カテゴリー「説教原稿」の54件の記事

2026年4月 4日 (土)

2026年聖金曜日・主の受難@東京カテドラル

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聖なる三日間。聖金曜日夜7時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた主の受難の典礼での、説教原稿です。

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なお、説教の中で触れている教皇ヨハネ23世の「地上の平和」は、中央協議会から文庫本(ペトロ文庫)として発売されています。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月03日

わたしたちの救い主は、今日、愛する弟子たちに裏切られ、群衆からはあざけりを受け、孤独のうちに十字架を担いながら歩み続け、この世のいのちの絶望の淵にあって、苦しみを耐え忍び、十字架の上で命を御父に捧げられます。

その苦しみは、ご自分の犯した罪のためではなく、イザヤが記しているように「多くの人の過ちを担い、背いた者のためにとりなしを」するためでありました。

イザヤは、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒やされた」と記しています。救い主イエスの十字架における苦しみと死は、わたしたちの平和のために、またわたしたちの癒やしのために、罪のゆるしを願う捧げ物でありました。わたしたちのいのちを生きる希望は、主イエスの苦しみによってわたしたちに与えられています。

それにもかかわらず、わたしたちはその平和のうちにいのちを尊ぶ務めを忘れ去り、神の似姿として与えられた尊厳を護ろうともせず、イエスの苦しみによってもたらされた平和を葬り去り、希望を捨て去ろうとばかりしています。

復活される前のイエスがペトロに直接語りかけた最後の言葉は何だったでしょう。それは、ペトロがイエスを護ろうとして剣を手にし、大祭司の手下であるマルコスを切りつけたときにイエスの言われた、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」であります。その後、三度裏切ったペトロに対して、ゆるしのまなざしを向けたことはありましたが、次に直接イエスがペトロに話しかけるのは、復活の後になります。

すべての人に平和と癒やしを与えるための苦しみの旅路に身を投じるにあたり、イエスが一番弟子であるペトロに言い残された言葉は、武器を捨て、御父の計画を実現させよという言葉でありました。

教皇レオ14世は受難の主日の説教の中で、現在の米国やイスラエルとイランを中心とした中東の戦争状態に思いを馳せながら、「平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください」と呼びかけられました。

教皇様は、同じ説教の中で、「イエスは武器をもたず、自分を守らず、いかなる戦いも行われませんでした。イエスは神の優しいみ顔を示しました。神はつねに暴力を拒絶します。自分を救う代わりに、十字架に釘づけにされます。それは、人類の歴史のあらゆる時間と場所に立てられたすべての十字架を引き受けるためです」と述べています。ですから主イエスは今日も、あらゆる時間と場所に建てられたすべての十字架を一身に引き受け、苦しみを神に捧げ、わたしたちに平和と癒やしがもたらされるようにと、その身を神に捧げておられます。

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受難の朗読では、「イエスを知らない」と、三度にわたって言い張ったペトロの裏切りが記されています。福音はイエスがすでにペトロに告げていたとおり、「するとすぐ、鶏が鳴いた」と事実だけを記して、ペトロの心持ちを記しません。しかしそのことが、ペトロの陥った後悔の思いの深さと絶望を、わたしたちに感じさせます。ペトロは武器を手にすることが主イエスの望まれる平和の構築に繋がらないことを諭され、その後悔のなかでなんとかイエスに繋がろうと大祭司の屋敷の中庭に入ったものの、さらに三度にわたってイエスを否定し、深い後悔と大きな絶望の中に落ち込んでいたことだと思います。

裏切りという罪と、その後悔と絶望の淵にあったペトロが次に登場するのは、御復活の出来事の後です。十字架の出来事を通じて、ペトロを復活の栄光の証人とすることで、福音は、主の十字架が持っている意味を明確に示しています。十字架は神の愛といつくしみとゆるしと希望と栄光を示しています。

いま世界は、「十字架につけろ」と熱狂のうちに叫んで、平和と癒やしをもたらす神の御子を死に追いやった群衆のように、「暴力には暴力を。死には死を」と叫んで絶望の暗闇を深めようとしているかのようであります。教皇様と心を合わせて、わたしたちも、世界の政治のリーダーたちに、「平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください」と呼びかけたいと思います。

1962年のキューバ危機を踏まえ、東西の冷戦が深まる中、1963年に発表された教皇ヨハネ23世の「地上の平和」の終わりには、「ひとり一人の中に平和がなければ、換言すれば、一人ひとりが自分自身の中に神が望む秩序を植えつけなければ、人々の間に平和は成立し得ません」と記されています。

その上でヨハネ23世は、平和が「真理を土台とし、正義によって築かれ、愛によって生かされ、最後に自由において実践される」真の秩序に基づいていなければ、「平和」は虚しい単語に過ぎないと指摘されます。単に争い事が止み、闘いが終わればそれで平和なのではなく、神の計画が実現している世界でなければ、そして一人一人がその神の計画に身を委ねていなければ、真の平和は実現しないと指摘されます。道は遙かに遠いと感じさせられます。

主イエスが苦しまれた十字架の傍らには、聖母マリアが佇まれていました。十字架の上で苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母の姿は、「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に答えたときに始まって、すべてを主の計画に委ね、主とともに歩み続け、主と一致した生き方を、聖母が教会に模範として示し続けていることを明白にします。真の神の秩序を実現している聖母は平和の元后です。

主イエスは十字架上で、「婦人よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と聖母と愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。

教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち、その十字架のあかしを受け継ぎ、復活の栄光を目指して希望を掲げながら、平和の実現を目指して歩み続けます。

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2026年4月 2日 (木)

2026年聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日である4月2日の午前中、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを捧げました。

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ミサには東京教区で働かれる教区司祭と修道会・宣教会司祭による司祭団130名ほどと、聖堂一杯の修道者や信徒の方が参加してくださり、教皇大使モリナ大司教も同席され、ミサの終わりにメッセージを読み上げてくださいました。

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またミサの中では、東京教区の今井神学生が祭壇奉仕者に、サレジオ会の堤神学生が朗読奉仕者に選任され、司祭への養成課程の一つ前に踏み出されました。またこのミサには、新学期が始まり東京の神学院に集まった全国の神学生たちも参加してくださいました。養成を受けている神学生たちのためにどうぞお祈りください。

なお東京教区では、これまで今井神学生ひとりでしたが、この四月からふたりが新しく加わり、予科での養成を始めました。

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以下、聖香油ミサの説教原稿です。先日出かけてきた、カリタスアフリカの総会(上の写真)について触れています。

聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年4月02日

先日、3月16日から21日まで、アフリカのコートジボアールで開催されたカリタスアフリカの総会は、発表されてから21年が経過したベネディクト16世の「デウス・カリタス・エスト(神は愛)」をテーマとしていました。130名を超える参加者はこの回勅の示す方向性を振り返り、アフリカにおける教会の愛の業・カリタスへの取り組みへの決意を新たに致しました。

この総会が採択した最終宣言には、「わたしたちは新たな確信のうちに宣言します。教会は愛そのものです。神の愛は、キリストの脇腹から流れ出る水のように、教会の心からあふれ出し、社会の片隅で苦しむ人々の元へと届いていきます」と、教会の愛の業・カリタスの存在意義が記されています。

わたしたちの教会は、争いの場ではありません。絶望を生み出す場ではありません。この社会のただ中にあって、いのちを生きる希望を生み出すために、教会はこれまで同様これからも愛の実践を通じて、神の愛が、すべての人へと届くように努めようとする存在です。

「デウス・カリタス・エスト(神は愛)」の冒頭でベネディクト16世は、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想」ではなく、「ある出来事との出会い、ある人格との出会い」こそが人をキリスト者にするのだと指摘されています。

教皇フランシスコも2019年11月、東京で東日本大震災の被災者や支援関係者とお会いになったとき、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。・・・町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と言われ、出会いを通じた人と人とのつながりこそが、いのちを生きる希望を生み出すのだと強調されていました。

具体的な人間関係が希薄にありつつある現代社会にあって、わたし達の信仰には、目に見える形での具体的な出会いと関わりが不可欠なのだと、教皇たちは繰り返してきました。それは主ご自身が、「困っている人は自分のことだと」言われ、具体的に「飢えている人、のどが渇いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人」に対して行動したことは、わたし自身にしてくれたことだと言われているからに他なりません。わたしたちは具体的な出会いを通じて心に希望を抱き、主ご自身との出会いへと導かれます。教会は主との出会いへとわたしたちを導く場です。

教皇レオ14世は使徒的勧告「ディレクシ・テ(わたしはあなたを愛している)」に、「貧しい人々に対する教会の愛は、教会にとって本質的なものであり、それは教会の不変の伝統の一部になっています・・・。キリスト信者にとって貧しい人々は、社会学的なカテゴリーではなく、キリストの肉体そのものです(110)」と記され、教会が本質的に愛をあかしする存在であることを明確にします。

昨年5月18日の就任ミサの説教において、教皇レオ14世は、分断と対立をもたらす暴力が支配する現代社会の中で、和解と一致を生み出すことは教会の使命であると指摘されます。

続けて教皇は、「現代、わたしたちは多くの不一致を、また、憎しみと暴力と偏見、違いへの恐れ、地球の資源を搾取し、もっとも貧しい人々を疎外する経済的枠組みによって生じた、多くの傷を目にします。わたしたちは、この練り粉の中で、一致と交わりと兄弟愛の小さなパン種でありたいと思います。・・・わたしたちはこの道を、わたしたちの間で、しかしまた、姉妹であるキリスト教教会や、他の宗教の道を歩む人々や、深い不安のうちに神を求める人々、すべての善意の人とも、ともに歩まなければなりません。それは、平和が支配する新しい世を築くためです。」

