。闇のなかにあって、輝く光こそが希望を示していることを確信した学者たちは、すべてを神にささげて神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従って行動していきます。

わたしたちは、今、暗闇の中を彷徨いながら光を求めています。わたしたちは救い主の光に、謙遜に付き従おうとしているでしょうか。それとも自分勝手な光を輝かせようとしているのでしょうか。わたしたちが輝かせるのは、自分勝手な光ではなく、主の光です。

教会は、人となられた「神の言」が暗闇に光として輝くように、その光を暗闇の中であかしする存在でありたいと思います。この光は、生命の希望をもたらす光です。互いに連帯を強め、主イエスのいつくしみの心に倣い、互いを思いやり助け合う具体的な言葉と行いが、いのちを守っていきます。神の支配に身をゆだね、いのちを守る福音の光を、あかしする一年といたしましょう。

 

 

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