カテゴリー「ガーナの旅」の9件の記事

2024年9月 8日 (日)

2024年ガーナへの旅:その9(最終回)

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8月初めのガーナ訪問の最終回です。

7日目となる8月12日は、早朝にホテルをチェックアウトし、アゴメニャ教会の朝7時のミサに出かけました。平日の朝であり、しかも普段は月曜の朝ミサはないにもかかわらず、多くの人が集まり、さらには侍者もたくさんついて香炉も使って荘厳なミサとなりました。

この敷地内には、もともとアクラ教区立として1957年に創立された女子修道会HDR(Handmaids of the Divine Redeemer)の最初の本拠地と修練院、そしてクリニックがあったのですが、いまでは本部や修練院は移転し、クリニックが病院に昇格して運営されています。その修道院に所属するシスター方もミサに来てくださいました。現在この地域はコフォリデュア司教区の中です。

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懐かしい顔がたくさん。この日のために、わざわざ遠くから出てきてくださった方までいて、ミサ後には懐かしい顔をたくさん見つけ、昔を思い出す感謝の一時を過ごしました。昔と変わらない若々しい人も、この30年の時をしっかりと顔に刻んだ人も。でもみんな、若かった頃の思い出を懐かしく語ってくれました。1986年8月15日に、アクラの空港に初めて到着し、誰も迎えがいなくて困っていたときに、助けてくれたシスターとも再会しました。

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この地域にいるコロボ族の人たちは、かつて植民者であるイギリスと闘い、近くの平原にそびえるコロボマウンテンに籠城したりした歴史があります。いまでも、秋のお祭りの時期には、このコロボマウンテンに登り、祈りを捧げる習慣が残っています。また基本的にこのコロボマウンテンに近いオドゥマシやソマニャ地域が本当の故郷で、親族一同の真の家はこの地域にあり、オソンソン村のような奥地は、農作業をするための仮の住まいという考え方がありました。ですからオソンソンのような奥地の村で誰かが亡くなると、埋葬のためにご遺体をわざわざオドゥマシやソマニャまで運んできたり、葬儀は後日、この本当の故郷の家で行うなどの風習がありました。いまでも残っています。葬儀には、かなりのお金を使っていると思われます。このあたり、かつて神言会会員で人類学者の故フーゴ・フーバー師(Hugo Huber)が、その名も「The Krobo」という研究書を著しておられ、そこに詳しく記されています。

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この日は、ミサ後にしばらくアゴメニャで過ごし、そのまま昼頃にアクラへ戻りました。テマの港からアクラへ伸びる高速道路モーターウェイは健在でした。ガーナで一番最初にできた高速道路は、全線コンクリート舗装ですから、重量のあるトレーラーが通過しても大丈夫。立派に役目を果たしていました。交通量が増えたので、拡張する計画があると耳にしました。

午後には訪問団の皆さんは、アクラ市内の最大の市場であるマコラマーケットへ出かけたそうです。わたしは、ちょっとくたびれて管区長館で休憩。夜に合流して、素敵な野外レストランで、今回の旅を皆で振り返りました。

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最終日、8月13日。アクラ市内のMary Mother of Good Counsel(善き助言者である聖母マリア)教会で、朝ミサを捧げました。この敷地のとなりに、HDR修道会の本部があるため、総長や副総長を始めとしてシスター方が参加。また今回の旅行の手配を助けてくださった前駐日ガーナ大使のご家族などが集まり、亡くなられた方の追悼を感謝のミサとしました。その後、出発までの一時、本部修道院でシスター方と一緒に昼食の一時を過ごし、最終的に空港へ。

エミレーツ航空は一時間遅れて出発となり、ドバイでの乗り継ぎが、スケジュール通りでも一時間半ほどしかないために、どうなることかと心配しましたが、遅れている乗り継ぎ客は我々だけではないようで、ドバイの出発が40分遅くなっただけでなく、アクラからの便が到着したらドバイの係員が待っており、その誘導で入ったことのない通路を通り、セキュリティーチェックもしっかりと受けた上で、あっという間に東京行きのゲートに、これまでの生涯で、一番短くすんだ乗り継ぎだったと思います。要した時間がほぼ20分程度。無事帰国となりました。ご一緒いただいた皆さん、お祈りいただいた皆さん。ありがとうございます。

オソンソン村には電気が来ていました。皆、スマホを手にして写真を撮りまくっていました。当たり前です。日本であろうとヨーロッパであろうとアフリカであろうと、わたしたちは同じ時間を生きているからです。経済の安定と発展によって得たものはたくさんあると思います。きっとそれに伴って失ったものも大きいでしょう。しかしそれを、アウトサイダーであるわたしが嘆いても仕方がありません。アウトサイダーは常にアウトサイダーである自覚を持たなくてはならないことは、ガーナにいた頃から、そしてその後にカリタスの業務で様々な国の様々な現場に出かけて、常に心に刻んでおいた思いです。

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ガーナははやり懐かしい故郷でした。カトリック教会は、少しばかり勢いを失っているとご本人たちは言いますが、教会は活気にあふれ、ミサは喜びに満ちあふれ、司祭召命も修道者召命も豊かにある。生き生きとした教会でした。社会にはいろいろと難しい状況はあるけれど、昔と変わらず笑顔の満ちあふれた国でした。オソンソンでの説教の最中に、思わず、司教叙階25周年になる5年後に、また来るからねと約束してしまったのも、その思いの結果です。

いろいろな人が同じことを言いますが、アフリカの水を飲んだものは、また飲みに帰りたくなるものです。

終わり

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2024年9月 4日 (水)

