カテゴリー「カトリック教会」の43件の記事

2021年2月 7日 (日)

世界人身取引に反対する祈りと啓発の日(2月8日)

Bakhita

女子修道会の国際総長会議(UISG)は、2月8日を「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」と定めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としています。教皇フランシスコも、2015年2月8日のお告げの祈りの時に、この活動に触れ、積極的に行動するように呼びかけました。

この日、2月8日は聖ジョゼッピーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれました。

聖人はカノッサ修道会の会員でした。同会のホームページにはこう記されています。(写真はカノッサ修道会ホームページより)

「バキータは男3人、女3人の6人兄弟でした。お姉さんは1874年、奴隷商人たちにさらわれました。バキータは7歳のころ2人のアラビア人にさらわれました。1ヵ月間監禁され、その後、奴隷商人に売り飛ばされます。ありったけの力をしぼって脱走を試みましたが、羊飼いにつかまり、間もなく、冷酷な顔立ちのアラビア人に売り払われます。その後、奴隷商人に売り払われます」

その後、様々な過酷な体験を経て、イタリアにおいて1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。同修道会のホームページに聖バキータの次の言葉が紹介されていました。

「人々は私の過去の話を聞くと、「かわいそう!かわいそう!」と言います。でも、もっとかわいそうなのは神を知らない人です。私を誘拐し、ひどく苦しめた人に出会ったら、跪いて接吻するでしょう。あのことがなかったら、私は今、キリスト者でも修道女でもないからです

聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間的な尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために、教皇様は祈ること、その事実を知ること、そして行動するようにと、2015年の世界平和の日のメッセージで呼びかけられました。

2015年のメッセージで、教皇様はこう述べておられます。

「国際社会があらゆる形の奴隷制を終わらせるために数々の条約を採択し、その問題に対するさまざまな政策を行っているにもかかわらず、何百万もの人々、子どもやあらゆる年代の男女が、現在でも自由を奪われ、奴隷のような状態で生きるよう強いられています」

その上で教皇様は、こう指摘します。

「過去と同様、現在においても、奴隷状態の根本には、人を物のように扱うことが許されるという人間の考えがあります。罪が人の心を堕落させ、創造主や隣人から遠ざけるとき、隣人は、もはや同じ尊厳をもつ人、人間性を共有する兄弟姉妹としてではなく、物として考えられてしまいます。神の似姿として神にかたどって造られた人間が、抑圧、裏切り、または身体的・心理的な拘束によって、自由を奪われ、売られ、他の人の所有物にされます。彼らは目的のための手段として扱われているのです」

人身売買・人身取引や奴隷などという言葉を聞くと、現代の日本社会とは関係の無い話のように感じてしまうのかもしれません。実際は,そうなのではありません。一般に「人身取引議定書」と呼ばれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性および児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には,次のような定義が掲載されています。

「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」
(同議定書第3条(a))

すなわち、売春を強制されたり、安価な労働力として,自己の意思に反して、人間の尊厳が守られないような状況下で労働に服させられている人たちの存在は、わたしたちの国でも無関係なことではありません。

今年はタリタクムの主催で、国際的な祈りの行事がオンラインで企画されているとのこと。こちらの頁に案内が掲載されていますので、ご参照ください

なお『タリタクム』とは、同活動のホームページに次のように記されています。

「タリタクム(Talita Kum)は、修道会総長会議と連携し国際総長会議のプログラムのひとつで、人身取引の撲滅に取り組む奉献生活者の国際ネットワークです。日本では、日本女子修道会総長管区長会、日本カトリック管区長協議会との連携により、日本カトリック難民移住移動者委員会内に「人身取引に取り組む部会(略称「タリタクム日本」)が、2017年6月に発足しました」

 

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2020年10月 8日 (木)

教皇様の新しい回勅が公表されました

教皇様は、10月3日、訪れていたアシジの聖堂で新しい回勅に署名され、公表されました。教皇の文書は、多くの場合その冒頭の言葉をタイトルとしますが、今回の新しい回勅は「Fratelli tutti」とよばれています。どう訳すかは定まらないことでしょうが、「兄弟の皆さん」と呼びかけるアシジの聖フランシスコの言葉で始まっています。

