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2021年12月 1日 (水)

成田教会献堂25周年、佐原教会創設70周年

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11月28日の日曜日、千葉県にある成田教会では献堂25周年、そして佐原教会では創設70周年を記念し、それぞれ感謝のミサを捧げました。

どちらも感染症対策のため、一年遅れのお祝いとなりました。

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まず28日の朝8時から、成田教会の主に外国語グループを中心にミサを捧げ、その中で22名の方が堅信の秘跡を受けられました。その後11時から、再び成田教会でミサを捧げ、こちらでは献堂25周年を記念して改修した主扉の祝福、聖櫃と洗礼台の祝福もおこなれました。

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その後車で1時間ほど掛けて移動し、午後3時から、香取市佐原にある教会で、70周年の感謝ミサを捧げ、こちらでは二人の方が堅信を受けられました。

成田教会と佐原教会の皆さん、そして堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。また両方の教会の基礎を作り上げてくださったコロンバン会の宣教師の方々に、心から感謝いたします。

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教区のホームページによれば、まず、成田教会の歴史は次の通りです。

「最初教会は、成田ニュータウンの中台に、居を構えましたが、一般の住宅を聖堂として使っていましたので、手狭になることを見越して、新聖堂建設の準備は、かなり早い段階から始まっていました。途中、信徒の数が増えたために、1988年には、聖堂の拡張工事が行われました。創立から13年の間、 宣教会コロンバン会のアイルランド人司祭を中心に、信徒がカを合わせて教会の基礎を築いて来ました。1989年に、教区司祭を迎えた教会は、5年後に「公津の杜」に土地を購入することが出来ました。1995年の5月から新聖堂の建築が始まり、同年11月には完成・ 引越をし、12月には、当時の東京教区長・白柳誠一枢機卿と森一弘補佐司教の共同司式による、盛大な献堂式が行われました。」

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そして、佐原教会については、こう記されています。

「ここにカトリック教会が出来たのは、1951年、聖コロンバン宣教会のフォード神父様が、荒れた澱粉工場の跡地に聖堂を建設した事から始まっています。そして1955年、2代目のヘイデン神父様が、教会向かい側の隣地に白百合幼稚園を設立し、やがて、その運営をお告げのフランシスコ姉妹会にお任せになりました。その後、聖コロンバン宣教会が佐原を引き揚げてから後、2003年からは、学校法人愛心学園に移管され、現在に至っています。」

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以下、午後3時から行われた佐原教会のミサでの説教の録音から起こしたものを加筆訂正した原稿です。

佐原教会 創設七十周年ミサ

教会創設70周年、おめでとうございます。

今日の福音には、世の終わりの出来事を述べるイエスの言葉が記されていました。待降節の前半の2週間は、世の終わり、主の再臨を意識しながら考えるときで、後半の2週間は幼子の誕生、クリスマスに向けての準備をすることに集中します。
どちらの時期にしても、待降節という言葉に記されている、「待つ」ということ、降りてくるのを待つというのが待降ですから、「待つ」ということを考えるときであります。

わたしたちが何かが起こるのを待つというときには、当然いろんな待ち方がそこにはあります。
昔、私はアフリカのガーナというところで主任司祭として8年間くらい、山奥の村の教会で働いていました。その村には、教会の自動車くらいしかなくて、自家用車なんて存在しない。公共の交通機関も、乗り合いのバスというよりトラックの荷台を改造したような車が、村と村や町を結んで走っているんですよね。街へ出かけて行く人たちはみな、そのバスが来るのを待って乗って出かけていくんです。
私の働いていた村からバスが通過する表の通りまで、1時間くらい歩かなくちゃいけないのですけれども、みんなが朝、「今から町へ行ってきまーす」と出かけていくんです。

そのうちの何人かは、実際、町へ行くんですけれども、だったい何人かは行けずに帰ってくるんですよ。朝出かけていってから何時間かすると、トボトボとしょげて戻ってくる。で、「どうしたの?」と聞くと、「いやあ、ちょっと、バスに乗れずに行けませんでした」と。
最初の頃はなぜかなと思っていたのですが、山の中のその街道沿いのところに、バスを止めるスポットがある。止めるスポットはあるけれど、決まった停留所も、決まった時刻表もないんです。時刻表がないので、道端でバスが走ってくるのを常に待ち構えていなくてはいけないんですよ。

で、そうするとバスを待って交差点の辺りに何人かの人がたむろする。ということは、人が集まる。何時間か人が集まり、たむろするところには、必ず自然にできるものがあるんですね。それは飲み屋です。飲み屋ができるんです。

バスが来るのを待っているけれど時刻表がないので、いつ来るかわからない。定期的に走ってくるわけじゃないので。朝の時間帯に町へ行くのがワーッと来て、午後の時間帯に帰ってくるような形で、何台かが走っているわけです。そうするとその飲み屋です。当然、飲み屋に強い人と、飲み屋に弱い人が、この世には存在しますよね。どこでも存在しますよね。飲み屋に弱い、つまり、酒に弱いという意味じゃなくて、誘惑に弱い人は、喜んで飲み屋に行って酒を飲んで、そのまま気が付いたらバスは行ってしまっていたということになる。(笑)

でも誘惑に強い人は、飲み屋に飲まれることなく、道端にしっかり陣取って、耳を澄ましている。バスが必ず停まってくれるわけじゃないんです。停留所があるわけではないので。そこで、乗りたいってしっかりと意思表示をして、止めなくちゃいけない。だから、よく耳を澄まして、トラックが来たら道端で手を振ってサッと止めて、サッサと行っちゃうわけです。誘惑に弱い人は、そこで楽しくお酒を飲んで、「あれ、いつの間にかお昼になってしまった」と。で結局、町へ行くこともできずに落ち込んで帰ってくるんですね。
待つということには、受け身で待つ待ち方と、積極的に待つ待ち方と、両方あるんだという話です。

この待降節に私たちが求められているのは、ただただダラーっと何もしないで、休んで待っているという待ち方ではないのだと思います。積極的に待つ、まさしく「いつも目を覚まして、祈りなさい」と主イエスご自身が仰っているように、常に耳を澄ませて、常に目をしっかりと見開いて、いつ主はやってくるんだろうかということを、積極的に探しながら待つ姿勢というが、求められているんだと思います。それが私たち信仰者の待つ姿勢であります。

教会はこの2年間くらい、日本だけではなくて世界中どこでも、新型コロナ感染症のために集まることが出来ずに、非常に厳しい状況の中で教会活動を行ってきました。

教会は、狭いところに沢山の人が集まって一緒に歌を歌ったりするので、三密のオンパレードですから、この感染症には非常に弱いわけですよね。なるべく距離をとってみたり、なるべく換気をしたり、いろんな対策を取ったとしても、互いのいのちを守るためには、多くのところで公開のミサを中止するという決断もせざるを得ませんでした。

今までは当たり前のように、日曜日になれば教会に出かけて行っていた。教会も、日曜日なんだから教会に来て下さいと呼びかけていたのが、この2年間は、来ないで下さいと、なるべくみんな家にいてお祈りして下さいと、お願いをするようになってしまった。

私自身も、来ないで下さい、主日の義務は免除ですとお伝えしました。そうしたら、余談ですが、主日にミサに与ることが義務だということを知らなかった人が、いたんですよ。

主日にミサに与るのは義務なので、感染症の状況での特例としてそれを免除しているのですが、その来ないでというときに、それではどう対応するのかということです。つまり、「あーよかった、これで日曜日に教会へ行かなくて済んだ」と思ってリラックスしてしまうのか、そうじゃなくて、行けないからこそどうしようか。聖書を読むのか、聖書と典礼を読むのか、インターネットでミサの配信を観てみるのかなど、何もできないときにどう対応するのかという、積極的な対応が大切ですよね。

ですから、実はこの2年間の厳しい状況は、私たちによい信仰の訓練の時を与えてくださっているとも言えるかと思います。
今までは、教会に行って、神様からお恵みを頂くということばかり考えていたんですけれど、自分からそれを求めてゆく、探求する。自分が工夫して神様の恵みをいただくために行動する。自分から積極的に一歩を踏み出すということを、私たちはこの2年間で訓練されているように思います。

せっかく、自分から積極的に神様からの恵みを頂こうとするようになった今だからこそ、これをもう少し育んで、それぞれの人が一所懸命信仰生活を生きるようになったら、このコロナの感染症の制約がなくなったあとでは、素晴らしい教会共同体が誕生するのではないでしょうか。今までなかったような一人一人が行動する教会共同体が、そこにできていると期待しています。

まだもう少しの間、私たちは面倒なことを心配しながら、慎重に教会活動を進めてゆかなければならないと思いますが、その中にあって、それぞれがいったいどうやって神様の再臨を、イエスの再臨を待つことができるのかということを考えながら、信仰生活を歩んで参りたいと思います。

今日この佐原教会は、創立から70年という一つの節目を迎えることになりました。2千年の教会の歴史は、常に新しくされながら前進を続ける事の繰り返しであります。古くなって消えていってしまうのではなくて、常に新しく変えられていくのが教会の歴史なのですから、この70年の歴史を土台にして、次の100周年、あと30年ですよね、それを目指して新しく変えられていく。どうしたら今の時代の中で信仰を生きる教会になって行くのかということをあらためて考え、新たにされる。新しく生まれ変わる機会にして頂ければと思います。