2024年ガーナへの旅:その8

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オソンソン村でのダニエル・ナー神父様の初ミサは、定刻9時から少し遅れて始まりました。

オソンソン村の聖堂は、その昔、柱も何も立てずに土のブロックを積み上げ、モルタルを塗ってあるだけの建物で、そのため非常に細長く狭い聖堂です。ですから大きな行事のミサは、以前から、ルルドの前にある屋根がかけられたホールで行われてきました。

初ミサには普段以上の人が集まりますから、そのホールだけでは足りず、聖堂との間の空き地にテントが張られており、すべて満席でした。

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ガーナでは、1957年までイギリスの植民地出会った歴史もあり、英語が公用語ですが、普段の生活ではそれぞれの部族の言葉が使われます。そのため、部族配置にあまり影響されずに多くの人が住んでいる首都のアクラなどでは、基本的に英語で典礼が行われますが、オソンソン村のように大多数が一つの部族であるコロボであると、典礼も基本的にはコロボ語で行われます。この日のミサもコロボ語です。

わたしが働いていた頃にも当然そうでしたので、わたしもコロボ語を一年くらい習って現場に入りましたが、やっとミサが立てられるくらいで、説教は公用語の英語で行い、カテキスタが通訳してくれていました。

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この日のミサでは、わたしが説教を担当することに。結局、日本から一緒に出かけた目黒教会のマーティン神父様が、英語からコロボ語に通訳してくださいました。この日の説教は原稿なしでしたので、勢いで、司教叙階25周年となる5年後に、もう一度オソンソンを訪れると約束してしまいました。2029年にまた、ガーナ旅行を企てますので、興味のある方はいまから心づもりを。

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ミサはもちろん日本のミサと変わらないのですが、5時間かかりました。一番は、歌が長い。ダンスが入る。献金が奉納前と聖体拝領後の二回ある。献金のダンスが長い。など、部分部分で時間がかかります。それ以外では、灌水式があったり、聖書の朗読が始まる前に、聖書を荘厳に迎える式があったり。奉納では、実際に農作物をみんな並んで持ってきたり。

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聖体拝領後の二回目の献金は、男女に分けてみたり、生まれた曜日ごとに分けてみたりするので、これはダンスと共に時間がかかります。ガーナの人は、みな生まれた曜日を知っています。というか生まれた曜日に基づいた名前を持っています。それで、曜日ごとに献金をして、額を競ったりするのです。ちなみにわたしは1958年11月1日生まれで、その日は土曜日でしたから、ガーナの名前はクワメ(Kwame)です。

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5時間のミサの終わりは、新司祭による祝福で、一番最初のわたしから始まって、司祭や修道者、親族、友人、日本からの訪問団など様々な人がそれぞれ前に呼ばれて祝福を受け、その最後は、会場に来ていた各村のチーフたちでした。ガーナの社会で、チーフの存在は重要です。

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また最後に、30数年前に小教区の学費援助を受けていた高校生だった村の子どもたちが、いまや社会で働く大人となっており、今度は自分たちで持ち寄って、村の子どもの学費を援助しようという団体を立ち上げているのですが、そのメンバーから司教叙階20周年のお祝いをいただきました。この子たちには(いまや大人ですが)、感謝の思いしかありません。

ミサ後、司祭館と聖堂の裏手の丘に登りました。ここには中学校があり、わたしが主任だったころに、日本政府の小規模無償援助をいただいて、3クラスの教室棟を建設しました。教会の信徒会長だった技術の先生が、仲間と手作りでコンクリートのブロックを積み上げ、窓や屋根は、コフォリデュア近くの神言会運営の技術学校のブラザーたちに制作をお願いしました。竣工式には、当時に駐ガーナ日本大使にもオソンソンまで来ていただきました。

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その教室棟は、ボロボロになりながらもしかりと活用されていて、いまでもオソンソン村の中学校校舎であり、こういった行事の時の宿泊所にもなっていました。丘の上なので、結構風が強く、飛ばされないように屋根をしっかりと作ってもらったことを記憶しています。(上の写真が現在。下は30数年前の校舎の竣工式でテープカットする日本大使)

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その日は午後3時くらいにオソンソンを出発し、麓の町であり、コロボ族の全体のチーフが住む部族の中心地であるオドゥマシへ向かいました。その地にある、アゴメニャという地区に教会があり、翌朝、月曜の朝7時に、そのアゴメニャ教会でミサを捧げることを依頼されていたためです。その晩は、上述の学費援助グループの面々が、日本からの訪問団を歓待して、夕食会を開いてくれました。

続く

 

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2024年9月 2日 (月)

2024年ガーナへの旅:その7

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ガーナ滞在の六日目です。

8月11日の日曜日。この日は、前日に司祭叙階されたばかりのダニエル・ナー神父様の初ミサに参加するために、ダニエル・ナー神父様の故郷であり、わたし自身が1986年から1994年まで働き、主任も務めていた、オソンソン村ルルドの聖母教会へ出かける日です。

前晩は、オソンソン村のある東州の州都であるコフォリデュアの教区司牧センターに日本からのグループは宿泊し、わたしは司教館に泊まりました。上の写真は、その司教館で、ジョゼフ・アフリファ・アジクム司教様と。1992年に東州がアクラから独立してコフォリデュア教区になったとき、司教は先日登場したケープコーストのバックル司教でしたが、アフリファ司教様はその司教総代理、そしてわたしは司教顧問のひとりとして、一緒に働きました。その後、バックル司教がアクラ大司教に転任して、後任としてアフリファ司教が誕生。2017年12月のわたしの東京での着座式にも、おいでくださいました。

