カテゴリー「経済・政治・国際」の11件の記事

2014年4月19日 (土)

糸魚川市のユニークな取り組み@飢餓撲滅の小さな一歩になるか?

カリタスジャパンでは、国際カリタスの主導のもと、2025年までに世界から飢餓を撲滅しようと、現在キャンペーンを行っています。日本では「五つのパンと二匹の魚」と題して展開中です。(リンク先の昨年12月の日記でも紹介しました)現在世界では8億4200万人が飢餓で苦しんでいるにもかかわらず、世界で生産される食糧の三分の一は、廃棄されているという現実。国際カリタスは、まず多くの人がこの現状を知ることをめざしています。そのうえで、各国政府がすべての人の食糧への権利を尊重する法整備をすることや、慈善活動ではなくそれぞれの地域で必要な食糧を生産できるようなシステム構築などを提案していますが、さらにその前提として、一人ひとりが食糧を無駄にしないように意識を変えていくことも重要だと思います。日本でも大量の食糧を輸入しているにもかかわらず、かなりの量を廃棄していることはよく知られています。

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そんな中、日本酒で乾杯をなどを呼びかけている新潟県の糸魚川市が、これまたユニークな取り組みを呼びかけています。先日、糸魚川カトリック天使幼稚園50周年の祝賀会の席上、同じテーブルで隣に座られた糸魚川市の米田市長さんが、盛んにこのことを話しておられました。そして今朝の地元紙、新潟日報のコラムに紹介されていたことから、祝賀会での市長の熱弁を思い出しましたので、紹介いたします。(後列、むかって右から二人目が米田市長)

この呼びかけは、「20・10・0(にーまる・いちまる・ぜろ)運動」と名付けられています。糸魚川市のホームページには、次のようにその概要が記されています

1 乾杯後の20(にーまる)分間は、自席でおいしい料理を楽しみましょう
2 万歳前の10(いちまる)分間は、席に戻ってもう一度料理を楽しみましょう
3 帰るときには、食べ残し「(ぜろ)」 

 歓送迎会や忘年会・新年会等、宴会等の際には、ぜひ幹事さんから一言お声掛けいただき、参加者みなさんで取り組みにご協力ください。

市長さんは、宴会や会合で、いかに食品が無駄にされているか厳しく話しておられました。もちろん、せっかくの地元のおいしい食事がテーブルに並んでいるのだから、それを堪能して欲しいという願いもあるでしょう。それは日本酒で乾杯を、という呼びかけにもつながります。しかし同時に、廃棄される食料をなくしていこうという運動にもつながります。

糸魚川市の同ページには、幹事さん向けの案内書のダウンロードがありますが、宴会でどのように案内するかのシナリオも記してありますが、それ以上に冒頭に、「参加者に見合った量の注文をしましょう」と記されています。無駄が多いからといって、一朝一夕に宴会を辞めることは非現実的ですが、すくなくとも「20・10・0運動」なら、広めることができるような気がします。

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2014年4月 6日 (日)

ルワンダ虐殺事件から20年

Rwanda10th021994年4月6日、アフリカ中央部にある小さな国ルワンダの首都キガリにある空港へ着陸態勢に入っていた飛行機が、何者かによって撃墜されました。この飛行機には、当時のルワンダと、隣国のブルンジの大統領が搭乗しておりました。当時のルワンダ大統領ハビャリマナ氏とブルンジの大統領ヌタリャミラ氏は亡くなります。この事件が、世に言う「ルワンダ虐殺事件」の引き金となったのです。(掲載した写真はすべて、難民キャンプでの撮影です)

この地域で起こった事件は大まかに次の四つに分けて考える必要があります。

  1. 1990年10月1日にはじまった「ルワンダ内戦」
  2. 1994年4月6日、ルワンダ大統領ハビャリマナ氏(Juvenal Habyarimana)の暗殺に端を発する「ルワンダ虐殺事件」
  3. 1994年7月4日、ツチ族中心の新政権が誕生。旧軍を中心にフツ族が国外避難した「ルワンダ難民問題」
  4. 1996年10月、難民が身を寄せていた旧ザイール(現在のコンゴ)で発生した「コンゴ内戦問題」とその後、今にまで継続している大湖地方の混乱

