カテゴリー「司教の日記」の1000件の記事

2021年3月 5日 (金)

教皇様イラク訪問

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教皇様は本日3月5日から8日まで、イラクを訪問されます。日本時間の本日午後3時半頃(ローマの朝7時半)に出発される予定です。旅路の安全と、そして教皇様の意向に沿って、イラクの方々のために祈りをささげたいと思います。

英語ですが、教皇様のイラク訪問の予定はこちらに記されています。(バチカンホームページ)なお、教皇様の海外訪問は、2019年11月にタイと日本を訪問されて以降、新型コロナ感染症のためすべてキャンセルされていましたので、今回が再開第一回目となります。

教皇様は3月3日の一般謁見で、今回のイラク訪問に関して次のように語ったと、バチカンニュースで報じられています。

この訪問について、教皇は、「多くの苦しみを受けたイラクの人々、アブラハムの地における殉教者としての教会と出会いたい、との思いを長い間抱いていた」と述べられた。
また、教皇は、他の宗教指導者たちと一緒に、神を信ずる者たちの間に、兄弟愛の新たな一歩をしるしたいと抱負を語られた。
教皇は、この司牧訪問をより良い形で行い、実りをもたらすことができるよう、祈りをもって訪問を共にしてほしい、と信者らに願われた。

また訪問前のビデオメッセージでは、イラクの方々に次のように語りかけています。

何年もの戦争とテロリズムの後、赦しと和解を主に祈り求めるため、心のなぐさめと傷のいやしを神に願うために、わたしは悔悛の巡礼者としてまいります。平和の巡礼者として訪れ、「あなたがたは皆兄弟です」(参照マタイ23,8)と繰り返すために。
そうです、平和の巡礼者として、兄弟愛の追求のもとに、皆さんのもとを訪れたいと思います。イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒を、ただ一つの家族として一致させる、父祖アブラハムのしるしのうちに、共に祈り、歩みたいという望みに動かされてまいります。

教皇様のために、お祈りください。

また本日3月5日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」であります。聖職者による性虐待の罪にゆるしを願い、被害を受けられた方々の心のいやしのために祈り、同じ過ちを繰り返さない決意を新たにするために、教皇フランシスコは、全世界の司教団に向けて、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるように通達されました。日本の教会では「四旬節・第二金曜日」と定めました。東京教区では、次の日曜日、四旬節第三主日のミサで、この意向のもとにミサを捧げることにしております(教区ホームページ参照ください)。東京カテドラル聖マリア大聖堂では関口教会のミサとして、3月7日午前10時のミサを、わたしが司式してこの意向を持って共にお祈りいたします。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという現代社会の思い上がりを戒めながら、そういった現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を実現しなければならない。そう強調された教皇は、回勅「いのちの福音」の冒頭に、こう記されています。

「いのちの福音は、イエスのメッセ-ジの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への『良い知らせ』として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません」

危機にさらされるいのちの現状、教皇ヨハネパウロ二世が指摘する「死の文化」が支配する現実の中で、教会こそは、「いのちの福音」を高く掲げる務めがあることを自覚しなければなりません。

その教会にあって聖職者には、神の賜物である尊厳あるいのちを守るために最善を尽くす義務があり、「いのちの福音」をその言葉と行いを持って証しする義務があります。

残念ながら、その模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という他者の人格を辱め人間の尊厳を蹂躙する行為におよび、いのちの尊厳をおとしめ、いのちの危機を生じさせる事例が、世界各地で過去にさかのぼって多数報告されています。また司教を始めとした教区の責任者や、修道会の責任者が、聖職者の加害行為を隠蔽したり、その被害を過小評価した事例も、多数指摘されています。日本の教会も例外ではありません。被害を受けられた多くの方々に、心からお詫び申し上げると共に、教会はいのちの光を生み出す存在となる務めがあることをあらためて心に刻みます。(なお東京教区の対応については、こちらをご覧ください

 

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2021年2月16日 (火)

四旬節のはじめにあたり

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明日2月17日は灰の水曜日です。四旬節が始まります。

今年はコロナ禍に対応して、灰の式の実施方法について、バチカンの典礼秘跡省から指示が出されています。すでに各小教区の主任司祭には伝えましたが、その指示の中でも特に次の点にご留意ください。通常であれば、灰を配る時、通常は聖体拝領のように列に並んでいただき、司祭はお一人お一人の額に、定められた二種類の言葉の内の一つを唱えながら、灰を指で塗布します。

しかしながら今年は、典礼秘跡省の指示で、司祭は定められた言葉を、一度だけ、全員に向けて唱え、そのあとで灰を直接ではなく、頭の上から振りかける形で塗布をおこないます。いつものように、額に十字のしるしが残りませんが、ご理解ください。

四旬節のはじめにあたり、1分ほどの短いビデオメッセージを作成し、教区ホームページにて公開しています。

またそれとは別に、「四旬節のはじめにあたり」という呼びかけ文を書きましたので、以下に掲載します。教区ホームページにも掲載されています。また教区ホームページには、英語版も掲載されています。(English version of my message at the beginning of Lent)

カトリック東京大司教区の皆様

四旬節のはじめにあたり

一年前、わたしたちは先行きの見えない状況の中で四旬節を迎えました。その日からわたしたちは、いのちを守るため、とりわけ隣人のいのちを危険に直面させることのないようにと、さまざまな制約の下で教会活動を続けてきました。

暗闇の中を不安のうちにさまようわたしたちは、お互いを思いやり支え合うことの大切さを痛感させられています。

一年が経過し、再び灰の水曜日を迎えました。四旬節が始まります。

四旬節を始めるにあたり預言者ヨエルは、「あなたたちの神、主に立ち帰れ」と呼びかけます。四旬節は、まさしく、わたしたちの信仰の原点を見つめ直すときです。信仰生活に諸々の困難を感じるいまですが、信仰の原点への立ち返りを忘れてはなりません。

わたしたちが立ち帰るのは、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいる主であると、ヨエルは記しています。信仰に生きているわたしたちは、主に倣って、憐れみ深いものでありたいと思います。忍耐強い者でありたいと思います。慈しみに富んだ者でありたいと思います。