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その昔わたしが働いていた頃に、この司教館の土地を購入してあるのは知っていましたが、その頃は何もない林の中でした。司牧センターが建っているところは、全く地理が把握できませんでした。しかもその昔、夜に移動中に泥沼の深みにはまって車が抜け出せなくなり、神言会の運営する技術学校まで延々と歩いてブラザーたちの助けを求めに行ったあの荒れ果てた未開地のような道路が、中央分離帯付きの立派な片側二車線道路に変身していたのには、感動させられました。

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町外れの丘の上に立つ聖ジョージカテドラルから見たコフォリデュアの町の風景も大きく変わり、とにかく町全体が拡大していました。

そのコフォリデュアからオソンソン村まで距離にして40キロほど。その昔はこの40キロに車で2時間かかっていましたが、いまはどうでしょう。オソンソン村から一番近い病院がコフォリデュアにしかなかったので、この道を、病人を乗せて、のろのろと穴ぼこやら何やらを避けながら走ったことを思い出しました。

今回は、なんと1時間でこの道を制覇。しかも一番懸念していた最後のオソンソン村直前の峠道付近は、なんと道を治す工事中で、四輪駆動ではない車でも、さっと通過です。治す工事と行っても、砂利をまいてグレーダーで表面を削っているだけのことですが、それでもありがたい。

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9時に初ミサと言われていましたが、8時過ぎにはオソンソン村に到着。オソンソン村の中心にある交差点で待ち構えていた、その昔侍者をしたり司祭館の手伝いをしてくれていた少年がいまや高校の校長先生になっていて、彼の運転する公用車に乗り換えて、ドラムやトランペトの若者たちと、クリスチャンマザーズ(教会の婦人会全国組織:青のユニフォームが特徴)に先導されて丘の上の教会まで。

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ここはこの地区の聖母巡礼所になっています。1950年代に宣教師が造成したルルドを、その後の司祭たちが大きく改造して、いまやルルド前には祭壇が設けられ、野外ミサができるようになっていました。わたしの前任者のオーストリア人司祭が、ルルドの前に大きなシェッド(屋根)をかけ、わたしが来てから12月8日前後のルルドの祭りを、一晩の行事から金土日の三日間の行事に変え、最初のステージを作りましたが、いまやとても大きく改変され発展していました。

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またルルドの周りの山も切り開かれて、十字架の道行きなどが設けられています。この地域の聖母巡礼地として定着してきたことは、大きな喜びです。わたしがいた当時に建設した司祭館も、きれいに改修され、新しい部屋が加えられていたり、天井が張り替えられていたりしましたが、ここで暮らした当時を思い起こし、懐かしい気持ちで一杯でした。そして30年以上たってもさらに美しく使ってくれていることに、感謝でした。

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ミサは、同じくこの教会出身で、いまは東京の目黒教会で働く神言会のマーティン・デュマス神父様が司会進行をして(写真下)、新司祭ダニエル・ナー神父様が司式。神言会の管区長や他の司祭も参加して、盛大な初ミサが始まりました。

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聖歌隊はオソンソン村だけでなく、近隣の教会からも加わり、30年以上前と変わらぬ笑顔の若々しいメンバーもちらほらいて、懐かしさに満たされました。わたしの担当は、説教です。都合5時間かかった初ミサが、9時を少し回って、始まりました。

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続く

 

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2024年8月31日 (土)

2024年ガーナへの旅:その6

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ガーナ滞在の五日目、今回の旅の一番の目的である、司祭叙階式です。

前晩泊めていただいた神言会の新しい霊性センターからだと、会場の教会まで、アクラ市内にはいらずにバイパスして、渋滞を避けることができます。とはいえ、道路整備が進む前に宅地などの開発が進んだ地域ですので、霊性センターから表通りに出るまでの道がすさまじい。絶対に歩く人よりゆっくりと、上下左右に揺れながら車は進みました。

モーターウェイ延長道路(テマの港とアクラをつなぐ高速道路・モーターウェイの延長道路)と、昨日通過したアクラとケープコーストを結ぶ道路の合流分岐点は、なんと立体交差になっていました。一昔前だと、ここからクワメ・エンクルマ・サークルまで行って、インセワン道路に入るしか方法はなかったのですが、いまは方々に広い道が新しくできていて、混み合うサークルを避けて、アクラから北に向かう国道の最初の部分であるインセワン道路に入ります。それこそ30年ほど前は片側一車線だった道路が、いまや中央分離帯のある4車線道路に発展しています。その道の途中、カトリック聖シルバヌス教会は位置していました。

叙階式は9時に開始予定です。いまのガーナで、9時に始まると言ったら9時に始まります。さすがに30年ほど前も、アクラなどの都市部では時間通りに始まることが多かったのですが、その頃は、わたしがいた村なんかでは、9時に開始と言っても、10時頃に始まれば成功のような様相でした。しかし今回は本当に9時に始まる。出迎えの都合があるので8時45分に到着してほしいと言われていましたが、渋滞がなかったために8時半前に到着。主任司祭から、車で待機してほしいとのリクエストです。

8時45分、小教区の聖歌隊や役員の方々に迎えられて、司祭館へ。今回は神言修道会ガーナ・リベリア管区の叙階式ですから、多くの神言会員が集まり、中には、昔わたしが働いていた頃からの懐かしい面々もおられます。叙階される面々は、以下の通りです。

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この中のひとり、写真に向かって左から二人目、ダニエル・ナー新司祭が、わたしが1986年から94年まで働いていたオソンソン(Osonson)と言う村の出身です。

