カテゴリー「説教原稿」の43件の記事

2025年6月20日 (金)

司教団による教皇レオ14世就任記念ミサ

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6月16日から19日まで、日本のカトリック司教団は、定例の総会を行いました。詳しいことはカトリック中央協議会のウェブサイトやカトリックジャパンニュースで報道されますので、ご参照ください。

また今年は戦後80周年にあたることから、司教団としての平和メッセージと、それに伴う核兵器廃絶宣言2025を採択しました。平和メッセージについては、来週、6月23日が沖縄の平和祈念の日であり、わたしを始め多くの司教が沖縄に赴いて祈りの時を一緒にするため、この日より前に公開することを目指して、検討を続けてきたものです。

6月23日には沖縄での朝6時の平和ミサを、私が司式させていただくことになっています。

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司教総会の間、6月18日の水曜日の夕方、カトリック麹町聖イグナチオ教会において、司教団としての教皇レオ14世就任記念ミサを捧げました。

ミサはわたしが司式と説教を担当し、教皇大使にもご一緒いただき、ミサの終わりにはスペイン語でご挨拶をいただきました。教皇大使は、ちょうどその前の週に、バチカンでの教皇大使の聖年の集まりに参加し、教皇レオ14世と謁見してきたばかりとのことでした。

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以下、当日のミサの説教の原稿です。他の所でも繰り返し話している内容ですが、一応記録のために記します。

教皇レオ十四世就任記念ミサ
2025年6月18日(水)18:00
カトリック麹町聖イグナチオ教会

5月8日夕刻、バチカンのシスティーナ聖堂に集まった133名の枢機卿団は、前日7日の夕刻に始まった教皇選挙における第4回目の投票で、兄弟であるロバート・フランシス・プレボスト枢機卿を、第267代目の教皇に選出しました。前田枢機卿様とわたしも、この教皇選挙に参加するという歴史的な体験をさせていただきました。

プレボスト枢機卿は枢機卿団の前で、教皇選挙における首席枢機卿代理のピエトロ・パロリン枢機卿からの問いかけに答えて選挙の結果を受諾し、「レオ」と名乗ることを宣言されました。教皇レオ14世の誕生です。

教会は、2013年3月から12年間、教皇フランシスコによって導かれてきました。教皇フランシスコへの評価は、それこそ多様性に満ちあふれた様々な評価がありますが、しかしたぐいまれな指導力と霊性を持って、聖霊に導かれた教会のあるべき姿を具体化することに力を尽くし、そのための道を残してくださいました。改めて教皇フランシスコの残された遺産を振り返り、その貢献に感謝したいと思います。

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教皇フランシスコは2019年11月、コロナの感染症ですべてが停止する直前に、日本を訪れてくださいました。わたしは東京の大司教として、東京でのプログラムで教皇様の先導役を務めましたが、特に東京ドームの中を一緒にオープンカーに乗って回ったとき、本当に心から喜びの笑顔で、集まった皆さんに手を振り、子どもたちに祝福を与えられる姿に、愛といつくしみに満ちあふれた牧者の姿を見ました。少しでもその姿に倣いたいと思いました。

2020年以降の世界的な感染症によるいのちの危機や、ミャンマー、ウクライナやガザなどと頻発する戦争や武力紛争は、人々から寛容さを奪い去り、排除と暴力と絶望が力を持つ世界を生み出してしまいました。その現実に対して教皇フランシスコは、2025年聖年のテーマとして「希望の巡礼者」を掲げ、ともに助け合いながら歩むことで教会が世界に対して、キリストにおける希望をあかしする存在となるように求められました。聖霊の導きを祈りのうちに識別する教会、すなわちシノドス的な教会は、互いに助け合い支え合って歩む姿を通じて、キリストの希望をあかしする宣教する教会であります。

教皇選挙は、「選挙」とは言うものの、いわゆる政治的な駆け引きの場ではありません。教皇選挙を前にして連日行われた枢機卿の総会で表明された多くの枢機卿の意見から、教皇選挙とは、希望の巡礼者となるようにと教会を導いた教皇フランシスコのコピーのような人物を後継者として選ぶ作業なのではなく、イエスが最初の牧者として神の民を託した使徒ペトロの後継者を選ぶ祈りの時なのだと、多くの枢機卿が感じていました。

枢機卿たちは聖霊の導きがあるようにと真摯に祈りましたが、それは賢明で良い選択ができるようにと導きを願っていたのではなくて、すでに主ご自身が選ばれているはずのペトロの後継者を、わたしたちの間から見いだすために、ふさわしい識別の賜物を願って祈っていました。

枢機卿総会を終えて、133名の枢機卿がシスティナ聖堂に入ったとき、自分たちの間の誰が一体ペトロの後継者としてすでに選ばれているのかを知っていた枢機卿は誰もいませんでした。しかし、二日目の午後の最初の投票で三分の二超える得票でプレボスト枢機卿が選出されたとき、わたしを始め多くの枢機卿が、確かに聖霊が働いていたと実感したはずであります。

枢機卿総会での多くの意見表明の中では、教会の現状に対する評価とともに、次の教皇にはどのような人物がふさわしいか、何を期待するのかについての意見も多く聞かれました。その様々な意見を積み重ねてみると、次の教皇には、福音宣教の現場、つまり司牧の現実に精通し、同時に規模の大きい組織の運営に長けていることが求められていました。さらには深い霊性を持っていること、はっきりとした神学の見識を持っている人物がふさわしいという意見も多く聞かれました。 残念ながらそのすべてを兼ね備えた人物など、簡単には見つからないというのが、教皇選挙前の雰囲気でありました。

ところが、実際に選出された教皇レオ14世のこれまでの歩みを見れば、司祭としてペルーで長年にわたり司牧の現場で働き、修道会の総長として世界に広がる修道会を12年にわたって束ね、その上で司教としてペルーの司牧の現場で教会を導き、さらにはバチカンで司教省の長官を務め、その上アウグスチノ会の霊性にも深く通じています。これほど完璧に、多くの枢機卿が願った次の教皇のプロフィールを満たしている人物はおらず、なぜ彼にたどり着いたのか、わたしたちには分かりません。主は自ら選ばれ、聖霊を通じてわたしたちがプレボスト枢機卿に到達するように導いてくださいました。わたしたちは、聖霊に導かれて、教皇レオ14世にたどり着きました。

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教皇フランシスコは、シノドスの道を開きました。その道こそが希望の巡礼者として歩むべき道であることを示されました。いま問われているのは、教会が聖霊に導かれた教会であるためにはどのような道を歩むかを識別することです。しかしその道のりは決して平坦ではありません。なぜならば教皇フランシスコ自身が指摘するように、識別を繰り返す中で即座にゴールが見えてくることはなく、シノドス的な教会のイメージも文化や歴史的背景に基づいて様々な多様性があり、この歩みは一朝一夕で終わらせることができない模索の旅路でもあるからに他なりません。

枢機卿総会でも多くの枢機卿が、多様性を尊重しつつも、信仰における明白性を持って、教会が一致することの重要性を強調されました。一致は一つのキーワードになっていると感じています。教皇レオ14世の治世は始まったばかりであり、これからどのような方向に進むのかはまだ分かりません。しかしすでにその最初の日から、一致と平和は教皇レオ14世にとって大きな課題の一つとなっています。

6月1日の聖年にあたっての家庭・子ども・祖父母・高齢者の祝祭のミサ説教で、次のように一致と平和について語られました。

「わたしたちは、家族として、そして、自分たちが生き、働き、学ぶ場で、主がわたしたちが「一つ」となることを望まれたように「一つ」となるために、ここにいます。わたしたちはさまざまですが、一つです。多くの者がいますが、にもかかわらず一つです。あらゆる状況においても、人生のあらゆる段階においても、つねにそうです」

その上で教皇様は、「愛する皆様。「アルファであり、オメガである」方、「初めであり、終わりである」(黙22・13参照)方であるキリストに基づいて、わたしたちが互いに愛し合うなら、わたしたちは社会と世界の中で、すべての人にとって平和のしるしとなります」と呼びかけておられます。

戦後80周年となる今年、日本各地では改めて平和に思いを馳せる祈りの時がもたれます。教皇ヨハネパウロ二世と教皇フランシスコは広島長崎の地から平和と、そのための核兵器廃絶について力強く発進してくださいました。平和は分裂をもたらすものではなく、家族としての一致をもたらすものです。平和と一致を見出す要因は、武力だけに限らず、人間の尊厳をないがしろにするあらゆる行為があります。教皇レオ14世とともに、人間の尊厳を守り、一致のうちに平和を打ち立てる世界の実現のために、働き続けたいと思います。

 

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2025年4月17日 (木)

2025年聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日の午前中10時半から、教皇大使、参事官の臨席を得て、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、聖香油ミサを行いました。ミサの中で司祭はその叙階の時を思い起こしながら、司祭としての誓いを新たにしました。そして秘跡に必要な三つの聖なる油が祝福されました。またこのミサは、司祭のために祈りを捧げるミサでもあります。

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新年度が始まったばかりの忙しい中、大聖堂がいっぱいになるほど多くの方が参加して、祈りの時をともにしてくださいました。司祭団も、教区司祭や修道会、宣教会司祭を合わせて、100名近く共同司式をしていたものと思います。日頃は離ればなれで働いている司祭が、司教とともに主の祭壇を囲み、教会共同体としての一致を目に見える形であかしするミサでもあります。

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このミサの後、晩にはそれぞれの教会で主の晩餐のミサが控えています。そのため多くの教区では、移動時間を考慮して昨日より前に前倒しして聖香油ミサは行われることが多いのですが、東京教区は管轄地域が東京都と千葉県ですので、なんとかギリギリで本来の聖木曜日に行っています。