わたしたちの教会は、いま、日本の社会の現実の中で、一体何をあかしする存在であるのか、自らに厳しく問いかけたいと思います。わたしたちは、「一致と交わりと兄弟愛の小さなパン種」でありたいと思います。神の愛そのものとして、愛をあかしする存在でありたいと思います。社会の中で疎外された人、孤独のうちにある人、絶望のうちにある人たちとともに歩む教会でありたいと思います。

そのなかにあって司祭は、神の民の牧者として、その先頭に立ち、率先して希望を生み出すものでなければなりません。司祭には、イエスとの出会いの中で生まれるいのちを生きる希望を、多くの人に分け与える務めがあります。ひとりでも多くの人がイエスとの個人的な出会いの中で希望を心に抱き、共同体に生きることで互いに支え合い、連帯のうちにその希望を燃え輝かせるように導くことは司祭の務めです。司祭は、希望という実りをより多く生み出すために、多くの人、特にいのちの危機に直面する人と歩みをともにし、展望と希望を回復させるような関係を作り上げる者でありたいと思います。

本日のこのミサの中で、朗読奉仕者と祭壇奉仕者に選ばれる神学生がおります。

朗読奉仕者選任の儀式書には、その務めとして次の三点が掲げられています。

まず第一に、典礼祭儀で神の言葉を朗読し、第二に教理を教えて秘跡に与る準備をさせ、そして第三にまだキリスト教に出会っていない人たちに救いの教えを知らせることであります。

すなわち朗読奉仕者とは典礼において上手に朗読をするだけの奉仕者ではなく、まさしく福音を告げ知らせ、教会の教えを伝えるために特に選任される重要な役割です。福音宣教の重要な担い手として選任されるのだという自覚を、深めていただきたいと思います。

福音宣教は、単に言葉で語るだけではなく、行いによるあかしを持って伝えられなければなりません。具体的な出会いをもたらす者でなくてはなりません。空虚なことばを語る者ではなく、行いによるあかしとして最も大切な愛の奉仕のわざに生きる者であってください。希望を生み出す出会いをもたらす者であってください。

祭壇奉仕者に選任される方は、教会の奉仕者の務めの中で特別な役割を受け持つことになります。

教会、すなわち神の民は感謝の祭儀を頂点として集まり、そこにいのちの源を見出します。祭壇奉仕者は、教会の司牧責任者の指導、監督のもとに、司祭や助祭の仕事に協力し、また奉仕者として、病人を含めて信者に聖体を授ける務めが託されます。

このような尊い奉仕の務めをゆだねられる祭壇奉仕者は、聖体の秘跡にいっそう深く結ばれよう務め、自分の役割の深い霊的な意味を悟るように心がけなければなりません。私たちの信仰共同体にとって、感謝の祭儀は最も重要な意味を持っていますし、私たちの信仰にとって御聖体はその中心にある、イエスご自身だからです。日々、キリストを通して自分自身を父である神にささげるよう努力してください。また、兄弟姉妹と一つのパンを分かち合うのですから、キリストのからだである神の民の中で、弱い人や困難に直面する人、忘れ去られている人を特に大切にし、キリストの愛の教えを実行するよう心がけてください。

お集まりのみなさまには、神学生たちのために、また司祭のためにお祈りを続けてくださることを、心からお願いいたします。ともに歩む教会共同体を生み出す力は、みなさまのお祈りから生み出されます。一緒にカリタスをあかしする道を歩みましょう。

 

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2026年3月15日 (日)

2026年四旬節第四主日ミサ@東京カテドラル

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以下、本日四旬節第四主日の、関口教会午前10時の主日ミサでの説教の原稿です。

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なお関口教会10時のミサでは、14名の洗礼志願者のための典礼が行われました。洗礼を準備されているみなさんのために、祈ります。

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またミサ後には、ケルンホールで、四旬節の講話を担当させていただき、多くの方に参加していただきました。ありがとうございます。

四旬節第四主日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2026年03月15日

2月28日の土曜日、米国とイスラエルによるイランへの攻撃が突如始まり、世界は今この時点でも、大きな混乱の中にあります。

すでにコロナ禍の2021年2月1日に発生したミャンマーでのクーデター、それに続く2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻、2023年10月7日に発生したイスラエルによるガザへの攻撃と、世界は武力という暴力によって、神様からの賜物であるいのちが奪われていく様を目の当たりにしてきました。

ウクライナでの戦争が始まる前日、教皇フランシスコは悪化する両国関係と迫り来る戦争の気配に憂慮を示し、こう述べておられました。

「神の前で真剣に良心を問いただすよう、政治責任を負う人々に呼びかけたいと思います。神は平和の神であって、戦争の神ではありません。神は皆の父であり、誰かのものではありません。わたしたちが必要とするのは兄弟であり、敵ではありません」

この呼びかけにもかかわらず、その翌日、多くのいのちが奪われる暴力が始められました。わたしたちが生きているこの時代、世界は、かつてのような世界大戦ではないものの、もっと巧妙に、また発達した技術を使ってもっと冷酷に、そしてかつてよりもっと広範囲で、戦争のうちになんとか生き延びています。

1939年8月24日、第二次世界大戦勃発の気配が支配する世界に向かって、教皇ピオ12世は、ラジオでこう呼びかけました。

「平和によってはなにも損なわれないが、戦争によってはすべてが失われうる」

第二次世界大戦前夜のピオ12世の言葉をかみしめながら、あらためて教会は、「武力に頼るのではなく、理性の光によって-換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(「地上の平和」62)」、国家間の諸課題は解決されるべきであるという、ヨハネ23世の「地上の平和」に記されたことばを心に留めます。その上で、国家間の諸課題の解決を口実として、神からの賜物であるいのちを危機に直面させ、人間の尊厳を奪う武力に委ねることはゆるされないと主張します。わたしたちの共通の家が平穏に保たれ、神の秩序による支配が確立されるように、政治の指導者たちが忍耐と対話を持って信頼を醸成し、解決の道を模索することを心から願っています。

今日、この瞬間にも、いのちの危機を感じながら恐怖のうちにいのちをつないでいる兄弟姉妹がいることを、仕方がないと諦めてしまうことはできません。

ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復したという奇跡物語を記していました。ちょうど第一朗読のサムエル記には、ダビデの選びの物語が記されていますが、誰もが予測しなかった人物を、神は選ばれたという物語は象徴的です。

神はサムエルに対して、「人間が見るようには見ない。人は目に映ること見るが、主は心によって見る」と述べていますが、そのことばがまさしく本日の福音の物語が語ろうとしていることを象徴しています。

イエスによる奇跡的な癒やしを目の当たりにしながら、ファリサイ派の人々は、安息日の掟を破ったとして、イエスの示される神の真理に自ら目を塞いでしまいます。「見える」と言うことばが、実際に目で見ることと、心の目で理解することの二つの意味があることをわたしたちは知っています。そしてイエスが強調しているのは、まさしく神がダビデを選んだように、目で見えることに心を惑わされずに、心の目で真理を見いだすことの重要性です。

福音の終わりに記されている、視力を回復した人とイエスとの会話は象徴的です。視力を回復した人は、実際に目でイエスを見ており、その人がこの奇跡を働いたことを十分に知っているにもかかわらず、イエスに対して「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と問うています。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。そのことばによって心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。奇跡を働いた神の真理に触れることができたが故の信仰告白です。

ファリサイ派の人たちは、自らの前に枠を設置しているかのように、自分たちが見たいものしか見ない態度を象徴しています。ファリサイ派の人たちは、自分たちの枠組みでしかこの世界を見ることができません。枠からはみ出すものは、存在しないも同様です。ですからその枠に収まらない奇跡的出来事を目前にして理解することができずに、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、反対に癒やしを与えられた人を叱りつけています。わたしたちも、自分の価値観に基づいた枠を目前に堅持している限り、心の目を通じて神の真理に到達することはできません。いまの世界はまさしく、それぞれがそれぞれの価値観に基づいた枠組みを目の前に掲げ、そこからはみ出る事実に目を塞いでいるかのようです。そこには対話や妥協の余地はありません。

わたし達は、目の前で展開する現実に対して謙遜でありたいと思います。現実はわたし達の思い通りにはなりません。何でも自分でコントロールできるわけでもありません。謙遜に、目前に展開する現実と対峙し、そこに響いている真理の声に耳を傾けたいと思います。心の目で見るためには、謙遜にまっすぐに耳を傾け、神の声を聞き取ろうと努めることが必要です。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという考えは、いのちの創造主である神の前での思い上がりだと戒め、いのちに対する様々な暴力的攻撃に満ちあふれた現代社会の現実を、「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を告げしらせ、実現しなければならないと強調されました。

その上で教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」に、「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています」と記しています。わたしたちには、殺すなと呼びかけるにとどまらず、いのちを尊び、愛し、守り、育てると言う積極的な務めが課せられています。

パウロがエフェソの教会への手紙で記したように、教会共同体は暗闇にあるこの世界にあって。「あらゆる善意と正義と真実が生じる」光の子として歩むようにと進めています。わたしたちはどのような困難な状況の中でも、いのちを奪う暴力の中でも、臆することなく、与えられた光を放つ存在でありたいと思います。いのちの文化を告げ知らせる者でありたいと思います。いのちを尊び、愛し、守り、育てる者でありたいと思います。

