カテゴリー「説教原稿」の22件の記事

2023年2月21日 (火)

2023年堅信式ミサ@清瀬教会

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2月19日の日曜日、清瀬教会で、9名の方の堅信式ミサを行いました。堅信を受けられたみなさん、おめでとうございます。

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堅信式ミサは、関係者だけで、午後2時からささげられましたが、その前に午前10時から、清瀬教会の司牧訪問のミサも捧げました。前回の訪問が2018年でしたので、その間にコロナ禍が挟まれて、5年ぶりとなりました。午前中のミサは、聖堂一杯のみなさんにお集まりいただきました。歓迎していただき、ありがとうございます。

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清瀬教会を担当するのは、お隣の秋津教会の主任司祭でもある野口神父様です。清瀬教会の前任の主任司祭であった西川師が倒れられ入院されて以来、野口神父様に兼任をお願いしています。またこの日の堅信ミサには、かつてこの教会で司牧実習をしていたコンベンツアル会の外山助祭と、いつもは秋津教会で司牧実習をしている東京教区の今井神学生も参加されました。

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以下、当日の堅信式ミサの説教録音を文字おこししたものです。

2023年2月19日 清瀬教会堅信式 年間第7主日

堅信を今日受けられる方々、堅信の秘跡の意味は、準備の間に勉強されたことと思います。それは、聖霊の照らし、聖霊の恵みを受けることによって、成熟した信仰者としての道を歩みはじめる、信仰生活における成人式のようなものだと思います。

使徒言行録に書いてある初代教会のとき、五旬祭の日に聖霊が弟子たちと聖母マリアに降り、そこで弟子たちが、いろんな国の言葉でイエスキリストの福音を語り始めました。あれが最初の聖霊降臨の出来事で、そこから教会は福音を宣教する道を歩みはじめています。
ですから、堅信の秘跡によって聖霊を受けることの一番大きな目的は、その日から聖霊の照らしを受けて、弟子たちがそうであったように、福音を多くの人たちに告げ知らせていくということです。

その五旬祭のあの日、聖霊降臨が起こったときの出来事をよくみてみましょう。
聖霊降臨が起こるまで、弟子たちは恐れていました。先生であるイエスが殺されてしまい、自分たちは暗闇に放り出されたようになってしまった。どうしたらいいかわからない。そんな思いを抱えて集まり、隠れていたんですね。
その隠れていた弱々しい弟子たちが、聖霊を受けることによって大きく変えられたのです。

その日からいろんな国の言葉で、…もちろんいろんな言葉で話せるようになったら嬉しいですが…、それよりももっと大事なことは、すべての人にわかる言葉で福音を述べ伝えはじめたということです。つまり、隠れていた弱々しい人が、聖霊を受けることによって福音を述べ伝える者となった。それが成熟した信仰者として生きていく、信仰の成人式です。

昔は、堅信の秘跡はキリストの兵士になることと言いました。堅信を受けることによって、キリストのために世の中で戦ってゆく兵士になるんだと。当たらずとも遠からずだと思います。わたしたちの目的は、兵士となって力で戦うのではなくて、福音を述べ伝える戦いの兵士になっていくということです。わたしたちは、堅信を受けることによってキリストの兵士となっていくのです。

ですから、今日、堅信を受けられるお一人おひとりは、やはり同じように、神様のために福音を述べ伝える者となっていかなければならないわけですね。

ところが、ここからがものすごく大きな問題なのです。
いままで何千人、何万人という人が堅信を受けてきました。私自身、司教になってから何人の人に堅信を授けてきたかも覚えていません。それくらい沢山の人が堅信を受け、成熟した信徒として、キリストの兵士として歩みはじめているはずなのですが、あまり成果が上がっていないんですよ。

これだけ沢山の人が堅信を受けたんですから、日本中そこら中に、キリストの福音を耳にしてキリストの福音に従おうと決意する人たちが、沢山現れてきてもおかしくないですよね。ところがいまだに日本でカトリック信者は、本当にほんの少しですよね。人口の1%以下。40万人いればいい方だと思いますけれども、その状態から変わらないわけです。一体何が足りないんだろう。せっかく堅信を受けたのに、何が足りないんでしょう。

一番大きいのは、自覚が足りないんです。洗礼を受けて堅信を受けることによって、自分がキリストの福音を述べ伝える者となったんだという自覚が、足りないのだと思います。

もう一つは、聖霊に対する信頼です。聖霊に対する信頼が足りないのだろうと、わたしは思っています。

教会は、あの第二バチカン公会議もそうですけれども、最初にできたときから常に、聖霊によって導かれています。
様々なことが教会の歴史の中では起こってきましたが、いままで連綿として信仰が伝わってきた一番大きな理由、それは、わたしたちが聖霊によって導かれているからです。ですから、わたしたちがその聖霊の働きを、どこまで信じて、どこまで信頼しているのかが大切なのです。

聖霊を受けたからといって、聖霊が、その日からわたしたちをスーパーマンに変えてくれるわけではない。急に変身して、勇気あるすごい人になることはないです。

聖霊は本当に神様の息吹なのです。後ろからフーッと吹いてくる息でしかないんですよ。そして、それが力を発揮するのは、わたしたちがその息吹の方向に従って前に向かって進もうとするときです。そのとき、後ろから来る風が力を発揮するんです。わたしが斜め横に向かって進むとき、真っ直ぐ吹いている風はあまり効きません。横を向いて全然違う方向に行こうとすれば、風は全く力を発揮することができないんです。

聖霊の恵みは、確かにお恵みとして、わたしたち一人ひとりに与えられます。7つの賜物があると聞きましたよね、堅信の勉強をしたときに。
つまり、聖霊の7つの賜物は、後ろから真っ直ぐ、フーッと神様の息として吹きかけられている。それが本当に効果を発揮するためには、わたしたちが真っ直ぐその息吹と同じ方向に向かって、歩いて行くことが必要なのです。

聖霊の息吹がフーッと吹いている、その方向と同じ方向に向かってわたしたちが歩いているというのは、とても大切な条件なのですよ。
「風がどこから吹いてくるのか、人は誰も知らない」という典礼聖歌の歌がありますけれども、まさしく神の息吹ですから、目に見えないですよね。風が一体どこからどこへ向かって吹いているのか、パッと見ただけじゃわかんないわけですよね。
同じように聖霊も、一体どこからどこに向かって吹いているんだろうということがわからなければ、わたしたちはその風と同じ方向に向かって進んで行くことはできないわけですよ。ですから、わたしたちにとって大切なのは、風はどこからどこに向かって吹いているのかということを、知ろうとすることです。

では、それはどうやって知ることができるのでしょう。
教会に来ていれば、シノドスという言葉を耳にしたことがあるかもしれない。もしもまだならば、今日から是非、シノドスというのは何だろうと考え、学んで頂ければと思います。東京教区や教区ニュースでも、YouTubeのチャンネルで短いビデオをいろいろ作っていますので、是非ともご覧ください。

シノドスというのは、共に歩む、という意味です。教会はシノドスの教会なんだと、教会のあり方はシノドスなんだということを教皇様がおっしゃって、それでいま「教会が、共に歩む教会になりましょう」ということを呼びかけています。

なぜならば、そうすることではじめてわたしたちは、聖霊がどっちに向かって吹いているのかを知ることができるからです。自分一人ではわからないけれども、みんなで一緒になって、集まって、互いが感じていること、互いが思っていることを話し合い、分かち合って、相手の言うことによく耳を傾け、自分の語りたいことを語り、そして、一緒に祈って、一緒に助け合って、道を進んで行くときにはじめて、どちらの方向に神様は息を吹いているのかがわかるんです。その方向を見誤っていると、聖霊は働かないのですよ。ですから、みんなで一緒になって正しい方向を見極めてゆくことは、とても大切なことです。

その見極めの取り組みの一つが、さっきもお話した、1965年まで開かれていた第二バチカン公会議です。
その公会議には、当時のすべての司教さんたちが世界中からバチカンに集まり、一緒になって何年間も会議をしたのです。
その中で、一緒に祈り、一緒に分かち合い、耳を傾け合い、そして互いに手を取り合って、助け合って進んでいきましょう、という作業を重ねていきました。それによって、一体いまの教会に対して、神様はどちらの方向へ風を吹いておられるのかを、見極めようとしたんです。それを、教会がよく使う言葉で「識別する」と言います。

神の意志を識別する。識別という言葉をよく使いますけれども、それは聖霊がどちらに向かって吹いているのか知ろうとする作業のことです。
ですから第二バチカン公会議はまさしく、その識別の作業でしたし、いまもなお、それが続けられているはず、なんですよね。ところがわたしたちは、そうしたことを時間が経つにつれて忘れてしまうわけです。

そこで教皇様はあらためて、シノドス的な教会、つまり、みんなで一緒になって支え合い、みんなで一緒に祈り合い、みんなで一緒に道を見つけてゆく、識別をする教会であることが当たり前の教会の姿にしましょうと呼びかけられた。聖霊がどちらに吹いているのかを、常に知ることができる教会にと。そして、そちらに向かって歩いていけば、おのずと聖霊の力が教会に働いてくれるわけです。
ですから、みんなで一緒になって識別をするというのは、とても大切なことだと思います。

こうして、何人もの人たちが一緒に堅信を受けますね。
今日堅信を受ける皆さんも、自分一人だけが今日から成熟した信徒となるということではなくて、一緒になって、神様の息吹が吹いている方向を見極めてゆく、助け合ってゆく仲間ができたんだということを、是非とも忘れないでいて頂きたいと思います。そしてそれは、今日堅信を受ける方たちだけでなくて、この教会共同体と言われているこの教会に集まって来るすべての人にとっても同じです。