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以下本日の聖香油ミサの説教原稿です。

聖香油ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年4月17日

この数年間は、様々な意味で、いのちを生きる希望を奪い去るような状況が続いてきました。もちろんどのような時代であっても、いのちに対する暴力は存在するとはいえ、この数年は感染症のと言う危機に不安を増し加えたウクライナやガザ、アフリカのスーダンやザイール東部の状況、そしてミャンマーなどでいのちへの暴力的な攻撃が続き、あらゆる形で暗闇を深め、不安を増長する事態が続いています。

暗闇が続くなかで、人の心の常として自分を守ることに専念してしまいます。それがあまねく広まっているがために利己的な世界となりました。時に、正義を行使していると言いながら、それが独善的で利己的であることも珍しいことではありません。それが正しいのかどうかの評価は別にして、世界から寛容さが影を潜めてしまいました。寛容さを失った利己的な社会ほど、生きることが困難な社会はありません。常に批判的に注がれる他者の視線を意識しながら、自分の周りだけを守ろうと内向きになってしまう社会です。この現実の中で、希望を見いだすのは容易ではありません。

教皇様が、この聖年のテーマを「希望の巡礼者」とされたのは、まさしくこうした世界の現実をしっかりと見据えたからに他ならないと思います。教会こそが、この暗闇に向かって希望の光をもたらさなければならないと確信されているからでしょう。

もちろんそれは教皇フランシスコが急に思いついたのではなく、そもそもわたしたちの信仰は、復活の主における永遠のいのちへの希望に基づく希望の信仰です。

2024年4月にアドリミナでローマを訪問していた日本の司教団とお会いになった教皇様は、非公式な発言ですが、進められているシノドスの歩みについて触れ、次のように言われました。

「いま進めていることは何か新しいことを思いついたのではなくて、第二バチカン公会議が目指してこれまで60年以上も続けてきた神の民のあり方を実現しようとしていることである、新しい教会を作ろうとしているのではなく、聖霊に導かれている教会のあり方を見いだそうとしている。シノドス性はイデオロギーではない。民主主義でもない。皆が一つになって教会を作りあげていることが大切だ」

教皇様は2019年に、東京で東北の被災者や関係者とお会いになったとき、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。・・・町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と言われました。

戦争や紛争に巻き込まれたり、大規模な自然災害に巻き込まれることで、日々を生きるいのちの危機に直面している多くの人たちに、どうやったら希望を回復できるのか。衣食住や医療など、様々な物質的援助を外から持ってくることで、物理的にいのちを守るための支援をすることができます。しかし希望はそうはいきません。いのちを生きる希望を、誰かがどこからか持ってきて、絶望に打ちひしがれている人に与えることはできません。

誰も自分のことを考えてくれていない、誰も自分のことを心配していない。自分は孤立している。そういう思いは人の心から希望を奪い、絶望を生み出します。

希望はモノではなく、人の心の中から生み出される存在です。希望は、互いに支え合う人間関係の中から生まれてきます。希望を生み出すためには、「友人や兄弟姉妹との出会い」が必要です。まさしく教皇様が推し進めようとされているシノドス的な教会の道のりとは、ともに歩み、耳を傾けあい、支え合い、共に祈ることによって、希望を生み出す歩みです。希望の巡礼者としての歩みであります。

聖年の開催を告知する大勅書「希望は欺かない」に、「教会は、主イエスをわたしたちの希望として、いつでも、どこでも、すべての人に宣べ伝える使命を持って」いると記された教皇様は、同時に、「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光の下にそれを解明する義務を課されている」とも指摘されます。

その上で、「救ってくださる神の現存を必要とする人間の心の渇望を含んだ時のしるしは、希望のしるしへと変えられることを望んでいるのです」とも指摘されています。

司祭は、神の民の牧者として、その先頭に立ち、率先して希望を生み出すものでなければなりません。司祭には、イエスとの出会いの中で生まれるいのちを生きる希望を、多くの人に分け与える務めがあります。ひとりでも多くの人がイエスとの個人的な出会いの中で希望を心に抱き、共同体に生きることで互いに支え合い、連帯のうちにその希望を燃え輝かせるように導くことは司祭の務めです。司祭は、希望という実りをより多く生み出すために、多くの人、特にいのちの危機に直面する人と歩みをともにし、展望と希望を回復させるような関係を作り上げる者でありたいと思います。

さらに司祭は、時のしるしを率先して読み取り、社会の中で、神を求めている「人間の心の渇望のしるしを希望のしるし」に変えるために、共同体の祈りにおける識別の先頭に立たなくてはなりません。

とはいえ、司祭といってもそんなことを一人でできるわけがありません。司祭はスーパーマンではありません。傷つきやすい心と体を持った弱い人間です。だからこそのシノドス性です。互いに助け合い支え合うシノドス的な教会です。互いの存在を尊重し、神から賜物として与えられたいのちの尊厳を率先して守り抜こうとする教会です。すべての信徒の皆さんの、ともに歩んでいこうという強い意志が不可欠です。司祭を支えてくださるのは、皆さんのその心と祈りであります。

さて聖香油ミサは、日頃は目に見える形で共に働いているわけではない東京教区の司祭団が、司教と共に祭壇を囲み、信徒を代表する皆さんと一緒になってミサを捧げることによって、教会の共同体性と一致を再確認する機会です。教会憲章に「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」と記されていますが、こうして司祭団が司教と一緒に祭壇を囲んで聖体の秘跡に与ることが、「神との親密な交わりと全人類の一致の」本当に目に見える「しるし」となっていることを、心から願っています。

また司祭の役務を果たす中で秘跡の執行には深い意義がありますが、それに必要な聖なる油を、司祭団は司教と共にこのミサの中で祝福いたします。

加えて、この説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、初心に立ち返ってその決意を新たにいたします。一年に一度、司祭はこのようにして共に集い、自らの叙階の日、すなわち司祭としての第一日目を思い起こしながら、主イエスから与えられた使命の根本を再確認し、あらためてその使命に熱く生きることを誓います。

お集まりの皆さん、どうか、私たち司祭が、主キリストから与えられた使命に忠実に生き、日々の生活の中でそれを見失うことなく、生涯を通じて使命に生き抜くことが出来るように、お祈りくださるよう、お願いいたします。

 

 

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2025年3月16日 (日)

新垣壬敏先生追悼ミサ@東京カテドラル

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日本のカトリック教会の典礼音楽に多大な功績を残された新垣壬敏先生は、昨年2024年10月2日に85歳で帰天されました。全国の様々な教会の皆さんが大きな影響を受け、同時にその歌を愛してきました。日本の教会のために先生が残された多くの聖歌を歌いながら、追悼のミサが、2月24日午後2時、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられ、多くの方が参列し、また先生が残された多くの聖歌を共に歌いました。

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わたしは東京の神学校で司祭養成を受けていないため、そのときに直接の指導を受けたことはありません。ただ、わたし自身、専門の教育を受けたわけではないのですが、自分でも神学生時代に神学校共同体のためにといくつかの典礼用の歌を作曲したりしていましたから、高田三郎先生に並んで、新垣先生は憧れの存在でした。

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直接には、こちらの2008年11月の司教の日記に記してありますが、当時わたしが教区司教を務めていた新潟教区で、秋田にある聖霊学園が100周年を祝うことになり、そのときに当時理事長を務めていたシスター平垣から、学園歌を作曲してほしいと依頼を受けました。とんでもありませんが素人にそんな大それたことはできないので、いろいろと思案した後に、理事長シスターに、新垣先生に依頼してはどうですかと進言しました。シスターは、秋田の学校のために歌を作ってくださるかと心配されておられましたが、新垣先生は喜んで引き受けてくださり、当時、「春 萌えあがる 聖なる息吹」と始まる学園歌を作詞作曲してくださいました。新垣先生には、その年の11月1日に秋田県民会館で開催された記念式典の際に直接お話しする機会をいただきました。それ以来、教皇様訪日の時も含め、様々にお話を聞かせていただく機会をいただきました。

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あらためて、そのお働きと日本の境界への御貢献に感謝申し上げたいと思います。

以下、当日のミサ説教の原稿です。

新垣壬敏先生追悼ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年2月24日

私たちの人生には、予想することのできない様々な驚きの出来事があります。人間の知恵と知識には限界がありますし、その知恵と知識とこれまでの経験をあわせたとしても、ほんの少しの先でさえ確実に知ることはできません。時として、緻密に計画を立て実行したとしても、必ずしも予想通りの結果になるとは限りません。私たちは、人生の様々な局面で想像もしなかった出来事に遭遇し、驚き、そしてそのたびごとに人間の限界を思い知らされます。

私たちは人生において、自ら考え、自らの意思で様々な行動を行います。わたしがそうしたいから、今の自分があると思い込んでいます。しかし実際には、神様の人類に対する救いの計画があり、その中でわたし達は生かされているに過ぎません。もちろんわたし達には自由意志が与えられています。旧約の時代にも、神はイスラエルの民に選択肢を与え、自由意志を行使することによって、人間が自らのことばと行いに責任を持つように求められてきました。わたし達は自由意志があるからこそ、すべてを自分たちで成し遂げているかのような錯覚に陥りますが、結局は神様の壮大な救いの計画がまずあり、その中で生かされているに過ぎないことを改めて自覚したいと思います。

神様はその救いの計画の中で、わたしたちに様々な役割を果たすようにと、多様なタレント、才能を与えてくださいます。その一つが、音楽における才能であろうかと思います。

新垣先生の人生は、与えられた音楽の才能を、ご自分の考えや計画や栄誉のためではなく、神様の計画の実現のために捧げられた、福音のあかしに生きる人生であったと思います。その与えられた才能を神様の計画の実現のために捧げるからこそ、その音楽は、多くの人の希望の源となりました。希望の源である神様の元へとわたしたちを導いてくださる音楽だからに他なりません。