もちろんそれぞれは関連性がありますが、それぞれの中心人物は異なり、個別の問題ととらえた方が理解しやすいからです。

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私は1995年の3月に、カリタスジャパンからの依頼で初めてルワンダ問題と関わりました。当時ザイール(現在のコンゴ)のブカブ市郊外のビラバ村にあった難民キャンプにカリタスジャパンはボランティアを派遣しており、その調整員をするようにと依頼されたのです。結局私は3月の末から5月の半ば過ぎまで、二ヶ月強をキャンプで過ごし、その後何度もキャンプを、そしてルワンダを訪れることになりました。最後に訪れたのは司教になる前年、2003年でした。

長く書くことはできませんが、虐殺に至った経緯などは、かつてサンパウロから出版した「カリタスジャパンと世界」という本に記しました。まだカトリック系の書店には在庫があると思いますので、是非一度ご覧いただけると幸いです。

さて問題の核心は、一般に多数派のフツ族が少数派のツチ族を虐殺した民族対立による事件だといわれているのですが、事はそれほど単純ではなく、そこには様々な国の利害が絡み合い、さらにはルワンダ国内の政治権力闘争も絡み合って、非常に複雑な事象が発生していたということです。どうして虐殺した方がほんの数ヶ月で国を追われる立場になったのか。どうしてそこにいた国連は何もできなかったのか。そもそもどうして民族対立が発生したのか。そして一番大事なことは、何が多くの普通の人を虐殺に駆り立てたのか。

考えてみれば、理解に苦しむことばかりです。民族が違うというだけの理由で、普通に暮らしている人たちが、そして家族の中でさえ、鎌やナタで、はたまた釘を打ち付けた棍棒で、長年生活を共にしてきた人を、隣人を、殺してしまうものなのか。何がそこまで人を駆り立てたのか。

国際社会は、ルワンダの悲劇を、「アフリカのことだから」などと特殊な事例と片付けることなく、そこから人間の性に根ざした感情を政治が利用することによる悲劇発生のメカニズムを学び取り、同じ間違いを犯さないように努めるべきではないでしょうか。同じ事は、日本でもどこでも、同じようにおこる可能性があります。

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ひとつだけ。そもそも生物学的な違いで、民族を定義することは、すでに不可能になっています。現代の私たちは、それほど簡単に白黒をつけて分類できるほどに隔離されて生活をしてきたわけではないからです。ジャングルの中で、外界から長年隔絶された中で生きてきたなら、その可能性はあるのかも知れませんけれど。ルワンダでも、確かに生物学的に異なる民族がそこにはあったものの、長年にわたり同じ地域で生活するうちに、そのボーダーは曖昧になっていました。

アフリカの分割を決定した1884年のベルリン会議以降に植民地化されたルワンダは、ドイツの手を経て第一次世界大戦後ベルギーの手に渡りました。ベルギーは植民地経営の一手段として、現地傀儡(かいらい)政権を設置。そのときに目を付けたのが、ツチ族王政システムです。1923年にベルギー政府は、ツチ族傀儡政権による植民地経営を決定づけるための手段として、ツチ族とフツ族をはっきりと区別することにします。そのために民族名を明記した身分証明書を導入したのです。この身分証明書が、その後94年の虐殺事件の時に大きな役割を果たすことになってしまいます。しかも、すでにツチとフツが長年にわたって共存していたこの地では、ツチとフツを単純に区別することができなくなっていたため、かなり非科学的な手法も用いられたという話も伝わっています。民族意識を明確にすることで対立関係を演出し、植民地経営を進めようとしたのです。

そして第二次大戦後の独立期には、多数を占めていたフツ族が力を持つようになり、1962年に独立後の政権を握ることになります。そして1973年にハビャリマナ氏がクーデターを起こします。そのご同大統領は、自らの部族であるフツ族こそ勝っているのだという運動を開始して、さらに民族対立感情をあおっていくのです。その行き着く先が、内戦であり、虐殺事件なのです。

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虐殺事件が始まった94年4月6日の時点で真っ先にねらわれたのは、実は「ツチ族」ではなく、「フツ族」の穏健派だったという証言もあります。その筆頭でもあったウィリンジマナ首相(女性フツ族)と3人の穏健派閣僚が、真っ先に殺害されてしまいました。大統領の民族対立を激化させる政策に反対していたからです。当時キガリに国連の一部として駐屯していたガーナ軍が、いかにウィリンジマナ首相を保護しようと努力したかの生々しい物語が、ウガンダで出版されています("Guns over Kigali", Henry Kwami Anyidoho、1998、Fountain Publishers, Uganda)。大統領がすでに政敵を抹殺するための暗殺リストを作成し準備していたところに、それを阻止しようとした何ものかが当の大統領を暗殺したために、暗殺リストが暴走して虐殺が始まったと、私は思っています。