わたしたちの信仰は、いま、危機に直面しています。集まることが難しい中、これまで当然であった教会生活は様変わりしました。その中で、一人ひとりがどのようにして信仰を守り、実践し、育んでいくのかが問われています。

もちろん典礼や活動に制限があるからといって、教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。わたしたちは信仰によって互いに結ばれている共同体なのだという意識を、この危機に直面する中で、あらためて心に留めていただければと思います。祈りの内に結ばれて、キリストの体をともに作り上げる兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、いのちの源であるキリストの光を輝かせましょう。弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつも共にいてくださいます。(マタイ28章20節)

教会の伝統は私たちに、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すように求めています。四旬節の献金は、通常のミサ献金とは異なり、節制の実りとして献げる犠牲であり、教会の愛の業への参加に他なりません。この四十日の間、犠牲の心をもって献金にご協力ください。

また聖書にあるとおり「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたら」すと、わたしたちは信じています(ヤコブの手紙5章16節)。わたしたちは祈りを止めることはありません。感染に対応する様々な手段を講じる中には、わたしたちの霊的な戦いをも含めていなければ、この世界にわたしたちが教会として存在する意味がありません。ですから、祈り続けましょう。特に今年の四旬節にあたっては、長年支え合ってきたミャンマーの教会の友人たちを思い起こし、ミャンマーの平和と安定のために、祈りを献げるようお願いいたします。

また四旬節は洗礼志願者と歩みをともにするときでもあります。共に信仰の原点を見つめ直しながら、困難のなかにも互いを励まし、信仰の道を力強く歩み続けましょう。
 
2021年2月17日 灰の水曜日
カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

 

 

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2021年2月11日 (木)

世界病者の日メッセージ

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例年2月11日には、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、午前中にスカウトのBP祭ミサ、そして午後には世界病者の日のミサを大司教司式ミサとして行っています。残念ながら今年は、感染症の現状から、どちらのミサも中止となりました。

病者のために祈る日に、病気のために肝心のそのためのミサが出来ないことは無念です。祈りのひとときを共にしていただくために、ビデオメッセージを作成しました。東京教区のホームページにも掲載されていますが、ビデオのリンクはこちらです。(写真は三枚ともフランスのルルドの聖地)

以下、そのビデオメッセージの原稿です。

世界病者の日メッセージ
2021年2月11日

神からの賜物であるわたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、ありとあらゆる脅威にさらされています。それは、暴力や武力による脅威であったり、人間の悪意に基づく脅威であったり、排除や差別による脅威であったり、政治的意図や政治的支配欲による脅威であったり、政治思想に基づく圧政による脅威であったり、貧困や疾病による脅威であります。

そしてこの一年、わたしたちは未知の感染症によるいのちへの脅威にさらされています。この一年ほど、互いのいのちへの思いやりと支え合いが重要であることを思い知らされた一年はありません。そしてこの一年ほど、いのちの尊厳について考えさせられた一年はありません。

今現在も、新型コロナ感染症のために病床にある多くの方々、特にいのちの危機に直面して闘っておられる多くの方々のために、心からお祈りいたします。

またいのちを守るために、日夜懸命に努力を続けている医療スタッフ、介護職にある方々、また未知の感染症の解明のために日夜研究を続けている専門家の方々。その懸命な働きに、心から感謝すると共に、皆さんの健康が守られるようにお祈りいたします。

今回の感染症は、軽い風邪のようでもありながら、同時に急速に重篤化していのちを奪われるケースも多くあり、どうしても疑心暗鬼にとらわれてしまう状況を生み出しています。加えて、この感染症に対抗するためには、基本的に手洗い、うがい、マスクに社会的な距離を保つことがあげられ、いきおい、人と人との繋がりが断絶されてしまう状況も生み出しています。

感染した場合の隔離の状況や、重篤化した場合の完全な孤立は言うに及ばず、今回の感染症はさまざまな場で、孤立を生み出し、孤独のうちに多くの人を追いやっています。また疑心暗鬼が深まるにつれて、感染した人やその家族への排除の動きや差別的な言動の事例も聞かれ、さらには必死になって治療に専念する医療スタッフへの差別的な言動もあると聞いています。

利己的な思想や価値観の広まりは、この数年の世界的風潮でもあり、助け合うことや支え合うことが意味を失い、孤独や孤立のうちに取り残される人が多く見られるようになっていました。異質な存在を排除し、自己の価値観を守ることに専念する社会は、寛容さを失います。教皇フランシスコは、しばしば誰も排除しない社会の実現を呼びかけ、隔てる壁を打ち壊し、広がる溝に橋を架けるようにと諭してきました。

そういった社会の風潮に、この一年は新型コロナ感染症による不安が加わりました。心の不安を増幅するような事態の頻発は、疑心暗鬼の闇をひろげてしまいます。疑心暗鬼が生み出す相互不信には、対立を引き起こす負の力があり、残念ながら寛容さを生み出すような前向きの力はありません。

そういう闇の中に取り残されるとき、自らを守るために利己的となるわたしたちは、あたかも人間のいのちには価値の違いがあるかのような思い違いすら生み出してしまいます。自分を守るためならば、異質な存在は排除しても構わないという考えは、いのちに対する尊厳の欠如です。まさしく、寛容さを失い、相互不信にあえぐ社会は、ヨハネパウロ二世が指摘した「死の文化」に彩られた社会です。闇の中を歩んでいる今だからこそ、教会はあらためてこの社会の中で、「死の文化」に対抗する「いのちの文化」を強調して行きたいと思います。善が悪に勝利を収めるだけの力を持っていることを、証明していかなくてはなりません。

主イエスによる病者のいやしは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その事実が神の栄光を示していることは忘れてはなりませんが、同時に、人と人との繋がりから排除されてしまったいのちを、いやし、慰め、絆を回復し、生きる希望を生み出すところにも大切な意味合いがあります。孤独の中で孤立し、暗闇の中で不安におののくいのちに、歩むべき道を見いだす光を照らし、そのいのちの尊厳を回復するところにも大切な意味合いがあります。

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世界病者の日と定められた2月11日と言う日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。わき出る水は、病気の治癒の奇跡を起こすこともありますが、それ以上に多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