手元に英語版がメールで送付されてきたのが前日でしたから、まだすべて読み切れてはいません。回勅について知らせるバチカンニュースによれば、新しい回勅は、いわゆる社会教説(現実世界の諸問題に対して表明される、教会の立場や教え)で、「個人の日常的関係、社会、政治、公共制度において、より正しく兄弟的な世界を築きたい人にとって、大きな理想であると共に具体的に実行可能な道とは何か?」という問いかけに答えるものであると言うことです。

特に教皇様は、この回勅を準備中に新型コロナの状況に直面したことで、兄弟愛と社会的友愛に基づいた正義と平和に満ちた世界を構築する道を考察しておられます。教皇様はコロナ禍にあって、貧富の格差が拡大していることや、利己的な保護主義的考えが蔓延し、助けを必要としている人への配慮が忘れ去られているとしばしば警告されてきました。

たとえば、教皇様は今年の世界難民移住移動者の祈願日メッセージにおいて、世界が感染症対策にばかり目を奪われている陰で、「大勢の人々を苦しめている他の多くの人道的緊急事態が過小評価され、人命救済のため緊急で欠くことのできない国際的な取り組みや援助が、国の政策課題の最下位に押しやられていることは確か」と指摘されました。

その上で教皇様は、「今は忘れる時ではありません。自分たちが直面しているこの危機を理由に、大勢の人を苦しめている他の緊急事態を忘れることがあってはなりません」と呼びかけておられました。この危機に直面することで、誰も一人で生きてはいけず、互いに支え合い連帯を強めなくてはならないとの教皇様の願いが、この新しい回勅に詳述されています。

新しい回勅の中で教皇様は、現代社会の経済システムのはらむ課題に詳しく触れ、矛盾が生み出す様々な悪を指摘した上で、「特にキリスト者に対し、あらゆる疎外された人の中にキリストの御顔を見つめるようにと招いて」います。

また教皇様は、かなりの分量をさいて、「戦争、迫害、自然災害からの避難、人身取引などによって故郷を追われた移民たちの『引き裂かれた生活』(37)を見つめ、彼らが受容、保護、支援され、統合される必要を」説いています。

そのほか教皇様はこの回勅の中で、政治のあり方や、戦争についても触れていますが、特に「正戦論」に対して、ある一定の考え方を提示している箇所が注目されます。終わりの部分で教皇様は、「人類の兄弟愛の名のもとに、対話を道として、協力を態度として、相互理解を方法・規範として選ぶよう」アピールをされています。

2020年に私たちは世界的な規模で、未知の感染症によって命の危機に直面し、また社会がこれまで当然としてきた多くのことを見直す機会をあたえられました。教会も、集まれない現実の中で、それでは教会共同体であるとはどういうことなのかをあらためて考えさせられています。

命を守るための行動は、まだまだ続くでしょう。日夜命を救うための活動に取り組まれる医療関係者に心から敬意を表すると共に、病床にある多くの方に御父のいつくしみ深い手がさしのべられ、健康を回復されるように祈ります。

この現実のただ中で、教皇様はこの回勅を通じて、世界全体の進む方向を見直すように呼びかけられています。守るべきものは賜物である命であること、それも例外なくすべての命であることを明確に示されています。まさしく時宜を得た社会への呼びかけの回勅であろうと思います。

さて、そういう重要な回勅ですが、公式の翻訳が整うまでには、今しばらく時間がかかるものと思います。バチカンのサイトにはすでに8カ国語の翻訳が掲載されていますが、もちろん日本語は含まれていません。これら8カ国語は、最初からバチカンで整えられた公式訳です。

これらの言葉を使っている国の司教団は、うらやましいものだと思います。出来上がっている翻訳を、あとは広めるだけですから、様々な方法がすぐに思い浮かびます。うらやましい。日本語訳は、もちろん日本の司教協議会で行わなくてはなりません。原文が数日前に届いたばかりですから、これからです。中央協議会には翻訳のための職員がいますが、こちらは日常の翻訳業務がありますから、これからまず、どの言語版を底本とするかを決めて、その言語の翻訳者を探さなくてはなりません。もちろん仕事としての翻訳作業と出版作業ですから、それなりの費用が発生します。よく尋ねられる、「どうして無料でネット公開しないのか」というご意見は、申し訳ないのですが、経済的に厳しいものがあります。また公式訳は、それまでの教皇回勅と翻訳の整合性をとらなくてはならないので、原語とその翻訳を、以前の同様の用語の翻訳と合わせるためのチェック作業が不可欠です。そうしないと、たとえば「「いつくしみ」と「あわれみ」のように、同じ原語に複数の翻訳があって、後々に難しいことになってしまいます。どうしても即座に翻訳発行とはなりませんので、今しばらくお待ちください。