 

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2026年2月 1日 (日)

2026年日本26聖人殉教祭@本所教会

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2月5日は、聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。東京教区の本所教会では、かなり昔から、この記念日に近い主日に殉教祭を続けてこられました。

今年は、本日2月1日の主日に、ミサが捧げられました。

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ミサ後には30分ほど、昨年の教皇選挙やわたしの名義教会着座式などについて、写真を見ながらお話をさせていただき、その後には信徒会館で、今年はいつもの美味のおでんではなく、これまたおいしい豚汁が振る舞われました。準備してくださった皆さん、ありがとうございます。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。後半は週刊大司教とほぼ同じ内容です。

日本26聖人殉教者殉教祭ミサ

2026年2月1日

本所教会

昨年は忙しい一年でありました。復活祭の翌日に教皇フランシスコが帰天され、その直後に始まった枢機卿の総会と教皇フランシスコの葬儀。、それに続く教皇選挙。ちょうど教皇選挙という映画が公開され、日本でも注目していただきました。そして新しい牧者レオ14世の誕生と、10月9日のローマでのわたしの枢機卿名義教会への着座式。さらに昨年一年は希望の巡礼者をテーマにした聖年でもあり、それに関係する行事も多く行われました。忙しい一年が終わり落ち着く間もなく、年明けとともに今度は臨時の枢機卿総会が開かれ、新年早々にローマへ出かけてきました。枢機卿に叙任されてから一年以上たちましたが、それ以前にはなかった様々な行事への参加が増えて、教区を不在にすることが続いていますが、その間、多くの方にお祈りと励ましを頂いてきたことに心から感謝しております。

わたしはローマに出かけるたびごとに、時間が許せばジェズ教会を訪問しています。この聖堂にはイエズス会の創立者である聖イグナチオ・ロヨラの墓がありますし、かつて日本で活躍しその後イエズス会の総長となられたアルペ神父様もここに葬られています。そしてこの聖堂には、日本の教会にとって重要な聖人である、聖フランシスコ・ザビエルの右腕が安置されています。ザビエルはインドのゴアに遺体が安置されていますが、アジア各地で洗礼を授けた聖なる右腕は、ローマに安置され、400周年記念などで日本にも運ばれてきたことがあります。

わたしはこの教会を訪れて、日本にイエス・キリストの福音を一番最初にもたらしてくださった聖人の右腕の前で、その福音宣教の業への感謝の祈りを捧げることにしています。日本の教会は、1549年、聖フランシスコ・ザビエルによって始められました。

昨年の10月、名義教会での着座式を前に、いつもと同じようにこの教会を訪れ、祈りを捧げた時に、一つのことが心に浮かんで来ました。それは、この偉大な宣教師がどれほど大きな不安を抱えて異国の地に足を運ばれたのだろうかということでした。

現代であれば、皆さん、初めて訪れる国に出かける前に何をされますか。ちょっと前であれば、「地球の歩き方」と言うマニュアルみたいな本がありました。今もあると思います。わたしも大変お世話になりました。そして今であれば、まずネットで検索しませんか?到着する空港の情報や泊まるホテルの情報は言うに及ばず、現地の治安や経済状態、何をするべきか、また何を避けるべきか、などなど。ありとあらゆる情報を、出かける前に識ることができます。それだけ情報を事前に調べたとしても、そこがやはり初めて行く国であれば、不安は心に残ります。

それが16世紀はどうだったでしょう。ザビエルには日本について調べる手段は何もなかったことだと思います。事前に断片的な情報はあったことでしょうが、現代のわたしたちが手にするような情報は、全くと言っていいほどなかったことだと思います。それであればこそ、心に抱える不安は大きなものがあったことだと想像します。それでも彼は出かけていきました。大海原に乗り出しました。命がけの冒険であります。

今の時代の便利さは、逆に、命がけの冒険に歩みを進めていく勇気を、わたしたちから奪ってしまったような気がします。十分な知識を持って緻密な計画を立てておかなければ、未知の歩みを始める勇気が出てこない。

聖なる宣教師は、未知の歩みを始める勇気をどこから得ていたのでしょう。それは聖霊の導きにすべてを任せる信仰における勇気、神の計画にすべて身を委ねる勇気でありました。

いまシノドス的な教会になる道を歩むわたしたちは、ともすれば、先行きがはっきりしないがために、どこを目指しているのかを明確に識ることができないために、尻込みし、様々な理屈をこねくり回しては、前進ではなく今の場所にとどまろうとしてしまいます。不安なのです。先行きが見えないので不安なのです。教会はいま、まさしくかつての聖なる宣教師のように、未知の旅路へと歩みを進めるために、聖霊の導きに勇気を持って身を任せようとしています。

2月の最初の週には、日本の教会の殉教者の記念日が二つ並んでもうけられています。2月3日は福者ユスト高山右近、そして2月5日が聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。

福者ユスト高山右近は、生涯をかけて信仰を守りぬいたが故に、すべてを失い、生まれた国を追われ、家族とともにマニラに追放処分となりました。1614年末のことです。右近は、その直後に熱病にかかり、翌1615年2月3日に、マニラで亡くなられたと伝えられています。信仰のために、すべてを奪われ、それでも喜びと希望のうちに信仰を全うした生き方が、殉教者としての生き方であると教会は認めました。

右近を大名の座から追放しようと決めた秀吉の気持ちを和らげるため、「妥協せよ」という周囲の忠告に耳を貸さず、右近は説得する周囲に対して、「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」と述べたと伝えられています。

「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」という覚悟は、わたしはわたしの考えるように生きるという宣言ではなく、わたしの人生は神の手に委ねられているという宣言であります。神にすべてを委ねる勇気が、右近にはありました。

本日このミサでわたしたちが記念している日本26聖人殉教者。1597年2月5日、長崎の西坂の地で、信仰を守り抜き、そのいのちを神にささげた26人は、「人間は一体何のために生きるのか」という問いかけに対する答えを、その生涯の言葉と行いを通じて、多くの人に対して証しいたしました。最後の最後まで神の計画に身を委ねるという勇気を、多くの人の目の前で証しして行かれました。

26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、神の計画にすべてを委ねるという勇気ある行動であることを証ししました。殉教に価値があるのは、勇気を持って死んでいったからだけではなく、勇気を持って神の計画に身を委ね、それを最後まで生き抜いた、その生きる姿にこそ、具体的なあかしによる福音宣教としての意味があります。

26人の聖なる殉教者たちは、「人間はいったい何のために生きるのか」という問いに、明確な答えを残して、そのいのちを生き抜かれました。聖なる殉教者たちは、現代を生きるわたしたちに、人生においてどのように福音を生き抜くのか、その模範を残されました。

シノドスの歩みは、勇気を持って神の計画に身を委ね、いのちを生きる希望をあかしする旅路です。聖霊がどこにわたし達を導いていくのかを、事前に知ることはできません。兄弟姉妹と歩みをともにし、互いに支え合い、ともに祈り合うシノドス的な共同体のあり方は、わたし達を絶望から解き放し希望を生み出す道です。

聖なる宣教師が勇気を持って聖霊の導きに身を任せて、未知の冒険とも言うべき旅路に出たように、わたしたちも勇気をもって聖霊の導きに身を任せる教会でありたいと思います。

 

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2025年11月16日 (日)

東京教区ミャンマーデー@関口教会

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11月の第三日曜日は、東京教区にとってパートナー教会であるミャンマーの教会のために祈り献金を捧げる「ミャンマーデー」です。これまでの歴史や現在の支援活動については、こちらのリンクの東京教区ホームページをご覧ください。(上の写真は、2020年2月、マンダレーのマルコ大司教様と)

ご存じのようにミャンマーでは、コロナ禍の最中に発生したクーデター後、政情不安定が続き、平和を訴えるカトリック教会は攻撃の対象となっています。今年のミャンマーデーにあわせて、ミャンマーからは南部のモーラミャイン教区からモリス司教様が来日され、現在東京でもメンバーが増えているミャンマー共同体と、本日午後に築地教会でミサを捧げて祈りを共にされています。

ミャンマーには全人口の多数を占めるビルマ族と、それ以外の数多くの少数民族が、一緒になって国を作っています。しかしながら、多数派の占める軍が力を持ち、加えて隣国との国境地帯を中心に少数民族による独立運動が続いてきたこともあり、過去の歴史を顧みれば、現在のような状況の中で、対話ではなく武力を持って国家の安定を回復することは至難の業であり、多くのいのちが危機にさらされ、また暴力で奪われてしまうことは避けられません。政府はまもなく選挙を行うことにしていると報道されていますが、果たしてこの選挙が民主的に行われるのか、注目していきたいと思います。

教会はクーデター後から、幾度も軍部や政府に対して、対話による平和構築を呼びかけてきましたが、それに対しては、武力による破壊がもたらされてきました。司教館やカテドラルを空襲で失った司教様もおられます。

