カテゴリー「司教の日記」の1000件の記事

2021年5月13日 (木)

ファティマの聖母記念日

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5月は聖母の月で、毎年ロザリオの祈りが呼びかけられています。昨年に続き今年も、感染症による困難な状況の終息を願い、教皇様は特別に祈るようにと呼びかけられています。今年は、毎日、世界各地の聖母巡礼所を結んでのロザリオマラソンが行われ、また東京教区では、毎週月曜日の昼に、一連ずつをメッセ-ジとともに配信をしております。

その5月の中で、本日5月13日は、ファティマの聖母の記念日です。聖母マリアが、ポルトガルの三人の子どもたちに御出現なさったのが、1917年5月13日のことです。6回にわたり聖母の出現をうけ、またメッセージを受けた三人のうち、幼くして亡くなった二人、フランシスコ・マルトとジャシンタ・マルトの列聖式は、2017年に教皇フランシスコがファティマを巡礼し行われました。三人のうちもう一人のルシア・ドスサントスは、その後修道生活に入り、2005年に亡くなられましたので、現在列福調査が進められています。

昨年は、翌5月14日が教皇様の特別な呼びかけによる祈願日であったことから、東京カテドラル聖マリア大聖堂でもロザリオの夕べを行いました。昨年の映像は、こちらのリンクからまだご覧いただけます。今年もロザリオの祈りにご活用ください。また以下にビデオをアップしておきます。

またはこちらのリンクから、東京大司教区の、今年の毎週一連の配信もご利用ください。現在、一連と二連が配信されています。

聖母の取り次ぎを求めながら、この5月の間、みなで共に祈りましょう。

一日も早く、人類が直面しているこの困難な事態が終息するように、また病床にある人たちにいやしが与えられるように、医療関係者の健康が守られるように、経済の悪化でいのちの危機に直面する人たちに助けがあるように、さまざまな事情によりいのちを守るために助けを必要としている人たち、特に海外から来られた兄弟姉妹に必要な助けが与えられるように、さらに政治のリーダーたちがいのちを守るための正しい判断をすることができるように。

そして、すべての人の上に復活の主イエスの守りと導きが豊かにあるように、わたしたち自身が御子イエスに倣って行動する勇気を持つことが出来るように、神の母である聖母の取り次ぎを祈りましょう。

さて、教皇様は5月11日に、新しい奉仕職として、「信徒によるカテキスタ」を正式に制定されました。同日発表された自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」において、これまでの教会の歴史を振り返り、「カテキスタ」の役割の重要性と、それも召命の一つであることを強調され、同時にこの制定が、新たな「聖職者主義」を生み出すのではなく、教会共同体を豊かにするための奉仕職であることを指摘されています。

バチカンユースによれば、「信仰の証人・師・同伴者として、カテキスタは、洗礼の秘跡の準備から、生涯の育成にいたるまで、司牧に奉仕するよう招かれている、と教皇は説明」され、「信徒カテキスタは「深い信仰を持ち、人間的に成熟し」、キリスト教共同体の生活に積極的に参加している男女でなくてはならない」」とも指摘されています。

今後、典礼秘跡省から、認定式などの儀式が定められることと、各地の司教協議会はそれぞれの地域の事情に応じて、信徒によるカテキスタの制度を整備することを、教皇様は求めておられます。

ご存じのように、東京大司教区では「教区カテキスタ」の制度を定め、猪熊神父様を委員長としてカテキスタ養成コースを行ってきました(今年は感染症の状況に鑑み、中断中です)。今後、教皇様の今回の制定にあわせ、また示唆と励ましを頂き、東京における教区カテキスタの制度をさらに充実させていきたいと思います。

 

 

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2021年4月30日 (金)

続:東京第司教区司祭叙階式

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4月29日の司祭叙階式の記事の続きです。

叙階されたお二人については、また、教区ニュースなどでプロフィールも紹介されたりすることでしょうからそちらに譲ります。

この二人に続く東京教区の神学生は、今の時点では、神学課程に2名、哲学課程に1名、予科に1名と、総勢4名です。予科から司祭叙階まで、最低でも7年半がかかります。司祭養成には時間がかかります。大切な役割なので、それだけの時間をかける必要があるからです。しかし、例えば来年2022年春に入学したとしても、実際に司祭として働けるのは2030年頃です。いまの東京教区の司祭団の年齢構成を考えるならば、やはり、あと数名は神学生がいないことには、近い将来、いくつかの小教区には、派遣できるだけの人数の司祭がいない事になるものと想定します。しかもそれは遠い将来ではなく、ごく近い将来です。

どうか召命のために祈り、また小教区に召命を感じている方がおられたら、励ましてください。ピンポイントで祈ってください。お願いします。召命は人間が勝手に作り出すことは出来ません。神からの呼びかけです。わたしたちが出来るのは、呼びかけられた人が、その呼びかけに気がつくように、さらにそれに応える勇気を持つことができるように、祈りを通じて励ますことです。

ところで、昨日の東京カテドラルでの司祭叙階式は、youtubeの関口教会のアカウントで繰り返し見ていただけますが、叙階式にはいつものミサと違って、いくつもの典礼上の「儀式行為」が行われます。司祭に叙階される人(受階者)は何度も司教の前に進み出て、なにやらしております。