心から皆さまにお祝いを申し上げるとともに、次の100周年に向けて新しく変えられていく勇気をもって、神様に豊かな聖霊の照らしを一緒にお祈り頂ければと思います。

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2021年11月18日 (木)

東京大司教区のミャンマーデーは11月21日

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東京教区の2021年ミャンマーデーは、来る11月21日、王であるキリストの主日です。 この日はミサの中で、ともにミャンマーの平和のために祈りましょう。またこれまで通り、ミャンマーにおける神学生養成を支援するために献金をお願いします。(写真は2019年2月、ミャンマー北部マンダレー教区のマルコ・ティン・ウィン大司教と)

ミャンマーデーは1979年に始まりましたが、その起源はさらに時代をさかのぼり、戦後のケルン教区による東京教区支援が始まりです。2004年2月、東京とケルンの友好50周年を迎え、当時の岡田大司教様のメッセージには、こう記されています。

「1979年、両教区の友好25周年にあたり、当時の白柳誠一東京大司教(後に枢機卿)は「ケルン精神」を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の信者に呼びかけました。そして、来日した当時のケルン教区長ヘフナー枢機卿と白柳大司教はケルン精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマー(旧ビルマ)の教会を支援することに合意しました。こうして東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけることになったのです。ミャンマーが支援先に選ばれたのは当時ミャンマーが最も貧しい国の一つであり、わたしたちの援助を非常に必要としていたからであります。」

また、2004年1月22日付けで、岡田大司教様の次のような言葉が教区ホームページに掲載されています。

「ところでわたくしは1月8日から13日まで、ミャンマーを訪問し、ミャンマーの司教様方と話し合うことができました。その中で、ミャンマーの教会の活気に触れることができ、深い感銘を受けました。また、お互いの友好関係を再確認することができました。25年前、白柳枢機卿様がケルンの精神にならって始められたミャンマー(旧ビルマ)との友好関係を、今後より確かな、意味のあるものにしたいと考えております。ミャンマーには約240人の大神学生がいますが、司教様方が一致して望んでおられることは、この神学生たちのために適切な勉強と生活の場を整えることであり、この面での援助を期待していることも分かりました。東京教区にできることはわずかかもしれません。しかし幸い、ケルン教区が東京教区と協力して、ミャンマーの教会への援助を申し出てくださっています。」

白柳枢機卿様に始まり、岡田大司教様の時代を経て今に至るミャンマーデーです。特に今年は、ミャンマーでのクーデターの後、混乱する現地の平和を祈ることも、大事な意向となっています。ケルン教区との関係やミャンマー支援の始まりについては、教区のホームページのこちらをご覧ください。

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昨年2月、コロナ禍直前に、東京教区のミャンマー支援を担当するレオ神父様、高木健次神父様を中心に、わたしも含めて数名で訪問団を結成し、ミャンマーで東京教区が支援する神学院などを視察して友好関係を深めてきました。その時点では、直後にコロナ禍が始まったり、その後にクーデターが発生するなど、全く想像もできませんでした。

この状況で、現地とは自由に行き来ができませんが、断片的に、神学生の養成の継続などについて情報は伝わってきます。ミャンマーに16ある教区全体の哲学過程の神学院(2年間)として、マンダレー大司教区のピンウーリンに設置されている神学院では、東京教区の支援で、これまでに宿舎や教室、食堂、図書館、ホールなどのために2棟が完成しています。昨年2月の訪問時には3棟目の起工式を行いました。神学生たちのためにもお祈りください。

追記(2021年11月19日)

今年のミャンマーデーに合わせて、担当者のレオ神父様のメッセージと、マルコ大司教様のメッセージが東京教区ホームページに掲載されています。こちらのリンクから

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2021年11月17日 (水)

赤羽教会堅信式ミサ

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11月14日は貧しい人のための世界祈願日でしたが、赤羽教会で堅信式ミサを行いました。赤羽教会は、JR赤羽駅の目の前の好立地。コンベンツアル聖フランシスコ会の担当する小教区で、現在の主任司祭は同会会員の平神父様です。

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堅信を受けられたのは4名のお子さんたち。おめでとうございます。聖堂はまだ入堂制限をしているので、一部の信徒の方は、信徒会館ホールで映像で参加されました。またこの日のミサの中では、七五三の祝福も行われ、5名の女の子たちがメダイを受け、これまでの成長に感謝しこれからも命をより良く健やかに生きていくことができるように、祝福を受けられました。

説教の冒頭でも触れましたが、侍者の男の子の元気いっぱいな「かみのみことば」という声が、朗読の後に聖堂に響き渡りました。確かに朗読されている言葉は、神のみ言葉です。それを認識させる力強い呼びかけでした。

折しも教会は、11月21日から28日まで、聖書週間を迎えます。中央協議会のホームページにはこう記されています。

「聖書週間は、1976年5月の定例司教総会で、聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための全国的な運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」とすることが決定されました」

現在わたしは、日本聖書協会の副理事長を務めさせていただいておりますが、日本聖書協会からも、この聖書週間に合わせて献金のお願いが届いているかと思います。今年の聖書協会からの献金のお願いに、わたしは以下のように記しました。

 「『教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬って』きました(啓示憲章21)。わたしたちの信仰生活にとって、聖書は欠くことのできない柱であり、典礼において朗読される御言葉を通じて、主はわたしたちとともにおられます。
 感染症による困難のため、わたしたちはこの数ヶ月、皆でともに集まって祈りをささげることが難しい状況にあります。わたしたちが主の御名によって集まるとき、そこに主はともにおられると約束されているのですから、わたしたちの信仰にとって教会に集まることは大切です。それが出来ないとき、聖書のみ言葉を通じて主の現存を心に感じることは、わたしたちの信仰の絆を深め、御言葉は霊的共同体とわたしたちを、信仰の絆で結んでくださいます。
 そのためにもより良く翻訳された聖書の存在は重要です。世界各地で取り組まれている聖書の翻訳事業のために、また視覚や聴覚の障害とともにある方々にも神の御言葉が届けられ、信仰の絆に結ばれるよう、点訳・手話聖書の事業を推進するために、皆様のご支援をお願いします」

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以下、赤羽教会でのミサの説教録音からの書き起こしを手直ししたものです。

赤羽教会堅信式ミサ
2021年11月14日

先ほど、朗読をしていただきましたが、その朗読のあとに、侍者が、「神のみことば」と大きい声で唱えられましたね。あぁ、素晴らしいなと思いました。

どうしてかというと、ミサの中で朗読台から朗読される聖書の言葉は、国語の授業のときの朗読とは全然違うものだからです。このミサの中で、この朗読台から聖書が朗読されるときは、それは神のことばが朗読されているんです。ここから告げられるのは「神のことば」であって、単なる聖書の朗読ではないのです。

神様は、様々な方法で私たちに語りかけて下さいますけれども、特に大切なのは、このごミサの中での二つの主の現存です。そのうちの一つはもちろん、ご聖体の秘跡です。このミサの中でイエス様はここにおいでになる。イエス様はパンと葡萄酒の形をとって、私たちの間に実際にいて下さるということ。

そしてもう一つは、ミサの中で聖書が朗読されるとき、神のみことばのうちに神様はいて下さるという、神のみことばにおける現存です。ここで朗読される聖書のことばは、誰かが書いた本の朗読ではなくて、まさしく神のことば。神のみことばがいま語られたのだということをはっきりと告げる。。そのために、はっきりと「神のみことば」と告げることは大切ですし、はっきりとその事実をここにいる皆が意識するということが、とても大切だと思います。

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今日のマルコによる福音は、「王であるキリスト」が次の週に控えており、ここで一年間の典礼の暦が終わるわけで、そうするとどうしても、世の終わり、時の終わりを考えさせるような朗読が記されます。同時に私たち自身の、一生涯の終わりということも考えさせられます。

私たちはいつでも、そのときのために備えていなければならない。そのためには、「時のしるし」をしっかりと見極めないといけない。様々な形で神様は私たちに語りかけるけれども、「時のしるし」をしっかりと見極めて、正しい判断をしなさい。先ほど朗読した福音は、そう告げています。

この世の中で起こっている様々な出来事を通じて、神は私たちにいろんなことを語りかけて下さる。その語りかけを知ろうと努力をすることが、とても大切なことだということ。その最たるものが、このミサの中で朗読される神のみことばであり、聖書のことばによって、神は私たちに様々なことを語りかけて下さっているということなんです。

余談ですが、来年待降節から典礼の式次第が変わり、侍者ではなく朗読する人が「神のみことば」と言って、みんなが「神に感謝」と答えるようになります。本当は、朗読をする前に、これから朗読するのは神のことばですと宣言して朗読した方がいいと思いますけれども、典礼はそうなっていないのでね。

いずれにしても、朗読が終わったあと、「神のみことば」と宣言する意味は、ミサの中で朗読される聖書が、まさしく「神のことば」であるということを告知すること。したがって、神が今このミサの中で、私たち一人一人に何かを語りかけようとしておられるのだということを意識させることです。そのことを心に留め、朗読される聖書のことばに耳を傾け、そして心を向けて頂ければと思います。

今日の「聖書と典礼」の開いたところ、年間第33主日(緑)の下に、「貧しい人のための世界祈願日」と書いてあります。

教皇フランシスコは特に、貧しい人たちに対する思いを、とても強く持っておられます。貧しい人と一言で言っても、ただ単にお金がないといった金銭的な貧しさだけでなく、社会の中の、いろんな意味で生活が厳しい状況に置かれている、命の危機に直面している、たくさんの人たちに対する思いです。