あらためて繰り返すまでもなく、第二バチカン公会議の典礼憲章は、「普遍教会の音楽の伝統は、・・・特にことばと結びついた聖歌が、荘厳な典礼の必要ないし不可欠な部分」であると定め、信徒の行動的参加を促すためにも典礼に音楽は不可欠であると指摘します。

同時に教会音楽は、「祈りをより味わい深く表現したり心の一致を促進したりすることによって、・・・典礼行為と固く結びつけばつくほど、いっそう聖なるものとなる」と、典礼憲章は指摘します。教会の音楽は典礼から離れて存在することはあり得ず、常に祈りを深めることを念頭に、典礼を豊かに深めるように心しながら生み出されていきます。

その上で、作曲家は、「教会音楽を発展させ、その宝を豊かにするために召されているとの自覚を持たなければならない」と記しています。典礼音楽を作られる方々は、教会の宝を豊かに蓄えてくださる方々です。教会の宝を豊かに育んでくださる方々です。

その中でも多くの曲を教会に宝として与えてくださった新垣先生の働きは、その音楽家としての召命を忠実にそして十分に生きたものであったと思います。

葬儀や追悼のミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と、わたしたちの信仰における希望が記されています。わたし達の人生の歩みは、この世のいのちだけで終わるものではなく、永遠の中でわたし達は生かされています。わたし達はその希望を常に掲げて歩んでいます。

わたしたちの人生には時間という限りがあり、人類の歴史、全世界の歴史に比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間です。人生には順調に進むときもあれば、困難のうちに苦しむときもあります。よろこびの時もあれば、悲しみの時もあります。驚きに遭遇するときもあります。人生において与えられた時間が終わる前に、自らの努力の結果を味わうことができないこともあります。仮に私たちのいのちが、人類の歴史の中における一瞬ですべてが終わってしまうとしたら、それほどむなしいことはありません。

しかし私たちは、歴史におけるその一瞬の時間が、神の永遠の計画の一部であることを知っています。わたし達はこの人生が、神様の壮大な計画の中で生かされているものであることを知っています。わたし達は、その計画の一部として、わたし達にはそれぞれの賜物が与えられ、それを忠実に生きることを求められていることを知っています。主の忠実な僕でありたいと思います。

教会の典礼のために大きな貢献をしてくださった新垣先生に、御父は、永遠のいのちの中で豊かに報いてくださることでしょう。御父の元にあっても先生が賛美の歌を捧げ続けておられることを信じ、残された教会の宝をさらに豊かにするよう努めていきたいと思います。

 

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今井神学生、朗読奉仕者に@一粒会総会

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「一粒会(いちりゅうかい)」という組織の名前を聞いたことがありますでしょうか。

すべての教区に、何らかの形で存在しています。そして、東京教区の教会に所属しているのであれば、すべての信徒がその会員です。もしも、ご自分が会員であることをご存じなければ、是非今日から心に留めていただければと思います。教区のすべての方が会員です。教区のホームページに次のように書いてあります。

「東京教区ホームページより」

一粒会(いちりゅうかい)は神学生の養成を援助するための活動です。

1938年に東京大司教に任命された土井辰雄師の司教叙階式に参列した信徒たちの数人が、司祭召命と養成のために「何かをしなくては」と思い立ったのが一粒会発足のきっかけとなりました。その頃、軍国主義の高まりによって外国人宣教師たちに対する迫害や追放など、教会にもさまざまな圧迫があり司祭召命に危機感を抱く信徒が少なからずいたのでした。

当時の一粒会の規則は、司祭召命のために毎日「主祷文(主の祈り)」を一回唱え、祈りのあとに1銭(1円の百分の一)を献金するというものでした。一粒会という名称は「小さな粒を毎日一粒ずつ貯えていく実行、しかも行いを長続きさせるということを考慮に入れての命名」だったそうです。

戦中・戦後、途絶えていた一粒会の活動は1955年頃に復活し、現在に至っています。東京教区の「一粒会」の会員は教区民全員です。会長は菊地功大司教です。神学生養成のために皆さまの心のこもったお祈りと献金のご協力をお願いします。

「一粒会」への献金は各教会で行なっていますが、個人的でも行えます。
下記銀行口座をご利用ください。

※ 三菱東京UFJ銀行 江戸川橋支店 店番号060 普通4394587 「宗教法人カトリック東京大司教区 一粒会 」

教区司祭を養成する神学院は東京にあり、神学生はそこで共同生活を営みながら勉強と祈りの日々を過ごします。その運営には維持費や人件費などを含め、年間一億円を超える予算が必要です。それをまず神学生ひとりあたりの学費と、各教区の分担金でまかなっています。学費は一律ですが、分担金は教区の信徒数に応じて負担率を変更しますので、東京教区は信徒数は全国一ですから分担率も一番高く、毎年二千五百万円を超える額を負担しています。一粒会に毎年寄せていただくみなさまの献金は、そのうちの7割ほどとなっています。今後とも、司祭養成を資金的に支えるために、一粒会の活動にご理解をお願い致します。もちろん献金だけではなくて、司祭・修道者の召命のためにもお祈りください。今後、少子化が激しく進む社会にあっては、司祭だけではなく、社会の様々な分野で後継者が不足するのは明白ですが、その中にあっても神様は、必ずや声をかけ続けてくださっています。その声を的確に識別し、勇気を持って応える方がいるように、祈りましょう。司祭だけではなくて、男女の修道者への召命もあります。一粒会の、つまりわたし達東京教区を形作っているキリスト者全員の務めの一つです。お祈りをお願いします。

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さて去る3月9日、四旬節第一主日に、今年の一粒会の総会が行われましたが、それに先立ち、東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサを捧げ、そのミサの中で、東京教区の唯一の神学生であるアンセルムス今井克明さんが、朗読奉仕者の選任を受けました。昔の典礼では下級叙階と呼ばれていたのですが、現在は、哲学課程を修了した後に司祭志願者として認定され、その後、毎年、朗読奉仕者、祭壇奉仕者、助祭とすすんで司祭叙階へと至ります。今井神学生が司祭叙階を受けるまでまだ時間があります。どうか彼のためにお祈りください。

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以下、当日のミサの説教の原稿です。

アンセルムス今井克明 朗読奉仕者選任式ミサ
一粒会総会
2025年3月9日

3月5日の灰の水曜日から、今年の四旬節が始まりました。常日頃、わたし達は生活の中にあって、どうしても自分を中心に据えて世界を見つめ、判断し、行動してしまいます。四旬節はそういうわたし達にとって、神との関係を修復するためのチャンスであります。神からいのちを与えられたわたし達は、神に向かってまっすぐに歩んでいかなくてはなりません。そのためには、進むべき道を見いだす必要があります。そのためにこそ、教会は普段以上の祈りのうちに自分と神の関係を見つめ直し、心をとらわれから解放して神に委ねるために、節制の業に励み、愛そのものである神に近づくために、愛の業を行います。

かつて教皇ベネディクト16世は、最初の回勅「神は愛」の冒頭において、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想」ではないと記されました。

それでは一体何が人をキリスト信者にするのか。教皇ベネディクト16世は、「ある出来事との出会い、ある人格との出会い」が人をキリスト信者にするのだと指摘されています。具体的なその出会いが、「人生に新しい展望と決定的な方向付けを与える」のだと教皇様は続けます。

2019年に東京を訪れた教皇フランシスコも、東日本大震災の被災者や支援者との集いで、こう言われています。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

バーチャルな世界が支配しつつあり、具体的な人間関係が希薄にありつつある現代社会にあって、わたし達の信仰には、目に見える形での具体的な関わりが必要だと繰り返します。それは主ご自身が、「困っている人は自分のことだと」言われ、具体的に「飢えている人、のどが渇いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人」に対して行動したことは、わたし自身にしてくれたことだと言われているからに他なりません。

だからこそ教会は信仰の根本を見つめ直すこの四旬節に、具体的な愛の行動をするようにと求めています。教皇ベネディクト16世は、そういった具体的な行動によって、「神への愛と隣人愛は一つになります」と記しています。

教皇ベネディクト十六世は、同じ回勅「神は愛」に、教会の本質について次のように記しています。

「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせることとあかし、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うことです。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことができないものです」(神は愛25)

福音宣教と、典礼と、愛の奉仕が絶妙に併存している共同体。その共同体を通じて、わたし達は具体的に助けを必要としている隣人と出会い、主イエスと出会い、信仰を深めていきます。

ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、いのちを生きるには極限の状態である荒れ野で、人間の欲望に基づいたさまざまな誘惑を悪魔から受けます。福音に記された、空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することなどの誘惑は、この世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。本日の第一朗読である申命記には、モーセがイスラエルの民に原点に立ち返ることを説く様を記します。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神のいつくしみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。神に救われた民の原点に立ち返ろうとする、記憶の言葉です。

共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることにこそ、この世のさまざまな欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。現代社会の神の民であるわたしたちにとって、旧約の民のような、立ち返るべき共通の信仰の原点はなんでしょうか。それは冒頭に述べたように、主イエスとの出会いであります。

わたしたちの共通の信仰の原点には、シノドス性があります。ともに歩み、ともに耳を傾け、ともに支え合い、共に祈りながら、主イエスに繋がり続けようとする教会は、社会に対して具体的な希望を示す教会です。隣人への思いやり、愛の行動を通じて、主ご自身と出会い、隣人とともに、そして主とともに支え合いながら歩みを進めることで、わたし達は信仰を深めることができるようになります。

これから今井克明神学生が受けようとしている朗読奉仕者ですが、その選任の儀式書には、その務めとして次の三点が掲げられています。

まず第一に、典礼祭儀で神の言葉を朗読し、第二に教理を教えて秘跡に与る準備をさせ、そして第三にまだキリスト教に出会っていない人たちに救いの教えを知らせることであります。

すなわち朗読奉仕者とは典礼において上手に朗読をするだけの奉仕者ではなく、まさしく福音を告げ知らせ、教会の教えを伝えるために特に選任される重要な役割です。福音宣教の重要な担い手として選任されるのだという自覚を、深めていただきたいと思います。