いずれにしろ、ルワンダ虐殺事件はあそこだけで起こった特殊な事象ではなく、どこでも、とりわけ、国家主義的意識が高まっている世界の各地で、今後も同様に発生しうる出来事であると思います。あの事件で亡くなられた80万とも100万ともいわれる人たち。その方方の永遠の安息を祈ると共に、同じ間違いを繰り返さないように、祈りたいと思います。

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2007年8月 4日 (土)

ウガンダという国

昨日唐突にウガンダの写真をアップしました。私が長年関わっているカリタスジャパンは、カトリック教会の国際的な開発救援組織である国際カリタスの一員として、国内での社会福祉や災害の被災者支援などの事業の他、国外でも様々な国のカリタスと連携して、開発支援や災害などの救援事業を行ってきました。カリタスジャパンはアジアに存在することから、支援対象はアジアの国々が中心となりますが、同時に他の地域も忘れているわけではありません。その中の一つがアフリカです。アフリカは、世界の将来の命運を左右するような様々な人類規模の課題が凝縮されている地です。アフリカを支援しないわけには行きません。とはいうものの、53もの国がある広大な大陸を網羅することは難しいため、この数年間は、ケニヤ、ウガンダ、ルワンダを中心に支援を行ってきたのです。その中の重要なパートナーの一つが、ウガンダです。(以下、05年10月のカリタスジャパンニュース掲載の拙稿より一部引用)

「ウガンダという国」

『1962年に英国から独立したウガンダは、その後1971年から79年までのアミン大統領時代、その後80年から85年までのオボテ大統領時代に、歴史上稀に見る人権侵害があり、経済状態も悪化した。長い内戦時代を経て現在のムセベニ大統領が1986年に政権の座についたが、ムセベニの内戦を支えたのがカガメ現ルワンダ大統領率いるRPF(ルワンダ愛国戦線)であった。

 約二千三百万の人口のうち、三割程度がカトリック、クリスチャンは全人口の六割程度と言われている。2000年の統計によれば、平均余命は42.93歳といわれるが、それもHIV/AIDSの感染率が非常に高いためだ。ウガンダ政府はすでに90年代初頭からHIV/AIDS対策に力を入れており、全国的な啓蒙策を講じてきた。その結果としてWHOから途上国におけるHIV/AIDS対策の模範国とまで評価されるようになったが、例えば1993年の産院における妊娠中の女性の感染率が31%だったものが、1998年には14%まで減少したなどというWHOの報告がある。しかしながら統計が充分ではない農村地帯では、未だHIV/AIDは深刻な問題となっている。

 合衆国が1996年にウガンダに対する債務の帳消しを他国に先駆けて決定したことなどから、現ムセベニ政権の背後には、合衆国が控えているともいわれる。しかしその支援を受けてウガンダの経済は回復傾向にあり、東アフリカ諸国の中では比較的安定した経済状況だといえるだろう。もっとも2005年の世界銀行「世界開発報告」によれば、2003年のウガンダの一人あたりの国民総所得は240ドルというのだから、貧困が大きな問題であることは間違いない』

今年の夏にも、カリタスジャパンからは、ウガンダを始めケニヤとルワンダへ視察団が出かけることになっています。地球の将来を見据えて、少しですがアフリカのために貢献できればと思っています。

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2007年5月30日 (水)

本音が見えない怖さ

珍しく国会では党首討論があるというので、中継を見ておりました。そのあと、インターネットで中継をしているので、衆議院厚生労働委員会を音声だけ流しながら他の仕事をしていました。別段討論の内容に興味があったわけではなく、この度もまた強行採決があると言われていましたから、その模様を実際に一部始終見てみたいものだと思ったからです。途中で夕食におり、戻ってくると、まさしくその強行採決の瞬間でありました。いやはや、すごいですねえ。どうしてあれが裁決になるのかよく分かりませんが、まあ最初からどういう結果になるかは分かっているのだから、結局は儀式にしか過ぎないのでしょうけれど、与党も野党もすさまじい。与党側で最初から結論が決まっているのなら、野党に発言をさせるのは形式に過ぎず、そんなことを相手にさせるなどということ自体が、人としてものすごい「すさまじい」と感じるのは、政治の素人だからでしょうか。もっとも無理だと分かっていながら、テレビに映ることを意識した野党の力づく阻止もすでにシナリオが決まったショーのようで、それはそれで「すさまじい」。