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この日は、アクラ大司教区の補佐司教であるアントニー・アサリ司教様も一緒に司式に加わってくださり、おかげさまで、司教様の司教杖(バクルス)を貸していただくことができました。(と言うよりも、不測の事態でわたしが来れなかった場合を考えて、アサリ司教様にもお願いしていたのかもしれません)。アントニー・アサリ司教様も、その昔わたしが働いていた地域の部族であるコロボの出身です。

わたし自身も緊張していたので、共同司式司祭が何人いたのか数えていませんでしたが、全員が行列で入堂したので、入祭だけでかなりの時間がかかっています。当日の中継ビデオを下に張り付けますので、飛ばしながらご覧ください。

聖シルバヌス教会はアクラ教区の小教区で神言会の担当ではありませんが、小教区をあげて準備をしてくださり、当日は聖歌隊も素晴らしく、侍者の皆さんもしっかりと働かれて、素晴らしい典礼の叙階式でした。

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説教部分だけを切り抜いたビデオがアクラで公開されていますので、ここに張り付けておきます。

その当日の説教の概要です。神言会員のような宣教司祭の評価は、一体何で定められるのか。それは、いくつの建物を建てたとか、洗礼をどれだけたくさん建てたとか、どれだけ資産を蓄えたとか、そういうこの世の目に見える数字の成果で決まるのではない。もしそうなら、多くの宣教地でほとんどの宣教師が、評価が低いか失敗したということになる。宣教司祭の評価は、福音への誠実な態度で決まる。福音には「わたしは善い牧者。善い牧者は羊のために命を捨てる」とあった。何もないときに「羊のために命を捨てる」というのは簡単だが、準備をしていなければ、いざというときに尻込みしてしまうだけ。「わたしは善い牧者。わたしは羊を知り羊はわたしを知っている」ちょうどいま教会はシノドスの道を歩んでいる。教会は互いの声に耳を傾け、ともに歩み、共に祈り、共に聖霊の導きを識別する神の民となる道を選択した。それを理解した牧者が必要。そして来年の青年のテーマは希望の巡礼者だが、この困難な時代には希望をも立つ存在が必要。司祭は希望を持ってくるのではなくて、人々の心に希望が生み出されるように働く触媒となってほしい。

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叙階の典礼そのものは日本と同じですし、ミサも日本と同じですが、歌やダンスが長く、いろいろなところで時間を費やして、結局4時間半ほどの叙階式ミサとなりました。聖シルバヌス教会の聖堂はかなり大きく、500人以上を収容できるように見えます。そこが一杯で、さらに外にもテントを張っていましたので、司祭団も入れれば、千人近い人が参加した司祭叙階式であったと思います。

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暑かったか?それが涼しかったのです。と言ってもエアコンがあるわけではありません。窓を開け放って、天井の扇風機だけですが、そもそもこの時期のガーナの気温は、日本の東京の夏よりも遙かに過ごしやすい。日中の最高気温が30度を超えることはめったにありません。(暑くなるのは冬の乾期です。サハラ砂漠からの北風が吹きますので、暑くなります)

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そして司式をしているわたしの後ろの壁には窓があり、そこから涼しい風が入ってきたので、かなりたくさん祭服などを着込んでましたが、涼しくミサを捧げることができました。

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叙階式ミサの最後には、まずわたしとアサリ司教の二人が新司祭の前に跪き、祝福をいただきました。その後に家族などの祝福が続きます。日本の叙階式ではあまりすることがありませんが、新司祭の前に司教が跪いて祝福を受けるのは、象徴的な意味があると思います。

4時間以上のミサでしたので、終わった頃には午後1時を過ぎています。参加者皆で昼食をいただき、訪問団は一路、翌日のオソンソン村での初ミサのために、移動を始めます。今日は70キロほど北東に走ったコフォリデュア(Koforidua)という町に向かいます。オソンソン村もある東州(Eastern Region)の州都になります。ここはコフォリデュア教区のカテドラルがあり、訪問団は教区のパストラルセンターに、そしてわたしは以前一緒に働いていたジョゼフ・アフリファ・アジクム司教様の司教館へ泊めていただいて、翌日曜日の早朝にオソンソン村に向かうことになりました。

続く

 

 

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2024年8月28日 (水)

2024年ガーナへの旅:その5

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ガーナ滞在三日目です。

この日は朝食後にホテルをチェックアウトして、エルミナからケープコースト方面へ戻り、その途中にある大司教館へ。大司教館は、かなり昔からこの地を支配する総督の屋敷として建っており、ポーター初代大司教が1950年代に聖堂を増築するなど大幅に改築したものですが、コンクリートなので頑丈で、目の前の大西洋の潮風を受けながらもしっかりと建っています。

ここで、ケープコーストのチャールズ・パルマー・バックル大司教が迎えてくれました。バックル大司教も交えて、日本語でミサ。

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バックル大司教は、1992年、わたしが働いていたアクラ教区の一部、東州が独立してコフォリデュア教区になり、さらにアクラが大司教区に昇格したとき、アクラ教区司祭からコフォリデュア教区司教に任命された方です。それまではアクラにある、1924年創設の歴史と由緒あるアチモタ・スクールの指導司祭をされていました。

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当時はまだ教区司祭としてアクラ教区から新しい教区に移った司祭も少なかったので、まだまだ若輩のわたしも、司教顧問の一人として任命され、バックル司教と一緒に働きました。その後、わたしが日本に戻ってから、彼はカリタスアフリカの総裁になり、今度は国際カリタスの理事会で再会して、また一緒に働くことに。そして2005年には、アクラの大司教に転任し、さらに2018年には由緒正しいケープコーストの大司教に転任されました。2017年12月の東京でのわたしの着座式には、他2名の司教と共に、東京まで来てくださり、彼の働きかけで、当時のガーナ大使が大統領からの祝賀メッセージを取り付けてくださいました。