一緒になって、神様の息吹の吹いている方向性を見極め、そちらに向かって足を踏み出すことで、教会は常に、聖霊によって満たされ、聖霊に導かれ、聖霊に後押しされる豊かな教会になってゆくと思います。

聖霊の力を受けて、皆さんお一人おひとりが、今日から成熟した信仰者、キリストの兵士として、聖霊に信頼しながら、福音を述べ伝えてゆく者となることを、心から期待してお祈りしています。

 

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2023年2月11日 (土)

パウロ安次嶺晴美神父葬儀ミサ@東京カテドラル

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去る2月4日に帰天された東京教区司祭パウロ安次嶺晴美神父様の葬儀ミサは、2月8日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われました。

安次嶺神父様の略歴については、こちらをご覧ください

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安次嶺神父様は、東京教区が新潟教区を助けるために司祭を派遣してくださった、その第一号でした。新潟教会で3年間活躍してくださり、新潟にも友人がたくさんおいででした。新潟教区の司祭団は、2月7日、毎月の司祭静修にあわせて、新潟のカテドラルに集まった司祭で、安次嶺神父様のために祈りをささげてくださったと、成井司教様から連絡をいただきました。

様々な病気を抱えられ、人工透析のために週三回は病院に通わなくてはならなかった中で、最後の任地となった茂原教会で、できる限りで頑張っておられましたが、病状が深刻になり、信徒の方々の手助けがなくては生活もままならない状況の中で、ペトロの家に移動していただきました。昨年末頃にはペトロの家での介護も難しくなり、もっと手厚い介護をしていただける施設への移動を調整していましたが、その間に様態は急変し、入院先の病院で、2月4日に亡くなられました。

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神父様の永遠の安息のために、どうぞお祈りください。なお、後日、カトリック府中墓地にある教区司祭共同納骨墓へ納骨いたしますが、その日程は追ってお知らせいたします。

以下、2月8日の葬儀ミサの説教原稿です。

パウロ安次嶺晴実師葬儀ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年2月8日

わたしたちは信じています。イエスはキリストです。イエスはわたしたちの罪の贖いのためにご自身をいけにえとしてささげ、その受難と死にあずかる者が、主ご自身の復活の栄光にも与るようにと招いておられます。神は、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この世界における人生の旅路を歩んでいます。

イエスはキリストです。すべての人をその懐における安息と永遠のいのちに招かれる救い主です。わたしたちは、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉を信じています。イエスをキリストと信じるわたしたちには、すべての人がその救いに与ることができるように、神の愛といつくしみ、あわれみを、ひとりでも多くの人に伝え分け与える使命があります。

司祭は叙階式の時に、「福音をのべ伝え、カトリックの信仰を表すことによって、神のことばに奉仕する務めを誠実に」果たすことを約束します。また司祭は、「教会共同体の助けのもとに、貧しい人、苦しむ人、助けを必要とするすべての人に、主の名において、神のいつくしみを示しますか」と問われて、「はい、示します」と約束いたします。

1987年3月15日に司祭叙階を受けた安次嶺神父様も、その日同じように力強く約束したことだと思います。安次嶺神父様は1949年9月生まれですから、司祭に叙階されたときは37歳であったかと思います。それから35年間の司祭としての人生において、様々な困難に直面しながらも、安次嶺神父様は、すべての人がキリスト・イエスの約束された救いに与ることができるように、イエスの愛といつくしみを、ひとりでも多くの人に分け与えようと使命を果たされてきました。

この数年、ただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面しているのですが、賜物である人間のいのちを、まるでもて遊んでいるかのような方法で、暴力的に奪い取る理不尽な事件も続発しています。

特にこの3年間、様々ないのちの危機に直面する中で、教皇フランシスコは連帯の重要性をたびたび強調され、感染症が拡大していた初期の段階、2020年9月2日の一般謁見で、 「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」といのちを守るための連帯が必要だと強調されました。

2019年11月。教皇様はここ東京で、東北被災者に向かってこう言われました。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

暗闇に輝く希望の光は、互いに助け合う人との出会いから生まれ、連帯を通じて強められます。しかし残念ながら、実際の世界ではその連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、この歴史に残る困難の中で、暴力がいのちを危機にさらしています。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。わたしたちには互いに助け合うものとして、多くの人との出会いが必要です。その出会いの中での支え合いが必要です。

安次嶺神父様が以前、東京教区ニュースのインタビューに答えられた記事を読んでみると、何か劇的なことがあったわけではないが、お母様を通じてプロテスタント教会に出会い、さらにカトリックに改宗し、そして様々な人との出会いがあって、それによって司祭へと導かれていった人生の歩みが記されていました。人との出会いが、司祭召命への道となったことが述べられていました。

忠実に小教区での司牧に携わってこられた安次嶺神父様の司祭としての働きに一つ特筆するところがあるとすれば、それは東京教区と新潟教区の協力関係の中で、東京から新潟へ派遣された一番最初の司祭であったことだと思います。わたしが前任であった佐藤司教様が新潟教区司教であった時代です。そこでの毎日の生活の中でも様々な人との出会いを通じて、安次嶺神父様は多くの方と強い人間関係を築き、その後もしばしば新潟の友人たちを訪問されていました。

最後の任地となった茂原教会では、特に外国籍の信徒の方々を共同体にどうつなげていくのかに心を配られていたようです。残念ながら、様々に抱えておられた病気のために、特に定期的に透析を受けなくてはならなかったこともあり、5年間茂原教会で働かれたあと、2019年10月にはペトロの家に来られ療養生活を始められました。73歳での帰天は早すぎると感じますが、特に人生の終盤では、様々な病気を抱える中でご自分の思い通りにならないもどかしさの中で、その苦しみを祈りの内にささげられる毎日であったと思います。

わたしたちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、地上で信仰を生きているわたしたちの教会が、天上の教会と結ばれていることも信じています。ですからわたしたちは生きている互いのために祈るように、亡くなった人たちのために祈り、また聖人たちの取り次ぎを求めて祈ります。そのすべての祈りは、一つの教会を形作っている兄弟姉妹のための、生きた祈りであります。

安次嶺神父様の永遠の安息を祈ると共に、わたしたちも人生における出会いを大切にし、その中で互いに助け合い連帯しながら、福音をあかしする道を共に歩んで参りましょう。

 

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2023年2月 7日 (火)

2023年日本26聖人殉教祭@本所教会

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2月5日は日本26聖人殉教者の記念日です。今年は主日と重なったため、特別にこの日を祝った教会などをのぞいて、もちろん主日のミサが優先されました。(なお現在、日本のこういった記念日が主日と重なった場合に、その年の記念日を移動することを司教協議会で検討中です)

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しかし、毎年、26聖人の殉教祭を祝っているところでは、この日曜日を許可を得て殉教者の記念日としたところもあったと思います。東京教区の本所教会もその一つです。長年にわたって、2月5日に一番近い主日を、殉教祭として祝ってきました。以前にも記しましたが、わたしも1972年頃から10年近くは、毎年、他の神言会の神学生たちと一緒に名古屋から、この殉教祭に参加していました。

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今年の本所教会での殉教祭には、聖堂入り口のところに、26聖人それぞれについての紹介のパネルも用意され、ミサも、ラテン語あり、グレゴリアンの天使ミサありと、かつての殉教祭を彷彿とさせるお祝いでした。寒い日でしたが、東京はお天気に恵まれ、本所教会の裏手にはスカイツリーもそびえ立ってきれいに見えていました。

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ミサ後には、本所教会で数年前に作成したという26聖人殉教祭の法被をまとって、教会のカリタスの業について、30分ほどお話をさせていただきました。参加してくださった皆さん、ありがうございました。

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以下、当日の説教の原稿です。

日本26聖人殉教者殉教祭ミサ
2023年2月5日
本所教会

イエス・キリストの十字架での受難と死にこそ復活の栄光があると信じるわたしたちは、自分の十字架を背負ってついてきなさいと命じられる主の言葉を心に刻みながら、現代社会にあっていのちを生き続けています。

特にこの三年間、新型コロナ感染症の状況の中で、わたしたちは、世界中のすべての人たちと一緒になっていのちの危機に直面し、どこへ進めば光が見えるのか分からないままに、暗闇の中を光を求めて彷徨い続けてきました。

いのちが危機に直面し続けるいまだからこそ、いのちは神の似姿として創造された尊厳ある存在であり、すべてのいのちは例外なく神からの賜物として与えられたと信じるわたしたちには、この世界の現実の中で特にいのちの意味について深く考え、責任を持って語り行動する義務があります。

いのちの尊厳を守りながら生きることは福音を生きることであると、教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」で強調されました。

教皇様は回勅に、「人間のいのちを守るようにという神のおきての深遠な要素は、すべての人に対して、またすべての人のいのちに対して、敬意と愛をしめすようにという要求して現れます」と記し、ローマ人への手紙を引用して、「愛は隣人に悪を行いません」と述べています。(41)

それにもかかわらず、わたしたちが直面するいのちの危機は深まり続けています。感染症によってもたらされた危機は、わたしたちを疑心暗鬼の闇に引きずり込みました。先行きが分からない中で、人は自分の身を守ることに躍起になり、心は利己的になりました。利己的になった心は余裕を失い、社会全体は寛容さを失いました。寛容さを失った社会は、暴力的、攻撃的になり、異質な存在を排除して心の安定を求めるようになりました。その結果は、深まる差別感情であり、異質な存在の排除であり、究極的には暴力を持って隣人のいのちを奪う戦争の勃発です。