福音宣教は、単に言葉で語るだけではなく、行いによるあかしを持って伝えられなければなりません。具体的な出会いをもたらす者でなくてはなりません。空虚なことばを語る者ではなく、行いによるあかしとして最も大切な愛の奉仕のわざに生きる者であってください。希望を生み出す出会いをもたらす者であってください。

この教会の愛の奉仕のわざ、行いによるあかし、福音宣教はもちろんキリスト者すべての使命ですが、とりわけそのために選任されたものは先頭に立ってそれに励まなくてはなりません。朗読奉仕者となることで、本日から他の奉仕者と共に共同体の先頭に立って、福音の証しに取り組んでいく使命が与えられるのです。信仰共同体の仲間たちが信仰を深めて行くにあたって、先頭に立ってそれを導く役割を果たしていってください。

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2025年3月 5日 (水)

灰の水曜日@東京カテドラル

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今年は御復活祭が遅いので、3月に入っての灰の水曜日となりました。四旬節が始まります。

四旬節には、教皇様は毎年メッセージを発表されます。今年のメッセージもすでに発表されており、中央協議会のホームページに邦訳が掲載されています。希望の巡礼者の聖年ですので、今年の四旬節メッセージも、それに基づいた内容です。こちらのリンクから、ご一読ください

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四旬節には、愛の業の具体的な方法として、「四旬節愛の献金」が呼びかけられています。カリタスジャパンにその担当をお願いしていますが、それぞれの小教区では、カリタスジャパンからの資料を活用して、募金の呼びかけなどをお願いします。また四旬節献金の使途などについては、カリタスジャパンのホームページのこちらをご覧ください。また、今年の四旬節愛の献金についてのページも設けられています。

四旬節に勧められる節制の業について、特に断食(大斎・小斎)ついては、こちらのページをご覧ください

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寒い灰の水曜日でした。東京でも冷たい雨の一日でしたし、雪となった地域も多かったかと思います。週日の寒さの中でしたが、東京カテドラル午前10時のミサには、関口教会と韓人教会の両方を始め、多くの方が集まってくださいました。

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以下、本日のミサの説教原稿です。

灰の水曜日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年3月5日

希望の巡礼者としてともに歩んでいるわたし達に、四旬節は、それぞれの信仰の原点を見つめなおし、心をあらため、希望の源である御父のもとへと立ち返るために歩みを続けるようにと求めています。

わたしたちの共通の信仰の原点は、主イエスの復活です。死に打ち勝ったイエスにこそ、わたしたちの信仰の原点である希望があります。永遠のいのちへの約束にこそ、わたし達の救いへの希望があります。今日から始まるこの四旬節に、あらためてわたしたちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。

教会の伝統は、四旬節を過ごすにあたって「祈りと節制と愛の業」という三つの行動を常に心に留めながら、信仰を見つめ直す旅路を歩むようにと勧めています。とりわけ愛の業について教会は、四旬節の間に助けを必要としている隣人、中でも多くの人からその存在を忘れられているような方々に心を向け、特別な献金をするようにも呼びかけています。日本の教会ではこの四旬節献金をカリタスジャパンに委託しています。

四旬節愛の献金は、隣人のために自らを犠牲としてささげる心をもって行う、具体的な愛の業そのものです。またその犠牲の心を持ってわたしたちは、いのちの危機に直面し助けを必要としている多くの人たちに心を向け、具体的な意味でともに歩む者となります。互いに支えあう連帯の絆は、いのちを生きる希望のしるしです。

四旬節において、わたしたちは御父のいつくしみを自らの心に刻み、社会の現実の中でそれを多くの人に具体的に示すことによって、社会の中にあって神の希望をあかしする宣教者となります。すなわち、四旬節の信仰の振り返りの歩みは、単に自分の内なる反省の時ではなく、それを通じて自らの行動原理とも言うべき信仰の原点に立ち返り、あらためて福音をあかしする宣教者となるための歩みであります。

「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み」と、ヨエルの預言に記されています。しばしば道を踏み外し、時として背を向けて、まっすぐに歩むようにと招いておられる御父の目前から立ち去ろうとするわたしたちを、見捨てることなく忍耐強く待ってくださるのがわたし達の父である神様です。

自由意志を与えられた人類は、神の願いを裏切り、神の望まれる世界を実現するどころか、賜物であるいのちを暴力で奪い合い、神の似姿としての尊厳をおとしめるような言動を続けて、神様に背を向け続けています。しかしながら神のいつくしみは、パウロがコリントの教会への手紙に記すように、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。

度重なる裏切りにもかかわらず、わたしたちは神からの恵みと賜物に豊かに満たされ続けています。四旬節は、このあふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによってわたしたちが永遠の命へと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにするときです。そこにこそ、わたし達の信仰における希望があります。

教皇様は聖年の大勅書「希望は欺かない」に、今回の2025年聖年のロゴのイメージについてこう記しておられます。ロゴには船の錨と、それに捕まろうとする人たち、その足下には荒れる海の波が描かれています。

教皇様は、「錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身を委ねれば手にできる安定と安全です。嵐に飲まれることはありません。わたしたちは、キリストにおいて生きて、罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしているからです」と記しています。

わたしたちの共通の信仰の原点はそこにこそあります。死に打ち勝ったイエスにこそ、わたしたちの信仰の原点である希望があります。この四旬節に、あらためてわたしたちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。わたし達は一体どのような錨にすがろうと努めているのでしょうか。すがろうとして求めている錨は、本当に「罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしている」錨でしょうか。それともこの世の虚飾に満ちあふれた不安定な錨でしょうか。

この数年の間、わたしたちは、先行きの見えない闇を彷徨うことによる不安と、その不安が生み出す疑心暗鬼を体験してきました。世界はいま、不安と疑心暗鬼の中で、自分の身を守ろうとする自己中心の風潮に取り込まれてしまいました。自分さえ良ければという思いは、互いに対する思いやりの心や、支え合いの心を消し去ります。異質な存在への不安と、それによる排除の心は、余裕のない心に簡単に入り込みます。

社会の中で疎外感を感じ、差別を体感している人たちが声を上げると、その事実をすら否定しようとします。現実から目を背けて、教皇様が言われるように、きらきらと輝くむなしいシャボン玉の中に籠もって、他者の叫びに無関心な者となっています。

わたし達は希望を誰かに与えることはできません。希望は人と人との関わりの中で、初めて心の中から生まれてくるものです。希望を生み出すためには、関わりが必要です。だからこそ教皇様は、今年の聖年のテーマを希望の巡礼者とされました。わたし達は、心の内から希望を生み出すために、ともに助け合い支え合いながら歩み続けます。自分の心に希望が生まれるためではなく、隣人の心に希望が生まれるようにと、困難に直面する人たちに目を向け心を配ります。

教会は、義人の集まりではありません。教会は回心を必要とする罪人の集まりです。わたしたちは、すべての人を救いへと招こうとされている御父のいつくしみがその業を全うすることができるように、すべての人を包み込む教会として、ともに回心の道を歩みます。すべての人が、回心の道へと招かれています。罪における弱さの内にあるわたしたちは、神に向かってまっすぐに進むことができずにいます。だからこそ、神に背を向けたままでいることのないようにと、教会は常に回心を呼びかけています。

この後、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、心で感じていただければと思います。

神の前にあって自らの小ささを謙遜に自覚するとき、私たちは自分の幸せばかりを願う利己主義や、孤立願望や自分中心主義から、やっと解放されるのではないでしょうか。そのとき、はじめて、キリストの使者として生きる道を、少しずつ見いだしていけるのではないでしょうか。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。すべての人が神に向かってまっすぐに歩むことができるように、キリストの使者として希望の福音を告げ、多くの人を回心へと招くことができるように、わたしたちの弟子としての覚悟を、この四旬節に新たにいたしましょう。

 

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2025年2月 2日 (日)

2025年奉献生活者のミサ@麹町教会

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今年の2月2日は主の奉献の主日ですが、その前日の土曜日、2月1日午後2時から、聖イグナチオ麹町教会で、男女の修道会協議会(カトリック管区長協議会と女子修道会総長管区長会)の主催で、奉献生活者のミサが捧げられました。主の奉献の祝日が、奉献生活者の日と定められていることと、今年は聖年の行事としても重要です。日本ではチェノットゥ教皇大使の時代に、大使の呼びかけで始まりました。

今年はまず始めに5名の若手の奉献生活者(男子二人、女子三人)から、ご自分の召命物語の分かち合いがあり、その後でミサが始まりました。司式はわたし、修道会担当の山野内司教様が一緒され、何名かの管区長さんたちも参加してくださいました。聖堂は各修道会の会員で盛況でしたが、今年は特に修道会だけでなく、在俗会や奉献生活を営む共同体にも参加を呼びかけたので、若手のメンバーの参加も目立ちました。

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奉献では、シスター方による祈りの踊りの奉納もあり、またミサ後には、誓願宣立10周年を迎えた修道者に、山野内司教様からお祝いが贈られました。その中には、10年前、東北の震災救援の経験を経て修道会に入り、わたしが司式して初誓願を立てた方もおられ、わたしにとっても感無量でした。

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以下、説教の原稿です。

奉献生活者ミサ
2025年2月1日
聖イグナチオ麹町教会

ルカ福音は、誕生から40日後に、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」、両親によってイエスがエルサレムの神殿において神に捧げられた出来事を記しています。長年にわたって忍耐強く救い主の出現を待ちわびていた老預言者シメオンやアンナは、喜びのうちに救い主を迎えました。

教皇フランシスコは、昨年の主の奉献の祝日ミサ説教で、この二人が、忍耐強く神を待つ姿に触れて、こう言われています。

「この二人は年齢的には高齢者ですが、心には若さがみなぎっています。長い年月は彼らを疲れさせることはありません。希望を持って神を待ち望むことに目を向け続けているからです。・・・人生の様々な困難に直面し続けても、彼らは希望から引退することはありませんでした。」

