カテゴリー「説教原稿」の3件の記事

2022年7月13日 (水)

歴代教区大司教追悼ミサ@築地教会

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築地教会は、かつて関口にカテドラルが移る前、東京大司教区の初代のカテドラルでした。毎年この時期、夏の前に、8名の歴代教区大司教の追悼と感謝のミサを築地教会で捧げることにしていますが、今年は7月10日の主日9時半にささげられました。

日本の教会は「1876年5月22日、日本使徒座代理区は日本北緯使徒座代理区、日本南緯使徒座代理区の2つに分けられた。日本北緯使徒座代理区は横浜(翌年から東京)に代理区長館を置き、北海道、東北、関東および中部の各地方を管轄区域とした」と中央協議会のホームページに記されています。この北緯使徒座代理区の代理区長オズーフ司教は、翌1877年に代理区長館を東京の築地に移しました。この時から、いわゆる築地のカテドラルの歴史が始まります。

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その後1891年に東京は大司教区となり、オズーフ大司教が築地をカテドラルと定めました。1920年、レイ大司教の時にカテドラルは築地から関口に移され、その3年後、1923年の関東大震災で初代の聖堂は失われました。

1927年に現在の聖堂が完成。太平洋戦争末期の東京大空襲の時も、お隣の聖路加国際病院とともに焼失を免れ、現在に至っています。なお聖堂は東京都の歴史的建造物に指定されていますが、数年前に耐震補強工事を行い、内装も新たにされています。

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現在の主任司祭はコロンバン会のレオ・シューマカ神父様。この日は、兼任する潮見教会でのミサのためお出かけで、築地のミサはわたしと秘書のオディロン神父でささげました。

以下、当日の説教の録音から起こした内容を手直しした原稿です。

東京大司教区歴代教区長追悼ミサ
築地教会
2022年7月10日

ミサの冒頭でも申し上げましたけれども、毎年、東京教区の歴代の大司教様がたの永遠の安息を築地教会で一緒に祈り、そして現在の東京教区の礎を築き、歴史を刻んでこられた歴代の大司教様がたのその功績に感謝し、お働きに報いがありますようにと、この毎年のミサの中で祈りを続けたいと思います。

わたしたちはこの東京で、そしてこの日本で福音を述べ伝えてきていますが、伝えようとしている福音は、なかなか多くの人の心には届かない。そういう現実に直面し続けています。

初期のフランスから来られた宣教師の方々もそうでしたでしょうし、そのあと日本人司祭はもちろん、いろんな国からの宣教師の方々が来られましたが、みな同じように、どうしたら多くの日本の方々の心にイエス・キリストの福音を伝えることができるか、試行錯誤を重ねてきました。そして現代社会では、日本人だけに留まらず、この日本という国で一緒に生活をしているすべての人に、どうやったらイエス・キリストの福音を伝えることができるのだろうかということを、どうしても深く考えざるを得ません。

伝えていこう、一人でも多くの人にこの福音を伝えていこう。そういう気持ちが常にないといけない。しかし、社会全体が少子高齢化しているのが現実です。それは教会だけでなく、一般の社会的な組織でも、後継者不足などで組織の縮小傾向にあるんですね。昔若かった人は歳をとり高齢化し、若い人の人口は少ないですから、当然新たに入ってくる人が少ない。そういう現実に直面するとどうしても、今ある組織をどうやったら守ることが出来るんだろうということに集中してしまいがちです。もちろんそれは当然だと思います。

でも、そちらの方ばかり、あえて後ろという言い方が合っているのかはわかりませんけれども、どちらかというと後ろを見てしまうような姿勢であると、時の流れに合わせて前進はしているけれども、どうしてもそれはゆっくりな前進になってしまう。やはり前を向いて、福音を告げ知らせるんだという積極的な思いがなければ、しっかりと一歩一歩を前に進めていくことができないのです。

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この歴代の大司教様がたは、それぞれの時代に、大きな困難に直面しながらも後ろを振り返ることなく、前に向かってしっかりと、歩みを続けて来られた方たちです。今の時代からは考えられないようなご苦労が、明治の再宣教が始まった時代にはあったと思うんですね。その頃に外国からやって来て、この日本で生活をしていくということ自体が、今からでは考えられない大きな挑戦であったはずです。その中で、何が何でも福音のために前進するんだという思いが、今に繋がる、日本の教会の歴史を生み出してきたのだと思います。

