カテゴリー「週刊大司教」の211件の記事

2025年6月14日 (土)

週刊大司教第212回:三位一体の主日C

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聖霊降臨の次の主日は、三位一体の主日です。

前の記事にも投稿しましたが、先日、国際カリタスが南山大学から人間の尊厳賞をいただきました。下の写真が、その際にいただいた記念の盾です。記念の盾に刻まれているのは、キャンパス内に実際にある上の写真の十字架です。ありがとうございます。

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6月8日の聖霊降臨の主日には、午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教区合同堅信式が行われました。

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今年は52名の方が堅信の秘跡を、わたしとアンドレア補佐司教様から受けられました。復活徹夜祭や復活祭に行われる成人洗礼の場合は、特段の理由がない限り、洗礼と聖体と堅信の三つの秘跡を同じ日に受けていただくようにしています。幼児洗礼の場合は、年齢の歩みとともに、洗礼から始まり、初聖体、そしてある程度の年齢になってからの堅信と続きます。

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そのようなわけで、今年の堅信を受けた皆さんの多数は、小学校高学年から中学生や高校生が多く見られました。堅信を受けたみなさん、おめでとうございます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第212回目、三位一体の主日のメッセージです。

三位一体の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第212回
2025年6月15日

教皇レオ14世は、5月18日にサンピエトロ広場で行われた就任のミサの説教で、「愛と一致」こそが、ペトロの後継者として主ご自身から自分に託された使命の二つの次元である述べられました。

その上で教皇は、「ローマ司教は、キリスト教信仰の豊かな遺産を守ると同時に、現代の問い、不安、課題に立ち向かうために、遠くを見ることができなければなりません。皆様の祈りに伴われて、わたしたちは聖霊の働きを感じました。聖霊はさまざまな楽器を調律し、わたしたちの心が一つの旋律をかなでることができるようにしてくださいました」と、コンクラーベに集まった133名の枢機卿たちに、確実に聖霊の導きがあり、その実りは、愛と一致に神の民を導くのだと指摘されています。

教皇選挙に先立つ枢機卿会で、多くの枢機卿が教皇に求められる役割として、信仰の遺産を確実に明確に伝える霊性の深さと、現代社会の要請に応えるために司牧の豊かな経験と、さらにはこの世の組織を運営するに長けた能力を持つことを求めました。教皇宣教が始まる時点で、誰もそのすべてを兼ね備えた枢機卿は存在しないと思っていましたが、聖霊はしかりと働き、四回目の投票で選ばれたレオ14世こそは、そのような資質をすべて兼ね備えた人部でした。

わたし達は御父によっていのちを与えられ、救いの道をイエスによって与えられ、この世界で聖霊によって導かれて歩みを共にします。わたし達の信仰は、三位一体の神に基づいた共同体の信仰です。ですからわたしたちは、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けます。

わたしたちを「導いて真理をことごとく悟らせる」聖霊が、「わたしのものを受けて、あなた方に告げる」と、ヨハネ福音は主イエスの言葉を記します。その「わたしのもの」とは、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」と主ご自身が言われるのですから、わたしたちは、三位一体の神の交わりの中で、聖霊に導かれて御子に倣い、御父へと結びあわされています。

カテキズムはそれを、「御父の栄光をたたえる者は、御子によって聖霊のうちにそうするのであり、キリストに従う者は、その人を御父が引き寄せ、聖霊が動かされるので、そうするのです」と記します(259)。

わたしたちは共同体で生きる教会であるからこそ、教会共同体は、三位一体の神をこの世に具体的に顕す共同体であるよう務めなくてはなりません。それを実現しようとしたのが、教皇フランシスコが力強く導かれたシノドスの道です。わたし達は共に支え合い、耳を傾けたい、共に祈り、聖霊の導きを識別することで、この世界の現実の中で、三位一体の神の存在を具体的にあかしする共同体となります。

そもそもわたしたちの信仰が三位一体に基づいているからこそ、わたしたちには教会共同体が必要であり、信仰を一人孤独のうちに生きることはできません。父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた瞬間に、わたしたちは三位一体の神の交わりの中で、教会共同体の絆に結びあわされるのです。わたしたちの信仰は、共同体の交わりにおける絆によって生かされる信仰です。

主イエスご自身に倣い、御父の願いを具体的に実現するために、聖霊の導きに身を委ね、共同体の交わりの中で、信仰を生きていきましょう。この世界に「愛と一致」をもたらすものとなりましょう。 

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2025年6月 7日 (土)

週刊大司教第211回:聖霊降臨の主日C

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聖霊降臨の主日となりました。

主日の午後には、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、合同堅信式が行われます。堅信の秘跡を受けられる53名の皆さん、おめでとうございます。

堅信式の様子などは、また別途記します。

6月は「みこころの月」と言われます。「みこころ」は、主イエスの心のことで、以前は「聖心」と書いて「みこころ」と読んでいました。イエスのみこころは、わたしたちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水が、いのちの泉であり新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスのみこころ」の祭日が設けられ、今年は月末の6月27日となっています。

みこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖女マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ちあふれる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主はご自分の心に倣うようにと呼びかけられました。そしてみこころの信心を行うものには恵みが与えられると告げ、その一つが、9ヶ月の間、初金に聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあるとされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。

1856年に教皇ピオ9世が「イエスのみこころ」の祭日を定められました。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第211回、聖霊降臨の主日のメッセージです。

聖霊降臨の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第211回
2025年6月8日

先日行われた教皇選挙、コンクラーベに参加し、新しい教皇レオ14世を選出した133名の枢機卿たちは、システィナ聖堂で投票を続ける中で、聖霊の働きを実感していました。

教皇選挙は、「選挙」とは言うものの、いわゆる政治的な駆け引きの場ではありません。教皇選挙を前にして連日行われた枢機卿の総会で、教皇選挙とは、たぐいまれな才能と霊性を持って力強く教会を導いた教皇フランシスコの後継者を選ぶ作業なのではなく、イエスが最初の牧者として神の民を託した使徒ペトロの後継者を選ぶ祈りの時なのだと、多くの枢機卿が感じていました。すなわち、枢機卿たちは良い選挙ができるように聖霊の導きを祈っていたのではなく、すでに主ご自身が選ばれているはずのペトロの後継者を、わたしたちの間から見いだすための識別の賜物を願って祈っていました。

枢機卿の総会を終えて、133名の有権枢機卿がシスティナ聖堂に入ったとき、一体その中の誰が本当にペトロの後継者として選ばれているのかを分かっていた枢機卿は誰もいませんでした。しかし聖霊に導かれて投票を続ける中で、最後に3分の二を超えて選出されたプレボスト枢機卿のこれまでの人生を見たとき、わたしを含めて多くの枢機卿が、確かに聖霊に導かれた彼にたどり着いたと感じたはずです。

というのも、事前の枢機卿の総会では、次の教皇には、司牧の現場に精通し、同時に組織の運営に長けており、さらには深い霊性を持った人物がふさわしいという意見で多くが一致している中、そのような資質を持った人物などいないという諦めも感じていました。しかし教皇レオ14世こそは、ペルーでの長年の宣教師としての働き、修道会の総長や司教としての働き、さらにはバチカンでの働きと、必要だと言われた経験を十分に持ち、アウグスチノ会という修道会の霊性にも通じています。主は自ら選ばれ、聖霊を通じてわたしたちがプレボスト枢機卿に到達するように導いてくださいました。

「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください」

聖霊降臨の主日に、福音の前に歌われる聖霊の続唱は、この言葉で始まります。教会は聖霊によって誕生し、聖霊の働きによって育まれ、聖霊の導きによって歩み続けています。

「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように」住んでいると指摘する第二バチカン公会議の「教会憲章」は、聖霊は「教会をあらゆる真理に導き、交わりと奉仕において一致させ、種々の位階的たまものやカリスマ的たまものをもって教会を教え導き、霊の実りによって教会を飾る」と教えています。その上で、「聖霊は福音の力をもって教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」とも記し(4)、教会は、「キリストを全世界の救いの源泉と定めた神の計画を実現するために協力するよう」、聖霊から迫られているとまで記します(17)。

聖霊の導きに信頼し、神の道をともに歩むことができるように、祈りのうちに身を任せましょう。

常にわたしたちの間で働かれる聖霊の導きに、心から信頼する共同体でありましょう。

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2025年5月31日 (土)

週刊大司教第210回:主の昇天の主日

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この一ヶ月ほどは、教皇フランシスコの帰天に始まり、続いて葬儀、教皇選挙、レオ14世の誕生、さらには以前から予定されていたメキシコでの国際カリタス理事会と、予定外のプログラムを含めて一ヶ月近く海外へ出ていることが続いたため撮影ができず、週刊大司教を一回お休みさせていただきました。申し訳ありません。今週からまた再開です。今週の週刊大司教が210回目となります。

なお2020年11月7日に第一回目を配信してはじまった「週刊大司教」ですが、過去のすべてのビデオは、こちらのリンクの東京大司教区のYoutubeアカウントからご覧頂けます。

主の昇天の主日となりました。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されてから10年となりました。単なる環境問題への取り組みにとどまらず、わたしたち被造物のふさわしいあり方を問いかけ回心を促すこの回勅は、いままだ解決の糸口さえ見いだされていない地球の様々な問題を目の当たりにするとき、決して時間とともに色あせていくような内容ではありません。

この課題に真摯に取り組むために、司教協議会には啓発活動をするための、「ラウダート・シ」デスクが設けられています。こちらのホームページをご覧ください

またわたしが事務局長を務めているアジア司教協議会連盟(FABC)では、3月にバンコクで行われた中央委員会の際に、FABC司牧書簡を発表しています。この書簡のタイトルは、「アジアの地方教会へ――被造界のケアについて。エコロジカルな回心への呼びかけ」です。邦訳が中央協議会のサイトに掲載されていますので、どうぞご一読ください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第210回、主の昇天の主日のメッセージです。