それにしても、たった一日で新しい法律案が委員会を通過して翌日には本会議を通過(たぶん)するというできごとが、(仮にその内容がどんなに良いものであったとしても)いま目の前で起こっているということを、何も不思議に感じないのであればそのこと自体が、私には恐ろしくあります。だって、ということは、実は、与党が通過させようと本気で思えば、どのような法律であっても、やろうと思えば一日二日で片をつけることが可能だということではないですか。これはすさまじい。

加えて、いやしくも社会保険庁という国家の機関が問題を起こしたのに、国家の責任者たちが、まるで人ごとのように、だから社会保険庁を解体するのだといってしまうことも奇妙に感じます。普通だったら、厚生労働大臣は、例えば不祥事に対して追求されて弁解する立場であって、まるで自分たちが被害者であるかのように、だからあの役所を解体しなくてはならないのだ、そうやって皆さんを救済するのだ、などと言ってる場合ではないような感じがするのです。しかも、素人目には、役所解体はそれだけで大変な作業となるでしょうから、いまはまず支払い漏れなどの諸問題を解決して、それから考えても遅くはないと思うのですが、どうしてこれを急ぐのかよく理解できていません。

この件では与党も野党もどっちもどっちで、ことさらにどちらかに引かれるということではないのですが、議論の裏に隠されている両者の本音が読めない分、なにやら空恐ろしくもあります。でもそれよりも何よりも、現在の与党は、やろうと思えば法律を数日で成立させちゃうことが可能だということの方が、空恐ろしくもあります。

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2007年5月22日 (火)

ルワンダ問題の背景

Rwandaboy 先日、アルバムのところにルワンダ難民キャンプを加えたところ、多くの方々に閲覧いただきありがとうございます。ルワンダ問題は、「ホテル・ルワンダ」などの映画となったルワンダ虐殺問題と、その後に続いたルワンダ難民問題の二つに大きく分けて考える必要があります。勿論その前提となるルワンダの内戦問題や、さらには独立に伴う内紛、さらには植民地支配についても考えることはたくさんあります。掲載している写真は難民問題ですが、その後ルワンダ国内で遭遇した課題は、ホームページなどに掲載してありますし、もし興味がありましたら、拙著、「カリタスジャパンと世界」(サンパウロ刊、アマゾンなどでどうぞ)を読んでいただければと思います。いずれにしろ、94年に虐殺が発生してから13年が経ちましたが、その傷跡ははっきりとルワンダ社会に残されています。そしてその背景は、あまりにもどろどろしていて、考える度に背筋が凍るほど恐ろしくなるものです。

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2007年5月14日 (月)

歴史に残る日

たぶん、50年後くらいの歴史家は、2007年5月14日を、日本の歴史の一つの大きな転換点であると評価するのかもしれません。国民投票法が成立しました。すでにしばしば表明しているとおり、個人としては憲法を必要に応じて改正することに基本的には反対ではありません。ただ宗教者として現行憲法の9条の精神を変えることは望みませんし、信教の自由を守る20条を変更することも望みません。また憲法をまったく変えてしまい新しい憲法を作ろうなどと言うことは、現在の日本の政治体制の変革に他ならないのですから、賛成することは出来ません。

それにしても成立した国民投票を定めた法律にはよく理解できない点が数多あります。それを理解している人はそれでよいと信じておられるのでしょうからその是非を問うつもりはありませんが、しかし例えば最低投票率を定めなかったことに関しては、与党の方々の説明を何度聞いても、申し訳ないがその理由が理解できません。自民党の方々はご自分たちが常に政権を握っていることを前提にして考えておられるようですが、仮に他の政党が政権を握ったとしたらご自分の政党にとって今回法律で定めたことがどういう方向に働くかまでを考えられたのか不思議に思いました。どう見ても最低投票率を定めないのは発議するものに有利だとしか見えませんし、逆に有権者の意識が低ければ低いほど、実は反対派に有利に働くとしか思えません。加えて投票のボイコットを民意の反映としては否定するのもどうなのかと思います。どうしても他に選択肢がない場合、広くボイコットを呼びかけることは通常の意思表明手段であるのではないかと思います。