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2018年8月26日 (日)

東京教区の皆様へ、お知らせ

(各小教区には、8月24日にファックスで送信した内容です)

カトリック東京大司教区の皆様

 

主の平和

 

福音宣教省直轄である「Redemptoris Mater」神学院設立について(お知らせ)

 

教皇庁福音宣教省は、このたび、アジアにおける福音宣教のため、「新求道共同体の道(ネオカテクーメナート)」の司祭を養成する「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を、東京を本拠地として設立され、同省の直轄運営とすることを決定されました。私宛に福音宣教省長官フェルナンド・フィローニ枢機卿から書簡をもって通知がありましたので、東京大司教区の皆様にお知らせいたします。

 

私が7月末日に受領した福音宣教省長官からの書簡によれば、福音宣教省はアジアにおける福音宣教の重要性を説く歴代教皇の示唆に学び、同神学院の設立を決定されたとのことです。

 

残念ながら私は、同神学院の設立検討のプロセスに関わっていないため、東京における実際の設立の場所や規模、養成開始時期など、具体的な事項に関して、現時点でお知らせできる情報はこれ以上ありません。

 

なお同神学院は教皇庁福音宣教省が直接運営にあたる直轄事業ですので、宗教法人カトリック東京大司教区が行う活動の一環ではありません。

 

教皇様のアジアにおける福音宣教への熱意が、よりふさわしい形で具体化されるよう、聖霊の導きを心から祈っております。

 

2018年8月24日

 

 

 

カトリック東京大司教区 大司教

菊地功

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2018年8月 4日 (土)

あらためて確認する教会の死刑への姿勢

報道されているように、教皇様の裁可を経て、教理省は昨日、カテキズム2267番の記述を変更すると発表し、同時に教理省長官の名で全世界の司教あての文書を公表しました。

カテキズム2267番は、十戒の第五戒である『殺してはならない』を、具体的にどのように生きるのかの教えの流れの中にあり、国家の刑罰としての死刑を取り扱っています。

一般の報道では、「教会が姿勢を転換して死刑廃止に舵を切った」というトーンですが、教会は急に今回舵を切ったわけではありません。

これまでの教会の理解については、わたし自身が以前に書いた『司教の日記』2015年3月6日の記事を参照ください

すべての命には尊厳があり、神の似姿として創造されたとキリスト者は信じているのですから、すべての命はその始まりから終わりまで尊厳ある存在として守られ尊重されなくてはなりません。

しかし現実の世界には様々な事由があり、例えば正当防衛の枠組みで攻撃してくる者の命を奪うことは許されるのか、と言う議論の文脈の中で、教会は国家という共同体を守る手段がほかにない場合、正当防衛として死刑は認められるとしてきました。

これに関してヨハネパウロ2世が回勅「いのちの福音」において命の尊厳を優先的課題としてかたり命の文化を成立させようと呼びかける中で、死刑の問題に触れられました。そこにはこう指摘されています。

「他の方法では社会を守ることができない場合を除いては、犯罪者を死刑に処する極端な手段に訴えるべきではありません」(56)

その後、歴代の教皇は様々な場で死刑の廃止を訴え、教皇庁も国際的な場で、死刑廃止に向けての努力に賛意を表明してきました。

ですから今回のカテキズムの改訂は、そういった流れをさらに明確にしたものですので、教皇フランシスコの個人的おもいではなく、教会の教えの理解の進展と言うことになります。