主の昇天の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第210回
2025年6月1日

使徒言行録は、弟子たちに対して天使が、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と語りかけたと記します。死を打ち破って復活された栄光の主が、自分たちから去って行く。残されたわたしたちはどうなるのだと、呆然として弟子たちはたたずんでいたのでしょう。

この天使の呼びかけは、諦めと失望のうちに呆然と立ち尽くすのではなく、イエスが再び来られることを確信しながら、その日まで、イエスから託された使命を果たして生きよという、弟子たちの行動を促す言葉であります。

イエスから託された使命とは何でしょうか。ルカ福音も使徒言行録もともに、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というイエスの言葉を記します。語るのは自分の考えではありません。自分の才能を披露することでもありません。聖霊に導かれて、イエスが何を語ったのか、何を成し遂げたのか、その言葉と行いについて、世界中のすべての人に向かって語ります。それこそが証しの行動です。すなわち福音宣教であります。だから弟子たちは、イエスが天に上げられた後に、喜びに満たされて、「エルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と記されています。隠れているのではなく、多くの人に向かって証しを続けたのです。

そして、現代社会の中で生きている弟子というのは、福音を信じているわたしたちひとり一人のことであります。現代社会に存在するありとあらゆるコミュニケーションの手段を駆使して、ひとりでも多くの人に、イエスの証しを届けていく者でありたいと思います。

2015年5月24日に教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されたことを受けて、毎年5月末には「ラウダート・シ週間」が設けられ、教皇フランシスコが呼びかけた総合的エコロジーの視点から、わたしたちの共通の家である地球を守るための道を模索し、行動を決断するように招かれています。

今年の「ラウダート・シ週間」は、ちょうど昨日まで、5月24日から31日までとされていました。今年は回勅が発表されてから10年という節目の年であり、同時に「希望の巡礼者」をテーマとした聖年の真っ最中です。そこで今年の「ラウダート・シ週間」もそのテーマを、「希望を掲げて」としていました。新しい教皇レオ14世も、教皇フランシスコの始められたともに歩む道を、同じようにともに歩み始めています。そのペトロの使徒職のはじめから、平和と対話の大切さを説き続けています。わたしたち神からいのちを賜物として受けたものが、共に生きる家を守り抜き、託された使命を果たし、ともに歩んでいくことができるように、ともに務めていきたいと思います。

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2025年5月17日 (土)

週刊大司教第209回:復活節第五主日C

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復活節も第五週となりました。

教皇レオ14世の公式写真が公開されています。バチカンメディアのサイトからダウンロード可能で、個人的に、または教会内で使うことができますが、営利目的、商用には許可が必要です。

教皇選挙後にも、新しい教皇様と枢機卿団のミサや集まりが開催されたこともあり、また帰りの便の席を確保する関係から(いつ終わるか不明で、帰りの便を事前に予約ができなかったので)、やっと水曜夜にローマを出る便の席が確保できましたので、帰国しました。ただ、教皇フランシスコの帰天から教皇選挙という一連の出来事が起こる前から、国際カリタスの行事と会議でメキシコなどへ出かけることが決まっており、その前半はキャンセルしましたが、後半の国際カリタス理事会は出席できますので、数日後にはまた一週間、不在となります。

そのため、残念ながら明日の主日の教皇様の就任ミサには参加できませんが、昨晩、5月16日の夜6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教皇大使にもおいでいただき、教皇レオ14世のためのミサを捧げました。400人を超える方に参加いただきました。ありがとうございます。なおこのミサのビデオは公開されていますので、一番下にリンクを張っておきます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第209回、復活節第5主日のメッセージです。

復活節第五主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第209回
2025年5月18日

5月は、教会の伝統において聖母の月とされています。1917年5月13日に、ポルトガルのファティマで、聖母マリアが、ルチア、フランシスコ、ヤシンタと言う三人の子どもに出現され、自らを「ロザリオの元后」と名乗られた奇跡的御出現に基づき、5月13日はファティマの聖母の記念日です。そして、5月31日には聖母マリアの訪問の祝日も定められています。

教皇フランシスコは聖なる年、聖年を告知する大勅書「希望は欺かない」の終わりに、聖母について次のように記しています。

「神の母は、希望の最も偉大なあかし人です。この方を見ると、希望は中身のない楽観主義ではなく、生の現実の中の恵みの賜物であることが分かります。・・・無実のイエスが苦しみ死ぬのを見ている間、すさまじい苦しみにありながらも、主に対する希望と信頼を失うことなく、はいと言い続けたのです(24)」

その上で教皇様は、「海の星(ステラ・マリス)・・この称号は、人生の荒波に中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼を持って希望し続けるように招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しています。

人生の道をともに歩むわたしたちに、十字架の主が常に共にいてくださり、荒波に飲み込まれ流されることのないようにしっかりと支えてくださっています。その人生の荒波にあって、希望の光を照らし続ける海の星、ステラ・マリスは、神の母マリアであります。聖母はわたしたちの希望の星です。この困難な時代にあって、神からの賜物であるいのちが、暴力から守られ、その尊厳が確立されますように、わたしたちのいのちの希望の道を照らす星、聖母の取り次ぎを祈りましょう

