2024年秋田の聖母の日
2024年の秋田の聖母の日の行事、「インターナショナル・マリアンデイ・イン・秋田2024」が、9月22日日曜日、秋田市の聖体奉仕会聖堂を会場に行われました。
当日は、当地の司教である新潟の成井司教様はじめ、秋田地区の司祭団を中心に多くの司祭、信徒が集まりました。また全国各地からたくさんの方が集まり、500名を超える方で聖堂は一杯になりました。
今回は「インターナショナル」と銘打っているだけあって、国際的な催しとなり、正確な数字は分かりませんが、ブラジル出身の方が一番多くで200名以上おられたと思います。その次に主に地元秋田にいるベトナム人青年たち。そして各地からやってきたフィリピンの信徒やインドネシアの信徒。その他にもこの日のために来日した方などもおられ、歌も祈りも、インターナショナルでした。
あいにくの雨模様で、庭園での聖母行列はできませんでしたが、雨が降った分気温が下がり、聖堂に一杯の人がいたにもかかわらず、快適に過ごすことができました。(翌月曜日の今日は、写真のように晴天となりましたが、その分、気温が上がっておりました)
成井司教様が開会の聖体礼拝とお話を担当され、わたしは締めくくりの午後のミサを司式致しました。その間には、聖母行列とロザリオの祈りや、各国の歌の披露などもありました。わたしにとっては新潟司教時代にしばしば訪れた祈りの場ですし、今回は司教叙階の20周年の感謝もこめての巡礼でした。
聖体奉仕会も会員が相次いで帰天され、修道院に居住する会員も少なくなってきました。そんな中で、秋田の信徒の方々が大勢で手伝ってくださり、特にベトナム人の青年たちを中心に若い力で支えてくださっていることに感謝です。これからも皆で支え、皆でともに歩み、皆で祈る秋田の聖母の巡礼地であり続けてほしいと思います。今回の祈りの時を準備してくださった聖体奉仕会の皆さん、秋田の信徒の皆さん、ありがとうございました。
以下、当日のミサ説教の原稿です。
秋田の聖母マリアンデー2024
聖体奉仕会
2024年9月22日闇にさまよう人類を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画。それを実現するためには、「お言葉通りにこの身になりますように」という、聖マリアの生涯をかけた決断の言葉が必要でした。その言葉こそは、神の救いの計画に対する聖マリアの絶対的な信頼を象徴し、神の御手に人生のすべて任せようとする、人間として完全な謙遜を具体的に生きる姿でもありました。
もちろん神の計画にすべてを委ねる人生は、救い主の母となるという栄光に彩られた道なのではなく、大きな困難を伴う茨の道を歩むことを意味していました。まさしく聖マリアの人生は、母として、救い主であるイエスの苦しみととともに歩む道でありました。主とともに歩むことは、決して楽な道ではなく、常に決断と忍耐と祈りを必要とすると言うことを、イエスの十字架での受難に至る苦しみの道をともに歩まれた聖母マリアの人生がわたしたちに教えています。
教会はいま、シノドスの道を歩むことの重要さを強調しています。まもなく10月には、今回のシノドスの第二会期が始まり、わたしも日本の司教団を代表して参加してきます。これまでのシノドスは、特定の具体的な課題について、世界中の教会の意見をまとめ、教皇様に提言をする会議でありました。しかし今回は違います。
今回のシノドスは、シノドス性そのものを取り上げ、教会がシノドス的な教会であるためにどのような道を歩むべきかを一緒に識別するためのプロセスです。ですから、多くの人が期待しているような、具体的な事柄はなにも決まらないかもしれません。またこの10月の会議ですべてが終了するものでもありません。いま進められているプロセスは、終わりに向かっているのではなく、始まりに過ぎません。教会はこれから常に、シノドス的な教会であるために努力を続けていきます。なぜならば、神の民である教会は、その本性からしてシノドス的であり、ともに歩み続ける存在だからであります。そしてその原点には、主イエスと共に人生の道を歩まれた聖母の生き方そのものがあります。聖母マリアは、シノドス的教会の歩みを具体的に生きられた最初の模範です。
教会に民主主義を持ち込むのではないかとか、新しい政治的イデオロギーではないかとか、この会期が終わるまでに日本では何もしないのかとか、いろいろな意見が飛び交っているのは事実です。しかしそういったことではなくて、聖母マリアと主イエスとの歩み、主イエスと弟子たちとの歩み、そういった教会誕生の原点にある姿を、確実に具体化して生きていこうとするのが、いまのシノドスの目的です。これからも長い目で見ながら、その具体化に努めていきたいと思います。