中央協議会が発表した暫定的な翻訳は以下の通りです。正式な訳は、今後、検討を経て発表されます。

2267 合法的な行政機関が、公正な裁判に従い死刑を用いることは長年、特定の重大犯罪に対する適切な対応であり、たとえ極端ではあっても、共通善を守るための手段として受け入れられると考えられてきました。しかしながら、今日、たとえ非常に重大な罪を犯したあとであっても人間の尊厳は失われないという意識がますます高まっています。加えて、国家が科す刑罰の意義に関して、新たな理解が現れてきています。最後に、より効果的な拘留システムが発展してきており、それによって市民の安全を適正に確保することができますが、同時に、犯罪者から罪を償う可能性を決定的に奪うことはありません。
 これらの結果として教会は、福音の光に照らして次のように教えます。「死刑は認められません。それは人間の不可侵性と尊厳への攻撃だからです」。さらに教会は全世界での死刑廃止のために決然と働きます。

なお、カテキズムは、教義そのものではありません。しばしば『カテキズムに違反している』などという言説を耳にしますが、カテキズムとはそのような性質の存在ではありません。1992年に現在のカテキズムが発表されたときのヨハネパウロ2世の使徒憲章や、97年にラテン語版ができたときの使徒的書簡にも、「カトリック教理の概説書」とか「教会の信仰とカトリック教理の解説」と記されているように、カテケージス(教会の教えを伝えること)を行うための参考書です。

従ってヨハネパウロ2世が記されたように、カテキズムは「一方では伝統的で、・・・同時に、内容は、現代の疑問に答えるため、しばしば『新しい』形で説明されています」。それは「新しい状況や、過去にはまだ提起されていなかった諸問題を、信仰の光に照らして解明する助け」だからです。

すなわち、教会の教義が変更されたわけではなく、21世紀の今を生きる信仰の光に照らして、教会の教えを理解する手引きが明確に示されたと言うことであります。

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2018年7月30日 (月)

7月30日は人身取引反対世界デーです

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2014年以来7月30日は、国連薬物犯罪事務所United Nations Office on Drugs and Crime(UNODC)によって制定された人身取引反対世界デーとされています。(the World Day against Trafficking in Persons)

人身売買や人身取引というと、なにか現代世界とは関係のない、奴隷売買でもあったような時代の昔話のように響きますが、これは日本も無関係ではない21世紀の今の時代の世界的な問題です。

ユニセフのプレスリリースにこう記されています。

「ユニセフ(国連児童基金)と人身取引反対機関間調整グループ(ICAT)は7月30日の「人身取引反対世界デー」を前に、世界で人身取引(人身売買)の被害者として確認できた人の約28%が子どもであることを本日明らかにしました。サハラ以南のアフリカ地域、ラテンアメリカ・カリブ海諸国地域などでは、人身売買被害者に占める子どもの割合はさらに高く、それぞれ64%と62%です。

特に人身売買に巻き込まれやすいのが、難民・移民・避難民の子どもたちです。戦争や暴力を逃れ、あるいはより良い教育や生活の機会を求める子どもたちが、家族と共に正規ルートで安全に移動できることはほとんどありません。そのために、子どもたちと彼らの家族は非正規の危険なルートを取り、あるいは子どもたちはひとりで移動することになり、人身売買業者による暴力、虐待、そして搾取に遭いやすくなります。」

この日を前に、昨日7月29日のアンジェルスの祈りで教皇様は7月30日が人身取引反対世界デーであることに触れ、次のように述べられました。

「人身取引の目的は、被害者を安価な労働力、売買春、臓器売買、物乞い、あらゆる悪行の対象として搾取することにあります。移住が、人身売買の隠れ蓑となり、移住者の中から新たな被害者が生まれています。これは人道に反する犯罪です」

人身取引は、国際条約によって定義が定められています。一般に「人身取引議定書」といわれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性及び児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には、次のような定義が掲載されています。

「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」
(同議定書第3条(a))

日本も例外ではありません。実際に警察によって摘発されている事件も毎年あり、移動の自由などを奪って、ほぼ強制的に労働に従事させるような事例が、人身取引にあたるのではないかという指摘も聞かれることがあります。また被害を受ける人は、海外からの移住者や難民の方々だけではなく、日本人も含まれます。

教皇様と国際カリタスの呼びかけに応えて、カリタスジャパンは難民移住移動者委員会と共同で「排除ゼロキャンペーン(Share the Journey)」を繰り広げています。これは、難民や移住者として来られる方々の体験に耳を傾け、互いを知ることで、排除ゼロの世界を目指し、互いに助け合って生きる世界を目指そうというキャンペーンです。同時に、人身売買の被害者は、教皇様が指摘するように難民や移住者の中に多く見られるのであり、またユニセフが指摘するように、子どもたちの多くが被害に遭っていることを考えるとき、人身取引に反対する意識を共有することも、このキャンペーンにとっては大切であると思います。

