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2020年3月29日 (日)

四旬節第五主日ミサ@東京カテドラル(配信ミサ)

Cathedral200328

3月29日、雪降る東京です。四旬節第五主日のミサの導入と、説教の原稿です。

今回は大聖堂から配信しましたが、音の問題は多少改善されたと思います。映像の乱れが解消していません。

ミサの導入

わたしたちは生まれて初めて、ミサのない四旬節を過ごしてまいりました。砂漠の中に放り出されたような、霊的な渇きに苦しめられた四旬節です。

第五主日のミサは、すべてをつかさどる神の力を通じて復活への希望を新たにする日です。感染症が拡大する中で、東京ではこの週末の外出を自粛するようにとの要請が出るなど、希望を見いだすことが難しい状況でわたしたちは生きています。

その不安の中にあって、あらためて本当の希望である主イエスへの信頼を、このミサの中で深めましょう。

また洗礼を準備しているすべての志願者の上に、勇気が与えられ祝福がありますように祈りましょう。

そして、感染症の拡大が一日もはやく終息し、事態が収まるように祈りましょう。

ミサの説教の原稿

人間のいのちのはかなさ。人間のいのちを奪い去る死への恐怖。福音の冒頭にあったように、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と叫びたい気持ちです。

今年の四旬節ほど、人間のいのちについて考えさせられた四旬節はありません。感染症の拡大の中で、わたし自身を含めて、多くの人が、「いのちを守るために」適切な行動をとるようにと呼びかけつづけている四旬節です。初期の段階では大げさだと思われた行動が、時間を経るにつれて、まだまだ厳しい対応をしなければ間に合わないと危機感を募らせることになり、状況は日夜変化し続けています。

世界各地で、とりわけ現時点では欧米諸国で、多くの方が感染症のために命を落とし、その原因が目に見えないウイルスであるからこそ、死への恐怖がわたしたちに忍び寄ってきます。

東京教区がこうして公開の形での主日ミサを取りやめているのも、何度も強調してきましたが、自分の身を守るためと言うよりも、無症状のままで感染源になる可能性があるという今回のウイルス感染の特徴のため、知らないうちに自分が感染源となって、他の人たちを巻き込んでしまうことを避けるためです。

インターネット上には、医療崩壊を食い止めるために、自宅にとどまってくれるように呼びかける医療関係者の動画とか、「私たちのいのちを守るために、家にとどまってくれてありがとう」と呼びかける高齢者の動画などがあふれています。

コロナウイルス感染症の蔓延は、わたしたちに、すべてのいのちを守るためには、自分の身を守ることだけではなく、同時に他者のいのちにも心を配る思いやりが必要なのだということを思い起こさせています。すなわち、すべてのいのちを守るための行動は、社会の中での連帯と思いやりを必要としています。

わたしたちは、この理不尽な感染症の蔓延という事態が、どうしていまこのときに起こっているのか、わかりません。なぜこのような苦しみが、世界にもたらされているのか、その理由を知ることも不可能でしょう。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。この世界から理不尽な苦しみを取り除く努力をしなければならないとしながらも、教皇は、人間はその有限性という限界の故に、苦しみの源である悪と罪の力を取り除くことができないのだとも指摘します。それができるのは神だけであり、神は人間の歴史に介入されて、自ら苦しまれることで、世界にいやしを与える希望を生み出した。そこにこそ、わたしたちが掲げる希望があると指摘されます。

その上で、教皇は、人間の価値は苦しみとの関係で決まるのだとして、こういいます。
「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

わたしたちにとって、いのちを奪いとる死に至る道は、苦しみの極地ではないでしょうか。

本日の福音で、イエスは愛する友人であるラザロの死という苦しみと悲しみを通じて、初めて神の栄光を目に見える形で表します。

そのイエスご自身が、自ら受難の道へと足を進められ、十字架上でいのちをささげられます。しかしその自己犠牲こそは、永遠のいのちへの復活という栄光を生み出す苦しみでありました。

イエスの人生こそは、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を具現化する人生であります。

わたしたちは洗礼の水を通ることによって、古い自分に死に、新しい自分に生きることになります。エゼキエル書に「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と墓にいる者たちに告げる言葉が記されています。まさしくわたしたちは、洗礼によって神の霊を吹き込まれて、新たに生かされることになる。

その新たに生きる人生は、それまでの人生の継続ではなく、新しい人生です。

すべての悪に打ち勝つイエスの復活の力に希望を見いだす人生です。

「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を中心に据えた人生です。

教皇ヨハネパウロ二世は、書簡「サルヴィフィチ・ドローリス」において、苦しみの意味を考察されています。

教皇は、「神は御ひとり子を、人間が悪から解放されるために世に与えられた」と指摘し、御子は、神が愛される人間の救い、すなわちあがないのために、罪と死に打ち勝たなくてはならなかった。そのための戦いが、イエスの人間としての苦しみの生涯なのだと述べています。

その書簡の終わりにあたり教皇は、ただ漫然と苦しみに耐えていれば良いというわけはではないことも、指摘することを忘れてはいません。漫然と耐えているだけでは、この世における神の国の実現はあり得ないからです。神の国の実現のためには、打って出る行動が必要です。

教皇は、教会が「善きサマリア人」に倣って生きるようにとよびかけ、「我々お互いの関係は、苦しむ隣人の方に向かわなければならない」と指摘します。

その上で、教皇は「苦しみは、また、人間の人格の中で、愛を誘発するために存在している」とまで述べて、困難に直面する人たち、苦しみのうちにある人たちへ、徹底的に自己を与え尽くすことによって奉仕し、寄り添うことが必要であると説きます。苦しみの福音は、善きサマリア人として生きることを通じて、常に「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜いた主イエスによる希望へと方向づけられるのです。

感染症が蔓延する中で身を守ろうとしているわたしたちには、すでに述べたように、「いのちを守るための行動」が必要で、そのためには自分の身を守ることだけではなく、社会の中での連帯と思いやりが必要です。

今回の事態で、病気に苦しむ人、病気との闘いに苦しむ人、経済の悪化で苦しむ人、雇用を失う人。様々な状況で、いのちの危機に直面する人たちが社会には存在することでしょう。わたしたちにはいま、思いやりと共に「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜くことが求められています。

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2020年3月22日 (日)

四旬節第四主日ミサ@東京カテドラル

インターネットで配信した、3月22日、四旬節第四主日のミサの説教原稿です。東京カテドラル聖マリア大聖堂は、大聖堂と地下聖堂とも、音声を収録することに困難がつきまとっています。備え付けのマイクからの音声と、聖堂内の全体の音声などのバランスを調整しながら収録することがとても困難で、例えば教皇様の来日の際のように、独自の機材を大量に持ち込めば良いのですが、残念ながら突発的な出来事でしたので、教区の予算の制約もあります。できる限り機材を購入しながら、少しずつ改善しているところですが、準備が整えば、大聖堂からの配信もできるように、主任の天本神父以下取り組んでくださる信徒のボランティアの方々と、鋭意挑戦中です。

ミサの導入

四旬節第四主日は、伝統的に、このミサに固有の入祭唱が、イザヤ66章の「神の民よ、喜べ、 神の家を愛するすべての者よ、ともに集え」という言葉からとられていることで、レターレの主日とかバラの主日とも呼ばれています。復活祭の喜びへと旅を続けるわたしたちに、まもなく訪れる希望の光を先取りする形で、キリストの光にあずかるようにと招いている主日です。

困難な時期にあって、事態の一日も早い収束と、病気にあって苦しまれている人たちの回復を祈りましょう。また治療のために日夜取り組んでおられる医療専門家の方々や研究者、今回の事態にあって社会的に経済的にいのちの困難や危機に直面している多くの方々の上に、いつくしみ深い神の手が差し伸べられるように、祈りましょう。