教皇様が日本に来られたとき、東京のカテドラルで青年たちとの集いで話された中に、マザー・テレサのことばを引用しながら語ったところがあります。それは、人間関係がない、誰からも思いを寄せられていない、孤立している、孤独の中にある、それこそが愛の欠如であり、それこそがまさしく貧しさなんだということ。それを強調されました。(「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」)

貧困のうちにあって、誰からも面倒を見てもらえず、忘れられ去られている人たち。難民となって住み慣れた故郷を離れ、海を渡り漂着したけれども誰からも助けてもらえない人たち。様々な理由から孤立のうちに誰からも思いを寄せられず、忘れ去られているような人たち。様々な意味での貧しさ、お金のないことの貧しさ、誰からも心をかけられないことによる心の貧しさ、様々な貧しさがこの世界にはあって、それらすべては人間関係の欠如、思いやりの欠如、支え合おうとする心の欠如、そこから生まれているのだということを、教皇様は強調されています。

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今年の貧しい人のための世界祈願日のテーマとして、「貧しい人たちはいつもあなた方とともにいる」という聖書のことばが引用されています。その貧しさは、今言ったように、単にお金がない貧しさという意味に限定されるのではないんです。人間関係が断たれてしまって孤立している人たち、誰からも助けを得られない状況に置かれている人たち、法律的に厳しい状況に置かれている人たち、様々な意味での貧しさを抱えて生きている人たちは、常に私たちの周りにいる、私たちとともにいるんだということです。だから、常に助けを求めている人のことを忘れずに、心に掛けていなさいということ。

特に、いまのこの新型コロナ感染症が広がる中で、私たちは人間関係を断ってきていますよね。教会でも、残念なことに人数制限をしているため、みんなが一緒に集まることができない中で、どうしても人間関係が希薄になってきます。なるべく人と会わないように、なるべく人と関わらないように、そういう行動を優先していると、人に対する思いやりが欠けてきて寛容さを失い、ギスギスした殺伐とした社会が私たちの周りに広がってきます。その殺伐とした社会の中で、人の命を大切にする、思いやりの心を持つなどということは、どんどん忘れ去られてしまっているんです。

そのような中で教皇様は、人はやっぱり支え合って生きていかなければならない。人は連帯のうちに生きていかなくてはならない、ということを常々強調され、この貧しい人のための世界祈願日を5年前に定められました。

教皇様は、ただ語るだけではなく、具体的に目に見える形で行動され、模範を示し続けてこられました。それは、わたしたちがそれぞれの場で同じようにするように、同じような心配りをするように、同じように思いやりを持って支え合いなさいということを、目に見える形で示し教えておられるのだと思います。

教皇様のその模範にしっかりと倣い、それぞれ生きているこの日本の社会の中で、思いやりの心、支え合う心、互いに連帯し合って命を生きてゆく心、命を守ろうとする心、それを大切にする生き方をしていきたいと思います。

今日、堅信を受けられる方々は、洗礼に始まり、ご聖体、そして堅信と、三つの秘跡を受けることで、キリスト教徒になる入信の過程が完成します。洗礼を受け、聖体を受け、そして堅信を受けることによって、言ってみれば一人前の大人のキリスト者になっていくわけです。つまり、独り立ちをするので、キリスト者としてこれから生きていく責任がそこには生じてくるんですね。

もちろん、私たち一人一人は弱い者ですし、原罪に囚われ、様々足りないことを抱えて生きています。完全なキリスト者として生きなさいとイエス・キリストが教えられたことを、毎日完璧に守って生きるということ。それは目指したいけれども、なかなかそうはできないのです。

そんな弱さの中で、やっぱり自分は完全なものになれないんだと認めたとき、それまで外からの助けを拒んでいた壁が崩れ去り、聖霊の助力、聖霊の助けが働くことができる。聖霊が私たちを様々な賜物で満たして、私たちを後ろから支えて下さるのです。

ですから、その聖霊の助け、聖霊の賜物に感謝しながら、しっかりと信頼して生きていこうと決意をするというのが、この堅信式の中でとても大切なことだと思います。

これから先、神様から与えられた呼び掛けに応えて、一人前のキリスト信者として責任を果たしながら生きていくのです。そのためには、私には神様からの助けがいつも必要なんですと、聖霊の力で助けて下さい、聖霊来て下さい、と毎日お祈りを続け、聖霊の賜物にしっかりと信頼しながら生きていって頂きたいと思います。

 

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2021年11月10日 (水)

死者の月、追悼ミサ

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11月は死者の月です。毎年11月の第一日曜日には、カテドラル、府中墓地、五日市霊園で、それぞれ教区主催の合同追悼ミサが捧げられていますが、昨年と今年は、感染症の状況の中で多数が集まる行事が難しいため、中止となりました。

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そこで今年は、11月7日の主日が教区の追悼ミサの日に当たっていますので、この日は、あきる野教会へ出かけ、午前11時から主日ミサを一緒に捧げさせていただきました。あきる野教会は教区の五日市霊園の隣りにある教会です。ミサには大勢の方が集まってくださいました。ミサ後に、あきる野教会の方々はお花を持って、五日市霊園に墓参に出かけられました。わたしは、霊園の麓にある教区の合葬墓の前で、追悼のお祈りをさせていただきました。

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五日市霊園は山の斜面にある広大な霊園で、あきる野教会の方々も、関係している墓所を巡るだけで、2時間はかかるとのこと。この日は、各地から大勢の方が、墓参に訪れていました。

なお、あきる野教会は、青梅教会と兼任で主任を務めてくださっていた李神父様が、派遣契約期間が終了してこの10月に所属するソウル教区に戻られたこともあり、現時点では主任司祭が不在です。大変申し訳ないと思います。なんとか司祭の当番を決めて、主日ミサは確保したいと思いますが、正式には来春の定期人事異動で、担当する司祭を任命いたします。

以下、当日のミサ説教の録音から起こして整理した、説教原稿です。

2021年11月7日あきる野教会 主日追悼ミサ

毎年11月の第1日曜日には、教区合同追悼ミサが執り行われます。本来であれば、本日午後にカテドラルで、わたしが追悼ミサを捧げるところですが、現在の感染症が収まらない中で大勢が集まることが難しく、昨年も今年も、合同追悼ミサは中止ということになりました。

しかしながら、亡くなられた方々のために祈ることは、大切な教会の伝統ですし、地上の教会と天上の教会の交わりの中で私たち自身の霊的成長のためにも、死者のために祈ることは大切なことです。そこで、今年は、あきるの教会にお邪魔させて頂き、亡くなられた方々の永遠の安息のため、一緒にお祈りを捧げることとさせて頂きました。ミサ後にはお隣の五日市霊園でもお祈りを捧げようと思います。

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新型コロナ感染症は、この社会の多くを変えてしまいました。いろんなことができなくなってしまった。集まることができない、一緒に祈ることができない。しかしできなくなっただけでなく、新たにできるようになったこともありました。

たとえばオンライン会議。実際に移動することなくインターネットで、自分の家に居ながら会議ができるようになりました。移動の時間と費用が節約できます。そしてもう一つ。男性が料理をするようになったと耳にしました。毎日家に居るようになったので、男性が自分で料理をするようになった。私も毎日夕食を自分で調理するようになりました。今まで一度も料理などしたこともなかったんです。東京の司教館の隣には「ペトロの家」という引退された大先輩の司祭の家があり、そこの厨房には業者が入っているので、わたしは以前はそちらへ食事をしに行っていました。ところが、感染対策のこともあり、高齢の司祭が大多数ですから、去年の半ば頃から、ペトロの家に食事に行くのを控えるようになりました。それで、自分で作るようになりました。

そうすると、当たり前ですが買い物に行かなくちゃいけない。関口教会の前の坂道をダラダラ降りて行くと、江戸川橋の交差点のところにスーパーマーケットがあるんですね。先日の夕方、そこまで買い物に行きまして、そのちょっとした間に二つのことを目撃しました。その二つの出来事を目の当たりにし、今この感染症の影響が、社会に深い傷を残していると感じたことがありました。

一つは、坂道を降りて行くと首都高速が通っていて、その下で子どもが大きい声で泣き叫んでいるのです。小さな子が、ものすごい大きな声で泣いているんです。どうしたのかなと思って覗き込んだ瞬間に、お父さんが、まだ若い、たぶん20代か30代前半くらいのお父さんが、ものすごい勢いで怒り始めて、これは大変な剣幕だなと思いましたが、周囲でもいろいろな人が心配そうにのぞき込んでいました。

二つ目は、今度はタクシーがお客さんを下ろすために止まったんですが、そのタクシーの後ろの部分がちょっと横断歩道に掛かっていた。ちょうどその前で高齢の男性が、信号が変わるのを待っていて、信号が変わったとたんに彼はタクシーをバーンって叩いた。で、運転手さんが慌てて出てきたら、すごい形相で、『こんなところに車止めていいと思ってんのか!』と大声で怒鳴りつけたのです。そんな怒んなくていいのに、ちょっと避けたらいいのにと思うことなんですが、ものすごい勢いで怒鳴り付けていて。タクシーの運転手さんは、さすがに喧嘩するわけにいかず一所懸命謝っていました。

