カテゴリー「司教の日記」の1000件の記事

2020年2月16日 (日)

世界病者の日ミサ@東京カテドラル

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2月11日はルルドの聖母の祝日ですが、そのルルドの泉での様々な奇跡的治癒の出来事や、心身の癒やしを求めてルルドに多くの人が集い、聖母の取り次ぎを求めて祈ることに倣い、この日は世界病者の日と定められています。

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、毎年2月11日の午後1時半から、教区の行事として世界病者の日ミサを捧げています。今年は550人を超える方が参加してくださいました。

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手話通訳や要約筆記をしてくださった皆さん、ありがとうございます。またこの日は午前中に、大聖堂ではスカウトのBP祭ミサが行われましたが、カトリックセンターでは東京教区の障がい者の方々の団体であるヨブの会の会議も行われました。

なお新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が拡大する中、東京教区ではすでに初期の対応を発表しているところです。香港教区では灰の水曜日を含めて2週間、シンガポール大司教区では無期限に、公のミサを停止する措置を執りました。

東京教区の指針は、カトリック医師会の東京支部の専門会のアドバイスをいただきながら策定し、また必要に応じて改訂するものです。状況を見極めながら専門家の指導をいただいて、対応していきます。

以下、当日のミサの説教の原稿です。

この数週間、新型コロナウイルスによる感染症が拡大し、国内における感染事例の報告も少なからず聞かれるようになりました。

ありとあらゆる情報が瞬時に飛び交う現代社会にあって、特に専門家ではないわたしたち大多数は、それまでに体験したことのない事態が発生すると、確実なことがわからなければわからないほど、疑心暗鬼の闇にとらわれてしまいます。

とりわけ今回のように、健康に影響があるとなると、その最終的な結果が確実にはわからないため、さらに不安は深まってしまいます。

不安の闇に取り残されたとき、わたしたちはどうしても差し込む光を求めてさまよってしまいます。闇にさまようとき、わたしたちの判断力は衰え、時に偽の光に飛びついてしまったり、または不安の根源を取り除こうとして、犯人捜しに奔走し、誤った差別的な言動をとってみたりします。

闇の中にあって必要なことは、互いの人間の尊厳を尊重しながら、互いの心身を慮ることであり、互いに助け合って、真の光を見いだすことであります。

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今回の感染症の拡大にあって、教会は不特定多数が定期的に集まる場所ですから、まずは常識的な範囲で、感染症の予防に努めたいと思います。この時期は毎年のようにインフルエンザの予防が話題に上りますから、通常と同様の常識的な感染予防にまず務めたいと思います。その上で、お互いへの思いやりを忘れず、医療関係者や専門家の助言に耳を傾けながら、不必要な風評を広めたり、誤った差別的言動に陥らないように心を配りたいと思います。

そして教会は、疑心暗鬼の闇の中にあって不安に苛まれ、心身ともに疲れ切った人々へ、 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という、マタイ福音に記されたイエスの言葉を高く掲げます。

教会こそが、こういった不安を増幅させつつある社会の現実の直中にあって、真の心の安らぎを生み出す場であることを、明らかに示したいと思います。わたしたちは、多くの人が生きていくために抱え込んでいる心の重荷を、遠慮せずにひとまず解き放って、心の安らぎを実感できるような教会共同体でありたいと思います。

マタイの福音のこの言葉は、教皇フランシスコが今年の第28回世界病者の日にあたり、選ばれたテーマとなっています。

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世界病者の日と定められた2月11日と言う日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出しています。

ルルドの泉がもたらす奇跡的治癒は、キリストのいつくしみの深さとすべてを超える偉大な力を示していますが、同時に、ルルドという聖地自体が、そこを訪れる多くの人に心の安らぎを与えていることも重要です。すなわち、聖地自体が、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっているからです。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、すべての教会共同体がおなじように生み出したい、霊的な安らぎの雰囲気の模範であります。

教皇聖ヨハネパウロ2世が、1993年に、この日を世界病者の日と定められ、病気で苦しんでいる人たちのために祈り、同時に医療を通じて社会に貢献しようと働く多くの方々のために祈りを捧げる日とされました。もちろん教会には、奉献生活者をはじめ信徒の方々も含め、多くの方が医療活動に関わっておられます。その献身に、心から感謝したいと思います。

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さて教皇様は今年のメッセージの中で、次のように述べられています。
「もろさ、痛み、弱さを抱えた自身の状態に苦悩する人々に、イエス・キリストは律法を課すのではなく、ご自分のあわれみを、つまりいやし手であるご自身を与えてくださいます。・・・奥深くにまで届くそのまなざしは、見て、気づきます。無関心にはならずに目をとめ、どのような健康状態にあってもだれ一人排除することなく、人間のすべてを受け入れ、ご自分のいのちに入り、優しさに触れるよう、一人ひとりを招いておられます。」

その上で「実際に自分自身でそれを経験した人だけが、人を慰めることができるのです」と言われます。

主イエスが人間の苦しみに真の慰めを与えることができるのは、主ご自身が、十字架上で生命を捧げるまでの苦しみを体験されているからです。

わたしたちは、それぞれの生命が尽きる日まで、完全完璧な状態で過ごすことができるわけではありません。人生の途上にあって、その度合いには違いがあるとはいえ、心身の様々な困難に直面し、さらには仮に健康を誇っていたとしても、年齢とともに、誰かの助けがなければ生命をつなぐことができません。ですから、自らの弱さを自覚し、慰めを体験することで、はじめて他者に対しての慰めとなることができます。

しかしながら同時に、教皇はこうも言われます。
「苦しみの厳しさはさまざまです。難病、精神疾患、リハビリや緩和ケアを要する状態、さまざまな障がい、小児疾患や高齢者疾患などです。こうした状態においては、人間らしさが奪われるように感じられることがあります」

そこで教皇フランシスコは、困難な状態にある人たちを念頭に、「全人的な回復のためには、治すだけではなく相手を思いやり、それぞれの病者に合わせて対応することが求められ」るのだと指摘します。


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東京ドームミサで教皇はわたしたちに次のように呼びかけられました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」

世界病者の日は、特定の疾患のうちにある人たちへの回復だけを対象にした、特別な人の特別な日ではなく、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、いつくしみの神の手に、ともに包み込まれることを実感する日でもあります。主の癒やしといつくしみの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、野戦病院となる決意を新たにする日でもあります。

ルルドの泉で神のいやしの泉へとベルナデッタを招いた聖母マリアが、御子イエスのいつくしみへと、わたしたちを導いてくださいますように。

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2020年2月11日 (火)

日本26聖殉教者祭@本所教会

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本所教会では、日本26聖殉教者祭を、毎年2月の最初の日曜日に開催しています。今年は2月5日を間近に控えた2月2日の日曜日に、殉教祭が行われ、近隣の教会からも多くの方が参加されました。

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わたしは、その昔、名古屋の神言会の小神学生だった頃から、当時の下山主任司祭の神学生援助への御礼もかねて、長年にわたりこの殉教祭に通っていたこともあり、これからもできる限り2月の殉教祭には参加させていただければと思っています。

以下、当日の説教の原稿です。

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昨年11月に日本を訪問された教皇フランシスコは、「すべてのいのちを守るため」をテーマとして、各地で様々な側面から、いのちについて語られました。

言うまでもなく私たちのいのちは、神からの賜物であり、神は愛を込めて、人を神の似姿として創造されたとわたしたちは信じています。そこに何物にも代えがたい人間のいのちの価値があり、人間の尊厳があります。

教皇フランシスコは、広島や長崎では核兵器廃絶や平和について語り、東京では、無関心や孤立や孤独のうちに危機に直面するいのちを守る必要性を語られました。人間はひとりでいのちをつないでいくのではなく、互いの出会いのうちに支え合って生きていくのだと諭されました。

教皇は「有能さと生産性と成功のみを求める文化に、無償で無私の愛の文化が、「成功した」人だけでなくどの人にも幸福で充実した生活の可能性を差し出せる文化が、取って変わるよう努めてください」と、到着して早々に日本の司教団に呼びかけられました。