ヨハネ福音は、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という、イエスが最後の晩餐の席で弟子たちに与えた「新しい掟」を記しています。 イエスの愛とは、永遠のいのちへの道を切り開いた、十字架の上での受難と死を通じて示された愛であります。徹底的な自己譲与の愛だからこそ、永遠のいのちへの希望を与えることができました。聖母マリアも十字架の傍らにたたずみ、イエスの苦しみをともにしながら、それでもすべてを捧げて、最初の日に天使ガブリエルに応えたように、「お言葉通りこの身になりますように」と徹底的に捧げ尽くした人生でした。

愛し合うためには、互いの存在を受け入れることが必要です。いのちの危機の中で、自己防衛の思いは、どうしても人間を利己的にしてしまいます。異質なものへの拒否感と排除の感情を強めます。今の時代だからこそ、「互いに愛し合いなさい」という言葉が必要です。

互いに心を開き、耳を傾けあい、支え合い、祈り合う信仰の絆こそがこの絶望的な状況から抜け出すための希望を生み出すのだと、シノドスの道はわたしたちに教えています。

なお次週の週間大司教は一回お休みさせていただきます。6月1日の主の昇天から再開します。

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2025年5月10日 (土)

週刊大司教第208回:復活節第四主日C

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復活節第四主日です。

教皇選挙については、できる範囲で別途記します。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第208回、復活節第四主日メッセージです。

復活節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第208回
2025年5月11日

ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえを記しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と主は言われます。

復活の命への希望へと招いてくださる羊飼いである主イエスは、わたしたち羊をよく知っておられます。先頭に立って常に旅路をともに歩んでくださいます。そして常に呼びかけておられます。

問題は、先頭に立ってわたしたちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を、果たしてわたしたちがしっかりと聞き分けているのかどうかでしょう。

現代社会はありとあらゆる情報に満ちあふれ、人生の成功の鍵という魅力的な誘惑で満ちあふれています。選択肢があればあれほど、決断が難しくなり、多くの人がその波間を漂いながら時を刻んでいます。その中で、希望の道へと招いてくださる牧者の声に耳を傾けることは、容易ではありません。それだからこそ、教皇様はいま進められているシノドスの歩みを最優先事項としているのであり、教会は2028年の予定されている教会総会に向けて、シノドスの道をともに歩みながら、互いに支え合い、耳を傾け合い、祈りのうちにその導きを識別しようと努めています。羊飼いの声を聴き分ける羊となろうとしています。

復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。元来は司祭・修道者の召命のために祈る日ですが、同時に、シノドス的な歩みを続ける教会にあっては、すべてのキリスト者の固有の召命についても黙想し祈る日でもあります。牧者の声を識別する役割は、すべてのキリスト者の務めであるというのが、シノドス的な教会の一つの特徴です。

今年の祈願日のメッセージで教皇フランシスコは、「召命とは、神が心に授けてくださる尊いたまものであり、愛と奉仕の道に踏み出すべく自分自身の殻から出るようにという呼びかけです。そして、信徒であれ、叙階された奉仕者であれ、奉献生活者であれ、教会におけるすべての召命は、神が、世に、そしてご自分の子ら一人ひとりに、糧として与えてくださる希望のしるしなのです」と記しておられます。

その上で教皇様は、世界がめまぐるしく変わる中で翻弄されて道を見失っている若者たちに特に呼びかけて、こう記しています。

「立ち止まる勇気を出して、自らの内面に聞き、神があなたに思い描くものを尋ねてください。祈りの沈黙は、自分自身の人生においての神からの呼びかけを「読み取る」ために、そして自由意志と自覚をもってこたえるために、不可欠なものです。」

第二バチカン公会議の教会憲章に、信徒の召命について、「信徒に固有の召命は、・・・自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである(31)」と記されています。

牧者であるキリストの声は、わたしたちだけでなくすべての人に向けられています。それを正しく識別するために、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

ビデオを添付すると欧州内ではFBにお知らせした場合に警告が出ることがありますので、youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントをご覧ください。

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2025年5月 3日 (土)

週刊大司教第207回:復活節第三主日

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復活節第三主日になりました。

現在進行中の教皇選挙コンクラーベについては別途後刻にできる範囲で記します。秘密保持の宣誓をしますので、投票の内容についてお話しすることはできません。また事前に行われている枢機卿総会(投票権を持つ枢機卿と80歳を超えている枢機卿のすべてが参加)の内容も、一部マスコミに漏れていますが、秘密保持の宣誓をしていますので、詳らかにすることはできません。基本的には、教会の現状を見つめ直し、財政について報告を受け、次の教皇に必要な情報を分かち合う場になっています。