その上で教皇様は、わたしたちにとっても忍耐強く神を待ち続けることは、信仰の旅路を続ける上で不可欠だと指摘され、「わたしたちにも起こりうる最悪なことは、希望を絶望と諦めの暗闇に閉じ込め、霊的に眠り込んでしまうことです」と述べておられます。

この一年わたしたちは、希望の巡礼者をテーマに聖年の道を歩んでいますが、教皇様は大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、現代社会の現実について次のように記しておられます。

「希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心に宿っています。けれども将来が予測できないことから、相反する思いを抱くこともあります。信頼から恐れへ、平穏から落胆へ、確信から疑いへ。わたしたちはしばしば、失望した人と出会います」

とりわけ、感染症の暗闇に包まれ、またその最中にウクライナやガザなどで武力による紛争が発生し、不安の暗闇の中で明るい未来が見通せない現代社会にあって、希望を口にすることは簡単でも、それを心の底から感じることには困難さがあります。

教会はその中にあって、愛である神のうちに希望は確実に存在し、忍耐強く困難に耐え、神の計画の実現を待ち続けることの重要さを示そうとしています。

同時に福音は、シメオンが出会った救いの希望は、新たに誕生した幼子のいのちのうちに存在した出来事を記して、真の希望は、聖霊の働きによって絶えず新たにされ、常に新しい輝きを放ち続けていることを、具体的に示そうとしています。

わたしたちはこの社会の現実の中で、希望を具体的に生き、示す存在となっているでしょうか。それとも「希望を絶望と諦めの暗闇に閉じ込め、霊的に眠り込んで」いる存在なのでしょうか。常に新しさのうちに輝く神の希望に、心の目を開いているでしょうか。

福音は、シメオンが「霊に導かれて」神殿に向かったと記しています。シメオンは聖霊に導かれて行動することで、この場面の主役が聖霊であることを明確に示します。

2022年の主の奉献の祝日の教皇様の説教における言葉です。

「この場面では聖霊が主役です。・・・聖霊はシメオンに神殿に行くように促し、彼の目に幼く貧しい赤ん坊の姿であってもメシアを認識させるのです。聖霊はこのように働きます。偉大なもの、外見、力の誇示ではなく、小ささ、弱さの中に神の現存と行いを見分けることができるようにしてくれるのです」

「聖霊が主役です」と言うことばは、教会のシノドス性を問いかけるシノドスの総会の最中に、教皇様がしばしば繰り返されたことばでもあります。教皇様はシノドスの参加者に、「皆さんの好き嫌いを聞いているのではありません。聖霊が主役です」と繰り返されました。わたしたちは自分がしたいと思うこと、願うことをしたいのではなく、主役である聖霊に身を任せる勇気と識別と決断が必要です。聖霊が主役であることを忘れるところに、教会のシノドス性はあり得ません。

聖家族と出会ったシメオンは、奉献された幼子イエスこそが「救い」であり、神の希望は「偉大なもの、外見、力の誇示のうちにはなく」「小ささ、よわさのうちに」あることを明示しています。

「希望の巡礼者」と言うテーマを耳にするたびに、わたしは2007年に司教として初めてアドリミナに出かけ、教皇ベネディクト16世と個人謁見をしたときのことを思い出します。教皇様は、当時わたしが担当していた新潟教区の現状に耳を傾けた後、わたしに、「あなたの教区の希望は何ですか」と問いかけられました。

残念ながら、信徒の数や洗礼の数などからしても、決して希望に満ちあふれた事実を思いつかなかったわたしは返答に困りましたが、しばらく考え込んでから、そういえばと答えたのが、海外からの、特に日本の農村で結婚しているフィリピン出身の信徒の方々の存在でした。教会が存在しない農村部に信仰者が大勢いることもそうですし、日曜日に教会に行きたいと言って、ご主人たちを教会に連れてくることも、力強い信仰のあかしであり、福音宣教の希望でした。

どんな困難の中にあっても、神は希望を取り去ることはない。必ずその困難さの中に、新しい希望の種を与えてくれるのだ。なぜならば福音宣教はわたしたちの業ではなくて、神様の業であるからに他なりません。

そして、年老いたシメオンが新しいいのちのうちに希望を見いだし、その新しい希望に道を譲ったように、わたしたちも常に新しい希望を見いだし、それに身を委ねる勇気を持たなくてはなりません。これまでこうしてきたからとか、いつもこうしているからではなくて、常に新しい聖霊の導きに身を任せる勇気を持ちたいと思います。「福音の喜び」に、「宣教を中心にした司牧では、いつもこうしてきたという安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と記されていました。常に与えられている新しい希望の種を見失わないように致しましょう。

教皇ベネディクト16世は使徒的勧告「愛の秘跡」において、「教会が奉献生活者から本質的に期待するのは、活動の次元における貢献よりも、存在の次元での貢献です」という興味深い指摘をされています。教皇は、「神についての観想および祈りにおける神との絶えざる一致」こそが奉献生活の主要な目的であり、奉献生活者がそれを忠実に生きる姿そのものが、「預言的なあかし」なのだと指摘されています。

先日アメリカ合衆国の大統領就任式の翌日、米国聖公会のカテドラルで行われた礼拝における主教様の説教が話題になりました。主教様が大統領に向かって、いつくしみを、あわれみを示してくださいと呼びかけたことが話題になっています。その語りかけた内容の是非ではなくて、行動そのもの、すなわち権力におもねることなく、忖度することなく、信じることを語る勇気に力づけられます。宗教者が権力におもねてしまって、信じる理想を語らなくなってはおしまいです。それでは宗教者である意味はありません。彼女は、おもねることなく、流されることなく、信じている神のいつくしみを、神の愛を、賜物であるいのちとその尊厳を守ることを、証ししなくてはならないと、自らの信念を貫いて語った彼女の信仰における勇気と姿勢に敬意を表したいと思います。

わたしたちは、教皇ベネディクト16世が言われるような、「存在の次元で」福音をあかしすることで、教会に貢献する者でしょうか。

奉献生活には、様々な形態があり、修道会や共同体には、それぞれ独自のカリスマとそれに基づいた活動があります。世俗化と少子高齢化が進む社会では、多くの修道会が召命の危機に直面していますが、その中にあっても、わたしたちは何をしたいのかではなくて、どう生きたいのかを見極め、常に聖霊によって導かれて、神が新しく与えてくださる希望の種を見いだし、それに勇気を持って身を任せるものでありたいと思います。困難に遭っても、絶望することなく、耐え忍びながら、希望をあかしする努力を続けて参りましょう。

なお聖イグナチオ教会事務室のYoutubeアカウントから、当日のビデオをご覧いただけます。

 

 

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2025年1月 1日 (水)

2025年元日:神の母聖マリア@東京カテドラル

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みなさま、新年明けましておめでとうございます。

2025年が、神様の祝福に満ちあふれ、ともに歩みを力強く続ける一年となりますように。

1月1日は、教会にとっては神の母聖マリアの祝日であり、同時に世界平和の日でもあります。教皇様の今年の世界平和の日のメッセージは、こちらのリンクの中央協議会サイトをご覧ください。今年のメッセージのテーマは、「わたしたちの負い目をゆるしてください、あなたの平和をお与えください」です。

メッセージにおいて教皇様は、国家間の債務の軽減、死刑の廃止を含むいのちの尊厳を守ること、武力のための資金の一部を飢餓などの軽減のために使うことなど、具体的な提案をされています。このテーマと呼びかけに合わせて国際カリタスも、「国際的な債務を希望へと変えよう」と呼びかけ、25年前の大聖年のように、国際的な債務削減キャンペーンを始めました。このキャンペーンは、英語で「Turn Debt into Hope"と呼ばれています。リンク先は英語ですが、今後カリタスジャパンなどからも呼びかけが行われることになろうかと思います。

国際カリタスの呼びかけの冒頭には、次のように記されています。「世界は緊急でありながら静かに進行する債務危機に直面しています。100 か国以上が不当で持続不可能な公的債務に苦しんでおり、その 65% は民間からの貸し付けで、開発と気候変動対策を完全に妨げているわけではないにしても、減速させています。低所得国では、60% が債務危機に近づいており、人々の将来への投資能力が制限されています。借金返済が医療と教育への支出を上回っているため、33 億人が重要なサービスを受けられず、貧困と不平等がさらに深刻化しています」

このキャンペーンは具体的な署名を求めるものですが、詳細は日本語訳をお待ちください。英語で大丈夫な方は、リンク先から署名へと進んでいただけると幸いです。

以下、本日午前10時に東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた神の母聖マリアの祝日ミサの説教原稿です。

神の母聖マリア
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2025年1月1日

新しい年、2025年の始まりにあたり、お喜びを申し上げます。

世間ではすでにクリスマスのお祝いはすんだことなのでしょうが、教会は主イエスの降誕をまだ祝い続けおり、それはご公現から主の洗礼まで続きます。主の降誕の出来事から一週間目にあたる本日一月一日を、教会は神の母聖マリアの祝日と定めています。新しい一年のカレンダーのはじめの日に聖母を記念することで、わたしたちの信仰生活においていかに聖母マリアが重要な存在であるのかを、教会は示そうとしています。

天使ガブリエルによる救い主の母となるという驚くべきお告げの出来事に始まって、ベトレヘムへの旅路、そして宿すら見つからない中での出産。その晩の暗闇の中に輝く光。天使たちがほめたたえる中で、新しいいのちの誕生を祝うために真っ先に駆けつけた貧しい羊飼いたち。聖書はこれらの出来事を記していますが、聖母マリアにとってみれば、人生において初めて経験する驚愕の出来事の連続であり、大きな混乱の中にあったことだと思います。