ルルドの泉がもたらす奇跡的治癒は、キリストのいつくしみの深さとすべてを超える偉大な力を示していますが、同時に、ルルドという聖地自体が、そこを訪れる多くの人に心の安らぎを与えていることも重要です。すなわち、聖地自体が、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっているからです。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、希望を失った人の心に希望を回復し、互いへの思いやりの心を思い起こさせる力があります。わたしたちすべての教会共同体が、おなじように生み出したい、霊的な安らぎの雰囲気の模範であります。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に、この日を世界病者の日と定められ、病気で苦しんでいる人たちのために祈り、同時に医療を通じて社会に貢献しようと働く多くの方々のために祈りを捧げる日とされました。今年ほど、この日の持つ意味が切実に感じられる年は、近年ありませんでした。

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教皇様は、今年の世界病者の日のメッセージで、この一年の感染症の緊急事態に触れながら、こう述べています。
「病には必ず顔がありますが、それは一つだけではありません。病者一人ひとりの顔、無視され、疎外されていると感じている人、基本的人権を認めない社会的不正義の犠牲者の顔もあります(回勅『Fratelli tutti』22参照)。このパンデミックは、医療体制の多くの不備と、病者へのケアの不足を露わにしました。・・・病者のケアと看護に資源を投じることは、健康を主要な共通善と捉える原則に結びついた優先事項です」

その上で教皇は、病で苦しみ人に寄り添うことの重要性を強調し、「わたしたちは個人としてだけでなく、共同体としても、寄り添い続けます。キリストにおける兄弟愛はまさに、いやすことのできる共同体を生み出します。だれも見捨てない共同体、もっとも弱い人を真っ先に受け入れ、歓迎する共同体です」と、いつくしみを体現する共同体であるようにと呼びかけます。

東京ドームミサで呼びかけた、「傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と言う言葉を思い起こします。

世界病者の日は、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、いつくしみの神の手に、ともに包み込まれることを実感する日でもあります。主の癒やしといつくしみの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、野戦病院となる決意を新たにする日でもあります。その安らぎの中に、いのちを生きていく希望を見いだす日でもあります。

神のいやしの泉へとベルナデッタを招いたルルドの聖母マリアが、わたしたちを希望の源である御子イエスのいつくしみへと導いてくださいますように。

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2021年2月 2日 (火)

ミャンマーの状況を憂慮しながら

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ミャンマーで2月1日、アウン・サン・スー・チー国家顧問ら与党関係者が国軍によって拘束され、軍出身のミン・スエ副大統領が大統領代行となって非常事態宣言を発令したと伝えられています。昨年の国政選挙の結果に対する反発から、軍によるクーデターであるとも報道されています。

わたし自身、三十年以上前に、当時まだ軍事独裁政権下にあった西アフリカのガーナで8年ほど生活していましたが、その間にも幾たびかクーデター未遂事件が起こり、首都には夜間外出禁止令が出たりしたことがありましたが、それがすぐに、わたしが住んでいた田舎の生活に直接の影響を及ぼすようなことはありませんでした。ですから、今回の出来事がそれ自体として、即座に全国的な生活の変化などとして大勢の人の身に危険が及ぶことはないでしょうが、しかし、長期的に見れば、民主化後に経済が発展し生活が安定してきた国家のこれからには、マイナスの影響を残しかねません。

加えて、以前から少数民族が数多くあるミャンマーでは、それに起因する政治的不安定さが、時に暴力的な対立を各地で生んできたのであり、その中で、カトリック教会も、仏教国での少数派とはいえ、さまざまな影響を受けてきました。ロヒンギャの問題が近年では大きく取り上げられますが、それ以外にも少数民族を巻き込んだ不安定要素は多くあり、民主化が進んで、政治から軍が切り離されていくことが、さらなる安定への道だと思いましたから、今回の件は本当に残念です。

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中国の問題などと同様、現時点で現地の教会からの要請があるわけではありませんから、今の立場で直接ミャンマーの内政への批判的な言説を行うことは控えたいと思いますが、しかし、国家の舵取りをする方々には、複雑な民族構成の中で、一部の利益ではなく全体の善益を考慮に入れて行動をしてほしいと思いますし、民主的な選挙の結果を暴力的に覆すことは認められるべきではありません。異なる意見を力を持って封じ込めることも、認められるべきではありません。一日も早く事態が収束することを、心から祈ります。

東京大司教区はかねてより、ミャンマーの教会を支援してきました。現在でも、教区内の小教区に所属されるミャンマー出身の信徒の方々がおられます。故郷のことを思い、どれほど心配されていることでしょう。故郷が、安心と安定を取り戻すように、心から願います。

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東京教区のミャンマーの教会支援の歴史は、ケルン教区との関係にさかのぼります。そのあたりは教区のホームページをご覧ください。1979年以降、東京教区はケルンと協力しながらミャンマーの教会支援を行い、特に11月の第三日曜日をミャンマーデーと定めて、支援のための献金やお祈りをお願いしてきました。近年では、ミャンマー国内の神学校建設などを支援しており、昨年2020年2月には、担当のレオ神父、高木健次神父の二人に引率されて、わたしも含めた東京の司祭団で、支援先の神学校などを訪問してきました。写真は昨年2月のミャンマー訪問のときのものです。ちなみに、わたしにとっては、この昨年2月のミャンマー訪問が、今に至るまでで最後の飛行機の旅(国内外併せて)でありました。次に訪問できるのは、いったいいつになることでしょう。

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さてわたしはカリタスジャパンの視察で、2003年に初めてミャンマーを訪れて以来、幾たびかの訪問を重ねてきましたが、昨年2月に訪れたときと2003年の初めての訪問の時の印象とを比較すると、実際に国全体が大きく発展していると感じました。2003年の時は、携帯も使えず、地方へ夜行バスで移動した際には、公安とみられる人物が、ずーっと後ろをついてきていました。民主化が進み、着実に経済も発展し、社会全体が安定してきていると昨年2月には感じましたから、今回の出来事はマイナスの方向に引き戻す力として、本当に残念です。

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ミャンマーの安定のために、人々の安全と安心のために、お祈りください。またミャンマーの教会のために、これまで以上のお祈りをお願いいたします。