誰ひとりとして排除されて良い人はおらず、忘れられて良い人もいない。教皇フランシスコは、排除のない世界の実現のために、世界各地で呼びかけ続けておられます。

実質三日に過ぎなかった日本訪問でしたが、教皇フランシスコはいのちの価値について語っただけではなく、長崎で殉教者の地を訪れて、信仰を守り抜いたわたしたちの信仰の先達についても話されました。西坂の26聖人殉教地を訪れた時には、激しい雨の中、祈りを捧げた後に、次のように述べられました。
「しかしながら、この聖地は死についてよりも、いのちの勝利について語りかけます。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです」

聖人たちの殉教は、死の勝利ではなく、いのちの勝利なのだ。聖人たちの殉教によって、福音の光が輝いた。そこから「福音の光」という希望が生み出されたと教皇は指摘されました。

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「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。テルトゥリアヌスは『護教論』において、権力者の暴力と不正を告発し、キリスト教の立場を明確にする中で、殉教を通じた聖霊の勝利を示します。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの勝利を、教会の存在があかしし続けていくという意味においてです。

西坂での教皇フランシスコの言葉を続けます。
「ここは何よりも復活を告げる場所です。襲いくるあらゆる試練の中でも、最後は死ではなく、いのちに至ると宣言しているからです。わたしたちは死ではなく、完全な神的いのちに向かって呼ばれているのです。彼らは、そのことを告げ知らせたのです。確かにここには、死と殉教の闇があります。ですが同時に、復活の光も告げ知らされています」

わたしたちは、信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、単に歴史に残る勇敢な者たちの偉業を振り返るだけではなく、その出来事から現代生きるわたしたちへの希望の光を見いだそうとするのです。

それでは二十六聖人の殉教は、今を生きるわたしたちに、どのような希望の光を示しているでしょうか。

教皇フランシスコは西坂で、「殉教者の血は、イエス・キリストがすべての人に、わたしたち皆に与えたいと望む、新しいいのちの種となりました。そのあかしは、宣教する弟子として生きるわたしたちの信仰を強め、献身と決意を新たにします」と言われました。

わたしたちは信仰の先達である殉教者を顕彰するとき、殉教者の信仰における勇気に倣って、福音をあかしし、告げしらせるものになる決意を新たにしなければなりません。なぜならば、殉教者たちは単に勇気を示しただけではなく、福音のあかしとして、いのちを暴力的に奪われるときまで、信仰に生きて生き抜いたのです。つまりその生き抜いた姿を通じて、最後の最後まで、福音をあかしし、告げしらせたのです。

わたしたちは殉教者に倣いたい、倣って生き抜きたい、倣って信仰をあかしして生き抜きたい。

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それでは現代社会にあって、わたしたちは何を福音として告げしらせるのでしょうか。

教皇は東京ドームのミサで、日本の現実を次のように述べられました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです」

その上で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる『わたし』に対抗できるのは、分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち」、これしかありません」とのべて、教会の信仰のあかしが、個人的なものではなく共同体のあかしであることを明確に示されます。

わたしたちが毎日唱える主の祈りには、『わたしたち』という言葉があっても、『わたし』という言葉はないと、教皇は昨年2月の一般謁見で述べられました。その上で、「どうして、神との対話には個人主義が入る余地がないのでしょうか。世界の中で苦しんでいるのは自分だけであるかのように、自分の問題を誇示してはなりません。兄弟姉妹としての共同体の祈りでなければ、神への祈りにはなりえません。共同体を表す『わたしたち』として唱えます。わたしたちは兄弟姉妹です。わたしたちは、祈りをささげる民です」

孤立や孤独を深めている社会の現実が人間のいのちを危機にさらしているのであれば、それに対抗できるのは、共同体における兄弟姉妹のきずなです。わたしたちの信仰は共同体の信仰です。「分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち』」の共同体です。共同体の信仰におけるあかしこそが、孤立や孤独を深める現実に対する希望の光を生み出す源となります。

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二十六殉教者が今日私たちに示しているのは、二十六名一人ひとりのヒロイックな信仰のあかしであるとともに、二十六名の共同体としての『わたしたち』の信仰のあかしが持つ、いのちの力と希望の光です。

教会は、現代社会にあって、兄弟姉妹の交わりを通じて、孤独と孤立の闇に輝く光となりたいと思います。『わたしたち』の信仰における希望の光を、証しする存在となりたいと思います。二十六聖殉教者の共同体としての信仰の模範に倣い、わたしたちも勇気を持って信仰に生きる、いつくしみと愛の手を無償で差し伸べる共同体となりましょう。

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2020年2月 1日 (土)

奉献生活者の日ミサ

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2月2日の主の奉献の祝日にあわせて、教皇ヨハネパウロ2世は、1997年に奉献生活者のための祈りの日を設けられました。

日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることをその時からはじめ、今年の奉献生活者のためのミサは、本日2月1日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

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司式はチェノットゥ教皇大使、さいたま教区の山野内司教とわたしが大使の両脇で共同司式し、男子修道会の多くの管区長や責任者が共同司式してくださいました。聖歌隊はイエスのカリタス会のシスターたち、説教はわたしが担当しました。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

東北地方を中心に大震災が発生してから、まもなく9年となります。日本の教会は、仙台教区とカリタスジャパンを中心にして、この9年間、被災地の復興支援に携わってきました。わたしが改めて申し上げまでもなく、今日お集まりの皆さんの中にも、当初から今に至るまで、様々な形で復興支援に携わった方がおられることでしょう。

復興はまだ終わっていません。まだまだ時間が必要です。全国の教会をあげての支援活動は、10年目となる来年3月末で一旦終了となりますが、違う形で支援活動は継続していくことになるだろうと思います。

いみじくも、先日訪日された教皇フランシスコは、復興支援についてこう述べられました。
「日本だけでなく世界中の多くの人が、・・・祈りと物資や財政援助で、被災者を支えてくれました。そのような行動は、時間が経てばなくなるものや、最初の衝撃が薄れれば衰えていくものであってはなりません。むしろ、長く継続させなければなりません。・・・被災地の住人の中には、今はもう忘れられてしまったと感じている人もいます」

また教皇は福島の現状に触れながら、次のようにも指摘されました。
「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません」

人間がいのちをつないでいくためには、もちろん「衣食住」が充分に保障されていることが不可欠です。しかし人間は、物質的充足それだけでは生きていけません。

人間が人間らしく生きていくためには、いのちを生きるための希望が不可欠です。そしていのちを生きるための希望は、誰かが外から持ってきて与えることができるものではなく、希望を必要としている人自身の心の奥底から生み出されるものです。

震災と原発事故によって破壊された地域のきずなを回復するということは、被災した地域に生きる方々の心に、いのちを生きる希望を生み出すことにほかならず、教会がこの9年間復興支援として行ってきたこととは、まさしくいのちを生きる希望を生み出すための活動であったと思います。

建物を建てたとか、物資を配布したとか、そういう「衣食住」に関わることも大切ですけれど、やはり、人と人との関わりの中で、そしてともに人生の道を歩むことによって、そして現場で共に生きることによって、わたしたちはいのちを生きる希望を生み出すための種まきをしてきたのだと思っています。

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そう考えたとき、この9年間は、日本の福音宣教の歴史に刻まれるべき特別な9年間であったとわたしは思います。日本の教会は、迫害の時代を経て、再宣教に取り組んで以来、小教区での宣教に加え様々な事業を全国で展開してきました。社会福祉や教育の分野で、社会において重要な役割を果たしてきたと思います。教会は、それが福音宣教だとは言わないものの、そういった愛の業を通じて、福音のあかしとし、それを通じて一人でも多くの人に福音が伝わるようにと努力をしてきました。