長年のパートナーであるミャンマーの教会のために祈りたいと思います。

なお年間第33主日にあたる今日は、貧しい人のための世界祈願日でもあります。教皇様のメッセージはこちらにあります。

教皇フランシスコの意向を引き継いで貧しい人への司牧を教会の中心に据える教皇レオ14世も、メッセージの中で様々な呼びかけを行っています。わたし自身もそうですが、その呼びかけをどのように具体的な行動に移していくのかが、大きな課題であると思います。いつも申し上げていることですが、皆が同じことをする必要はないと共に、皆が同じことをできるわけではないので、必ずこれをしなくてはならないということではありません。しかしながら、貧しい人々へのかかわりが単なる慈善活動ではなくて教会の司牧の中心にあるという教皇様の指摘を考慮するとき、格差を生じさせる社会全体の構造的な課題に目をつぶっていては結果として何も変わらないという状況が何十年も続いているのですから、具体的に教会がどう行動するのかを、今の次代の立ち位置から考えてみる必要を痛感しています。

以下、本日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主日ミサの説教原稿です。

年間第33主日C・ミャンマーデー・ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年11月16日

教会は年間第33主日を、貧しい人々のための世界祈願日と定めています。2016年、いつくしみの特別聖年が終わるにともない、教皇フランシスコは、「世界中のキリスト教共同体を、もっとも小さくされた人々ともっとも困窮している人々に向けられたキリストの愛のより具体的で大きなしるしとするために」この祈願日を設けることを提案され、2017年から教会の世界祈願日として行われています。

教皇フランシスコによれば、その第一の目的は、「使い捨てと浪費の文化を否定し、出会いの文化を受け入れるようキリスト者を励ますこと」であり、同時に「兄弟愛の具体的な表れであるあらゆる連帯活動を通して、貧しい人と分かち合うよう、宗教の別にかかわりなくすべての人を」招くことも目的としています。分断と排除が推し進められている世界の風潮に対して警鐘を鳴らし続けた教皇フランシスコは、経済的困窮のために人間の尊厳を否定され、社会から忘れ去られ、いのちの危機に直面する方々とともに歩むことの重要性を指摘し、こう言われました。

「もしキリストに会いたいと真に望むなら、聖体のうちに与えられる秘跡的な交わりへの応答として、わたしたちは貧しい人の傷ついたからだの中におられるキリストのからだに触れなければなりません」

困難に直面する人たちへの愛の奉仕は、わたしたちの自己満足のためではなく、その人たちとの出会いと分かち合いを通じて、キリストと出会うことであると、教皇は述べておられました。すべての人に与えられたいのちの賜物を、例外なくすべて護ることは、わたしたちの大切な使命です。

9回目となる今年の教皇メッセージは、詩編71篇からとられた「主よ、あなたはわたしの希望」をテーマとしています。

この一年わたしたちが過ごしている聖年のテーマは「希望の巡礼者」ですが、教皇レオ14世はメッセージの中で、「人生の試練のただ中で、聖霊によって心に注がれる神の愛に対する堅固で力強い確信によって、希望は力づけられます。だから、希望は欺くことがありません」と、聖年の柱となるメッセージを繰り返しています。

その上で、「貧しい人々は、貧困、脆弱さ、疎外による不安定な生活条件の中で希望を告白するからこそ、力強く信頼できる希望の証人となることができます。彼らは権力や富の安定を当てにしません。・・・彼らは別のところに希望を置くしかありません。わたしたちも、神が第一の、また唯一の希望であることを認めることによって、はかない希望から、永遠の希望へと移ります」と呼びかけておられます。

教皇レオ14世は、教皇フランシスコが最初のメッセージで強調した点を繰り返し、貧しい人たちとの関わりは単なる慈善事業ではなく、教会の司牧活動の中心に貧しい人たちがおられることを指摘します。その上で教皇レオ14世は、「神は貧しい人々の貧しさを引き受けました。それは、彼らの声と物語と顔を通して、わたしたちを豊かにするためです。あらゆるかたちの貧困は、例外なしに、福音を具体的に生き、希望の力強いしるしを示すようにとの呼びかけです」と記し、教会共同体が社会の現実の中で、福音を具体的に明かしする存在であるように呼びかけています。

わたしたちは、いま、この社会の中で、何をあかしする存在であるでしょうか。教会は何をあかししているでしょうか。

本日は東京教区にとってはミャンマーデーであり、わたしたちの兄弟姉妹であるミャンマー共同体のみなさまと心を合わせ、ミャンマーのために祈りを捧げています。コロナ禍の最中に起こったクーデター後、未だに政情は安定せず、平和を唱え行動するカトリック教会に対しては、武力による攻撃も起こっています。いくつもの教会が破壊され、カテドラルと司教館を失った司教様もおられます。ミャンマーの平和のために特に祈りたいと思います。

ミャンマーの教会とのパートナーシップの原点は、東京教区が第二次世界大戦後、ドイツのケルン教区によって支援を受けたことに遡ります。1979年、両教区の友好25周年にあたり、当時の白柳誠一東京大司教は「ケルン精神」、すなわち自己犠牲の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の信者に呼びかけ、来日した当時のケルン教区長ヘフナー枢機卿との話し合いで、両教区は力をあわせてミャンマーの教会を支援することに合意しました。東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけ、パートナー教会のために祈りを捧げてきました。

シノドス的な教会は、共に支え、共に耳を傾け、共に祈りあいながら、聖霊に導かれて道を歩んでいく教会ですが、そう考えてみると、すでに1954年にケルンが東京を支援し始めたとき、そして1979年に両教区が協力しながらミャンマー支援を始めたときに、ケルンと東京とミャンマーの教会共同体は、シノドスの道を歩んでいたということができます。このシノドス的な教会のあり方を、さらに継続し、深めていきたいと思います。

教皇レオ14世は、先ほどの祈願日のメッセージの終わりにこう記されています。

「この聖年が、古くからの形態と新たな形態の両方の貧困と戦い、また、もっとも貧しい人を支え、助ける新たな取り組みを行うための政策の発展を促しますように。労働、教育、住居、健康は、安全の土台です。武力によって安全を保障することはできません」

貧しさへの取り組みは、経済的問題だけではなく、人間の尊厳の問題であり、神の平和の確立こそがその解決になります。パートナー教会であるミャンマーの平和のために祈り行動することも、この世界祈願日にふさわしいことであると思います。

典礼の暦は待降節から新しく始まりますので、暦の終わりのこの時期には、世の終わりについてかたるイエスの言葉に耳を傾けます。

世の終わりは一体いつ訪れるのか。世の終わりにおける主イエスの再臨を待ち望んでいるわたしたちにとって、関心のあることであろうと思います。しかしイエスは、社会の中で次々と起こる不安を深める状況に振り回されることなく、感情的に振り回されないようにと忠告します。その上で、イエスは、「忍耐によって、あなた方はいのちを勝ち取りなさい」と諭します。

簡単に情報にアクセスできる昨今、不確実な情報に振り回されることも多くなりました。情報の流れを操作することで、一定の世論を生み出すこともできるようになりました。そのような時代だからこそ、振り回されることなく、時のしるしを読み取りながら、忍耐のうちにイエスの言葉に従い続け、真のいのちに到達できるように努めたいと思います。

 

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2025年10月30日 (木)

2025/10/26、堅信式ミサ@赤羽教会

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10月26日の主日、午前9時から、東京の北区にある赤羽教会で、12名の方の堅信式が行われました。おめでとうございます。

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赤羽教会はコンベンツァル聖フランシスコ会が司牧担当する教会です。現在の主任司祭は、同会の平孝之神父様。東京教区のホームページには、戦後1949年8月15日に創設された赤羽教会の歴史が、以下のように記されています。

「赤羽教会の設立は、当初長崎を拠点として活動していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会が終戦後、東京に新しい修道院や神学生養成のための神学校の必要性を強く感じ始めたことに起因します。ドナト・ゴスチンスキー神父とゼノ修道士が派遣され、赤羽にその地をみつけ、戦争中の空襲で焼けた工場跡のこの土地を、当時の管区長であったサムエル・ローゼンバイゲル神父がアメリカからの寄付金で購入しました」

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蟻の町野マリアと呼ばれた尊者北原怜子(さとこ)さんを導いてともに活躍したゼノ修道士も有名で、聖徳の誉れ高く、お二人の列福運動はコンベンツァル会が担当して長年進められており、近頃は、ポーランドからの巡礼者も増加していると伺いました。それもあって、信徒会館の前には同会の聖人であり、1930年にゼノ修道士と共に来日した聖マキシミリアノ・コルベ神父様の新しい銅像が建立され、さらに向かい側にはゼノ修道士の銅像も制作中であるとのことでした。東京教区でも、北原怜子さんの資料をかなり保有していることもあり、コンベンツァル会に協力しながらですが、保有する資料の整理も進め、保存を進めるよう努めたいと考えています。それはまた故岡田大司教様の願いでもありました。

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以下、同堅信式ミサの説教録音から起こした内容を整理した説教の原稿です。

堅信式ミサ
カトリック赤羽教会
2025年10月26日

一年ほど前、昨年の10月6日、教皇様が日曜日恒例のお昼のアンジェラスの祈りを終えた後に、新しい枢機卿を任命するつもりだと言って21名の名前を読み上げられ、その中にわたしの名前も入っていました。それからあっという間に一年が経ちました。

枢機卿になるとは、事前に何も通告がなかったので、急な話で驚きました。翌日、ちょうどシノドスに参加している新たに任命された枢機卿のもとに、教皇フランシスコからの手紙が届けられました。他の新しい枢機卿へは、それぞれの教皇大使を通じて郵送したのだと思います。

教皇様から直接の手紙って、もらったことないですよね。思いのほか大きな紙ファイルに入っているのですが、立派な教皇様の紋章が付いたファイルで、その中に二重に折り畳んだ紙があり、手紙の本文が印刷されて、一番最後に小さな教皇フランシスコのサインがある。