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2021年1月22日 (金)

広島と長崎の司教様方による共同声明

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2019年11月に日本を訪れた教皇フランシスコは、長崎と広島を訪問されました。訪日が計画されていた当初から、特に長崎を訪問して核兵器に対するメッセージを発表することは教皇様の強い意向でしたし、そのあと日程をやりくりして、同じ日に広島も訪問できることになりました。(写真は長崎でのメッセージについて語る教皇様。2018年12月)

教皇様は広島で次のように言われました。

「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」

その上で、こう指摘されました。

「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この苦しみの深淵が、決して越えてはならない一線に気づかせてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことではなく、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません」

また長崎では、次のように述べておられます。

「カトリック教会としては、民族間、また国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対する、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際条約に則り、たゆむことなく、迅速に行動し、訴えていきます」

その核兵器禁止条約が、1月22日に発効しました。残念ながら核兵器を保有する国は参加していませんし、日本政府も、目指すゴールを共有していながらも、この条約ではなく他の方法をとることを強調しながら、署名批准を見送っています。

条約発効に伴って、被爆地である長崎と広島の司教様方が、以下の共同声明を発表されています。

被爆地広島と長崎のカトリック司教による共同声明
核兵器禁止条約の発効にあたって

2017年7月7日に国連本部で開かれた交渉会議において採択された「核兵器禁止条約」は、2020年10月24日、その批准国・地域が50に達し、規定により90日後の2021年1月22日に発効することになりました。

本日がその発効の日です。被爆者はもちろん、核兵器のない平和な世界を切望する数知れない多くの人が待ちに待った日、最終段階が始まる日、大変意義深い日であり、この喜びをともにしたいと思います。

本条約は核兵器廃絶のためにこれ以上ない有効なものでありますが、条約が述べるように、核兵器廃絶のためには核兵器の開発・実験・生産・取得・貯蔵・配置・移譲・使用あるいは使用するとの威嚇などの禁止のみならず、被害者への援助や環境の修復、国際的な協力が必要です。そのためにすべての国の参加が求められます。なお、発効後1年以内に、締約国が核兵器廃棄の期限や検証方法などを決めることになっています。

しかしすべての国の条約参加を実現するためには乗り越えなければならない最後の大きな壁があります。それは、核保有国と、日本を含む、いわゆる核の傘の下にある国々の根強い抑止論です。これらの国は、核兵器禁止条約の有効性を認めず、署名も批准もしていません。日本政府は、「日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要」であると主張していますが、唯一の戦争被爆国として、この条約の発効が実質的な結果をもたらすよう、日本が率先して署名・批准し、核兵器保有国と非保有国の対話と核軍縮とを推進する役割を担うべきです。

わたしたちは、被爆地のカトリック司教および日本国民として、教皇フランシスコとともに、「すべてのいのちを守るため」、核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、核兵器保有国も非保有国も含めてすべての人が一致して核兵器のない世界の実現のために参加する必要がある、と訴えます。そして、核兵器禁止条約の批准国が世界の大勢を占め、核保有国も批准をし、同条約が完全に実施されるよう神に祈り、そのために働きかける決意を新たにします。

2021年1月22日

カトリック広島司教区 司教 白浜満

カトリック長崎大司教区 大司教 髙見三明

 

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2021年1月 6日 (水)

新しい年の初めに@東京教区ニュース

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政府が緊急事態宣言の発出に向けて検討中と報じられています。再度の緊急事態宣言となった場合、東京教区の管轄する東京都と千葉県はその対象地域となるようですので、教会としてどのように対応するかは、宣言発出後に教区のホームページなどで公示いたします。

東京教区ニュース、2021年1月1日発行の379号は、冒頭にわたしのメッセージを掲載してあります。各小教区で配布していますし、教区ホームページでも教区ニュースを読むことが出来ます。こちらのリンクです

以下、教区ニュースに掲載したわたしのメッセージを、こちらにも再掲します。

東京教区の皆様、主の降誕と新年のお祝いを申し上げます。

新しい年がはじまりましたが、今年はなんとなく、いつもとは様子が異なるクリスマスと年末年始になりました。昨年初めから今に至るまで続いている新型コロナ感染症は、未だにその実体についてさまざまな意見が表明されており、教会としても対応に苦慮しています。アジアの国々は欧米とは状況が異なっているのは事実ですが、その理由は判明しておらず、実際に世界では多くの方が生命の危機に直面しています。ですから、慎重な道を選択せざるを得ません。

昨年一年は、教会においての活動の自粛や、4ヶ月にわたるミサの公開停止など、特に霊的生活において、忍耐を必要とする年でした。皆様それぞれの、信仰における積み重ねがあり、ご理解いただくことが難しい制約も多々あったことを、大変申し訳なく思っています。同時に、この試練の時にあって、互いへの思いやりの心をもってご協力いただいた多くの方々の寛容と忍耐に、心から感謝申し上げます。いま、わたしたちの信仰が試されています。

新しい年の初めという新鮮な気持ちとなる時期であるにもかかわらず、はっきりしたことが分からないために、闇の中を彷徨い続けているような気持ちがいたします。いま、暗闇に輝く光が必要です。誕生した幼子のように、闇に佇む民に救いへの希望の道を示す、光が必要です。

教会は、人となられた「神の言」が暗闇に光として輝くように、その光を暗闇の中であかしする存在でありたいと思います。この光は、生命の希望をもたらす光です。互いに連帯を強め、主イエスのいつくしみの心に倣い、互いを思いやり助け合う具体的な言葉と行いが、生命を守っていきます。誕生した幼子が、一人孤立するのではなく聖家族によって守られ育まれたように、社会にあって孤独のうちに孤立し、危機に直面する生命を、わたしたちは家族として守り育まなくてはなりません。いのちを守る福音を、これまで以上にあかししていきたいと思います。