ですから、この宣教師の方々、そしてそれを率いた歴代教区長の方々の、その前向きな福音宣教への姿勢を思い起こしながら、今の時代にあってわたしたちも、前向きに福音を告げ知らせるため前進を続けることを忘れずにいたいと思います。

そういう中で金曜日に、元総理大臣の安部晋三氏が、選挙の応援演説中に暴漢に銃撃されていのちを落されるという、非常にショッキングな事件が起きました。賜物であるいのちへの暴力は、神への挑戦です。決してゆるされることではありません。

ご存じのように、政治家としての安倍晋三氏と日本の司教団は、様々な課題で考え方が対極にあり、合意するところはあまりありませんでした。たとえば核兵器廃絶、死刑の問題、憲法の問題など、たぶん目指すゴールは同じなのでしょうが、選択した道は異なると言うことなのだろうと思います。

しかし、その安倍首相が教皇様を日本に招待しようと、積極的に、また長年にわたって尽力してくださったのは確かであり、教皇訪日に関して元首相の功績は非常に大きいものがあったと思います。その意味で、安倍元首相のお働きには感謝しています。教皇訪日の際にも、教皇様と直接会談をされ、核兵器廃絶や平和の確立、環境問題について教皇様と意見を交わされました。

もちろん、そういった課題においても、教皇様と元首相は、目指すところは同じでも、選択する道は異なったと思います。

ただ、個人的な安部元首相への思いとは別に、そもそも暴力をもって人間のいのちを奪い、それによって自分の思いを成し遂げようとすることを、信仰者はゆるすことはできませんし、またどのような宗教であっても、それをゆるしてはならないと思います。あらためて安倍元首相の安息を祈ります。

残念なことに、報道を耳にする限りでは、安倍元首相銃撃事件の犯人の男性は、宗教を理由に挙げているようです。

真の宗教は、人のいのちを奪うことによって何かを成し遂げようとすることではなく、人のいのちを生かすことによって、希望を生み出すことを目的としているのだということを、あらためて強調しなければならないと思います。特に、この2,30年ほどの間、特に21世紀に入ってから顕著ですが、宗教を口実にして人のいのちを奪うという行動が、日本でも、そして世界各地でも、頻発し悲劇を生み出しています。

白柳枢機卿様も理事長を務められたことがありその活動に深く関わられてきた、世界宗教者平和会議という組織があります。この組織には、カトリックも、キリスト教の様々な宗派も、仏教もイスラム教も、諸々様々な宗教の人たちがそこに加わって、世界で平和を求める運動を続けてきているんですね。宗教を口実にして人のいのちを奪うということは決してゆるされないのです。

過去を振り返ってみれば、確かに歴史の中で、宗教を口実とし宗教を理由とし、人のいのちを奪うことがありました。それを深く反省し、そしてその反省の上に立って、わたしたちは信仰をもって生きるということはいのちを生かすことであり、そこから希望を生み出すためである。そのために信仰があるのだと、宗教があるのだということを、世界に呼び掛けていく。そういう活動が、この世界宗教者平和会議という存在であります。

わたしたちは今だからこそ、わたしたちが信じている宗教は、人のいのちを生かす信仰であって、人のいのちを見捨て、奪う信仰ではないということを、あらためて強調しなければならないと思います。

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今日の福音の中に、隣人愛の模範として「善きサマリア人」の話が記されています。
レビ人と祭司は、自分の仲間のユダヤ人を見捨て、自分の都合のために道の反対側を通って行ったと記されています。レビ人もそして祭司も、宗教の都合を理由にして、つまり自分の都合を優先させることによって、いのちの危機に瀕している仲間を見捨てていった。いのちを排除していった。にも拘らず、様々な恩讐を乗り越えてサマリア人は、自分と敵対するユダヤ人に救いの手を差し伸べている。時間を使い、お金を使い、彼のいのちを助けようとした。

信仰は人を助け、いのちを生かし、希望を生み出すものでなければならない、それが隣人愛の根本だと思います。

隣人愛は決して、優しくなりましょうなんていう生やさしい呼び掛けではないんです。隣人愛は、みんなで優しくしましょう、互いに優しくし合いましょうという、感情的な呼び掛けではないのです。それは、わたしたちがどう生きるのか、わたしたちは何を信じて生きるのかという決断を求める教えです。