共同祈願の導入

四旬節は復活祭に洗礼を受ける準備をされている方々にとって、心を整える最終的な準備の期間です。四旬節第四主日は、荒れ野の中を旅するような苦しみの中で信仰を見つめ直し、洗礼への準備を進める旅路にあって、まもなく洗礼を言う喜びのときが近づいていることを心にとめる、喜びの主日でもあります。残念ながら、今年は小教区での主日のミサが行われていないため、洗礼志願者の方々にあっては、まもなく訪れる喜びを、共同体のなかで実感していただくことができません。

洗礼は個人的な出来事にとどまらず、教会共同体に迎え入れられること、すなわち、キリストの体の一部となることでもあります。四旬節の主日のミサにおいて、教会共同体が洗礼志願者のために祈るのは、共同体に迎え入れられるという出来事を、信徒も志願者も、互いに実感するためでもあります。

本日のミサには、それぞれの場から映像を通して参加されている洗礼志願者の方もおられることと思います。教区の共同体全体が、皆さんのために祈り、また皆さんを兄弟姉妹として共同体に迎え入れる日を、心待ちにしています。本日の共同祈願の中でも、洗礼志願者の方々のために祈り、また終わりには洗礼志願者が、「やみから光に移り、暗闇の力から解放」され、「光の子として歩むことができ」るように、「解放を求める祈り」を唱えます。

それでは、光の源である神に心を開いて祈りましょう

説教の原稿

四旬節第四主日

東京カテドラル聖マリア大聖堂(映像配信ミサ)

2020年3月22日

わたしたちは,厳しい挑戦を受け続けながら、今年の四旬節を過ごしております。教会の歴史の中では初めてではないのだろうと思いますが、しかし、私を含めて多くの方が,信仰生活の中でこれまでに体験したことのない事態に遭遇し,困惑しています。

四旬節は、洗礼の最終的な準備をしている洗礼志願者と歩みをともにしながら、キリストに従うわたしたちが、信仰を振り返り、イエスとの出会いの原点に立ち返ろうとする季節です。感染症の拡大が要因とはいえ、その四旬節中にミサにあずかることができず、また御聖体のうちに現存される主との一致の機会も霊的な拝領に限定され、黙想会などを通じて信仰を見つめ直す機会もなくなってしまったことは、わたし自身非常に残念ですし、教区に対してそのような判断をせざるを得なかったものとして大変心苦しく思っております。

もちろんミサがないことだけで、わたしたちの教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。この危機的な状況に直面する中で、あらためて、わたしたちは信仰によって結ばれている兄弟姉妹なのだという意識を、さらにわたしたちは共に、同じキリストの体を形作っているのだと言う意識を、心に刻んでいただければと思います。

祈りのきずなによって結ばれて、共に困難に立ち向かう兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、いのちの源であるキリストの光を輝かせましょう。

わたしたちは、暗闇の中に取り残されて、一人で信仰をまもろうとしているのではありません。わたしたちは、神から与えられた賜物であるいのちを共に生きているように、物理的に離れていても、たとえ皆が集まることに困難があったとしても、同じ信仰の内にあって共に祈ることで、一緒になって力を合わせて信仰をまもっています。

パウロはエフェソの教会への手紙の中で、わたしたち一人ひとりに、主に結ばれて「光の子として歩みなさい」と呼びかけます。その「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」と記されています。

わたしたちは、暗闇の中で疑心暗鬼に苛まれている社会にあって、キリストの光を輝かせ、「善意と正義と真実」を生じさせるように努めたいと思います。

パウロは同じ手紙の中で、わたしたちが光の子として先に光を輝かせるのではなく、まず「キリストはあなたを照らされる」と記しています。しかし、そのためには条件があるとも記されています。それはその言葉の直前にある、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ」と言う言葉に示されています。

わたしたちはキリストからの光の照らしを受けたから立ち上がることができるのではなくて、わたしたちが、立ち上がるからこそ、そこに結果としてキリストの光が照らされるのだ、というのです。すなわち、わたしたちが光の子として輝くためには、キリストからの光の照らしが必要であって、その照らしを受けるためには、わたしたちの主体的な行動がまずなければならないのです。

ヨハネの福音では、シロアムの池で癒やされた盲人の話が記されています。もちろん冒頭で、イエスは土をこねて盲人の目に塗るのですが、そこで本人の行動を促します。

「シロアムの池に行って洗いなさい」

盲人は自ら行動することによって、癒やしをえるというキリストの光に照らされることになるのです。そして、さらには、福音には、「帰ってきた」と記されています。すなわち、キリストに導かれながら自ら行動したことによって光に照らされた盲人は、その光の源であるキリストから離れることはなかった、キリストの光の内にとどまったということです。

その一連の行動を、律法の規程に背いているとして咎め立てるファリサイ派の人たちは、キリスト光の内にとどまることのない人の姿を現しています。

自らの常識やプライドにがんじがらめにされているため、目の前で起こっている事実を、自分の世界の枠組みの中でしか理解することがありません。その目には、キリストの光は届いていないのです。

福音の中では、ファリサイ派の人たちとイエスとの立ち位置の違いが象徴的に描かれています。イエスは外に立っている者として描かれ、ファリサイ派の人たちは自分たちの場所の中にとどまっているように描かれています。目の不自由な人は、翻弄されながら、その間を行き来しています。

キリストの光は、自分たちの殻に閉じこもり、常識とプライドの中に安住を求めている中の人たちには届いていません。そこには、善意と正義と真実が欠けてしまっているのです。

とはいえ、ファリサイ派の人たちが、取り立てて悪人であると断罪することは、わたしたちにはできません。なぜならそこに描かれている姿は、わたしたちそのものでもあるからです。わたしたちは、個人としても共同体としても、自分の思いや社会の常識や長年の伝統やプライドを優先させて、時としてそれを守ることに力を傾けてはいないでしょうか。

積極的に出向いていく教会の姿を説き続ける教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージにこう記しています。

「主への回心の時期や方法を司るのは自分だといううぬぼれた思い違いで、この恵みの時を無駄に過ごすことのないようにしましょう」 

その上で教皇は、「イスラエルの民のように荒れ野に導かれましょう。そうすれば、花婿であるかたの声をついに聞き、その声を心のうちで、より深く意欲をもって響かせることができるでしょう。そのかたのことばにすすんで関わればそれだけ、わたしたちに無償で与えられる主のいつくしみをますます味わえるようになります」と述べています。

さらに教皇は四旬節メッセージにこう記します。

「イエスにおいて、神の熱意は、ご自分の独り子にわたしたちのすべての罪を負わせるほどに、また教皇ベネディクト十六世が述べたように、「自らに逆らう神のわざ」となるほどまでに高まります。神はまさに、ご自分の敵さえも愛しておられるのです」

わたしたちの旅路の主役は、光であるキリストです。わたしたちを愛するがあまり、先頭に立って十字架を背負い、わたしたちを導いてくださるキリストです。自分という殻を打ち破って外へと出向き、行動するように促すキリストです。

わたしたちはこのキリストに、ひとりでつき従うのではなくて、神の民として、共同体としてつき従っています。それは光の子として、わたしたち一人ひとりが、そして共同体全体が、この世界に「あらゆる善意と正義と真実」を生じさせるためであります。神が求められる世界を実現し、神の声に身をゆだね、神の愛を分かち合うために行動する共同体となるためであります。

困難な状況の中にあって、互いに祈りの内に結ばれて、キリストを証ししていく者となることができるように、招かれる主に従って一歩先へと歩み続けたいと思います。

 

 

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2020年3月15日 (日)

四旬節第三主日ミサ説教@東京カテドラル

March15cathedral

ミサの導入

四旬節第三主日にあたる今日、東京教区ではこのミサを、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」のミサとしてささげます。