東京教区の大司教として着座して以来、昨年末12月16日で、3年が経過しました。9月には新潟教区に成井大介司教が誕生し、わたしは使徒座管理者の務めを終えました。

この3年の間、教区の多くの方々からお寄せいただいた意見をもとに検討を重ね、宣教司牧方針を定める作業を続けてきました。この作業は、一昨年の教皇訪日と、昨年のコロナ禍で、予定されていたタイムフレームより大幅に遅れてしまったのですが、このたびなんとか形にすることが出来ました。間もなく、小冊子やホームページ上で公開することになりました。ご協力いただいた多くの皆様と、作業チームの皆様に感謝いたします。

想定されていたものよりも、短く簡単なものと思われるやも知れません。皆様からいただいたご多数のご意見からも、東京教区の幅広い多様性を認識させられました。当初の段階で70通を超えるご意見をいただいています。これらについては、今回だけでなく、今後も長期にわたって、具体的な行動計画を検討するために参考にさせていただきたいと思います。

すべてのご意見を反映して事細かな指針を定めるよりも、教区全体の宣教司牧方針は大枠だけを提示して、それに基づいてそれぞれのユニークさを抱える現場で具体的な適応を話し合っていただくことがふさわしいと考えました。多くの皆様から、それぞれの信仰体験に基づくさまざまな提案があり、時に詳細かつ具体的な提案もありました。それらがすべて含まれていないのは、さまざまな可能性を排除することなく、豊かに発展させることが出来るようにするためです。大枠に基づいて今後、それぞれの小教区などの現場で皆様の話し合いが継続し、具体的な行動に繋がっていくことを期待しております。

宣教司牧方針には、次の三つの大きな柱を定めました。

①宣教する共同体
②交わりの共同体
③すべてのいのちを大切にする共同体

「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(『マタイによる福音書』28章20節)。弟子たちを派遣なさった主イエス・キリストのこのことばに信頼をおきたいと思います。これは、主の約束のことばであり、波高く漕ぎ悩むわたしたちの教会を力づけるいのちのことばでもあります。東京大司教区の宣教司牧方針の三つの柱は、変動するこの世にあって、わたしたちがこころを合わせて向かっていく方向を示しています。そして、互いに関連しあっています。「宣教する共同体」は「義人アベルから最後に選ばれた人に至るまで」ご自分のもとへと集めようとなさる天の御父の救いの想いを反映しています(『教会憲章』 2参照)。「交わりの共同体」は神と人、人と人の和解のために十字架へとつけられた御子の生きる姿を写し出します。「すべてのいのちを大切する共同体」は「主であり、いのちの与え主」(『ニケア・コンスタンチノープル信条』参照)である聖霊の働きによって成立します。ですから、この宣教司牧方針は三位一体の神のお姿をこの世にあらわしていくものなのです。

皆さん、歩みを共にしながら、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」をつくり育んでまいりましょう。

教皇様は先日発表された三つ目となる回勅「Fratelli tutti」において、「個人の日常的関係、社会、政治、公共制度において、より正しく兄弟的な世界を築きたい人にとって、大きな理想であると共に具体的に実行可能な道とは何か」という問いに回答を見いだそうとしておられます(バチカンニュースより)。その中で、教皇は今回のコロナ禍に触れて、「わたしがこの文書を準備している最中に、思いがけない形で飛び込んできた」と記し、これによってもたらされたいのちの危機は、「誰も一人で自分を救えない」こと、そして、「わたしたち皆が兄弟」として「ただ一つの人類として夢見る」べき時がついにやって来たことを示した、と記されています(7-8)。

今求められているのは、兄弟姉妹としての愛のうちに互いに尊重し合い支え合う家族を生み出そうと努力することです。東京教区の教会共同体が、存在を持ってそのあかしとなることを願っています。

昨年10月のホルヘ神父様の叙階に続いて、今春も司祭叙階が見込まれています。また新たに神学院に入学する方もおられます。主のぶどう畑の働き手である司祭の召命のために、お祈りください。また教区にあって、福音を徹底的に生きる姿の模範を示し、霊的な土台を築いてくださる奉献生活者(男女修道者)の召命のためにも、お祈りをお願いいたします。

感染症の状況次第では、今年も教区関連の行事に大きな変更の可能性があります。黙想会、研修会、会議といった多数が集まる機会を制約せざるを得ないかも知れません。集まることが難しいなかにあっても、一つのキリストの体に結ばれている兄弟姉妹の共同体であることにあらためて思いを馳せ、同じ信仰において祈りをともにする中で、霊的な絆を再確認したいと思います。どのような状況にあっても、主は世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださいます。

新しい年のはじめにあたり、東京教区の皆様の上に、いつくしみ深い神の豊かな祝福があるように祈ります。

 

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2021年1月 5日 (火)

追悼:チャールズ・レンネル神父様

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2020年はコロナ禍とともに、多くの先輩司祭・宣教師が帰天された年でもありました。その中で、わたしの故郷である岩手県の宮古教会の信徒の方から連絡をいただき、子どもの頃にわたしが大変お世話になった宣教師の帰天を知りました。(写真は、昭和35年頃の、宮古教会)

ベトレヘム外国宣教会の宣教司祭であるチャールズ・レンネル神父様が、引退され過ごされていた故郷のスイスで、12月17日に89歳で帰天されました。

1931年(昭和6年)生まれのレンネル神父様は、59年にチューリヒ郊外のインメンゼーにあるベトレヘム外国宣教会で司祭として叙階。60年に来日し、日本語を学んだ後、62年(昭和37年)に岩手県の四ツ家教会の助任として赴任されました。当時、岩手県全域の宣教司牧は、ベトレヘム外国宣教会に委託されていました。そして1970年に岩手県の宮古教会に主任司祭として、また小百合幼稚園園長として赴任し、その後2001年にスイスへ帰国するまで、宮古で働かれました。

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わたしの母親とのツーショット写真で申し訳ないのですが、上の写真は、岩手で働いてくださったベトレヘム外国宣教会の宣教師の原点であり、また墓所でもあるインメンゼーの本部を、2005年に母と訪問し、その際にレンネル神父様とアルプスの山々を訪れたときのものです。わたしの母親はレンネル神父様と同い年です。