加えて、特に教育者の影響を、教育基本法の時もそうでしたが、過大に評価しすぎではないでしょうか。そんなに学校教育は思想形成に意味を持っているのでしょうか。仮にそうであれば、同じ教師に学んでいても、まったく正反対の思想を形成することがあるのはどうしてでしょう。同じ学校を出たものが、まったく同じ思想になるなどと考えられません。個々人の思想形成は、実は家庭環境に負うところが大きいのではないかと私は思っています。同一学校の卒業生の思想傾向と、同じ家族の兄弟姉妹の思想傾向を比較してみる事も考えてみてはどうでしょうか。同じ意味で、道徳を学校で教えることが出来るなんて幻想に過ぎないのではないですか。そもそも私たち自身が子どもの頃、学校の道徳や倫理の時間をどのように過ごしてきたでしょう。これが思想形成に意味があるとは思えません。国会議員の方々は子どもの頃、そんなに学校教育に影響を受けて思想を形成してきたのでしょうか。そんな柔な精神の方々ばかりがいる国会とは、ちょっと恐ろしくなります。

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2007年5月 6日 (日)

日曜の午前中のテレビ

今日の日曜日、どこへも出かける予定はなかったので、一人部屋におりました。お昼前にたまたまテレビをつけると、田原総一朗氏の司会する番組で中曽根氏が憲法について語っていました。全体を聞いたわけでもないのですが、ちょっとびっくりするようなことを中曽根氏が仰る。解釈改憲は限界どころか間違っているという論旨で、田原氏に乗せられるかのように中曽根氏は現状では様々なことが違憲だと言い切るのです。そして一番最初に挙げた例が私学助成。憲法解釈でこれまで乗り切ってきたことが、実は違憲であると断言するのに持ち出すいの一番の例が、私学助成であることに驚きましたが、それじゃあ戦後これまでの国のあり方の否定になってしまうではないですか。ここまでは大丈夫、憲法から逸脱してないからといって解釈の幅を広げに広げてきたのは、「ちょっと無理がある」というならまだしも「違憲」といいきってしまっては身も蓋もない。

私学助成が全てではもちろんない議論でしょうが、この件だけに関してもすでに1979年3月13日の参議院予算委員会で、当時の真田秀夫内閣法制局長官が、「公の支配に属する」とはどういう意味であるのかの解釈から、当然私学教育は政府の監督下におかれて公教育の一翼を担うのですからそれに対する助成は問題がないと答弁していることが知られています。「私はもういまや現行の法体制のもとにおいては私学に対して国が助成をすることは憲法上も是認されるのだという解釈がこれはもう肯定的に是認され、かつ確立したというふうに考える」と法制局長が断言し、それ以降も定着してきた問題であったと思います。

数日前にも書きましたが、私自身のアフリカでの生活体験から、憲法は絶対に変更してはいけない神聖な存在などと主張するつもりは全くないのですけれど、憲法をがらりと変えるということはその国の「体制」を変更するということです。いまの憲法ではどうしても出来ないことがあるのでそれをどうにかしたいのであれば、それはその「出来ないこと」を明確にして、どう変えれば何が出来るようになるのか、何が出来ないからどう変えたいのかをはっきりとさせて、少しずつ手直しをすればよいのではないでしょうか。首相は先日「日本国憲法施行60周年に当たっての内閣総理大臣談話」で、「現行憲法の基本原則を不変の価値として継承しつつ、戦後レジームを原点にさかのぼって大胆に見直し、新しい日本の姿の実現に向けて憲法について議論を深めることは、新しい時代を切り拓いていく精神へとつながるものであります」といわれました。そういわれたことがその通りなら、なおさらのこと、自主憲法制定などということにこだわって、まったく異なる憲法を作り出そうなどという「体制変更」のようなことをいわないで、まず改正ありきではなく、根本となる国のあり方についての議論を深めていくべきであろうと感じます。

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2007年3月 5日 (月)

国民の責務

そういえば先日、文部科学大臣には「人権メタボリック症候群」なんていうご発言があったようですが、確かに「権利には義務が伴う」という考えはある意味その通りであろうと思います。もっとも生まれながらに伴う基本的人権については、私の立場から見れば、それは神から与えられたものであって、義務を果たさないから取り上げるかどうかは、神に属する事であるとも思います。

それはさておき、それで、「国民の責務」たるものにはいったい何があるのやら、興味深く感じたのでした。教育基本法の改定のときにも、家庭における教育の義務などで取りざたされましたが、そういった良く取り上げられる責務でなく、そのほかいろいろと法律に記されている「国民の責務」をちょっと覗いてみたら、あることあること。もちろんこれらの責務には罰則規定があるわけではないので、いわば「努力しましょう」と言うことなのでしょうが、それはそれで、日本国民であることはなんとも様々な努力を要することであるなあと思ったのでした。例えば次のような項目が、皆様、用意されております。責務、果たしてますか?