社会福祉や教育を通じた福音宣教において、奉献生活者の方々の貢献には大きなものがあります。奉献生活者がいなければ、多くの事業は存在すらしなかったでしょう。しかし、社会の少子高齢化を反映するように教会にも少子高齢化の波は押し寄せ、修道会が関わる諸事業にあっては、後継者がいないという事態に直面しており、地域によっては教会と諸事業との関わりが絶たれてしまうのではないかと危惧するような状況も出現しています。

そんなとき、東北における復興支援活動は、日本の教会に、日本における福音宣教のもう一つの姿を教えてくれたのではないかと、わたしは思っています。

ベネディクト16世の使徒的勧告「愛の秘跡」は、聖体について語っているのですが、その中に、奉献生活者についての興味深い指摘がありました。

「教会が奉献生活者から本質的に期待するのは、活動の次元における貢献よりも、存在の次元での貢献です」

教皇は、「神についての観想および祈りにおける神との絶えざる一致」こそが奉献生活の主要な目的であり、奉献生活者がそれを忠実に生きる姿そのものが、「預言的なあかし」なのだと指摘されています。

その意味で、教皇ヨハネパウロ二世が、使徒的勧告「奉献生活」の中で、「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です」と述べて、奉献生活が、「教会の使命の決定的な要素として教会のまさに中心に位置づけられます」と指摘しているところに、現代の教会における奉献生活者の果たす重要な役割を見いだすことができます。

復興支援の中で、ただひたすらに現場にあって人々と歩みをともにし、人々の語る言葉に耳を傾け、人々の喜びや悲しみをともにし、ただひたすらに祈り続ける奉献生活者のひたむきな生きる姿勢こそが、行いによる預言者的あかしによる福音宣教ではないでしょうか。

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教皇フランシスコは、東京ドームのミサで、日本の現状を次のように指摘されました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。・・・多くの人が、当惑し不安を感じています」

教皇が指摘する日本の社会とは、希望を失った社会です。いのちを生きる希望が失われている社会です。
この希望を失った社会にあって、わたしたちには、「いのちの意味」をあかしし、伝えていく務めがあります。
人間の存在の意味を伝えていく務めがあります。
互いに支え合い、誰ひとりとして排除されない社会を実現していく務めがあります。

そのためには、生活の中で福音を真摯に生きて、「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々」、すなわち奉献生活者の存在による預言的なあかしが必要です。

東京ドームのミサが終わる際に、わたしは、東京教区を代表して、また日本の教会を代表して、教皇様に御礼を申し上げました。その御礼の言葉の終わりの方で、次のように教皇様に約束をいたしました。
「わたしたちは、小さな共同体ですが、教皇様の励ましをいただき、アジアの兄弟姉妹と手を取り合い、歩みをともにしながら、神から与えられたいのちの尊厳を守り、いつくしみの神のいやしと、希望の福音を宣べ伝えていきます」

教皇様が日本で語られた力強い言葉を耳にして、皆様もそれぞれの心の内に、様々な思いを抱きながら、その呼びかけに応えようと、それぞれの決意をされたのではないかと思います。わたし自身の決意はこの御礼の言葉の最後です。教皇様訪日を受けて、わたしたちはそれぞれに心に誓った約束に、忠実に誠実に生きたいと思います。

今の社会の現実の中で、奉献生活者はその存在の意味を問われています。いや教会自体がその存在の意味を問われています。福音に忠実に生き、いのちの希望をあかししてまいりましょう。

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2020年1月29日 (水)

宣教司牧方針と、世界宗教者平和会議理事会

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東京教区がこれから当分の間進むべき方向性を明確にしようと、宣教司牧の基本方針について、10の課題に関する皆様の意見を昨年聖霊降臨祭までに募集いたしました。

当初の予定では、昨年中にとりまとめた上で今年の初めには何らかの方針を提示する予定でしたが、昨年半ば頃から教皇様訪日の準備にかかりきりになり、同方針策定を含めて多くの通常の作業が停止状態となっておりました。大変申し訳ありませんが、すべての日程は半年ほど遅れてしまいました。

教皇様訪日が終了してから、早速に頂いた70ほどの意見のとりまとめ作業に入り、小委員会で検討を重ね、先日、1月27日の司祭の集まりで、メンバーの一人であるフランシスコ会の小西神父様から、とりまとめ文書を司祭団に提示して頂きました(写真)。

あと少し手直しが必要な箇所がありますが、膨大な量の提案でしたので、すべてを網羅することはできません。それらをなんとかとりまとめた文書なのですが、これを印刷し、2月半ば頃までには皆さんに読んでい頂けるように手配しております。お待ちください。

とりまとめ文書の最後に、小教区共同体の皆様宛のいくつかの振り返りの質問を記しました。これをできればまた話し合って頂き、小教区としてのフィードバックを頂ければと思います。その方法や期限は、別途、後日案内いたします。

最終的には、当初の予定より半年ほど遅れて、9月頃には、宣教司牧方針の大枠をお示しすることができるかと思います。大枠というのは、全体としての方向性や優先事項のことです。

それに伴って、組織改変の問題が出て参ります。こちらは、別途作業部会などを立ち上げて、もう少し丁寧に時間をかけて話し合う必要があります。とりわけ、一番意見の多かった宣教協力体の見直しは、もう少し時間が必要なため、3月にあらためて立ち上げる教区宣教司牧評議会の中で作業部会を設定して頂き、詳細な検討をお願いしたいと思います。組織に関する結論は、9月にはちょっと無理ですので、少なくとも一年は時間が必要かと思われます。今しばらくお待ちください。

また、滞日外国人の信徒の方への関わりに関しても、課題がいくつも指摘されましたが、これはすでに昨年作業部会を立ち上げ検討を行ってきました。その話し合いから出てきたアイディアをもとに、基本方針の文書を作成中です。これもCTICなどとの調整を経て、9月頃の宣教司牧方針の大枠発表に会わせて、一緒に発表できるように考えています。

頂いた意見のすべてをそのまま反映することはできませんが、なるべく多くの意見を生かして、方針を見定めていきたいと思います。今しばらく、ご辛抱ください。

なお、この数週間、新型コロナウイルスによる感染症が顕在化しています。不確実な情報に基づいていたずらに不安をあおることは厳に慎まなくてはなりませんが、同時に例年のインフルエンザへの注意喚起と同様に慎重な対応をすることは無駄ではありませんので、これも注意喚起の文書を作成して、まもなく小教区などに配布できるように準備中です。

中国本土に隣接する香港教区などでは、かなり厳しい対応をしているようで、その対応は香港教区のホームページに、英語と中国語で掲載されていますので、参考までにリンクを張っておきます。

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さて、白柳枢機卿様の時代から、カトリック教会は世界宗教者平和会議(WCRP/Religions for Peace)の活動に関わって参りました。白柳枢機卿様は日本委員会の理事長も務められたと思います。キリスト教関係諸団体は言う及ばず、仏教系、神道系、イスラム系など、諸宗教の交わりの中で世界平和を模索する団体で、今年で創立50年となります。立正佼成会の方々から始まりましたが、今や世界に広がり、全世界にそれぞれの委員会を置く世界的組織となっています。

私も数年前から日本委員会の理事を拝命しておりますし、理事には複数のカトリック関係者もおり、また評議員には高見大司教様が加わっており、現在の理事長は聖公会の植松主教様が務められています。

世界委員会の面々は、こちらのリンクをご覧ください。理事の諸宗教者の中には、世界各地の枢機卿たちも含まれています。

今般、ドイツで開かれた世界大会で、世界全体の新しい事務総長が選出されました。エジプト出身の女性で、オランダの大学などで教え、国連の場で長年にわたって宗教団体と諸政府の関係確立の仕事をされてきたアッザ・カラム教授です。(上の写真、向かって左側)

今般、選出後初めての外遊として、アッザ・カラム次期事務総長が日本を訪問され、昨日1月28日のWCRP日本委員会理事会後には、立正佼成会本部で講演会を、そして本日は事務総長代行の杉野師と共に、東京カテドラル聖マリア大聖堂を訪れてくださいました。