実はわたしは、生涯の中で、教会関係以外の場所に住んでいたことは2年しかありません。わたしが生まれたとき、父親は宮古教会の伝道士(カテキスタ)でしたから、教会敷地内の職員住宅で生活をしていました。その後、父親は盛岡の四ツ家教会に転任となり、そこでも四ツ家教会の信徒会館二階にあった職員住宅で生活をしていました。その後、父親の転職のため一家は静岡に越しましたが、ちょうど小学5・6年の二年間、静岡市井川で教員住宅に住んでいました。そのときだけです、自分の生涯の中で、教会関係以外で暮らしたのは。そしてわたし自身は中学一年から、神言修道会の小神学院に入ったので、それからの人生の本拠は、司教となるまで、神言会の修道院となりました。ですから人生の中で2年間しか、教会関係以外で生活したことがないのです。教会で生活するということは、そこの司祭館に住む司祭の生き様を日々目の当たりにしているということですから、さまざまな司祭からわたしは影響を受けていると思います。その中でもレンネル神父様は特別です。

その盛岡の四ツ家教会に私たち家族が越していったのが63年か64年だったと思います。ちょうどレンネル神父様が四ツ家教会の助任として働き始めた頃です。その頃から、父の転職で盛岡を離れる69年まで、同じ四ツ家教会の敷地内で生活をしていました。単に生活をしていただけでなく、小学生になってからはほとんど毎朝、すぐ隣にあった盛岡白百合学園の修道院(現在の郵便局)へ、朝ミサに行くレンネル師に引きずられてミサに与り、うろ覚えのラテン語で侍者をさせられていました(ちょうど典礼が変わる時期でしたので、変化が大きくて閉口することも多々ありましたが)。ですからわたしの信仰の基礎を「厳しく」たたき込んでくださったのは、当時まだ青年宣教師だったレンネル神父様です。

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大神学院にいた頃には、夏休みにレンネル神父様を訪ねて宮古教会のお手伝いをさせてもらったり、さまざまな機会にお世話になりました。写真は、中学生の頃の夏休みに、母や弟と一緒に宮古教会を訪ねたときだったと思います。わたしが86年3月に名古屋で司祭叙階されて、その直後の復活祭に、宮古教会で初ミサをするよう招いてくださったのもレンネル神父様でした。幼い頃に生活しただけの生まれ故郷である宮古や宮古教会とわたしを、今に至るまで続く太い絆で結んでくださったは、レンネル神父様の心配りでありました。

レンネル師を知っている人はだれでも、神父様の笑顔とジョークとフレンドリーさを体験し、記憶しています。素晴らしい宣教師でした。

レンネル神父様の宣教師としての大きな貢献に、神様が豊かに報い、永遠の安息の内に迎え入れてくださいますように。R.I.P.

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2020年12月12日 (土)

先輩宣教師の帰天

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昨日、12月11日金曜日午後8時9分、フランシスコ会の司祭ブルーノ・ファブリ師が、同会修道院で帰天されたとの報告を受けました。享年77才でした。(上の写真は、2009年10月の聖フランシスコのお祝いで、新潟教区の佐藤師と一緒にケーキを切るブルーノ師。後方左にマリオ・カンドゥッチ師、後方右にフーベルト・ネルスカンプ師。なお後方左の山頭師と川崎師も、帰天されています)

ブルーノ・ファブリ師は、1943年4月16日にイタリア・リミニで生まれ、1966年5月19日にフランシスコ会で荘厳誓願、その後1968年3月31日に司祭に叙階され、1969年9月8日に来日されました。数年前に引退されるまで、新潟教区の長岡地区で長年に渡って、小教区司牧、幼稚園教育、そしてボーイスカウト活動に献身された、新潟教区を支える存在でありました。ブルーノ・ファブリ師の永遠の安息を祈ります。

長年に渡って新潟教区の宣教司牧活動に貢献し、特に新潟県の長岡地区を支えてくださったフランシスコ会の宣教師が、今年は皆、帰天されました。マリオ・カンドゥッチ神父様、レオ・バッシ神父様、ブルーノ・ファブリ神父様。すでに昨年までに帰天されたそのほかのフランシスコ会員と共に、私が2004年から2017年まで新潟教区で働いていたとき、さまざまな側面から宣教司牧を支えてくださった偉大な宣教師たちが、みな御父のもとへと旅立たれました。

現場での宣教司牧を離れられてからも、例えばドイツで帰天されたフーベルト・ネルスカンプ師のように、故郷で活躍された方もおおられますし、マリオ・カンドゥッチ師のように、殉教者の列聖調査を始めるために尽くされた方もおられますし、帰天まで現役で幼稚園長を続けてきた90歳を遙かに超えるバッシ師のような方もおられます。ブルーノ師も、司牧から引退されることには体調を崩し、歩行に困難を抱えていましたが、それでも教会のミサを手伝うために、歩行器を使ってゆっくりと道を歩まれていた姿が記憶に残っています。

それぞれの宣教師の方々は、それぞれに与えられた豊かな才能を発揮して、任命された場で大きな働きをされ、大きな賞賛を受けてきました。しかし同時に彼らは徹底的に修道者でありました。奉献生活に生きる人たちでした。大きな働きをした人間が、齢を重ねたとき、遙かに年齢が下の上長に従って謙遜に生きることには、大きな努力が必要です.しかし修道者はその生き方を生涯の生き方として選択しました。すべてを捨てて、清貧、貞潔、従順の誓願に生きることを、若い日に誓ったのです。

これらの偉大な宣教師たちも、生涯の最後まで、修道者としての奉献生活に徹底的に生きられた方々であったと思います。謙遜に神の御旨に従う姿を持って、わたしたちにキリストに従って生きる模範を残されたと思います。残されたわたしたちは、誓願における一人ひとりの選択と決意を尊重し、その生き方に学びながら、彼らの働きと貢献に感謝し、永遠の安息を祈りたいと思います。

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2020年12月 8日 (火)

無原罪の聖母の祝日、イエスのカリタス会の初誓願式、そのほかこの数日

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12月8日は無原罪の聖マリアの祝日です。東京教区ではカテドラルである聖マリア大聖堂の献堂記念日でもあります。

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この日、イエスのカリタス会では初誓願式が行われ、5名の修練者が誓願を宣立して奉献生活者としての道を歩み始めました。4名の方がベトナム出身、お一人が日本出身と、国際色豊かなグループで、誓願式ミサには日本で働いているベトナム出身の司祭も(そのうちお一人は、初誓願を宣立したシスターのお兄さん)参加してくださいました。