その手紙に、その中に、あなたを枢機卿に任命しましたということが書いてあって、そして教皇フランシスコのアドバイスが書いてあるんです。

その中の一つが、かつて教会の歴史の中で、枢機卿になるというのは名誉を得ることであった。言ってみれば貴族のような高い位に上げられるという、世俗的な名誉だと考えられていた。けれども、今の時代の教会にあっては、そうではないのですと。あなたは「目を上げ、手を合わせ、裸足でいる」を自ら体現するものとして、謙遜に生きていきなさいと記されていました。

この現実世界で起こっている様々な出来事に、しっかりと目を向けて、地に足を着けて、そして神に向かい、低いところから高みに向かって、目を上げなさい。謙遜でありなさい。現実からすべてを始めなさい、というようなことが書いてありました。

名誉を与えられたと考えるのではなくて、あなたは仕える者として、ありなさい。教皇様ご自身の名称の一つに、「しもべの中のしもべ」という言い方がありますけれども、まさしくその、一番下から全てを見つめる、謙遜なしもべでありなさい、と諭す教皇フランシスコの思いが、記されていた書簡でした。

ですから、枢機卿になったということは、どういうことなのか。私自身にとってどういうことなのかということと、教会全体にとって、特に東京の教会にとってどういう意味があるのか、というのはそれぞれ別な思いがあるとは思いますが、わたし自身にとっては、教皇フランシスコが遺された言葉の通り、謙遜に、地に足を着けて生きていくという心構えについてあらためて考えさせられる、その契機になったと思っています。

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謙遜に生きていく。それは教皇、または枢機卿とか司教とか司祭、修道者だけの課題ではなく、わたしたち、イエス・キリストの信仰に生きることを選んだ者すべてにとっての課題です。謙遜に生きていくというのは、人間関係をスムーズに、うまく作り上げていくためのマナーとしての謙遜さ、または、文化的な背景からある、謙遜さもあるでしょう。それとは違う、生きる姿勢そのものとしての謙遜さです。つまり、マナーとして謙遜になり、互いにうまく人間関係を作ってうまくやっていきましょう、そのために謙遜さを身につけましょうと言っているわけではない。その謙遜さは、生き方そのものです。生き方そのものにおいて何を中心に置いているのか、というところにあるのです。

ちょうど今日の福音書は、ファリサイ派の人と徴税人、二人の人物の対比ということで、謙遜さについてイエスが語っているところですね。

ここで、実際の身体的な視点、つまりどこに向かって目を向けているでしょう。ファリサイ派の人は、上を向いて神様の方を見ていますね。実際の目が向いている方向です。そして、徴税人の方は下を向いていて、神様の方を向いていないのです。

しかしながら実際には、その身体的な目が物理的にどちらを向いているかということは、実はあまり問題ではありません。我々はそれに捉われやすい。社会の中で、具体的に生きている中では、どこを向いているかとか、どういう態度を取っているかなど、表面的な表に現れることに、どうしても気が捉われてしまいます。

けれども、この話の中でイエスが語っているのは、心も目の話です。心の目は、いったいどこを向いているのかなのです。そうするとですね、ファリサイ派の人は自分のこと、内側にしか向いていないんですよ。自分の内側、自分のことしか考えていない。盛んに自分を褒め称えていますが、それは、自分の世界の中に、どんどんどんどん閉じ籠っていくということです。そうすると、自分の世界の中では自分が中心ですから、当然自分が一番立派に決まっている。いかに自分が立派かとほめたたえながらか、自分にどんどん視点を向けて行く状況です。

それに対して、徴税人は、自分で自分を判断しようとはしていません。彼は、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、罪人のわたしを憐んでください」と。わたしについて判断するのは、神様、あなたです。神様が、わたしのことを判断するんです。ですから、あなたにすべてを委ねます、という姿勢です。身体的物理的な目は下を向いていますけれども、その心の目は、しっかりと神様の方を向いているんです。神様、あなたのおっしゃる通りに、わたしはいたしますという、神にすべてを委ねる生き方の姿勢ですよね。

その違いが、信仰の中で生きていく謙遜さを教えています。つまり、謙遜さというのは、その表向きの態度が謙遜かどうか以上に、心の目がどこを見ているのかと、わたしたちの心はどこを向いて生きているのか、という問題にかかっているのだと思います。

どうしても、自分のこと、見栄とか、名誉とか、楽しみとか、そういうことに目が行ってしまう。心の目もそこに向けられ内向きになってしまいがちですけれども、イエス様は、目を天に上げなさいと。心の目を天に上げなさいと。神にすべてを委ねて、神に判断を委ねなさいと。そしてその判断に、素直に従いなさい。そういう生きる姿勢を、謙遜さとして求めておられると思います。

今日、堅信を受けらる方々が、12名ほどおられると思います。

堅信式は、洗礼から始まって、ご聖体を受けて、そして堅信で、キリスト教の入信の秘跡が完成します。残念ながら、途中までで終わってしまう人もいますが、洗礼を受けて、ご聖体を受けて、そして堅信を受けることによって、わたしたちの、キリスト者としての入信の秘跡が完成するのです。

堅信の秘跡を受ける時には、その時には、完全なキリスト者がそこに出来上がっているんですよね。でも人間は弱いので、出来上がった瞬間から、どんどんどんどん落ちてゆきます。いつまでも完璧でいられるわけではなく、息を吸うように罪を犯しまくって生きているのですから、どんどんそれは錆びて行くんです。

でも、なんとか、その完全なキリスト者として到達した、それを、保っていきたいんですよね。そのために、どうしたらいいか。自分の力ではどうしようもないので、だからこそ、堅信の秘跡を通じて与えられる聖霊の助けが必要なんです。

聖霊は、この堅信の秘跡によって、聖霊を受けることによって、その日、何か急に人が変わってスーパーマンになるとか、そういうことではないんです。そうではなくて、謙遜に生きよう、神に全てを委ねて生きようと決意するその心を、なんとか錆びないように、その完璧なキリスト者になったその日から、どんどん落ちていかないようにと、一所懸命に支えようと自分がしているときに、それを支えてくれるのが、聖霊の働きであります。

ですから、その聖霊の働きに信頼しながら、大人としての、成熟した、出来上がった、完成した、キリスト者として、この世界の中で、謙遜に神に、神の望みに身を任せて、生きていくことができるように、神に向かって心の目を上げ、すべてを委ねる努力をしていただければと思います。

 

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2025年10月18日 (土)

サン・ジョバンニ・レオナルディ教会着座ミサ説教

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既報ですが、去る10月9日木曜日ローマ時間午後6時、ローマ市郊外のサン・ジョバンニ・レオナルディ教会で、枢機卿としての名義教会着座式を行いました。

小教区聖堂に皆が入りきれない恐れ場会ったため、着座式をまず聖堂で行い、その後聖堂裏にある運動場でミサを捧げました。

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着座式は、まずブラスバンドに迎えられてわたしが到着。教皇儀典室のモンセニョールに導かれて聖堂前に到着。主任司祭が差し出す十字架に接吻。その後聖水で灌水しながら入堂。祈りを捧げた後に、教皇様による枢機卿への任命書の朗読と提示。そして着座と行われました。

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ミサは通常式文ですが、イタリア語で行いました。小教区の聖歌隊が、伴奏のバンドと共に、とても素晴らしい歌声を聞かせてくださいました。

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第一朗読をイタリア語、第二朗読を日本語、福音をイタリア語で行った後、説教は準備した原稿で日本語で行い、アンドレア司教様がイタリア語に訳してくださいました。

ミサの終わりに聖堂に戻り、儀典室が用意してきた着座の記録にサインして終わりです。

準備してくださった小教区の皆さん、参加してくださった皆さん、ありがとうございます。

以下、そのときの説教の原稿です。

名義教会着座式
サン・ジョバンニ・レオナルディ教会
2025年10月9日

「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」
 私たち教会は、主イエスご自身からこの命令をいただきました。ですから私たち教会は、イエスキリストの福音をのべ伝えることをやめることはできません。しかもイエスは、それを全世界に、すなわち地の果てまで行ってのべ伝えるようにと命じられました。

«Andate in tutto il mondo e proclamate il Vangelo». Noi, la Chiesa, abbiamo ricevuto questo comando dal Signore Gesù stesso. Per questo la Chiesa non può smettere di annunciare il Vangelo di Gesù Cristo. Inoltre, Gesù ha ordinato di andare ad annunciarlo a tutto il mondo, cioè fino ai confini della terra.

いまから476年前、1549年、フランシスコ・ザビエルはその命令に忠実に生きるために、はるかかなたの日本までやってこられました。日本での福音宣教の始まりです。

フランシスコ・ザビエルの時代、ヨーロッパから日本に来ることは、危険な冒険でした。アジアでの宣教のためにリスボンを出発した時から数えると8年です。途中のインドのゴアから出発して日本の鹿児島に上陸するまで4ヶ月です。フランシスコ・ザビエルにとって、「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」というイエスの命令は、そのすべての苦しみを乗り越えさせるほど、意味のある命令でありました。

476 anni fa, nel 1549, Francesco Saverio venne fino al lontano Giappone per vivere fedelmente a questo comando. Fu l’inizio dell’evangelizzazione in Giappone.