叙階の儀式行為の中で、どこが一番重要だと思いますか。一番大事なところはあまり目立たないので、よく、叙階式に参加された方は写真を撮るタイミングを逃してしまったりします。(なお、カテドラルでの教区の典礼儀式では、撮影は担当の係が行います)

一番重要なのは、「按手」と「叙階(聖別)の祈り」です。特に「按手」は忘れてはいけません。

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名前を呼ばれて前に出て、司教と推薦する司祭との問答があり、司教の説教が続きます。説教に続いて、司教といくつかの問答があります。もちろんこの問答も重要で、司祭の生涯にわたる生き方を明確に約束する部分です。司祭の務めを受け入れる決意の表明です。そして受階者は床に伏して諸聖人の連願が歌われます。その後、受階者は司教の前に進み出て、ここで司教は何も言わずに按手します。司教の按手に、列席する司祭の按手が続きます。

按手が終わると、司教は叙階の祈りを唱えます。この按手と叙階の祈りを欠いてしまうと、叙階の秘跡は秘跡としてなりたちません。ですからここが一番重要です。

この後受階者は司祭の祭服を身につけ、司教の前に進み出て聖香油を塗油されます。そして最後に、カリスとパテナを授与されて、平和のあいさつで司祭叙階のための典礼の儀式は終わりです。

按手は、儀式書にもさらりと書いてあるだけなので、見落としそうになることもあります。(儀式書には、唱える部分と、ト書きのように、動作などを指示する部分が記されています。そのト書きの部分は、本来は赤字で書いてあるのでルブリカと呼ばれますが、いかんせん、唱える部分は黒でフォントが大きく、ルブリカはそれとなくしか記されません。按手は祈りをなにも唱えずに行い、その直後の叙階の祈りは黒くはっきりと印刷されているので、見落とすのです)

その昔、とある修道会で行われた助祭叙階式で、司式されていた司教様が熱を出されていてぼーっとしておられ、按手を忘れると言うことがありました。司祭叙階であれば、その後に参列している司祭団による按手に続くので、司教さんが按手を忘れることはありませんが、助祭叙階は、司教だけによる按手なので、そのまま気がつかれない可能性があります。そして見事に忘れられました。

誰も気がつかなければそのままでした。でも独りだけ、そのことに気がついた司祭がいて、ミサ後に指摘したため、もちろん叙階は無効です。そのため受階者はその週明けに司教館へ出向いて、司教さんから叙階の儀をもう一度やり直してもらったということです。

叙階式は、按手が肝心です。

 

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2021年4月29日 (木)

東京大司教区司祭叙階式@東京カテドラル

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東京大司教区の司祭叙階式が、本日4月29日午後二時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われ、二人の教区司祭が誕生しました。

ヨハネ・マリア・ミカエル 古市匡史(ふるいち ただし)神父様、フランシスコ・アシジ 小田武直(おだ たけなお)神父様、司祭叙階おめでとうございます。

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先般三度目となる緊急事態宣言が出されたこともあり、当初予定されていたような、たくさんの方に参加して頂く叙階式を行うことは不可能となりました。感染対策を徹底し、参加者を限定して、可能な限り(と言っても限度がありますが)式も簡素化して行いました。

本来であれば、新しい仲間が誕生するのですから、東京で働く司祭には教区と修道会を問わず、できる限り全員に参加して頂き、新司祭を司祭団に迎えて頂きたいのですが、そういうわけにもいきません。本来であれば200名を優に超える司祭があつまるところ、今日は、養成担当者や司牧実習先教会、出身教会などに限定して、20名ほどの司祭に全体を代表して頂きました。また一般の参加者も、出身教会や司牧実習先の代表の信徒の方に限定し、二人の新司祭のご家族など、700名は十分に入る大聖堂に、これもまた20名ほど。多くの方に、インターネットを通じて参加して頂くことになってしまいました。

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通常、司祭叙階式は、教会にとって大きな喜びですので、盛大なお祝いになりますが、この歴史に残る困難な状況の中でミサ後の祝賀会もなく、二人の新司祭には簡素な式で我慢をして頂くことになりましたが、歴史と記憶にしっかりと刻まれる叙階式であったと思います。様々な場からお祈りくださった皆様に感謝します。これからも、司祭のため、召命のために、さらなるお祈りをお願いいたします。

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二人の新司祭には、早速働いて頂くことになります。叙階式ミサの最後に発表しましたが、古市神父様を八王子教会の助任司祭、小田神父様を町田教会の助任司祭に任命いたしました。よろしくお願いいたします。

あらためて、おめでとうございます。

付記:日曜日午後のリハーサルでは、確か簡素化するために、叙唱や聖変化などの奉献文は歌わないことにしていたはずでしたが、わたしがボッとしていたためか叙唱前句を歌ってしまったので、そのまま歌いました。でも目の前には、音程の記号がついてない叙唱のプリントしかなく、今日の叙唱のメロディーは即興です。メロディーを失って、ふらついて気が遠くなりかけている様を、ビデオでご覧ください。

 

 

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2021年4月20日 (火)