わたし自身に自分の人生のストーリーがあるように、すべての人にはそれぞれのストーリーがあり、すべてのストーリーは大切な宝物です。

それはキリスト教では、神が一つ一つの命をよいものとして創造されたと信じているからです。命は、この世界に存在するという事実を持って、すべからく大切な価値を持っています。その命の価値を、何らかの判断基準で勝手に決めることは、人には許されないことだと、信仰者は考えます。

ですから、危険にさらされている命を守るように、たとえ直接の行動が難しかったとしても、そういう現実があるのだと言うことを知り、その認識を通じて、それぞれの国が何らかの行動をとるように促していくことは、共通善に彩られた良い世界の実現に少しでも近づくために、大切なことだと思います。

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2018年6月 2日 (土)

新しい司教が3名誕生@日本

教皇様は先ほど、6月2日ローマ時間の昼12時、日本の教会のために新たに3名の司教を任命されました。

まず、長らく空位が続いていたさいたま教区の司教として、マリオ山野内倫昭(やまのうち・みちあき)師を任命されました。1955年生まれの山野内被選司教は、サレジオ会員で、現在サレジオ会の日本管区長を務めておられます。アルゼンチンで育ち、サレジオ会にもアルゼンチンで入会されていますので、当然、スペイン語に堪能です。

さらに、先頃前田大司教が枢機卿に任じられた大阪教区のために、二人の補佐司教を任命されました。

そのうちの一人はホセ・アベイヤ師。アベイヤ被選司教は、クラレチアン会員で1949年にスペイン生まれ。クラレチアン会の総会長も務められました。

もうひとりの補佐司教は、パウロ酒井俊弘師。1960年生まれの酒井被選司教は、属人区であるオプス・デイの会員で、長らく大阪教区の司牧の現場で働いておられます。

三人の司教様、おめでとうございます。それぞれの司教叙階式については、今後その日程がそれぞれの教区から発表されることになります。

残念ながら、新潟教区の後任司教人事は、まだ決定していないようです。

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2017年9月 1日 (金)

「移民と難民に、受け入れ、保護、支援、統合を」@教皇フランシスコ

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総合的エコロジーを説かれる教皇フランシスコにとって、神からもっとも愛されている存在の人間が、その尊厳を蔑ろにされ排除されている状態は、被造物の有り様としてもっとも受け入れることのできない課題となっています。

特に、難民となっている人々や様々な事由から移住を選択せざるを得ない人々が、生命の危機に瀕している状況は、教皇フランシスコにとってもっとも優先して取り組むべき課題の一つとなっています。そのことは、教皇就任直後の2013年4月に、アフリカからの難民が数多く到達していたイタリア領のランペドゥーザ島(チェニジアに限りなく近いヨーロッパの地)へ、司牧訪問をされたことによって、明確に示されました。

国際カリタスは、教皇フランシスコとともに、この9月27日から、難民の救済に取り組むための国際的なキャンペーンを開始します。(上の写真はキャンペーン呼びかけの国際カリタスポスター)キャンペーンの詳細は、追ってカリタスジャパンから正式に発表となりますので、ここでは触れませんが、そのキャンペーン開始に先だって、教皇様は来年2018年の難民移住者の日のためのメッセージを、この8月にすでに発表されました。

そのタイトルは、「移民と難民に、受け入れ、保護、支援、統合を」とされています。教皇様は「受け入れ、保護、支援、統合を」という四つの言葉を掲げ、具体的な行動を私たちに求めています。

教皇様はメッセージの冒頭で、レビ記19章34節の言葉を引用され、難民や移住者に対する私たちのあるべき態度を指摘します。

「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」

その上で、マタイ福音書25章の「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」の話を参照しながら、こう記します。