わたしたちは、人のいのちを奪ったり、人のいのちを排除したり、人のいのちの希望を奪ったり絶望を与えたりする存在ではなくて、人のいのちを生かし、助け、そしてそこから希望を生み出す、そういう生き方が求められているんだと。

だからイエスは全身全霊をもって、心を尽くし精神を尽くし、すべてを尽くして、神に従いなさい、神を愛しなさい、隣人を愛しなさいと。全身全霊を尽くして隣人を愛せよということを、教えられています。

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今日、あらためてこのイエスの言葉に耳を傾けながら、信仰を生きるということを考えましょう。現代社会の中で具体的にどうしていったらいいのか。わたしたちが信仰を生きることで、真摯に生きることで、それを多くの人たちに証ししていくことができます。福音宣教に繋がっていく、この信仰を生きるということをどうしたらいいのか、あらためて考えてみたいと思います。

 

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2022年6月16日 (木)

吉祥寺教会堅信式@三位一体の主日

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今年、2022年の三位一体の主日は、吉祥寺教会で24名の方の堅信式を行いました。

わたし自身の健康状態は、徐々に回復しているとは言え、まだ大きい声を出したり歌ったりすると咳が出てしまうため、吉祥寺教会でのミサも、わたしが唱える部分は全て歌わないことにいたしました。わたし自身のミサ司式における歌唱については、月末の26日の関口教会主日ミサから試してみようと思っています。

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吉祥寺教会のミサは、聖歌隊がしっかりと歌ってくださいました。ミサの始まる前には、聖霊の導きを願いながら、聖歌隊長ともう一人の聖歌隊員が、ラテン語でVeni Creator を歌ってくださいました。この歌は名古屋の神言会の神学院では、毎朝一番に歌う讃歌ですので、聖歌隊長はお手の物だと思います。

堅信を受けられた皆さんには、ミサ後に集まっていただき、それぞれの信仰の歩みを少しずつわかち合っていただきました。ありがとうございます。まだ今の状況で、祝賀会などができなかったのが残念ですが、受けた聖霊の恵みを十分に生かして、その聖霊の後押しを受けることができるように、積極的な信仰生活を歩んで行かれますように。皆さん、堅信、本当におめでとうございます。

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以下、当日の録音から書き起こして、内容を整理した、説教です。また、以下のリンクから、Youtubeで、当日のミサをご覧いただくこともできます。

Youtubeビデオ:吉祥寺教会の三位一体の主日ミサへのリンク

三位一体の主日
吉祥寺教会
2022年6月12日

堅信の秘跡を受けられる24名の方々に、心からお慶びを申し上げたいと思います。

5月の末に新型コロナに感染して陽性になり、10日間隔離状態にありました。熱が出て喉がかなり痛く、今もまだ声がちょっと戻っていないので、歌を歌うことができません。大きい声でお話をすることも難しいので、ボソボソとお話させて頂きます。

このコロナに感染して10日間自宅療養しろと言われて、あらためてですけれども、人間は独りでは生きてゆけないと、誰かによって支えられて生きているんだという、ごく当たり前のことを思い起こさせられました。

元気な時には自分の力で何でもできるので、一人で生きているような思いが募ってきて人間は傲慢になるものですが、実際には、人の命は誰かによって支えられ、生かされ、生きているんだという当たり前のことを、わたしたちは忘れてしまいがちであります。弱ったときやいのちの困難を抱えて生きているときに、はじめて自分の弱さを認めて、目の前に張り巡らしてきたバリアみたいなものが解かれて初めて、他の人が助けてくれているんだということがわかるということなのだろうと感じています。

そもそも、創世記の第2章に記されているように、いのちを創造された神様は、まず一人の人を創造し、彼に合う助けるものを作ろうと仰って、新たなものをさまざまと創造された。けれども、どれもこれも彼を助けるには充分ではなかった。そこで神様は、最初に創造した人からあばら骨を取って、もう一人の人を創造した。

だから人は、互いに助け合うためにいのちを与えられている。逆に言えば、人は独りで生きてゆくことはできないと言うことです。この2年以上にわたって続いているパンデミックの状況の中で、それをわたしたちは思い起こしたいと思います。

教皇様もパンデミックの最初の頃から、連帯することの必要性を仰っていました。この状況からよりよく抜け出すためには、互いに連帯し合わなければならないと強調してこられたわけです。けれども残念ながら、今まさにわたしたちの目の前で戦争が起きています。大国による他国への侵略という戦争が続けられ、連帯するどころか、排斥し排除し、互いに憎しみ合いいのちを奪い合うという状況が今、世界で続いているわけです。