投票の開始は5月7日となりました。この日は、午前中に投票権を持った枢機卿団でミサを捧げ、夕方から全員が聖歌を歌いながらシスティナ礼拝堂に入堂し、一人ずつ宣誓を行った上で、最初の投票が行われます。投票権者の三分の二の得票が必要ですので、この一回目で決まることはないと言われています。その後、翌日からは、一日に四回の投票が行われます。現時点で、135名の有権枢機卿のうち、2名が病気のために欠席、そしてまだお二人の枢機卿がローマに到着していません。

どうか、教会の進むべき道を見いだすよりふさわしい牧者が選ばれますように、聖霊の導きをお祈りください。お願いいたします。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第207回、復活節第三主日のメッセージです。

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週刊大司教第207回
2025年5月4日

復活されたイエスは、自らの言葉と行いで、弟子たちの記憶を呼び覚まし、ご自分が復活の主であると証ししていきます。

漁に出たものの何もとれずに一晩を過ごした弟子たちに、網が破れんばかりの大漁という驚くべき出来事と、食事を一緒にしパンと魚を分け与えることを通じて、十字架の上での死を迎える前に、弟子たちが主イエスと共にいる中で体験した記憶を呼び覚まします。復活の主における永遠のいのちへの希望を確信した弟子たちは、勇気を持ってイエスと同じように、言葉と行いで、希望への道を証しする旅路を歩み始めました。

イエスが捕らえられたあと、三度にわたってイエスを知らないと否んだのはペトロでした。復活されたイエスは、同じく三度にわたって、「私を愛しているか」と尋ねたことをヨハネ福音は記します。ペトロは三度、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えます。

イエスは、自分を捨てて、自分の十字架を背負って従うことを求めていました。いざというときに三度にわたって逃げようとしたペトロに対して、イエスは三度にわたって命を賭けてまで神を愛するのかと問いかけます。三度目の問いかけでペトロは始めてイエスのその切々たる思いを心に感じ、「主よあなたは何もかもご存じです」と応えています。このときペトロはイエスに身を委ねることで、初めてイエスに生かされて希望のいのちの中に生きることが可能となりました。

わたしたちはイエスに従うものでありたいと願っています。それは書かれた教えや規則に忠実であることだけでは到達できません。もちろん知識は重要です。約束事も重要です。しかしそれだけでは足りないのです。

生きるか死ぬかのいざというときに、知識はあまり役に立ちません。わたし自身も、ちょうど30年前のルワンダ難民キャンプで体験しました。武装集団が難民キャンプを襲撃した銃撃戦の中で、「友のために命を捨てる、それ以上の愛はない」と言うイエスの言葉を知識で知っていても、恐怖は積極的な行動を抑制しました。そのときに力を発揮するのは、何に身を委ねているのかであると、そのときにつくづく感じました。

ペトロがそうであったように、イエスご自身に完全に身を委ねることができたとき、つまりわたしたちが自分の弱さを認めたときに、初めて福音があかしされるのです。わたしがその道具となることができるのです。伝えるのは私の思いではありません。わたしたちが伝えるのは、希望のうちにわたしたちを生かしてくださる主の言葉と行いです。

ビデオリンクは後日記載しますが、Youtubeの、カトリック東京大司教区のアカウントをご覧ください。

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2025年4月26日 (土)

週刊大司教第206回:復活節第二主日C

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復活節第二主日です。

本日は教皇フランシスコの葬儀ですが、時差もありますので、これは後ほど記事を書きます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第206回、復活節第二主日メッセージです。

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週刊大司教第206回
2025年4月27日

「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのメッセージに基づいて、復活節第二主日を「神のいつくしみの主日」と定められたのは、教皇聖ヨハネパウロ二世であります。この主日にわたし達は、「信じない者ではなく、信じるものになりなさい」と、信じることのできなかったトマスを見放すのではなく、改めてその平和のうちに招こうとされる主のいつくしみに信頼し、そのあふれんばかりの愛のおもいに身をゆだねる用に招かれています。同時に、わたし達を包み込まれる神のいつくしみを、今度は他の人たちに積極的に分かち合うことを決意する主日でもあります。

教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。

「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

わたし達が生きているいまの世界は、果たしていつくしみに満ちあふれている世界でしょうか。いつくしみに満ちあふれることは、決してただただ優しくなることではなく、根本的には神からの賜物であるいのちの、それぞれの尊厳を守ることを最優先にすることを意味しています。ですから、他者を排除したり、切り捨てたりすることはできません。

復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。「平和があるように」という挨拶の言葉は、「恐れるな、安心せよ」と言う励ましの言葉にも聞こえます。同時にここでいう「へいわ」すなわち神の平和とは、神の支配の秩序の確立、つまり神が望まれる世界が実現している状態です。そのためには「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」というイエスの言葉が実現しなくてはなりません。わたし達は何のために遣わされているのでしょうか。

イエスは弟子たちに聖霊を送り、罪のゆるしのために派遣されました。罪のゆるし、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神のいつくしみによって包み込む業を行うことであります。排除ではなく、交わりへの招きです。断罪ではなく、人間の尊厳への限りない敬意のあかしであります。