ミサは杉並区井草の本部修道院聖堂で行われ、現在の状況ですから、よく消毒をし、マスクを着用し、互いの距離をとり、聖歌は聖歌隊だけのミサとなりました。わたしが司式させていただきました。誓願式は修道会にとって大きなお祝いですから、本当は多くの方に参加していただけると良いのですが、残念な反面、誓願を宣立した方々にとっては、歴史に残るような状況の中で忘れることのない特別な時となったことと思います。

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おめでとうございます。またイエスのカリタス会のシスター方には、3月から10月末まで、関口教会からの配信ミサのために毎回聖歌隊を担ってくださり、美しい典礼の配信に力を貸してくださったこと、感謝しております。

なおこの数日と言うことで、三つのことがありました。

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11月29日には、山形県の新庄教会が献堂10年を迎え、この事態ですからお祝いは出来ませんでしたが、感謝ミサを捧げてまいりました。(写真すぐ上。新庄教会でのミサ)

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また12月6日には、千葉県の銚子教会で、新しい信徒会館が完成したこともあり、主日のミサに合わせて信徒会館の祝福式を行いました。(写真すぐ上が信徒会館)また主任の森神父様との共同司式ミサの中では、お二人が堅信を受けられました。これも現在の事態のため、限定された少数の方のみミサに与っていただきましたので、聖堂には20名ほどの方の参加となりました。

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 新しくできあがった信徒会館は木造二階建てで、壁の木材の色調がやさしく、暖かな建物となりました。(写真すぐ上が、右に聖堂、左に信徒会館)銚子駅にも近くまた海にも近い場所です。夏などには合宿などに活用していただける建物かと思います。

もう一つ、明日12月9日は東京教区の澤田和夫神父様の101歳の誕生日です。無原罪の聖マリアの祝日の午後に、澤田神父様も一緒にカテドラルで感謝ミサを捧げる予定にしていましたが、この数週間の東京における感染の状況を勘案し、急遽ミサは取りやめにしていただきました。残念ですが、神父様のお年のことや集まる方々のことを考えると、しかたのない選択かと思います。神父様は101歳ですがお元気です。わたしも今日の午後、お会いしました。明日の誕生日に、皆様のお祈りをお願いいたします。

以下、本日のイエスのカリタス会初誓願式の説教の概要原稿です。

イエスのカリタス修道女会初誓願式ミサ
2020年12月8日

「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」

マリアはこの言葉を持って聖母となりました。マリアにとって天使ガブリエルからのお告げは、全く理不尽な内容であったに違いありません。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と言う、強い否定の言葉に、その困惑の度合いが感じられます。しかしマリアは、聖霊の働きを通じた神の不思議な働きについての天使のお告げを受け、「神に出来ないことはなに一つない」と言う天使の言葉に信頼を置き、神の計画にすべてをゆだねることを決意します。

創世記のアダムとエバの物語は、この世界を支配するのは創造主である神であって、人間の勝手な思いではないことが明確に記されています。

パウロはそれを「御心のままにすべてのことを行われる方のご計画によって前もって定められ」と形容し、神はご自分が成し遂げようとされたことを必ず成し遂げられることを示唆します。

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この世界は、創造主である神によって支配され、神はその計らいを持ってわたしたちを導かれる。そう信じているわたしたちは、この一年、神のご計画はどこにあるのだろうかと識別を重ねています。

新型コロナウイルスの感染症は、教会の活動にも大きな影響を与えています。

いつもであれば、日曜のミサは言うに及ばず、こういった誓願式などのお祝いにも、出来るだけたくさんの人に教会や修道院に来てほしいと案内をするのですが、今年は逆に、来ないでくださいとお願いをしなくてはならない。そのこと自体が非常に象徴的ですが、わたしたちは何か、価値観の大転換を求められているように感じます。

教会には目に見える組織としての教会と霊的交わりで結ばれる共同体の二つの側面がありますが、この事態はわたしたちに、普段は忘れがちである共同体の霊的側面に目を向けさせています。その意味で、教会の意識も転換が求められているように感じています。

実はわたしたちは10年ほど前、おなじように価値観やライフスタイルを大きく転換させる出来事に直面しました。2011年3月11日に発生した、東日本大震災の体験です。

私たちはあの大震災を通じて、人間の力がいかに小さなものなのかを、さらにはその知恵や知識には限界があることを、巨大な地震と大きな津波の前で、また原発事故の直中で思い知らされました。厳然とそびえる限界の壁を知ったとき、わたしたちは、おごりを捨て、謙遜に生きる道を選択しなければならないと悟ったのではないでしょうか。

しかしそれから10年が過ぎ、強烈であった震災体験は徐々に忘れ去られ、結局のところ、社会全体の価値観の転換は起きませんでした。そこに、この新型コロナの感染症が発生しました。あらためてわたしたちは、この世界を支配するのは人間ではない。人間の知恵と知識には限界があることを認識させられました。

暗闇の中をさまよい歩いているわたしたちには、希望の光が必要です。その希望の光は、互いに助け合い、支え合い、配慮をしながら連帯するところに生まれます。希望の光が持続し、社会全体に定着するためには、その希望を率先して生きる人が必要です。連帯を目に見える形で生きる人が必要です。互いに支え合い思いやることで、生きる希望と喜びが生まれるのだとあかしする人が必要です。

教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、だれひとりとして排除されて良い人はいない、忘れ去れて良い人はいない。すべてのいのちは神からのたまものであり、神から愛されている。それをあかしして、社会のなかにあってしるしとなる人が必要です。

教皇ベネディクト16世が回勅『神の愛』に、教会の三つの本質的務めを記しています。それは、「神の言葉を告げしらせることとあかし、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うこと」であります。

「神に出来ないことはなに一つない」と言う天使の言葉を信じ、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と応えることで神の計画に完全に身を投じて生きた聖母に倣い、この現実社会の中で、人生のすべてを賭けて、神のことばをあかしし、秘跡を祝い、愛の奉仕を率先して行う人が教会には必要です。自己実現ではなく神の計画の実現のために生きる人が必要です。