だからこそ、あらためてわたしたちはいのちの大切さと、いのちを護り互いに支え合うことの大切さを、愚直に強調し続けていきたいと思います。

わたしたちはいのちを与えられたものとして、それを忠実に生きてゆく役割、務めが与えられています。それはまさしくいのちの大切さ、そしていのちを互いに支え合って生きてゆくことの大切さを、強調してゆくことに他なりません。

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聖霊降臨の日から、五旬祭の日に聖霊が弟子たちに降ったあの日から始まって今に至るまで、教会は聖霊によって満たされ、聖霊によって導かれ、聖霊によって生かされ、生きています。わたしたちはこの聖霊の働きに信頼をして、それに素直に身を委ねて、教会とともに歩みを続けて行きたいと思います。

今日この堅信の秘跡をもって聖霊を受けられる方たちが、聖香油で十字架の印をされたときに変身してですね、急に変身してスーパーマンみたいになれたら、それはそれでよいですけれども、そうはならない。今まで何人もの人に堅信を授けてきましたが、残念ながら、堅信の秘跡のときにスーパーマンに変わった人は、誰もいません。聖なる油を受けても、同じ人がそのままそこに立っているんです。

じゃ、聖霊の働きって、いったい何なんだろう。聖霊はわたしをガラッと変えてくれるものなんじゃないのか。もしもそういう期待をしているんであれば、そうではありません。

聖霊は後ろから、前に進んでいこうと、前に向かって歩んでいこうと思うこの気持ちを、後ろから支えてくれる存在です。教会は常にそうです。教会が聖霊に満たされ導かれているからといって、誰も何もしないでも、教会が自動的に歴史を刻んできたわけではないですよね。聖霊は、教会自身が聖霊の促す方向に向けて進もうとしているときに、後ろからぐっと押してくれるんです。そうやって教会は歴史を刻んできたのです。ところが教会は人間の集りなので、常に間違いを犯すんですよ。

歴史の中で様々な間違いを犯し、間違った方向に進んでいくとき、そこに聖霊は働かないんです。聖霊が働かないので、方向性を間違えた行いは潰えていくわけです。人間の時間的感覚からいえばその結果がでるには長い時間がかかるように見えるのかも知れません。でも、結局その進んでいる方向は間違っているので、聖霊が後押しをすることもなく、潰えていきます。

教会の歴史はそれを繰り返してきました。人間が聖霊の促しをしっかりと識別し、教会共同体がふさわしくく正しい選択をし、教会が全体として聖霊が促す方向に向かって進んでいるとき、聖霊はその動きを後押ししてくれていると思います。

1965年に終わったあの第二バチカン公会議から今に至るまで、教会は様々な選択を積み重ねてきたわけですけれども、その多くはやはり聖霊の働きによってしっかりと裏打ちをされていて、聖霊の導きに従う歩みであったというふうに思います。

教会は様々な変革を続けながら前に向かって進んできていますが、聖霊の導きがなければ、あっという間にそのような試みは潰えていたことでしょう。今わたしたちはその聖霊の導きに信頼をして、教会の歩みをともにしていこうとしています。教皇様が2023年の来年、シノドスを行うので一緒になって歩んでいこうと、聖霊に素直に身を委ね、聖霊が促す方向に皆で歩んでいこうと呼びかけておられます。特別なことをしようと言っているのではなく、それを教皇様は、伝統的な教会の表現で「信仰の感覚」という言葉を使っています。

信仰の感覚、教会が全体として聖霊に促され一緒になって歩んでゆくときに、教会は誤ることはないと第二バチカン公会議の教会憲章にそう書いてあります。

まさしく今、教会は聖霊の導きに促され一緒になって歩んでいる。誰かが教会の進む方向を勝手に決めて、誰かが一人で引っ張っているとか、教会はそういう組織じゃないんです。誰か凄いリーダーが先頭に立って『オレについて来い』と言って進んでいるわけじゃないんです。我々のリーダーは神様しかおられないので、三位一体の神しかおられないので、その聖霊の促しに皆で促されて、一緒に歩んでいる。それが教会のあるべき姿だと思います。