交わりの絆は、わたし達の心に希望を生み出します。わたし達の信仰は、いつくしみ深い主における希望の信仰です。互いに連帯し、支え合い、賜物であるいのちの尊厳に敬意を払い生きるようにとわたしたちを招く、神の愛といつくしみは、わたし達の希望の源です

 

 

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2025年4月12日 (土)

週刊大司教第205回:受難の主日C

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受難の主日となり、今年の聖週間が始まりました。あらためてわたしたちひとり一人の信仰の原点である主の受難と死、そして復活を黙想して、そこにおける主との出会いという希望の体験に立ち返り、また御復活祭に洗礼を受ける準備をしておられる方々のためにさらに祈りましょう。

なお受難の主日午前10時に始まり、聖木曜日午後7時、聖金曜日午後7時、復活徹夜祭午後7時、復活の主日午前10時は、すべてわたしの司式で、東京カテドラル聖マリア大聖堂からビデオ配信される予定です。こちらのリンク先のカトリック東京大司教区のYoutubeチャンネルからご覧頂けます。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第205回、受難の主日のメッセージ原稿とビデオリンクです。

受難の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第205回
2025年4月13日

3月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

ミャンマーの教会は、東京教区にとっての長年の大切なパートナーです。ケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。今年は、今度は二人のミャンマーの司祭が、東京教区で働くために来日してくれました。東京教区は数年前から、今回の震源に近いマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設を支援しています。今回の地震発生直後から、マンダレー教区関係者から連絡があり、教会の施設の多くがダメージを受け、避難者の救援作業にあたっていると支援の要請が来ました。もちろん、金銭での支援も重要ですからこれから具体的な方策を考えますが、それ以上に、信仰の絆における連帯を示すことも重要です。

愛する家族のひとりが、目の前でいのちの危機に直面しているならば、多くの人は平然としてはおられないはずです。なんとかして、どうにかして、助けたいと思うことでしょう。まさしく今起こっていることは、信仰における兄弟姉妹がいのちの危機に直面している状況です。いても立ってもいられなくなるはずですが、どうでしょうか。東北の大震災の直後、当時カリタスジャパンを担当していたわたしの元には、世界中各地から、祈っているとのメールが殺到しました。信仰における絆を実感した体験です。

多くの人が犠牲になる大災害や戦争のような事態が起こっても、それが目の前ではなくて遙か彼方で発生すると、わたしたちはどういうわけか、あれやこれやと理屈を並べて、まるで人ごとのように眺めてしまいます。そのような態度とは、すなわち無関心です。無関心はいのちを奪います。神のひとり子を十字架につけて殺したのは、あの大勢の群衆の「無関心」であります。

歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。無責任に眺める群衆は、そのときの感情に流されながら、周囲の雰囲気に抗うことができません。

パウロは、イエスが、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

復活を通じた永遠の命を生きるというわたし達の希望は、受難と孤独のうちの十字架での死という絶望的な断絶の状況にあっても、イエスは御父と一体であったからこそ、希望を失うことがなかったという事実に基づいています。無関心は孤立をもたらし、絶望を生み出します。しかしいのちの与え主である御父に繋がる中で、兄弟姉妹として互いに結ばれているという確信は、命を生きる希望を生み出します。いま、世界に必要なのは、いのちを生きる希望であって、絶望ではありません。

互いへの無関心が支配する現代社会にあって、わたしたちはイエスご自身に倣い、御父との絆に確信を抱きながら、互いに支え合い、希望を生み出し、それを告げる者でありたいと思います。

無関心のうちに傍観して流される者ではなく、互いを思いやり、支え合い、ともに歩みを進める者でありたいと思います。

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2025年4月 5日 (土)

週刊大司教第204回:四旬節第五主日C

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四旬節も終わりに近づき、もう第五主日です

3月23日深夜に出発して、29日お昼頃帰着で、ローマに出かけておりました。もともとは一年に一度、この時期に教皇様にお会いして、国際カリタスの活動報告をすることにしていたのですが、もちろん現在の教皇様の健康状態もあり謁見はキャンセルになりましたが、それ以外にも国務省を始め総合的人間開発省、東方教会省、諸宗教対話省、キリスト者一致推進省、広報省、教皇庁未成年者保護委員会、シノドス事務局を、国際カリタスの事務局長と二人で訪問して回りました。

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またその間に、枢機卿としての名義教会であるサン・ジョバンニ・レオナルディ教会のアントニ・サミィ・エルソン主任司祭(向かって右端)始め助任司祭と小教区財務委員の信徒の方の訪問を受け、さらに主任司祭と一緒に教皇庁儀典室のモンセニョールを訪問し、10月9日夕方6時に予定されている着座式の打ち合わせも行いました。ローマのどちらかというと郊外の住宅地にある小教区であり、長年、枢機卿の名義教会になることを申請していてやっと夢が叶った。住宅街の共同体なので、日曜のミサの参加者は大勢であり、様々な活動のある教会だ。当日は日本からの訪問者も大勢いるだろうし、当小教区出身の司祭や司教も来るので、聖堂に入りきらない場合は、隣の学校のグランドで野外ミサをするとのことです。いまから楽しみです。イタリア語ですが、小教区のホームページです。なお司牧を担当しているのは16世紀に聖ジョバンニ・レオナルディが創立したOMD(Ordo Clericorum Regularium Matris Dei)と言う修道会司祭ですが、この会の正式名称をどのように邦訳するのか思案中です。