Ai tempi di Francesco Saverio, giungere dal continente europeo al Giappone era un’avventura pericolosa. Dal momento in cui partì da Lisbona per la missione in Asia passarono otto anni; e dal porto di Goa, in India, fino allo sbarco a Kagoshima in Giappone, ci vollero quattro mesi. Per Francesco Saverio, il comando di Gesù «Andate in tutto il mondo e proclamate il Vangelo» fu un ordine tanto significativo da permettergli di superare tutte le sofferenze.

それからおおよそ500年。その間に迫害と禁教の時代があり、多くの殉教者が信仰を守るために血を流し命を捧げました。日本の教会は、フランシスコ・ザビエルに始まり、多くの宣教師によって種がまかれ、殉教者の血によって育てられてきました。日本の教会は、宣教師や殉教者という信仰の先輩たちに、感謝をささげる教会でもあります。

Sono trascorsi circa 500 anni da allora. In questo spazio tempo ci sono stati periodi di persecuzione e di proibizione della fede, e molti martiri hanno versato il proprio sangue e donato la vita per custodire la fede. La Chiesa in Giappone è nata con Francesco Saverio, il seme fu sparso da molti missionari, e crebbe grazie al sangue dei martiri. La Chiesa in Giappone è dunque anche una Chiesa che offre gratitudine ai missionari e ai martiri, nostri predecessori nella fede.

今日こうして、日本から多くの巡礼団がローマを訪れ、ローマにある教会共同体の皆さんと一緒にミサを捧げ、そして祈りを共にすることには大きな意味があります。それは私たちが歴史の中で、主イエスの宣教命令に忠実に働いてきたことの証しであります。困難の中にあってもくじけることなく神に従い生きることが、これほどの実りをもたらすという、希望の証しであります。いま私たちが祝っている聖年のテーマは、希望の巡礼者です。私たち日本からの巡礼団は、福音宣教が生み出す希望を証しする、希望の巡礼者として、今日ここに来ました。困難に負けることなく希望を生み出す福音の証しです。

Oggi, il fatto che tanti gruppi di pellegrini dal Giappone arrivino a Roma, per celebrare la Messa insieme alle comunità ecclesiali di Roma e pregare insieme, ha un grande significato. È la testimonianza che, lungo la storia, abbiamo lavorato fedelmente al comando missionario del Signore Gesù. È una testimonianza di speranza: vivere obbedendo a Dio senza scoraggiarsi di fronte alle difficoltà porta frutti così grandi. Il tema dell’Anno Santo che celebriamo è «Pellegrini di speranza». Noi, pellegrini giapponesi, siamo qui oggi come pellegrini di speranza, per testimoniare la speranza che nasce dall’evangelizzazione. È una testimonianza del Vangelo che genera speranza, senza lasciarsi vincere dalle difficoltà.

残念ながら日本の教会は、長い歴史がありますが、社会の中ではいまでも少数派です。東京のような大きな都会ではたくさんの方が日曜日にはミサに参加します。しかし地方ではそうではありません。私が東京の大司教になる前、13年間、司教を務めた新潟教区では、あるとき北の地方の教会を訪問したら、聖堂には10人の方がおられました。でもそれを見て主任司祭のドイツ人宣教師は、「今日は司教様が来ているので、たくさんの人が来ています」と言われました。いつもの日曜日には、三人程度しか来ないのだと聞きました。

Purtroppo, nonostante la sua lunga storia, la Chiesa in Giappone resta ancora oggi una minoranza nella società. In grandi città come Tokyo, molte persone partecipano alla Messa domenicale; tuttavia, non è così nelle zone rurali. Prima di diventare arcivescovo di Tokyo, per 13 anni sono stato vescovo della diocesi di Niigata. Una volta, visitando una chiesa in una regione settentrionale, ho trovato 10 persone riunite in cappella. Ma il parroco, un missionario tedesco, disse: «Oggi, poiché è venuto il vescovo, sono accorse molte persone». Mi disse che di solito alla Messa domenicale partecipavano appena tre persone.

日本での福音宣教は簡単ではありません。しかし私たちはそういった人数が少ないという現実の前で悲観的にはなっていません、なぜならば福音宣教は人間の業ではなくて、神様の業であるからです。神様ご自身が、すべての人を救いたいと願っているのですから、必ずや道を切り開いてくださると信じています。福音宣教においては、困難を前にしてくじけてはいけないのは、フランシスコ・ザビエルの時代からはっきりと証明されています。

L’evangelizzazione in Giappone non è facile. Tuttavia, non ci lasciamo scoraggiare dalla realtà dei piccoli numeri, perché l’evangelizzazione non è opera dell’uomo, ma opera di Dio. Poiché Dio stesso desidera la salvezza di tutti, crediamo che Egli certamente aprirà le vie. Che non ci si debba arrendere di fronte alle difficoltà dell’evangelizzazione è stato dimostrato chiaramente fin dai tempi di Francesco Saverio.

いま日本の教会に日曜日に行けば、日本人以外に、ベトナムやフィリピンやインドネシアやブラジルやアフリカなど、世界中の様々な国から来られた方が、一緒なって祈りをささげています。皆さんそれぞれ自分の個人的な理由で日本に来たと思っていることでしょう。しかし私は、そこには必ずや神様の計画があると信じています。個人的な理由で日本に来ているすべての信徒は、神様から遣わされた宣教師です。もちろん日本の教会にいるすべての人も、神様から遣わされた宣教師です。シノドス的な道を歩んでいる教会は、様々な方が交わって豊かにされ、宣教する教会になります。

Oggi, se si va in una chiesa in Giappone la domenica, oltre ai giapponesi ci sono fedeli provenienti dal Vietnam, dalle Filippine, dall’Indonesia, dal Brasile, dall’Africa e da tanti altri Paesi del mondo che pregano insieme. Ognuno di loro penserà di essere giunto in Giappone per motivi personali, ma io credo che in tutto questo ci sia il disegno di Dio. Tutti i fedeli che vivono in Giappone per motivi personali sono in realtà missionari inviati da Dio. Naturalmente, anche tutti coloro che già appartengono alla Chiesa in Giappone sono missionari inviati da Dio. Una Chiesa che cammina in modo sinodale si arricchisce attraverso l’incontro tra persone diverse e diventa una Chiesa missionaria.

ローマにおられる皆さんと、今日こうして日本から来られた皆さんと、交わりを深めながら、ともに困難に立ち向かい、福音を告げる宣教師となることを、あらためて主イエスに誓いましょう。

Oggi, qui, insieme a voi che vivete a Roma e a voi che siete venuti dal Giappone, rinnoviamo la promessa al Signore Gesù di diventare missionari che affrontano le difficoltà e annunciano il Vangelo, approfondendo la nostra comunione.

 

 

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2025年9月15日 (月)

2025年:悲しみの聖母@聖心女子大学聖堂

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9月14日の十字架称賛の祝日の翌日、9月15日は、その十字架の元にたたずみ、イエスと苦しみを共にされた聖母の御心に思いを馳せる、悲しみの聖母の祝日です。

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今年の悲しみの聖母の祝日のミサは、グレゴリオ聖歌を歌われるCANTATE DOMINO、由比ヶ浜グレゴリアンを歌う会の主催で、聖心女子大学聖堂においてミサを捧げました。ミサ式文は朗読と説教を除いてすべてラテン語ですが、現行の典礼式文によるミサです。

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以下、本日のミサ説教原稿です。

悲しみの聖母
聖心女子大学聖堂
2025年9月15日

わたしたちは、確実に先を見通すことの難しい時代に生きています。先に起こった世界的な感染症の蔓延もそうでしたし、今現在経験している各地での武力紛争の勃発、さらには今年の夏にも経験した気候変動など、先の見通せない不安という暗闇で生きていると言わざるを得ません。

不安の暗闇を生き抜くということを考えるとき、聖母マリアご自身が、まさしくそういった不安に囲まれて人生を歩まれたことを思い起こします。

ルカ福音には、シメオンがマリアに語った言葉が記されていました。シメオンは朗読された福音の直前の部分で、幼子イエスについて、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と宣言します。天使のお告げを受け、救い主の母となることを知らされ、その驚きの告知を謙遜の心で、「お言葉通り、この身になりますように」と受け入れたマリアは、あらためてシメオンの口を通じて、まさしくその幼子こそが神の救いそのものであることを告知されます。この知らせに対するマリアとヨセフの素直な驚きを、「幼子について言われたことに驚いていた」と福音は記しています。

そしてマリアに対してシメオンは、その驚きにさらに追い打ちをかけるように、イエスの将来について「反対を受けるしるしと定められています」と驚きの事実を告げ、加えて「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と、マリア自身も苦しみの道を歩むことになる事実が告げられます。

この驚くべき告知の連続は、それこそマリアにとって、先行きの見えない大きな不安の闇となって襲いかかったことでしょう。しかしそれに立ち向かわれたマリアは、神の母となりました。

聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

そこには、先行きが見えない不安による疑心暗鬼の闇に引きずり込まれる誘惑もあったことでしょう。イエスの弟子たちがそうであったように、苦しみの道を否定しようとする誘惑もあったことでしょう。そのようなことはあり得ませんと、反論したくなる誘惑もあったことでしょう。

それらはまさしく、イエスご自身がペトロを叱責された、「サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉に明らかなように、神の計画を無にしようとする悪の誘惑です。

聖母マリアは、しかしその誘惑と不安に立ち向かわれました。神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる様々な人たちとの連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。