奉献生活を誠実に続けることで、どうかキリストを示してください。この世界は神の支配のもとにあるのだということを、その謙遜な生き方を持ってあかししてください。わたしたちは神の計画の実現のために生きているのだと言うことを、その従順な生き方によってあかししてください。わたしたちは、自分が褒め称えられるためではなく、神を褒め称えるためにあるのだということを示してください。わたしたちは愛されるためではなく、愛するためにあるのだということを示してください。

困難な時代にあって、奉献生活に生きる方々が、暗闇に輝く希望の光となりますように。

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2020年11月18日 (水)

教区災害対応チームによるオンラインパネルディスカッションが開催

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東京大司教区には、まだまだ始まったばかりですが、災害対応チームが存在しています。東日本大震災を教訓に、これから起きるであろう災害に備えておくためでもあり、またカリタスジャパンが作成した災害対応マニュアルを実施するためでもありますが、なにぶん初めての挑戦なので、試行錯誤が続いています。

その中で、今回の新型コロナ感染症の拡大は、自然災害にも匹敵する影響を社会に及ぼし、また教会もその影響を大きく受けていることから、災害対応チームの視点からどういった対応が可能であるのか、模索してきました。

その一つが、教区ホームページにも掲載している「コロナ対応支援プラットフォーム」と名付けたブログの開設です。詳しくはこちらのリンクからご覧いただき、その上で、このブログを参照していただければと思います(コロナ対応支援プラットフォームはこちらのアドレスです。 http://catholictad.jugem.jp/

それ以外にも、Facebookにおいて、こちらのリンクで発信をしていますので参照ください。

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この災害対応チームでは、教会活動がコロナ禍のために困難を極める中で、さまざまな取り組みを、特にオンラインで行っている事例を紹介しようと、去る11月14日午後1時半から、オンラインでパネルディスカッションを開催しました。

当日は、教区内で次の方々にパネラーとしてご報告をいただ来ました。

A: カトリック西千葉・千葉寺教会
「リモート聖書講座・主日の福音」 
福島 一基 神父(西千葉教会・千葉寺教会主任司祭) 田中 修さん(講座受講者 千葉寺教会信徒)

B: ドン・ボスコ オラトリオ
「日本語講座にみるベトナム人技能実習生の今」
田村 宣行 神父(サレジオ会) 春山 ミカエル ラップ 神父(サレジオ会)

C: カトリック梅田教会 教会学校 「継続が一番」
藤本 陽子さん(教会学校リーダー) ラメイ アレックさん(教会学校リーダー)

D: カトリック調布教会 教会学校
「これからの教会学校の在り方を見つめて」
荒川 讓二さん(教会学校アニメーター サレジオ会哲学生) 木下 敏孝さん(調布教会教会委員長)
古川 晴麻さん(教会学校生徒)古川 美帆子さん(教会学校保護者)

参加して報告くださった皆さんありがとうございました。このパネルディスカッションの様子は録画してありますので、東京教区のホームページから是非ともご覧ください。録画を見ることの出来るリンクはこちらです。また今後もこのようなオンラインパネルディスカッションを開催して、「困難なときにこそ新たな取り組みを」めざして、体験を共有し、教区全体で生かしていくことが出来ればと思います。

以下、当日のパネルディスカッション冒頭での、私のメッセージです。

本日は多くの方に、オンラインパネルディスカッションに参加していただき、ありがとうございます。

カトリック東京大司教区の災害対応チームとしては、新型コロナ感染症は、地震などの災害と変わらない大きな影響を社会に及ぼしていると認識し、感染症が認知された当初から、教会としてどのような対応が出来るのかを模索してきました。

感染症の拡大は社会全体に大きな影響を及ぼしていますが、教会にもおなじように大きな影響を及ぼしています。社会全体もそうですが、教会も、いのちの危機に直面して、どこに向かえば光が見えるのか分からずに、暗闇の中で彷徨っているような感覚です。

とりわけ教会は大きな影響を受けています。なんといっても、新型コロナ感染症から身を守るために、密集、密閉、密接といった三つの密を避けることが提唱されていますが、教会はまさしくミサを捧げるためにこの三つの密に満ちあふれているところだからです。たくさんの人が狭い場所に集まって、みんなで聖歌を大きな声で歌ったりするのですから、教会は三つの密と共にあると言っても過言ではありません。それが出来ないとなると、とたんに教会はアイデンティティの危機に直面しました。特にカトリック教会は、集まって聖体祭儀に与り、御聖体を拝領することが重要なのですから、それに困難を感じている今、教会は、いったい自分たちはどうあるべきか、大きな悩みを抱えてしまっています。

残念ながら、この危機的状況は、すぐには解決しそうにありません。それなりに感染対策には心を配るようになりましたが、それでも以前のような活動に戻ることは当分難しいと思います。

そんな中で、単に失ったものをどう補充するかという視点だけではなく、与えられている使命、すなわち福音を、「時が良くても悪くも」伝えていく使命から、わたしたちキリスト者は逃れることは出来ません。この困難な中で、どうやったら積極的に福音を伝えていくことが出来るのか。

そこに21世紀の今、わたしたちにはインターネットという道具があります。それを使って教会は何が出来るのか。それも失ったものを補填する補助的な活動ではなくて、積極的にどう打って出るのか。

その道を探るために、今回のオンラインパネルディスカッションを企画しました。東京大司教区の災害対応チームとしては初めての試みです。

「コロナ禍の今、教会(わたしたち)のミッション」。

コロナ禍の今でも、今だからこそできるミッションが、私たちにはあるのではないでしょうか。
実際の取り組みに耳を傾け、新たな道を一緒に模索していきたいと思います。

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報告者は、それぞれの場所からZoomを使って報告をしていただきました。教区本部の司教執務室を配信の拠点として、担当司祭の豊島神父をはじめ私を含めて5名で、役割を分担し、同時配信いたしました。途中、報告が途切れるといったトラブルもありましたが、司会を担当した教区広報の赤井さんが名司会で切り抜けました。

今後もこういった企画を続けますので、是非教区の中で挑戦していることを分かち合いたい小教区や団体は、教区本部までご連絡区ださい。

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