「あらゆる旅人がわたしたちの扉を叩くたびに、それはイエス・キリストとの出会いの機会になる」

もうこれだけで、私たちキリスト者がどういう態度でどういう行動をとるべきかは十分に言い尽くされているといえるでしょう。残念ながらこの数年、現実の世界では難民や移住者をできる限り受け入れまいとする方向に歩みが進められています。その行き着くところは、拒絶にとどまらずすでに隣人として暮らしている人たちへの排除であり、極端な場合にはヘイトクライムにまで行き着く恐れすらあります。すでにネット上では、異質な存在への様々なレベルでの攻撃が普通に見られるようになりました。

教皇様はメッセージの中で、 「受け入れ、保護、支援、統合を」という四つの行動を掲げ、それぞれに私たちと、また各国政府、そして国際社会に具体的な行動を求めていますが、その中には、例えば次のような呼びかけが含まれています。(ごく一部です)

    • 人道上の査証発給や、家族呼び寄せの簡素化。
    • 人間の尊厳と基本的人権を守ることのできない母国への送還の禁止。
    • 人間の尊厳をまもるために、安易な身柄拘束の廃止。
    • 法的保護の付与とふさわしい医療の提供。
    • 就労の可能性の提供と、未成年者への特別な保護の提供。
    • 避難国で誕生した子どもの無国籍化の防止。
    • 宗教の自由の保障とそれそれの職能の尊重。
    • 難民を多く受け入れている途上国への支援の強化。
    • 難民や移住者との出会いの機会を増やすことで、文化の多様性をそれぞれの共同体に生かしていく。

詳しくは、追って公式な翻訳が整った段階で、あらためて紹介します。

さてこういった点を指摘した上で、教皇フランシスコは、二つのグローバルコンパクトの実現のために、あらゆる努力を払うようにと呼びかけています。

そもそも「難民」とは、まず1951年の難民の地位に関する条約とその後の1967年の難民の地位に関する議定書に基づいて、国際社会がその存在を認めているかたがたです。第二次世界大戦後の混乱の中で発生した、主に欧州での難民問題に、世界人権宣言の立場から取り組むために誕生した難民の地位に関する条約は、基本的に1951年前に発生した課題だけを対象としていました。その条約から、時間の制限を除いたのが1967年の議定書です。

その条約には、難民の定義がこう記されています。

「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」

そもそも「恐れがある・・・恐怖」という主観的な概念でその存在を定義するのですから、本来は、困難に直面している人を中心に据えた庇護の考え方であったといえます。もっとも、その後の世界では、例えば内戦状態によって、国境を越えない国内避難民が発生したり、経済的避難民が発生したりと、条約が想定していない状態が出現するのですが、それでもそういったそれぞれの状況に対処しながら、国際社会は何らかの庇護を与える努力を続けてきました。

教皇フランシスコは、そういった条約的な考えを超越して、徹底的に、一人一人の人間の尊厳を優先し、今必要な助けを提供することが、一時的には受け入れ共同体に困難をもたらしてしまうかもしれないが、しかし、その行動が共同体自身のひいては人類全体の善につながると考えている点でユニークであると思います。

2016年9月19日に、国連で開催された「難民と移民に関するサミット」において、「ニューヨーク宣言」が採択されました。(その仮訳をこのリンクで読むことができます

ニューヨーク宣言には、難民と移民に関して、次のような対策をとることが約束されています。(国連の2016年9月22日プレスリリースより)

  • その地位に関係なく、すべての難民と移民の人権を守る。その中には、女性と女児の権利や、解決策の模索に対するその全面的、平等かつ有意義な参加を促進することが含まれる。
  • 難民と移民の子どもたちが全員、到着から2~3カ月以内に教育を受けられるようにする。
  • 性的暴力とジェンダーに基づく暴力を予防するとともに、これに対処する。
  • 大量の難民と移民を救出し、受け入れている国々を支援する。
  • 移住の地位を判定する目的で、子どもの身柄を拘束するという慣行に終止符を打つよう努める。
  • 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が再定住の必要性を認めた難民すべてにつき、新たな住居を確保するとともに、国境を越える労働移動や教育制度などを通じ、難民がさらに他国へ移住できる機会を拡大する。
  • 国際移住機関(IOM)を国連システムに組み込むことにより、移住のグローバル・ガバナンスを強化する。

