カテゴリー「説教原稿」の17件の記事

2022年11月22日 (火)

王であるキリストの主日@豊島教会

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王であるキリストの主日、池袋の近く、山手通り沿いにある豊島教会で堅信式ミサを行い、19名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。豊島教会は2019年以来、3年ぶりの堅信式でした。

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豊島教会では午前中9時半のミサのあと、昼12時から英語ミサも行われており、こちらにはガーナをはじめアフリカ出身の方も参加されているそうです。そのようなわけで、19名の堅信を受けられた方々のなかにも、様々な文化をルーツにもっている人が含まれていて、教会共同体の普遍性を象徴していました。

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説教でも触れましたが、来週の日曜から、典礼式文の翻訳が変わります。その意味で、今週は、これまで慣れ親しんできた言葉との別れの週でもあります。ラテン語から日本語に変わった小学生の頃のことを思い出しますが、そのときもいろいろと試行錯誤を経て、数年をかけて定まっていったと思います。明確に憶えているわけではありませんが、現在の式文の「信仰の神秘」のあとの応唱は、二つ記されていますが、この二つ目も最初はなかったもので、使い始めてから典礼の先生たちの指摘で後に加えられたものだったと記憶しています。これからも様々な試行を経て、さらにはまだ決定していない部分も含めて、一冊のミサ典書にまとまるまでは、かなりの時間を要するものと思います。

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以下、豊島教会の堅信式ミサでの説教録音から、書き起こして形を整えたものです。

豊島教会堅信式ミサ
王であるキリストの主日
2022年11月20日

イエスの十字架での死を目撃した人たちは、イエスが何も成し遂げることなく十字架の上で虚しく死んでいったとみなしたのかもしれません。それが先ほどの福音の中で、議員たちがイエスを嘲って笑いものにしたと記されている箇所が象徴しています。しかしその十字架がなければ、わたしたちの信仰はそれ自体が成り立ちません。

受難と死と復活を通じて新しいいのちが与えられ、さらには聖霊が弟子たちに降って教会が始まり、その聖霊が常に教会を導いてくださるということは、この十字架の上での受難と死がなければ、成立しない出来事であります。すなわち、わたしたちキリストを信じるものにとって十字架は敗北の象徴ではなくて、勝利の象徴、新しいいのちへの道を切り開いた勝利の象徴であります。

今日の福音の冒頭は、わたしたち人間が、いかに勝手に神を定義づけようとしているかを教えていると思います。わたしたちは、あたかも自分たちが神を生み出したかのように、自分たちの思いを神に投影しようとします。神だからこれくらいのことをしてくれて当然だろう、神だからこれくらいのことができて当然だろうと勝手に思い込んで、そのわたしたちの願い、思い込みが実現しないときには、神にむかって失望します。十字架上のイエスをあざけった議員たちの言葉と態度は、まさしく自分たちの思い描いていた救い主、自分たちが思い描いていた神、そのイメージが、まったく損なわれる存在がイエスであったからこそ、身勝手な失望があざけりの言葉に繋がっていったと思います。

他人事のように、わたしたちはこの福音の箇所をやり過ごしてしまいますけれども、実際の自分の人生の中で、幾たび同じような行いや言葉を発しているかを、反省させられる箇所でもあります。

神様だからこれくらいのことをしてくれて当然だろう、これくらい祈っている、こんなに祈っているのにどうして神様はかなえてくれないんだ。まるでわたしたちが神様をコントロールできるかのように思い違いをして、神に不満をぶつけてみたりするという、身勝手な愚かさをわたしたちは繰り返しています。

キリストにおける王とは、皆に仕えられあがめ奉られて、一番上から君臨して権力を一手に握るようなそうゆう王様ではなくて、イエスご自身の人生が現しているように、一番下にいて仕える者として、弟子たちの足を洗い、貧しい者たちを助け、弱さのうちにある人のもとに出掛け、自らのいのちを犠牲にしてささげてまで、すべての人に新しいいのちを与えようとする王です。自らを犠牲にして皆を生かすために生きるのが、神が考える王、支配者の姿であります。わたしたちも、このイエスの人生を、キリストの人生を、自分のものとしたいと思います。

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ところで、週日のミサに与る人は別ですが、多くの場合は日曜日のミサにしか来ないので、今日のミサでは、多少の感慨を持って与っておられるでしょうか。少なくとも私は、この一週間は特別な思いでミサを捧げます。

というのも、来週の日曜、待降節第一主日からミサ式文の翻訳が新しくなって、例えばこれまで長年、当たり前のように唱えていた、「主は皆さんとともに」のあとに「また司祭とともに」とこたえる箇所が、来週からは、「主は皆さんとともに」の後が「あなたとともに」と応えるように変わります。全体としては大きな変更ではないですけれども、典礼の刷新は教会の姿を象徴していると思います。

先ほど香部屋でミサの準備をしていたとき、香部屋の典礼関係の書籍の書棚に、1969年に発行された文語の日本語のミサの式次第がありました。同じ時に、現在使われている現代語訳と文語訳の両方が出版されていたのですね。懐かしく思い出しました。

わたしが小学生の時にラテン語から日本語にミサが変わって、そのころ教会に来られていた方は覚えておいでだと思いますけれども、最初は文語体で試してみましたよね。それから何年かかけて手直しがされて、最終的にいま使っている現代語訳で確定したのは、私が小学校6年生の時です。

わたしは父親が当時教会で働いていたので、生まれてからずーっと教会に住んでいましたので、ほとんど毎日ミサに与る環境で育ちました。小学校に入るとすぐに、前の典礼のミサで侍者をするために、カタカナで書いたラテン語の祈りを一生懸命暗記したりして侍者の練習をしていた頃に、ミサが日本語になり、何年かかけてそれがいまの形に集約していくのを目の当たりにしていました。その変化は、典礼の外の形が変わったという事実だけではなく、さらに重要なこと、教会の本質をわたしたちに教えてくれていると思います。

教会は、2千年の歴史を持っているけれども、常に古くてかつ常に新しい存在であるということをわたしたちに教えてくれています。

教会は、2千年前の最後の晩餐におけるイエス・キリストの、パンと葡萄酒を自らの御体と御血として制定された、あの瞬間から始まっていまに至るまで、あの出来事をずっと記念し続けています。その伝統に生き続けるという意味で、常に古いのが教会です。しかしその教会は常に新しくされる。常に新しくする原動力はどこにあるのか。それは人間の知恵ではない、人間の思いでもなく、それは聖霊の働きによって、教会は常に新しくされ続けています。ですから常に古いけれども常に新しい。その繰り返しを日々積み重ねて、いまに至っている、それがわたしたちの教会であります。

第二バチカン公会議もそうですが、常に新しくあるための聖霊の導きはそれなりの混乱を引き起こしますが、刷新と混乱を繰り返して常に古いけれども常に新しくある教会は、人の思いを反映しているのではなく、聖霊に導かれて歩みを続けています。

その意味で、教皇様がいま、みんなでシノドスの道を歩もうと、みんなで一緒になって道を歩んでいこうと呼びかけていることは、とても大切なことだと思います。教皇様は決して、みんなで会議を開いて多数決でものを決めてゆきましょうというようなことを言っているわけではないのです。そうではなくて、みんなで一緒になって、聖霊が何を語りかけているかを識別しようと、一緒になって、聖霊がわたしたちをどこへ導こうとしているのかを識別しようと、それを識別するために皆でともに歩んでいかなくてはならないと呼びかけておられます。

なぜならば、聖霊はどこで誰にどのように働きかけるのか、誰も知らないのです。典礼聖歌にあります。「風がどこから吹いてくるのか、人は誰も知らない」。どこから聖霊の風が吹いてくるのか、どこからどこに吹いて、誰にどう語りかけているのかを、誰も知らないのです。ですから、教会を作り上げている一人ひとりが、聖霊の導きを見極めるために、一緒になって分かち合い、支え合って、道を歩んでゆくことが不可欠だということを、教皇様はあたらめて強調し、シノドスの道をともに歩むことを呼びかけておられます。

教会は、常に古くて常に新しい。その教会の進むべき道を、神の民としてともに識別し、支え合って歩みをともにしようとしているのが、教会のいまの姿です。

その教会共同体の中で今日、堅信を受けられる皆さんは、まさしくその聖霊のお恵みを、堅信の秘跡を通じて受けられることになります。聖霊の恵みは、堅信を受けた瞬間に目に見えるように人が変わって、180度異なる新しい人になりましょうみたいな、何かそうゆうことがあったら嬉しいんですけれども、実はそうゆうことではないんですね。聖霊がわたしたちになにをどう語りかけているのか。それは、祈りのうちにしっかりと見極めるしかないんですけれども、一つだけわたしたちは確信をもって言えることがあります。それは、わたしが主イエスに従おうと決意している、人々に仕える王であるイエスに従っていこうと決意している。そのわたしの決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の恵みです。

聖霊はわたしたちが決意したとき、人間の力ではその決意を実際に行動に移す事には様々な困難があるのですけれど、わたしたちは聖霊がその決意を後ろから支えてくださっていること、そして正しい方向に向かって力づけてくださること、それを信じて生きていきたいと思います。

 

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2022年11月16日 (水)