アッザ・カラム次期事務総長(米国の労働許可を待っているため、選出後も正式に就任していません)は、特に信仰に基づいた様々な人道支援団体(カリタスのような)が、規模において世界の有数な人道支援団体(国際のNGO)のリストの上位を独占していることを指摘して、それらの団体と諸宗教の指導者が協調して世界の様々な問題に取り組むことができれば、政治的な意図から離れて、民間の立場から真の平和の確立につなげて行くことができると話されておりました。

アッザ・カラム次期事務総長は、今回は日本における信仰に基づいた人道支援諸団体との会合を予定しており、明治神宮を会場として行われるとのことでした。とりわけ、SDGs(持続可能な開発目標)の2030年の達成実現に向けて、宗教者の果たす役割の重要性を強調しておられます。カリタスの立場から、できる限りの協力を模索したいと思います。

 

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2020年1月20日 (月)

立川教会の聖堂改修工事が終わりました

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立川教会では、先般より取り組んでいた、聖堂の改修工事がこのたび完了し、1月19日の日曜日午前10時から、祝福感謝ミサを捧げました。ミサは、わたしが司式し、主任司祭の門間神父様、協力司祭の高田神父様、スペイン語ミサ担当のマシア神父様との共同司式でした。

聖堂は腕利きの大工さんたちの素晴らしい仕事で、木材をふんだんに使い、温かな雰囲気の祈りの場となっていました。また大聖堂横には、新しい小聖堂もできあがりました。

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ミサのはじめには聖堂の後ろで祈りを唱え、全体を聖水を撒きながら一周。その後小聖堂に向かい、あたらし祭壇を聖香油で祝福。そして大聖堂に戻ってミサを続けました。

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ミサの最中には、今年成人式を迎えた四名の青年の祝福も行いました。人生のあたらしステージへと足を踏み入れた四名に、神様の豊かな祝福を祈ります。新成人のみなさん、おめでとう。そして立川教会の皆さん、おめでとうございます。

以下、ミサの説教の原稿です。

このたび立川教会の聖堂改修工事が執り行われ、本日その完了を祝い感謝ミサを捧げることになりました。今回の計画に携わり、協力くださった多くの皆様に、感謝するとともに、心よりお喜びを申し上げます。

またこのミサの中で、人生の新しいステージへと足を踏み入れられた四名の新成人の方に、神様の祝福をお祈りいたします。新成人の方々に、心からお祝いを申し上げます。

さて、先週の主の洗礼の主日に引き続いて、本日のミサの福音においても、洗礼者ヨハネとイエスとの関係が語られています。
神の計画に従って清めの洗礼を授けていたヨハネは、イエスに洗礼を授けることを通じて、神の計画が実現していく様を目撃し体験します。その上でヨハネは自信を持って「だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と人々に宣言いたします。

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わたしたちは、毎日曜日この聖堂に集まってまいります。もちろんミサに与るためであります。いったいなぜわたしたちは日曜日にミサに与るのでしょう。それが信徒としての義務だからでしょうか。わたしたちは、それが義務を果たすためだからと言う消極的な理由からだけで、日曜日のミサに来る訳ではありません。

「二人、三人が集まるところに、わたしもそこにいる」と言われたイエスの言葉に信頼して、わたしたちはこの聖堂に共同体として集まるときに、そこに主イエスが現存されることを信じています。

「これをわたしの記念として行いなさい」と命じられたイエスに従って、聖体祭儀に与るとき、わたしたちは聖体のうちに現存される主とともにあり、拝領を通じて主と一致します。

すなわち、わたしたちは、あの日ヨハネがヨルダン川のほとりで神の一人子であるイエスを目撃し体験したように、毎週日曜日に聖堂に集まりミサに与ることによって、その都度、そこに現存される主イエスを体験いたします。今、生きておられる、主イエスに出会います。

ですからわたしたちは、ヨハネ以上に自信を持って、「だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と叫ばなくてはなりません。

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聖堂は、わたしたちが主イエスと出会う場であり、主イエスを体験する場であり、主との一致を通じて、福音を告げしらせる者へと育まれ派遣される場でもあります。

イエスは、弟子たちを共同体として集められました。福音宣教には二人ずつ派遣され、その後再び共同体に戻ってその体験を分かち合うように定められました。教会は、共同体です。教会は現代社会に生きる神の民が集う場です。いや、神の民こそが教会であります。

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第二バチカン公会議の教会憲章は、教会は「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」(教会憲章一)であると指摘します。
ですからわたしたちは、この地域社会にあって「神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具」として存在する「神の民」であって、その共同体の存在こそが教会そのものであります。

しかしながらこの共同体には、やはり集い祈る具体的な場が不可欠です。その意味で、建物としての聖堂の存在は、わたしたちが神の民としての互いの絆を具体的に確認し、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」となるための目に見える場として、なくてはならないものであります。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、教会のあるべき姿を明示されています。教会は、「出向いていく教会」でなければならないと教皇は言います。出向いていく教会は、「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」教会です。

もちろん教皇は、まず第一にわたしたちに具体的な行動を促して、そのように呼びかけられています。教会は社会の中心部に安住しているのではなく、社会の周辺部へと出向いて行かなくてはならない。その周辺部とは、社会の中心から排除され、多くの人から忘れ去られている人たちの所です。

この世界に誰一人として忘れ去られて構わない人はおらず、排除されて構わない人もいない。神から与えられた賜物であるいのちを戴いているすべての人が、大切にされ神のいつくしみのうちに生きることができるような社会。それを築きあげることが、現代社会にあって福音を告げ知らせるキリスト者の使命であると教皇は主張されます。

同時に教皇は、わたしたちが教会の歴史や伝統の中に安住し、新しい挑戦に消極的となることへも警告を発しておられると思います。
わたしたちは変化に対して臆病になりがちです。新しい挑戦に気後れしてしまいがちです。でも教皇はそういった姿勢を、「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった」と述べて批判されます。変化を恐れ現状に安住しようとするとき、人は他者の叫びに耳を傾けようともしなくなると指摘されます。

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先日来日された教皇は、様々な言葉でわたしたちを宣教者となるように鼓舞してくださいました。

東京ドームのミサでは、テーマでもある「すべてのいのちを守るため」を強調しながら、こう指摘されました。「キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています。知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です」

その上で、教皇は、わたしたち教会が日本にあっても、いつくしみのわざと福音宣教の最前線にある野戦病院となるようにと呼びかけ、「傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備」をするようにと求められています。

立川教会が、改修工事の終わったこの聖堂を中心にして、共同体としてイエスを体験し、イエスに勇気づけられて積極的に福音を告げしらせ、そしていつくしみの業の最前線にあって、野戦病院となりますように。

立川教会が、心の安らぎを与える場となると同時に、勇気を持ってその希望を告げしらせる宣教者を生み出す場となりますように。

立川教会が、この聖堂を中心として、いやしと和解とゆるしを、豊かにあふれ出させる共同体を育てていきますように。

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2020年1月15日 (水)

聖アーノルド・ヤンセン

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本日、1月15日は、聖アーノルド・ヤンセンの記念日です。

聖アーノルド・ヤンセンといっても、日本ではあまりなじみのない聖人ですが、神言会、聖霊会、そして日本にはありませんが永久礼拝の聖霊会と、三つの修道会を創立したドイツ人司祭です。

もともと教区司祭として高校教師であったヤンセン師は、海外宣教への熱意止みがたく、ドイツ発の宣教の会を創立しようと努力をしました。当時は相談した司教達からは、まずとにかく修道会ではなく宣教会(修道誓願を宣立しない会)を創ったらどうかと勧められたようですが、本人は修道会にこだわりつづけ、とうとう変人扱いされたこともあるようです。しかしそこはさすがに頑固なドイツ人だけのことはあり、とうとう1875年に、隣国オランダのシュタイルで宣教神学院の創立にこぎつけたのでした。