人類の救い主の母となることを告げられたそのときから、また神の御言葉を胎内に宿したそのときから、さらに神のひとり子の母となったそのときから、マリアの心は様々に乱れ、思い悩みも様々にあったことだと思います。しかしルカ福音は、マリアがそういった一連の出来事に惑わされることなく、すべてを心に納めて、それらの出来事によって神が望まれることは何であるのかを思い巡らし続けていたと伝えます。

「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります」と使徒的勧告「福音の喜び」に記された教皇フランシスコは、「マリアは、信仰に生き、信仰のうちに歩まれる、信じる女性です。教会にとって、マリアの比類なき信仰の旅路は変わることのない手引きです」と指摘されます。

激しく変化を続ける社会を目前にして、わたしたちはどうしても一つ一つの出来事に突き動かされて、一喜一憂し、直面する現実に対して時に深く洞察することもなく反応してしまったりします。個人としてだけではなく、社会全体もそのように反応し、極端な言説や行動が見受けられるようになりました。そんな時代に生きているからこそ、わたしたちは聖母マリアが、起こっている出来事を心に納め、神の意思と計画を思い巡らしていたその姿勢に習いたいと思います。

同時に聖母マリアは、単なる模範ではなく、わたしたち教会の母でもあり、歩みをともにしてくださる方でもあります。

始まったばかりの聖年の大勅書「希望は欺かない」において、聖母は、「わたしたちの母、希望の母」と宣言された教皇様は、「民間の信心の中で、聖なるおとめマリアが「海の星(ステラ・マリス)」と呼ばれているのは偶然ではありません。この称号は、人生の荒波の中にあるわたしたちを、神の母は助けに来てくださり、支えてくださり、信頼をもって希望し続けるよう招いてくださるという、確かな希望を表しています」と記しておられます

いのちという賜物を与えてくださった神は、人となられた神の御言葉、暗闇に輝く一筋の光として、わたしたちの希望の源ですが、聖母マリアは、その御言葉である御子イエスと歩みをともにされ、わたしたち教会と歩みをともにされる希望の母であります。

新しい年の初めにあたり、聖母が信仰のうちに神のみ旨を求め続けながらイエスと歩みをともにされたように、わたしたちも主の示される道を祈りのうちに求めながら、主とともに歩み、いのちの希望を掲げながら歩む決意を新たにしたいと思います。

さて教会は、新年の第一日目を「世界平和の日」と定めています。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。

今日、世界の平和を考える時、私たちは、もちろんウクライナの現実やガザをはじめとした聖地の惨状、姉妹教会であるミャンマーの現状などを忘れることはできませんし、日本近隣を含め世界各地で見られる政治的軍事的緊張状態や、近年とどまることなく頻発しまた継続している様々な地域紛争や極度に暴力的な事件のことを考えざるを得ません。それだけにとどまらず、全く報道されることがないためにわたしたちが知ることのない暴力的な出来事が、世界各地に存在していることを思うとき、その混乱に巻き込まれ恐れと悲しみの中にある多くの方々、とりわけ子どもたちのことを思わずにはいられません。

新しい一年の始めにあたり、希望の見えない暗闇の中で絶望にとらわれ、様々な形態の暴力に直面し、いのちの危機から抜け出すことのできない多くの人たちに、私たちの心を向けたいと思います。

新しい一年の始めにあたりに、日本をはじめとして、この地域の各国の指導者たちが、さらには世界の国々の指導者たちが、対立と武力による解決ではなく、対話のうちに緊張を緩和する道を見いだし、さらには相互の信頼を回復する政策を率先してとられることを期待したいと思います。 新しい一年の始めにあたり、神からの賜物であるいのちが、その始めから終わりまで守られ、神の似姿としての尊厳が等しく大切にされる世界の実現に、一歩でも近づくように祈ります。

新しい一年の始めにあたり、様々な理由から国境を越えて移動する多くの人に心を向けたいと思います。人が移動し続ける理由は数限りなくありますが、そこには自分が積極的には望まない理由で移動をせざるを得なくなる人たちも多く存在しています。誰一人として忘れられてしまってかまわない人はいません。いのちはすべて神からの賜物です。

教皇様は世界平和の日のメッセージを発表されています。今年は「わたしたちの負い目をゆるしてください、あなたの平和をお与えください」がテーマです。

メッセージ冒頭で教皇様は、「私は特に、過去のあやまちによって重荷を負わされ、他者の裁きによって攻撃され、自分の人生にかすかな希望さえ見いだせないと感じている人たちのことを考えている」と記され、始まったばかりの「希望」をテーマとした聖年において、様々な意味での周辺部に追いやられ排除されている多くの人へ心を向けるよう招かれます。

その上で教皇様は、聖ヨハネパウロ二世教皇の指摘された「構造的な罪」を引用しながら、世界で起きている人間の尊厳をおとしめている様々な出来事に対しては、誰かの責任を糾弾するのではなく、人類全体が何らかの責任を感じ、ともに協力しながら行動するよう求めておられます。

メッセージの終わりで教皇様は、国家間の債務の軽減、いのちの尊厳を守ること、武力のための資金の一部を飢餓などの軽減のために使うことなど、具体的な提案をされています。国際カリタスも、「国際的な債務を希望へと変えよう」と呼びかけ、25年前の大聖年のように、国際的な債務削減キャンペーンを始めました。

平和を実現する道を歩まれたイエスの旅路に、聖母マリアが信仰のうちに寄り添ったように、私たちも神が大切にされ愛を注がれる一人一人のいのちの旅路に寄り添うことを心がけましょう。希望の母である聖母マリアのうちに満ちあふれる母の愛に満たされ、主とともに、聖母とともに、歩みを進めて参りましょう。

 

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2024年9月23日 (月)

2024年秋田の聖母の日

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2024年の秋田の聖母の日の行事、「インターナショナル・マリアンデイ・イン・秋田2024」が、9月22日日曜日、秋田市の聖体奉仕会聖堂を会場に行われました。

当日は、当地の司教である新潟の成井司教様はじめ、秋田地区の司祭団を中心に多くの司祭、信徒が集まりました。また全国各地からたくさんの方が集まり、500名を超える方で聖堂は一杯になりました。

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今回は「インターナショナル」と銘打っているだけあって、国際的な催しとなり、正確な数字は分かりませんが、ブラジル出身の方が一番多くで200名以上おられたと思います。その次に主に地元秋田にいるベトナム人青年たち。そして各地からやってきたフィリピンの信徒やインドネシアの信徒。その他にもこの日のために来日した方などもおられ、歌も祈りも、インターナショナルでした。

あいにくの雨模様で、庭園での聖母行列はできませんでしたが、雨が降った分気温が下がり、聖堂に一杯の人がいたにもかかわらず、快適に過ごすことができました。(翌月曜日の今日は、写真のように晴天となりましたが、その分、気温が上がっておりました)

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成井司教様が開会の聖体礼拝とお話を担当され、わたしは締めくくりの午後のミサを司式致しました。その間には、聖母行列とロザリオの祈りや、各国の歌の披露などもありました。わたしにとっては新潟司教時代にしばしば訪れた祈りの場ですし、今回は司教叙階の20周年の感謝もこめての巡礼でした。

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聖体奉仕会も会員が相次いで帰天され、修道院に居住する会員も少なくなってきました。そんな中で、秋田の信徒の方々が大勢で手伝ってくださり、特にベトナム人の青年たちを中心に若い力で支えてくださっていることに感謝です。これからも皆で支え、皆でともに歩み、皆で祈る秋田の聖母の巡礼地であり続けてほしいと思います。今回の祈りの時を準備してくださった聖体奉仕会の皆さん、秋田の信徒の皆さん、ありがとうございました。

以下、当日のミサ説教の原稿です。

秋田の聖母マリアンデー2024
聖体奉仕会
2024年9月22日

闇にさまよう人類を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画。それを実現するためには、「お言葉通りにこの身になりますように」という、聖マリアの生涯をかけた決断の言葉が必要でした。その言葉こそは、神の救いの計画に対する聖マリアの絶対的な信頼を象徴し、神の御手に人生のすべて任せようとする、人間として完全な謙遜を具体的に生きる姿でもありました。

もちろん神の計画にすべてを委ねる人生は、救い主の母となるという栄光に彩られた道なのではなく、大きな困難を伴う茨の道を歩むことを意味していました。まさしく聖マリアの人生は、母として、救い主であるイエスの苦しみととともに歩む道でありました。主とともに歩むことは、決して楽な道ではなく、常に決断と忍耐と祈りを必要とすると言うことを、イエスの十字架での受難に至る苦しみの道をともに歩まれた聖母マリアの人生がわたしたちに教えています。

教会はいま、シノドスの道を歩むことの重要さを強調しています。まもなく10月には、今回のシノドスの第二会期が始まり、わたしも日本の司教団を代表して参加してきます。これまでのシノドスは、特定の具体的な課題について、世界中の教会の意見をまとめ、教皇様に提言をする会議でありました。しかし今回は違います。

今回のシノドスは、シノドス性そのものを取り上げ、教会がシノドス的な教会であるためにどのような道を歩むべきかを一緒に識別するためのプロセスです。ですから、多くの人が期待しているような、具体的な事柄はなにも決まらないかもしれません。またこの10月の会議ですべてが終了するものでもありません。いま進められているプロセスは、終わりに向かっているのではなく、始まりに過ぎません。教会はこれから常に、シノドス的な教会であるために努力を続けていきます。なぜならば、神の民である教会は、その本性からしてシノドス的であり、ともに歩み続ける存在だからであります。そしてその原点には、主イエスと共に人生の道を歩まれた聖母の生き方そのものがあります。聖母マリアは、シノドス的教会の歩みを具体的に生きられた最初の模範です。