この感染症の危機の中で、皆で光を求めなくてはならないときに、ミャンマーではクーデターが起き、すでに二年になるのに平和と安定への糸口は見えず、一年前にはウクライナで戦争まで始まりました。

教皇フランシスコは、このパンデミックの状況の中で、幾たびも、連帯すること、支え合うことが、この困難から抜け出す唯一の道であると強調されてきましたが、実際にわたしたちの前で展開しているのは、連帯や支え合いではなく暴虐と排除です。

このようないのちの危機が深まっているときだからこそ、いのちを賜物として与えられているわたしたちは、そのいのちを守ることを、いのちの尊厳に敬意を払うことを、互いのいのちに愛のまなざしを向けることを、あらためて愚直に強調し続ける義務があります。

教会にあって、殉教を遂げた多くの聖なる先達は、自分の十字架を背負ってついてきなさいと呼びかけられたイエスに忠実に生きることによって、主ご自身の受難と死という贖いの業に与り、それを通じていのちの福音を身をもってあかしされた方々です。

聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。自ら十字架での死を遂げることで、逆説的に、いのちの尊厳をあかしされた方々です。イエスの福音にこそ、すべてを賭して生き抜く価値があることを、大勢の眼前であかしされた方々です。すべてを投げ打ってさえも守らなくてはならない価値が、いのちの福音にあることをあかしされた方々です。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、 「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」と苦しみの意味を記しています。

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。

26人の聖なる殉教者たちは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という、ガラテヤの教会にあてられたパウロの言葉を、その人生をもって生き抜き、証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という、マタイ福音書に記されたイエスの言葉を、その人生をもって生き抜き、証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、そのいのちを失うこと以上に価値のあることなのだという確信を、殉教において証しいたしました。

26人の聖なる殉教者たちは、混沌としたいのちの危機の中で生きるわたしたちに、福音を生き抜くとはどういう意味があるのか、その答えを示されました。

「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と約束された主は、わたしたちと歩みを共にしてくださいます。ともに歩みながら、わたしたちが与えられた賜物であるいのちを、神が望まれたように充分な意味を持って生きることを求められています。わたしたちは、ともに歩んでくださる主に励まされながら、賜物であるいのちを守ることを愚直に叫び続け、互いに連帯し支え合うことで、主とともにその愛に生き、いのちを生きる希望を生み出すものでありたいと思います。

 

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2022年12月29日 (木)

一年の締めくくりに

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12月28日の一般謁見で教皇様ご自身が呼びかけられたように、名誉教皇ベネディクト十六世の健康状態が悪化しているようです。名誉教皇様のためにお祈りをいたしましょう。ベネディクト十六世は引退後、バチカン内のバチカン市国政庁近くにある修道院にお住まいでした。(上の写真は2007年のアドリミナで)

バチカンニュースによれば、教皇フランシスコの呼びかけは以下の通りです。

「すべての皆さんに、沈黙のうちに教会を支えている名誉教皇ベネディクト16世のために、特別な祈りをお願いしたいと思います。名誉教皇は重い病状にあります。ベネディクト16世の教会への愛のこの証しにおいて、主が最後まで彼を慰め、支えてくださるよう祈りながら、名誉教皇を思いましょう」

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一年の締めくくりとして、主の降誕の祝日の翌日、12月26日(月)の午前中、東京教区の聖職者の集いが行われました。伝統的に年の終わりには神に感謝をささげながら「テ・デウム」を歌うことから、この集まりも「テ・デウム」と呼ばれています。東京教区で働いてくださっている司祭を中心に、教皇大使もお招きして、聖体賛美式を行い、終わりには教皇大使の「日本語」でのあいさつに続いて、ラテン語で「テ・デウム」が歌われました。

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ラテン語の「テ・デウム」は、そもそも音程が高いので歌いにくいのはさておき、年々、諳んじて歌える神父様も減ってきていると、皆で歌う様子を耳にしながら感じます。

以下、聖職者の集いでの、わたしの説教の原稿です。

2022年東京教区テ・デウム
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年12月26日

主ご自身が幼子として誕生された受肉の神秘を祝う降誕祭は、あらためていのちの尊さをわたしたちに教えています。その小さないのちは、しかし、暗闇に輝く希望の光であることを天使たちは輝く栄光の光の中で羊飼いたちに告げています。暗闇が深ければ深いほど、小さな光であっても輝きを放つことができます。

いまわたしたちが生きている時代を見つめるならば、希望と絶望がまるで天秤にかけられて、時に希望が力を持つかと思えば、絶望へと大きくシフトすることを繰り返しています。残念なことに、世界は神からの賜物であるいのちへの尊厳を最優先とすることなく、いのちを生きているわたしたちは、危機に直面しながら、希望と絶望の繰り返しのなかでこの数年間を生きています。

特にこの三年におよぶ感染症の状況は、よい方向に向かっているとは言え、わたしたちを取り巻く暗闇を深めています。その暗闇がもたらす不安は、多くの人の心を疑心暗鬼の闇に引きずり込み、他者の叫びに耳を傾けることのない利己的な姿勢を強めさせています。感染症の状況が終わっていない闇の中で、わたしたちの姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデター後の不安定な状況や、ウクライナにおけるロシアの侵攻がもたらす戦争状態によって、暗闇はさらに深められています。暗闇は世界から希望を奪っています。暴力が横行する中で、いのちを守るためには互いに助け合うことが必要であるにもかかわらず、深まってしまった利己的姿勢は、自らの命を守るために、暴力には暴力を持って対抗することを良しとする風潮すら生み出しています。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調し、あくまでも愚直に暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、いのちの創造主である神への挑戦です。

困難の中で、神父様方にはそれぞれの現場において、困難に直面している多くの方に、それぞれの方法で、手を差し伸べてくださったと思います。皆様のお働きに心から感謝申しあげます。また教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっていることに、心から感謝申し上げます。多くの人が集まる教会であるからこそ、責任ある隣人愛の行動を選択し続けたいと思います。

ご存じのように、いまわたしたちの国では宗教の意味やその存在が問われています。元首相の暗殺事件以来、宗教団体がその背景にあると指摘され、それが宗教全体の社会における存在の意味を問いかけるきっかけとなりました。

宗教は、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教が、信仰を強制して信教の自由を踏みにじったり、いのちを暴力的に奪ったり、生きる希望を収奪するような原因を生み出してはなりません。家庭を崩壊させたり、犯罪行為を助長したり、いのちを生きる希望を絶望に変えたり、人間の尊厳を傷つけるようなことは、わたしたち宗教者の務めではありません。教会はすべての人の善に資する存在として、この社会の現実のただ中で、いのちを生かす希望の光を掲げるものでなければなりません。

その中で、保守的傾向を強める社会全体の風潮に流されるように、異質な存在を排除することを良しとする傾きが、教会の中にも見受けられるようになりました。一見、教会の教えを忠実に守るかのように見せかけながら、その実、異質な存在への攻撃的な言動をすることが、神の愛とあわれみを証しするとは思えません。教会は一部の選ばれた人たちだけの安全地帯ではなく、神が創造されたすべてのいのちを抱合する共同体です。排除ではなく、ともに歩むことを求めている神の民です。他者を攻撃し、排除する様な価値観を、それも多様性の一つだと主張して承認させようとする考え方には同調することはできません。あらためて強調しますが、教会はどのような形であれ、神の賜物であるいのちに対する攻撃を、ゆるすことはできません。

教会のシノドスの歩みは続いています。新しい年のはじめ、2月から3月にかけて、各大陸別のシノドスが開催され、アジアの大陸シノドスも2月末にタイで開催されます。その後、今年の10月と、来年2024年10月の二会期に渡ってローマでの会議が開かれ、その結果を受けて教会は2025年の聖年を迎えます。聖霊が教会をどこへと導こうとしているのか、共同体の識別の道はこれからも続けられます。東京教区にあっても、今後も小グループによる分かち合いを通じた聖霊の導きへの識別を深め、互いに耳を傾けあい支え合うことが当たり前である教会共同体へと変貌していきたいと思います。これからも、シノドスに関する呼びかけは継続していきたいと思います。

この困難な状況のなかにあって、私たちは、互いに耳を傾け、ともに現実を解釈し、現代の時のしるしを見極め、聖霊の導きに勇気を持って身を委ねる共同体でありたいと思います。

この一年にいただいた神様の祝福と守り導きに感謝しながら、新しい年、2023年に向けて、ともに歩みを進めていくことができるように、聖霊の照らしと導きを祈りましょう。

皆様、この一年間、本当にありがとうございました。皆様のお祈りと、支えに、心から感謝です。新しい年も、神様の祝福に満ちた平和な一年となりますように。

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2022年12月14日 (水)

日本聖書協会クリスマス礼拝@銀座教会

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一般財団法人日本聖書協会(JBS)は、聖書協会世界連盟(UBS)に所属している140を超える聖書普及のための団体の一つで、「聖書翻訳、出版、頒布、支援を主な活動として全世界の聖書普及に努めて」ている組織で(ホームページから)、基本的にはプロテスタント諸教派が中心になって運営されています。もちろん聖書の普及は福音宣教に欠かせない重要な役割であり、カトリック教会の体力がある国では、カトリック教会としても聖書の翻訳や普及活動に携わっていますが、日本を含めた宣教地では、カトリック教会も聖書協会の活動に協力しながら、一緒になって聖書の普及に努めてきました。