鉄血宰相ビスマルクが治めるドイツは文化闘争の時代であり、カトリック教会の活動は制限されていました。そのため、最初の神学院はオランダに創設されたのです。その後1879年には最初の二人を中国に派遣し、日本に宣教師が送られたのは1907年。聖霊会はその翌年、1908年に会員が来日。その後1909年1月15日にヤンセン師は亡くなりました。創立当初は大多数の神言会会員がドイツ出身者でしたが、各宣教地での会員育成に努めた結果、現在全世界に六千人ほどいる会員のうち、半数はアジア出身者であり、さらにその半分がインドネシア出身の会員です。現在のローマにいる総会長も、インドネシア出身の司祭です。

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日本に送られた宣教師は、秋田の地で宣教を始め、1912年には神言会員のライネルス師が新潟知牧区長に任命されて、現在の新潟教区へと歴史は繋がっています。ライネルス師は1926年に新設された名古屋の教区長となり、同じく神言会員のチェスカ師が新潟教区長に任命されました。

日本では長崎と名古屋の南山学園が主要な事業となっているため、教育修道会としてのイメージが持たれていますが、修道会全体としては小教区で働く会員の割合が高く、初期宣教に取り組む宣教修道会として世界各地で活動を続けています。

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記念日である1月15日は、以前は祝日でしたので、この日に会員はお祝いをしていましたが、近年はその近くの月曜日に移動する成人の日に、お祝いをするために集まります。

東京で働く神言会と聖霊会の会員も、今年は1月13日(月)の午前中に、小金井にある聖霊会の修道院に集まり、わたしが司式してミサを捧げ、昼食をともにしました。集まった聖霊会と神言会会員の出身は、日本、インド、フィリピン、インドネシア、ベトナム。

聖霊の導きに全幅の信頼を置いていた聖アーノルド・ヤンセンに倣い、これからも聖霊の導きに身をゆだねて、福音のあかしに務めたいと思います。(写真下は、オランダはシュタイルの創立の修道院地下聖堂にある、聖アーノルド・ヤンセンの墓所)

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2020年1月11日 (土)

コングレガシオン・ド・ノートルダム修道院竣工ミサ

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東京の調布にあるコングレガシオン・ド・ノートルダム修道会では、このたび修道院の建物を改築され、1月10日午後から、竣工祝別ミサを執り行いました。

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会場には180名ほどの方が駆けつけ、新しくできた聖堂には入りきれずに、廊下などにもあふれてミサに参加してくださいました。わたしが司式したミサには、近隣の高幡教会の司祭と信徒の方々、調布教会の司祭と信徒の方々、サレジオ会の司祭、そして修道会と関係の深い各地の信徒の方、さらには幼稚園関係者と工事関係者も参加されました。

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以前の修道院は歴史の経過とともに耐震の問題が出てきており、2017年頃から改築・立て替えの計画が進められ、最終的には木造平屋建てとすることになり、一年ほど前、2018年12月22日に起工式・地鎮祭が行われていました

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実はこの写真は、上が調布の新しい修道院、下が新潟の司教館。似ていませんか?

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それもそのはず。設計デザインと施工業者が、新潟司教館と全く同一。コングレガシオンの遠藤管区長が、2017年頃に、南相馬のカリタス南相馬の竣工式で、設計担当の高垣先生と出会い、相談を開始。結局、高垣先生(他に東京神学院などを手がけておられます)がデザインされ、南相馬にも関わった新発田建設が建設にあたりました。新発田建設は、もちろん新潟の新発田の会社で、新潟教区でも新発田教会をはじめ司教館や各地の幼稚園など、多くの教会関係の建物を担当していただいております。

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中庭には、サマリアで女性と出会ったイエスの場面を想起させる井戸が設けられていました。これは実際の井戸ではなく、黙想用のモニュメントだそうです。

おめでとうございます。お祝いには、ちょうど日本を視察に訪れていた同修道会の総長の総長シスターアグネス・キャンベルさんも参加されていました。

以下当日のミサの説教の原稿です。

コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会の調布修道院が新しくなり、新しい年の初めにあたって、今日、竣工祝別ミサの日を迎えられたことを、心からお喜び申し上げます。

修道者の存在は、現代社会に生きる教会にとって、ますます重要な意味を持ってきたと思います。

教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」には、「奉献生活がこれまで教会にとって助けとなり支えとなってきただけでなく、神の民の現在と将来にとって貴重な欠かすことの出来ないたまものである」と記され、その重要性が指摘されています。

その上で教皇は、修道者の存在意義をこう記します。
「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です」

奉献生活者・修道者の存在の意義は、その人生をかけて修道生活に生きることによって、他の人々が「いのちと希望を持つ」ことができるようになるところにあると指摘されているのです。

新年早々、中東における紛争危機など、きな臭いニュースが飛び交っていますが、平和が脅かされる状況を持って新しい年がはじまることは、残念であると同時に、わたしたちに、平和を実現するように力を入れてさらに働くようにとの呼びかけでもあると感じています。

とりわけ、昨年11月末に教皇フランシスコを迎え、核兵器廃絶にはじまる平和への力強い呼びかけを耳にしたわたしたちにとって、平和を告げるものとしての教会の役割を一層強めていくことは、重要な使命であると思います。

不安と疑心暗鬼の闇の中にたたずむ人類の希望の光となることを目指す教会にとって、「他の人々がいのちと希望を持つことができるために」、率先して生き方の模範を示す存在は不可欠です。

その意味で、東京教区にあって、存在する様々な修道会共同体の存在は、重要な意味を持っています。それぞれの修道会には創立のカリスマやビジョンがあり、それぞれ独自の活動を行っているとはいえ、それは教区の共同体と隔絶した活動ではなく、独立している分けでもなく、教区共同体の宣教の重要な一部として、聖性の模範と、希望に生きる姿の模範を示すために存在しているのだということを、あらためて指摘しておきたいと思います。

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さらに同じ「奉献生活」の中で、教皇ヨハネパウロ二世は次のようにも指摘し、奉献生活者の福音宣教への貢献についてこう述べられます。
「外に現れる活動以上に、宣教は、個人的なあかしによってキリストをこの世に示すことのうちに存在します。これは挑戦であり、これこそ奉献生活の第一の務めです。奉献された人々がキリストにいっそう似たものとなるよう努めれば努めるほど、キリストはすべての人の救いのために、この世においていっそうはっきりと現れ、活動するのです」

したがって、この修道院の中で生活する会員の皆さんは、隠れて籠もって祈り続けているわけではなく、徹底的にキリストに従う生活によってあかしの福音宣教をするのです。共同体はこの場でキリストを社会に向けてあかしをするのです。それによって、教区における福音宣教に直接に貢献していきます。

共同体による福音のあかしの重要性に触れて、教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」のなかで、「どの共同体も、『復活した主の隠れた現存を経験するために神に向かう場』を生み出すために呼ばれています」と記し、その上で、「みことばの分かち合いと、ともに祝う感謝の祭儀は、兄弟姉妹のきずなを強め、わたしたちを聖なる宣教する共同体に変えてくれます」と指摘されます。

先ほど朗読した福音は、復活された主が弟子たちと道をともに歩まれる、有名なエマオへの弟子の話でありました。

道をともに歩み、互いに心の思いを分かちあった二人の弟子とイエスは、その締めくくりに食卓を囲み、ともに感謝を捧げることによって、気づきをいたします。それは自分たちが歩んでいる道が正しい方向ではないと言う気づきです。そこで、正しい道、すなわち主とともにあるエルサレムへと、二人の弟子は引き返していきます。

イエスは、単に頭ごなしに、「こちらの方向が正しいのだから道を変えよ」と命令をする指導者ではなく、忍耐強く道をともに歩み、忍耐強く話に耳を傾け、忍耐強く祈りをともにすることで、正しい方向性を識別する道へと弟子たちを導きます。

教会はイエスとおなじように、現代社会に対して、闇雲に正しい道を示して立ち返れと命じるのではなく、時の流れの中で歩みをともにしながら、対話の中で、より正しい道を指し示し、祈りのうちに、神への道を多くの人が歩むことができるようにと、忍耐を持ってエマオへと歩まれたイエスの態度を、教会自身の生き方にしたいと思います。