堅信式ミサ@田園調布教会

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年間第三十三主日の11月13日、午後二時から、田園調布教会で堅信式が行われました。当初30名と伺っていましたが、様々な理由から当日は28名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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田園調布教会はフランシスコ会が司牧を担当し、また修道院もあるため、神学生が居住しておられます。そこでこの日のミサでも、フランシスコ会の神学生や志願者が、侍者をしてくださいました。

感染症に伴う制限のために、この二年半ほど、小教区の司牧訪問や堅信式の予定の多くが延期となっていました。田園調布教会自体を訪れるのは東京に来て二度目ですが、堅信式は初めてでした。残念ながら皆で聖歌を一緒に歌ったりはできませんでしたが、多くの方と堅信の喜びを分かち合えたことは幸いでした。

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教区の中で堅信の秘跡を授けるのは、基本的にその教区の司教です(教会法882条)。もっとも成人洗礼式や、やむを得ない事情がある場合、司祭は堅信を授けますが、そのためには教区司教からの権限の委任が必要です。勝手に授けることはできません。今回のような感染症の状況のために多人数での堅信式ができなかった場合などは、「やむを得ない事情」となります。東京教区では、成人洗礼時の堅信は一般的に司祭に権限を委任していますし、ここの事情に応じて、司教が長期間訪問できない場合などに司祭に委任しています。

同時に各小教区での堅信式は、司教にとって小教区を訪問するよい機会となりますので、状況が落ち着いてからは、ぜひ、堅信式を計画され、司教をお呼びください。予定が空いている限り、喜んで小教区にお伺いします。

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以下、田園調布教会の堅信式ミサの録音から書き起こして、多少手を加えて説教原稿です。堅信式はどこでも同じようなことをお話ししていますので、聞いたことのあるような話であっても、御寛恕ください

年間第三十三主日堅信式ミサ
田園調布教会
2022年11月13日

2020年の2月頃から始まり、いまに至るまで、日本だけではなく世界中がコロナ感染症の状況に翻弄され、混乱のうちにもう2年が経ちました。いったい、どうしたらこの状況から抜け出すことができるのか、わかりません。言ってみれば、暗闇の中で、光を持たずに彷徨っているような状況が続いています。

とても不安になりますよね。なぜならば、いのちを落としている人たちが、そこには実際おられるからです。さらには、この状況の中で戦争が始まり、ロシアによるウクライナへの侵攻や、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーでのクーデターが起きて、いまだに落ち着かない状況が続いているなど、心を騒がせ不安にさせるような出来事がずっと続いているからです。

教会など人が集まるところで、いままでは普通にしていたことが難しくなる状況の中で、人と人とのつながりも分断されてしまい、孤独や孤立が深まっている。そうした状況の中でしばらく過ごしていると、先行きが見えない不安のために、ますます不安は不安を呼び、世の終わりでもやって来るのではないだろうかとまで思ってしまいます。

ちょうどいま、典礼の暦は終わりに近づいています。待降節から新しい暦が始まるので、まもなく待降節ですから典礼の暦が終わりに近づき、終わりに近づいてくると必ず、典礼の中での朗読は、世の終わりについて語るようになります。

世の終わりには、どんなことが起こるのでしょう。

世の終わりには、主イエスご自身が再臨するということを、わたしたちは信じていますけれども、それがどのようにして、いつ起こるのかは誰も知らないですよね。でも不安な状況が続いていると、まるでそれが、世の終わりでもやって来るサインではないのかと、思わず心配になる。
そういう出来事にいるとき、イエスは、そんなことに気を取られてはいけないと、おっしゃるんですよね。いろんなことが起こるけれども、それに気を取られて心配しても仕方がない。なぜならば、イエスの再臨、世の終わり、それは人間が決めることではなくて、神が決めることなので、神の領域の話なので、それを人間がいくら心配しても仕方がない。それよりも、その出来事の中で、いったい神は、何を人に語ろうとしているのか、それに耳を傾けなさいと。

それをいまの教会の言葉では、「時のしるしを読む」と言いますよね。「時のしるしを読む」、新しい言葉では決してないです。

1965年に終わった、第二バチカン公会議という大きな会議がありましたけれども、第二バチカン公会議はまさしく、その神が、時代の出来事を通じてわたしたちにいったい何を語りかけているのだろうか、それを読み取ろうとしたのが、あの第二バチカン公会議だったんですね。それ以来、教会はこの現代社会のさまざまな出来事の中で、神はわたしたちに何を語りかけているんだろうか、いったいわたしたちにどうしろと言っておられるのだろうか、それを知ろうと努力を続けてきています。「時のしるしを読み取る」ということは、現代社会に生きている教会にとって、とても大切な務めであるというふうに思います。

それでは2020年2月からのこの3年近いこの状況の中で、いったいわたしたちは神から何を語りかけられてきているんだろうか。

教皇様は、このパンデミックが始まった最初の頃から、「わたしたちは、連帯しなければこの状況から抜け出すことはできない」と何度も、何度も繰り返されました。わたしたち人間は、まるで一つの同じ船に乗っているように、この地球という一つの星の中で一緒に家族のように共同体を作って、兄弟姉妹として生きている。だから、対立したり排除したりするのではなくて、連帯して互いに助け合わなければ、命をつなぐことはできないと、強調してこられました。たぶんそれが、神からの語りかけへの回答のひとつだと思うんですね。

いま起こっている出来事の中で、それでは神様はわたしたちに何を求めておられるだろうかということを考えたときに、それはあらためて、連帯すること、互いに助け合うこと、支え合って生きていくことの大切さ、それを思い起こすように、そう語りかけられているように思います。
その意味で、残念ながら、その連帯を蔑ろにする、または破壊してしまうような暴力が、いま世界を支配しているということは、とても残念なことだと思います。戦争もそうですし、意見の違う人たちを従わせるために暴力を使って、いのちを奪うなどという行為も起きている。

いのちを守ってゆくために、わたしたちは連帯し互いに支え合わなければならないんだということを、あらためて、声を大にして言い続けなければならないし、それに基づいて自分の言葉と行いを、律していかなければならないと考えます。

そのような中で今日、教皇様は、この「王であるキリスト」の主日の前の日曜日、すなわち年間第33の主日を、「貧しい人のための世界祈願日」とされました。これは象徴的です。

世界を支配する王様のお祝いである「王であるキリスト」の前の日曜日を「貧しい人のための世界祈願日」とすることで、世界に数多くおられる困窮し生活の苦しさを抱え、いのちの危機に直面している人たちに思いを馳せること、その大切さを思い起こさせる日曜日を設けたというのは、その王がどのような王であるのかを明確にするために、とても重要なことだと思います。

前の教皇であるベネディクト16世が、教皇になられたとき最初に発表された文書は、「デウス・カリタス・エスト」という文章でした。「神は愛、デウス・カリタス・エスト」。そしてその文書の中で、教会の本質は三つあるんだと記されています。

一つはみ言葉を告げ知らせること。もう一つは礼拝をすること、賛美をすること。そして三つ目が、愛の奉仕をすることだと。

この三つはそれぞれ勝手にあるのではなくて、互いに互いを前提として存在しているのだというふうにおっしゃいました。教会の本質は、み言葉を告げ知らせること、神を礼拝すること、そして愛の奉仕をする事なのだと記されています。

いま、わたしたちに求められているのは、連帯のうちに互いに支え合う、すなわち、愛の奉仕に生きることです。イエスが、貧しい人に、困窮している人に、病気に苦しんでいる人に、思いを寄せたように、わたしたちもイエス・キリストに倣う存在として愛に生きる。その思いを新たにしなければならないと思います。

いまのこの困難な状況の中だからこそ、わたしたちは自分たちに与えられている使命を、あらためて思い起こす必要があると思います。

今日、堅信を受けられる皆さんは、洗礼・聖体・そして堅信という三つの秘跡を受けることによって、キリスト教の入信の過程が完成します。キリスト者として完成するんです。一昔前は、堅信の秘跡を受けることによってキリストの兵士になる、これからキリストのために闘うんだという言い方もしましたけれども、それは言い得て妙だと思います。キリストの弟子として完成したものとなるのです。

完成したからには、成熟した大人の信仰者として、責任を持っていくわけですよね。神からの恵みだけではなくて、受けた恵みに対してわたしたちは責任を持っているので、責任ある行動を取っていかなくてはならない。じゃ、その責任ある行動はいったい何なんだろうか。

その一つは、やはり、愛の奉仕に生きるということだと思います。

イエスのように生きてゆく、イエスがなさったように、わたしたちもこの社会の中で、わたしたち自身の言葉と行いをもって、神の愛を証しする存在となっていくということが、責任を果たす一つの道だと思います。

ただ、それは自分の力だけでは難しいですよね。いまそうしろと言われても、今日から自分の言葉と行いがイエス様のような言葉と行いになるかといったら、なかなかそうはいかない。それはわたしたち自身の弱さです。

だから、聖霊を、堅信の秘跡を通じていただくんです。受けるんです。聖霊は、わたしたちをスーパーマンに変身させてくれるのではないのです。わたしたちがイエスに倣って生きよう、神に従って生きようと決意するときに、その決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の力です。

聖霊は、決して、わたしたちを180度変えて、変身させて、いますぐにすごい人にするものではないです。そうではなくて、わたしたちがイエスに従って生きようと決意する、その決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の恵みです。聖霊の様々な賜物は、わたしたちをスーパーマンにするのではなくて、わたしたちの決意を後ろから支え実現できるように励ましてくれる賜物です。