特に、現在カトリックの典礼などを活用させていただいている新共同訳の事業を通じて、現在の聖書協会共同訳に至るまで、そのかかわりは深くなっています。

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昔、わたし自身もガーナで働いていたときに、首都アクラにあるガーナ聖書協会に、しばしば聖書の買い付けに出掛けたことを懐かしく思い出します。私が働いていた部族の言葉そのものの翻訳はありませんでしたが、それと同じ系統の言葉での翻訳が新約聖書にあり、それを大量に買っては、訪れる村で信徒の方に配布していました。(なお旧約は、英語の聖書から、その場でカテキスタが翻訳してました)

そういった協力関係もあり、日本聖書協会の理事会には、司教団から代表が一人理事として加わっていますが、ありがたいことに司教団の代表の理事は、聖書協会の副理事長を任ぜられています。現在は私が、司教団を代表して理事として加わり、副理事長を拝命しています。

そのような関係から、先日、12月8日の午後、聖書協会の主催になるクリスマス礼拝で、はじめて説教をさせていただきました。礼拝は数寄屋橋の近くにある日本基督教団銀座教会。ここは有楽町の駅の近くの表通りに面したビルの中にあり、正面に立派なパイプオルガンがある教会です。

感染対策のため、入場制限がありましたが、多くの方が集まってくださり、その中にはカトリックの方も多くお見えでした。

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以下、当日の説教の原稿です。

日本聖書協会クリスマス礼拝
銀座教会
2022年12月8日15時
「光は暗闇に輝いているのか」 ルカ福音2章8節から12節

世界はあたかも暴力に支配されているかのようであります。この数年、わたしたちはただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面し続けています。この状況から抜け出すためにありとあらゆる努力が必要なときに、あろうことか、神からの賜物である人間のいのちに暴力的に襲いかかる理不尽な事件が続発しています。

例えば2021年2月に発生したクーデター後、ミャンマーでは政治的に不安定な状況が継続し、思想信条の自由を求める人たちへの圧迫が横行し、義のために声を上げる宗教者への暴力も頻発しています。2022年2月末には、大国であるロシアによるウクライナ侵攻が発生し、いまに至るまで平和的解決は実現せず、戦争に翻弄されいのちの危機に多くの人が直面しています。 この状況の中で、戦いに巻き込まれたり、兵士として戦場に駆り出されたりして、いのちの危機に直面する多くの人たち。独裁的な権力のもとで、心の自由を奪われている多くの人たち。様々な理由から安住の地を追われ、いのちを守るために、家族を守るために、世界を彷徨い続ける人たち。乱高下する経済に翻弄され、日毎の糧を得る事すら難しい状況に置かれ、困窮している多くの人たち。世界中の様々な現実の中で、いま危機に直面している多くのいのちに思いを馳せたいと思います。尊いいのちはなぜこうも、力ある者たちによってもてあそばれるのでしょうか。

理不尽な現実を目の当たりにするとき、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、それに対する明確な答えを見出すことができずにいます。同時に、苦しみの暗闇のただ中に取り残され彷徨っているからこそ、希望の光を必要としています。その光は闇が深ければ深いほど、小さな光であったとしても、希望の光として輝きを放ちます。2000年前に、深い暗闇の中に輝いた神のいのちの希望の光は、誕生したばかりの幼子という、小さな光でありました。いかに小さくとも、暗闇が深いほど、その小さないのちは希望の光となります。誕生した幼子は、闇に生きる民の希望の光です。

この2年半の間、様々ないのちの危機に直面する中で、カトリック教会のリーダーである教皇フランシスコは、互いに連帯することの重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日、感染症対策のため一時中断していたバチカンにおける一般謁見を再開した日には、集まった人たちにこう話されています。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です。」

しかし残念なことに、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は実現していません。「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。わたしたち人間の限界です。調和を求めるがあまりに、みんなが同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。様々な人がいて当然だからと多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

暴力が支配する世界で、いま、わたしたちの眼前で展開しているのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐であります。暴力が世界を支配するかのような現実を目の当たりにし、多くの命が直面する悲劇を耳にするとき、暴力を止めるためには暴力を使うことを肯定してしまうような気持ちへと引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調し、暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、いのちの創造主である神への挑戦です。

ローマ教皇就任直後の2013年7月に、地中海に浮かぶイタリア領のランペドゥーザ島を訪れ、アフリカから流れ着いた難民たちとともにミサを捧げたとき、教皇は次のように説教で語りました。

「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

教皇フランシスコは、自分の安心や反映ばかりを考える人間は、突けば消えてしまうシャボン玉の中で、むなしい繁栄におぼれているだけであり、その他者に対する無関心が、多くのいのちを奪っていると指摘し続けてきました。

2019年11月に日本を訪れたときには、東京で東北の大震災の被災者と出会い、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べて、連帯こそが希望と展望を生み出すのだと強調されました。

わたしは、1995年に初めてルワンダ難民キャンプに出掛けて以来、昨年まで、カトリック教会の海外援助人道支援団体であるカリタスに、様々な立場で関わってきました。その中で、一つの出会いを忘れることができません。

2009年に、カリタスジャパンが支援をしていたバングラデシュに出掛けました。土地を持たない先住民族の子どもたちへの教育支援を行っていました。その支援先の一つであるラシャヒと言う町で、息子さんが教育支援を受けて高校に通っている家族を訪ねました。不安定な先住民族の立場でありとあらゆる困難に直面しながらも、その家族のお父さんは、私が見たこともないような笑顔で、息子さんの将来への明るい希望を語ってくれました。その飛び抜けて明るい笑顔に接しながら、95年にルワンダ難民キャンプで、「自分たちは世界から忘れ去られた」と訴えてきた難民のリーダーの悲しい表情を思い出していました。

人が生きる希望は、自分に心をかけてくれる人がいるという確信から、支えてくれる人がいるという確信から湧き上がってくるのだと言うことをその出会いから学びました。

「いのち」の危機に直面する人たちに関心を寄せ、寄り添い、歩みをともにするとき、そこに初めて希望が生まれます。衣食住が整うことは不可欠ですが、それに加えて、生きる希望が生み出されることが不可欠です。衣食住は第三者が外から提供できるものですが、希望は他の人が外から提供できるものではありません。希望は、それを必要とする人の心から生み出されるものであり、そのためには人と人との交わりが不可欠です。

まさしくこの数年間、感染症による先の見えない暗闇がもたらす不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。この現実の中では、「調和、多様性、連帯」は意味を失い、いのちが危機にさらされ続けています。

この世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、励まし合い、連帯してともに歩むことです。そのために、神の愛を身に受けているわたしたちは、他者のために自らの利益を後回しにしてでさえ、受けた神の愛を、多くの人たちと分かちあう生き方が必要です。人と人との交わりを通じて、支え合いを通じて、初めていのちを生きる希望が心に生み出され、その希望が未来に向けての展望につながります。

暗闇の中に誕生した幼子こそは、神の言葉の受肉であり、神の愛といつくしみそのものであります。そのあふれんばかりの愛を、自らの言葉と行いで、すべての人のために分かち合おうとする神ご自身です。わたしたちはその神ご自身の出向いていく愛の行動力に倣いたいと思います。

いのちの尊厳をないがしろにする人間の暴力的な言葉と行いにひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、いのちを賜物として与えられた、わたしたちの使命です。

いまこの国で宗教の存在が問われています。自戒の念を込めて自らの有り様を振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、良心に反して行動することを強いられてはなりませんし、共通善の範囲内において、良心に従って行動することを妨げられてはなりません。(カテキズム要約373参照)。

宗教は、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教を生きる者が、いのちを奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、いのちの希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

わたしたちはどうでしょう。キリストはいのちを生かす希望の光であり、わたしたちはそもそもこのいのちを、互いに助け合うものとなるようにと与えられています。わたしたちはすべての人の善に資するために、この社会の現実のただ中で、いのちを生かす希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。

神の言葉である御子イエスが誕生したとき、暗闇に光が輝きました。イエスご自身が暗闇に輝く希望の光であります。天使は、あまりの出来事に恐れをなす羊飼いたちに、この輝く光こそが、暗闇から抜け出すための希望の光であると告げています。わたしたち、イエスをキリストと信じるものは、その希望の光を受け継いで、暗闇に輝かし続けるものでありたいと思います。不安に恐れおののく心を絶望の闇の淵に引きずり込むものではなく、いのちを生きる希望を生み出し、未来に向けての展望を切り開くものでありたいと思います。輝く光であることを、自らの言葉と行いをもってあかしするものでありたいと思います。

祈ります。いのちの与え主である天の父よ。暗闇の中で小さな希望の光を輝かせたイエスの誕生に思いを馳せなが、わたしたちが暗闇を歩む現代世界にあって、互いに支え合い、連帯し、歩みをともにすることで、あなたが与えてくださった賜物であるいのちを、喜びと希望を持って生きることができますように。わたしたちに希望の光を掲げる勇気を与えてください。

ビデオは日本聖書協会のYoutube チャンネルに掲載されています。こちらのリンクです

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2022年11月22日 (火)

王であるキリストの主日@豊島教会

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王であるキリストの主日、池袋の近く、山手通り沿いにある豊島教会で堅信式ミサを行い、19名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。豊島教会は2019年以来、3年ぶりの堅信式でした。

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豊島教会では午前中9時半のミサのあと、昼12時から英語ミサも行われており、こちらにはガーナをはじめアフリカ出身の方も参加されているそうです。そのようなわけで、19名の堅信を受けられた方々のなかにも、様々な文化をルーツにもっている人が含まれていて、教会共同体の普遍性を象徴していました。