教会に民主主義を持ち込むのではないかとか、新しい政治的イデオロギーではないかとか、この会期が終わるまでに日本では何もしないのかとか、いろいろな意見が飛び交っているのは事実です。しかしそういったことではなくて、聖母マリアと主イエスとの歩み、主イエスと弟子たちとの歩み、そういった教会誕生の原点にある姿を、確実に具体化して生きていこうとするのが、いまのシノドスの目的です。これからも長い目で見ながら、その具体化に努めていきたいと思います。

聖霊の導きを識別し続けながらともに歩むこのシノドスの道のりは、簡単な道ではありません。時間と手間のかかることでもあり、まずもって忍耐を必要とします。同時にそこで見いだされる神の計画の道は、常に安楽の道であるとも限りません。なぜならば、神の救いの計画の中心には常に十字架の苦しみが存在しているからです。シノドスの道をともに歩むことで、わたしたちは様々な困難に直面することでしょう。様々な意見の対立に翻弄されるでしょう。常識の壁が立ちはだかることでしょう。決断の及ぼす影響を考え、たじろいでしまうのかもしれません。そのときこそ、わたしたちは聖母マリアの人生を振り返り、主イエスとともに歩まれた聖母の信仰の深さと謙遜の強さに倣い、支え合いながらともに歩む道で前進を続けたいと思います。

世界の教会は教皇様の回勅「ラウダート・シ」に触発された「被造物の季節」を、そして日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」を、9月1日から10月4日まで過ごしております。教皇様の今年のテーマは、「被造物とともにあって、希望し行動しよう」とされています。

教皇様はメッセージで、「キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です」と記します。

神がその愛を込めて創造されたすべての被造物を、いのちを賜物としていただいている人類は、守り耕すようにと命じられています。被造物を守りながら生きることは、単にわたしたちの生活のためではなくて、神が愛するものを同じように愛し大切にすることを通じて、いのちを生きる喜びと希望を世界に示そうとする福音的な営みです。

人類は常になんらかの発展を指向し、与えられた資源を活用することで、より良い生活を、そして社会を手に入れようと努めてきました。もとより生活が便利になり、健康や安全が保証される社会を実現することは、より共通善に近づくことであるとも考え、研鑽を重ね、努力を積み上げてきました。残念なことに、教皇様が回勅「ラウダート・」シの冒頭で指摘するように、その努力の過程でわたしたち人類は、自分たちこそが「地球をほしいままにしても良い支配者や所有者と見なすように」なり、「神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり乱用し」てきました。その結果、共通の家である地球を深く傷つけてしまったと教皇様は指摘されます。

その上で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると教皇様は指摘され、密接に結びあわされている森羅万象を俯瞰するような、総合的視点、インテグラルな視点が不可欠であると強調されます。

人類は自らの利己的欲望に促されて、世界に君臨する支配者の幻想に酔いしれてきました。神からいのちを与えられているという謙遜さを失いました。

しかし「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と述べられた主は、わたしたちに奉仕する支配者となることを求められます。それこそは、主イエスご自身が自らの人生の歩みを通じて、十字架に至るまで常に示された生き方であります。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、神の望まれる世界は実現せず、いのちを奪うような混乱が支配すると、使徒は指摘します。

使徒は、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです」と記します。「間違った動機」とは、すなわち時空を超えたすべての人との繋がりに目を向けず、今の自分のことだけを考える利己心がもたらす動機です。その利己的な動機による行動の選択が、被造界を破壊してきたのだと教皇様は指摘します。

受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類に対する、神の愛といつくしみが具現化しています。イエスの受難への道は、神の愛のあかしであります。十字架は、神の愛の目に見える証しであり、十字架における受難と死こそ、具体的な行いによる神の愛のあかしです。神の常識は、救いへの希望は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果としてあることを強調します。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、わたしたちは神の愛といつくしみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

信仰の道を、主とともに歩み続けましょう。聖母マリアもその道を、主とともに、そしてわたしたちと共に、常に、ともに、歩んでくださいます。

 

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2024年9月18日 (水)

イエズス会叙階式・ラテン語ミサ・神田教会150周年

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9月14日の土曜日、イエズス会では司祭叙階式が行われ、麹町教会で、パウロ山内豊神父様が誕生しました。(写真上中央。向かって左はイエズス会日本管区の佐久間管区長様)

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同じ叙階年クラスでコンゴ出身の会員がイエズス会にはおられますが、そちらは、8月初めに、コンゴのルブンバシで、同じくイエズス会員でかつて上智大学で働いていたルクセンブルグのオロリッシュ枢機卿様が叙階式を司式されたと伺いました。

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山内新司祭はイグナチオ教会で土曜学校のリーダーを務めているとのことで、叙階式ミサには聖堂の一番前に子どもたちが座り、長い叙階式でしたが、最後までしっかりと参加して山内神父様の誕生をお祝いしていたのが印象的でした。

山内豊神父様、イエズス会の皆さん、おめでとうございます。これからの活躍を期待しています。

翌9月15日の午後、聖心女子大学の聖堂を会場に、ラテン語でのミサを司式いたしました。これは、日頃からグレゴリオ聖歌を学んでおられるいくつかの聖歌隊グループが、毎年イエスのみこころの意向ミサを捧げているとのことで、以前からご依頼をいただいていましたが、わたしのスケジュールの関係で、この日の午後となりました。

アクション同志会の主催するラテン語のミサも一年に一度カテドラルで捧げられますが、そちらは今年はこれから11月9日の土曜日ですが、それとはまた別の意向ミサです。わたしがラテン語ミサを歌えるということでご依頼をいただきましたが、実はコロナ感染以降、その後遺症なのか喉が本調子ではなく、折に触れてはボイストレーニングなどしているのですが、だんだんと高い音が出なく成ってきました。高い音で歌い続けるのはだんだんと難しくなりつつありますが、グレゴリアンのミサは、基本的に無伴奏ですので、喉の調子に合わせて少し低めに始めてもなんとか皆さんに繋がるところもあります。せっかく身につけたことですから、生かし続けていきたいと思っています。当日は、聖堂に一杯の方々に集まっていただきました。

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築地教会と並んで東京教区の最初の小教区の一つである神田教会も、今年で150周年を迎え、9月16日午前中に、記念感謝ミサを捧げました。当日は、歴代の主任司祭経験司祭を始め、近隣の麹町や築地の司祭、またすぐ近くにあって長年の協力関係にある暁星学園のマリア会司祭など多くの司祭が共同司式に集まりました。天気が心配されましたが、ちょうどミサのはじめ頃から雨は上がり、ミサ後に中庭で行われた祝賀会も天気に恵まれました。準備を進めてくださった現在の主任司祭である立花神父様はじめ、神田教会のみなさまに心からお祝いと感謝を申し上げます。

以下、神田教会150周年記念感謝ミサの説教の原稿です。同時期に創設された築地教会と重なるところもあるのは、歩んだ歴史背景が同じですので、ご容赦ください。

カトリック神田教会創立150周年感謝ミサ
2024年9月16日

日本における再宣教のために、宣教師たちが福音をあかしする活動を再開してから150年以上が経過しました。大浦天主堂での、潜伏キリシタンの方々による「サンタマリアの御像はどこ」というプティジャン神父への問いかけによって、日本のキリスト教が息を吹き返したのが1865年3月17日。159年前の出来事です。

聖母の導きで信徒の存在が明らかになったそのときは、まだ明治にもなっていません。その後、あらためて起こった厳しい迫害の出来事を経て、キリシタン禁制の高札が撤去されたのは、1873年であって、神田教会が誕生した時代の背景は、キリスト教にとって希望と不安と絶望が入り交じった、困難な時代でありました。

それから150年がたったいま、現代社会の視点からその当時の状況を推し量り、現代の価値観でその評価をすることは適切ではありません。時代の背景や、キリスト教に対する評価、外国人を取り巻く社会環境などなど、今の時代からは考えられないような困難があったことでしょう。福音を生きそれを具体的にあかしして伝えることは宣教師の使命ですが、それを果たすにあたっての当時の困難はわたしたちの想像を絶するものであったと思います。東京に福音の種を再びまいた当時の宣教使たちの活躍に、心から敬意を表したいと思います。

また神田教会誕生の時代、宣教師とともに福音をあかしし、多くの人を神の救いに与らせるために招いた多くの信仰の先達の働きに心から感謝したいと思います。

150周年を迎えたいま、東京教区のパイオニアとも言うべき神田教会の、現代社会にあって果たしていく使命は一体なんでしょうか。

この数年間、世界は歴史に残るようないのちの危機に直面してきました。例えば戦争のように、人間自身が始めたことであれば、それが可能かどうかは別として、人間はそれを止める方法を知っています。しかし今回の危機の原因である感染症はそうではない。暗闇が深まった結果は何でしょうか。それは自分の身を守りたいという欲求に基づく利己主義の蔓延と、先行きが見通せない絶望の広まりであって、絶望は世界から希望を奪い去りました。

わたしたちのいのちは、創世記に記されているように、「互いに助けるもの」となるようにと創造されました。すなわち、互いに支え合うところにいのちを生きる希望は生まれます。いのちの危機という闇に落とし込まれたときにこそ、互いに支え合い、助け合わなければなりません。しかし、ミャンマーのクーデターやウクライナでの戦争、そしてガザでの紛争などなど、世界の闇がさらに深まるような出来事が続き、わたしたちは、自分の身を守りたいと、利己主義を深め、同時に希望を失っています。

いま世界に必要なのは、この暗闇を打ち破る光であります。希望の光です。いのちを生きる希望の光です。互いに助け合う連帯の心です。

教皇様が、今年のクリスマスから一年間にわたって行われる聖年のテーマを、「希望の巡礼者」とされたのは、いまの世界の現実を見たときに必然でもありました。まさしくこの絶望の闇を打ち破る希望を生み出すために、教会こそが、世界に希望を告知する存在として巡礼者であるべきだと考えられたからではないでしょうか。