今日の福音は、聖母がその苦しみの道を一人孤独に歩んでいたのではないことを明確にします。そこにはシメオンのように、神の計画を知り、その神の計画に身を委ねるようにと励ます具体的な存在がありました。そしてもちろん天使のお告げの言葉、すなわち「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」、そして「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」というお告げの言葉における約束は、聖母にとって、救い主ご自身が常に道をともに歩んでくださるという確信を与えました。神のみ旨を識別しながら、ともに歩む信仰の道。まさしくいま教会が歩んでいるシノドスの道を最初に歩まれたのは、聖母マリアであります。

わたしたちが、困難に直面し、疑心暗鬼の不安にとらわれるとき、心は自己保身に傾き、利己的な心は他者の必要に目をつぶらせ、自分の心を安定させるために異質な存在を排除しようとします。そのときにこそ、聖母マリアの生きる姿を思い起こさないわけにはいきません。わたしたちの信仰は、神の計画に信頼し、互いに助け合い、ともに歩んでくださる主に信頼しながら謙遜に身を委ねる信仰です。

この混乱の時代、聖母の生きる姿勢に倣い、さまざまに飛び交う言葉に踊らされることなく、神が望まれる世界の実現の道を見極めるために、祈りと黙想のうちに賢明な識別をすることができるように、聖霊の導きを祈り、またその導きに従う勇気を祈り願いたいと思います。

 

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2025年9月10日 (水)

本郷教会初聖体など

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2025年の日本における「被造物を大切にする世界祈願日」にあたる9月7日、東京都内の本郷教会で主日ミサを捧げ、またそのミサの中で四名のお子さん方が初聖体を受けられました。

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本郷教会は、現在は関口教会の主任である小池神父様が兼任されています。

またその前の週末、9月6日の土曜日には、午前中、下井草教会において、礼拝会(聖体と愛徳のはしため礼拝修道女会)のシスター・マリア・グエン・ティ・トゥイ・ハンさんが終生誓願式が行われました。東京教区内におられる様々な修道女会のベトナム出身のシスター方を始め、多くの方が参加されました。おめでとうございます。

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さらにその土曜日の夕方には、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、聖年の行事として国際ミサが捧げられました。ミサは基本的に英語で行いわたしが司式、説教をアンドレア司教様が担当、さらに教皇大使と、折から来日中のオロリッシュ枢機卿様も参加されました。

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大聖堂は、折りたたみの椅子も使って千人近い人が集まっていたと思います。様々な国や文化を背景とする人たちが集まり、最後の派遣の祝福後には全員で、いろいろな言葉で聖年のテーマソングを合唱して、この日のミサを終わりました。集まってくださった見さんありがとうございます。

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以下、日曜の本郷教会でのミサ説教を録音から文字にしたものです。

カトリック本郷教会
被造物を大切にする世界祈願日ミサ
2025/09/07

教皇フランシスコが、2015年に「ラウダート・シ」という文書を出されたのは、ご存じだと思います。教皇様の文書というのは、想像していただければ判る通り、自分で全部書くわけではありません。あれだけの文書を、次から、次から教皇様がひとりで書くのは無理ですから、基本的に教皇様のオリジナルのアイディアを受け取った人が原案を書き、それを教皇様が手を加え、また書き直す。そうした作業を繰り返し続けることによって、出来上がって行きます。

この文書に書かれていることの大半は、いわゆる環境問題への取り組みです。気候変動、温暖化などに関連する環境問題に、教会と世界がどう取り組むべきかが書かれていますが、留意すべきことは、なぜ教皇フランシスコがそういった文書を出そうと考えたのかであります。

2013年に教皇に選出されて、教皇フランシスコが最初にしたことは、地中海のアフリカに近いところに浮かんでいる、ランペドゥーザという島へ出かけ、そこに辿り着いたアフリカからの難民の人たちと会って、ミサを捧げたことです。そこで、無関心のグローバル化がいのちを奪っていると訴えました。

多くの人の利己的な無関心が、ここでいのちを奪っているのだと。忘れ去られている人たちが、これだけ多くいるんだと。いのちをこのように粗末に扱われるのは、許されないことなのだと。なぜならば、いのちは神からの賜物として私たちに与えられた、恵みなのだから。その恵みを、無視して危険に晒すようなことを、わたしたちはしてはならないと強調されたのです。

いのちを守るというと、まず思い浮かぶのは、平和の問題ですね。戦争をやめましょう。または、経済的な問題。世界経済のシズテムの中で格差が広がり、いのちを奪われて行く貧しい人たちがいるのだと。特に教皇フランシスコは、南米出身の方ですから、南米の様々な現実の中から、そういう思いを深めて行ったのは当然です。そういったことを突き詰めていけば、当然ですが、すべてのいのちを守ることの大切さに行き着きます。

神が作られた被造物の中の一番最高の賜物であるいのちを大切にするのであれば、それ以外のすべての被造物、つまりいのちが生きるために、この神が賜物として与えられたいのちが、より良く生きるような状況を作り出すために生み出されたすべての被造物も、大切にしていかなくてはならない。

わたしたちは、何もない真空状態の中で、いのちを生きているわけではなくて、すべての被造物に囲まれている中で、賜物であるいのちを生きているのですから、当然の帰結として、いのちの大切さを訴えるのであれば、この世界のすべて、すべての被造物、教皇様は「わたしたちの共通の家」という言い方をされましたけれども、この「共通の家」を大切にするということが、とても重要なのだ。ですから当然の帰結として行き着いたのが、あの「ラウダート・シ」であります。

すでに東方教会では、9月1日を被造物を大切にする日として、以前から祝っていました。東方教会からの呼び掛けに応えて、教皇フランシスコは、カトリック教会も東方教会と共に、9月を被造物を大切にすることを祈り行動するときにしようと決意されました。

その時期のことを「被造物の季節」という言い方をしますけれども、9月1日から、まさしく「ラウダート・シ」という言葉を発したアッシジの聖フランシスコの記念日である10月4日までの期間を、被造物を大切にする祈りの時としましょうと教皇フランシスコは呼びかけられました。

9月1日を被造物を大切にするための世界祈願日と定められましたが、日本の教会では、その次の日曜日に、被造物を大切にするための世界祈願日を祝います。お祝いをするというよりも、私たちに与えられている、この大切な、神が与えてくださった恵みを、どのように護り活かしていくのかを考える日です。それが今日ですね。

ですから、その「ラウダート・シ」という文書やそれに込められた教皇フランシスコの思いは、みなが環境活動家になれということではないのです。もちろん活動かも必要です。声をあげて権力を動かしていくような、そういう環境のための政治的活動をしていく人たちも必要ですし、実際に、地道に自分の生活の周辺で様々に、環境を良くするための活動に取り組む人も必要です。ですが、実際に教皇フランシスコが一番、大切なこととして求めていたのは、わたしたちの回心です。

「エコロジカルな回心」という言葉を教皇フランシスコは使いますけれど、「エコロジカルな回心」、つまり、このすべての被造物の調和の中で、人間のいのちはありとあらゆる被造物に取り囲まれている。この多様性における調和の中で、いのちを生きる一人ひとりがいのちの与え主に心をまっすぐ向けなくてはならない。それを「エコロジカルな回心」と呼びました。

何を回心するのかといえば、それは、先ほど朗読された福音にあったように、神と富と両方に仕えることができないんだと。だから、神に仕えなさい。富ではなくて神に仕えなさい。その二つの選択のうち、中間はないよと。どちらかを選択しなければならない。そのときに、神を選択するために、自分の心を神に向かって回しなさい。回心しなさい。一体どこを見ているのだ、見ている方向を、神に向けなさい。

あの分厚い「ラウダート・シ」という本を読んでいると、最後の方は、ずっとそういう温暖化や環境問題や気候変動について書かれているので、興味がないと途中でやめてしまうのですが、その終盤で、「エコロジカルな回心」の話が始まるんですね。その信仰的な側面が、教皇フランシスコがわたしたちに伝えたかったことなのです。

そして、そこからさらに道は切り開かれ、「ラウダート・シ」からの当然の続きとして、その精神を深めて、「シノドス的な教会」という概念へと繋がっていきました。

「エコロジカルな回心」は、個人的な問題ではないのです。それは、みんなで一緒になって支え合いながら、ふさわしい道を、祈りのうちに識別をしながら歩んで行く、そういう道のりなのです。だからそのこと自体がシノドス的な教会に繋がるのです。

一人ひとりの個人的な責任に期待していたのでは、この環境を、この神が与えてくださった「共通の家」を守ることはできない。みんなが共になって守っていかなければならない。そうしなければ、環境も、そしてひいては人間のいのちも、守ることはできない。だから「シノドス的な教会」になることが大切なのだと繋がって行きます。

ですから、「シノドス性」というのは、教会の組織改革をしようだとか、民主主義的な教会にしようとかという話では、ありません。そうではなくて、教皇フランシスコの、最初に難民の人たちと出会って、いのちを大切にするところから始まり、被造物、私たちが住む「共通の家」を大切にし、さらにそのためには、一緒になって歩んで行かなければならない、だからシノドス的な教会なのだという、一本の線がずっと繋がっているんです。

教皇フランシスコご自身に言わせると、それは自分が考えたことではなくて、第二バチカン公会議が考えたことだと。自分は、第二バチカン公会議の考えたこと、目指したことを実現しようとしているだけなんだ、ということもおっしゃいました。