社会の直中にある修道院は、社会から隔絶された世界を構築するのではなく、いのちと希望を生み出す共同体として闇に輝く光となり、現代社会を支配する神から離れようとする価値観へのアンチテーゼとなり、正しい道を識別するための忍耐強い対話と祈りの場となっていただきたいと思います。

この新しい聖堂で捧げられる祈りとミサが、共同体のきずなを深め、あかしによる福音宣教の力を生み出すことを、心から願っています。

 

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2020年1月 1日 (水)

謹賀新年

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新年明けましておめでとうございます。

2020年が皆様にとって神の祝福に満たされた、素晴らしい日々に満たされた一年となるようにお祈りいたします。

新年1月1日は、恒例ですが、年が明けた午前零時、すなわち12月31日の深夜に、新年の一番最初のミサを捧げました。夜に入って北風の強まった寒い東京でしたが、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、通常の座席はほぼ満席でした。新しい年の初めを、祈りのうちに過ごすために集まってくださった皆さん、ありがとうございます。

2019年は、日本の教会にとって大きな出来事、すなわち教皇様の38年ぶりの訪日という出来事がありました。今年は、そこで語られた教皇様の様々な言葉を大切にし、深め、生かしていく一年にしたいと思います。

東京教区にあっては、皆さんの意見を集約しながら作業を続けている教区の宣教司牧方針の策定の最終段階に入ります。まもなく、意見や提言をとりまとめた文書を、公開するための準備を進めております。寄せられたご意見や提言をそのまますべて網羅すると、まとまりのない膨大な文書になってしまいますので、わたしが中心になって複数で検討作業を重ね、テーマごとにとりまとめた文書にいたしました。これに基づいて、今一度意見を集約し、さらには3月に再開する新しい教区の宣教司牧評議会において、それぞれの宣教協力体の意見をとりまとめ、最終的な宣教司牧方針へつなげていく予定です。

現在、宣教司牧評議会の評議員選定を、宣教協力体にお願いしておりますが、これまでとは異なり、評議員の方々には、宣教司牧評議会と宣教協力体のパイプ役になっていただくことをお願いしております。

以前にも記しましたが、プロセスは、エマオへの弟子と歩みをともにしたイエスに倣った、ともに歩みながら交わりを深め、よりふさわしい道を見いだしていくプロセスです。できる限り現実を反映した、教区にとってより良い方向性を見いだすことができるように努めたいと思います。

少子高齢化は、今や日本の社会の代名詞になっていますが、教会もその影響を強く受けています。小教区の共同体の高齢化はもとより、司祭団の高齢化も見逃せません。教区の司祭団には、80歳を遙かに過ぎても、小教区での責任を担ってくださる司祭がおられます。もちろんそれには感謝しかないのですが、同時にこれからのことも考えていかなくてはなりません。現状でも教区内には、いくつか複数の既存共同体に、定住する司祭を派遣できていないところがあります。

神学生がひとり誕生したとしても、現在のシステムでは、司祭叙階まで、最短で7年の時間が必要です。つまり、仮に2020年にひとり入学したとして、司祭になるのはどんなに早くても2026年。そして2020年に、東京教区から新しい神学生の入学はありません。

これまでも修道会などに司祭のお手伝いをお願いしていますが、修道会にあっても、司祭会員の高齢化は激しく進んでおり、これまでのように、自由にお手伝いいただける司祭が豊富に存在することは見込めません。

他の教区にあっては、ひとりの司祭が二つは言うに及ばず三つの教会を担当することも珍しくなく、すべての日曜日にミサを捧げることが、現実的に不可能な教会共同体も多く存在します。

もちろん司祭の任命にあってできる限りのことはいたしますし、安易な選択はしないつもりですが、現実的にみて、養成された信徒の司会者による集会祭儀の実施も、いくつかの地域では今後不可避になってくるかと思います。そういったことも含め、今後、教区の宣教司牧評議会などで検討を深めていきたいと考えています。

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あらためて申し上げますが、教皇ベネディクト16世が、『神は愛』の中に記しているように、教会には、福音を告げること、礼拝をすること、愛の業を行うことの三つの要素が不可欠であり、それぞれが互いを前提として成り立っていることを、常に心にとめておきたいと思います。

社会の現実が厳しさを増し、神の賜物である命が危機に直面するような事態が深刻化する中で、教会共同体は、愛の業を行うことをこれまで以上に強めつつ、その前提である福音を告げしらせることも忘れないでおきたいと思います。愛の業は、あかしによる福音宣教となり得ますが、それは自動的にそうなるのではなく、福音を告げしらせると言うことを自らがしっかりと深め自覚するときに、初めて愛の業は福音のあかしとなり得ます。

また愛の業も、福音のあかしも、祈りと典礼に支えられていなければ、やはり意味がありません。ただ単に典礼の美しさだけを追い求めるのではなく、それを背後で支える霊性を深め、典礼についての学びを深め、教会の祈りの伝統に触れてその霊性を現代に生かす努力をしなければ、やはり全体はむなしいことになりかねません。

ひとりですべてを完璧にこなすことはできませんが、だからこそ教会は共同体として存在しているのだという、教会共同体の意味をあらためて考えていただければと思います。教会共同体は、仲良くするところではなく(もちろん仲が良いに越したことはありませんが)、互いの違いを受け入れて、それぞれができることを、自分のためではなく、教会共同体の業の一部として行うことで、全体として、上に掲げた三つの教会の要素が十全に実現される。そういう場であると思います。

2020年は、東京を中心にオリンピックとパラリンピックが予定されており、世界中から多くの方が訪れることでしょう。またその中には多くの信徒の方もおられるでしょう。教会がそういった方々にどのように対応するか、検討と準備をすすめます。

良い一年となりますように。

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以下、新年最初のミサの説教の原稿です。

お集まりの皆さん、新年明けましておめでとうございます。

主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念する私たちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

闇にさまよう人間を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画は、聖母マリアの「お言葉通りにこの身になりますように」という、神の前でのへりくだりの言葉がなければ実現しませんでした。そしてその言葉こそは、人生をかけた決断であり、神の意志への信頼の表れでもありました。

神に完全に従うことを決意した聖母マリアの人生は、救い主であるイエスとともに歩んだ人生でありました。その人生は、シメオンによって預言されたように、「剣で心を刺し貫かれ」た苦しみ、すなわちイエスの十字架での受難に至る、イエスとともに苦しみを耐え忍ぶ人生でもありました。

教皇パウロ6世は、使徒的勧告「マリアーリス・クルトウス」で、十字架の傍らに立って、御子イエスととともに、激しく苦しんだ聖母マリアは、「母の心をもって自分自身を御子のいけにえに一致させ、彼女自身が生み、永遠の御父にささげたこのいけにえが屠られることに、愛を持って同意した」と指摘します。

その生涯の全てを神に捧げたマリアは、自らの最愛の子と苦しみをともにすることで、いのちを生きること自体が神への礼拝となることをあかしし、その礼拝に徹底的に生きる道の模範を示しておられます。

神の計画が実現することは、簡単なことではありません。神の救いの計画の中心には十字架の苦しみが存在しています。

イエスが背負われた十字架、イエスがその命をささげられた十字架、それは、私たち人類が、神からの愛に背いて犯し続ける数限りない罪の結果です。私たちは、まるで主の十字架における苦しみと自己犠牲が、2000年前のあの日に終わってしまい、すべてが許されたかのような傲慢さで、今日もまた罪を犯し続けています。

十字架の上で私たちの罪を背負い、その傍らで苦しみをともにしながら立ち尽くす聖母とともに、教会は、現代社会の直中にあって、人類が犯し続ける数々の罪を悲しみのうちに見つめながら、立ち尽くしています。

人類の犯し続ける罪とは、神の定められた完全な世界の状態、神の秩序への挑戦であります。ですから教会は、黙して立ち続けるのではなく、定められた神の秩序へ立ち返るようにと呼びかけ続けています。