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今日、堅信の秘跡を受けられる方々もその歩みを共にする、私たちと一緒に聖霊に促されてより相応しい、神が望んでいる世界を生み出してゆくために、ともに歩んでゆく。そして命を大切にし、互いに助け合って生きてゆく。そのことを実践するために、前進するぞという意気込みを、聖霊が後ろからしっかりと支えて下さっている事を信じ、その聖霊の支えを信頼し、信仰生活を歩んで行って頂きたいと思います。

 

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2022年6月 1日 (水)

瀬田・三軒茶屋教会堅信式@瀬田

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皆様のお祈りと励ましのメッセージに感謝いたします。

幸いなことに熱は下がり、喉の痛みも良くなりました。声がまだ本調子でないのと、咳が残っていますが、このまま推移すれば予定通り明日6月2日を自宅療養の最終日にできるかと思います。ご心配いただき、本当にありがとうございます。

ただ、声の戻りもそうですし、多少体力的にまた体調的に不安なところがあるので、完全に復帰できるまでは、今しばらくの猶予をいただければと思います。

さて、療養に入ったために掲載できなかった記事をひとつ。

5月22日、復活節第六主日は、瀬田教会のグラウンドで野外ミサを行い、瀬田教会と三軒茶屋教会の25名の方が堅信を受けられました。ちょっと暑くなりましたが、風も吹いて、さわやかな野外ミサとなりました。

遅くなりましたが、録音から起こして整理した、当日の説教です。

瀬田・三軒茶屋教会堅信式ミサ

復活節第六主日

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こうやって野外ミサをする機会は、なかなかありません。外でのミサですから、換気の必要はないですし、一緒に歌を歌うこともできます。人数も沢山でできるということ。今日、こうやって外でミサができるようになったことを、本当に感謝したいと思います。

こうしてミサを野外で祝いながら、昔のことを思い出していました。わたしは神父になってすぐに、アフリカのガーナという国に8年間派遣されて、小教区の主任司祭をしていました。そこでは3年に1回、司教さんを迎えて堅信式をしていました。

司教さんは一週間小教区に泊って、四回の堅信式をしてくださったのですが、一度のミサで200人くらいの人が堅信を受けました。つまり、800人の方が3年ごとに堅信を受けるくらい、沢山の信徒がおられる教会でした。その堅信式を、やはり野外ミサでしていました。それを思い出していました。ちょうど今日の蒸し暑さも、アフリカのガーナの蒸し暑さと一緒くらいです。大概が雨季の時期に行うことが多くて、午前中は晴れているのですが、午後2時くらいになると雨が降り出すので、それまでに野外ミサは終わらないといけない。それにも拘らず200人もいて、一人一人に司教さんは一人で堅信を授けているので、ものすごく時間がかかります。

今日はこの祭壇の後ろには何もないので後ろまで見えますけれども、ガーナではステージを作って、その後ろについたてのように布でカバーをするのです。

堅信の塗油に時間がかかるので、皆さん、だんだんと手持ちぶさたになるのか、その中でも教会の長老たちが、そのカバーの後ろで、皆から見えないだろうと、ちょっと一杯を始めるのです。

ある年の堅信式で、やにわに風が吹いて来て、その後ろの衝立にしていた布が見事に飛ばされたのです。そしたら当然、後ろに隠れていた方々は見えますよね。後ろで長老たちが酒盛りをしているのが全部見えて、あぁ、さすが聖霊は素晴らしいと。隠されたものであらわにならないものはないと。真実を明らかにする聖霊の力だと言って、ミサ後に皆で大笑いしたことを思い出していました。

それくらい、野外のミサでは、いろいろと想像しないことが起こりえます。今日もこうやって風が吹いているので、何が倒れるかわからないですし、急に強い風が吹いたとしたら、テントも吹き飛ぶかもしれません。まさしくそれが、聖霊が働いているということを、象徴していると思います。

風はいったいどこからやって来てどこへ行くのか、分からない。今は気象予報が発達したので、この方向の風がこれくらいの強さで吹きますということがわかりますけれども、それでも、明確にここから吹き始めて、ここまで行くんですよということは、はっきりとは分からない。風はいったいどこからやって来て、どれくらい強くてどこに向かって行くのだろうと、私たちはいつも不思議に思ってきたのです。そしてそれこそが、聖霊の働きを象徴しているというふうに、信仰の先達は考えた。それは今でもそうだと思います。

わたしたちが想像しないようなことを、風は成し遂げて吹き去って行ってしまう。

どこからともなくやって来て、いろんなものを吹き飛ばしたり、ひどいときにはその場をめちゃくちゃにしたり、そしてどこかに消え去ってしまう。それが、聖霊の働きだと思います。