ですから、今日、堅信の秘跡を受けられる皆さんにも、この堅信の秘跡の恵みを通して、決意を支えて下さる神はいつも背後にいることを忘れないでいただきたい。わたしの後ろから一所懸命支えてくれる神がいるんだと、控えているんだと、聖霊の力が後ろから支えて下さるんだということを信頼し、神から与えられた愛の奉仕に生きるという使命を、十分に果たしていっていただきたいと思います。

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2022年11月13日 (日)

年間第三十三主日ミサ@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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年間第三十三主日は貧しいひとのための世界祈願日でしたので、十時の関口教会のミサを司式させていただきました。このミサでは七五三の祝福も行われ、大勢のお子さんたちが、祝福を受けられました。おめでとうございます。これからの人生が神様からの祝福で豊かなものとなりますようにお祈りいたします。

以下、本日の説教原稿です。

年間第33主日C
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年11月13日

典礼の暦は終わりに近づき、毎年この時期、福音のメッセージは、世の終わりについて語り始めるようになります。

第一朗読のマラキの預言でも、終わりの日が到来するとき、「高慢なもの、悪を行うもの」は焼き尽くされるであろう事が記され、それを避けるために、神の名を畏れ敬う生き方をするようにとの諭す言葉が記されています。

パウロはテサロニケの教会への手紙で、自ら模範を示してきたように、怠惰な生活を避け懸命に働くことを命じています。それは、主の再臨は間近であって、現世には何の価値も見いだせずに、ただただ世の終わりを待つ人たちが存在していたからだと言われます。パウロはいまを生きるいのちが、その終わりまで、与えられた使命を懸命に生きることの重要性を説いています。

ルカ福音は、神の御旨であって、実際にはわたしたちがしるはずのない世の終わりに心を奪われて、社会に生じるであろう混乱を記します。その上で、時のしるしを読み解くことの重要性を説くイエスの言葉を記しています。

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確かに、一体のその終わりはいつ来るのかが気になってしかたがありません。例えば今回の感染症の世界的大流行の中で、二年以上も混乱が続き、いのちの危機に直面すると、それこそが世の終わりのしるしだと考える人が出てきたりするものです。また世紀末のように区切れがよい時期が近づくと、世の終わりが近いと考える人も出現します。歴史はそれを繰り返してきました。心が動揺しているとき、わたしたちは自らの心の不安を反映してなのか、この世界が終わりを迎えるのではないかという不安に捕らえられてしまいます。

しかしイエスは、そういった諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないようにと忠告します。なぜならば時の終わりは神の領域であって、人間の領域の出来事ではないからです。

「時のしるし」を読み取ることの重要性については、マタイ福音書16章に、もっとはっきりとこう記されています。

「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」

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ヨハネ二十三世が、1961年の降誕祭に、「フマーネ・サルティス」を持って第二バチカン公会議の開催を告示したとき、そこには「時のしるし」を読み解こうとした教皇の言葉が、こう記されています。

「一方においては精神的貧困に苦しむ世界、他方には生命力に満ちあふれるキリストの教会がある。私は……教皇に選ばれたとき以来、この二つの事実に直面して、教会が現代人の諸問題の解決のために貢献するよう、すべての信者の力を結集することが私の義務であると考えてきた。」

第二バチカン公会議は、「時のしるし」を読み解き、それに基づいて聖霊の促しに信頼しつつ行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、社会の現実の中で、真理をあかし、世を救い、キリストの業を続けるために、教会は「つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている(4)」と記しています。「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、わたしたちの務めです。

教会は年間第33主日を、貧しい人のための世界祈願日と定めています。教皇様の今年のメッセージは、「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」をテーマとしています。

教皇様はこの数ヶ月の世界の情勢を悲しみを持って見つめられながら、「愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人やいちばん弱い人にとって打撃となるかが分かります。数えられないほどの人が、とりわけ子どもたちが、根ざしている地から引きはがして別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています」と、いのちの危機の直面する多くの人への思いを記しておられます。

その上で教皇様は、コリントの教会への手紙を引用しながら、「イエスをしっかりと見つめなさい、イエスは「豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と呼びかけられます。

すなわち、教会は義務として愛の奉仕に生きるのではなく、イエスに倣って生きる者だから当然として、困窮する人々との連帯のうちに支え合って生きることが重要だと教皇様は強調されています。

そしてメッセージにはこう記されています。

「貧しい人を前にしては、きれいごとを並べ立てるのではなく、腕をまくり上げ、人任せにせず直接のかかわりによって、信仰を実践するのです。ところがときおり、ある種の気の緩みが生じてしまい、貧しい人に対する無関心といった、一貫性のない行動をとることもあります。また、キリスト者の中には、お金に執着するあまり、財産や遺産の誤った使い方を正せずにいる人もいます。これらは、信仰が薄弱で、希望が揺らぎやすく近視眼的である状況を示しています」

教皇様は、常日頃から強調されているように、このメッセージでも連帯の重要性を強調し、こう記しておられます。

「連帯とはまさに、もっているわずかなものを、何ももっていない人と分かち合うことで、苦しむ人がいないようにすることです。生き方としての共同体意識や交わりの意識が高まれば、それだけ連帯は強まります」

社会全体が様々な困難に直面し、暗闇を彷徨い続けているいまだからこそ、教会は希望の光を掲げる存在であり続けなくてはなりません。希望の光は、教会を形作るわたしたち一人ひとりの言葉と行いによって、この世界にもたらされます。光を必要としている人のもとへ、光を届け、歩みをともにする教会でありたいと思います。

あらためて、第二バチカン公会議を招集された教皇ヨハネ23世の言葉を思い起こします。私たち「教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送込まねば」なりません。

なお今日のこのミサの中で、七五三のお祝いを受けられるお子さん方がおられます。これまでの成長に感謝し、これからもいのちの与え主である神の祝福を豊かに受けながら、その命をより良く健やかに生きていくことができるように、皆でともに祈りましょう。

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2022年11月 9日 (水)

東京教区合同追悼ミサ@東京カテドラル

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11月は死者の月です。亡くなられた方々の永遠の安息のために、特に祈りを捧げる月であり、地上の教会と天上の教会の交わりを再確認するときでもあります。

教会のカテキズムには、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957)」

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また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

「・・・死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることが出来るのです(958)」

教会は、地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在しています。

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東京教区では、11月の最初の日曜日に、合同追悼ミサを捧げてきました。ミサはカテドラルと、府中墓地と、五日市霊園で捧げられています。この数年はコロナ禍のため中止せざるを得ませんでしたが,今年は三カ所でミサを捧げることが可能となりました。わたしは東京カテドラルで、11月6日(日)の午後2時から、150名ほどの方々とミサを捧げ、先に亡くなられた兄弟姉妹の永遠の安息のために祈りました。

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以下、当日のミサの説教の原稿です。

東京教区合同追悼ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年11月6日

イエスはキリストです。わたしたちはそう信じています。ですからわたしたちは、神は、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この世界における人生の旅路を歩んでいます。

葬儀や追悼のミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と、わたしたちの信仰における希望が記されています。

同時にわたしたちは、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉を信じています。いつくしみ深い神は、その深い愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれています。

「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約には記されています(119)。

神がご自分が創造されたすべてのいのちが救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられたすべてのいのちを愛おしく思われる神は、その救いがすべての人におよぶことを望まれています。

イエスはキリストです。すべての人をその懐における安息と永遠の命に招かれる救い主です。イエスをキリストと信じるわたしたちには、すべての人がその救いに与ることができるように、その愛といつくしみ、あわれみを、ひとりでも多くの人に伝え分け与える使命が与えられています。

この数年、ただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面しているのですが、賜物である人間のいのちを、まるでもて遊んでいるかのような方法で、暴力的に奪い取る理不尽な事件も続発しています。クーデター後の不安定な状況に置かれているミャンマーや、戦争に翻弄されいのちの危機にいまも直面しているウクライナの人々。戦争に駆り出され、いのちの危機に直面するロシアの人々。尊いいのちはなぜこうも、権力者によってもてあそばれるのでしょうか。

理不尽な現実を目の当たりにするとき、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、わたしたちは、それに対する明確な答えが存在しないことも知っています。同時に、苦しみの暗闇にあって、希望の光を輝かせ、いのちを生きる希望を生み出すことに意味があることも知っています。

この2年半の間、様々ないのちの危機に直面する中で、教皇フランシスコは連帯の重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日の一般謁見で、すでにこう話されています。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」

教皇様は、誰ひとり排除されない社会を実現し、すべてのいのちがその尊厳を守られるようにと働きかけてきましたが、特にこの感染症の困難に襲われてからは、地球的規模での連帯の必要性を強調されてきました。

2019年11月。教皇様はここ東京で、東北被災者に向かってこう言われました。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

暗闇に輝く希望の光は、出会いから生まれ、連帯を通じて強められます。互いに支え合い助けるものとなることの必要性を、教皇様は強調されてきました。しかし残念ながら、連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、この歴史に残る困難の中で、暴力がいのちを危機にさらしています。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。

わたしたちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じこもる排他的集団ではなく、いのちを生かすために互いに支えあう連帯の共同体です。

私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、地上で信仰を生きている私たちの教会が、天上の教会と結ばれていることも信じています。カテキズムには「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」と記しています。

ですから私たちは互いのために祈るように、亡くなった人たちのために祈り、また聖人たちの取り次ぎを求めて祈るのです。そのすべての祈りは、一つの教会を形作っている兄弟姉妹のための、生きた祈りであります。死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちとともに捧げる、いま生きている祈りであります。