その間に、イタリア国政放送RAIのテレビのインタビューがあり、さらには国際カリタスの夏の聖年の青年行事の打ち合わせや、国際カリタス法務委員会との顔合わせなど、盛りだくさんでした。

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バチカン周辺は思ったほどの人出ではなかったものの、聖年の巡礼団が多く集まり、サンタンジェロ城付近からコンチリアツィオーネ通りにサンピエトロ大聖堂までまっすぐに700メートル近い特別通路が設けられてあり、途中信号などがあるのでボランティアの時間調整や誘導にしたがって、祈りとともに歩んでいました。サンタンジェロ城の近くに登録ブースがあり、ここで先頭を行く十字架を貸してもらえるようです。

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ローマ市内は未だにそこら中で道路工事をしていましたが、昨年末に枢機卿親任式で訪れた際には絶対終わるのは不可能と思ったバチカン周辺の工事は、なんと見事に終わり、閉鎖されていた地下トンネルなども再開して、渋滞も少なくなっていました。ただ、今回も国際カリタス事務局のすぐ近くの小さなホテルに泊まったのですが、お値段が昨年とは比べものにならないくらい高騰していました。

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教皇様は宿舎であるサンタマルタの家に戻られていますが、パロリン国務長官によれば、二ヶ月本当に休んでくれれば、なんとか復帰できるだろう。教皇様がしっかりと休むようにすることが、我々の務めだと言われ、回復の度合いにもよりますが、いままでのようなペースでの仕事は難しくなるのでスタイルを変更しなくてはならないとのことでした。どうか続けて、教皇様のためにお祈りください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第204回、四旬節第5主日のメッセージ原稿です。

四旬節第五主日C
週刊大司教第204回
2025年4月6日

ヨハネ福音は、「姦通の現場で捉えられた女」の話を伝えています。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言うイエスの言葉がよく知られています。もちろんこの場において、本当に罪を犯したことのないものは、神の子であるイエスご自身しかおられません。さすがに神に挑戦するような思い上がった人は、当時の宗教的現実の中で、そこにはいなかったと福音は伝えています。

しかし同じことが、今の時代に起こったとしたらどうでしょう。とりわけ、バーチャルな世界でのコミュニケーションが匿名性の影に隠れて普及している今、同じことが起きたのであれば、あたかも自分こそが正義の保持者であるというような論調で、この女性を糾弾する声が多く湧き上がるのではないでしょうか。何という不遜な時代にわたし達は生きているのでしょう。時にその不遜さは、自分が虐げている弱い相手に対して、自分に対する感謝が足りないなどと、さらにとんでもない要求すらして相手を糾弾します。

この福音の物語は、時代と文化の制約があるとはいえ、共犯者であるはずの男性は罪を追及されることがなく、女性だけが人々の前に連れ出され断罪されようとしています。同じ罪を形作っているにもかかわらず、女性だけが批判される構図は現代でも変わりません。それどころか、ハラスメントなどの暴行や虐待の事案にあって、あたかも被害者に非があるかのような批判の声が聞かれることすらあります。

神の愛といつくしみそのものであるイエスは、犯された罪を水に流して忘れてしまうのではなく、ひとり責めを受けいのちの尊厳を蹂躙されようとしている人を目の前にして、その人間の尊厳を取り戻すことを最優先にされました。もちろん共同体としての秩序と安全を守ることは大切ですし、社会においてもまた宗教共同体においても、掟が存在しています。

イエスの言葉は、掟を守ることに価値がないとは言いません。イエスの言葉は、掟が前提とするひとり一人の人間の尊厳に言及しています。なぜならばその尊厳ある一人一人が共同体を作り上げているのであって、共同体が人を作り上げているからではありません。イエスは、そのような場に引き出され、辱められ、人間の尊厳を蹂躙されている女性の、そこに至るまでの状況を把握することもなく、掟を盾にして尊い賜物であるいのちの尊厳をないがしろにしている現実のただ中で、一人のいのちの尊厳を守ろうとしています。その存在を守ろうとしています。わたし達の時代は、誰を、そして何を最優先にしているのでしょうか。

今年の四旬節メッセージ「希望をもってともに歩んでいきましょう」で教皇様は、回心について三つの側面から語っておられます。その三つ目のポイントは、約束に対する「希望をもって」ともに歩むことですが、教皇様はそこにこう記しています。