買い物をして戻ってきたら、さっきの子どもが泣いていたところに警察官が来ていました。さすがに近所に住んでいるどなたかが警察を呼んだみたいですね。それほどの怒り具合だったんです。

たった20分くらいの間に、心の余裕を失ってしまった現実を目の当たりにした思いがします。多少なりとも恐怖を感じることでもあるし、悪くすれば命に係わることでもある。先日の電車の中での事件のように、人の命を奪うような、とてつもなく殺伐とした社会が、今私たちの周りに広がっているような気がして仕方がないのです。

もしかしたらすでに、だいぶ以前からそのような殺伐とした社会であったのかもしれません。けれども、やはりこの2年の間、私たちはとても不安に過ごしていた結果なのだと思います。この先どうなるんだろうと言う不安です。新型コロナ感染症という病気がどんなものかよくわからない。実際に重篤化する人や亡くなる人がいる。いつまでこの状況が続くんだろう。ワクチンを打って、何ともない人もいれば副作用がある人もいたりとか、いろんな未知の出来事が私たちの周りで起こっている。

単なる不安ではなく、実際に生きて行くことができるのかという、命に関わる不安。不安の暗闇の中を彷徨っている状況です。どこをどうしたらいいのか、わからない中で、私たちは答えを探して彷徨っているわけですね。暗闇を手探りで歩いている状況です。暗闇の中を手探りで歩いていると、どうしても疑心暗鬼になる。何でもかんでも疑ってかかるような心持ちになってくる。

この疑心暗鬼が生み出す不安は、どんどんどんどん積み重なっていくと、心は非常にとげとげしくなる。寛容さを失って行く。つまり、自分を守ろうとして、自分の命を守ろうとして、寛容さの許容範囲がどんどんどんどん狭まっていくのですね。自分を守りたいと思うので、どうしても利己的な心になり、他人のことを受け容れる心の余裕がなくなってしまう。寛容さが失われていくのです。今まさしく、私たちの日本の社会だけでなく世界中で、社会の寛容さが失われてしまっている気がいたします。

寛容さを失った社会は、人の命を危機に陥れる可能性に満ちた社会となります。病気も人の命を危険に陥れますが、その病気が社会にもたらした状況が、別な意味で人間の命をとてつもない危機に直面させている。寛容さを失うと、そこから立ち直るのは大変です。たとえば、仮に年が明けて政府がこれで安心ですと、薬もできましたから大丈夫ですとアナウンスをしたところで、社会の状況はすぐに元に戻るかも知れませんが、人の心は、戻るのにものすごい時間がかかるんですね。人間の心ってそんなにフレキシブルでないので、いったんどこかでグッと押し曲げられたら、なかなか戻るのに時間がかかるものなのです。ですので、私たちは今とても心が危うい、社会全体で心が危うい状況の中に命を生きているということを、つくづく感じています。

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今日の福音は、貧しい寡婦が生活費の大半を、献金として入れたという話です。それをイエスが、この人は有り余っているからではなく、乏しい中から持っているものをすべて、必要なお金を全部神様に捧げたんだと、自分を犠牲にして神に捧げたことを褒め称えている話ですね。

そして第一朗読でも、もう食うにも困っている寡婦のところに預言者エリヤがやって来て、その水を飲ませてくれと、そしてパンを食べさせてくれと言う。でも彼女はそんなパンなどないんです。あとは死ぬのを待つだけなんだと言っている。それでも出せと迫られて、彼女は持っているものをすべて預言者エリヤに捧げたところ、神はそれを良しとして祝福を与えられた。自己犠牲に対して祝福を与えられたという話ですよね。

まさしく、イエス・キリスト自身が自分の命を犠牲にしてすべての人を救ったことを、神は良しとされた。自己犠牲。私たちの信仰の根本にあるものは自らを捧げる自己犠牲の心です。心をどんどん閉じていって自分のことだけ考え、心の寛容さを失っている状況では、自分を犠牲にしようとは思えない。心が広く寛容であるからこそ、自己犠牲ができるんですね。

自分のことを守るためではなくて、誰かのためにです。誰かのために奉仕したい、誰かのために尽くしたい、誰かのために助けたい……。誰かのためにという心を持つには、寛容で開かれた心でなければならない。今の社会の状況とは対極にあるのが、自己犠牲の精神だと思います。

我慢をするということではなくて、自分の心を開いて、他人の痛み、他人の苦しみ、他人の願いに、耳を傾け心を開いて行く。それが、自分を犠牲にして他者に奉仕するイエスご自身の生き方であるし、この福音と第一朗読に示されていることだと思います。

そしてまさしく今、この新型コロナ感染症が終焉に向かって行きつつある、社会が元に戻ったときのために、寛容さを失ってしまっている心にもう一度豊かさを、優しさを、慈しみを取り戻すことを意識したい。だからこそわたしたちキリスト者の生き方というものに、とても大切な意味があると思います。街頭で宣伝をする必要はないんですけれど、私たち一人一人が、そうした寛容さを持った、慈しみを持った心の生き方を、具体的に社会に示して行くということが、とても大切なことだと思います。

キリスト者の救いの希望は、その寛容さにあって、その寛容さは、自分のためにだけでなくて、究極的には永遠の命に繋がって行くということ。この世だけですべてが終わってしまうのでなく、永遠の命の中で、神のもとで、私たちは新しい命を生きて行く。常に生かされているんだという確信。その希望を掲げながら、イエス・キリストの福音を具体的に生きて行くことで、伝えていきたいと思います。

 

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2021年11月 1日 (月)

諸聖人の祝日

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11月1日は諸聖人の祝日です。そして翌2日は死者の日。11月は死者の月と定められ、亡くなられた方々の永遠の安息を祈る月とされています。また教会の伝統は、11月2日から8日までの間、全免償を得ることで、それを煉獄の霊魂に譲ることが出来るとも定めています。この期間、聖堂を敬虔に訪問して祈り、主の祈りと信仰宣言を唱えることで、全免償をいただくことが出来ます。

教会のカテキズムには、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957)」

また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

「・・・死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることが出来るのです(958)」

教会は、地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在しています。

感染症の状況のため小教区聖堂の入場制限を実施している関係で、教区行事として11月の第一日曜日に行われる合同追悼ミサは、皆さんに集まっていただくことが出来ないため、昨年同様に中止となりました。その11月7日は各小教区で追悼ミサが行われますが、合同追悼ミサに代えて、わたしは、あきる野教会で主日ミサを捧げさせていただき、隣接する五日市霊園での追悼とさせていただきます。

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さて、10月30日土曜日には、カトリックアクション同志会主催で、グレゴリアン聖歌によるラテン語のミサが行われました。実施可能かどうかぎりぎりまで判断がずれ込んだため、わたしの手元に歌ミサの楽譜などが届いたのが三日前の10月27日です。しかもレクイエムのミサとするため、曲が通常と多少異なります。(歌ミサの曲は、大雑把に言うと、荘厳なものと簡素なものがあり、葬儀などは簡素な曲が使われます)よくこれで間に合ったと自分でも思いますが、さすがにラテン語を言いよどんでしまった箇所が、今回は数カ所ありました。

今回のミサには教皇大使のボッカルディ大司教も参事官とともに参加され、トゥミル参事官とともに、両者とも美声を披露してくださいました。大使は日本に着任されてから、今回が初めての東京カテドラル訪問となりました。

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10月31日の主日午後には、下町宣教協力体の合同堅信式が、浅草教会で行われました。浅草教会、上野教会、本所教会、中国センターから、26名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。

堅信式ミサは、会場の管理から典礼の進行まで、信徒の方々が分担して準備され、見事なまでのスムースな行事となりました。侍者の方々もよく練習されておられましたし、お二人で歌われた聖歌隊も素晴らしいものでした。準備してくださった皆様、ありがとうございます。

浅草教会の裏手には、殉教者の碑があります(一番上の写真)。江戸の殉教の一つ、鳥越の殉教を記念するものです。1613年の8月16日以降三度にわたって殉教した28名の殉教者を顕彰しています。

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東京教区のホームページには、膨大な情報が蓄積されていて、そのいくつかは埋もれていますが、その一つに、殉教者のガイドブックのPDFがあります。こちらのリンクからご覧ください。(このPDFはダウンロードに少々時間を要する重さです)。その中に鳥越の殉教についても詳しく触れられています。わたしたちの信仰の先達の勇気に倣い、またわたしたちが同じように福音をあかしして生きる勇気を与えられるよう、殉教者たちの取り次ぎを祈りましょう。

なお本日1日は、わたしの63歳の誕生日でした。お祝いのメッセージをたくさんの方からいただいています。それぞれにお返事できずに申し訳ありません。どうぞこれからもわたしのためにお祈りくださいますように、お願いいたします。

 

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2021年10月30日 (土)

世界宣教の日:堅信式ミサ@上野毛教会

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先週10月24日の世界宣教の日の日曜日、午後二時半から、上野毛教会を会場に、世田谷南宣教協力体の合同堅信式ミサが行われました。

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宣教協力体の合同堅信式でしたが、現在の感染症対策の制限がある状況の中で、準備などの都合もあり、堅信を受けられたのは上野毛教会の4名の方でした。ミサ後に、宣教協力体に属する上野毛、田園調布、碑文谷から主任司祭と信徒会長が集まり、現状報告をいただきました。ちなみにこの三つの教会は、それぞれ、カルメル会、フランシスコ会、サレジオ会と、司牧を担当する修道会が異なります。通常であれば、それぞれの教会から大勢に参加していただくのですが、今回は、聖堂内には受堅者、代父代母、家族などだけがおられ、そのほかホールなどで配信であずかった方もおられるとのことです

堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

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この日のミサでの説教は原稿なしでしたが、録音から起こしたものを参考までに以下に掲載します。(言い間違いなど、多少手直ししましたが、ほとんどその場で語ったとおりです。)

上野毛教会堅信式ミサ

2021年10月24日

皆さま、堅信おめでとうございます。

今日の日曜日は、教会では世界宣教の日と定められていて、教会の福音宣教のために、また宣教に携わる人々のために祈り、さらには宣教の意識を高めるようにと、世界の教会に呼び掛けられている、特別な日曜日でもあります。

宣教というのは当然、私たち一人一人洗礼を受けたキリスト者にとっては、一番大切な役割の一つです。それはイエスが、ご復活のあとに弟子たちに対して全世界に行って皆に伝えなさいと、洗礼を授けなさいという宣教命令を残して行かれたからです。それ以降ずっと今に至るまで、イエスの弟子として洗礼を受け従って生きていこうと決意した私たち一人一人には、その最後のイエスの命令、すなわち宣教命令が脈々と受け継がれているわけです。

洗礼を受け、ご聖体を受け、そして最後に堅信を受けることによって、私たちの入信の秘跡は完成します。

キリスト者としての入信のプロセスは、この堅信の秘跡によって完成しますが、完成したらどうなるかというと、イエスの宣教しなさいという命令に、完全に従ってゆく義務がそこから生じてくるのです。恵みも頂きますけれども、恵みに伴って義務も生じてくる。

恵みは何かというと、それは聖霊による助力、聖霊による助け、祝福、導きであります。もちろん、私たちは弱い人間ですし、完璧な人間はいないので、しなければならないと思ってもできないことが沢山あるわけですよね。で、特にこの福音を宣べ伝えなさいという命令を、具体的に私たちの生活の中で実行していこうとすると、どうしたらいいかわからない。道端に立ってのぼり旗を立てて、福音を信じなさいと言ったところで、あまり誰も聞いてくれそうにない。この社会の中で、私たちはどうやって福音を伝えていくのだろう。そのためには、知恵が必要となるのです。

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しかしその必要な知恵は、いくら私たちが人間の知恵を一所懸命振り絞っても、なかなか足りない。神の知恵による助けがなければ、実際に私たちが生きて行く中で、どうやって福音を告げ知らせてゆくのかということへのアイディアは浮かんでこない。神の知恵を与えてくれるのは、聖霊の助けです。聖霊は知恵を与えてくれる。知恵そのものを与えてはくれないかもしれないが、知恵に近づくことができるように、様々な形で私たちを後押しして下さいます。

そして、福音を証しするには、やっぱり勇気が必要です。勇気がなければ、実際に福音を何らかの形で伝えてゆこうという思いが出てこない。その勇気はやはり、聖霊の助けによって神から与えられる恵みの一つであるわけです。私たちは勇気を頂いて、そして神から頂いた知恵によって、どのような形で福音を証していったらいいのか考え、実行して行くのです。

その私たちの思いを後ろから支えてくれるのは、聖霊であります。聖霊の助けです。堅信の秘跡を受けることによって、私たちは聖霊の助けを頂くことができるのです。

堅信の秘跡を受けた瞬間に、その聖霊の恵みが私たちに大量に降りてパッと花開いて、突然すごい超人に生まれ変わるということではないです。そういうことはなかなか起こらない。残念ですが。

そうではなくて、今から私たちが福音を告げるのだという決意をもってその務めを果たそう、イエスの最後の宣教命令に従って生きようと行動するときに、聖霊が後ろから私たちを支えて、助けてくれるのです。聖霊が後ろから私たちを支えてくれる、聖霊が後押しをしながら知恵を与えて、勇気を与えて、導いてくれるのです。それが、この堅信の秘跡であると思います。
ですから、今日こうやって堅信を受けたそのあとに、私たち一人一人がその務めを果たしていくこと、完成したキリスト者として福音を宣べ伝える務めを果たして行くという決意を、今日、ぜひ固めて頂きたいと思います。

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それでは具体的に、どうやって福音を証しするのか。それはやはり、人と人との出会いの中で、私たちが日々語る言葉、何気ない行い、そういった「言葉と行い」をもって、私たちは福音を証ししていかなければなりません。

聖書を丸暗記し、聖書にはこう書いてあると立派なスピーチをすることだけが、福音宣教ではないのです。福音宣教というのは、人と人との関わりの中で私たちが信じていることを、実際に目に見える形で証しして行くこと、耳に聞こえる形で証しして行くことです。

しかし、私たちは完璧ではない弱い人間なので、四六時中いつでも福音の言葉を語り、行って、福音を証しして行くことが出来ていない。どうしても様々な思い煩い、誘惑、いろんなことがあるので、そう簡単に24時間いつでも神様の言葉を証しし、神様の言葉に従って生きているわけではありません。

しかしそうできないからこそ、堅信の秘跡をもって聖霊のお恵みを頂くのです。できない、弱い、足りない私を、神様が聖霊の力によって助けてくれているんだという確信を、それを持つことが、とても大切だと思います。

今日、堅信を受けることによって私はすごい人間になるのではなく、すごい人間にはなれないんだ、弱さのうちに生きているのだということを、あらためて自分に言い聞かせ、だから神様の助けが必要なんだと、だから聖霊の導きが必要なんだと、だから聖霊によって後ろから背中を押してもらうことが必要なんだという、謙遜な思いを持つことによって初めて、聖霊の力が働くんです。

パウロが、「私たちは弱いときにこそ強い」と言っておられる。どういうことかというと、わたしがわたしがと、自分が頑張るんだと前に立ち続けているとそれが壁となって神様の力は働きようがないのです。私は弱いのだと、私にはできないと、神様の助けが必要なんだと遜ったときに初めて、邪魔する壁が崩れ去って神様の力が働くことができるのです。

ですから堅信の秘跡を受けることによって、自分たちのそれぞれの弱さをあらためて認め、神様、頼むから私を通してあなたの力を働かせて下さいと、身を委ねるということも大切だと思います。

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今日の朗読に、目の不自由な人が治してもらった話がありますけれども、あの話はとても大切な話なので、堅信の話からは少し離れますが申し上げておきたいと思います。

あのバルティマイの話は、よく読んでみると誰も何もしない話です。誰も何もしていないのです。みんな何もしないぞって言っている話なのです。そのバルティマイという人が、一所懸命イエスに「治してくれ」と叫ぶんですけれども、みんなは「黙れ」と、「うるさい」と、静かにしてろと抑え込もうとしますね。

そこへイエスが、「いや連れて来なさい」と言ったけれども、誰もそのバルティマイの手を引いてイエスのところに連れて行かないのです。一言もそんなこと書いてない。誰一人として、目の見えないバルティマイの手を引いてイエスのところに連れて行こうとしていない。皆、何をしたかというと、「安心しなさい。立ちなさい」と言っただけです。声を掛けただけです。だからバルティマイは、自分でイエスのところに歩いて行くんです。いざイエスのところに来たら、どうですか。他のところでは、イエスは、唾を付けて土をこねて目に塗るとか、ああしなさい、こうしなさいとか言ったりとかするんですけれども、なんにもしない。イエスも、なんにもしないで、「どうしてほしいんだ」と聞くんです。「何をしてほしいんだ」と。バルティマイが「目を治して下さい」と言ったあとは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、それで終わる話ですね。だからイエスも誰も何もしないのに、目が治った奇跡の話なんです。

このお話の素晴らしいところは、二つあります。

一つは、このバルティマイの目が治ったということ。もう一つは、実はですね、周りにいる人たちがイエスによって変えられたということなんです。ここがとても大切なところです。つまり、助けを求めて叫んでいた人を無視して、その存在をないものとしようとしていた人たちが、「安心しなさい。立ちなさい」と言う。同じ人たちがですよ。それまで無視しようとしていた人たちが、「安心しなさい。立ちなさい」と声を掛ける存在に大きく変えられたというお話なんです。

そして彼らが大きく変えられたことによって、バルティマイが治されていくんですね。イエスが「あの男を連れて来なさい」と、私はあの男が必要なんだということを言って下さったことによって、人々の心が助けを求める人の存在に気がつくように変えられたのです。

イエスの力で、神の力で、見えなかった目が治りました。ですけれど、この奇跡物語のすごいところは、そこにもって行く過程で、実は周りにいる人たちが変えられたということ。それまでそのバルティマイという人の生きる希望を奪ってきた人たちが、今度は逆に生きる希望を与える存在になっていったということなのです。

生きる希望を奪って、「お前なんかいなくていいんだ。静かにしていろ」と言っていた人たちが、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と声を掛ける存在に変わっていった。それによってバルティマイは、励まされて生きる希望が生まれるんです。生きる希望が生まれて、そこにイエスの力が加えられて目が治されて行く。そういう話なんです。

ですので、奇跡物語であると同時に、私たち一人一人の関わりはどうあるべきなのかということを教えている奇跡物語でもあります。
そしてそれは私たちに、困窮している人たち、困難に直面している人たち、命の危機に直面している人たち、助けを必要としている人たちとの関係を教えています。お前の存在なんかないものだと排除し見えないものとするような態度ではなくて、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と呼び掛け、行動するようにと促し励ますものとなるように。そこに命を生きる希望が生まれます。