聖職者による性虐待の罪にゆるしを願い、被害を受けられた方々の心のいやしのために祈り、同じ過ちを繰り返さない決意を新たにするために、教皇フランシスコは、全世界の司教団に向けて、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるように通達され、日本では「四旬節・第二金曜日」と定めました。今年は3月13日ですが、東京教区ではその次の主日に、この意向でミサを捧げることにしています。

すべてのキリスト者とともに、傷ついた被害者の方々の悲しみと苦しみをおもい、いやしと回復の恵みのために、いつくしみ深い神に祈り、また、全世界の教会が同じ過ちを繰り返すことのないように、神のゆるしと導きを祈りましょう。

説教の原稿

「性虐待被害者のための祈りと償いの日」
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年3月15日

 「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
 先ほど朗読された福音では、実際に、のどの渇きをいやす水について話すサマリアの女に対して、イエスは、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語っています

 自らをいのちの水として語られる主イエスに従う教会は、つねに「いのちの福音」を語り続けています。人間のいのちは、神から与えられた賜物であるが故に、その始まりから終わりまで、例外なく尊厳をまもられ尊重されなくてはならない。教会はそのように主張し続けています。

 教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという現代社会の思い上がりを戒めながら、そういった現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を実現しなければならない。

 回勅「いのちの福音」の冒頭に、こう記されています。
 「いのちの福音は、イエスのメッセ-ジの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への『良い知らせ』として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません」

 さらに教皇ヨハネパウロ二世は、この回勅において「殺してはならない」と言う神のおきてを取り上げ、こう述べています。
 「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています。そのおきては、創造主である神が人類との間に結んだ最初の契約を告げる響きとして、すべての人の道徳的良心にもう一度響き渡ります(77)」

 キリストに従うわたしたちの心には、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声が響き渡ります。

 残念なことにわたしたちが生きている社会にあっては、神からの賜物であるいのちが危機に直面し続けています。いったいわたしたちは、人間のいのちをどのような価値観に基づいて判断しているのかを、大きな疑問を抱かせるような事件も相次ぎました。

 障害と共に生きておられる方々を、社会に貢献しなければいのちが存続する意味はないとして、暴力的にいのちを奪う事件もありました。

 この数年、せっかく与えられたいのちを生きている幼子が、愛情の源であるべき親や保護者の手で虐待され、命を暴力的に奪われてしまう事件もしばしば耳にします。様々な事由から、誕生することのなかったいのちも少なくありませんし、様々な要因に絡め取られる中で自死へと追い詰められる人も、多くおられます。

 また社会全体の高齢化が進む中で、孤独のうちに人生を終える方々の存在もしばしば耳にいたします。誰にも助けてもらえない。誰からも関心を持ってもらえない。孤立のうちに、いのちの危機へと追い詰められていく人たちも少なくありません。

 さらには、雇用環境の厳しさの中で、不安定な生活を送る若者も増えています。加えて、海外から来日し、不安定な労働環境の中で、困難に直面している人たちにも、出会うことが増えてきました。

 危機にさらされるいのちの現状、教皇ヨハネパウロ二世が指摘する「死の文化」が支配する現実の中で、教会こそは、「いのちの福音」を高く掲げ、わき出るいのちの水を多くの人に届ける努力をしていなければなりません。

 その教会にあって聖職者には、神の賜物である尊厳あるいのちを守るために最善を尽くす義務があります。牧者として自らが神の民の先頭に立ち、「いのちの福音」をその言葉と行いを持って証しする義務があります。

 残念ながら、その模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という他者の人格を辱め人間の尊厳を蹂躙する行為におよび、いのちの尊厳をおとしめる事例が、過去にさかのぼって多数報告されています。

 それは、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声に耳を閉ざしてしまう行動です。神が、自ら愛される人間を、いのちの水が豊かにわき出る泉へと導こうとしているときに、枯れ果てた空の井戸へと導こうとする行動です。性虐待は、被害を受けられた方の人格の否定であり、尊厳あるいのちを与えてくださった神への挑戦です。

 さらには大人による保護を必要とする未成年者に対する性虐待や、暴力行為を行った聖職者の存在も明らかになっています。

 加えて司教をはじめとした教区や修道会の責任者が、聖職者の加害行為を隠蔽したり、その被害を過小評価した事例も、世界各地で多数指摘されています。

 日本の教会も例外ではなく、聖職者から性的な虐待や暴力行為を受けた事例があります。とりわけ被害者が未成年であった場合、深い苦しみと大きな葛藤のなかで、何十年も経ってからはじめて、その事実を公にできたという方もおられます。

 そのような深い苦しみと大きな葛藤を長年にわたって強いてきた聖職者の加害について、被害を受けられた皆様に、心からお詫びいたします。

 教会がこの世界にあって、枯れた井戸ではなく、いのちの水を湧き出させる泉になるように、この世の組織としての教会のあり方を真摯に反省し、神の国の実現のために資する共同体へと育てていかなければならない。いまはそういう「とき」であると思います。

 そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

 教会は、いのちの福音を語り、神のいつくしみと愛を語り、すべてのいのちを守ることを語り続けています。そうであるからこそ、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声に心を閉じることなく、いのちの尊厳を、一人ひとりの人格の尊厳を守りぬく道を、先頭に立って歩み続ける存在でありたいと思います。

 

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2020年3月11日 (水)

四旬節第二主日、東京カテドラルでのミサ(ネット中継)説教

3月8日、四旬節第二主日ミサは、前週に続いてインターネットで配信させていただきました。以下はそのミサの説教の原稿です。

すでに昨日発表いたしましたが、公開のミサの中止については、3月15日以降も当面の間継続いたします。また3月中の主日にあっては、主日のミサにあずかる義務を、東京教区のすべての信徒の方を対象に免除しています。先日も触れましたが、これに関連して、是非とも教会の五つのおきてを見直してみるチャンスとなさってください。

ミサのインターネット配信は、これで完璧なものではありませんが、3月15日以降も継続する予定です。映像制作に関わってくださる関口教会の天本神父様と信徒の方々、また協力してくださっているドミニコ宣教女会、師イエズス会、イエスのカリタス会のシスター方にも感謝します。

なお3月15日のミサは、性虐待、償いと祈りの日の特別ミサです。

なお本日3月11日は東日本大震災被災者の方々のため、また復興のため、さらに3月13日には教皇フランシスコの選出7年ですので教皇様のために、特にお祈りください。

四旬節第二主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年3月8日
(映像配信用)

あと数日で3月11日、すなわちあの東北での大震災発生から9年が経過しようとしています。

9年前、地震と津波発生から数日後の3月15日に仙台へ駆けつけ、被害の大きさに驚きながらも、しかし数年もすれば地域の生活は元に戻るだろうと勝手に想像していました。

確かにインフラの整備など社会の大枠としての地域復興は、順調に進んでいるように見えることは間違いがありません。しかし、教皇フランシスコが昨年11月の東北の被災者との集いで、特に福島の現状に関連して言われた、「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ」、本当の復興は成し遂げられないのだという言葉が、心に重くのしかかっております。

まもなく9年を迎えるのを前に、あらためて東日本大震災で亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈るとともに、あの日以来、予想外の人生の物語を刻んでこられたすべての人が、神のいつくしみ深い御手によって包み込まれることを祈ります。

教皇フランシスコは、東京での被災者との集いの中で、こう述べておられます。
「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。」

教皇は、本当の復興のためには「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠」だと述べられました。もちろんいのちをつなぐために衣食住を整え支援することは重要です。しかし教皇は、それだけでは十分ではないと指摘されているのです。衣食住の充足に加えて、「希望と展望の回復」が不可欠だと指摘されています。

希望や展望は自然に生まれてはきません。希望や展望は、誰かがどこからか持ってきて与えることができるものでもありません。希望と展望は、人と人とのつながりの中で、心の中から生み出されていくものです。