神が最初にこの世界を創造されたときの秩序は、当然ですが、完全な秩序でありました。それを平和と呼びます。しかし人間の罪は、最初の段階からこの神の完全な秩序を破壊し始めます。私たちは、戦争や紛争がなければ、それで世界は平和だと思ってしまいますが、実はそれでは足りないのです。神の秩序があらためて確立されたとき、初めて神の平和が確立されるのです。ですから、どうみても今の世界は、神の望まれる平和な世界ではない。

戦争や紛争の状態に直接巻き込まれてはいないものの、現代を生きる私たちの国において、いのちが危機に瀕している状況は、神が望まれない秩序の破壊の最たるものであると、改めて強調したいと思います。

神の平和を実現することは、単にきれいな言葉を並べ立てるだけでは足りない。そこには必ずや困難や苦しみが伴います。イエスの背負われる十字架の重さを、聖母とともにわたしたちも背負わない限り、神の秩序は完成に至ることがないからです。

教皇パウロ6世は、「平和の女王を通じて」、平和を神に祈り求める日として、この日を世界平和の日とも定められています。

世界平和の日は、今年で53回目を迎えます。53年にわたって教会は平和を訴えてきたのですが、いのちの危機は去ることなく、神の秩序の実現にはほど遠いのが現実です。

今年の世界平和の日に当たり、教皇フランシスコは「希望の道である平和」と題するメッセージを発表され、先日の日本訪問で力強く語られた、核兵器の廃絶への呼びかけを繰り返しておられます。

同時に教皇は、平和の確立には困難が伴うけれども、人類が平和への望みを持ち続けるからこそ、その困難な状況にあっても、「わたしたちはそれを生き、受け入れることができます」と指摘されています。
その上で、教皇は、現代社会における相互不信が様々なレベルでの孤立を生み出し、暴力的な社会を生み出しているとして、こう指摘されます。

「脅威にさらされた状況はことごとく、不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向けます。不信と恐れは、決して平和的な関係に結びつかない悪循環で、関係性をもろくし暴力の危険を増大させます。」

そして、平和を求める道にあって困難に直面しても、くじけることのないようにと、こう述べます。
「平和の歩みは、時間がかかる骨の折れることなのです。それは、真理と正義を求め、犠牲者の記憶を尊重し、報復よりもはるかに強い共通の希望に向けて一歩ずつ切り開いていくという、忍耐力を要する作業です」

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今日の福音において、マリアは、起こった出来事の不思議さに驚く羊飼いたちの興奮から距離を置き、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。それは、ご自分と御子のともに歩む人生の道程が、自分の思いを主張する人生ではなく、他者のために捧げられ、他者のために様々な困難を乗り越え、耐え忍ぶ人生であることを、すでに理解していたからではないでしょうか。

教会は聖母マリアの模範に倣い、社会の現実の喧噪に踊らされることなく、心の静寂のうちに、神の救いの計画に与る道を見極め続けたいと思います。そして困難に直面しても、静かに耐え忍びながら、希望を失うことなく、見極めた道を歩むことをあきらめずに、一歩ずつ前進を続けたいと思います。

東北の大震災の被災者へのメッセージで、教皇フランシスコはこう呼びかけられました。

「何もしなければ結果はゼロですが、一歩踏み出せば一歩前に進みます。・・・だれかのため、皆さんのため、皆さんの子どもや孫のため、そしてこれから生まれてくる次の世代のためです」

誕生したイエスが聖母マリアとともに歩まれた人生は、十字架へ至る苦しみと困難の連続であったことを思うとき、わたしたちも、困難や苦しみを避ける道を選ぶのではなく、その直中にあって、聖母に倣い、忍耐力を持って神の計画の完成に至る道、神の平和の実現への道を、歩みを続けたいと思います。

 

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主の降誕;日中のミサの説教

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12月25日午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた、主の降誕の日中ミサの説教の原稿です。

世界のすべてを創造され支配される力ある神は、今日、厩の飼い葉桶に眠る小さないのちとして、わたしたちとともにいてくださいます。

限りない愛を込めて賜物として与えられた命を生きる人類が、神から離れ去っていたにもかかわらず、神の元へと引き戻すために、神は命じるのではなく、代理を送るのではなく、自ら人となられ、わたしたちが生きている現実へと自ら足を運ばれました。

そして両親の助けと守りがなければ、そのいのちを繋いでいくことができない幼子としてこの世界に来られることで、いのちを守ることの大切さを明確に示してくださいました。

わたしたちの神は、愛にあふれた神は、助けを必要としている人に、遠くから指示を与えるのではなく、自らその現場へと足を運ばれるか見えあることを示されました。まさしく、インマヌエル、わたしたちとともにいる神であります。

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主の降誕の日中ミサで必ず朗読されるのはヨハネ福音書の冒頭です。そこには、この誕生した幼子イエスは、神の言葉であると記されています。ヨハネは、「言葉のうちに命があった」と記しています。

わたしたちは、数限りない言葉が飛び交う世界に生きています。人と人との交わりが希薄になったと言われてる世界に住んでいるのですが、しかし実際には、以前にも増して、言葉が飛び交う世界に生きています。

インターネットの世界や、スマホの様々なアプリの世界を垣間見ただけでも、毎日どれほどの言葉がそこで飛び交っているかは、想像に難くありません。

しかし同時に、飛び交っている数限りない言葉は、例えば反射的な相づちのような言葉であったり、意味もなく書き連ねられた言葉であったり、極端に言ってしまえば、単なる文字の連なりに過ぎないこともしばしばあるように感じます。発信される言葉の多くが、それほど意味を持たされることなくなんとなく飛び交っている。

自動販売機などの合成音声が、「ありがとうございます」と言ってくれたからと言って、わたしたちが感慨にふけることはありません。合成音声の背後には、感謝の心がないことを知っているからです。わたしたちには、発せられる言葉の背後に、込められた心があるのか、込められた思いがあるのか、感じ取る力が与えられているとわたしは思います。しかし、薄っぺらな言葉が、飛び交っている現代社会にどっぷりつかりながら、なんとなく、言葉全体がまるで合成音声のように、背後に心がないまま飛び交い続けているように思います。心がないのだから、何も響かないのです。何も訴えないのです、心地よい音の響きに過ぎなくなってしまうのです。わたしたちが書いたり発したりする言葉は、心を込めたいのちの言葉にしたいと思います 

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教皇フランシスコは、短い訪日でその言葉に関する豊かな宝を残して行かれました。教皇の言葉には力がありました。その力は言葉の裏にある心、思いの強さによって生み出されています。

力がある言葉だからこそ、多くの人に感銘を与え、多くの人の話題に上りました。わたしたち教会に生きる者にとっても、豊かな宝を残されました。

広島や長崎では、核兵器の廃絶や平和について力強く語りました。そのメッセージは、原子爆弾の悲劇を体験した広島と長崎から語られたからこそ、日本のみならず、世界中の多くの人の心に力強い生きた言葉として届いたことだと思います。

東京においても教皇様は、東北の大震災の被災者と出会い、災害からの本当の復興とは衣食住が整うことだけを意味するのではなくて、共同体の絆が再建されることが必要なのだと力説され、次のように言われました。

「わたしたちにもっとも影響する悪の一つは、無関心の文化です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決を包括的に受け止め、きずなという知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。わたしたちは、互いにつながっているのです」

互いに助け合い、関心を持ち合うことの大切さは、教皇フランシスコが2013年の教皇就任以来、強調されてきたことです。誰ひとりとして排除されない神の愛しみに満ちた世界の実現を、常に呼びかけてこられました。忘れられて良い人は誰もいない。無視されて良い人は誰もいない。すべてのひとが、神から与えられた賜物であるいのちを生きているのだから、おなじように大切にされなければならないし、互いに支え合わなくてはならない。教皇様は、そう繰り返してこられました。今回のテーマ、『すべてのいのちを守るため』は、教皇フランシスコが大切にしていることを明確に表す言葉です。