わたしたちの人生には時間という限りがあり、長寿になったと言ってもそれは長くて100年程度のことであり、人類の歴史、全世界の歴史に比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間です。

人生には順調に進むときもあれば、困難のうちに苦しむときもあります。よろこびの時もあれば、悲しみの時もあります。人生において与えられた時間が終わる前に、自らの努力の結果を味わうことができないこともあります。仮に私たちのいのちが、人類の歴史の中における一瞬ですべてが終わってしまうとしたら、それほどむなしいことはありません。

しかし私たちは、歴史におけるその一瞬の時間が、実は永遠のいのち一部に過ぎないことを知っています。ですから私たちは、「人生が一瞬に過ぎないのであれば、その中で様々な努力をしたり善行をすることはむなしい」、などとあきらめてしまうことはありません。永遠のいのちの流れを見据えながら、わたしたちは常により良く生きるように努力を生み重ね、この命を懸命に生きたその報いが、永遠のいのちに必ずやつながっていくことを信じています。

互いに支え合いましょう。連帯のうちにともに歩んで参りましょう。愛といつくしみのうちに、すべての人を永遠の命へと招いてくださる主のあわれみに信頼し、支え合って歩み続けましょう。すべての人との連帯のうちに、希望の光を輝かせましょう。

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2022年10月14日 (金)

2022年神田教会堅信式ミサ

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10月9日の主日、神田教会で堅信式ミサを捧げました。20名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

この20名の方の中には、近隣の暁星学園で学ぶ生徒さんもおられ、学校でもしっかりと信徒生徒の信仰養成が行われていることがうかがえます。

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神田教会は、その趣のある佇まいから、結婚式でも有名な教会です。神田教会の歴史は古く、教区のホームページには次のように記されています。

「江戸時代の禁教令と同じく、明治政府もキリスト教を禁じていました。しかし、外国人居留地に進出したパリー外国宣教会の宣教師はやがてこの日本にも再び宣教が行われる日に備え、明治5年に三番町に「ラテン学校」を作り、諸外国語を教えるという名目で、将来の法人司祭育成の苗床を作ったのです。明治6年2月24日、ようやく明治政府もキリスト教禁令の高札をおろし、キリスト教を黙認することとな った。明治7年1月手狭な三番町より神田の地に移り、三つの旗本屋敷を購入し、その70畳敷きの大広間を聖フランシスコ・ザビエルに捧げた聖堂としたことが、現神田教会の礎となりました」

その後、関東大震災で聖堂は焼失し、現在の聖堂は1928年の建造されたものです。戦時中の空襲も免れ、焼失した関口教会に変わり、一時司教座が置かれていたこともありました。東京教区の中でも歴史のある教会の一つです。下の写真、堅信を授けるわたしの後ろに掲げてあるのは、土井枢機卿様の紋章です。

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以下、当日のミサ説教の録音を起こしたものを手直しした原稿です。子どもたちが大勢だったので、できる限りそのように話したままに書き起こしてあります。

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神田教会堅信式@年間第二十八主日
2022年10月9日

堅信の秘蹟を受けられる方々に、こころからお慶びを申し上げます。

堅信の秘蹟については、学校でも教会でも勉強をしてこられたと思いますけれども、聖霊をいただく秘蹟、聖霊によって力付けられて信仰を強めていただく秘蹟です。でも、堅信の秘蹟だけが独立してあるわけではなくて、それは洗礼の秘蹟があって、そしてご聖体をいただく聖体の秘蹟があって、そして堅信の秘蹟があるという、この3つで1つのセットになっているんですよね。

言ってみれば、一人前のキリスト信者になる。一人前のキリストの弟子になるための、一連の、3つの秘蹟です。ですから、洗礼の秘蹟を受け、ご聖体をいただき、堅信の秘蹟を受けることで、「一人前のキリスト者」がここに誕生するということになります。

昔は「キリストの兵士になる」という言い方もしました。いまは、「大人の信仰者になる」、「成熟したキリスト者になる」とか言いますけれども、今日、堅信の秘蹟を受けられる方々は、これで「一人前のキリスト者になる」ってことなのです。それが今日です。

学校であれば、小学校6年間、中学3年、高校3年、大学4年、学校に通って卒業すると、卒業証書をもらって、これで学校を卒業しました、資格を得ましたと、大学院を出れば博士になりましたとか、資格をもらってそれで修了です。卒業式に出て卒業証書をもらって、明日からまた学校に行こうと、普通は思わないですよね。学校との縁は切れるわけではないものの、学校に行くことはなくなって、あとは同窓会とか何か行事があるときに呼ばれて行くとか、そうゆうことだけで、日常生活の中では目に見える形での関わりはなくなる。

でも教会は、洗礼を受けて、ご聖体をいただいて、堅信の秘蹟を受けて、一人前のキリスト者になりました、はい、これで卒業です、ではないんですね。もうこれで教会には来なくていいです、学ぶ期間は終わり資格を得たからこれで卒業します、明日からもう教会に来なくていいです、という卒業式ではないんです。実は今日が、始まり。今日から始まるんです。

一人前のキリスト者になるというのは、勉強が終わって卒業することではなくて、これからしなくてはならないことに挑戦するという義務を、負うことなんです。これを教会では、「使命を与えられる」と言います。使うという字に命と書いて、使命。神様から使命を与えられる。使命というのは命令です。命令を与えられる。これこれこうゆうことをしなさいという命令を与えられる。ミッションです。

映画で「ミッション・インポシブル」というのがありますね。あのミッションが、使命です。何かをしなさいという命令です。
で、この使命を与えられるんです、今日。だから、これで教会と縁が切れて、さよならということではなくて、今日、使命を受けて、これから一緒に歩んで行く人生が始まる。

じゃ、いったいどうゆう使命が与えられているのか。
それは、イエス様が十字架の上で亡くなってご復活をしたあと、最後に弟子たちに現れ天に上げられて行くとき、その最後に言い残した言葉は、いったい何か。それは、全世界に行って福音を宣べ伝えなさい。わたしが伝えた良い便りを、すべての人に伝えてゆきなさいでした。
これを、福音宣教の使命と言います。福音を宣べ伝えることを、使命としてわたしたち一人ひとりは与えられているのです。

しかし、福音を宣べ伝えるからといって、今日、これで堅信式が終わったら、イエス様についてたくさん喋らなきゃとか、そうゆう、喋ることでは、実はないのです。

福音を宣べ伝えるといるのは、わたしの生き方、毎日の生活の仕方、人との関わり、他の人たちとの交わす言葉を通じてなのです。わたしの行いとことばが、イエス・キリストの教えたことに基づいているのかどうか、というところが一番重要なんです。

つまり、今日、堅信を受けたことによって、これからわたしたちは一人前のキリスト者として、自分の語ること、自分の行いを通じて、イエス様の教えのあかしをしてゆく。イエス様が教えたことを具体的に目に見えるものにしてゆく。

例えば、困っている人がいたら助ける、悲しんでいる人がいたら慰める、喜んでいる人がいたら一緒に喜ぶ、話を聞いてほしい人がいたら話を聞く、さまざまなことが考えられますが、基本は一緒になって歩んで行くということ。

皆さんの毎日の生活の中でのことばと行いを通じて、イエスキリストの教えたことをぜひともあかししていってほしいと思います。

もちろん、たぶん、そうは言っても、そんなことは簡単にできないよと、思いますよね。だから堅信の秘蹟なんです。自分の力ではできないです。人間の力ではそんなことはできない。だからこそ、神様の力が働くように、聖霊が堅信の秘蹟によって与えられるんです。

覚えているでしょうか、最初の聖霊降臨の出来事です。五十日祭の日、弟子たちは、イエス様が死んだあと、迫害を恐れてみんな家に隠れていたんですよ。隠れて、みんなに見つからないようにしていたところに聖霊が降って、その瞬間から彼らは、すべての人が理解することばでイエス・キリストについて語りはじめた。ガラッと、180度人生が変わって、それまでは怖くて隠れていた人たちが、自分のことばと行いで、イエス・キリストについて語るようになった。それはどうしてか、聖霊が降ってきたから。

つまり聖霊は、わたしたちが恐れて、そんなことはできない、イエスについて語る、イエスの教えに基づいて生きるなんてことは難しいと思ったとき、でも、そうしたいと思う心もある。それを後ろから支えてくださるのです。私たちの前向きな心を支え、力付けてくださるのが、聖霊の恵みです。

だから、堅信の秘蹟を受けたからといって、今日急にスーパーマンみたいに、堅信の秘蹟が終わったあとに変わって、素晴らしい人になっているということではないんです。そうではなくて、そうなりたいと思う自分の気持ちを、聖霊が後ろからしっかりと支えて、後押しをしてくださる。その後押しは決してなくならない。神様は、イエス様は、常にわたしたちとともにいてくださると約束をされているのです。わたしたちの人生の間、道を踏み外そうが真っ直ぐ歩いていようが、神様は後ろからしっかりと、聖霊の息吹を持って、わたしたちを支え続けてくださるんだということを、ぜひこころに留めておいていただきたいと思います。

今日の福音で、10人の人が皮膚病から癒やされて、9人の人が帰って来なかったけれど、1人だけイエスのところに帰って来たと言う話が記されていました。

それはものすごく大切なことです。神様によって救われるということは、そうした困っていることが解決する、つまり皮膚病が治る、困っていることが解決してよかった。それで終わり、万々歳ではないんです。