教会は、この9年間、人と人とのつながりの中で、希望と展望を生み出すための努力を続けてきたのではないかと、わたしは思っています。わたしたちの復興支援の一番の柱は、人と人とのつながりの中で、希望と展望を生み出す努力であったと思います。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、こう述べています。
「出向いていきましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いていきましょう」

教会は、神が私たちのいのちを愛しているというメッセージを伝えるために、出向いていかなくてはならないと、教皇フランシスコは繰り返し主張されます。

本日の第一朗読では、アブラムが新しい土地へ出向いていくようにと、主から呼びかけられた模様が描かれています。
「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」

「生まれ故郷、父の家」は、アブラムにとって、安住の場です。しかしこの段階で「私が示す地」とは、いったいどこなのか、どんなところなのか、全く情報が与えられません。暗闇に手探りで乗り出すようにと言われているようなものです。しかしアブラムは、「主の言葉に従って旅だった」と記されています。主の呼びかけに信頼して、未知へと旅立ったのです。それは単に思いつきではなく、アブラムの心に培われた信仰における神への信頼が、その決断の土台となっていました。

パウロは、神がわたしたちを招き入れているのは、「わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによる」と記しています。
神によって招かれている旅路の主役はわたしたちではなく主ご自身であるのだから、その計画に信頼して身をゆだねよという呼びかけです。

それではその、わたしたちが信頼するべき神の計画はどこにあるのか。その神の計画は、福音書にあるように、御父が「私の愛する子、私の心に適うもの、これに聞け」と言われた御子イエスの言葉と行いに明示されています。

わたしたちは、ただ闇雲に出ていってさまよい続けるのではなく、わたしたちが信頼するイエスの言葉と行いに導かれながら、歩みを続けます。そのためには、わたしたち自身が日々の祈りを通じて、また教会共同体の典礼や祈りを通じて、「私の愛する子、私の心に適うもの」と主が言われた、御子イエスの言葉と行いに耳を傾け、それに倣わなければなりません。その上で、恐れることなく、神がすべての人へその愛といつくしみの手を差し伸べようとしている事実を伝えるため、出向いていく教会でありたいと思います。わたしたちはその旅路の中で多くの人と出会い、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹」となりたいと思います。

教皇は『福音の喜び』において、「すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めている道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけにこたえるように招かれています。つまり、自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」と、呼びかけておられます。

教会には、社会の直中にあっていくつもの役割があると思います。もちろん、一人ひとりの心の安らぎの場として、静寂と聖性のうちに、神と出会い神と対話する場でもあります。一人ひとりのその出会いを、祈りのうちに、また聖体祭儀において深める場でもあります。また聖体のうちに現存されるイエスとの出会いと、また聖体拝領を通じて、内的にキリストと一致する場でもあります。

しかし同時に教会は、主イエスが「諸国民から呼び集められた自分の兄弟たちを自分のからだとして神秘的に構成した」、キリストの体でもあります。

さらに教会は、「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」であると、教会憲章は記しています。

キリストご自身が、神であり人であるように、教会にも目に見える教会と諸聖人との交わりにある霊的共同体があり、現実社会にあっても教会には私的側面と公的側面があります。

わたしたちはこの社会にあって、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹」として、社会に出向いていく教会でありたいと思います。希望と展望を生み出す源となりたいと思います。

わたしたちは出向いていく教会として、つねに立ち上がり旅立つように御父から呼びかけられている神の民です。旅立つ準備はできているでしょうか。神の計画を優先させる決意はあるでしょうか。「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹」となる心づもりはできているでしょうか。

神の言葉に耳を傾けながら、ふさわしい道を選択することができるように、聖霊の導きを祈りましょう。

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2020年3月 3日 (火)

四旬節第一主日@東京カテドラル

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、東京教区では3月1日と8日の『公開』のミサの中止を決定しています。詳細については、この投稿の前の二つの投稿をご確認ください。(公示へのリンクと、補足説明のリンク

3月1日と8日ついては、主日のミサにあずかる義務を免除いたしましたが、教区共同体の主日におけるともに祈りを捧げる務めと、祈りのうちに一致するために、また霊的に聖体を拝領することでキリストとの内的一致にあずかるために、主日の午前10時、カテドラルで捧げられるミサをインターネットで放映することにいたしました。

ミサは東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で捧げられ、構内に修道院のある師イエズス修道女会と近隣に修道院のある聖ドミニコ宣教修道女会のシスター方数名に、お手伝いいただきました。

また映像を作成するにあたっては、字幕などの課題をクリアして作業を進めてくださった、関口教会の信徒の方に感謝いたします。

以下、当日のミサの説教の原稿です。

今年の四旬節は、これまで経験したことがない四旬節となってしまいました。新型コロナウイルスの感染拡大をなるべく緩やかのものとするために、この二週間ほどが最も重要な期間であるという専門家会議の見解を受けて、主日のミサをその期間に限って非公開とすることを決めました。

ミサの中止という言葉が一人歩きしていますが、教区共同体という視点から見れば、ミサは続けられています。中止とされているのは公開のミサですが、司祭は主日の務めとして今日もミサを捧げており、そのミサは、たとえ「信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為」として、共同体の公のミサであります。

とはいえ、感謝の祭儀は「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点で」ありますし、「聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されていますから、ミサにあずかることと、聖体を拝領することは、わたしたちの信仰生活にとって欠くべからざる重要なことであります。

その意味で、現在のような状況は、あってはならないことでもあります。未知のウイルスからの感染を避けるために、わたしたちはしばらくの間、集まることを止めているのですが、それは決して共同体を解散したという意味ではありません。やむを得ない状況の中で集まり得ないときにも、共同体は存続し、ともに主の日に祈りを捧げる義務は消失していません。

また教会の伝統は、聖体拝領を通じてキリストとの内的な一致を目指すために、秘跡を通じた拝領と、霊的な拝領の二つがあることも教えています。

こうやって映像を通じてともに祈りを捧げるとき、またそれぞれの家庭で祈りを捧げるとき、それはひとり個人の信心業なのではなく、キリスト者の共同体のきずなのうちにある祈りであり、その祈りのうちにあって、ぜひキリストとの一致を求めて、霊的に聖体を拝領していただければと思います。

この不幸な状況は、同時に、わたしたちに様々な信仰における挑戦を突きつけております。ちょうど主イエスが、その公生活を始めるにあたり40日の試練を受けられたように、わたしたちもいま、復活の喜びに向けて心を整える40日間にあって、大きな試練に直面しております。

先ほど朗読された福音によれば、40日の試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けておられます。

まず空腹を覚えた時に、石をパンにせよとの誘惑。次にすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑。そして神への挑戦の誘惑。この三つの誘惑が記されています。

第一に、人間の本能的な欲望や安楽にとどまることへの願望。第二に、権力や繁栄という利己的な欲望。第三に、人間こそこの世の支配者であるという思い上がり。

悪魔からの誘惑とは一体どういうことか。それは、神から離れる方向へと人をいざなう、さまざまな負の力のことでしょう。そういう誘惑はどこからか降りかかってくるのかといえば、実は、外からやってくるものではない。その多くは、結局のところ、わたしたち一人ひとりの心の中から生み出されている。わたしたちの心の反映であるように思います。

わたしたちがいま直面している試練はどうでしょう。

東京ドームでミサを捧げられた教皇フランシスコは、「わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています」と述べて、わたしたちが視点を、自分から他者へ移すようにと、むなしく輝く虚飾のシャボン玉を打ち破って外へ出向くようにと呼びかけられました。

その上で教皇は、そのために必要なことは、「知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です」と指摘されました。

得体の知れないウイルスによる感染症が蔓延しつつある現在、感染の事実や発症の実態が目に見えない度合いがとても強い今回のコロナウイルスの感染拡大ですが、そのためにどうしてもわたしたちは疑心暗鬼の暗闇の中に閉じ込められたような気分になってしまいます。