聖霊の導きを識別し続けながらともに歩むこのシノドスの道のりは、簡単な道ではありません。時間と手間のかかることでもあり、まずもって忍耐を必要とします。同時にそこで見いだされる神の計画の道は、常に安楽の道であるとも限りません。なぜならば、神の救いの計画の中心には常に十字架の苦しみが存在しているからです。シノドスの道をともに歩むことで、わたしたちは様々な困難に直面することでしょう。様々な意見の対立に翻弄されるでしょう。常識の壁が立ちはだかることでしょう。決断の及ぼす影響を考え、たじろいでしまうのかもしれません。そのときこそ、わたしたちは聖母マリアの人生を振り返り、主イエスとともに歩まれた聖母の信仰の深さと謙遜の強さに倣い、支え合いながらともに歩む道で前進を続けたいと思います。
世界の教会は教皇様の回勅「ラウダート・シ」に触発された「被造物の季節」を、そして日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」を、9月1日から10月4日まで過ごしております。教皇様の今年のテーマは、「被造物とともにあって、希望し行動しよう」とされています。
教皇様はメッセージで、「キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です」と記します。
神がその愛を込めて創造されたすべての被造物を、いのちを賜物としていただいている人類は、守り耕すようにと命じられています。被造物を守りながら生きることは、単にわたしたちの生活のためではなくて、神が愛するものを同じように愛し大切にすることを通じて、いのちを生きる喜びと希望を世界に示そうとする福音的な営みです。
人類は常になんらかの発展を指向し、与えられた資源を活用することで、より良い生活を、そして社会を手に入れようと努めてきました。もとより生活が便利になり、健康や安全が保証される社会を実現することは、より共通善に近づくことであるとも考え、研鑽を重ね、努力を積み上げてきました。残念なことに、教皇様が回勅「ラウダート・」シの冒頭で指摘するように、その努力の過程でわたしたち人類は、自分たちこそが「地球をほしいままにしても良い支配者や所有者と見なすように」なり、「神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり乱用し」てきました。その結果、共通の家である地球を深く傷つけてしまったと教皇様は指摘されます。
その上で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると教皇様は指摘され、密接に結びあわされている森羅万象を俯瞰するような、総合的視点、インテグラルな視点が不可欠であると強調されます。
人類は自らの利己的欲望に促されて、世界に君臨する支配者の幻想に酔いしれてきました。神からいのちを与えられているという謙遜さを失いました。
しかし「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と述べられた主は、わたしたちに奉仕する支配者となることを求められます。それこそは、主イエスご自身が自らの人生の歩みを通じて、十字架に至るまで常に示された生き方であります。
使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、神の望まれる世界は実現せず、いのちを奪うような混乱が支配すると、使徒は指摘します。
使徒は、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです」と記します。「間違った動機」とは、すなわち時空を超えたすべての人との繋がりに目を向けず、今の自分のことだけを考える利己心がもたらす動機です。その利己的な動機による行動の選択が、被造界を破壊してきたのだと教皇様は指摘します。
受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類に対する、神の愛といつくしみが具現化しています。イエスの受難への道は、神の愛のあかしであります。十字架は、神の愛の目に見える証しであり、十字架における受難と死こそ、具体的な行いによる神の愛のあかしです。神の常識は、救いへの希望は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果としてあることを強調します。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、わたしたちは神の愛といつくしみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。
信仰の道を、主とともに歩み続けましょう。聖母マリアもその道を、主とともに、そしてわたしたちと共に、常に、ともに、歩んでくださいます。
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