首都大司教(メトロポリタン大司教)になると、教皇様からその印としてパリウムをいただきます。わたしが東京の大司教になってパリウムをいただきにローマへ行ったとき、バックル大司教もアクラからケープコーストに転任となり、二つ目のパリウムをいただきにローマに来ており、そこでも一緒になりました。わたしにとっては協働者であり、友人であり、恩人でもあります。

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大司教館でのミサ後、ケープコースト城へ。アフリカの植民地時代の出来事についてはよく知られていますし、過去には「ルーツ」という小説もありました。多くを語る必要がありませんが、かつての植民地時代のイギリスの奴隷積み出し拠点が海岸沿いには多く残されており、ケープコースト城もその一つであり、かつてイギリスがガーナをゴールドコーストとして植民地化していくための、最初の拠点施設でもあります。

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ここに、かつて周囲の村々から連れてこられた人たちが、閉じ込められ、海外に向けて運び出されたその跡が、悲しみと共に、美しい大西洋を背景に、残されています。奴隷制度は、人類の歴史の汚点です。繰り返されてはなりません。多くの人が閉じ込められていた、窓もなく湿った牢獄には、訪れた多くの人が手向けた花束が山のように置かれていました。ガイドに促されて、しばし、照明を消し、暗闇の中にたたずみ、祈りました。人間の尊厳について、深く考えさせられます。

今度は40キロほど北に移動して、カクム国立公園に。ここはいわゆる純粋な森林公園で、その中にキャノピーウォークと呼ばれる、いくつかの高所にかかる吊り橋があり、この公園の名物になっています。訪れた日も、ガーナの高校生の団体が吊り橋に挑戦していて、高さからの恐怖の叫び声が、森に響き渡っていました。私たちのグループもこの吊り橋を渡りに皆で出かけ、また森の日陰で育つカカオの木とその実を見学してきました。かつてはガーナの南部は、すべからくこういった森林だったのでしょう。今では、都市化と、耕作、さらにはかつて盛んだった木炭作りのための森林伐採などが重なって、森の大半は消えてしまっています。公園を案内してくれた担当者は、森の中には人が入らないところもたくさんあるので、いまでも野生の動物が多くいるとのことでした。

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三日目は、そのままアクラにむけて140キロ以上を戻り、アクラの町の手前にできたばかりの、神言会の霊性センターに宿泊。翌日の司祭叙階式に備えました。

続く

 

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2024年8月26日 (月)

2024年ガーナへの旅:その4

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アクラの神言会ゲストハウスは、かなり町の真ん中あたりにあります。30数年前は、渋滞も激しくなかったので、空港にも近く、買い物にも便利で、とても良いロケーションでしたが、いまや大渋滞のど真ん中になりました。

このゲストハウスを午後2時頃に皆で出発し、一路、140キロほど離れたケープコーストの町を目指します。しばらく走ると、昔からの渋滞スポットである「カネシ・マーケット」の前を通過。かつては歩行者と乗り合いバスが入り乱れ大渋滞でしたが、その後、横断歩道橋が架かったりして渋滞が緩和されたかと思いきや、おもいっきり渋滞は悪化していました。まずここを抜けるのに一苦労。(上の写真。左手に少し写っているのがカネシマーケットの建物)

その先の丘の上に、神言会の引退司祭の家であるマッカーシーヒルがありますが、かつてはそのあたりでアクラの町は終わりでした。アクラとケープコーストを結ぶ道路には、その先あたりに警察の検問所があり、そこで町は終わっていたのですが、なんといまやアクラの町はすさまじく膨張し、そこから延々と住宅地が続きます。通過していく車の台数も半端ではありません。道ばたには立派なショッピングセンターまでできています。時代は変わるものです。

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順調だったのはそこまで。右手に貯水池が見えるそのあたりから、延々と道路工事が続いています。立体交差にするために、直進をトンネルで通過させる計画なのでしょう。中国系の企業が請け負っているとみられる名称が入った重機が、深い谷のような切り通しを作っていました。そんな工事をしているところは、全く昔と変わらず、交通整理や迂回路は何もなし。ただただ砂埃を舞いあげて、右に左に、のろのろとそして激しく揺れながら車列は進みます。かつてのガーナらしくなってきました。

アクラを出て60キロほどの所に、ウィネバ(Winneba)交差点があります。ラウンドアバウトです。ここをアクラから来て左に折れると、海岸沿いのウィネバの町には以前は教員養成学校があり、わたしが働いていた地域からも、教員志願者が何名か学んでおり、訪問したものでした。その学校はいまでは、教育大学に発展していると聞きました。このあたりに到達すると、ケープコーストまでだいたい半分を来たことになります。ここまででなんとすでに2時間近くかかっています。つまりアクラの町が成長しすぎで、そこから抜け出すのに、とてつもない時間がかかるということです。でもそこから先は、順調でした。

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だんだん海岸線に道路が近づき、椰子の木が立ち並ぶようになると、ケープコーストです。夕方5時近くに到着し、まずはケープコーストのカテドラルへ。高い丘の上にあり、町と海を見下ろす場所です。すさまじく入り組んで、一方通行だらけの町中の道を抜けて、車はやっとの思いで高台の教会へ。(下の写真)