確かに慎重な感染対策を行って、一人ひとりの身を守る行動は不可欠ですし、実際教会はいまそうしているわけですが、それが同時にわたしたち一人ひとりの心の内にも防御の「壁」を築き上げる結果になっていないでしょうか。

心が守りの姿勢になるとき、どうしてもその防御の「壁」はより堅固なものになり、自分を中心にした心の動きに、とらわれてしまいがちになります。それこそ悪魔の誘惑であります。

教皇は、「知恵と勇気をもって」行動せよと呼びかけます。

教皇は、「無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢」をもって、いのちを守る姿勢を証しせよと呼びかけます。

教皇は、「実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度」が必要だと呼びかけます。

2009年に新型インフルエンザが蔓延したとき、日本の司教団の部落差別人権委員会はメッセージを発表して、次のように指摘していました。

「「感染源」という発想から感染者探しにエネルギーを注ぐと、たくさんの「容疑者」を作り出していく危険があります。・・・感染症対策という名で社会防衛策がとられると、菌やウィルスよりも人々の間に不安や恐怖が伝播して偏見や差別を社会の中で醸成していく危険があります」

これもわたしたちが悪魔の誘惑に屈して築き上げてしまう心の防御の「壁」のなせる業であります。

わたしたちは体の健康を守るための防御壁を必要としていますが、その壁が、心の中にまで防御の「壁」を築き上げないように心したいと思います。

「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、パンの必要性を否定をしてはいません。しかしイエスは、それよりも重要なものがあるのだとして、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と述べられています。

人は、自分のいのちを守るためにパンを必要とするが、それ以上に、神の言葉、すなわちすべてのいのちを守るための神の一人ひとりへの思いが実現することこそが、人を生かすのだ。

他者への思いやりの心は、単なる人間としての優しさに基づいているのではなく、神の言葉を実現させたいという信仰における確信に基づいています。その確信は、神ご自身が大切に思われているすべてのいのちに対する思いやりの心、豊かな想像力を持った配慮を、わたしたちに求めています。

この困難な時期、教会共同体においてつながっている兄弟姉妹に思いを馳せ、そのつながりの中でわたしたちは一致へと招かれていることをあらためて思い起こしましょう。そして体の防御の壁が心の「壁」になってしまわないように、神が愛されるすべてのいのちへと、わたしたちの心の思いを馳せましょう。

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2020年2月21日 (金)

ミャンマーの視察旅行

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東京教区は、1979年以来、ミャンマーの教会を支援しています。毎年11月の第3日曜日は「ミャンマーデー」と定められ、ミャンマーの教会支援のための献金が続けられています。

教区のホームページには、次のように記されています。

「東京大司教区は1964年よりドイツのケルン大司教区と姉妹関係を結び、お互いに助け合い、祈り合う関係を保っています。1979年には両大司教区の友好25周年のお祝いが行なわれました。当時の白柳誠一東京大司教(後に枢機卿)は、ケルン教区の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の全信者に呼びかけました。来日していたヘフナー枢機卿(当時のケルン教区長)と白柳大司教は、ケルン教区の精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマー(旧ビルマ)の教会を支援することに合意しました。こうして東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけることになったのです。ミャンマーが支援先に選ばれたのは当時ミャンマーが最も貧しい国の一つであり、援助を必要としていたからです」

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この数年間は、築地教会のレオ神父様やCTICの高木健次神父様を中心に、ミャンマーの神学生養成支援を行ってきました。その一環として、ミャンマーに16ある教区全体の哲学過程の神学院(2年間)として、マンダレー大司教区のピンウーリンに設置されている神学院で、建物建設を支援してきました。これまでに宿舎や教室、食堂、図書館、ホールなどのために2棟が完成しています。計画としてはもう1棟宿泊棟を建てて計画は完了ですが、このたび2月の第一週に3棟目の起工式が行われたため、出席することにして、それ以外の支援先の視察もかねて現地まで出かけてきました。訪問団は、レオ神父、高木健次神父、天本神父、泉雄生神父に私5名に、現地で活動する御受難会の畠神父様と支援する信徒の方お一人の7名の訪問団となりました。

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マンダレーでは昨年大司教になったマルコ・ティン・ウィン大司教様に迎えていただき、多くの司祭団やシスター方から歓迎していただきました。

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翌朝6時には、マンダレーのカテドラルでミサを司式させていただきましたが、早朝にもかかわらず、多くの司祭やシスター方、そして信徒の方々がミサにあつまり、香炉まで使う荘厳なミサでした。なおミサは英語で司式させていただきました。

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ちなみに首都のヤンゴンあたりは、日中も30度を超える暑さですが、マンダレーあたりは標高も高く、今回の6日間の訪問の間は、朝晩を中心に非常に涼しく、日本の冬の服装でも構わないほどの「寒さ」でありました。

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その後、車で2時間ほど移動して、神学院のあるピンウーリンへ。全国16教区から35名ほどの神学生が学んでいました。哲学課程2年の神学院で、日本と同じ16教区から35名ですから、神学生は日本よりも多くいます。

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神学生や、近隣にある養護施設の子どもたちも参加して、基礎への祝福とコンクリート流し込み、そして植樹の後に食事会。その後にはホールで、神学生や子どもたちが、ミャンマーの諸部族の伝統的な歌や踊りを披露して歓迎してくださいました。

翌日には近郊の小神学院の隣で引退されている前教区長のニコラス・マン・タン大司教の家を訪問。ニコラス大司教は、引退後に農業に目覚めて、家の庭一杯に畑やハウスを作り野菜作りに励んでおられました。

そして一行はさらにラーショーの町へ。ここではまもなく75歳になる教区長のフィリップ司教様と、その前の週に司教叙階を受けたばかりの協働司教であるルカス司教様に迎えていただきました。ルカス司教はサレジオ会員で、その叙階式には、さいたま教区の山野内司教も参加されたとか。

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東京教区は、かつてケルンから豊かに援助していただきましたから、今度はその受けた恵みを、さらに必要としているところへ渡していきたいと思います。そうすることで今度は、その「恵み」が、さらに次の必要としているところへ手渡されていくことによって、互いに支え合う愛の輪が広がっていくことを期待しています。

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迎えてくださったミャンマーの教会の皆さんに感謝するとともに、これまで支援をしてくださった東京教区の皆様にも心から感謝いたします。まだまだミャンマーの司祭養成支援を続けていきたいと思います。

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2020年2月16日 (日)

世界病者の日ミサ@東京カテドラル

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2月11日はルルドの聖母の祝日ですが、そのルルドの泉での様々な奇跡的治癒の出来事や、心身の癒やしを求めてルルドに多くの人が集い、聖母の取り次ぎを求めて祈ることに倣い、この日は世界病者の日と定められています。

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、毎年2月11日の午後1時半から、教区の行事として世界病者の日ミサを捧げています。今年は550人を超える方が参加してくださいました。

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手話通訳や要約筆記をしてくださった皆さん、ありがとうございます。またこの日は午前中に、大聖堂ではスカウトのBP祭ミサが行われましたが、カトリックセンターでは東京教区の障がい者の方々の団体であるヨブの会の会議も行われました。

なお新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が拡大する中、東京教区ではすでに初期の対応を発表しているところです。香港教区では灰の水曜日を含めて2週間、シンガポール大司教区では無期限に、公のミサを停止する措置を執りました。

東京教区の指針は、カトリック医師会の東京支部の専門会のアドバイスをいただきながら策定し、また必要に応じて改訂するものです。状況を見極めながら専門家の指導をいただいて、対応していきます。

