アドリミナを振り返って:その12
アドリミナの振り返りの最終回です。
前回、2015年3月のアドリミナが終わった後に記した「司教の日記」には、アドリミナのスタイルが大きく変わり、地方教会に命令するバチカンから、補完性の原理を尊重し、地方教会を助けるバチカンに変わろうとしている雰囲気を感じたと、わたしは記しています。
今回はそれがさらに進んだと思います。教皇様の省庁改革の意図は浸透しつつあり、各省庁は、宣教地の教区を管轄する上部組織ではなく、地域教会を支援する組織体に変わってきています。それはバチカンの諸官庁の性格が、教会を治めるところから、教皇様の牧者としての務めを支える組織に変わりつつあるからで、そうなるとひとり一人の司教は教皇様から直接一定の地域を任されているのですから、教皇様を支える組織は、教皇様から任命された地域教会の牧者を同じように支える組織となるのは必然です。
そうなると、現在でもその位置づけが曖昧な、司教協議会の意味づけが今後どのように変化していくのかが注目されます。
現在の司教協議会というのは、その国の全国のカトリック教会を統轄する機関ではありません。つまり、それぞれの教区や教区司教の、上部機関ではありません。日本に15ある教区は、その他の世界中の教区と同じく、一つ一つが独立していて、教皇様に直接つながっています。ですから現行の制度では、司教協議会の会長は教区司教の上司ではありません。どちらかというと、司教協議会は独立した司教たちの相互扶助組織です。同じ国や文化圏の中で共通する課題(典礼書の翻訳や国家法や行政機関との関わり)に対処するための組織です。仮に教皇様が、バチカンの諸官庁がローマ司教の使徒としての働きを支え、普遍教会への共通の課題に対処するサービス機関と位置づけようとしているのであれば、教区司教たちとその地域の司教協議会との関係も同じようにしていくのかもしれません。
シノドス的な教会のあり方を教皇様が推し進めているのは、まさしく、下部組織があって上部組織がそれを管轄するような、この世の普通の組織としての教会ではなく、キリストを中心とした神の民としての教会を目指しておられるのですから当然の流れです。これまでのようなピラミッド的な組織として、上から下へ向かって管理する教会ではなく、キリストを中心として皆で聖霊の導きを識別する教会を目指すというイメージを、教皇様は実現されようとしているのは明白ですが、具体的にそれをどのような形で作り上げていくのかは、昨年10月に開かれたシノドス第一会期に参加して体感したことも相まって、まだ明確にそのイメージが固まり浸透してはおらず、ですから改革が進んでいるというバチカンの省庁でも、単に、耳を傾ける優しさが前面に出てしまっているだけと感じてしまいました。その次にどう発展させていくのかの道筋は、まだ、皆が模索中であることを肌で感じました。教会は変わろうとしていますが、どう変わろうとしているのかのイメージを、描き切れていないし、ですから教会全体で共有することもできていません。しばらくの間、試行錯誤が続くものと思います。
教会の伝統として、定期的に司教たちが聖座を訪れることには、確かに巡礼として、司教個人の霊的な発展のためには意味があると思います。しかし実務的には、徐々にその意味を失っているのではないでしょうか。ある地域の司教が全員そろってローマに一週間以上滞在することの持つ意義が、時代の変化とともに変わってきているようにも感じます。確かに各省庁の責任者を個人的に知っていることには意味がありますが、必ずしも司教全員が出かけていって時間と場所を共有することが必要不可欠かどうかには疑問が残ります。実務的な課題は、今やメールでとまでは言いませんが、オンライン会議でも済ませることができます。実際に集まることの意義は確かにあるので、すべてを否定するつもりはありませんが、もう少し効率化を図ることはできるようにも思います。とはいえ、わたしたちを教区司教として任命してくださっている教皇様に定期的に会い、報告をし、アドバイスをいただくことは、教会の歴史を振り返っても実務的にも霊的にも必要であるとは思いますので、何らかの形で、例えば全員で省庁訪問を繰り返すことなどは廃して(実務的なことは個別の機会にして)、教皇様と出会うことを中心とした信徒や司祭修道者の方々と一緒の巡礼と位置づけても良いのかもしれません。
言葉の問題もありますし、時間の制約もありますから、今回のアドリミナで、具体的に聖座が地域教会に何を求めているのかの優先事項は明確にはなりませんでした。ただ教皇様が求めているシノドス的な教会共同体のあり方が、これから長期にわたっての最優先事項であることは肌で感じました。したがって今回のアドリミナの一番の収穫は、神の民としてともに耳を傾けあい、支え合いながら、ともに聖霊の導きを識別する教会共同体を実現するために、様々な視点から、長期的に継続して取り組まなくては成らないことを自覚した点にあります。それは同時に、教会が現実社会の中で抱える様々な課題に、牧者である教区の司教が責任を持って、共同体全体がその課題から目を背けることなく、積極的に関わるような共同責任を果たす共同体となるように、数多ある課題を乗り越えて実現していくことでもあります。教会は、一人教皇様のものでもなく、司教のものでも聖職者のものでもありません。教会はキリストの体です。わたしたちひとり一人はその体の部分として一致しているはずです。
アドリミナの期間中に、司教のためにお祈りくださった皆さん、教皇様のためにお祈りくださった皆さん、ありがとうございます。これからも互いに祈り合うことで支え合い、互いに耳を傾け合いながら、聖霊の導きに信頼しつつ、一緒に歩んで参りましょう。
(アドリミナの振り返りは、今回で終了です)
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