故ペトロ岡田武夫大司教追悼ミサ@東京カテドラル

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昨年12月18日に帰天された東京大司教区の名誉大司教ペトロ岡田武夫大司教の追悼ミサが、4月19日月曜日の午後1時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられました。

帰天の直後の葬儀ミサは、感染症の状況もあり、ごく一部の関係者のみで捧げたこともあり、多くの方にお別れの祈りをささげていただくために、本来は1月19日に追悼ミサを予定しておりました。残念ながら、緊急事態宣言の再発出などもあったため、延期となっていたものです。

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また昨日のミサも、現在の感染状況にかんがみ、また他の地方で、キリスト教関係の教会からクラスターが出たという報道もあったっことを念頭に、ミサの参加は、一部関係者に限定させていただきました。

同時にできる限り多くの方にお祈りいただくために、ミサ終了後から午後4時まで、大聖堂でご自由に献花をしていただけるようにも致しました。献花の間、わたしも大聖堂におりましたが、多くの方に、密にならずに、献花とお祈りのために訪れていただきました。感謝いたします。

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こういった事態ですので、司教様方をお招きするのは控えましたが、説教は、補佐司教であった幸田司教様が、岡田大司教様との結びつきについて体験を交えながらお話しいただきました。なお、幸田司教様の説教メモは、東京教区のホームページにも掲載してあります。ご一読ください。

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またミサには、教皇庁臨時代理大使であるモンセニョール・トゥミルにも共同司式していただきました。

岡田大司教様の納骨は、府中墓地にて5月8日に行う予定です。府中墓地の一番手前の、教区司祭の墓所に納骨されます。当日は、岸神父様の納骨も行います。府中墓地を訪問の際は、どうぞ立ち寄ってお祈りください。

皆様のお祈りに、感謝します。

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2021年3月 5日 (金)

教皇様イラク訪問

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教皇様は本日3月5日から8日まで、イラクを訪問されます。日本時間の本日午後3時半頃(ローマの朝7時半)に出発される予定です。旅路の安全と、そして教皇様の意向に沿って、イラクの方々のために祈りをささげたいと思います。

英語ですが、教皇様のイラク訪問の予定はこちらに記されています。(バチカンホームページ)なお、教皇様の海外訪問は、2019年11月にタイと日本を訪問されて以降、新型コロナ感染症のためすべてキャンセルされていましたので、今回が再開第一回目となります。

教皇様は3月3日の一般謁見で、今回のイラク訪問に関して次のように語ったと、バチカンニュースで報じられています。

この訪問について、教皇は、「多くの苦しみを受けたイラクの人々、アブラハムの地における殉教者としての教会と出会いたい、との思いを長い間抱いていた」と述べられた。
また、教皇は、他の宗教指導者たちと一緒に、神を信ずる者たちの間に、兄弟愛の新たな一歩をしるしたいと抱負を語られた。
教皇は、この司牧訪問をより良い形で行い、実りをもたらすことができるよう、祈りをもって訪問を共にしてほしい、と信者らに願われた。

また訪問前のビデオメッセージでは、イラクの方々に次のように語りかけています。

何年もの戦争とテロリズムの後、赦しと和解を主に祈り求めるため、心のなぐさめと傷のいやしを神に願うために、わたしは悔悛の巡礼者としてまいります。平和の巡礼者として訪れ、「あなたがたは皆兄弟です」(参照マタイ23,8)と繰り返すために。
そうです、平和の巡礼者として、兄弟愛の追求のもとに、皆さんのもとを訪れたいと思います。イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒を、ただ一つの家族として一致させる、父祖アブラハムのしるしのうちに、共に祈り、歩みたいという望みに動かされてまいります。

教皇様のために、お祈りください。

また本日3月5日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」であります。聖職者による性虐待の罪にゆるしを願い、被害を受けられた方々の心のいやしのために祈り、同じ過ちを繰り返さない決意を新たにするために、教皇フランシスコは、全世界の司教団に向けて、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるように通達されました。日本の教会では「四旬節・第二金曜日」と定めました。東京教区では、次の日曜日、四旬節第三主日のミサで、この意向のもとにミサを捧げることにしております(教区ホームページ参照ください)。東京カテドラル聖マリア大聖堂では関口教会のミサとして、3月7日午前10時のミサを、わたしが司式してこの意向を持って共にお祈りいたします。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという現代社会の思い上がりを戒めながら、そういった現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を実現しなければならない。そう強調された教皇は、回勅「いのちの福音」の冒頭に、こう記されています。

「いのちの福音は、イエスのメッセ-ジの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への『良い知らせ』として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません」

危機にさらされるいのちの現状、教皇ヨハネパウロ二世が指摘する「死の文化」が支配する現実の中で、教会こそは、「いのちの福音」を高く掲げる務めがあることを自覚しなければなりません。