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説教でも触れましたが、来週の日曜から、典礼式文の翻訳が変わります。その意味で、今週は、これまで慣れ親しんできた言葉との別れの週でもあります。ラテン語から日本語に変わった小学生の頃のことを思い出しますが、そのときもいろいろと試行錯誤を経て、数年をかけて定まっていったと思います。明確に憶えているわけではありませんが、現在の式文の「信仰の神秘」のあとの応唱は、二つ記されていますが、この二つ目も最初はなかったもので、使い始めてから典礼の先生たちの指摘で後に加えられたものだったと記憶しています。これからも様々な試行を経て、さらにはまだ決定していない部分も含めて、一冊のミサ典書にまとまるまでは、かなりの時間を要するものと思います。

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以下、豊島教会の堅信式ミサでの説教録音から、書き起こして形を整えたものです。

豊島教会堅信式ミサ
王であるキリストの主日
2022年11月20日

イエスの十字架での死を目撃した人たちは、イエスが何も成し遂げることなく十字架の上で虚しく死んでいったとみなしたのかもしれません。それが先ほどの福音の中で、議員たちがイエスを嘲って笑いものにしたと記されている箇所が象徴しています。しかしその十字架がなければ、わたしたちの信仰はそれ自体が成り立ちません。

受難と死と復活を通じて新しいいのちが与えられ、さらには聖霊が弟子たちに降って教会が始まり、その聖霊が常に教会を導いてくださるということは、この十字架の上での受難と死がなければ、成立しない出来事であります。すなわち、わたしたちキリストを信じるものにとって十字架は敗北の象徴ではなくて、勝利の象徴、新しいいのちへの道を切り開いた勝利の象徴であります。

今日の福音の冒頭は、わたしたち人間が、いかに勝手に神を定義づけようとしているかを教えていると思います。わたしたちは、あたかも自分たちが神を生み出したかのように、自分たちの思いを神に投影しようとします。神だからこれくらいのことをしてくれて当然だろう、神だからこれくらいのことができて当然だろうと勝手に思い込んで、そのわたしたちの願い、思い込みが実現しないときには、神にむかって失望します。十字架上のイエスをあざけった議員たちの言葉と態度は、まさしく自分たちの思い描いていた救い主、自分たちが思い描いていた神、そのイメージが、まったく損なわれる存在がイエスであったからこそ、身勝手な失望があざけりの言葉に繋がっていったと思います。

他人事のように、わたしたちはこの福音の箇所をやり過ごしてしまいますけれども、実際の自分の人生の中で、幾たび同じような行いや言葉を発しているかを、反省させられる箇所でもあります。

神様だからこれくらいのことをしてくれて当然だろう、これくらい祈っている、こんなに祈っているのにどうして神様はかなえてくれないんだ。まるでわたしたちが神様をコントロールできるかのように思い違いをして、神に不満をぶつけてみたりするという、身勝手な愚かさをわたしたちは繰り返しています。

キリストにおける王とは、皆に仕えられあがめ奉られて、一番上から君臨して権力を一手に握るようなそうゆう王様ではなくて、イエスご自身の人生が現しているように、一番下にいて仕える者として、弟子たちの足を洗い、貧しい者たちを助け、弱さのうちにある人のもとに出掛け、自らのいのちを犠牲にしてささげてまで、すべての人に新しいいのちを与えようとする王です。自らを犠牲にして皆を生かすために生きるのが、神が考える王、支配者の姿であります。わたしたちも、このイエスの人生を、キリストの人生を、自分のものとしたいと思います。

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ところで、週日のミサに与る人は別ですが、多くの場合は日曜日のミサにしか来ないので、今日のミサでは、多少の感慨を持って与っておられるでしょうか。少なくとも私は、この一週間は特別な思いでミサを捧げます。

というのも、来週の日曜、待降節第一主日からミサ式文の翻訳が新しくなって、例えばこれまで長年、当たり前のように唱えていた、「主は皆さんとともに」のあとに「また司祭とともに」とこたえる箇所が、来週からは、「主は皆さんとともに」の後が「あなたとともに」と応えるように変わります。全体としては大きな変更ではないですけれども、典礼の刷新は教会の姿を象徴していると思います。

先ほど香部屋でミサの準備をしていたとき、香部屋の典礼関係の書籍の書棚に、1969年に発行された文語の日本語のミサの式次第がありました。同じ時に、現在使われている現代語訳と文語訳の両方が出版されていたのですね。懐かしく思い出しました。

わたしが小学生の時にラテン語から日本語にミサが変わって、そのころ教会に来られていた方は覚えておいでだと思いますけれども、最初は文語体で試してみましたよね。それから何年かかけて手直しがされて、最終的にいま使っている現代語訳で確定したのは、私が小学校6年生の時です。

わたしは父親が当時教会で働いていたので、生まれてからずーっと教会に住んでいましたので、ほとんど毎日ミサに与る環境で育ちました。小学校に入るとすぐに、前の典礼のミサで侍者をするために、カタカナで書いたラテン語の祈りを一生懸命暗記したりして侍者の練習をしていた頃に、ミサが日本語になり、何年かかけてそれがいまの形に集約していくのを目の当たりにしていました。その変化は、典礼の外の形が変わったという事実だけではなく、さらに重要なこと、教会の本質をわたしたちに教えてくれていると思います。

教会は、2千年の歴史を持っているけれども、常に古くてかつ常に新しい存在であるということをわたしたちに教えてくれています。

教会は、2千年前の最後の晩餐におけるイエス・キリストの、パンと葡萄酒を自らの御体と御血として制定された、あの瞬間から始まっていまに至るまで、あの出来事をずっと記念し続けています。その伝統に生き続けるという意味で、常に古いのが教会です。しかしその教会は常に新しくされる。常に新しくする原動力はどこにあるのか。それは人間の知恵ではない、人間の思いでもなく、それは聖霊の働きによって、教会は常に新しくされ続けています。ですから常に古いけれども常に新しい。その繰り返しを日々積み重ねて、いまに至っている、それがわたしたちの教会であります。

第二バチカン公会議もそうですが、常に新しくあるための聖霊の導きはそれなりの混乱を引き起こしますが、刷新と混乱を繰り返して常に古いけれども常に新しくある教会は、人の思いを反映しているのではなく、聖霊に導かれて歩みを続けています。

その意味で、教皇様がいま、みんなでシノドスの道を歩もうと、みんなで一緒になって道を歩んでいこうと呼びかけていることは、とても大切なことだと思います。教皇様は決して、みんなで会議を開いて多数決でものを決めてゆきましょうというようなことを言っているわけではないのです。そうではなくて、みんなで一緒になって、聖霊が何を語りかけているかを識別しようと、一緒になって、聖霊がわたしたちをどこへ導こうとしているのかを識別しようと、それを識別するために皆でともに歩んでいかなくてはならないと呼びかけておられます。

なぜならば、聖霊はどこで誰にどのように働きかけるのか、誰も知らないのです。典礼聖歌にあります。「風がどこから吹いてくるのか、人は誰も知らない」。どこから聖霊の風が吹いてくるのか、どこからどこに吹いて、誰にどう語りかけているのかを、誰も知らないのです。ですから、教会を作り上げている一人ひとりが、聖霊の導きを見極めるために、一緒になって分かち合い、支え合って、道を歩んでゆくことが不可欠だということを、教皇様はあたらめて強調し、シノドスの道をともに歩むことを呼びかけておられます。

教会は、常に古くて常に新しい。その教会の進むべき道を、神の民としてともに識別し、支え合って歩みをともにしようとしているのが、教会のいまの姿です。

その教会共同体の中で今日、堅信を受けられる皆さんは、まさしくその聖霊のお恵みを、堅信の秘跡を通じて受けられることになります。聖霊の恵みは、堅信を受けた瞬間に目に見えるように人が変わって、180度異なる新しい人になりましょうみたいな、何かそうゆうことがあったら嬉しいんですけれども、実はそうゆうことではないんですね。聖霊がわたしたちになにをどう語りかけているのか。それは、祈りのうちにしっかりと見極めるしかないんですけれども、一つだけわたしたちは確信をもって言えることがあります。それは、わたしが主イエスに従おうと決意している、人々に仕える王であるイエスに従っていこうと決意している。そのわたしの決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の恵みです。

聖霊はわたしたちが決意したとき、人間の力ではその決意を実際に行動に移す事には様々な困難があるのですけれど、わたしたちは聖霊がその決意を後ろから支えてくださっていること、そして正しい方向に向かって力づけてくださること、それを信じて生きていきたいと思います。

 

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2022年11月16日 (水)

堅信式ミサ@田園調布教会

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年間第三十三主日の11月13日、午後二時から、田園調布教会で堅信式が行われました。当初30名と伺っていましたが、様々な理由から当日は28名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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田園調布教会はフランシスコ会が司牧を担当し、また修道院もあるため、神学生が居住しておられます。そこでこの日のミサでも、フランシスコ会の神学生や志願者が、侍者をしてくださいました。

感染症に伴う制限のために、この二年半ほど、小教区の司牧訪問や堅信式の予定の多くが延期となっていました。田園調布教会自体を訪れるのは東京に来て二度目ですが、堅信式は初めてでした。残念ながら皆で聖歌を一緒に歌ったりはできませんでしたが、多くの方と堅信の喜びを分かち合えたことは幸いでした。