イエス様が仰っているのは、それだけじゃないんだと。そのあとに、神とともに一緒にいることが、つまりサマリア人だけが戻ってきたわけですけれども、イエスとともにいるのか、イエスとともに歩もうとしているのかが大切だと。だからわたしたちは、いったい何に軸足を置いて生きて行くのかということを、しっかりと見極めなさい。わたしのことばの上に、わたしの教えたことの上にしっかりと立って、いつも私と歩み続けなさいと教えていると思います。自分の勝手な思いだけで,問題は解決した、万歳、これで楽しい人生になるとどこかに行ってしまうのではなくて、常にイエス様の御許にしっかりと立って、その言葉と行いを自分のものとして、これから生きてゆかれるよう、
堅信を受けられた方々はぜひ心に留めて、これからの長い人生をしっかりと歩んでいただけたらと思います。

 

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2022年10月11日 (火)

カトリック大森教会創立100周年感謝ミサ

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大田区にあるカトリック大森教会が、創立100周年を迎え、感謝ミサが、10月10日に捧げられました。

大森教会の創設の歴史は、東京教区のホームページにこう記されています。

「アルベルト・ブルトン師は、アメリカ合衆国在留日本人の宣教にたずさわっていたが、再び日本国内で宣教を行うため、帰朝した。レイ東京大司教は、品川と横浜間に教会がなかったので、その付近に教会をつくるよう希望した。ブルトン師は大井町に、大阪の事業家の援助で社宅を無料で借り受けた。1921年8月28日、訪問童貞会(後の聖母訪問会)の2名の修道女と共に幼稚園、医院を開設し宣教活動を開始した。小さな聖堂のミサには、近所の信者が集まった。修道会の発展に伴い建物が狭くなったので、省線 (JR)大森駅と京浜電車八幡駅に通じる目抜き通りに面して土地を購入した」

ブルトン神父様は、いまの聖母訪問会の創立者となります。大森教会の歴史全体についてはこちらのリンクをご覧ください

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この写真にあるように、ジャルディニ大司教が大森教会を公式に訪問した1922年7月2日を、創立の日と定めています。

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大森教会の皆様、おめでとうございます。またこの100年間、教会共同体を育み、ともに歩まれた司祭、修道者、信徒の皆様に、心から感謝申しあげます。次の100年を目指して、時のしるしを識別しながら、新たな歩みを、勇気を持って始められるよう期待するとともに、聖霊の導きを祈ります。

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ミサの終わりには、教区内各小教区から送っていただいた小石を配置した十字架の祝福と、鐘の祝福を行い、祝福後に一突きした鐘の音は、聖堂内に低く響き渡り、新たな100年の始まりを告げました。この鐘は教皇ピオ11世から1930年に東京の神学校に贈られたものですが、その後戦時中の紆余曲折を経て、戦後復興のシンボルとして土井枢機卿様が大森教会に贈られたものです。

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説教の終わりでも触れましたが、教皇様の「野戦病院であれ」と言う呼びかけを、具体的な活動に生かしているのも大森教会の皆さんです。特に今般の事態の中で、食料を提供するフードパントリーの活動は、地域社会からも評価されています。これからもこういった活動を、地道に継続して行かれることを、期待しています。なお大森教会のフードパントリーの活動については、こちらに記事があります。(教区ニュース380号の中段あたりです

以下、本日の感謝ミサのために用意した説教原稿です。

大森教会創立100周年感謝ミサ
2022年10月10日

大森教会の創立100周年にあたり、皆様に心からお祝いを申しあげます。

教区の歴史に記された100年前の出来事を読むと、アルベルト・ブルトン師は、当時のレイ東京大司教が、品川と横浜間に教会がなかったので、その付近に教会をつくるよう希望され、その出発点は、小さな聖堂と、幼稚園と医院であったと記されています。100年前の日本における福音宣教のパイオニアの時代には、教会は福音を教育と福祉を通じて広く告げしらせました。大森教会もその流れの中で、初期から幼稚園と医院とともに、歩み始められ、その後の戦争の時代も経て、現代からは考えられない様々な困難に直面しながら、それを乗り越え、福音をあかししてこられました。

教区ホームページに記されている歴史には、こういう記述もありました。

「近くの埋め立て地に捕虜収容所があったが、当時主任司祭であった下山神父は、捕虜たちの救霊のため収容所に通い続けた。終戦後、開放された捕虜たちは本国に帰り、日本の教会復興のため多大の援助をした。大森教会は、戦後復興した東京教区第1番目の教会となった」

現代の教会は、教皇フランシスコの元で、連帯による支え合い事がいのちを守る道であると説きますが、すでにこの戦乱と混乱の時代に、国籍を超えて兄弟姉妹としての連帯をあかしする歩みを、大森教会は歩んでおられました。

いまでも教会とともにある幼稚園や、戦後の混沌とした時代に発展したスカウト活動などとともに、これからも福音をあかしする活動を続けて行かれることを期待しています。

わたしたちは今、歴史に残る困難に直面しております。

新型コロナ感染症の蔓延は、未知の感染症であるが故に、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込みました。わたしたちはすでに2年以上にわたって、出口が見えないまま、まるで闇の中を光を求めて彷徨い続けているかのようであります。

教会も、さまざまに対応してきました。なんといっても、当初から、密接・密集・密閉を避けるようにと呼びかけられているのに、教会はその三つの密のオンパレードでありますし、ましてやミサなどになれば一緒になって大きな声で聖歌を歌ったりいたします。換気も容易ではありません。

大げさなようですが教会は、いまアイデンティティの危機に直面しています。なにぶんこれまでは、日曜日にできる限りたくさんの人が教会に集まってくれるようにと働きかけてきたのです。この教会という場所に集まることが、共同体なのだと思っていました。少しでもミサに参加する人が増えることが、宣教の成功だと思っていました。

それが今、教会にはなるべく来ないでくれと呼びかけたり、集まってもなるべく離れ、一緒に聖歌も歌わないでおります。そのような中で、教会共同体というのは、そもそもいったいどういう意味を持つのだろうかと、自らに問いかける日々が続いています。

もちろんわたしたちは、以前から教会というのは単に聖堂という建物のことだけではないと学んできました。第二バチカン公会議は教会憲章において、教会はまず第一に「神の民」であると指摘し、その上で教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)と教えます。教会は神の民という共同体のことであり、その共同体は、「神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具」として、この地域に存在しています。

わたしたちは、実際に集まることが難しい中で、互いの信仰における絆を確認するように促されています。それは、実は、大きな変革のチャンスを与えられていることではないかと感じています。これまでは教会共同体の一員となると言えば、何か役職を担って貢献することが重要と考えてしまいがちでしたが、集まることが難しいいま、そのこと自体が成り立ちません。成り立たないからこそ、集まれなくても共同体であるとはどういうことかを見直すチャンスです。

何がわたしたちを結びつけている絆でしょうか。何がわたしたちを、この地域において、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしと道具」にしているのでしょうか。すべての中心には、主イエスがおられます。わたしたちの真ん中に現存しておられる主への信仰、一人ひとりの主への思いが、わたしたちを結びつける絆です。

教会に集まることが難しい今だからこそ、その絆に信頼し、わたしたちとともにおられる主に励まされて、わたしたちは自分の生活の場へと「出向いていく教会」として、「神との親密な交わりと一致」をあかしする神の民でありたいと思います。

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教皇フランシスコの語られる「出向いていく教会」は、神の言葉が人となられてわたしたちのうちにおいでになったという救いの業の行動原理に倣う、教会のあるべき姿を表しています。闇雲に出向いていくのではなく、助けを必要としている人のもとへと出向いていく教会であります。孤立しいのちの危機に直面している人のもとへと、出向いていく教会であります。

コロナ禍のもたらす疑心暗鬼の暗闇の中で、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、教皇様は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する神の民であるようにと呼びかけておられます。とりわけ教会が、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと呼びかけ、東京ドームのミサでも、「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と力強く呼びかけられました。

疑心暗鬼の暗闇の中で不安に苛まれる心は、寛容さを失っています。助けを必要としているいのちを、特に法的に弱い立場にある人たちを、いのちの危機に追い込むほどの負の力を発揮しています。わたしたちは神からの賜物であるいのちを守る、野戦病院でありたいと思います。

教会共同体は、その体の一部である一人ひとりが、それぞれの生活の場で神のいつくしみをあかしする言葉と行いに忠実であることによって、出向いていく教会となります。わたしたちのあかしするいつくしみの言葉と行いは、個人の業ではなく、共同体の業です。わたしたちは、共同体で受けた神の愛といつくしみを心にいただき、それをそれぞれが生きる場で分かち合うのです。

五つのパンと二匹の魚を目の当たりにした弟子は、主に向かって、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と断定します。人間の常識に従えば、当たり前の判断です。しかし神はそれをひっくり返されます。

いま教会はともに歩む道・シノドスの道をともにしていますが、2021年9月初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っているという凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されています。これまでのやり方に固執することなく、勇気を持って新しいあり方を模索することは、教皇フランシスコが教会にしばしば求められる道です。

次の100年のあゆみを始めた大森教会も、聖霊の導きに信頼して、神の呼びかけをしっかりと識別し、過去にとらわれずに、大胆に自らのあり方を見つめ直し、勇気を持って出向いていく教会であり続けますようにお祈りします。