その上でニューヨーク宣言は、二つのグローバルコンパクトを2018年までに成立させることを目指すと公約し、次のように記しています。

「本決議の添付文書Ⅰは、包括的な難民対応枠組を含みそして 2018 年に難民に関す るグローバル・コンパクトの達成に向けた措置を示しており、同時に添付文書Ⅱは、2018 年に安全な、秩序あるそして規則的な移住のためのグローバル・コンパクトの達成に向けた措置を定めて いる。」(宣言の仮約7ページ目から)

グローバルコンパクトは、1999年のダボス会議で当時のコフィ・アナン事務総長が提唱した、企業や団体を包摂した世界レベルでの責任ある行動のための枠組みで、現在すでに、「人権」・「労働」・「環境」・「腐敗防止」の4分野・10原則が成立しています。これに、2018年には、難民や移民に関する二つのグローバルコンパクトが加えられるように、国際社会は動いているのです。

教皇様の呼びかけを、私たちの現実の中でどう実現していくことが可能なのか、考えてみたいと思います。また日本では残念ながらあまり報道されることのない、難民や移民に関する国際社会の動きに、関心を深めていきたいと思います。

9月27日から2年間の予定で始まる国際カリタスのキャンペーンは、日本においてはカリタスジャパンと日本カトリック難民移住移動者委員会の共催で行われます。このキャンペーンが、この課題に多くの方が目を向ける契機となることを願っています。

<9月2日追記>

教皇様のメッセージは、英文をこちらのリンクで読むことができます。正式な日本語訳は今後、カトリック中央協議会事務局で作成し、追って公開されることになります。

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2015年4月27日 (月)

ネパールの大地震救援募金開始@カリタスジャパン

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先日発生したネパールの大地震は、時間がたつにつれ、被害の大きさが世界中に伝わり始めています。前掲記事にも記したとおり、国際カリタスの調整のもと、カリタスインドや米国カリタス(CRS)など、インドに拠点を持つカリタスメンバーから、ネパールに向けての救援活動が開始されています。(写真はカリタスネパールの責任者、パイウス神父が指示をしている様子。右端がパイウス神父)

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カリタスジャパンでは、こういった国際カリタスを中心として行われる救援活動を支援するために、本日より募金の受付を始めました。詳しくは、こちらのリンクのカリタスジャパンホームページをご参照ください。(写真は、カトリック教会の被昇天カテドラルの前に設置された避難用のテントの前で、カリタスネパールのパイウス神父)

募金の宛先は以下の通りです。

郵便振替番号:00170-5-95979

加入者名:カリタスジャパン

通信欄に、「ネパール地震」とご明記ください。

なおカリタスジャパンの受け付ける募金は、被災者に直接分配する義援金ではありません。緊急の被災者救援活動や、その後の復興支援事業といった活動のための募金です。活動は国際カリタスが調整しながら、地元のカリタスネパールを支える形で、各国のカリタスがあたります。また活動だけではなく、緊急の物資の購入にも充てられます。皆様の募金は、カリタスの活動と物資の配給を通じて、被災者の方々に渡っていくことになります。

多くの方の協力をお願いいたします。

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2015年3月29日 (日)

松浦司教、名古屋司教に任命

教皇様は先ほど、3月29日のローマ時間お昼に、名古屋教区のアウグスチノ野村純一司教の引退願いを受理し、後任の司教として、大阪教区補佐を務めるミカエル松浦悟郎司教を任命されました。

松浦司教様は、1952年に名古屋で生まれ、1981年大阪教区司祭に叙階。1999年に大阪の補佐司教に叙階されています。

松浦司教様、おめでとうございます。なお着座式の日程は未定です。

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2015年3月26日 (木)

アドリミナの写真から、その2(3/29写真差し替え)

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アドリミナの写真から、続きを少し。アドリミナの大事な目的の1つ。聖パウロ大聖堂でのミサは、火曜日の午後でした。

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司式は高見大司教。ローマ在住のシスターがたも参加して下さいましたが、なんといっても広い大聖堂ですから。

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聖パウロ大聖堂には歴代教皇の肖像画があり、教皇フランシスコの肖像画も出来上がっていました。

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日本の教会は福音宣教省の管轄です。昨日、水曜の午後にウルバノ大学構内で、フィローニ枢機卿以下関係者と司教団の会合がありました。雨が降り風の強い寒い夕方でした。

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