水質汚濁防止法
(国民の責務)
第十四条の五  何人も、公共用水域の水質の保全を図るため、調理くず、廃食用油等の処理、洗剤の使用等を適正に行うよう心がけるとともに、国又は地方公共団体による生活排水対策の実施に協力しなければならない。

自殺対策基本法
(国民の責務)
第六条  国民は、自殺対策の重要性に対する関心と理解を深めるよう努めるものとする。

人権教育及び人権啓発の推進に関する法律
(国民の責務)
第6条 国民は、人権尊重の精神の涵養に努めるとともに、人権が尊重される社会の実現に寄与するよう努めなければならない。

少子化社会対策基本法
(国民の責務)
第六条 国民は、家庭や子育てに夢を持ち、かつ、安心して子どもを生み、育てることができる社会の実現に資するよう努めるものとする。

食育基本法
(国民の責務)
第十三条 国民は、家庭、学校、保育所、地域その他の社会のあらゆる分野において、基本理念にのっとり、生涯にわたり健全な食生活の実現に自ら努めるとともに、食育の推進に寄与するよう努めるものとする。

国等による環境物品等の調達の推進等に関する法律
(事業者及び国民の責務)
第五条  事業者及び国民は、物品を購入し、若しくは借り受け、又は役務の提供を受ける場合には、できる限り環境物品等を選択するよう努めるものとする。

健康増進法
(国民の責務)
第二条 国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。

それにしても、「生涯にわたり健全な食生活の実現に自ら努める」こととか、「できる限り環境物品等を選択するよう努める」こととか、「生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努め」ることとか、「洗剤の使用等を適正に行うよう心がける」など、この国の国民としての責務は多岐にわたり、お正月の一年の目標のようで、たくさんありすぎて、なんとも、大変でありました。

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2007年2月15日 (木)

貧しさ

1973年、アフリカのケニアの首都ナイロビで、世界銀行の理事会が開催されました。世界銀行の理事は、出資率によって投票権が決められているので、国連の場のようにメンバー国がそれぞれ同じ議決権を持っているわけではありません。理事会に集まるのも、大多数が先進国を代表している面々になってしまうのですが、その理事たちを前にして、当時のロバート・マクナマラ総裁は「貧困との闘い」という歴史的な演説を行いました。この演説以降、「絶対的貧困の撲滅」や「BHN(人間の基本的必要)の充足」という概念が、世界的な援助政策の目標として語られるようになったのです。

マクナマラ総裁は、ケネディ・ジョンソン政権の国防長官としてベトナム戦争に深く関わった人物です。マクナマラ氏のその後の演説に目を通したり、「マクナマラ回顧録」(仲晃訳、共同通信社)を読んでみて、氏の考えに共鳴するところも少なくありません。しかし、基本的に彼は「共産主義ファイター」として国防長官を務め、その流れにそって世銀の総裁を務めたと見られます。マクナマラ氏にとっては貧困こそが共産主義の温床であり、当時のドミノ理論に基づき、共産主義の拡大を未然に防ぐための方策としての貧困撲滅を唱え、その推進機関として世銀の役割を拡大していったのだと思います。そのマクナマラ氏の演説です。(以下、拙著「カリタスジャパンと世界」より引用)

『この演説の中でマクナマラ氏は、国内の経済問題に目を奪われて第三世界への援助を渋る先進国を批判しながらこう述べています。「(国内経済政策にのみ目を奪われている国々は)二つの種類の貧困を区別できていない。それは相対的な貧困と絶対的な貧困だ。相対的な貧困とは・・・ある人が他の人よりも少なく持っているというような・・・いつでもどこにでもあるような事だ。しかし絶対的な貧困とは、病気や読み書きが出来ないことや、栄養失調や、犠牲者から基本的な人間としての必要でさえも奪ってしまうような卑劣さによって、卑しめられている人間の状態のことだ。」
 先進諸国に対してマクナマラ氏は、国内の「相対的な貧困」問題と、第三世界で多くの人々が直面している「絶対的貧困」問題をはっきりと区別して捉える必要性を強調します。その上でマクナマラ氏は、「・・・開発援助は倫理的なものだ。・・・豊かで権力を握っているものには、貧しく弱いものを助ける倫理的義務がある。これこそが共同体というものの持っている意味なのだ・・・」と、政治的な思惑から離れて、徹底的に倫理的問題として貧困撲滅に取り組む必要性を訴えたのです。』