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2022年10月 9日 (日)

2022年受刑者とともに捧げるミサ@麹町教会

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この時期に恒例となりつつある受刑者とともに捧げるミサが、今年も、特定非営利活動法人マザーハウス(理事長:五十嵐弘志さん)の主催で、10月8日午後2時から、カトリック麹町教会でささげられました。

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今年もまだ、感染症の状況が続いているため、聖堂を一杯にはできませんが、それでも多くの方が参加してくださり、聖歌はイエスのカリタス会シスター方が歌ってくださいました。わたしが司式をし、駐日教皇庁臨時大使(教皇大使は現在出張中で不在のため)である参事官のファブリス・リヴェ師、イエズス会の小山神父様、さいたま教区の藤田神父様、大司教秘書のオディロン神父様で、ミサを捧げました。

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昨年も引用しましたが、マザーハウスのホームページには、このミサについて次のように解説が掲載されています。

「教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」中の2016年11月6日(日)を、「受刑者の聖年」と定め、受刑者やその家族のため、そして刑務官や教誨師を含め、刑務所の内外で受刑者の支援に携わっているすべての人・機関のために祈るよう呼びかけました。理事長の五十嵐は、社会の人々と刑務所にいる受刑者が共に祈ることで孤独と犯罪から解放されると考え、菊地功大司教に受刑者と共に捧げるミサの司式を要請し、2018年10月に菊地功大司教とローマ教皇庁大使館の大使チェノットゥ大司教の共同司式にてミサを開催し、毎年、実施しています」

以下、このミサのために用意した説教の原稿です。

受刑者とともに捧げるミサ
2022年10月8日
聖イグナチオ・麹町教会

今年の受刑者とともに捧げるミサでも、昨年と同じようなことを言わなくてはなりません。昨年の今頃の楽観的な推測は裏切られ、いまだ感染症の状況から抜け出すことができずにいます。2020年2月頃から始まって今に至るまで、暗闇の中で過ごしています。なんとか抜け出したいともがいています。しかしもがけばもがくほど、わたしたち人間の知恵と知識には限界があることを思い知らされます。目に見えない小さな存在であるウイルスに、わたしたちは翻弄されています。これが人間の限界です。わたしたちはこの世界を生み出した神様の偉大な力の前で、自分たちがどれほどちっぽけなものかを思い知らされています。偉そうに、思い上がり、何でも自分の力でできるとばかりに生きてきた、その生き方を振り返り、すべての造り主、つまりこの私たちのいのちを生み出し与えてくださった神の前で、謙遜にこれまでの生き方へのゆるしを願いたいと思います。

簡単には抜け出すことができない困難の中で、わたしたちが選択するべき道はただ一つです。それは、互いに支え合い助け合う「連帯」の道です。

教皇フランシスコは、感染症の困難が始まった最初の頃から、しばしば連帯の必要性を強調されてきました。

例えば最初の頃、2020年9月2日に、教皇様はこう話されています。
「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です。」
 しかし残念なことに、「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。わたしたちの限界です。

調和を求めるがあまりに、みんなが同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。様々な人がいて当然だからと多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は、言葉で言うのは簡単ですが、実際に行動に移すのは容易ではありません。

その証左の最たるものは、いまウクライナで起こっている戦争です。

この半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、どうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちに引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調し、暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、いのちの創造主である神への挑戦です。

いま世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することであり、神の愛を身に受けて、自分のことではなく他者のためにその愛を分かちあう生き方です。

いのちの尊厳をないがしろにする人間の暴力的な言葉と行いにひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、いのちを賜物として与えられた、わたしたちの使命です。

ご存じのように、いま宗教の意味が問われています。カトリック教会自身も、自戒の念を込めて振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、「良心に反して行動することを強いられたり、共通善の範囲内で、良心に従って行動することを妨げられては」ならないとカトリック教会は教えます(カテキズム要約373)。「共通善」というのは、一人ひとりが与えられたいのちを十全に生きる事のできる社会を実現するための、皆に共通な社会生活の条件であり、わたしたち宗教者は、社会におけるその行動が共通善に資するものでなくてはなりません。

宗教は、いのちを生かす存在でなくてはなりません。希望を生み出す存在でなくてはなりません。従ってその宗教を生きる宗教団体が、いのちを奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、いのちの希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

わたしたちはどうでしょう。キリストはいのちを生かす希望の光であり、わたしたちはそもそもこのいのちを、互いに助け合うものとなるようにと与えられています。わたしたちはすべての人の善に資するために、いのちを生かす希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。

先ほど朗読されたマタイによる福音には、イエスご自身の厳しいけれども励ます言葉が記されています。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」で始まる一連の言葉は、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と続いていきます。

わたしたちの人生が、すべてを創造し支配しておられる神の掌の中にあるのだということを明確にするこの言葉は、同時に、「あなた方の髪の毛一本残らず数えられている」と述べることで、創造されたいのちは、一つたりとも神から忘れられていないことを明確にします。つまりわたしたちは神の裁きを恐れて生きるのではなく、神の愛による配慮の中で生かされているのだから、こそこそと暗闇になくれることなく、堂々と光の中で、希望を掲げて生きなくてはならないことを教えています。

不安の暗闇の中に生きているわたしたちは、ともすれば神が沈黙しているのではないかと恐れに駆られますが、イエスの言葉は、わたしたちが神の愛の中で生かされていることをはっきりと告げています。神はわたしたちと常に共におられます。わたしたちがその光を闇の中で高く掲げることを待っておられます。

今日このミサを捧げながら、過去を顧み許しを求めている人に善なる道が示されるように、祈りたいと思います。

同時に犯罪の被害に遭われた方々の、心と体のいやしのために、祈ります。

さらには、加害者のご家族、また被害者のご家族の方々の、いやしと生きる希望のために、祈りたいと思います。

そして、すべての人が神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に支援の手を差し伸べるすべての人のために、心から祈りたいと思います。キリストに従うわたしたち一人ひとりが、神が望まれるより良い道を、互いに支え合って、歩み続けることが出来ますように。

なお、NPO法人マザーハウスのYoutubeチャンネルから、ミサの録画をご覧いただけます。こちらのリンクです。

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2022年9月30日 (金)

寺西英夫神父様葬儀ミサ@東京カテドラル

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9月26日朝に93歳で帰天された、東京教区司祭フランシスコ・ザビエル寺西英夫神父様の葬儀・告別式ミサが、本日9月30日午前10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われました。

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寺西神父様の略歴については、こちらの教区ホームページをご覧ください。10年ほど前から現役を退かれて、ペトロの家で隠退生活を送っておられましたが、最後まで力強く、特別な介護を受けることもなく、昼食のビールと夕食のお酒を欠かさず、お過ごしでした。ただこの2年は、コロナ対策のため、信徒の方々の勉強会などもキャンセルになり、8月にはコロナに感染して短い期間でしたが入院もされ、体力が落ちていたところでした。

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小教区主任司祭と神学院院長を経験されていますから、多くの方が影響を強く受けられたことだと思います。本日の葬儀ミサは、親族の方々と司祭団に限定されたミサでした。本来であれば、聖堂は一杯になったことだったろうと思います。盛大にお見送りができなかったこと、それが残念です。

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なお今日のミサには、横浜教区の梅村司教様、そして幸田司教様のお二人も参加してくださいました。

寺西神父様の、永遠の安息を祈ります。

以下、本日の葬儀ミサの説教原稿です。

フランシスコ・ザビエル寺西英夫師葬儀ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年9月30日

御父のもとへと旅立たれた寺西英夫神父様は、東京教区の司祭として多くの教会で司牧にあたり、数多くの方々と信仰における霊的絆を深く結ばれました。また東京カトリック神学院の院長として東京教区のみならず、全国各地で働く司祭の養成に深く関わり、大きな影響を残されました。

小教区での出会いにしても、神学院での出会いにしても、1958年からの64年におよぶ司祭として奉献された人生でありましたから、東京教区の司祭・信徒をはじめとして、全国の多くの方がそれぞれの思い出を持ち、また心に刻まれたかかわりがあったことだと思います。

寺西神父様の永遠の安息を祈るこの葬儀ミサでも、そういった思い出をお持ちのどなたかに説教をお願いしようとも思いましたが、それぞれの思い出が数多くまた深くあることを思い、この数年間の短いかかわりではありましたが、わたしがお話をさせていただくことにしました。

寺西神父様は、1929年4月5日に誕生されていますから、今年の誕生日で93歳となっておられました。この10年近く寺西神父様もお住まいであったペトロの家では、お住まいの神父様方のために、毎年の誕生日の夕食にちょっとしたごちそうを用意して誕生会をしています。寺西神父様には、必ずお気に入りのワインやお酒を持ってこられ、皆に振る舞って回るのが、誕生会の恒例でした。その食事の最後に必ずローソクがともされたケーキが用意されています。わたしもできる限り参加して、ロウソクの火を吹き消される神父様方の写真を撮っているのですが、あらためて寺西神父様が誕生ケーキを前にしている写真を数年分見ましたが、ご存じのようにいつものように厳格な表情をされている写真ばかりでありました。