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私たちも、困って困窮している人たち、困難に直面している人たち、社会から排除され忘れ去られている人たちに対して、「安心しなさい。立ちなさい。さあ一緒に生きてゆこう。命を生きていこう。」と。命の希望を生み出すような人間関係を持つことによって、育て上げ、生み出すことによって、そこに命を生きる奇跡の関係を、命を生きる希望を、神の力が働くような状況を生み出していくことができるのです。そしてそれが、福音宣教に繋がっていくのです。

今日の世界宣教の日にあたり、私たち一人一人が、どうやって福音を宣教できるのか、そしてどのように福音を宣教するのかということを、あらためて考えたいと思います。

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2021年10月29日 (金)

船橋学習センター・ガリラヤで講演

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千葉県船橋駅前にあるカトリック船橋学習センター・ガリラヤは、定期的に講座を開設していますが、感染対策のため、その多くがオンラインとなっています。しかし状況が多少は好転しつつあることもあり、現在はハイブリッドが多数を占めるようになりました。

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その学習センターで、10月23日午後に、ハイブリッド形式で、お話をさせていただきました。テーマは「教皇訪日を受けて、これからの教会」といたしました。普段使われているセンターの場所では、感染対策で少人数しか入ることができないため、今回は近くにある石井食品さんのご厚意で、石井食品本社ビルの一階にあるコミュニティハウスViridian(ヴィリジアン)を使わせていただきました。

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石井食品と言えば、ハンバーグなど、お弁当に使えるレトルト食品などで有名ですし、無添加調理を「こだわり」として掲げています。会場は普段は販売所や食事処、さらには料理教室の会場として使われているところで、石井食品を代表するレトルト食品のかずかすが販売され、わたしもお昼にはお弁当代わりに普段そこで提供される栗ご飯の定食をいただきました。

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教皇様の来日は2019年11月でしたが、その直後にコロナ禍が始まって教会活動が停滞したため、教皇訪日の残したものを探り深める試みが出来ずにおりました。今回お話しした内容は、全て教皇様が日本で、特に東京で残された言葉の語ることについてです。教皇様が就任された2013年以来繰り返し示されてきた教会の姿、その集大成が現在行われているシノドスですが、そのシノドスに至る過程にあって、教皇様の示された教会の姿を明確にする言葉として、日本での言葉に重要な意味があると思います。

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ヨハネパウロ二世が訪日されたときは、その後もしばしば、「戦争は人間のしわざです」というインパクトのある言葉が、皆の口に何度も上りました。教皇様の口まねをして得意がる人も大勢いました。それが教会の平和旬間として残されていきました。今回は、直後の状況のため、深めることが出来ずに来ました。まだ遅くないと思います。これからも教皇様の日本での言葉を深める作業を続けたいと思います。

カトリック船橋学習センター・ガリラヤのホームページには、理念がこう記されています。

「カトリック船橋学習センター・ガリラヤ(以下、ガリラヤ)は、人びとが学び、働き、暮らしている社会の中で、カトリックの精神に基づく価値観を養い広めていくことを目的に設立しました。ガリラヤはキリストの愛を学び、キリスト教文化を知り、社会で起きているさまざまな出来事をキリスト教の視点で考える場所です」

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現在の理事長は、真生会館の理事長でもあるミラノ会のアンドレア・レンボ神父様です(上の写真、向かって右から二人目)。この講座の前に、アンドレア神父様を始めスタッフの皆さんに集まっていただき、現状報告と今後の計画について伺いました。

アンドレア理事長はホームページにこう記しています。

「当センターは2014年に大原神父様をはじめ数人の信徒の方々の協力のもと、明日に向けて船出しました。イエスのメッセージを発信し、学びあい、わかちあい、祈りあうことを大切に、私たちの社会の明日のためにと働いてまいりました。 

今、コロナというチャレンジを受けるなか、私たちは新たなガリラヤを探求しています。そのひとつがオンライン講座です。オンライン講座を通じて、ひとつの場所を超えてイエスのよき知らせが大きく広がっていくのを目の当たりにしています。想像以上のゆたかさを体験しています」 

船橋学習センター・ガリラヤが、社会の激しく変わる状況の中でどのような姿で続いていくのかは、現時点では推測が難しいと思いますが、オンラインであれ対面であれ、信仰の学びを深めることは大切ですから、今後の発展を注視しながら見守りたいと思います。

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2021年10月22日 (金)

受刑者とともに捧げるミサ

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このところ恒例となってきた、NPO法人マザーハウス主催(代表:五十嵐弘志 さん)の「受刑者とともに捧げるミサ」が今年も企画され、10月16日(土)の午後に、聖イグナチオ・麹町教会で行われました。

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マザーハウスのホームページには、次のように解説が掲載されています。

「教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」中の2016年11月6日(日)を、「受刑者の聖年」と定め、受刑者やその家族のため、そして刑務官や教誨師を含め、刑務所の内外で受刑者の支援に携わっているすべての人・機関のために祈るよう呼びかけました。

理事長の五十嵐は、社会の人々と刑務所にいる受刑者が共に祈ることで孤独と犯罪から解放されると考え、菊地功大司教に受刑者と共に捧げるミサの司式を要請し、2018年10月に菊地功大司教とローマ教皇庁大使館の大使チェノットゥ大司教の共同司式にてミサを開催し、毎年、実施しています」

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同法人のホームページには、当日のミサの様子のビデオも掲載されています。この時期ですので感染症対策のために、残念ながら大勢の方に参加していただくことは出来ませんでしたが、当日の模様は配信され、多くの方が祈りの時をともにしてくださいました。

以下、当日、用意していった説教の原稿ですが、上述のビデオを見ていただくとおわかりのように、ほとんど原稿通りに話してはおりませんでした。

受刑者とともに捧げるミサ
2021年10月16日
聖イグナチオ・麹町教会

昨年初めからすでに2年近く続いている感染症による困難な状況は、地球的規模で、人類社会に大きな影響を与えています。感染症対策のため、各国の政府によって取られたさまざまな政策によって、経済が悪化し、雇用関係が不安定になっている国も少なくありません。もちろん人類にとって未知の感染症ですから、誰ひとりとしてどのように対処するべきなのかについて正解を知っている人はおらず、また感染症の実際の健康への影響も、専門家の間にもさまざまな議論があります。わたしたちも目に見えないウイルスが相手ですから、一体どう対処したら良いのかが判然とせず、この2年近くは、本当に暗闇の中を手探りで歩んでいるような気持ちに包まれています。

教会も大きな影響を受けています。教会は定期的に大勢の人が集まることで成り立ってきましたが、残念ながらそのこと自体を制限しなくてはならなくなり、活動が大きく制約されています。

教皇フランシスコは、昨年、一時中断していた一般謁見を2020年9月2日に再開し、その日は少数の会衆を教皇宮殿の中庭に入れて、こう話されています。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」

教皇様は、誰ひとり排除されない社会を実現し、すべてのいのちがその尊厳を守られるようにと働きかけてきましたが、特にこの感染症の困難に襲われてからは、地球的規模での連帯の必要性を強調されてきました。

しかし残念ながら、連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、いのちが危機に直面しています。

今年2021年の復活祭にあたってのメッセージで、教皇様は次のように述べられました。

「パンデミックはいまも猛威をふるっています。社会的、経済的な危機はいまだに深刻な状態にあり、とくに貧しい人に大きな影響を及ぼしています。それにもかかわらず、武力紛争と軍備拡張はとどまることを知りません。今、こんなことがあっていいはずがありません。」

その上で教皇様は、「十字架にかけられ、復活された主は、仕事を失った人や、経済的な苦境に陥っても社会から適切な保護を受けられない人の心の支えです。」と呼びかけられます。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。

教皇様は「福音の喜び」で、教会のあるべき姿を、「出向いていく教会」であるとされました。自分の安全安心を守ろうとするのではなく、常に挑戦し続ける姿勢を教会に求めました。失敗を恐れずに、常に挑戦を続ける教会です。しかもその挑戦は、困難に直面し、誰かの助けを必要としている人のところへ駆けつける挑戦です。

そして「福音の喜び」には、「イエスは弟子たちに、排他的な集団を作るようには言いませんでした」という言葉もあります。その上で教皇は、「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従うよい生活を送るよう励まされると感じられる場でなければならないのです」と指摘します。(114)

今、教会は、この困難な現実の中で、命を守るために、積極的に出向いていき、助けを必要とする人たちとともに歩んでいかなくてはなりません。

ちょうど今、教皇様は2023年の秋に開催される世界代表者司教会議の準備を、世界中の教会で、明日から始めるようにと指示をされています。明日、10月17日のミサの中で、それぞれの地におけるシノドスのプロセスが始まります。シノドスという言葉は、会議の名称ではなくて、そもそも「ともに歩む」事を意味しており、教皇様はまさしく教会が、「ともに歩む」教会であるようにと願っておられます。誰ひとり忘れられることのないように、神から愛されて命を与えられたわたしたちは、司教も、司祭も、修道者も信徒も、ともに支え合い、助け合いながら、互いの声に耳を傾けあい、歩んでいきたいと思います。