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教区の中で堅信の秘跡を授けるのは、基本的にその教区の司教です(教会法882条)。もっとも成人洗礼式や、やむを得ない事情がある場合、司祭は堅信を授けますが、そのためには教区司教からの権限の委任が必要です。勝手に授けることはできません。今回のような感染症の状況のために多人数での堅信式ができなかった場合などは、「やむを得ない事情」となります。東京教区では、成人洗礼時の堅信は一般的に司祭に権限を委任していますし、ここの事情に応じて、司教が長期間訪問できない場合などに司祭に委任しています。

同時に各小教区での堅信式は、司教にとって小教区を訪問するよい機会となりますので、状況が落ち着いてからは、ぜひ、堅信式を計画され、司教をお呼びください。予定が空いている限り、喜んで小教区にお伺いします。

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以下、田園調布教会の堅信式ミサの録音から書き起こして、多少手を加えて説教原稿です。堅信式はどこでも同じようなことをお話ししていますので、聞いたことのあるような話であっても、御寛恕ください

年間第三十三主日堅信式ミサ
田園調布教会
2022年11月13日

2020年の2月頃から始まり、いまに至るまで、日本だけではなく世界中がコロナ感染症の状況に翻弄され、混乱のうちにもう2年が経ちました。いったい、どうしたらこの状況から抜け出すことができるのか、わかりません。言ってみれば、暗闇の中で、光を持たずに彷徨っているような状況が続いています。

とても不安になりますよね。なぜならば、いのちを落としている人たちが、そこには実際おられるからです。さらには、この状況の中で戦争が始まり、ロシアによるウクライナへの侵攻や、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーでのクーデターが起きて、いまだに落ち着かない状況が続いているなど、心を騒がせ不安にさせるような出来事がずっと続いているからです。

教会など人が集まるところで、いままでは普通にしていたことが難しくなる状況の中で、人と人とのつながりも分断されてしまい、孤独や孤立が深まっている。そうした状況の中でしばらく過ごしていると、先行きが見えない不安のために、ますます不安は不安を呼び、世の終わりでもやって来るのではないだろうかとまで思ってしまいます。

ちょうどいま、典礼の暦は終わりに近づいています。待降節から新しい暦が始まるので、まもなく待降節ですから典礼の暦が終わりに近づき、終わりに近づいてくると必ず、典礼の中での朗読は、世の終わりについて語るようになります。

世の終わりには、どんなことが起こるのでしょう。

世の終わりには、主イエスご自身が再臨するということを、わたしたちは信じていますけれども、それがどのようにして、いつ起こるのかは誰も知らないですよね。でも不安な状況が続いていると、まるでそれが、世の終わりでもやって来るサインではないのかと、思わず心配になる。
そういう出来事にいるとき、イエスは、そんなことに気を取られてはいけないと、おっしゃるんですよね。いろんなことが起こるけれども、それに気を取られて心配しても仕方がない。なぜならば、イエスの再臨、世の終わり、それは人間が決めることではなくて、神が決めることなので、神の領域の話なので、それを人間がいくら心配しても仕方がない。それよりも、その出来事の中で、いったい神は、何を人に語ろうとしているのか、それに耳を傾けなさいと。

それをいまの教会の言葉では、「時のしるしを読む」と言いますよね。「時のしるしを読む」、新しい言葉では決してないです。

1965年に終わった、第二バチカン公会議という大きな会議がありましたけれども、第二バチカン公会議はまさしく、その神が、時代の出来事を通じてわたしたちにいったい何を語りかけているのだろうか、それを読み取ろうとしたのが、あの第二バチカン公会議だったんですね。それ以来、教会はこの現代社会のさまざまな出来事の中で、神はわたしたちに何を語りかけているんだろうか、いったいわたしたちにどうしろと言っておられるのだろうか、それを知ろうと努力を続けてきています。「時のしるしを読み取る」ということは、現代社会に生きている教会にとって、とても大切な務めであるというふうに思います。

それでは2020年2月からのこの3年近いこの状況の中で、いったいわたしたちは神から何を語りかけられてきているんだろうか。

教皇様は、このパンデミックが始まった最初の頃から、「わたしたちは、連帯しなければこの状況から抜け出すことはできない」と何度も、何度も繰り返されました。わたしたち人間は、まるで一つの同じ船に乗っているように、この地球という一つの星の中で一緒に家族のように共同体を作って、兄弟姉妹として生きている。だから、対立したり排除したりするのではなくて、連帯して互いに助け合わなければ、命をつなぐことはできないと、強調してこられました。たぶんそれが、神からの語りかけへの回答のひとつだと思うんですね。

いま起こっている出来事の中で、それでは神様はわたしたちに何を求めておられるだろうかということを考えたときに、それはあらためて、連帯すること、互いに助け合うこと、支え合って生きていくことの大切さ、それを思い起こすように、そう語りかけられているように思います。
その意味で、残念ながら、その連帯を蔑ろにする、または破壊してしまうような暴力が、いま世界を支配しているということは、とても残念なことだと思います。戦争もそうですし、意見の違う人たちを従わせるために暴力を使って、いのちを奪うなどという行為も起きている。

いのちを守ってゆくために、わたしたちは連帯し互いに支え合わなければならないんだということを、あらためて、声を大にして言い続けなければならないし、それに基づいて自分の言葉と行いを、律していかなければならないと考えます。

そのような中で今日、教皇様は、この「王であるキリスト」の主日の前の日曜日、すなわち年間第33の主日を、「貧しい人のための世界祈願日」とされました。これは象徴的です。

世界を支配する王様のお祝いである「王であるキリスト」の前の日曜日を「貧しい人のための世界祈願日」とすることで、世界に数多くおられる困窮し生活の苦しさを抱え、いのちの危機に直面している人たちに思いを馳せること、その大切さを思い起こさせる日曜日を設けたというのは、その王がどのような王であるのかを明確にするために、とても重要なことだと思います。

前の教皇であるベネディクト16世が、教皇になられたとき最初に発表された文書は、「デウス・カリタス・エスト」という文章でした。「神は愛、デウス・カリタス・エスト」。そしてその文書の中で、教会の本質は三つあるんだと記されています。

一つはみ言葉を告げ知らせること。もう一つは礼拝をすること、賛美をすること。そして三つ目が、愛の奉仕をすることだと。

この三つはそれぞれ勝手にあるのではなくて、互いに互いを前提として存在しているのだというふうにおっしゃいました。教会の本質は、み言葉を告げ知らせること、神を礼拝すること、そして愛の奉仕をする事なのだと記されています。

いま、わたしたちに求められているのは、連帯のうちに互いに支え合う、すなわち、愛の奉仕に生きることです。イエスが、貧しい人に、困窮している人に、病気に苦しんでいる人に、思いを寄せたように、わたしたちもイエス・キリストに倣う存在として愛に生きる。その思いを新たにしなければならないと思います。

いまのこの困難な状況の中だからこそ、わたしたちは自分たちに与えられている使命を、あらためて思い起こす必要があると思います。

今日、堅信を受けられる皆さんは、洗礼・聖体・そして堅信という三つの秘跡を受けることによって、キリスト教の入信の過程が完成します。キリスト者として完成するんです。一昔前は、堅信の秘跡を受けることによってキリストの兵士になる、これからキリストのために闘うんだという言い方もしましたけれども、それは言い得て妙だと思います。キリストの弟子として完成したものとなるのです。

完成したからには、成熟した大人の信仰者として、責任を持っていくわけですよね。神からの恵みだけではなくて、受けた恵みに対してわたしたちは責任を持っているので、責任ある行動を取っていかなくてはならない。じゃ、その責任ある行動はいったい何なんだろうか。

その一つは、やはり、愛の奉仕に生きるということだと思います。

イエスのように生きてゆく、イエスがなさったように、わたしたちもこの社会の中で、わたしたち自身の言葉と行いをもって、神の愛を証しする存在となっていくということが、責任を果たす一つの道だと思います。

ただ、それは自分の力だけでは難しいですよね。いまそうしろと言われても、今日から自分の言葉と行いがイエス様のような言葉と行いになるかといったら、なかなかそうはいかない。それはわたしたち自身の弱さです。

だから、聖霊を、堅信の秘跡を通じていただくんです。受けるんです。聖霊は、わたしたちをスーパーマンに変身させてくれるのではないのです。わたしたちがイエスに倣って生きよう、神に従って生きようと決意するときに、その決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の力です。

聖霊は、決して、わたしたちを180度変えて、変身させて、いますぐにすごい人にするものではないです。そうではなくて、わたしたちがイエスに従って生きようと決意する、その決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の恵みです。聖霊の様々な賜物は、わたしたちをスーパーマンにするのではなくて、わたしたちの決意を後ろから支え実現できるように励ましてくれる賜物です。

ですから、今日、堅信の秘跡を受けられる皆さんにも、この堅信の秘跡の恵みを通して、決意を支えて下さる神はいつも背後にいることを忘れないでいただきたい。わたしの後ろから一所懸命支えてくれる神がいるんだと、控えているんだと、聖霊の力が後ろから支えて下さるんだということを信頼し、神から与えられた愛の奉仕に生きるという使命を、十分に果たしていっていただきたいと思います。

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2022年11月13日 (日)

年間第三十三主日ミサ@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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年間第三十三主日は貧しいひとのための世界祈願日でしたので、十時の関口教会のミサを司式させていただきました。このミサでは七五三の祝福も行われ、大勢のお子さんたちが、祝福を受けられました。おめでとうございます。これからの人生が神様からの祝福で豊かなものとなりますようにお祈りいたします。