13日の衆議院予算委員会で、菅直人議員の質問に答えていた首相は、「絶対的貧困率」を例に持ち出されました。日本は絶対的貧困率が低いではないかと、格差問題での反論に使われたのです。そして「絶対的貧困」を「生活必需品を調達できない」とごく一般的な定義を述べられました。かつてマクナマラ総裁がナイロビの地で「絶対的貧困」という言葉を使って先進国に訴えかけ、それ以来しばしば使われるようになったこの言葉には、その定義をはるかに超えた人類の悲惨さが背景に横たわっているのです。普通の人間の努力で克服することなぞ不可能な、構造としてあたかも運命を決定づけるかのように存在する「絶対的な格差」の問題です。再チャレンジで努力すればどうにか克服することが出来るなどという議論をしている中で、持ち出してくるような程度の言葉ではないと、非常に違和感を憶えました。

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2007年2月14日 (水)

裁量権

 16年間日本で暮らしてきたイラン人の一家が、オーバーステイであったために強制退去になるというニュースが注目を浴びています。特別在留許可に期待をかけたもののかなわず、裁判に訴えたものの、地裁では勝訴したが高裁でひっくり返り最高裁では実質的に審理にはいることもなかったということでした。

注目を浴びているのは、お嬢さんが日本で短大に合格していたことであり、かつそのお嬢さんがこれまでの人生の大半を日本で過ごしてきたという事情から、今更まるで異国である「祖国」に戻すことはないだろうという視点からの関心を呼んだからでした。そして報道によれば、家族の帰国を条件に、お嬢さんの「留学」は認められることになりそうです。これを良い話と感じるのか、悲しい話と感じるのか、法律を厳格に守るのは当然と見るのか、不公平と見るのか、それには様々な視点があろうでしょう。ただ私が、こういう話を耳にするときいつも何となくしっくりこないのは、法務大臣の「裁量」という言葉です。

今回も法務大臣の裁量で滞在が許可されそうになったと言います。うむ、人道的な判断をする、優しい法務大臣の「裁量」が下されまして、なかなか良い話、なのでしょうか?つまり、お許し頂いた大臣には確かにありがたいものの、それほどまでに裁量権に幅のある大臣とは、ちょっと恐ろしい存在だと思うのです。法律ではそう決まっているものの、私の大きな心で許してやるぞと、法務大臣が幅広く判断することができるということ自体が、どうも納得できないのです。別に四角四面にすべて細かく法律通りがよいといっているのではなく、確かに何らかの救済措置として裁量権の範囲は広い方はよいのは当然としても、それは伝家の宝刀として残されるべきもので、そうそう簡単に顔を出すべきものではないように思うのです。根本的には、裁量権に頼らなければならないような事態が続出するのであれば、その状況を生み出している制度なり運用方法なり、または法律自体に何か問題があると考えるべきであって、一大臣の裁量にすべてを任せるようなものではないのではないか。制度や運用や法律に不備があっても、一度決めたことはなかなか変更せず、なにやら御慈悲の裁量権で処理してしまって良しとしていることは、その「裁量」が善の方向に向かうときはよいものの、当然逆も真なのですから、反対方向に「裁量」が働く可能性もあるのですから、ちょっと恐ろしいではありませんか。

よく言われる難民認定の問題にしても、難民条約上はどう見ても難民であるにもかかわらず、国内法的に認定される数は少なく、認定しないで送還するのかと思いきや、裁量権で特別在留許可を出して、実質的に受け入れることが少なくありません。実質的に受け入れるのだから、一見その裁量権による判断は良いことに見えてしまうので批判されることも少ないのでしょうが、しかし、実際に必要なのは難民認定の制度の根本です。殊に「人道」に関わる事柄で、なるべく伝家の宝刀を抜かなくても良いような国家になって欲しいと思うのです。

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