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いま教皇様は、教会を改革しようと、新しい教会になっていこうと呼びかけて、共に歩んでいきましょうと、シノドスへの参加を呼びかけられています。一緒に歩んで行きましょう。それはまさしく、教会に聖霊が働いて、その聖霊の風のような力で、教会が変えられていくことを願っているんです。けれども、さっきも言ったように風は何をしでかすかわからない。だから吹き荒れる聖霊も、何をしでかすかわからないのです。

間もなく聖霊降臨の祝日が来ます。聖霊降臨の祝日に必ず朗読されるのは、使徒言行録の五旬祭の出来事です。弟子たちが集まって祈っていると、聖霊が降り、弟子たちがいろんな言葉で喋り始め、周囲の人たちみんながやって来て、これは驚いた、凄いと言ったという話であります。

その話を著わすのに使徒言行録を書いた人は、わざわざ「音がした」「激しい音がした」って書いたのです。みんな物音にびっくりしたって書いたのです。

つまり、聖霊が降って働くと、みんなびっくりするようなことになるのです。風が吹いて、予想もしないいろんなことが起こるので、みんなびっくりする。なので、びっくりしないところには聖霊は働いていません。びっくりすることが起こっているところにこそ、聖霊は働いているんです。

その聖霊降臨の日から教会は始まり、わたしたちは同じ聖霊によって今も導かれ、だからこそ教会は生きています。ですから、今私たちの教会が、何も起こっていない、静かで誰も喧嘩をしていない、にこやかで何も起こっていない、平穏無事な教会なのだとしたら、それはもしかしたら、聖霊が何も働いていない状態なのかもしれません。聖霊が働いているからこそ予期しないことが発生し、あそこで問題が起こり、こちらで問題が起こり、そちらで喧嘩が起こり、ゴタゴタゴタゴタして、みんなワイワイガヤガヤやって、そしてはじめて教会は聖霊によって導かれて前に進んでゆくんです。だから聖霊が働いている教会は、騒々しいです。聖霊が働いている教会は落ち着かないんです。

教会に聖霊が働いているから、みんなが心優しくにこやかに、諍いも何もない共同体になるかといったら、そんなことではありません。聖霊が働くとみんな騒々しくって落ち着かないんです。それが聖霊の働きです。

ですから、教皇様の導きのもとで教会が大きく動こうとしているいま、まさしく聖霊が働いて、騒々しく、ある人にとっては非常に居心地が悪い、またある人にとっては騒々しい、そういう状況になっている。でもそれこそが、聖霊の働きの証左なんだということを、教皇様がはっきりと打ち出して下さっているのだと思います。

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今日この堅信の秘跡を通じて、お一人お一人も聖霊をいただきます。聖霊を受けることによって、洗礼と、ご聖体と、堅信という3つの秘跡を通じて、これで皆さんの入信の秘跡が完成するんです。つまり、完成するってことは、今日は皆さんは完成品なんです。キリスト者としての完成品なんです。

その完成品になった瞬間からどんどん古びてゆくんですけれども、でも、今日は完成品なんですよ。完成品なので、昔は「キリストの兵士」といって、これからキリストの福音のために戦うぞという意気込みを表したんですけれども、今の社会の中では、与えられている役割をしっかりと果たしてゆく、役割は何ですか、聖霊に導かれてこの社会の中でイエス・キリストの言葉を証しし生きるようにと、求められています。

さっき福音に何て書いてありましたか。「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と、イエス様の言葉が書いてありました。言葉って何ですか?

ヨハネの福音書の最初に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されています。イエス様は神の言葉そのものなのだということが、あのヨハネの福音の最初に書いてあるじゃないですか。イエスは、神の言葉です。つまりイエスを信じ、イエスがなさったことにしっかりと従って、そしてその語られたことをしっかりと守って行くならば、それはわたしたちがイエスを愛していることの証しなのです。

今日、堅信を受けるお一人お一人は、これからイエスの言葉を守るぞ、イエスご自身が語ったこと行ったことをしっかりと心に刻んで生きて行くぞと、その決意を明らかにして、わたしたちは主を愛している、神を愛していることを、この社会の中で証して頂きたいと思います。

福音を告げるもの、福音をあかしするもの、福音を多くの人たちに伝えるものとなってください。

 

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