以下、本日の説教原稿です。

年間第33主日C
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年11月13日

典礼の暦は終わりに近づき、毎年この時期、福音のメッセージは、世の終わりについて語り始めるようになります。

第一朗読のマラキの預言でも、終わりの日が到来するとき、「高慢なもの、悪を行うもの」は焼き尽くされるであろう事が記され、それを避けるために、神の名を畏れ敬う生き方をするようにとの諭す言葉が記されています。

パウロはテサロニケの教会への手紙で、自ら模範を示してきたように、怠惰な生活を避け懸命に働くことを命じています。それは、主の再臨は間近であって、現世には何の価値も見いだせずに、ただただ世の終わりを待つ人たちが存在していたからだと言われます。パウロはいまを生きるいのちが、その終わりまで、与えられた使命を懸命に生きることの重要性を説いています。

ルカ福音は、神の御旨であって、実際にはわたしたちがしるはずのない世の終わりに心を奪われて、社会に生じるであろう混乱を記します。その上で、時のしるしを読み解くことの重要性を説くイエスの言葉を記しています。

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確かに、一体のその終わりはいつ来るのかが気になってしかたがありません。例えば今回の感染症の世界的大流行の中で、二年以上も混乱が続き、いのちの危機に直面すると、それこそが世の終わりのしるしだと考える人が出てきたりするものです。また世紀末のように区切れがよい時期が近づくと、世の終わりが近いと考える人も出現します。歴史はそれを繰り返してきました。心が動揺しているとき、わたしたちは自らの心の不安を反映してなのか、この世界が終わりを迎えるのではないかという不安に捕らえられてしまいます。

しかしイエスは、そういった諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないようにと忠告します。なぜならば時の終わりは神の領域であって、人間の領域の出来事ではないからです。

「時のしるし」を読み取ることの重要性については、マタイ福音書16章に、もっとはっきりとこう記されています。

「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」

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ヨハネ二十三世が、1961年の降誕祭に、「フマーネ・サルティス」を持って第二バチカン公会議の開催を告示したとき、そこには「時のしるし」を読み解こうとした教皇の言葉が、こう記されています。

「一方においては精神的貧困に苦しむ世界、他方には生命力に満ちあふれるキリストの教会がある。私は……教皇に選ばれたとき以来、この二つの事実に直面して、教会が現代人の諸問題の解決のために貢献するよう、すべての信者の力を結集することが私の義務であると考えてきた。」

第二バチカン公会議は、「時のしるし」を読み解き、それに基づいて聖霊の促しに信頼しつつ行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、社会の現実の中で、真理をあかし、世を救い、キリストの業を続けるために、教会は「つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている(4)」と記しています。「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、わたしたちの務めです。

教会は年間第33主日を、貧しい人のための世界祈願日と定めています。教皇様の今年のメッセージは、「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」をテーマとしています。

教皇様はこの数ヶ月の世界の情勢を悲しみを持って見つめられながら、「愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人やいちばん弱い人にとって打撃となるかが分かります。数えられないほどの人が、とりわけ子どもたちが、根ざしている地から引きはがして別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています」と、いのちの危機の直面する多くの人への思いを記しておられます。

その上で教皇様は、コリントの教会への手紙を引用しながら、「イエスをしっかりと見つめなさい、イエスは「豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と呼びかけられます。

すなわち、教会は義務として愛の奉仕に生きるのではなく、イエスに倣って生きる者だから当然として、困窮する人々との連帯のうちに支え合って生きることが重要だと教皇様は強調されています。

そしてメッセージにはこう記されています。

「貧しい人を前にしては、きれいごとを並べ立てるのではなく、腕をまくり上げ、人任せにせず直接のかかわりによって、信仰を実践するのです。ところがときおり、ある種の気の緩みが生じてしまい、貧しい人に対する無関心といった、一貫性のない行動をとることもあります。また、キリスト者の中には、お金に執着するあまり、財産や遺産の誤った使い方を正せずにいる人もいます。これらは、信仰が薄弱で、希望が揺らぎやすく近視眼的である状況を示しています」

教皇様は、常日頃から強調されているように、このメッセージでも連帯の重要性を強調し、こう記しておられます。

「連帯とはまさに、もっているわずかなものを、何ももっていない人と分かち合うことで、苦しむ人がいないようにすることです。生き方としての共同体意識や交わりの意識が高まれば、それだけ連帯は強まります」

社会全体が様々な困難に直面し、暗闇を彷徨い続けているいまだからこそ、教会は希望の光を掲げる存在であり続けなくてはなりません。希望の光は、教会を形作るわたしたち一人ひとりの言葉と行いによって、この世界にもたらされます。光を必要としている人のもとへ、光を届け、歩みをともにする教会でありたいと思います。

あらためて、第二バチカン公会議を招集された教皇ヨハネ23世の言葉を思い起こします。私たち「教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送込まねば」なりません。

なお今日のこのミサの中で、七五三のお祝いを受けられるお子さん方がおられます。これまでの成長に感謝し、これからもいのちの与え主である神の祝福を豊かに受けながら、その命をより良く健やかに生きていくことができるように、皆でともに祈りましょう。

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2022年11月 9日 (水)

東京教区合同追悼ミサ@東京カテドラル

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11月は死者の月です。亡くなられた方々の永遠の安息のために、特に祈りを捧げる月であり、地上の教会と天上の教会の交わりを再確認するときでもあります。

教会のカテキズムには、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957)」

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また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

「・・・死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることが出来るのです(958)」

教会は、地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在しています。

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東京教区では、11月の最初の日曜日に、合同追悼ミサを捧げてきました。ミサはカテドラルと、府中墓地と、五日市霊園で捧げられています。この数年はコロナ禍のため中止せざるを得ませんでしたが,今年は三カ所でミサを捧げることが可能となりました。わたしは東京カテドラルで、11月6日(日)の午後2時から、150名ほどの方々とミサを捧げ、先に亡くなられた兄弟姉妹の永遠の安息のために祈りました。

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以下、当日のミサの説教の原稿です。

東京教区合同追悼ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年11月6日

イエスはキリストです。わたしたちはそう信じています。ですからわたしたちは、神は、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この世界における人生の旅路を歩んでいます。

葬儀や追悼のミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と、わたしたちの信仰における希望が記されています。

同時にわたしたちは、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉を信じています。いつくしみ深い神は、その深い愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれています。

「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約には記されています(119)。

神がご自分が創造されたすべてのいのちが救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられたすべてのいのちを愛おしく思われる神は、その救いがすべての人におよぶことを望まれています。

イエスはキリストです。すべての人をその懐における安息と永遠の命に招かれる救い主です。イエスをキリストと信じるわたしたちには、すべての人がその救いに与ることができるように、その愛といつくしみ、あわれみを、ひとりでも多くの人に伝え分け与える使命が与えられています。

この数年、ただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面しているのですが、賜物である人間のいのちを、まるでもて遊んでいるかのような方法で、暴力的に奪い取る理不尽な事件も続発しています。クーデター後の不安定な状況に置かれているミャンマーや、戦争に翻弄されいのちの危機にいまも直面しているウクライナの人々。戦争に駆り出され、いのちの危機に直面するロシアの人々。尊いいのちはなぜこうも、権力者によってもてあそばれるのでしょうか。

理不尽な現実を目の当たりにするとき、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、わたしたちは、それに対する明確な答えが存在しないことも知っています。同時に、苦しみの暗闇にあって、希望の光を輝かせ、いのちを生きる希望を生み出すことに意味があることも知っています。

この2年半の間、様々ないのちの危機に直面する中で、教皇フランシスコは連帯の重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日の一般謁見で、すでにこう話されています。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」

教皇様は、誰ひとり排除されない社会を実現し、すべてのいのちがその尊厳を守られるようにと働きかけてきましたが、特にこの感染症の困難に襲われてからは、地球的規模での連帯の必要性を強調されてきました。

2019年11月。教皇様はここ東京で、東北被災者に向かってこう言われました。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

暗闇に輝く希望の光は、出会いから生まれ、連帯を通じて強められます。互いに支え合い助けるものとなることの必要性を、教皇様は強調されてきました。しかし残念ながら、連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、この歴史に残る困難の中で、暴力がいのちを危機にさらしています。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。

わたしたちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じこもる排他的集団ではなく、いのちを生かすために互いに支えあう連帯の共同体です。

私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、地上で信仰を生きている私たちの教会が、天上の教会と結ばれていることも信じています。カテキズムには「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」と記しています。

ですから私たちは互いのために祈るように、亡くなった人たちのために祈り、また聖人たちの取り次ぎを求めて祈るのです。そのすべての祈りは、一つの教会を形作っている兄弟姉妹のための、生きた祈りであります。死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちとともに捧げる、いま生きている祈りであります。

わたしたちの人生には時間という限りがあり、長寿になったと言ってもそれは長くて100年程度のことであり、人類の歴史、全世界の歴史に比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間です。

人生には順調に進むときもあれば、困難のうちに苦しむときもあります。よろこびの時もあれば、悲しみの時もあります。人生において与えられた時間が終わる前に、自らの努力の結果を味わうことができないこともあります。仮に私たちのいのちが、人類の歴史の中における一瞬ですべてが終わってしまうとしたら、それほどむなしいことはありません。