災害や紛争など緊急事態が発生したとき、例えば教会ではカリタスジャパンなどが支援のために募金をします。必要な物資を集めます。災害直後に、または紛争の中でいのちの危機に直面している人たちに、今日を生きるために必要な物資を提供することには大きな意味があります。物質的援助によって、具体的に人間の命を救うことが可能です。

しかし希望はそうはいきません。いのちを生きる希望を、誰かがどこからか持ってきて、絶望に打ちひしがれている人に提供することなんてできません。希望は「もの」ではないからです。希望は、人の心の中から生み出されます。絶望している人が、心に希望を生み出すことができるのは、それを促し助けてくれる人との出会いです。ともに歩んでくれる兄弟姉妹との出会いが不可欠です。出会いと支え合いは、人の心に希望を生み出す触媒の役割を果たします。

現代社会にあって、教会共同体に与えられた重要な使命の一つは、出会いと支え合いによって、心に希望を生み出す源となることであります。

わたしたちひとり一人には、イエスとの出会いの中で生まれるいのちを生きる希望を、多くの人に分け与える務めがあります。そのためには、わたしたち自身がイエスとの個人的な出会いの中で希望を心に抱き、共同体に生きることで互いに支え合い、連帯のうちにその希望を燃え輝かせることが不可欠です。自分が希望を抱いていなければ、他者の心に希望は生まれません。

教会は今、シノドスの道を歩み続けています。今回のシノドスはシノドス性について話し合っています。つまり教会とは一体何であるのか、教会が教会であるためにはどうしたらよいのか、聖霊は教会をどこに導いているのか、などについて、話し合っています。話し合っているだけでなく、祈りのうちに分かち合っています。どうしてそうするのかと言えば、それを通じて、教会に働き続けている聖霊の導きを知りたいと考えているからです。教会の言葉でそれを、識別すると言います。いま必要なのは、多数決でものを決めていくことではなくて、共に耳を傾け、分かち合い、祈り会う中で、聖霊の導きを識別することであります。

教会の進むべき道を一人で識別することはできません。「わたし」の進む方向ではないからです。それは「わたしたち」が一緒に進む方向ですから、皆で知らなくてはなりません。だから教皇様は、そういう、皆で祈りのうちに方向性を見極める教会へと、全体が変化して、それがこれから先まで教会のあり方としてこれから定着することを望んでおられます。

先ほど朗読された福音で、イエスは神殿の境内に入り、そこにいる人たちを「ご覧になった」と記されています。そしてその有り様が御父の思いとあまりにもかけ離れているために、鞭を振るって羊や牛や両替商を追い出したとあります。神殿の光景を目の当たりにして、それこそ悲しみと怒りの思いをいだき、そのような過激な行動に出たのかもしれません。

いま主イエスが、150年を迎えた神田教会に入ってこられ、わたしたちの有様を見て、どのように感じられるのでしょう。わたしたちの共同体を見つめる主イエスの目を意識したいと思います。

神田教会が150年を祝うこの年、教会は大きな体質改善を目指しています。一緒になって歩み続ける教会でありましょう。互いの声に耳を傾け、互いをその違いのままに尊重し、一緒になって助け合いながら、祈りのうちに歩む共同体になっていきましょう。助け合い支え合う希望を生み出す教会共同体であり続けましょう。

 

 

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2024年8月10日 (土)

2024年平和旬間:東京教区平和メッセージ

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2024年のカトリック平和旬間にあたり、平和メッセージを記します。8月10日午後5時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われる平和旬間のミサに合わせて、わたしの説教として準備致しましたが、同日は、アフリカのガーナで司祭叙階式の司式を依頼されましたので、不在となります。同日のカテドラルにおける平和を願うミサの司式は、小池神父様にお願いしています。

平和を願うミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2024年8月10日

毎年の夏、社会でもまた教会でも、平和について語り、ともに祈る機会が多く与えられます。平和の季節としての夏の始まりは、6月23日の沖縄での戦争終結の日です。そこからはじまり、8月6日と9日の広島・長崎の原爆忌、そして終戦記念日である8月15日までの間、わたしたちは過去の歴史を振り返り、平和を求めて祈り、行動します。

今年の4月、日本の司教団はアドリミナの聖座訪問でローマに出かけ、司教一同で教皇様にお会いしました。日本の教会の様々な出来事について教皇様に報告する中で、沖縄、那覇教区のウェイン司教様は、外国の軍隊がほぼ恒久的に他の国の中に軍事基地を設置し、駐留を続けることの倫理性を、教皇様に尋ね、問題提起されました。もちろんそれは沖縄の現実そのものであります。教皇様はこれに対して、外国の軍隊の駐留の倫理性については考えたことはなかったが、重要な課題として是非これから研究してみたいと答えておられました。あの悲惨な戦争の現実から79年が経過しても、今なお、平和のための武力での防衛は維持強化され、結果として平和は実現していません。

今年の6月23日、沖縄慰霊の日にあたり、ウェイン司教様は、教区に向けた平和メッセージを発表されました。そこにこう記されています。

「平和・共生・協調の理念は、すべての人の共通の普遍的な願いであるはずなのに、同じ理念を目指しながらも、一方は他者の存在を必要とする立場から『対話』を選びますが、他方では同じ平和を理由にして、自己防衛のためにと『武力』を選択しています」

ウェイン司教様は、まったく同じ「平和・共生・協調」という理想を掲げながらも、人間はその立場によって、「対話」と「武力の行使」という全く異なる道を選択するのだということを指摘されています。「自分達の安心・安全」だけを中心に平和を考える利己的な姿勢に立つ場合、武力の行使を放棄して対話を選択するのではなく、平和を守るために必要だという理由で、暴力の行使を容認してしまう。それこそは、すなわち、平和を守るために平和を打ち壊すような状況を生み出しているのだと、メッセージの中で指摘されています。

仮にひとり一人のいのちを守ることが最優先であると考えるのなら、武力の行使こそは、なんとしてでも避けるべきですが、実際にはそのような考えは非現実的だと批判されることもしばしばあります。もちろん国際関係の現実を見るならば、国家間の関係が単純には割り切れないものであることは当然です。しかしながら、近年の日本の周囲の情勢を念頭に、防衛のための武力を強化することは平和維持に不可欠だという機運が醸成されている状況は、神の与えられた賜物であるいのちを守るという教会の立場からは、平和を求める本来の道ではありえないことを、常に念頭に置かなくては成りません。

いまわたしたちが生きている世界の現実は、 無防備な市民を巻き込んで、いのちを暴力的に奪い去る出来事で彩られています。いのちに対する暴力は世界各地で頻発し、加えて国家を巻き込んだ紛争が一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。ロシアによるウクライナへの攻撃で始まった戦争は、2年半が経過しても終わりへの道が見えません。パレスチナとイスラエルの対立は泥沼化し、ガザでは三万七千人を超える人たちのいのちが奪われています。アジアにおけるわたしたちの隣人の状況を見ても、ミャンマーではクーデター後の混乱はまだ続いており、すでに3年を超えて、平和の道筋は見えていません。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。この数週間の間にバングラデシュでも、混乱が続き、多くの人が命を落としました。

ヨハネ23世の回勅「地上の平和」は次のように始まります。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

はたしてわたしたちが生きているいまの世界の現実は、神の秩序が全面的に尊重された世界でしょうか。神が望まれている世界は実現しているでしょうか。

そう考えるとき、平和とは単に戦争がないことではないと気がつきます。様々な方法で、賜物であるいのちが暴力的に奪われている状況を、神が望んでいるとは到底思えません。いまの世界に神の平和は実現していません。

神がご自分の似姿として創造されたいのちには、神の愛が注ぎ込まれています。神はいのちを賜物としてわたしたちに与えられました。ですからわたしたちには、いのちの尊厳を守り抜く責務があります。

賜物であるいのちに対する暴力を行使し、神の秩序の実現を阻害しているいう視点から現実を見るとき、そこには戦争を越えてさらに多くの現実が見えてきます。

環境破壊と地球温暖化によって、長年住み慣れた地を追われる人たち。戦争や紛争の結果として故郷を離れざるを得ない難民や国内避難民。いのちの尊厳をないがしろにする状況の中で生きざるを得ない人たち。思想や信仰や生活のあり方の違いによって社会から排除され、存在を無視されている人たち。様々な口実で暴力的に奪われていく人間のいのち。ここで指摘することが適わないほど、さらに多くのいのちへの暴力行為があります。それらすべては、平和の課題です。ひとりのいのちがその尊厳を奪われようとしている現実は、すべからく平和の課題です。神の賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、徹底的にその尊厳を守られ、希望を持って生きられなくてはなりません。

教皇様は、2017年に、それまであった難民移住移動者評議会や開発援助評議会、正義と平和評議会など、社会の諸課題に取り組む部署を統合し、「人間開発」という名称で一つの部署にされました。この「人間開発」という名称の前には、「インテグラル」と言う言葉がつけられています。日本語では「インテグラル」を「総合的」と訳しています。「総合的人間開発」を担当する部門です。

教皇様が「ラウダート・シ」を2015年に発表されたとき、第四章にこう書いておられます。

「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸課題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています(137)」

現代社会にあってすべての出来事は複雑に関係しており、社会で起こる現実の出来事は複雑さを極め、いのちの危機はシングルイシューでは解決することができなくなっています。どうしてもインテグラル・総合的な視点が不可欠です。いまわたしたちの平和の活動には、インテグラルな視点が不可欠です。簡単に善悪と決めつけ、すべてが分かったような気になっているのがいまの社会なのかもしれません。しかし、人間が生み出す現実は、当たり前ですが、そんなに単純ではありません。

平和について考えるいま、世界の様々な現実を目の前にして、総合的・インテグラルな視点を持ち続けながら、すべてのいのちの尊厳をまもるための道を見いだしていきたいと思います。

 

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