以下、当日のミサの説教の原稿です。

この数週間、新型コロナウイルスによる感染症が拡大し、国内における感染事例の報告も少なからず聞かれるようになりました。

ありとあらゆる情報が瞬時に飛び交う現代社会にあって、特に専門家ではないわたしたち大多数は、それまでに体験したことのない事態が発生すると、確実なことがわからなければわからないほど、疑心暗鬼の闇にとらわれてしまいます。

とりわけ今回のように、健康に影響があるとなると、その最終的な結果が確実にはわからないため、さらに不安は深まってしまいます。

不安の闇に取り残されたとき、わたしたちはどうしても差し込む光を求めてさまよってしまいます。闇にさまようとき、わたしたちの判断力は衰え、時に偽の光に飛びついてしまったり、または不安の根源を取り除こうとして、犯人捜しに奔走し、誤った差別的な言動をとってみたりします。

闇の中にあって必要なことは、互いの人間の尊厳を尊重しながら、互いの心身を慮ることであり、互いに助け合って、真の光を見いだすことであります。

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今回の感染症の拡大にあって、教会は不特定多数が定期的に集まる場所ですから、まずは常識的な範囲で、感染症の予防に努めたいと思います。この時期は毎年のようにインフルエンザの予防が話題に上りますから、通常と同様の常識的な感染予防にまず務めたいと思います。その上で、お互いへの思いやりを忘れず、医療関係者や専門家の助言に耳を傾けながら、不必要な風評を広めたり、誤った差別的言動に陥らないように心を配りたいと思います。

そして教会は、疑心暗鬼の闇の中にあって不安に苛まれ、心身ともに疲れ切った人々へ、 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という、マタイ福音に記されたイエスの言葉を高く掲げます。

教会こそが、こういった不安を増幅させつつある社会の現実の直中にあって、真の心の安らぎを生み出す場であることを、明らかに示したいと思います。わたしたちは、多くの人が生きていくために抱え込んでいる心の重荷を、遠慮せずにひとまず解き放って、心の安らぎを実感できるような教会共同体でありたいと思います。

マタイの福音のこの言葉は、教皇フランシスコが今年の第28回世界病者の日にあたり、選ばれたテーマとなっています。

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世界病者の日と定められた2月11日と言う日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。

ルルドの泉がもたらす奇跡的治癒は、キリストのいつくしみの深さとすべてを超える偉大な力を示していますが、同時に、ルルドという聖地自体が、そこを訪れる多くの人に心の安らぎを与えていることも重要です。すなわち、聖地自体が、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっているからです。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、すべての教会共同体がおなじように生み出したい、霊的な安らぎの雰囲気の模範であります。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に、この日を世界病者の日と定められ、病気で苦しんでいる人たちのために祈り、同時に医療を通じて社会に貢献しようと働く多くの方々のために祈りを捧げる日とされました。もちろん教会には、奉献生活者をはじめ信徒の方々も含め、多くの方が医療活動に関わっておられます。その献身に、心から感謝したいと思います。

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さて教皇様は今年のメッセージの中で、次のように述べられています。
「もろさ、痛み、弱さを抱えた自身の状態に苦悩する人々に、イエス・キリストは律法を課すのではなく、ご自分のあわれみを、つまりいやし手であるご自身を与えてくださいます。・・・奥深くにまで届くそのまなざしは、見て、気づきます。無関心にはならずに目をとめ、どのような健康状態にあってもだれ一人排除することなく、人間のすべてを受け入れ、ご自分のいのちに入り、優しさに触れるよう、一人ひとりを招いておられます。」

その上で「実際に自分自身でそれを経験した人だけが、人を慰めることができるのです」と言われます。

主イエスが人間の苦しみに真の慰めを与えることができるのは、主ご自身が、十字架上で生命を捧げるまでの苦しみを体験されているからです。

わたしたちは、それぞれの生命が尽きる日まで、完全完璧な状態で過ごすことができるわけではありません。人生の途上にあって、その度合いには違いがあるとはいえ、心身の様々な困難に直面し、さらには仮に健康を誇っていたとしても、年齢とともに、誰かの助けがなければ生命をつなぐことができません。ですから、自らの弱さを自覚し、慰めを体験することで、はじめて他者に対しての慰めとなることができます。

しかしながら同時に、教皇はこうも言われます。
「苦しみの厳しさはさまざまです。難病、精神疾患、リハビリや緩和ケアを要する状態、さまざまな障がい、小児疾患や高齢者疾患などです。こうした状態においては、人間らしさが奪われるように感じられることがあります」

そこで教皇フランシスコは、困難な状態にある人たちを念頭に、「全人的な回復のためには、治すだけではなく相手を思いやり、それぞれの病者に合わせて対応することが求められ」るのだと指摘します。


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東京ドームミサで教皇はわたしたちに次のように呼びかけられました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」

世界病者の日は、特定の疾患のうちにある人たちへの回復だけを対象にした、特別な人の特別な日ではなく、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、いつくしみの神の手に、ともに包み込まれることを実感する日でもあります。主の癒やしといつくしみの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、野戦病院となる決意を新たにする日でもあります。

ルルドの泉で神のいやしの泉へとベルナデッタを招いた聖母マリアが、御子イエスのいつくしみへと、わたしたちを導いてくださいますように。

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2020年2月11日 (火)

日本26聖殉教者祭@本所教会

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本所教会では、日本26聖殉教者祭を、毎年2月の最初の日曜日に開催しています。今年は2月5日を間近に控えた2月2日の日曜日に、殉教祭が行われ、近隣の教会からも多くの方が参加されました。

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わたしは、その昔、名古屋の神言会の小神学生だった頃から、当時の下山主任司祭の神学生援助への御礼もかねて、長年にわたりこの殉教祭に通っていたこともあり、これからもできる限り2月の殉教祭には参加させていただければと思っています。

以下、当日の説教の原稿です。

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昨年11月に日本を訪問された教皇フランシスコは、「すべてのいのちを守るため」をテーマとして、各地で様々な側面から、いのちについて語られました。

言うまでもなく私たちのいのちは、神からの賜物であり、神は愛を込めて、人を神の似姿として創造されたとわたしたちは信じています。そこに何物にも代えがたい人間のいのちの価値があり、人間の尊厳があります。

教皇フランシスコは、広島や長崎では核兵器廃絶や平和について語り、東京では、無関心や孤立や孤独のうちに危機に直面するいのちを守る必要性を語られました。人間はひとりでいのちをつないでいくのではなく、互いの出会いのうちに支え合って生きていくのだと諭されました。

教皇は「有能さと生産性と成功のみを求める文化に、無償で無私の愛の文化が、「成功した」人だけでなくどの人にも幸福で充実した生活の可能性を差し出せる文化が、取って変わるよう努めてください」と、到着して早々に日本の司教団に呼びかけられました。

誰ひとりとして排除されて良い人はおらず、忘れられて良い人もいない。教皇フランシスコは、排除のない世界の実現のために、世界各地で呼びかけ続けておられます。

実質三日に過ぎなかった日本訪問でしたが、教皇フランシスコはいのちの価値について語っただけではなく、長崎で殉教者の地を訪れて、信仰を守り抜いたわたしたちの信仰の先達についても話されました。西坂の26聖人殉教地を訪れた時には、激しい雨の中、祈りを捧げた後に、次のように述べられました。
「しかしながら、この聖地は死についてよりも、いのちの勝利について語りかけます。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです」

聖人たちの殉教は、死の勝利ではなく、いのちの勝利なのだ。聖人たちの殉教によって、福音の光が輝いた。そこから「福音の光」という希望が生み出されたと教皇は指摘されました。

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「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。テルトゥリアヌスは『護教論』において、権力者の暴力と不正を告発し、キリスト教の立場を明確にする中で、殉教を通じた聖霊の勝利を示します。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの勝利を、教会の存在があかしし続けていくという意味においてです。