そして、教皇フランシスコが亡くなられて、教皇レオ14世が新しく選ばれました。数日前に、カステル・ガンドルフォに、夏の休暇などに行く教皇様の離宮があるんですけれども、そこにエコロジーを実践するラウダト・シ・庭園を新しく作って、そこで被造物を大切にする意向でミサを捧げられました。今日わたしたちが使っているのと同じ祈りです。教皇フランシスコの敷いた道を引き継いで、同じように、私たちの「共通の家」を大切にして行くのだと、教会の中で大切なものとして、引き継いで行こうと、宣言されました。

日本の教会にとっては、それとはまた別に、2019年に教皇フランシスコが日本に来てくださったことを記念し、9月1日から10月4日までを、訪日のテーマにちなんで「すべてのいのちを守るため」の月間と定めています。

いのち守る話になると、すぐに平和の問題となってしまいますが、平和問題というのは戦争のことに始まって、環境問題も含め、すべてのいのちを守ること、つまり総合的なことであります。

総合的、インテグラルという言葉が教皇フランシスコは大好きで、全てを包み込んだ、すべてを含めた、この「共通の家」、私たちの「共通の家」の中で、すべてのいのちを大切にするんだ、被造物を大切にするんだ、というところに、一本の線で繋がって行くテーマです。

今年はこの世界祈願日のための新しい典礼もできあがり、日本語の翻訳もなんとか間に合って、こうして一緒に被造物を大切にするための特別なミサを捧げることができるようになりました。これからも私たち一人ひとりが、環境問題はもちろん大切なことなので取り組んでいただきたいですが、それ以上に、イエスからの問いかけ、つまり「選ぶのはどっちなんですか?神ですか?この世の富ですか?」という問いかけに自信を持って、「神様です」と答えることができるように、心を整えて行きたいと思います。

今日、四人の方が一番前に座っておられて、初聖体を受けられます。

初聖体を受けるというのは、「神様ですか?この世の富ですか?」という問い掛けに対して、「神様です」自信を持って皆さんの前で応えることでもあります。私にとって、神様が大切なんです、神様が私にとって一番なんですと、今日ご聖体を受けることによって、皆さんの前で宣言する。ですからどうか、これを、これから先もずっと、自分の心にしっかりと留めて、守って行っていただきたいと思います。

イエス様ご自身が、神様ご自身が、ご聖体を通じてそれぞれの皆さんの心の中にしっかりと来てくださる。ご聖体は最後の晩餐の時に、イエス様が弟子たちと、明日はもう別れて行くという、もうこれでこの弟子たちと一緒に食事をすることはない、「私のことを忘れないでくれ、私が語ったことを忘れないでくれ、私がしたことを忘れないでくれ」という、そのすべての思いを込めたものです。

このパンはわたしなのだ。このパンを食べるたび、この盃を飲むたびに、私のことを思い起こしなさい、告げ知らせなさいと、弟子たちに命じて残して行かれた、それがご聖体です。

ご聖体はイエス様ご自身です。イエス様ご自身をいただいて、このイエス様の思い、私を忘れるなという思いを、しっかりと心に刻んで、常に神様の方を選んで、歩んで行くことができるようにしたいと思います。

 

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2025年9月 5日 (金)

コルカタの聖テレサの祝日@足立教会

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9月5日はコルカタの聖テレサの記念日でした。コルカタの聖テレサというよりは、カルカッタの聖テレサ、そしてそれよりもマザーテレサの方がよく知られた名前です。(インドのカルカッタは現在、コルカタと呼ばれています)。

記念日のミサを捧げるように神の愛の宣教者会のシスター方に招かれたので、本日の午後、足立教会でシスター達、ブラザー達と一緒にミサを捧げてきました。また足立教会を始め、日頃からかつどうにか川手いる方々も含め、聖堂からあふれんばかりの人たちがミサに参加してくださいました。台風でちょうど雨の強い中、集まってくださったみなさんに感謝します。シスター方は足立区西新井に修道院があります。男子のメンバーは、長年にわたって山谷地区で活動を続けてくださっています。

以下、本日のミサの説教原稿です。

コルカタの聖テレサの祝日
足立教会
2025年9月5日

マザーテレサの祝日にあたり、特に神の愛の宣教者の会員のみなさまに、心からお祝いと、そして日々の活動に対する感謝を申し上げます。

マザーテレサの模範に従い、世界中の厳しい社会環境の場で、いのちの危機や生活の困難に直面する人たちのため、社会から排除され忘れ去られた人たちのため、希望を失い絶望の中に生きている人たちのため、ありとあらゆる困難を乗り越えて尽くそうとする神の愛の宣教者会のシスター方、ブラザー方の活動に、心から敬意を表したいと思います。

2023年5月から、わたしは国際カリタスの責任者である総裁を四年の任期で務めています。国際カリタスは、カトリック教会の設置する国際的な援助や災害救援のNGOであります。

教皇ベネディクト16世は、教会における愛の業、すなわちカリタスの業を重要視され、それが単に人間の優しさに基づくのではなく、信仰者にとって不可欠な行動であり、教会を形作る重要な要素の一つであることを明確にされました。

最初の回勅であった「神は愛」には明確にこう記されています。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神のことばを告げしらせること、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これら三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです(25)」

ですからカリタスは、世界中の、貧しい人、忘れ去られた人、不正義の状態にある人、いのちの危機に直面する人に、教会が行わなくてはならない愛の奉仕の業を率先して行う教会の組織です。単なる国際NGOではありません。

その国際カリタスは、組織の保護の聖人を三名定めています。一人目は、聖マルチン・デ・ポレス。1579年にペルーのリマで生まれたドミニコ会士は、謙遜のうちに生き、祈りに多くの時間をささげ、人種や皮膚の色、社会的地位によらず、すべての人を大切にし、貧しい人たちに奉仕した聖人です。困難に直面する人たちへの奉仕の模範の聖人です。

もう一人は、聖オスカル・ロメロ大司教。『友のために命をささげる。それ以上の愛はない』と言うイエスの言葉を、人生のすべてをかけて、その行いと言葉で証しをしたエルサルバドルの殉教者です。2018年10月のロメロ大司教列聖式で、教皇フランシスコは次のように呼びかけました。

「イエスはラディカルです。彼はすべてを与え、すべてを求めます。完全な愛を与え、揺らぐことのない心を求めます。今日でも主は、ご自身を生きたパンとして与えられます。私たちは、せめてパンくずくらいでさえも、主にお返しできるでしょうか」 

そしてもう一人、三人目の保護の聖人は、コルカタの聖テレサ。マザーテレサであります。この三人の聖人の生き方こそが、カリタスの目指す生き方であり、ひいては教会が愛に生きるということはどういうことなのかを明確に示す模範です。愛に生きるという頃は、優しさの発露のような甘い話ではなく、いのちをかけた生き方です。

2019年に訪日された教皇フランシスコは、東京カテドラルに集まった青年たちと対話をする中で、マザーテレサに触れてこう言われたことを思い出します。

「世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔の見えないことがほとんどな社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。『孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です』。心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪と思う貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。正直であれば気づくでしょう。わたしたちが抱えうる最大の貧しさは孤独であり、愛されていないと感じることだと」

まさしくマザーテレサこそは、人間にとっての最大の貧しさである「孤独と、愛されていないという思い」のなかで、希望を失い絶望の中で生きている多くの人に直接かかわり、彼らの心をがんじがらめにしている鎖を解き放ち、愛のうちに希望を生み出した聖女であります。

すべての人が自分で、マザーテレサや神の愛の宣教者会のシスター方と同じことができるわけではありませんが、その生きる姿勢や関わりから、私たち自身の生き方への指針を見いだしたいといつも思います

今日の福音はあらためて言うまでもなく、苦難に直面する者、社会から排除されようとする者、受け入れがたいと見なされる者、孤独うちに孤立する者、忘れ去られた者にこそ、神は目を向けられているのだと言うことを教えています。

そして神ご自身が、そういった人々に手を差し伸べるように、従うわたしたち一人一人にも同じようにすることを、強く求めておられるのです。

象徴的なのは、「主よ、いつわたしたちは」そのようなことをしたでしょうかという問いかけです。イエスは、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えています。そうであるならばと、わたしの愛の行為は主のためにしているのだと、つまり主に褒められることを目的にしてはいけないのだということを、最初の答えの言葉、「主よ、いつわたしたちは」が明確に示しています。本物は、意識していないのです。

すなわち、愛の行為をするわたしの目に見えているのは、目の前にいる困難のうちにある人であって、その人が主役なのであって、その先にある褒められるという栄誉を目的とした手段として見てはいけないということであろうと思います。目の前の人を見なさい。目の前の人はあなたが褒められるための手段ではなくて、その人こそが主役です。それを明確にしているイエスのたとえであると思います。そして本物の愛の行為は、ご褒美を意識していないことを、「主よ、いつわたしたちは」のことばが明示します。

教皇レオ14世は、今年11月の第9回「貧しい人のための世界祈願日」のためにメッセージをすでに発表されています。その中に、「最大の貧困は、神を知らないことです」と記しています。

その上で教皇は、「神のことばが教える、キリスト者の希望は、人生の歩みにおける確信です。なぜなら、希望は、人間の力ではなく、つねに忠実な神の約束により頼むからです。そのため、キリスト者は初めから、希望を、安定と安心をもたらす錨(いかり)の象徴で表そうとしました」と、希望の巡礼者としてこの聖年を歩んでいるわたしたちがあかしするべきキリストにおける希望を明示します。わたしたちも、マザーテレサをはじめとした多くの聖人たちの模範に倣い、絶望ではなく希望をもたらすものとして歩んで参りましょう。

 

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