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このカテドラルの中には、ガーナ人司教として初代の大司教だった、ジョン・アミサ大司教の墓所があります。ケープコースト教区は1879年からの歴史がありますが、1950年に大司教区になり、それまで担当してきたアフリカ宣教会(SMA)の司教さんたちの最後のポーター師が大司教となりました。そしてガーナが独立したその日、1957年3月7日、ジョン・アミサ師が34歳の若さで、補佐司教に任命されました。その後1959年12月にアミサ師は大司教を引き継ぎました。(墓碑にも、最初のガーナ人司教と記されています)

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軍事政権とも堂々とやり合ったアミサ大司教は、様々な意味で有名で、何らかの不当な理由で警察に拘束された司祭の釈放を求めて、警察署の前に一晩中立ち続けた話などを、わたしもかつて働いていた当時に耳にしていました。特に当時政権を握っていた暫定国防評議会の議長、ローリングス氏(後に民政移管後の大統領)との不仲は有名でした。

1991年9月22日、移動中のアミサ大司教の車が事故にあい、大司教は68歳で帰天します。その数日後、ケープコーストの野外で行われたアミサ大司教の葬儀には、わたしも他の司祭たちと一緒に出かけました。葬儀ミサの説教は、現在91歳でご健在の、当時クマシ教区司教であったピーター・サポン名誉大司教。内容は忘れましたが、格調の高い説教だと感銘を受けたことだけは憶えています。そのミサの最中に、空軍の小型機が、葬儀会場の上空を何度か通過していきました。ローリングス議長はもともと空軍のパイロットです。本当かどうか分かりませんが、哀悼の意を表するためにローリングス議長が自分で操縦して飛んできたのだと、皆が言っていたのを憶えています。

そういえば、1990年頃に、神言会のある宣教師が帰天されたとき、彼から幼児洗礼を受け、子どもの頃には侍者もしていたローリングス議長は、通夜の行われている教会に深夜に数台の軍用車で乗り付け、しばし祈りを捧げて、疾風のように去って行った現場にいたことがあります。(下の写真が、エルミナの教会にあるアミサ大司教の胸像)

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その後を継いでケープコーストの大司教に任命されたのは、当時ローマに留学中だった、現在のピーター・タクソン枢機卿です。(一つ下の写真はエルミナの教会。その下の写真がタクソン枢機卿の胸像)

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この両者の胸像が、お隣のエルミナ教会に設置されていました。

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この日は、暗くなってからエルミナのガーナ最初のカトリック教会を訪問し、たまたま集まっていたロザリオグループの方々と祈りを共にすることができました。

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そして、そのままエルミナのホテルにみなさんと宿泊です。

続く

 

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2024年8月23日 (金)

2024年ガーナへの旅:その3

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ガーナ滞在二日目です。

観光旅行ではありませんから、朝にまず皆でアクラのカテドラル裏にある神言会のゲストハウスに集合。小聖堂で日本語のミサを捧げました。そのあと、日本からの皆さんのうちお二人に同行を願って、副大統領に会いに行くことに。

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ミサが終わって、出かけようとすると、白バイの警官が待ち構えているではありませんか。なんと大統領府まで、白バイの先導付きとなりました。そして翌日まで、ずーっと我々の車列を先導してくれました。

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大統領府は、その昔は「フラッグスタッフハウス」と呼ばれていたところに、現在は「ジュビリーハウス」としてそびえたっています。近くにある王であるキリスト教会で、まずは今回の紹介者である前任の駐日ガーナ大使と待ち合わせ、アクラ教区の司教代理として王であるキリスト教会の主任司祭、神言会の管区長も同行して、渋滞をすべてくぐりぬけてあっという間に裏手側の物静かな、見るからに立派な通りへ。大統領府への入り口は表通りと反対の裏手にあり、警察の装甲車両が守りを固めていました。

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面会の趣旨は、2017年12月の東京への私の着座の際に、ガーナ大統領からお祝いのメッセージをいただいたこともあり、その御礼のためでした。

バウミア副大統領(Vice President H.E.Dr. Mahamudu Bawumia)は、若々しい経済学者で、話はかつて私が働いていた地域のような農村部の発展の必要性に広がっていきました。ガーナでもやはり、大都市圏であるアクラ周辺に人口が流入しており、農村部の発展が後回しになっているとのことでした。しばし歓談。

次の大統領候補といわれるバウミア副大統領と公式の写真は撮影したのですが、手元にないので、残念ながら、写真はなしです。

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その後、白バイの先導を再びいただきながら、野口医学研究所へ。これはご存じの通り、黄熱病の研究のためガーナへやってきた野口英世が、ガーナ大学で研究をする中で、1928年に51歳で亡くなられたことにちなみ、その後、日本政府が資金を提供して、基礎医学の研究所を1970年代に設立したことに始まっています。

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この研究所を造るために尽力されたのは、福島県立医科大学の本田憲児先生です。会津出身の野口英世の縁を心にしながら、本田先生が主導してガーナへの支援をはじめ、政府による研究所設立につなげました。研究所はレゴンのガーナ大学敷地内にあります。また2011年に亡くなられた本田先生の墓碑もあり、遺灰をガーナまで持ってきて埋葬したと伺いました。私は1990年ころに、ガーナを訪問された本田先生と、一度だけアクラでお会いしたことがありました。豪快な先生でした。

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野口研究所は、コロナのパンデッミックの時、この地域のPCR検査を一手に引き受けて、大活躍したそうです。

その後、私は皆さんと別れて教皇庁大使館へ。新しく任命された教皇大使は、まだ司教叙階を受けていないため、参事官が対応してくださいました。参事官はレバノン出身。昼食に招待していただきました。