西坂での教皇フランシスコの言葉を続けます。
「ここは何よりも復活を告げる場所です。襲いくるあらゆる試練の中でも、最後は死ではなく、いのちに至ると宣言しているからです。わたしたちは死ではなく、完全な神的いのちに向かって呼ばれているのです。彼らは、そのことを告げ知らせたのです。確かにここには、死と殉教の闇があります。ですが同時に、復活の光も告げ知らされています」

わたしたちは、信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、単に歴史に残る勇敢な者たちの偉業を振り返るだけではなく、その出来事から現代生きるわたしたちへの希望の光を見いだそうとするのです。

それでは二十六聖人の殉教は、今を生きるわたしたちに、どのような希望の光を示しているでしょうか。

教皇フランシスコは西坂で、「殉教者の血は、イエス・キリストがすべての人に、わたしたち皆に与えたいと望む、新しいいのちの種となりました。そのあかしは、宣教する弟子として生きるわたしたちの信仰を強め、献身と決意を新たにします」と言われました。

わたしたちは信仰の先達である殉教者を顕彰するとき、殉教者の信仰における勇気に倣って、福音をあかしし、告げしらせるものになる決意を新たにしなければなりません。なぜならば、殉教者たちは単に勇気を示しただけではなく、福音のあかしとして、いのちを暴力的に奪われるときまで、信仰に生きて生き抜いたのです。つまりその生き抜いた姿を通じて、最後の最後まで、福音をあかしし、告げしらせたのです。

わたしたちは殉教者に倣いたい、倣って生き抜きたい、倣って信仰をあかしして生き抜きたい。

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それでは現代社会にあって、わたしたちは何を福音として告げしらせるのでしょうか。

教皇は東京ドームのミサで、日本の現実を次のように述べられました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです」

その上で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる『わたし』に対抗できるのは、分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち」、これしかありません」とのべて、教会の信仰のあかしが、個人的なものではなく共同体のあかしであることを明確に示されます。

わたしたちが毎日唱える主の祈りには、『わたしたち』という言葉があっても、『わたし』という言葉はないと、教皇は昨年2月の一般謁見で述べられました。その上で、「どうして、神との対話には個人主義が入る余地がないのでしょうか。世界の中で苦しんでいるのは自分だけであるかのように、自分の問題を誇示してはなりません。兄弟姉妹としての共同体の祈りでなければ、神への祈りにはなりえません。共同体を表す『わたしたち』として唱えます。わたしたちは兄弟姉妹です。わたしたちは、祈りをささげる民です」

孤立や孤独を深めている社会の現実が人間のいのちを危機にさらしているのであれば、それに対抗できるのは、共同体における兄弟姉妹のきずなです。わたしたちの信仰は共同体の信仰です。「分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち』」の共同体です。共同体の信仰におけるあかしこそが、孤立や孤独を深める現実に対する希望の光を生み出す源となります。

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二十六殉教者が今日私たちに示しているのは、二十六名一人ひとりのヒロイックな信仰のあかしであるとともに、二十六名の共同体としての『わたしたち』の信仰のあかしが持つ、いのちの力と希望の光です。

教会は、現代社会にあって、兄弟姉妹の交わりを通じて、孤独と孤立の闇に輝く光となりたいと思います。『わたしたち』の信仰における希望の光を、証しする存在となりたいと思います。二十六聖殉教者の共同体としての信仰の模範に倣い、わたしたちも勇気を持って信仰に生きる、いつくしみと愛の手を無償で差し伸べる共同体となりましょう。

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2020年2月 1日 (土)

奉献生活者の日ミサ

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2月2日の主の奉献の祝日にあわせて、教皇ヨハネパウロ2世は、1997年に奉献生活者のための祈りの日を設けられました。

日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることをその時からはじめ、今年の奉献生活者のためのミサは、本日2月1日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

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司式はチェノットゥ教皇大使、さいたま教区の山野内司教とわたしが大使の両脇で共同司式し、男子修道会の多くの管区長や責任者が共同司式してくださいました。聖歌隊はイエスのカリタス会のシスターたち、説教はわたしが担当しました。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

東北地方を中心に大震災が発生してから、まもなく9年となります。日本の教会は、仙台教区とカリタスジャパンを中心にして、この9年間、被災地の復興支援に携わってきました。わたしが改めて申し上げまでもなく、今日お集まりの皆さんの中にも、当初から今に至るまで、様々な形で復興支援に携わった方がおられることでしょう。

復興はまだ終わっていません。まだまだ時間が必要です。全国の教会をあげての支援活動は、10年目となる来年3月末で一旦終了となりますが、違う形で支援活動は継続していくことになるだろうと思います。

いみじくも、先日訪日された教皇フランシスコは、復興支援についてこう述べられました。
「日本だけでなく世界中の多くの人が、・・・祈りと物資や財政援助で、被災者を支えてくれました。そのような行動は、時間が経てばなくなるものや、最初の衝撃が薄れれば衰えていくものであってはなりません。むしろ、長く継続させなければなりません。・・・被災地の住人の中には、今はもう忘れられてしまったと感じている人もいます」

また教皇は福島の現状に触れながら、次のようにも指摘されました。
「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません」

人間がいのちをつないでいくためには、もちろん「衣食住」が充分に保障されていることが不可欠です。しかし人間は、物質的充足それだけでは生きていけません。

人間が人間らしく生きていくためには、いのちを生きるための希望が不可欠です。そしていのちを生きるための希望は、誰かが外から持ってきて与えることができるものではなく、希望を必要としている人自身の心の奥底から生み出されるものです。

震災と原発事故によって破壊された地域のきずなを回復するということは、被災した地域に生きる方々の心に、いのちを生きる希望を生み出すことにほかならず、教会がこの9年間復興支援として行ってきたこととは、まさしくいのちを生きる希望を生み出すための活動であったと思います。

建物を建てたとか、物資を配布したとか、そういう「衣食住」に関わることも大切ですけれど、やはり、人と人との関わりの中で、そしてともに人生の道を歩むことによって、そして現場で共に生きることによって、わたしたちはいのちを生きる希望を生み出すための種まきをしてきたのだと思っています。

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そう考えたとき、この9年間は、日本の福音宣教の歴史に刻まれるべき特別な9年間であったとわたしは思います。日本の教会は、迫害の時代を経て、再宣教に取り組んで以来、小教区での宣教に加え様々な事業を全国で展開してきました。社会福祉や教育の分野で、社会において重要な役割を果たしてきたと思います。教会は、それが福音宣教だとは言わないものの、そういった愛の業を通じて、福音のあかしとし、それを通じて一人でも多くの人に福音が伝わるようにと努力をしてきました。

社会福祉や教育を通じた福音宣教において、奉献生活者の方々の貢献には大きなものがあります。奉献生活者がいなければ、多くの事業は存在すらしなかったでしょう。しかし、社会の少子高齢化を反映するように教会にも少子高齢化の波は押し寄せ、修道会が関わる諸事業にあっては、後継者がいないという事態に直面しており、地域によっては教会と諸事業との関わりが絶たれてしまうのではないかと危惧するような状況も出現しています。

そんなとき、東北における復興支援活動は、日本の教会に、日本における福音宣教のもう一つの姿を教えてくれたのではないかと、わたしは思っています。

ベネディクト16世の使徒的勧告「愛の秘跡」は、聖体について語っているのですが、その中に、奉献生活者についての興味深い指摘がありました。

「教会が奉献生活者から本質的に期待するのは、活動の次元における貢献よりも、存在の次元での貢献です」

教皇は、「神についての観想および祈りにおける神との絶えざる一致」こそが奉献生活の主要な目的であり、奉献生活者がそれを忠実に生きる姿そのものが、「預言的なあかし」なのだと指摘されています。