その教会にあって聖職者には、神の賜物である尊厳あるいのちを守るために最善を尽くす義務があり、「いのちの福音」をその言葉と行いを持って証しする義務があります。

残念ながら、その模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という他者の人格を辱め人間の尊厳を蹂躙する行為におよび、いのちの尊厳をおとしめ、いのちの危機を生じさせる事例が、世界各地で過去にさかのぼって多数報告されています。また司教を始めとした教区の責任者や、修道会の責任者が、聖職者の加害行為を隠蔽したり、その被害を過小評価した事例も、多数指摘されています。日本の教会も例外ではありません。被害を受けられた多くの方々に、心からお詫び申し上げると共に、教会はいのちの光を生み出す存在となる務めがあることをあらためて心に刻みます。(なお東京教区の対応については、こちらをご覧ください

 

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2021年2月16日 (火)

四旬節のはじめにあたり

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明日2月17日は灰の水曜日です。四旬節が始まります。

今年はコロナ禍に対応して、灰の式の実施方法について、バチカンの典礼秘跡省から指示が出されています。すでに各小教区の主任司祭には伝えましたが、その指示の中でも特に次の点にご留意ください。通常であれば、灰を配る時、通常は聖体拝領のように列に並んでいただき、司祭はお一人お一人の額に、定められた二種類の言葉の内の一つを唱えながら、灰を指で塗布します。

しかしながら今年は、典礼秘跡省の指示で、司祭は定められた言葉を、一度だけ、全員に向けて唱え、そのあとで灰を直接ではなく、頭の上から振りかける形で塗布をおこないます。いつものように、額に十字のしるしが残りませんが、ご理解ください。

四旬節のはじめにあたり、1分ほどの短いビデオメッセージを作成し、教区ホームページにて公開しています。

またそれとは別に、「四旬節のはじめにあたり」という呼びかけ文を書きましたので、以下に掲載します。教区ホームページにも掲載されています。また教区ホームページには、英語版も掲載されています。(English version of my message at the beginning of Lent)

カトリック東京大司教区の皆様

四旬節のはじめにあたり

一年前、わたしたちは先行きの見えない状況の中で四旬節を迎えました。その日からわたしたちは、いのちを守るため、とりわけ隣人のいのちを危険に直面させることのないようにと、さまざまな制約の下で教会活動を続けてきました。

暗闇の中を不安のうちにさまようわたしたちは、お互いを思いやり支え合うことの大切さを痛感させられています。

一年が経過し、再び灰の水曜日を迎えました。四旬節が始まります。

四旬節を始めるにあたり預言者ヨエルは、「あなたたちの神、主に立ち帰れ」と呼びかけます。四旬節は、まさしく、わたしたちの信仰の原点を見つめ直すときです。信仰生活に諸々の困難を感じるいまですが、信仰の原点への立ち返りを忘れてはなりません。

わたしたちが立ち帰るのは、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいる主であると、ヨエルは記しています。信仰に生きているわたしたちは、主に倣って、憐れみ深いものでありたいと思います。忍耐強い者でありたいと思います。慈しみに富んだ者でありたいと思います。

わたしたちの信仰は、いま、危機に直面しています。集まることが難しい中、これまで当然であった教会生活は様変わりしました。その中で、一人ひとりがどのようにして信仰を守り、実践し、育んでいくのかが問われています。

もちろん典礼や活動に制限があるからといって、教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。わたしたちは信仰によって互いに結ばれている共同体なのだという意識を、この危機に直面する中で、あらためて心に留めていただければと思います。祈りの内に結ばれて、キリストの体をともに作り上げる兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、いのちの源であるキリストの光を輝かせましょう。弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつも共にいてくださいます。(マタイ28章20節)

教会の伝統は私たちに、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すように求めています。四旬節の献金は、通常のミサ献金とは異なり、節制の実りとして献げる犠牲であり、教会の愛の業への参加に他なりません。この四十日の間、犠牲の心をもって献金にご協力ください。

また聖書にあるとおり「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたら」すと、わたしたちは信じています(ヤコブの手紙5章16節)。わたしたちは祈りを止めることはありません。感染に対応する様々な手段を講じる中には、わたしたちの霊的な戦いをも含めていなければ、この世界にわたしたちが教会として存在する意味がありません。ですから、祈り続けましょう。特に今年の四旬節にあたっては、長年支え合ってきたミャンマーの教会の友人たちを思い起こし、ミャンマーの平和と安定のために、祈りを献げるようお願いいたします。

また四旬節は洗礼志願者と歩みをともにするときでもあります。共に信仰の原点を見つめ直しながら、困難のなかにも互いを励まし、信仰の道を力強く歩み続けましょう。
 
2021年2月17日 灰の水曜日
カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

 

 

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2021年2月11日 (木)

世界病者の日メッセージ

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例年2月11日には、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、午前中にスカウトのBP祭ミサ、そして午後には世界病者の日のミサを大司教司式ミサとして行っています。残念ながら今年は、感染症の現状から、どちらのミサも中止となりました。

病者のために祈る日に、病気のために肝心のそのためのミサが出来ないことは無念です。祈りのひとときを共にしていただくために、ビデオメッセージを作成しました。東京教区のホームページにも掲載されていますが、ビデオのリンクはこちらです。(写真は三枚ともフランスのルルドの聖地)