しかし私たちは、歴史におけるその一瞬の時間が、実は永遠のいのち一部に過ぎないことを知っています。ですから私たちは、「人生が一瞬に過ぎないのであれば、その中で様々な努力をしたり善行をすることはむなしい」、などとあきらめてしまうことはありません。永遠のいのちの流れを見据えながら、わたしたちは常により良く生きるように努力を生み重ね、この命を懸命に生きたその報いが、永遠のいのちに必ずやつながっていくことを信じています。

互いに支え合いましょう。連帯のうちにともに歩んで参りましょう。愛といつくしみのうちに、すべての人を永遠の命へと招いてくださる主のあわれみに信頼し、支え合って歩み続けましょう。すべての人との連帯のうちに、希望の光を輝かせましょう。

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2022年10月14日 (金)

2022年神田教会堅信式ミサ

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10月9日の主日、神田教会で堅信式ミサを捧げました。20名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

この20名の方の中には、近隣の暁星学園で学ぶ生徒さんもおられ、学校でもしっかりと信徒生徒の信仰養成が行われていることがうかがえます。

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神田教会は、その趣のある佇まいから、結婚式でも有名な教会です。神田教会の歴史は古く、教区のホームページには次のように記されています。

「江戸時代の禁教令と同じく、明治政府もキリスト教を禁じていました。しかし、外国人居留地に進出したパリー外国宣教会の宣教師はやがてこの日本にも再び宣教が行われる日に備え、明治5年に三番町に「ラテン学校」を作り、諸外国語を教えるという名目で、将来の法人司祭育成の苗床を作ったのです。明治6年2月24日、ようやく明治政府もキリスト教禁令の高札をおろし、キリスト教を黙認することとな った。明治7年1月手狭な三番町より神田の地に移り、三つの旗本屋敷を購入し、その70畳敷きの大広間を聖フランシスコ・ザビエルに捧げた聖堂としたことが、現神田教会の礎となりました」

その後、関東大震災で聖堂は焼失し、現在の聖堂は1928年の建造されたものです。戦時中の空襲も免れ、焼失した関口教会に変わり、一時司教座が置かれていたこともありました。東京教区の中でも歴史のある教会の一つです。下の写真、堅信を授けるわたしの後ろに掲げてあるのは、土井枢機卿様の紋章です。

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以下、当日のミサ説教の録音を起こしたものを手直しした原稿です。子どもたちが大勢だったので、できる限りそのように話したままに書き起こしてあります。

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神田教会堅信式@年間第二十八主日
2022年10月9日

堅信の秘蹟を受けられる方々に、こころからお慶びを申し上げます。

堅信の秘蹟については、学校でも教会でも勉強をしてこられたと思いますけれども、聖霊をいただく秘蹟、聖霊によって力付けられて信仰を強めていただく秘蹟です。でも、堅信の秘蹟だけが独立してあるわけではなくて、それは洗礼の秘蹟があって、そしてご聖体をいただく聖体の秘蹟があって、そして堅信の秘蹟があるという、この3つで1つのセットになっているんですよね。

言ってみれば、一人前のキリスト信者になる。一人前のキリストの弟子になるための、一連の、3つの秘蹟です。ですから、洗礼の秘蹟を受け、ご聖体をいただき、堅信の秘蹟を受けることで、「一人前のキリスト者」がここに誕生するということになります。

昔は「キリストの兵士になる」という言い方もしました。いまは、「大人の信仰者になる」、「成熟したキリスト者になる」とか言いますけれども、今日、堅信の秘蹟を受けられる方々は、これで「一人前のキリスト者になる」ってことなのです。それが今日です。

学校であれば、小学校6年間、中学3年、高校3年、大学4年、学校に通って卒業すると、卒業証書をもらって、これで学校を卒業しました、資格を得ましたと、大学院を出れば博士になりましたとか、資格をもらってそれで修了です。卒業式に出て卒業証書をもらって、明日からまた学校に行こうと、普通は思わないですよね。学校との縁は切れるわけではないものの、学校に行くことはなくなって、あとは同窓会とか何か行事があるときに呼ばれて行くとか、そうゆうことだけで、日常生活の中では目に見える形での関わりはなくなる。

でも教会は、洗礼を受けて、ご聖体をいただいて、堅信の秘蹟を受けて、一人前のキリスト者になりました、はい、これで卒業です、ではないんですね。もうこれで教会には来なくていいです、学ぶ期間は終わり資格を得たからこれで卒業します、明日からもう教会に来なくていいです、という卒業式ではないんです。実は今日が、始まり。今日から始まるんです。

一人前のキリスト者になるというのは、勉強が終わって卒業することではなくて、これからしなくてはならないことに挑戦するという義務を、負うことなんです。これを教会では、「使命を与えられる」と言います。使うという字に命と書いて、使命。神様から使命を与えられる。使命というのは命令です。命令を与えられる。これこれこうゆうことをしなさいという命令を与えられる。ミッションです。

映画で「ミッション・インポシブル」というのがありますね。あのミッションが、使命です。何かをしなさいという命令です。
で、この使命を与えられるんです、今日。だから、これで教会と縁が切れて、さよならということではなくて、今日、使命を受けて、これから一緒に歩んで行く人生が始まる。

じゃ、いったいどうゆう使命が与えられているのか。
それは、イエス様が十字架の上で亡くなってご復活をしたあと、最後に弟子たちに現れ天に上げられて行くとき、その最後に言い残した言葉は、いったい何か。それは、全世界に行って福音を宣べ伝えなさい。わたしが伝えた良い便りを、すべての人に伝えてゆきなさいでした。
これを、福音宣教の使命と言います。福音を宣べ伝えることを、使命としてわたしたち一人ひとりは与えられているのです。

しかし、福音を宣べ伝えるからといって、今日、これで堅信式が終わったら、イエス様についてたくさん喋らなきゃとか、そうゆう、喋ることでは、実はないのです。

福音を宣べ伝えるといるのは、わたしの生き方、毎日の生活の仕方、人との関わり、他の人たちとの交わす言葉を通じてなのです。わたしの行いとことばが、イエス・キリストの教えたことに基づいているのかどうか、というところが一番重要なんです。

つまり、今日、堅信を受けたことによって、これからわたしたちは一人前のキリスト者として、自分の語ること、自分の行いを通じて、イエス様の教えのあかしをしてゆく。イエス様が教えたことを具体的に目に見えるものにしてゆく。

例えば、困っている人がいたら助ける、悲しんでいる人がいたら慰める、喜んでいる人がいたら一緒に喜ぶ、話を聞いてほしい人がいたら話を聞く、さまざまなことが考えられますが、基本は一緒になって歩んで行くということ。

皆さんの毎日の生活の中でのことばと行いを通じて、イエスキリストの教えたことをぜひともあかししていってほしいと思います。

もちろん、たぶん、そうは言っても、そんなことは簡単にできないよと、思いますよね。だから堅信の秘蹟なんです。自分の力ではできないです。人間の力ではそんなことはできない。だからこそ、神様の力が働くように、聖霊が堅信の秘蹟によって与えられるんです。

覚えているでしょうか、最初の聖霊降臨の出来事です。五十日祭の日、弟子たちは、イエス様が死んだあと、迫害を恐れてみんな家に隠れていたんですよ。隠れて、みんなに見つからないようにしていたところに聖霊が降って、その瞬間から彼らは、すべての人が理解することばでイエス・キリストについて語りはじめた。ガラッと、180度人生が変わって、それまでは怖くて隠れていた人たちが、自分のことばと行いで、イエス・キリストについて語るようになった。それはどうしてか、聖霊が降ってきたから。

つまり聖霊は、わたしたちが恐れて、そんなことはできない、イエスについて語る、イエスの教えに基づいて生きるなんてことは難しいと思ったとき、でも、そうしたいと思う心もある。それを後ろから支えてくださるのです。私たちの前向きな心を支え、力付けてくださるのが、聖霊の恵みです。

だから、堅信の秘蹟を受けたからといって、今日急にスーパーマンみたいに、堅信の秘蹟が終わったあとに変わって、素晴らしい人になっているということではないんです。そうではなくて、そうなりたいと思う自分の気持ちを、聖霊が後ろからしっかりと支えて、後押しをしてくださる。その後押しは決してなくならない。神様は、イエス様は、常にわたしたちとともにいてくださると約束をされているのです。わたしたちの人生の間、道を踏み外そうが真っ直ぐ歩いていようが、神様は後ろからしっかりと、聖霊の息吹を持って、わたしたちを支え続けてくださるんだということを、ぜひこころに留めておいていただきたいと思います。

今日の福音で、10人の人が皮膚病から癒やされて、9人の人が帰って来なかったけれど、1人だけイエスのところに帰って来たと言う話が記されていました。

それはものすごく大切なことです。神様によって救われるということは、そうした困っていることが解決する、つまり皮膚病が治る、困っていることが解決してよかった。それで終わり、万々歳ではないんです。

イエス様が仰っているのは、それだけじゃないんだと。そのあとに、神とともに一緒にいることが、つまりサマリア人だけが戻ってきたわけですけれども、イエスとともにいるのか、イエスとともに歩もうとしているのかが大切だと。だからわたしたちは、いったい何に軸足を置いて生きて行くのかということを、しっかりと見極めなさい。わたしのことばの上に、わたしの教えたことの上にしっかりと立って、いつも私と歩み続けなさいと教えていると思います。自分の勝手な思いだけで,問題は解決した、万歳、これで楽しい人生になるとどこかに行ってしまうのではなくて、常にイエス様の御許にしっかりと立って、その言葉と行いを自分のものとして、これから生きてゆかれるよう、
堅信を受けられた方々はぜひ心に留めて、これからの長い人生をしっかりと歩んでいただけたらと思います。

 

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