その意味で、教皇ヨハネパウロ二世が、使徒的勧告「奉献生活」の中で、「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です」と述べて、奉献生活が、「教会の使命の決定的な要素として教会のまさに中心に位置づけられます」と指摘しているところに、現代の教会における奉献生活者の果たす重要な役割を見いだすことができます。

復興支援の中で、ただひたすらに現場にあって人々と歩みをともにし、人々の語る言葉に耳を傾け、人々の喜びや悲しみをともにし、ただひたすらに祈り続ける奉献生活者のひたむきな生きる姿勢こそが、行いによる預言者的あかしによる福音宣教ではないでしょうか。

Hoken2005

教皇フランシスコは、東京ドームのミサで、日本の現状を次のように指摘されました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。・・・多くの人が、当惑し不安を感じています」

教皇が指摘する日本の社会とは、希望を失った社会です。いのちを生きる希望が失われている社会です。
この希望を失った社会にあって、わたしたちには、「いのちの意味」をあかしし、伝えていく務めがあります。
人間の存在の意味を伝えていく務めがあります。
互いに支え合い、誰ひとりとして排除されない社会を実現していく務めがあります。

そのためには、生活の中で福音を真摯に生きて、「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々」、すなわち奉献生活者の存在による預言的なあかしが必要です。

東京ドームのミサが終わる際に、わたしは、東京教区を代表して、また日本の教会を代表して、教皇様に御礼を申し上げました。その御礼の言葉の終わりの方で、次のように教皇様に約束をいたしました。
「わたしたちは、小さな共同体ですが、教皇様の励ましをいただき、アジアの兄弟姉妹と手を取り合い、歩みをともにしながら、神から与えられたいのちの尊厳を守り、いつくしみの神のいやしと、希望の福音を宣べ伝えていきます」

教皇様が日本で語られた力強い言葉を耳にして、皆様もそれぞれの心の内に、様々な思いを抱きながら、その呼びかけに応えようと、それぞれの決意をされたのではないかと思います。わたし自身の決意はこの御礼の言葉の最後です。教皇様訪日を受けて、わたしたちはそれぞれに心に誓った約束に、忠実に誠実に生きたいと思います。

今の社会の現実の中で、奉献生活者はその存在の意味を問われています。いや教会自体がその存在の意味を問われています。福音に忠実に生き、いのちの希望をあかししてまいりましょう。

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2020年1月29日 (水)

宣教司牧方針と、世界宗教者平和会議理事会

Konishi

東京教区がこれから当分の間進むべき方向性を明確にしようと、宣教司牧の基本方針について、10の課題に関する皆様の意見を昨年聖霊降臨祭までに募集いたしました。

当初の予定では、昨年中にとりまとめた上で今年の初めには何らかの方針を提示する予定でしたが、昨年半ば頃から教皇様訪日の準備にかかりきりになり、同方針策定を含めて多くの通常の作業が停止状態となっておりました。大変申し訳ありませんが、すべての日程は半年ほど遅れてしまいました。

教皇様訪日が終了してから、早速に頂いた70ほどの意見のとりまとめ作業に入り、小委員会で検討を重ね、先日、1月27日の司祭の集まりで、メンバーの一人であるフランシスコ会の小西神父様から、とりまとめ文書を司祭団に提示して頂きました(写真)。

あと少し手直しが必要な箇所がありますが、膨大な量の提案でしたので、すべてを網羅することはできません。それらをなんとかとりまとめた文書なのですが、これを印刷し、2月半ば頃までには皆さんに読んでい頂けるように手配しております。お待ちください。

とりまとめ文書の最後に、小教区共同体の皆様宛のいくつかの振り返りの質問を記しました。これをできればまた話し合って頂き、小教区としてのフィードバックを頂ければと思います。その方法や期限は、別途、後日案内いたします。

最終的には、当初の予定より半年ほど遅れて、9月頃には、宣教司牧方針の大枠をお示しすることができるかと思います。大枠というのは、全体としての方向性や優先事項のことです。

それに伴って、組織改変の問題が出て参ります。こちらは、別途作業部会などを立ち上げて、もう少し丁寧に時間をかけて話し合う必要があります。とりわけ、一番意見の多かった宣教協力体の見直しは、もう少し時間が必要なため、3月にあらためて立ち上げる教区宣教司牧評議会の中で作業部会を設定して頂き、詳細な検討をお願いしたいと思います。組織に関する結論は、9月にはちょっと無理ですので、少なくとも一年は時間が必要かと思われます。今しばらくお待ちください。

また、滞日外国人の信徒の方への関わりに関しても、課題がいくつも指摘されましたが、これはすでに昨年作業部会を立ち上げ検討を行ってきました。その話し合いから出てきたアイディアをもとに、基本方針の文書を作成中です。これもCTICなどとの調整を経て、9月頃の宣教司牧方針の大枠発表に会わせて、一緒に発表できるように考えています。

頂いた意見のすべてをそのまま反映することはできませんが、なるべく多くの意見を生かして、方針を見定めていきたいと思います。今しばらく、ご辛抱ください。

なお、この数週間、新型コロナウイルスによる感染症が顕在化しています。不確実な情報に基づいていたずらに不安をあおることは厳に慎まなくてはなりませんが、同時に例年のインフルエンザへの注意喚起と同様に慎重な対応をすることは無駄ではありませんので、これも注意喚起の文書を作成して、まもなく小教区などに配布できるように準備中です。

中国本土に隣接する香港教区などでは、かなり厳しい対応をしているようで、その対応は香港教区のホームページに、英語と中国語で掲載されていますので、参考までにリンクを張っておきます。

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さて、白柳枢機卿様の時代から、カトリック教会は世界宗教者平和会議(WCRP/Religions for Peace)の活動に関わって参りました。白柳枢機卿様は日本委員会の理事長も務められたと思います。キリスト教関係諸団体は言う及ばず、仏教系、神道系、イスラム系など、諸宗教の交わりの中で世界平和を模索する団体で、今年で創立50年となります。立正佼成会の方々から始まりましたが、今や世界に広がり、全世界にそれぞれの委員会を置く世界的組織となっています。

私も数年前から日本委員会の理事を拝命しておりますし、理事には複数のカトリック関係者もおり、また評議員には高見大司教様が加わっており、現在の理事長は聖公会の植松主教様が務められています。

世界委員会の面々は、こちらのリンクをご覧ください。理事の諸宗教者の中には、世界各地の枢機卿たちも含まれています。

今般、ドイツで開かれた世界大会で、世界全体の新しい事務総長が選出されました。エジプト出身の女性で、オランダの大学などで教え、国連の場で長年にわたって宗教団体と諸政府の関係確立の仕事をされてきたアッザ・カラム教授です。(上の写真、向かって左側)

今般、選出後初めての外遊として、アッザ・カラム次期事務総長が日本を訪問され、昨日1月28日のWCRP日本委員会理事会後には、立正佼成会本部で講演会を、そして本日は事務総長代行の杉野師と共に、東京カテドラル聖マリア大聖堂を訪れてくださいました。

アッザ・カラム次期事務総長(米国の労働許可を待っているため、選出後も正式に就任していません)は、特に信仰に基づいた様々な人道支援団体(カリタスのような)が、規模において世界の有数な人道支援団体(国際のNGO)のリストの上位を独占していることを指摘して、それらの団体と諸宗教の指導者が協調して世界の様々な問題に取り組むことができれば、政治的な意図から離れて、民間の立場から真の平和の確立につなげて行くことができると話されておりました。

アッザ・カラム次期事務総長は、今回は日本における信仰に基づいた人道支援諸団体との会合を予定しており、明治神宮を会場として行われるとのことでした。とりわけ、SDGs(持続可能な開発目標)の2030年の達成実現に向けて、宗教者の果たす役割の重要性を強調しておられます。カリタスの立場から、できる限りの協力を模索したいと思います。

 

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