以下、そのビデオメッセージの原稿です。

世界病者の日メッセージ
2021年2月11日

神からの賜物であるわたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、ありとあらゆる脅威にさらされています。それは、暴力や武力による脅威であったり、人間の悪意に基づく脅威であったり、排除や差別による脅威であったり、政治的意図や政治的支配欲による脅威であったり、政治思想に基づく圧政による脅威であったり、貧困や疾病による脅威であります。

そしてこの一年、わたしたちは未知の感染症によるいのちへの脅威にさらされています。この一年ほど、互いのいのちへの思いやりと支え合いが重要であることを思い知らされた一年はありません。そしてこの一年ほど、いのちの尊厳について考えさせられた一年はありません。

今現在も、新型コロナ感染症のために病床にある多くの方々、特にいのちの危機に直面して闘っておられる多くの方々のために、心からお祈りいたします。

またいのちを守るために、日夜懸命に努力を続けている医療スタッフ、介護職にある方々、また未知の感染症の解明のために日夜研究を続けている専門家の方々。その懸命な働きに、心から感謝すると共に、皆さんの健康が守られるようにお祈りいたします。

今回の感染症は、軽い風邪のようでもありながら、同時に急速に重篤化していのちを奪われるケースも多くあり、どうしても疑心暗鬼にとらわれてしまう状況を生み出しています。加えて、この感染症に対抗するためには、基本的に手洗い、うがい、マスクに社会的な距離を保つことがあげられ、いきおい、人と人との繋がりが断絶されてしまう状況も生み出しています。

感染した場合の隔離の状況や、重篤化した場合の完全な孤立は言うに及ばず、今回の感染症はさまざまな場で、孤立を生み出し、孤独のうちに多くの人を追いやっています。また疑心暗鬼が深まるにつれて、感染した人やその家族への排除の動きや差別的な言動の事例も聞かれ、さらには必死になって治療に専念する医療スタッフへの差別的な言動もあると聞いています。

利己的な思想や価値観の広まりは、この数年の世界的風潮でもあり、助け合うことや支え合うことが意味を失い、孤独や孤立のうちに取り残される人が多く見られるようになっていました。異質な存在を排除し、自己の価値観を守ることに専念する社会は、寛容さを失います。教皇フランシスコは、しばしば誰も排除しない社会の実現を呼びかけ、隔てる壁を打ち壊し、広がる溝に橋を架けるようにと諭してきました。

そういった社会の風潮に、この一年は新型コロナ感染症による不安が加わりました。心の不安を増幅するような事態の頻発は、疑心暗鬼の闇をひろげてしまいます。疑心暗鬼が生み出す相互不信には、対立を引き起こす負の力があり、残念ながら寛容さを生み出すような前向きの力はありません。

そういう闇の中に取り残されるとき、自らを守るために利己的となるわたしたちは、あたかも人間のいのちには価値の違いがあるかのような思い違いすら生み出してしまいます。自分を守るためならば、異質な存在は排除しても構わないという考えは、いのちに対する尊厳の欠如です。まさしく、寛容さを失い、相互不信にあえぐ社会は、ヨハネパウロ二世が指摘した「死の文化」に彩られた社会です。闇の中を歩んでいる今だからこそ、教会はあらためてこの社会の中で、「死の文化」に対抗する「いのちの文化」を強調して行きたいと思います。善が悪に勝利を収めるだけの力を持っていることを、証明していかなくてはなりません。

主イエスによる病者のいやしは、もちろん奇跡的な病気の治癒という側面も重要ですし、その事実が神の栄光を示していることは忘れてはなりませんが、同時に、人と人との繋がりから排除されてしまったいのちを、いやし、慰め、絆を回復し、生きる希望を生み出すところにも大切な意味合いがあります。孤独の中で孤立し、暗闇の中で不安におののくいのちに、歩むべき道を見いだす光を照らし、そのいのちの尊厳を回復するところにも大切な意味合いがあります。

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世界病者の日と定められた2月11日と言う日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。わき出る水は、病気の治癒の奇跡を起こすこともありますが、それ以上に多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

ルルドの泉がもたらす奇跡的治癒は、キリストのいつくしみの深さとすべてを超える偉大な力を示していますが、同時に、ルルドという聖地自体が、そこを訪れる多くの人に心の安らぎを与えていることも重要です。すなわち、聖地自体が、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっているからです。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、希望を失った人の心に希望を回復し、互いへの思いやりの心を思い起こさせる力があります。わたしたちすべての教会共同体が、おなじように生み出したい、霊的な安らぎの雰囲気の模範であります。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に、この日を世界病者の日と定められ、病気で苦しんでいる人たちのために祈り、同時に医療を通じて社会に貢献しようと働く多くの方々のために祈りを捧げる日とされました。今年ほど、この日の持つ意味が切実に感じられる年は、近年ありませんでした。

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教皇様は、今年の世界病者の日のメッセージで、この一年の感染症の緊急事態に触れながら、こう述べています。
「病には必ず顔がありますが、それは一つだけではありません。病者一人ひとりの顔、無視され、疎外されていると感じている人、基本的人権を認めない社会的不正義の犠牲者の顔もあります(回勅『Fratelli tutti』22参照)。このパンデミックは、医療体制の多くの不備と、病者へのケアの不足を露わにしました。・・・病者のケアと看護に資源を投じることは、健康を主要な共通善と捉える原則に結びついた優先事項です」