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昼食後、再び、同行の皆さんと合流して、一路ケープコーストへ。ケープコーストは、現在の首都アクラが誕生する前、17世紀に奴隷貿易や金の輸出の拠点としてできた街で、その奴隷貿易拠点であったケープコースト城が残されています。1821年ころからはイギリスのゴールドコースト植民地の拠点でした。(上の写真は、ケープコースト大司教区のカテドラル)

また近隣にはエルミナという町に、15世紀にポルトガルによって作られた奴隷貿易の拠点の城砦が残っています。そしてエルミナは、ガーナで最初のカトリック教会ができたところで、丘の上に立つ聖ヨゼフ小バジリカは、1880年に建てられたガーナで最初の教会です。

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このケープコーストの大司教は、昔からの友人であり、30数年前に一緒に働いたチャールズ・パルマー・バックル大司教。東京での着座式にも来てくださいました。(上の写真)

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というわけで、一同はケープコーストに向かいました。なんと白バイの先導が付いたまま。それでもこの距離にして140キロほどの大西洋沿いの移動は、かつての時代を思い起こさせるなかなかのラフな移動となりました。アクラを出ると、そこは30年前と何も変わらない世界です。唯一の違いは、皆がスマホを持っていることくらい。ガーナの旅らしくなりました。

続く

 

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2024年8月22日 (木)

2024年ガーナへの旅:その2

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空港を出てまず最初に驚いたのは、道路上の車の量が半端ないことと、車がピカピカの新しい車(トヨタが大勢を占めています)でひしめいて、すさまじい渋滞になっていることでした。30数年前にも道路は混んでましたが、その頃は道も細く、車の中古のさらに中古のようなボロボロでした。14年前にもかなりの渋滞でしたが、今回は、道路は片側二車線の大きな道路に変わり、それでもすさまじい渋滞です。交差点の多くはロータリーですが、一応、信号機があって、それも動いているものとないものと。

新しい道路もできたこともあり、昔の記憶をたどってもどこを走っているのか分からないまま、そのうちアクラ教区のカテドラルが見えてきました。この後ろに、神言会のガーナ・リベリア管区のゲストハウスがあります。無事に到着。

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ゲストハウスは、30年以上前と同じたたずまいの4階建て。2階以上に20を超える部屋があり、地方の宣教地から所用のためアクラに出てきた宣教師などの宿泊所でした。いまはアクラ市内に様々なグレードのホテルが林立しているので、だんだんとその意義も薄れてきているのでしょうが、昔は他に泊まる場所もなかったので、わたしも所用でしばしば泊まったり、時には病気からの回復のために一週間くらい滞在したものでした。

以前はここに、管区長の事務所がありましたが、現在は事務所は移動しています。

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到着するとすぐに、ゲストハウスの責任者であるフィリピン出身のディオニシオ神父に歓迎されました。実は彼は、1993年から一年間、わたしが主任をしていたオソンソン教会で助任を務め、その後1994年5月以降、わたしから主任を受け継いだ方で、かつて一緒に生活していた仲間です。久しぶりの再会です。

彼に促されて、わたしたち9人は、ゲストハウスの食堂でガーナ最初の食事に。ご飯を中心においしくいただきました。当初はここに全員で宿泊の予定でしたが、ディオニシオ師によると、建物が完成してもうすぐ50年近くになるが、初めて大規模な改修をすることになり、まもなくその工事に入るため、宿泊を断っているとのこと。確かに、部屋はかなり古くなっています。そこで皆さんは海に近いオス地区のホテルに泊まることになり、わたしは同じくオス地区にある管区長館に泊めていただくことに。

オス地区は、独立門や独立広場、初代大統領であるクワメ・エンクルマ廟やアクラ・スポーツ・スタディアムなどがある地区で、管区長館はその昔は大統領官邸であったオスキャッスルに通じる道路沿いにあり、近くには在任中に亡くなった6代目のジョン・アタ・ミルズ大統領の墓所もあります。

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昼食後にホテルのチェックインまでまだ時間があったので、表通り側に皆で歩いて、アクラ大司教区のカテドラルを訪問しました。カテドラルは聖霊に捧げられています。アクラの宣教を託された神言会が、初代のアドルフ・ノーザー司教の時から計画を始め、二代目のジョゼフ・オリバー・バウワーズ司教の時、1957年に献堂された大聖堂です。バウワーズ司教はカリブ海出身の方で、1971年にはカリブの教区へ転任となり、ガーナ人のドミニク・アンドウ司教(後に大司教)にその座を譲るのですが、引退後にガーナに戻り、2012年に102歳で亡くなりました。わたしが働いていたオソンソンなどの地域の宣教のパイオニアです。わたしは彼が引退してガーナに戻ってきてから、一度お会いしたことがありました。

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そして、ドミニク・アンドウ司教は、わたしがオソンソンで働いていた頃の司教様です。当時はオソンソンあたりもアクラ教区の一部でした。オソンソン村まで、一週間、堅信式のために泊まり込みできてくださり、一緒に4カ所くらいの村を回って、800人くらいに堅信を授けた思い出があります。お世話になった方です。

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この二人が、揃って、カテドラルの中に埋葬されています。そこまで出かけて、お二人に感謝しながら祈りを捧げることができました。

ゲストハウスに戻ると、懐かしい面々が待っていました。30数年前、オソンソンの教会で侍者をしていた、その頃の中学生たちです。勉強ができて高校に入学できることになっても、当時は全寮制でしたので、かなりお金がかかります。そのため進学を諦める子どもたちも多くいました。当時、日本からちょっと寄付をくださる方がおられたので、奨学金を設立して、そういった子たちは何名か、親御さんと話し合った上で、高校に進学させて、ある程度の学資支援をしました。その当時教育を受けた子たちが、いまや立派な大人になって、警察官やビジネスマンになっていました。その代表が歓迎のために会いに来てくれました。

