2024年ガーナへの旅:その9(最終回)
8月初めのガーナ訪問の最終回です。
7日目となる8月12日は、早朝にホテルをチェックアウトし、アゴメニャ教会の朝7時のミサに出かけました。平日の朝であり、しかも普段は月曜の朝ミサはないにもかかわらず、多くの人が集まり、さらには侍者もたくさんついて香炉も使って荘厳なミサとなりました。
この敷地内には、もともとアクラ教区立として1957年に創立された女子修道会HDR(Handmaids of the Divine Redeemer)の最初の本拠地と修練院、そしてクリニックがあったのですが、いまでは本部や修練院は移転し、クリニックが病院に昇格して運営されています。その修道院に所属するシスター方もミサに来てくださいました。現在この地域はコフォリデュア司教区の中です。
懐かしい顔がたくさん。この日のために、わざわざ遠くから出てきてくださった方までいて、ミサ後には懐かしい顔をたくさん見つけ、昔を思い出す感謝の一時を過ごしました。昔と変わらない若々しい人も、この30年の時をしっかりと顔に刻んだ人も。でもみんな、若かった頃の思い出を懐かしく語ってくれました。1986年8月15日に、アクラの空港に初めて到着し、誰も迎えがいなくて困っていたときに、助けてくれたシスターとも再会しました。
この地域にいるコロボ族の人たちは、かつて植民者であるイギリスと闘い、近くの平原にそびえるコロボマウンテンに籠城したりした歴史があります。いまでも、秋のお祭りの時期には、このコロボマウンテンに登り、祈りを捧げる習慣が残っています。また基本的にこのコロボマウンテンに近いオドゥマシやソマニャ地域が本当の故郷で、親族一同の真の家はこの地域にあり、オソンソン村のような奥地は、農作業をするための仮の住まいという考え方がありました。ですからオソンソンのような奥地の村で誰かが亡くなると、埋葬のためにご遺体をわざわざオドゥマシやソマニャまで運んできたり、葬儀は後日、この本当の故郷の家で行うなどの風習がありました。いまでも残っています。葬儀には、かなりのお金を使っていると思われます。このあたり、かつて神言会会員で人類学者の故フーゴ・フーバー師(Hugo Huber)が、その名も「The Krobo」という研究書を著しておられ、そこに詳しく記されています。
この日は、ミサ後にしばらくアゴメニャで過ごし、そのまま昼頃にアクラへ戻りました。テマの港からアクラへ伸びる高速道路モーターウェイは健在でした。ガーナで一番最初にできた高速道路は、全線コンクリート舗装ですから、重量のあるトレーラーが通過しても大丈夫。立派に役目を果たしていました。交通量が増えたので、拡張する計画があると耳にしました。
午後には訪問団の皆さんは、アクラ市内の最大の市場であるマコラマーケットへ出かけたそうです。わたしは、ちょっとくたびれて管区長館で休憩。夜に合流して、素敵な野外レストランで、今回の旅を皆で振り返りました。
最終日、8月13日。アクラ市内のMary Mother of Good Counsel(善き助言者である聖母マリア)教会で、朝ミサを捧げました。この敷地のとなりに、HDR修道会の本部があるため、総長や副総長を始めとしてシスター方が参加。また今回の旅行の手配を助けてくださった前駐日ガーナ大使のご家族などが集まり、亡くなられた方の追悼を感謝のミサとしました。その後、出発までの一時、本部修道院でシスター方と一緒に昼食の一時を過ごし、最終的に空港へ。
エミレーツ航空は一時間遅れて出発となり、ドバイでの乗り継ぎが、スケジュール通りでも一時間半ほどしかないために、どうなることかと心配しましたが、遅れている乗り継ぎ客は我々だけではないようで、ドバイの出発が40分遅くなっただけでなく、アクラからの便が到着したらドバイの係員が待っており、その誘導で入ったことのない通路を通り、セキュリティーチェックもしっかりと受けた上で、あっという間に東京行きのゲートに、これまでの生涯で、一番短くすんだ乗り継ぎだったと思います。要した時間がほぼ20分程度。無事帰国となりました。ご一緒いただいた皆さん、お祈りいただいた皆さん。ありがとうございます。
オソンソン村には電気が来ていました。皆、スマホを手にして写真を撮りまくっていました。当たり前です。日本であろうとヨーロッパであろうとアフリカであろうと、わたしたちは同じ時間を生きているからです。経済の安定と発展によって得たものはたくさんあると思います。きっとそれに伴って失ったものも大きいでしょう。しかしそれを、アウトサイダーであるわたしが嘆いても仕方がありません。アウトサイダーは常にアウトサイダーである自覚を持たなくてはならないことは、ガーナにいた頃から、そしてその後にカリタスの業務で様々な国の様々な現場に出かけて、常に心に刻んでおいた思いです。
ガーナははやり懐かしい故郷でした。カトリック教会は、少しばかり勢いを失っているとご本人たちは言いますが、教会は活気にあふれ、ミサは喜びに満ちあふれ、司祭召命も修道者召命も豊かにある。生き生きとした教会でした。社会にはいろいろと難しい状況はあるけれど、昔と変わらず笑顔の満ちあふれた国でした。オソンソンでの説教の最中に、思わず、司教叙階25周年になる5年後に、また来るからねと約束してしまったのも、その思いの結果です。
いろいろな人が同じことを言いますが、アフリカの水を飲んだものは、また飲みに帰りたくなるものです。
終わり
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