その上で教皇は、病で苦しみ人に寄り添うことの重要性を強調し、「わたしたちは個人としてだけでなく、共同体としても、寄り添い続けます。キリストにおける兄弟愛はまさに、いやすことのできる共同体を生み出します。だれも見捨てない共同体、もっとも弱い人を真っ先に受け入れ、歓迎する共同体です」と、いつくしみを体現する共同体であるようにと呼びかけます。

東京ドームミサで呼びかけた、「傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と言う言葉を思い起こします。

世界病者の日は、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、いつくしみの神の手に、ともに包み込まれることを実感する日でもあります。主の癒やしといつくしみの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、野戦病院となる決意を新たにする日でもあります。その安らぎの中に、いのちを生きていく希望を見いだす日でもあります。

神のいやしの泉へとベルナデッタを招いたルルドの聖母マリアが、わたしたちを希望の源である御子イエスのいつくしみへと導いてくださいますように。

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2021年2月 2日 (火)

ミャンマーの状況を憂慮しながら

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ミャンマーで2月1日、アウン・サン・スー・チー国家顧問ら与党関係者が国軍によって拘束され、軍出身のミン・スエ副大統領が大統領代行となって非常事態宣言を発令したと伝えられています。昨年の国政選挙の結果に対する反発から、軍によるクーデターであるとも報道されています。

わたし自身、三十年以上前に、当時まだ軍事独裁政権下にあった西アフリカのガーナで8年ほど生活していましたが、その間にも幾たびかクーデター未遂事件が起こり、首都には夜間外出禁止令が出たりしたことがありましたが、それがすぐに、わたしが住んでいた田舎の生活に直接の影響を及ぼすようなことはありませんでした。ですから、今回の出来事がそれ自体として、即座に全国的な生活の変化などとして大勢の人の身に危険が及ぶことはないでしょうが、しかし、長期的に見れば、民主化後に経済が発展し生活が安定してきた国家のこれからには、マイナスの影響を残しかねません。

加えて、以前から少数民族が数多くあるミャンマーでは、それに起因する政治的不安定さが、時に暴力的な対立を各地で生んできたのであり、その中で、カトリック教会も、仏教国での少数派とはいえ、さまざまな影響を受けてきました。ロヒンギャの問題が近年では大きく取り上げられますが、それ以外にも少数民族を巻き込んだ不安定要素は多くあり、民主化が進んで、政治から軍が切り離されていくことが、さらなる安定への道だと思いましたから、今回の件は本当に残念です。

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中国の問題などと同様、現時点で現地の教会からの要請があるわけではありませんから、今の立場で直接ミャンマーの内政への批判的な言説を行うことは控えたいと思いますが、しかし、国家の舵取りをする方々には、複雑な民族構成の中で、一部の利益ではなく全体の善益を考慮に入れて行動をしてほしいと思いますし、民主的な選挙の結果を暴力的に覆すことは認められるべきではありません。異なる意見を力を持って封じ込めることも、認められるべきではありません。一日も早く事態が収束することを、心から祈ります。

東京大司教区はかねてより、ミャンマーの教会を支援してきました。現在でも、教区内の小教区に所属されるミャンマー出身の信徒の方々がおられます。故郷のことを思い、どれほど心配されていることでしょう。故郷が、安心と安定を取り戻すように、心から願います。

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東京教区のミャンマーの教会支援の歴史は、ケルン教区との関係にさかのぼります。そのあたりは教区のホームページをご覧ください。1979年以降、東京教区はケルンと協力しながらミャンマーの教会支援を行い、特に11月の第三日曜日をミャンマーデーと定めて、支援のための献金やお祈りをお願いしてきました。近年では、ミャンマー国内の神学校建設などを支援しており、昨年2020年2月には、担当のレオ神父、高木健次神父の二人に引率されて、わたしも含めた東京の司祭団で、支援先の神学校などを訪問してきました。写真は昨年2月のミャンマー訪問のときのものです。ちなみに、わたしにとっては、この昨年2月のミャンマー訪問が、今に至るまでで最後の飛行機の旅(国内外併せて)でありました。次に訪問できるのは、いったいいつになることでしょう。

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さてわたしはカリタスジャパンの視察で、2003年に初めてミャンマーを訪れて以来、幾たびかの訪問を重ねてきましたが、昨年2月に訪れたときと2003年の初めての訪問の時の印象とを比較すると、実際に国全体が大きく発展していると感じました。2003年の時は、携帯も使えず、地方へ夜行バスで移動した際には、公安とみられる人物が、ずーっと後ろをついてきていました。民主化が進み、着実に経済も発展し、社会全体が安定してきていると昨年2月には感じましたから、今回の出来事はマイナスの方向に引き戻す力として、本当に残念です。

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ミャンマーの安定のために、人々の安全と安心のために、お祈りください。またミャンマーの教会のために、これまで以上のお祈りをお願いいたします。

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2021年1月22日 (金)

広島と長崎の司教様方による共同声明

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2019年11月に日本を訪れた教皇フランシスコは、長崎と広島を訪問されました。訪日が計画されていた当初から、特に長崎を訪問して核兵器に対するメッセージを発表することは教皇様の強い意向でしたし、そのあと日程をやりくりして、同じ日に広島も訪問できることになりました。(写真は長崎でのメッセージについて語る教皇様。2018年12月)