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彼らはその後、オソンソンの後輩たちを進学させようと、自分たちで奨学金を設立し、小規模ながらも教育支援活動を続けていてくれます。

わたしはそのままその夜は、アクラ大司教区のジョン・ボナベンチャー大司教様を自宅に訪ね、訪問の挨拶に。ボナベンチャー大司教はわたしと同じ1958年生まれで、聖霊会(男子修道会)の会員。2019年に、最初の教区であったセコンディ・タコラディ教区から移籍となり、その年の3月1日にアクラ大司教に着座されています。

カテドラルからちょっと離れ、その昔はアクラ教区の会計担当司祭の住居であった建物を改装して、大司教館とされています。わたしもその昔、よく、時間外に会計の神父様(当時はドイツ人の神言会会員)を捕まえていろいろ説得するために、夜に訪れた家でした。

大司教館には、二人いる補佐司教のうちの一人、アントニー・アサリ司教様も待っていてくださいました。彼は、わたしが働いていた部族の出身の司教です。(お二人の写真がないのが申し訳ない)

その晩は、神言会の管区長も同行して、司教様たちと一緒に夕食をいただきながら、いろいろとガーナの教会の現状について、お話を聞くことができました。

続く

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2024年8月21日 (水)

2024年ガーナへの旅:その1

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14年ぶりに、アフリカのガーナへ旅をしてきました。記憶にとどめておくために、その概要を記していきます。(上の写真は8月11日、オソンソン村で)

昨年の末頃、現在は目黒教会の助任として働いているマーティン・デュマス神父様を通じて、ガーナから連絡をいただきました。曰く、わたしがその昔働いていた村出身の青年が司祭に叙階される予定なので、2024年7月にガーナに来て叙階式を司式してくれないだろうか。残念ながら、その段階で7月の予定は詰まっていたので、「行きたいのはやまやまなれど、7月は無理なので、もし8月前半ならば可能性があるけれど」と回答しました。

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実はマーティン神父様自身が、わたしが38年前に司祭としての人生を始めた、ガーナのオソンソンと言う村の出身で、14年前に彼の司祭叙階式をするために、わたしはガーナに招かれていました。38年前は、まだ小学生で、オソンソン村の教会の侍者をしてくれていたのが、いまでは司祭で日本で働いているというのも不思議な縁です。(上の写真は14年前のマーティン神父様の叙階式。下は30数年前にオソンソン教会で聖体行列の侍者で十字架を持つマーティン少年)

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しばらくすると、「それでは2024年8月10日土曜日に叙階式を移すので、主司式司教として来て叙階してもらいたい。また叙階の対象の5名のうちひとりがオソンソン村の出身者なので、翌日11日はその初ミサにも参加して、説教をしてほしい」と回答が来ました。喜んでいくことにしました。

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対象の5名は、神言修道会ガーナ・リベリア管区の5名です。上の写真がその一覧です。そのうちのひとり、ダニエル・ナー君(左から二番目)が、オソンソンの出身だと言います。多分、わたしが働いていた頃は小さな子どもだったのだろうと思います。マーティン神父に続いてふたりめですから、うれしい限りです。ちなみにオソンソン村の教会は、当時23カ所くらいの巡回教会を持っていて、その巡回教会の村々出身の司祭は、修道会や教区含めて複数います。しかしオソンソン自体の出身者は久しぶりでした。

ガーナまで結構な長旅ですから、ひとりで出かけるのも、ちょっと不安が残ったので、今回は神言会にお願いして、マーティン神父様をコーディネーターとして同行していただくことにしました。そのうちあわせをしていると、マーティン神父様が、何名かの信徒の方々が一緒に行きたいと言っているが可能かと言います。同行はかまわないが現地での宿や移動手段が不安だと答えると、マーティン神父様が、経験があるので、そういった手配は自分がすると言うではありませんか。それではせっかくですので、広く声がけをすることにして宣伝してみると、なんと7名の方が一緒に出かけてくれることになりました。その中には、かつて38年前に、わたしがガーナにいた頃に、日本政府の海外青年協力隊の隊員として活躍されていて、その頃から存じ上げているご夫婦も、是非ガーナに帰りたいとのことで、参加してくれることになりました。(下の写真は8月12日朝、アゴメニャ教会でミサ後)

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と言うわけで、七名の信徒の方々とマーティン神父とわたし。都合9名で、8月6日の夜、エミレーツ航空便で成田空港を旅立ちました。旅はドバイ経由です。近頃はイスタンブール経由で旅することが多いので、ドバイは何年ぶりでしょう。いまの新しいターミナルになった直後以来の二度目です。

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フライトは順調で、翌7日(水)の午前11時過ぎ(ガーナ時間。日本時間では7日の夜8時)、ほぼ22時間の旅路で、ガーナの首都アクラにあるコトカ空港に到着しました。ターミナルビルが新設されたと聞いていたので見たかったのですが、搭乗機の出口で待ち構えていた前駐日ガーナ大使に連れられて、あっという間に車でVIPラウンジへ。そのままそこで入国審査を受け、しばらくすると神言修道会の管区長も現れ、わたしは管区長の車で、皆さんは旅行中全日程でチャーターした11名乗りのトヨタハイエースでガーナの旅に出発です。(上の写真の2台)

以下次回。

 

 

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