わたしたちの歩みは、暗闇を彷徨う不確実な歩みではなく、わたしたちと共にいてくださる主とともに前進する歩みであり、神の民を導かれる聖霊の声に耳を傾けながらの前進です。

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マタイ福音は、「求めなさい。そうすれば与えられる」と語るイエスの言葉を記しています。イエスはわたしたちに、求めること、探すこと、門をたたくことを求めます。問題は、一体わたしたちは何を求め、何を探し、どの門をたたくのかであります。

同じ福音の記述の続きには、こう記されています。

「あなた方の天の父は、求める者に良いものをくださるに違いない」

すなわち、わたしたちは、自分がそうあってほしいと願うことを求めるのではなく、神が良しとされることを求めるときに、与えられるのです。神が望まれる命の生き方を実現しようと求め、探し、門をたたくときに、初めて神は答えてくださるのであって、わたしたちの自己実現や自己満足のために、欲望を満たす何かを探し求めても、それは与えられません。

ですからわたしたちは、神が良しとされる生き方とは一体どのような生き方であるのか、神が良しとして定める道はどこにあるのか、神の国の門はどの門であるのか、つねに見極めながら、より良い方向へと進んでいかなくてはなりません。だからこそわたしたちは、この道を一緒になって歩むのです。その「一緒」には、神が良しとして創造されたすべてのいのちの尊厳が含まれています。排除されてもよい人は誰ひとりいません。互いに支え合いながら、わたしたちは一緒になって道を見いだし、歩んでいきたいと思います。

今日このミサを捧げながら、過去を顧み許しを求めている人に善なる道が示されるように、祈りたいと思います。同時に犯罪の被害に遭われた方々の、心と体のいやしのために、祈ります。さらには、加害者のご家族、また被害者のご家族の方々の、いやしと生きる希望のために、祈りたいと思います。そして、すべての人が神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に支援の手を差し伸べるすべての人のために、心から祈りたいと思います。キリストに従うわたしたち一人ひとりが、神が望まれるより良い道を、互いに支え合って、歩み続けることが出来ますように。

 

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2021年10月 9日 (土)

町田教会で堅信式、年間第27主日

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緊急事態宣言が解除となり、ミサの公開が再開しましたが、その直後の最初の堅信式が、10月3日に町田教会(主任司祭は林神父様)で行われ、17名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。感染症の状況の中、堅信式も何度も延期になり、皆さんよくぞ待ってくださいました。その忍耐と犠牲に、御父の豊かな報いと聖霊の祝福がありますように。

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またこのミサの中では、教区の神学生である熊坂さんが、朗読奉仕者の選任を受けられました。司祭養成の過程では、まず哲学課程が終わったところで司祭助祭の候補者として認定を受けます。その後、朗読奉仕者と祭壇奉仕者の選任をそれぞれ受けて、助祭叙階に至ります。助祭叙階後は、短くても半年以上の助祭としての務めを経て、司祭に叙階されることになります。

現在東京教区には4名の神学生がおり、東京カトリック神学院に在籍しています。熊坂さん、冨田さん、田町さん、今井さんの四名です。ご存じのように司祭になるためには、現在の養成課程では、最低でも7年間必要です。例えば、今日、志願者が現れたとしても、まず教区の中で、教区養成担当者による見極めの期間があり、その後神学院の入学試験を経て7年です。加えて今現在の新しい養成の課程では、神学院での勉学と養成をすべて修了してから初めて助祭叙階となり、そ助祭としての奉仕を半年以上経験してから司祭叙階ですので、実際には8年近くがかかることになります。

ひとりでも多くの青年が、教区の教会共同体を導く牧者として生きていく決断をし、司祭の道を歩んでくださるように、皆様のお祈りをお願いいたします。また司祭への道を進むべきかどうか悩んでいる青年がおられましたら、より良い識別が出来るようにと励まし、またともに歩んでくださいますように。

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準備いただいた町田教会の皆様、ありがとうございます。また当日の映像配信も準備が大変だったと思います。ありがとうございます。町田教会の皆様には、感染対策のため、多くの方には参加いただけませんでした。また次回、皆さんとお会いできればと思います。

以下、町田教会での当日のミサ説教を録音してテープ起こしをした原稿を掲載します。

年間第27主日

町田教会堅信式ミサ

新型コロナの感染症が私たちの社会に大きな影響を与えて、すでに1年半が過ぎてしまいました。教会も様々な影響を受けています。信徒の方々の中には、感染して亡くなられた方もおられますし、入院されている方もおられます。

幸い、他の多くの国々と比較するとまだその影響は少ない、小さい方だと思います。

でも新しいウイルス感染症ですので、実体が解明されていない。はっきりとわからない中で慎重に行動して行かざるを得ないので、他の国の様々な事例を参考にしながら、東京教区でも昨年は1度、政府の緊急事態宣言に合わせてミサの公開を中止しました。3月から6月まで、その後はできる限りミサに与ることができるようにしています。  

私たちの信仰生活の中心はやはり聖体祭儀です。ご聖体におけるイエス様の現存とともに、私たちは信仰を深めていく。そして、共同体のつながりを確認する、絆を確認する、実感する。そういう意味でも、この聖体祭儀はとても大切な秘蹟ですし、これなしには考えられないわけですから、なるべくご聖体に与っていただく、聖体祭儀に与っていただくということで、緊急事態宣言が何回か出ても、感染対策を続けながらミサを続けてきたわけです。

教会に集まっていただいて、感染対策を取りながらミサを続けることは楽なことではないです。司祭だけではなく、特に教会の役員の方、ボランティアで関わってくださる多くの方々に、本当に感謝申し上げたいと思います。お一人お一人の助けがなければ、こうやって教会の活動を続けていくことはできませんでした。感謝申し上げたいと思います。

4回目となる緊急事態宣言が出た時にはどうしようかと考えたのですけれど、ちょうど夏ですね、オリンピックの前です。1年以上過ぎ、感染対策を同じように取ってきても、どうしても緩みが出てきてしまっている。70近くある小教区の中で、危険な兆候が見られたという報告がありました。今回は8月の半ば、新規陽性者の方が5千人くらいになり、どんどん数が上がっていった段階で、カトリックの医師会のドクターなどの方々に相談をしながら、今回のミサの公開を自粛することにいたしました。

幸い9月の半ば過ぎくらいから新規の陽性者の方の数が減っていき、入院されている方々の数も減っていきましたので、9月30日の政府の緊急事態宣言解除に合わせて教会の活動を再開し、今日こうやって自粛期間を過ぎた後の最初のミサをこの町田教会で、共にお祝いすることができることを感謝したいと思います。

さらにはこのミサの中で聖体祭儀だけではなくて、堅信の秘蹟もあるという素晴らしい機会を与えていただいたことを、本当に感謝したいと思います。

医療関係者の方々には心から感謝申し上げるとともに、まだ、病床におられる方々が多くおられますので、その方々の一日も早い回復と健康をお祈りし続けたいと思います。

今回の感染症は、私たちに世界的な規模で起こっている出来事ですから、世界的な規模で手を取り合わなければならない。連帯をしなければならないということを、改めて思い起こさせてくれました。

今このグローバルな繋がりの中で、自分の国だけ鎖国をし、自分の国は大丈夫だから他の国と関係がないんだ、というような形では生きていくことができない世界ですので、私たちは今現在こうやって目に見えない小さなウイルスとの戦いの中にいる中で、世界中の国々と連帯をし、ともに命を守っていかなければならないということを、ひしひしと思い知らされています。

教皇様ご自身も何度も何度も、連帯することの大切さ、私たちは互いに助け合っていかなければ命を守ることができないということを、いくたびも呼びかけておられます。

ところが一年くらいたったくらい、今年のご復活祭でしたけれども、教皇様はご復活祭のメッセージで、「これだけ連帯の必要性を多くの人たちが口にしているにもかかわらず、実際にそれが成し遂げられていない。それどころか自分の国のことばかり考えて、あまつさえ、この感染症の中で戦争をしようと、武力でなにか物を解決しようというような動きさえある。または、この感染症対策の中で経済状況が悪化して職を失い、非常に困窮した状態の中で、別な意味で命の危機に直面している多くの人たちが忘れ去られようとしている。この1年間私たちはいったい何をしてきたんだ」ということを、繰り返しおっしゃられました。私たちは、連帯が必要だ、連帯が必要だと言っているけれど、実際に連帯するということはなかなか難しいという現実に直面しています。


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連帯……。教皇様が、何度も何度も繰り返し言われる、-連帯しなければならない―というのはどこから出てくる考え方なんだろうという事を振り返ってみると、今日の第一朗読の創世記の2章に記されている物語から出てくるんですね。
創世記というのは、第1章の最初の所で、六日間で神様は世界を作って七日目に休まれましたよという、一週間で世界天地が創造された物語が

そこには記されているわけですが、その時にはいろんな物を造って最後に人間を造るわけです。

ところが章が変わって2章に入ると、今度は全く違う話がそこに書いてあるのです。

今日の第一の朗読でその一部が語られています。何をしたかというと、神様は最初に人間を造った。一人の人を造って、そしてその後に、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言うんです。そして神は、様々なものを創造して様子を見るんですね。いろんなものを創造していって人に与えて、それが人を助ける者となるかどうか見ていくわけですけど、残念ながらみんな良いものなんですが、満足なものではないわけです。人間にとって助ける者とはならない。