教皇様は広島で次のように言われました。

「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」

その上で、こう指摘されました。

「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この苦しみの深淵が、決して越えてはならない一線に気づかせてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことではなく、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません」

また長崎では、次のように述べておられます。

「カトリック教会としては、民族間、また国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対する、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際条約に則り、たゆむことなく、迅速に行動し、訴えていきます」

その核兵器禁止条約が、1月22日に発効しました。残念ながら核兵器を保有する国は参加していませんし、日本政府も、目指すゴールを共有していながらも、この条約ではなく他の方法をとることを強調しながら、署名批准を見送っています。

条約発効に伴って、被爆地である長崎と広島の司教様方が、以下の共同声明を発表されています。

被爆地広島と長崎のカトリック司教による共同声明
核兵器禁止条約の発効にあたって

2017年7月7日に国連本部で開かれた交渉会議において採択された「核兵器禁止条約」は、2020年10月24日、その批准国・地域が50に達し、規定により90日後の2021年1月22日に発効することになりました。

本日がその発効の日です。被爆者はもちろん、核兵器のない平和な世界を切望する数知れない多くの人が待ちに待った日、最終段階が始まる日、大変意義深い日であり、この喜びをともにしたいと思います。

本条約は核兵器廃絶のためにこれ以上ない有効なものでありますが、条約が述べるように、核兵器廃絶のためには核兵器の開発・実験・生産・取得・貯蔵・配置・移譲・使用あるいは使用するとの威嚇などの禁止のみならず、被害者への援助や環境の修復、国際的な協力が必要です。そのためにすべての国の参加が求められます。なお、発効後1年以内に、締約国が核兵器廃棄の期限や検証方法などを決めることになっています。

しかしすべての国の条約参加を実現するためには乗り越えなければならない最後の大きな壁があります。それは、核保有国と、日本を含む、いわゆる核の傘の下にある国々の根強い抑止論です。これらの国は、核兵器禁止条約の有効性を認めず、署名も批准もしていません。日本政府は、「日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要」であると主張していますが、唯一の戦争被爆国として、この条約の発効が実質的な結果をもたらすよう、日本が率先して署名・批准し、核兵器保有国と非保有国の対話と核軍縮とを推進する役割を担うべきです。

わたしたちは、被爆地のカトリック司教および日本国民として、教皇フランシスコとともに、「すべてのいのちを守るため」、核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、核兵器保有国も非保有国も含めてすべての人が一致して核兵器のない世界の実現のために参加する必要がある、と訴えます。そして、核兵器禁止条約の批准国が世界の大勢を占め、核保有国も批准をし、同条約が完全に実施されるよう神に祈り、そのために働きかける決意を新たにします。

2021年1月22日

カトリック広島司教区 司教 白浜満

カトリック長崎大司教区 大司教 髙見三明

 

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2021年1月 6日 (水)

新しい年の初めに@東京教区ニュース

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政府が緊急事態宣言の発出に向けて検討中と報じられています。再度の緊急事態宣言となった場合、東京教区の管轄する東京都と千葉県はその対象地域となるようですので、教会としてどのように対応するかは、宣言発出後に教区のホームページなどで公示いたします。

東京教区ニュース、2021年1月1日発行の379号は、冒頭にわたしのメッセージを掲載してあります。各小教区で配布していますし、教区ホームページでも教区ニュースを読むことが出来ます。こちらのリンクです

以下、教区ニュースに掲載したわたしのメッセージを、こちらにも再掲します。

東京教区の皆様、主の降誕と新年のお祝いを申し上げます。

新しい年がはじまりましたが、今年はなんとなく、いつもとは様子が異なるクリスマスと年末年始になりました。昨年初めから今に至るまで続いている新型コロナ感染症は、未だにその実体についてさまざまな意見が表明されており、教会としても対応に苦慮しています。アジアの国々は欧米とは状況が異なっているのは事実ですが、その理由は判明しておらず、実際に世界では多くの方が生命の危機に直面しています。ですから、慎重な道を選択せざるを得ません。

昨年一年は、教会においての活動の自粛や、4ヶ月にわたるミサの公開停止など、特に霊的生活において、忍耐を必要とする年でした。皆様それぞれの、信仰における積み重ねがあり、ご理解いただくことが難しい制約も多々あったことを、大変申し訳なく思っています。同時に、この試練の時にあって、互いへの思いやりの心をもってご協力いただいた多くの方々の寛容と忍耐に、心から感謝申し上げます。いま、わたしたちの信仰が試されています。

新しい年の初めという新鮮な気持ちとなる時期であるにもかかわらず、はっきりしたことが分からないために、闇の中を彷徨い続けているような気持ちがいたします。いま、暗闇に輝く光が必要です。誕生した幼子のように、闇に佇む民に救いへの希望の道を示す、光が必要です。