「回心への第三の呼びかけは、希望への、神とその大いなる約束である永遠のいのちを信頼することへの招きです。自らに問いましょう。主はわたしの罪をゆるしてくださると確信しているだろうか。それとも、自分を救えるかのように振る舞っているのではないだろうか。救いを切望し、それを求めて神の助けを祈っているだろうか。歴史の出来事を解釈できるようにし、正義と兄弟愛、共通の家のケアに務めさせ、だれ一人取り残されることがないようにする希望を、具体的に抱いているだろうか」

わたし達は、神からのゆるしをいただいて生かされていると心に刻むとき、神の前で謙遜に生きることを学びます。神の前に謙遜になるとき、はじめて、同じ神の愛によっていのちを与えられ生かされている兄弟姉妹と、ともに歩むことの大切さを理解することが可能になります。ひとり一人の人間の尊厳を尊重し、虐げられている人の尊厳を回復しようとする主のいつくしみに倣いましょう。

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2025年3月29日 (土)

週刊大司教第203回:四旬節第四主日c

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ミャンマーのマンダレー付近を震源に、大きな地震が発生しました。隣国のタイでも被害が出ていますが、現在の政治状況から、情報がバンコクからの映像が多くあり、なかなかミャンマーからの情報が伝わってきません。断片的な情報でも、建物の倒壊など大きな被害が出ているようです。

本日午後3時頃のNHKのサイトによれば、「ミャンマーの国営テレビは29日、SNSに投稿し、今回のミャンマー中部で発生した大地震で全国でこれまでに1002人が死亡し、2376人がけがをしたと伝えました」とのことですので、まだまだ地方からの情報が集約されていないことでしょうから、被害はこれからさらに拡大するであろうと推測します。

ミャンマーはコロナ禍の真っ最中、2021年2月1日のクーデター以降不安定な国内状況が続いており、少数民族の多い周辺部では、戦闘が続いています。東京教区はミャンマーの教会をケルン教区と共に長年にわたって支援しており、ミャンマーの教会は姉妹教会です。

特にこの数年は、マンダレー教区で神学校の建設などを支援してきましたが、そのマンダレーが震源地に近いと言われていますので、大変心配しております。この数年の政情不安の中で、平和と民族の融和を訴えるカトリック教会への攻撃が続き、いくつかの教区では、カテドラルが爆撃されたりして、司教様自身が難民となっているところもあります。そこにこの大地震です。

今回の地震に遭遇された多くの方々、特にミャンマーとタイの皆さんのために、祈りたいと思います。

なお募金の問い合わせをいただいていますが、状況が明確になるのをしばらく待ち、カリタスジャパンの判断も待ちながら、週明けには、教区としての対応をお知らせすることに致します。

以下、本日午後6時配信、週間大司教第203回目のメッセージ原稿です。

四旬節第四主日C
週刊大司教第203回
2025年3月30日

ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

当時の社会状況とその背景にある宗教的な掟に基づいて、罪人とされている人々に寄り添おうとされたイエスに対して、その掟を厳しく追及する人々は不平を漏らします。

「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」

この不平の言葉は、今を生きるわたし達の間でも聞かれる言葉であります。こう語る人の視点は、実は「罪人」にあるのではなく、自分自身に向けられています。すなわち、「本来大切にされ受け入れられるべきなのは、正しいわたしであるはずだ」という心持ちであります。正義は自分にあるはずなのですから、それを否定し、正義を持たない人たちを優遇するイエスを、理解することができません。

東京ドームのミサの説教で、教皇フランシスコは、「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求められました。神のいつくしみの深さに包まれ、その行動の原理に倣うことをわたしたちに説いておられます。

弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。父親の価値基準は正しさにあるのではなく、家族という共同体に繋がって生かされているのかどうかにあります。ですから弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げるのです。

共同体の絆から離れていることは、いのちを生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人はいのちを十全に生きることができるのです。父親の優しさとは、罪に対して目をつむることではなく、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心であって、神の正義はそこにあります。

今年の四旬節教皇メッセージ、「希望をもってともに歩んでいきましょう」いおいて回心について三つの側面から語る教皇は、二つ目の側面である「ともに歩む」ことについてこう記しています。

「ともに歩む、シノドス的であること、これが教会の使命です。キリスト者は決して孤高の旅人ではなく、ともに旅するよう呼ばれています。聖霊は、自分自身から出て神と兄弟姉妹に向かうよう、決して自分自身を閉じないよう、突き動かしておられます」

その上で教皇は、ともに歩むことで共同体の絆を回復させることの大切さを説きこう記します。

「ともに歩むということは、神の子としてともに有する尊厳を基盤とした一致の作り手となるということを意味します。それは、人を踏みつけたり押しのけたりせず、ねたんだりうわべの振る舞いをしたりせず、だれも置き去りにしたり疎外感を覚えさせたりせずに、肩を並べて歩むということです」

自らの正義を振りかざし、他者を糾弾し排除しようとする誘惑は、現代社会に満ちあふれています。わたし達は、放蕩息子を迎え入れた父親のように、共同体の絆にいのちを回復させ、ともに歩もうとする姿勢が、求められています。

 

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