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そして、このカテドラルで青年たちと出会ったとき、教皇様は困難に直面する人たちへの思いやりの心の大切さを強調して、こう言われました。

「さて、とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです」

この短い言葉には、力がありました。ですから難民について滞在中に語ったのはたったこれだけであったにもかかわらず、様々な反応が巻き起こりました。

もちろんカトリック教会は、カリタスの活動などを通じて、長年にわたって難民の受け入れや支援活動を行ってきました。その行動を支える教会の信念と、具体的な実績の裏付けがあるからこそ、教皇様の言葉には、力がありました。

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今日本の社会を見れば、様々な国から来られた方が一緒に生活し、その中には、安全と安心を求めて避難してきた方々も少なくありません。文化の違い、言葉の違い、外見の違い。様々な違いによって、社会の中で孤立して、助けを必要としている人も少なくありません。

社会全体としても、若者たちの間にも、また高齢者の間にも、助けの手が差し伸べられることなく、孤立し孤独のうちに生きている人も少なくありません。

教皇様の言葉は、まさしく心のこもった力ある言葉でした。その「言葉うちに命が」ありました。

わたしたちも自らいのちの言葉を伝えるために足を運ぶものになりたいと思います。幼子としてわたしたちのもとへお生まれになったいのちの言葉。その言葉を、必要としている人のもとへ、積極的に出かけていって届け、またその言葉を目に見える形にする、神の言葉のメッセンジャーの道を歩みたいと思います。

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2019年12月30日 (月)

主の降誕、おめでとうございます

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まもなく2019年が終わろうとしています。明日12月31日の深夜、年が明けて2020年1月1日零時ちょうどから、東京カテドラル聖マリア大聖堂では新年のミサが捧げられます。わたしが司式いたします。1月1日は神の母聖マリアの祝日であり、世界平和の日でもあります。日本では1月1日は守るべき祝日となっていることをお忘れなく。31日の深夜ミサは、その守るべき祝日の1月1日のミサです。信徒ではない方も、年の初めのミサに、どうぞおいでくださり、祈りの時を一緒にいたしましょう。

さて少し遅くなりましたが、主の降誕のお喜びを申し上げます。クリスマスおめでとうございます。

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12月24日の夜、典礼的には日没後ですから翌日ですの、クリスマスの夜半のミサを捧げました。わたしの担当は夜10時。遅い時間にもかかわらず、大聖堂が一杯で、立ち見の方もおられる盛況でしたが、聖体拝領の時に祝福の方が半分ほどでした。

この日、関口教会では夕方5時、夜7時、夜10時、深夜零時の4回、夜半のミサが捧げられ、翌朝7時に早朝のミサ、そして10時に再びわたしが司式して日中のミサが捧げられました。典礼ではこれに前晩のミサも整えられており、4回のミサがクリスマスのために用意されていますが、伝統的には、夜半、早朝、日中の三回のミサが捧げられてきました。

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教皇様の訪日の記憶がまだまだ鮮明ですし、その語られた言葉のインパクトは大きく、これからさらに深めていく必要もあると思います。ですので、このところどこに行っても説教は、教皇様の日本での言葉の引用です。お許しを。

以下、夜半のミサの説教の原稿です。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」

愛する自分の子どもに、最高の贈り物を与えたい。愛するあの人に、最高のプレゼントがしたい。クリスマスと言えばプレゼントがつきものですし、今日もこのミサが終わってから、またはもうすでにそういうシーズンですから、プレゼント交換をする人も少なくないことだと思います。

もちろんクリスマスとプレゼントは無関係ではありません。それは、クリスマスの出来事そのものが、神から人間への最高のプレゼントとして起こったからに他なりません。神は自ら創造した人間を愛するがあまりに、闇にさまようようにして生きている人間を見捨てることなく、神に至る道を指し示すために、自らを人間としてお与えになった。

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最初に天地を創造された状態にこそ、神が定められた秩序が実現しており、それこそが本当の意味での正義と平和に満ちあふれた状態であった。しかし人間は与えられた自由意志を乱用し、その世界からはみ出し神から逃れることによって、闇の中をさまようことになった。そこで神は、闇の中をさまよい続ける民に、自らが道しるべの光となるために、そして神の道に立ち返るよう呼びかけるために、自ら人となって誕生し、人類の歴史に直接介入する道を選ばれました。

この神の行為にこそ、わたしたちの信仰における重要な行動の原理が示されています。
必要があるところに直接自分から出向いていくという、行動の原理です。
神は天の高みから人に命令を下すのではなくて、自ら人間となって、人のもとへと出向いていくことによって、そこに光をもたらそうとされました。

教会は、神が示された道を歩みたいと願っています。ですから、神ご自身の行動の原理に倣い、必要とされているところへ自ら出向いていく教会でなければなりません。

「出向いていく教会」とは、あらためていうまでもなく、先日訪日された教皇フランシスコが、幾たびも繰り返されている教会のあるべき姿であります。

教皇はなぜ日本に来られたのか、と問う声がありました。教皇はまさしくこの教会のあるべき姿を自ら実践されたのではないかとわたしは思います。そこに必要があるからこそ、教皇は日本に来られた。

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それではいったいどのような必要が日本にはあるのか。それは今回の訪日のテーマであった「すべてのいのちを守るため」という福音のメッセージを、伝えなければならないような現実が日本にあるからこそ、教皇は自ら出向いて、現場に足を運んだのです。宮殿の中から教え命じる教皇ではなく、現場に足を運び、苦しみのうちに助けを、闇の中に光を必要としている人たちとともに歩みながら、大切なメッセージを発信するのは、今の教皇のスタイルです。

今わたしたちが生きている社会の現実は、ともにいのちを守ることよりも、自らのいのちを守るために他者を排除する社会でもあると感じることがあります。異質な存在を排除して安心安定を得ようとする誘惑に満ちあふれています。それは障害のある人たちへの排除であったり、海外から来られた方々への排除であったり、性的指向性による排除であったり、思想の違いによる排除であったり、姿格好の相違による排除であったり、文化や言葉や慣習の違いによる排除であったり、ありとあらゆる排除の傾向が現実社会には存在します。

異質な存在を排除することで安心安定を目指す社会は、残念ながら一部のいのちを守ることはできるでしょうが、「すべてのいのちを守るため」の社会ではありません。

教皇は、東京ドームでのミサで、こう呼びかけられました。
「わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています。知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です。『そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま』引き受けるのです。わたしたちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています」

その上で教皇は、「傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と述べて、誰も排除されない社会は、神のいつくしみを状況判断の基準とする社会だと指摘されました。

さらに教皇は、このカテドラルで、集まった青年たちを前にして、こう言われています。
「世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人のなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔のない社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。・・・抱えている最大の貧しさは、孤独であり、愛されていないと感じることです」

クリスマスにはプレゼントがつきものです。神はすでに最高のプレゼントをわたしたちに与えられました。闇に輝く光を輝かせ、わたしたちに善の道を示し続けてくださっています。

今夜、主の降誕を祝うわたしたちが、自ら与えることのできるプレゼントはいったいなんでしょうか。わたしたち一人ひとりは、いったい何のために、どこへ出かけていくことができるでしょうか。伝えなければならないメッセージの必要があるところは、いったいどこでしょうか。

教皇は、「何のために生きているのではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか」と問いかけました。

わたしたちはこの問いかけにどう答えることができるでしょう。それぞれの生きている場の中で、この問いかけへの答えを探し続けたいと思います。

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誰のもとへ、どのようなプレゼントを持ってで向いていくのか。

「すべてのいのちを守るため」は、いま、この日本に生きているわたしたちすべてにとって、最も重要な呼びかけの一つであると思います。わたしたちは、この呼びかけに応えて積極的に出向いていき、いのちが危機に直面している暗闇の中で、互いに支え合い、互いを尊重し合い、理解を深め、いのちを守り抜いている姿を光のように輝かせ、より善なる道を指し示すプレゼントとなりたいと思います。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」

 主イエスの輝ける光を、わたしたちも輝かし続けましょう。 

 

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