教会は、人となられた「神の言」が暗闇に光として輝くように、その光を暗闇の中であかしする存在でありたいと思います。この光は、生命の希望をもたらす光です。互いに連帯を強め、主イエスのいつくしみの心に倣い、互いを思いやり助け合う具体的な言葉と行いが、生命を守っていきます。誕生した幼子が、一人孤立するのではなく聖家族によって守られ育まれたように、社会にあって孤独のうちに孤立し、危機に直面する生命を、わたしたちは家族として守り育まなくてはなりません。いのちを守る福音を、これまで以上にあかししていきたいと思います。

東京教区の大司教として着座して以来、昨年末12月16日で、3年が経過しました。9月には新潟教区に成井大介司教が誕生し、わたしは使徒座管理者の務めを終えました。

この3年の間、教区の多くの方々からお寄せいただいた意見をもとに検討を重ね、宣教司牧方針を定める作業を続けてきました。この作業は、一昨年の教皇訪日と、昨年のコロナ禍で、予定されていたタイムフレームより大幅に遅れてしまったのですが、このたびなんとか形にすることが出来ました。間もなく、小冊子やホームページ上で公開することになりました。ご協力いただいた多くの皆様と、作業チームの皆様に感謝いたします。

想定されていたものよりも、短く簡単なものと思われるやも知れません。皆様からいただいたご多数のご意見からも、東京教区の幅広い多様性を認識させられました。当初の段階で70通を超えるご意見をいただいています。これらについては、今回だけでなく、今後も長期にわたって、具体的な行動計画を検討するために参考にさせていただきたいと思います。

すべてのご意見を反映して事細かな指針を定めるよりも、教区全体の宣教司牧方針は大枠だけを提示して、それに基づいてそれぞれのユニークさを抱える現場で具体的な適応を話し合っていただくことがふさわしいと考えました。多くの皆様から、それぞれの信仰体験に基づくさまざまな提案があり、時に詳細かつ具体的な提案もありました。それらがすべて含まれていないのは、さまざまな可能性を排除することなく、豊かに発展させることが出来るようにするためです。大枠に基づいて今後、それぞれの小教区などの現場で皆様の話し合いが継続し、具体的な行動に繋がっていくことを期待しております。

宣教司牧方針には、次の三つの大きな柱を定めました。

①宣教する共同体
②交わりの共同体
③すべてのいのちを大切にする共同体

「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(『マタイによる福音書』28章20節)。弟子たちを派遣なさった主イエス・キリストのこのことばに信頼をおきたいと思います。これは、主の約束のことばであり、波高く漕ぎ悩むわたしたちの教会を力づけるいのちのことばでもあります。東京大司教区の宣教司牧方針の三つの柱は、変動するこの世にあって、わたしたちがこころを合わせて向かっていく方向を示しています。そして、互いに関連しあっています。「宣教する共同体」は「義人アベルから最後に選ばれた人に至るまで」ご自分のもとへと集めようとなさる天の御父の救いの想いを反映しています(『教会憲章』 2参照)。「交わりの共同体」は神と人、人と人の和解のために十字架へとつけられた御子の生きる姿を写し出します。「すべてのいのちを大切する共同体」は「主であり、いのちの与え主」(『ニケア・コンスタンチノープル信条』参照)である聖霊の働きによって成立します。ですから、この宣教司牧方針は三位一体の神のお姿をこの世にあらわしていくものなのです。

皆さん、歩みを共にしながら、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」をつくり育んでまいりましょう。

教皇様は先日発表された三つ目となる回勅「Fratelli tutti」において、「個人の日常的関係、社会、政治、公共制度において、より正しく兄弟的な世界を築きたい人にとって、大きな理想であると共に具体的に実行可能な道とは何か」という問いに回答を見いだそうとしておられます(バチカンニュースより)。その中で、教皇は今回のコロナ禍に触れて、「わたしがこの文書を準備している最中に、思いがけない形で飛び込んできた」と記し、これによってもたらされたいのちの危機は、「誰も一人で自分を救えない」こと、そして、「わたしたち皆が兄弟」として「ただ一つの人類として夢見る」べき時がついにやって来たことを示した、と記されています(7-8)。

今求められているのは、兄弟姉妹としての愛のうちに互いに尊重し合い支え合う家族を生み出そうと努力することです。東京教区の教会共同体が、存在を持ってそのあかしとなることを願っています。

昨年10月のホルヘ神父様の叙階に続いて、今春も司祭叙階が見込まれています。また新たに神学院に入学する方もおられます。主のぶどう畑の働き手である司祭の召命のために、お祈りください。また教区にあって、福音を徹底的に生きる姿の模範を示し、霊的な土台を築いてくださる奉献生活者(男女修道者)の召命のためにも、お祈りをお願いいたします。

感染症の状況次第では、今年も教区関連の行事に大きな変更の可能性があります。黙想会、研修会、会議といった多数が集まる機会を制約せざるを得ないかも知れません。集まることが難しいなかにあっても、一つのキリストの体に結ばれている兄弟姉妹の共同体であることにあらためて思いを馳せ、同じ信仰において祈りをともにする中で、霊的な絆を再確認したいと思います。どのような状況にあっても、主は世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださいます。

新しい年のはじめにあたり、東京教区の皆様の上に、いつくしみ深い神の豊かな祝福があるように祈ります。

 

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