そこで神は何をしたかというと、もう一人の人を造った。もう一人の人を造った。つまり人間は何のために命を与えられているのか。命を与えられている意味はいったいなんなのか。それは互いに助ける者となるために、私たちは命を与えられているんだ。

その一番根本の例が、男性と女性が一緒になって家庭を造っていくということ。それが一番のスタートなのですけれども、男性と女性だけでなくすべての命、人と人は助け合うために、その命を与えられているんだということを、この創世記の物語は、私たちに教えているんです。

今日の福音も、結婚離婚はどうするんだという掟の話をイエスはしていますが、あらためて創世記の物語を引用することでイエスは、人の命はお互いに助け合うため、一緒になって生きていくために与えられているんだということを、強調されています。

ここから、「私たちは互いに連帯して、この地上で命を生きていかなければならない」と教皇様が繰り返しおっしゃられる言葉の、この根本的な考え方が出てくるんですね。

私たちはこの命を、互いに助け合うために、互いに支え合うために、互いに手を取り合って歩んでいくために、命を与えられているんだと。
だからけっして、クリスチャンは、キリスト者は、優しい人だから他人を助けるわけではないですよね。私たちは何か、優しい性格をもった人たちだから他の人に手を差し伸べたり愛の業を行うのではないのです。私たちは互いに、優しくない人がたくさんいるのをよく知ってますよね。教会に行っても、けっしてみんな良い人ではないのです。でも私たちは助け合うのです。何故ならば、それが、私たちが命を与えられている理由だからです。それが意味だからです。そうしなければ命を生きている意味はないからです。

神は私たちに互いに助け合う者となれといって命を与えてくださったので、私たちは性格が良かろうが悪かろうが、他人を助けるんです。人に優しくするんです。それが、私たちが命を生きる意味であると思います。

そしてこの新型コロナ感染症の只中にいるときに、まさしく私たちは今、互いに助け合うというのはいったい何なんだろうと、改めて考えさせられていると思います。それには色々な道がありますよね。直接的に貧しい人たちを助ける、職がない人に手を差しのべて職を提供するとか、食べるものがない人たちに食を提供するとか、いろんな具体的な行いがありますし、それ以外にも感染対策をすることも、自分の命を守るだけではなくて他人の命を守るために、積極的な愛の行動です。

互いに支え合っていくというのは、いろんな方法があるんですね。みんなが同じ事をすれば良いということではなくて、それぞれが互いにできることを忠実に果たしていくことによって、互いに命を守り、互いに支え合って、助け合ってこの命を生きていく。
それが、神が私たちに命を与えられた理由なんだということを、あらためて心に刻んでいきたいと思います。

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今日堅信を受けられる方々は、洗礼から始まってご聖体、そして堅信、この3つの秘蹟を受けることによって、キリスト教の入信の秘蹟が完成します。洗礼を受け、ご聖体を受け、そして堅信を受ける、この3つで、完成した成熟したキリスト者として完成するんですね、ここで。
ですのでこれからは、堅信を受けてから成熟した大人の、年齢は関係なく、大人のキリスト者として生きていくということが求められています。それは福音に記されている、イエスが求められている、様々な生き方を忠実に果たしていく責任が生じるということだと思います。

でももちろん、私たちはそんな簡単に完璧な、今日の堅信の秘蹟を受けた途端にスーパーマンに変わるわけではないです。堅信式の後で立派な人に生まれ変わるわけではないのです。残念ながら。弱い人間ですから、必ずしもイエス様が言う通りなんてできないですよね。できないからこそ、堅信の秘跡の時に聖霊をいただくのです。

聖霊は私たちを変えてくださるのではなく、聖霊は、私たちの弱さを補って、私たちを後ろから支えてくださる神の息吹(いぶき)です。神の力です。神様は堅信の秘蹟を通じてこれから日々、後ろから一生懸命息を「ふーっ」と吹きかけて、あっちへ行きこっちへ行き、倒れそうになる私たちを、まっすぐ進むように支えてくださっているんですね。

この神様の息吹、神様の支え、神様の思いを、信頼して、大人の信仰者として、これからの日々の生活を歩んでいっていただきたいと思います。

 

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2021年9月14日 (火)

2021年「秋田の聖母の日」

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第7回目となる、秋田の聖母の日が、本日9月14日と明日15日行われています。とはいえ、昨年に続き、感染症の状況のため、秋田の聖体奉仕会に集まることは取りやめとなり、オンラインでの開催となりました。(写真は、配信ビデオからのスクリーンショットです)

オンラインで公開されたビデオは、youtubeで後ほど見ていただくことも出来ます。わたしは、毎年この日に合わせて巡礼を企画してきた横浜の信徒の旅行者「パラダイス」が企画した、zoomでの祈りの集いから、参加した皆さんと一緒に祈りました。

秋田の聖母の日が始まったきっかけは、2013年10月に、ローマ教区が主催して世界各地の聖母巡礼所を中継で結んだロザリオの祈りに参加したことでした。当時のことはこちらに記してありますし、当時にビデオもまだ見られるようです。リンク先に貼り付けてあります。10月12日の夜に始まり、時差の関係で徹夜で祈りをささげ、翌日のミサで締めくくった集まりには、海外も含め各地から多くの方が参加されました。当時の日記には、事前申し込みは800人ほどでしたが、当日はそれ以上に人が聖体奉仕会に集まったと記されています。

この行事に触発されて、翌年から、9月14日の十字架称賛と15日の悲しみの聖母の両日、聖体奉仕会で「秋田の聖母の日」と名付けた祈りの集いを開催してきました。それ以来、毎年、国内外から、多くの方が参加してくださっています。また秋田地区の神言会司祭団も、協力してくださっています。わたしは17年に新潟教区から東京教区に移っても、毎年この行事には参加しておりましたし、それに併せて巡礼も行ってきました。残念ながら、昨年と今年は、感染症の状況の中で多数が集まる行事は中止となりましたが、今年は初めての試みとして、オンラインでの開催となりました。

来年こそは、秋田の地で皆さんと一緒になって祈りをささげることが出来ることを、希望しています。この困難な状況から解放されるように、聖母の取り次ぎでお祈りいたしましょう。

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本日は十字架称賛の祝日です。いまでこそ、ファッションで十字架を身につける一般の方もおられるようになっていますが、もちろん十字架の起源は、処刑の道具であります。決して「かっこいい」ものではありません。しかしその十字架に、特別な意味を与えたのは、主イエスであります。主イエスこそが、「恐るべき処刑の道具」を「輝かしい栄光のあかし」に変えてくださいました。だからわたしたちは、誇りを持って十字架を示します。感謝を持って十字架を仰ぎ見ます。信頼を持って十字架により頼みます。勇気を持って自らの十字架を背負います。

教皇フランシスコは、2015年から16年にかけて開催したいつくしみの特別聖年の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」にこう記しています。

「十字架の傍らでマリアは、愛弟子ヨハネとともに、イエスが口にしたゆるしの言葉の証人となりました。イエスを十字架につけた者たちに与えられた究極のゆるしは、神のいつくしみはいかに果てないものであるかを私たちに教えます。マリアは、神の子のいつくしみが限りなく、例外なく誰もがこれに与ることを証言しています」

十字架の傍らに立つ聖母マリアと弟子ヨハネは、苦しみのうちに自らをいけにえとして奉献されるイエスに一致するとともに、自らが生涯をかけて説き続けた愛といつくしみの教えを、生命の極みにあっても言葉と行いであかしするイエスの姿に触れることになりました。

十字架の上で「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、迫害する者のために赦しと神のいつくしみを祈り、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、神の前に謙遜にある者のためには愛の言葉を述べられたイエス。

パウロはコリント人への手紙にこう書いています。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。(1コリント1章17節)」

人間の知恵を労して、いくら神の愛といつくしみについて雄弁に語ってみせたところで、その言葉の知恵は、結局はキリストの十字架をむなしくしてしまうとパウロは説きます。なぜならば、キリストの十字架上での生命の極みにおける生きる姿こそは、愛といつくしみという福音の、まさしく目に見えるあかしそのものだからです。そのあかしを生きていない私たちが、いくら人間の浅はかな知恵を労して言葉を並べ立てても、イエスのすさまじいまでの生命を賭した十字架上での愛といつくしみのあかしに並ぶことなど出来ません。十字架は神の愛の目に見える証しであります。神の愛の具体的な行動の目に見える証しであります。

私たちも、私たちの生きる姿そのものによって、イエスの教えを、福音を、その愛といつくしみを、あかししていかなくてはなりません。教会は、キリストの十字架の傍らに立ち続け、苦しみのうちにおけるイエスの愛といつくしみの言葉と行いに一致し、自らもその模範に倣いながら生きていかなくてはなりません。その生きる姿で、福音をあかししていかなくてはなりません。福音に基づいた世界、すなわち神が望まれる世界を実現するためです。

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明日もまた秋田の聖母の日の二日目が、ビデオで配信されます。どうぞ一緒に、聖母とともに祈りをささげましょう。すべての人に救いの福音がもたらされるように、聖母の助けを願いましょう。わたしたちが主イエスの十字架での苦しみにあずかり、主の愛を身に受けて、自らあかしして生きることが出来るよう、その模範である聖母に倣うことが出来るように祈りましょう。(写真上は、ローマのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂)

なお、秋田の聖母の日のビデオ配信などは、こちらのリンクから聖体奉仕会のホームページをご覧ください。

 

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