今年の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」メッセージに、教皇様はこう記しています。

「老いて白髪になっても、主はいのちを吹き込み続け、わたしたちが悪に打ち負かされることがないようにしてくださいます。主を信頼するならば、ますます主を賛美する力を得(14—20節参照)、そうしてわたしたちは、年を取ることは、肉体の自然な衰えやどうにもならない時の経過であるだけでなく、長寿というたまものでもあると気づくでしょう」。

その上で、齢を重ねることの意味をこう記します。

「主の存在に気がつけるよう感覚を研ぎ澄ますことで、わたしたちは「神の家にある生い茂るオリーブの木」(詩編52・10参照)のように、そばで生きる人たちにとっての祝福となるのです」。

様々な役職から引退され、ペトロの家で過ごされていた寺西神父様も、その日々の生活を通じて、「生い茂るオリーブの木」のように、周囲に祝福を与えておられたと思います。

教皇様はメッセージの終わりで、特に高齢の方々に向かって、こう呼びかけています。

「今のこの世界においてわたしたちは、優しさ革命の担い手となるよう招かれています。わたしたちが手にしたもっとも尊い道具、わたしたちの年代にもっともふさわしい道具を、もっとたくさん、もっと上手に使うことを覚え、それを果たしていきましょう。その道具とは、祈りです」。

コロナ禍の中で、信徒の方々を集めてのお話などの機会が制限され、外へ出る機会も極端に減り、今年に入ってからは、日課とされていた構内の散歩も少なくなってきたと感じておりました。それでも93歳という年齢にもかかわらず、かくしゃくとされ、杖をつかれてはいましたが、朝のミサに始まり、食事にも出てこられ、昼にはビールを一缶、夕には日本酒を欠かさず、力強く生活を続けておられました。ただ、今年の4月の誕生日の写真を見て気がつきましたが、その頃から、徐々に力を失いつつあるようにお見受けしました。その中で、今年の8月半ばに新型コロナに感染され、短い期間でしたが入院されたことが、一段と神父様の体力を奪ってしまったのかと思います。もっとも最後まで特別な介護などを必要とされることもなく、9月26日の朝食に出てこられないことから、ペトロの家の職員が部屋を訪れると、すでに帰天されておられました。

人生のそれぞれの段階で、与えられたいのちの持つ力を十分に発揮し、与えられた使命を忠実に果たし、最後まで走り抜いた忠実な司祭の人生であったと思います。最後まで祈りの力を見せつけた人生であったと思います。司祭が生涯を通じて与えられた使命に忠実に生きる姿は、勇気を持って神からの呼びかけに応える姿を、模範として示しています。

司祭は叙階の秘跡によって、「最高永遠の祭司であるキリストにかたどられて、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別される」とカテキズムには記されています。すなわち司祭には、三つの重要な役割、すなわち「福音を宣教すること」、「信者を司牧すること」、そし「神の祭礼を執行する」と言う役割があります。

寺西神父様の司祭としての長年の働きも、福音を宣教し、信者を司牧し、神の祭礼を執行することに忠実な歩みであり、主イエスの存在を具体的にあかしする人生であったと思います。隠退生活を送るなかにあっても、生涯にわたってそのときにできる三つの務めすべてに忠実に生きる司祭の姿は、「生い茂るオリーブの木のように」、すべてのキリスト者にとって、特にわたしたち司祭にとっての模範であり、祝福です。

寺西神父様は2011年5月の教区ニュースのインタビューで、司祭生活を振り返って次のように語ったと記録が残されていました。

「戦争の前後の変化、60年安保のエネルギー、第2バチカン公会議による変化など、おもしろい時代を生きてきたな、と思うよ。今の時代は教会だけでなく、社会全体も閉そく感の中にあると思うし、大震災の復興という大きな課題と向かい合って行かなければならないけれど、一つのチャンスと受けとめたらいいね。僕は、今の状況よりもひどい状況を経験しているから、そう言えるよ。そのためには閉そく感に穴を開けるような工夫と気概が必要だし、でも同時にどこか少し離れた所から物事を見つめる余裕も大切にしないとね」

教会と社会の閉塞感は、10年前に比べてなおいっそう激しくなっているようにも思います。教会にあっても、社会にあっても、その閉塞感に穴を開けるような「工夫と気概」を、わたしたちは持ち合わせているでしょうか。同時に『少し離れたところから物事を見つめる余裕」を、心に持ち合わせているでしょうか。

この二年ほどのコロナ禍の中で、連帯は忘れ去られ、自らの命を守ろうとするがあまり、自分中心利己主義が、様々なレベルで深まってしまったように感じます。孤立と孤独も深まりました。閉じ込められてしまった中で、光を求めてもがいているのが現実です。心を落ち着けて、互いに手を繋ぎあい、連帯の中でその暗闇を打ち破る事が必要な時代にわたしたちはいま生きています。

限りない計らいのうちに、神は善なることを計画され、そのために司祭の人生をご自分がよしとされる方法で使われるに違いありません。わたしたちに先立って御父のもとへと旅立たれる先輩の司祭たちの生涯を振り返るとき、神様はその福音が少しでも広まり、ご自分が創造されたすべてのいのちが尊厳を守られ、救いに与るようにと、さまざまな配慮を、その司祭の人生を通じてなされていることに気がつかさせられます。

寺西英夫神父様の永遠の安息を祈ると共に、わたしたちもその模範に倣い、福音をあかしする道を歩んで参りましょう。

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ケルン教区代表団、東京訪問中です。

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ケルン教区の司教総代理であるグィド・アスマン師を団長とした代表団が、この一週間、東京教区を訪問中です。

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代表団は全部で6名。聖職者は団長のアスマン師のみで、他は国際支援を行う普遍教会部門の責任者や青少年担当、教育部門担当などの信徒の方々です。10月5日まで滞在され、これまでケルン教区から支援してきた各所を訪問すると同時に、将来的なケルンと東京教区の関係について、意見交換をすることになっています。

昨日、9月29日の夕方5時から、参加者を限定しましたが、歓迎のミサをカテドラルで捧げました。ケルンと東京の姉妹関係、そしてミャンマーへの支援につながった道筋などは、以下の説教で触れています。

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代表団は、支援する上智大学などを訪問し、またドイツ大使館での行事などもありますが、日曜日には中目黒のドイツ語共同体のミサに参加した後、夕方6時からは築地教会でミャンマーのための平和の祈りに参加されます。また月曜日には、東京教区の司祭評議会のメンバーと会談したり、神学院を訪問する予定です。

以下、カテドラルでの歓迎ミサの説教原稿です。

ケルン教区訪問団歓迎ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年9月29日

聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルの祝日に、ケルン教区からの訪問団をカテドラルに迎え、共に感謝の祭儀を献げることは、東京教区にとって大きな喜びです。

2020年初頭から続いているコロナ感染症は、当初の予想とは大きく異なり、3年目に入ったいまでも、完全に治まってはいません。ヨーロッパと日本では事情が異なっているので、ケルンから来られた皆さんには戸惑いもあるやと思います。皆さんを迎えて、この聖堂に多くの人が集まることができないのは残念です。しかし、霊的な絆における兄弟姉妹としての繋がりを思い起こし、ケルン教区を代表する皆さんに、心から東京教区の感謝を伝えたいと思います。

天使たちが、神の愛を具体化する霊的存在として、常にわたしたちと歩みを共にしてくださるように、ケルンからの訪問団の存在は、目に見える形で、ドイツの兄弟姉妹の皆さんが、日本の教会と歩みを共にしてくださっていることの、あかしです。わたしたちは、イエス・キリストにおける兄弟姉妹として、これからもともに歩んでいきたいと思います。

東京教区にとって、ケルン教区との繋がりには歴史的な意味があり、その繋がりは物質的な援助にとどまらず、霊的にも大きな励ましをいただいてきました。東京教区のホームページには、こう記されています。

「まだ第2次世界大戦の傷あとの癒えない1954年、当時ドイツのケルン大司教区の大司教であったヨゼフ・フリングス枢機卿は、ケルン大司教区の精神的な復興と立ち直りを願い、教区内の信徒に大きな犠牲をささげることを求めました。そして その犠牲は、東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助をするという形で実現されていきました」

フリングス枢機卿と当時の土井枢機卿との、個人的な出会いも、ケルンと東京の友好関係の始まりであったとも記されています。

もちろんドイツも日本と同様、当時は敗戦国であり、戦後復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではないと思います。ケルンの大聖堂の修復にも取り組まなくてはならなかったでしょう。にもかかわらず、なぜ海外の教会を、なぜ日本の教会を援助する必要があるのかと問われたフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直し自体にも大きく貢献したと伝えられています。

それ以来、東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設をはじめ、東京教区はケルン教区から多額の援助を受けて、さまざまな施設を整えることができました。東京教区の感謝の気持ちは、白柳枢機卿の時代、1979年の両教区友好25周年を契機として、来日した当時のヘフナー枢機卿様と話し合い、今度はケルンと東京が力を合わせて、ミャンマーの教会を支援することになりました。ミャンマーへの支援はいまも続けられており、特にクーデター後の混乱が続くミャンマーのために、平和を祈り続ける原動力となっています。

東京では毎年、1月の第四日曜日を「ケルン・デー」と定め、いただいたいつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身をささげることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげてきました。

ケルンと東京の友好50周年当時のマイスナー枢機卿の書簡には、東京教区への支援を通じて、「私たちの目と心が、世界中の欠乏、飢え、病気に向けて開かれることとなりました。東京教区との、信仰と祈りの生きた共同体が存在しなかったならば、ケルン教区においてその5年後に、全ドイツの司教たちに働きかけて、世界中の飢えと病気に対する教会の救済組織「ミゼレオール」を創設しようとする歩みはなされなかったかも知れません」と記されています。

ケルンと東京の両教区が支援するミャンマーでは、2021年2月1日のクーデター以降、軍政下での混乱が続き、平和を求めて声を上げる人々や教会に対する暴力的な弾圧も続き、7月には民主化運動の指導者たちの死刑も執行されました。暴力を持って他者を従わせ支配しようとすることは、いのちの尊厳への挑戦です。

カテキズムには、「権威が正当に行使されるのはそれが共通善を目指し、その達成のために道徳的に正当な手段を用いるときです。従って、政治体制は国民の自由な決断によって定められ、人々の恣意でなく法が支配する「法治国家」の原則を尊重しなければ」ならないと記されています。(要約406)

残念なことに世界では次から次と暴力的な事態が発生し、社会の関心は移り変わっていきます。世界から忘れ去られたあとに、苦悩に晒された人だけが取り残される悲しみが、幾たび繰り返されてきたことでしょう。わたしたちは、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」という教皇ヨハネパウロ二世の広島での言葉を心に刻み、姉妹教会であるミャンマーの方々のことを忘れることなく、平和の確立を願いながら、祈り続け、行動したいと思います。歩みをともにすることこそ、いま一番大切であり、それはわたしたちがケルン教区と歩みを共にしてきた経験から学ぶことができます。

3年目に入っている感染症の状況の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。

しかしながら、特にロシアがウクライナに侵攻し戦争が始まった今年、そこには調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐が展開しています。互いに助け合い、支え合うことこそが、いのちを生きる希望を生み出すことを、わたしたちは経験から知っています。しかし現実の社会は、全く反対の道を歩み、いのちを奪い続けています。

本来宗教は、賜物として与えられたいのちを危機にさらすものではなく、神の秩序の確立を目指して、いのちの尊厳を守り、共通善の実現のために資するものであるはずです。暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、どうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちに引きずり込まれ、宗教者の中にさえ、その暴力を肯定するものがいます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調したいと思います。

いま世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することであり、余裕があるから助けるのではなくて、苦しいからこそ、積極的に支援の手を差し伸べる姿勢であります。

その目に見えるあかしの一つとして、これからもケルン教区と東京教区の連帯の繋がりを、強めていきたいと思います。

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2022年9月20日 (火)

高円寺教会新司祭館祝福式と堅信式

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高円寺教会の司祭館は、2019年1月25日に、火事に見舞われ全焼してしまいました。ちょうど朝のミサの時間帯であったので、怪我をされた方などはおられませんでしたが、主任司祭の蔵書をはじめ多くの貴重なものが失われました。その後、当時の主任司祭であった吉池神父様を中心に再建が検討されました。吉池神父様には、関口のペトロの家から、高円寺教会まで通う毎日が続きました。

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残念なことに、再建計画を検討している最中にコロナの状況となり、また既存の建物の課題も指摘されるなど、もろもろのことが発生して、再建計画は当初の予定よりも遅れてしまいました。

この春からは、高木健次神父様が主任司祭となり、工事も進められ、この度、新司祭館の完成と相成りました。9月18日のミサの前に、前任の吉池神父様にも参加していただき、祝福式を行いました。関係された多くの皆さんに感謝申し上げます。多くの方のご尽力をいただいて、素晴らしい司祭館が誕生しました。

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またこの日は、お昼から堅信式ミサを行い、8名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。

以下、当日のミサ説教の録音から書き起こして、手直しをした原稿です。

高円寺教会堅信式ミサ

このミサの始まる前に、新しく建った司祭館の祝福式をいたしました。3年ほど時間がかかりました。火災で前の司祭館が消失してから、ちょうどコロナの状況になってしまい、なかなか話が前に進まず、いろんなことがありましたけれども、多くの方のご尽力によって今日、やっと祝福の日を迎えることができたのは、本当に大きな喜びであると思います。

教会の中で、聖堂であれ、司祭館であれ、信徒会館であれ、新しい建物が建つときには必ず言われることですけれども、建てるまでは大変なので一所懸命になって働くわけですけれども、いったん建ってしまうと安心してそれっきりになってしまうということがあります。新しくなったものには、そこから新しいことを生み出してゆくというこころを、常にもっていただきたい。

新しい葡萄酒は新しい革袋にということばがありますけれども、新しい建物が建った今日、これからこの新しい建物でこの高円寺教会は、いったい何を新しく生み出していくのかということを、一緒に考えていただければと思いますし、それに対して神様の豊かな聖霊の導きを、ともに祈り続けていただきたいと思います。

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堅信の秘跡を受けられる方々が8人おられると伺いましたけれども、第一の朗読は、聖霊降臨の日、五旬祭の出来事を記した使徒たちの宣教からの箇所でした。

ちょうど今日は、台風が近付いてきていて、外は大雨になり、今はたぶん、今日の中で一番雨が激しい時間帯ですが、雷が鳴って、なかなか落ち着かない。外がゴロゴロしていてやかましくて落ち着かない状況ですけれども、本当はこれこそまさしく聖霊降臨の出来事にふさわしい状況であると思います。

先ほどの使徒たちの宣教をもう一度よく読んでみると、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえて、家中に響いたと書いてあります。そして、あまりにも騒々しいので、みんなびっくりして見に来たと。

聖霊降臨の出来事は、静かに進んでいったのではなくて、やかましい出来事だったと記されています。周りの人たちが驚いて、何事だといって見に来るほどの騒々しい出来事であったことが、この使徒たちの宣教に記されています。

聖書のことばを読むときは、どうしても字面だけを追ってゆくので、実際にどうだったんだろうということを思い起こすことはなかなかないのですけれども、この使徒たちの宣教の五旬祭の出来事は、是非とも頭の中でイメージをしてほしいと思います。

弟子たちは静かに、それまでは隠れていたんですよね。みんな怖くて、イエス様が殺されてしまって、いなくなってしまって、取り残された弟子たちは、周りの人たちを恐れて、静かに隠れていたのです。けれども、そこに聖霊が降って来て、どーんと大きな音で、騒々しい出来事が起こって、多くの人たちが見に来て、そこから福音宣教が始まったと。

ひっそりと隠れているところから福音宣教は始まらなかったんです。騒々しくてガタガタしていて、落ち着かないところから、福音宣教は始まった。そしてその福音宣教が始まるためには、聖霊がそこに豊かに働いていたという出来事が、この最初の朗読だったと思います。

その意味で、こうやって外では雨が降って騒々しくて雷が鳴って落ち着かないですが、まさしく、聖霊が働いているという意味で堅信式にふさわしいお天気であると思います。

教会も人間の集りですから、みんなが仲良く、みんなの意見も一緒で、にこやかに静かに、何事もなく集まっていれば、それは居心地がいいですけれども、でも、聖霊が働いているところは実は居心地が悪いんです。ガタガタしているんです。なかなか落ち着かないんです。

聖霊が働くことによって、いろんなことを考える人たちが、同じ事をみな考えているのではなく、それぞれに与えられた役割、それぞれに与えられた恵み、それぞれに与えられた聖霊の導きがそこにはあって、それがぶつかり合うから、落ち着かないんです。

ですから、聖霊が働いているところは落ち着かない。聖霊が豊かに働いているところほど、ガタガタしているというふうに私は思っています。

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今日、お一人おひとりの上に、堅信の秘跡を通じて豊かに聖霊が注がれます。それは、けっして、これこそが完成したクリスチャンですよという雛形があって、それにぴったしと収まるようなクリスチャンができるということではないんですよ。洗礼、ご聖体、そして堅信という3つの秘跡を受けて、入信の過程は完成するんですけれども、完成したときにはこうゆうクリスチャンが、キリスト者がそこに出来ているというふうな雛形はないんです。みんな違う。それぞれが受けた恵みがそれぞれ異なっているはずなので、違う人たちが、みんな同じようなことを言ってみんな同じようなことを考えているような共同体だったら、聖霊は働いていないんです。

ここで8人の人が聖霊を受ければ、8通りの聖霊を受けたキリスト者としての完成した姿がある。お一人おひとりに、神様は聖霊の力を豊かに恵みを注いでくださるので、一人ひとりが、自分に見合った才能、見合ったタレントをより良く活かし、福音を告げ知らせる者として生きてゆくこと、それが成熟したキリスト者が完成するということだと思います。

一昔前は、堅信を受けることによって、みなキリストの兵士になるという言い方もしましたけれども、それくらい、命をかけてイエスキリストの福音を証しする生き方をしていこうという意気込みが表されたことばだったと思っています。

堅信の秘跡を受けることによって、今日これからお一人おひとりの上に聖霊が注がれるといいますが、でも、急に力が出るとかスーパーマンになるとか、そうゆうことはないんです。皆さんおひとりひとりが福音を宣べ伝えよう、自分に与えられた役割を果たしていこうというその熱意を、聖霊は後ろから後押しをしてくれる、後ろから支えてくれます。

あぁダメだなと思うとき、後ろを振り返って下さい。必ず聖霊がわたしたち一人ひとりを支えて、励ましてくれます。これは確実にそうですので、堅信式を受けるにあたって、これから福音を告げ知らせるという役割を、ゆっくりゆっくり、それぞれの場で、それぞれの方法で、果たしていっていただければと思います。

 

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